☆NO56 乗り越えて(希望への道)
四人の福音書はイエスの十字架について簡単に記載していて、そこにはマグダラのマリヤと母マリヤと妹のサロメの三人の女性がいたと述べています。
そして彼らは深い悲しみの中でイエスの言葉をしっかりとつかんでいました。
そして、聖書は預言者を通して、その日に何が起こったのか、遥か昔に述べています。
例えば、イザヤはこう書いています。
(イザヤ書53章2節途中から6節まで)
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
彼はさげすまされ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、
私たちも、彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を、彼に負わせた。
そして、イザヤは、このように希望について説明,します。
(イザヤ書55章11節)
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、
むなしく、わたしのところに帰っては来ない。
必ず、わたしの望む事を成し遂げ、
わたしの言い送った事を成功させる。
そして十字架の後、彼の弟子ヨハネは、ヘブル人への手紙の中でこのように書きました。(10章10節)
このみこころに従って、イエス、キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
そして、彼は続けてこう言いました。
(10章19節から23節)兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心を清められ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
彼は十字架の後の、私たちの生き方を語りました。
だから、3人の女性が彼の言葉をつかみ、強い意志と希望を持っていたことは間違いありません。
この絵は、忠実な3人の女性と永遠の贖いを得るために流されたイエスの血である夕日の赤い輝きを表しています。
2010年4月 キャンバス 983ミリ×1240ミリ
☆