攝  津  尼  崎  本  興  寺

本門流大本山攝津尼崎本興寺

尼崎本興寺多宝塔

摂津名所圖會<寛政8−10年(1796-1798)刊>

本興寺全図(部分図・左図拡大図)

表門右本堂南東に多宝塔が描かれる。
本堂祖師堂などが文政5年(1822)類焼とされ、未確認であるが、この時多宝塔も類焼し、その後再興されなかったものと思われる。

2014/09/02追加:「大阪春秋 58号(特集:尼崎)」大阪春秋社、平成元年 より
尼崎城下風景図<文化文政期>
描かれる初島神宮の石燈篭は文化12年(1815)寄進といい、本興寺多宝塔は文政5年(1822)焼失というから、文化12年から文政5年の間の描写であろうと推定される。大きさは横243cm、縦72cm。尼崎市蔵。
 ※但し、初島神宮の石燈篭とは図中のどれかはよく分からない、そもそも当時の初島神宮の所在が良く分からない。
本図には尼崎本興寺伽藍(多宝塔)が描かれ、その西に寺町の景観が描かれる。本興寺西の表通りには東から廣徳寺、甘露寺、法園寺、大覚寺と続き、その西隣が長遠寺で多宝塔が描かれる。
 尼崎城下風景図;部分図、向かって左半分は尼崎城及びその城下が描かれるが、この左半分は省略して掲載。

2014/09/02追加:「大阪春秋 58号(特集:尼崎)」大阪春秋社、平成元年 より
●本興寺伽藍圖:年紀は不明、伽藍配置が現状と同じであるので勿論現在の寺町に移転後の景観であるが、宝塔(多宝塔9が描かれるので文政5年以前の図であろう。
 本興寺伽藍圖
表門を入りすぐ右手に「宝塔」がある。
なお、寺中の名称は現状とは全く異なる。いずれも南から東側に真行院、善養坊、教運坊、好養院、西側に重泉坊、常住坊、耕雲院、本隆坊 の8坊が並ぶ。(名称は一部推定であり、正確を欠く)

◆多宝塔跡
多宝塔は、おそらく現宝物殿が建っている場所にあったものと思われる。
○「日本の塔総観」中西亨、昭和48年改訂版:長遠寺の項:
「・・・多宝塔があったが今は廃滅し、あとに石塔がわびしく建っている。」
○「日本塔総鑑」中西亨、昭和53年:
「本堂の向かって右側のところで、今石造十三重塔が建っているところ」が多宝塔跡とする。
 ※少なくとも昭和50年代前半頃までは、多宝塔跡に石造十三重塔(石塔)が跡地にあったものと思われる。
○「佛教考古学論攷」石田茂作:
「文政火亡」とある。
2012/10/30撮影:
 本興寺宝物殿:推定多宝塔跡地

攝津本興寺三重塔

昭和48年11月建立。内部はRC造。但し外部は木工作、外見は 木造塔に見える。2、3重を2間に造る。高さ27m、一辺5,7m。
2000/10/9撮影:
 攝津本興寺三重塔
2003/09/21撮影:
 攝津本興寺三重塔1(左図拡大図)
   同        2
   同        3
   同        4
 

建築造作は伸和建設による。
伸和建設資料集」より:
塔本体は鉄骨(心柱が無く内部は階段室の構造)、外部は木工作、地下は納骨堂。

攝津本興寺三重塔正面図(左図拡大図)
  同    三重塔

2012/10/30撮影:
 尼崎本興寺三重塔11     尼崎本興寺三重塔12     尼崎本興寺三重塔13     尼崎本興寺三重塔14
 尼崎本興寺三重塔15     尼崎本興寺三重塔16     尼崎本興寺三重塔17     尼崎本興寺三重塔18
 尼崎本興寺三重塔19     尼崎本興寺三重塔20     
 本興寺三重塔地下1      本興寺三重塔地下2

本興寺伽藍

2012/07/15追加:
「法華宗宗門史」法華宗宗門史編纂委員会編、法華宗(本門流)宗務院、1988 より
 尼崎本興寺俯瞰
Google
 尼崎本興寺俯瞰2

●尼崎本興寺伽藍現況:
○本堂:5間×6間、入母屋造本瓦葺、東西10間、南北8間。文政5年(1822)類焼、同10年再建。昭和37年改修。
 2003/09/21撮影:本興寺本堂
 2012/10/30撮影:本興本本堂
○祖師堂:文政5年類焼、嘉永6年(1852)再建。東西5間半、南北6間。入母屋造本瓦葺。
日蓮・日登・日与・日諦・日承・日尭・日?(ユウ?)・日庸各上人像を安置。
 2003/09/21撮影:本興寺祖師堂
 2012/10/30撮影:本興寺祖師堂1
             本興寺祖師堂2
○大方丈:元和3年(1617)建立、重文。10間×7間、入母屋造本瓦葺。前面は3間四方の三室、背面は4間に2間半の三室が並ぶ、南側に広縁を付設。廊の先は写真に見られる唐破風屋根、両開き戸に続く。慶安元年・元禄年中・文政8年修理、近年解体修理。
なお天文17年(1544)の棟札が残るも、昭和56年の解体修理の結果、軸部に解体の痕跡がなく、元和3年の建立と結論付けられる。
 2003/09/21撮影:本興寺大方丈
 2012/10/30撮影:本興寺大方丈
○三光堂:桃山期の建築と推定、重文、三間社流造、銅板葺。大物浦から移建と伝える。拝殿は慶長2年(1597)豊臣秀頼・加藤清正の再建。 三光天子、鬼子母神、三十番神を祀る。
 2003/09/21撮影:
  本興寺三光堂1  本興寺三光堂2
  三光堂拝殿
 2012/10/30撮影:
  本興寺三光堂11    本興寺三光堂12
  本興寺三光堂13    本興寺三光堂14
  本興寺三光堂15    本興寺三光堂16
  本興寺三光堂17
  本興寺三光堂拝殿
  三光堂向唐門(江戸前期)の写真はなし
○鐘楼:寛永10年(1633)建立、3間×2間、入母屋造、袴腰付。
 2003/09/21撮影:本興寺鐘楼
 2012/10/30撮影:本興寺鐘楼1
             本興寺鐘楼2

2003/09/21撮影:
 客殿・大方丈・本堂の連なり(手前から)

○開山堂:重文。文正元年(1466)第六世日与上人代に御文庫堂として建立。あるいは永正10年(1513)建立とする説もある。
永禄元年(1558)日諦上人代に開山堂に改修したとされる。
元和3年(1617)本興寺の移転に伴い、現在地に移築。
複雑な構造(撞木造というようである)を持ち、正面は入母屋造で、前方に唐破風を付け、後方に切妻屋根を長く伸ばし、その軸部および組物は唐様を用い、軒は二軒扇垂木とする。 つまり建立当時は、3間四方(内陣)の入母屋造本瓦葺の建物であったが、明暦2年(1656)前面に2間の外陣を追加、ついで天和3年(1683)には後方に4間の内々陣及び後陣を増築したとされる。
室内装飾は華麗を極める装飾がなされる。昭和37年に解体修理。日隆上人像(重文)を安置する。
2003/09/21撮影:
 本興寺開山堂1    本興寺開山堂2    本興寺開山堂3     本興寺開山堂4    本興寺開山堂5  本興寺開山堂6
2012/10/30撮影:
 本興寺開山堂11    本興寺開山堂12    本興寺開山堂13    本興寺開山堂14    本興寺開山堂15
 本興寺開山堂16    本興寺開山堂17    本興寺開山堂18    本興寺開山堂19    本興寺開山堂20
 本興寺開山堂21    本興寺開山堂22    本興寺開山堂23    本興寺開山堂24    本興寺開山堂25
 本興寺開山堂26    本興寺開山堂27    本興寺開山堂28    本興寺開山堂29    本興寺開山堂30
○日隆上人荼毘塚:上人は寛正5年(1464)80歳で入滅、この塚は宮町の妙光寺に祀られていたが、昭和38年妙光寺が難波に移転し、そのとき本興寺に譲渡されたという。古来荼毘塚と伝承されてきたと云う。
 2003/09/21撮影:本興寺日隆上人荼毘塚
 2012/10/30撮影:本興寺日隆上人廟
○御聖教殿:安政元年(1854)第83世日量上人建立。日隆上人御聖教を収蔵護持。
 2003/09/21撮影:本興寺御聖教殿
○表門:近世あるいは近年のものと思われる。
 2003/09/21撮影:本興寺表門:門内から撮影
 2012/10/30撮影:本興寺表門
○歴代供養碑
 2003/09/21撮影:本興寺歴代供養碑
 2012/10/30撮影:本興寺歴代上人墓碑
○興隆学林;享徳3年(1454)日隆上人創建の勧学院が前身で、尼崎檀林(学室)という。現在はRC造、四階建。
 2012/10/30撮影:本興寺興隆学林
                        → 檀林>尼崎檀林
○そのほか太鼓櫓、裏門、客殿、庫裏などの建築がある。
 2012/10/30撮影:本興寺庫裏     本興寺皷楼
○本興寺寺中:
寺中として西側に養寿院、恵運院、一乗院、本教院、東側に尭運院、本成院の6院がある。
 2003/09/21撮影:本興寺西側寺中     本興寺尭運院
 2012/10/30撮影:本興寺養寿院     本興寺恵運院     本興寺一乗院     本興寺本教院
             本興寺尭運院     尭運院鬼子母神    本興寺本成院

攝津本興寺沿革

法華宗本門流<勝劣派中の八品派・日隆門流を云う>4箇大本山<京都本能寺・尼崎本興寺・岡宮光長寺・鷲巣鷲山寺)の一つである。
 注)かっては5個大本山であったが、大本山の一つであった京都妙連寺は本門法華宗の大本山として今は離脱をしている。
応永27年(1420)本門流開祖日隆上人の創立とする。本能寺が布教の道場であったのに対し、本興寺は教学の道場として発展したとされる。
元和以前は他の日蓮宗寺院と同様に城砦の構えであった。
元和3年(1617)戸田氏の尼崎城建設に伴い、大物の浜から現寺町に移転する。
 ※本興寺戒壇院(方丈)の棟札には元和3年(1617)の移転とあるという。

●日隆上人
至徳2年(1385)現富山県射水郡大門町で生誕。越中遠成寺にて剃髪得度、のち京都妙顕寺に入り、第4世日霽上人に入門、慶林坊日隆と改名する。
応永22年(1415)仏光寺に本応寺(後の本能寺)を創建し、本門八品上行所伝の題目を人々に説き、妙本寺(妙顕寺)月明を諌めるに至る。
これに対し、妙本寺月明は応永25年、本応寺を破却し、日隆の殺害を謀る。日隆上人は難を逃れ、北河内三井に留まる(円海法師を破折し、本厳寺を創立)、さらに尼崎辰巳の浜に米屋次郎五郎を訪ね、ここに止宿する。
攝津守護細川満元(幕府管領)は日隆上人に帰依し、精舎の寄進をし、若宮八幡宮の境内に本興寺を創建する。
この地を活動基点として、応永30年には日慶上人が妙蓮寺を、永享5年(1433)には本応寺を再興、本能寺と称する。
寛正5年(1464)2月25日尼崎本興寺で入寂。80歳。
 →日隆上人略伝


本興寺末寺

末寺については、京都本能寺及び尼崎本興寺両本山末とされることが多いので、京都本能寺末寺の項に記載する。


2006年以前作成:2017/08/16更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系