[593] 周囲の人々に支えられて
ソリューション データ: 私が今まで辛いことから乗り越えることができたのは、周囲の人が支えてくれたからだ。 みんながいなかったら、今の自分はいない。そう思わせてくれた、三つの経験を書いていきたいと思う。
一つ目の経験は、中学の部活のことだ。 中学生になって、部活をやろうと思った時、私はバドミントン部に入った。バドミントンを遊びでしかやったことがなかった私は、一番動かなくて楽なスポーツとばかりに勘違いしていて、甘い考え手で入部した。 しかし、競技のバドミントンは、遊びとは全く違う激しいスポーツということを、入ってみて気づいた。 1年はランニングと筋肉トレーニングばかりでろくに打てず、そのうえ経験したことがないサウナなような真夏の体育館は、辛かった。そして、顧問の先生はまさに鬼。厳しい先生だった。 今までぬるい環境で育ってきた私は弱気になり、すぐにやめようかと考えたが、同期の仲間が好きだったので、とりあえずできるとこまで頑張ろうと思った。 しかし、入部して数ヶ月、私はすぐにバドミントンの虜になった。本気でやってみると、気持ちが良いのだ。頑張れば頑張るだけ、どんどん上達していく自分が分かった。 そうして、私は夢中でバドミントンに打ち込んでいた。 そんな部活一筋の中学二年の冬、私にとって大きな出来事があった。それは仲間の一人が、辞めてしまったことだった。引退まであと半年、試合に向けて必死に練習していた矢先のことだった。動機が5人しかいない中で支えあって頑張ってきたので、一人いないだけで辛さが増し、ショックだった。さらに練習内容も変わった。辞めてしまった子はダブルスだったので、相方がいなくなってしまった子と私は組み、ダブルスの練習もさせられた。今までダブルスをやったことがなかった私は、ダブルスの動きが全く分からず、もう一人の子に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。自分で言うのもなんだが、私はシングルスのエースだった。それにより、シングルスの練習ができなくなってしまったのも、また辛かった。 その子が辞めて、初めてその存在の大きさに気づいた。 その後も練習に行っても身が入らない毎日が続いた。 シングルスで試合に負けると、「だってダブルスの練習もやってるし……」と自分に言い訳するようになった。そんな自分に嫌気がさしてきたある日、顧問の先生に「そんな中途半端な気持ちでやっているのなら、お前も辞めちまえ」とこっぴどく怒られ、私はハッと目を覚ました。それからは、辞めた子の分まで頑張ろうと、ダブルスもシングルスも必死で頑張った。 引退まで全力で駆け抜けて、ダブルスは結果を出すことができなかった、シングルスでは県で上に行くことが出来た。どちらも悔いはない。部活を通して、頑張ることの気持ちよさを初めて知り、仲間の大切さ、顧問の先生の厳しいながらのやさしさ、周囲の支えてくれる人の感謝の気持ち、多くのことを学ぶことができた。
二つ目の経験は、高校での部活である。 中学から引き続き、高校もバドミントン部に入部した。 しかし、中学の部活とは全く違った。 中学はきつい練習にひたすら耐える、という感じだったのだが、高校の部活は、頭で考える事をなによりも求められた。練習の時はもちろん。学校生活、試合の時、私たちのあらゆる行動を、先生はよく見ていた。顧問の先生は、バドミントンを研究し、知り尽くしていて、先生のアドバイスは本当に的確だった。だからこそ頭を使わないと勝てないと知っていて、私たちに求めるものは高かった。先生が思っていることとは違う行動をとってしまったら、すぐに否定され、練習することすら許さなかった。 私は、間違ったら怒られるという恐怖から、いつのまにか「上手くなれるように頑張ろう」ではなく、「怒らられないように頑張ろう」になっていた。 だけど、仲間は大好きだった。4人しかいなかったが、私はいつも3人に支えられて頑張れた。 しかし、とうとう限界が来た。 2年の冬、引退まであと少しというところで耐えきれなくなった二人が辞めてしまった。残された私たちは悩み、途方に暮れた。4人でないと、無理。だけど、ここで辞めたら悔しい。傍から見れば、たかが、高校の部活、と思うかもしれない。しかし、当時は本当に辛かった。悩んでも悩んでも答えがでない。自分がどうしたいのかもわからない。明日が来なければいいのに、と心の内で、何度も思った。練習には出た。しかし、中学の時のような熱い気持ちはない。バドミントンが楽しくない。こんな抜け殻のような気持ちは初めてだった。ただ、ここで辞めたら顧問に負ける用で悔しい、そんな思いだけが、私を突き動かしていた。 二人が辞めてから地獄のような2週間が経ち、ついにもう一人も辞めることを決めた。 もう私に、考える余地はなかった。「一人でやっていくなんて無理だ……」そうして、私も一緒に辞めた。 部活を辞めて、数週間がたった。前のように学校でびくびくすることもなく、安心して過ごせた。今まで休みがほとんどなかったため、それを埋め合わせるようにひたすらに安孫dな。 だけど、心から楽しいとは思えなかった。今図分が遊んでいる間に、後輩たちは頑張っていると思うと辛くなった。そして、あんなに好きだったバドミントンをどうして辞めなければならないのか、と悔しくなった。 このままだと自分はダメな人間になてつぃまう、そう思った矢先、顧問の先生から呼び出された。「戻ってこないか」そう言われ、うれしくなった。まさかまたやれるなんて、思ってもなかったから。私は、すぐに戻ることを決めた。 そして、戻ってからの半年間はひたすら前を向いてがんっばった。前みたいに怒られてもへこまなくなった。そして、またバドミントンの楽しさに気づくことができた。 それに今まであまりかかわらなかった後輩とも、仲良くなれた。 後輩は、一人な私を気遣ってか、よく話しかけに来てくれた。でもやっぱり、同級生がいなくて寂しくなることもあった。だけど、3人は私が戻ってきてからも話を聞いてくれて、支えてくれた。私は本当に周りの人に支えられていることを実感し、感謝した。そうして、全力で駆け抜けた結果、悔いのない試合をすることができた。 今思えば、私は弱かった。練習で怒られて落ち込んでいる時、励まされるのはいつも私で、みんなを励ますことは少なかった。 私がもっと強かったら、みんな辞めずに4人で最後までやり通すことができたのではないかと、後悔する日もある。 だけど、戻ってきて本当に良かった、これだけは確かだ。私は一人になって、少なくともあの時よりは強くなることができた。同期の3人はもちろん、後輩や先輩、母、私を支えてくれる周囲の人の存在の大きさに気づいた。そして、またバドミントンが好きになれた。あんあんい嫌いだった顧問んお先生も、居間となっては感謝をしている。きっとこの先、それ以上に辛いことがあるはずだ。先生が厳しくしてくれたから、頭で考えるということを学び、あの厳しさを耐えられたという自信が付いた。部活での経験は大人になっても私の胸の中にの頃い、これからの糧となっていくだろう。
三つ目、最後の経験は、父の精神病のことである。 私が高校3年になった時、父の転勤が決まった。父は、人とかかわるのが苦手な人だった。父とは対照的な正確である母と仲が悪く、私が小学生になって以来、会話をしているところを見たことがない。そんな最悪の家庭環境の中、てんきんが 決まり、父はストレス性障害になった。私は病院に通えば治るものだとばかり思っていたので、あまり心配はしていなかった。だけどそんな簡単な事ではなく、秋になっても、父の病状は良くならなかった。受験真っ只中でただでさえ不安定なのに、父のことともあり、その不安を母にぶつけていた。父が働けない分、さらに働いて心身ともに疲れ切っていたのにもかかわらず、そしてある日、母は発狂し、震えを起こした。私はとっさに誤り、震えが収まるまでそばにいた。母はお酒を飲んでいたこともあり、おくびはいつも通りだった。でもこのままでは、母も病気になってしまう。そうして私は母に不安な事は一切言わないことを決めた。 そんな時、また支えてくれたのは、部活が同じだったある一人の子だった。大学に絶対受かって早く安心支えてあげなければ。しかし、成績は上がるどころか下がった。どうしようこれでは受からない。そんな不安で、とうとう泣いてしまった。そんな時も、その子がそばにいてくれた。そして一緒に泣いてくれた。その後も何かあるとすぐに連絡をくれ、話を聞いてくれた。私hあその子のおかげで安心して勉強することができた。そしてこの大学に合格することができた。 その子には、感謝してもしきれない。 今までのことを振り返ってみると、私はいつだって周囲の人に支えられてきた。あの時みんながいなかった、私は乗り越えることができなかった。だけど私は、支えられてばかりで何一つみんなにしてあげられたものはない。それは今でも同じだ。私は周囲に依存しなければ、生きていけない人間だ。だからちょっとずつでもいい、誰かを支えられるように代わり田。そして、今まで以上に私と関わるすべての人に感謝し、大切にしたいと思う。
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[592] ベンチの仕事
部活の時
ソリューション データ: 私は中学生の事野球部に所属していました。しかし守備に難があり、3年生の夏の大会でもレギュラーにはなれませんでした。また、日々の練習により腰を痛めてしまい、毎日生体に通っていたので練習時間もほかの人ほど確保することができませんでした。中学校の最後の大会にド無際に自分に何ができるかと考えたところ、チームのムードを作るというところに辿りつきました。 ベンチの雰囲気はグラウンドにでている選手にも伝染します。チームが負けているとき、押されているときにベンチが静かになってしまうと相手の府に気に飲まれ、自分たちのプレーが出来なくなってしまいます。そのような点に気づいた時、今までなんとなくしていた声出しに自分の中での意味が生まれました。意味を持った声はグラウンドの選手に届き、私たちのチームは最後まであきらめず、一丸となって戦うことができました。 自分が無意味だと思っている物にも意味があり、意味を見つけることができれば大きな効果が得られるということを学ぶことができました。
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[590] 大好きなバトミントン
高校
自分
ソリューション データ: 辛いことを乗り越えた経験は高校の部活だ。私は中高とバトミントン部を本気でやってきたので、それなりに試合でいい成績を取り、練習は本当に面方が大好きな同い年の仲間がいたから、一緒に乗り越えることができた。しかし、問題は顧問の先生だった。練習はどれだけ辛くても我慢できた。だけど、その先生は練習以外のところで厭味ったらしく怒った。(ここでは、どんなことか言葉で書ききれないので省略)酷いときは、当時2年生だった私たちに「お前たちとは縁を切る』と言われ、後輩の1年生だけ面倒を見ていた時もあった。そんな状況に耐えられずに、同い年の4人のうち2人が辞めてしまった。私はバトミントンが好きだった。だけどそれ以上に3人のことが大好きだった。だから2人が辞めてしまったのは本当にショックだった。2人が辞めてから二週間、2年2人で頑張っていたが、とうとうもう1人もやめてしまった。同い年がいないと言う現実に真っ黒になった。バトミントンは好きだったが、それより大好きなみんなが堪えられなくて自分もやめてしまった。しかし、部活を辞めてからの一か月間、何とも言えない空白感と虚しさがあった。毎日楽だけど、充実感がない。なにも頑張っていない自分が嫌だった。散々迷ったあげく、1人になってさみしいときもあったが、強くなれた。なにより、大好きなバトミントンが続けられてうれしかった。結果的に後輩たちと一緒に頑張り、最後まで引退することができた。辛いことも多かったけど、あの時本当に戻ってきてよかったと思う。部活での経験は、今でも自分の自信になっている。
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[589] 大学受験の前にて
ソリューション データ: 高校生の時、大学受験の勉強をしていて、どれだけ勉強しても点数がのびなくて、悩んだけど、あきらめずに勉強し続けたら、少しずつのびてきました。自分だけでなく、友達と励まし合いながら、勉強したのでそれが力になりました。
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[585] 考え方を変えること
高校生〜大学生
自分
ソリューション データ: 私はスーパーでアルバイトをしていました。私がバイトしていたころは固定シフトで人手が足りませんでした。なので自分が学校での用事や風邪を引いていて体がだるいだけだとバイトを休むのに多少の罪悪感がありました。なぜ自分は自由シフトになっているアルバイトにしなかったのか後悔し、このころからアルバイトに行くことが憂鬱になってきました。そしてバイトではよくあるクレームの対応、また自分のミスでアルバイト先の人からの注意だったり最初はそんなにストレスを感じていなかったことがそのころから1つ1つがストレスになっていました。そしてよりバイトが自分にとっての苦になりまし。学校も新入生として新しい場所に行きだしました。なのでそこでの披露とバイトでのストレスによって貧血になり倒れたこともありました。このことを家族に話すと家族では「社会に出るってことはそういうことなんだそれだけで休んだり、やめたりするのはいけない」といわれよりストレスに感じました。 しかし、ある時学校帰りに友人と話をしているとその友人は週に3回の自由シフトだが入っていて1日8時間勤務しているが辛いけど頑張っているというのを聞き私なんかより辛いではないか、なんでグダグダ言っているのだと自分が情けなく感じ、とても惨めに感じました。 そのときから考え方を変えることに決めました。バイトは辛いがもっとつらいひとがいる。また、クレームがきたときは1つ1つネガティブになっていたのをその時は謝るが気持ちを前向きにすることによって気持ちが軽くなる気がして少し楽になりました。この経験から私は人というのは考え方を変えることによってストレスを感じたり逆にまったくストレスを感じなくなったりすることができるのだなと思いました。
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[584] オーディション
ソリューション データ: 私は演奏楽部でした。高2の時、オーディションがあって、落ちてしまったことがありました。今まで、オーディションで落ちたことがなかったので大分ショックを受けました。その日は、泣いて、明日から頑張って練習しようと思いました。オーディションの次の日になって、部活の時間になると、なんだか気分が悪くなって、また泣いてしまいました。結局、一週間くらい、このような日が続いて部活に行けませんでした。もう、このまま部活をやめようかと思いました。 けれど、このままの状態で部活を辞めていいのだろうか、とも思いました。どうしてかというと、友達が色々となぐさめてくれたり、自分が好きな音楽を、こんな形で終わらせたくなかったからです。「辞めたい」という気持ちを無くすために、「今までよりもっと楽しく部活をしよう!」という気持ちに切り替えて、少しづつ部活に復帰しました。最後の演奏会は、今までにないほど楽しく、良い演奏ができました。あの時に、部活を辞めていなくて良かったと本当に思いました。
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[582] 偽りの自分にさよなら
高校生
ソリューション データ: 高校2年生のとき、バレー部に自分と同じポジションで、凄く上手で、身長も私より遥かに高い後輩が入ってきた。試合には絶対に出たかったので、4年間やり続けてきたポジションとは違うポジションの練習をやり始めて、試合に出してもらっていた。でも、全く楽しくなくて、勝ちたいと思うよりも早く試合が終わればいいのにと思っていた。仲間にも「絶対勝とうね」とか言われて、全く心にも思っていないのに「う〜」とか言って、すごく辛かった。3年になってもう辞めたい辞めたいばっか思ってて、本気で部活を頑張れずに、でも誰にも言えなくて、頑張ってます感、やる気満々です感を出しながら日々過ごしていた。そしたら、そんな自分に気づいてくれる友達がいて、それからすごく心が軽くなって、先生にも相談して、最後まで辞めずに頑張れた。
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[581] 新体操のコーチ
小学5年
私自身
ソリューション データ: 新体操を5歳の頃から中学3年生までやっていたが、小学校5年生のときにコーチに「死にまゝ練習してたってもう上達はしない。」といわれ、どうすればいいのかわからず、コーチにも見てもらえなくなり、練習に行くのがとても嫌になった。 もともと新体操が楽しくて、続けているうちに新体操が大好きになってやっていたはずだったのに、その新体操をきらいになってしまいそうで親とも話し合った結果クラブチームの移籍という手段を取った。周りからみたら逃げと思われるかもしれないが、新しいチームに移ったことで新体操を嫌いにならずに済んだし、新体操を純粋に楽しいと思う気持ちを取り戻すことができた。更に、新体操が原因で病んでいた気持ちも前向きになり明るくなれたと思う。 あの時にチームの移籍をしていなかったら今の明るい自分はいなかったと思う。
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[580] 友達関係
ソリューション データ: 大学生活が始まったばかりの数日間、私は新しい環境や新しい友達にになじめなくて枚に利愛想笑いを浮かべ、家に帰ってからはその反動で全く笑うことができませんでした。朝は食欲もなく吐き気がしてこの先上手くやっていけるかとても不安でした。いてもたってもいられず疲れ切っていたみたいでした、私はその時、"私だけじゃないんだ"と気づかされました。どこかで自分しかこの悩みを抱えていないと思い込んで焦っていたのですごく心が軽くなりました。それからは、"どうせ、みんなも不安なんでしょ"という気持ちを持ちつつ生活するようにしました。入学して3ヶ月が経ちました。今はもうすっかり友達とも気兼ねなく接することができ、毎日楽しいです。不安、ネガティブな気持ちは誰でも持つ普通の気持ちだから心配しなくていいんだなと思いました。
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[579] 特技のおかげで
特技のおかげで
友達A
ソリューション データ: 私は、中学の頃、バスケ部に所属していました。自分を含めて5人、同学年がいましたが、どうもそれが合わず、常に孤立している状態になっていました。4人からいじめられていたわけではないのですが、その中の1人が若干トラブルメーカーな奴で、私とその子がもめることも多々ありました。私のファッションのセンスとかも否定されたり、残りの3人を持っていかれた気がして今s多。みんなと一緒にいても私はなんか辛くて、はやくこの場から去りたい思いでいっぱいでした。何度か部活を辞めてしまおうと思いました。しかし。バスケットボールは大好きだったので、バスケットボールにただ打ち込もうと思って3年間は乗り越えました。今、思えば中学の3年間は自分の性格が頑固でひんまがっていて幼い点もあって人見知りだったのがいけなかったのかと思います。高校に入学して、1年のクラスがなんとなく自分い亜w図、人見知りや中学の過去もあり、心を閉ざしていました。 入学して1主観はほとんど誰とも話さず、お弁当も一人で食べていました。その後、友達はでき、遊んだりもしていましたが、なんとなくこことのもやもやが取れないまま1年が過ぎました。そして高2になり、はじめもいつものように心を閉ざして過ごしていました。しかし、 その年の球技大会のバスケで思ったより活躍して、クラスの子たちがすごく喜んでくれました。私もとても嬉しくて、それがきっかけか、クラスに溶け込めるようになりました。1年でも同じクラスだった子にも自分が閉じこもっていた殻をようやく破ることができたのだと思います。 自分の好きなバスケに救われました。
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