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 [567] 重大な決断
 高校受験  

自分


ソリューション データ:
高校受験の時、第一志望は家から近いのと、周りからとてもすすめられたことを理由になんとなく決めた。当時は前期選抜制度があったので、そのころ成績が良かった私は前期選抜を受けることにした。その高校をすすめてきた担任も、私の内申なら受かるといってくれた。親の反対により塾には行けず、家庭教師とはもめて三ヶ月でやめ、受験期に勉強を一緒に頑張ってくれるという心の支えがない私は、周りのみんなが塾の話をするたびに不安が大きくなっていた。そのためさらに、筆記テストが重要な後期選抜ではなく、面接と内申重視な前期選抜で受かってしまえたらとずっと思っていたらとずっとおもっていた。そして試験を受けた結果、見事に落ちてしまい、期待していただけに涙を流すほど悔しかった。自分の内申点には自信があったし、先生が推してくれたこともあって、まさか落ちるとは思わなかった。その結果にひるんで、後期選抜の志望校を一つ下レベルに下げた。担任には複雑そうな顔で認めてもらい、期待されてた親にする詩をもらった。そもそもその学校にどうしても行きたかったわけじゃないし、近ければ何でもいい詩と思って、後から考えればそうやって自分に思い込ませるようにして願書を書いた。前期選抜結果発表から後期願書提出までは、他のクラスの先生まで声をかけてくれ、励ましてくれた。しかし新しい志望校を目指していた子達は新しいライバルが増えたことに露骨に嫌な顔をして、全く歓迎されなかった。逆に今まで同じ高校を目指していた子達は、呼び戻そうと声をかけてくれた。そんな風に過ごして気が付いたら後期願書提出日の前日になっていた。今まで本当にこれでいいのかなと何度も考えて、そのたびにこれでいいんだと思い込ませてきたけれど、やっぱりこのままでは負けたような気がして悔しかった。夜になって急に考え直して、元の第一志望に戻すことができた。結果ギリギリではあったけど自分の母校にすることができた。人生に大きくかかわる重大な決断をするときは少しでも迷いがあったり、別の選択肢に未練があると感じるのなら、少しのリスクをおかしてでも思い切って違う選択肢を選んでみることが本当に大事だと思う。

 [566] 母の言葉
 祖父が死んでしまった時  

自分


ソリューション データ:
私は祖父が大好きであった。しかし私が高校一年生の時に無くなってしまった。人間である以上、いつかはそうなる運命にあることはよくわかっていたし、自分もいつかはなくなるということも理解していたはずなのに、いざ直面してみると大変ショックであった。今まで身内を亡くしたという経験がなかったというのもショックが大きかった理由の一つにあったのではいかと今振り返ってみて感じる。中々信じられなくて、とういよりは信じたくないという気持ちが強かった気がするが、学校でも今までのように笑うことができなくなり、あまり楽しくも感じなくなり、少しでも祖父のことを思い出したり、学校の中でふざけて言っているのであろう命を軽んじるような発言を耳にしたりすると大変心が痛み、時には涙を流すこともあった。数か月たって仏壇の前にある祖父の遺影をみるだけでも、家族で祖父のいたことを思い出話してみても、泣くことしかできない状態が続いた。
 そんなある日、いつものように私が泣いていると「泣いたっておじいちゃんは喜ばないよ。あなたは笑顔でいなきゃ、おじいちゃん心配しちゃうよ。」と母が泣きながら教えてくれた。その母の一言で私は何かが吹っ切れたかのように、まだ自分でも何が響いてもとに戻れたのかはわかっていないのだが、祖父が亡くなる以前の笑顔を取り戻すことができた。祖父が亡くなった寂しさをどうにかしたいと思っていたわけではなかったが、自分らしさがなくなっていること、心あら笑えていないことに気付いていた。しかし自分らしさがなくなっていること、心から笑えていないことには気が付いた。しかし自分ではどうにもできずもやもやしていたのかもしれない。そんな時の誰かからの一言はその人の人生を変えることができず力を持っているのだと感じた。身近な人を亡くした後の人間は大変デリケートであり私のように学校での命を軽んじる発言などには敏感になる人もいるだろう。しかしながら反対に母から言葉のようにちょっとした一言で気持ちが楽になることもある。
 この経験を通して、もしも私の身の回りに身近な人を亡くしてその人らしく生活することができていない人がいたのなら、きっと精神状態が不安定であろうことや、そっとしておくべきか、励ますべきなのかをよく考えて逆に刺激することの内容に細心の注意をはらいながらも私も母の言葉のように周囲の人をもとの状態に戻してあげられるようになりたい。

 [565] 高校の部活での体験
 怪我をしたとき  

自分


ソリューション データ:
私は、部活の練習中に左ひざのけがをしたために、入院・手術を行いました。もともとソフトボール部に所属していたため、協議に復帰することがリハビリの目標とされていました。しかし、わたしの中でけがをしたのでソフトボール部を退部しようと考えていたので、リハビリの目標は私の思いとは全く異なるものでした。そのため、リハビリにもやる気が起きず担任の先生に「そろそろキャッチボールしてもいい」と言われても、部活には出ないでいました。そんな中、退部しようとしていることを部活の先輩に伝えたところ、とりあえず一度部活に来てほしいと言われ、渋々ながら部活の見学に行きました。その際顧問の先生や先輩、同級生に説得されとりあえず1週間部活に出席することになりました。出場したいという思いが芽生えました。そのあとはリハビリに対しても今まで以上にやる気が出て、無事にプレイヤーとして試合に出場できるほどにひざの状態も回復しました。一時は帆のつに部活をやめようとしていたのですが、最後まで続けて、本当に良かったと思います。

 [564] 反抗期の中2
   

反抗期の中学生


ソリューション データ:
私にはいとこがいます。上が現在中学二年で下が小学六年生。どちらも男で体が多きい。中2の方は反抗期に入ったらしく毎日のように母親とケンカをしている。母親の方も反抗期なんだからそんなに本気で怒らなくても…とこっちが思ってしまう程本気で怒る。毎日毎日どなりあっていて、2人とも完全に感情的になってケンカをしていた。いとこの方はだんだんクラスの子の物を盗む、物を壊す。などの破壊的活動で怒りを発散するようになってきてしまった。母親の話はきかない、父親は嫌い。最終的に年齢が近い私が話を聴くことになった。落ち着いて、冷静に相手をしていると、いとこも別に興奮する様子もなく、おとなしく「何で自分が毎日こんなに怒っているのかわからない。」と言っていた。とりあえず落ち着いて相手から話をきくときはまず、自分がおちついたほうがいいんだなと感じた瞬間だった。

 [563] レールの上の目標設定
 中学生の反抗期  

ソリューション データ:
私は幼稚園入園前から学習塾に通い、小学高中学年の頃、中学受験化に変更し中学受験に向け放課後学習塾に通う毎日を過ごしていた。そして中学、高校と都内の私立女子校に通学した。小学生だった当時は、勉強する目的はただ両親に褒められることだけで、両親自慢の成績優秀な娘であることが私の目標だった。放課後は友達と公園で遊びたい気持ちを抑えて学習塾に通い、学校のテストではいつも100点が当たり前で「間違えることが許されない、一番であることに意味がある」そのような感覚を覚えるようになった。中学生になり反抗期が来ると日々の勉強や生活における目的を失い、両親の願いがかなった私であること自体に嫌気が差し、自分のやりたいことでも両親の喜ぶことはやらないなどと、両親を悩ませる行動をあえて選んでとっていた。
しかしそんな当時も勉強することが自分のなすべきことであることはどこかで理解していて、目的を求めて悩み、自分自身を模索中だった。そこで私は成績優秀の友人と競い合うことで自分自身のモチベーション上昇につなげていた。実際にわたしの成績は上昇し、自分自身で目標設定をして努力の仕方を考えたことで、落ち着いた生活を送ることができた。
このように自分自身のやる気、モチベーションの停滞はその人の態度や価値観を変え、周囲の人たちからの見方にさえも影響を及ぼす。しかし、時にその効果を上手に利用できれば私たちの行動、言動はプラスに働き成功を収めることにつながるのだ。両親がレールの上を走らせてくれていることに気が付いた時、異なる方向に進みたいと多くの人が思ってしまうと思うが、その時に大切なことは自分で設定した目的地に進むことであろう。全く別の道だと思っていたルートも枝分かれになった道を選ぶだけであったと、私は成長し、レールを進むごとに実感した。

 [561] 最後のコンクール
   

ソリューション データ:
私は中高吹奏楽部に所属していた。吹奏楽部は、年に一コンクールが開催され、他校と演奏の技術の技術を競う大会がある。中学2年の時から高校2年まで、毎年メンバーが変わる仲間と精一杯上の大会へすすめられるように努力してきた。しかし、私は一度も県大会にすら行けてなかった。そこで迎えた高校3年生。私の高校では、高3はコンクールに出るかどうかは自己判断で決めることになっている。私は最初、出ないと決めていた。コンクールの前日に模試があり、前日にメンバー全員が集まれないのは致命的であることをよく知っていたから、「勉強が追い付かないから」とかではなく、他のメンバー全員の事を考えて敢えて辞退することにした。しかし、同級生の部長から、「その理由が本当の理由なら、コンクールに出てほしい。」と何度も言われていた。そんな時、コンクールに出る人は合奏で、それ以外の人は個人の練習と言う時間が設けられて、いつも合奏していた部屋から漏れてくる曲が聞こえてくる中で、孤独に練習するのはまるで地獄のような時間だった。そこから悩みに悩んで、指揮の先生にも前日練習に参加できないことを伝えて許しをいただいたうえで、私のコンクールの出場が決まった。それからの時間はとても濃い時間だった。演奏のことで喧嘩もしたが、私は県大会出場と言う夢を叶えるため、吹奏楽部と真剣に向き合える最後の時間を全力で楽しんでいた。結局、散々悩みの種であったコンクール前日の模擬は、1科目だけ受けて抜け出してしまった。コンクールの結果からいうと、あと一歩のところで県大会の切符は逃してしまった。しかし、私が吹奏楽部に関わってきた6年間は、今でもかけがえのない記憶として残っている。私はこれからもずっとこの時間を大切にして生き続けるのだろう。

 [560] 人に相談するということ
 高校生  

自分


ソリューション データ:
部活での自身の怪我や、後輩が何人も体や心に障害を抱えてしまい剣道ができなくなった経験がきっかけとなって、理学療法士を目指すようになり、高校3年で第一志望を県立大学に変えた。引退までは部活を全力でやりたかったため、受験勉強は引退後に始めた。初めから模試の判定は第二志望すらE判定で、遊ぶ暇などないと必死だった。テレビを読書もやめて、睡眠時間も削っていた。今思うと余裕がなさ過ぎた。10月に入っても判定はE判定だったため、学習計画を変更した。そして11月後半、このままでは確実に落ちるという焦りで追い詰められてしまい、1週間で2、3キロ痩せてしまい、学校でも気持ちが悪くて教室にいられなくなってしまった。
そこで、それまでは一人で考え悩んだり、塾の一人の先生に受験の相談をしていたが、うまくいかない科目を学校の先生に相談したり、焦る気持ちを友人にも話してみた。すると精神的にも少し安定して、学習計画も立て直せた。12月の最後の模試まで不安定になることもあったが、友人が気づいて話を聞いてくれて落ち着けたし、また第二志望がC判定になり、更に精神的に安定して全力で勉強出来るようになった。第一志望のこの大学は最後までE判定だったが、ぎりぎりまで粘って頑張ったためか、センター試験では最高点をだし、E判定からの逆転合格ができ、途中あきらめなくて本当によかったと思った。
一人の考えでは限界があり、そういった時に複数の他人に相談することの大事さや、聞いてもらえるありがたみを実感した。

 [559] 緊張の解き方
 高校2年生  


ソリューション データ:
 私はしゃべるのが苦手とかではないのですが、学校で人前で発表したり、発音のテストをしたり、緊張してしまうと唇が震えて上手くしゃべれないことが多かったです。高校2年生のときに卒業論文のレジェメの発表に選ばれて、発表しなければならなくなりました。
 話は少し変わってしまうのですが、私はクラシックバレエを習っています。その発表会のときは、ソロであってもそこまで緊張しませんでした。なぜか考えると、失敗したらどうしようとか聞いている人に変な風に思われたくないとか考えずに、ただ楽しんで、それがお客さんに伝わるように踊っていただけでした。
 なので、そのレジェメ発表のとき、予想していたよりたくさんの人がきてとても緊張したのですが、しっかりやろうと思うのではなく、自分が発表して聞いている人に伝えることを楽しもうと、笑顔で発表したら、上手くいったし、楽しかったし、友達からも褒められました。

 [558] 部活での成長
 中学・高校  

自分


ソリューション データ:
私は、中高一貫校だったため5年間ずっとバトン部に入っていた。
私は他の子に比べて、バトンの技も踊りも上手ではなかったので、演技では後ろの方で踊ることばかりであった。
そのことは、そう強く気にしていたわけではなかったが、練習でお互いを注意し合う時間を設けたときに、いつも私ばかりが指摘されることが恥ずかしく、悔しかった。
周りの子はわざと私のことを集中して「何か変だよ」と注意して、楽しんでいるようにも見えた。
指摘をしてもらえることは気づかずに踊っているよりもずっと成長できることであるし、それをありがたく思わなければいけないとは分かっていたが、あまりにも私ばかりがそう言われるため、本当に自分はだめなのだと落ち込んでいた。
しかし、高校2年のある日、このままではいけないと思って、学校から帰った後の毎晩、誰もいない公園で技の練習をするようになった。
なかなか進歩はしなかったし、その時の私からしたらできるようになれそうもない技だったけれど、みんなとの差を埋めるために必死になって練習した。
すると、いつの間にか技ができるようになり、踊りも上手になったと他の子に褒められるようになった。
今までずっと後ろだったフォーメーションも、前の方にしてもらえるようになり、練習中も「きれい!言うことない!」と言われるようになった。
私は、それまで努力を実らせるほどの努力をしたことがなかったため、自分に出来ないことはたくさんあって、それは仕方のないことだと思っていたが、このことを機に向上心を持つことを大切にするようになれた。

 [557] 積極的に発言する勇気
 高校  

自分


ソリューション データ:
私は昔から自分の意見を積極的に発言することはできない人間だった。それを乗り越えたとかんじたのはつい最近である。私は高校に入って、地域の吹奏楽団体に入団した。そこでは幅の広い年齢層が集まってみんなで演奏槐に向けて毎週一生懸命に練習している。そしてみんな練習で気づいたことがあると年齢関係なく、そして遠慮することなく意見を出し合う。しかし私は入団当初は思ったことがあっても意見を言えないでいた。ある演奏会で、自分がずっと気になっていたところが本番でもうまくいかず、終わってからを悔し泣きした。そのときに気づいたことは、何も行動することが出来ないまま失敗するのは、何かアクションを起こして失敗することより何倍もの後悔と悔しさが残るということだ。また、今まで意見を言えなかったのは、意見を言って周りから反感を買って嫌われるのが怖かったのだということもその時気づいた。そして次の演奏会に向けての練習では、嫌われてもいいという気持ちで思い切って自分の意見をたくさん発言するようにした。すると、みんな私の意見で違うと思うところはきちんと反論をしてくれたり、いいと思うことは採用してくれたりしたので、いつもある本番直前のモヤモヤがない状態で本番に臨むことができた。結果、その演奏会は「最近の演奏会のなかで1番満足できた」と多くの団員が言っていたほどの成功を収めることができた。ちょっとの勇気をだして意見を出し合うことが出来るとこんなに楽しく演奏できるのだと分かったため、今では積極的に発言できるようになった。


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