旧 白 毫 寺 多 宝 塔 ・ 井 植 山 荘 多 宝 塔

大和白毫寺多宝塔・井植山荘多宝塔

白豪寺多宝塔(摂津井植山荘) 2002/3/19焼失

大和白毫寺多宝塔(在白毫寺)
 

2007/09/21追加:
「大和名勝」:下図拡大図

 

2007/02/17追加:                                      
白毫寺多宝塔(在白毫寺):下図拡大図
:白毫寺様ご提供

2005/05/29追加:
明治の白毫寺・・ 下図拡大図

  「写真集 明治・大正・昭和 奈良」
     藤井辰三、昭和54年、国書刊行会 より
       :明治44年「畿内見物」の挿絵という。
 

 

 ※「大和名勝」藤園主人述、東京:金港堂、明治36.4 には
  明治維新後の荒廃した白毫寺の様が描写される。二層堂の荒廃にも触れる。
    「今はいたく衰へて、石段芝草に没し、本堂傾き軒朽ちて、本尊もおはさねなるべし。
     二層塔の古式なるがあれども、雨漏り壁落ちて蔦葛はひかゝれり。
     境内惣て雑草生ひ茂り、その地蔵堂のごときは、殆ど倒れんとせり。素より番僧もなく詣づるものもなし。」

2010/12/31追加:
○「大和周遊誌」(美術淵源)鳥居武平、明治31年 より
「多宝塔 方1間半檜皮葺、大化年中草創の儘と云
 塔中霊妙なるもの 本尊文殊菩薩坐像 木彫 長3尺5寸 一躯」

白毫寺多宝塔古記録

「南都名所集」巻之4(延宝3年・1675版)に見る多宝塔

白毫寺多宝塔:左図拡大図:「南都名所集」 より

記事:高円山白毫寺は天智天皇の御願、本尊は阿弥陀如来、春日の御作なり。閻魔堂の仏像は管承相の御作、地蔵菩薩は小野の篁の作なり。堂のかたへに興福寺喜多院法務大僧正空慶の御影あり。また西大寺興正菩薩の弟子道照、入唐して一切経を持来してこの寺に納められしとなり。
(以下略)

「大和名所圖會」
※挿絵はなし。
※記事全文:白毫寺(高円山にあり)天智帝の御願にして、本尊は阿弥陀仏、春日の作なり。閻魔堂の仏像は管承相の御作。地蔵尊は小野の篁の作なり。西大寺興正菩薩の弟子道照、入唐して一切経を持来してこの寺に納められしとなり。

2013/03/11追加:
○「明治十二年七月調 大和国添上郡寺院明細帳」 より
添上郡白毫寺村/本山西大寺末/真言律宗 白毫寺
本尊 阿弥陀佛 文殊菩薩
由緒 ・・・
本堂 6間3尺×5間  門 1間3尺×1間  境内 2561坪
境内仏堂 三宇
 二重塔/本尊 文殊菩薩(本堂へ安置替・・)/由緒 不詳/塔 方1間3尺
 閻魔堂/・・・
 元北之院霊屋/・・・/仏堂 方2間
※二重塔(多宝塔)の記載がある。

この塔は大正年間に売却され、現在の宝塚市井植山荘に移建され、2002年3月19日まで現存した。
  ※白豪寺多宝塔の移転先は容易に知られなかったが、中西亨氏の探索により当地に移転したことが判明する。以降、世に知られる。
井植山荘に移建された多宝塔は2002年3月19日から20日にかけての山火事で類焼し、完全に焼け落ちる。

白毫寺多宝塔(在井植山荘)/焼失前多宝塔

2003/01/02:焼失前多宝塔(在井植山荘):下図拡大図
 (宝塚市ふじガ丘自治会様ご提供 :2002年12月23日入手)  
   

   2005/05/29追加:
       白毫寺多宝塔(在井植山荘):下図拡大図
         

2005/05/29追加:

某Webサイトより転載:
 白毫寺多宝塔(在井植山荘):下図拡大図:   
この白毫寺多宝塔写真は下記「兵庫の塔」の原画が出処であるのは明確である。
 (但し、塔前面の右に写っていた木立1本は消去した上で転載する。)

2007/09/21追加:
「兵庫の塔」寺師義正、光村推古書院、1994.3 より
 白毫寺多宝塔上重
 白毫寺多宝塔上重
 白毫寺多宝塔相輪

 
焼失前、旧白毫寺多宝塔 ・合成画像(在井植山荘)

焼失前旧白毫寺多宝塔画像を合成。

・合成素材:下に掲載の1984年撮影写真。
・多宝塔下層の軸部より下は、下記の4の左の画像の左右を反転させて合成。


白毫寺合成画像:左図拡大図


2010/12/31追加:
画像合成復元の試みは、かって宝塚市在住であった「Kisida氏」に触媒されたものである。
「Kisida氏」は入手した多宝塔写真に全体像がないことから、入手写真を合成し多宝塔の全体像を復元する試みを行う。
その結果の合成復元画像は「私の合成より数段優れた」ものである。
 「Kisida氏」による多宝塔合成復元画像
当ページの「関西社寺建設先代社長撮影の写真を合成加工したもの」と表示のある画像がそれである。
 ↓
2010/12/31追加:
ところが、上記2002年「Kisida氏」作成ページは故あって閉鎖、
2010/12/31「Kisida氏」よりHTMLソースの受贈と「関西社寺建設先代社長撮影の写真を合成加工したもの」である合成画像の使用許諾を得て、
2010/12/31「s_minaga」が復元再現したものである。

焼失前白毫寺多宝塔画像
  「株式会社関西社寺建築」様ご提供
   ※撮影日:1984年9月1日、「株式会社関西社寺建築」先代社長様撮影

   ※画像入手については某寺院関係の方のご好意であり、また画像取り込みについては「Kisida氏」のご好意による。

何れも画像クリックで拡大表示

1.多宝塔上下層・相輪・扁額

   左:ほぼ全容、中:相輪(今般焼け残る)、右:かなり大きな扁額を掲げる。(梵字でシンターマニ<如意宝珠> と云うらしい。)
2.多宝塔上層

   上重屋根は桧皮葺(近年の葺替か)。上重軒は和様の二重繁垂木で、斗栱は四手先と思われる。饅頭は型どうりの漆喰。

3.多宝塔下層組物

   下重軒は二重繁垂木。斗栱は出三斗。頭には長押を用いず、禅宗様の頭貫と木鼻で構成する。柱間には間斗束を置く。
   極めてシンプルな意匠を採用する。角柱は面取される。
   白壁・桧皮の様子から最近修理がなされた雰囲気で、保存状態は良いと思われる。
4.多宝塔下層下部

   中央間は板唐戸、両(脇)間は連子窓、板縁を廻らす。亀腹を造る。


旧白豪寺多宝塔焼失現場

○2002年3月23日撮影現場

大和白毫寺多宝塔(宝塚井植山荘多宝塔)は「2002年3月19日から20日の山火事」で類焼し完全に焼け落ちる。
 <写真は「Kisida氏」ご提供>
山火事の焼失面積は30Haを超えると云うから、相当な大火と思われる。

 多宝塔は通称「井植山荘」内にあり、室町中期の建立と推定される。大和白毫寺塔であった。
大正6年に寺を流出し、当地に移建されたとされる。山荘は昭和24年に藤田氏より譲り受けたものと云う。
山荘の建物は最明寺瀧への分岐から満願寺へ至る道の途中にあり、道の南に山荘の建物、道の北側の山の中腹に多宝塔はあった。
本多宝塔は非公開であったが、山荘の入口付近から多宝塔は微かに見えたと云う。またさらに北西の山頂からも上層は見えたと云う。
 焼失現場を観察すると、山火事は西および北から舌状に塔婆に迫り、丁度火災の舌の先端が多宝塔を舐めた形で、焼失する。
火災は多宝塔を舐めた後、鎮火する。塔婆から東・南は類焼しておらず、今一歩鎮火が早ければ、焼失は免れたものと推測される。
 3月23日の現状は焦がた臭が漂う中に、おそらく何らかの修理のための足場だけが残され、現場は木炭の山で、その中に炭化した柱や足場の板が散乱、露盤・伏鉢・請花は落下、若干の壁土、銅板?(何かの金具?)等が散乱する状況であった。
相輪のみは足場に倒れかかり、 そのため足場に引っかかり落下せず、中空に残る。
 井植山荘多宝塔諸元は、塔一辺3.23m、高さ14.8m、桧皮葺き、中央間板唐戸、脇間連子窓、斗栱は出三斗、二重繁垂木、内部は四天柱・須弥檀が残るも 、安置仏はなく空であったとされる。(中西亨「日本の塔総観」)
以下の写真は焼失後、約1週間目の様子である。
 焼失現場1       焼失現場2      焼失現場3      焼失現場4      焼失現場5      焼失現場6   
 焼失現場7       焼失現場8      焼失現場9      焼失現場・壁土      焼失現場・隅礎石と亀腹

なお、ほんの数秒であるが、TVのニュースで塔の焼け落ちる映像が放映されるのを目撃する。

○2002年7月31日撮影現場(「Kisida氏」ご提供)
  写真で推測する限り、跡地はきれいに整理される。
焼失後1週間目は、焼け跡の整理前で、僅かに亀腹の確認は可能であったが、整理後で見ると、亀腹は見事に残る。
  (整理前は残滓、炭、灰の類が堆積していた為、残存する亀腹の確認は困難であった。)
四隅の柱の残欠が残っている様子がうかがえるが、これはおそらく金物で固定して為であろうと推測される。
また相輪の残滓も、処分されずに残されていると思われる。
先日の白毫寺ご住職のお話では、現地に相輪のみ再興するとの山荘側の意図があると云うことのようである。
 ※写真ご提供の意味は、おそらく塔の供養の意味であろうと、解釈される。
 井植山荘塔跡1        井植山荘塔跡
 井植山荘塔跡部品1    井植山荘塔跡部品2    井植山荘塔跡部品3     井植山荘塔跡部品4

○2002年8月6日撮影現場(「Kisida氏」ご提供)
塔装飾金具・和釘鎹類・風鐸など・焼け板の写真である。
塔のどの部位なのかははっきりしないが、塔の装飾金具と思われる。
但し「ボルト」みたいなものも写るが、ボルトだとすると、これは塔の補強に使われたものなのか、あるいは焼失前に足場が組まれていたと思われるので、補修関係のものであるかも知れない。
大量の和釘、鎹など:おそらく焼け跡整理の過程で灰の中から出てきたものと推定される。
  多宝塔には意外にも大量に使用されていたと思われる。
真ん中は風鐸であろう。その右 に写る部品は良く分からないが、避雷針の部品?であろうか。
焼 け 板であるが、塔の部品かどうかは不明。塔の部品とすると床板?。しかし新しいようにも見え、塔とは関係のない足場に使っていた板の可能性もある 。

大和白毫寺多宝塔(在白毫寺)絵画

奈良の白毫寺/焼失の多宝塔、絵で帰る」2002年06月29日 ・朝日新聞「奈良」版記事:
 以下要約:
井植山荘附近の山火事の1カ月前、長野県の男性から手紙が届く。
その手紙には、男性の家に保管されていた多数の絵の中に、白毫寺の古塔を描いた絵がある。いくつかの絵を整理している途中であるが、もし、縁のある作品なら、他人の手に渡るより白毫寺にあるべきだろうと。

住職は旧白豪寺多宝塔焼失の報の後、4月に井植山の塔焼跡に出向き、焼失した多宝塔の残灰をもらい、境内に埋めて供養したという。

その後、住職は上記の手紙を「つて」に、長野県に向かい、頼んで絵を譲ってもらう。
絵は縦約170cm、横約80cmで掛軸に表装されたものであり、証明書によると、作者は画家川船水棹(かわふねみさお)(1887-1981)で、多宝塔が移築される直前の大正2年(1913)夏に描かれたものであるという。
なお川船水棹は国立近代美術館にも絵画が収蔵されている画家である。

2002年7月26日上記記事を知り、7月28日白豪寺を訪問。
掛軸を拝見、写真に収めさせていただく。

大正2年白豪寺多宝塔「絵画」(川船水棹作)

大和白揮寺多宝塔図1
  同         2:左図拡大図
  同         3

ご住職の談:
約焼失後1月後に現地を訪れた時は、焼け跡はおおむね整理済みで、露盤・相輪なども整理されて並べられていた。
遺物のうちで「せめて相輪を譲っていただけないか」とお願いしたとのことであるが、現地にて相輪のみ「再興」する計画の旨で、譲渡の願いは叶わずと云う。

2002/07/28:
2002年3月23日に焼失現場で取得した銅板?は、白豪寺様に収めさせて頂く。
 ※本来は白豪寺で保存され供養されるべき遺物であると思うからである。

白豪寺多宝塔跡

多宝塔跡:敷地および土壇、敷地に至る石段、塔礎石(自然石)などが整備・保存される。
多宝塔跡1       多宝塔跡2       多宝塔跡3       多宝塔跡4       多宝塔跡5:上図拡大図
本堂は南面し、本堂前東(本堂南東)に多宝塔はあり、塔は西面する。

2012/02/26実測:
椽束石間隔:両端1間は3尺(90cm)、中央4間は等間で1間3尺6寸(109cm)を測る。
従って椽の出巾はおそらく3尺6寸乃至4尺程度と推定される。
また束石が脇柱と平行に置かれたとすれば、塔一辺は10尺8寸(3m27cm)となる。この一辺は井植山荘の多宝塔一辺は3.23m(中西亨「日本の塔総観」)と報告されているので、ほぼ合致することとなる。
2012/02/26撮影:
 大和白毫寺多宝塔跡11     大和白毫寺多宝塔跡12     大和白毫寺多宝塔跡13     大和白毫寺多宝塔跡14
 大和白毫寺多宝塔跡15     大和白毫寺多宝塔跡16     大和白毫寺多宝塔跡17
  白毫寺多宝塔束石11      白毫寺多宝塔束石12       白毫寺多宝塔束石13      白毫寺多宝塔束石14

2003/01/02:追加
多宝塔跡再興相輪

焼失塔跡は整備され、中央に相輪のみが再興される。
相輪は焼け落ちたものを修理したのか、新たに鋳造したのか、あるいはそれらの折衷なのか詳しいことは不明である。
 (新鋳造は常識的に云って時間的に無理と思われる。)
 ※上記白毫寺ご住職談より再興相輪塔は旧相輪の再興である。
なお相輪再興前には、確かに側柱・四天柱の礎石がきれいに揃っていた。
しかし、再興にあたり、これを取り払い、 恐らく縁の束石と思われる礎石のみしか残さないような工事は誠に残念なことと思われる。
旧白毫寺再興相輪1
  同        2:左図拡大図
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8


2010/12/31追加:
拙サイトに「井植山荘」のページを「再興」する。
その経緯は以下の通りである。
 以前、「井植山荘」「井植山荘多宝塔」を紹介するページを含むサイト「宝塚市ふじガ丘自治会」があったが、このサイトは閉鎖される。
しかし、白毫寺多宝塔を取上げた貴重なページが閉鎖されるのは損失であり、当サイトの管理人であった「Kisida氏」に懇願し、「井植山荘」関係のHTMLソースと画像の使用許諾(受贈)を得、拙サイトに「再興」する。(但し、完全な再現ではない部分もある。)
 「再興」井植山荘ページ
2014/06/11追加:
 上記ページにある「大日十天不動明王2」 及び 「大日十天不動明王3」は内山永久寺の旧仏である。
  → 内山永久寺>●彫刻、絵画、工芸品など>○石造不動明王踏下像(井植山荘蔵) の項を参照

大和白毫寺現況

2012/02/26撮影:
 白毫寺石階1     白毫寺山門     白毫寺石階・山門     白毫寺石階2
 白毫寺本堂      白毫寺御影堂:中興空慶上人を祀る。

 興福寺五重塔遠望1     興福寺五重塔遠望2     興福寺五重塔遠望3
 新薬師寺遠望
 


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