美  作  仏  教  寺  三  重  塔

美作仏教寺三重塔

仏教三重塔略歴

2008/02/11追加:
「久米郡誌」久米郡教育会編纂、1922(大正11年) より

美作仏教寺三重塔:左図拡大図
 ※刊行年から判断して大正年中の三重塔と思われる。
 遠望でシルエットが分かる程度の写真であるが、貴重な1枚と思われる。

大日如来など五仏を安置。坪数9坪。
和銅7年(714)塔創建、天慶8年(945)陽成天皇再興、至徳3年(1386)再建と伝える。
天正9年(1581)兵火により焼亡、寛永14年(1637)森長継再興。
宝永3年(1706)補修、元文5年(1740)営繕、明和6年(1769)補修、寛政11年(1799)修理、文政5年(1822)修理、明治21年修理。

昭和に入ると三重塔の雨漏りがひどくなり、昭和9年の台風でほぼ倒壊する。
 (あるいは昭和9年の台風で相輪が落ち、序々に倒壊していったとも云う。)

○2014/03/27追加:「改修 赤磐郡誌」昭和15年 より
保存の法十分ならず、殊に三重塔は全く荒廃して、心柱は甚だしく傾き、九輪のみ空しく聳えて、哀れを留めている。
 ※昭和9年の前か後のどちらの描写かは分からないが、ともかく荒廃した様子が窺える。
なお、坊舎を忍ばせる山内の地名には以下がある。
中ノ坊、岡ノ坊、玉泉、定泉、真如坊、如意坊、中ノ坊、大坊前、仁王門東西、別当坊、西善坊、松尾防奥、西林(さいりん)

真言宗、医王山と号す。
和銅7年(714)元明天皇代、勅願道場として境内東西80町南北100町を賜ふ。
天慶3年(940)陽成天皇代、寺領300町を勅賜、49院を建立。
天正9年(1581)兵火により焼亡、荒廃し以降坊舎6坊となる。
慶長9年(1604)森忠政が堂塔を再興。
 ※あるいは寛永14年(1637)三重塔、本堂などが再建されるとも云う。
明治維新後は急速に衰え、本堂・仁王門を取壊し、本坊1坊のみとなる。
本堂:天保9年焼失・安政5年再建するも未成のまま放置・荒廃に任せ明治19年取壊、現在は文殊堂を移建して本堂となす。(明治20年文殊堂移建)
現在は「仁王門(仏教寺)(山門)」のみが往時の面影を伝える。

2008/09/16追加:「新編岡山県地誌提要」伊藤光雄、細謹堂、明治45年 より
仏教寺:
「・・・真言宗にして医王山と号す。境内1600坪許、・・、仁王門・三重塔・山門・十三堂・鐘楼・護法堂・竜王堂・本堂等を有し、本堂には薬師如来・文殊菩薩・五智如来等を安置す。・・・ 」
 

美作仏教寺三重塔跡

三重塔跡に至る石階

三重塔に至る石階:
ほぼ廃道と思われる参道がある。この参道は仁王門(山門)下で三重塔に至る石階を分岐する。
(塔跡は整地され旧状を残さない。従って、この塔に至る石段が唯一、昔の面影を残す光景と思われる。)

三重塔は、旧参道を上り、仁王門(山門)に至るすぐ手前・右手石階上にあった。
三重塔跡は整地され、現在は何かの小祀が置かれている。
塔婆の規模あるいは詳細は不明なるも、当寺は本山寺・両山寺と並んで美作の巨刹であったこと、また現存する本山寺三重塔(承応元年<1652>建立)の例 から判断して、もし今なお健在であるならば、重文級の塔婆であったと推測される。
 ※なお仁王門は明治維新直後までは山麓にあったと思われる。
  現在は元の山門が仁王門とされていると思われる。

美作仏教寺三重塔跡1
 同           2
 同        礎石?
  :(この礎石?は塔造成地奥隅に放置されている。
   塔礎石とも思われるも、不明)

 


2006年以前作成:2014/03/27更新:ホームページ日本の塔婆