山  城  安  祥  寺

山科安祥寺多宝塔絵図


「拾遺都名所圖會」(天明年中)の安祥寺

真言宗。紀伊高野山宝生院兼帯所、
高野堂と俗称す、本尊十一面観音。

山科安祥寺全図

山科安祥寺部分図(左図拡大)

多宝塔:大日如来とある。
なお、この図の本堂(寄棟造)は現存せず、現本堂は文化14年の再建堂に替わる。
地蔵堂・開山堂は現存する。

○「都名所圖繪」 より
吉祥山安祥寺は御廟の東にあり、真言宗にして紀州高野山宝性院兼帯所なり、俗呼んで高野堂といふ。
本尊は十一面観音なり。傍に地蔵堂あり、恵運僧都入唐の時将来し給ふ地蔵尊なり。
当寺は染殿皇妃御願にして貞観元年の建立なり。
〔初めの地は如意山壇の谷にあり、慶長年中今の地にうつす、故に如意山に至り当寺の境内なり〕

山科安祥寺多宝塔跡

多宝塔は明治39年火災焼失する。
現状:石積基壇・石階・礎石・縁石・塔前灯篭など一部崩壊するも、良くその姿を留める。

◎安詳寺多宝塔跡現況(実測)

◆安祥寺多宝塔跡略測図

2001/07/28追加:
「安祥寺の研究 巻次1」王権とモニュメント、2004 より

 ◆安祥寺多宝塔跡略測図:左図拡大図

天明年中の「拾遺都名所圖會」に描く多宝塔絵図との石階・椽などが塔阯の現状とほぼ一致する。

柱間は中央間10尺、両脇間7尺5寸、四天柱礎間は13尺、
つまり四天柱内部が広く獲られ構造であった。
五智如来5躯を安置するためであろうか。

塔は南面する。
地蔵堂前から北に一段高い平坦地を造成し、塔平坦地に「塔前常夜灯」が2基現存する。(東常夜灯の上部は落下したまま)
塔正面には4段の石階を残す。(半壊)
基壇は2段の切石で築かれ、高さはおよそ60〜70cm(推定、採寸忘れ)、一辺は930cmを測る。
 (多少の崩落はあるも、ほぼ完存する。)
基壇の外側、南・西・北3面には直方形に加工した縁石が廻る。(ほぼ完存)縁石は基壇から175cmを隔てて廻る。
基壇上には四天柱礎4個、脇柱礎12個をほぼ原位置で残す。
  両脇間:245cm<8尺>(礎石外−芯間)、中央間:300cm<10尺>(芯−芯間)
  四天柱間:400cm<1丈3尺>(芯ー芯間)を測り、初重1辺は790cm<2丈6尺>と推定される。(注)
     <超大型の多宝塔と思われる。>
四天柱礎は4個を残す。大きさは約80×80cm。
脇柱礎間は地覆石で連結される。
基壇西南隅(基壇外・縁石内)に椽束石3個が残る。
 (「拾遺都名所圖會」の絵図に見るように、椽が四周を廻る構造であったと推定される。)
なお、基壇上には崩壊した縁石などがランダムに若干積まれている。
 (注)
  
○「安祥寺五智如来像考」毛利久、佛教藝術、24 では 、
  実測値:初層一辺2丈5尺(7.6m)、内陣一辺は1丈3尺 (3.93m)とある。
  
初層一辺については芯−芯間であれば2丈5尺位になると思われる。
  ○「日本塔総鑑」では
  「宝暦9年(1759)建立、一辺7.42m、高さ24.9m」と記載。
  ○「山城安祥寺誌」(下に掲載)では
  「塔は総高7丈5尺(22.7m)、2丈4尺5寸(7.42m)四面の二重宝塔」と記す。

2004/10/11撮影:


山城安祥寺多宝塔跡1
  同   正面景観1
  同   正面景観2
  同 西塔前常夜灯1
  同 西塔前常夜灯2
  同  東常夜灯銘:宝暦10年
  同  東常夜灯銘2
  同   正面石段1
  同   正面石段2
  同   正面石段3
  同   正面石段4
  同   基壇(南西)
  同   基壇(南西)
  同   基壇(西面):左図拡大図
  同   基壇(北西)
  同   基壇(北西)
  同   基壇(西面)
  同 基壇(南西)礎石
  同   基壇(南面)
  同   西面縁石
  同   基壇(南面)
  同   礎石(南西)
  同   基壇上面
  同 四天柱礎(北西)
  同 四天柱礎(西側)
  同 四天柱礎(北東)
  同 四天柱礎(南西)
  同 脇柱礎石(北東)
  同 脇柱礎石(北側)
  同 脇柱礎石(北側)


安祥寺多宝塔跡見取り図

但し、下図のように完全に残存している訳ではない。

2019/04/26撮影:
多宝塔跡正面
安城寺多宝塔跡正面:左上図の拡大図

多宝塔跡東常夜燈1
多宝塔跡東常夜燈2
多宝塔跡東常夜燈3
「■安祥寺高野山宝性院■■/■■検校之時建立」と刻するが、宝性院検校の名前が判読できない。
多宝塔跡西常夜燈



多宝塔跡正面石階1:左中図の拡大図
多宝塔跡正面石階2
多宝塔跡正面石階3
多宝塔跡正面石階4






多宝塔跡西面1
多宝塔跡西面2
多宝塔跡西面3
多宝塔跡西面4:左下図の拡大図
多宝塔跡西面5
多宝塔跡西面6
多宝塔跡西南隅1
多宝塔跡西南隅2
多宝塔跡西北隅1
多宝塔跡西北隅2
多宝塔跡東南隅1
多宝塔跡東南隅2
多宝塔跡南面
多宝塔跡北面

多宝塔跡西面束石1
多宝塔跡西面束石1




多宝塔跡礎石01
多宝塔跡礎石02
多宝塔跡礎石03
多宝塔跡礎石04
多宝塔跡礎石05
多宝塔跡礎石06
多宝塔跡礎石07
多宝塔跡礎石08
多宝塔跡礎石09
多宝塔跡礎石10
多宝塔跡礎石11
多宝塔跡礎石12
多宝塔跡正面石階
多宝塔跡西面

山科安祥寺多宝塔の特異性

1.極めて大型塔であった。
「安祥寺五智如来像考」毛利久、佛教藝術、24 による寸法も「初層一辺2丈5尺(7.6m)、内陣一辺は1丈3尺(3.93m)」
とされ、現存多宝塔(古塔)のどれをも凌ぐ大きさ(規模)と思われる。
宝暦年中の多宝塔再興に当っては、客仏として本堂安置の五智如来が本尊として遷座するため、
あるいは旧軌に則り、五智如来が本尊であった旧多宝塔規模に再興されたものと考えられる。
 ※本尊五智如来は多宝塔焼失時、京都博物館に寄託中で被災を免れる。(現在も寄託中)巨躯の仏像5躯からなる。
因みに本尊金剛界大日如来坐像像高約5尺2寸・台座高約3尺8寸、他の四仏(坐像)像高約3尺5寸〜3尺6寸・台座高約3尺内外であり、収容には相当の大きさが必要であったと考えられる。
2.四天柱間と中央間の不一致
四天柱間は13尺、中央間10尺で、通常の層塔のように、初重柱平面が碁盤目にはならない。
多宝塔に於いては、四天柱が構造材ではない場合も散見される。
今にしては、安祥寺多宝塔の構造を知るすべはないが、何れにしても、初重柱平面が碁盤目にはならないのは、五智如来を収容するための須弥檀確保のために採られた設計のためと推測される。

2003/05/01京都新聞記事

「安祥寺上寺跡で礎石を確認」
 山中の伽藍跡とされる基壇跡で「40を超える礎石や雨落溝を見つけ、東西5間・南北4間の五大堂と見られる建物跡など五棟の建物跡を確認した。」と云う。
 新聞紙上には「安祥寺上寺の復元想像図」(梶川敏夫氏)の掲載があり、推定礼仏堂、推定五大堂、推定東西僧房に並んで推定五大堂の北西に多宝塔と思われる塔が描かれる。
 今般の発見で上寺に何らかの宝塔があり、その確証が発見されたのかどうかは新聞記事からは不明であるが、いずれにしろ安祥寺多宝塔および現存する五智如来の創建は上寺を起源とする可能性が高いということを示す意図があるものと思われる。

2003/05/24追加
「王権とモニュメント研究会」による調査研究

京都大学「王権とモニュメント研究会」が安祥寺の測量調査を実施する。
当研究会のサイトに「安祥寺の調査研究」のページがあり、ここに「安祥寺上寺測量調査結果」および「安祥寺測量図」 の掲載がある。
 このページによれば、今までに発見されていた堂宇以外に
『五大堂跡から西北西約11mのところにある建物跡が、今回の調査によって新たに発見された。図6がその平面図である。1981年の京都国立博物館調査(八賀晋氏による測量)においても西南隅の礎石1個が実測されている。
この建物跡の明確な基壇は地表からは確認できないが、礎石のボーリング調査などによって方三間の建物であることが判明した。寸法は東西3間が6尺・7尺・6尺、南北3間が7尺等間であるから、5.7m×6.3mと復元できる。
なお、発見された礎石は他の建物跡に比べても大きく、1辺が80cm前後になるものもある。ただし、後世の地盤沈下等の影響か礎石の不等沈下が著しく、礎石間で 40cm近い比高差がある。
 現在、背後の山腹斜面がずり落ちて、北西から南東にかけての半分以上が埋没している。逆に言えば、本来の寺域平面ははもう少し広かったことになる。これは、五大堂跡の項でも触れた。なお建物の性格は不明であるが、塔・宝蔵・多宝塔・法華堂・常行堂などのほか、『資財帳』に記載されている「大宜所」?などが考えられる。』
とのことが成果としてあげられる。
 安祥寺測量図:標記サイトからの転載

2003/05/01京都新聞記事「安祥寺上寺の復元想像図」中の多宝塔はこの堂跡を多宝塔と想定しているものと思われるが、この遺構の『寸法は東西3間が6尺・7尺・6尺、南北3間が7尺等間である』とあり、このような平面を持つ堂宇を塔とか多宝塔とかの想定をすることは当然無理である。
また天台系であれば法華堂・常行堂ということも有り得るのであろうが、真言系でこのような堂宇が企図されたのかどうかは疑問であろう。
現段階では『建物の性格は不明』とするしかないと思われ、塔もしくは多宝塔と云う見解は無理であることははっきりしている。

なお推定五大堂跡の東半分は北からの土砂で埋まっている状態である。
また推定五大堂の東西に想定される板葺の僧堂跡は依然として確認できない模様である。

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1.「安祥寺伽藍縁起資財帳」貞観9年(867)安祥寺開基恵運の勘録

嘉祥元年(848)安祥寺の建立が始まる。

  堂院等条
上寺の部 堂院:礼仏堂1間、五大堂1間、仏頂尊勝陀羅尼石塔1基、宝憧2基
僧坊;東房2間(1.桧皮葺各長7丈・1.板葺2面有庇)、
    西房2間(1.桧皮葺各長7丈・1.板葺2面有庇)、
    東西軒廊
庫頭:桧皮葺屋1間、桧皮葺井屋1間、桧皮葺客亭1間、板葺大宜所1間
浴室1院:桧皮葺屋2間、釜1口
湯槽1口
下寺の部 堂院:毘廬遮那五輪率都姿1基、金翅鳥王宝憧2基、桧皮葺仏堂1間、桧皮葺軒廊2間・・・・

「資財帳」で示される堂院は以上であり、少なくとも創建時の上寺に塔もしくは多宝塔の構想はなかったことを示す。

また下寺の「毘廬遮那五輪率都姿1基」という「塔婆」については、実態が不明であり、大型多宝塔(今日いう多宝塔)であるという説と単なる小型五輪率都姿であるという説との両説がある。
 さらに付随して安祥寺五智如来像(京都国立博物館寄託)の当初安置堂についても、上寺礼仏堂と下寺多宝塔であるとの両説がある。これについては、上寺の礼仏堂安置の可能性が高いと云う説が有力なようである。
その理由は、五智如来像の当初安置場所が上寺ではなく、下寺多宝塔安置とするには、「毘廬遮那五輪率都姿1基」を多宝塔とするしかなく、それも像の大きさから見て、相当な大きさの多宝塔でなければ無理と云う事情によるもののようでる。
  → 参考)初期多宝塔

安祥寺概要

安祥寺は嘉祥元年(848)藤原順子(仁明天皇女御、文徳天皇母)の発願により建立され、定額寺に列せられる。
開山は入唐僧恵運。
創建と概要については、「安祥寺伽藍縁起資財帳」と「三代実録」により現在に伝えられる。
往時の寺域は背後の安祥寺山(上寺)を含め、今のJR山科駅を中心とした東西10町、南北15町に及ぶ広大なものであったと
される。
平安時代末期以降は衰退に向い、上寺は廃絶する。
下寺は、安祥寺流(真言宗小野流三派の一つ)の祖である宗意が中興するも、応仁の乱で焼失。
江戸期には多少の復興が見られるも、現在は下寺にわずかな堂宇を残すのみとなる。
かって存在した多宝塔は宝暦9年(1759)の再建で明治39年(1906)焼失する。
この多宝塔の本尊は京都博物館に寄託されている五智如来(重文)であったと云う。
多宝塔跡は基壇・石段及び礎石をほぼ完存する。

2011/07/28追加:
「山城安祥寺誌」上田進城、安祥寺発行、昭和4年 より
 當寺寳塔は戦国の兵火に罹りて烏有に帰し、・・・寛保年中(1741-)第40世泰雄は・・・再興を発願せしが、その志を遂げずして遷化せり。
第41世弘範は・・・宝暦7年11年11月11日宝塔榮建の工を起し、同9年7月その工を竣ふ。塔は総高7丈5尺(22.7m)、2丈4尺5寸(7.42m)四面の二重宝塔にして、造営費用銀116貫550目を要し、普請奉行武部新左衛門、安祥寺留守居眞光院専らこの業を鑑掌せり。
同年8月20日21日の両日に亘り・・・造塔落慶供養会を営めり。・・・

多宝塔の経歴ははっきりしないが、
「延喜主税式」:「修理安祥寺多宝塔料5000束」の記事があると云い、多宝塔の存在が分かる。
「覚禅
(※)五大虚空蔵法(鎌倉初期):「安祥寺宝塔五大虚空蔵・・・」とあると云い、宝塔が多宝塔とするならば、鎌倉初期には宝塔安置仏は五大虚空蔵(五智如来ではない)であったということになる。
「山州名跡安祥寺条」(元禄15年):五智如来は本堂安置(客仏)とする。
「山城名跡巡行志」(宝暦4年<1754>):五智如来は本堂安置(客仏)とする。
  ・・・つまり宝暦9年の多宝塔再興までは五智如来は本堂に安置されていたようである。
宝暦7−9年:安祥寺第41世弘範によって多宝塔再建。本尊として五智如来像が本堂から遷座・安置される。
 
<「山科安祥寺誌」 より>
「都名所図會拾遺」天明6年(1786)には、多宝塔・五智如来とある。(冒頭の図参照)
明治39年11月原因不明の火事で多宝塔焼失。
五智如来像は火災直前に京都博物館に寄託され、災禍を免れる。
要するに、江戸中期ー明治39年まで五智如来は再建多宝塔に安置される。

多宝塔土壇・礎石は今日まで残存する。
実測値:初層一辺2丈5尺(7.6m)、内陣一辺は1丈3尺(3.93m)を測る。

 <「安祥寺五智如来像考」毛利久、佛教藝術、24による>

(※)2005/07/09追加
「覚禅鈔」所収「安詳寺多宝塔五大虚空蔵菩薩」、覚禅鈔は平安末期〜鎌倉初頭の編纂とされる。
五仏を安置し、従って心柱は一階天井から立ち上がっていたものと推定される。
 (「塔における両界曼荼羅空間の展開」 より)

2.「平安京周辺の山岳寺院」梶川敏夫(「佛教藝術 265」2002 所収)
  ※著者・梶川敏夫は2003/05/01京都新聞記事「安祥寺上寺の復元想像図」の監修者

安祥寺上寺跡
上寺跡と推定される遺跡は現在の安祥寺の北方約1.7kmの山腹にある。
通称「観音平」と呼ばれる標高327mの狭小な尾根上にあり、北方以外は急斜面で谷に落ち込み通常ではアクセスは極めて困難とされる。平坦地は東西約40m南北約60mを測る。中央に明瞭な基壇跡と北方に建物跡が見てとれるようである。中央は礼仏堂、北方建物跡は五大堂と思われる。

安祥寺上寺跡推定平面図:
推定礼仏堂の礎石は未確認、推定五大堂・東西僧房・軒廊で礎石を確認、推定五大堂の東西板葺僧房は未確認。
 ※この時点では推定五大堂北西建物は未確認であったと思われる。

安祥寺現況

2001/03/18撮影:
境内はフェンス(金網)で囲われ、立ち入ることは不可である。(拝観は謝絶)
 写真1(境内):左の参道奥にあるのが本堂であり、その右の木立の奥に多宝塔があった。
 写真2(門前):門の右の潜り戸が本坊寺門で、写真で見るようにフェンス(金網)で境内は囲われる。

2004/10/11撮影:(拝観は謝絶であるが、特別に許可を得る)
伽藍の概要
琵琶湖疎水の安祥寺橋を渡ると右に表門があり、表門を入ると現本坊がある。表門の東南に鐘楼がある。
橋から北へ参道が続き、丘陵の裾に本堂(南面)、本堂手前の東に、地蔵堂(北)・大師堂(南・ともに西面)が並んで立つ。
地蔵堂の北(本堂の北東)の一段高い造成地に多宝塔跡が残る。また本堂の西北に青龍権現がある。

 山城安祥寺本堂
桁行3間、梁間3間、入母屋造桟瓦葺、向拝一間付、文化14年(1817):棟札

 山城安祥寺地蔵堂(右手は大師堂)
方3間、宝形造桟瓦葺、向拝一間付、、明和9年(1772):本坊保存棟札
天井の格間には極彩色の花卉の絵を描くという。

 山城安祥寺大師堂
桁行3間、梁間2間、寄棟造本瓦葺、向拝一間付、安永2年(1773):礼盤墨書がある、古典的な意匠を持つ堂宇である。

2019/04/26撮影:2019年度 春期京都非公開文化財特別公開 で境内が公開される。
 安祥寺本堂1      安祥寺本堂2      安祥寺本堂3
 安祥寺地蔵堂1     安祥寺地蔵堂2     安祥寺地蔵堂3
 安祥寺開山堂1     安祥寺開山堂2     安祥寺開山堂3     安祥寺開山堂4
○「拾遺都名所圖繪」 より
青龍権現:
当寺の鎮守なり。真言伝云、当山の開祖少僧都恵運(ゑうん)は、大唐の商客李処人(りしょじん)等が舟に付て、承和九年八月廿四日に入唐す、是唐土会昌二年也。武宗仏法を滅せし時に値ふて、青龍寺の鎮守青龍の御体を取奉て帰朝す。仁明帝の御宇嘉祥元年八月に、太皇大后追福の為に安祥上下両寺を建立して御願を始行す、此寺に唐朝より将来する所の青龍の御体を安置し奉りて寺の鎮守とす云云。今観音堂の西の傍にあり、文禄年中高野山応其(おうき)再興す。
 安祥寺青龍権現1    安祥寺青龍権現2    安祥寺青龍権現3    安祥寺青龍権現4    安祥寺青龍権現5
 安祥寺青龍権現6    安祥寺青龍権現7
熊野権現:
都名所圖繪では「八まん」とある。熊野権現との関係は不明、石票は「十二所神社」とあるが、明治の神仏分離の処置であろう。十二所権現(熊野権現)は権現号を捨て、「神社」と改竄される。
 安祥寺熊野権現1    安祥寺熊野権現2
 安祥寺本坊山門     安祥寺本坊     安祥寺客殿1     安祥寺客殿2
 安祥寺鐘楼        安祥寺玄関     安祥寺庫裡


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