★紀伊高野寺三重塔古写真(覺樹院)
高野寺三重塔についてはその由緒が全く分からない。僅かに昭和20年和歌山空襲で焼失したことが知れるだけである。
しかしながら、以下の写真が入手できたので、掲載する。
2015/12/22追加:下に掲載のように「本町校と本町区」和歌山市立本町小学校、1958.2 から若干の情報を得る。
2017/01/09追加:高野寺三重塔絵葉書を入手、
これによって、「紀伊高野寺所蔵写真」はおそらく「高野寺三重塔絵葉書」を何らかの方法で印画したものではないかと推定されるに至る。
○紀伊高野寺三重塔絵葉書
|
「(紀伊百景)和歌山市高野寺多寶塔」
紀伊高野寺三重塔0:左図拡大図:s_minaga蔵
この絵葉書写真は下に掲載の「紀伊高野寺所蔵写真」と全く同じ写真であるのは疑いのないところである。
これは一体どうしたことであろうか。
これはおそらく、次のように推測できるであろう。
まず、この絵葉書の作成年代であるが、
通信欄の罫線が3分の1であること及び表面の表示が「きかは便郵」であるので、
明治40年(1910)〜大正7年(1918)3月までの製作であろう。
(未使用はがきで消印や切手からの特定は不可である。)
昭和25年丸正百貨店写真展の出品にあたり、高野寺三重塔写真は、この絵葉書が原画となり、額入写真として仕上げられ、出品されたものと推測される。この絵葉書はプロの写真家によって、上手に整形・拡大されたものと思われる。
そして、この額入写真は百貨店の写真展終了後、高屋寺に奉納されることになったものと思われる。 |
○紀伊高野寺所蔵写真
|
本写真額は紀伊高野寺拝堂に掲額される。
高野寺住職の談は次の通りである。
本写真は丸正百貨店にて開催された?紀伊百景?の一枚として掲げられたものである。
※丸正百貨店は和歌山の中心繁華街にあり老舗百貨店であったが、2001年倒産・閉店するという。
※この写真額は平成25年和歌山市内の(おそらく著名な写真家と思われる)方から高野寺に奉納されたものである。この写真額そのものが丸正百貨店に掲額された現物なのか、それとも写真は別途あり、それを何らかの方法で転写し、額に仕立してのか云々の事情は不明である。
※2017/01/09:この写真と同一の絵葉書が存在することが判明。このことから、この写真額は上に掲載の絵葉書を整形して仕立てられたものと推測される。
紀伊高野寺三重塔:左図拡大図
紀伊高野寺三重塔部分図
高野寺三重塔その2:上記の写真を撮影したように思われる写真を額に納めたもので、この額も紀伊高野寺本堂に掲額される。丸正百貨店で掲げられた写真を撮影したものなのかどうかは不明である。 |
○「和歌山と和歌浦」内村義城 (養浩居主人)、木国史談会、明治42年(1909) より
|
本書に三重塔写真の掲載あり。
しかし、三重塔に関する記事は皆無である。
即ち、記事の概要は次のとおりである。
高野山興山寺持の輪番所である。
その寺地は慶長年中国主浅野氏の寄付に拠るものという。
またその堂宇は応其上人大仏造営の功によって秀吉から拝領した殿堂をそのままこの地に移したものという。
紀伊高野寺三重塔2:左図拡大図 |
○大正12年撮影市街瞰下写真
大正12年に和歌山城天守閣上より市内北方を瞰下したる写真である。
この写真中に高野寺三重塔と推定される姿が写る。
|
瞰下したる和歌山市1:左図拡大図
高野寺に額に入れられ奉納された写真である。高野寺本堂の書斎に所蔵される。
瞰下したる和歌山市2:
和歌山市北方を撮影する。写真上方左右に横切るのは紀ノ川である。
瞰下したる和歌山市3:
写真左下は市役所、その上方紀ノ川の手前の大屋根は本願寺鷺ノ森別院、その斜め上方に架かる橋は南海電鉄本線紀ノ川橋梁、そのさらに左進み紀ノ川手前に写る塔婆らしき建物が高野寺三重塔である。
※南海電鉄紀ノ川橋梁は明治36年開通、その西の北島橋(旧橋)は大正7年開通というも判然とはしない、さらに西の
加太軽便鉄道紀ノ川橋梁(現河西橋)は大正3年開通というもこれも判然とはしない。
瞰下したる和歌山市4:部分図
写真中央やや左に塔婆らしき建物が写るが、高野寺三重塔であろう。 |
★高野寺三重塔の由緒
高野寺は戦災で資料一切が焼失、住職も代替わりし現住職は塔婆に関することは一切聞いていなく、さらに以下の資料などにも塔婆情報は皆無であり、三重塔の由緒(願主、建立年代、様式など)は一切が不明である。
塔が存在したことを証明するのは上掲の写真のみの状態である。塔の消滅のみは昭和20年の和歌山空襲で焼失と伝わる。
○紀伊國名所圖繪:初編〜ニ編:文化8〜9年(1811-12)刊 高市志友著、西村中和画
遍照山覺樹院高野寺
真言宗古義高野山行人派●ヶ●
本尊弘法大師:大師42歳の時自ら刻みたる霊像にして、世に是を厄除大師と称し、信仰するもの多く、月の21日賽者陸続、広き境内に満つ。
◎絵図挿絵(高野寺):三重塔は描かれない。
文化年中には高野寺には三重塔はなかったものと判断できる。したがって、三重塔の建立は早くとも江戸末期であろう。
上掲の「大正12年撮影市街瞰下写真」では三重塔が写り、また紀伊高野寺所蔵写真では和様を基調とする正規の塔建築であることを十二分に窺わせるので、三重塔は江戸末期の建築と推定される。一歩譲って江戸末期ではないとしても、明治の早い段階の塔なのであろう。
○「紀伊名所案内」大川民純 (墨城)、紀伊名所案内発行所、明治42年(1909)
塔の記載はなし。
○「和歌山史要」和歌山市編、和歌山市, 大正4年(1614)
覚樹院:
慶応3年8月本堂焼失し、今あるものは明治12年再建するところたり。
※目新しい情報は以上だけであるが、慶応3年本堂焼失し、明治12年再興とあるから、あるいは明治12年本堂再興の時に三重塔が建立された可能性はあるかも知れない。
○「紀伊続風土記 第一輯」臨川書店 1990年復刻版
巻之五>「覚樹院」
塔の記述はないという。(未見)
2015/12/22追加:
○「本町校と本町区」和歌山市立本町小学校、1958.2 より
高野寺三重塔について若干の情報が入手できたので、掲載する。
|
三重塔は150年ほど前に住職真応和尚が建立したものである。真応和尚は12年に亘る苦労の末に建立するという。なお和尚は筆の名手であったと云われる。
戦災前三重塔:左図拡大図
高野寺は戦災で焼失するまでは境内400坪余あり、建物は総欅造の三重塔をはじめ大小14棟、314坪に余る伽藍があった。
※三重塔は総欅造であった。
※建立時期は(1958年から)150年ほど前に落慶あるいは完工したものである。
つまり昭和33年(1958)の本書の刊行から150年前は文化5年(1808)であるから、塔は文化年中の初期に完成したものであろう。
従って、紀伊國名所圖繪に三重塔が描かれていないのは、その刊行年(文化8年〜9年)から見て、編集段階では高野寺三重塔は未だ完成には至っていなかったと解釈するしかないであろう。 |
★紀伊高野寺現況
高野寺開基は戦国末期の応其上人である。
即ち木食応其上人は豊臣秀吉の紀州攻めにあたり、高野山を兵火から救い、秀吉をして高野山の外護者たらしめたのであるが、その応其上人が京都伏見で秀吉より与えられた殿堂を移したのがこの高野寺である。
関ケ原戦後、紀州に封じられた浅野幸長は寺領を寄進、この附近一帯を寺町とした。故に今もこの地は元寺町と称する。
2015/10/08撮影:
◆高野寺伽藍
高野寺山門 高野寺拝堂 高野寺拝堂予想図:本堂に引き続き拝堂も造替する計画が進む。
高野寺本堂1 高野寺本堂2 高野寺本堂3 高野寺本堂4:(株)西澤工務店設計施工、平成26年竣工
西澤工務店は各所の寺社建築の新造、文化財に指定されて古建築の修復などを多く手掛ける。
高野寺山門鐘楼 高野寺鐘楼 高野寺客殿
高野寺手水石:元禄2年の年紀、戦災で灰燼に帰すが、この手水が殆ど唯一残った古いものである。
三重塔推定跡地:三重塔は向かって右の拝堂と左の庫裡との間の奥まった位置に建っていたと推定される。
◆推定三重塔礎石:
住職の談では、
近年の本堂改築では、本堂基壇上には三重塔の礎石と思われる石が置かれていた。
勿論確証はないが、おそらく三重塔礎石と思われるので、掘り起こし5個を取りあえず庭に積んである。(以上住職談)
推定三重塔礎石1:中央の2個が掘り出した推定礎石 推定三重塔礎石2:中央の3個が掘り出した推定礎石
高野寺石造三重塔:今は無き三重塔を偲ぶ意味なのであろうか、新しい石造の三重塔が置かれている。
2015/10/17作成:2017/01/09更新:ホームページ、日本の塔婆
|