ルカの数式

by Futaro

ルカの福音書10章にこんな話があります。
38節、さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
39、 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわってみ言葉に聞き入っていた。
40、 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために落ち着かず、身元に来ていった。
「主よ。妹が私にだけにおもてなしをするのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。
42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

短いエピソードで、一見してわかりやすいので、度々説教に取り上げられていて、私も何度かユーチューブで聞いたことがあります。
しかし、注意して読んでみると、いくつか、不思議なことが分かってきます。まず、第一にイエスを家に迎え入れたのは姉のマルタなのに、イエスが話したのはマリヤです。
この二人とは初対面のはずなのに、なぜイエスは迎え入れたマルタを放っておいて、マリヤの所に行ったのでしょう。
当然、マルタが怒って、イエスの身元にきて文句をいいます。
それに対するイエスの受け答えが41と42節ですが、マルタに対して、あなたはいろいろなことに気を使っているが、必要なことは一つだけで、
それをマリヤがしているので、彼女からそれを取り上げてはいけません、と逆に文句を言ったマルタをたしなめて話が終わります。
何か、わかったような、よくわからないような、後味のすっきりしない話です。一体、ルカは何が伝えたくてこの話を書いたのでしょう? 
このことは、ギデオンの英語版を読むとはっきりします。
38節にはこう書かれています。Now it happened つまり、それが起こった、とある出来事itを主語にして物語を始めています。
ルカが着目した「ある出来事」とはなんだったのでしょう。
日本語訳を読む限り、出来事と呼べるようなドラマはなく、ただ二人姉妹の家にイエスが招かれて、マリヤに、「必要なものは一つだけです。」と話しただけです。
不思議なことに招き入れたマルタはのけ者扱いで、身元に座って話を聞いていたマリヤが褒められた、というのが事の顛末です。
場所はエルサレムの近くのベタニヤで、イエスはこれからエルサレムに入城し、最後の一週間を迎える重要な時期です。
何が起こったのかは、まず、この話の発端である、マルタがイエスを家に迎え入れた理由を考える必要があります。
38節に喜んで、とあるので、マルタは前もってイエスの来るのを待ち望んでいたことが分かります。
つまり、もしマルタがイエスを招待した理由が単においしい料理や飲み物の提供だとしたら、それらは前もって十分に準備されているはずだから、
それらを自分一人に押し付けられたからと言って文句を言うのはおかしなことです。それに、イエスがそれを求めたとは思えません。
何故なら宣教当初こそ、ご自身を「食いしん坊の大酒のみ」と言われていると言っていますが、イエスはその教えの中で、何を食べようか、
何を飲もうかと心配したりしてはいけません、と言っていますから、彼を招待したマルタにも、余計なもてなしは必要ない、と言っているはずです。
さらに、彼女の家に入ったのはイエス一人であり、弟子たちが一緒にいたという記述はありません。
もしヨハネかペテロが同席していれば、彼らの福音書(ペテロの場合はマルコの福音書)にその記述があるはずです。
イエスがべタニアに来たのは、ちょうどエルサレムに上る途中で何人かのパリサイ人がイエスに危険が迫っていることを伝えています。
その時、彼はこう言っています。(ルカ13章)「私は病人を癒し、三日目に全うされます。だが、私は今日も明日も次の日も進んでいかなくてはなりません。
なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」それで私はマルタもイエスにその情報を伝えたくて、彼を家に招いたと見ています。
彼女がその情報を知りえた理由は、この後にマリヤが一人、パリサイ派のシモンの家に行く話があります。
シモンもマリヤのことを知っているので、この姉妹はパリサイ派と繋がりがあったことがわかります。
おそらく彼女たちはパリサイ派が開く宴会などに頻繁に出入りして、そこで情報を得たと思われます。
彼らは今でいうコンパニオンや、高級クラブのママという役割だったのでしょう。
しかし、イエスはこの時、すでに自分に天の父から与えられた任務を全うする日が近づいていたことを知っていて、彼らの助言を無視しています。
では、マルタの助言を必要としないなら、何故イエスは彼女の招きに応じたのでしょう。理由はイエスの行動を見ればわかります。
彼はすぐマリヤの元に行っていますから、彼がマルタの招きに応じた理由はマリヤにあります。
しかも、マリヤはイエスから彼女は良い方を選んだのです、と褒められています。このあたりの描写は、英語版40節にはこう書かれています。
But Martha was distracted with much serving, 和訳は、ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、とserving を「もてなし」と訳しています。
訳者の頭には、マルタがイエスをもてなした、という固定観念があるので、自然とこう訳したわけですが動詞のserve には供給するという意味があります。
インターネットユーザーにはお馴染みのサーバーは、文字通りインターネットを提供する業者のことです。つまり、情報提供者の意味もあるのです。
これはルカのマルタについての描写で、ルカはマルタを情報提供者として描いて 彼女の話を聞こうとしないイエスに苛立っているマルタを上手く描いています。
その後、続いてマルタはイエスに対して同じ言葉を使っていて、こちらは「もてなし」と読めます。
何故なら、マルタはイエスを自分の側に引き寄せたくて、そのためには、妹を手伝わせるのが一番手っ取り早いと判断したからです。
このあたり、マルタのしたたかさを感じさるルカの同じ単語を使った上手い描き方です。それに対してイエスの答えに、serve という文字はありません。
彼がそれを必要としないからです。その代わりに、many things. にあなたは気を使っている、と言っています。
彼がこの言葉を使う時は、人間の行い全般を指していますから、先のマルタのイエスに対する苛立ちのことを示しています。
42節で、必要なものは一つで、マリヤはそれを選んだ、と話しを締めくくっています。イエスの言う一番大切なものは、4つの福音書に書かれています。
マタイでは22章の37節から39節にこうあります。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。」これが大切な第一の戒めです。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
この話の前は有名な「良きサマリヤ人」の話ですから、ルカは上手く、二つの話を繋げてイエスの教えを説いています。
しかし、マリヤに話した内容が何故、主を愛せよ、なのかルカはそこまで書いていません。
そこで、話を今一度、最初に戻して、Now it happened を手掛かりにして、ルカの福音書をもう一度読んでみます。
14章1節に同じ言い回しがあります。Now it happened, as He went into house ここではイエスが安息日にパリサイ派の家に入り、水腫を患っている人を直した話です。
次に17章11節にも、同様な言い回しがあります。ここでは、イエスがある村にはいると10人のツアラトに冒された人を癒す話があります。
医者であるルカにとって、イエスの癒しは特に関心があったようで、彼はその話の書き出しによくこのNow it happened,を用いています。
彼のこの書き出しを見れば、当然この話しにも癒しがあったとみることができます。しかし、ルカはそれを書きませんでした。
何故でしょう?そこで、私はこの話はルカが我々クリスチャンに向けた、一つの設問だと解釈しました。
10章にあり24章ある全体の半ばですから、いわば中間テストといった意味合いでしょう。
いままで、いろいろ書いてきたけど、あなたたちがどの程度イエスを理解できているのか、ひとつテストしてみましょう。と医者であるルカは考えた訳です。
というのも、医者になるためには数々のテストに合格しなくてはならないので、彼がこう考えたとしても不思議ではありません。
言葉で書くとわかりづらいので、私はこの話を簡単な数式にしてみました。3×A+B=12 ABに数字を入れて式を完成せよ。
3は神である三位一体を表します。AとBはマルタとマリヤを意味します。12は12使徒で、世界宣教の元となる数にしました。
Aに1を入れればBは9になります。2を入れるとBは6になります。簡単な数式です。要するに答えは一つではありません。
そして、その中に本当の答え(数字)があります。それを見つけるには、No46と58を読むとヒントが隠されています。
さらに、聖書的に、この問いの意味するものは、ルカの文章に何かを付け加えないと、答えが出ないということです。
つまり、ルカは自分の話になにかを付け加えて、イエスの一番大切な答えを導けと我々に問いかけていると私は解釈しました。
そして、私なりの答えを作ってみました。その答えはこちらからどうぞ。マリヤとマルタ

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