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Futaro's Gallery

☆油彩と聖書画☆

はじめに

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☆NO83 マリヤの教え

イエスの母であるマリヤについては、ペンテコステの日に使徒たちに聖霊が下った時にともに祈っていた、と書かれただけで、後の記載はパウロが書簡で「マリヤによろしく。」と書き送っているだけで他にはありません。
記載がないからといって、彼女が何もしなかったということではなく、イエスという中心人物がいなくなった後、パリサイ派だったパウロが改心したり、教会が分裂したりと、いろいろな揉め事の中に、彼女の他のマリヤたちも埋没してしまったのかもしれません。
いずれにしても、記載がないことは、マリヤの行動を制限することではなく、可能な限り、イメージを膨らませて描くことが出来ました。彼女が最も影響を与えることが出来たのは、彼女を引き取り、共に暮らした使徒ヨハネです。今回は、そのヨハネと兄弟ヤコブとのかかわりを描いてみました。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
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☆NO82 ルカとマリヤ (この人を見よ。)

四つの福音書でイエスの誕生について書かれているのは、ルカとマタイだけです。マタイは12弟子ですので当然マリヤとは面識があったはずです。
一方、マリヤについてもっとも記載が多いのはルカです。ルカのお蔭でマリヤ人気が高まった中世より、多くのマリヤに関する聖書画が描かれ、ルカはいつの間にか、画家の守護聖人として祭り上げられました。
12使徒ではない、ルカはおそらくペンテコステの後にエルサレムで、マリヤに直接会って取材しているはずです。
今回は、そのルカとマリヤの出会いを聖霊の導きで描いてみました。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
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☆NO81 ユダ、イスカンデル (この石の上に落ちる者は粉々に砕かれます。)

地中海に面したエジプトのアレクサンドリアから西に700キロほど離れた所にキレーネという町があります。
アフリカのアテネと言われたほどの大都市で、紀元1世紀、そこから一人の若者がはるばる中東パレスチナのはずれにあるナザレの町にやって来て、マリアと言う未亡人に会いました。
彼の名は、アレクサンデルですが、ユダヤ人と商売するときは通称、ユダと名乗っていました。
彼がその後、どういういきさつで二千年後の今日でも、名がしられているのかは、聖書に記載されている通りです。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
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ここでは、新約聖書の最終章にあるヨハネの黙示録を第一章からシリーズで紹介していきます。黙示録はキリスト教文化のない日本において、もっとも一般受けする聖書テーマです。
聖書を読んだことがない人でも、この黙示録という言葉には耳馴染みがあるはずです。古くは映画、地獄の黙示録、が有名ですし、オウム事件の際にも、さかんに、ハルマゲドン、が流行りましたが、これも、黙示録における最終戦のことです。
それでは、そのヨハネの黙示録を私が描く目的を簡単にご紹介します。詳しくはつづきを読むでご覧ください。
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☆NO80 ヨハネの黙示録 第三章 (誰がレッドカーペットを歩くのか?)
第三章から。ここでは二章に続いて、サルデス、フィラデルフィア、ラオデイアの各教会の御使いに書き送るように主が言われます。

詳しくはつづきを読むでご覧ください。
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☆NO79 ヨハネの黙示録 第二章 (あなたの見た物は?)
第二章から、主はヨハネに、あなたの見たこと、今ある事、その後に起こる事を書き記せ。と言い、七つの教会(小アジア、現在のトルコ)にある教会の御使いにメッセージを書き送るように命令します。

詳しくはつづきを読むでご覧ください。
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☆NO78 ヨハネの黙示録 第一章 (球体の秘密)
使徒ヨハネは晩年エーゲ海に浮かぶ、パトモス島に流刑の身として居た。仲間たちが次々と殉教していく中で、一人長寿を全うできたのは、かつて復活されたイエスから、「わたしが来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」とペテロに言われたからである。
そして、今まさにそのイエスの預言が彼の目前で幻となって現れたのである。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
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☆☆

☆NO77 イエスの変容(つまずきの石)
イエスが様々な奇跡をおこして人々の話題になっていた時、イエスは弟子たちに自分は誰かと問うた。
弟子たちが、エリヤの再来だとか、聖ヨハネの生まれ変わりだと、答える中、ペテロは、「あなたは、生ける神の子、キリストです。」と答えた。
イエスは彼がこう答えたのは、天の父が彼にそう教えたのだ、と言い、自分がキリストであるこは、誰にも言ってはいけない。と弟子たちに言った。
そして、高い山に登られた。この山は、現在はガリラヤの北にあるヘルモン山だと言われています。そこで、イエスは弟子たちの前に自分が誰であるか、はっきりと目に見える形で表されました。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
English The Transfiguration here learn more

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☆NO76 宮で学ぶ。(イエスはキリストそのものである。)
今回は、ルカによる福音書第二章から題材をとりました。イエスが12歳になった時の出来事です。
ルカはギリシャ人なので、他の福音書記者のように、ユダヤ人伝道に重きを置いていません。
しかも、医者である彼は、丹念に取材をして、客観的な事実のみを書くように努力しています。
それ故、イエスの母マリヤが語り切れなかった事実については書くことができませんでした。
今回も、聖霊の助けで、聖書にはない、隠されたイエスの子供時代のエピソードを絵にしてみました。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
English Learning at the temple. here learn more

☆☆

☆NO75 ヨーロッパの略奪 (お母さんの話)
NO11のバッコスとアリアドネ以来のギリシャ神話からの題材となります。
ただ、初期の絵はキリスト教とは無関係で描いていましたが、今回はヘレニズムとの関係を描くために描きました。
マリアの話がどう生まれたばかりのキリスト教と広大なヘレニズム世界と関わっていくのかも考察してみました。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
English The Rape of Europa. here learn more

☆☆

☆NO74 ヤコブの誕生。(石の如く。)
今回も前回に続いて聖霊に導かれたイエスとマリヤのお話しです。
公生涯に入られたイエスはすぐにガリラヤ湖で弟子を召命します。その中でリーダー格のシモンにケパ(訳すと石)という名をつけられました。
しかも、イスカリオテのユダと取税人マタイを除いて全員ガリラヤ湖の漁師でした。今回はその隠れた原因についても書いてみました。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
English The birth of James. here learn more

☆ルツ☆

☆NO73 マリヤ (全く新しい世界)
前回は二回続けて旧約聖書から女性の名のついた物語を題材にした絵を描きました。
そこで、今回は新約聖書の中で最も有名な女性である、イエスの母マリヤについて改めて描くことにしました。
マリヤについての記述は極めて少ないので、聖書の記述に捕らわれないで、あらゆる角度から、彼女について語ることが可能です。
今回も聖霊の導きを受けて、キリスト教の原点にまで踏み込むことが出来ました、全く新しいマリヤ像です、是非ごらんください。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
English Mary . here learn more

☆ルツ☆

☆NO72 ルツ (若草の上で)
ルツ記は聖書には珍しく女性同士の友情を記した物語です。しかも、ルツはユダヤ人ではなく、アブラハムの甥のロトと彼の長女との間に出来た子の子孫であるモアブ人で、ロトと次女の子がアモン人です。
  さらに申命記23章3節に、アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。とあります。理由はイスラエルの12部族がエジプトから出てきた道中で、彼らがパンと水をもって彼らを迎えず、彼らを呪うようにバラムを雇ったからです。
  この時代は日本の戦国時代のように、同じイスラエル人同士、争いが絶えませんでした。さらに外敵であるペリシテ人の脅威の中、各部族が師士と呼ばれるリーダーを立て、部族の統一を図っていた時代の話です。
  詳しくはつづきを読むでご覧ください。
English Ruth . here learn more

☆エステル☆

☆NO71 エステル (彼女は彼らの心の中に今でも生きている。)
2月24日にロシアがウクライナに侵略して、4か月近くになりましたが、戦況は膠着状態です。
マタイ24章で、イエスは弟子たちが、「世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう?」」と訊かれ、
こう答えます。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉と地震が起こります。
しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」と語っておられます。
今日の世界情勢は、正に主が言われる通りの方向に進んでいるようです。ゼレンスキ−大統領がユダヤ人である以上、この戦争は、イスラエルとは深い関係があります。
イスラエルでは、毎年アダルの月(第12月)太陽暦2月中旬から3月中旬にプリムの祭りをします。まさに、ロシアがウクライナに侵略したころです。
今回は、バビロン捕囚の民だったイスラエル人を救った、若き王妃、エステルを描いてみました。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
English Esther. here learn more

☆イエスの昇天 (キリスト教の始まり)☆

☆NO70 イエスの昇天 (キリスト教の始まり)
今回は、私が主に会って同時に聖書画を描き始めて丁度10年目になり、70番目の絵になります。
7は神の数字、完全数であり、7番目の絵は、イエスの昇天を描いたものでした。10年目の今年も丁度、復活祭の時でもあり、同じ主題で描きました。
ただ、前回よりは、視点を変えて、イエスの母マリヤとイエスと共に歩んだ女性たちにも登場してもらいました。
さらに、彼の昇天は旧約聖書の預言の成就ですから、そのことも描いてみました。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
English  the Asension. here learn more

☆主の日☆

☆NO69、主の日(わたしは全ての民をわたしのもとへ引き上げます。)
今回は聖書の重要なテーマである終末についてです。奇しくもロシアのウクライナ侵略が重なり、戦争、地震、自然災害といった聖書預言が次々と実現していく中、このテーマはこれから後、さらに活発に論じられていくはずです。
さらに、終末論に欠かせないのが、いつ我々クリスチャンが天に引き上げられる、携挙が行われるかです。今回は絵とともに、その点についても独自の見解を解説していますので、少し長めですが、是非ご覧ください。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
English That Day here learn more

☆最後の夜☆

☆NO68 最後の夜(お母さん子)
キリスト教で、最後の、と言えば、ダビンチの「最後の晩餐」が有名ですが、その前にイエスとマリヤの最後の夜、があったことは聖書には書かれていません。
しかし、イエスが十字架に掛かって、父の身元に行く前に、ご自身を地上に生んでくださった、母マリヤと最後の別れをしたとしても、イエスのご性質を考えれば、不思議ではありません。
今回も御霊に導かれるまま、聖書には描かれていない、隠されてイエスの一面を描いてみました。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
English The Last Night( Mama's Boy) here learn more

☆ヤコブの謝罪☆

☆NO67。ヤコブの謝罪 (初臨)
ノンクリスチャンの時から、時折街角で見かける「神と和解せよ。」の看板を不思議な思いで見ていたものです。
洗礼を受けてからも、神と共にいるのに、何故、和解が必要なのか、よくわかりませんでした。
今回は、その長年の疑問に答える一つの回答を聖霊の導きで描くことができました。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
English Apology of Jacob (First coming) here learn more

☆潮時☆

☆NO66。潮時
今回の絵は前回の続きです。ヨセフの父ヤコブはマリヤが気に入って、息子と結婚させることにまりました。
当時も今も正統派のユダヤ教徒では父が子供の結婚相手を決めます。彼らは一度も顔を合わせないまま結婚当日を迎えることも珍しくありません。
婚約期間は一年程で、その間に二人はお互いへの理解を深めて結婚の準備をします。
それで社会的に二人はすでに結婚したものと見られます。こういう条件の元で、マリヤにはさらに神による招きがありました。
今回のテーマは、まさに、マリヤだけに起こった人類史上空前絶後の出来事の始まりを描いてみました。何故、彼女が裸なのか
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
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☆マリヤ、あなたこそ宝です☆

☆NO65 マリヤ、あなたこそ宝です。
今回のテーマも前回同様に聖書にはなく、またマリヤの話にもありません。
しかし、どうしても描かなくてはならない強い思いがあって、精霊の導きで描きました。

詳しくはつづきを読むでご覧ください。
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☆朝の恵み☆

☆NO64 朝の恵み
今回のテーマは聖書にはなく、またマリヤの話にもありません。
しかし、どうしても描かなくてはならない強い思いがあって、精霊の導きで描きました。
話はNO51(あら先生!)の続きです。ヨセフがナザレに来るまでの間のマリヤの出来事です。天の御父がいかにマリヤを気にかけているかを描いてみました。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
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☆マリヤとマルタ☆

☆NO63 マリヤとマルタ
聖書ではマリヤという女性が何人も登場してきます。一般的にマリヤと言えば、イエスの母のことですが、
そのほかに、前回でも登場したマクダラのマリヤが有名です。さらに、ややこしいのはベタニヤにもマリヤがいるのです。
この聖書画シリーズでは、過去NO46とNO58に登場していますので、ご興味のある方はご覧ください。順番が逆になりましたが、そのマリヤと姉マルタとイエスの出会いが今回のテーマになります。
一般的に言われているテーマに加えて、別のエピソードを加味して、一味違う絵にしてみました。
また、こちらも併せてお読みいただけたら幸いです。ルカの数式

詳しくはつづきを読むでご覧ください。
This is first A mathmerical expression learn more

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☆神は愛 (なぜ泣いているのですか?)☆

☆NO62 神は愛 (なぜ泣いているのですか?)
今回はいよいよ新約聖書の核心部分に迫ります。イエスの復活が聖書全体のクライマックスであることは論を待ちませんが、その核心にあるのは間違いなく愛です。
人生において最も忌まわしい死が、神の勝利に飲み込まれた時、人はどう行動するのか、マクダラのマリヤがそれを証明してくれました。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
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☆その杯 (先生、選んで下さい)☆

☆NO61 その杯 (先生、選んで下さい) 
今回はマタイの福音書から題材をとりました。ヨハネとヤコブというとペテロと並んで代表的な使徒であり 特にヨハネは黙示録の記者でもあるので、何かとてつもなく立派な聖人と思われがちですが、二人がイエスの弟子になった当時はまだ十代だったと言われています。
自分の十代を振り返ってみればわかる通り、恋と出世が二大関心事であることは多くの人が認めるところで、この二人も例外ではないと私は思います。
現に福音書には、この二人は母親を伴って、あるお願いをイエスにしています。題材が子供っぽい内容なので、あまり海外の絵にはありませんが、私はこれに少し味付けをして、クリスチャンにとって避けられないテーマとして描いてみました。
詳しくはつづきを読むでご覧ください。
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☆恋に落ちたヨハネ (彼女は妹のふりをする)☆

☆NO60 恋に落ちたヨハネ (彼女は妹のふりをする)
福音書に書かれた最も古いイエスの教えは、ガリラヤ湖畔で語られたと言われています。ガリラヤこそイエスの育った故郷ですから、当然といえば当然です。
彼はそこで弟子のほとんどを召されました。多くがそこで働く漁師で肉体労働者です。彼自身も大工で労働者でした。ですから、教えはどれも分かりやすく、誰にでも理解できるものでした。
弟子以外でそこで参加したのは、マクダラのマリヤと呼ばれている若い女性でした。彼女の仔細はよくわかりません。よって、その後、おおくの伝説のようなものが生まれました。
私も母マリヤと絡めて、精霊に導かれるまま、このマリヤシリーズを描いています。今回は、そこへ若いヨハネとヤコブの兄弟が加わりました。さて、どんなお話しが展開されるのか、
是非つづきを読むでご覧ください。
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☆新しい宮(父の仕事)☆

☆NO59、新しい宮(父の仕事)
今回はルカの福音書2章から、ヨセフとマリヤが初めてイエスを連れて、神殿に行く場面から題材をとりました。
そこに、シメオンという精霊に導かれた老人がいて、天の父に代わってイエスを抱きしめるシーンです。
マリヤにとってはわが子を連れた晴れの舞台です。後にヨハネがこのマリヤについて、非常に重要なことを語っているので、それも併せて描いてみました。
是非つづきを読むでご覧ください。
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☆ラザロの死(彼は蘇った)☆

☆NO58、ラザロの死(彼は蘇った)
今回も前回に続いてコロナウイルスにより、人々が死を身近に感じたことをテーマにしました。
このコロナ騒動によって神は何を伝えようとしているのでしょうか。聖書の世界と現代とはつながっているという考えを基に、新しい解釈で有名なラザロの死をリメイクしてみました。
11月の大統領選挙を控えたトランプ氏が、聖書世界にどうかかわっているのか、興味深いテーマですので、
是非つづきを読むでご覧ください。
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☆NO57 見て!わたしは癒された。
聖書時代の代表的な病といえばツアラアトがあります。以前はライ病と記されたこともありましたが、現在では原書の記述通りに表音されています。正確な病名ではなく重度の皮膚病全般を指しているようです。
伝染力が強く(そう思われていた)見た目もよくないので、これに一度かかると、村八分にされました。
映画ベンハーのラストは、死の谷と呼ばれるライ病の隔離所が出てくるので、興味のある方は是非ご覧ください。当時の様子がよくわかると思います。映画ではここが重要な場面となっているので詳しくは書けません。
当時はユダヤ教のラビ(教師)が医者の役目もしていて、この病から癒された場合は彼にそれを見せて証明をもらう必要がありました。詳しくは、旧約聖書のレビ記をお読みください。
今回は、イエスの数ある癒しの場面からルカの福音書17章から11節から17節から題材をとりました。
詳しくはつづきを読むをご覧ください。

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☆NO56、乗り越えて、(希望)
聖書が焦点をあてているのはイエス、キリスト一人です。旧約聖書は彼の到来を知らせる預言の書であり、新約聖書は地上に来られた彼の物語です。
物語であるので、当然、クライマックスがあります。それは、一言でいえば、彼の到来によって、人類が初めて死に打ち勝つ、希望を与えられた瞬間です。
今回の絵は、NO45、分かれ道の続編になります。
詳しくはつづきを読むをご覧ください。

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☆NO55 二人のマリヤ(良い仲間)
今回は以前描いたマクダラのマリヤの続編です。
ガリラヤ湖に近い漁師町、マクダラでイエスとマリヤは、そこに住む若い未亡人のマリヤを悪霊と彼らに支配されていた漁師たちから救います。
マグダラのマリヤは、稲妻のような光と雷鳴のような声で、悪霊たちを退散させたイエスにたちまち心を奪われ、持ち前の情熱的な恋心をマリヤに打ち明けます。
詳しくはつづきを読むをご覧ください。
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☆NO54、ラケルのように。(インマヌエル!)
今回もNO36で描いたマリヤとヨセフの会見から、題材をとりました。
順番で言えば、NO50、の翌日の出来事になります。マリヤが溺れかけたのをヨセフが助けたことで、二人の仲は急接近します。
しかし、最大の艱難がマリヤを待ち受けていました。エリコからベツレヘムに行く長い上り坂はこの旅の最大の難所です。急こう配に加えて、盗賊も多く旅人にとってもっとも危険な場所です。
おりしも、臨月のマリヤは、長旅がたたって途中で産気づきます。苦しみの中、マリヤはヨセフにあるお願いをします。これが今回の主題です。
詳しくはつづきを読むをご覧ください。

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☆NO53、輝き。(もう引き返せない!)
今回はNO47 希望の祈り、の続きです。
マリヤの祈りの成就が、ある晩、訪れました。私はイエスの誕生を5月と確信しているので、それから10月10日前は7月となります。
NO13では、「受胎告知」として描きましたし、有名な画題なのでご覧になった方も多いでしょう。
それで、今回は、もっと具体的に描いてみました。
この日のマリヤは、現代でもこの年代の女性が絶対に着ないような、スケスケのナイトガウンを着ていますが、それにはちゃんと聖書的なわけがあります。
詳しくはつづきを読むをご覧ください。

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☆NO52、マリヤの婚礼 (二人で生きる!)
今回も、N036のベツレヘムの会見より、題材を採りました。
福音書にはマリヤとヨセフの婚礼についての記述はありません。それはマタイの福音書1章18節に、その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。とあるからです。
ヨセフは一旦はマリヤを離縁しようとしますが、主の使いが彼の夢に現れて、恐れないで、あなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。と告げられて、彼女を迎えたことが手短に書かれているだけです。
当時の厳しいユダヤ教の戒律からいえば、所謂できちゃった婚は御法度でした。しかし、そうはいってもマリヤの両親からみれば、かわいい我が子の晴れ姿を一目でもみたかった筈です。
そんな、御両親の願いも込めて、この絵を描いてみました。
詳しくはつづきを読むをご覧ください。

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☆NO51。あら!先生! (彼女の心臓は止まるところだった。)
今回も、N036のベツレヘムの会見より、許嫁のヨセフがナザレに来るまでのエピソードです。ニサンの月、毎年恒例の過越しの祭りを祝いにナザレの村人が両親も含めて皆、エルサレムに出かけてしまった、留守中の出来事からテーマを取りました。
半月以上留守になる訳ですが、食糧は十分に確保してあるものの、飲み水は毎日、井戸に汲みにいかなければなりません。なるべく人気のない日中を見計らって出かけたのですが、運悪く年老いたラビ(ユダヤ教の教師)に出会ってしまいました 。
詳しくはつづきを読むをご覧ください。
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☆NO50。マリヤ!大丈夫か? (マリヤ溺れる。)
今回も、N036のベツレヘムの会見より、マリヤとヨセフのベツレヘム行の途中の出来事からテーマを取りました。
このテーマは過去にNO40の水遊び、と題して描いていますが、この絵はその直後の出来事です。
その後イエスがこの場所を宣教のスタートの場所に選んだことは、すでにN040で書きましたが、何が起こったのか、その具体的な描写は描いていなかったので、今回、描いてみました。
マリヤの夫ヨセフは、聖書では、それほど目立った働きが書かれていませんので、この機会に彼の武勇伝の一つとして描いてみました。
詳しくはつづきを読むをご覧ください。
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☆NO49 キリストの影 (ヨナ、神から逃げる。)
奇しくも4月21日のイースターの日にアップできたのは、イエスがご自身の復活の例えとして日ごろから話していた聖書からの引用箇所ヨナ書でした。
アミタイの子ヨナは、勿論史実に基づいた実在の人で、彼が宣教したニネベも実在した町です。しかし、史実に忠実に書かれているはずのこの話には、唯一一般的にみて、不可解な点があります。
それは、彼が大魚の腹の中で三日間生き続けたことです。一度は神から逃れたヨナが、暗闇の中で主に祈ったことから、この奇蹟の話は始まります。
ですから、読者は否応なく、二つの読み方を強いられます。一つは単なる物語としてよむか、すべて事実として受け取るかです。事実として受け取れば、それはやがて来るキリストの影としての彼の姿が見えてきます。
詳しくはつづきを読むをご覧ください。
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☆NO48、Rejoice!。(喜びなさい。)
復活のイエスを描くのはNO6の復活の朝、以来二度目になります。
福音書のハイライトと言える場面ですから、当然四つの福音書に書かれています。前回はヨハネによる福音書を主題にして、マクダラのマリヤがイエスに最初に会った場面を描きました。
今回はNO45の続編といった意味合いが強く、イエスの母マリヤと妹のサロメ、そしてマグダラのマリヤの三人に復活したイエスが会う場面を描いてみました。
四つの福音書を読むと、マタイ、マルコ、ルカの福音書はだいたい同じ内容です。ヨハネだけが、マクダラのマリヤを主体にしていますが、仔細に読むと、かえって情報が交錯してわかりずらいので、今回は思い切ってそれぞれの福音書の要点だけを抜き取って一つにまとめてみました。
詳しくはつづきを読むをご覧ください。
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☆NO47、希望の祈り。(ダビデとマリヤの賛歌)
イエスの誕生を知らせる天使ガブリエルがマリヤの家に来て、彼女に挨拶したとき、マリヤはひどくとまどって、これはいったい何のあいさつか考え込んだ、とルカの福音書1章29節に書かれています。
これがマリヤが神の子を授かる、最初の知らせであると、聖書には記してあります。
ルカは実際にマリヤに取材して、これを書いているので、この箇所に間違いはないのですが、一連のマリヤに関する絵を描いていると、どうも、これ以前に、マリヤと神とのコンタクトがあったように思われるのです。
この後、マリヤは、許嫁であるヨセフと一緒になるのですが、ヨセフは言うまでもなくダビデの末裔です。彼女は複雑な経緯を辿るこの結婚にすんなり同意するのですが、マリヤとダビデの間には、見えない神の意図で結ばれていたような節があります。
今回は、聖書の中でも特に有名な二つの詩が、時代を越えて見事に一致するという不思議な絵に仕上がりました。
詳しくはつづきを読むをご覧ください。
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☆NO46 嫉妬(シモンの家)
福音書には三人のマリヤが登場します。一人はイエスの母マリヤ、そして、ヨハネのお気に入りのマクダラのマリヤ、そして福音書では三回も登場するベタニアのマリヤです。
三人のマリヤの中で、一番登場回数の多いのがこのベタニアのマリヤです。
何故、このマリヤの登場回数が多いのかと言うと、ベタニアはエルサレムに近くイエス一行のエルサレム滞在の定宿として用いられていたためです。
今回の絵はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネにあるエピソードを基にして描きましたが、ここでのテーマは題名にもある通り嫉妬です。
マリヤの信仰の証しの筈のこの絵が、何故嫉妬という題名なのか、詳しくはつづきを読むをご覧ください。
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☆NO45、分かれ道(The Crossroad)
今回は、わたしがクリスチャンになって以来、ずっと解けなかった謎に、ひとつの回答をあたえてみました。
それは、何故、復活の朝、女性だけがその現場に行ったのかという謎です。
三年半にわたって寝食を共にしてきた愛弟子たちは、皆、ゲツセマネの園を最後に散り散りになってしまいました。
彼らはイエスが十字架に架けられたのを目の当たりにして、次は自分たちの番かと、皆怯えながら隠れていたのです。
その中で、イエスの母マリヤと妹のサロメ、それにマグダラのマリヤだけが、夜明けと共に墓に行ったと、四つの福音書に書かれています。
彼女たちだけが、何故、男たちが恐れていたにも関わらず、墓に行けたのでしょう。
つづきを読むをご覧ください。
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☆NO44、Dry bones?I’m alive!(イスラエルの復興)
今回は今から約2600年も前の旧約聖書から題材をとりました。
BC597年、祭司の子エゼキエルは第一回バビロニア捕囚の中にいました。
捕囚から5年後、彼はバビロンのケバル川のほとりで、神々しい幻を通して預言者としての紹命を受けます。
祖国の滅亡を前にして無気力になり悲観するイスラエルの民に、神はエゼキエルを通して、一つの希望を与えます。
それは、谷底に打ち捨てられた無数の骨がカタカタと音を立てて寄せ集まり、やがて骨と肉が結び合い、皮膚で覆われて人間が復活する幻です。
荒唐無稽な夢物語と思われるでしょうが、意外にもこのお話は現代の中東問題に大きなヒントを与えてくれるのです。 詳しくは
つづきを読むをご覧ください。
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☆街角のイエス。☆

☆NO43、街角のイエス。(見よ、わたしはすぐに来る!)
聖書画というと、一般的に言って、一番あたらしい新約聖書の世界でも、今から2000年程前の出来事です。
ですから、クリスチャンでない人々にとっては、どうしても単なる歴史画としての要素しか受け取れないというのが実情です。
しかし、聖書は救い主であるイエス、キリストが再びこの世に現れると予言しています。
いつどこで、ということはわかりませんが、当然、この日本の東京に現れることもあるわけです。
そうした、仮定の上での踏まえて、この歴史的出来事をその場の人々がどう感じるか描いてみました。
東京という設定なので、人物の風景もありのまま描けばよいので、今回は一切の時代考証などなく、実に伸び伸びと描くことが出来ました。
こうした幅の広さも、聖書画の魅力の一つではないでしょうか。是非、クリスチャンでない方々もご覧ください。詳しくは
つづきを読むをご覧ください。
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☆NO42、マクダラのマリヤの救出(光のバプテスマ)。
おそらく、イエスの復活後に最初に会った女性として、聖書に記されているマグダラのマリヤという女性を、イエスに引き合わせたのはマリヤだったと、私は思います。
彼女は七つの悪霊を、イエスに追い出してもらった女性だという以外、これと言った記載がありません。
この僅かな手がかりと、復活後最初にイエスに会った女性ということで、イエスにかなり親しく、かつ罪深い女性であったと、後々思われているだけで、詳しいことは何もわかりません。
この女性とマリヤとイエスに何があったのかは、
つづきを読むをご覧ください。
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☆NO41、授乳のマリヤ(あなたは誰?)。
イエス、キリストとは誰か?という問いに答えるとき、私はいつもヨハネの手紙第一のこの箇所を思い出します。
5章6節にこうあります。このイエス、キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。
そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。

この一文は使徒であるヨハネによって書かれていますが、私は個人的に彼にこれを書かせた、情報源はイエスの母マリヤだったと思っています。
彼はマリヤの妹サロメの子ですから、叔母であるマリヤをイエス亡きあと、引き取ったのは当然で、彼女からイエスに関する多くの情報を得ていたはずです。
おそらく、イエスが公生涯を始めた初期から、常に人々の間でささやかれた、この方は一体どなたなのだろう?という問いを、生まれて直ぐに最初にイエスに投げかけた女性であった筈です。
何故なら、まだ少女といっていいマリヤの年齢で、初めて授かった子が、許嫁ヨセフの子ではなく、聖霊によって身ごもった子だったからです。
この子は神の子?その単純なマリヤの問いに、正直、そうだ、と答えてくれる人は、ヨセフとそれを知っていた預言者以外、一人もいなかった筈です。
今回は、この単純な問いをもう一度、考えてみることにしました 。
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☆☆

☆NO40、水遊び。
今回も前回同様、NO36のベツレヘムの会見、からヨセフとマリヤがエリコの途中のヨルダン川で、水遊びをする場面を描いてみました。
この箇所は当然聖書の記述ではありませんが、彼らが水遊びをした30年後、イエスはその場所で、ヨハネから洗礼をうけています。
全く罪のない、神の子であるイエスが何故にヨハネから、洗礼を受けたのか、その辺りのことを祈りつつ考察してみました。
マタイの福音書3章15節に、「〜すべての正しいことを実行するのは、私たちにふさわしいのです。」とイエスが言う、私たちとは、誰のことでしょう。
ここには、何かが欠けています。その欠けている部分を今回は描いてみました。
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☆☆

☆NO39、ベツレヘム行き。
この絵は、ルカの福音書2章を基に描きました。そこにはこう書かれています。
4節、ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上っていった。彼は、ダビデの家系であり血筋であったので、
5節、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。

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☆☆

☆NO38、バテ、シェバ、美しき誘惑。
前々回のNO36でベツレヘムの会見を描いて、改めてイエス誕生におけるヨセフの役割の大きさが痛感しました。
というのも、当時のユダヤ教支配のイスラエルで父親が誰であるか定かでない子どもを産むことはほぼ不可能であったからです。
マリヤは幸いにも、許嫁であるヨセフが、ダビデ家における世代を超えた重荷を感じて、彼女を妻に迎えたことで、なんとか出産にまでこぎつけました。
その後、彼はイエスの養父としての重荷を進んで引き受ける訳ですが、その重荷となったのが、このバテ、シェバとダビデの出会いにあったのことは、先のNO15でくわしく描きました。
今回はそのNO15の続編として、さらなる考証をしてみました。 つづきを読む
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☆都上りの嘆き☆

☆NO37、都上りの嘆き(主の通られる道をまっすぐにせよ。)
公生涯に入られたイエスは弟子たちとともに毎年過越しの祭りのためにエルサレムに上られました。
中でもやがて十字架につかれることを覚えた最後の年には、エルサレムに上られる途中で、泣いた、とルカの福音書19章41節に書かれています。
この時は、やがて、ローマによって神殿もろとも瓦礫と化してしまうエルサレムを思って泣かれた訳ですが、その前にも、エルサレムについて嘆かれたとルカ、マタイの福音書には書かれています。
同13章33節には、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです、とはっきりとご自分の死に場所はエルサレムだと言っています。
この時は、まだ弟子たちの間では、そのことの意味がはっきりとは分かっていなかったようです。
イエスの言葉に動揺する弟子たち、その中で、イスカリオテのユダだけが、ある意味、イエスの心情を一番理解していたかもしれません。
しかし、彼は結果的に裏切りという行為でしか、その思いを果たせませんでした。
イエスが、嘆いた本当の意味は何だったんでしょうか?
私はこの絵を描くにあたって、キリスト(救世主)の到来を告げたバプテスマのヨハネの言葉、主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ、という言葉を土台にして、何故イエスがエルサレムを前にして嘆かれたのかを考察してみました。
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☆ベツレヘムの会見☆

☆NO36、ベツレヘムの会見
前回、マリヤが馬小屋で誰の助けも借りず、一人でイエスを産んだ場面を描いたわけですが、何故に彼女が神が授けた独り子を産むのに、かくも苦労しなくてはならなかったのか、 クリスチャンでなくとも、知りたいと思うのは当然でしょう。
福音書ではマタイとルカがその辺りを手短に書き記していますが、福音書の伝える目的は、あくまでキリスト、イエスの教えであって、 彼の伝記ではない以上、我々が知りたいところまでは踏み込んでは書かれていません。
その辺りは、私を含めて有名無名の書き手描き手によって、様々に解釈されてきたことは御承知の通りです。
今回も導かれるまま、ベツレヘムでのこの親子の肖像を描いたわけですが、ここで、あれこれと私のコメントを書き連ねるよりも、折角マリヤとヨセフが揃っていることだし、今回はことの次第をこの二人に直接、 語ってもらうことにしました。
題して、史上初の、イエス親子による、ベツレヘムの会見です。生まれたばかりのイエスがそれをどう聞いたのかは、神のみぞ知るです。
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☆厩(うまや)の王子☆

☆NO35、厩(うまや)の王子
この絵のアイディアはNO23のThe Nightを描いた時に浮かんでいたのですが、その時は、まだ描くべき具体的な構図ができていませんでした。
しかし、今回、聖書画展を開くにあたって、不思議な形で、この絵が急に今回の展示に導かれました。
前回のバラムの叫びから、実に一か月という異例のスピードで完成したのも、主の導きがあったこそです。

☆バラムの叫び☆

☆NO34、バラムの叫び(ロバがしゃべった!)
旧約聖書には実に様々な人と神との交わりの記録が記載されています。その中で、私が知る限り動物がしゃべったという箇所は、創世記の冒頭に蛇がエバを惑わす場面を除けばこのバラムのロバがしゃべったという箇所が唯一ではないかと思います。
いったい何故に物言わないロバがしゃべったのか?ロバとバラムとの関係は?黙示録や新約聖書の書簡にも記載されているバラムという人物は何ものだったのか、その辺りを考察してみると、神に祝福された筈のユダヤ人たちの意外な弱点が見えてきました。

☆カナの婚礼☆

☆NO33、カナの婚礼
前回に続いて今回も婚礼をテーマにしました。婚礼は聖書の基本テーマでもあります。
婚礼である以上、男と女が主人公です。しかし、このカナの婚礼では、結婚する当の御両人は登場せず、招待されたイエスとその母マリヤが主人公です。
このエピソードを紹介しているのはヨハネによる福音書だけです。彼は十字架上のイエスの遺言で母マリヤを引き取った弟子です。
それ故、イエスの死後、マリヤから直接様々なイエスにまつわるエピソードを聞いていたはずです。
しかも、彼は晩年、エーゲ海のパトモス島で主から世の終わりについての黙示を見せられた弟子でもあります。
数千年の時空を超えて、この二つのエピソードから、イエスが何を我々に伝えようとしたのかを描いてみました。

☆神の子らの婚礼☆

☆NO32、神の子らの婚礼。(わたしの目には、あなたは高価で尊い。)
冒頭にも書いたように私の油彩画歴はまだ4年程度です。それまでは重い撮影機材を担いで野山を駆け回っていました。求めていたのは美しい自然の風景でした。
しかし流石に還暦を過ぎて長時間のドライブや重い撮影機材が体に負担となり、軽い絵筆に持ち替えた訳ですが、聖書画を描くようになっても美を求める気持ちは持ち続けていました。
それで、最近少し聖書の中身が分かってくると、この中で「美しい」という言葉が最初に出てくるところは何処かと探して見ました。すると意外と早く見つかりました。創世記第6章にこう書かれています。
1節、さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちがうまれたとき、
2節、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分達の妻とした。

今回はこの箇所を基に描いてみました。

☆NO31、ミツパの誓い。(神は見ている。)
アブラハムの子イサクの妻リベカは双子の兄弟を産みます。後から出てきたヤコブは穏やかな人となり、天幕に住み、兄、エサウは猟師、野の人になります。
このヤコブがやがてイスラエル12部族の祖となるわけですが、彼は主の祝福を受けた機智に長けた人です。兄、エサウが疲れて野から帰って来た際、レンズマメの煮物で彼から長子の権利を買い取ります。
そして、父イサクが老年になって視力が衰えると、母リベカの入れ知恵もあって、長子エサウが受けるはずの祝福を独り占めしてしまいます。
怒ったエサウはヤコブを殺そうとします。これがアダムの最初の子、カインとアベルの二の舞にならなかったのは、母リベカの助言もあって、リベカの兄、ラバンのところに逃げることができたためです。
創世記29章から31章にかけて、ヤコブが叔父ラバンの元で過ごした出来事が記されています。彼はそこで、ラバンの二人の娘と結婚し、さらに彼女たちのそばめを含めて計四人の妻たちとの間にイスラエル12部族の祖となる子供たちを設けます。
彼はラバンの元で、財産造りにも励み、やがて、時が満ちて生まれ故郷でもあるイサクのいる地に戻る訳ですが、その途中の出来事を絵にしました。

☆ゲツセマネの祈り☆

☆NO30、ゲツセマネの祈り
前回、イエスに対する母マリヤの憂いを主題にしましたが、今回は、当然、それに対するイエスの母に対する思いをちょっと違った角度から考察してみました。
私も度々、取り上げていますが、宣教に入ったイエスの母にたいするそっけなさは、本当にイエスの真の姿だったのか、人間として最後の祈りの時をもったイエスの苦悩から、真の救い主の姿に迫ってみました。
祈りの場となったゲツセマネというのは、エルサレム郊外にあるオリーブ山の麓にある園の名前です。ゲツセマネとは油絞りという意味だそうで、イエスの時代ここでオリーブ油を絞っていたのでこの名があります。 過越しの祭りの前日(13日)日没から日が変わるユダヤ歴では金曜日の晩、エルサレムで弟子たちと最後の晩餐をした後、イエスは裏切り者のユダを除いた11人の弟子たちとこの場に来て、最後の祈りを捧げます。
イエスはこの後、十字架で天に召されるまで人間として、最も過酷な一日を過ごすわけで、その様子はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書に書かれています。
全ての福音書に書かれているということは、非常に重要な事柄だと言えます。使徒信条にも、ポンテオ、ピラトの元で苦しみを受けと、十字架への道のりの苦しみを的確に言い表しています。
特にルカの福音書においては、イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。とあるほど、苦しみの極致を経験します。
神の御子として、普段祈りを捧げているイエスとはまったく違うイエスに、私はクリスチャンになった当初、戸惑いそして、最初の試みにあったのも、この場面からでした。
私にとって、忘れえぬ一つの思い出のある、場面でもあります。聖書画も5年目に入り、区切りのいい30作目にこの主題が与えられたのも、神の御心があってのことと思います。

☆マリヤの憂い(天の窓は開いています。)☆

☆NO29.マリヤの憂い。(天の窓は開いています。)
前作でイエスの十字架上の遺言として、母マリヤをヨハネの母とするようにという御言葉を紹介しました。
マリヤ自身も天使ガブリエルが初めてマリヤに訪れた時に「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1章38節)
と答えているので、このことについてマリヤが神に異議を申し立てることはなかったと思いますが、三年半のイエスの公生涯を共に過ごした際には、マリヤ自身言うに言われぬ憂いを感じたことは一度や二度ではなかったと思います。
マルコの福音書3章21節には、イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに来ていた。「気が狂ったのだ」という人たちがいたからである。
さらに続く31節には、さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。
32節、大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「御覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」と言った。

これらの記述から、イエスが弟子たちと宣教を始めた当初はイエスと母及び兄弟たちの間に大きな軋轢があったことが分かります。
今回は、聖書画ではあまり描かれることのない、母マリヤの憂い、について描いてみました。

☆キリストの磔刑☆

☆NO28、キリストの磔刑。
今年(2016年)3月に教会を変わりました。主の導きのまま、理由も分からず変えたわけですが、新しい教会に行ってみてその理由がわかりました。
その教会では、イエスの血潮12の宣言、を2月から始めていたからです。
前の教会も、十字架を信仰の基礎においている教会でしたが、さらに一歩進んだ教えを主が導かれているのだと分かりました。
早速、その血潮を声に出して祈っていると、主の問いかけがありました。
「あなたは、わたしの十字架での血潮の意味を本当に知っているのか?」。
わたしは、答えました。「主よ、あなたこそご存じです。教えてください。」
「では、わたしの十字架を見なさい。」
見ることは、私にとって描くことです。
今回は特に主の導きが強く働き、約1か月という今までにない早いペースで描くことができました。
それと同時に、主の十字架の意味も、詳しく教えてくださいました。

☆ヨハネの黙示録から、女と竜☆

☆NO27、ヨハネの黙示録から、女と竜。
今回の主題は、黙示録12章を基に描きました。
黙示録とは、やがて起こる終末の出来事を、しもべヨハネが書き記したものです。
主な内容は神とサタン(竜)による最終戦と、神による全人類の裁きが主題ですが、1章2節にヨハネは、神のことばとイエス、キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべてのことあかしした。 とあるように、本来は映像で与えられたものを言葉で書き記したのもです。
これがユダヤ民族特有の黙示文学と言われるもので、彼らが何故、映像を絵ではなく、文字で表したかといえば、モーセの十戒にあるように、あらゆる偶像を作ってはならないという戒めのため、 絵を残さず、全て文字によって書きしるしたためです。
本来は映像で示されているので、当然、見よ。という呼びかけが22回も書かれています。
最初から映像に現してくれたらと、思うのは当然ですが、イスラエルの長い歴史を振り返れば、形ある物は全て消し去られているので、巻物一本で後世に確実に残せる黙示文学は彼らに不可欠なものであったと思われます。
当然、読む側にとっては難解な文章になるわけですが、これが返って読む人の想像力を掻き立てます。
私も当然、その一人ですが、クリスチャンならお分かり頂けると思いますが、聖書は聖霊の助けなしには理解できません。
私も当然、祈りつつ、筆を進めました。

☆☆サマリヤの女

☆NO26、サマリヤの女。
今回の主題は、イエスの数あるエピソードの中でも特に有名ですので、ご存じの方も多いと思います。
イエスが宣教の途中サマリヤの地に立ち寄った時、ヤコブの井戸と呼ばれる所で、ある女性と出会います。
特徴を二つ挙げれば、イエスが言葉だけで、個人伝道したことと、相手が当時ユダヤ人と付き合いのない異邦人であったことです。

☆☆幼子を抱くマリア

☆NO25、幼子を抱くマリア。
今回の主題は、ルカの福音書11章27節を基に描きました。
イエスとその母マリアについては、殆どルカの福音書だけが頼りと言っていいでしょう。 それは、何故かと言えばルカが人間を診る医者であったことが一番の理由で、二番目には彼がギリシャ語が堪能でヘレニズムの影響を多く受けていたためだと私は思います。
それ故、彼の書いたものは具体的で絵画的です。彼が居なければ後世の画家にとって、母マリアは遠く霞んだ存在だったでしょう。私も彼の福音書のお蔭で、母マリアについて多くのイメージを持つことが出来ました。

☆ヘロデの宴(決別の時)☆

☆NO24、ヘロデの宴(決別の時)。
今回の主題は、マタイの福音書14章1節〜12節までを基に描きました。この挿話は一般的にはオスカー、ワイルドの戯曲「サロメ」で有名ですが、聖書にはヘロデヤの娘がサロメとは書いてありません。
題材もともすれば預言者ヨハネの首をヘロデの誕生日の祝宴会場に持ってこさせるという、猟奇的な一面が強調されますが、聖書をよく読むと、これがイエスの宣教そのものを劇的に変わらせた転機にあたる出来事なのです。
副題の「決別の時」はそのような意味でつけました。

☆)☆

☆NO23、THE NIGHT(わたしは世の光です)。
副題の、「わたしは世の光です」(ヨハネ8章12節)は、聖書の数ある御言葉の中ではとりわけ有名な御言葉です。
さらに12章36節には、「光のこどもとなるために、光を信じなさい」とあります。このように、キリストイエスにとって光は真理を表す特別なものであると私は思います。
ユダヤ教の一日は夕で終わり、夜から次の一日が始まります。
ですから、イエスが夜に生まれたのも、新しい時代の始まりの時にこの世を照らす存在であったのはないかと私は思います。
全体の構図は、ルカの福音書第二章から採りました。すでに何度も繰り返されている有名なエピソードなので、必要な言葉だけ挙げてみたいと思います。
ところで、12月25日のクリスマスは、実際のイエスの誕生日ではないことは、前にも書いた通りですが、何故、5月にこの絵を描き始めたのかというと、私はすでにNO13の受胎告知でも触れたように、 この5月にイエスが生まれたと信じているからです。

☆)☆

☆NO22、ヨハネの黙示録から天のエルサレム。
今回は前回の続きでいよいよ天国の登場です。聖書ではいろいろな言葉で表現されています。イエスが良く使う言葉に天の御国(みくに)があります。
イエスが地上におられた頃は、ハデスと呼ばれ、その中でパラダイスと呼ばれた所がそこにあたります。 前回で触れた、天にその名が書き記されている者だけが、入れる所です。
これが具体的な我々クリスチャンの最後に行きつくところです。最終目的地に相応しく聖書でも一番最後のヨハネの黙示録に書かれています。
彼は黙示というユダヤ民族に与えられた神の啓示を書き記す特別な文体でこれを書き記しました。その文体が特殊なために、解説書 によれば、これを書いたヨハネと福音書記者のヨハネとは別人であるというのが一般的な聖書解説者の見解だとありました。
黙示録には歴史的な記述がほとんどなく、描かれた年代を特定するのは困難です。もし、福音書記者のヨハネではないとすると、聖書に登場するヨハネと名乗る人物に 同じく福音書記者のヨハネ、マルコがいます。私は祈りつつ示されたのは、やはり福音書記者のヨハネでした。その理由は、ヨハネの福音書に書かれている命の水に関するテーマでした。

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☆NO21、金持ちとラザロ(名が天にかきしるされていることを喜びなさい)。
今までは聖書のエピソードを中心とした絵を描いてきました。では、キリスト教の中心となるテーマはいったい何のでしょうか。
今回は、ようやく私もこのテーマに取り組んでみました。
我々クリスチャンが目指しているものは、一言で言えば、永遠の命です。言い換えれば、この世の死で人生が終わるのではなく、その先があるということです。
それを福音といいます。これは英語のGood newsの和訳だそうですが、音から感じるものはとても柔らかい感じがします。
実のこの英語の語源はギリシャ語のエバンゲリオンという、アニメのタイトルのような言葉です。これはとても勇ましい響きがします。それはギリシャが都市国家であった時代に戦いの勝利を告げる言葉でもありました。
伝令の到着を今か今かと待ち望んでいた人々にとってこの一言はどれほどの喜びになったことでしょう。これ以上の良い知らせはありません。
では、クリスチャンが何に勝利したかというと、死に勝って永遠の命を得たということに尽きます。ですから、新約聖書の福音書にはこの手の話がいくつも記されています。
その中で、今回はルカの福音書から描いてみました。

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☆NO20、エバの真実(罪深いのはどちら?)。
アダムとエバはすでにNO12で描いていますが、今回は是非描き加えるべき人物が出てきたので新たに描くことになりました。 それは、誰かと言えば、右端に半透明で描かれている女性です。
彼女はアダムの最初の妻、リリトです。私がこのリリトの存在を知ったのは、ゲーテのファウストからでした。
私が初めてゲーテのファウストを読んだのは高校生の時ですから今から半世紀も前のことです。それが今回不思議な巡り合わせで急に頭に浮かんできたのです。
場面はファウストがグレートヒェンとの密会の後、メフィストに連れられて悪魔が集うブロッケン山でのことです。
ファウスト、あれは誰だ。
メフィスト よくごらんなさい。リリットです。
ファウスト だれだって?
メフィスト アダムの最初の妻ですよ。
大山定一訳  人文書院より。
ゲーテが書いたのはこの短い箇所だけ。しかも、物語の筋とは関係なく出てくるので、ずっと忘れていました。
それが、ある疑問を感じた時、急に頭に浮かんできたのです。
その疑問とは、聖書に描かれている多彩な女性像です。
彼女たちは本当にたった一人の母であるエバから生まれたのでしょうか。そう思って、もう一度創世記を読んでみると、今まで気にも留めなかった箇所が妙に引っかかってきました。
それは、第1章と第2章にみられる時間のずれです。聖書が間違いなき神の言葉である、という私の信念に迷いはないのですが、かと言って聖書には全てが書かれているわけではないことも事実です。
特にこの第1章と2章の間には、割愛された重要な場面があったことがわかります。 具体的に第1章からみていくことにしました。

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☆NO19、サウロの回心(自分の足で立ちなさい)。
キリスト教を外から見ている時、中心になるのは当然イエス、キリストですが、クリスチャンになって教会に来てみると、説教の多くが彼の教えを最も広く伝えた パウロであることに気づきました。彼は十字架の後に加わっただけでなく、イエスと激しく対立したユダヤ教のパリサイ派であり、最初の殉教者ステパノを殺すことにも賛成していました。
その彼が、更なる殉教者を捉えるべくシリアのダマスコに向かう途中で、イエスの召された訳ですから、新約聖書の中で、イエスの十字架の奇蹟を別格とすれば、まさに最大の奇蹟といっていいでしょう。
しかし、何故敵対する彼をイエスが召されたのかという疑問が残ります。彼がローマ市民であったこと、ギリシャ語が話せたことなど、この後の世界(当時はギリシャとローマが世界の中心でした)宣教をするのに有利であったことは事実ですが、 それ以外の何か別の理由があるのではないかと私は思いました。
それをつきつめてみると、新約聖書の約半分を書いた力強い宣教者というイメージとは別の、意外な事実が浮かび上がってきました。
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☆)☆

☆NO18、イエスのエルサレム入城。
私の通っている東京アンテオケ教会では年度を11月からスタートし、年度初めにイスラエルの首都エルサレムに行っています。私は仕事もあるので2週間の休みは無理だと諦めていましたら、絵の方で導きがありました。
イエスは三年半の公生涯の最後をエルサレムで終えることに決めていました。それは聖書に書かれた、預言者を通して言われたことが成就するためでした。
そこにはこう書かれてあります。
(マタイ21章5節)シオンの娘に伝えなさい。「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って」
続く8節9節にはこうあります。すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。
そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。
「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」

この記述だけみれば群衆は歓喜の声を上げてイエス一行を迎えたように見えますが、この時のイエスの心境はバックに見えるオリーブ山に架かる暗雲のように、すっきりと晴れ渡っていたわけではありませんでした。
イエスのエルサレムにたいする特別な思いは、その後のローマ軍によるエルサレム陥落(DC70年)そして世界中に散らされたユダヤ人の運命を知れば理解できます。

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☆NO17、或るヘブル人の親子。
人類史上最も有名な親子と言えば誰でしょうか?クリスチャンであっても、そうでなくても、 やっぱり、聖母マリヤとイエス、キリストを挙げる方が多いのではないでしょうか。
私も、N013で、少し触れましたが、マリヤといえば、キリストを産んだ聖母というイメージが強すぎて、どうしても イエスの十字架の下で嘆き悲しむ図がすぐに浮かんでしまいます。
天使ガブリエルに神に祝福された方、と言われた筈なのに、 彼女はこの二千年来、常に嘆き悲しむ女性の代表のような存在であったような気がします。
拙作NO5で「我が子イエスを抱くマリヤ」を描いたときも、 今更なんで、この絵を描くのですか?わたしはこんなに悲しい女ではありません、と当のマリヤに常に言われているような気がしてなりませんでした。
それ故、彼女の別の面を描くべきして選んだのが、イエスがまだ公生涯に入る前に、家族とともに過ごした頃を描くことでした。なぜなら、イエスが公生涯に入られた後のマリヤは、イエスが神の子としての証しを見守るだけで、表には出て来れなかったからです。 彼女が輝いていたのは、夫ヨセフが亡くなった後、イエスがその後を継いで大工になり一人前の家長として成長していく様を誇らしげに見ていた時だと思います。
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☆)☆

☆NO16、イエスの洗礼(始まりそして、終り)。
新約聖書を読むと、キリスト教とは、不思議と水に縁があります。
イエスが30歳で、宣教を始めたのはガリラヤという湖からですし、弟子の多くはその周辺で暮らす漁師でした。
宣教の旅もヨルダン川を軸として展開しています。御存じのヨルダン川は死海という湖面が海抜より低いため決して海に注ぎこむことのできない湖で終わっています。
では、注ぎ込んだ水はどこにいくのかというと、空に蒸発するしかないわけです。これは、何か、八方塞がりでも、上には道が開けているという、聖書の教えのを具体的に表しているようにも思えます。
イエスが宣教を始める前に、マリヤの親戚の子、ヨハネが水によるバプテスマ(洗礼)を行っていました。
N013でも書きましたが、ヨハネはイエスの公の場を整えるために一足先に洗礼という形で、世の人々の神の国の到来を告げていました。
イエスはすでにご自分が神の子であることを知っていましたから、(ルカの福音書2−49)改めて、洗礼を受ける必要はなかった筈ですが、ヨハネに自らそれを希望して受けています。何故でしょう。
私はこの小さな疑問から、 この絵を描くことにしました。

☆)☆

☆NO15、バテ、シェバ(バラの下で)。
ダビデと言えば、バテ、シェバとの関係が有名です。と言っても、聖書を読んだことがない人にはピンとこないでしょう。
旧約聖書の第二サムエル記11章ににこうあります。2節、ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。3節、ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ、シェバではありませんか」との報告を受けた。
4節、ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。−その女は月のものの汚れをきよめていたーそれから女は自分の家に帰った。5節、女はみごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。「わたしはみごもりました。」
この後のいきさつについてはNO13のマリアの受胎告知で書いたので、省略しますが、その時の彼女の思いがどのようなものであったのか、私は非常に興味を持ち、絵にしてみました。
絵にしてみて、改めて思ったことは、この時の決断が無ければ、有名なソロモンも生まれてこなかった訳だし、当然、ヨセフにまで続く、ダビデの家系もどうなっていたかわかりません。詳しくは下記の全文を見るでご覧ください。


☆☆

☆NO14、ダビデ。
旧約聖書で私が最もすきな人物はこのダビデです。今回の絵のテーマになった若きダビデとペリシテ人のゴリアテとの一騎打ちは第一サムエル記に記載されています。
少し長いので、要約するとこういうことです。
イスラエルの最初の王サウルとペリシテ人が谷を挟んで対峙していました。ペリシテ人の陣から毎日、ゴリアテという身の丈286センチもある戦士が出てきてイスラエル軍に向かい「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりよこせ。ひとつ勝負しよう。」と一騎打ちを挑みますが その巨大さに圧倒されて誰も出てきません。
神から次の王として油注ぎを受けた若きダビデが戦場にいる兄弟の安否を尋ねにやってきて、この有様を見ていいます。
「このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹になるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」
王サウルは自ら自分の鎧兜をダビデに着せますが、羊飼いのダビデは慣れていない武具を脱ぎ捨て、川から石を5個拾ってきて羊飼いが使う投石袋にいれゴリアテに向かっていきます。ダビデは普段から使い慣れたこの投石器の最初の一撃で、巨人ゴリアテを倒すわけです。
ダビデと言えば、イタリアルネッサンスの巨匠ミケランジェロの彫像があまりにも有名ですが、彼が裸でゴリアテと対峙したという状況を私なりに、考えてみました。ダビデという人物を考える上で、このゴリアテとの一騎打ちは大変、興味深いものがありました。詳しくは、全文を読むでご覧ください。


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☆NO13、受胎告知(愛は律法に縛られない)。
油彩13番目の作品にこの主題が与えられたことに、クリスチャンとして神の啓示のようなものを感じました。
何故なら7は完全数で神を表し6は人間を表し、二つの数を足した13という数字には神と人間の和合という意味があると私は感じたからです。
その主題に一番ふさわしいのはこの処女マリアが神の御子キリスト、イエスを身ごもったこの作品以外ないと思いました。
それに加えて、私は個人的にすでにNO5でマリアを描いていますが、そのマリアを見るにつけて、なにか彼女から「わたしはこんな悲しい女ではありません!」という訴えかけを受けているように感じていたので、 どうしても、彼女が生涯で一番輝いていた瞬間を描かねばという思いもありました。
それと同時に、この主題を通して、イエスとダビデの関係についても個人的に解明してみたい衝動を抑えることが出来なかったのです。神はいくつかの捧げものを私に要求し、私がそれに応えたのでこの作品が出来上がりました。詳しくは全文を読む、をご覧ください。


☆)☆

☆NO12、アダムとエバ。

聖書画といえば外せないのがこのアダムとエバでしょう。何故なら創世記の冒頭ですし、我々人類の初めがこのアダムとエバだと聖書は語っています。
しかし、読んだ人は分かりますが、そのあまりに牧歌的といえる表現のため、これが現実の世界だといわれても、ダウイーンの進化論を習った世代にはにわかには信じがたいのも事実です。
しかし、聖書を間違いなき神の言葉と理解するなら、この一見非現実的と思える出来事が急に現実味を帯びてきます。
聖書は旧約から新約まで二千年以上の長き時代にわたって語られていますが、各々の出来事が密かに関係しています。
私がこの絵を描きながら聖霊の導きで知ったのはイエスキリストの十字架と、このアダムとエバの出来事が密接に関係しているという確信でした。
イエスが十字架でローマ兵によって殺された出来事は史実として、疑う人はいません。もしこの事実とアダムとエバの出来事が深く関係しているとしたら、
一方が事実である以上、この牧歌的な出来事も事実となる筈です。
私は自分の作品に統合性を求めているうちに、この事実を知りました。個人的な作品解説としてお読みいただけら幸いです。

☆☆

☆NO11、バッコスとアリアドネ、至福の一瞬。

今回もギリシャ神話から題材を採りました。昔は酒の神バッカスといったようですが、最近図書館で借りた本にはバッコスと記載されていたので、それに倣いました。
ギリシャ神話の最後にこの題材を持ってきたのは私が単に大のワイン好きだという理由だけです。ワイン好きであってもワイン通ではないので、ここではワインの薀蓄(うんちく)は書きません。
聖書でもワインはブドウとならんでよく出てくる飲み物です。NO8で描いたキリストの最後の晩餐でも飲まれたのはワインですし、現在の教会でも聖餐式やミサの時に飲まれます。
ワインの特徴は単に聖書に出てくるだけでなく、ブドウの絞り汁を放っておいて自然にできてしまうということにあるのではないでしょうか。ワイン以外に何の手も加えずにアルコール飲料になってしまう酒を私は知りません。
それだけにシンプルで飽きがこないようで、私自身、若いころから日本酒以外の酒は一通り飲んでみましたが、今日まで飲み続けているのはこのワインだけです。
さて、前置きはこのくらいにして本題の絵についてですが、バッコスがワインの神様であること以外、私は殆ど知識がありません。そばにいるアリアドネは恋人にすてられているところをバッコスに一目ぼれされた幸運な女性です。
二人が乗る二輪戦車を引くのは神話では豹と決まっているそうです。理由はインドからの凱旋で豹を引き連れてきたからと簡単な解説書にありましたが、ネコ科の動物に荷役はまったく似合いません。
時はまさにワインを仕込むのに相応しいブドウの収穫時、二人は若い恋人達のように豪華な二輪戦車の上で盛り上がっていますが、それを引く豹がいつまでおとなしくしているでしょうか。
画面では小さすぎてわかりませんが、彼らの目線の先には彼らを誘惑するのに十分な動物が潜んでいるのです。
ブドウの収穫はヨーロッパでは棚を張らずにやるそうですが、私は日本式にしてみました。
バッコスといっても舞台は日本なのです。といってもワイン色の空や神々しい山などは架空のものですが、ワインはすでに日本の風土に溶け込んでいるので、 私はごく日本的にこの神話を描いてみました。

☆☆

☆NO10、ペルセウスとアンドロメダ。

前回に続いてギリシャ神話から題材を採りました。ギリシャ神話の魅力は何といっても波瀾万丈の英雄譚につきるでしょう。
英雄というのは、並外れたな能力をもった人間ですが決して神ではありません。それ故に我々と同じ感情を持ち果敢に困難に立ち向かっていきます。
この絵の主人公のペルセウスにしてもアンドロメダ(星座の名前かと思っていました)にしても、聞いたことはあっても細かな話まで実は私もしりませんでした。
まずは、この英雄譚の大まかな粗筋からお読みください。

☆☆

☆NO9、You are so Beatiful!(ビーナスの誕生)

聖書画を描くにあたって参考のため図書館で何冊か本を借りました。ある本の中のコラムに西洋美術は大きく二つの流れがあると書いてありました。
一つが聖書を中心としたヘブライズム。もう一つはギリシャ神話を中心としたヘレニズムです。私の好きなイタリアの画家、サンドロ、ボテッチェリも受胎告知を描く一方で有名なビーナスの誕生を描いています。
何故、この水と油のような、二つの絵画が一人の画家の中で両立できたのか、不思議に思いました。ならば、自分でも描いてみようとして、描いたのが、この絵です。
その答えを私なりに見つけることもできました。

☆☆

☆NO8、最後の晩餐、知っている者は、だれもなかった。

クリスチャンにとって最大の務めは日曜日の主日礼拝でしょう。何故日曜日が主の日と呼ばれるかと言えば、イエスキリストが日曜日に復活したからです。
それとイエスが残した唯一の儀式が聖餐式です。カソリックではミサと呼ばれています。この二つの事柄に深く関わっているのがイスカリオテのユダと云われたら、意外と思われるかもしれません。
ユダと云えばイエスキリストを裏切った男としてあまりにも有名だからです。
私がこの絵を描いたきっかけはもう一度聖書に書かれた原点に戻って、これを描いてみることでした。 描いてみると改めて理解できることがいくつかありました。

☆☆

☆NO7、イエスの昇天、三位一体。
イエスの復活の出来事は当時のエルサレム全体に瞬く間に広がり弟子たちのみならず、イエスを知るあらゆる人々に大きな衝撃を驚きを与えました。 当時、死者が蘇るなどということは有りえないことだし、もしあったとすれば、それが何を意味することなのか、多くの人々の議論を呼びました。 聖書では第一コリント人の手紙でパウロがこう記しています。
3節、キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4節、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
5節、また、ケパ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。
6節、その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。

この絵は聖書の次の箇所を参考にしました。

☆復活の朝、☆


☆NO6、復活の朝、なぜ泣いているのですか。
イエスの十字架の奇蹟を描けば、次は当然、イエスの復活以外にありえません。我々クリスチャンにとっては、この復活がなければ、キリスト教自体が存在しないと言っても過言ではないでしょう。
新約聖書の第一コリント人の手紙でパウロがこのように記しています。
15章14節、そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
19節、もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

☆我が子イエスを抱くマリヤ☆

☆NO5、我が子イエスを抱くマリヤ。
前作を描いた直後、次はもっと大きく描きなさいという、神の声を聴いたような気がしました。前作が30号だからそれ以上というと、40号だと中途半端な気がするので一気に50号ということになります。 その大きさに似合う主題となると、もうイエスの十字架しかありません。描くのはまだちょっと早い気もしましたが、思い切って描くことにしました。 我々クリスチャンにとってはこの十字架は非常に深い意味があります。この出来事なくしてキリスト教はないわけだし、我々の救いも天国もない、という訳でわたしは洗礼を受ける前にこの十字架について基本的なことを学びました。メルギブソン監督の映画「パッション」も見て、 ちょっと鞭打ちの刑の場面は見ていて辛い箇所もありましたが何とか最後まで見ました。ヨハネの福音書には、人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません(15章13節)と書かれていますし、大げさではなく、新約聖書は全てこの十字架の上に成り立っています。
それだけに、聖書画としては有名無名の無数の十字架が描かれているわけだし、今更素人画家が描く主題でもないので、わたしは少し視点を変えて描くことにしました。
まず、主役をイエスから、題名の通りにマリヤに変えました。主役がマリヤですから、聖書からマリヤに関する記述を拾ってみました。少しでもイエスとマリヤの関係を知りたかったからです。そうしないと、イエスの死に対してマリヤがどう対処したのか、具体的な表情が浮かんでこないからです。
聖書は旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合計66巻から成り立っています。救世主イエスの誕生はイザヤ書7章14節に見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名付ける 。とありますから、神はすでにイエスが生まれる700年も前から神の子を地上に送る計画を立てていたようです。
しかし、旧約聖書の最後のマラキ書からイエス誕生まで約400年もまったく神の預言のない時代が続きます。この空白の時代については多くの説があるようですが、わたしは単純に神がその一人子を産む女性を探していた時間だと思っています。
一人の子を地上に送り出す準備期間が400年とはちょっと長い気もしますが、神にしてみれば、2000年近く、人類と共存したくても、できなかった様々な問題を一挙に解決すべく、考え抜いた方法なので、それなりの準備が必要だったんでしょう。つまり、言い換えれば、イエスの母となる女性は単に処女であるだけでなく女性として完璧でなくてはならなかったようです。
それでは彼女が幾つでイエスを産んだのでしょうか。それがわかればイエスが死んだ時のマリヤの年がわかるので、これはかなり重要です。
マタイの福音書1章18節に、その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかったとあるので、結婚の前の許嫁の期間があったようです。
では、いったいその時マリヤはいくつだったんでしょうか?

☆ペテロの号泣。☆

☆NO4、ペテロの号泣。
この絵の主題はマタイの福音書から採りました。
26章73節、しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄ってきて、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。
74節、すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
75節、そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。
自他ともに認める一番弟子のペテロが、主と仰ぐイエスが十字架に掛けられるまさにその日に三度も主を否定するという、あってはならない不祥事を起こしてしまいました。 聖書には四つの福音書が収めてありますが、この話はその全てに記載されていますから、残された弟子達にとってもいかに重大な事柄だったかがわかります。
ペテロと言えば、多少の大口たたきの部分もありますが、イエスの「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」という問いに対して「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた人でもありました。 イエスはペテロに「バルヨナ、シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。では、わたしもあなたに言います。 あなたはペテロです。わたしはこの岩(ペテロ)の上にわたしの教会を建てます。(マタイの福音書16章14節〜18節)と絶対の信頼を寄せていた一番弟子でした。
そのペテロがこともあろうに何故このような不祥事を引き起こしてしまったのでしょう。 実はこの話には伏線があります。その後イエスはこれから自分の身に起こることを弟子達に話ますが、彼らはイエスがイスラエルの王になると固く信じていたのでその意味が分かりませんでした。
ペテロは自分が弟子の中で一番偉いという自負もあり、イエスに「あなたにそんなことが起こるはずがない」と言い、イエスから鋭い叱責を浴びます。(同16章22節)
いよいよ最後の晩餐の折にすでにイスカリオテが自分を敵の手に引き渡すのを知っていたイエスは、「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届られました。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言い残します。(ルカの福音書22章31節32節) イエスはご自分がこの世を去られた後のことをすでに見越して、ペテロに最大の試練とそれを乗り越えるだけの力を与えていたのです。 この最後の晩餐の時、サタンは自由に神の前にも人々の前にも現れています。まだイエスによる十字架の新しい契約が履行されていないからです。 わたしは個人的にこの時のペテロへの試練が、その後のルカによる使徒の働き、のスタートだと考えています。
大祭司カヤパの裏口から逃げ出したペテロはそこで、ひざまずき頭を抱えて文字通り号泣します。鶏が鳴いたのですから明け方近くだったのでしょう。その日過ぎ越しの祭りの前の13日の金曜日にイエスはゴルゴダの丘で十字架にかかって死にます。 主に対して一切の言い訳弁解もできず、三日後のイエスの復活までペテロの苦悩はいかばかりだったでしょう。
しかし、イエスの祈りは天に届き、彼はその後、生まれ変わったように弟子達の先頭に立って世界宣教に邁進していきます。
ちなみに、四大福音書には一番弟子であるペテロの福音書がありません。その理由は、後年彼が、この件をどうしても記すことができなかったと推察するのは考え過ぎでしょうか。ヨハネの福音書には復活したイエスとペテロとの会話をこう記しています。
21章17節、イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた「わたしの羊を飼いなさい。
ヨハネは冷静に、ペテロの失態の後日談をレポートしていますが、やっぱり本人としては、書きづらい場面かと思います。しかし、イエスの私の羊を飼いなさい、はあなたは、わたしの後釜ですよ、と言っているようで、その言葉に救われますね。
(30号キャンバス910ミリ×727ミリ)2012年10月 ☆

☆石〈ストーン)☆

☆NO3、石〈ストーン)。
この絵の主題はヨハネの福音書から採りました。
8章2節、そして、朝はやく、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄ってきた。イエスはすわって、彼らに教えはじめた。
3節、すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れてきて、真ん中に置いてから、
4節、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
5節、モーセの律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
6節、彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
7節、けれでも、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8節、そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
9節、彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスひとり残された。女はそのままそこにいた。
10節、イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はいなかったのですか。」
11節、彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」)
12節、イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
この話は結構有名で私もクリスチャンになるずっと前から、キリスト教の一つのエピソードとして知っていました。当時は単純に、うん、そうだよなあ、誰だって罪を一度も犯したことのない人などいないから、彼らが立ち去ったのは当然だ、イエス様もうまいことを言ったものだ、と感心した覚えがあります。
ところが、クリスチャンになった今はまるきし違います。この話は実に奥が深いのです。その前にまず当時のイスラエルが置かれていた立場を理解する必要があります。
6節にある、イエスを告発する理由ですが、当時のイスラエルはローマ帝国の属国でした。ローマは占領した国には比較的寛大で、ある程度の統治権を持たせていましたが、死刑などの重罪人を裁けるのはローマのユダヤ総督のピラトだけでした。 ですから、もしイエスがユダヤ人の律法であるモーセの律法通りに、この女に石打の刑を許したなら、それは重罪人を裁くローマの律法を破ったことになり、彼はローマの律法で裁かれてしまいます。
その反対にもし、その女を許せば、今度はモーセの律法を破ることになり、告発者であるパリサイ人からの攻撃を受けることになります。
そのどちらにも従わない、イエスのこの答えは実に理にかなった名回答な筈ですが、実は前述したごとく、クリスチャンにとってこの答えはちっとも説得力がないのです。
その訳は、新約聖書以降のキリスト教の根本原理に反するからです。もっとわかりやすく言えば、我々は皆生まれながらの罪人なのです。ウーン、それなら、なおの事名回答では、と思うのは早合点です。 ここでいう、罪人とは、我々は皆、神の言いつけを破ったアダムとエバの子孫だということです。つまり、神との約束を破ったウソつきだといってもいいかもしれません。 イエスの言った、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」の罪は、モーセの律法つまり十戒に反した罪のことですが、それはアダムとエバの子孫である人に対して絶対的な拘束力を持つ言葉ではないのです。
誰かが、そんなのくそ食らえだ、俺は罪人かもしれないが、石を投げる、と言って、最初の石を投げてしまえば、もう誰もこの刑の執行を止めることができません。 イエスはそんな不確定な要素を持つ言葉で、この難局を切り抜けようとしたとはとても思えません。どちらに転んでも、彼の宣教活動に決定的なダメージを与えてしまいます。
ヨハネがこの話を自分の福音書に入れたのは、この話が単なるエピソードではなく、イエスの行った奇蹟だと信じたからでしょう。 その奇蹟とは、その場にあった全ての石が動かなくなるという奇蹟だと私は思います。
この話には他の話にはない決定的な場面があります。それは、6節にあるイエスが地面に何か書いておられたという箇所です。
事実、イエスは3年半の宣教活動中に1ページたりとも文章を書いていません。すべての福音書は弟子たちが後年書き記したものです。 それだけに、この6節、8節は注目に値します。書き方も普通ではありません。地面に指で書かれた、とあります。宮の地面は通常石畳ですから、指で書いただけでは筆跡は残りません。
これは、イエスが誰かに何かを伝えるために書いたのではないことが、このことから分かります。事実、その場に居合わせていただろうヨハネもその内容を伝えていません。 しかし、繰り返し、パリサイ人が執拗に問い続けても書いていたというのは、重要な事柄に違いありません。
もしかして、イエスはこの書くことに夢中になっていて、あまりにパリサイ人がうるさいので仕方なく出まかせに、7節のように言ったとも思えません。
私はこの話はイエスの奇蹟の話だと書きましたが、イエスが行った数々の奇蹟には必ず、彼の御言葉がありました。しかし、この話にはその記憶に残る御言葉がありません。 しかし、奇蹟である以上、どこかに御言葉が発せられた筈です。ここで、突飛ですが、例外的にここでは、書かれた御言葉が奇蹟を起こしたのではなかと私は思います。 何故、書かれた言葉だったのか。その理由は、この言葉をパリサイ人には知られたくなかったからだと思います。
聖書には、神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである(ヨハネ3章17節)とあります。もし、冒頭にイエスが「全ての石よ、罪なき者より放たれよ。」と言ってしまえば、7節の言葉は、何の救いにもなりません。 イエスはこの婦人だけではなく、この場に居たパリサイ人をも救いたかったのです。彼らに石打の人殺しをさせたくなかったのです。
しかし、単なる、良心に訴える言葉だけでは、どのような結果になるかわかりません。
事の重大性を見れば、まず、その場の全ての石を動かなくする、という安全策をイエスは執ったのだと私は思います。 パリサイ人にとってもこの策略は、全員が賛成したとは思えません。一人の主導者がいて、いやいや従った者もいたはずです。年配者から去っていったというのも、年取るほど罪を犯す機会がふえますから、当然でしょう。
イエスによって書かれた御言葉が、天の父に届けられた結果、彼らの手の中の石はびくとも動かなかったでしょう。

その場に立ちつくし、大勢の民衆の手前、どうにもならず9節のように、一人二人とその場から逃げるように立ち去りました。
ところが、私の描くところのこの絵はその直後のことを描いています。実はこの中央に立つ若い律法学者は、この企ての首謀者で、彼はガチガチの堅物で生まれた時からなんと一度も罪を犯したことがない人物でした。彼は長老たちに自分を認めさせるいい機会だと思い込み、この企てを推し進めたのです。
彼の手の中の石は、この男の意のままに投げることが出来たのです。ところが、その時、一陣の風が起こって、佇む婦人のスカートを舞い上げて、その美しい脚を見せてしまいました。
若い男は見てはならないものを見てしまい、目をそらしますが、時すでに遅く、彼の中の石は微動だにしません。
何故なら、マタイの福音書5章28節にこうあります。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。 まさにこの時にこの男も罪を犯してしまったのです。
この絵の主役は手前の石です。遠近法を最大限に利用して描いてみました。ちなみに朝方の影を描いているうちに、12節のイエスの御言葉が朝の風景にピッタリなことに気づきました。 こういうことも、絵を描いて初めて理解できる事柄です。 (M25号キャンバス803ミリ×530ミリ)2012年8月 ☆

☆嵐(あらし)☆

☆NO2、嵐(あらし)。
この絵の主題はマルコの福音書から採りました。
4章35節ーさて、その日のこと、夕方になってイエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸に渡ろう」と言われた。
36節、そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、船に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の船もイエスについて行った。
37節、すると、激しい突風が起こり、船は波をかぶって、水でいっぱいになった。
38節、ところがイエスだけは、とものほうで、枕して眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思わないのですか」
39節、イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
40節、イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どういうことです。」
41節、彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
イエスが初めて見せた大自然相手の奇蹟はダイナミックで絵に相応しいものです。私はこの年の7月に洗礼を受け、その記念にこれから宣教活動に出る12使徒を見習いたく、この絵を描きました。
ただこの時の突風(嵐)については、諸説あるようです。一番真っ当なのはガリラヤ湖の北にあるヘルモン山から吹き下ろす突風という説。
ただ、私はこの話の前後の繋がりから、これからイエスが行く対岸に棲む悪霊(サタン)の仕業だと思い、そのように描きました。
絵の中央の黒い雲の塊はその悪霊の親玉です。そこからイエス一行を妨げようと、突風を送り船を沈没させようとしています。 弟子たちの中にはこのガリラヤ湖に慣れ親しんだ漁師のペテロやヨハネ兄弟もいて、彼らは身についた職業意識から、これはもう危ないと直感して、イエスに助けを求めたのだと思います。
それでは、何故、イエスが38節にあるように、ともの方で眠っておられたのでしょう。
それには、この章の前を読む必要があります。第3章13節にこうあります。さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。
14節、そこでイエスは12弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、
15節、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
つまり、この船出は彼らの悪霊退治の実践だったというのが、私の考えです。4章35節に書かれているように、夕方になってからの船出は単なる旅行にしては不自然です。
イエスは当初からこの船旅の途中に対岸の悪霊が襲ってくることを知っていたのでしょう。弟子たちにはすでに悪霊を追い出す権威を授けていますから、彼らの信仰を試すいい機会でもあります。 それで、ともの方で寝たふりをしていたと考えられます。 リーダーのペテロはこのガリラヤの漁師ですから、彼の大口たたきの性格から考えて、こう言ったと思います。
「先生、多くの群衆を相手にお話しして今日はお疲れでしょう。この湖は我々の漁場で庭のようなものです。どうか安心して艫の方でお休みください。」 ペテロも陸上ではイエスを先生と一目置く存在ですが、船の上では私だって、先生に負けてはいない。ここはいい所を見せよう、と意気込んでいたかもしれません。 イエスは内心大丈夫かな、と思いつつ、ここは彼らの腕を信じることにしました。沖合にでると案の定、波風が強くなってきます。 イエスはいつ彼らが祈り始めるのだろうかと、待っていましたが、彼らはそれどころではありません。風に煽られて船が転覆しないように、帆を畳み、船にたまった水を掻き出すのに必死でした。 そして、とうとう38節のようになります。イエスはがっかりして、彼らを叱りつけます。「信仰がないのは、どういうことです。」
続く5章では、冒頭からゲレサの地で悪霊に取りつかれた男が、イエス一行を見るなり、駆け寄ってきて、ひれ伏してこういいます。
6節、彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、7節、大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
その後イエスは彼の中にいるレギオン(6千から7千の数ーローマの一個師団)の悪霊を彼から追い出し、その地にいる豚に乗り移させた。その豚は湖になだれ込んで溺れてしまった。それを知った地元の民を恐れてイエスにこの地方から離れてくれるように願った、とあります。
つまり、悪霊たちはイエスがその地に上陸する前から、すでに降参しているわけで、その闘いがいつあったかというと、この湖上での嵐以外ないというのが私の意見です。 その方が、イエスの言葉も前後との辻褄が合うように思われますし、第一、絵にも迫力が生まれます。
夕暮れとあるので、右からの夕日で湖面が赤く染まっています。押し寄せる波はこれから世界宣教に船出する使徒達のように四方に向かっています。イエスの福音の舞台は中東の砂漠地帯が中心ですから、こうした海を思わせる風景は殆ど出てきません。 それだけに、この嵐の場面は水を描ける貴重なシーンと言えます。
(20号キャンバス727ミリ×606ミリ)2012年7月 ☆

☆シャローム☆

☆NO1、シャローム。
聖カテリーナと神秘の結婚と聖セバスティアヌス 題名はヘブル語で平安という意味である。とりあえず8号キャンバスを買って、さて、何を描こうかと、 手元にあったキリスト教の宗教画集をぱらぱらとめくっていたら、ちょうどコレッジョという画家の絵(左の絵)が目に留まった。
もともとこの手の絵が描きたくて油絵を始めたのだから、これをそっくりコピーしてみようと、始めたのだが、丸写しでは面白みがないので、 人物はそのままで、すこしアレンジしてみた。
題材は中世の黄金伝説である。それによるとカテリーナという貴族の娘が洗礼を受ける前に不思議な夢を見る。 夢の中で幼児イエスを抱く聖母がカテリーナを前にして「この女を嫁にとるか」とイエスに聞くが、幼児は首を振る。
洗礼後に再び夢を見たカテリーナは、今度はイエスに指輪をはめてもらう。 夢から覚めたカテリーナはその指輪を現実にしていることを誇りにし、終生離すことはなかった。
彼女はその後、彼女に関心を抱いたローマ皇帝のマクセンティウスは彼女に議論を挑むが跳ね返される。怒った皇帝は鉄の爪がついた車輪で彼女を挟んで処刑しようとするが、天から火が下って、その車輪を破壊する。結局彼女は首をはねられてされて殉教してしまう。(井出洋一郎著、聖書の名画を楽しく読むー中経出版より)
右端の男性は聖セバスティアヌスで彼は無数の矢に射抜かれている図でも有名です。
この四人が同時に居ること自体、有りえないことで、所詮、伝説の域を出ないのだが、組み合わせが面白いと思った。カテリーナはいくらなんでも結婚相手が幼児のイエスでは心配だ。 母マリアもそれを察して、この子は神の子だから大丈夫(シャローム)と言っている。矢を持ったセバスティアヌスも、興味深めに見守っている。 それぞれの手の表情に工夫を凝らして描いてみました。聖書画と銘打ったものの、この話は聖書には出てきません。(8号キャンバス455ミリ×380ミリ)2012年5月 ☆

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