日光山・日光三社権現(本宮<四本竜寺>・新宮・瀧尾)・輪王寺・中禅寺(中宮祠)

東照宮五重塔、本宮三重塔、輪王寺相輪橖(トウ)など、補陀落山中禅寺廃三重塔

中世の日光山

日光山縁起絵巻

日光山縁起絵巻(下記拡大図・部分図)

「日光山輪王寺 宝ものがたり」より転載。

三重塔は(源)実朝公御建立と記される。
 :中世には金堂(三仏堂)前方に三重塔がある。

 

日光山往古図

2010/10/11追加:「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より
日光山往古図:4幅(3幅か)、紙本淡色、東京国立博物館蔵、136〜139cm×75cm。
本図は元和3年(1617)の東照宮造営前の日光山を描く。
元和3年(1617)東照宮が造営され、中幅の三佛堂・三重塔・法華堂・常行堂などや左幅の新宮などが移転させられる。
現存する図は寛政12年(1800)の模写であり、原図は輪王寺にあったと云う。

日光山往古図(左幅図):下図拡大図
:拡大図は「社寺参詣曼荼羅」(目録)より
「日光山輪王寺 宝ものがたり」より転載

日光山往古図(中央図):下図拡大図
:拡大図は「社寺参詣曼荼羅」(目録)より
「日光山輪王寺 宝ものがたり」より転載

日光山往古図(右幅図):下図拡大図
:拡大図は「社寺参詣曼荼羅」(目録)より

・日光山往古図(右幅図):下の神橋を渡ると左に深砂大王祠(石玉垣付設)、直進するとニ荒山社本宮、四本竜寺がある。
本宮には楼門・拝殿・本殿などと四本竜寺三重塔がある。
上に登ると左手に小玉堂があり、さらに鍵の手に進むと不動堂・山王堂を経て滝尾社に至る。
滝尾社本殿左は如法経塔と推定され、もしこれが現存する鉄宝塔(重文)であれば、本図は塔の造立年である文明2年(1470)以降となる。
  日光山鉄宝塔については下に掲載。
・日光山王古図(中央図):中央の両部鳥居を入れば、法華堂・常行堂があり、三重塔及び三仏堂がある。三仏堂には中央滝尾社本地阿弥陀如来・右に男体本地千手観音・左に太郎権現本地馬頭観音を安置する。上には役行者堂がある。
この三佛堂を中心とした附近は近世初期に東照宮が造営される。
・日光山往古図(左幅図):中央右端には三仏堂、その前はニ荒山新宮、右上隅は寂光権現、その左は中禅寺湖であり、その上左隅は中禅寺伽藍があり、三重塔・別所・立木観音・三社権現社などが描かれる。

日光山志:文政8年(1825)序、天保8年(1837)刊 植田孟縉著、渡辺崋山等画 に見る日光山

凡例:日光山古図
東照宮造営以前の日光山の様子と描いたものである。
其1:本宮(四本竜寺)三重塔・・・四本竜寺の三重塔<図中央下>と思われる。現在地より西にあったと思われる。
其2:日  光 山 三 重 塔・・・中世には、三仏堂の前方右に三重塔 <図中央上>がある。
  源頼朝建立の塔とされる。
其3:中  禅 寺 三 重 塔・・・図左上が中禪寺。中世、中禅寺三重塔<図左上>は既に造立を見ていたと思われる。

  ※本図は上掲の「日光山往古図」とほぼ軌を同一にするものであろう。



近世の日光山

2015/02/27追加:
■日光山名跡誌:筑波大学附属図書館蔵
 日光山名跡誌:18.6 x 13.6 cm, 享保13年(1728)
日光御幸町の商人による現地出版の案内記であり、8代将軍吉宗の社参2か月前に出版という。
東照大権現社五重塔が描かれる。また山内東にある坊舎名が描かれる。

日光山志文政8年(1825)序、天保8年(1837)刊

○巻之1:本宮権現
日光三社の内なり。以下略
 四本竜寺:記事「三層塔:銅葺き。本社の後にあり。伝へいふ、この三重塔は古、実朝将軍の御建立。最初は今の御宮辺にありしを、松平正綱はからひにて、この所へ移さるる処、貞享の災に回禄し、今の塔はその後再建のものなり。」
○巻之4:中禅寺 全      図   部   分  図
 三層塔:「赤塗り、三間四方。五智如来を安ず。右の方にあり。」
○巻之5
「御宮中總図」五重塔が描かれる。 全   図  五重塔(部分図)
 「五重の御宝塔:石の御鳥居と仁王御門の間にて、西の方にあり。塔内三間四方。本尊五智如来並びに須彌の四天、その余、諸尊を安置す。これは慶安3年小浜侍従酒井忠勝朝臣造献せり。総高さ17間2尺。柱金襴巻、ニ手先、総彩色。外承塵の上通りは十二支を彫りたり。二重垂木、銅葺き。四方黒塗り。扉に葵の御紋あり。外通り赤塗り。廻り八間四方ほど、鉾石の玉垣を構へたり。」

木曽路名所図会文化2年(1805)刊 秋里籬島著・西村中和画
 巻之6:下野日光
 ○日光山伽藍:2015/02/27画像入替:中央に東照宮五重塔/相輪橖、右部分に本宮(四本竜寺)三重塔が描かれる。
        向かって右より本宮(四本竜寺)、中央は輪王寺・東照大権現、やや左に三佛堂、新宮、左は大猷院などが描かれる。
  四本竜寺三重塔(部分図):三重塔の記事は特になし、現存する四本竜寺の三重塔を描く。
  五重塔(部分図):記事:
            「五重塔:これは酒井讃岐守御寄附なり。本尊東は薬師、西は弥陀、北は釈迦、南は多宝、中央は大日如来なり。」
  日光山相輪橖(トウ):当時、相輪橖(トウ)(幢)は、五重塔左斜め奥付近にあった。
  補陀洛山中禅寺(上記日光山伽藍図のさらに左に続く部分の部分図) :御本社、戒壇堂、三層塔等があった。

2015/02/27追加
「日光山輪王寺 宝ものがたり」 より
■日光御山之絵図
 日光御山之絵図:個人蔵
元禄年中(1688〜1704)より幕末まで、日光中鉢石町植山弥平治(弥平)家が土産物として出版した絵図という。
本図は大図、小図、手彩色、無彩色図などの版がある。
輪王寺の一山組織
一山の中枢は「衆徒20ヶ院」で医王院、浄土院などがその任に就く。
その衆徒20ヶ院の中から東照宮別當、大猷院別當、本宮上人、中禅寺上人などの山内堂社の役務を割り当てた。
衆徒の下に坊を名乗る修験が80坊ある。
少なくとも100人を超える僧侶とその弟子/使用人が山内に住居していたのであろう。
さらに日中は多くの社家・神人など通いの人々も集まり、山内はかなりの人口がいたものと思われる。
しかし、20院80坊の山内坊舎も明治維新の神仏分離などにより、現在は次の15院のみとなる。
浄土院、実教院、医王院、照尊院、日増院、唯心院、法門院、安養院、桜本院、禅智院、光樹院、護光院、華蔵院、南照院、教光院

2015/02/27追加:
■日光御社参図誌 (日光御社参圖誌):26.5 x 18.8 cm, 文政元年(1818)、竹村立義著:筑波大学附属図書館蔵

 日光御社参図誌:左図拡大図

裁縫師(竹村立義)による東照宮4月御祭礼を見物する旅の紀行文という。
本宮三重塔、東照大権現社五重塔、同相輪橖が描かれる。
三佛堂は新宮の地にある。法華堂常行、慈眼堂、大猷院廟所も描かれる。
20院80坊と云われた坊舎は山内東と南に隙間なく配置されていることが分かる。


2015/02/27追加:
■日光山諸所案内手引草:筑波大学附属図書館蔵
 日光山諸所案内手引草:15.6 x 6.7 cm (12折)、天保11年(1840)の第3版で手彩色を加える。
 『日光山名跡誌』から要点を抄出した略案内記という。
12折というから、東照宮を中心とした折とその隣の折の1部であろう。
酒井氏五重塔、相輪橖が描かれ、三佛堂は新宮境内に描かれる。
山内東と南に展開する坊舎もほぼ網羅する。
 

補陀落山神宮寺

中禅寺と号す。
本尊は十一面千手観音(平安初頭・重文・立木観音)、勝道上人が感得した姿を立木に彫ったものと云う。
 (千手観音は男体山の本地とされる。)
明治の神仏分離で中宮祠と中禅寺が分離。
明治35年の大山津波で流失。本尊は中禅寺湖に流失したが、浮き上がり引き上げられたと云う。
のち中禅寺は現在地に移転、本尊立木観音も同時に現在地に遷座。
 ※立木観音は明治の大山津波で、流出し現在の歌ヶ浜に移安する。高さ約6m。後補も多いが12世紀後期の作と推定される。

嘉暦3年(1328):中禅寺三重塔の造立供養
文久2年(1862):中禅寺の三重塔、護摩堂、上供所、別所が焼失。
 ※中禅寺三重塔は、文久2年(1862)焼失し、その後の再興はなされず。
 

 ◇日光山縁起絵巻など

日光山縁起絵巻(下記拡大図・部分図)

「湖水全図」に見る中禅寺
 湖水全図(部分図)
「日光山輪王寺 宝ものがたり」より転載

2006/01/29追加
「日光山諸所案内手引草」天保11年(1840)に見る中禅寺
 日光山諸所案内手引草
 日光山諸所案内手引草 2(部分図)
「地図で読む江戸時代」より転載

※以下の図は既出図を重出
 「木曾名所図絵」の補陀洛山中禅寺
 「日光山古図」の中禅寺三重塔
 「日光山志」の巻之4:中禅寺 全     図    部   分  図

2009/11/07追加:「紀州東照宮の歴史」特別展図録、和歌山県立博物館、1990 より
紀伊東照宮縁起絵巻
 この絵巻は27段までは日光東照宮縁起絵巻と同一内容で、28段の紀州東照宮造営が独自のものと云う。
  東照宮縁起絵巻・中禅寺湖:中禅寺三重塔が描かれる。

2007/01/01:「Y」氏ご提供
 「日光山の図」:「日本国尽 3巻東山道」明治5年、日光山中禅寺三重塔がまだ描かれる。



日光山現存塔婆

木造塔婆では、四本竜寺三重塔、日光山五重塔が残存する。
その他の塔婆では、輪王寺相輪橖、輪王寺鉄宝塔、日光東照宮奥社宝塔、大猷院霊廟奥院宝塔などが残る。

四本竜寺三重塔

本宮(本殿・唐門・透塀・・ともに重文)、観音堂(重文)と供にあり、日光山草創の地という。
三重塔は大同年(807)年創建といい、正保2年(1645)に三仏堂前から現地に移り、天和4年(1684)に焼失。
貞享3年(1686)頃現在の塔が再興される。一辺5.46m。重文。
平成15年8月から解体修理中、平成18年9月完了予定。
現地の説明では天和4年(1684)に焼失、正徳3年(1713)再興とする。
 (現存塔の建立時期は貞享とも天和とも云うが、何れも確たる史料はないようである。)

2011/09/17撮影:

日光山三重塔11
日光山三重塔12
日光山三重塔13
日光山三重塔14
日光山三重塔15
日光山三重塔16:左図拡大図
日光山三重塔17
日光山三重塔18
日光山三重塔19
日光山三重塔20
日光山三重塔21
日光山三重塔22
日光山三重塔23
日光山三重塔24
日光山三重塔25
日光山三重塔26
 
2004/04/23撮影:
 四本竜寺三重塔1(工事現場に掲示写真を撮影)
 四本竜寺三重塔2(解体修理中)・・・右は観音堂

2009/06/06追加:
 四本竜寺三重塔落慶
  2007年解体修理落慶(毎日新聞)

初重各間の蟇股には十二支の彫刻を配する。

2015/02/27追加:
「日本の美術467 日光」関根俊一、至文堂、2005 より
日光山縁起絵巻
 日光山縁起絵巻・四本竜寺:本宮・四本竜寺三重塔が描かれる。


日光山五重塔

慶安3年(1650)創建。文化12年雷火で焼失、文化14年(1817)再建塔。
一辺4.85m、高さ31.8m。重文。
初重各間の中備は蟇股であり、十二支の禽獣彫刻を彫る。

2004/04/23撮影:
日光山五重塔01:左図拡大図
  同     02
  同     03
  同     04
  同     05
  同     06
  同     07
  同     08
  同     09
  同     10
  同     11
  同     12
2011/09/17撮影:
日光山五重塔21
日光山五重塔22
日光山五重塔23
日光山五重塔24
日光山五重塔25
日光山五重塔26
日光山五重塔27
日光山五重塔28
日光山五重塔29
日光山五重塔30
日光山五重塔31
日光山五重塔32
日光山五重塔33
日光山五重塔34
日光山五重塔35
日光山五重塔36
日光山五重塔37

2013/03/23「O」氏撮影画像:

日光山五重塔41
日光山五重塔42
日光山五重塔43
日光山五重塔44
日光山五重塔45
日光山五重塔46
日光山五重塔47
日光山五重塔48
日光山五重塔49
日光山五重塔50
日光山五重塔51
日光山五重塔52
日光山五重塔53
日光山五重塔54
   :左図拡大図
日光山五重塔55
日光山五重塔56
日光山五重塔57
日光山五重塔58
日光山五重塔59
日光山五重塔60
日光山五重塔61
日光山五重塔62
日光山五重塔63
日光山五重塔64
日光山五重塔65
日光山五重塔66
日光山五重塔67
日光山五重塔68
日光山五重塔69
日光山五重塔70
日光山五重塔71
日光山五重塔72
日光山五重塔73
日光山五重塔74
日光山五重塔75
日光山五重塔76

◇日光山五重塔古写真/スケッチ

2006/09/30追加:NYPL(New York Public Library) Digital Gallery より
 日光山五重塔1:(created 187?-188?)    日光山五重塔2:撮影時期不詳    日光山五重塔3:撮影時期不詳

2007/07/01追加:撮影時は明治期と思われる。
 日光山五重塔11    日光山五重塔12    日光山五重塔13

2007/08/05追加:
・「日光」東京:鈴木新兵衛、明治32年 より
  日光山五重塔14    日光山五重塔15

・「日光」神戸:光村写真部、明治33年 より
  日光山五重塔16

2008/12/31追加:
・「日本百景」明治29年(再版) より
 日光山五重塔17:「日本百景」では「東京上野公園内五重塔」とある。 ・・・単純な取り違えであろう

2009/06/06追加:
・「Japan en de japanneezen(日本と日本人)」、Nijland, E.(ニーランド) より
 Shinto-pagode met Toru. (トリュー(鳥居)のある神道の塔)

・「Rambles in Japan : the land of the rising sun(日本そぞろ歩き−日の登る国−)」、Tristram, H. B. , 1822-1906(トリストラム) より
 Pagoda and entrance to large temple, Nikko (日光,塔と大寺院の入口)

・「Un touriste dans l'Extreme Orient, Japon, Chine, Indo-Chine et Tonkin (4 aout 1881-24 janvier 1882)
   (極東の一旅行者,日本,中国,インドシナ,トンキン)、Cotteau, Edmond, 1833-1896(コトー) より
 Pagode a Nikko.(日光のパゴダ(五重の塔)

・「Religion in Japan : Shintoism, Buddhism, Christianity (日本の宗教:神道,仏教,キリスト教)」、Cobbold, George A. (コボルド) より
 Pagoda at Nikko. (日光の塔)

・ 「Evangelisches Missions-Album : Bilder aus Japan nach Photographien(福音教会の伝道−アルバム:写真に基づく日本の絵」、
   Vogelein, F. W. (フェゲライン) より
 Die Pagode von Nikko.(日光の塔)

◇日光山五重塔内部/心柱

2012/06/10追加:
日光山五重塔初重内部公開:公開期間2012/05/-2013/03
何れも新聞報道写真を転載
 日光山五重塔公開内部1     日光山五重塔公開内部2     日光山五重塔公開内部3     日光山五重塔公開内部4

2013/03/23「O」氏撮影画像:上に掲載写真
 日光山五重塔72

2006/02/03追加:
○「日本建築史図録」より
 懸垂式心柱:

いずれも昭和10年撮影:

写真中の物差は曲尺の1尺。

五重塔擦下部1:左図拡大図      同         2
擦は第4重より懸垂する。懸垂の場合、擦の下部は枘を造り出し、礎石に彫りこんだ枘孔に挿入する形式を採る。
五重塔擦懸垂部1       同          2       同          3
擦は第4重部で四方から鉄鎖で懸垂する。
五重塔擦竹ばね部1      同         2
第4重で懸垂することは、擦のほぼ1/2の部分に相当する。下部は枘により、礎石の枘孔で固定されるが、更に揺れによる露盤と第5重の屋根との結合部の損傷を防止する意味などから、この塔では第5重の内部2箇所(軸部内側および最上階部屋部)で、竹ばねを擦に巻き付け、揺れを吸収する仕掛けがしてある。
 

2009/06/06追加:
○「五重塔はなぜ倒れないか」上田篤、新潮選書、1996 より
 日光山五重塔心柱心礎     日光山五重塔心柱鉄鎖

2012/07/30「X」氏撮影画像:
初重内部が公開(写真撮影は禁止と思われる)され、それに付随して椽下の柵の間から心柱及び心礎を観察することが可能と云う。
 日光山五重塔心柱

2015/02/16追加:
「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
 日光山五重塔心柱:四重上の柱盤から鉄鎖で吊る。

◇日光山五重塔図面

2006年以前追加:
○「古図に見る日本の建築」より
  日光山五重塔立面図:諸堂図に所収
   諸堂図は1巻で、四天王寺金堂・東大寺大仏殿・興福寺金堂ほか8棟・延暦寺根本中堂ほか2棟・洛陽大仏殿・三十三間堂・
   平等院鳳凰堂・東福寺山門ほか3棟・薬師寺東塔・法隆寺五重塔の10件を集める。元禄6年(1693)製作。東京国立博物館蔵。
2010/05/28追加:
○「身延山五重塔の復元」文化財建造物保存技術協会、身延山久遠寺、2009.3 より
 木原家文書日光山立面図:大田区所蔵、江戸幕府作事方の「大工頭」を務めた木原家の文書である。その中の1枚。

2007/07/01追加:
○「日本古建築提要」天沼俊一 より
 東照大権現五重塔断面図     五重塔三面図初重二重     五重塔断面図四重五重

2011/10/15追加:
○「日本名建築写真選集 日光東照宮」新潮社、1993 より
 日光山東照宮五重塔建地割之図:東京国立博物館蔵、上掲の「日本古建築提要」の図と同一のものか同質のものと思われるも不詳。

2009/06/06追加:
○「五重塔はなぜ倒れないか」上田篤、新潮選書、1996 より
 日光山五重塔断面図


日光山相輪橖

「木曽路名所図絵」:三仏堂とともに新宮の社前にある。
  木曽路名所図会:「相輪橖」

2007/07/01追加:撮影時は明治期と思われる。
  日光山相輪橖11

2007/08/05追加:
・「〔日本勝景写真帖〕」東京:大蔵省印刷局、明治12年 より
  日光山相輪橖12     日光山相輪橖13

青銅製、高さは13.2m。寛永20年(1643)家光の発願、天海大僧正の建立と伝える。
上部は金瓔珞金の鈴がそれぞれ24個ある)。当初は東照宮奥院にあったが、慶安3年(1650)年二荒山神社近くに移築。
明治8年神仏分離で更に現在地に移転。
2004/04/23撮影:
 日光山相輪橖1      同         2

2011/09/17撮影:
 日光山相輪橖11    日光山相輪橖12    日光山相輪橖13    日光山相輪橖14    日光山相輪橖15    日光山相輪橖16
  ※なお背景に写る覆屋は三仏堂修理用覆屋。


日光山鉄宝塔

文明2年(1470)銘、重文指定。三仏堂に安置。
総高237.8cm。鉄鋳造で、6個に分鋳。塔身の周囲に「奉新造滝尾山鉄塔 光明院法印昌宣 願主文月坊宗弘 文明二天(一四七〇)甲寅三月十五日大工宇都宮住人大和太郎」の鋳出銘がある。もとは滝尾中宮社の社前にあったとされる。
 ※滝尾中宮社は上掲の日光山往古図(右図)の最上部に描かれ、本殿の左に如法経塔と思われる宝塔がある。これが鉄宝塔を描いたものであろうか。
  日光山鉄宝塔1       同        2


日光東照宮奥社宝塔(徳川家康廟所宝塔)

2011/12/02追加:
 明治7年撮影奥社宝塔:「The Far East」Vol.Y gV より
2006/09/30追加:
NYPL(New York Public Library) Digital Gallery より
  日光山奥社宝塔:徳川家康廟所:撮影時期不詳
  ※宝塔は最初は木造宝塔、後に石造宝塔となる。天和3年の地震で破損。
  天和3年(1683)徳川綱吉が現在の唐銅製に造替。総高約5m。


大猷院霊廟奥院宝塔(徳川家光廟所宝塔)

2009/06/06追加:
 大猷院霊廟奥院宝塔:2000年(毎日新聞)
  銅製、径1.3m、高さ3.6m。内部には釈迦如来と位牌を安置。地下約3mに遺骸を安置と云う。


日光展覧会五重塔模型:上野松坂屋に於て

○2012/06/10追加:「Y」氏ご提供画像
 日光展覧会五重塔:絵葉書、大正7年〜昭和7年頃 の絵葉書と推定
     (年代推定は「Y」氏による・・・「Y」氏は絵葉書の蒐集家で、絵葉書の形式などから高い精度で印刷年代を推定する技量を持つ。)
大正7年〜昭和7年頃に上野松坂屋で日光展覧会が催され、日光山五重塔模型が出展されたと解されるが、情報が皆無で、詳細は不明。
従って、この模型が現存するかどうかは不明である。
○2013/06/07追加:
 上記の絵葉書にある「日光展覧会五重塔」についての消息は全く手掛りが無かったのであるが、日光市在住の某氏より、現在「日光だいや川公園・体験館」に展示の「日光東照宮模型」中の五重塔模型ではないかとのご教示を受ける。
各種Web情報に掲載された「由来」や写真などから、その可能性は高いものと判断される。
 しかし、現段階では、次項:「日光東照宮を主とした日光模型」で示すように、大正から昭和初期の頃の製作とされる3種の「日光東照宮五重塔模型」が存在し、その何れにも該当する可能性があり、3種ある模型の何れが該当するのかそれとも何れも該当しないのかの判断は保留せざるを得ない。
それは、何れの模型も未見であり、かつ詳細な模型の「由来」を把握している訳ではないからである。

※判断は保留中ではあるが、強いて云えば、現段階では「日光だいや川公園体験館」展示模型中の五重塔が、その「由来」から、可能性は最も高いと思われる。
○2013/06/20追加:
 2011/10/10日光市在住某氏撮影画像:
  日光東照大権現五重塔模型:日光だいや川公園体験館(今市市) 展示模型
上の日光だいや川公園・東照宮五重塔模型と上記の絵葉書「日光展覧会五重塔」とを比較すると、主として露盤の意匠であるが、似ているように思われる。
 ※実際の五重塔の露盤意匠は例えば「日光山五重塔75」(2013年撮影)であり、これに比べれば両者(模型と絵葉書)は相当程度似ているのである。
 ※大正から昭和初期の模型の作成から現在に至る間に、露盤の意匠が変更された可能性がまずないのは、例えば「日光山東照宮五重塔建地割之図」の露盤意匠が現在まで引継がれていると思われることからも分かるであろう。
 一方、両写真間では、日光市在住某氏が抱かれた印象のように「だいぶ色彩が異なる」ように見えるが、絵葉書の色彩が何処まで忠実であるのか疑問があるのと、本模型はかなり経年劣化が予想されそのため彩色・塗装がやり直されている可能性があり、大いに色彩が異なる可能性はあるものと思われる。
勿論、他の「飛騨高山屋台会館附設桜山日光館」や「日光東照宮宝物館」展示模型との比較はしていないので、以上は現段階での評価である。

■日光東照宮を主とした日光模型

 → 日光東照宮模型
 


日光山の概要

天平神護2年(766):二荒山(主峰男体山)開山を試みた勝道上人が、深沙大将が架けた神橋で大谷川を渡り四本竜寺を創建。
神護景雲元年(767):勝道上人、大谷川北岸に二荒山大神(本宮)を祀る。
天応2年(782):勝道上人は二荒山登山、山頂に小祠(奥宮)を祀る。
 (第3回目の男体山登攀を試みて、初登攀に成功)
延暦3年(784):勝道上人は、二荒山中腹中禅寺湖北岸に日光山権現(中宮祠)を祀る。
 (第4回目の男体山登攀を試みて成功、山腹に神宮寺を建立して止住する)
延暦9年(790):勝道上人が三社権現(本宮・現ニ荒山神社)建立。
弘仁元年(810):四本竜寺を本坊とし、一山の総号を満願寺とする。
弘仁11年(820):空海が滝尾権現を創建。

嘉祥元年(848):慈覚大師円仁が日枝神を祀り、本地神宮寺(三仏堂)、法華堂、常行堂を創建。
嘉承3年(850):二荒山新宮が成立。これにより本宮権現・新宮権現・滝尾権現が分祀され、日光三社権現と総称される。
新宮権現は男体山・本地千手観音、滝尾権現は女峰山・本地阿弥陀如来、本宮権現は太郎山・本地馬頭観音とされる。
 ・・・(三仏堂には本地三仏を祀る。)
中世には源頼朝などの関東武士の信仰を受ける。
建保3年(1215):弁覚、新宮を造営
仁保元年(1240):弁覚、光明院を創設、一山の本坊とする。
当時は衆徒36坊、小坊舎300、寺領およそ18万石と云われる。
室町期には光明院の実権は、権別当座禅院が掌握していたといわれる。当時の坊舎は500を数えるという。
嘉暦3年(1328):中禅寺三重塔の造立供養
近世にはいり、秀吉の小田原攻めでは北条氏に組し、寺領は没収される。
慶長18年(1613):慈眼大師天海(第53世貫主)により、光明院の復興が開始。
元和3年(1617):家康の遺骸が久能山より、日光山に遷る。徳川秀忠が東照大権現を創建。
 東照大権現とは徳川家康そのものが神になったと云うことで、本地は薬師如来とされる。この折、山王権現と摩多羅神も合わせて祀る。
 現在は家康・秀吉・頼朝を祭神とするようである。(本地堂<薬師堂>は昭和36年焼失→昭和43年再建。)
元和5年(1619):天海が日光三社権現を修造。また日光山衆徒は寺跡の復興に努める。
 なお、同年徳川秀忠の寄進で現本宮社殿も造営される。
寛永11年(1634)〜:東照宮寛永の大造替。この造替により、ほぼ現在の東照宮の建築が成立する。
寛永20年(1643):相輪橖(トウ)建立。
正保2年(1645):三重塔が四本龍寺の東側に移建される。
慶安3年(1650):若狭小浜藩主酒井忠勝五重塔奉納
承応元年(1652):法親王(輪王寺宮)が江戸に下り、東叡山寛永寺、日光山を兼帯する。
承応2年(1653):大猷院(家光)廟所が完成。(家綱)
 この頃、東照宮別当大楽院、二荒山神社別当安養院、大猷院別当竜光院が創建される。
文化12年(1815):五重塔焼失。
文政元年(1818):酒井忠近五重塔再建
文久2年(1862):中禅寺の三重塔、護摩堂、上供所、別所が焼失。

神仏分離
明治元年:幕府兵が宇都宮から日光山へ敗走。政府軍が日光に迫り、東照宮の御神体が会津に遷座。幕軍と官軍が野口十文字で対峙、幕府兵は日光を去り、官軍は今市へ撤収。
公現法親王が勅詔を以て生家・伏見宮への復帰を命じられる。
明治2年:日光県が設置される。
伏見宮能久親王(公現法親王)が輪王寺門跡を辞任。
輪王寺の称号および日光山と東叡山の本山号が廃止。
明治3年:日光県が神仏分離を弁官に上申。
明治4年:日光山はニ荒山神社(新宮)、東照宮(東照大権現)、満願寺(輪王寺)に分離、衆徒110ヶ寺は満願寺に合併する措置が採られる。
同年:満願寺本堂全焼。
明治7年満願寺再興、同15年一山支院15寺再興、同16年輪王寺に復号。
15院とは、浄土院、実教院、医王院、照尊院、日増院、唯心院、法門院、安養院、桜本院、禅智院、光樹院、護光院、華蔵院、南照院、教光院を云い、現在も健在と思われる。

神仏分離では大部の寺院・坊舎が廃寺、三仏堂などの移築をみるも、主要伽藍は維新前の東照大権現の堂塔をほぼ残す。
このような大伽藍では稀有のケースであり、明治維新前の「権現」の姿を今に良く留める。

2006/11/05追加:「神仏分離の動乱」より
天平神護2年(766)勝道上人(上野芳賀郡の人)ニ荒山開山、日光の地に四本竜寺を建立。
弘仁元年(810)満願寺と勅賜される。
嘉承元年(848)円仁によって三仏堂・常行堂・法華堂の建立が実現し、天台化する。
承応3年(1654)輪王寺と勅賜される。
元和3年(1617)東照大権現が造営される。
 以上の略歴の意味するところは、日光山には開山以来の神体山(ニ荒山)に対する山岳信仰と修験信仰に満願寺(輪王寺)を中心とした天台信仰が確乎とした基盤としてあった。 近世初頭、天台僧天海はここに目とつけ、日光山に東照大権現を祭祀する。
近世には以上三者が渾然として、つまり神仏が混在し、日光山は成り立っていたのである。
即ち山内全てが満願寺(輪王寺)であり、その中に東照大権現及び新宮(現二荒山神社)が存在した。
近世の日光山の概要は、境内総坪数 287,842坪、堂宇其他建物 110宇、神地内にある堂宇 6宇、近村入会地にある堂宇 12宇、堂塔拝殿等総合計 128宇、
寺領 18万石余(天正18年以前)・8,079石余(元和3年〜明治維新まで)、東照宮領 21,554石余、
山内末寺 110ヶ寺、山内僧侶 89余名。(社人の数は不明)であり、
輪王寺宮(法親王・輪王寺門跡・歴代は全て天台座主でかつ東叡山寛永寺門主を兼帯)が東照宮住職であり、二荒山神社の別当は安養院、大猷院の別当は龍光院であった。即ち、全山は僧侶の管理下にあった のである。
 明治維新の神仏分離で、
輪王寺門跡の廃止(最後の門跡公現法親王は還俗・北白川宮能久親王となる)、僧侶の神勤の禁止、輪王寺の称号停止、満願寺へ改称、一山衆徒110ヶ坊の合併統合、各坊舎の寺地奉還、 新宮(ニ荒山神社)及び東照宮の独立の処置が採られた。
歴代法親王は政略的地位以外の何者でもなかったし、ましてや王政復古となり、その地位は無意味となり、いわば朝敵である祖先の霊廟に仕えるなど不謹慎 な所業ということとなる。かくして、法親王の還俗は誠に当然のことであったのである。
 結果、110ヶ寺を数える僧侶は経済的基盤を全て失い、さらに明治4年には満願寺本坊・什宝が焼失し、僧侶は無給で生活も困窮し、出開帳も失敗(新たな借金を抱えることになる)、全く寺院の経営維持が成り立たない状態となる。



日光山伽藍

日光三社権現(本宮権現、瀧尾権現、新宮権現)

◇神橋(重文、明治37年):2011/09/17撮影
 日光山神橋1      日光山神橋2
◇本宮権現(以下重文、本殿・貞享2年(1685)、唐門及び透塀・貞享2年、拝殿・貞享2年):2011/09/17撮影
 日光山本宮権現
 日光山本宮権現拝殿1     日光山本宮権現拝殿2
 本宮権現唐門・透塀・本殿     日光山本宮権現本殿1     日光山本宮権現本殿2
◇日光山新宮権現(重文、拝殿・正保2年・・・ほぼ仏堂建築の外観を見せる):2011/09/17撮影
 日光山新宮権現拝殿1     日光山新宮権現拝殿2     日光山新宮権現拝殿3     日光山新宮権現拝殿4
◇四本龍寺(観音堂は江戸中期の再建か):2011/09/17撮影
 四本龍寺観音堂1     四本龍寺観音堂2     四本龍寺観音堂3
◇上記以外の日光三社権現(現在のニ荒山神社)関係の重文指定建造物は以下の通り。
・新宮権現:本殿・元和5年、唐門・江戸前期、掖門及び透塀・江戸時代前期、鳥居・寛政11年、神輿舎・寛永18年(1641)、 大国殿・延享2年(1745)、末社朋友神社本殿・宝暦頃、末社日枝神社本殿・慶安頃、
・瀧尾権現:本殿・正徳3年(1713)、唐門・元文5年(1740)、拝殿・正徳3年(1713)頃、楼門・元禄10年(1697)、 鳥居・ 元禄9年(1696)安永8年(1779)、
・本宮権現:鳥居・寛政12年(1800)

日光山輪王寺

◇常行堂・法華堂・渡廊
2011/09/17撮影:
 日光山常行堂・法華堂3(重文・慶安2年1649)      常行堂法華堂渡廊(重文、慶安2年)
 日光山常行堂1     日光山常行堂2     日光山常行堂3
 日光山法華堂1     日光山法華堂2     日光山法華堂3
2004/04/23撮影:
 日光山常行堂・法華堂1      同  常行堂・法華堂2(重文・慶安2年1649)

◇日光山三仏堂
 2004/04/23撮影:日光山輪王寺三仏堂(重文・正保4年1647)
創建は稲荷川河畔の滝尾神社近付と伝えられる。仁治年間中(1240-1242)源実朝により現在の東照宮の地に移される。
元和3年(1617)東照宮創建で、今の二荒山神社社務所の地に移り、慶安3年(1650)現在の大堂が落慶。
明治4年の神仏分離により解体、現在地に移転再興される。現在(2011年)解体修理中(平成19〜30年度・予定)。
◇その他の
輪王寺関係の堂宇:
 以下重文:本坊表門・江戸中期、開山堂・享保5年(1720)、慈眼堂廟塔・江戸前期、慈眼堂拝殿・慶安2年、慈眼堂経蔵・江戸前期、慈眼堂鐘楼・江戸前期、慈眼堂阿弥陀堂・正保3年(1646)、児玉堂・江戸前期、護法天堂・元和年中、四本竜寺観音堂・貞享2年(1685)、四本竜寺三重塔・貞享2年
◇坊舎跡:2011/09/17撮影
 日光山坊舎跡1     日光山坊舎跡2     日光山坊舎跡3     日光山坊舎跡4

日光山神廟(日光東照大権現)

◇日光東照宮・・・徳川家康廟所・・・いずれも国宝・重文、本地堂(薬師堂)は東照大権現本地・薬師如来を祀る。
 下記以外にも多くの堂宇がある。
  2004/04/23撮影:
   経蔵・本地堂・鼓楼     東照宮陽明門     東照宮経蔵
   東照宮唐門・拝殿      東照宮唐門1      東照宮唐門2     東照宮鼓楼・本地堂
※経蔵は寛永12年(1635)建立、重文、桁行3間、梁間3間、宝形造り、銅瓦葺、周囲に裳階を付設。内部には八角形輪蔵がある。一切経1456部、6325巻を納めていた。

◇東照宮関係の国宝重文建造物は以下の通り。
国宝:本殿・石の間及び拝殿・寛永13年(1636)、正面及び背面唐門・ 寛永13年、東西透塀・寛永13年、陽明門・ 寛永13年、東西廻廊・寛永13年
重文:上社務所・寛永13年、神楽殿・江戸前期、神輿舎・寛永13年、鐘楼・寛永13年、鼓楼・寛永13年、上神庫・江戸前期、中神庫・江戸前期、下神庫、江戸前期、水屋・寛永13年、神厩・寛永13年、表門・寛永13年、五重塔・文政元年(1818)、鳥居・元和4年(1618)、坂下門・寛永13年、奥社宝塔・天和3年(1683)、奥社唐門・慶安3年(1650)、奥社石玉垣・江戸前期、奥社拝殿・寛永13年、奥社銅神庫・承応3年(1654)、奥社鳥居・天和3年、奥社石柵・江戸前期、仮殿本殿・仮殿相の間・仮殿拝殿・寛永16年(1639)、仮殿唐門・江戸前期、仮殿掖門及び透塀・江戸前期、仮殿透塀、仮殿鳥居・江戸前期、仮殿鐘楼・江戸前期、御旅所本殿・貞享2年(1685)、御旅所拝殿・貞享2年、御旅所神饌所・貞享2年頃、旧奥社唐門・寛永18年(1641)、旧奥社鳥居・寛永18年

日光山大猷院(徳川家光廟)

大猷院・・・徳川家光廟所・・・いずれも国宝・重文
2011/09/17撮影:
 日光山大猷院仁王門1     日光山大猷院仁王門2
 2004/04/23撮影:
  日光山大猷院仁王門     日光山大猷院御水舎
  日光山大猷院二天門1     日光山大猷院二天門2     日光山大猷院夜叉門1     日光山大猷院夜叉門2
  日光山大猷院唐門・拝殿     日光山大猷院本殿       日光山大猷院皇嘉門
  日光山大猷院鼓楼          日光山大猷院鐘楼
 なお、廟所である奥院は非公開である。
◇大猷院関係の国宝・重文建造物は以下の通り。
 国宝:大猷院霊廟本殿・相の間・拝殿・承応2年(1653)
 重文:大猷院霊廟:唐門・承応2年、端垣・承応2年、掖門・承応2年、御供所・承応2年、御供所渡廊・承応2年、夜叉門・承応2年、夜叉門左右廻廊・承応2年、鐘楼・承応2年、鼓楼・承応2年、二天門・承応2年、西浄・承応2年、水屋・承応2年、宝庫・承応2年、仁王門・承応2年、皇嘉門・承応2年、 銅包宝蔵・承応2年、奥院宝塔・承応2年、奥院鋳抜門・承応2年、奥院拝殿・承応2年、別当所竜光院・江戸中期

2015/02/27追加;
「日光山輪王寺 宝ものがたり」 より
○大猷院絵図:仮称

本絵図の説明はなく、絵図の名称、作成時期、作成目的、所蔵などは不明。
従って、本図の名称は仮称である。
 大猷院絵図:仮称:左図拡大図

図中の番号は以下の示す。
1)仁王門、2)二天門、3)夜叉門、4)唐門
5)皇嘉門:奥之院への門である。
6)本殿:いわゆる権現造である。
本図の向かって右下は大猷院別當龍光院


参考:上野長楽寺東照宮
寛永の大造替で、元和造営(秀忠造営)の奥社(奥院)拝殿・唐門・多宝塔を長楽寺東照宮に移建する。
多宝塔(本地塔)は明治の神仏分離で取除かれるも、唐門・拝殿は現存する。
 → 長楽寺多宝塔のページを参照
 


2006年以前作成:2015/02/27更新:ホームページ日本の塔婆