☆昇天の日☆

    ☆NO70 昇天の日(キリスト教の始まり)
    この絵はイエスの昇天を表しています。
    しかし、後述する理由により、マタイ、マルコ、ヨハネの三福音書では、この出来事について書かれていません。
    ギリシャ人のルカだけが、ローマ帝国の高官であるテオピロへの報告書の中で、この出来事を書いているのです。
    この出来事は、彼が神の子であることを示す絶対的な証拠となるはずです。
    しかし、三人のユダヤ人の弟子たちは、実際にその場にいたにもかかわらず、このことを書いていないのです。
    そこで私は、自分が描きたいものを、この問題に絞りました。まず、当時の弟子たちの様子を調べてみました。
    マルコによる福音書によると、週の初めの日に早くよみがえられたイエスは、女たちと数人の弟子たちの前に現れた。
    そして、彼らは行って、他の者にもそれを告げたが、彼らは信じなかった。
    その後、イエスは十一人に現れ、イエスがよみがえられた後、イエスを見た人たちを信じなかった彼らの不信仰と、頑なな心を叱りました。
    彼らの状況から判断して、主の前で恥ずべき状態であったと言えるでしょう。彼らが心を閉ざした理由は明らかです。
    なぜなら、彼らは皆で集まってから、「主よ、今こそイスラエルに王国を回復してくださいますか?」と、主に尋ねたからです。
    十一人の弟子たちは、イエスをイスラエルに王国を回復するダビデの子として、頑なに望んでいたのです。
    そして、両者の救いの考え方の違いは、イエスが天に召されるまでの間、ずっと続きました。
    ですから、イエスが引き上げられ、雲に包まれて見えなくなったとき、彼らは悲しみを覚えました。
    そして、まだ助け主である聖霊が自分たちの上に下りてこないので、自分たちはこの地上で孤児になったのだと思いました。
    そして、茫然自失のまま、イエスが天に昇られるのを見送るしかありませんでした。
    しかし、その場にいたヨハネは、女たちや新しい母マリヤと一緒に、本当に彼を恋しがっている彼らを見ていたのです。
    実際、女性たちは、いかに主を深く愛し、喜んでいるかを見事に表現していました。
    そのようなことは、この地上では一度もなかったことです。
    そこで、若い女性たちは、比べようもない神の栄光の光を十分に得るために服を脱いだのです。
    パウロはその手紙(コリント13-13)の中で、
    「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」と述べています。
    そこでヨハネは、イエスがペテロに「わたしを愛しているか」と三度尋ね、
    ペテロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることをご存じです。」と三度答えたというエピソードで、福音書を締めくくっています。
    このことからヨハネは、愛は剣よりも強いということを理解し、それが彼の長寿につながりました。
    一方で、兄のヤコブは好戦的であったために、剣で殺されてしまいました。
    それ以来、今日に至るまで、愛がキリスト教の主要テーマとなっているのです。
    ですから私は、キリスト教の始まりを描いたこの絵の中に、イエスを愛した女性たちを登場させているのです。
    さて、ここでキリスト教についてもう少し述べたいと思います。
    私は、イエスと弟子たちの間には、「救いに対する考え方の違い」があると述べました。
    当時、彼らはダビデのような現実的な救い主を必要としていました。
    しかし、イエスはアダムとエバが犯した私たちの罪を取り除くために、救い主として顕現されました。
    そして、その彼が天に召されたときの様子はどうだったのでしょう。
    残念ながら当事者からの記述はないのですが、忠実な記者ルカは『使徒行伝』にこう記しています。
    イエスが上って行かれるとき、彼らがじっと天のほうを見ていると、見よ、白い服を着た二人の男が彼らのそばに立って言った、
    「ガリラヤの人たち、どうして天を見つめているのか、このイエスは、あなたがたのところから天に上げられたが、
    あなたがたが天に行かれるのを見たのと同じように、また天から降りて来られるのです。」
    また、パウロは『テサロニケの信徒への手紙』4-14で、
    「イエスが死んで復活されたと信じるなら、神はイエスにあって眠っている者たちを連れて来られるのです。」
    と言っています。イエスのうちに眠っている者とは、誰のことでしょうか。
    彼らは神を信じ、イエスより先に死んだ人たちです。
    もちろん、その先頭はアダムとエバであり、神に似せて作られた被造物であり、彼らに続く多くの人々も同じです。
    彼らは、牢獄から切り離されたアブラハムのいる黄泉の国で安らかに眠っていたのです。
    そこで、よみがえられたイエスは黄泉の国に下り、そこで牢獄にいる神を信じない霊たちに説教され、忠実な多くの人々と共に天に召されました。
    彼らがイエスを信じて従ったとき、彼らの罪は消え去りました。
    このように、旧約時代の人々の中から、王や聖人、預言者、その他忠実な多くの人々が贖われたのです。
    ですからその様子は、神の栄光の光の中での大凱旋パレードだったと思うのです。
    その後ルカは「女たちとイエスの母マリヤと兄弟たちとが、皆な心を一つにして祈りと願いとを続けた。」と書いています。
    イエスの母であるマリヤを中心に、この人たちはとてもよくまとまっていたのだと思います。
    そして、その祈りと願いは、イエス・キリストの名によって祈るキリスト教徒としての最初の祈りだったのです。
    そのことは、ヨハネの福音書に、イエスの言葉として、
    「あなたがたに言う、わたしの名によって父に求めるものは、何でも与えられる。」
    と書かれていますが、実は、そのことは、マリヤ自身が言ったのかもしれません。
    残念なことに、その時代は男性中心の社会であったため、その後、マリヤをはじめとする女性たちは、福音書の焦点から外れていったのです。
    しかし、全能の神であるイエスは、あらかじめ若いヨハネをマリヤの子としておられたのです。
    だから、彼女はヨハネを通して最初のキリスト教社会に大きな影響を与え続けたのです。
    最初キリスト教社会というと、その街に何人のクリスチャンがいたと思いますか?
    ルカは、「そのころ、ペテロが弟子たち(全部で百二十名ほど)の中に立っていた」と述べています。
    それは、社会とは呼べないような小さなものであったと言えます。
    そして今、私たちは世界の三分の一の人口が、まさにクリスチャンであることを目の当たりにしています。
    彼らは二千年の間に大きな社会となりました。
    そして、彼らと同じキリスト教徒である私が、印象に残ったフレーズを紹介します。
    それは、ヨハネの福音書の最後の言葉です。
    「イエスがなさったことは、ほかにもたくさんあるが、それを一つ一つ書いていったら、
    世界も書かれたものを入れることが出来ない、とわたしは思う。」とあります。
    ヨハネは、イエスを信じる者が世界中におびただしく広まることを予言しているのです。
    なぜなら、もし今、今まで生きてきたすべてのクリスチャンが自分自身のイエスの証を書いたら、世界でさえもそれを全て収めることができないからです。
    では、イエスは何故これほどまでに多くの人に影響を与えることができるのでしょうか。
    その答えは、イエスが生ける神であるからに他なりません。
    ヨハネも『黙示録』の中で、「今いる方、かつていた方、そして後に来られる方、全能の主」と述べています。
    そして今、その主が天からこうも言われるのです。
    「もし、私を愛するなら、あなたの前にいる傷ついた者に手を差し延べなさい。
    なぜなら、あなたが私の被造物の最も小さい者の一人にすることは、私にすることだからです。」
    しかり、主は今も生きておられ、世界中を見守っておられます。アーメン

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