土 佐 竹 林 寺 三 重 塔 跡 ・ 五 重 塔

土佐竹林寺三重塔跡及び五重塔

土佐竹林寺三重塔跡

竹林寺にはかって三重塔があったが、明治32年台風により倒壊したと云う。
おそらく相当老朽化して、維持管理がままならなかったと推測される。

五台山竹林寺三重塔跡

2016/02/24追加:
2016年、明治32年倒壊した三重塔跡が発掘され、公開される。
三重塔のあった場所は現境内図で示せば、次の通りである。
 現境内に於ける三重塔跡:図示の通りである。現在の大師堂の背後でやや窪地となっている場所である。
また、以下に近世の各種五台山竹林寺の絵図を掲載するが、主要伽藍は現在の配置とは異なっている。
そこで新旧の主要堂宇の対比を図示すれば次の通りである。
 主要堂宇の新旧対比図:仁王門は、確証はないが、現在より一段下(東)にあったが、一段西に移建され、鐘楼は仁王門内にあったが、仁王門外に移建されている。
文殊堂は東向きで仁王門のすぐ西に相対していたが、現在は一段上の檀に上がり、さらに北に移動し本堂として南面するように移建される。
旧大師堂は拝殿・相の間・大師堂(宝形造)の3棟が結合されたように見える形式であったが、現在は本堂と同様、一段上の檀に上がり、北面するように移建され、しかも入母屋造の一堂の形式に変更されている。現在の大師堂は拝殿のみが移建され、現在の大師堂となっているのであろう とも思われるが、しかし、これに関する確証はない。
五重塔は勿論昭和55年の新造、三重塔は明治32年倒壊し、2015年発掘される。
 ◇三重塔跡の公開に於ける新聞報道の大意は次の通りである。
現在の大師堂南側(つまり大師堂の背後)の山林(大師堂裏手すぐ)に平坦地があり、ここから縦横4列ずつ整然と並んだ礎石の一部12個が発掘される。
この12個礎石は三重塔の礎石であろう。その一辺は4.5mを測る。記録に残る塔の規模は三間四方(一辺約4.45m)といい、周辺の急斜面の様子なども絵図と一致することから、塔があったものと判断される。
 ※記録に残る塔の規模は「三間四方」ということであるが、その記録とは寺社明細帳とも思われるが、どの記録かは不明。したがって「三間四方」とは柱間が三間なのか実寸が3間なのかは即断できない。但し近世の文書であろうから「三間」とは実寸の3間を表記しているものであろうと思われる。
2016/02/18撮影:
 土佐竹林寺三重塔跡:旧文殊堂跡付近から三重塔跡を撮影、赤いコーンが2個みえるが、その向うが三重塔跡である。
2016/02/18撮影:
土佐竹林寺三重塔跡礎石配置模式図:橙色の矢印部分及び黒字文字部分をクリックすれば、矢印方向からの写真を表示する。

1行、2列目及び2行、2列目の礎石2個は露出していたという。
1行、1列の礎石は抜き取られて存在しない。
1列目の3行および4行目の2個の礎石と2列目の4行に位置する1個の礎石は立木があるため、未発掘、従って礎石の有無は不明である。

◎上記の「三重塔跡礎石配置模式図」上のリンクを一覧表で示せば、次の通りである。
 1:塔跡全景--------土佐竹林寺三重塔跡11     2:塔跡全景--------土佐竹林寺三重塔跡12
 3:塔跡全景--------土佐竹林寺三重塔跡13     4:塔跡全景--------土佐竹林寺三重塔跡14
 5:塔跡全景--------土佐竹林寺三重塔跡15     6:2、3、4列礎石----土佐竹林寺三重塔跡16
 7:2、3、4列礎石----土佐竹林寺三重塔跡17     8:3行、4列礎石----土佐竹林寺三重塔跡18
 9:2行、1列礎石----土佐竹林寺三重塔跡19     10:1、2行礎石-----土佐竹林寺三重塔跡20
 11:礎石抜取穴----- 土佐竹林寺三重塔跡21      12:1行、3列礎石---土佐竹林寺三重塔跡22

◎三重塔伏鉢:<未見>
「竹林寺の仏像」前田和男、五台山竹林寺、平成15年 より転載

三重塔伏鉢が残存する。(高さ41cm、上径25cm、下径66cm)
印刻:「・・・・・/營作三層之寶塔/安置釈迦之尊像/・・・・・
・・・・・・・/干時 寛永廿一(甲申)歴九月吉日/大檀越/土州之太守四位侍従藤原朝臣忠義公/奉行 安田四良左衛門方成/小倉小介政平/當住持法印權大僧都有巌上人/・・・・・・・・」
 ※寛永21年(1644)三重塔が山内忠義を大檀越として栄作(再建)されたことが知れる。

 土佐竹林寺伏鉢:左図拡大図

五台山竹林寺旧文殊堂跡

2016/02/24追加:
2016年三重塔跡と同時に旧文殊堂跡が発掘され、公開される。
 ◇旧文殊跡の公開に於ける新聞報道の大意は次の通りである。
文殊堂は明治45年現在の場所に本堂として移転し、現在は南面する。
 ※では文殊堂のもとの場所はどこであったのか、それは上に掲載した通りであるが、再度掲載する。
 新旧の文殊堂(本堂)の対比を図示すれば次の通りである。

  主要堂宇の新旧対比図:文殊堂は東向きで仁王門のすぐ西に相対していたが、現在は一段上の檀に上がり、さらに北に移動し
 南面するように移建される。

本堂より下にある参道の南北脇から、約70cm四方の礎石2個が発見される。
2個の礎石の間隔は6.2mであり、これは現在の本堂の「向拝」の柱間隔と一致する。
長宗我部地検帳にある「本堂 東向 文殊」との記載や絵図の描写とも一致し、文殊堂はこの場所に、東向に建てられていたと推定できる。
2015/02/21「X」氏撮影・ご提供画像
 旧文殊堂礎石位置:文殊堂移転の後、現在参道には現本堂や大師堂 がある檀に上がる爲の石階が作られているが、その石階上から撮影した写真である。参道の左右に2個の礎石(向拝礎石)が発掘され、写真中央附近に2個の礎石が写る。写真奥に写るのは仁王門で、移転前は仁王門を入ればすぐに文殊堂と相対する伽藍配置であったことが良く分かる。
 旧文殊堂向拝左向拝礎石:文殊堂から見て左向拝礎石である。
2016/02/18撮影:
 旧文殊堂礎石位置1     旧文殊堂礎石位置2:石階前/参道の左右で2個の礎石が発掘される。
 旧文殊堂右礎石1     旧文殊堂右礎石2     旧文殊堂右礎石3:文殊堂から見て右 向拝礎石である。
何れにせよ、この方形の礎石は新聞報道では旧文殊堂向拝の礎石ということになる。


2013/08/15追加:
○「四国遍礼霊場記」(原本は元禄2年「内閣文庫本」寂本原著7巻7冊、東京国立博物館本/元禄2年刊の複製) より

五臺山圖:左図拡大図:元禄2年(1689)

記事:
・・・現存するものは本堂の左にある開山堂(行基菩薩像)、池の中に弁財天祠、次に鎮守は山王権現で拝殿があり、右に大師堂、前に拝所がある。次に三重塔(大日本尊)、鐘楼、さし入りに仁王門。そして門外に牛堂」あり。・・・

2014/10/24追加:
「竹林寺客殿・庭園調査報告書」奈良文化財研究所、2012.11 より
1)長曾我部地検帳;天正16年正月23日条では以下の書上げがある。
  五台山
  一所本堂(東向)文殊 仁王堂 竹林寺金色院 塔堂(三重) 鎮守山王并奉納所 御影堂(行基菩薩) 鐘楼
2)明治32年暴風雨で倒壊した三重塔の伏鉢が現存し、以下のような刻銘がある。
  (前後略)去歴寛永廿癸未年孟春之朝昏罹■攸之變蘭若已為烏有矣
  (中略)  寛永廿一甲申暦九月吉日  大檀越  土州之太守四位侍従藤原朝臣忠義公
  (中略)  祈願入佛  法印権大僧都宥英上人
   ※寛永21年變蘭(変乱)が惹起し烏有に帰すが、寛永21年2代藩主山内忠義が大壇越となり、祈願入仏をなす。
   ※以上の伏鉢刻銘に従えば、室町期の塔は寛永20年に烏有に帰し、同21年に再建されたことになる。
    なお、本堂(文殊堂)には寛永21年と推測される修理墨書があり、大師堂についても寛永21年忠義の造営との記録もあり、
    五台山に於いて寛永年中に火災そしてその後に大規模な造営があったことは事実であろう。

3○)「四国遍禮名所圖繪」五臺山:「四国遍禮名所圖繪」寛政12年(1800)刊

「四国遍禮名所圖繪」五臺山;左図拡大図;寛政12年(1800)以前

文化5年(1808)焼失前の竹林寺境内を描いたものである。

4)○文殊閣并竹林寺之圖(「皆山集」松野尾章行編、明治11〜34年に編集 所収)

文殊閣并竹林寺之圖:左図拡大図:江戸後期

年号未詳の「五臺山之圖(本図は未詳)」を描写といい、また文化5年(1808)五臺山竹林寺焼失文殊堂残るとのか着込あり。
年号未詳の「五臺山之圖」が原図であるが、書き込みから文化5年の焼失後の竹林寺境内図と知れる。また参道には明治維新後に廃絶した北室院・東之坊・南之坊・中之坊などが描かれるので、明治維新前の図であろう。

2016/02/24追加:
○文殊閣并竹林寺之圖・その2

「竹林寺の仏像」前田和男、五台山竹林寺、平成15年 より転載
 :上記の「皆山集」からの絵図と同一のものと思われるも、<「皆山集」第31巻/原本>も<「皆山集第二巻 宗教(2)・歴史(1)」高知県立図書館、1975>も未見のため、 本図の実態が良く分からない。

 文殊閣并竹林寺之圖・その2:(部分):左図拡大図

2013/08/09追加:
○「四国遍路道中雑誌」松浦武四郎(「松浦武四郎紀行集. 中」1975 所収)
 ※「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」よりでは、「四国遍路道中雑誌」弘化元年(1844)上梓、天保7年(1836)武四郎19歳の頃に四国を巡ると思われる。
▽五臺山眺望

 五臺山眺望:左図拡大図

記事:
・・・「仁王門」を入て鐘楼有。向て「五臺山竹林寺本堂」・・本堂の傍に「大師堂」并に「愛染明王」上に「大日塔」上に「宝篋印塔」并て「行基堂」池有。此中に「五智の銅像」并て「地蔵堂」下に「熊野権現」下に「一切経蔵」下に「山王七社」等有。

2014/10/24追加:
「高知県史蹟名勝天然紀念物. 第1輯」高知県、昭和3年 より
聖武天皇勅願、神亀元年(724)行基菩薩草創、空海の中興するところ、本尊は行基作文殊仏にして国宝(重文)なり。
寛永20年本堂炎上、山内忠義再建し、現在は重文。
堂宇は悉く藩営なりしが、就中三重塔は多宝塔式にして、足利時代の建築に係り、俗に文殊塔として土佐随一の荘厳を極む、然るに明治32年の暴風に倒れしは遺憾なり。

2014/10/24追加:
「五台山誌」大野康雄、五台山青年団文化部、1952.10 より
三重塔:多宝式の足利時代の建築であり俗に文殊の塔として・・・土佐随一の荘厳であったが明治32年大暴風雨で全部倒壊・・・
遺物としては、宝物館に安置されている高さ2尺くらいの・・相輪によって僅かに面影を知るのみである。
相輪には「宝永21年(改築の時)忠義公、小倉少助、脇坊象栄境」と銘あり寺社明細帳によれば2間四面とのみ記されあり。
 ※宝永21年とは寛永21年の誤植であろう。宝永は8年まであり、忠義は寛文4年(1665)逝去であり宝永年中には生存しない。
 なお、上述の「竹林寺客殿・庭園調査報告書」中の2)三重塔伏鉢刻銘を参照


土佐竹林寺五重塔

塔婆再興は長年の悲願であり、遂に昭和55年復古調の本格木造塔として再興される。

1980年建立。一辺4.8m、総高31.2m、総檜造り彩色。
純和様の鎌倉初期の様式を用いる。
設計は富士建設(詫間町)、施工は宇治の岩上政雄氏。
本尊大日如来。

2003/12/27撮影:
 土佐竹林寺五重塔1
   同        2(左図拡大図)
   同        3
   同        4
2016/02/18撮影:
 土佐竹林寺五重塔11
 土佐竹林寺五重塔12
 土佐竹林寺五重塔13
 土佐竹林寺五重塔14
 土佐竹林寺五重塔15
 土佐竹林寺五重塔16
 土佐竹林寺五重塔17
 土佐竹林寺五重塔18
 土佐竹林寺五重塔19
 土佐竹林寺五重塔20
 土佐竹林寺五重塔21
 土佐竹林寺五重塔22

土佐竹林寺

2016/02/16追加:
土佐五台山竹林寺略歴:
神亀元年(724)聖武天皇の命により行基がこの地を訪れ、中国の五台山に似ていることから、文殊菩薩を納め竹林寺を創建したと伝える。(「続日本記」神亀元年三月二十四日の条)
その後、大同年中に空海が訪れ真言密教の霊場として再興すると伝え、後に四国三十一番札所と定められる。
文明年中兵火にかかり焼失するも、その後再興、天正16年(1588)の地検帳には、本堂、仁王堂、塔堂、本坊及び中の坊、北室坊、中院、上坊、妙光寺、下の坊などの寺中の名称も記載される。
土佐藩二代藩主山内忠義は寺領100石を寄進し、竹林寺を崇敬する。
寛永20年(1643)多くの堂塔が焼失するも、翌正保元元年(1644)忠義により本堂の大改修や大師堂が再建され、祈願所に定められる。
文化五年(1808)文殊堂を除き罹災し、さらに明治の廃仏もあり衰微するも、明治30年代には再興される。
なお、民謡「よさこい節」の僧侶・純信は南之坊の修行僧という。
○貞享元年銘法華経塔
貞享元年銘法華経塔(五台山の経塔、竹林寺)が吸江寺側からの旧参道の後半部にある。
幡多郡大月町柏島の法蓮寺の住持日教により建てられたものである。高さ2.98m。
貞享元年銘法華経は宿毛及び甲浦の満福寺にもある。
 参考文献:高知県文化財調査報告書(第二十四集)

2014/10/24追加:
現境内図:
「五台山竹林寺」五台山竹林寺、出版年不明 より
 五台山竹林寺境内図1
「竹林寺客殿・庭園調査報告書」奈良文化財研究所、2012.11 より
 五台山竹林寺境内図2
  ※近世の圖繪と比較すれば、現在本堂は南面するように移築され、仁王門は一段下の石階下に遷され、鐘楼は仁王門内にあったが、今は門外にある。
文化財:以下の重文を有する。
本堂
木造文殊菩薩及侍者像4躯(平安後期)、 木造大威徳明王像(鎌倉)、 木造阿弥陀如来立像(平安後期)、
木造多聞天・増長天立像(平安後期)、 木造愛染明王坐像(鎌倉)、 木造千手観音立像(鎌倉)、 木造薬師如来坐像(平安後期)、
木造十一面観音立像(平安中 - 後期)、 木造釈迦如来坐像(平安後期)、木造勢至菩薩立像(平安後期)、
木造阿弥陀如来坐像(平安後期 - 鎌倉)、 木造白衣観音立像(室町)、 木造馬頭観音立像(室町)、木造大日如来坐像(鎌倉 - 室町)

竹林寺現況

本尊は文殊菩薩。四国88ヶ所第31番札所。
本堂(5間×5間、杮葺入母屋造り)は寛永21年(1644)山内忠義の造立である。重文。
2003/12/27撮影:
 土佐竹林寺本堂
2016/02/18撮影:
大師堂は寛永21年(1644)山内忠義によって建立という。
 土佐竹林寺本堂11     土佐竹林寺本堂12
 土佐竹林寺本堂13     土佐竹林寺本堂14    土佐竹林寺本堂15     土佐竹林寺本堂16     土佐竹林寺本堂17
 土佐竹林寺仁王門1     土佐竹林寺仁王門2     土佐竹林寺鐘楼
 土佐竹林寺大師堂1     土佐竹林寺大師堂2     土佐竹林寺山王権現
客殿は享保200年(1735)建造、車寄は文化13年(1816)の建立で県文であったという。
しかし、客殿は車寄・玄関と同時期である文化13年(1816)の建立と推定され、今般2015年国重文に指定される。
また、今般の重文指定を機に、客殿を当初の名称である書院と呼称を変更することになる。
 土佐竹林寺書院1     土佐竹林寺書院2     土佐竹林寺玄関1     土佐竹林寺玄関2
 竹林寺虚空蔵堂      土佐竹林寺船岡堂


2016/02/23追加:
今までの三重塔跡記事
今まで、三重塔跡として、次の記事を拙ページに掲載していた。
しかし、 今般上述のように、三重塔跡が発掘され、 今までの三重塔跡の記事は、何れも誤謬であったので、撤回する。

--------------今までの三重塔跡記事-------------------------

竹林寺にはかって三重塔があったが、明治32年台風により倒壊したと云う。
おそらく相当老朽化して、維持管理がままならなかったと推測される。
なお 現在この三重塔に関する詳しい情報は未掌握である。

竹林寺寺僧の談によれば
三重塔は山門を入り、すぐ右手(北側)にあったと云う。

現状塔跡は、礎石などは残存せず、辛うじて僅かな高まりを残す。
確かに堂塔の存在を思わせる雰囲気ではあるが確証はない。
参道寄に残る自然石の塊は塔基壇?の残存と云う説明であった。
 土佐竹林寺三重塔跡1
   同         2(左図拡大図)
   同         3

別説:三重塔跡は今の五重塔の位置よりさらに山道を30mほど登ったところにあり、石垣が残存する。
この三重塔は明治20年に倒壊したと伝える。

2014/10/24追加:
次に示すように、近世の絵図類では一貫して、三重塔は東面する本堂(文殊堂)及び大師堂の背後(西側)の小丘上にあるように描かれる。
勿論現在本堂は南面するように移築されてはいるが、大筋では本堂のあった背後の現五重塔が建っている小丘上にあったように思われる。
であるならば、上記の
三重塔は山門を入り、すぐ右手(北側)にあったと云う寺僧の云う塔跡の信憑性は疑わしいものとなる。
--------------以上、今までの三重塔跡記事---------------------


2006年以前作成:2016/02/29更新:ホームページ日本の塔婆