大 和 吉 野 山 金 峯 山 寺

吉野山金峯山寺諸塔
蔵王権現大塔大日寺塔・如意輪寺多宝塔(近世)・蹴抜塔安禅寺多宝塔天川弁財天社多宝塔
<大将軍社多宝塔(仮称)、子安塔(鷲尾山世尊寺もしくは子守大明神)、丈之橋多宝塔(仮称)>
石蔵寺塔、一乗寺塔、薬師堂塔、薬師院塔>

金峰山全図(概要図)

吉野山之図:『和州芳野山勝景図』(「扶桑名勝図」) 正徳3年(1713)

 和州芳野山勝景図(下)の部分:下図拡大図(324KB)
  図右から仁王門・蔵王堂附近に大塔、勝手大明神の奥方面に大日寺塔(仮称)、塔尾山如意輪寺多宝塔がある。
  ※大日寺塔(仮称)は不詳、江戸初期如意輪寺多宝塔も不詳。

  ●和州芳野山勝景図・丈六山一ノ蔵王堂付近:上掲和州芳野山勝景図(下)部分図の右端部分図

 和州芳野山勝景図(上)の部分:下図拡大図 (286KB)
  図右から大将軍社附近に多宝塔、子安塔、丈之橋多宝塔(仮称)、蹴抜塔、安禅寺多宝塔がある。
   ※大将軍社多宝塔(仮称)、子安塔(鷲尾山世尊寺もしくは子守大明神)、丈之橋多宝塔(仮称)は全く不詳。

 ※吉野山にはいわゆる吉野三橋がある。七曲上の「大橋」、竹林院上の「天王橋」、子安明神上(高算堂下)の「丈之橋」(城之橋)を云う。
   上記絵図には「丈之橋」の表記はないが、子守大明神と高算堂・牛頭天王との間にある橋は「丈之橋」と推定できる。
    2012/03/29撮影:吉野山大橋:空堀に架けられたもので、現在はRC造。
    2017/03/09撮影:吉野山大橋2
 ※高算堂:金峯山寺蓮華会の創始者高算上人を祀る。現在は廃絶・石垣のみ残存。
 ※吉野山・丈之橋:子安明神の横手坂を上りきったところにある。写真手前が「丈之橋」跡、写真中央付近に多宝塔があったのだろうか?
   →なお「丈之橋」の手持写真がないので、【ブログ「奈良、時々京都」の「吉野山2」】の写真を借用する。
  2012/04/14追加:2012/03/29撮影画像:
    吉野山丈之橋付近      吉野山丈之橋石碑

2010/02/21追加:
「和州芳野山勝景図(上に掲載)」の塔婆部分拡大図
 和州芳野山勝景図:貝原篤信(益軒)、正徳3年(1713)、法量30.5×17cm、折本彩色、平安書林・三條寺町西へ入・丸屋善兵衛 より
 ※益軒は、筑前国(現在の福岡県)福岡藩士、弱年の頃よりしばしば大和を訪れる。元録9年(1696)「大和巡覧記」を上梓。
 当図は「大和巡覧記」から吉野の部分だけを抜き出し、巡覧文と益軒の原画をもとに彩色の風景画を添えたものと云う。


江戸初期の吉野山の塔婆:上図拡大図
左から、安禅寺多宝塔、蹴抜塔、丈之橋多宝塔(仮称)、子安塔、大将軍多宝塔、塔尾山多宝塔、大日寺多宝塔(仮称)、大塔

芳野山勝景図大塔部分図:江戸元禄期には大塔は健在であったと思われる。絵は初重平面3間の多宝塔。
勝景図大日寺塔部分図:縁起では元は三層の塔であり、本尊は舎那(盧遮那)とするので、この頃は二重塔であったのかも知れない。
勝景図如意輪寺宝塔部分図:絵は多宝塔のように描かれる。
大将軍社及び子安塔部分図:大将軍社境内には多宝塔があった、また世尊寺境内に子安塔(多宝塔か)があったと思われる。
勝景図丈之橋多宝塔部分図:丈之橋付近に多宝塔があった。
蹴抜塔及び安禪寺宝塔部分図:元禄期には蹴抜塔は三重であり、吉野山山上の中心は安禪寺であり、その宝塔は多宝塔形式であった。

和州金峯山山上山下并小篠等絵図:

「金峯山寺史」首藤善樹、金峯寺、2004年 より
和州金峯山山上山下并小篠等絵図:天理図書館所蔵
 左図拡大図・・・画像サイズは多少大

古に吉野山に存在した塔婆:
吉野山仮大塔:山下蔵王堂南
蹴抜塔:三重塔
奥の院多宝塔:安禅寺東
天川弁財天多宝塔

2012/04/14追加:
「吉野 : その歴史と伝承」宮坂敏和、名著出版、1990 より
 「第5節 金峯山山上山下并小笹等之絵図について」
大きさは82.3×156.9cmの大図。表面は「和州金峯山山上山下并小篠等絵図」とあり、裏面には「金峯山寺僧惣代吉水院、満堂惣代宝塔院」(寺僧は天台、満堂は真言)の連署がある。
 作成年代は全く不明、ただ図中の内容から判断すると(詳しい根拠は煩雑であるので割愛)、享和元年(1801)から天保初年(1830)以前に作成されたものと一応は推定される。
 本図を下から拾えば、以下のようになる。
◆古来から吉野詣の主要渡場である柳之渡(六田渡)と櫻之渡があり、櫻之渡を飯貝村に渡ると、城郭なような本善寺(名称の記載なし、飯貝に現存、浄土真宗)が描かれる。
一方柳之渡を渡ると六田の町並があり、四手掛明神とあるのは七曲下にあるのを誤認もしくは誤描している。丈六山は今の国策神社吉野神宮のある台地を云う。一の蔵王堂の所在地であった。続く峰之薬師は本堂・僧坊・鐘楼・茶所などがあったが明治初頭の廃仏毀釈で廃寺となる。
本堂安置の薬師如来像は今蔵王堂境内観音堂内に安置される。
 吉野山之図:『和州芳野山勝景図』(「扶桑名勝図」) 正徳3年(1713) より
  参考:和州芳野山勝景図・丈六山一ノ蔵王堂付近:上掲和州芳野山勝景図(下)の部分図の右端部分図
◆蔵王堂付近から勝手明神付近までには現存の堂舎のほか、学頭坊(實城寺・現本坊位置)、穀屋坊、角之坊、桜本坊、仮大塔、小松院、南之坊、佐抛(さなぎ)明神がある。なお、現桜本坊は元の密蔵院に移され現存する。
 ※大塔仮堂は「喜蔵院文書」では表行4間奥行4間1尺と記される。大塔は元弘の兵火で焼け落ち、仮堂のままであった。この時焼け落ちた大塔の相輪の伏鉢は今吉水院中門脇に残る。
 ※「菅笠日記」本居宣長、明和9年(1772):「吉水院ちかき所なりければ。まづまうず。この院は。道より左へいさゝか下りて。又すこしのぼる所。はなれたる一ッの岡にて。めぐりは谷也。・・・・・・中略
 ・・・・・・堂(蔵王堂)はみなみむきにて。たても横も十丈あまりありとぞ。作りざまいとふるく見ゆ。まへに桜を四隅にうゑたる所あり。四本桜といふとかや。そのかたつかたに。くろがねのいと大きなる物の。鍋などいふものゝさまして。かけそこなはれたるが。うちおかれたるを。何ぞととへば。昔塔の九輪のやけ落たるが。かくて残れる也といふ。口のわたり六七尺ばかりと見ゆ。その塔の大きなりけんほど。おしはかられぬ。」とある。 (後に記述)
◆今の辰之尾から子守への道に、雨師寺、大将軍、世尊寺、貝止地藏、高算上人堂、牛頭天王などが描かれるが、明治維新後全て廃寺退転する。「喜蔵院文書」では「八王寺社 表行7尺8寸、内陣4尺7寸、御拝3尺2寸」「牛頭宮 表行1丈4尺、内陣3尺8寸、御拝4尺」「世尊寺釈迦堂5間4面、輪蔵2間4方」とある。廃寺のあと、大将軍は水分神社の大神神社へ、牛頭天王は子守の八王寺社・岩倉牛頭天王・辰之尾雨師明神へ分割合祀される。世尊寺本尊釈迦如来立像・脇侍、輪蔵の普賢菩薩などは今蔵王堂に祀られる。高算上人は吉野山中興の祖と云われるが、今はその跡さえ忘れられた存在である。
◆青根ヶ峰の入口に大日寺(廃寺)、大峯地主金精明神、蹴抜塔、安禅寺蔵王堂、宝塔院、役行者御母公廟所(四方四面堂)、西行庵、その他が描かれる。
「喜蔵院文書」では「安禅寺蔵王堂3丈8尺3寸4方、但5間5尺8寸4方、多宝塔1丈6尺四方、但2間2尺四方、四方四面堂2丈6尺2寸四方」とある。
 ※ただし、文書中の但書は良く分からない。
現在、安禅寺蔵王堂本尊、愛染堂愛染明王坐像、宝塔の擬宝珠は蔵王堂に安置。(但し愛染明王像は今、愛染堂に安置。)
宝塔院の門は現桜本坊へ、護摩堂は善福寺に移建される。四方四面堂の役行者母の像は桜本坊に安置される。
◆山上には山上本堂を始め36の坊舎があったと云う。天文3年(1534)飯貝本善寺の真宗門徒衆により山上討ち入りによって、小松院・上辰之尾寺・中院などが焼払われ、さらには湯屋惣坊・浄名院も焼討ちにあい、36院断絶、6院のみ残るという。
本図には山上本堂・竹林院・南之坊・穀屋坊本院・桜本坊・角之坊の6ヶ寺が描かれる。
◆小篠は山上ヶ岳から5.5kmの奥にあり、祖師堂・行者堂・番所などと坊舎が立ち並ぶ様が描かれる。

吉野山勝景絵図:

吉野山勝景絵図:江戸後期
 左図拡大図・・・画像サイズ多少大です。

この頃確認できる塔婆:
吉野山山下大塔:山下蔵王堂南
カクレ塔:三重塔
奥の院多宝塔:安禅寺東


金峯山寺大塔

絵図類

2007/11/29追加:
「吉野山風俗図屏風」:昭和15年より不明であったが再発見される。
元尾張徳川家所蔵、大正10年徳川氏売却、昭和15年転売記録の後、行方が不明であった。近年アメリカで個人(不詳)が入手と云う。
六曲一隻、152×342cm。
下記の図柄が吉野山のどの部分を描いたのかは下記の絵だけでは不明であるが、蔵王堂部分とすると、天正16年(1588)焼失後の伽藍配置とは異なっている。
画風から、狩野元信の流れを汲む絵師が1570年代(天正16年焼失前)に描いたと推定される。
 吉野山風俗図屏風
  ※図の多宝塔が大塔であろうか?、蔵王堂などは不詳?・・・・。
2010/02/21追加:
 吉野山風俗図屏風2:全図か?、左に多層塔が一基見えるが、詳細は不明。
なお、上記とは別の、「吉野花見図屏風」(細見美術館所蔵・豊臣秀吉の花見を描く)が残る。
 吉野花見図屏風:中央やや右の上の塔婆は大塔か、左端やや下の三重塔は蹴抜塔か

2010/02/21追加;
芳野山勝景図:部分図
 芳野山勝景図大塔部分図:上掲載:「和州芳野山勝景図」 正徳3年(1713)

大和名所圖會

大和名所圖會、寛政3年(1791)刊より:
記事:「大塔の跡は本堂の西に礎石見えたり」

 金峯山蔵王堂・威徳天神・実城寺

※既に大塔は仮堂の状態で描かれる。
なお、實城寺は現本坊である。


・嘉永6年刊:「西国三十三所名所圖會 巻之6」:
国軸山金峰山寺
大塔の古跡(本堂の西にあり。礎石の上に仮堂を営む。三尊仏を安ず。
承暦3年11月金峰山の塔供養の事、「釈書」に見えたり。)
 ※既に、大塔は仮堂であったと知れる。
2020/06/30画像追加:
 金峰山蔵王堂
 

金峯山寺図(蔵王堂付近):「金峯寺」首藤善樹、金峯寺、昭和60年 の表紙カバーを転載。但し画像は多少修正。
なおこの絵図の所蔵・作成年代及び名称などは現在不詳。

この図では、初重平面5間の大塔形式ではなく、 初重平面3間の多宝塔であるように見える。

金峯山寺大塔跡

2000/09/20撮影:
 金峯山寺大塔仮堂基壇1     金峯山寺大塔仮堂基壇2

2004/02/07撮影:2010/02/21写真入替
 金峯山寺大塔跡:左が神楽殿、右が威徳天神、中央に 仮堂基壇が写る。
 神楽殿の背後(西)の基壇

2005/05/29及2012/03/29の寺僧への確認では
威徳天神の左の堂宇(神楽殿)の付近に大塔があったと思われる。
大塔跡は何も残らない。
上掲神楽殿の背後(西)に基壇が残されも、これは大塔基壇ではない。
この基壇は大塔基壇ではなく、近世の多宝塔もしくは大塔仮堂の基壇である。

2010/02/21追加:
○「史跡名勝吉野山・金峰山寺発掘調査の成果について」(報道発表資料)奈良県立橿原考古学研究所、2009/03 より
発掘は小規模であったが、次の平面図の掲載があり、大塔跡が明示される。
 蔵王堂付近検出遺構平面図
この図には、神楽殿の背後(西)に塔跡が示される。この位置には基壇が残存する。
金峯山寺の見解では、この基壇は大塔の基壇ではないと云う。
つまり、この基壇は大塔基壇ではないが、少なくとも近世後期の大塔仮堂の基壇であることは確かである。

吉野山大塔仮堂基壇11
吉野山大塔仮堂基壇12
吉野山大塔仮堂基壇13
吉野山大塔仮堂基壇14
吉野山大塔仮堂基壇15:左図拡大図
吉野山大塔仮堂基壇16
吉野山大塔仮堂基壇17
吉野山大塔仮堂基壇18

2017/03/09撮影:
 吉野山大塔仮堂基壇21     吉野山大塔仮堂基壇22     吉野山大塔仮堂基壇23     吉野山大塔仮堂基壇24
仮堂基壇の傍らに一基の石灯篭がある。元々大塔に関係した石灯篭であるのであろうか。
 仮堂基壇横石灯篭1     仮堂基壇横石灯篭2
石燈籠竿には次のように刻む。
「泉州堺住伊輿屋次郎左衛門/寄進之石灯篭依令破損奉再興之者也/堂別当二臈法印持福院玄威/寛文元年辛丑八月吉祥日」

大塔略歴
○「大和名所記 : 和州旧跡幽考」林宗甫、江戸中期:
貞和五年正月十四日、越後守師泰、武蔵守師直寄せ來たる所に帝は天の川の奥、賀名生の邊に落ちさせ給いしかば、さらば焼払えとて皇后卿相雲客の宿所に火をかけし程に、貮丈五尺の金の鳥居、金剛力士の二階の門、北野大神の社七十間の回廊三十八所、ならびに蔵王堂、一時のけぶりとなる(太平記)。
堀川の院、寛治七年九月廿日、金峯山の寶殿炎上(帝王編年)。再興あり。
蔵王權現に定朝が造進せし狛犬、社殿の上に啖合て大床より落ちたりと盛衰記に見えたり。
金峯山の塔、成就の供養、承暦三年十一月と釈書にあり。 
  ※<貞和五年(1349)、寛治七年(1093)、承暦三年(1079)
  
金峯山の塔とは大塔と思われるが、見当違いである可能性あり。
○「金峯寺」首藤善樹、金峯寺、昭和60年:より
文安元年(1264)大塔、蔵王堂、食堂、鐘楼など焼失。「興福寺略年代記」
宝徳2年(1450)大塔焼失。「康富記」「南方紀伝」、享徳2年(1453)再建供養。「経覚私要鈔」
文明18年(1486)三条西実隆が吉野大塔勧進帳の清書を行う。「実隆公記」
 ※享徳2年の再興塔は何らかの事由により失われ、文明年中に再興されたと思われる。
寛文5年(1665)の「伽藍記」:
・・・天神(檜皮葺・鳥居・瑞垣、拝殿・外廊退転)、木本弁財天大塔(二重、退転)、二天門(礎あり)・・
 ※寛文年中には大塔(退転)とされ、その後再興されたかどうかの詳細は良く分からない。(再興はされなかったものと思われる。)
2006/03/12追加:
○「金峯山寺史」:
創建は不詳。
文明の再興大塔は天正14年(1586)蔵王堂等とともに焼失。
寛文5年「伽藍記」:「大塔 六丈 一丈二尺間。五間四面、高さ拾三丈。ニ重。退転。」
 ※これによると大塔はまさに大塔形式の建築で、蔵王堂の八丈四尺。高さ十一丈にならぶ大堂であったと思われる。
 ※寛文5年には退転とあり、天正14年の焼失後の再興はなかったものと思われる。
寛文11年「大塔 天台方支配・・・」などとあるが、大塔は 天台方の支配というだけで塔が存在したことの証明にはならない。
延慶3年(1746)の「御朱印一山堂社間数分限恩改書」:「大塔 仮堂 表行4間奥行4間3尺」
寛文11年の「吉野山独案内」:平屋で入母屋造の堂として描かれる。(仮堂であろうか)
天保2年(1831)「日本西方四十八願所縁起」:阿弥陀堂安置の阿弥陀三尊は阿弥陀堂焼失で、今は大塔に安置と云う。
「吉野山独案内」には平屋建の堂の札銘に「大塔あみだ」と表記、大塔には阿弥陀仏が安置と思われる。
なお大塔の正保2年(1645)焼失説があるが、これは信憑性に欠けると云う。
 ※貞和3年(1803)の「大峯細見記」:「次に大塔ノ阿陀。是正保2年ニ炎上シテ今本堂ノ西ニ礎石アリ。」
 ※正保2年炎上は他の文献に見えない。「大峯細見記」の成立が貞和3年まで下る、著者の金液堂義雄が山外の人物である、仮に正保2年に炎上したとしても、それは仮堂であり、貞和3年には仮堂として再興されていたはずである。
以上が正保2年の焼失が信憑性に欠ける理由である。

仮堂の大塔は大正3年の「吉野精華」に記載があるが、その後いつしか取り壊されたと思われる。(仔細は不明)

大塔相輪(伏鉢)
 ※吉水院に残るという大塔相輪 (伏鉢)については、「金峯山寺史」、「吉野 : その歴史と伝承」など多くの著述にあるので、
 吉水院に残存するものと思われる。
 なお、江戸期の著述である本居宣長「菅笠日記」<明和9年(1772)>に大塔伏鉢を実見した記載がある。
 2016/011//23追加;
 
斎藤拙堂「客枕夢遊録」文政10年(1827)にも記載され、江戸期にも大塔伏鉢は蔵王堂前にあったのは確かであろう。
 ※しかし、吉水院に残るという大塔相輪(伏鉢)については金峰山寺には情報はないと云う。(2005/05/29及2012/03/29の寺僧への確認)
 ※吉水院神職(推定)に尋ねるも、そのようなものがあるとは聞いていないとの見解である。(2012/03/29の確認)
 ※確かに近現代の著述には「伏鉢は吉水院に残る」という記述が散見されるが、Web上も含め、写真を見かけたことは未だなし。
  (写真については、下の2016/09/24追加記事及び2016/11/23追加記事のように大塔伏鉢と推定される写真が存在する。)

2016/09/24追加:
●J.Y氏ご提供情報:蔵王堂大塔伏鉢破片
図書「吉野路案内記」宮坂敏和、吉野町観光課, 1979.2 p.158 に「蔵王堂大塔伏鉢破片」の写真掲載があるとの情報提供あり。
合わせて、当該ページの画像もお送り頂いたので、次に転載させて頂く。
 ◇蔵王堂大塔伏鉢の破片:「元弘の大火に焼け落ちたもの」との説明がある。
本写真では必ずしも判然とはしないが、写真下部に写るのが伏鉢であろう。そしてそれは数片に割れているようにも見える。
そして伏鉢には銘文が刻されていることも多いが、この伏鉢には銘文などは存在しないのだろうか。
さらに、左に駒札が写るが、もしこの駒札が伏鉢のものであるならば、その駒札の解説を知りたいが、写真では判読できず、残念である。
 ※図書の刊行年は昭和47年(1972)であるので、この当時頃までは、大塔伏鉢の破片は庭に存在していたものと思われる。
その後、この伏鉢の破片はこの写真の位置に現存するのか、それとも場所を移して現存するのか(例えば境内の別の場所に移動されたのか、屋内に収納されたのか等)、あるいはいつしか所在が不明になっているのか、要するに、その後の消息が不明である。
 ※その後の消息については、後日機会を得て、追及予定。またもし消息をご存じの方もしくは情報があれば、連絡を乞う。
 (拙サイトのホームページにメールへのリンクあり。)
2017/02/10追加:
図書「吉野路案内記」を手にするも、いきなり『蔵王堂大塔伏鉢の破片:「元弘の大火に焼け落ちたもの」』との写真が出てくるのみで、それ以外の説明は一切なく、また写真の解像度も拙ページに掲載のもの以上ではなく、新たな情報を得ることは出来ず。

2016/11/23追加:
●神戸在住西岡氏より情報のご提供あり。
ご提供の情報内容は次の2点である。
 1)宣長の「菅笠日記」に加えて、江戸末の伊勢津藩の儒者、斎藤拙堂の紀行文「客枕夢遊録」に、蔵王堂前に置かれた伏鉢についての記述がある。
原文は漢文であるが、「読み下し」で紹介する。そして、念のため、原文は国立国会図書館デジタルコレクションでネット公開されているが、原文もPDF化したものを添付する。
 (※国立国会図書館デジタルコレクションでは「拙堂紀行文詩」として公開され、その巻の三が「客枕夢遊録」である。)
また、電子書籍のEPUBファイル(※西岡氏ご本人出版<晩霞舎>の電子図書)も合わせて添付する。
   →「客枕夢遊録」の当該箇所は下の項に掲載。
 2)ウェブ上の吉水院の古写真に大塔伏鉢と思われるものが写っている。
それは、奈良県立図書情報館の「奈良の今昔写真WEB」>「吉野山史跡」のページである。
その場所は、ちなみにグーグルマップの360度ビューで今吉水神社を見てみると、写真の絵馬殿は今は存在しないが、一目千本の展望所がどうもその位置のようで、その左側の植え込みの辺りが写真の伏鉢の位置ということになるではないかと推測する。
   →上記サイトのページより写真を転載する。
 ◇吉野山吉水神社絵馬殿:昭和8年以降の写真との注釈があるが、その根拠は不明である。
西岡氏ご指摘のように、向かって左に写るのが、形状から見て、間違いなく大塔伏鉢の残欠であろう。
残欠はおよそ伏鉢の半分程度が残り、さらには頭頂部も欠け、2分割された状態のように見える。
そして「吉野路案内記」の写真と同じ場所にあるように見える。
果たしてこの伏鉢残欠は「この場所」に現在も存在するのであろうか。
早急に現地を訪問の予定。

●江戸中期・後期の大塔伏鉢記録
◎「菅笠日記」本居宣長、明和9年(1772)
「吉水院ちかき所なりければ。まづまうず。この院は。道より左へいさゝか下りて。又すこしのぼる所。はなれたる一ッの岡にて。めぐりは谷也。・・・・・・中略
 ・・・・・・堂(蔵王堂)はみなみむきにて。たても横も十丈あまりありとぞ。作りざまいとふるく見ゆ。まへに桜を四隅にうゑたる所あり。四本桜といふとかや。そのかたつかたに。くろがねのいと大きなる物の。鍋などいふものゝさまして。かけそこなはれたるが。うちおかれたるを。何ぞととへば。昔塔の九輪のやけ落たるが。かくて残れる也といふ。口のわたり六七尺ばかりと見ゆ。その塔の大きなりけんほど。おしはかられぬ。
とある。 (前に記述)
天正の火災で焼け落ちた九輪のおそらく伏鉢であろう。
この遺物は現在、吉水院の境内に移され横たわっている。(未見)
2016/11/23追加:
神戸在住西岡氏ご提供情報
◎斎藤拙堂「客枕夢遊録」文政10年(1827):
 客枕夢遊録の原文:四ページ目のからの間である。
次は「読み下し」である。
 「蔵王堂に至れば、亦壮大にして、楹両人之を囲む。堂前桜四株有り。伝へて言ふ、大塔王、手づから植う、と。未だ然るや否やを知らず。其の傍らに一鉄器有り。形、釜鑊の如く、口径六七尺、底円竅有って、古色鬱然たり。之を土人に質すに、以て塔尖の輪と為す。塔今存せず。然れども牙を見て以て象の大を知るに足れり。
 参考:
上掲の「大和名所圖會」寛政3年(1791)の「金峯山蔵王堂・威徳天神・実城寺」の繪圖、
「和州芳野山勝景図」 正徳3年(1713)の「芳野山勝景図大塔部分図」を見れば、
蔵王堂前櫻四株有りという描写はあるが、古色鬱然たる鉄器は描かれていない。残念なことである。

蔵王堂大塔伏鉢破片
2017/03/09撮影:
蔵王堂大塔伏鉢破片は残存する。
近現代の諸書にある「吉水院に大塔伏鉢の破片が残存」という記事のとおり、
また、J.Y氏より頂いた情報である図書「吉野路案内記」に掲載の古写真のとおり、
さらには、神戸在住西岡氏より頂いた情報である「吉水院絵馬殿」の古写真に写る伏鉢破片及びにグーグルマップの360度ビューでの推察のとおり、蔵王堂大塔伏鉢破片は残存する。
しかも、ほぼ古写真の姿とは多少破片の置き方は違うものの、厳然と伏鉢破片は現存する。
s_minagaが2度ほど、寺院と神社に尋ねるも、不明という回答であったが、J.Y氏および西岡氏のご教示により、大塔伏鉢の残存を確認する。


 

 蔵王堂大塔伏鉢破片11:写真中央が吉水院絵馬堂跡で、左側の吉水神社の立札の 立つ茂みが伏罰破片の残置されている場所である。
 蔵王堂大塔伏鉢破片12
 蔵王堂大塔伏鉢破片13
 蔵王堂大塔伏鉢破片14:左上図拡大図
 蔵王堂大塔伏鉢破片15:左下図拡大図
 蔵王堂大塔伏鉢破片16
 蔵王堂大塔伏鉢破片17
 蔵王堂大塔伏鉢破片18
 蔵王堂大塔伏鉢破片19
 蔵王堂大塔伏鉢破片20
 蔵王堂大塔伏鉢破片21
 蔵王堂大塔伏鉢破片22
 蔵王堂大塔伏鉢破片23
 蔵王堂大塔伏鉢破片24
 蔵王堂大塔伏鉢破片25
破片は長年雨ざらしにされしかも土の上に無造作に放置されるも、腐食もなく、厳然と存在する。おそらくは青銅製で、かなりの厚手のものである。(法量採寸を失念する。)
現存する破片の表面には願文や由来や年紀などの刻文は見当たらず。
本伏鉢破片は「元弘の大火の焼け落ちたもの」といわれるが、肝心の蔵王堂大塔の履歴自体がはっきりせず、いつの時代のものかはよく分からない。

吉水院宮司の談:
 伏鉢について尋るも、宮司は伏鉢といわず、「かね」という言い方をする。その時は宮司は「鐘(梵鐘)」の意味で言っていたものと解釈するも、宮司は「鐘」の意味ではなく「金物」「鋳物」の意味で「かね」といっていたのかもしれない。
塔の相輪の一部である伏鉢について、説明するも、宮司は意に介さず、「かね」と発声する。
「このかねは蔵王堂のかねで元弘のころ焼けたものと聞いている云々」でそれ以上の情報の持ち合わせはないと思われる。
 「絵馬殿の消滅時期は先代の時代のことで、何時かは知らない。」(現地を案内し)、「この付近一帯にあったと聞いている、大風で倒壊したと聞いている、ご覧のとおり谷風をまともに受ける位置にある。」
 伏鉢破片について、宮司は特に特別な感慨はないとお見受けする。それは、宮司の物言いからも、周囲を竹垣で囲い伏鉢破片は一瞥しただけではその存在に気付くことができないように置かれていることからも、その置き方もまさに放置という状態であるからである。

 この伏鉢破片は江戸中期に本居宣長が目にし、ついで「二百年近くまえに斎藤拙堂が目にしたもの」(神戸在住西岡氏))であり、おそらくは明治の神仏分離の処置で金峰山全山を廃寺とし金峰神社と改竄した動乱の中で、蔵王堂から吉水院(吉水神社に改竄)に移されたものであろうが、よくぞ現在に至るまで伝えられたものと思うのである。
 何時の時代かははっきりと断定は出来ないが、まず間違いなく蔵王堂大塔の遺物であることは間違いなく、しかも雄品(神戸在住西岡氏)あるいは秀品であり、さらに前に述べたように近世の思想家が眼にしたという歴史的な価値もあり、貴重な文化財であろう。
 しかるに「植え込みに放置というのはあんまりな扱い」(神戸在住西岡氏)というのは偽らざる感想であり、是非とも文化財保護の観点から、保存・展示などの処置を強く望むものである。


2006/03/20追加:
大日寺宝塔

大日寺は真言宗醍醐派、本尊五智如来・藤原・重文を有する。寺伝では吉野最古の寺院と云われる日雄寺の跡と云う。
勝手明神北側を西に入りやや下ったところに位置する。
南院谷の重層の塔が大日寺とされる。<ニ之鳥居大日寺とは別寺>
「大日寺縁起」宝永6年:五智如来の宝塔は創建不詳で、元は三層の塔であり、本尊は舎那(盧遮那仏)であったとする。
 吉野全山古図の南院谷多宝塔1
 吉野全山古図の南院谷多宝塔2
  この塔に付けられた札の名称が剥落し不明であるが、大日寺の塔と推定される。
2010/02/21追加:
 勝景図大日寺塔部分図:上掲載:「和州芳野山勝景図」 正徳3年(1713)
  :縁起では元は三層の塔であり、本尊は舎那(盧遮那)とするので、この頃は二重塔であったのかも知れない。
2012/03/29撮影:
 吉野山大日寺山門     吉野山大日寺本堂
 吉野山大日寺俯瞰:山門・本堂・庫裏などが写る。
 吉野山大日寺遠望:写真中央が現在の大日寺であるが、この付近に大日寺宝塔があったのであろうか。


塔尾山如意輪寺多宝塔

2010/02/21追加:
 勝景図如意輪寺宝塔部分図:上掲載:「和州芳野山勝景図」 正徳3年(1713)・・・情報皆無
  → 如意輪寺
     ※現在、如意輪寺には近代に建立された多宝塔がある。


仮称大将軍社多宝塔

2010/02/21追加::上掲載
 大将軍社及び子安塔部分図:「和州芳野山勝景図」 正徳3年(1713)
  :大将軍社境内に多宝塔が描かれるも、情報皆無で全く分からない。


子安塔(世尊寺多宝塔?)

2010/02/21追加::上掲載
 大将軍社及び子安塔部分図:「和州芳野山勝景図」 正徳3年(1713)
  :世尊寺境内に子安塔(多宝塔か)が描かれるも、情報皆無で全く分からない。
   あるいは子安塔と云う名称から、子安社の多宝塔であったのかも知れない。

【世尊寺跡】(鷲尾山と号する)
明治の神仏分離で廃寺、本尊釈迦如来は現在蔵王堂に安置、阿難、迦葉尊者は現在観音堂に安置とされる、天照大神像、戎像は大阪今宮戎神社へ移座、聖徳太子像は竹林院へ遷座する。
跡地には銅鐘〔重文〕のみ残される。なお梵鐘銘文は「保延六(1140)年十二月三日 右京太夫兼播磨守平朝臣忠盛奉施入・・・・是為禅定聖霊往生極楽先妣證大菩堤 乃至法界平等利益」とあると云う。
 「大和名所記 : 和州旧跡幽考」林宗甫、江戸中期:世尊寺
世尊寺は炎上の後、形ばかりなる堂あり。本尊は釈迦如來、侠侍は阿難迦葉なり。抑々、釈迦如來は欽明天皇十四年五月戊辰朔日、河内の国、泉郡茅渟海中に梵音いとひゞきて、雷の聲にやたぐえなん。うるわしく照りかがやく事、日の色をあざむき侍るよし奏し奉つる。天皇あやしみおぼしめして、溝邊直に勅して、見せしめらるゝに、直海に入りて見ぬれば、樟の木のうかびて、照りかゞやくにぞありける。即ち是れをとりて奉つりしかば、佛つくりにおほせて、仏像二はしらをぞつくらしめ給う。今、吉野寺に光りをはなち給う樟の木の像是れなり(日本紀)。欽明天皇十四年より延寶七年迄、千百廿六年か。
 鐘あり。銘にいわく、保延五年庚申十二月三日、平朝臣忠盛と云々保延五年より延寶七年迄凡そ五百四十一年か。此所は天竺霊鷲山にひとしき霊地にて侍るとかや。
2004/02/07撮影:世尊寺跡     世尊寺梵鐘
2005/05/29撮影:吉野世尊寺梵鐘
なお
木片勧進(51, 大和鷲尾山世尊寺)の項を参照
 鷲尾山世尊寺須彌壇蹴込板2枚(檜)が神棚天井及び脇板中棚として転用される。
2012/03/29撮影:吉野山世尊寺跡     吉野山世尊寺鐘楼     吉野山世尊寺梵鐘
  子安塔は「和州芳野山勝景図」では世尊寺境内に建つように描かれるが、その痕跡は全くなし。
  なお、世尊寺石燈籠は子守社前に残ると云う。(未見)


仮称丈之橋多宝塔

2010/02/21追加:
 勝景図丈之橋多宝塔部分図:上掲載:「和州芳野山勝景図」 正徳3年(1713)
  :丈之橋付近に多宝塔があった。・・・情報皆無
 2011/06/10追加;
 「山岳信仰の考古学的研究:吉野山南部遺跡群の測量・踏査報告等」代表・橋本裕行、奈良県立橿原考古学研究所、2009.3 より
  丈之橋付近遺構実測図
 上記の「勝景図」はおよそ北方向からの描画であるので、「丈之橋付近遺構実測図」は180度回転させて参照すれば分かり易い。
 「勝景図」の位置は「実測図」で示す丈之橋のある位置付近で示す赤丸印でなければならないが、明確な痕跡は見て取れない。
 あるいは、丈之橋が平坦面1及び2の北側にあったならば、平坦面2がその位置ということにはなるが、確かなことは何も分からない。
2011/10/09追加:
「吉野(大和路新書7)」近畿日本鉄道近畿文化會、昭和30年
(金精明神の神域付近は)平安中期に・・・相応上人の安禅寺等や塔頭僧坊が立ち並び、なお祇園と云う素戔嗚命の本地牛頭天王を祭る宝塔も建った。・・・・・この近くの岩倉鎌倉の里は岩倉千軒、鎌倉千軒といわれて賽者を相手の市場まで出来るようになったのである。
 以上によれば、平安中期と思われる頃に、牛頭天王を祀る宝塔があった(典拠は不明)と知れるが、この丈之橋多宝塔とは牛頭天王に係る多宝塔であったのかも知れない。しかし 丈之橋は牛頭天王社とは若干離れていて、この丈之橋多宝塔が牛頭天王を祀る宝塔であるのは少し不自然ではあろう。
2012/03/29撮影:
 吉野山丈之橋付近:多宝塔が建立されていたような痕跡や平坦地は全く窺うことはできない。
 吉野山丈之橋石碑
 丈之橋付近平坦地:上掲丈之橋付近遺構実測図の「1」の平場の写真である。
なお「2」の平坦地はかなり谷を下ったところにあり、勝景図丈之橋多宝塔部分図の場景にはそぐわない。 多宝塔は、あるいは「1」の平場に建っていたのであろうか。


安禅寺宝塔、蹴抜塔

安禅寺及び付近の近世の状況は、およそ以下のとおりである。

◇「伽藍記」寛文5年(1665):牛頭宮(幣殿・拝殿退転)、金精大明神(御拝・瑞垣、幣殿・拝殿退転)、隠家塔(三重、今は一重)、安禅宝塔(二重、栃葺)、奥院蔵王堂、同四方正面、・・・
 ※けぬけの塔は既に上2重を失い、牛頭天王及び金精大明神の拝殿などは退転と云う。

2010/02/21追加:
◇「和州芳野山勝景図」 正徳3年(1713):上掲載:
 蹴抜塔及び安禪寺宝塔部分図
  :元禄期には蹴抜塔は三重に描かれるも、上記の「伽藍紀」とは整合がとれない。
  また、牛頭天王・金精大明神の社殿もほぼ完全に描かれ、これも「伽藍紀」との整合がとれない。
  「和州芳野山勝景図」は古の伽藍も踏まえて描いたものなのであろう。
  なお安禪寺宝塔は多宝塔形式で描かれる。

◇「大和名所記 : 和州旧跡幽考」林宗甫、江戸中期:
 金情大明神社
金情大明神の垂跡をしらず。俗に此の山の金をまもらせ給う神なりといえり。
是れより一町ばかり過ぎて、蹴抜の塔あり。 
 安禅寺
飯高山安禅寺寶塔院本尊は一丈の蔵王權現、又役行者(えんのぎょうじゃ)の遺像を安置せり。
 安禅院より三町ばかり右に行きて奥の院
奥の院四方正面堂は聖觀音菩薩、不動明王、愛染明王、地蔵菩薩、其の脇に蔵王堂。

大和名所圖會:金精大明神・安禅寺・奥の院全図 :寛政3年(1791)

金精大明神・安禅寺・奥の院全図:左図拡大図:2020/06/30画像入替

安禅寺下(北側・図では右)には金精大明神及び 「けぬけの塔」、
図の左には安禅寺(蔵王堂・多宝塔・宝塔院・奥の院)の伽藍が描かれる。
 但し、「けぬけの塔」単層堂に描かれるので、すでに上層は退転していたのであろう。

※金精社は延喜式の「金峰神社」に比定されるというが、明治維新の復古神道家の強弁・付会の類でしかない。
明治3年金精社別当知足院が復飾改名(知足照見と改名)し、金精社司となる。
明治7年吉野山の本社と付会される。
本社と僭称するも、社殿が小さく大破している為、体面を取り繕う必要から造替の企てがあり、その費用捻出のため、安禅寺・子守社・蔵王堂・勝福寺の梵鐘を売却、坂中坊建物売却、持明院建物を神社詰所として移転、四方正面堂を普請小屋とするなどの処置が採られたと云う。

明治維新で得意満面となった復古神道は、所詮金峯山の附社(地主神)でしかない金精大明神を、明治維新の神仏分離で強引に金峯神社本社とするも、元々無理な処置だったことは 誰が見ても明らかであろう。
なお平成13年社務所が不審火で焼失、今跡のみを残す。→2005/05/29:現在は再興される。
2012/03/29撮影:
 吉野山金精大明神

吉野蹴抜塔

◇「伽藍記」寛文5年(1665):隠家塔(三重、今は一重)・・・

◇寛文11年「吉野山独案内」

蹴  抜 塔(左図拡大図)

金精大明神の左奥に 蹴抜塔(三重塔)が描かれる。
ただし、 「伽藍記」とは整合が取れない。

2006/03/20追加:
吉野全山古図の蹴抜塔」:三重塔として描かれる。 「伽藍記」とは整合が取れない。

◇「和州芳野山勝景図」 正徳3年(1713):上掲載:
 蹴抜塔及び安禪寺宝塔部分図
  :元禄期には蹴抜塔は三重に描かれるも、上記の「伽藍紀」とは整合がとれない。

大和名所圖會 寛政3年(1791)刊より:蹴抜塔図(上 掲の部分図)
  記事:この塔は、飛騨の匠が建てしとなり。義経、この塔の中に隠れしを、敵勢追いかけ来れば、ここを蹴ぬけて下谷宮瀧のかたへ落ち行き、西河へ背走せられしとなり。」
この挿絵では、挿絵の中央左に「けぬけのとう」が描かれ、この頃はすでに「塔堂」化していたと思われる。

「大和巡日記」安田相郎(土佐藩士)、天保9年:
「義経の蹴抜塔を見るも<そ塔>であった。真っ暗の堂内で不意に寸鐘を打ち驚かせる」
 とあり、天保頃もすでに正規の塔の姿ではなくて、塔堂化していたと思われる。
    ※<そ塔>の<そ>は鹿を3ツ書く漢字で、粗(粗い)と同義。     

◇西国三十三所名所圖會、嘉永6年(1853)刊:巻之7:

蹴抜塔の古跡:
(金精の社の奥1丁ばかりに有り。この辺の字を隠家といふ。文治元年源義経、この塔のなかに隠れしを、敵勢追つかけ来るにより、ここを蹴ぬけて下谷宮瀧の方へ落ちゆき、それより西河へ敗走せられしとぞ。昔は五重の大塔なりしが、今は塔の下のみ存せるに、覆ひの家根をしつらひて古跡を亡せず。またこの辺に鎧掛松といふあり。)

蹴  抜 塔 の 図:2020/06/30画像入替

この名所図絵では五重塔とするが、この頃はすでに初重のみの姿になり、 粗末な仮屋程度の屋根であった様子が描かれる。

◇2006/03/12追加:「金峯山寺史」:
嘉永元年(1848)「吉野日記」(氷室長翁):「蹴ぬけの塔をみる、・・・・柱も桁も朽やつれて・・・」とあり、幕末には倒壊寸前の様子と思われる。
明治39年失火のため焼失とも、あるいは五円で売却され買主が塔の金物を取り外し火を掛けたとも云う。
その後、現在の堂が再興される。

2006/12/27追加:
「木片勧進」によれば
「大和吉野山蹴抜塔升形」が「草の舎」<松浦武四郎が部材を勧進し建立した>の部材(神供台)として転用とされる。
ここでは「明治初年廃仏の時毀てり」とあるが、廃仏で取り壊されたかどうかは不明。
しかし、この神供臺の存在が確認できない。
 ※一畳敷の神棚の中あるいはその近辺にあると推測するも、手持ち資料では全く手掛かりなし。あるいは既に失われたのであろうか。
    2011/06/14追加:「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」 より
     一畳敷北面その1:北面には右に床の間、左下に床脇地袋棚・左上に神棚がある。・・・神棚扉は閉扉 (神供臺は見当たらず)
     一畳敷北面その2:その1と同じ構図であるが、左上の神棚は開扉している。 (神供臺は見当たらず)
      何れにしろ、手持ち資料では、「神供臺」の有無の確認は取れない。
 ※「木片勧進・草の舎(一畳敷)」(第37番)を参照

◇蹴抜塔の現状:

2004/02/07撮影:
 吉野蹴抜塔1      同     2(左図拡大図)       同     3
鎌倉時代の塔が建っていたと云われる。(その根拠は義経文治元年・1185この塔に隠れたという物語があるからでろうか)
明治39年失し、現在の堂は大正期に再建されたと云う。

2005/05/29撮影:
 吉野蹴抜塔1       同     2
両脇間90cm(3尺)、中央間160cm(5尺3寸)・・・一辺3m40cm。(実測)
平面は旧規を踏襲しているのかどうかは不明。
床下を観察すると、心柱らしきものが心礎から建っているとも思われる。

2012/03/29撮影:
 吉野山蹴抜塔11     吉野山蹴抜塔12     吉野山蹴抜塔13
 吉野山蹴抜塔14     吉野山蹴抜塔15     吉野山蹴抜塔16


吉野山安禅寺多宝塔

多宝塔履歴
貞観4年(862)比叡山無動寺相応が金峯山へ登り(「拾遺往生伝」)、安禅寺を開基、本尊を不動とする(「金峯山草創記」)。
宝塔は報恩大師(一説には高算)の建立と伝承する。(安禅寺は天台の相応が建立とする。)
寛弘4年(1007)藤原道長大峯山参詣途中、安禅の宝塔で昼食。
寛治6年(1092)白河上皇金峯山参詣、山下の宝塔で発病。
元弘2年(1332)大塔宮が愛染の宝塔を中心とした城郭を構える。
長禄元年(1458)北山宮(南朝後胤)の兵が愛染宝塔に現れ、金峰山衆徒と戦闘する。
慶長9年豊臣秀頼が安禅寺堂塔を再興「金峯山古今雑記」、慶長10年子守社(水別神社)を造営、おそらく威徳天神も秀頼の造営、左記以外にも寄進などが行われる。

◇寛文5年(1665)「伽藍記」:
 安禅宝塔(二重、栃葺)、蔵王堂(表行5間。奥行5間。栃葺き 一重」・・・

◇寛文11年(1671)「吉野山独案内」

安禅寺宝塔

記事:飯高山安禅寺宝塔院とて伽藍あり。右の方に多宝塔あり。
本堂には役行者、柘南の木にて一刀三礼にてつくらせたまふ御丈一丈の蔵王あり。

◇元禄5年(1692)「和州巡覧記」貝原益軒:
 ○安禅寺
飯高山と云う。伽藍なり。右に多宝の塔あり。本堂は蔵王なり。役行者自作と云う。僧寺を、また宝塔院と云う。
 ○四方正面堂
奥の院これなり。安禅寺より、三町ばかり奥にあり。秘仏の堂なり。観音、不動、愛染、地蔵、その脇に蔵王堂あり。奥の院の山は、高き山なれども、吉野山の絶頂にはあらず、絶頂は山上とて、なお五里あり。

◇2010/02/21追加:正徳3年(1713)「和州芳野山勝景図」:上掲載:
 蹴抜塔及び安禪寺宝塔部分図
  :安禅寺宝塔は多宝塔形式に描かれる。基壇は無く高床式に描かれる。
  この図は北東方面から安禅寺を俯瞰したもので、北(右)から多宝塔、宝形造の堂宇(持仏堂か)、
  南北棟・高床式・入母屋造の安禅寺本堂、東西棟の屋根(宝塔院か)が描かれる。
  基本的に「西国三十三所図会」の堂塔配置、形式と同じものである。
   2006/03/20追加:
    「吉野全山古図の安禅寺多宝塔」:多宝塔として描かれる。
    「吉野全山古図の四方正面堂」:奥の院本堂と表現される。

2006/03/12追加:「金峯山寺史」:
延享3年(1746)「御朱印一山堂社間数分限恩改書」:
「奥の院蔵王堂 3丈8尺3寸四方、但5間5尺也。 多宝塔 1丈6尺四方、但2間3尺也」
蔵王堂・宝塔は真言方宝塔院支配、宝塔院は安禅寺住坊、多宝塔本尊は大日如来。

大和名所圖會、寛政3年(1791)刊:
 □
安禅寺宝塔院(部分図):
  本尊は蔵王権現、また役行者の遺像を安置す。
  ※下に掲載の「西国三十三所名所圖會」とほぼ同じ構図であるが、
  宝塔院は単に坊とされ、崖造のようには描かれないが、東西棟で北側に唐破風を付設するのは同一である。
  持仏堂の位置には宝形造ではなく入母屋造の堂が描かれる。

◇天保9年(1838):「大和巡日記」安田相郎(土佐藩士):
 「金精社は大峯一の行場、行者の仏体あり、・・・少し行くと奥の院茶屋があり、その少し下に奥の院本堂がある。本尊蔵王権現、愛染に安禅寺愛染院があり、・・目洗いの井、苔清水、四面正面堂焼失跡、西行庵へ 赴く。・・」

◇嘉永6年(1853)「西国三十三所名所圖會:巻之7」::2011/06/10画像入替

:飯高山安禅寺
安禅寺全図:左図は安禅寺部分部であるが、安禅寺全図を表示
  (2020/06/30画像入替)
挿絵の精度はかなり高いと思われる。
東方面からの俯瞰で、安禅寺主要伽藍である堂塔が並ぶ。右(北)より、手水、多宝塔、 本堂、持仏堂、宝塔院が配置され、さらに南(左)には奥の院が描かれる。

2011/06/10追加:多宝塔は石積基壇で正面(東)に石階を持つ。
本堂は南北棟の高床式の入母屋造(屋根は檜皮葺か)で西が正面と思われる。
持仏堂は高床式の宝形造(屋根は檜皮葺か)で東向き、1間の向拝を付設する。
宝塔院は東が崖造になり、東西棟の入母屋造(屋根は茅葺か)で、北向きで北に唐破風を付設する。

2005/02/24追加:
「西国三十三所図会」臨川書店、平成3年、原典:嘉永6年(1853)、暁鐘成編
 □飯高山安禅寺
金精の社を過ぎたところにあり、宝塔院と号す。
本堂高欄の葱宝珠に勒(ろく)して曰く 吉野山安禅寺蔵王堂。秀頼卿再建。慶長九申辰十月云々。
本尊 蔵王権現 長一丈二尺(3.6m)役行者作   左  役優婆塞遺像  右  大黒天神

持仏堂 本堂の右後ろにあり。愛染明王を安置。
多宝塔 本堂左の後ろにあり。
鐘楼  本堂より半町ばかり手前にあり。鐘楼の向こう鎮守の社の左後ろに茶屋一軒あり。ここは大峯登山の道である。右は安禅寺より西行の苔清水にいたる道筋である。左は大峯山上への道。ここより、大峯道は。女人禁制となる。峻険の難所で「行場」と いう地が多く見受けられる。各々この場所より大峯山へ行く行程は五里。また勝手の社よりこのところまでおよそ行程五十町。

◇江戸末期「吉野山名山図誌」

安禅寺本堂・愛染宝塔・坊舎:2011/06/10画像入替

2011/06/10追加:石積基壇の多宝塔、高床式入母屋造の本堂、崖造・入母屋造の坊舎(宝塔院)が描かれる。「西国三十三所図会」などとは違い、右から本堂・多宝塔と描かれるが、本堂は四方正面堂に降る道際に描かれ、これから判断すると、「西国三十三所図会」と同様に、北から多宝塔・本堂・宝塔院(僧坊)と配置されていたものと推定される。

◇吉野山ビジターセンター蔵絵図:年代は何れも不詳であるが、江戸後期のものと推定される。

金峰山寺図1(部分):吉野山ビジターセンター蔵

年代不詳、江戸後期のものと思われる。
2011/06/10追加:
安禅寺には金精大明神から登ったところに小宇(鐘楼か)、多宝塔・宝形造と思われる堂(持仏堂か)・高床式入母屋造の安禅寺本堂・無彩色の入母屋造の建物(宝塔院か)および奥の院(四方正面堂など)が描かれる。
なお蹴抜塔はなぜか二重に描かれる。

金峰山寺図2(部分):吉野山ビジターセンター蔵

古いものとも云われるが、実際は江戸期のものと思われる。(年代不詳)
2011/06/10追加:
東から俯瞰したもので、北から多宝塔、宝形造の堂(持仏堂)、蔵王堂、宝塔院、四方正面堂が描かれる。
なお本図も蹴抜塔はなぜか二重に描かれる。

金峰山寺図3(部分):吉野山ビジターセンター蔵

年代不詳、江戸後期のものと思われる。
2011/06/10追加:
本図の安禅寺は珍しく南もしくは西から俯瞰した構図となる。

以上のように近世にも、吉野山上には蔵王堂・多宝塔など多くの堂塔があったが、明治の神仏分離によって全て廃絶する。

安禅寺遺物・遺構

安禅寺奉納額:由来は未掌握であるが、文面から
文政8年、大坂三郷山上講が安禅寺本堂戸帳三流、蔵王権現戸帳三流、役行者戸帳一流を奉納した扁額と思われる。
左に明治2■(判読不明)年の年紀は額縁の作成年と思われる。
なおこの額は金峯山寺絵馬殿に掲げられる。
 ※大坂三郷とは一般的には以下の意味と思われる。
近世大坂の町は大坂町奉行支配のもとに北組、南組、天満組の三組に組織され、総称して大坂三郷と云われた。
北組・南組は現中央区の本町通を境とする南北で、天満組は北区の大阪天満宮を中心とする一帯をいう。
要するに近世の大坂の町全体を指す意味であろうか。
2012/03/29撮影:安禅寺本堂奉納額2

旧安禅寺本尊木造蔵王権現像:(重文)
旧安禅寺蔵王堂の本尊と云われ、現在は蔵王堂内陣廊下に安置される。(2005年現在は修理中、拝見不可)
像高4.3m。松材寄木造。鎌倉期の作とされる。

安禅寺愛染明王像

2004/02/07撮影:
蔵王堂右前(東)に愛染堂(方形造)・観音堂(入母屋造)がある。

愛染堂本尊愛染明王は安禅寺愛染堂の本尊と伝えられる。
安禅寺廃寺の後、蔵王堂に移され、昭和60年愛染堂本尊として遷座する。
愛染堂の前身は明和7年(1770)再興の経堂であり、その後護摩堂となっていたと云う。
2004/02/07撮影:
 旧安禅寺愛染明王1
   同        2:左図拡大図

2012/03/29撮影:
 吉野山愛染堂
 旧安禅寺愛染明王3
 旧安禅寺愛染明王4
2017/03/09撮影:
 旧安禅寺愛染明王4
 旧安禅寺愛染明王5

 

吉野山善福寺
旧安禅寺宝塔院護摩堂:(現善福寺本堂)
善福寺本堂(旧本堂は現在の庫裏)は明治25年に、廃寺となっていた安禅寺宝塔院護摩堂を移建したと伝える。
であるならば、おそらく安禅寺唯一の遺構と思われる。
善福寺は本尊薬師三尊、そのほか蔵王権現、役行者、弘法大師、聖観音などを祀るという。
現在は桜本坊向いの谷あいにある。創建は不詳。金峯山寺の衆徒としては表れない。江戸初頭に真言宗として創建されたものと考えられる。明治7年全山廃寺後、諸仏堂(旧道場院)守護は善福寺住職川勝教嶽に委任された。(明治16年まで)
2012/03/29撮影:
 吉野山善福寺山容     安禅寺宝塔院護摩堂2     安禅寺宝塔院護摩堂3

参考資料:安禅寺多宝塔擬宝珠
上述のように、明治維新で廃絶した安禅寺多宝塔は慶長9年の豊臣秀頼による再興塔であることは確かであろう。
「日本塔総鑑」では「安禅院多宝塔のギボシが今蔵王堂に残され、それに慶長5年甲辰11月豊臣秀頼建立の銘があるそうだが干支が合わない」との記載がある。
しかし、現段階では、残存すると云う多宝塔擬宝珠の所在の確認をすることが出来ない。

ところで、吉野山ビジターセンターには秀頼の寄進とされる「大橋」の擬宝珠が残存する。
  慶長9年大橋擬宝珠1   慶長9年大橋擬宝珠2 ・・・・・吉野山ビジターセンター蔵
 ※吉野山ビジターセンターでは、この擬宝珠は「多宝塔」ではなくて「大橋」のものと解説する。
 ※金峯山寺の寺僧はそのような擬宝珠の存在は知らないと云う。

幸いにして北野天神多宝塔擬宝珠は現存し、もし安禅寺多宝塔に擬宝珠が使われていたとすれば、両者の施主も建立の時代も同じこともあり、北野天神多宝塔擬宝珠と同じようものであったと推測される。
 ※北野多宝塔の擬宝珠は「奉宝塔」と刻されるが、この擬宝珠にはそれがなく「宝塔」の擬宝珠と断定はできない。
   → 北野天神
   → 北野天神多宝塔擬宝珠

現在のところ安禅寺多宝塔擬宝珠の所在を確認することは出来ないが、
上記の「日本塔総鑑」で云う多宝塔擬宝珠とはこの「大橋」の擬宝珠のことを云っているのではないだろうか。
もし、そうだとすれば、この擬宝珠には「慶長9年甲辰11月」(上掲載写真)とあり、慶長5年というのは単に錯誤ということになる。
 ※勿論、慶長9年の干支は甲辰である。
 ※「大橋」は七曲り坂を登りきった所にある辻のすぐ上手にあるが、現在は永久橋に造替され何の風情もない。
   (2012/03/29撮影:吉野山大橋:空堀に架けられたもので、現在はRC造。)

安禅寺跡

2011/06/10追加:
●「吉野町安禅寺跡測量調査報告」茂木雅博(「研究紀要 第9集」由良大和古代文化研究協会、2005 所収) より

平成16年安禅寺跡の測量調査を実施する。(発掘調査は伴わない。)
吉野山安禅寺跡概要
 吉野安禅寺跡概要図
北側に愛染宿茶屋跡・鐘楼跡の平坦地(茶屋跡は東西24m南北20mほど)、茶屋跡から凡そ100mほどの所に東西20m南北65m程の蔵王堂跡の平坦地、蔵王堂跡から更に約300mの所に四方正面堂跡がある。四方正面堂跡には方形土壇が残存する。

鐘楼跡・愛染宿茶屋跡
 鐘楼跡・愛染宿茶屋跡実測図
鐘楼跡は明確な平坦地を残すも、「西国三十三所名所圖會」に見る石垣基壇は全く確認できない。
 (「圖會」の石垣基壇の描写が不正確な可能性もあり。)
茶屋は、「西国三十三所名所圖會」では、この平坦地の北側にあったように描かれる。さらに東の切崩部分には鳥居・小祠が描かれ、また南側は空地のように描かれるが、この平坦地に符合する。

蔵王堂(本堂)跡
 安禅寺蔵王堂跡実測図
「伽藍紀」「和州巡覧記」の諸記録、「西国三十三所図会」「吉野山名山図誌」などの書圖會ではほぼ一致して、北から多宝塔・持仏堂・本堂(蔵王堂)・宝塔院が並ぶ様が記録・描かれる。
現在、蔵王堂跡平坦面には建物を推定させる遺構は一切地上には残らない。従って以上の古記徳・古絵図から伽藍跡を推定するしかない。
多宝塔は本図の北側の面(目洗い井戸の北)にあり、本堂は目洗い井戸の南東部分の東側(西向で正面は多少の空地があったものと推定される)に、本堂の西南山際に持仏堂が、宝塔院は平坦地の南端面にあったものと推定して大過はないであろう。
 ※目洗い井戸:蔵王堂跡平坦面に唯一遺存する遺構で、南北3,5m東西2m深さ0.8mの素掘り孔であり、目洗い井戸と呼ばれる。
なお平坦面B、C、Dの性格は不明である。
 安禅寺蔵王堂跡平坦地:密に植林され遺構は相当荒らされたものと推定される。

四方正面堂跡
 四方正面堂跡実測図
ここには四方正面堂跡基壇、石組み遺構、瓢型の池状窪みが残る。
基壇(土壇)は下段が一辺約12m上段が一辺8mで高さは約50cmを測る。
石組み遺構は基壇の西方11mの地点にあり、崖際にある。この遺構の性格は不明。
瓢型の池状窪みは基壇約8m東にあり、東西6m南北2m深さ40cmほどの大きさである。ただし、池であるのかどうかは不明である。
 安禅寺四方正面堂土壇

●安禅寺跡の現状
2004/02/07撮影:
 安禅寺愛染宿茶屋跡:この附近が愛染宿茶屋跡。左端に写るのが休憩所で茶屋はこの 休憩所を含む位置にあったと推定される。
 安禅寺鐘楼跡:写真中央の平坦地が安禅寺鐘楼跡である。
 安禅寺鐘楼跡2:写真中央左の平坦地が伝鐘楼跡。
 報恩大師碑:報恩大師は金峯山で修行したとされ、 安禅寺多宝塔は大師の創建と伝承する。
        なお報恩大師は備前・備中での事蹟が多く語られる → 「備前四十八ヶ寺」のページを参照
2005/05/29撮影:
 安禅寺愛染宿茶屋跡1:愛染宿茶屋跡前の空地であろう、右下には六角柱碑が写る。
    2011/06/10追加:
     ※六角柱碑は「西国三十三所図会」に記事があり、その内容から近世のものと知れる。
      記事は「苔清水の道志るべ石ハ鐘楼の下にあり 六角に造りて正面に西行古跡と記す・・・・」
  同     報恩大師碑
なお、附近の南方にはかなりの数の平坦地があり、安禅寺、奥の院(四方正面堂)などの堂宇のあったことが推定できる。
2012/03/29撮影:
 西行古跡石碑:六角石碑・寳塔院の文字が見える。
 安禅寺鐘楼跡     安禅寺多宝塔跡1     安禅寺多宝塔跡2
 安禅寺多宝塔跡3:鐘楼跡から多宝塔・蔵王堂を経て四方正面堂に至る道が植林に中に入るこの付近に多宝塔があったと思われる。
 安禅寺目洗い井戸:分かり難いが、この窪みが目洗い井戸であろう。
 安禅寺蔵王堂跡:多宝塔跡を含む広い平場に植林がなされ、この深い植林の中に蔵王堂跡が眼むる。
 安禅寺宝塔院跡:四方正面堂に至る道から蔵王堂のある平場を見上げる。おそらくはこの付近に宝塔院堂舎の崖造があったものと思われる。
 安禅寺四方正面堂1     安禅寺四方正面堂2     安禅寺四方正面堂3

西行庵
安禅寺跡からさらに南西方に下るか、金精明神を左に見て、暫く登ると左右に道が分岐するが、右の道をとりしばらく南に下ると苔清水に至る。 (分岐を左にとると、安禅寺鐘楼跡・愛染茶屋跡に至る。)
2012/03/29撮影:
 吉野山苔清水

 「和州巡覧記」貝原益軒、元禄5年
○西行の庵室
四方正面堂より、最北にあたる堂の後より路あり。山の岨(そば)を二町ほど行て下る。その間に小川あり。苔清水と云う。
庵室に西行が檜像あり。西行このところにての詠歌多し。このところに三年住けんとなん。人遠く閑寂なるところなり。
 「大和名所記 : 和州旧跡幽考」林宗甫、江戸中期:第十一巻 吉野郡
吉野山苔清水
   西行上人の庵室の跡とて草室にかの遺像をすえたり。
   西行桜は此の法師、此の山に三とせの間住いせし所なり、とかたりしかば、花ちりなばとよみしことのはも此所ならんかし。

金峰山寺図1(部分):吉野山ビジターセンター蔵:既出:本図上方に苔清水・西行庵がある。
金峰山寺図2(部分):吉野山ビジターセンター蔵:既出:本図左端に西行庵がある。
 ※西行法師は元鳥羽院北面の武士・佐藤義清で、23歳で出家、ここで3年間隠棲する。新古今和歌集に94首の歌あり。
2012/03/29撮影:
 吉野山西行庵跡1     吉野山西行庵跡2     吉野山西行庵内部1     吉野山西行庵内部2
 木造西行法師坐像:子守社蔵、西行庵に伝来と云う、天明5年(1785)銘。


石蔵寺塔、一乗寺塔、薬師院塔

金峯山には上記の塔婆の他、以下の塔婆が散見されるが、詳細は不詳。
承保3年(1076)白河天皇、石蔵寺に塔を造立、承暦3年(1079)塔供養供養。
天仁元年(1108)白河上皇、金峯山一乗寺塔建立。
応保元年(1161)後白河上皇、薬師院塔を御願とする。

2010/03/08追加:
「金峯山創草記」金峯山寺蔵、本文欄外に「弘安元年より寛文6年まで」「康和4より寛文12」とあり、寛文年中(1661-)の成立と推定される。
諸社諸堂勤事 中 に以下の塔の記事がある。
 大塔 ・・・・・ 長日供養法
 薬師堂 ・・・・・ 同塔 長日行法
 薬師院 ・・・・・ 同塔 長日行法、後白川院御願
 一乗寺 同塔 鳥羽院御願、長日行法、天承(永)3年壬辰10月25始之、治承元年、後白川院有職ニ口被置之、紀伊国小倉新庄
 石蔵寺 同院宝塔院 白川院御願、承保3年被立之、承暦3年(1079)12月26日供養、・・・・・、寛治6年(1092)御参詣之時、・・・・
  ※なお石蔵寺には観音堂、二月堂、常行堂、宝塔院が記載される。
 宝塔 報恩法師建立、千手観音并廿八部衆安置之、・・・・・

石蔵寺宝塔

2009/07/27追加:
石蔵寺および宝塔院については以下が知られる。
藤原道長(御堂関白記)、寛弘4年(1007)御嶽詣を発願、閏5月長斉(長い精進)を開始、8月2日金峯山に出立、9日金峯山に登山開始、安禪の宝塔で昼食、祇園で宿泊、10日に山上ヶ岳に詣で、午後には金照の坊で沐浴をする。11日、12日多くの行事・供養・布施を行い、金照の坊を宿舎とする。一度祇園に下る。12日は再び宝塔に登り、石蔵寺(金照の坊)へ行く。・・・・
 ※平安期には吉野山上が金嶺山の中心であり、就中別当金照の坊・石蔵寺が中心であったと分かる。
承保三年(1076)白川院(白河天皇)の発願で石蔵寺に塔を建立、承暦3年(1079)塔供養、紀伊小倉莊を寄進。(「金峯山創草記」)
その後寛治6年(1092)白河上皇、金峯山参詣、山下の宝塔で発病、隆明の加持で平癒と云う。
 ※石蔵寺に塔が建立され、宝塔院が営まれる。
平安末期には以下の堂塔が確認できると云う:
蔵王堂、礼堂、三昧堂、宝蔵、例時堂、三十八所、子守、護法の社、湯屋、金照の別当房金照の住房石蔵寺、祇園社、薬師院、東南院、吉水院奥坊常乗房、一乗寺(後に実城院の地)、金剛寿院、遍照金剛院、道円寺、大聖寺、弥勒寺、大福寺、千光院など 。
鎌倉期では以下の堂舎が確認できる。
山上伽藍、山下蔵王堂、延命院堂、弥勒堂、道円寺講堂、不動院、東南院、大聖寺、来迎院、金剛寿院、遍照金剛院、周遍寺、蓮台寺、千手院、禅定院、釈迦院、薬師堂、薬師堂塔、薬師院、薬師院塔、一乗寺、一乗寺塔、太福寺、吉水観音堂、獅子尾堂、石蔵寺観音堂(根本堂と称する) 、石蔵寺常行堂石蔵寺宝塔院、二鳥居大日寺、上宮子守社(水別社)、二鳥居金峰社、下宮勝手社、天満社、佐抛 (さなぎ)社、牛頭社など。
 ※中世には石蔵寺(吉野山頂近くの岩倉に立地)が吉野山の中心本堂とされ、観音堂(根本堂)、宝塔院、二月堂、常行堂などがあったことが知られる。その後時代が下るとともに、吉野山の中心は山下に移り、石蔵寺は近世初頭に廃絶と云う。

2009/07月、”石蔵寺跡とされる場所で塔の土壇と推定される遺構(平安後期のものと推定)を発見”と新聞報道がなされる。
◇新聞報道の概要は以下の通り。
場所は金峯山寺の南東約3キロの山中にある上岩倉遺跡(子守社<水別神社>から直線で南西約1km、高城山から西に直線で約1kmに岩倉の集落があり、ここが石蔵寺跡と思われる。)
遺構は奈良県立橿原考古学研究所などの測量調査で判明。
「地元で石蔵寺跡と伝わる山中を測量した結果、丘陵南斜面を大規模に造成した平地(東西約100m、南北約30m)があり、中央に一辺10m、高さ約50cmの土壇が確認された。11世紀後半〜12世紀前半の土器も見つかった。」
「文献史料では承保3年(1076)に白河天皇が石蔵寺宝塔院を建立したと記され、宝塔院跡の可能性が高いという。」
「確認された平地が標高600m近い山中の急峻な斜面を大規模に造成している。・・・
周辺には瓦が見つかっておらず、塔は檜皮葺き三重塔や五重塔ではないかという。」
付近には大小の平地があり、「宝塔院跡とされる上岩倉地区最大の平地は2070平方m、金照坊地区の平地も1200平方m以上と分かった。」
なおこのほど報告書が纏まったとの報道もあるが、現在この報告書は不詳。
 ◆吉野山石蔵寺宝塔院土壇:写真は橿原考古学研究所提供とある。
    写真説明:山中で確認された白河天皇建立とみられる塔の土壇(中央の高まった部分) とある。
   ※この土壇を宝塔院塔土壇とする根拠は、新聞記事だけでは不明確であるが、いわば状況証拠だけで、直接的な塔遺構や遺物が
    発見された訳ではないと思われる。

2011/06/10追加:
「山岳信仰の考古学的研究:吉野山南部遺跡群の測量・踏査報告等」代表・橋本裕行、奈良県立橿原考古学研究所、2009.3 より
 ※推定石蔵寺宝塔跡土壇写真は「X]氏ご提供写真

4年間に渡り(年次不詳)、吉野山南部遺跡群の測量・踏査が実施される。
その結果、吉野山南部地区では多くの遺構群が確認されるも、発掘調査を伴わないため、多くの遺構の性格は不明のままである。
 吉野山南部遺構群と遺構分布
上図の上岩倉地区には平場の面積が2070平方m(東西約80m、南北27-28m)ある吉野山屈指の平場であるが、これは上述の安禅寺蔵王堂跡遺構約1000平方mを凌駕する。 (上岩倉遺跡は2005年-2006年にかけて測量・踏査が行われる。)
 上岩倉遺構のこの平場は「トウヤシキ」との伝承があり、ほかの平場には見られない明瞭な方形の土壇を残す。
土壇は一辺10m高さは約80cmで表面には礫(基壇化粧か)が散布する。
おそらくこの土壇は規模・形状から塔の基壇の可能性が高いと判断される。であるならば、この遺構は記録に残る「石蔵寺宝塔」跡である可能性が高いと思われる。

上岩倉遺跡実測図:
 上岩倉遺跡実測図A・B
 上岩倉遺跡実測図C

2011/05/15「X」氏撮影画像
 推定石蔵寺宝塔跡土壇:左図拡大図

2012/03/29撮影:
 金照坊付近石仏:上掲「吉野山南部遺構群と遺構分布」中、丈之橋から金照坊西方地区に行く道があるが、その途中の「石仏」である。
 石蔵寺宝塔跡平場1     石蔵寺宝塔跡平場2     石蔵寺宝塔跡平場3     石蔵寺宝塔跡平場4:写真中央が推定塔土壇        
 石蔵寺宝塔跡平場5
 石蔵寺宝塔跡土壇1:上方より撮影、写真中央が推定塔土壇      石蔵寺宝塔跡土壇2     石蔵寺宝塔跡土壇3
 石蔵寺宝塔跡土壇4     石蔵寺宝塔跡土壇5     宝塔跡土壇上の礫:土壇上には礫が散乱するも、この性格は何であろうか。

この上岩倉遺跡は大きくA、B、Cの3群に分けられるが、Aの方形土壇を持つ平場1以外は、これ等の遺構が早くから廃絶しまた記録も欠くため、その性格は全く不明である。
しかしながら「山岳信仰の考古学的研究」ではB、Cの可能性について以下のように論及する。
 古記録では石蔵寺常行堂・観音堂の存在が知られるので、B、Cの平坦地はこれ等の遺構に比定できるかも知れない。
あるいは、当遺構の北方やや西に「金照坊」遺構(1200平方m)があるが、ここが「御堂関白記」で云う金照坊と云う確証はなく、今般の聞き取りで「トウヤシキ」の東の平場を「キンショウジ」と呼んだという言もあり、Bの平場8は金照坊であった可能性が出てきたわけであるが、それは今後の検討に委ねざるをえないであろう。

2012/04/14追加:
一乗寺宝塔

「金峯山寺史」より
一乗寺の所在地は不詳、「金峯山雑記」に天仁元年(1108)白河法皇が金峯山一乗寺に塔建立とある。
「金峯山草創記」の記述は既述の通り。
「当山年中行事」(室町期)に現れず、室町期までに退転と思われる。

2012/04/14追加:
薬師院・薬師堂

「金峯山寺史」より
創建不詳、「金峯山草創記」に「・・・薬師堂塔 長日行法」とあり、続けて「薬師院塔 長日行法 後白河院御願」とあるのは既述の通り。
「当山年中行事」(室町期)には薬師院の記載がある。室町期に退転したものと推定される。


2006/03/20追加:
天川弁才天多宝塔(天河弁才天社)

天川開山は役行者と伝える。また弘法大師が修行の行場としたとも伝える。
明治維新の神仏分離前までは、来迎院を始め諸堂宇が建ち並んでいたと思われるも、明治の神仏分離でほとんどが取り壊されたと云う。
役行者開基「来迎院」は、鳥居の前(西)方の山麓にあり、現存するようです。
このページの頭部分に掲載の
 和州金峯山山上山下并小篠等絵図:天理図書館所蔵:
  絵図の下・中央やや右に天川弁財天社があり、多宝塔が描かれる。
  多宝塔の中世の存在は不明であるが、近世には建立されていたものと思われる。
    (享保6年「坪内村記録」)、「大和志」<享保21年>
  延享4年(1747)の火災、明和5年(1768)の火災のいずれかに焼失し、その後は再興されなかったと推定される。
2006/03/26追加:
役行者が大峯開山の拠点したため、大峯本宮とも称する。弥山の弁財天を奥宮とし、口宮の当社を坪内弁天社と称する。
南北朝期社家18戸、僧坊3ヶ寺、供僧9ヶ院と伝える。
「大和志」<享保21年(1736)刊>:「正殿拝殿御厨所12小祠、・・・域内有寺号曰琵琶山白飯寺、妙音院、観音堂、地蔵堂、薬師堂、行者堂、護摩堂、二級宝塔 僧舎3宇曰理性院、曰神福寺、曰来迎院一名御所坊」
天正14年(1586)、慶安3年(1650)、延享4年(1747)に火災、明和5年(1768)の火災では僅かに観音堂・廊下・表鳥居のみを残し全焼。
明治の神仏分離で天河神社と改号。
来迎院は唯一の神宮寺として現存する。真言宗醍醐派。現堂舎は明治11年再建。
公報「てんかわ」2005年4月号に以下の記事があります。
 大日如来坐像:明治の神仏分離で多宝塔本尊を遷座。「延文元年<1356>覚忍」の在銘。室町期。
  像高45.0 総高136.0cm、篏眼・乾漆、寛保3年の調査書に安阿弥の作と記してある。
 千手観音立像:室町末、像高 158.40、脇士地蔵菩薩 69.30、多聞天王 70.95cm
  元観音堂(三間×四間、天正10年建立…寛保3年調査による)本尊仏である。
  本像背部刻銘によれば「京都森御殿末寺肥前資内山大乗坊院主大河内具良が自門の隆盛を願って、
  天正3年5月吉日の佳日を期して寄進したもの」とある。
2006/04/16追加:
「天河と能楽」より
弁財天(弁才天)は仏教成立以前のサラスパティー河の神格化と云われる。水に縁があることから河池の周辺に祀られる。後には、水のさざ波あるいは河の流れはささやき(妙音)とされ、音曲を司る仏としても祀られる。
古くから琵琶湖中の近江竹生島は弁財天の住すに適す場所とされ、また平安末期より瀬戸内の島である安芸宮島も弁財天が祀られ平家の信仰により普遍化していく。蓋し島與、川中、寺院中の園池中などに普遍的に弁財天が祀られる現象となる。
天川では役小角が大峯山で修行したとき、山上ヶ岳に第一に出現したのが弁財天であり、(第ニが蔵王権現)また空海の高野山開山前の大峯山修行では天川を拠点とし、それゆえにここ天川に琵琶山妙音院の伽藍が建立されたと云う。天川では弁才天は荒ぶる峻厳たる仏として祀られたようです。 (天川弁財天像、天河曼荼羅図参照)
「金光明最勝経」では弁財天は「山巌深嶮のところ、坎窟・河辺に住す」とされ、また「常に八臂を持ち自ら荘厳する。各々弓・箭・刀・矛・斧・長杵・鉄輪および羅索を持ち」と表現される。
「渓嵐拾葉集」所収の「弁財天縁起」:吉野天川地蔵弁財天は日本第1の弁財天、第2は厳島の妙音弁財天、
第3は竹生島観音弁財天とし、相模江ノ島弁財天、摂津箕面、肥前背振山弁財天を合せ六所弁財天と称する。
  天川弁財天像:「天河曼荼羅」より  天河曼荼羅図:「天河と能楽」より  大峯天川社:「大和名所圖會」より

2007/01/03追加:「奈良県史」:
社伝によると天武天皇の創建で、役行者が大峯開山の拠点としたので、大峯本宮と云う。また吉野熊野中宮・宗像神社とも称する。日本三弁財天の一つとされる。
南北朝当時、社家18戸、僧院3ヶ寺、供僧9ヶ院を数える。

2007/01/03追加:「天川村史」天川村、1981.11
応永35年(1428)大乗院門跡経覚僧正が天川詣でを実施。(吉野郡領主は一乗院門跡であり、吉野山検校であったが。)
寛正2年(1461)大乗院門跡尋尊僧正が天川に詣でる。
文明14年(1482)天川弁才天社の塔の落慶、導師は高野山平等院主。
天文23年、興福寺多聞院英俊の天川詣での所記:「天川開山は役行者、山号は琵琶山、寺号は白飯寺・・・・」
天正14年(1586)一山焼亡、翌15年大和大安寺川原で天川社梵鐘の鋳造が始まり、本尊の注文が京の仏師に出される。
 ※興福寺窪ノ弁才天は天川弁才天を勧請、山城浄瑠璃寺の弁才天は天川弁才天を感得し、浄瑠璃寺に納めるという。
享保6年(1722)坪内村記録:
天川弁才天社本社(3間四面三方廻廊)、御場所、拝殿、荒神社、行者堂、東之廊下、西之廊下、観音堂、地蔵堂、護摩堂、鐘楼堂、伊駄天社、聖天社、二重塔(3間四面)、薬師堂、大鳥居、二ノ鳥居、求聞堂(堂なし)、大師堂(堂なし)、小保古良(7所)、牛頭天皇社 右皆悉檜皮葺き・・・
 ※これ等堂塔は延享4年(1747)の火災、明和5年(1768)の火災で殆ど焼失したと思われる。
天川社の現本尊:社殿(寛政11年再建)の中間と右脇間に各1組の弁才天像および十五童子像がある。中間の中尊は天正15年の銘を有する。
 天川弁才天坐像(天正15年銘):「天川村史」より

2015/01/29追加:
◇大和天川村天河神社蔵「大般若経」(鎌倉前期書写)の巻392に「河州神感寺」の墨書がある。
 ※この大般若経については「大和中川寺跡」のページに黒田f義著「当尾と柳生の寺々:浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺 其他」から、
 以下の転載がある。
  「大般若経:
  大和吉野郡天川村天河神社(天川弁才天社)所蔵、今65巻を存する。各巻毎に書写識語が加えられ、それによれば、
  本経は建久9年に起筆し元久2年に終筆したものである。鎌倉末頃生駒郡生駒村伊古麻都比古神社の持経となり、
  南北朝期中頃から室町初期にいたるまで、中川寺にあり、後河内神感寺(所在未詳)に移ったことが知られる。」
   (所在不詳とある神感寺とは河内神感寺のことである。)
 2015/01/29追加:
 「河内神感寺跡の調査」佐藤虎雄、昭和39年(1961) より
 天川神社には巻数の分かるもの65巻、不明のもの3巻の大般若経断章が伝えられる。
 この巻の大部には奥書があり、元は大和平群郡生馬寺の持経であったと知れる。その内の392巻裏面には「河内神感寺」の墨書がある。
 生馬寺と神感寺は生駒山を挟んで東西に位置し、何等かの繋がりがあったのかも知れない。
 なお、生馬寺は往馬坐伊古麻都比古神社の神宮寺であったと考えられるが、詳細は分からない。


吉野山に現存する塔婆。

※吉野山では、現在、下記の3塔及び塔婆参考の建築が現存する。

 旧紀伊野上八幡宮(東南院)多宝塔

 如意輪寺多宝塔

 金峯山寺南朝妙法殿

 金峯山寺仏舎利宝殿(塔婆参考)


金峯山に於ける神仏分離

「金峯寺」首藤善樹、金峯寺、昭和60年 などによる:
慶応4年から神仏分離の諸令が発布。
明治元年閏4月:由来書提出の沙汰。
同5月:持明院・教学院のもと蔵王権現の由来と復飾の免除などの口上書を弁事務所に提出。
同6月:蔵王権現を神号に改めること、一山復飾すべきことの通達が出る。
同7月:寺僧・満堂両派は天台・真言を兼学し、両宗互いに加行・灌頂を行うことを決議。両宗兼学の場合の席次は以下のとおりとした。即ち
一搴g水院、二搓本坊、三搖蔵院、四摯塔院、吉祥院、延命院、教学院、持明院、東南院、竹林院、持福院、小松院、民部卿、宝持院、新三位、阪中坊、右中弁、智性房、大進、覚明坊、式部卿、快信房、弘賢房、諄興房であった。
つまり明治元年に存続していた院坊は僅かに、以上に減じていたということになる。
同年7月:下命により、八王子社(鷲尾神社)、牛頭天王(躑躅岡神社)、金精大明神(二ノ鳥居神社)を改号、その他の処置を届け出、同時に蔵王権現の改号と復飾については猶予を願うも却下される。
同年9月:蔵王権現の改号、寺院の復飾、実城寺・吉水院・蜜乗院・桜本坊・喜蔵院・東南院・竹林院・持福院・小松院・南之坊・角之坊8院坊は維持する方針を固める。
が、すぐさま蔵王権現は仏体・仏号であることを貫く方針に一山は方針を転換。
同10月:総代竹林院・東南院は蔵王権現は仏像であることおよび復飾するいわれの無い旨を弁事務所・奈良府役所へ
出願する。
それに対し、神祇官は蔵王権現が仏体であることは不都合、もし仏体であるならば取除くこと、山内に地主神社(金精大明神)があり本来神地である、の意見を出す。
明治2年;一山は様々な運動を展開するも、事態は好転せず。
明治4年正月:上地令により山地などが取り上げられる。
明治5年9月:修験宗禁止、本山派・当山派・羽黒修験は天台・真言に帰属する旨が下命される。
明治6年1月:教部省より「白鳳以前に復古致し、地主神金精明神を以て本社と定め、金ノ峯ノ神社と称うべし。尤も蔵王堂並びに仏具仏体等、悉く皆、取除き致すべき事。但し、社僧・修験は望みに任すべき事」の指令がでる。
同6月:奈良県は教部省に対し、蔵王堂は金峯神社と1里離れ、区画は判然としている故に仏閣のままとし、寺僧も差し置く旨を上申するも、聞き届けは叶わず。但し蔵王堂取壊しの件は取り消しとなる。
明治7年:遂に奈良県は「金峯山内金峯奥ノ宮、口ノ宮と称すこと、仏像は信者の望みに任せ・・・、一山僧侶は復飾に相任せ候・・・」との通達を出す。
ここに蔵王堂は金峯神社の口ノ宮、山上は奥ノ宮となり、僧侶は悉く復飾す。
同8月:奈良県の検分、蔵王堂の永年の禁忌であった内々陣の開扉を実施、
蔵王堂本尊は巨大なため動かすことが出来ず、本尊前に幕を張り、鏡(神体)を置く。
一山の仏像は蜜蔵院に集められ諸仏堂とされた。
山上蔵王堂も龍穴と蔵王権現像は残され、その前に鏡が懸けられる。その間、小笹の本堂はお花畑に行者堂として移し、吉野善福寺、洞川龍泉寺が監守した。
しかしながら蔵王堂が神社と化した後、多くの堂舎が棄却され、連日のように仏像・仏器などが焼却された云う。
その後、政府の宗教政策の宥和があり、吉野一山の嘆願もあり、
明治12年:東南院、同13年:竹林院・桜本坊が天台寺院に復帰。
明治18年:総代5名、桜本坊、竹林院、東南院、善福寺、如意輪寺、長泉寺などが連署し蔵王堂復旧の嘆願をなす。
明治19年:大阪府知事から蔵王堂の復旧が許可される。
明治21年:喜蔵院も復帰(聖護院末)。
明治22年:金峯山寺の称号に復帰。

要するに蔵王権現は仏体であり、金峯山寺付属の社を本社にするなどは無理であったということであろう。

2006/03/12追加:「金峯山寺史」:
【衆徒の復飾】:明治7年9月、竹林院、南之坊、蓮蔵院、喜蔵院、櫻本坊、東南院、小松院、十方院、密場院、持福院、角之坊の11院が止むを得ず復飾、寺号廃止。
【堂宇等の売却】:明治7年10月、本社と強弁した金峰神社は小社でなおかつ大破しているため、造替費用捻出を理由とし、堂宇及び仏具等の売却願いが出される。
金峰神社神殿・拝殿造営費のため奥之院、水分神社、蔵王堂、勝福寺の梵鐘、仏具類、坂中坊のたてもの売却。
金峰神社神官詰所として、持明院建物の移設。
山下蔵王権現像、仁王門仁王像の取り片付け費用として、実城寺建物の売却。
勝福寺・薬師寺の石仏・石塔取り片付け費用のため、勝福寺・薬師寺建物の売却。
奥之院本堂の仏像取り片付け費用として、奥之院宝塔院・持仏堂建物の売却。
 ※丈六堂勝福寺:一の蔵王ともいわれ、吉野山登り口の丈六山にあった。創建は不詳。室町期には存在が確認される。
寛文5年「丈六堂三間四面但し仮堂」、宝暦12年「丈六山蔵王堂五間四面」、明治3年「勝福寺 無住」、明治7年上術のように梵鐘及び多くの石仏・石塔取払いの入用金のため、勝福寺・薬師寺建物が売却され、廃寺。
明治22年内務省告示でこの地に官幣中社吉野宮を創建、同25年社殿竣工、吉水院から後醍醐天皇像を遷座、同34年官幣大社、大正7年吉野神宮となる。どうやら明治維新の神仏分離から国家神道へと傾斜する絵にかいたような例と思われる。
 ※長峯薬師堂:峯の薬師・峯ノ坊・薬師寺。寛文5年「薬師堂三間四面茅葺 但し仮堂」、明治3年「勝福寺 無住」、明治7年廃寺となる事情は上述。山下蔵王堂安置の薬師如来は峯の薬師堂安置仏と言われる。
【護摩堂】;ニ天門跡階段下西脇にあった。明治の神仏分離で退転と思われる。
【千躰地蔵堂】:護摩堂南隣にあった。明治の神仏分離で退転と思われる。
【諸仏堂】:現在の桜本坊の位置にあった。明治7年密場院を廃し、諸仏堂と改称し、密場院の灌頂堂・高祖堂・聖天堂に百数十体の仏像が集められた。明治13年櫻本坊が寺院に復する時、諸仏堂が境内となった。その後、東南院、竹林院、桜本坊が寺院に復するとともに各寺に仏像が戻された。


金峯山一山の歴史概要

「金峯山寺史」首藤善樹、金峯寺、2004年:2006/03/20参照記事抜粋要約
「金峯寺」首藤善樹、金峯寺、昭和60年 などより:
金峯山とは山上ヶ岳(大峯山)から吉野山の総称を云う。
古代の金峯山は役行者(役小角)との伝説と蔵王権現の湧出などの伝承で語られ、確かなことは分からないが、古くから霊山とされていた。
白鳳期・奈良期には政争の中で登場する。また奈良期には広達(日本霊異記・今昔物語)、報恩大師(金峯山二鳥居にあった宝塔は報恩の建立という「金峯山草創記」)、 また空海(弘法大師自著)などが修行したとされる。
なお平安期には理源大師聖宝が大峯山で修行し、金峯山で造堂・造仏をおこなった(「聖宝僧正伝」)と伝えるが、これは考古学的にも整合すると云う。
以上、一般的には大峯山の開基は役行者とし、中興は聖宝とされ、これは金峯修験の根源をなす。

昌泰3年(900)、延喜5年(905)宇多法皇金峯参詣。
寛弘4年(1007)藤原道長参詣。岩清水八幡・内記堂→大安寺→井外堂→軽寺→壷阪寺→観覚寺・現光寺の経路で登山したとされる。また道長は山上蔵王の前に自ら写経した「金泥法華経1巻」「弥勒経3巻」「阿弥陀経」などを奉納した。(「御堂関白記」)この経巻は元禄4年(1691)山上本堂再建の造作で経筒(ともに国宝)とともに出土し現存する。
一方、天台寺門派(園城寺・聖護院)では智証大師円珍が役行者の足跡を慕い、大峯・葛城・熊野三山を跋渉する。
それらの影響で、
寛治6年(1092)寺門派隆明は白河上皇の金峯詣に同行。この例のように寺門派の影響も及ぶが、寺門派は主として熊野三山での地歩を固める。
そのほか、西行は平安末期愛染の近くに庵を結ぶと伝える。
承保3年(1076)白河天皇石蔵寺に塔を造立、承暦3年塔供養。寛治6年(1092)金峯山参詣、山下の宝塔で発病、隆明の加持で平癒。天仁元年(1108)金峯山一乗寺塔建立。
寛治2年(1088)、寛治4年藤原師通金峯山に参詣。
寛治2年、康和5年(1103)、嘉承元年(1106)源雅実参詣。
久安2年(1146)鳥羽法皇御願寺獅子尾堂建立、金剛寿院を御願寺とし、その後道円寺を建立。
応保元年(1161)後白河上皇薬師院塔を御願とする、など々皇族・上流貴族の信仰の篤いものがあった。

平安末期の確認できる堂塔:蔵王堂、礼堂、三昧堂、宝蔵、例時堂、三十八所、子守、護法の社、湯屋、金照の別当房、金照の住房石蔵寺、祇園社、薬師院、東南院、吉水院奥坊常乗房、一乗寺(後に実城院の地)、金剛寿院、遍照金剛院、道円寺、大聖寺、弥勒寺、大福寺、千光院などがある 。
また、この頃の一山組織は検校(おおむね南都興福寺の僧)、僧綱、三綱、執行などを中心として学侶(寺僧)、供僧、堂衆、行人(満堂)などで構成され、政治・経済的にも権門を構成していったようです。
中世初頭から金峯山も武力を持ち、源平の争乱では源義経が一時吉野山に潜入したとされる。
承元2年(1208)金峰山衆徒はささいな争いから多武峰を焼き討ちする。多武峰200余坊その他堂宇が焼亡したという。
また高野山とも領有問題で永く対立したなど、衆徒は度々武力を用いると伝える。

鎌倉期の堂舎では山上伽藍、山下蔵王堂、延命院堂、弥勒堂、道円寺講堂、不動院、東南院、大聖寺、来迎院、金剛寿院、遍照金剛院、周遍寺、蓮台寺、千手院、禅定院、釈迦院、薬師堂、薬師堂塔、薬師院、薬師院塔、一乗寺、一乗寺塔、太福寺、吉水観音堂、獅子尾堂、石蔵寺観音堂(根本堂と称する)石蔵寺常行堂、石蔵寺宝塔院、二鳥居大日寺、上宮子守社(水別社)、二鳥居金峰社、下宮勝手社、天満社、佐抛 (さなぎ)社、牛頭社などの寺社が文献に見え、盛んに法会が行われていた。
勿論、中心は惣堂の蔵王堂であり、下宮上宮が核で、石蔵寺(根本の地・執行の住坊)あたりまで堂塔坊舎が散在していた。
南北朝期では大塔宮が愛染の宝塔を中心に城郭を構え蜂起し、ついで後醍醐天皇が吉野山に潜幸し吉水院ついで実城寺(金輪王院と改号)を安在所とする。
如意輪寺には後醍醐天皇からの拝領と伝える木造蔵王権現像と厨子が伝わる。
正平2年(1347)後村上天皇代に高師直の大軍が攻め寄せ蔵王堂など炎上したと伝える。
この頃の蔵王堂付近の伽藍配置は蔵王堂南の庭を囲む72間の廻廊があり、廻廊南に中門、廻廊内東に救世観音堂、経蔵、外の西に大塔、威徳天満宮、阿弥陀堂、蔵王堂西に鐘楼、北に食堂があったとされる。
また戦国末期の山上には36坊があったと伝える。即ち
上宝蔵院、浄明院、橋本坊、惣持院、藤尾寺、菩提院、東南院、上浄土寺、妙法寺、不動寺、上辰之尾寺、中院、下宝蔵院、上吉水院、吉峯坊、小鳥院、新中院、下吉水坊、光明院、妙覚寺、下浄土寺、持明院、少山坊、西牛頭坊、東室院、岩本院、薬師院、南院、下辰之尾坊、一鳥院、清水寺、東院、大門坊、往生院、小松坊、中光院であった。
ところで、中世の後半になると吉野山麓には本願寺の教線(飯貝本善寺、下市願行寺など)が伸び、金峯山寺は門徒との武力衝突を繰り返すとされる。天文3年(1534)には門徒により山上36坊が断滅したと 云う。「金峯山古今雑記」
36坊のうち復興され江戸期に残ったのは6坊とされる。
天正14年(1587)蔵王堂、塔などが焼失。天正16年蔵王堂供養。「多聞院日記」これが現在の蔵王堂とされる。
文禄3年(1594)豊臣秀吉の吉野花見。
文禄4年秀吉から、金峯山寺に総高1,013石(うち造営料500石、寺僧・満堂料500石)の朱印が与えられる。
2006/03/12追加:「金峯山寺史」:文禄4年の寺領配当に与った院坊は以下のとおり
衆徒(寺僧)は吉水院、新熊野、大福院、知足院、新蔵院、東南院、実相院、妙覚院、実城寺、道光寺、宝蔵院、十方院、成就院、宝生院、吉祥院、新住院、勝光院、蓮蔵院、宝積院、福寿院、持福院の21院
満堂は福島坊、岸室坊、上室坊、桂坊、池之坊、南室坊、福井坊、坂中坊、竹林院、桜本坊、角之坊、宝泉坊、福坊、岩屋坊、宗春坊、舜仙坊、仙春坊、中将、宗学坊、長舜坊、祐春坊、長賢坊、宗識坊、学春坊、長学坊、春学坊、学舜坊の27坊
勝手神社社僧の松室坊、宝積坊、上坊、喜久坊、西坊、岩本坊、舜正坊、仙順坊、教学坊、仙教坊、賢正坊、玄知坊、良円坊、蔵観坊、杉坊の16坊
子守社僧の中家坊、蔵坊、宝持坊、松坊、柳坊、式部卿、良源坊、舜学坊、行識坊、乗願坊、舜良坊、行順坊、乗識坊の13坊合計77院坊であった。
その外、客僧として善福寺、即印房、大日寺、長泉寺、如意輪寺などが存在した。

江戸幕府成立後は、金峯山寺は天海あるいは日光輪王寺門跡の支配下に入ると云われる。

江戸期に入ると、一山の運営は学頭、寺僧、満堂、社僧、神主、禰宜の序列で行われ、寺僧は学侶・天台僧といい、満堂は堂衆・真言僧をいい、 別途神社の管理にあたった社僧も真言僧であった。
この寺僧(天台)と満堂・社僧(真言)は宗派が違い、また権益も違うため相争う。
寛文11年寺社奉行の調停の下知があり、一山は請状を出す。
この時の請状に連署した寺院は以下のとおり。
寺僧惣代吉水院、勝光院、真珠院、蓮蔵院、満堂惣代久保坊、南之坊、前の坊、
寺僧は松智院、教学院、成就院、西蔵院、持福院、妙覚院、宝蔵院、智足院、勝光院、吉祥院、喜蔵院、新熊野院、東南院、春福院、道光寺、宝積院、実相院、新蔵院、福寿院、実城寺、
満堂は福島院、桜本坊、竹林院、岩屋院、宝泉院、池之坊、杉本坊、梅之坊、滝本坊、岸之坊、桂坊、文殊院、勝福寺、宝境院、多聞院、坂中坊、角之坊、宝持坊、岩之坊、小坂坊、光蔵院、
社僧は高室院、岩本院、松之坊、西之坊、新坊、蔵之坊、中室院、観音院、中山坊、土屋坊、下観音寺、松室坊、福本坊、藤之坊、奥之坊などであっ た。
また当時の伽藍は寛文5年(1665)の「伽藍記」によれば、一之牛玉、丈六堂(仮堂)、薬師堂(仮堂)、大橋、金鳥居、仁王門、蔵王堂、食堂(退転)、天神(檜皮葺・鳥居・瑞垣、拝殿・外廊退転)、木本弁財天大塔(二重、退転)、二天門(礎あり)、観音堂、護摩堂、金堂(退転)、鐘楼堂(仮堂)、講堂(退転)、勝手御供所、弁財天女、佐抛社(御拝・瑞垣・鳥居、幣殿・拝殿退転)、勝手宮(大宮殿・若宮殿・御拝・瑞)、同拝殿、同幣殿、同楼門、同東経蔵、同西勧進所、末社・・・・、如意輪寺(仮堂)、天王橋、天王社、雨師竜王(仮殿)、雨師観音堂、大将軍社、世尊寺(仮堂)、鷲尾鐘楼堂(仮堂)、子守宮御供所、穀屋、八王子(退転、御拝・瑞垣・鳥居)、同幣殿(退転)、同拝殿(退転)、子守宮(大宮殿・若宮殿、御拝、瑞垣、鳥居)、三十八所(御拝・瑞垣・鳥居)、子守宮幣殿、同拝殿、城橋(なし)、牛頭宮(幣殿・拝殿退転)、金精大明神(御拝・瑞垣、幣殿・拝殿退転)、隠家塔(三重、今は一重)安禅宝塔(二重、栃葺)、奥院蔵王堂、同四方正面堂、山上蔵王堂、統覚門、妙覚門、一ノ牛玉(宮)、子守・三十八所(仮御殿)、下山伏拝(宮)、白山弁財天女、経檀(宮)、出蔵王(宮)が記載されている。
その他多くの住坊などの存在も知られる。
山上本堂についてはその気象条件などで、江戸期を通じ、度々造営・修理が継続して行われたと云う。
現山上本堂(重文)は基本的に元禄年中の造営とされ、度々寄進追加及び信徒の絶え間ない寄進・修理が積み重ねられて今日に至った建築とされる。
なお山上蔵王堂は色々な経緯を経て、現在は金峯山から独立し、大峯山寺として別立する。

金峯山一山のその他の概要

【下吉野遠望】

2004/02/07撮影:
 蔵王堂遠望(左図拡大図)

2005/05/29撮影:
 吉野蔵王堂遠望1       同        2

2012/03/29撮影:
 蔵王堂・東南院1     蔵王堂・東南院2:下方に東南院
 南朝妙法殿・仏舎利宝殿1
 南朝妙法殿・仏舎利宝殿1
 桜本坊・善福寺・喜蔵院:左・中央・右

 吉野山を山下から順次見ていくと、以下のような概要である。

【丈六山、長峯薬師】
「大和名所記 : 和州旧跡幽考」林宗甫、江戸中期:
四手掛より並木桜つゞきて、長岑を経て、丈六山一の蔵王堂、又長岑の薬師堂あり。
 ※丈六山、長峯薬師については神仏分離の項を参照。
 ※上掲の「和州金峯山山上山下并小篠等絵図」の解説を参照。

【四手掛(幣掛)明神】:七曲直下にある。
2012/03/29撮影:吉野山幣掛明神     吉野山幣掛行者堂

【黒門】
2012/03/29撮影:吉野山黒門
2017/03/09撮影:吉野山黒門2

【弘願寺】来迎山、高野山真言宗。なお★僧院僧坊の【上之坊・弘願寺】の項を参照。
本尊阿弥陀如来立像は後世の補修があるが、鎌倉期の「像立願文」と室町期の「修理願文」が発見されたと云う。
「像立願文」大意:「僧重信臨終の時に阿弥陀如来の極楽浄土へ往生することを願い、正元2(1260)年3月6日造立をはじめ、6月末に完成して自坊に迎えた・・・、仏師は弁貫」。
「修理願文」大意:「阿弥陀如来は、大和眉間寺新堂の本尊である。文明2(1470)年5月17日の朝からの大雨で、翌18日の朝に後山が崩落、新堂、宝蔵院が倒壊。しかるに方丈は少しも損なわれず。阿弥陀如来も破損、急いで修理を依頼し、仏師春賀丸により、5月29日に修理完了」。仏師春賀丸は大仏師康慶の流れをくむとされる。
 ※阿弥陀如来の伝来の時期、理由は不明なるも、明治初年に眉間寺が廃寺となったころ、弘願寺に遷座された可能性が高いと云われる。
「大乗院寺社雑寺記」:「近頃大雨、方々の山が崩れ、眉間寺長老坊が倒壊、僧が一人死亡」とあると云う。
2012/03/29撮影:吉野山弘願寺山門
            吉野山弘願寺関屋地藏:明治初年まで関屋(大橋と銅鳥居の間にあり)にあり、永正15年(1515)の年紀がある。
2017/03/09撮影:吉野山弘願寺山門2

【銅鳥居】:(重文・室町期と推定)
2012/03/29撮影:吉野山銅鳥居     吉野銅鳥居行者堂
2017/03/09撮影:吉野山銅鳥居2     吉野山銅鳥居3

【仁王門】
(国宝・三間一戸、重層入母屋造、本瓦葺)鎌倉期に建立、室町期に大修理が加えられる。
2004/02/07撮影:仁 王 門
2012/03/29撮影:吉野山仁王門1     吉野山仁王門2     吉野山仁王門3     吉野山仁王門4
            吉野山仁王門5     吉野山仁王門6     吉野山仁王門7

【金峯山寺本堂蔵王堂】
(国宝・7間×8間重層入母屋造檜皮葺きの大建築である。)
数度の焼失・復興を繰り返し、現蔵王堂は天正20年(1592)再興堂。
本尊は3体の蔵王権現(中尊7.28m、右権現6.15m、左権現5.92mの巨像という)、重文。
「金峯山寺古今雑記」吉野本堂尊像之事:蔵王権現仏師は、南都仏生寺了覚、宗印という、如意輪寺蔵王を模す」とされる。
 ※蔵王堂裏(北)に平成12年本地堂(中尊本地釈迦、右本地千手観音、左本地弥勒菩薩)が建立される。
2004/02/07撮影:
 金峯山寺蔵王堂1   同     2   同     3   同     4   同     5   同     7   同     8
また 堂内には
上述した旧安禅寺本尊木造蔵王権現像(重文) 、旧世尊寺本尊・釈迦如来像、旧世尊寺聖徳太子十六歳教養像(重文)、金峯山寺経堂伝普建・普成像(重文)、役行者・前鬼・後鬼像、持国天、増長天などの客仏及び渡海船大絵馬(重文)などの什宝が安置される。
2007/08/30追加:
「日本勝景写真帖」東京:大蔵省印刷局、明治12年 より
 明治初頭の蔵王堂
2012/03/29撮影:
 吉野山蔵王堂11     吉野山蔵王堂12     吉野山蔵王堂13     吉野山蔵王堂14     吉野山蔵王堂15
 吉野山蔵王堂16     吉野山蔵王堂17     吉野山蔵王堂18     吉野山蔵王堂19     吉野山蔵王堂20
 吉野山蔵王堂21     吉野山蔵王堂22     吉野山蔵王堂23     吉野山蔵王堂24
2017/03/09撮影:
 吉野山蔵王堂31     吉野山蔵王堂32     吉野山蔵王堂33     吉野山蔵王堂34     吉野山蔵王堂35
 吉野山蔵王堂36     吉野山蔵王堂37     吉野山蔵王堂38     吉野山蔵王堂39     吉野山蔵王堂40
 吉野山蔵王堂41     吉野山蔵王堂42     吉野山蔵王堂43

【銅灯籠】:(重文・蔵王堂前)
2012/03/29撮影:吉野山銅燈籠

【威徳天神】
○「大和名所記 : 和州旧跡幽考」林宗甫、江戸中期:
 ※威徳天神の社
威徳天神は菅丞相の霊なり。日蔵上人、社をたてゝうつし奉つられき。抑、当社の濫觴は、日蔵上人、天慶四年八月一日金峯山の岩屋にして頓死せられしが、威徳太政天の臨幸にあい奉つり、神勅にしたがいて、かの御住所にぞいたられける。種々の神語ありての後、汝本国に帰りてあまねく流布せよ、もし人、我が像をつくり、我が名を唱えて、慇懃に尊重せば、我かならず擁護せずはあらじ。上人、金峯山に帰りて、蔵王權現にありし事ども語り奉つらる。爰に満徳天いまして上人につげらるゝ、かの太政天は、十六万八千の眷屬あり、かれらが毒害、はなはだしきは天下の善神もそれをとゞめ得ず。と神語ましましき。くわしくは釈書に見えたり。是れよりして此の社を建立せられけるとなり。天慶四年より延寶七年まで凡そ七百卅九年か。
○天徳3年(959)日蔵上人によって祀られると伝える。社殿は桃山期の様式を伝え、豊臣秀頼の改修と思われる。
2012/03/29撮影:吉野山威徳天神1    吉野山威徳天神2    吉野山威徳天神3    吉野山威徳天神4    吉野山威徳天神5

【実城寺】
「大和名所記 : 和州旧跡幽考」林宗甫、江戸中期:蔵王堂より西に実城寺あり。
実城寺又は金輪寺ともいう。後醍醐天皇の皇居にさだめられ、此の御代にこそ北京と南朝とわかたれて、年号なども別にぞ侍る。爰にして新葉和歌集などをえらび給い、又天皇、御手づから茶入れ十二をきざませ給う。或いは廿一ともいう。そのかたち薬器にひとし。世に金輪寺と言うこれなり。漆器と言いながら勅作にて侍れば、盆にのせ、金輪寺あひしらひとて、茶湯前もありとかや。
江戸期吉野山は興福寺の支配を離れ、天海の支配に入る。天海は金峯山寺の支配に辺り比叡山豪俔を学頭に任命し、豪俔が実城寺を再興した。以来天台宗の筆頭となる。
明治7年廃寺、同7年金峯神社造営のため、梵鐘を売却、無住実城寺は蔵王堂・仁王門仏像取り片付けの手当金のため売却、明治8年金150円で六田村の個人に売却されたと云う。
2012/03/29撮影:実城寺跡現本坊1     実城寺跡現本坊2

【観音堂】
観音堂本尊は十一面観音像(南北朝期)、阿難尊者、迦葉尊者もあわせて祀られる。
2006/03/12追加:「金峯山寺史」:
現在の堂は桃山期のものと思われ、全てにわたり古材を転用したもので、大堂の余材で建立されているものと推定される。だとすると、蔵王堂もしくは大塔古材の転用の可能性もある。
阿難尊者、迦葉尊者(南北朝期)は吉野山世尊寺安置のものと伝える。
「吉野山伽藍記」(寛文5年)では「3間四面、1丈9尺5寸、6尺5寸間、但し杮葺」とある。(現在は桟瓦葺)また、天台方支配であった。
2004/02/07撮影:愛染堂(方形造)・観音堂(入母屋造)
2012/03/29撮影:吉野山観音堂
2017/03/09撮影:観音堂本尊十一面観音立像

【愛染堂】
 → 安禅寺愛染明王

【二天門跡】

【東南院】
 → 東南院

旧吉水院】(書院が重文)
本居宣長「菅笠日記」、「金峯山寺史」など多くの著述では大塔相輪(伏鉢)が旧吉水院に伝えられているとするが、確認することが出来ない。
 → 吉野山大塔の項を参照
吉水院は中世・近世を通じ、吉野山で高い寺各と権勢を誇る。
明治7年一山廃寺の過程で、吉水院の号を廃し、神官詰所と称し金峰神社支配とすることを願い出る。
明治8年後醍醐天皇の由緒を持って、吉水神宮とする願書を提出、吉水神社とする認可を得る。
2012/03/29撮影:吉野山吉水院山門     吉野山吉水院書院     吉野山吉水院境界石:吉水院の名称が残る。
2017/03/09撮影:吉野山吉水院山門1     吉野山吉水院山門2
 吉野山吉水院書院1    吉野山吉水院書院2    吉野山吉水院書院3    吉野山吉水院書院4    吉野山吉水院書院5
 吉野山吉水院役行者像

【佐抛社】
明治の神仏分離で退転、勝手宮に合祀。
2006/03/20追加:吉野全山古図の南院谷多宝塔1:佐抛社が描かれる。(多宝塔は大日寺)

【勝手宮】
(平成12年社殿を焼失して、今更地と思われる。)
2006/03/20追加:吉野全山古図の南院谷多宝塔2:勝手社が描かれている。(多宝塔は大日寺)
2012/03/29撮影:勝手宮社檀     勝手宮正面:未だに立入禁止である。

【大日寺】
 → 大日寺宝塔

【善福寺】
 → 善福寺

【喜蔵院】
(寺僧方、江戸期より本山派大先達を兼職、聖護院門跡末。明治7年廃寺、住持信覚は復飾して宮城姓に改名、金峰神社神官となる。
明治19年喜蔵院復寺願いを提出するも、小松院とともに不許可。当事者が神官であったことが理由と思われる。
明治21年再度の復旧願が承認され、復旧が成る。)
2012/03/29撮影:吉野山喜蔵院山門     吉野山喜蔵院玄関     吉野山喜蔵院客殿?     吉野山喜蔵院本堂?

【桜本坊】
(山門、本堂、聖天堂、諸仏堂、大師堂、千躰地蔵堂、庫裏などを有す、もとの密乗院跡、本尊木造彩色役行者像・重文・鎌倉、及び諸仏堂として一山廃寺の什宝が集まったため、木造彩色地蔵菩薩座像・藤原・重文、銅造鍍金釈迦如来椅像・白鳳・重文などの什宝を有する 。
灯篭の辻を西に入った奥にあった。満堂方。明治7年廃寺、明治13年復寺、旧桜本坊は既に西本願寺説教所となっていたため、諸仏堂[旧密場院]を廃堂して復寺する。
旧桜本坊の土地・建物は明治12年から昭和前期にかけて本願寺説教所であった。昭和8年当時秀逸な書院が残存していた。その後腐朽し、終戦前後に解体搬出されたという。門は現在の本坊に移築と云う。)
「大和名所記 : 和州旧跡幽考」林宗甫、江戸中期:
吉水院の西に行きて右の方に、五臺寺、又桜本とて当山の先達大峯修行の宿坊あり。
 吉野全山古図の桜本坊:2006/03/20追加
2012/03/29撮影:吉野山桜本坊仁王門     吉野山桜本坊本堂     吉野山桜本坊堂宇
 吉野山桜本坊大師堂      吉野山桜本坊客殿
 ※「吉野 : その歴史と伝承」宮坂敏和、名著出版、1990 では 安禅寺宝塔院門は桜本坊に移築というも、不詳。

【竹林院】
(室町期に椿山寺から改号、旧世尊寺木造彩色聖徳太子座像を有する)
椿谷椿山寺(竹林院の前身)
椿山寺は日蔵上人の修行の地なり。上人は宮古の人、年十二にしてかざりをおろし、名づけて道賢法師という。其の時延喜十六年二月なり。それよりして塩穀を絶っして六年の精修を経られたり。其の時母君の病のおもきをほのきゝて、とわずはえあるまじとて故郷にのぼり、東寺にして密教をならい(釈書)、其の後芳野山に更に入りて笙窟(しょうのいわや)に住み給いしとなり(釈書)。
相当古くから現在地にあったと思われる。満堂方。
明治の神仏分離では金峯山寺の中心として活躍、明治7年廃寺、明治13年復興。比叡山延暦寺末。(現在は単立)
2012/03/29撮影:吉野山竹林院山門     吉野山竹林院堂宇1     吉野山竹林院堂宇2

【如意輪寺】
 → 如意輪寺
後醍醐天皇勅願所と伝承する。日蔵開基以来代々真言宗であったが、寛文5年京都知恩院末になる。
2000/09/20撮影・合成:如意輪寺蔵王権現立像
2005/05/29撮影:    如意輪寺蔵王権現立像1      同 蔵王権現立像2

世尊寺跡】 (鷲尾山と号する)
 → 子安塔(世尊寺塔)

子守社(吉野水別神社)
楼門を入ると、中庭があり、回廊、本殿、拝殿、幣殿が中庭を囲む。現社殿・重文は慶長9年(1604)豊臣秀頼の造営になる。
本殿は春日造り社殿を三社横一列に並べる形式を採る。なお木造彩色玉依姫座像・建長3年(1251)・国宝を有する。
2004/02/07撮影:吉野水別神社遠望     吉野水別神社楼門     吉野水別神社楼門蟇股     吉野水別神社本殿
2005/05/29撮影:吉野水別神社本殿
神仏分以降、社名を水別神社とする。
岩本院と西善院が子守・勝手社の社僧とされ復飾する。明治3年持福院忍良が復飾改名[榊田正男]し、水別社司となる。
2012/03/29撮影:
 吉野山子守社楼門1     吉野山子守社楼門2     吉野山子守社楼門3     吉野山子守社楼門4
 吉野山子守社楼門5     吉野山子守社楼門6
 吉野山子守社拝殿1     吉野山子守社拝殿2
 吉野山子守社本殿1     吉野山子守社本殿2     吉野山子守社右本殿3     吉野山子守社右本殿4
 吉野山子守社中本殿5     吉野山子守社中本殿6     吉野山子守社左本殿7     吉野山子守社左本殿8
  ※平成23年本殿屋根葺替工事竣工。

【牛頭天王社跡】
牛頭天王は、祇園精舎の守護神であり、薬師如来を本地とする。明治の神仏分離により、廃絶する。
社殿は「牛頭宮、表行壱丈四尺内陣三尺八寸御拝四尺」と伝える。
2004/02/07撮影:牛頭天王社跡
2006/03/20追加:吉野全山古図の牛頭宮
2012/03/29撮影:吉野山牛頭天王跡1     吉野山牛頭天王跡2     吉野山牛頭天王跡3
2020/06/30追加:
○「西国三十三所名所圖繪」 より
 金峯山牛頭天王社

【一乗寺】
所在地は不明(石蔵寺より下方と推定される・・・後の実城院の地か)、天仁元年(1108)白河法皇が金峯山一乗寺に塔を建立。
室町期には退転と思われる。

【石蔵寺】
吉野山頂近くの岩倉の地にあった。古代では吉野山の中心本堂であったとされる。二月堂・常行堂・宝塔院などが付随。
中世以降、中心は山下に移り、近世初頭に廃絶と思われる。
 → 石蔵寺跡

【ニ之鳥居大日寺】
金精社手前の修行門のところにあった。
明治3年大日寺は金精社附属として衆中支配からの除外を申請するも、やがて退転する。
※現存する大日寺とは別寺である。
2006/03/20追加:
 吉野山絵図の大日寺:金峰山寺蔵

2006/03/12追加:「金峯山寺史」:
僧院僧坊

【新坊】
子守社僧、吉水院被官。江戸中期廃絶と思われる。
【新熊野坊】
蔵王堂北西、今の本坊の辺り、蓮蔵院の西隣にあった。寺僧方。中世には隆盛であったと思われる。江戸中期に廃絶と思われる。
【岩屋坊】
満堂方。吉水院被官。延享3年までには退転す。
【岩本院】
大日寺の裏手にあったと伝える。勝手社僧。明治の神仏分離の中でも名跡は継がれる。
【延命院】
蔵王堂東側の谷合い、多聞院南側にあった。満堂方。江戸期には満堂方筆頭の地位にあった。
明治3年勝手社僧岩本院と替地、但しその当時も「延命院現住龍範」の名があるが、神仏分離の一山廃寺で退転す。
【桂坊・心善坊】
満堂方。心善院はニ天門跡南方西側、持福院の南隣にあった。桂坊が心善坊と改称。明治3年「当時無住」。
【上之坊・弘願寺】
上之坊は勝手社僧、銅鳥居近く、現在の弘願寺に相当する。寛文年中に社僧を離れ、高野山と関係を深め、上之坊から弘願寺に改称したと思われる。なお★金峯山一山のその他の概要 の【弘願寺】の項を参照。
【岸室院】
満堂方。江戸中期に廃絶。
【吉祥院】
喜蔵院手前(勝手社寄り)、福島院の向かいにあった。寺僧方。幕末頃無住、明治3年「当時無住」、全山廃寺の中で退転と思われる。
【教学院】
筒井谷辺りにあった。寺僧方。江戸中期には退転。幕末まで屋敷は残り、下人が住していたと思われる。
【久保坊】
満堂方。勝手社から天王橋に向かう道東の谷合いにあった、明治2年宝泉坊龍賢が久保坊に転住、明治4年龍賢は密場院に転住、この時点で廃絶したと思われる。
【蔵之坊】
子守社僧。江戸中後期に廃絶と思われる。
【光蔵院】
満堂方、明治3年「古来名跡許で無住」。神仏分離で名跡も廃絶。
【小鳥居坊】
満堂方、文禄4年までには退転と思われる。
【小松院】
ニ天門跡南方東にあった。満堂方。明治7年廃寺、住持は復飾。諸仏堂に仏像等を引き渡し。明治14年復寺願を提出するも、内務省により否決、復旧はならず。理由は不明であるが、旧住持が復飾していたためと思われる。
2012/03/29撮影:
 吉野山小松院奉納額:美作津山講奉納額、天保15年(1844)年紀。
【西善院】
勝手社僧、振袖山の裏手、岩本院の奥辺りにあった。明治3年岩本院・西善院が復飾して、山口神社・水分神社に神勤す。
【西蔵院】
寺僧方、江戸中期には退転と思われる。
【坂中坊】
灯篭の辻から西に入った南側にあった。満堂方。明治初頭まで存続したが、明治7年金峰神社造営のため、「無住坂中坊建物一円」で売却され、名実ともに退転した。
【篠之坊】
満堂方、明治3年「無住」、幕末頃退転と思われる。
【実相院】
寺僧方、江戸初期に退転と思われる。
【十方院】
東南院南隣、吉水院への分岐点にあった、寺僧方。明治7年住僧が復飾願いを出し認可、廃絶す。
【持福院】
二天門跡南方西脇辺り、宝蔵院の南、千躰地蔵堂の隣にあった、寺僧方。明治7年住僧より復飾願い、廃寺となる。
【持明院】
仁王門の東側谷合い、延命院の北にあった。満堂方。江戸中期に再興、明治7年廃絶。建物一円は金峰神社神官詰所として移転される。
【春福院】
寺僧方、江戸中期には廃絶と思われる。
【勝光院】
蔵王堂の北西、現在の吉野山小学校の辺り、知足院の奥にあった。寺僧方。幕末頃廃絶。
【成就院】
韋駄天山の南にあった。寺僧方。幕末には無住。
【清涼院】
灯篭の辻を西に入ったところ、坂中坊の西隣にあった。満堂方。江戸末期に無住となる。
【真珠院】
世尊寺境内にあった。寺僧方。江戸後期に廃絶す。
【神蔵院】
真蔵院。弁財天山の西麓、新坊谷への分岐の南際にあった。寺僧方。幕末には無住、明治4年大破して修理不能につき、境内とも市場町楠田倉之助に金2両2分で売られる。
【真如院】
明治初年まで存続が確認できるが、明治の神仏分離の過程で廃絶したものと思われる。また江戸期は知足院兼帯と思われる。
【随心院】
仁王門北方、東側谷あいにあった。満堂方。江戸中期から無住、幕末には住職がいたが、再び無住にて明治維新を迎える。
【角之坊】
灯篭の辻を西に入った北側、坂中坊の向い側にあった。満堂方。中世から満堂方の中心的な坊であったが、近世初頭は衆中と訴訟など争うことが多く、一度は廃絶する。しかし幕府の指示で中期には復興し、再度満堂方の中心的地位を占める。再び幕末には無住、神仏分離時には名跡は受け継がれたが、全山廃寺の中で廃絶す 。
【千手院】
治暦年間にその存在が知られる。天文頃までの廃絶したと思われる。
【禅定院】
寛弘年中には存在していたと思われも、中世のうちに退転したと思われる。
【即印坊】
江戸期を通じ一山衆徒としては現れない。正保元年(1644)の勝手宮焼失の再興のため、諸国を勧化し再興に尽力したと伝える。その後も深く勝手宮に関係し江戸期の勝手宮の勧進と造営を担う。明治の吉野山小学校校舎は即印坊坊舎を使用と云う。
【高室院】
袖振山の上方、西側の谷あいにあった。満堂方、のち勝手社社僧。江戸中期以降廃絶したと思われる。
【多聞院】
蔵王堂東側の谷あいにあった。多門院、多門坊。満堂方。幕末に無住となる。
【知足院】
蔵王堂の北西、現在の吉野山小学校の辺りにあった。寺僧方。明治初年まで存続。神仏分離の混乱中に復飾、廃絶と思われる。
【長足寺】
成就院・釈迦堂の向い側、吉水院西側の谷底にあった。浄土宗西山派。明治9年諸仏堂副住職を願い出るも不許可。明治12年山下蔵王堂蔵王権現像の譲渡を願い出るとも云う。この時の住職は明治中期まで務めるという。後、蔵王堂東谷あいの松本坊跡地に移転するも、退転と云う。
【道光寺】
弁財天社の西麓、十方院の斜め向いにあった。寺僧方。江戸中期から無住、明治3年「無住」。
【得験院】
寛永期に存在した。詳細は不詳。
【南陽院】
本山派壱先達。近江南陽坊の後身と云う。幕末までには廃絶と思われる。
【西之坊】
勝手社社僧。江戸後期に退転と思われる。
【西山坊】
満堂方。桜本坊と角之坊の間にあった。江戸初期に退転と思われる。
【福島院】
勝手社から天王橋に向かう道の西側にあった。満堂方の最有力寺院であった。幕末には無住となり、明治の神仏分離で廃絶す。
【福寿院】
寺僧方、江戸前期に名跡のみになり、屋敷は幕末まで存在したが、明治の神仏分離で廃絶す。
【宝持坊】
仁王門の東北の谷あい、持明院と延命院の間いあった。満堂方。吉水院の被官であった。江戸前期には衰退し、幕末には名跡のみであり、明治の神仏分離で廃絶す。
【宝積院】
寺僧方。江戸後期には退転したものと思われる。明治3年無住。
【宝積坊】
勝手社僧。江戸前期には退転したものと思われる。
【宝勝院】
蔵王堂の北西、現在の金峯山寺本坊の辺り、蓮蔵院、新熊野院の奥にあった。寺僧方。幕末には屋敷のみにて無住。明治3年無住。
【宝泉院】
満堂方。弘願寺北方土橋から西方へ下る道が「宝泉坊道」と言われる。室町期より存続する院であったが近世には出入が多く、寺僧方との争いで追放になる。後再興されたが、幕末には無住となる。
【宝蔵院】
ニ天門跡南方西脇にあり、護摩堂の隣にあった。寺僧方。幕末頃無住、明治3年無住。
2005/05/29撮影:
 寶蔵院銘石燈籠:金精明神参道にある。「宿坊 寶蔵院 寛政12年庚申(1800)」とある。
【宝塔院】
奥の院安禅寺本坊の地位にあったと思われる。満堂方。安政5年「出家ニ名、俗三名」、明治2年住持あり。明治5年6月「衆徒中議定書」に表れるも、神仏分離の強行で廃絶と思われる。
明治7年の安禅寺仏像などの取り片付け費用の捻出のため、宝塔院ならびに持仏堂一帯が売却されたが、この時点では宝塔院は無住のため大破していたと云う。
【前之坊】
満堂方。安政5年俗1名住。明治3年無住。神仏分離の強行で退転す。
【前坊】
子守社僧。子守社前地が前坊屋敷と云われる。
明治元〜3年、前坊と吉野山の間で、金峰・山口・水分社の神職を巡る紛争があり、前坊側が敗訴。
なお近年まで蔵王堂と銅鳥居の間に前坊家住宅があったが、平成3年大和民俗公園内に移築されたと云う。吉野山古文書が多く命坊家に伝わるとも云う。
【松之坊】
子守社僧。他の社僧と同じく江戸中期後期には退転したものと思われる。
【松室院】
蔵王堂の北西、現在の吉野小学校の辺り、勝光院の奥にあった。勝手社僧。江戸中期に退転と思われる。
【松本院】
二天門跡東の谷あいにあった。満堂方。室町期の松本坊は文禄までには廃絶、江戸前期に松本院として再興、中期には再度空坊となり、明治の神仏分離で廃絶。明治3年無住。
【密場院】
現在の桜本坊の位置にあった。密乗院。
なお「神仏分離」の項を参照。
【南之院】
満堂方。二天門南方の東の谷あい、小松院の南辺にあった。天保14年の絵図には吉祥院下方(勝手社寄り)にあり、移転したものと思われる。戦前まで勝手神社の南(旧国民宿舎跡地)に南之坊屋敷が現存したと云い、その敷地に寛政元年銘の石灯篭が残ると云う。
安政5年「出家3名、俗7名」、明治の神仏分離の強行で廃絶す。
【妙雲院】
寺僧方、江戸中期には一度再興されるも、殆ど名跡のみの状態であったと思われる。
【妙覚寺】
妙覚院、寺僧方、二天門跡南方西側韋駄天山の北にあった。幕末もしくは明治初頭に無住となり、そのまま廃絶したものと思われる。
【文殊院】
満堂方、室町期に創建され、近世には無住と復興を繰り返すも、幕末には退転したものと思われる。
【山本坊】
満堂方、近世には多くの利権を持っていたと思われるも、江戸中期以降名跡のみになったと思われる。
【蓮蔵院】
蔵王堂の北西、現在の本坊にあった。寺僧方。
明治3年山口神社社僧西善院が大破のため、蓮蔵院と替地される。この時蓮蔵院は無住。明治7年復飾願いを提出し、廃絶す。


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