NO 87 処刑場(ワイマールからのバラ)☆
この絵は、ゲーテのファウスト第一部、天主堂とワルプルギスの夜と牢獄の場面、それとシェイクスピアのハムレットからヒントを得た私の話と聖霊の助けによって描きました。
ファウストはマルガレーテと別れ、メフィストフェーレスに誘われて、ワルプルギスの夜に行われる悪霊の祭りに参加する。
ところが其処で、マルガレーテが我が子殺しの罪で処刑場に引かれて行く幻を見る。
矢も楯もたまらず、良心の呵責に責められたファウストは、嫌がるメフィストフェーレスを急き立てて魔法の馬を駆って処刑場に急ぐ。
夜が明けようとしている。そこで二人に奇妙なことが起きる。
ファウストは言う。「夜の冷気が身に染みると思ったら、どうだい、君も僕も丸裸ではないか。これはどういうことなのだ?」
するとメフィストフェーレスは口をゆがめてこう答えました。「どうにもこうにも聖書ってやつは、悪魔にとってはとんだ災難ですぜ。
何故ならそこには、神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。わたしたちはこの神に対して弁明するのです、と書いてあるからですぜ。
どうやら我々は神の裁きの場に行くようです。これには悪魔もお手上げだ。」
するとファウストは言った。「なるほど、そういうことなら、これから向かう処刑場は、マルガレーテだけではなく、全ての人の裁きの場でもあるわけだ。」
メフィストフェーレスも頷いて言った。「とんだ小娘ですぜ、あの子は、神まで呼び寄せるなんて。
私はそこに行くのはご免こうむりたいところです。馬も怯えています。
しかし、夜明け前の暗い中、ワルプルギスの余韻が体に残っているうちなら、なんとかなります。闇が我々に味方してくれるでしょう。」
一方、ゲーテはファウスト第一部を書き終えて書斎にこもっていたが、ある夜ふけ、不意にマルガレーテを殺したのは、自分のただの願望のためではなかったのかと思い、胸を叩いて苦しむ。
そして夜風に当たろうと庭に出ると、沢山の白薔薇が庭に咲き誇っている。彼はその一輪を切り取ると、朝一番の辻馬車で処刑場に向かう。
ゲーテが馬車を降りて急いで処刑場に行くと、すでに大勢の人々がいた。人混みをかきわけて最前列に行くと、そこに不安げな一人の紳士(注1)が立っていた。
禿げ上がった額に口ひげがあり、ゲーテにも見覚えがある顔であった。そこで近寄り、もしやと思い英語(注2)で話しかけた。
「失礼だが、あなたはもしかして、あの有名なシェイクスピアさんではありませんか?」
するとその紳士は言った。「いかにも、私はあなたが思っているその人だ。私を知っている、あなたは誰かな?」
ゲーテはうやうやしくお辞儀をすると答えた。
「私はドイツ人でこのワイマール公国で大臣をしているゲーテと申す者で、あなたの崇拝者です。あなたの作品はここドイツでも大変な人気です。」
すると、その紳士はひどく驚いてこう言った。「ここがドイツだとは知らなかった。道理で、彼らが何を話しているのかさっぱりわからず困惑していたところだ。君はいいところに来てくれた。礼を言うよ。」
ゲーテも、驚いてこう尋ねた。「しかし、何故、過去の人であるあなたが、今、ここにいるのですか?」
すると、紳士は微笑みを浮かべてこう答えた。「ウーム、ゲーテ君、天と地の間には、君の想像もできないことがおこるものだよ。
正直、私にもよく分からないのだ、何故私がここにいるのかを。しかし、君と僕とがここで出会ったのも偶然ではあるまい。
もしかして君は、今そこで処刑されようとしている少女と関係があるのではないかな?」
ゲーテは答えた。「その通りです。あの少女は私が創作した戯曲のヒロインでマルガレーテと申す者です。私は是非彼女に伝えたいことがあってこの場に居るのです。」
すると紳士は言った。「その伝えたいこととは、何かな?」ゲーテは顔をしかめて言った。
「実は彼女は無実なのですが、教会に住む悪霊が彼女を我が子殺しの殺人犯に仕立て上げてしまったのです。
私は若い頃に法律を学んで学位もあります。だから、過失で我が子を死なせても死刑にならないことを知っています。
しかし、私はある思いから、彼女の無実を証明する場面を作品から取り去ってしまったのです。
今思えば、自分でも愚かしい。それで、いたたまれない気持ちでここへ来たのです。」
すると紳士はそのつぶらな黒い瞳を見開いて、こう言った。「よろしければ、その場面を省いた訳をお聞かせいただきたい。私も戯作者として、その作品に興味がわいてきた。」
ゲーテは観念してこう答えた。「簡単に申し上げれば、禁断の木の実を最初に食べたエバの罪を贖うために彼女はこの場に居るのです。」
すると紳士は、大きく頷いてこう言った。「すると君は、あの少女が、われらの罪を背負って十字架で死なれたキリストを同じだと言うのかね。
面白い。確かにキリストが贖ったのはアダムの罪だけだとパウロは言っておるから、(注3)人類の半分は未だに罪人なのだ。
それは私も分かっている。それ故、私は我が子の生まれ変わりハムレットに、(注4)こう言わせたのだ。
彼は母ガートルードがあまりにも急速に叔父の花嫁になったのを見て、女は全て不貞な罪人だと思うようになったのだ。
彼は若い頃の私に似て、女の貞節を信じている純情な男だから無理もない。相手はオフィーリアという家臣の娘だ。君も舞台で聞いたことがあるだろう。
有名なセリフだ。彼は気違いのふりをしてこう言う。尼寺へ行け!尼寺へ。何故、罪深い子を産むのだ、尼寺へ行け!とな。
ハムレットに嫌われたと思ったオフィーリアは思い余って自殺してしまう。口でいくらののしっても、相手に死なれてしまうと悲しいものだ。
私もあれを書いてからは暫く気分が落ち込んだ。ゲーテ君、君の気持ちは分かるが、何故にそのような大役を彼女に押し付けたのかね。」
ゲーテは直に答えた。
「それは、ごく簡単なことで、キリストが罪のない一人の人間であれば、私には同様に一人の罪のない女性が死ぬことによって、永遠の救いが我々にもたらされると信じたいのです。」
紳士は言った。「君はキリスト教徒かね?」ゲーテは答えた。「そう聞かれれば、この国ではそうだ、と答えるのが普通です。しかし、教会には行っていません。」
紳士は言った。「そうだろうね。そういう考えは、カソリックでもプロテスタントでも決して教会からは出ないものだ。真にゲルマン的、いやゴート人的なものだ(注5)。
もし間違っていたらお詫びするが、君の名前の響きには、何かしらゴート的なものを感じさせる。
その名前の故、ゴート人だとからかわれたことがあるだろう。」
ゲーテは苦々しく答えた。「ええ、友人から一度手紙で傷つけられました。」
すると紳士は、笑いながら言った。「どうやら、君は生まれながらの貴族らしい、私とは正反対だ。
私はロンドンに出て戯作者として駆け出しの頃、同僚からこの成りあがり者、他人の羽で飾り立てたカラス。
さらに名前をもじって、この舞台を揺るがす者と揶揄されたが、私は故郷に残してきた三人の子供と妻のために私は負けずと言い返してやった。
今は舞台を揺るがす者だが、いずれ、この地球をも揺るがして見せると。地球は君も知っての通り、当時の常設小屋の地球座のことだ。
若者は何でも大きく言ってみるものだが、私の言葉は道を開く。今、私の名前がここドイツでも知られていることを嬉しく思う。それを教えてくれた君に礼を言うよ。
ところで、教会に悪霊が住むというのは本当だ。聖書にもペルガモの教会にはサタンの王座があると書いてある。教会は過去から現在に至るまで多くの不義の宝を飲み込んできたからだ。
教会の地下には無実の者を罪人に仕立て上げる一式が用意されておる。
私はかつて、我が息子ハムレットに、人間とは何と素晴らしい創造物なのか、と言わせたが、この世で一番恐ろしいのは、悪霊ではない。人間だ。
君は666の意味を知っておるだろう。故に我が偉大な国王、ヘンリー八世がローマ教皇と袂を分かちイングランド国教会を立ち上げたのだ。
事の真相はつまらぬ夫婦の離婚劇だが、彼の女好きのお蔭で、我がイングランドがあの呪われた悪党から守られたのだとすれば、彼もなかなかいい奴だったと言わねばならない。(注6)
ところで、君が手にもっているその白薔薇は何かね。ヘンリー一族は赤いバラが好きだったのだが。(注7)」
するとゲーテは改めてその白薔薇を見てこう言った。「この花は、今朝 庭で摘んできたのです。彼女の潔白を証明するには、丁度良いかと思いまして。」
それを聞くと紳士は血相を変えて叫んだ。
「ならば、すぐそれを、あの処刑場に投げ込み給え。なにを今までぐずぐずしていたのか、さあ、早く!その白薔薇が赤く染まってこそ、君の望みは叶えられるのだ。(注8)
その一輪の白薔薇は君にとって、君の仕えるワイマール公国より重いぞ。」
ゲーテも我に返って、こう叫んで、それを力いっぱい処刑場に投げ入れた。「ワイマールからのバラだ!」
その時、教会の鐘が鳴った。場内が静まり返り、執行人が杖を折る乾いた音が、シーンとした場内に響いた。
首切り役人の喉がゴクリと鳴った。マルガレーテはそれを自分の背後で聞いた。
そして、つぶやいた。「ああ、教会の鐘が鳴ったわ。とうとうその時が来たのだわ。
本当はわたしの結婚式だったのに、こんなみじめな姿で死んでしまうのね。でも仕方がないわ。これがわたしの愛なのだから。
それに、あのかわいい妹に逢えるのだわ、そしてわたしの赤ちゃんにも。もちろん、あの人にも逢えます。主よ、わたしはあなたに身を委ねます。この罪人のわたしを、お救いください。」
斧が空気を切り裂く音が彼女の耳元でつむじ風のようにビューと鳴った。
彼女が投げ入れられた白薔薇を見たかどうか、私にはわからない。しかし、その場におられた神は全てをご存じです。アーメン
注1 当時、家紋を持つ事ができたのは紳士階級だけだった。彼の父ジョンが申請して拒否されが、後にロンドンで成功した息子のウイリアムが再申請して許可された。
注2 ゲーテは語学に長けており、父が教育熱心だったこともあり、家庭教師から英語、フランス語、イタリヤ語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語などを習った。
注3 パウロによるローマ人への手紙5章12節。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです。
14節、ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえ支配しました。アダムは来るべき方のひな型です。」
注4 シェイクスピアは18歳で8歳年上のアン・ハサウェイと結婚した。翌年に長女が生まれ、二年後に男女の双子が生まれた。長男の名前はハムネットと名付けられた。
この名前の綴りが一時ハムレットと書かれていたらしい。不幸にして彼は11歳で夭折している。
その後、ロンドンで成功して男子の跡取りを欲しがっていたシェイクスピアが、長男を己の舞台上で復活させ永遠の命を与えたとしても不思議ではない。
注5 550年ころに、アリウス派僧侶ヨルダネスが、東ゴート王国の学者カッシオルドスの著書を要約したものによれば、ゴート族はスカンジナビア半島を発祥とする民族で、その後バルト海を渡り、ゲルマニア(現ドイツ、ポーランド)に住んだ。
この説は現代では否定的だが、いずれにせよ、彼らがアリウス派の信仰を持っていたことは確かだ。
アリウス派は325年の第一回ニカイア公会議において、現在の三位一体のキリスト教義に反する者、異端として排除された。アリウス派ではイエスは人であり、被創造物であるとしている。
注6 ウイリアム・ハズリットは1817年の「シェイクスピア劇の人物」でキャサリンとウルジーの描き方は見事だが、実在のヘンリー八世は嫌悪すべき人物だったのに、ここでは良く描かれすぎていると書いた。
注7 イギリスで1455年から1485年まで続いたランカスター家とヨーク家の争い。
全者が赤バラ、後者が白バラをそれぞれ家紋にしていたので、ばら戦争と呼ばれる。
結果は、ランカスター家の一族のチューダー家のヘンリーが、ヨーク家のリチャード三世を倒し、チューダー朝を開いてヘンリー7世として即位、ヨーク家のエリザベスと結婚することで終結した。
注8 21歳のゲーテは牧師の娘、フリーデリーケに恋をした。
足しげく留学先のストラスブールから彼女の住むゼーゼンハイムに通い詰めたゲーテだったが、その恋は一年で終わってしまう。
その理由は定かではないが、「マルテの家の庭」でのファウストとマルガレーテの会話にそのヒントがあるようだ。
おそらく、彼女の信仰こそ一番大切だという思いと、ゲーテの内なる声、「ただこの感情のみが一切だ。」という、やがて「ウエルテル」を生み出す彼の天才が二人の仲を引き裂いたのだろう。
一端の天才だと自負していたゲーテだったが、彼女の前ではその彼の物分かりの良さも、うぬぼれと目先だけの薄っぺらに過ぎないことを自覚せずにはいられなかった。
彼はこうファウストに言わせている。「ほんとうの無邪気さや無垢というものは、ちっとも自分自身を知らないのです。かえって、自分の神聖な価値を自覚しないのです。」
これが彼の永遠の女性に求めるものだろうと私は思う。それ故、彼女こそマルガレーテのモデルだったと言われているほど、可憐な少女だった。
その時は己の天才の声に従ったゲーテだったが、彼女を失った後悔の念は強く、それが、あの名作「野ばら」を生んだと言われている。
そしてその野ばらで歌われているのは赤いバラである。
もちろん、シェイクスピアがそのことを知るわけがなく、彼は単にランカスター家の赤いバラがヨーク家の白バラを凌駕したことを伝えたかったのだろう。
2024年10月 キャンバス 油彩 910ミリ×1167ミリ
☆