☆NO19、サウロの回心(自分の足で立ちなさい)。
この絵は使徒の働き9章を参考にしました。
1節、さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
2節、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるように頼んだ。それは、この道(キリスト教)の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いてくるためであった。
3節、ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
4節、彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
5節、彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6節、立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならいことが告げられるはずです。」
7節、同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
8節、サウロは地面から立ち上がったが、目が開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
7節の声は、注に、あるいは音、とあるので、イエスの声とわかったのは、サウロだけという、解釈もできます。
聖書には馬から落ちたとは書いてないのですが、彼らがダマスコに行った目的は2節にある通りですから、謂わば罪人を捕まえるような手法を取ったと考えられるので、私も馬で行ったと思います。
光に関しては、3節に巡り照らした、とあるので、スポットライトのような光の柱が、彼らの周りを動き回ったと私は解釈しました。
それによって馬が驚き、走りだし、逃げ場を失って立ち上がり彼は落馬したと思います。
聖書巻末の地図を見ると、ガリラヤ湖の北シリアにあるダマスコまでの道のりはおそらく身を隠すべきものがない荒地であったと想像できます。そこで自分が迫害しているイエスといきなり向き合ったわけですから、逃げ場のない荒地で逃げ惑った末に地に倒れたサウロのその時の恐れや驚きは幾何であったことでしょうか。
迫害者であるサウロが、大いなる主の臨在の前に平身低頭し、回心に至ったとしても、不思議ではありません。
しかし、私はこの一瞬の出来事で、サウロが回心し、あの偉大な宣教者パウロにすぐさま生まれ変わったとは思えませんでした。
第二コリント12章7節には、そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。とあります。
私はこのパウロに与えられた肉体の棘(トゲ)こそ、彼を偉大な宣教者のひとりに建て上げた原動力の一つだと思いました。
これが具体的に何であるのか、諸説あるようですが、私はそのとげとは、彼の足にあったのではないかと思います。
その理由の一つは、使徒の働き26章14節にイエスの言葉としてこうあります。
サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。
イエスは十字架に掛けられた時、頭に茨の冠をかぶせられました。彼の言うとげとは、この茨の冠のことではないかと私は思いました。棒とは文字通り、イエスの掛けられた十字架を指します。当時はまだクリスチャンという言葉は生まれていなかったので、イエスは自分の十字架を負って来る群れをこう表現したのではないでしょうか。
そして、それを蹴るあなたの足には棘が刺さり痛みますよと、サウロに悟らしたと私は推測しました。
そう理解すると、彼の行動の幾つかに該当する箇所が出てきました。
第一は、彼が最初の殉教者ステパノを殺すことに同意していながら実行していない点です。何故でしょう。
彼は石打の刑によって殺されましたが、石を投げるという行為は、腕の力はもちろんですが、スムーズな体重移動が必要です。投手の投球フォームを見ても下半身が重要なのがわかります。もしサウロのどちらかの足に支障があったならこの刑の実行に加わることはできなかったでしょう。
同僚から「サウロお前はいい。我々の服を見張っていてくれ。」と頼まれたとしたら、彼の自尊心は大いに傷ついたことでしょう。
私はその名誉の挽回のため、私費を使ってダマスコまでの遠征を企てたのではないかと思います。
これには、前述の如く、足の不自由さを補うこともあって馬を使いました。当時の馬は非常に高価な乗り物でもあり、権力の象徴でもあったと思います。そして、それをイエスが空から打った訳です。
8節にそこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。とあるので、その後の彼は痛む足を引きづりながらダマスコの町に入ったと思われます。サウロとしての全ての計画がそこで終了しました。
その後、回心したサウロを人々が匿う訳ですが、当然敵対するものが現れて彼は命を狙われます。その時の様子を使徒の働き9章25節ではこう記しています。
そこで、彼の弟子たちは、夜中に彼をかごに乗せ、町の城壁伝いにつり降ろした。五体満足な男なら、ロープ一本あれば城壁伝いにしたに降りることは可能だったでしょう。かつて自分が迫害しようとした人々によってかごに乗せられ、つりさげられて命を助けられたサウロの心境が、いかに惨めなものであったか想像出来ます。
同時に、かつての迫害者からイエスの忠実な弟子に彼の心の移り変わりを見る思いがします。
彼の足の不自由さについて言及してと思われる箇所がもう一つあります。
使徒の働き21章35節にこうあります。パウロが階段にさしかかったときには、群衆の暴行を避けるために、兵士たちが彼を担ぎ上げなければならなかった。
サウロからパウロに改名して熱心な福音伝道を行った結果、怒り狂った群衆から殺されそうになり、当時のローマ軍の千人隊長が仲裁に入った時の様子が生生しく書き記されています。
パウロは平地では、さほど苦もなく歩けたようですが、流石に階段となると、おぼつかなく、見かねた兵士が咄嗟に助けに入ったのではないかと私は思いました。
ところで、この足の弱さをパウロは誇ると書いています。(第二コリント12章8節9節)主の力は弱さのうちに完全に現れるからである、とも書かれています。
短期間に主の恵みを十分に受けるほどに変えられたパウロの姿がもう、ここにあります。具体的にはどうだったのでしょう。
ここからは、私の推測です。足の弱さゆえにパウロが受けたであろう主の恵みは、実際はこんなものだったのではないでしょうか。
足が弱いということは、当時の交通手段が殆ど徒歩であったことを考えると、決定的に不利です。パウロが三度もこのとげを去らせてくださいと、祈ったとあるので、その切実さが伝わります。しかし、イエスの答は、このままでよい、でした。
パウロはそれを受け入れました。そこが彼の偉いところです。で、実際にどう宣教活動に影響が出たかというと、日程が余分にかかり、費用が増えました。
ガラテヤ書4章には、おそらくその時の同労者に対する感謝の言葉があります。
14節、そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト、イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。
実際に第二コリント11章には幾多の困難や迫害にあったことが具体的に書かれています。
その中で彼は度々、牢に入れられ鞭うたれたと告白しています。おそらく走れば逃げられたであろう場面でも、彼とその同行者たちは簡単に捕まってしまったと想像できます。
しかし、結果的に見れば命まで取られることは有りませんでした。走って逃げた者の中では、途中で捕らえられ、暴徒と化した群衆から撲殺されたものもいたかもしれません。
簡単に捕縛されることで、命の保証は受けられました。裁判になれば、使徒の働きでも書かれているように、宣教の機会も与えられました。
足の弱さ故に逃げることが出来ない身から、イエスの御言葉に従って逃げることをやめた時、イエスの御言葉を伝える偉大な宣教者として、パウロが建て上げられてきたのだと思います。
また彼は迫害にあって、仮死状態になり、生きているうちに天国に行った最初の人でもあります。(第二コリント12章)
この恵みがあまりにも大きいために、彼はこの弱さをおおいに誇ると明言できたのだと私は思います。
ただ描き手として残念なことに、この弱さというものは、絵になりにくいのです。それで、私はパウロの別の一面を絵にすることにしました。
それは第一コリント2章2節にこうあります。
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
パウロはタルソ生まれのユダヤ人で、生まれながらローマ市民でした。当時のローマ市民というのは特別な権利がありました。使徒の働きでも、彼を裁判なしで鞭うちにしようとしたローマの百人隊長が、それを聞いて身を引いた、とあります。
厳格なパリサイ派であり、いわば高等教育を受けた当時のエリートでした。その彼がそれら一切を捨てたと告白しています。
ダマスコ近くの荒野でイエスの声を聞いたとき、それは始まりました。馬は何度も言いますが、当時としては最高級の乗り物だったでしょう。権威の象徴でもありました。その金の鞍から、サウロが落ちて、イエスの御言葉によって変えられた場面を私は描いてみました。
副題の、自分の足でたちなさい、は主が召しの時に言われる言葉ですが、この場合は文字通り、その弱い足で自分で立ちなさい、とイエスが言っていたと思います。
そして、主の言葉に従って歩いた時、彼は計り知れない多くの恵みを受けました。それは、2000年経った今日でも、教会で語り継がれている事実を見れば明瞭です。
(50号キャンバス1167ミリ×910ミリ)2014年12月
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