☆いのち (人の光)☆

    ☆NO84 いのち (人の光)
    この絵はヨハネの福音書1章4節と5節を基にして描きました。
    そこには、こう書かれています。
    4節、この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
    5節、光はやみの中に輝いている。やみはこれを理解しなかった。
    KJV版の英語聖書ではこの理解という単語にcomprehend を用いていますが日本語聖書新改訳3版では、「これに打ち勝たなかった」と意訳しています。
    オリジナルのギリシャ語は分かりませんが、わたしは英語版の直訳がいいと思います。
    その理由として、このcomprehendをパウロはエペソ人の手紙で自身の祈りのことばの中でこのように用いています。(エペソ人への手紙3章18節)
    また、愛に根ざし、愛に基礎をおいているあなた方が、すべての聖徒とともに、その広さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。
    つまりこのcomprehendは、人がとてつもなく大きな宇宙的規模のキリストを理解する場合に用いる言葉なのです。
    そして、ヨハネはイエスの遺言により、彼の母マリヤを引き取った弟子であり、当然、マリヤともっとも親しかったわけです。
    つまり彼はほかの誰よりも、イエスを生んだ母マリヤから、イエスについて知り得たわけです。
    マリヤは自分を身ごもらせた聖霊が創世記1章に書かれたように、世の初めにすでにあったこと、つまり、神と共にいたことを知っていました。
    それで1章2節に、この方は、初めに神とともにおられた。とヨハネは書いたのです。
    イエスの歩みは光の道であり、そこを通らなければ天の父すなわち神の元には行けないと弟子たちに教えている通りです。
    一方、闇に住むサタンはそれを理解できないのです。 
    この光の道を理解できないことがサタンの最大の弱点であり、それ故に彼は十字架でイエスを殺すことができても、その後の復活の奇跡を予見することができませんでした。
    マタイ27章45節にこう書かれています。
    さて12時頃から全地が暗くなって3時まで続いた。また最後の晩餐の夜、ゲツセマネでイエスを捕らえたのも闇の中でした。
    彼は祈っているイエスが分からず、ユダがイエスに口づけしたのを見て、彼を捕らえることが出来ました。
    サタンの働きは暗闇の中で行われましたが、この暗闇はイエスを理解できませんでした。
    闇は創世記からサタンの世界です。パウロもこう言っています。
    怒っても、罪を犯してはなりません。
    日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4章26節から27節)
    さらに、18節に、「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心との故に、神のいのちから遠く離れています。」
    以上が闇が光を理解できなかったことの簡単な解説です。
     次にここで描かれているマリヤの胎内にいるイエスと、その横で光る聖霊と、彼らを迎え入れる手によって示された神について述べます。
    キリスト教はユダヤ教から生まれましたが、同じ一神教でありながら、父子聖霊の三位一体の神です。
    これは同じモーセ五書を基盤にしたイスラム教とも違います。
    三位一体がなぜ一つの神なのか諸説ありますが、私はキリスト教はイエスの復活を証する宗教だと理解しています。
    ユダヤ教では証言は二人いれば有効だと説いています。ヨハネもそれに従ってこう言っています。
    あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。(第一ヨハネの手紙5章7、8節)
    すなわち、神を証するのは御霊とイエスであり、御霊を証するのは神とイエスであり、イエスを証するのは神と御霊です。
    その証とは、三位一体の神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
    父子聖霊に各々二人の証人がいるので、この証は有効です。人の子であるイエスがマリヤの血から生まれたことは誰にでも理解できます。
    では水が神であることをどう説明したらいいでしょうか。
    創世記1章2節にこう書かれています。
    地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
    すでに世の初めから水があったとモーセは書いていますが、この水は、液体の水ではなく、その元である水素だと私は理解しています。
    そう理解すると6節の、神は仰せられた。
    「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」という表現も水素で満たされた初期の宇宙の様子として理解できます。
    つまり、何もない真空と水素の集合体があり、それがやがて巨大な星雲となって様々な物質を造りだしていく様子が説明できます。
    そして、最も重要なことは、この時にすでにサタンである闇が存在していたということです。
    サタンはイエスより前に存在していたがため、神の前に立つことも自由にどこへでも行けたようです。
    ヨブ記1章6、7節にこう書かれています。
    ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。
    「おまえは何処からきたのか。」サタンは主に答えて言った。
    「地を行き巡り、そこを歩き回ってきました。」おそらく、先住者として誰はばかることなく地球を自由に歩き回っていたのでしょう。
    サタンも天使ですから、創世記1章の1節と2節の間に神はすでに天使を備えておられたと私は理解しています。
    そして、その後に人の光(イエス)が神のことばによって現れています。
    いのちの元であるイエスがサタンより後に生まれたということが、その後の聖書に記されている全ての出来事の元になります。
    すなわち、この世は最初から悪が存在しており、エバをそそのかす蛇は、その具体的な現れにすぎません。
    その悪から救われるためには、光であるイエスの存在を信じること以外に道はないということです。
    では、何故、神はサタンのいる世界を見ながら、お造りになったすべてのものを見て、それは非常に良かった。と言われたのでしょうか。
    そこにこれを書いたモーセの知恵があります。彼はわざと闇すなわちサタンが神に造られたとは書きませんでした。
    神はあくまで、ご自分で造られたもの全てを見て、非常に良い、と言ったのです。
    ヨハネもこう言っています。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは、一つもない。
    しかし、我々はパウロの祈りにこたえて、この不思議な三位一体の神を理解できるのでしょうか?
    理解できなければ、サタンがそうであるように、闇の住人になるのでしょうか?
    その答えをヨハネはこう書いています。
    しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。(ヨハネの福音書1章12節)
    理解できなくとも、信じる者は救われます。何故なら、神は愛だからです。アーメン
     

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