甲  信  越  北  陸  諸  国  の  塔  跡

甲信越北陸諸国(甲斐・信濃・佐渡・越後・越中・能登・加賀・越前・若狭)の塔跡

甲斐岩殿山円通寺

 岩殿山円通寺三重塔

甲斐万福寺:甲州市勝沼町等々力

甲斐万福寺には「源誓上人絵伝」2幅が伝来していたが、現在この絵伝は「観音堂縁起絵」(東京芸術大学蔵)と「薬師堂縁起絵」(シアトル美術館蔵)とに分かれて存在する。
2010/10/11追加:「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より
 甲斐万福寺観音堂縁起絵:室町期、159×81cm。東京芸術大学蔵本。
左端中央付近に三重塔が描かれる。中世には三重塔があったものと推定される。
 ※元来この絵伝は3幅の構成であったとする説もある。(1幅は既に存在しない。)
 ※上記以外にも万福寺は「法然上人絵伝」(山梨県博蔵)、「親鸞聖人絵伝」(西本願寺蔵)「聖徳太子絵伝」(四天王寺蔵)を蔵したと云う。
(「甲斐国志」)
万福寺:当寺は推古天皇12年(604)聖徳太子の命で建立されると伝える。往時は法相、天台、真言三宗兼の道場であったと云う。
寛元2年(1244)源誓坊光寂、万福寺に寄寓した親鸞に帰依して浄土真宗となる。
元享元年(1321)12坊が興される。
その後火災や山主と坊中との争いもあり、12坊中9坊が離反するなどし、衰微する。

甲斐大蔵経寺

三重塔跡と云う遺構及び心礎とも云われる礎石が残るも、礎石配置・中心礎石の形状などから塔跡とするには問題が多い。
 しかし、宝塔に一切経を納めると云う寺伝や三重塔を描く近世の絵図が残り、この遺構上かどうかは別にして、何らかの塔婆があった可能性は高い。
 甲斐大蔵経寺

甲斐寺本廃寺:東山梨郡春日居町

白鳳期−平安期の寺跡とされる。法起寺式伽藍と推定され、心礎(安山岩自然石)が現存する。
 1981年の発掘調査で塔の一辺は5.4mと確認される。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は二重円孔式、280×242×130、径98×36及び径65×17cmの円孔を持つ、排水溝1条、白鳳。
春日居町郷土館に三重塔復元模型あり。
○2010/05/23追加:「日本の木造塔跡」
昭和26年に石田茂作により発掘調査が行われる。山王権現のところに講堂、その南西に金堂、南東に塔跡が確認される。
塔跡には心礎、脇柱礎が残る。
心礎の大きさは2,4×2.2mで高さは90cm、二段円孔を持つ。外穴は径99cm、深さ4cm、内孔は径62cm深さ15cmで、放射状排水溝が1本ある。
脇柱礎の内2個は原位置を保つ。隅柱礎には径72cmの円形柱座造り出しがある。
○2010/06/13追加:
 甲斐寺本廃寺心礎1       同        2       同        3       同        4
   同        5       同        6
脇柱礎が残ると云う(上掲載)も、心礎周囲の一部は民家であり、所在が良く分からない。
 甲斐寺本廃寺山王権現:山王権現境内に礎石と思われる石が数点ある。
  同   境内推定礎石1      同   境内推定礎石2

甲斐善光寺

和漢三才図会・記事・・・坊舎60軒、寝釈迦堂、三重塔、閻魔堂、三門
 「甲斐国の寺社建築」の「甲斐善光寺」の項を参照

甲斐北口本宮浅間社

 甲斐北口本宮・駿河富士山本宮・駿河富士新宮

甲斐身延山久遠寺

 身延山

信濃明泉寺三重塔

詳細不詳。
「佛教考古学論攷」石田茂作:「明泉寺三重塔、北佐久郡三井村香坂(現佐久市)、天台、建久年、文禄火亡」とある。
閼伽流山と号する、慈覚大師の開山、現在閼伽流山下に明泉寺、山腹に観音堂・鐘楼などがあると思われる。この観音堂付近(塔平)に三重塔があったとも云う。

信濃別所

善光寺道名所圖會:巻之5:記事の要約
聖武天皇の代、行基菩薩が瑠璃殿を造立し、長楽・安楽・常楽の三楽寺を建立。
天長2年火山活動があったようです。天長3年円仁大師・明福が北面大悲閣を建立。長楽・安楽・常楽の三楽寺を再建して、
台・密・禅三宗に表す。・・・二尊(薬師・観音)の火坑の上に宝塔を造営し、・・・一切経を宝塔に収納する。
清和天皇、諸堂を再興。「新たに観土院・蓮華院・明星院を造り、三楽寺の別院となし、九重・五重・八角四重の塔を経営・・・。平惟茂別に六十坊を建立し、七堂伽藍・三楽・四院六十坊となる。
木曾義仲平氏を討たんと放火し、灰燼に帰す。大悲閣、八角四重塔は残る。(ただし残るとするのは誤りと思われる。)
別所細見惣図(右下隅は安楽寺)  別所細見図の内安楽寺部分図(安楽寺塔婆が見える。)
木曾の軍勢、北向山を焼討ちにす
上記の図  上記の部分図(かっては三重塔?があった と思われる。)

信濃エボ神様心礎(東山道亘理駅心礎)

 信濃エボ神様心礎(東山道亘理駅心礎)

信濃上諏訪明神神宮寺

 上諏訪社及び下諏訪神宮寺

信濃下諏訪明神神宮寺

 上諏訪社及び下諏訪神宮寺

信濃神光寺跡

 信濃神光寺跡

信濃文永寺三重塔 (飯田市下久堅南原)

2006/07/03追加:
「信州文永寺蜜乗院指図について」(「建築指図を読む」川上貢、中央公論美術出版、昭和63年 所収)より
寺暦については
「勅願所文永寺略縁起」:文永元年(1264)頃、当地に隆毫阿闍梨が草庵を構えるも、疫病が流行する。
このことが都に聞こえ、疫病消除のため勅使が派遣され、知久氏の寄進を受け、隆毫を開基に南原山文永寺が創建された。
「勅願文永寺開基之由来」:伊奈郡疫病消除のため、朝廷より醍醐理性院竜亮権大僧都が派遣され、知久氏に命じて一寺を建立し、ここに文永寺が開創される。
 文永寺は第6世宗詢の頃最盛期であったとされる。
宗詢は知久氏出身で醍醐理性院を根拠に修行し、文明4年(1472)五智院宗典より流儀伝授と受法を許される。
文明7年宗詢著「結縁灌頂雑記」の「三昧耶戒道場指図」では
本堂(桁行3間梁間4間)・経堂(3間×2間)・阿弥陀堂(3間四方)・三重塔・鐘楼・南門・西門の存在が知られる。
本堂規模が小規模であるのは文永寺の寺格や規模が本山より格下であったためと思われるも、本堂・三重塔を具備するのは当時の地方密教寺院の典型伽藍と思われる。
 ○三昧耶戒道場指図:小規模伽藍ながら「塔」の存在が明示 (図右)されている。
なお住持の住坊として密乗院および摩尼坊・南養坊・金蓮坊・平等坊・等覚坊・竹林坊・杉之坊・玉印坊・最勝坊・西之坊・霊山坊・実相坊の12坊および鐘楼坊があったと云う。(天正15年「南原差出帳」)
天文23年(7554)武田氏の侵攻による放火で、知久郷ともども堂塔烏有に帰す。
現伽藍は全て江戸中期以降の再興と云う。江戸期寺領70石。
鎌倉期という石造五輪塔及びその石室(覆屋)が重文指定されている。

信濃清水寺三重塔

 信濃清水寺三重塔跡・・・大正5年三重塔焼失。

信濃善光寺

2003/10/17追加:
○一遍上人絵伝:正安元年(1299)成立
 一遍上人絵伝(巻1)
中世には五重塔の存在が知られる。
 【吾妻鏡】嘉禎3年(1237)丁酉、10月16日 甲午
信濃国善光寺五重塔婆供養なり。浄定聖人大勧進として、知識の奉加を勧進すと。
導師は寺の大貳律師圓仙、呪願は齋圓能登阿闍梨。この事に依って、去る五日別当勝舜本寺より下着すと。
○信濃善光寺産経曼荼羅;摂津小山善光寺蔵・・藤井寺市、紙本着色、174×278cm、現在は大阪市美術館寄託。
 信濃善光寺参詣曼荼羅:戦国期の戦火に焼かれ荒廃した善光寺再建のため全国に広く勧進が行われる。その勧進に使われた曼荼羅図の一幅と考えられる。したがって、江戸初期の作品で、室町期の景観を顕現したものであろう。
 楼門(仁王門)の正面に五重塔があり、さらに楼門(中門)を経て本堂が並ぶ伽藍配置として描かれる。
2009/09/29画像入替:
○善光寺道名所圖會:巻之3:天保14年(1843)刊
 定額山善光寺: 塔婆に関する記事はなし。
 定額山善光寺寺中の図:三門 (図の中央付近)を入って、すぐ右(本堂手前右・鐘楼の手前)に「塔の跡」がある。
江戸期を通じ「塔跡」は認識されていたものと推定される。
2009/09/29追加:
○信濃善光寺五重塔建地割図:善光寺大勧進(天台宗)所蔵、縮尺1/20.寛政8年(1796)の年紀、立川内匠富棟画
この建地割図によれば、総高27間3尺余(47.3m)、一辺4間2尺2寸8分(7.96m)の大型塔の計画である。
また初重四面に軒唐破風を付設する特異な設計であった。
 信濃善光寺五重塔建地割図     信濃善光寺五重塔建地割図2
  寛政6年五重塔再建のため回国開帳が始まる。
  寛政12年(1800)五重塔再建頓挫す。再興願いは幕府により認可されると云う。
2013/12/14追加:
○「善光寺小誌」長野市教育会編、大正堂書店、昭和5年 より
往時の五重塔は仁王門の内、大本願の北の當れり。寛永の再建には造塔には至らず。安永八年に五重塔再建を出願し、塔地を東二十間(今公□中)に定む。見積書高十四丈餘方七間工費一萬六千両なりしが、古礎不明なりとて寛政十三年三月官不許可に終れり。
○サイト:「まぼろしの善光寺五重塔
ここには、善光寺五重塔に関する詳細な報告がある。また上記「五重塔建地割図」に基づくCGが多く掲載される。
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○なお善光寺に現存する塔婆としては近代のものがある。
一つは忠霊殿と称する三重塔と雲上殿(納骨堂)と称する変形多宝塔である。

信濃小菅山元隆寺

白鳳8年(680)役小角の開創と云う。(由来記)
小菅権現(摩多羅神)を祀り、さらに熊野、金峰、白山、立山、山王、走湯、戸隠の七神を観請、八所権現と称する。
小菅権現の本地は馬頭観音とされ、この本地仏は現存する(平安後期。宝物館収蔵)。
大同元年(806)坂上田村麻呂が八所権現の本宮と加弥吉利堂を再建。この頃 上・中・下の院36坊、修験者300人余という。
久安6年(1160)京都禅林寺(若王子神社)の庄園となる。
建久8年(1197) 源頼朝が参拝。社領700貫文を寄進。中世には戦乱、火災などで焼失、再興があったとされる。
天文11年(1541)上杉謙信が再建。奥社本殿、付属宮殿(いずれも重文)はこの時の建造と思われる。
明治2年神仏分離令により、別当大聖院は神職となる。八所権現を八所大神と改称、諸仏、什宝は菩提院に移す。
明治33年小菅神社と改称。
以上のほか、現在は僅かに以下の堂宇が残存する。
仁王門、菩提院(もと桜本坊。真言宗豊山派。享保年間に法印俊栄によって中興)。観音堂(本尊は馬頭観音)。
護摩堂(寛延三年<1750>)再建、別当大聖院跡にある)。
講堂(元禄10年<1697>修理、阿弥陀如来像あり、祭り資料館を兼ねる)、小菅神社里社。
大聖院、観音堂は跡地を残すと思われる。
 □信濃小菅山元隆寺之図(永禄9年<1566>、飯山市教育委員会蔵)五重塔が描かれているが、詳細は不詳。

佐渡鹿伏村医王寺

天台宗医王寺は相川町鹿伏村にあり、明暦2年(1656)建立の三重塔があったと云うも明治維新で廃寺となる。
「佐渡国寺社境内案内帳」(2013/11/11に全文掲載)では
永正11年(1514)僧恵道が草庵を結ぶ。
慶長11年(1606)攝津四天王寺塔頭福寿院宥乗が来国して医王寺と改める。
正保3年(1646)水田与左衛門(奉行所の築造を差配)が中興。
天和6年(1686)四天王寺から聖徳太子像を勧請。
明暦2年(1656)三重塔を造立、薬師如来を安置 と云う。
明治初年廃寺となる。
岩倉家に伝わる阿弥陀如来立像(江戸初期)は医王寺の遺仏と云う。
以上の情報のみであるが、かっては医王寺に明暦2年造立の三重塔があったと知れる。
その後の塔婆の変遷は不明であるが、明治維新に医王寺は廃寺というので、塔婆 は明治維新まで存続したが、明治維新の混乱・廃仏の過程で消滅した可能性が考えられる。
○「慶長期相川に集まった人びと ー相川の寺院調査 中間報告ー」 田中 圭一(平成19年度「佐渡伝統文化研究所年報」 所収」では
天台宗 医王寺 鹿伏村 開基:慶長17年 とある。
2013/11/11追加:
○「佐渡国寺社境内案内帳」宝暦(1751-)頃 での全文は以下のとおり。
 相川鹿伏村 海陽山(岩鹿山)医王寺
当寺大坂天王寺末、当時武州東叡山末に改む。永正11戌年開基。慶長5子年福壽院宥乗渡海して元和2丑(元卯)年2月26日再建立。同6申年天王寺より聖徳太子の尊像を安置す。正保3戌年水田与左衛門堂を建立す。同性明暦2申年霊殿、三重塔を造立して薬師を安置す。享保8卯年右の堂を今の所へ移す。是迄は今の墓所に有之、境内1反5畝10歩、畑3畝9歩、各々御除。

佐渡吉岡薬師堂心礎(新薬師寺?塔礎 )

◇2007/03/27追加:
「佐渡国誌」:真言宗佐渡国分寺の項に以下の記載がある。
・・・又七重塔一区ありたるなり塔礎は今も当寺(佐渡国分寺)の境内に在りて昔を偲ばしむ、又当寺の南小渓を隔てたる吉岡の地にも塔礎一個あり是れ或は新薬師寺の遺跡なりしか・・・
 ※佐渡国分寺塔礎とは別に、国分寺南(西南)の小渓を隔てた吉岡にも心礎(塔礎)があり、新薬師寺の心礎とされると解釈される。
  「佐渡国誌」は大正11年の刊行であり、この当時、吉岡の地にも塔礎(心礎)の存在が知られていた。
◇2007/04/13追加:
「佐渡市教育委員会、文化振興課、佐渡伝統文化研究所準備室」様より 、以下の情報提供及び「真野町史上巻」の該当箇所のご提供を受る。
○佐渡伝統文化研究所準備室様ご提供情報
 ・新薬師寺という寺院は佐渡には存在しない。また薬師寺としても、小木に1か寺、両津に2か寺あるが、真野には所在しない。
 ・現在の研究では、(吉岡は)佐渡国分尼寺の候補地の一つに上げられている。
 「薬師堂」(遺跡カード登録情報)は須恵器、土師器、瓦等が出土している平安期の遺跡とされる。
 ・礎石については、「真野町史 上巻」に概要の記載がある。
○「真野町史 上巻」真野町史編纂委員会、昭和51年:以下要約:
 ・佐渡国分尼寺については、建立されたであろう記録はあるが、尼寺跡の発見や具体的な古文書などは全くない。
そのため次の地が尼寺の推定地とされてきた。
1.阿仏坊妙宣寺、2.竹田太運寺、3.真野吉岡薬師堂
このうち1.2.は根拠が薄弱であるが、3.は、国分寺と国府の中間にあること、国分寺と同型の巴瓦を出土すること、薬師堂内に1個の礎石が現存することで、最も有力とされる。
現存礎石は、「薬師堂須弥壇下にあり、方形の一辺三尺八寸、高さ二尺二寸、中央径二尺四寸、深さ七寸七分の円形掘り込みがある」という。
 (一辺115cmの大きさで、高さ67cm、径73cm、深さ23cmの円穴を持つ礎石とされる。)
○2009/09/29追加:
「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年<堀井三友は昭和17年歿> より
(前略)
 なお(佐渡国分)尼寺址については明らかでない。真野村吉岡の薬師堂の地は好適の地で、国分寺跡出土と同様の瓦も出土する。
今薬師堂須彌壇下に存する礎石は、方形で約3尺8寸高さ2尺2寸、中央に径2尺4寸深さ7寸7分の円形柱座がある。こうした柱座がある点、やや小さいが塔の心礎とも見られ、この地を軽々しく尼寺跡と見るを得ない。この吉岡の字竪小路付近原田の地を尼寺跡とする説もあるが 、ここには殆ど兆証を得ない。
阿仏房の妙宣寺も尼寺跡に好適の地(吉田東伍など)というも、寺域には何の遺物・遺跡もない。
竹田の太運寺は南に山迫り北は低く、奈良期の寺址とするには不適当であろう。
 佐渡国分寺
 ※※
 現状、この礎石は薬師堂床下にあり、簡単には実見(後述)できない。
従って以上の文献から判断するしかないが、この文献上からは、この礎石は一段円穴式の心礎である可能性が高いものと思われる。
心礎であるとすれば、大きさは極めて小さいものではあるが、心礎として許される許容範囲の大きさではあろう。
また、円形堀込についても(後世の加工がないとすると)その径・深さから「柱穴」として矛盾があるものではない。
勿論、礎石の大きさが相当小さいのに、柱穴の大きさは標準的であり、この意味で若干バランスを欠くきらいはある。
 舎利孔は無いと思われ(記載がない)、また方形ということなども勘案すれば、古代末期の様式であろう。
但し、国分尼寺に塔が建立されたという例は皆無であり、このことから、この礎石が心礎であるとすれば、この心礎は佐渡国分尼寺に属するこものではないと思われる。
なお吉岡の地には「国分寺の薬師は昔には吉岡にあった云々・・吉岡には身代りの薬師を置いた」 との伝承を残すといい、これは国分寺と吉岡とには何らかの関係があったことを示すもの伝承かも知れない。
あるいは、吉岡の地には国分尼寺とは別の薬師如来を本尊とする古代寺院があり、古代寺院は退転したが、その名残りは新薬師寺あるいは薬師堂として今に辛うじて伝えられ、礎石その他の遺物を残すのかも知れない。
近所のお年寄り4人に聞き取り(2007/04/03):
「薬師堂須弥壇下に礎石があることは知らない。」「須弥壇下など見たことは無い。」「管理人が生きている時にはなにがしかの『講』が堂内で行われていたが、管理人が亡くなって、それ以降、堂には誰も入ってないだろう。」「鍵が掛けられていて薬師堂内には入れない。」「鍵は(近辺の曹洞宗の)○○寺(寺名は失念)が持っているも、堂は放置?されている。」
 ※※
薬師堂現況は以上のように「放置」状態で、今は信仰の対象から外れ、誰も寄り付かず、相当荒れている。
今すぐ倒壊という状態ではないが、このままの状態 が続けば、近い将来、倒壊・消滅の惧れもあるであろう。
そうなった場合「心礎」の紛失・破壊・流出などの事態が懸念される。
 佐渡吉岡薬師堂1:薬師堂は南東から北西に緩く下る緩斜面にあり、南面する。南面することは本来の正面を踏襲しているとも思われるが、
             もしここに古代伽藍があったとするならば、地形上南方正面が緩く高くなり、立地上はやや不自然とも思われる。
   同      2:薬師堂を中心とし周囲はかなり広い「寺屋敷」跡を推測させる区画を持つ。
             近世までなんらかの寺院(新薬師寺)が構えられていた可能性が考えられる。(推定)
薬師堂はよく見られる1間四方の「辻堂」のレベルよりは大きい堂で、床下は暗く投光しなければ、様子は良く分からない。
床下に無理に潜り込む隙間はあるが、ライトや服装などそれなりの装備・心構えが必要と思われる。
であるから、外から床下を覗き込むだけでは、心礎(礎石)の有無やましてやその形状などは皆目分からない。
辛うじて、それらしきものが感じられる方向を撮影したのが、下の床下写真である。(推定礎石?あるいは見当外れ?)
 佐渡薬師堂床下1   同       2   同       3
何れも、礎石と見えなくもないものも写っている気配はあるが、礎石かどうかは不明。
ましてや、円穴については全く確認は不可。

佐渡蓮華峯寺大塔

 佐渡蓮華峯寺

越後乙宝寺心礎

 越後乙宝寺

越後本成寺五重塔

「佛教考古学論攷」石田茂作に右記の記事あり。「越後本成寺五重塔、法華、文明年、天文頃焼失」
 三条本成寺

越後柏崎塔の輪心礎d:柏崎市東の輪

塔心礎がある。俗に「弁慶の硯石」と呼ばれ、たまり水が眼病に効能があるとの信仰があると云う。
東の輪町は「塔の輪千軒」の伝承があり、多くの寺院や家が建てられていたといわれる。現在柏崎市西本町にある海岸山大乗寺(番人堂)、法修山妙行寺、求法山明蔵寺、万福寺、ねまり地蔵、立地蔵 (薬師三尊)などの諸寺院の故地という。
心礎写真によると、方形の舎利孔(受蓋孔と思われる2段孔形式)があると思われる。
なお「天台宗時代の妙行寺の塔があり、・・・鎌倉時代前期のものと推定」されているとの記載もある。
 塔の輪心礎石:( 「陽だまり」ホームページ 」 所収)

越後本長者原廃寺

 本長者原廃寺(亡失・流出心礎)

越中伝真興寺跡:上市町黒川

 越中伝真興寺跡

越中小窪廃寺b:氷見市小久米

 越中小窪廃寺心礎・・・・移転し現存する

越中増山城二之丸心礎b:砺波市増山字城山

○「幻の塔を求めて西東」:二重円孔式、大きさ156×120cm、径28×25、径7×3cmの二重円孔を穿つ、和田川沿いの千光寺から遷すという。白鳳末。
○2008/07/16追加:
心礎と推定される石は二ノ丸にある。
二ノ丸は構造的に見て最も防御された区画であるため、主郭(本丸)と考えられる。
(さらに、根拠は不明ながら二之丸には仏教施設があったと云う説もある。)
ところで、この推定心礎は籏台石であると云う説もある。
 増山城二之丸心礎:この画像はpublic domainに属する(public domain宣言画像)。
○2009/11/25追加:
現地説明板では二之丸推定心礎は「神水鉢」」と云い、窪みには常時水が溜まっており、渇水時にも枯れることはないと解説する。
籏台石とする説もある。また籏台石を塔心礎とし、ニノ丸は仏教施設が存立した空間であったとする説もある。
 ※増山城:南北朝期には和田城してその存在が知られる。戦国期には神保氏の拠点であり、永禄3年(1560)上杉謙信の富山城攻略後、神保氏は増山城に篭城する。永禄5年(1565)神保氏、上杉氏に降伏し、増山城を本拠地とする。
天正4年上杉謙信、増山城の神保氏を攻略、天正9年(1581)織田軍の攻略を受け落城。元和の一国一城令により廃城。
 ※二ノ丸:増山城の本丸(主郭)。北東角には鐘楼堂(隅櫓)がある。
◎増山城二之丸推定心礎が心礎であることの確定的証拠はないが、大きさ及びその形状、さらに二重の円孔を持つことで心礎であることの可能性はかなり高いであろう。
では如何なる由来の心礎なのか。まず、この山城に塔婆の建立があったとは考え難く、またあったとしても中世後期に心礎を必要とした塔などほぼありえないであろうから、この心礎は付近の寺院から搬入し、本丸庭園の蹲などに転用したものと考えるのが自然であろう。
であるとすれば、如何なる寺院からであろうか。
「幻の塔を求めて西東」では、典拠や根拠は不明ながら、千光寺からの移転と云う。
ちなみに千光寺とは次のような概要である。(※千光寺:富山県砺波市芹谷1111)
 高野山真言宗、芹谷山と号する。大宝3年(703)法道上人(天竺僧円徳)と伝えられる。後に弘法大師空海によって再興。永禄年間(1558-70)上杉謙信の越中攻略ですべて焼失、近世に加賀藩主の祈祷所となり再建。観音堂安置銅造観世音菩薩立像は奈良期のものと推定される。現在は、観音堂(文政2年)、本堂、閻魔堂、鐘楼、稲荷堂、土蔵(天明5年)、経堂、庫裡、山門(寛政9年) 、御幸門(通用門・高岡高岳山瑞竜寺裏門を明治5年に移建)などを有する。
 要するに、千光寺はかなりの古刹との伝承を持ち、現在千光寺に塔婆の建立があったとの情報は得てはいないが、古代に塔婆の建立を見たことは十分考えられるであろう。さらに当寺は和田川沿いにあり、同じく和田川沿いの増山城の数キロ上流に位置する。もし、千光寺から心礎が搬入されたとすれば、水運で搬入するのに好都合な位置関係にあるのも事実である。
 なお、常に水を蓄えている「神水鉢」とは後世の作り話の類であろう。
籏台石であると云う説は形状から連想される後世の思い付きであろう。あるいは実際に円孔を利用して旗台として使ったことがあったかも知れないが、そうだとしてもこの石が心礎であることの何の妨げにもならないことは自明である。むしろ旗台のためにわざわざ大石を加工する方が不自然であろう。心礎を転用した方が合理的であろう。
 越中増山城心礎1      同      2      同      3      同      4      同      5      同      6

越中寺家廃寺b:砺波郡福野町寺(現砺市寺)寺家

○「幻の塔を求めて西東」:柱座造出一重円孔式、大きさ140×87cm、径70×5cmの柱座造出、径19×17cmの円孔を持つ。白鳳。
○2008/07/16追加:
「北陸の古代寺院」北陸古瓦研究会、桂書房、1987 より
皇孫(みこ)塚の伝承を持つ地に鏡岩と呼ばれる心礎がある。この心礎に着目した長島勝正氏は近くの神社(日吉山王権現)にある夫婦岩なる枘孔のある礎石と一対(心礎とその脇柱礎)のものとの指摘をした。
心礎は凝灰岩質で風化が進み、円形柱座は不明瞭になっている。
「越中志徴」では心礎の孔から鏡を得たとあり、舎利容器などの納入物があったと思われる。なお未だ瓦が出土せず、堂塔は瓦葺以外の屋根であった可能性がある。
○2009/11/25追加:
◇「福野町史 通史編」福野町史編纂委員会、平成3年(南砺市教育委員会様ご提供) より
寺家日吉権現社が現地にある。日吉権現神職の始まりは以下と伝える。天正13年(1585)増山城下の「吉岡うたま」が井波大蓮寺に入寺し了宝と改名、天正16年寺家村に移住する。享保2年(1717)では惣坊山泉竜寺と号する。
日吉権現付近に3個の礎石が残る。
一つは皇孫塚(みこつか)といわれ、田中にある。これは心礎であろう。
明治初年この礎石を掘り上げようとしたところ、その人は病気になったとの伝承を持つ。
残りの2つは夫婦岩で、元は田中にあったが、今は山王権現境内に移されて在る。これは内径20cmの柱座と方形の繰り出しを持つ。
 越中寺家廃寺心礎     越中寺家廃寺心礎実測図
 越中寺家廃寺夫婦岩     越中寺家廃寺夫婦岩実測図
◇寺家やその西には院林(ここにも山王権現がある)などの地名があり、何らかの寺院があったものと推定される。しかし明確な遺構が発見されたわけではない。(例えば、平成19年想定廃寺跡付近を発掘するも、寺跡は確認できなかったというWeb情報もある。)
夫婦岩は付近の田中から掘り出された云い、おそらく枘孔を持つ礎石であろう。一帯は奈良期〜室町期の遺跡とされる。
現状、心礎は田圃の中にあり、条件(作物成育中、水を入れた時期、休耕中でも雨中でヌカルムなど)によっては接近が困難の場合がある。心礎の保存・亡失の防止などの観点から、適切な保存措置が望まれる。 (今般も雨中・強風・ヌカルミで接近は相当困難であった。勿論田圃は私有地であろうから、この点も接近するには気後れがする。また、万一私有物の売却などの事態が発生した場合、保全処置が後手に回り亡失などの惧れがあるとも思われる。)
 越中寺家廃寺心礎1       同        2       同        3       同        4       同        5
 越中寺家廃寺夫婦岩1      同         2       同         3       同         4
 越中寺家日吉権現

越中宮後キンケン塚b:南砺市宮後

「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、大きさ96×80cm、径21×11cmの円孔を穿つ。元位置から移転、奈良後期。
「井口村史 下巻」に実測図と法量の記載がある。
現在亡失と思われる。
※宮後キンケン塚(塔土壇と推定される)から池尻真光寺へ移すと云うも、現在心礎の所在が不明、亡失と思われる。
 越中宮後キンケン塚心礎

能登赤蔵権現:能登田鶴浜町

 能登赤蔵山・赤蔵権現

能登石動五社権現(石動権現)

 能登石動五社権現

能登永光寺利生塔跡

 能登永光寺利生塔

能登柳田シャコデ廃寺心礎

 移転心礎のページ → 能登柳田シャコデ廃寺の項

加賀卯辰山観音院三重塔

 加賀金澤卯辰山観音院三重塔:承應3年(1654) 建立。寶歴9年(1759)類焼。弘化3年(1846)再建。
  明治の神仏分離の処置で観音院は廃寺となるも、三重塔は舊観音院の元地に残存する。明治22年塔より出火し、燃え落ちる。

加賀金沢城跡手洗石【心礎と推定する説も有】

○2010/09/07撮影:
加賀金沢城三十間長屋前にある「手洗石」が心礎である可能性【心礎推定説有】は実見した形状から判断すると可能性は低いと思われる。
大きさについては小型ではあるが心礎である条件を備えている。
しかし致命的なのは円孔のある表面が平滑にされていないことである。現存する心礎を見た限り、まず例外なく表面は柱座を作らないまでも、円穴・円孔の縁のレベルにあわせて最低限平滑に削平する加工がなされるもしくは表面が平滑である自然石が使用される。この点でこの「手洗石」 が心礎とすれば極めて異形な心礎と云わざるをえない。
さらに実測はしていないが、この円孔は円筒形ではなく、上面の径が下面の径よりやや大きい円孔(断面は台形)になっていると思われる。現存する心礎の円穴もしくは円孔は知る限り円筒形に彫られているであろう。これは心柱の安定支持の観点からも、 また日本建築の基本は垂直・水平に造作するという基本形から、この穴・孔は円筒形であるべきであろう。
以上の2点から、形状的には心礎である可能性は低く、やはり手洗石として、自然石が加工されたと考えるのが自然であろうと思われる。
但し、下記のサイトでの論述のように「柱の礎石であるとの言い伝え」があることや城址の元々の前身は古代寺院であった可能性も排除できず、もし古代寺院であったならばその心礎が「手洗石」として転用された可能性も残るからである。また加賀末松廃寺の心礎について「この地の一部分に近年まで表面に円孔を有する巨石あり世俗にその岩根は竜宮城に達すと称せられ藩主前田綱紀この石を金沢城に運搬せんため多人数を使役せしも動かざりしと伝える。」との伝承もあり金沢城に「心礎」が搬入された可能性もあるからである。
 加賀金沢城手洗石11       同        12       同        13       同        14
   同        15       同        16       同        17       同        18
   同        19       同        20       同        21     金沢城三十間長屋
 :手洗石はこの写真右手方面にある。
○2010/08/13追加:加賀金沢城跡に心礎と推定される巨石がある。
この巨石についてはサイト「天海屋源七本舗」中の「著作集 歴史家 藤原知行」のページに「金沢城跡推定心礎」の論考があり、以下にこの論考を要約する。
・加賀金沢城址内に一つの大石がある。
それは自然石を加工したもので、長径は170cm、上部に径60cmの円孔が彫られる。手水鉢として使われたと伝承する。
・「金沢大学資料館だより bT」:二の丸から極楽橋を渡り石段を上ると、三十間長屋のある平面に出る。
ここに「手洗石」という中央に窪みを持つ巨石がある。178cm×113cm高さ71cmの大きさで、径59cm深さ19cmを測る円孔がある。
これは、藩政時代石垣に組み込まれたとされる巨石と対をなし、柱の礎石になっていたという言い伝えがある。
・「金沢城の発掘」井上鋭夫(金沢大学教授):「・・極楽橋を渡ったところには、藩政時代から石段が築かれており、これを登り切った平地(本丸付段)に手洗石という巨石がある。利家入城の頃は二箇あったが、一つは薪の丸の石垣にはめこまれたと伝えられる。手洗鉢用の石が二つ本丸付段にあるのも不可解であるし、その形状も手洗用には不向きであって、中央部を丸くくりぬいたところは、巨大な柱の礎石として用いられたようにも見られる。」
・「金沢城東御丸御本丸絵図」(金沢市近世資料館蔵)などでは、「手水鉢」の記載が見られると云う。(未見)
・この地金沢城は、通説では文明年中の建立になる真宗金沢御堂の跡で、御堂跡に天正8年佐久間盛政が築城、天正11年前田利家が入城したといわれる。
では金沢御堂以前の状態はどうであったのか。近年以下のような考古的な事実が知られるようになる。
即ち昭和43年の金沢城内の発掘調査で、「四脚門跡」(正方形に並ぶ礎石4個と基壇)、2棟以上の礎石建物、宝篋印塔の塔身・相輪、五輪塔などの残欠が出土する。さらに平成8年以降の発掘で、城 跡の南に位置する広坂遺跡では古瓦(奈良期)が大量に出土し、さらに寺院建物と推定される礎石建物跡も出土する。
つまり以上で得られた考古的な事実は以下を意味するのではないだろうか。即ち金沢城のある高台は、真宗寺院(金沢御堂)が構築される以前には古代寺院が営まれていたのではないだろうか。
Webサイトから直接の引用をすれば、「浄土真宗では、他の宗派で普通に見られる仏塔や石仏(地蔵菩薩など)をたてない。むしろ徹底的に破壊してきたほどである。浄土真宗寺院跡に築城された城の跡地から石塔類が発掘されるということは、真宗以外の寺院が以前そこに存在したと考えるべきである。」ということとなる。
以上のようなことが事実であるならば、現在金沢城址にある大石(手水鉢)はその大きさ及び形状から古代寺院の塔心礎である可能性が大きくなる。
(石川県埋蔵文化センターの報告書『金沢城跡T』)
ところで、昭和43年に発掘された云う四脚門については以下のように推論する。
発掘地は、「鉄門跡」より本丸跡地へ向かって東に70mほど入った地点である。柱間180cmの正方形の四個の礎石が発掘される。これは塔の四天柱礎ではないだろうか。
 ※しかしこの推論はやや暴論であろうと思われる。
なお、参考ながら、以下のような論察もある。
金沢御堂以前の寺院について、近世の地誌や寺伝など二次的な史料から、金沢城のあたりに真言宗「金沢寺」があったことがうかがえる。金沢寺とは白山加賀馬場の白山寺に属したと伝える寺院であると云う。

加賀末松廃寺(史跡) :野々市町:加賀国分寺とも想定されるが、確証はなし。

○2010/09/07撮影:
塔は柱間12尺(3.6m)の等間である。心礎のみ復元基壇に置かれる。心礎は青戸室石を用いる。
塔阯からは平安期の瓦塔が出土する。心礎は唐塔石(カラトイシ)と呼ばれて水田に横たわっていたと云う。
平安後期に規模を縮小して再建されるも、鎌倉期には廃絶したと推定される。
 加賀末松廃寺心礎1       同        2       同        3       同        4
   同        5       同        6
   同 金堂・塔復元基壇       同   塔復元基壇1       同   塔復元基壇2       同   塔復元基壇3
「石川県の文化財」昭和60年 より
白山に源を発する手取川の、扇状地に位置する。昭和42年(1967)−43年に発掘調査。
その結果、1辺13mの基壇上に、1辺10.8mの塔建物があったと推定される塔跡と、その西側に東西20m・南北18mと推定される金堂跡基壇が検出される。講堂跡や門の跡は未確認と云う。
寺域は、東西が80m、南北の規模は不明。これらの建造物群が廃絶したのち、平安後期に再建されたことが、金堂跡基壇の上の石敷きや掘立柱建物群から推定される。主な出土品には、単弁系蓮華文軒丸瓦を初めとする多量の瓦や銀銭和銅開珎などがある。
心礎は明治21年に東にある大兄八幡宮に奉納されていたが、史蹟整備で原位置に戻される。
心礎は2.24m×1.65m、中央に径58cm深さ11cmの孔を穿つ。
なお文化会館(フォルテ)常設展示場には、末松廃寺復元模型が展示され、七重塔として復元されていると云う。(未見)
 加賀末松廃寺塔基壇    同       塔跡    同       心礎
 同末松廃寺塔模型1     同        2     同        3(写真は「X」氏 ・2002年11月撮影画像)
「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、大きさ224×165、径58×11の円孔を穿つ。白鳳。
2008/07/18追加:
「石川県史蹟名勝調査報告 第2輯」石川県編、大正13年
末松の唐戸石:
末松部落の西に通称「唐戸石」と唱ふる地籍あり、この地の一部分に近年まで表面に円孔を有する巨石あり世俗にその岩根は竜宮城に達すと称せられ藩主前田綱紀この石を金沢城に運搬せんため多人数を使役せしも動かざりしと伝える。また土木用に転用のため爆薬で破壊を試みるも破壊に至らず。
然るに近年之を村社大兄八幡神社の境内に移し手洗水鉢として使用するに至れり。
この石は卵形で大きさは6尺×5尺×高4尺(地上部)、表面にはやや偏して径1尺9寸2分×3寸5分の円孔を穿つ。
この礎石はかつては加賀国分寺ならんと考証せし者あれど、何等の確証なし。
「のっティ新聞Vol.9」記事:
「末松廃寺の名が朱仏寺である可能性が高い」と云う。
その根拠は昭和42年末松廃寺で発掘された土器の底に「朱仏寺」の墨書があったことによる。
 朱仏寺墨書:「のっティ新聞6月号」2008年夏号 より転載、解読は国立歴史民俗博物館の平川南館長と云う。但し肉眼では判読し難い。
「日本の木造塔跡」
現在寺院跡は史跡公園として整備される。整備にあたり、心礎は大兄八幡社より戻される。

加賀ジュウクドウヤマ遺跡(十九堂山): 推定加賀国分寺跡、古府廃寺:小松市古府町

2012/03/13追加:加賀国分寺(勝興寺)跡 の有力な推定地である。
「X」氏より、下記「佛教藝術 315号」の資料提供を受ける。
○「加賀国府周辺の古代山岳寺院」望月精司(「佛教藝術 315号(特集山岳寺院の考古学的研究 東日本編)」佛教藝術學會、2011.3 所収) より
 古府町の国府台地は起伏に冨む独立台地の集合の様相を見せる。
北からジュウクドウ山(十九堂山)、テンヤマ、フナンヤマ(府南山)である。
テンヤマに国衙があったと想定され、その北の十九堂山には国分寺(勝興寺)があり、南には加賀惣社である府南社が建てられていたものと推定される。
 しかし、昭和2〜6年の耕地整理で十九堂山は殆ど削平され、遺構はほぼ破壊される。昭和29年の国分寺確認調査では、既に塔心礎が府南社に動かされたことが確認されている。
 現在テンヤマは住宅地となり、フナンヤマのみ旧地形を留め、そこには府南社(国府の南に位置する社の意、式内石部神社と称するも不詳)が現存する。
府南社にはジュウクドウヤマ遺跡にあった心礎が現存と云う。
   「昭和29年の国分寺確認調査の段階では、既に塔心礎石が旧府南社の石部神社境内に動かされていることが確認されている。」
   この心礎の写真は「国府村史」国分村史編纂委員会、昭和31年 に掲載されている。(未見)
 加賀ジュウクドウヤマ遺跡心礎:大きさなど詳細な情報は不明
 ※この心礎は十九堂山から動かされるということが真実なら、
府南社にある心礎は加賀国分寺(勝興寺)心礎と云うことになるが、確証はない。
 ※石部神社とは延喜式にその名があるという、 つまり延喜式にその名があるということをわざわざアゲツラウということは、古代・中世には廃絶していた社を、幕末明治の頃 に無理やり、それらしくでっち上げ、付会した類のものであろう。要するに復古神道や国家神道が府南社と言われる社にその名を付会しただけの浅薄なものであることは容易に推測できる。
 また、加賀一宮の地位を白山権現と争ったこともあると云い、これも「権威」あるはずの「一宮」なるものの「いい加減さ」を露呈しているだけであろう。
 なお白山権現は越前馬場平泉寺、美濃馬場白山本地中宮長滝寺(現在は長滝白山神社と改竄)の管理に与った。
○2012/10/14追加:2012/09/15「X]氏撮影画像
 府南社所在伝心礎1     府南社所在伝心礎2
  :ジュウクドウヤマ遺跡心礎、伝加賀国分寺心礎、伝加賀勝興寺心礎
正確な大きさは不詳なれど、採寸の結果は差渡し1m強であったと云う。
ただし、なぜこの石が十九堂山遺跡(推定勝興寺)の心礎とするのかその根拠が不明であること、また少々上面が荒れこの現状では柱座としての心礎の役割を果たせないことなどの理由で心礎であることまた勝興寺のものであることは少々疑問である。
特に、表面の荒れは後世の破壊である証明がなされない限り、心礎と認めるわけにはいかないであろう。
○2012/10/29追加:「X」氏情報
府南社所在伝心礎法量:大きさは104cm×100cm、孔の大きさは径18cm、深さ8cmを測る。
○2017/05/14撮影:
もし、心礎であるならば、表面及び側面は、いかなる理由かは不明であるが、相当程度破壊されているものと思われる。
実測値:円孔は径18cm、深さの現状はおよそ5cm、形状は椀形を呈する。
 加賀ジュウクドウヤマ遺跡心礎1     加賀ジュウクドウヤマ遺跡心礎2     加賀ジュウクドウヤマ遺跡心礎3
 加賀ジュウクドウヤマ遺跡心礎4     加賀ジュウクドウヤマ遺跡心礎5     加賀ジュウクドウヤマ遺跡心礎6
 加賀ジュウクドウヤマ遺跡心礎7     加賀ジュウクドウヤマ遺跡心礎8

加賀弓波廃寺(法道寺跡):加賀市弓波町

○2010/09/07撮影:
現在礎石がある忌浪社の東300mに寺田と云う地があり、この心礎は「宝塔石」と呼ばれていた礎石で、そこから運ぶと云う。この古代寺院は 弓波の天台宗諦通院として存続したが、中世真宗に転じ、加賀打越勝光寺、小松勝光寺となると伝える。
 加賀弓波廃寺心礎11      同        12      同        13      同        14
   同        15      同        16      同        17      同        18      同        19
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、大きさ200×170×85cm、径68×21/21.5cmの円孔を持つ。白鳳。弓削神社境内にあり。
○2008/07/16追加:
「石川県史蹟名勝調査報告 第2輯」石川県編、大正13年 より
忌浪の礎石:
県社忌浪神社の境内に手洗水鉢として使用する巨石は、元当神社東方約3町の通称「宝塔谷」と称する畑地より3余年前に今の場所に移す。
礎石は凝灰岩製で、大きさは径6尺・高2尺3寸5分(地上)、上面に径2尺2寸6分深さ7寸2分の円孔を穿つ。
旧地である畑地では多数の古瓦が埋没する。世俗には勝光寺跡(打越勝光寺の原寺地と伝ふ)と云う。
○「北陸の古代寺院」北陸古瓦研究会、桂書房、1987 より
昭和52年加賀市教育委員会の範囲確認調査で、掘立柱建物跡や柱穴列跡等が検出され、塔心礎石が所在した位置から、「法起寺式」の伽藍配置が想定されている。出土遺物は、多量の瓦と奈良時代前半と平安時代前期の土師器、須恵器、円面硯、鋤鍬先などがある。
「テラダ」「コンドウ」「ホウトウイン」の字が残る。
 弓波廃寺寺域推定図
○「日本の木造塔跡」
円穴の底に三日月形の孔が2個ある。(一つは長さ22cm×幅4.8cm×深さ4.8cm、もう一つは長さ9cm×幅3cm×深さ3cm)これを舎利孔として見るのは無理があるだろう。
後世の偽刻とも考えられるが良く分からない。

加賀宮地廃寺:加賀市宮地町 :加賀国分寺とする説もあるが、確証はなし。

○2010/09/07撮影;
心礎が現存し、地元では「じょうじゃの釜」と称したと云う。 現在圃場整備された田中のなかに心礎のみ遺存し、その他の遺構は全く目認できない。心礎は粗い火山岩様の石で2個に割れている。
心礎大きさは2.2×2,1×1.2mで、径92×15/20cmの孔があり、更に径15×9cmの孔を穿つ。土壇様の高まりにある とも云うが現状は良く分からない。白鳳期の瓦を出土する。
 加賀宮地廃寺心礎11       同        12       同        13       同        14
   同        15       同        16       同        17       同        18
○「幻の塔を求めて西東」:二重円孔式、大きさは240×230×130cm、径93×18、径15×10cmの円孔を持つ。白鳳。半分に割れている。
2008/07/16追加:
○「石川県史蹟名勝調査報告 第2輯」石川県編、大正13年 より
宮地の礎石:この大塔礎石は通俗「じようじようノかま」と称する。礎石は黒色の火山集塊岩で今2個に分割される。
心礎は大よそ一辺7尺の方形で高さは4尺(地上)を測る。表面中央には径3尺1寸深さ6寸の円孔を穿ち更に底中央に径5寸深さ3寸4分の小円孔がある。
 加賀宮地廃寺心礎
○「北陸の古代寺院」北陸古瓦研究会、桂書房、1987 より
地名として「テランマエ」「ダイモン」「コンドウ」「ソウボ」などが残る。昭和50・51年に範囲確認調査を実施するも、数次の耕地整理で削平され、遺跡の残存状況は悪く、明確な遺構は出土せず。
 宮地廃寺遺構図
2009/09/14追加
○「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
心礎は現在2個に割れているが、大きさは一辺約7尺、見える高さ約5尺、中央に径3尺1寸高さ6,7寸の円孔があり、底中央に径5寸、深さ3寸5分の舎利孔がある。付近に金堂・講堂の名を存す。
 加賀宮地廃寺心礎実測図

越前豊原寺跡:丸岡町豊原

大宝2年(702)泰澄によって開山、天長年中(824〜834)昌滝和尚によって再興。
中世に白山信仰の拠点として、多くの寺領を持ち、豊原三千坊と称する大勢力となる。「豊原寺縁起」
天正3年(1575)一向一揆の本拠地となり、織田信長の越前攻略で、全山焼亡。
江戸期、福井藩により、華蔵院などが再興される。
明治の神仏分離で廃寺となる。(明治の神仏分離で華巌<ママ>院と白山神社に分離し、華巌院は廃寺となる。)
白山神社、伝講堂跡、閼伽井(「塔ノ池」あるいは「薬師の水」とも云われる)、坊舎跡などを残すと云う。
「社寺境内図資料集成 1巻」より
 越前豊原寺見取図:天保元年(1830):金津町願泉寺蔵
中世の景観と思われる。豊原寺の盛大な様子が覗え、中心伽藍には五重塔が描かれる。

越前真光寺塔址:清水町片山

越前真光寺塔址1    同       2 ・・・「X」氏 ご提供画像(2001年11月13日)
○「福井放送記事」(2001/10/26、「X」氏より入手)及び「朝日新聞(福井版)」(2000/10/27)記事の要約 :
 『清水町の真光寺跡から、推定鎌倉時代建立の木造の五重塔の跡が、確認された。塔跡は本堂跡から南東に約20m離れた丘陵上にある石造塔跡で、地表の約70cm下から、5.4m四方の基礎の部分が見つかり、中央からは心礎を発見。
心礎は約2m四方の正方形の石で、さらに心礎の周りには12本の柱を支えていた跡も出土した。
塔跡は、鎌倉時代に木造の五重塔を建て、室町時代に火災後、跡地に高さ約4mの石造塔を建てたとみられる。通常心礎は三重塔には見られないため、五重塔の跡と判断され、高さは20mくらいあったものと 推定される。
また心礎の周囲からは焦げた土や笏谷石が見つかっており、木造の五重塔が焼けたあとに、高さおよそ4mの石塔が建てられたものと推定される。』

「X」氏情報:清水町教育委員会に確認した処、発掘調査終了後、すぐ心礎は埋め戻されると云う。
○真光寺跡(「日本の地名・福井県」):
片山(120m)山頂にある竜王神社西麓の参道下が寺跡と考えられる。
「越前国城蹟考」には「屋敷跡 <朝倉家>真光寺、<信長時代>増井甚内之助、・・・」と記され、城館にも利用されたとされる。
増井甚内之助は富田長秀(長繁)の与力で、元亀3年(1572)8月、富田長秀とともに朝倉義景に背いて織田信長の軍門に降り、朝倉氏滅亡の後は真光寺跡に居館したものと思われる。その後、増井甚内之助は天正2年(1572)一向一揆に攻め滅ぼされたとされる。「朝倉始末記」
○「片山真光寺塔跡現地説明会資料」(「X」氏より入手):
 越前真光寺跡概要図
 真光寺木造塔遺構(第1期):鎌倉期の木造塔の遺構
 真光寺石製塔遺構(第2期):木造塔退転後、室町期の石塔の遺構
 真光寺塔跡実測図1
○2009/03/18撮影:
 越前真光寺塔跡:写真中央五重石塔のある場所が塔跡、手前は西光寺。
   同      2:写真右が塔跡
 越前真光寺塔跡3      同      4      同      5      同      6      同      7      同      8
現地説明板より:
 真光寺発掘調査     真光寺塔跡実測図2     石塔推定復原図

越前白山平泉寺(白山三所権現、白山権現、白山妙理権現)

平泉寺略歴:
白鳳11年(682)泰澄は白山に登山し、白山神の神託を受ける。
白山神の本地は白山禅定(白山山頂)は十一面観音、別山は聖観音、大汝峰は阿弥陀如来であると云う。(「白山三所権現」)
泰澄はこの三つの峰を祭祀し、白山三所権現と称する。「泰澄和尚伝記」
「元亨釈書」:養老元年(717)泰澄が白山を開く。
天長9年(832)加賀・越前・美濃の三馬場を設置、禅定道が整備される。「白山之記」長寛元年(1163)
 加賀馬場:白山本宮白山寺、越前馬場:白山中宮平泉寺、美濃馬場:白山中宮長滝寺でいずれも泰澄の開山という。
「文徳実録」:仁寿3年(853)の条に「加賀国白山比盗_」とある。(白山比唐フ初出)
応徳元年(1084)平泉寺、延暦寺未となる。延暦寺末になることで、荘園領主としての勢力を増す。
中世(室町期)平泉寺の勢力は「9万石・9千貫の神領、48宮、36堂、僧坊6000」といわれ、一大武装勢力となる。
当時の景観は
三社権現社殿・拝殿(45間8分<80m強>×7間2分<約13m>・・・礎石現存という)を中心に講堂・今宮・若宮・大師堂・大塔・宝塔・常行堂・三ノ宮・鐘楼などの堂宇を有し、坊舎は南谷 3000・北谷3000あるいは南谷1800・北谷1200とも云われる。
天正2年(1574)一向一揆が平泉寺を襲撃、一揆は堂塔・坊舎に放火し、平泉寺は灰燼に帰し、多くの所領を失う。
賢聖院顕海、弟子の専海・日海とともに、美濃市布村に隠棲。
天正12年顕海、中宮三社仮殿を造営し平泉寺を再興。
その後、武将たちの寄進を得て、概ね慶長年間までに三所権現正殿、拝殿、大師堂、鐘楼、奥之院、三之宮、薬師堂などの諸堂が建立される。
慶長六年(1601)結城秀康、平泉寺玄成院に200石を寄進。
寛永元年(1624)平泉寺玄成院に朱印200石。
寛永三年福井藩100石寄進。寛永七年(1630)勝山藩主松平直基30石寄進。平泉寺玄成院社領330石。
寛永8年(1631)東叡山寛永寺末となる。近世には白山大権現・白山妙理権現と称する。
明治の神仏分離で平泉寺は廃寺、白山神社となる。

 「中宮白山平泉寺境内図」:(白山神社蔵):2005/04/22掲載中止
現在白山神社蔵となる「中宮白山平泉寺境内図」には大塔(三重塔)が描かれる。
<南大門のすぐ右手(東)に大塔はあり、正面が大講堂、東に三十三間拝殿という壮大な拝殿があったと思われる。>

現宮司は平泉隆房
 「平泉寺・平泉隆房氏」
隆房氏は平泉寺玄成院義章(還俗、平泉須賀波)、平泉澄、平泉洸と続く平泉寺直系である。

越前日圓寺/越前利生塔:但し、位置は不明という。

 →越前日圓寺

越前篠尾廃寺:福井市篠尾字塔垣内 (酒生廃寺)

○「福井県史」:心礎が残存する。心礎の大きさは2.6×2.0×1.2mで、中央に径88×22cmの円穴が彫られ、底部中央に2.5×2.5cmの孔を穿つ。心礎は原位置を若干動いているとされるが、周囲には礎石が散在しこの位置が塔跡と思われる。昭和46年の発掘で基壇の一辺が12.1mと判明した。水田の中に畑地が残りその中央が塔跡という。出土瓦は白鳳期のものとされる。
○「日本の木造塔跡」大きさは2.25×1.60mの矩形の石で、径88/86×19cmの円穴に径5×4cmの舎利孔を持つ。側柱礎と思われる礎石が5個散在する。
 越前篠尾廃寺心礎1       同        2       同        3       同        4       同        5
   同        6       同        7       同        8       同        9

一乗谷諏訪館跡

塔の心礎と考えられるものがあるという。詳細不明。

稲荷大明神神宮寺

三重塔があったという。詳細不明、福井県池田町須波阿須疑神社

越前室谷廃寺b:今立郡今立町

 越前室谷廃寺心礎 現在は福井県立歴史博物館の収蔵庫に保管、暗闇の中で眠る。

越前川島蓮華寺塔婆跡

 越前川島蓮華寺塔跡:日吉別所蓮華寺跡に塔婆(層塔)跡が残り、ほぼ礎石が完全に残る。
  そしてその礎石上にはおそらく塔婆と思われる古材を流用した「塔佛堂」と称する一宇が残る。

越前深草廃寺:越前市南深草町竜泉寺境内がその遺構

○「福井県史」:「・・現在・・塔・金堂跡などの伽藍は確認されてはいない。だが、沓脱石に利用されている石には、残欠ながら径43cm内外の円形彫出しがみられ、心礎石であったと思われる。竜泉寺は応安元年(1368)創建と伝えられ、 武生藩本田家菩提寺であった。南北250m、東西170mの広い寺域をもつ。深草廃寺はこれに重なっている可能性が高い。遺構は明らかでないが、礎石残欠や出土瓦などによって、県内最古の成立寺院との見方ができる。」「瓦は・・白鳳期前半に比定されている」
以上の記載を単純に理解すれば(断定は出来ないが)、靴脱石は心礎というよりは、単に礎石と思われる。
○礎石は霊光殿(昭和48年再建)傍らに置かれている。(現在は沓脱石ではない。)
礎石は相当程度割られている。大きさは径およそ70cmの柱座が残る。礎石は割られているので少なくとも径70cm以上の柱座を持つものと推定される。更に、出枘があったものとも推定され、今は削平されているが、中央にある平滑な円形部分は出枘が削平された痕跡とも思われる。「福井県史」では沓脱石として利用と云い、であるならば、沓脱石として転用された際に出枘が削平されたとも推測される。 (見方によっては径43cm内外の円形造出と見えないこともない。)
以上、この石は円形造出柱座や出枘の痕跡を持つと思われ、礎石である可能性は高いが、心礎であるかどうかは不明(可能性は低い)。
2009/04/07撮影:
 越前深草廃寺伝心礎1       同         2       同         3
 なお当廃寺を越前国分寺跡とする見解もある。
(創建は奈良期以前であるが、当寺が国分寺として転用された可能性が高いと云う見解がある。)
2017/11/28撮影:
 越前深草廃寺伝心礎:現在は伝心礎上に石仏とそのその龕が置かれ、礎石の表面を観察することは出来ない。
深草廃寺跡には禅宗龍泉寺が置かれている。
 府中龍泉寺本堂     府中龍泉寺僧堂
 府中龍泉寺諸堂1:写真中央付近に石仏龕が写る。     府中龍泉寺諸堂2:諸堂とは堂宇名称が不明。

越前大虫廃寺:越前市大虫本町中江

○「福井県史」:心礎が現存する。1.9×1.3m×0.9mで、中央に径15cmの孔を穿つ。
昭和41年の発掘調査で一辺12mの玉石乱積み基壇が確認され、基壇上に上記心礎があった。出土瓦から白鳳期創建とされる。
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、心礎の大きさは140×140cm、経21×16cmの円孔を穿つ。
○現在は基壇が復原され、心礎以外の復原礎石も置かれる。 但し、この地は古代平地寺院建立には絶好の適地と思われるも、付近が開発され、あたかも自然・環境破壊の免罪符のような取って付けた整備であろう。
なお大虫廃寺は推定越前国分寺跡として福井県史跡に指定される。
しかし、この廃寺が国分寺であるという見解は、当廃寺の規模から判断して否定的な見解も多い。
あるいは、平安前期に国分寺が当寺に移された可能性が高いという説もある。
2009/04/07撮影:
 越前大虫廃寺塔跡1       同        2
   同      心礎1       同         2       同         3
2017/11/28撮影:
 越前大虫廃寺塔跡11    越前大虫廃寺塔跡12    越前大虫廃寺塔跡13    越前大虫廃寺塔跡14    越前大虫廃寺塔跡15
 越前大虫廃寺心礎11    越前大虫廃寺心礎12    越前大虫廃寺心礎13    越前大虫廃寺心礎14    越前大虫廃寺心礎14

越前慈慶寺心礎:在法雲寺(法雲寺は真宗出雲路派、越前市桧尾谷町4−4)

現地掲示の説明板の要旨は以下のとおり。
法雲寺の前身は真言宗慈慶寺であり、堂塔を備えた大刹であった。
桧尾谷町奥ノ谷口の小字地境寺(1Ha)に礎石や墓石が残っていたが、昭和46年の圃場整備で礎石などを法雲寺に移す。
礎石中央の枘穴の径は15cmを図り塔の心礎である。これら礎石・五輪塔は中世のものである。
慈慶寺は鞍谷氏(斯波義俊)の菩提所であったが、天正3年(1575)織田信長の一向一揆討伐の将瀧川一益の焼討で壊滅する。
なお、五輪塔・宝篋印塔は法雲寺墓地に建っている。(旧地から移建したということか。)
 ※以上によれば、塔は中世の建築であり、かつ礎石は移動し、さらに元位置での遺構状況の情報がなく、心礎と断定するには躊躇せざるを得ない。
しかし、慈慶寺の創建が古代に遡り、何らかの塔婆が建立されていたことも考えられ、この場合は形状から古代の心礎といってよいであろう。
 越前慈慶寺心礎:「X」氏ご提供画像、2010/09/12撮影
○2017/05/14撮影:
 越前慈慶寺心礎1     越前慈慶寺心礎2     越前慈慶寺心礎3:向かって右上に写る石は礎石であろう。
 越前慈慶寺心礎4     越前慈慶寺心礎5     越前慈慶寺礎石:推定

越前野々宮廃寺:越前市五分市「的場」

○「福井県史」:遺跡は小丸城域を含む広大な範囲と推定されているが、昭和34年からの発掘調査では、伽藍遺構は確認されず、また、平成3年の調査でも版築遺構は検出されたが、建造物の遺構は発見されなかったという。
礎石も塔心礎と断定できるものは存在しない。
ちなみに小丸城に残る穴の石は礎石とは考えられず、神社の石鳥居の基礎石との見方もできる。
(小丸城本丸跡は約50m四方の円墳状の丘であり、南面野面積石垣に、野々宮廃寺の礎石と思われる穴のあいた石も組み込まれている。)
廃寺跡からは多くの出土遺物があり、創建は白鳳期とされる。
○「日本の木造塔跡」:小丸城城門の石垣に心礎が嵌めこまれている。大きさは100×93cm、中央に径17/14×7cmの円孔を持つ。
さらにもう一つ城跡南の野々宮廃寺跡に110×100cm、径15×4cmの孔を持つ心礎がある。
両者は良く似ていて、小型である。しかし大和龍門寺心礎よりは大きく、心礎であろう。しかも東西両塔の心礎であろうと思われる。
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、心礎の大きさは170×100cm、径21×19cmの円孔を彫る。小丸城跡にある。
○2個の心礎を残す。但し、福井県史では心礎であることを疑問視する。
 ◇野々宮廃寺跡の現状は良く分からない。土塁?で囲まれた?田畑跡状の地に心礎が1個残存する。この残存状況も良く分からない。 (廃寺跡写真の奥の石柱の所に心礎はある。)
 さらに廃寺跡で塔と推定される基壇なども未確認であり、廃寺跡心礎はその形状から心礎である可能性は極めて高いと思われるも、心礎であるとの断定は出来ないであろう。
 ◇北方約300m付近に小丸城(佐々成政築城)本丸跡があり、本丸跡石垣に心礎が組み込まれている。この礎石は小丸城築城の折、野々宮廃寺から運ばれたと推測される。なお、心礎以外の枘孔のある礎石(1個か2個)があると云うも、未見。
 この「心礎」については、写真・小丸城跡心礎4で見られるように、円孔が枘孔とすると、その周囲が多少盛上がり、心柱を据えつけるような削平がなされていない。ましてやその出所が推定の域を出ないとすれば、この「心礎」は心礎でない可能性が高いと考えざるを得ない。ましてや野々宮廃寺跡にも心礎と思われる「遺物」があり、廃寺が双塔を持つと証明されない限り、本丸跡の「遺物」を心礎とすることは無理であろう。
■野々宮廃寺心礎
2009/04/07撮影:
 越前野々宮廃寺心礎1       同         2       同         3       同      跡
2017/05/14撮影:
現地説明板1 より
野々宮廃寺は当地方を支配していた味真氏が氏寺として建立したと考えられる白鳳期の寺院址である。
礎石・塼仏片・瓦・和同開珎などが出土する。
また、小丸城本丸跡には心礎及び礎石と思われる枘孔のある石が2個見つかっており、築城の際この寺院址から運びだしたものと見られる。
 ※小丸城跡には枘孔のある石が2個見つかっているとあり、単なる礎石とされる枘孔のある石は未見である。
現地説明板2 より
発掘調査の結果、7間4間の金堂と中門と推定される遺構を発掘、白鳳期の塼仏片や単・複弁蓮華文の軒丸瓦、重弧文の軒平瓦などが発見され、この地は白鳳期の寺院址と兼任される。
 越前野々宮廃寺跡
 越前野々宮廃寺心礎11     越前野々宮廃寺心礎12     越前野々宮廃寺心礎13     越前野々宮廃寺心礎14
 越前野々宮廃寺心礎15     越前野々宮廃寺心礎16
■在越前小丸城跡心礎
2009/04/07撮影:
 在越前小丸城跡心礎1       同         2       同         3       同         4
2017/05/14撮影:
 在越前小丸城跡心礎11     在越前小丸城跡心礎12     在越前小丸城跡心礎13     在越前小丸城跡心礎14
 在越前小丸城跡心礎15     在越前小丸城跡心礎16     在越前小丸城跡心礎17
越前小丸城跡:2009/04/07撮影    越前小丸城跡:2017/05/14撮影

 ●附録:越前毫摂寺(真宗出雲路派本山、五分市本山)が付近南方にある。
※出雲路とは、天福元年(1233)親鸞が当寺を山城国愛宕郡出雲路の地に創建したことに由来する。その後、暦応元年(1338)山元の庄(越前水落付近・現鯖江市神明町・現山元派本山証誠寺がある)に移転。慶長年中、さらに現在地(味真野清水頭)に移転すると云う。

越前劔大明神(劔神社)・織田寺:丹生郡越前町織田

 越前劔大明神・織田寺

越前幸臨寺(香臨寺)三重塔

 越前幸臨寺

越前気比神宮寺

○「藤原氏家伝」下「武智麻呂伝」:霊亀元年建立
霊亀元年近江守であった藤原武智麻呂に気比神の託宣があって気比神宮寺が誕する。(神身離脱の託宣)
「太政官符(天元5年<982>)」:造気比太神宮寺一院事、講堂一宇・南金堂一宇・北金堂一宇・南三重檜皮葺 塔一基(高6丈6尺)・北三重檜皮葺 塔一基(高6丈6尺)・中門一宇
気比神宮社頭図:神宮寺があり、五重塔1基、三重塔2基(北塔・南塔)があった。この図は中世の景観とされる。
「三代実録」清和天皇御巻:この当時気比大神宮寺の大造営が行われたと推定される。
天元5年(982)前越前権守中臣丸良用に気比大神宮寺を造立させるようにとの越前国司宛の太政官符が発布。
太政官符によれば、その規模は以下のようであった。.
 七間檜皮葺講堂1宇、南檜皮葺二重金堂1宇、北二重檜皮葺金堂
 南三重檜皮葺塔1基 高6丈6尺、毎廻3丈8尺
 北三重檜皮葺塔1基 高6丈6尺、毎廻3丈8尺
 東三間檜皮葺中門1宇、南五間檜皮葺中門1宇、西三間檜皮葺中門1宇
 廻廊四面、経蔵、垣、大間、宝蔵、僧坊、食堂・・・など。
  → 初期古代神宮寺
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、大きさは137×179×60cm、37×11cmの円孔を穿つ。奈良後期。
但しこの記事は「幻の塔を求めて西東」の本体に記載されている記事ではなく、天理図書館蔵書に挟まれている西堀氏自筆信書である「塔心礎の追加表」に記載されているものである。
注目すべき記事であるが、心礎の有無、及び有としてもその所在場所は未確認。
○近世末の神宮寺の認識の一例は「敦賀幸臨寺」の「敦賀誌」の項を参照。
2014/11/14追加:
○「古代から中世の氣比社と敦賀」高早恵美(「神仏習合の源流をさぐる 氣比神宮と劔神社」越前町教育委員会、2010.9 所収)
元亀元年(1570)織田信長の越前侵攻に際し、・・気比社の社殿は焼き打ちに遭う。その後、結城秀康が越前に封じられ、・・・慶長8年(1603)・・気比社は復興を遂げる。
しかし気比神宮寺は辛うじて「神通寺」などの形で名を留めるばかりとなる。近世初頭の史料以外には全くその名が見えなくなり、廃絶したものと推測される。僅かな名残りとして境内に鐘楼があったが、明治維新後取り払われるという。
○2009/03/18再訪:
気比神宮寺心礎(「幻の塔を求めて西東」に記載あり。<手書資料>)については情報なし。
気比社神職の談:「神宮寺については郷土史家などが探しているが、全く痕跡が発見されていない。心礎についても、其の存在を聞いたことがない。心礎が残っているのであれば、こちらが知りたい。織田信長の軍勢に気比社は徹底的に破壊された故に、神宮寺の手掛かりは全く無い・・云々・・・」
現在、気比社境内には角鹿社の苑池、石碑台石、社務所庭園などにかなりの量の大石が残り、それらを一巡し、一瞥するも心礎らしきものは発見できず。
気比社現状は今なお戦前の国家神道の色を濃く残し(しかもそれを誇る悪弊がある)、社殿も空襲により戦後のRCの再建で特に見るべきものはない。
 若狭気比社社殿
 中世には社家48ヶ家、また検校・行司・別当・執当などの36坊(社僧)があったとされる。
中世末には織田信長の越前攻略で壊滅すると云う。
○2015/06/28:
心礎を実見する。
心礎の存在及びその場所を知り得たのは、次のWebサイトの「発見!氣比神宮寺心礎」というページである。
このページでは「福井市史」の紹介と敦賀市立博物館川村元館長の心礎位置のメモ書きの掲載がある。
 「福井市史」では「気比神宮寺の成立譚はどこまで信憑性があるか」と自ら問いかけ、その答えとして「境内から若干ではあるが古代に遡る瓦史料が出土することと塔の心礎は池庭の石に使われているということがあり」、それらから「成立譚の時期と同時期に何等かの瓦葺の堂塔が建立されていたことを物語る」という解答を導く。
 「心礎位置のメモ書き」によって心礎のある位置が分かり、それに基づき心礎を実見する。
円孔実測値:径38cm、深さ15cm(円孔中心点付近で最深である。):今般は雨中のこともあり、大きさは省略、円孔のみを実測する。
心礎の大きさは「幻の塔を求めて西東」では大きさは137×179×60cmとあるが、下の部分は土中にあり、高さ137cmは幅179cmと同等もしくはそれ以上の高さと思われる。さらに、下の写真で見るように、心礎上部にはいくつかの楔孔が見られ、その楔孔を利用して上部の一部は既に割られた形跡があり、それが無ければもう少し「立派な」心礎であったと思われる。
 気比神宮寺心礎位置図:YahooMapに加筆 、但し心礎のある池の周囲は手入れがなれている形跡はなく、少々荒れ、現場に足を踏み入れなければ心礎を見つけることは出来ない状態である。
 気比神宮寺心礎1     気比神宮寺心礎2     気比神宮寺心礎3     気比神宮寺心礎4
 気比神宮寺心礎5     気比神宮寺心礎6     気比神宮寺心礎7
 敦賀気比社大鳥居:重文:弘仁元年(810)東参道口に創建されるも、後世に退転、正保2年(1645)西参道口に礎石を移し、再興されたものである。 木造の鳥居である。

若狭興道寺廃寺(観音畑廃寺):美浜町興道寺

○2005/08美浜町教育委員会発表:
今年の発掘調査(第6次)により、推定金堂跡の基礎部分を確認と発表。
この堂跡は既に削平されてはいるが、建物の端であることを示す、3〜4個の石列が東、西両端から出土した。また付近には大量の素焼き瓦が散乱し、東端からは塼も発見された。以上により間口は約17mと推定。この堂跡が金堂跡と推定される。
また過去の発掘で推定金堂の東約10mで、一辺約12m塔跡も検出する。
興道寺は7世紀後半に建立され、平安期頃廃絶と推定される。1970年代後半の圃場整備事業に伴い発見されたと云う。
○「X」氏情報:
・今年度の金堂の確認により、昨年度に調査した基壇を塔と推定できる。
・塔基壇部分は埋め戻され、現状では地表面からの観察全く不可である。
2006/01/22追加:
2005年度美浜町歴史シンポジウム:「興道寺廃寺の謎に迫る 〜古代若狭のテラとムラ〜」(2005/11/26〜27日)が開催という。
上記「美浜町歴史シンポジウム」のリーフレットより転載:
 興道寺塔跡基壇西縁部      興道寺金堂基壇東縁部:金堂跡基壇西縁部の写真もある。
2014/11/03追加:
○ページ「興道寺廃寺周辺古代景観復元イラスト図の作成(公開)について」に廃寺のイラスト画がある。
ここには次の注意があることは承知している。
 ※ イラスト図の無断転載を禁じます。  ※ 展示、資料等に転載、収録を希望される場合は、・・・・、所定の手続きを行ってください。
趣旨が良く分からないし、また所定の手続きをすればまず問題なく「許可」されるであろうから、所定の手続きを経ず転載する。
 興道寺廃寺復元図:美浜町教育委員会蔵

若狭神宮寺三重塔

 若狭神宮寺

若狭羽賀寺三重塔

 若狭羽賀寺

若狭小浜八幡宮

大永元年(1521)小浜八幡宮多宝塔供養の勧進が行われる〔(9)八幡神社-1〕.

若狭太興寺廃寺心礎

 若狭太興寺廃寺

日枝神社(松永谷一宮山王権現)に所在する。
若狭国分寺跡は付近に存在するが、 若狭国分寺の建立は遅れ、太興寺が当初国分寺として転用整備されたのではないか云々の見解が根強く存在する。


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