☆NO85 魔女の厨と天上の出来事
この絵はヨハネによる福音書1章5節、光はやみの中に輝いている、やみはこれを理解しなかった。(新改訳では、打ち勝たなかった。)を基に描きました。
ただし、題材は聖書からではなく、これを基にしたドイツの作家ゲーテの戯曲ファウストの第一部の魔女の厨と第二部の最終場面を描きました。
ファウストの物語は16世紀に実在したゲオルグ、ファウストという占星術師、詐欺師が悪魔と結託してあらゆる魔法を使いながら、人々を惑わしていくという物語で、ゲーテは幼い頃にこれを人形劇で見ています。
ゲーテはこの使い古された民衆劇に新たにマルガレーテ(グレートヒェン)というヒロインを加え世界的な名作に仕上げました。
私が今回この戯曲を絵の素材に用いたのは、そのメインテーマに聖書が用いられていたからです。
まず、冒頭、ファウストと悪魔メフィストフェレスと出合う場面に、ヨハネの福音書第一章一節を彼がドイツ語に訳す場面があります。
彼はこの重要な第一章一節を字義通り訳さずに、はじめにおこないありき、と誤訳してしまいます。
神のことばを自分勝手に言い直してしまうことは、創世記3章で、エバが蛇に答える場面と同じです。
1節で蛇は女の知識を確かめるためこう聞きます。「あなたがたは、園のどんな木からも、食べてはならない、と、神は、ほんとうに言われたのですか?」
すると、女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木について、神は、あなたがたは、それを食べてはならない。
それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ、と仰せになりました。」しかし、神はアダムにこう言っています。
2章16、17節。神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。
それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」何処が違うかと言うと、神は、「それに触れてはならない。」とは言っていないのです。
賢い蛇はこのエバの言葉を聞いて、彼女が直接神のことばを聞いていないことに気が付きます。
そして、こう言います。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
そこで、神のことばを直接聞いていなかった女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで、女は自分の意思でその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
聖書で繰り返し述べられている人間に原罪(神のことばから外れること)が入った瞬間です。
ゲーテはこの話をそのままファウストとメフィストフェレスの出会いに用いています。
書斎で彼が神のことばから外れた直後にメフィストフェレスは、むく犬の姿で現れます。
しかし、彼の本質は蛇ですから、私は蛇を彼の頭上に描きました。そして、神の道から外れたこの老学者と賭けをします。
その賭けとは、ファウストがあらゆる行いの末に、ある瞬間に向かって「まあ、待て、おまえは実に美しい」と叫んだら、きみはおれを縛り上げてもいい。
わたしはきみの奴隷になろう、そのかわりそれまでは、きみはわたしの家来になるのだと。
それで、ゲーテはこのメフィストに「私は、常に悪を欲して常に善をなす力の一部です。」と自己紹介させます。
それは彼が全くの悪ではなく、善の一部であることで今後、善行を求めるファウストと共に歩むことが出来るためです。
そして、早速メフィストは、エバを魅了した目に麗しい果実をファウストに見せるため魔女の厨に行きます。
そこで、ファウストに行動力を与えるため魔女の秘薬を用いて彼を若返らせます。
その時、魔女の厨で立ち上る煙の中に美しい女の幻を見たファウストのセリフ
「エロスよ、おまえの一番早いつばさを貸して、いますぐおれを彼女のそばへ連れて行ってくれたまえ。こんな美しいものが地上に存在するというのか!」
は、はじめに行いありき、と神の言葉を誤訳したファウストが、若返った肉体の趣くまま、すぐさま行動に走ろうとする様を見事に表しています。
メフィストも、創世の初めに地が茫漠として何もなかった時から闇の中にいて、神の創造の様を見てきたので、こう答えます。
「もちろん、存在しますとも。神が六日のあいだ創造に苦心して、最後に自分ながら、素敵!と叫んだくらいだから、ちっとは気のきいたものだってありますよ。
さしあたり、堪能するまで、とくとご覧ください。きっといまに、そんな可愛い子をみつけてあげます。」
私はこの言葉に100パーセント同意します。何故なら、罪の報酬は死であるのに、人類が今日まで存在することが出来たのは、女性が美しく、また子を産むことが出るからであり、それは、女性を造った神の祝福に他なりません。
それで、若い肉欲に捕らわれたファウストはメフィストの思惑通り、街で出会った可憐な少女マルガレーテを誘惑し、神の道から逸れた二人は共に悲劇へと邁進してしまいます。
私はファウストのモデルにゲーテ本人を用いました。何故ならこのファウストはゲーテ自身であり、20代から死の間際まで60年の長きにわたって自分の心血を注ぎ込んで書き続けてきた代表作だからです。
さて、この絵の説明をすると、二匹の尾長猿は、現世を代表しています。
火にかけられた大鍋には、薄い粥が入っており、それをゲーテはシラー宛の手紙の中でこれを「ドイツ大衆を接待する乞食粥」と言っています。
つまり、この薄粥はつまらぬ、無内容な、水増しした通俗小説を示している訳です。これを一匹がうまそうに舐めています。つまり、薄っぺらの娯楽小説を好む大衆は猿ということを示しています。
もう一匹は地球儀で遊んでいます。これは、自身の楽しみのためならなんでもする金持ちのグローバリストを表しています。
この地球儀はガラス製で猿は遊びに夢中になってやがてそれを落として壊してしまいます。
左端の魔女が持っている瓶に若返りの秘薬が入っています。魔女たちは、この薬の効き目を知っているので、早くその結果を見たくてうずうずしています。
マルガレーテはそのあと、ファウストから密会のためにもらった眠り薬であやまって母を死なせてしまい、彼との間に出来た子供も水死なせた罪で牢獄に捕らえられます。
「恐ろしい斬首台にわたしを引っぱっていきますわ。わたしの首にひらめく白刃が、見ている人々の首にひやりと冷気をあてる。」
これは実際に起こった事件で、スザンヌ.マルガレータ.ブラントという嬰児殺しの女が1772年1月に処刑されたのは、ゲーテの家のすぐ近くでした。
処刑日の朝、彼女を助けに来たファウストに彼女は、メフィストと一緒に逃げるのを拒み、全てを神に託し、主よ、わたしはあなたの僕(しもべ)です。私をお助けください。と言って、刑場の露と消えます。
この時、ゲーテはファウストにハインリッヒという新しい名を与え、伝説のゲオルグ.ファウストからの脱却を図り、独自のファウスト像を造るべき第二部にとりかかります。
悲劇の第二部は5幕からなる、長丁場なので途中は割愛し、最終場面になります。
この世の善も悪もすべてをやり終えたファウストはすでに老年になり、財政難だった国を救った褒美で宮殿に住んでいますが、老夫婦の住む菩提樹に囲まれた家を自分の別荘にしたくて、メフィストにその老夫婦を立ち退かせてもらうように頼みます。
これは旧約聖書第一列王記21章に記された、アハブがナボテのブドウ畑を妻イザベルに頼んで横取りする故事に倣っています。
手違いから炭火が藁に燃え移り老夫婦は焼け死にます。ファウストが彼らの死に心を痛めていると、そこに不足、罪、憂い、苦、と言う名の4人の女がやってきて、3人は去り、憂いだけが残ります。
ファウストは憂いにこう言います。「おれは世の中を駆け通った。そして、あらゆる歓楽を、むりやり髪の毛をつかんで引き寄せた。そして、この世の中は知り抜いた。
しかし、憂いよ。そっと隠れて忍び寄るおまえの大きな力を、おれは金輪際認めはせぬ。」しかし、憂いはこう言って立ち去ります。
「人間は一生涯、めくらですわ。だから、あなたもめくらにおなりまさい。」それで、ファウストはめくらになります。
しかし、その途端、彼の心の中に明るい光が差し込みます。彼は心の中で理想郷を描きその工事に取り掛かります。
一方、メフィストはファウストがめくらになったのを知り、そろそろ彼の人生も終わりだと思い、死霊たちにファウストの墓穴を掘るように命じます。
目の見えないファウストは、メフィストを工事の現場監督だと思い、できる限りの人手を集めて工事を完成させろ、と言います。
彼はもはや憂いに取りつかれた絶望した老人ではなく、新しい大地、豊かな生活を人々に提供することに希望を見出しています。
死霊たちの墓穴を掘るシャベルの音さえ、喜びの音に聞こえます。
そして、理想郷の完成を夢見て、自由の民と自由の土地に住みたい。おれはかかる瞬間に向かって、「まあ、待て、お前はじつに美しい」と呼びたい、と言って死霊たちの腕に倒れこみます。
それを見てメフィストはつぶやきます。「気の毒なこの男は、最後のつまらぬ、うつろな瞬間を取りとめようとした。おれにはずいぶん手ごわく逆らったが、自然の「時」には、やはり勝てなかったのだ。」
彼は当然、賭けに勝ったと思いました。しかし、ここからメフィストにとって不可思議なことが起こります。
彼はこう言います。「体が倒れて、霊魂が逃げ出そうとしている。急いで、あの血で書いた証文を見せなければならぬ。どうも、当節では、悪魔の手から霊魂を横取りするいろいろな手段があって困りものだ。」
彼はファウストの体から抜け出る霊魂を捕らえることができません。それは、聖書に書かれている通り、闇は光を理解できなかったからです。
因みにメフィストフェレスとは、光を嫌うという意味であり、彼の住処は闇でした。
一方、光と闇の間を放浪していたファウストは、目が見えなくなったお蔭で、心の内に一筋の希望の光を見出し、その光の中に倒れこんだので、光を理解できないメフィストは、もはや彼を見つけることが出来なくなりました。
この絵では、神の言葉がはっきり光と闇を分けています。それでは、ファウストは救われたのでしょうか?
彼の地上での行いはひどいものでした。彼はまず逢引の邪魔をするマルガレーテの兄を刺殺し、さらに、彼女に眠り薬を与えて母を中毒死させる原因を作り、それが元で気がおかしくなった彼女は二人の間に出来た子を水死させ、その罪で彼女自身も斬首台に上ったのです。
さらに、第二部ではメフィストの知恵で国を救済し、その後、豪華なくらしをしながら、なおかつ平和に暮らす老夫妻の家を横取りし、彼らを死に追いやったのもファウストの欲望のためでした。
最後に目が見えなくなって、心の中で、万人が豊かに暮らす理想郷を作り出そうと、メフィストに命じます。
これは、行いによって満足を得られなかった彼が、この世の光を失った途端に、暗闇の中に希望の光を見出した訳ですから、皮肉な結末です。
しかし、さすがにゲーテも、罪にまみれた彼をこのまま、やすやすと救済したら読者の共感は得られないだろうと感じたらしく、彼らしい飛び切りの秘策を考えました。
それは、ファウストを天に上げる間に変えることです。自然科学者でもあったゲーテはここでイモ虫から蛹となって蝶に変態する現象をファウストに応用しました。
劇作者としてすばらしい視的効果だと思います。繭玉は幼い天使達が絹糸で吊り下げています。さらに、イエスの母マリヤも登場させました。
蝶となったファウストは彼女の放つバラの香りに引き寄せられます。
マルガレーテもマリヤに寄り添いこう言います。
「光明にひかりかがやく聖母さま、どうぞお恵み深く、お顔を傾けて、わたしの幸せをご覧くださいまし。むかしお慕い申したお方が、もう何の濁りもなくお帰りになりました。」
マリヤもこう答えます。「さあ、もっと高い空へお昇りなさい。ほのかにおまえを感じながら、その方もついて昇ってくるのだから。」
マリヤを天国の女王と讃える博士も登場します。この場面がルターを生んだドイツ語で書かれたことはわたしには驚きです。
第二部の構成は巨大なカソリック教会のように、あらゆる要素が入り混じっています。
それで、カソリック的に見れば、すべてが完璧にファウストの救済を予見しているようですが、重要なのは、神のことばです。
ルターが言ったように、人は行いによっては救われないのです。マリヤもファウストを天上高く導くことは出来ても救うことは出来ません。
彼女は神ではないからです。この第二部において、天使たちの唱える「たえず努力していそしむものは、わたしたちが救うことができます。」がメインテーマとして、高らかに歌い上げられますが、御霊に導かれている者としては、神の御心を描かなくてはなりません。
そこで、ゲーテの真意を探るため、この劇の終わりのことばに注目してみました。
この劇の最後のセリフは神秘な合唱がこう歌って終わります。
「滅びゆくものは、すべてこれ比喩。及ばざるものが、ここに成し遂げられ、言い難きものが、事実となって成就した。永遠の女性は高い空へ我々を導く。」
ゲーテは劇の結末を神秘な合唱の光り輝く言葉で終わらせましたが、私が御霊に導かれて感じるのは、この輝きは、マルガレーテが牢獄で言った言葉と同じです。
それは、「わたしの首にひらめく白刃が、見ている人々の首にひやりと冷気をあてる。」という言葉です。
つまり、神秘の合唱の意味する本来の意味は、我々は全て罪人も救われた者も、等しく天に引き上げられ、天国の門までは行くことができるが、ここに招かれたからと言って救われた訳ではない、その先は神秘、すなわち神の御手に委ねられる、と理解しました。
そして、我々は皆、そこでイエスに会うのです。マタイ7章21節から23節にこう書かれています。
わたし(イエス)に向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天のおられるわたしの父の御心を行う者が入るのです。
又、こうもイエスは話されました。天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王に例えることが出来ます。
王は、招待しておいたお客を呼びに、僕たちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
それで、王は言った。「宴会の用意は出来ているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
だから、大通りに行って、出会った者を皆宴会へ招きなさい。」それで、僕たちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者は皆集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。
「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。」しかし、彼は黙っていた。そこで、王は僕たちに、「あれの手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。」と言った。
招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。マルガレーテは罪を償い、わたしは主(イエス)の僕です。と信仰告白して救われました。
それ故、白い衣を着ています。天の御国に入れる者は皆、これが礼服なのです。
一方、繭玉から出てきたファウストにはそれがありません。言い難きものが事実となって、ここに成就した、と歌われたのはファウストが神から罰を受け、天から落とされることではないでしょうか。
常に努力するものは、救われる、と言ったゲーテにとって自分の分身であるファウストが地獄に落とされると言うのは、まさに言い難き事です。
しかし、それを最後に望んだのもゲーテ自身だったように私には思えます。
若い頃、自殺願望があったゲーテは「ウエルテル」を生み出し、彼を自殺させることで、彼自身は生き延びました。
晩年には彼は絶え間ない不安と憂いに悩まされたと記録にあります。
しかし、最後の力を振り絞って、自身の分身であるファウストを地獄に落とし、物語を完結し封印することで、その悩みから解放されたのではないかと、わたしは思います。
彼は偉大な劇作家であり、シェイクスピアを最も尊敬していました。ならば、悲劇は悲劇で終わり、それを教訓として救われるべきは、読者、観客でなければなりません。
彼の最後のことばは、「もっと、ひかりを」だと伝えられています。
これが、彼が闇の中でそう言ったのか、光に包まれながら、なお光を求めたのかは、わかりません。神はご存じです。アーメン
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