[27] 発達障害
母親 自分
ソリューション データ: アスペルガーと診断されているC君は、友人づくりが難しく、勉強もついていけない状態で、ある日学級日誌に「死にたい!もうダメだ。勉強何もわからない!」と書き、担任より相談をうけた。母親は自分の病気と夫の病気、他の子供もアスペルガー傾向で追い詰められていた。私は辛い話をたびたび聴かせてもらいC君はスクールカウンセラーにつなぎ、本人及び母親を支える体制でかかわりつづけた。将来の不安は大きいものの卒業式を迎えられた日のよろこびはお互いに大きなものだった。
キーワード: 支え合って進む
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[26] 大学受験
ソリューション データ: 高校二年生の秋に志望校を急に変更した。今まで勉強したことのない科目を使うなど、少し無茶な変更だった。模擬試験でもE判定だったしかし、部活をやりながらも目の前にある勉強を少しずつこなしていったところ、高校3年生の春には模擬試験でC判定、夏に部活を引退して秋ごろにはB判定、そして冬にはA判定が出るまでに成績が上がった。そのままの成績を維持し、無事第一志望校に合格することができた。今はその大学で周りに刺激を受けながら苦労しつつも楽しく学んでいる。一見無茶に思えることでも、そのときにできることを少しずつでも積み上げていけばよい結果が望めるのだということを実感した
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[25] 普通学級
ソリューション データ: 小学生のとき、発達障害の子が同級生にいました。その子は問題児と呼ばれ、一年生の時には担任の先生がノイローゼで倒れてしまいました。 低学年のうちは、子供たちもそのこと仲良く遊ぶのですが、高学年になるにつれて、何か変だぞ、と思うのかどんどんと離れていきました。 日能研にもその子は入ったのですが、いきたくないとなき暴れている姿を何度か見たことがあります。残念ながら、私の小学校は障害児学級などはなく、そのような例もなかったのです。 しばらくして、その子養護学校へと転校しました。普通の子と同じように育てたいと思って普通学級に入学させ、勉強させようと思ったのかもしれませんが、何の取り組みもして名一が講に入れることは、その子にとっても苦痛となりえるのかもしれません
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[24] 故障した膝
ソリューション データ: 膝の故障で中学最後の試合(バスケ)に出れず その後も原因がわからずじまいで3年間くらい運動ができなかった。 性格も少し荒れ、消極的になってしまったが、いろんな病院をまわりやっとの思いで手術。 PTの先生や医師の先生、友人が励ましてくれたおかげでリハビリをのりこえることができた。 大学で念願のバスケをまたやりはじめ、友人にも恵まれた。今とても楽しいです。
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[22] 発育
ソリューション データ: アスペルガーとLDを合わせ持つ子供の進路について、お母さんとしては特別支援級でよかったけれど別の学校からあがっていく子達とは合わないかもと心配していた。けれど専門医に普通級でもやっていけるだろうと言われた。そのお母さんは前に苦手なことは人並みにできるようにと思っていたけれど、人間なら誰でも苦手なことがあるのだから無理にやらせなくてもいいという話を聞かされたようです。
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[21] ADHD児へのペアレントトレーニングの活用
ソリューション データ: 現在小学2年生の息子は、保育園の年少の時、ADHDと診断された。療育センターへの通所や内服治療を小児精神科の医師に勧められたが、私自身が正職員で仕事をしていたことと、夫の反対にあい、治療を受けることができず、自分自身でまずできることをやろうと思い「ペアレントトレーニング」の本を読んで実践した。指示を明確にし、少しずつステップアップすることと、感情的に叱らずできたらよくほめることを実践していくうちに、衝動的な行動は徐々に落ちついていった。小学校も普通級に通学しており、学習は良くできる方である。気難しい性格はあるが、同性の活発な友人は多く、逆におとなしい子や、女の子とはしばしばトラブルはあるものの、集団生活をおくれている。
キーワード: ADHD・発育障害
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[20] 障害について
自分
ソリューション データ: 高校生の頃。地元の社協で友人にに誘われた 障害児と遊ぶボランティアに参加しました。地元から集まってきている子達で、私もすぐになじみましたが、驚いたことにその中私の近所に住む男の子二人いたのです。一人は自閉症、もう一人は軽い脳の発達障害だと聞き、更に驚きました。二人ともいつも他の子供達とサッカーをしたり、ゲームをしたりしていて障害を持っているようには見えなかったからです。 二人共 私の顔と名前を覚えてくれて「先生」と呼んでくれるようになりました。 毎年そのボランティアに行くのですが私のことを覚えてくれています。 障害について何も知らないと痛感した瞬間でした。
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[19] 「カウンセリング」
ソリューション データ: 最初に書いておかないといけないのは、わたし自身が精神的 に問題を抱えていて、カウンセリングを受けています。 なので、カウンセラー側から考えるのも今後の役に立つのではないかと いうことで勉強しています。一番びっくりしたのは、炭酸とチョコ の話で、まさしく自分にピッタリだったので驚きました。同時に、 ディスカッションはきつかったです。 勉強してみて、自分が考えついた以上にカウンセラーや病院の先生たちは いろんなことを見て判断したり、薬を出したりしているんだなということでした。 意見だけでなく、仕草などすべてを視野に入れたうえで判断していたんだと思うと、 その洞察力はすごいなと感じました。 あと、ディスカッションをしていくいうで、 多分現在受けている私と皆さんでは意見が違うなと感じることもありました。 学んでみて、カウンセラーの役割は想像以上に大変なんだと感じました。 不登校やいじめ、ヤンキーなど対応するのが難しい方々もいるし、 ただ聞くだけでなく価値観の問題があったり、各機関への対応もあったり、 1番自分が受けていて感じなかったのは、カウンセラーだけではなく、 「チーム」を主体とする中で動きがあるということでした。 しかも重要だということも知りました。 うまく書くことはできませんが、今は自分が受ける身。 だけど、良くなって他の人の話も聞くことができるようになったら、リファー、 統合失調症、児童虐待などのケースがあったら対応できるように、勉強したことを 生かせるようにしたいと思います。自分みたいになってしまう子に とってやはりカウンセリングはある意味救いの場です。そういう子たちに 適切な対応ができるように、1人でも生きることに喜びを持つ子が増えるように、 自分自身も知識をつけていきたいと思いました。 感想文になってしまいましたが、自分でカウンセリングを考えるきっかけになりました。
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[17] 障害があると言われ、パニックになった子をおちつかせたコンプリメント
中学生
ソリューション データ: 以前、高次機能障害と診断を受けた子がいた。中1のときは忘れ物が多く、みんなと同じ行動がとれず、絶えず誰か優しい子が世話していたが、中2で両親が離婚し転校することになった。しかし転校先で、こんな子はみられないと言われ、再び戻ってきた。母親は自分の育て方が間違っていたのかと悩み、カウンセラーに相談し、病院を受診して診断がついた。そのことで母親は安定したが、思春期を迎えた子どものほうは授業中にうるさくし、教室を飛び出し、保健室で泣いていた。本人には病名は知らされていなかったが、ある日進路決定をひかえ、親から障害があると言われ、パニックになり大泣きした。 保健室では「今、お母さんもあなたも心が疲れているんだよ」「(障害については)お母さんは人間関係をつくるのが苦手であることを言ったんだよ」と落ち着かせ、その子のいい所をいっぱい褒め、卒業まで元気で過ごした。毎週5〜6人のメンバーにより対応を検討、親も含めチームで取り組みなんとかなったケースである。
キーワード: コンプリメント・チーム対応
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[15] 頼れる先生から言われた一言で自閉症に向きあえた
3才の頃
次女
ソリューション データ: 次女が3才の頃「自閉症ではないかと思います」と保育士に言われた。言葉の遅れや行動から何らかの異常は感じていたが、それが自閉症と言われ問題となって現実がつきつけられた感じであった。「自閉症って何?」という世界で情報収集の段階で打ちのめされてしまった。教育センターを紹介してもらい、アドバイスを受け、家族で立ち向かわなければならなかった。言葉が遅い為、私は言葉を教えることに頭がいっぱいになっていた。そこでの先生の言葉は「お母さんのせいではありませんよ」が第一声だった。「とにかく子供がキャッキャッと声を出して笑えるように、いっぱい遊んで下さい。言葉を教えたりしていないでしょうね。会話の中で言葉をひろいながら覚えていきますからね」と言われた。今までの私は「リンゴって言ってごらん。リンゴだよ」と常にそういう状態だった。それからは「リンゴおいしいよ。パパも食べてるよ。リンゴ食べようね」と言葉を沢山かけるようにした。親は責任感からか、つい遊びも指導のようになってしまうが、長女はただ自然に遊んでくれたため、それも大きかった。夫婦、子供、家族が団結して目標に向かっていた時期だった。「4か月、とにかく4か月がんばって下さい」と言われた。仕事も減らし、とにかく子供と遊び、この笑顔だけは守りたいと思った。果たして4か月目、パジャマのキャラクターを指さし、「ヘーラームーン」と言った。そこから引き出しが開いたかのように言葉が増え、お友達と手をつなぎ遊ぶ姿に涙がとまらなかった。年齢の早い時期に、いい先生にめぐり会えたことは、本当に幸福だった。そして家族の絆も感じた。一人では何もできなかったと思う。相談にも夫婦でいき、コミュニケーションもとった。つらいことは、一人で抱えこまず誰かに相談し、力になってもらう。でも自分ができる範囲でやれる限りのことはする。それが大切ではないかと思う。とても長い間かかった気がするが振り返ると感無量である。話せることはあたり前でなく幸福なことと、子供に沢山のことを教えてもらった。周りの人に感謝する気持ちも、とても大切であり、忘れてはならないと思っている。
キーワード: お母さんのせいではないの一言<br>
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