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男性/女性/...
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(581)
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当事者//...
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 [419] 一歩踏み出す勇気
 高校1年生  

ソリューション データ:
私は高校に入学したばかりの頃、クラスに馴染めず、学校に通うことが苦痛だった。私は幼いころから人見知りが激しく、初対面の人と接する事が苦手だ。楽しい会話をするということはもってのほかで、日常的な会話さえも緊張してしまい、まともに受け答えをすることが出来ないのだ。しかし、周りの人たちは初対面の人とも楽しく会話をしており、入学式の日に連絡先を交換したりして、すぐに仲良くなっていた。私は同じ中学校から進学した人は一人もいなかったので、一から人間関係を形成しなければならなかったのだが、完全に周りから出遅れていた。しかし、部活に入ってからは、そこで何人か友人が出来た。部活は興味のある分野なので、そのことについて話をしやすいし、何より一緒にいる時間が長いので、すぐに緊張がほぐれ、素の自分をさらけ出すことが出来たのだと思う。その友人はみんな他クラスだったので、普段は一緒にいられなかったが、行き帰りや部活があるとには共に行動していた。その友人たちは私がクラスに馴染めていないことを知っていたので、「授業の間の休み時間や昼休みは私たちのクラスに遊びに来ていいからね」と言ってくれた。私はその言葉に甘え、休み時間になると友人がいる他クラスに遊びに行っていた。しかし、そうすることで、ますますクラスに馴染めなくなり、クラスで浮いた存在になっていた。私が通っていた高校は行事が多く、ほぼ毎月何らかの行事があった。ほとんどの行事はクラス単位だったので、クラスで浮いた私にとってはとても辛いものだった。しかし、九月の文化祭の準備期間中に、みんなが自分に割り振られた仕事を精いっぱいこなしてる姿を見て、このまま逃げていていいのかとふと思った。皆が「文化祭を成功させる」と言う一つの目標に向けて頑張っている中で、ただ逃げているだけの自分がひどく情けなく思えたのだ。そこで、勇気を出して、自分に手伝えることはないかとクラス企画の人に聞いてみたところ、嫌な顔をすることなく、快く仕事を与えてくれた。その仕事を遂行するなかで、徐々にクラスの人たちと馴染むことができ、友人と呼べる人もできた。自分が思っていた以上にクラスのひとたちはみんな優しく、今まで逃げていた私を寛容に受け入れてくれた。自分の一つの行動で、状況はよくも悪くもなるのだと思った。ただ逃げているだけではなにもかわらない。逃げ出したくなるような辛い状況の中でも、そこから一歩踏み出す勇気をもつことは大事なのだと学んだ。

 [418] 悔し涙と嬉し涙
 中学  

自分


ソリューション データ:
 私は中学生のとき、吹奏楽部に3年間所属していた。とても上手というわけではなかったが、顧問の先生から褒められるほどの腕前だった。しかし私は「努力」という言葉も、実際に努力することも苦手だった。また、体調を崩すことも多く、あまり積極的に練習に参加していなかった。「練習していないのに褒められるとかうざい」などと言う部員もいたが、言いたい人は言えばいい、私は自分のやりたいようにやる、と変に意地を張り、自分の練習スタイルを見直そうなどとは思わなかった。
 吹奏楽部にとって、吹奏楽コンクールはとても大きな行事である。中学2年生の時のコンクールの1か月前、例年なら行われない部員選考があった。コンクールに出られる人数が制限されるため、出場する部員・しない部員を先生自ら選考した。すると私は出場できると言われ、同じパートのもう一人の2年生が今回は出場できないと言われた。彼女は部内で一番練習を頑張っていた。誰もがそう認めていた。私も彼女がいつも頑張っていることを知っていた。その時初めて私は努力していなかったことを恥ずかしいと思った。もちろん選考されたことは喜ばしいことであったが、自分の努力の成果で出場できるのだという事実がほしかった。その発表の後、トイレで一人大泣きした。悔しくて泣いた。
 コンクールまで残り1か月、私は誰よりも早く練習をはじめ、誰よりも長く練習した。「金賞」を自分の努力でつかみたいと思った。最初は部員たちに非難されていたが、コンクールが終わると「がんばったね」と優しく声をかけられるようになった。その時の涙はうれし泣きの涙だった。
 それからも、私は以前よりも積極的に取り組むようになった。そして中学生活の最後のステージでまた大泣きした。達成感にあふれた「うれし涙」だった。

 [416] 不登校事件
 小学5年生  

ソリューション データ:
小学5年生の時のことである。図工の授業で、私のクラスには「学校で好きな場所」の風景画を描く課題が出されていた。しかし、全員提出期限を守ることができなかった。期限当日は、クラス全員(私以外)立たされて一日中怒られた。なぜ期限を守ることができなかったのか。それは、課題が難しかったわけでも、期限が極端に短かったわけでもない。やることがあったのに、空いた時間を使って課題を進めなかったせいであった。このことを担任はしっていたが、あえて何も言わなかったのだろうと思う。たまたま私は難しいテーマで描いていたため、担任の怒りの対象から外されてしまった。これが不登校の発端である。1人だけ怒られなかったことが本当に苦しかった。しかも、お説教は次の日に持ち越しに待ってしまい、学校に行くことが嫌にだった。精神的なプレッシャーに弱い私はお腹をこわし、その日から約一か月、学校に行けなくなってしまった。病院にも通い、緊急性胃腸炎的なことになっていたので、断食生活もした。通院中は、担任が何回学校においで、と電話をくれたが、学校に行くのかと思うと腹痛が起こり、なかなか復帰できずにいた。学校に行けるようになったきっかけは、当時小学2年生の妹を迎えに言った時のことである。学校についてすぐ、クラスの友達何人かが、クラス全員・担任から手紙の入った封筒を渡してくれた。「もう大丈夫だから、はやく来てね」とも言ってくれた。単純かもしれないが、それだけで今までのしかかっていたおもたい何かがなくなった感じであった。その何日か後に、脱・不登校出来た。

 [413] 単位獲得までの道のり
 大学  

ソリューション データ:
大学に入ってはじめての前期試験が控えていた頃、私は友人何人かとどうやって勉強するべきなのかと話し合っていた。覚えるには多すぎるほどのプリントや資料の山を目の前に、私たちは困惑していた。自力で最初からすべての資料に目を通してみたが、要領が悪いことは明らかで、結局途中で断念してしまった。ある日、大学の文化祭委員の集まりがあり、私たちは先輩にどう勉強したか尋ねる機会があった。すると、先輩が過去問や重要なところをまとめたものを下くださり、重要なところから覚えて、後々肉付けするように勉強することを教えていただいた。それから私たちは科目ごとに役割分担をして重要そうなところをまとめ、お互いにわからないところなどを教えあうなどして、知識の定着につなげていった。時には自分たちにわかりやすいように絵を描きながら、または音読しながら記憶していた。その結果、すべての結果はまだ出ていないが、一生懸命勉強した科目の単位をとることが出来た。友人や先輩の協力によって自分の努力が報われ、安心した出来事だった。

 [412] 弓道で乗り越えた壁
 高校生  

自分


ソリューション データ:
高校では弓道部に所属していた。私の高校は弓道では無名校であったが、私たちの代が奮闘して試合の上位につくようになっていた。これは3年生にとって最後の大会までの話である。私は最後の試合の一ヶ月前くらいにスランプに陥ってしまっていた。今までのような射形がうまくできず、的に全然中らなくなってしまったのである。悔しくて涙することもあったが、周りからの心強い支援もあり、めげずに練習していた。試合のメンバーの数には限りがあったため、メンバーの中に入るようにと努力したが、記録をのばせず、試合には出られないのかと不安に思っていた。スランプから抜け出せないままメンバー発表の日を迎えてしまった。しかし顧問の先生は、チームで一番に矢を放つ「大前」に私を選んでくれたのである。思わず「私が大前でいいのですか」と聞いたところ、「今まで大前はお前だったのだから、任せられるのはお前しかいない」と言ってくれたのだ。できないからといって落ち込んでいる場合ではない、勝つために最大限の努力をしようと思い立った。試合は県4位という結果を残し、私たちは引退した。誰にだって不調のときはある。それを素直に受け止め、周りに力を借りて乗り越えていくことが大切だ。その代り、周りに苦しんでいる人がいたら手を差し伸ばしていけたらいいと思う

 [411] みんなの支えと自分を信じた高校受験
 中学生  

高校受験


ソリューション データ:
 私には中学1年生の頃から憧れの高校がありました。それは市内で一番の高校で、上に兄弟がいなくて高校の情報にも疎い私でも知っているほど市内では有名な学校でした。
 そしてその憧れは変わらないまま中学3年生になり進路希望をとる時期になりました。中学3年生にもなるとほとんどの人が塾に通っていたのですが、私は塾で受験勉強するというのが自分には合わないと思ったので、通信教材で勉強していました。そのことで「塾にも通っていないのに、この高校目指しても平気かな。」と不安に感じ、進路希望の用紙も誰にも見せたくありませんでした。
 そろそろ受験する高校を決定して勉強しなければならない12月ごろになり、私は本当にその憧れの高校を受けようか悩んでいました。なぜかというと、最後の三者面談で担任の先生に「内申がその高校の他の受験生に比べて低いので、正直受かるかどうかわからない。」と告げられたからです。もしチャレンジして失敗したら私立高校に通うことになり、私の家は裕福ではないのに高い学費を払ってもらわなければなりません。そのことが気ががりで「ひとつランクを落とした公立高校を受けようか。でもあの高校以外魅力を感じない。」というように、どこの学校を受験しようか悩んでいたのです。そんな中、父親から話があるということで私は呼ばれました。父は、「お金の事なんて気にしなくていいから、自分が本当に行きたい高校を受験しなさい。」と言ってくれました。その言葉で私の心はその憧れの高校に合格するために頑張ろうと決まりました。
 冬休みに入り、やっと私は本格的に受験勉強を始めました。通信教育の教材に加え、父が買ってきてくれた多くの教材から、私の苦手な部分を克服するために何が必要かを考え、受験日までの勉強計画を立て、自分の部屋にこもって頑張りました。しかし、塾に行っていないということ自体に引け目を感じたり、受験に詳しい人からの客観的な意見がないということにも不安を感じたりしました。それでも自分は最後までできることを一人でやってみました。
 1月になり、内申が足りないので前期は受からないと担任の先生に言われていたのですが、チャンスを1回でも多くするために、前期試験を受けることにしました。試験の前は母が面接練習に毎日付き合ってくれたり、面接の応答をメモする単語帳を作ってくれたりしました。そして本番の面接では、面接官の先生が笑顔で聞いてくれたので安心して楽しく話すことができました。しかし、結果はやはり不合格で、それからは後期試験に気持ちを切り替えて勉強しました。
 1ヵ月後後期試験の前日、前期試験で合格した子たちがお菓子を作ってきてくれたり握手をして力をおくってくれたりしました。本番では数学が全然解けず落ち込んだのですが、最後の教科まで諦めず全力を出しました。そして結果は合格でした。家に電話した後、母と祖母と叔母は泣いて喜んでくれたそうです。
 塾に行かず、一人で戦ったと思っていた高校受験は、家族や友達や学校の先生など多くの人に支えられたものでした。そして不安になりながらも最期まで自分を信じて目標を変えずに勝ち取った合格は、私が一生誇りに思え、自信となるものだと思います。

 [409] 私の成長にかかせなかった「部長」という役割
   

ソリューション データ:
中学2年生の時、競技系の部活の部長になったしかし私は部長になりたくないと思っていた。何故なら私にはリーダーシップなんてものはないし、誰よりも強く、好成績を出せる部員ではなかったからだ。独木の部員は2人いたが、それぞれ部長になれない事情があった。そうして部長になった私は、私なんかが部長でいいのかと悩んだ。確かに毎回部活には参加しているが、それはただ部活に「いるだけ」である。
私は先輩らしいことなど何一つしていないと思っていた。やがて部長としてのプレッシャーや、しっかり責任を果たさなければという思いに耐えきれなくなった私は部員に迷惑をかけることが多くなった。練習時間を短くしたり、ふざけだしたりなどである。そのたびに同期に怒られたが、正直どうしていいのか分からなかった。どうすれば、部長としての責任を果たせるか分からなかったのだそれでも辞めなかったのは、その教義が好きで、部員のことが大切だったからだ。結局後輩たちに引き継ぐまで私のことが嫌いで部活をやめると言い出す人はいなかった。心の中ではどう思っていたのかは分からなないが、私が卒業するときに、先輩のおかげで頑張れたという言葉をかけてくれる人もいた。同期の部員も私を見捨てることはなく、悩みを聞いてくれたり、ずっと支え続けてくれたりした。もし、私しかいなかったら後輩たちをまとめることはできなかっただろう。今でも部長としての責任を果たせたとは思っていないが、逃げずに引退するまでやり遂げられたということは、部長という壁を乗り越えられた証なのだと考えている

 [407] 家族
   


ソリューション データ:
私には小学生の妹がいます。妹はとても優しくいい子なのですが、短期で怒ると自分の思いを止められなくなり、つい手が出てしまいます。そのため学校で問題ををおこし毎日のように家に学校から電話がかかってくることがありました。お母さんはそのたびに妹に理由を聞き、これはダメだよねと説得しました。学校側はあまりにも頻繁におこし、他の子の親御さんからもクレームがきてしまったため、両親を学校に呼んで話し合いまでしました。私は妹にあきれてい部分がありましたが、お母さんは妹にあきれることなく、必死に妹を説得しました。そのおかげで妹は学校で問題を起こさなくなりました。私は、他の親御さんから何と言われようと妹を信じ、見守り続けたお母さんから信じることの大切さを学びました。

 [406] 日本での学校生活で乗り越えたこと
 小学1年生の頃  

自分


ソリューション データ:
私が日本で学校に行き始めたのは6歳(小学1年生)の頃でした。学校に行く前は日本にも慣れ始め、友達もでき、とても充実した日々を過ごしていました。ある日、親の友人が家にきて私は、ランドセルが何なのか分からなかったので、彼女の顔を見て困った顔をしてしまいました。それに気づいた彼女は、こうやってランドセルを使うんだよと私を後ろに向かせ、背中に背負うのを手伝ってくれました。私はランドセルを背負ったときに、とても軽く感じ、こんな魔法のカバンがあったのだと思いました。
やがて私は小学1年生になり、学校に行き始め、すぐさま変な目で見られるようになりました。私だけが外国人でしかも黒人ですから、珍しかったのでしょう。学校では色んなしきたりがあり、私にとって一番大変で乗り越えなければいけなかったことは掃除と給食です。掃除なんてあまりやってなかったので、どうすればいいかわからず、また日本語を覚えたばかりだったので、あまりコミュニケーションがうまくできなくて、例えばどこを掃除すればいいですか?と聞きたくてもなかなか言葉が出ず、間違ったところを掃除してしまい、しまいには怒られることが多々ありました。また、給食では、食べ物は家で食べるものだと思っていたので学校で食べ物が出されるなんて思ってもみませんでした。一番つらかったのはあまり慣れていない食べ物を出されたとき、食べられないことが分かっていても残すわけにはいかないと思い、無理やり食べて後で吐くということも時々ありました。最初はなかなか友達ができず孤独で怖かったです。時々、私は思っていました。どうして受け入れてくれないのかと。私だって同じ人間なのにと。私はこれらの、試練とまではいきませんが文化の違いに苦しみました。

 [405] リストカット
   

ソリューション データ:
中学生の頃、自分になんとなく自信が持てなかった。自分と付き合っている人は皆、私に惹かれたのではなく、ボランティア精神によるものだと思い込んでいた。
そんなおりに、メンヘラネットアイドルのブログを読んで、自傷行為をしった。手首を切るようになった。初めは一センチほどのうっすらしたものが、腕全体に広がって深くなっていった。半そでになる部活で傷を見られるのが嫌で、部活にでなくなって、ますます自信がなくなった。人とうまく喋れなくなって、友達を避けるようになった。そしたら、誕生日の日、友達が手紙とともにブレスレットをくれた。切りたいなら切ればいい、でもやめたいなら頼ってという内容だった。友達に不安なことを話した。私がある意味で自意識過剰すぎることがわかった。内にこもっていないで、いろんな人と関わることで自分の中の価値観が変わって、こじらせすぎていることに気付けたのだ。


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