遠  江  秋  葉  寺  多  宝  塔

遠江秋葉寺多宝塔(秋葉権現・三尺坊権現)

2003/10/9追加
遠江秋葉山図:明和9年(1772)

遠江秋葉山図:下図拡大図

(西尾市岩瀬文庫蔵)
本堂観音の右に大日塔(多宝塔)がある。

遠江古迹図會に見る秋葉山:藤長庚著、享和3年(1803)頃成立?

   遠江古迹図会・秋葉山:下図拡大図
 

記事:秋葉山
行基菩薩の開山。「春ひらきし山を春野山と云ひ、秋ひらきしを秋葉山と称す。」・・・「宮の前に舞殿あり。・・側に二重の塔ありて、内陣に大日如来を安置す。・・」

 

 

 

東海道名所図會巻之4に見る秋葉寺 寛政9年(1797)


大登山秋葉寺:左図拡大図


記事:「多宝塔:秋葉社の側にあり。大日尊を安ず。」

 

  秋葉山伽藍図(部分図):左図拡大図

秋葉山沿革

明治維新の神仏分離の処置で「秋葉山本宮秋葉神社」と称する。
赤石山脈の最南端秋葉山(866m)の山頂に鎮座する。創祀は未詳であるが、社伝によると和銅2年(709)創建と伝える。
山頂に行基作聖観音・十一面観音・将軍地蔵を安置したという。
その後修験者三尺坊(飛行自由の術を得たという)が飛来して守護神三尺坊権現となったと云う。

近世 は曹洞宗大登山霊雲院秋葉寺が別当となり一山を支配した。
江戸期初頭白山系修験二諦坊(浜松)と可睡斎とが秋葉寺支配をめぐって争うが、幕府裁可で可睡斎支配となる。
秋葉権現と観音堂(本尊:聖観音)・仁王門・本坊・多宝塔・大日堂・山婆宮・白山社などの伽藍を有し、快専院などの17坊の修験・3軒の禰宜を配下におく。
江戸初期から、秋葉祭と称し村送りの形で秋葉の神輿を巡航させることが流行し、この頃より火防ぎの神として愛宕神社と並び庶民の信仰を集め、各地に秋葉講が組織され、秋葉詣でが盛んになる。以降各地に秋葉社が勧請される。

神仏分離により、明治2年修験17院のうち6院が復飾願いを出すが、結果的には「脱走法師」として山を追放される。
明治5年教部省は小国重友を祠官に任じ、神仏分離を強行する。
小国は先の「脱走法師」とともに山に登り、秋葉寺側と激しく争い、そのため双方とも入牢を申し付けられる。
明治6年一山は小国の支配するところとなり、秋葉寺は廃寺として処分、跡地は秋葉神社となる。
本尊・三尺坊大権現および仏具は本寺の可睡斎に移され、三尺坊権現は可睡斎新殿に祀られ、以降三尺坊は可睡斎で信仰を集めることになる。
明治13年に秋葉寺が再興され、本尊は秋葉寺に返却される。

 ※現在、多宝塔棄却に関する資料は未見ですが、おそらく多宝塔などは明治6年頃棄却されたものと思われる。

2003/10/10追加
明治維新神仏分離資料より
「秋葉寺廃毀の顛末」   △△△△氏談 <要約>

※以下の記事は明治維新当時、自身秋葉寺に在りて、同寺の廃毀事件中の人となり、その廃毀に反対して、一時獄中に繋がれし某氏の親しく物語りたるものなるが、・・・・以上のような理由で匿名の掲載となったようです。

秋葉は行基の草創の地で本尊は聖観音である、・・・・宗旨は真言で、寺名を霊雲院と曰うた、大同年中嵯峨天皇から和歌を賜りその歌中の「・・・秋葉の山に色つくて見え」から秋葉寺と名け、山を大洞と号した。(大洞山秋葉寺)
その頃将軍地蔵の木像があり、之が後に変じて秋葉三尺坊となった。即ち秋葉権現であります。
当時寺の住持は真言の僧であったが、別に36の坊舎があり、修験者が住し、毎月輪番で当寺に勤め・・・ていた。
織田信長の時代に義法証仁が住持し、以後暫く36坊の輪番となる、永禄年間森林光幡が可睡斎から入り住持となり是から当寺は曹洞宗となった。その頃徳川家康と武田信玄が戦争をしていて、家康が当寺に匿われた・・・因縁から、家康より48石の朱印・・・を預かった。(永禄のお墨付)この時36坊の修験者はこの朱印を奪おうとしたが、証仁は可睡斎なる師の許に預けたが、その後実権は36坊が手に帰した。後三代将軍の時に可睡斎の虫干しの時、之を見出し、時の可睡の役僧運達が遠州中島の代官に出訴に及ぶ。時に36坊の頭分に二諦坊、鳳閣寺、叶坊の3坊があり、弁疎に勉めたため、代官では決することが出来ず、之を公儀も持ち出した。公儀では可睡斎の敗訴と決したが、運達は公儀で大声を発して号泣した。その号泣の理由を役人が誰何したところ、運達はこの証拠が僅か三代で反古になるのを泣くと弁疎した。それで役人は御八判と申す宣告状を下された。
宣告状の大意は「二諦坊、鳳閣寺、叶房、秋葉寺出入の儀に付き、上聞に達し候処、光幡住持の時の如く、秋葉寺寺僧中へ申達せらるべき者也」であった。(御八判とは当時幕府の公文書には大老以下8人の連署があったからかく云う。)但しこの文書は維新当時の瓦解の中で浜松県庁で焼棄された。一旦敗訴になったものが運達の為にまた転覆せられたわけです。それで運達は帰路ついに箱根で或る凶手のために銃弾で一撃のもとに斃されました。これは修験者の為に撃たれたのだと言い伝えられています。
秋葉第3代黄は梅巖宿(運達弟子)が継ぎ、当寺を大いに整理し、以降36坊は次第に減じて18坊となった。この中叶坊が今の浜松高町に秋葉の分身を建立し慶応3年朝廷に請うて、正1位を賜り、自らは還俗して神官となる。今の浜松の秋葉がこれです。是がそもそも秋葉寺を滅亡させる禍因となった。
(中略)
秋葉寺と秋葉権現とその修験坊との関係は以上のとおりですが、明治初年神祇省から神仏分離の令が下った。この時藩令を以って神仏いずれになるかを調査させたところ18坊のうち6ヶ寺は権現を以って神とし、自ら還俗して神官となり、秋葉寺を廃毀しようとした。然るに余の12ヶ寺は飽く迄之を仏として主張したので、遂に6ヶ寺の主張は成立しなかった。そこで6ヶ寺は山を降り他へ逐電しました。因ってこれを脱走法師と云う。
明治5年浜松県庁の県令を以って秋葉寺に達しがあった。「秋葉権現儀、慶応3年神階正1位を授けられ候事、今般秋葉神社と称し、仏具仏器を取払い、神職にて進退致すべきこと」との県令で、正1位とは浜松秋葉権現のことで、この県令の裏には叶坊などの輩がいてかような県令になったものと思われる。しかるに情けないことに秋葉寺の僧侶は之を受けてしまった。私どもはそれは以っての外であると抗弁し、書類も沢山提出した。書類は多くは不受理だった。が之には服しませんでした。
そこで県庁では第2の布達がありました。即ち「無禄、無檀、無住の寺院は廃すべし」と。秋葉寺は勿論従来から檀家は一軒もなく、朱印地は上地せられ、明治5年に住持舜瑞が寂し、後任選定中でした。
その年11月かの6ヶ寺の脱走法師が鏡や矛を担って登山し、神職を申し付かったといい、同時に遠江官幣社小国神社の宮司に秋葉神社の再務を申し付け、祭礼の執行を奪おうとした。これに対し秋葉寺では・・断然これを排斥した。修験と脱走法師は山上で一大衝突し、脱走法師は山上より追い下されてしまった。
6ヶ寺の修験は之を浜松県庁に訴え出、同時に中泉の八幡の神主大場重光が秋葉の僧侶らが住職を毒殺したと讒訴した。県庁では不届きの所行として、清水笑柔、児玉素欽、加藤玉音および溝口正保を捕縛し入牢させた。正保は舜瑞の弟子でした。その後は翌年3月まで何の取調べもありませんでした。
この入獄禁固の留守に県庁は可睡斎住持林玄齢を呼び出し、無禄・無檀・無住の寺は廃寺とすると云うてとうとう秋葉寺を廃しました。仏像仏具三尺坊も皆可睡斎を持っていき、現に観音地蔵などの仏像は残存している。
(中略)かくして秋葉は明治維新当時全く廃滅した。
このように廃寺の後、吾々を呼び出し、秋葉寺の廃寺を申し渡し、何れも無罪放免となった。要するに何か理屈でも言いそうな面倒なものは皆一時閉塞したに過ぎません。この時の裁判官は吉川唯彦、入牢させたのは木村重義(という役人)、県令は林厚徳で、この3人と神主大場氏などが主脳となり、これ等の人は平田派の国学者でしょう。
(中略)秋葉寺の廃毀とともに所謂神社なる権現も消滅し・・・その後秋葉神社は火火具土尊(ホノカクツチニミコト)と云うを神体と崇め秋葉神社と号した。これは近藤氏の唱導になったものです。始めは郷社でしたが今は確か県社に昇っているようです。
秋葉寺も亦明治13年に再興しました。
(明治45年発行仏教史学第2編第4号所載)

参考:
2004/05/03撮影:
 □ 秋葉三尺坊大権現石碑(山城祇園社正門前南 約50m<下河原>にある。)
2012/02/18撮影:
大和豐山長谷寺
 豐山長谷寺総受付・休憩所に秋葉山三尺坊大権現像がある。この由緒は情報がなく不明。

2008/05/20追加:
「秋葉寺の神仏分離について」吉田俊英(「宗教研究」Vol.80, No.4 所収)より
秋葉山に神即ち秋葉権現及び修験三尺坊を神格化した秋葉三尺権現は並存・混同する形で近世中期以降全国に広まる。
別当は曹洞宗秋葉寺と称した。
慶応4年の神仏判然令を発端として秋葉寺は存続を主張してきたが、明治5年浜松県に対し教部省は「秋葉権現は秋葉神社と称すべし」との命令を発し、これに従い、浜松県は秋葉山の神仏分離を本寺可睡斎に命ずる。
明治6年秋葉寺は無檀無住を理由に廃寺とされ、三尺坊権現など仏像仏具は本寺可睡斎に遷される。
その後秋葉寺は復寺誓願に務め、明治13年復寺が許可、明治16年頃には秋葉山杉平に堂宇が再建される。
その後、秋葉信仰は秋葉神社・秋葉寺・可睡斎の三分立の形で展開される。


2006年以前作成:2012/02/24更新:ホームページ日本の塔婆