No 81 ユダ、イスカンデル☆
(この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれます。)
この絵は聖霊による私の話に基づいて描かれました。
さて、イエスがイスカリオテのユダに会計を任せた後に、彼が金を浪費しているという噂がイエスの耳にはいった。
それで、イエスは彼を呼び出してこう言った。「あなたについてこんなことを聞いたが、もし本当なら、もうお金を任せておくことは出来ないから、会計の報告書を出しなさい。」
ユダは心の中で言った。「先生にこの仕事を取り上げられるが、さて、どうしよう。前の仕事に戻るのは恥ずかしいし、土を掘るのには力がない。ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、彼らがきっと私をかばってくれるだろうから。」
そこで、彼は、トマスを呼び出してこう聞いた。「先生から、いくら借りているのですか?」トマスは、「5デナリ。」と答えた。するとユダはこう言った。「ほら、5デナリだ。これを先生に返しなさい。」
それから、ピリポにも同じことを聞いた。彼は、「3デナリ。」と答えた。こうして、弟子たちに借りた金額を聞いて皆に払ってやった。
さて、それから数日して、イエスは弟子たちを集めてこう言った。「この中に、皆の金を浪費している者がいる。さて、私はその者にどうしたらよいだろう。」
皆が顔を見合わせ驚いていると、ユダがイエスの前に体を投げ出して言った。「先生、それは私です。どうか、この罪深い者に罰を与えてください。」
すると、トマスがイエスの前に進み出てこう言った。「先生、我々は皆、主の前では罪人です。彼を罰するなら、私も罰をうけます。」
すると、それを聞いて、ピリポも言った。「先生、私も同罪です。彼一人を罰しないでください。彼は私の友人ですから。」すると、弟子たちが次々とそういい始めた。
それを見てイエスも言った。「ユダよ。私もあなたを罪に定めない。あなたは皆の金でいい友人を得たのだから、あなたは良いことをしたのです。しかし、あなたが私の元に留まるには、足りなくなったお金はあなたが償わなければなりません。幾ら足りないのですか?」
ユダは答えた。「銀貨三十枚です。」イエスは答えて言われた。「それは、私に関することで支払われます。あなたにそれを教えてくれる者があらわれます。」
弟子たちもユダもイエスが言われている意味がわからなかった。しかし、ユダは心の内に言った。
「ああ、なんてことだ。先生は私を罰してくれたらよかったのに。彼らの友情は私が先生の金で買ったものだ。 その上、先生の愛を失ったらどうしよう。それに、私が皆の元に留まるには、お金が必要だ。」
そして、深くため息をついてこうも言った。「わたしに金儲けを教えてくれる人とは、誰だろう。」
ここで、このユダについて少し説明すると、彼はいわゆる自由人の会堂に属するクレネ人で、ギリシャ語が話せるのでイエスに呼ばれた。
それを勧めたのはイエスの母マリヤで、彼女の家はナザレの隣町セフォリスに出稼ぎに来ている異邦人と付き合いがあったからである。
イスカリオテの名前は、彼の本名がアレキサンデルであることに由来し、ユダという名前はユダヤ人社会での彼の仕事上の通称である。
しかも彼は大言壮語する癖があって、イエスの教えをギリシャ語で全世界に広めると言いふらしたので、皆から、お前はアレキサンダー大王か?と言われて揶揄されていた。
このアレキサンダー大王のアラビア語読みイスカンダルがヘブライ語に訛ってイスカリオテのユダと呼ばれたに過ぎない。
彼は頭が良かったので、会計係を任されたが、大王とは似ても似つかない小心者で、しかも、嫉妬深かった。そして、ヨハネとは仲が悪かった。
しかし、イエスは彼のギリシャ語力と熱心さを高く買った。ペテロほどの統率力はなかったが、相手を納得させる交渉力があって、旅先では何かを重宝する存在だったからである。
彼は仕事を通して未亡人だったマリヤに近づき、やがて彼女に魅了されていった。そして、イエスが伝道を始めると、当然のごとく彼に従った。
イエスに従うとやがて、彼の優美な物腰に魅了されていった。ユダにはリベルテン(自由人)らしい美しいものを無条件で愛でる癖があったし、美しい物を買い求める浪費家でもあった。
美しい装飾品を見つけると買い求めて、それをマリヤに贈った。マリヤはすなおに喜んだ。イエスはそれを見て見ぬふりをした。
それは、マリヤが自分を妊娠したことで、ヨセフと楽しい婚約時代を過ごせなかったことへの償いの気持ちがあったからだ。
それで、十二弟子の中で唯一、ユダはイエスが選んだ弟子ではなかったが、イエスはユダに会計係を任せてペテロに次ぐ地位を与えたのも、マリヤへの親孝行の気持ちからだった。
日常における彼の仕草から、彼がマリヤとイエスをどれほど愛しているか、よく分かっていた。
しかし、ある事件をきっかけに、ユダの嫉妬心がマリヤへの恋心に火をつけてしまった。
それは、イエスがエリコからエルサレムに上っていく途中で起こった。ヤコブとヨハネの母がイエスの前にひれ伏して、「お願いがあります。」と言った。
イエスが訊くと、彼女は、「私のこの二人の息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左に座れるようにお言葉を下さい。」と願ったのである。
イエスは彼らをたしなめたが、そのことが弟子たちに伝わると、彼らは二人のことで腹を立てたのである。
弟子たちは皆、イエスがいよいよエルサレムに上り、王としての役割を果たしてくれると期待していたからであり、その暁には、自分たちが一番よい役職を得たいと切望していたからである。
そして、ユダが腹を立てたもう一つの理由があった。それは、ヨハネとヤコブの兄弟が、その申し出に彼らの母親を用いたことと、ふたりの内どちらかが、マクダラのマリヤを妻に迎えることになるという噂を聞いたからである。
純真なユダには、それが耐えられなかった。当然のごとく彼はこの兄弟に嫉妬した。彼は誰かにこの胸の内を話したいと思ったとき、思い当たる女性はイエスの母、マリヤしかいなかった。
それで、イエスがベタニヤのシモンの家を出た時、彼はイエスの後を追ってエルサレムのマリヤの家にイエスが入っていくのを見届けた。
イエスが出てきたら、すぐに家に入ってマリヤに自分の胸の内を話すつもりでいたが、いつまでたってもイエスが出てこなかった。
ユダは諦めて皆のいる宿に戻って寝た。すると、夢の中にシモンの家でイエスの足に香油を塗っているマルタの妹、マリヤの白い裸身が現れた。
その横にサタンが居て彼にこう言った。「お前はイエスの母マリヤと二人きりになりたいのだろう?その願いを叶えてあげよう。
今晩、イエスはマリヤの部屋に泊っている。彼女はイエスに災いが起こる事を知っている。その覚悟が出来ていると彼に言ったのを私は聞いた。
全ては私の手順通りだが、ひとつお前にも分け前をあげよう。夜が明けたら、祭司長たちの所へ行って、彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか?と訊け。
彼らはお前が必要な金をくれるから、それを自分の財布に入れなさい。その後、イエスは過ぎ越しの食事をある家の二階でするので、お前も必ず行くように。
その時は私がお前に中に入るから心配はいらない。彼はいずれ捕まるから、お前は彼らの仕事を早めに終わらせる手伝いをするだけだ。
彼は全て知っている。彼らはイエスを捕らえて、祭りのあいだは牢に閉じ込めておくだけだ。ピラトはユダヤ人とはもめごとを起こしたくないので、祭りが終わったら彼をすぐに釈放するだろう。
イエスが留守のあいだ、彼を心配するマリヤを、お前がその金で思う存分に慰めてやったらいいではないか?お前はそのために今まで彼についてきたのだろう?」
彼は夢の中で大きく頷いた。そして、心の中でつぶやいた。「神よ、もし私に咎があれば、雄鶏が鳴く前に私を起こしてください。あなたに祈りたいのです。」
彼は明け方に雄鶏が鳴くのを聞いたが、起き上がれなかった。サタンが彼の上に乗っていたからである。
朝の光を浴びて彼がやっと起き上がった時、サタンは消えていた。彼は祈ることなく、言われたとおり祭司長たちの所に行った。
その後のことは聖書に書いてある通りで、イエスの十字架での死は、我々に救いをもたらしてくれたが、同時に幾つかの疑問を残した。
その一つは、神はユダを見捨てたのかということだ。それには、イエス本人がこう答えている。 「たとい、人の子をそしることばを使うものがあっても、赦されます。」(ルカ12章10節)
しかし、ユダは、イエスが捕らえられ、罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。
しかし、彼らは、「わたしたちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って首を吊った。(マタイ27章3〜5節)
その後、祭司長たちは相談して、その金で陶器師の畑を買い彼を埋葬し、ユダがクレネ人であるとわかると、そこを旅人と異邦人の墓地とした。今でも英語でPotter’s fieldは無縁墓地を意味すると言う。
ユダの自殺の動機について、マタイは重要なことを書き落としている。ユダの言った、罪のない人の血、とはイエスを生んだ母マリヤの血のことを彼は言ったのである。
それを知らない祭司長たちが、何の意味か分からず、私たちの知ったことか、と言ったのも無理もない。ユダにとって、もはやマリヤに会わす顔などなく、銀貨三十枚は不要になり、彼はすべてを失った。
その結果、彼はイエスの赦しよりも先に自ら命を絶ってしまったのですが、実は神の計画では、彼には驚くべき救済の道が残されていました。
マルコ15章20節にこうあります。〜それからイエスを十字架につけるために連れ出した。21節 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、田舎から出てきて通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、無理やり彼に背負わせた。
神は驚いたことに、ユダが担ぐべきイエスの十字架を、彼の代わりに、故郷から出てきたシモンというユダの父親に担がせたのです。
ここにはっきりと、アレキサンデル(ユダの本名)の父シモンと書いてある。(ヨハネ13章26節)なんという皮肉な結末だろう。
もし、ユダが、イエスに赦しを求めて、彼の前に身を投げだしたとしたら、彼がこの役目を負わされた筈だったのです。
イエスはこう言っています。「自分の十字架を負ってわたしについて来ないものは、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10章38節)
それ故、正にユダこそが、イエスに代わって十字架を背負うにふさわしい人であり、そうしていれば、後世に、裏切り者、という代名詞のような自分の名前を残すこともなかったでしょう。
彼はペテロ以上に、立ち直った人の代名詞として、その後の使徒のリーダー的存在になれたばかりか、堪能なギリシャ語を生かして、その後に召された、パウロ以上の働きをしたかもしれません。
しかし、ユダ、アレキサンダー大王(イスカンダル)と揶揄された小心者の夢は、大胆に神の前で悔い改めることをせず、自殺という、短絡的な解決策で、その一生を終えてしまいました。
彼の生き様を見てきたヨハネは、こう書いています。わたしたちの大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル人への手紙4章15節16節)
最後にイエスが何故、ユダを裏切り者と明言したのか、個人的な見解を述べてみたいとおもいます。
イエスは全ての福音書に書かれている通り、人類の救済のために十字架で死ぬためにこの世に来られました。
ですから、この死の原因が仲間の裏切りであろうと、人々の無知であろうと大きな問題ではなかった筈です。
人の子を侮る罪は、赦されます、と明言しているのですから。それでは何故、最後の晩餐の際にユダに裏切り者の汚名を敢えて着せたのでしょう。
ここまで読まれた方なら、イエスがユダを裏切り者として非難したのは、母マリヤに対する横恋慕が原因であることにお気づきでしょう。
イエスは聖霊を受け入れ、この地上に肉をもった人間として自分を生んでくれた母マリヤをとても大切にしていました。
特に養父ヨセフが亡くなってから、イエスの役割には息子としてのほかに、彼女を守る夫としての役割も加わりました。
イエスは神の子として天使に守られていますが、マリヤはそうではありません。そして、人間には肉欲という、生きていくために必要な欲があります。
そして、この肉欲による様々な出来事を見てきたイエスにとって、未亡人であるマリヤに近づいてきた若いユダという存在は日増しに悩みの種になっていったことでしょう。
この絵のように、贈り物でマリヤの関心を引こうとするユダを、複雑な思いで見守っているイエスの姿を、私は度々思い起こしました。
イエス自身はマクダラのマリヤやベタニヤのマルタとマリヤ姉妹の彼への恋心を、強い意志でかわすことが出来ましたが、母マリヤに近づいてくるユダについては無力でした。
すべての成り行きをユダの自制心に頼るしかなかったのです。イエス自身も最後の晩餐の席で詩篇41章9節を引用してこう証しています。
わたしが信頼し、私のパンを食べる親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。
かつて、彼らが和やかに食卓を囲んでいた様子が見て取れます。
また、8節には、邪悪なものが、彼に取りついている。彼が床に着いたからには、もう二度とおきあがれまい。
これは、最後の晩餐の前日のユダの様子を表しています。そして、その預言通り、ユダはその肉欲の誘惑に負け、サタンに身を任せ、御子をマリヤから引き離す取引に加担してしまいました。
イエスが強い憤りをもってユダを糾弾したのは、御子としての愛の現れであり、その後のゲツセマネの祈りと苦しみは、マリヤとの惜別の祈りであったと私は確信しています。
イエスは聖書が伝える通り、常に人の子と神の子の両方の特性を保って公生涯を歩まれました。
しかし、最後の晩餐においては、人の子、マリヤの子としての、ご自分の立場をより鮮明に表していたと私には思えます。
それは、全能たる神が唯一罪人である人の子として過ごすことの出来る最後の瞬間に、マリヤの子としての思いが昂ぶり、抑えようもなくユダに向かって吐き出した言葉がこの「裏切り」と言う言葉だったのでしょう。
イエスがユダと、マリヤとの関係について紳士協定を結んでいたかどうかは分かりません。しかし、彼が最後の晩餐において、マリヤの子であったことは間違いないでしょう。
イエスは明らかに我々への賜物、すなわち永遠の命の先駆者として、一人の人間として死なねばならなかったのですから。
それ故、神の教えに反して、敢えてユダを呪ったことにより、彼は罪人の一人に数えられた、という聖書の言葉が成就し、(ルカ22章37節と23章43節、マタイ5章22節。)又彼自身も十字架上の最後の言葉、「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と言って、神の子であることを否定し、「父よ、わが霊を御手に委ねます。」と言って、一人の人間として天に凱旋されました。
そして、後にマリヤを引き取ったヨハネが書いているように、そんな人間を愛したのがイエスです。何故なら、神は裏切り者のユダにも回復の道を備えていてくれたからです。
その道を絶つ自殺と言う行為をキリスト教が強く否定しているのは、全ては益としてくださる、という神の教えを信じているからです。
その後、マリヤはユダが自殺して葬られたことを知って、その墓に行った。そして、墓の傍らにユダから贈られた物を全て葬った。
その中に赤メノウの首輪があり、それが血のように見えたので、彼女はそこを「血の地所」と呼んだ。
そして、イエスの言葉を思い出し、ユダが死んだのは自殺ではなく、この地所に真っ逆さまに落ちて砕かれて死んだと、皆に言うようにペテロに頼んだ。
それは、自殺が神の言葉に反すると思ったからである。それで、それ以後、この場所は、彼らの国語でAkeldama,(血の地所)と呼ばれるようになった。
また私が聖霊に導かれてこの事を証したのは、ユダがユダヤ人だと思われて、世界中のユダヤ人がキリスト教徒からもうこれ以上、不当な迫害を受けないためでもあります。アーメン
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