いじめ編 (294)
男性/女性/...
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男性/女性/...
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すったもんだ編
(581)
男性/女性/...
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男性/女性/...
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男性/女性/...
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男性/女性/...
発達障害 (27)
当事者//...
自分の中のもやもや編 (593)
男性/女性/...
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 [556] 部活動での挫折と転換期
 高校生  

自分


ソリューション データ:
私は中学でも高校でも剣道部に所属していたが、高校生になってから特にコンプレックスに思っていることがあった。それは小学2年生あら続けている割には大して強くもないことだった。私は部内では副部長だったが、部長は中学から剣道を始めた人だった。自分は剣道や運動のセンスも特になく、筋肉もつきづらい体質で、地味な剣道スタイルだった。才能がないのはわかっており、継続だけが自分の取り柄だと思って朝の自主トレや夜の素振りを続けていた。
しかし、2年の秋、新人戦の前に腰骨にひびが入って歩くのもつらくなり、運動を禁止されてしまった。新人戦前なのはもちろん、唯一の取り柄だと思っていた継続もそこで途絶えてしまうことがショックだった。練習後のマッサージなどは好きで毎日おこなっていたため、正直、なんでマッサージをさぼっている男子じゃなくて私なのだろうとか、今までの頑張りも無駄だったのかなと思ったこともあった。体がなまっていく感覚に焦りながら1ヵ月ほど休み、少しずつ練習に復帰した。だが積み重ねていたものはあまり残っていないと実感し、完治してないため運動量も制限され、以前のように継続力でカバーするのも難しく、全力を出せないことがとても嫌だった。
しかし、1ヵ月もけいこを休んだにも関わらず、先生は私を以前と同じポジションで試合に出してくれたこと、また、先輩も同期も誰も責める言葉も不満も言わず、自分を支えてくれたことから、勝ちたいだけでなく、周りの期待に応えたいという気持ちが強くなった。そこで自分の剣道スタイルを腰への負担が少ないものへと変えていった。それには得意技を捨てて苦手技を練習しなければならず、そのために自分の剣道も他人の剣道も、ビデオを使って研究した。
結果、目標だった関東大会には出られず、あの時の怪我を再び後悔した。しかし個人戦では2回地区大会で準優勝し県大会に出場した。また、団体では最後まで同じポジションを任され、チームの一員として試合ができたことが嬉しく、最後までここで部活が出来て本当によかったと思った。

 [555] 弱い私と感謝の気持ち
 大学卒業前  

自分


ソリューション データ:
1度目の大学では卒業論文の執筆が必修ではなかった。きちんと勉強をしたいと思う自分と、なるべく楽に卒業をしたいと考える自分がいたので、とりあえず履修登録は行ったが、あまり力を入れずに調査を進めていた。数社から就職の内定をもらい浮かれていた私は夏休みを過ぎたところ、完全に調査の手を止めていた。年末に近づき、冬休みが近づいてきた。いよいよ年が明けたら私の最後の学生年、そして最初の社会人年がやってくる。卒業式の袴はどうしようか。10月に内定式で課せられた課題にも取り組まなくては。卒業旅行はどこにしよう。目の前に開ける未来にわくわくだった。なぜだかふと、自分の取得単位を数えたくなった。自分のこれまでの頑張りを確認したくなったのかもしれない。成績表で確認しながら1年生から履修した授業を思い出し懐かしい気持ちになっていた。その時私は気づいてしまった。今履修している授業単位の全てを取得しなければ卒業単位に満たないということを。卒業論文を書かねば卒業できない。それまで大きな挫折を経験することもなく人生を歩んできただけにショックは大きかった。第一志望の企業からの内定も取り消しだ。内定仲間や親戚、友人にも恥をかく。当然卒業旅行なんて行けっこない。学費はどうしよう。親に怒られる。その全部が嫌だった。絶対に卒業してやる、そう思った。その瞬間から1週間はとにかく我武者羅だ。寝る間も惜しんで資料をひたすらに読み筆を進めた。最低の年越しだった。今こんなことを思い出し、人に話せるのは紛れもなく卒論を仕上げ、予定通りに卒業できたからだ。なぜそんな奇跡のようなことができたのか、私が有能だったからか?いや、それは違う。私は愚かだった。弱かった。その1週間の間に何度も自分の情けなさや弱さにイライラしては泣いた。私が頑張れたのは温かい紅茶を淹れ食欲がないと言って何も口にしようとしなかった私にうどんを作ってくれた母がいたから、いつもは寂しがり屋で連絡の多い彼が一切の連絡を我慢してくれたから。休んでいいと言ってくれたバイト先のボス。頑張れと留守電を入れてくれた旧友。私に不可能はないとメールをくれた友人。手伝おうか?と言ってくれた友人。マジで?と笑いとばしてくれた友人。1月2日の新年早々指導の時間を作ってくれた大学の先生。周りの人のやさしさにこんなに感謝したことはなかった。とてつもない感情だ。感謝の気持ちが私の力となった。私は弱いが周りの人々に支えられ、在る。

 [554] 修学旅行委員になったこと
   

ソリューション データ:
中学生の時に初めて修学旅行委員を体験しました。修学旅行の取り決めなどを細かく隅々まで決めたり、クラスの生徒をまとめたりという経験をしました。委員になって、とても充実して楽しかったので、高校生になった時の修学旅行委員では、長をしたいなあと思うようになりました。実際、高校2年生になった時に委員になることができました。それぞれの役割を決めるときに長は立候補でということになって、一週間くらい悩む時間がありました。私はとても迷いました。やりたい気持ちはあったけど私が長をやって、学年は喜んでくれるのか、そして、もう一つ問題がありました。それは、東日本大震災で福島県の原発についてです。関西の高校だったので修学旅行は関東圏に行くことがきまっていたのですが、放射線はどうなのか心配する生徒や、その親御さんがいたので説得できる自信がなかったのです。でも、決心することができました。一緒に委員をしていた友人に相談したからです。彼女とは中学時代も一緒に委員をやっていました。三年越しにやりたかったことができるのだからやって後悔はしないと思うと言われ、また、私も手伝ってあげるから大丈夫と、とても心強い言葉をもらいました。その言葉があったから長に立候補できたのだと思います。二泊三日の修学旅行でしたが、クラスごとにも学年全体にも喜んでもらえるものが出来上がっていたと思います。委員長の体験を支えてくれた友人に感謝しています

 [553] 新しい自分
 大学  

自分


ソリューション データ:
私は大学に入ってから初めてバイトを始めました。
そこは大手企業でその分野にはあまり興味がなかったのですが、最初に紹介されたバイトがそこだったので、早くお金を稼ぎたいということもあり、そこに決めました。
本当に勢いでそこに面接にいき採用されたのですが、改めてその企業についてネットで調べてみると、かなり厳しいらしく評判がよくありませんでした。
たしかに入社手続きのときも厳しい雰囲気が漂っていて、そこで働くことがとても怖くなりました。
仕事も覚えることがたくさんだし社員さんとも最初はあまりコミュニケーションがとれず、一か月くらいずっと病んでいました。
ちょうど勉強などのやる気も起きず、生きている意味があるのかとまで思いました。
そろそろ辞めようかなと思っているときに新しい重要な仕事を任せてもらえることになり、そこから私も変わりました。
だんだん仕事が楽しくなり、職場の方も本当に優しい方たちばかりであることに気づきました。
時には厳しいときもありますが、どれも自分のためになることばかりです。
前に読んだ本の中に、「自分で天職にする」という言葉がありました。
最初はどの仕事も覚えることがたくさんで大変なため、途中で自分に合わないと投げ出してしまう人が多いが、仕事はとことん追及しないと自分に合っているのか分からないという内容でした。
私はまさにその言葉の通りだと思いました。
もし途中でこのバイトを投げ出していたら、恐らく他のバイトをしても同じように投げ出していたと思います。
最初は新しい環境に慣れるまで本当に大変だけれど、それを乗り越えることができれば、新しい自分が待っています。
本当に辛いなら辞めてしまうのはいいと思いますが、何事もあきらめずにとことんやるべきだと思います。
自分を成長させてくれるものに出会えたら幸せだと思います。

 [552] 「大学受験」
 高校生  

自分


ソリューション データ:
私がこの神奈川県立保健福祉大学理学療法学専攻を目指すことに決めたのは高校一年生の8月だった。一年生の夏に距骨壊死の手術をして、リハビリを受けた時に理学療法士を目指そうと思い、そのリハビリの先生の薦めでこの大学のことを知り、この大学に入りたいと思った。
一年生の頃は、国公立と私立の違いなど知らなかったし、高校と同じように簡単に受かるものだと思っていた。しかし、三年になり、模試を受け、判定を見ると現実を知り、呆然とした。受かるのは無理なのではないだろうかとすら思った。夏に毎日勉強していると、五教科を全てまんべんなくこなすことのむずかしさを知った。それでも夏の後は成績も伸び、判定もいいものになっていた。だが、そうすんなりと成績は伸び続けるものではなかった。途中で伸び悩む時期が続き、成績が伸びない焦りで体調を壊してしまうこともあった。
センター試験を受け、自己採点をすると去年のボーダーラインを考えると入れない点数であった。そのときには何としてもこの大学に入りたいと思っていた。作業療法学専攻であればボーダーラインを超えていることを知り、専攻を変更しようかとも思っていた。悩んで悩んで毎日のように泣いていた。そんな時、男子バレー部の子(その時には恋人になっていた)が自分の本当にしたいことに挑戦して後悔する方が、挑戦せずに後悔するよりもずっといいと言ってくれて、挑戦する勇気が出た。そして、何とか受かることができ、今こうしてこの大学には入れて本当に良かったと思う。恋人に心から感謝している。

 [551] 勉学下剋上
 高校3年  

自分


ソリューション データ:
私は、小学校3年生の5月頃から小学校4年生の9月まで不登校であった。その間一切
の勉強をしていなかった私は、小学4年の後期にして割り算のやり方も知らないし、自分
の氏名も漢字で書くことができなかった。クラスの授業はお客さん状態で、何を言ってい
るのか全く理解できないまま座ってただぼぅっと黒板を眺めるだけであった。しかしその
うち周りから馬鹿にされるようになり、劣等感や羞恥心が芽生えるようになった。それか
ら叔父に頼んで毎晩何時間も勉強を教えてもらった。級友たちが遊んでいる放課後も、ひ
とりでできる勉強をして過ごした。その時期の集中力は我ながら素晴らしいもので、小学
5年生の終わりには同学年の仲間たちに追いつき、小学6年生では平均より常に上にいる
ようになっていた。そして中学時代は常にトップクラスの成績で周りに尊敬されるほどに
までなった。高校は第一志望には叶わなかったが、進学校に入ることができた。しかし

学校なだけあり、周りの学力が高く、私はまた底辺になってしまった。そんな高校2年の
夏、私は参加した学校の勉強合宿に、友人たちと示し合わせて携帯電話を
もっていった。そしてそれが見つかり、教師の信頼をなくしてしまった。そこで我に返
り、自分はなにをしているのだ、と情けなくなった。せっかく叔父に協力してもらい、自
分も努力して這い上がったのに、自ら落としていることが非常に情けなくなった。進学校
だから自分は底辺でも仕方ない、自分を甘やかしていたのだ。そして私はまた猛勉強し
た。自分の限界を超えようと、がむしゃらに勉強し、ついに夏明けの学力検査では学年
400人中10位に入ることができた。その後の模試も必死に勉強し15番以内を死守し、高
校3年生では特進クラスにはいることができた。周りも驚いたが私も驚いた。努力だけじ
ゃ叶わないこともあるが、いい経験ができたと思う。

 [550] 回り道をするということ
 高校生のころ  

自分


ソリューション データ:
私の競泳人生の中で大きなスランプは高校2年生の5月のベストを最後に全くタイムが伸びなくなった。それどころか、中学のときにも出したことのないような遅いタイムばかり出すようになった。中学までは近くのスイミングスクールに通っていたが、高校は競泳部の強いところを選んだので、練習内容も格段にレベルアップし、練習量も練習時間も、1日の中で水泳のことを考える時間もそれまでとは比べ物にならないくらいほど多くなった、それなのに、どうしてこんなに水泳に真摯に向き合い、真剣に取り組むようになってからのタイムが、その前の自分のタイムより遅いのか理解できなかった。今思うと、ちょうどそのときもインターハイに向けて本格的に目標設定をしだしたときだった。そして3年生の先輩方の引退を機にチームキャプテンとなり、新しいチームを引き継いだ時だった。自分にもチームにもどちらにも集中できなくなっていた。私は競泳を始めたときからずっと平泳ぎ専門で泳いできたので、平泳ぎでしか勝負したことがなかった。しかしあまりにもタイムが伸びないので、シーズンが終わり泳ぎこみの時期である高校2年生の冬に、気分転換に他の種目もメインで取り入れてみようという先生からの一言で、専門種目以外もメインで練習するようにした。その時、背泳ぎのタイムがすごく伸びていることに気づいた。背泳ぎの選手に競り勝っていた、その日の練習から先生から種目転換の提案を聞いた。11年間平泳ぎ一筋で勝負してきた私にとって、それはとても大きな決断だったが、自分でも意外なほどすんなりその提案をうけいれた。その時は自分の競泳人生の最後の1年間への希望を少しでも得たいと思った。ここから私の競泳人生は180°変わる。0からのスタートと言っても過言ではない。競泳を始めたばかりの時のように、初めはタイムがぐんぐん伸びた。しかし、絶好調だった時期に足首の靭帯損傷、そしてまたどん底からのスタート、リレーメンバーの座をかけてチームの選手と競いあった高校3年生の最後のシーズン。様々な壁を「成長の証だ」とポジティブに乗り越えた。たくさん泣いた。歯を食いしばって練習をした。練習後家に帰るのが1年生のときよりも1時間半遅くなった。そして、最後の最後にリレーメンバーの座を勝ち取った。インターハイ2週間前に指の脱臼もあったが。
どうしても堅い壁には、突き進む方法のほかに回り道をする方法もあることを学んだ。逃げているように感じるかもしれないがそれは逃げではなく、勝負である。一か八か自分に新たな可能性を切り開いてみるというのも、壁を超える一つの方法なのだ。あがかなければ何も始まらない。何でもいい、何か行動を起こすことが、困難に見える解決への道を切り開く。

 [549] バイトを通じて成長する
 大学時代  

自分


ソリューション データ:
大学に入学後、まず思ったことは、大学生は一人の時間が長いということだった。
初めて一人暮らしをしたのだから当然かもしれないが、休みの日に一人でいるのはとても寂しいと感じた。
そこで休みの日に人生初のアルバイトをすることにした。
面接した上で採用した後に担当の人から業務を教わることになった。
従業の人に挨拶など当たり前のことをしっかりやることを意識づけた。
しかし何せ初めてのバイトである。
要領は悪いし、言葉遣いや新しく覚えることも多く、最初のうちはバイトに行くことが苦痛に感じる事もあった。
しかし徐々にできることが増えていくことも確かであった。
手際よくできるようになったときや、お客さんと話せたときは嬉しいものだ。
しかし、失敗するときもある。
あるとき、レジの打ち間違えで、お店への損害を出した時があった。
周りの人に申し訳なく、レジをやるのも怖くなった。
しかし、通い続ければ慣れるし、上手にもなる。
バイトで学んだことだ。
今も小さなミスはたくさんするが、それもいい経験だと思ってやっている。
まずは継続することが自分の成長の糧となると考える。

 [548] オーディション不合格を受けて
 2年のとき  

自分


ソリューション データ:
2年の時、私はコンクールメンバーを決めるオーディションに落ちてしまった。悔しくてたまらなかったが、その分自分の技量のなさを改めて思い知った。来年コンクールメンバーになるためには人一倍努力しなくてはならないと思った。そこで朝練習にはいつも部員で一番早くいけるように毎朝6時半には学校に行き、ひたすら練習を行った。勉強と両立できなくて辛い時もあった。上手く成果が出なくて悔しかった時もあった。しかし、努力を惜しみたくなかったことや、後で後悔だけはしたくないと思い、必死に練習した。その頑張りを先輩や後輩、友人に認められる時がたびたびあった。そして「あなたのおかげで毎日朝練習頑張ろうと思った」と何度も言われた。「先輩より早く朝練習に行くことが目標でした」といってくれた後輩もいた。周りに影響を与えていることも感じた。そして3年生のコンクールメンバーオーディションで合格することができた。思うように伸びなくて悩んだ時もあったが、その時支えになったのは今までやってきた練習の積み重ねだった。諦めないで毎日地道に練習してよかったとその時とても思った

 [544] 大学受験の思い出
 大学受験  

自分


ソリューション データ:
わたしは高校のとき地元の進学校に入学していた。
そのため受験自体は2回目のはずだったが、進路を選ぶことから大学を探すことまで、中学とは全く違う受験であった。
中学までは何となく地元の高校にみんなが行くイメージだが、高校になると一人一人が自分の進路を探していく。
わたしは比較的進路については、高校2年のときには決め、大学は志望大学を4校くらいしぼっていた。
そのうち2校は本命であり、わたしはどちらにしようか迷って、2つのうち低い方にしようかと考えていた時があった。
正直、自分の学力では高い方の大学は無理だろうと思っていたからだ。
しかし父にいうと、目標は高い方がいいと言われ、そのときは仕方なく、難しい方の大学を選んだ。
大学受験は決して楽なものじゃなかった。
もし、試験に落ちたら、そう考えて夜なかなか寝付けない日もあった。
そうしたなかで、わたしは日頃の授業を真剣に受けることを心掛けていた。
塾などにはいかず、授業の予習と復習だけやって次の日に備えて早く寝る、そんな毎日だった。
休みの日も机に向かう事ばかりで辛いときは、祖母の家に行って、親戚とたくさん話をした。
祖母たちと話すたびに、自分は応援してくれている人がいると励みになっていった。
また、そうしている間にも自分の心の変化もあった。
それは自分自身が以前決めた難しい方の大学に本当に行きたいと思うようになったことだ。
自分の学力では入れるかギリギリだった。
しかし、勉強して、大学について調べていくうちに、どうしてもそこがいいと自然に考えるようになっていた。
3月、試験会場までは父についてきてもらい試験会場に入った。
試験の最中は、自分の全力を出すことだけを考えた。
後日、試験の結果は合格だった。
合格発表は祖母の家で母と一緒にケータイで見た。
わたしはあの感動は一生忘れないと思う。
あの日、父がこの大学を勧めたから、母が勉強に専念できるようにいつも家事をしてくれたから、自分が毎日勉強に取り組んだから、周りの人がいたからこそ、大学に合格できたのだと思う。


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