(京洛寺町) 誓 願 寺

寺町誓願寺

2003/05/17追加:
○洛中洛外図
 洛中洛外図・寛文年中(左本能寺・右誓願寺)
 洛中洛外図・(池田家本)
 洛中洛外図・サントリー美術館・・寛永末期の作と推定、土佐藤原光高画の落款がある。

○宝永年中の誓願寺
 京城勝覧・誓願寺:京城勝覧(宝永3年/1703)挿絵
2008/12/07追加
 花洛細見図・誓願寺:宝永年中刊

2003/8/18追加
○「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
三重塔:本尊谷薬師と号す。元和8年(1622)創建云々

○天明年中刊「都名所圖會」巻1の誓願寺 より

本文:三重塔は元和8年(1622)の草創にして、本尊は谷薬師なり とある。

 誓願寺伽藍: 左図拡大図:2013/01/30画像入替

絵図の下が現在の寺町通であり、寺門は寺町通に面して構られる。
巨大な本堂や三重塔前に多くの参詣人が描かれるが、現在はここは新京極通となる。

寺町誓願寺概要

寺町移転時は四条金蓮寺とともに寺町の双璧を為す。塔頭は19ヶ院を有す。

○大正4年「京都府誌」巻上 より(要約) :
現在は浄土宗西山派総本山。はじめ南都にあり。天智天皇の勅願。
延暦のはじめ長岡に移り、のち平安京(上京小川・元誓願寺町に伽藍を造営。
治承年間源空に帰依し、三論宗から浄土宗に転じ、證空を請じて西山の義を定めり。
応仁の乱で堂塔灰燼に帰す。文明9年復興する。
天正13年秀吉の命で現在地に移転。
のち天明・弘化・元治の火災に罹り、加えて明治維新以降寺地を公収せられ、寺地は見る影もなく狭隘になる。
現(大正4年現在)本堂は明治7年大通寺本堂を移築する。
 ※明治初頭の誓願寺:本堂内掲示写真を撮影。旧大通寺本堂で、昭和7年焼失。
 ※明治初頭写真の誓願寺本堂は重層入母屋造であり、都名所圖繪・大通寺で示される大通寺仏殿と酷似する。

昭和7年9月本堂焼失。戦中・戦後は時局の故に仮本堂のままであったと云う。
昭和30年本堂再建の起工。昭和39年現本堂完成。

2022/05/20撮影:
○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
 →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。

○大正5年「京都坊目誌」(下京第六學區之部)碓井小三郎編記事 より
誓願寺・廃三重塔
誓願寺本堂の西南(441・442・444番地)に直る。今民有地となる。元和8年(1622)建立。
本尊薬師如来佛を安す。谷ノ堂(谷ノ堂は葛野郡松尾村にあり)の本尊にして極めて古佛なりしが、天明8年(1788)正月、塔とともに焼失す。
 ※天明の大火
誓願寺本文から・・・
天明8年(1788)正月の大火に延焼に至り本堂、三重塔、方丈以下烏有に帰す。・・寛政3年勧進の勅許を得、文化10年落慶供養を為す。・・・元治元年7月兵火に罹り、本堂以下及世に有名なりし本尊も合わせ焚く。・・・
元治兵火後、明治7年に至り、六孫王大通寺の本堂を茲に移築す。本尊阿弥陀佛の像・・・
・・・元治元年焼失し、明治2年八幡の本地佛を迎う。今の本尊是也。

2013/01/30追加:
○京都市明細図
本図にて三重塔のあった凡その位置が分かる。<廃三重塔:誓願寺本堂の西南(441・442・444番地)に直る。>
 京都市明細図・誓願寺:廃三重塔、廃塔中の位置などを示す。
以下は
○大正5年「京都坊目誌」 より;
 廃竹林院;誓願寺の旧塔中。その址は今の415、416、417番地に直る。今明治座のある所。(本図では松竹座)
明治6年廃寺、随心院とともに松枝町頂源院に合併す。
 廃福正院;誓願寺の旧塔中。その址は今の406番地及びその付近に直る。元治の兵火で焼失し、僅かに再建せしが、明治16年大坂上之町に移転す。
 寳樹庵ノ址:櫻ノ町411番地にあり。誓願寺の塔中也。元治の火災で焼失、僅かに再興せしも、四周複雑の地をもって、境内181坪余を売却、上京区中務町に移転せり。
 旧塔中西林院址:今の399、400、401番地に直る。元治の火災に罹り、後に再興せしが、明治16年近隣民家より失火し、類焼す。同年寺号を本寺に合併し、明治20年境内116坪余を売却す。
 塔中自休院:位置不詳。元治元年兵火に罹り、のち僅かに復興せしが、明治21年境内44坪を売却し寺号を本寺に合す。
2022/02/12追加:
○明治3年の浄土宗西山派本末一覧>誓願寺塔中
西林庵、福正院、真如庵、頂源院、寶樹庵、大善庵、仙洞院、自休院、長仙院、<以下赤字記入・廃寺>随心庵、江岸院、見松院、全松庵、松吟院、光雲庵、常光庵、竹林院
 ※17ヶ院を数え、内8ヶ院は既に退転もしくは移転、9ヶ院が存続する。


2008/03/27追加: 参考資料:
○東京都立中央図書館蔵木子文庫:
 誓願寺三重塔建地割が残る。
[木024-2-04] 誓願寺三重塔建地割/内題「三重塔 望月勝久 京 誓願寺 大工木子氏 従五位下神森出雲守」,題箋「望月勝久 三重塔之図 京誓願寺 大工木子氏 従五位下神森出雲守」///<木子勝久>  図面1枚,116×45 台紙148.5×72, (未見)
 ↓
2021/11/07追加:
○「誓願寺三重塔建地割」を入手

「誓願寺三重塔建地割」は東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
 ※TOKYOアーカイブについて(サイトポリシー)>ウェブアクセシビリティというポリシーに全面的に賛同するものである。


誓願寺三重塔建地割
本図は元和8年(1622)創建され、
天明の大火<天明8年(1788)正月>に類焼した
寺町誓願寺三重塔の立面図である

誓願寺三重塔建地割:全容

誓願寺三重塔建地割:部分、左図拡大図

2021/11/07追加:2021/11/05撮影
○誓願寺三重塔跡
 上述の諸資料特に京都市明細図・誓願寺などからその位置は推定可能である。
 誓願寺三重塔跡1:正面ガラス張のビル附近が三重塔跡     誓願寺三重塔跡2:同上
 誓願寺三重塔跡3:アーケードの向うのビルが三重塔跡、アーケードは新京極通り
 誓願寺三重塔跡4:誓願寺本堂向拝見た三重塔跡、中央やや左のガラス張ビルがそうである。
○誓願寺現況
 上述の資料のように、天正13年(1585)秀吉の命で現在地・寺町に移転、天明8年(1788)正月の大火に延焼、元治元年(1865)にも延焼する。加えて、明治維新の暴政で境内地の多くが上地され、現在では見る影もない。
現在は浄土宗西山深草派の総本山と称する。
往時は塔頭18ヶ寺を有するも、大部が廃寺となる。
 誓願寺山門     誓願寺本堂1     誓願寺本堂2
 明治初頭の誓願寺:本堂内掲示写真を撮影。写る本堂は明治7年大通寺より移転され、昭和7年焼失する。
 ※大通寺は清和源氏ゆかりの寺院であり、鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の代々の将軍によって庇護され、隆盛を極めるも、明治維新で没落、さらには 明治45年東海道線の移設工事により、現在地に移転する。なお六孫王社は当寺の鎮守である。

◎石清水八幡宮遷仏
○石清水八幡宮丈六阿弥陀如来坐像
 誓願寺本尊は石清水八幡宮本地仏であり、石清水八幡宮より遷座という。
石清水八幡宮極楽寺から遷座ともいうが、明確な裏付けを欠く。
 ※一般的には石清水八幡宮極楽寺本尊丈六阿弥陀如来坐像が遷されると云われている。
本尊石清水八幡宮阿弥陀如来坐像
 本尊阿弥陀如来坐像1     本尊阿弥陀如来坐像2     本尊阿弥陀如来坐像3     本尊阿弥陀如来坐像4
 本尊阿弥陀如来坐像5     本尊阿弥陀如来坐像6     本尊阿弥陀如来坐像7
2022/03/20追加:
○石清水八幡宮愛染堂愛染明王坐像
石清水八幡宮愛染堂愛染明王坐像が明治の神仏分離により、誓願寺に遷座するも、昭和6年に末寺である蒲郡市丸山町永向寺に再び遷され、現存する。
 愛染明王坐像:「男山四十八坊跡 観光案内」京都府八幡市、2020.01 より


伊藤白歳筆牛頭天王画:裏寺町宝厳寺(誓願寺末寺)蔵

2022/02/14追加:
2021/06月、伊藤白歳(はくさい)直筆の軸「牛頭天王図」が若冲菩提寺の宝蔵寺(京都市中京区裏寺町通蛸薬師上ル)に寄贈される。
伊藤白歳は江戸中期の絵師伊藤若冲の弟、寄贈したのは、北区の矢谷眞紀子氏(79)で、50年ほど前、伊藤家とゆかりのあった家系の女性から譲り受けて以来、手元で保管してきたものという。
鑑定した福田美術館(右京区)の岡田秀之学芸課長(45)によれば、画面左に「伊藤」の印と白歳の本名「宗巌(そうごん)」の印が押されていたことや、作品を納めていた箱の記載などから、白歳が描いた絵と判断したという。
 伊藤白歳筆牛頭天王画

   →諸国の牛頭天王
2022/02/14追加:
宝蔵寺:寺町誓願寺末寺
錦小路で青物問屋「桝屋」を営む伊藤家の菩提寺である。
伊藤若冲は寛延4年(1751)父母の墓石を、明和2年(1765)末弟宗寂の墓石を建立する。
弘法大師空海の創立というも、衰微する。文永6年(1269)如輪(長西の弟子で千本釈迦堂第2世)によって元西壬生郷に復興される。
しかし再び衰微するが、天正9年(1581)玉阿律師によって再興される。
天正19年(1591)豊臣秀吉の都市改造で、現在地・裏寺町に移転する。
明治3年の浄土宗西山派本末一覧>誓願寺末寺に寶藏寺が挙げられる。
 (四条裏寺町光明寺、同所極楽寺、同所寶藏寺、同所法界寺、同所妙心寺、寺町六角下ル西光寺・・・)
元禄13年(1700)本尊阿弥陀如来像の造立される。
元治元年(1864)禁門の変で全焼する。
昭和7年、現在の本堂が完成する。



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