巻之6:金竜山浅草寺

金龍山浅草寺五重塔など

浅草寺古図

◎江戸名所図会に見る浅草寺;(慶安創建五重塔)「新訂 江戸名所図会(ちくま学芸文庫版)」市古夏生・鈴木健一校訂  より

巻之6:金竜山浅草寺:伝法院と号す。・・天台宗にして、東叡山に属せり。・・以下略・・
     五層塔(山門の内、右の方にあり。内に五智如来を安置す。)

金龍山浅草寺:下図拡大図

五重塔は関東大震災の被災を免れるも、今次大戦の東京大空襲で本堂等とともに焼失する。
昭和48年再興。但し元位置(本堂に向かって右)ではなく、本堂左側に再興される。
再興塔は残念ながら、木造に似せた鉄筋コンクリート製であるが、古代風の様式で再興する。

◎江戸名所圖會の五重塔(部分図)

◎その他の浅草寺五重塔の絵

絵本江戸土産 <嘉永3年(1850)〜慶応3年(1867)>
 浅草寺五重塔
 金龍山浅草寺(部分図)

2007/01/01:「Y」氏ご提供
「大日本六十余州名所図会」、歴史画報社、昭和9年、掲載印刷もの、浅草寺五重塔:
 安藤広重「浅草市」
「名所江戸百景」、「国際画報」か?、大正末か昭和初期?、掲載木版摺り:
 安藤広重「浅草寺
明治40年代少女向雑誌口絵(推定)、尾竹国観(1880-1945)、石版画、浅草寺五重塔(推定):
 尾竹国観「花の東京」

2008/06/28追加:
 江戸金竜山浅草寺観世音境内図:溪斎英泉・江戸名所 、江戸後期?

2009/08/22追加;「図説浅草寺」より
 浅草観音・金龍山真景: 部分:明治18年、楊州周英作
  ※塔の右は仁王門(宝蔵門)、左は経蔵

2007/06/13追加:
 安政大地震浅草寺九輪:「ヴィジュアル百科 江戸事情 第5巻 建物編」NHKデータ情報部編、雄山閣出版、1993 より
安政2年(1855)10月2日夜、江戸安政大地震、浅草寺五重塔九輪が曲がると云う。
(観音堂西の破風大いに損傷、其の外境内社が多く潰れると云う。)
「江戸大地震末代噺之種」:大地たちまちに裂破れ一だう(一条)の白気発す。その気ななめに飛さり金龍山浅草寺の五重のなる九輪を打まげ、散じて八方へちる」
 なお、この地震で小石川水戸藩邸も倒壊し、藤田東湖が圧死する。
2008/06/28追加:
 浅草寺大塔解訳: 「安政見聞誌」に掲載。 安政2年の大地震による相輪の曲りを描く。
2009/08/22追加:「図説浅草寺」より
 地震出火後之角力:安政の大地震で雷門雷神が転倒、骨接ぎで治療、九輪の曲がった塔・濡れ仏・地蔵が見舞う。「瓦版 」。


慶安創建五重塔

浅草寺五重塔は天慶5年(942)安房守平公雅の創建と伝える。
昭和20年焼失塔は慶安元年(1648)徳川家光の再建。大工は木原杢助義久、鈴木修理亮長恒など(相輪)。
高さ111尺(33m余)。各層とも三手先の組物を用いる・初層中備は12支の彫刻の蟇股、2層以上中備は間斗束。
軒は二重繁垂木で5層のみ扇垂木を用いる。相輪(心柱)は懸垂する。
銅葺屋根、丹塗りで、瓦に葵の紋をあしらう。軒下には漆喰の花鳥の飾りがあったと伝えられる。
昭和20年3月10日戦災焼失。

浅草寺五重塔:下図拡大図

浅草寺五重塔:下図拡大図

2008/06/27追加:
「府下に於ける佛塔建築」東京府 , 昭和7年(1932) より
 「浅草寺縁起」(浅草寺縁起編纂会出版)なる書には「当寺の塔は初め安房守平公雅卿の建つるところで、
 三重塔らしい」との記述があるが、当初浅草寺塔婆は三重塔であった。
浅草寺古図(寛永度造営)(下掲載)によれば、慶安再興塔の位置(観音堂右)には五重塔、観音堂左には三重塔が造営される。

浅草寺五重塔正面
浅草寺五重塔初重軒廻1
  同        軒廻2:左図拡大図
  同 五重塔初重扉
  同 五重塔初重内部

外廻軸部及び軒廻は全体丹漆塗となる。
基本的に和様を使用するも、五重の意匠は唐様を用いる。
 (これが通例で、寛永寺塔の全て和様を用いるのが異例であろう。)
初重組物は三手先、中備には蟇股を設置、蟇股には十二支の彫刻を置く。
ニ重から五重の中備は束を用いる。軒は初重を含め二重平行繁垂木。
初重扉は桟唐戸を使用する。
前述のように、五重細部は唐様の手法となり、垂木は扇垂木とする。

内部も全体漆塗。内陣全部(四天柱内全部)が須彌壇となる。
中央には八角の心柱が懸垂される。外陣は組格天井。
四天柱上部・内陣天井・頭長押・貫は極彩色の金襴巻が施される。

基壇は特別には設けない。屋根は銅板葺。(瓦棒を配し、五重目は本瓦葺に似せた銅の丸瓦を敷く)
四方中央に4級の石階を設け、廻縁(切目縁・勾欄は設けない)を付する。(縁高4尺1寸5分、縁板厚2寸5分、縁巾7尺)
初重一辺は16尺・4.85m(中央間6尺・1.81m、両脇間5尺・1.51m)
初重内部の四天柱内部は全部須彌壇となり、五智如来を安置する。
棟梁は木原家6代木原義久(寛永寺五重塔・寛永16年の棟梁は高良豊後宗広)で、当代の木割を墨守する。

棟札:次の3枚が知られる。
 ※但し、現在、現物は本坊・塔中にも存在せず失われている。写(大島盈株翁旧蔵)を建仁寺流工匠門下の山本一次氏が保有する。

奉造立五重塔一基
   征夷大将軍従一位左大臣源家光公
    ・・・・
     ・・・慶安元戌子暦
     ・・・御大工 木原木工充 藤原義久
             鈴木修理亮 藤原長恒
奉修造五重塔
   元禄五歳壬申・・・
     御奉行・・・・

     大工柏木伊兵衛源政等
 
奉修造五重塔
   寶永元歳甲申・・・
    御奉行・・・
    大工大谷甲斐藤原正矩
        大谷平太夫藤原基矩
    冶工椎名伊豫藤原

以上によれば、慶安再興塔は慶安元年(1648)造立され、元禄5年(1692)および宝永元年(1704)に修造される。
 ※慶安元年の造立棟札は「相輪銘」と記されるも、銘文の形式や別途同種のもので「棟札銘」と記されたものもあるから、棟札銘であろう。
 ※なお明治の修理棟札が塔内に残る。
  それによると、明治20年完工、大工大熊卯一、塔の傾斜を直し、中位の鉄柱を吊り直す、側柱の根を取り継ぐ工事であったと云う。
                                                     ---------以上 2008/06/27追加------

2022/07/03追加:
○「別冊 歴史読本 古写真にみる幕末・明治」新人物往来社、昭和62年 より
横山松三郎撮影浅草寺五重塔
 横山松三郎撮影浅草寺五重塔
撮影年度は不明であるが、横山松三郎は明治初頭江戸を撮影した写真を多く残すので、何れにしろ明治初頭の撮影と推定される。
なお明治5年壬申検査に同行している。
横山松三郎
天保9年(1838)〜明治17年(1884)、択捉島で生誕し、47歳で逝去。
幕末・明治初頭には写真術を取得していた。
明治5年(1872)5月から10月まで、町田久成、蜷川式胤らが伊勢・名古屋・奈良・京都の古社寺・華族・正倉院の宝物を調査した『壬申検査』に同行する。

○浅草寺五重塔古写真

浅草寺五重塔:下図拡大図


 

浅草寺五重塔:下図拡大図
明治5−6年頃撮影か?

撮影時期不詳


浅草寺五重塔:下図拡大図

 
2006/02/03追加:
浅草寺五重塔;左図拡大図
 「日本建築史図録・桃山江戸」より
        <昭和7年12月31日撮影>





撮影時期不詳


2003/03/03追加:
「明治・大正・昭和東京写真大集成」より転載
  浅草寺慶安再興塔1:明治初年仁王門楼上から撮影、左は経蔵で昭和20年焼失。
  浅草寺慶安再興塔2:明治10年頃撮影か?
  浅草寺慶安再興塔3:・・・・・A図↓:明治5−6年頃撮影か?
  浅草寺慶安再興塔4:明治10年頃、右は経蔵
  浅草寺慶安再興塔5:撮影時期不詳

2006/09/30追加:
NYPL(New York Public Library) Digital Gallery より
  浅草寺慶安再興塔6・・・・・上記慶安再興塔3(A図)と同一ネガ?と思われる。:撮影時期不詳

2006/07/22追加:

「ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真、マーケーザ号の日本旅行」より
 :第2回目の日本旅行(明治15年10月から翌年1月末まで)の撮影

      浅草寺五重塔・仁王門:下図拡大図
      浅草寺観音堂(本堂)

2007/07/27追加:
「東京景色写真版」
  東京:江木商店、明治26年か より
   浅草寺五重塔1:慶安再興塔:写真小
   浅草寺五重塔2:慶安再興塔:写真大
  2012/04/28追加
   浅草寺五重塔3:慶安再興塔:明治26年撮影
「東京府名勝図絵」
  田山宗尭編、東京:ともゑ商会、明45年 より
   浅草寺五重塔:慶安再興塔:右は仁王門
   浅草寺観音堂:慶安造営本堂
「日本之名勝」
  瀬川光行編、東京:史伝編纂所、明治33年
   凌雲閣より浅草寺境内を俯瞰
「日本名勝旧蹟産業写真帖」
  西田繁造編、横浜:西田耕雲堂、明治45年
   浅草寺仁王門・五重塔:左から仁王門・五重塔・輪蔵
「日本著名建築写真帖」
  斎藤兵次郎編、東京:信友堂、明治41年
   浅草寺観音堂:慶安造営本堂
    :慶安2年造立、大工は慶安元年造立の大工と同一。
日文研 より
   浅草寺五重塔・仁王門

2006/09/30追加:
Old Tokyo vintage Images from japan より
※撮影時期不詳(戦前)
  浅草寺俯瞰写真  仁王門・五重塔  五重塔・観音堂  浅草寺五重塔  五重塔・その他
  浅草寺仁王門   浅草寺観音堂?

2006/09/30追加:
厚木市立郷土資料館所蔵写真:ベアト撮影とされる。
  浅草寺五重塔

2009/07/25追加:
「近代日本:ジョヴァンニ・デ・リセーイスの旅行/Il Giappone moderno : viaggio di Giovanni de Riseis」
 リセーイス(リセイス)/Riseis, Giovanni de
  浅草寺 慶安再興塔101
「日本−有名な作家達による描写/Japan : as seen and described by famous writers」 シングルトン/Singleton, Esther, 1865-1930
  浅草寺 慶安再興塔102
「日本とその人々 第2巻/Japan and her people v. 2」ハーツホーン/Hartshorne, Anna C.
  浅草寺 慶安再興塔103
「中国と日本:世界一周旅行中の経験、研究、観察/China und Japan : Erlebnisse, Studien, Beobachtungen auf einer Reise um die Welt」
 ヘサ・ヴァーテク(ヘス・ヴァーテク)/Hesse-Wartegg, Ernst von, 1854-1918
  浅草寺 慶安再興塔104

2009/08/22追加:「図説浅草寺」より
 昭和8年・慶安再興塔:昭和8年撮影
 浅草寺五重塔修復之図:明治19年、梅堂国政画:五重塔修理に際し、その費用捻出を兼ねて修理用足場に登らせたと云う。

2011/12/02追加:
 明治5年浅草寺五重塔:「The Far East」VoLV、gY より転載

2012/04/28追加:絵葉書
 (東京百景)浅草五重塔     (東京名所)浅草観音五重塔

2023/09/03追加:
関東大震災直後の浅草寺:大正12年(1923)年9月18撮影
 関東大震災直後の浅草寺:2023/09/01朝日新聞掲載写真
中央は浅草仲見世通り、1923年9月1日震災後の大火で浅草一帯も焼失・廃墟となる。
この写真は同年9月18日と思われ、すでにバラック店舗が店開し、多くの人は行きかっている。
背後には仁王門、五重塔が写る。


近世の浅草寺概要

2006/06/15追加:
「近世寺社境内とその建築」光井渉、中央公論美術出版、平成13年
  「中世寺社境内の解体と近世寺社境内の出現」より
2015/02/24追加:
「日本の美術528 都市と寺社境内」光井歩、至文堂、2010 より

元和元年「御府内備考続篇」には次の記載がある。
 「後北条氏時代の浅草寺寺院組織:後土御門帝御宇までは、坊中百余ケ寺御座候、・・・其時之住寺忠海上人・・・百余ケ寺を33坊につつめ内12坊を衆徒と号し、学力有之清僧をすへて・・・残21坊は寺僧と名付、行力正敷清僧をすへ・・・」
 (以上は浅草寺における「中世寺社勢力」的な寺院組織(100余ヶ寺)を、中世末には、衆徒12坊、寺僧21坊合計33坊に整理されていったものと解釈される。)
天正18年(1590)秀吉の小田原攻で敗残し、浅草寺は天海により、徳川家の祈願所とされ、500石の寺領が安堵される。
元和4年(1618)日光造営を受けて、浅草寺においても東照宮の建立が開始される。
 (江戸初頭・寛永寺造営までは、浅草寺は増上寺(安国殿)と並び、幕府の最重要寺院とされる。)
寛永度造営
寛永8年浅草寺炎上。寛永12年まで、幕府による浅草寺造営が行われる。
 しかし、一方では、寛永寺造営が開始され、寛永13年江戸城内紅葉山山王之社が寛永寺観理院に移転し、紅葉山には東照宮が創建され、浅草寺東照宮神体が江戸城内紅葉山東照宮に遷座する。
 (徳川幕府の最重要寺院は従前の菩提寺芝増上寺と浅草寺に代わり、上野寛永寺に比重が移る。)
※寛永度造営を示す古図

 浅草寺古図(寛永度造営)
  :左図拡大図:(画像容量:少々大)
寛永12年から19年までの境内を描く。

寛永度造営では、本堂、五重塔のほか、三重塔、東照宮など造営された。(東照宮・三重塔については慶安度造営では造営されず 、廃堂となる。東照宮については江戸城内紅葉山に遷座する。)

「東京市史稿 市街編5」、東京市役所、昭和3年刊
寛永12年7月12日浅草寺境内(市内浅草区)ニ東照宮ヲ造営ス。・・・
この項に「浅草寺古図」(左図)の掲載がある。
「原寸 竪1尺7寸4分、横2尺4寸。東京府所蔵。
旧浅草平右衛門町名主三枝氏伝フル所タリ。考証図末ニ在リ。東照社ヲ境内西北部ニ図ス。後ノ淡島社所在地其蹟ナリトノ所伝ニ同シカラス。」

 浅草寺古図の堂塔配置:斜線部の三重塔、東照宮、舞台、阿弥陀(堂)は慶安度造営では廃堂となる。
 浅草寺古図の子院配置
 浅草寺古図の子院配置概念図:網掛部が慶安度造営で移動の対象となる。
2009/08/22追加:「図説浅草寺」より
「江戸名所図屏風」の浅草寺境内には本堂東(向かって左)に三重塔が描かれる。寛永8年の炎上以前には本堂東に三重塔があった。
 江戸名所図屏風浅草寺:部分:出光美術館蔵

慶安度造営
寛永19年浅草寺伽藍が再び全焼する。これは寛永度造営の僅か7年後であった。
正保元年(1644)から幕府浅草寺造営開始、慶安2年(1649)に竣工する。
昭和20年戦災で焼失した五重塔は慶安再興塔であった。
※慶安度造営の様子
 「観音境内諸堂末社諸見世小屋掛絵図」 の堂塔配置(観音境内図):寛政10年(1798)
   ※三重塔・東照宮等については再興されず。
 「浅草寺山内検地図」の子院配置: 延宝3年(1675)から貞享3年(1686)の時期を描く。
 「上図」の子院配置概念図:火除地が設けられ、子院の配置換がなされる。網掛部が慶安度造営で移転対象となった子院部分。

2008/01/08追加:
「浅草寺子院梅園院地蔵堂(さざえ堂)の建設と破却」光井渉(学術講演梗概集、1989所収) より
元文5年(1740)以降、浅草寺別当は東叡山門跡兼帯、別当代が本坊伝法院に常駐。
事務責任者として役者(2名)が衆徒12院(上位の子院)から互選される。
衆徒以外の子院22院は寺僧と呼ばれる。

○江戸期を通じ浅草寺は江戸市民の強い支持を受け、浅草寺には常に多くの群衆が集い、その結果として数多の店舗が軒を連ね、多数の庶民の心の拠り所であったのである。
賽銭収入を見てみよう。文政期には年間2300両となり、これはこの期の三井越後屋の収入に匹敵するという。
それくらい、浅草寺は賑わったのである。

2003/7/2追加:
  明治元年浅草寺平面図:塔は仁王門 を入りすぐ右にあった。付近には多くの子院が存在する。
2003/7/9追加:
  江戸切絵浅草寺

2004/04/10追加:
  明治17年参謀本部陸軍部陸地測量局測量地図1
  明治17年参謀本部陸軍部陸地測量局測量地図2

2012/04/28追加:
  浅草公園之図:明治40年
明治20年までに24あった子院は10院が廃絶する。
なお、明治以降子院は移動を繰り返すが昭和7年本堂北側に集合住宅形式の建築を建て、安定した状態になる。

「東京市史稿 遊園編7」、東京都編、1953
明治24年4月6日浅草寺本堂(都内台東区)修理ニ着手ス。
  浅  草 寺 本 堂:慶安度造営本堂・戦災により焼失。
この項に浅草寺本堂写真の掲載がある。
「大正11年頃ノ写真ナリ。戦災ニヨリ焼失。:左記の説明文がある。

2009/08/22追加:「図説浅草寺」より
 慶安再興浅草寺本堂:寛永8年焼失、寛永12年再興、寛永19年焼失、慶安2年再興、昭和20年焼失。

2009/08/22追加:「図説浅草寺」より
★元版一切経(重文):相模鶴岡八幡宮経蔵旧蔵:現浅草浅草寺宝蔵門収蔵

「元版一切経」は北条政子が子息頼家の追善供養のため、元から取り寄せ、鶴岡八幡宮に奉納する。
明治の神仏分離により、焼却の運命にあった一切経を明治4年貞運尼が托鉢によって集めた資金で購入し、浅草寺に奉納する。
 この「一切経」は180箱に収められ、鎌倉から品川までは海路で、品川から大八車を使って浅草寺に搬入する。東叡山寛永寺法親王に仕える新門辰五郎がこの搬入に力を貸すと云う。なお安政年中、浅草寺経蔵は新門辰五郎によって一切経の無いまま再建されるという。
浅草寺経蔵は昭和20年焼失、一切経は疎開して難を逃れる。
 ※貞運尼:文政10年(1827)下谷御徒町の生まれ、長唄の師匠から29才で出家し、本郷の喜福寺で修行、浅草観音に深く帰依する。
 鶴岡八幡宮旧蔵元版一切経

弁天堂・鐘楼1
   同     2
  戦後の再興(鐘は元禄5年の鋳造)であるが、弁天堂・鐘楼がある。
  弁天池は今はなし。図2の鐘楼の左後方(奥)にかっては五重塔が遠望できたはずと思われる。
 


昭和再興五重塔

昭和48年再興。塔院を形成する。RC造ではあるが、復古調の堂々たる塔婆である。
一辺7.5m、高さ45.9m。(地上からは53mと云う)

2003/03/27撮影:
 浅草寺五重塔1
 浅草寺五重塔2
  :(左図拡大図)
 浅草寺五重塔3
 浅草寺五重塔4
 浅草寺五重塔5

2013/02/10:「O」氏撮影
 浅草寺五重塔11
  :(左図拡大図)
 浅草寺五重塔12
 浅草寺五重塔13
 浅草寺五重塔14
 浅草寺五重塔15
 浅草寺五重塔16
 浅草寺五重塔17
 浅草寺五重塔18
 浅草寺五重塔19

2013/05/09撮影:
 浅草寺五重塔211    浅草寺五重塔212    浅草寺五重塔213    浅草寺五重塔214    浅草寺五重塔215
 浅草寺五重塔216    浅草寺五重塔217    浅草寺五重塔218    浅草寺五重塔219    浅草寺五重塔220
 浅草寺五重塔221    浅草寺五重塔222    浅草寺五重塔223    浅草寺五重塔224    浅草寺五重塔225
 浅草寺五重塔226    浅草寺五重塔227    浅草寺五重塔228
 浅草寺五重塔相輪01    浅草寺五重塔相輪02

2014/05/24「X」氏撮影
雷門南東角に浅草文化観光センタービルがあり、8F展望テラス(無料)から浅草寺が俯瞰できると云う。
 浅草寺五重塔遠望     浅草寺伽藍俯瞰

2011年東日本大震災被害;相輪の宝珠落下

2012/12/28追加:都内在住「H」氏情報・写真提供
 2011/03/11の東日本大震災で、相輪最上部の宝珠が一個落下する。直後は先端の部分がかなり曲がっていたが、クレーン車が来て「傾き」を修理する。現在は宝珠はなく、竜車一個のままである。
 2012/12/24「H」氏撮影画像:浅草寺五重塔2012/12/24:相輪最上部の宝珠が欠け、竜車しか写らない。
 ※Webサイトには浅草寺におけるこの震災の動画の掲載があるが、それを見た感想を、多少誇張して云えば、大型洋犬が喜んで尻尾を大きく振るような、振幅の大きな揺れであった。
本塔は新造のRC造であるので、相輪の構造がどのようなものかは不明である。が、一般的な木造塔であれば、心柱に鋳造部品(下から露盤、伏鉢、請花、九輪、水煙、竜車、宝珠)を通し、部品を重ねて相輪を完成させることになる。相輪が一体造り出しや一体鋳造でなく、左記のような木造塔の構造で作成されているのであれば、このような大きな揺れが発生した場合、宝珠が落下するのも無理からぬことと推測される。
 ※上に掲載の慶安再興塔を襲った浅草寺大塔解訳(「安政見聞誌」、安政2年の大地震による相輪の曲りを描く)に似たような現象が再現されるとは奇遇といえば奇遇であろう。
2013/01/02追加:
震災での宝珠落下について「O」氏より「・・・水平近くまで揺れないと、宝珠が降ちるはずはないと思われる。抜けて落ちるよりも割れて落ちたなら理解出来るが、不思議である」との指摘を受ける。
確かに不可解なあるいはどうも納得のいかない落下であるのは間違いない。
しかし、不思議で不可解ではあるが、現に宝珠は落下したのである。
つまり、次のような理由で落下したのであろうと推測せざるを得ない。
指摘のように水平近くまで揺れて落下するか、割れて落下するか、あるいは相輪の構造が不明であるが、相輪中には木製または金属製の心柱の貫通はなく、積み木細工のように単に九輪・水煙・竜車・宝珠などの部品を重ね、溶接もしくは浅い入子構造で相輪が出来ていたとすれば、溶接が破断して落下もしくは入子が外れて落下するか、またあるいは相輪中には伝統的な心柱が通っていたとしてもWebサイトの動画(YouTube:2011年3月11日地震@浅草寺14時48分ごろ)で見られるように相当に大きな振幅で相輪が揺れ、そのことにより一番上の宝珠がいわば競り上がり、宝珠が吹き飛ぶように落下したのであろう。
 何れにしろ、現在宝珠は相輪から欠失しているので、宝珠が落下したのは事実なのである。
ついでに、上記の「H」氏情報では「クレーン車が来て傾きを修理」とあるが、浅草寺五重塔宝珠に「舎利」が奉安されていたのどうかも不明であるが、クレーン車が来て相輪の修理をしたとき、 これは絶好の機会と思われるが、どうして落下した宝珠を元に修復しなかったのであろうか、これも「不可思議」なことである。
なお、「日本の塔総覧 近畿地方編・増補改訂版」では屋根はアルミ製本瓦葺と云うが、相輪の構造については全く触れられず、その構造は分からない。
2013/02/15追加:
 2011/03/11の東日本大震災の続報:「O」氏情報並びに2013/02/10「O」氏撮影画像
  ※撮影カメラは「NIKON COOLPIX P510 光学42倍ズーム(35ミリ換算24〜1000ミリ)」
2013/02/10現在、写真に写るように、相輪先端及び五重屋根の破損瓦の修復は未着手である。
 写真で判断すれば、相輪は五重屋根裏から円筒パイプを立て、五重屋根瓦上に露盤を設置、伏鉢・請花を円筒パイプに通し、その上に九輪を通して固定し、九輪上 にある円筒パイプに一回り経の小さい円筒パイプを継ぐ。その円筒パイプの継ぎ目を挟んで水煙4枚を固定し、その水煙の上に竜車を挿めて固定、竜車の上で円筒パイプは終端となる。
そのパイプ終端に宝珠(その下には短い円筒パイプが一体となって成形されていると推定)下のパイプが下のパイプに浅く被せるようにアタッチされていたものと推定される。竜車上のパイプと宝珠下のパイプの接合は浅い、いわば「入子」構造であり、振幅の大きい地震の揺れで竜車上の円筒パイプと宝珠下の円筒パイプの接合部が外れ、吹き飛ぶように落下したのではないだろうか。
勿論、日本の建築基準法では20mを超える建築物には避雷針(避雷設備)の設置が義務付けられているということなので、当然本五重塔にも避雷設備があるものと推測されるが、その避雷設備はどのように処置されているのか、素人のため全く知識はなく、分からない。竜車の上の円筒パイプの中から上方に円筒パイプ様のものが写真に写るが、これは避雷設備に関係するものなのであろうか、それとも相輪を貫く別の構造物の一部なのであろうか。これも素人には全く判断がつかない。

2013/02/10「O」氏撮影:
浅草寺五重塔相輪10
浅草寺五重塔相輪11:左図拡大図
浅草寺五重塔相輪12
浅草寺五重塔相輪13
浅草寺五重塔相輪14
浅草寺五重塔相輪15
浅草寺五重塔相輪16
浅草寺五重塔相輪17
浅草寺五重塔相輪18
浅草寺五重塔相輪19
浅草寺五重塔相輪20
浅草寺五重塔相輪21
浅草寺五重塔相輪22
五重塔屋根破損1
五重塔屋根破損2
五重塔屋根破損3
五重塔屋根破損4

 2011/03/11東日本大震災塔婆破損情報(「O」氏提供情報):江戸浅草寺、銚子円福寺武蔵高幡不動金剛寺下総仁王尊観音教寺

○昭和再興五重塔の修復
東京在住「H」氏ご提供情報:2016/07/15撮影:
工事概要:相輪補修、外装塗装、瓦葺替、他/工期:平成28年6月起工、平成29年9月竣工予定/修復費用約6億円
 ※瓦葺替は現在のアルミ合金の瓦をチタン瓦に葺替するという。
  なお、宝蔵門(2007年葺替)及び本堂(2010年葺替)屋根がチタン葺に葺き替え済みであるという。
 ※落下した宝珠も復原されるものと推定される。
 浅草寺修復中五重塔1:浅草文化観光センター/8F展望台から撮影      浅草寺修復中五重塔2

旧五重塔「標石」

○旧五重塔「標石」
焼失前塔婆は現在の再興塔とは反対の位置つまり観音堂<本堂>・宝蔵門<仁王門>を中軸とした対称の位置にあった。

旧五重塔位置には「塔」という文字を約15cm角の御影石に刻み、アスファルトの舗道に埋め込み標とする。
そして、この「標石」の埋め込み位置が塔中心であったと云う。
この石は小さな「石」であるが、宝蔵門と交番とそして空襲には焼けたがまだ元気である「公孫樹」の老木の間(交番寄り)にある。
 旧五重塔「標石」1:左図拡大図
   同       2
  2012/12/28追加:左図写真中の「焼け残った欅」の説明は正しくは「公孫樹」である。
   ・・・東京在住「H」氏ご指摘
   同       3

○旧五重塔石碑
◇2010/04/12追加:2010/03/28「X」氏撮影画像
 浅草浅草寺旧五重塔石柱
Web情報を総合すると、上記の石柱が近年(2009/5月工事完了、2009/6月披露)建立される。
新石碑の周囲の敷石に「旧『塔』標石」が嵌め込まれていると思われる。
但し、新石柱の背後に嵌め込まれたものと思われ、写真には写らない。
◇2012/12/28追加:都内在住「H」氏情報
五重塔跡の「塔」の文字のある「標石」は撤去され、「跡の碑」の周りにもない。石柱の前には旧五重塔の略歴を記した石製プレートが置かれる。
 ※「標石」は上に記載の2010/04/12の推測とは違い、撤去され、周囲には残らないと云う。
◇2013/05/09撮影:
旧五重塔「標石」は付近には見当たらない。従って、その処置の仕方あるいは所在は不明である。
 旧五重塔石碑2     旧五重塔石碑3:背後に写る3個の石が旧仁王門礎石である。

○五重塔礎石:2003/05/02追加:

五重塔礎石: 左図拡大図
「礎石の話」大友喜代治(「谷中五重塔」”東京の地方”叢書2−谷中五重塔事典
江戸のある町・上野谷根千研究会(編)1988年 所収) より転載。

写真から判断して、現在「標石」のある付近の場所(旧五重塔跡)と思われる。
であるならば、現在このような礎石は無いと思われる。
しかしどこかに移動し、残されている可能性があるが、消息は不明。
2012/12/28追加:
この写真は図書の刊行年から見て、昭和63年以前のものである。写真の位置からして旧五重塔の跡地付近と思われる。
しかし、東京在住「H」氏より、「旧五重塔の礎石は現在境内にはない。・・・旧仁王門の礎石は残存する」との指摘を受ける。(下に続く)

(上より) 旧仁王門礎石は上に掲載の「旧五重塔石柱」の背後(東と思われる)に3個保存される。
 ※上に掲載の浅草浅草寺旧五重塔石柱」:「X」氏撮影画像:の背後に3個の旧仁王門礎石が写る。
 2012/12/28追加:2012/12/24東京在住「H」氏撮影:浅草寺仁王門礎石
浅草寺にある「旧仁王門礎石」の傍に建つ説明板は、以下のように云う。
 慶安2年(1649)家光による仁王門は昭和20年の戦災で焼失、昭和39年跡地に宝蔵門として再建される。
 再建に際し、跡地にある18個の礎石は戦災でひび割れ破損するも、原形をととめる礎石3個を選び、昭和37年掘り出し保存する。
 礎石の大きさはヲ凡そ1.2×1.4m高さ1mほどで上面には枘孔を穿つ。
推測するに、
「礎石の話」(大友喜代治)で云う上記の浅草寺五重塔礎石は実は昭和37年の掘出された3個の仁王門礎石のうちの2個ではないだろうか。
断定は出来ないが、礎石の形状は保存されている旧仁王門礎石に似ているようには見える。
掘出された3個の旧仁王門礎石のうち2個は上記の写真のような位置つまり旧五重塔のあった位置付近に、以前は置かれていたのではないだろうか。
それを、大友氏は-失礼な推測ながら-五重塔礎石と誤認したのではないだろうか。(推測外れであれば、謝して訂正する。)
誤認ではなく、確証があるということであれば、この写真に写る礎石は仁王門礎石ではなく五重塔礎石ということになるが、この場合、この写真に写る五重塔礎石の消息は全く知れず、解明をしなければならないことになる。
現段階では常識的には以下のように推測するのが妥当であろうか。
即ち、昭和27年に掘出された旧仁王門礎石のうちの2個は旧五重塔跡付近に置かれていたが、いつしか、現在の場所に移され、3個並べて保存手展示されるようになる。
2013/05/09撮影:
 浅草寺旧仁王門礎石1     浅草寺旧仁王門礎石2     浅草寺旧仁王門礎石3
東京在住「H」氏2016/07/15撮影:
 浅草寺旧仁王門礎石4
 


淡島堂宝塔

平成8年(1996)落慶。総高8.8m、相輪高3.2m。
小型の宝塔である。写経供養塔と称する。浅草寺信徒の納経を納めると云う。
塔身は花崗岩製で、上部の軸部は木造、屋根銅板葺と思われる。

2003/03/27撮影:
 淡島堂宝塔1
  同     2
2013/02/10「O」氏撮影画像:
 淡島堂宝塔11
 淡島堂宝塔12:左図拡大図
 淡島堂宝塔13
 淡島堂宝塔14

2013/05/09撮影:浅草寺淡島堂前宝塔/浅草寺写経供養塔
 浅草寺宝塔21     浅草寺宝塔22     浅草寺宝塔23
 浅草寺宝塔24     浅草寺宝塔25     浅草寺宝塔26

銅造宝篋印塔

宝暦11年(1761)西村和泉守藤原政時の鋳造。高さ約8m。安政2年(1855)の震災で被災、明治40年日露戦争凱旋紀念として修復。
浅草寺銅造宝篋印塔


浅草寺伽藍
2013/02/10「O」氏撮影画像:
○浅草寺宝蔵門:RC造、昭和39年再興
 浅草寺宝蔵門1     浅草寺宝蔵門2     浅草寺宝蔵門3
 浅草寺宝蔵門4     浅草寺宝蔵門5     浅草寺宝蔵門6     浅草寺宝蔵門7
 2013/05/08撮影:
  浅草寺寶藏門8
○浅草寺本堂(観音堂):RC造、昭和33年再興
 浅草寺観音堂11     浅草寺観音堂12     浅草寺観音堂13     浅草寺観音堂14     浅草寺観音堂15
 浅草寺観音堂16     浅草寺観音堂17     浅草寺観音堂18     浅草寺観音堂19     浅草寺観音堂20
 浅草寺観音堂21     浅草寺観音堂22
 2013/05/09撮影:
  浅草寺観音堂23     浅草寺観音堂24
2013/05/09撮影:
○浅草寺二天門(重文)
切妻造八脚門、屋根本瓦葺。
元来は元和4年(1618)浅草寺境内「東照宮随身門」であった。寛永19年(1642)東照宮焼失、その後の再建は許可されず。
明治の神仏分離の処置で二神を廃し、鎌倉鶴岡八幡宮経蔵の二天を移安して「二天門」と改称、両像は戦時中、修理先で焼失する。
現在の二天像は上野寛永寺巌有院(徳川家綱)霊廟より移安する。
慶安2年(1649)頃の建立とも云う。平成22年復原修理落慶。
 浅草寺二天門1     浅草寺二天門2
○浅草寺薬師堂
慶安2年(1649)徳川家光再建、3間×3間。「橋本薬師堂」称する。
 浅草寺薬師堂1     浅草寺薬師堂2     浅草寺薬師堂3
○浅草寺六角堂
元和4年(1618)の造立と云う。(文化10年「浅草寺誌」)単層六角堂、屋根桟瓦葺。建物径は1.82m、一辺91cm。
 浅草寺六角堂1     浅草寺六角堂2
○浅草寺淡島堂
元禄年間(1688-1704)紀伊加太淡島明神を勧請、淡島堂を建立と云う。現在の淡島堂は、戦後の「仮本堂」として建立され、その後「影向堂」として 移建されたものを、平成6年の境内整備の時、曵屋して現在地に移築する。
本尊は阿弥陀如来座像で虚空蔵菩薩/淡島明神/取子地蔵菩薩を祀る。
 浅草寺淡島堂


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