最近訪問した塔婆・ご提供画像(2013/05/07〜2014/05/24)

過去の訪問塔婆履歴

2014/05/24 山城法勝寺伽藍模型 京都アスニー展示模型 → 白河法勝寺
京都日蓮宗諸寺 出水西寺町華光寺<四条妙顕寺末寺>、出水本昌寺<山城妙覚寺末寺>
2014/05/28 山城椿寺 再訪 → 山城北野天神多宝塔板扉絵 (板扉の絵は初見)
山城北野天神 再訪 → 山城北野天神社殿、多宝塔擬宝珠、推定多宝塔跡、千本釈迦堂
具足山立本寺 再訪 → 具足山立本寺
宥清寺 再訪 → 本門仏立宗宥清寺
京都日蓮宗諸寺 山城西京妙堯寺<六条本圀寺末寺>、山城西町妙栄寺<玉沢妙法華寺末寺>、
山城北野法華寺<池上本門寺末寺>、山城北野十如寺<山城日蓮宗無本寺中> 、
山城上立売千本本瑞寺<山城妙伝寺支配>、山城上立売千本本久寺<山城本隆寺末寺>
山城教王護国寺 遠望 → 山城教王護国寺
2014/05/18 備中国分寺 再訪 → 備中国分寺五重塔
備中国分尼寺跡 再訪 → 山陰・山陽の塔跡
2014/04/13 山城神雄寺跡 再訪 → 山城神雄寺塔跡現況
山城御香宮/紀伊寺心礎/東照権現 再訪 → 山城御香宮(紀伊寺心礎)/御香宮東照権現 (東照権現中にあり)
2014/05/01 日尊門流本山要法寺 再訪 → 本山要法寺
日什門流本山廃妙泉寺 再訪 → 妙泉寺
日什門流本山寂光寺 再訪 → 寂光寺
身延門流本山妙傳寺 再訪 → 妙傳寺
京都岡崎満願寺 → 京都岡崎満願寺
白河法勝寺金堂土壇 → 白河法勝寺跡
妙覺寺末寺二条本妙寺 → 妙覚寺中の末寺の項にあり
中山門流本山頂妙寺 再訪 → 頂妙寺
日隆門流大本山本能寺 再訪 → 本能寺
真門流総本山本隆寺 再訪 → 本隆寺
學要山勝光寺 → 勝光寺(確証はないが、21ヶ寺本山の一つ身延門流廃學養寺の寺格を引き継ぎという。)
2014/04/26 備中吉備津宮 再訪 → 備中吉備津宮
備中妙玄寺ほか 備中高松妙玄寺、同星友寺、同題目碑、同文英石仏
 → 西国諸国の日蓮宗寺院中、備中大崎廃寺
2014/04/05 山城清水寺 再訪 → 山城清水寺、三重塔は彩色復元修理中
山城八坂塔 再訪 → 山城法観寺
2014/04/10 陸奥慧日寺跡  → 陸奥慧日寺跡/観音寺跡
陸奥借宿廃寺 ○「N」氏情報:「N」氏は「塔跡があったと記憶している」とのこと。
○本廃寺は奈良−平安初期の寺院跡とされ、南北約4.5m,東西約13.6m、高さ約60cmの不整形の土壇を残し、径70〜160cmの礎石(自然石)3個を残す。鐙瓦・字瓦・塼仏を出土という。
「白河風土記」(文化年中編纂)では、「・・・大石の柱礎と覚しきもの其のほとりに十枚計もある。・・・」と記し、また古瓦が出土することが記される。
大正・昭和の初期には、東西に並ぶ大小2つの土壇(東西14m、南北8m、高さ0.6mを測る基壇と、その西約12mのところに南北9mの高まり)が確認され、あわせてこの土壇付近から2種類の塼仏が発見される。
郡寺という概念が成立するのであれば、白河郡寺とも推定される。
想定金堂跡土壇には礎石3個が残る。
2004/12/04追加:
○河北新報12月3日記事:白川市教委発掘調査
現存基壇の西側基壇が確認されたが、その形は特定できなかった。しかし地形から見て、正方形の蓋然性が高いとされる。(「白河郡衙関連遺跡群検討委」)
2014/01/22追加:
○平成15〜19年(2003〜2007)の発掘調査により、並列する基壇跡は西側が塔跡、東側が金堂跡と位置づけられる。また、塔跡・金堂跡の北側には、講堂跡が存在していることが明らかになり、本寺院は法隆寺式伽藍配置を有することが確認される。
2014/04/25追加:
○昭和9年に土壇の測量調査が行われる。
 昭和9年土壇測量図:A、B礎石は原位置、C礎石は移動
 昭和9年礎石実測図;Aは2尺8寸×2尺4寸、Bは2尺6寸×2尺3寸、Cは4尺3寸×3尺2寸で厚さ2尺・1尺(ママ)
○2014/04/10撮影:
 陸奥借宿廃寺塔跡1   陸奥借宿廃寺塔跡2   陸奥借宿廃寺塔跡3   陸奥借宿廃寺塔跡4
 陸奥借宿廃寺金堂跡   借宿廃寺金堂礎石    陸奥借宿廃寺講堂跡
 陸奥借宿廃寺遺構図   借宿廃寺出土塼仏
白河市歴史民俗博物館展示
 複弁六葉蓮華文軒丸瓦   借宿廃寺出土丸瓦
陸奥白河関川寺 納骨堂と思われる相輪を架した堂宇を有する。詳しい構造は不明であるが、下重は平面の広い納骨堂でその上に1間の宝形造の上重を載せ、さらに相輪を架した構造と思われる。いわゆる二重塔のような構造では無いと思われる。
 白河関川寺塔風堂宇1     白河関川寺塔風堂宇2     白河関川寺塔風堂宇3
 白河関川寺塔風堂宇4     塔風堂宇内部
結城家菩提寺で結城宗広の開基と伝える。曹洞宗。関川寺古くは関川窪にあったが、天正9年(1581)に現在地に移転する。また現在関川寺が立地するこの地は結城氏館の跡で今も堀や土塁を残す。
 結城宗広墓所     結城氏館土塁
2014/04/09 陸奥柳津圓蔵寺 柳津虚空蔵 → 陸奥柳津圓蔵寺
陸奥塔寺恵隆寺  → 陸奥塔寺恵隆寺、付録:弘安寺(中田観音)
陸奥法用寺  → 陸奥法用寺
陸奥正宗寺三匝堂  → 陸奥正宗寺三匝堂(栄螺堂):三匝堂(栄螺堂)中にあり
会津村三重塔  → 会津若松会津村三重塔、鉄骨五重塔残滓
日什門流会津若松妙國寺
日什門流会津若松妙法寺
 → 京都妙満寺中にあり
日興門流会津若松実成寺  → 上条大石寺中にあり
2014/04/08 陸奥郡山台廃寺  → 陸奥郡山台廃寺;但し廃寺跡は未訪門、関係個所を訪問
陸奥木幡弁財天  → 陸奥木幡弁財天
安達ケ原五重塔1
安達ケ原五重塔2
安達ケ原五重塔3
安達ケ原五重塔4
安達ケ原五重塔5
安達ケ原五重塔6
安達ケ原五重塔7
三本松市安達ケ原ふるさと村。
平成5年(1993)建立。RC造。高さ31m。初重には母子像(銅造、元日展理事長・彫刻家・橋本堅太郎2013年製作、像高213cm)を安置する。総工費2億4720萬円。
ふるさと村のシンボルとして建立という。 建設趣意書では「イメージPR用タワーとして建立する。黒塚の既存施設と当該施設との調和と整合性を考慮」して建立という。黒塚との調和と整合性とはよく分からないが、宗教性は皆無のようである。
 安達ケ原黒塚1     安達ケ原黒塚2     安達ケ原観世寺
2014/04/05 山城教王護国寺 再訪 → 山城教王護国寺
2014/03/20 山城深草宝塔寺 再訪 → 山城深草宝塔寺
2014/03/19 山城醍醐寺 再訪 → 山城醍醐寺
山城栢杜遺跡 再訪 → 山城栢杜遺跡
2014/02/16 備前吉備津宮塔跡・塔重跡 再訪 → 備前吉備津宮
備中大崎廃寺  → 備中大崎廃寺
備中吉備津宮/真如院  → 備中吉備津宮/真如院
備中辛川大覚堂  → 備中辛川大覚堂
備中高松星友寺
備中高松妙玄寺
備中高松妙立寺
備中和井元妙立寺
 → 西国諸国の日蓮宗寺院
2014/02/15 備前蓮昌寺 再訪 → 備前蓮昌寺
備前上生院二重小塔  → 備前上生院二重小塔:なを、二層塔の分類項から屋外小塔の分類項に移行する。
備前東照権現  → 東照権現・東照宮中にあり。
2014/02/01 播磨七種山推定多宝塔跡  → 播磨七草山多宝塔跡
播磨黒沢山光明寺塔跡  → 播磨黒沢山塔跡
播磨法雲寺利生塔跡  → 播磨法雲寺利生塔
播磨宝林寺塔跡比定地

 宝林寺本堂
 宝林寺俯瞰:左から円心館、本堂(立木で写っていない)、庫裡。
 塔之谷の表示
○「峯相記の考古学」の「『峯相記』の寺院と瓦」(田中幸夫)では、宝林寺の塔婆に関する記述があり、それは以下のようなものである。つまり、宝林寺には塔婆の建立があったことを示唆するものである。
 【(採取された「波状文瓦」の内)「(図15)七種寺跡と(図16)宝林寺は同范である。(図16)は宝林寺の塔跡から見つかったもので、宝林寺の大塔は応永13年(1406)から建築が始まっており、瓦はそれ以降のものである。】
 上述の宝林寺塔についての典拠あるいは史料の問い合わせを「上郡町教育委員会」にしたところ、「社会教育課文化財係」より、およそ以下の趣旨の回答(1〜3)を得る。
 ※回答の検証を行ってはいないため(後日予定)、そのままを転載(趣旨)する。
1)「宝林寺の大塔は応永13年から・・・」の記述は、「上郡町史」第三巻の「宝林寺遺跡」の記述の引用と思われる。
また、「赤松円心・満祐」高坂好氏、吉川弘文館、1970の新装版の記述が典拠とも思われる。
 但し、「赤松円心・満祐」・「上郡町史 第三巻」・「相生市史 第七・八巻上」に収録されている応永13年〜18年までの「東寺百合文書」の記述を見る限りは、「宝林寺材木引」や「宝林寺造営木引」などの記述はあっても、「塔」や「大塔」の記述はなく、当時、何度も造営し直されていた相国寺大塔の記述と混同された可能性がある。
2)宝林寺の塔の史料について
 永徳3(?)年の「東寺百合文書」の記述に「宝林寺塔地引人夫」とある。(「上郡町史 第三巻」あるいは「相生市史 第八巻上」に掲載、「上郡町史 第一巻」で解説)
3)塔の比定地:宝林寺・河野原集落の西の谷筋・小字名「塔之谷」に平坦地が残り、現在も瓦片などが散布していることから、この地と思われる。
平坦地の奥には礎石に使用できそうな大石を配した、横長の基檀跡が残るも、奥行きが狭く、塔の基壇跡とするには無理がある。後世に石塔や墓碑等の基檀として解体された可能性がある。
また、平坦地とその奥は、明治時代に銅山として開発されていたと云い(「上郡町史 第二巻」p.172〜p.175)、更なる地形の改変があったことが推測される。
 ※塔の比定地へは、宝林寺円心館脇の奥の院行きの登山道(ミニ三十三霊場経由)の途中から、行くことができる。
○「日本歴史地名大系 巻次29-2 兵庫県U」 より
貞和年中(1345-)赤松則祐、備前新田庄中山に創建し、雪村友梅を招じ開山とする。
文和4年(1355)火災に遭い、現在地に移建する。同年諸山に列する。
赤松氏は則祐、義則、満祐と播磨守護を継承し、国内荘園に当寺の材木引(持)夫などを課し、当寺は守護の氏寺的存在となる。
永徳3年(1383)十刹に列する。
しかし、赤松氏の没落とともに衰微し、永禄年中(1558-)尼子氏の兵乱によって伽藍焼失と云う。
その後、真言宗(智積院末)寺院として再興される。
○2014/02/01撮影:
宝林寺塔比定地は確かに残存する。宝林寺背後の急斜面にテラス状の削平地があり、矢板様な鉄板で閉鎖されてはいるが、鉱山坑道入り口様なものも残る。削平地には基壇様なものもあるが、礎石様な大石や瓦の散布は観察できず、これはむしろ近世の鉱山の残滓の堆積とも思われるものである。
 ※下記に掲載する基壇様なところ以外に、礎石様な大石や瓦の散布のある別の基壇ようなものがある可能性があるが、この削平地には探した限り存在を認めず。
 なお、この立地は急斜面を相当程度上がった谷筋であり、到底塔婆を建立する適地とは思われない場所である。この地の字が「塔之谷」であることは、この地に塔婆の建立を見たことを示唆する字ではあるが、それが何時からの名称なのかあるいは本当に塔婆に由来する字なのかは明確ではなく、立地を見るかぎりでは否定的にならざるを得ない。
 宝林寺塔比定地1     宝林寺塔比定地2    宝林寺塔比定地3
 近世宝林寺模型:円心館に展示、三重塔は現境内地付近に建立と思われる。但しこの模型がどの程度の史実を反映しているのかは全く不明。
播磨與井廃寺 再訪 → 播磨與井廃寺
播磨三濃山三野寺跡  → 播磨三濃山塔跡
播磨野条廃寺  → 播磨野条廃寺
2014/01/25
岡山「A」氏
2014/01/21撮影画像
備前上生院二重塔 2014/01/25作成:戦前の塔であるが、ほとんど世に知られていない塔であろう。
○「A」氏(岡山模型店DAN)より備前桜町上生院二重塔の存在の情報及び画像の提供を受ける。
昭和10年建立と推定される。二重塔は上重下重とも方1間、屋根銅板葺(「A」氏の情報では銅本瓦棒葺と思われる)、多宝塔風な相輪を架す、上重軒は扇垂木、縁付設、下重も四周に縁を廻らす。
 写真は「上生院のページ」より 転載(転載使用許諾済)
○「岡山・備前地域の寺」 より
宝聚山安楽寺上生院:高野山真言宗。「岡山市史」では以下のように云う。
白鳳期行基によって創建、備前国分寺の僧に令して、現網濱に一宇を建立、義家院と称す。国主任国を当山に葬る。報恩大師再興。応永2年(1395)宝聚山安楽寺と称し、法相から真言へ転宗。
○ページ「宝聚山 安楽院 上生院」 では以下のようjに記す。
草創は奈良時代に遡り備前国分寺の末寺として建てられたと云われる。
寺伝に、「天平十年八月国守より赤坂郡高月村国分寺の僧に令して上道郡宇治郷網干の浦(今謂網浜)義冢山麓に一宇の寺を剏建せしめ義冢院と号し、国守任国の中に卒去ありしを義冢山に葬り当院をして事務を司らしむ。其の後当院破滅に及びしに、天平勝宝元年報恩大師備前四十八ヶ寺を創建せんが為に霊地を選ばんと国中を回歴するの時則此の網干浦に来りて当院の寺跡を感じて再興あり、応永二年寺号を安楽寺、山号を宝聚山と称し法相宗を改めて真言宗となす。康生二年六月当院造営大いに成る。天正元年宇喜多直家寺領として八町余の地を寄付す、舎弟忠家も一町余を寄進せり、小早川秀秋悉く没収す。元禄年中炎上、池田氏より寺領三石余を寄進せるが版籍奉還の時没収さる。」
上生院から北へ約400mのところに網浜字堂屋敷という寺跡があり、この付近から奈良時代の布目瓦が多く出土する、寺伝の通り天平勝宝の草創とすると、この堂屋敷よりほかに適当な遺地が見当たらない。(市史古代編を参照)
同寺は昭和四年八月二十九日に出火、庫裡、客殿などを焼いたが間もなく再建し、又昭和十年には多宝塔(上・下層共方形)を建て、戦災後には本堂・客殿・庫裡・山門・多宝塔があった。昭和二十年六月の空襲には焼夷弾を受けて本堂・客殿・庫裡を焼失、現在の客殿と庫裡は戦後の再建である。
 ※網浜廃寺は平城宮式瓦が確認されていると云う。
2014/01/09 播磨峯相山鶏足寺跡
峯相山開山堂
峯相山開山堂内部
峯相山観音堂
峯相山○1平坦地
峯相山○2平坦地
推定○4平坦地
推定○6平坦地
推定○8平坦地石垣1
推定○8平坦地石垣2
推定○8平坦地石垣3
推定○9平坦地
推定○17平坦地付近1
推定○17平坦地付近2
推定○17平坦地付近3
推定○17平坦地付近4
推定○17平坦地付近5
推定○17平坦地付近6
推定○17平坦地付近7
推定○18堂跡
推定○18堂跡礎石1
推定○18堂跡礎石2
推定○19堂跡1
推定○19堂跡2
推定○19石階跡1
推定○19石階跡2
推定○19堂跡3
推定○19石階転落石
推定○22平坦地祠1
推定○22平坦地祠1内部
推定○22平坦地祠2
推定○22五輪石塔など
推定○26平坦地
推定○26平坦地土塁1
推定○26平坦地土塁2
峰相山鶏足寺古蹟由来(開山堂横にある石碑)では以下のように述べる。
 峰相山と云うは東西両嶺相合う峰の様子から云う。鶏足寺と言うは釈迦十大弟子の迦業が入定した印度伽耶城の東西鶏足山に似ている処からで西峰の主峰は250mにして風早嶺と称し 梢下に神岩大黒岩と名付くる奇岩等多く現出す。
 神功皇后三韓へ派兵の砌り新羅の王子を伴い帰朝す皇后帰洛の途次当国播磨に王子を留め給う王子此の山に草庵を結び十一面観世音菩薩を祭祀給うこれ即ち峰相山鶏足寺の起りなり。その後宮中にまで鈴声聞こえ錦繍金玉二丈五尺の幡降り下る斯くして奇瑞興り大いに発興す。
 即ち奈良朝には金堂講堂法華堂常行堂五大尊堂一切経堂鐘楼勧請神堂五重塔三重塔宝蔵及び僧房300余等々広壮なる寺観を誇る。平安初期より衰微の兆見え天正6年8月10日小寺氏により堂舎悉く焼亡さる。
 然して現在は堂塔伽藍の跡礎石若干残すのみ。尚竜野市誉田町井上の観音像は当焼亡の際難を免れし御本尊と推定される。当寺の縁起由来については峰相記/播磨風土記/播磨名所図絵等に詳述してある。

 ※文中「神功皇后・・・発興す。」の行は「峯相記」(貞和4年/1348頃成立)によるものであろう。蓋し、「峯相記は峰相山鶏足寺の寺伝を伝える唯一の文献である と云う。その他、峯相山には以下の情報がある。
峰相山には中世空也や書写山性空の来山があったと伝える。
峰相山中には多くの伽藍平坦地・石垣・礎石などを残すと云う。
昭和53年峰相山鶏足寺は峰相山東麓にある太陽公園の内に再興される。

2014/01/09撮影:
 峯相山想像復元図:現地の平坦地○1に建てられる。木内内則作、2012年とある。
 峯相山概要図:「平成24年姫路市地域夢プラン事業(太市校区編)歴史散歩」NPO法人石倉企画、平成24年 より転載。
  本図は「姫路市立城郭研究室」発行の何らかの資料に、原図があり、それを転載したものと思われるも、不明。
  なお、本図の平坦地番号は下に掲載写真の「○数字」に符合する。

岩倉側(南側)から峯相山を目指せば、山麓から順次 左欄の写真の遺構が展開する。

姫路名古山仏舎利塔
名古山仏舎利塔1
名古山仏舎利塔2
名古山仏舎利塔3
名古山仏舎利塔4
名古山仏舎利塔内部
名古山西南隅塔
名古山東南隅塔1
名古山東南隅塔2
名古山西北隅塔
名古山西北隅塔内部
名古山東北隅塔
名古山石仏堂
名古山宗教美術館

昭和35年竣工。中央大塔は高さ38m。仏舎利塔は名古山霊園内の施設である。
昭和29年インドのネール首相から贈られた仏舎利を安置。
中央大塔(仏舎利塔)の周囲には6基の小塔を配置する。さらに、その中央大塔と小塔群の四隅に4基の隅塔(納骨堂)と中央大塔の背後に石仏堂を配置する。そして東方の一段下には宗教美術館がある。 中央大塔・6基の小塔・4基の隅塔・石仏堂・宗教美術館の様式はいずれもパゴダであるから、パゴダが13基林立する。
なお、仏舎利塔は姫路市の発注、他の仏舎利塔はすべて日本山妙法寺の発注であると云う。
また、名古山霊園には「名古山霊園平面図」で示すように、上記13基のパゴダの他に以下の施設がある。
東宝塔跡・西宝塔跡:この由来は調査するもまったく情報がなく、その由来などは全く不明である。
さらに須弥山と称する構造物がある。
また東斜面から「弥生式住居跡」が出土するが、その隣に「播磨辻井廃寺礎石」が移され 、展示される。(「辻井廃寺礎石」の展示位置については、姫路市教育委員会文化財課様にご教示をいただく。)
 名古山東宝塔跡1     名古山東宝塔跡2     名古山須弥山
 名古山西宝塔跡1     名古山西宝塔跡2

播磨辻井廃寺心礎 再訪 → 播磨辻井廃寺
播磨平野廃寺心礎 再訪 → 在船場本徳寺・播磨平野廃寺心礎
播磨平野廃寺  → 播磨平野廃寺の播磨平野廃寺の項
播磨見野廃寺心礎 再訪 → 播磨見野廃寺心礎
播磨白国廃寺 再訪 → 播磨白国廃寺
播磨市之郷廃寺心礎 再訪 → 播磨市之郷廃寺心礎
播磨姫路日蓮宗諸寺 上寺町妙立寺、同妙善寺、同円光寺、同本領寺、同法華寺、同妙國寺、同大法寺、下寺町妙行寺、白国蓮長寺  → 西国諸国の諸寺
2013/12/26 山城清水寺  再訪 → 山城清水寺
2014/01/01 備後吉備津宮  再訪 → 備後吉備津宮伝心礎・三重塔跡
備後慶徳寺跡心礎  再訪 → 備後慶徳寺跡
備後新市法華宗本住寺  → 尼崎本興寺中、本住寺の項
備後江熊祇園牛頭天王社  → 備後江熊祇園牛頭天王社
2013/12/22 播磨山田廃寺  再訪 → 播磨山田廃寺
播磨中井廃寺  再訪 → 播磨中井廃寺
播磨西脇廃寺  再訪 → 播磨西脇廃寺
播磨千本屋廃寺
薬師堂(南より撮影)
薬師堂(東より撮影)
薬師堂内部
千本屋廃寺石碑
推定南側礎石
推定北側礎石
▲1976-78年の発掘調査で塔・金堂・講堂・築地・南門の遺構を確認。南門、金堂、講堂に中軸線が通り、塔は金堂東に配置。出土瓦より8世紀前半に創建され10世紀後半まで存続したと推定される。▲
○「X」氏情報:塔跡と比定出来る薬師堂の土壇が確認できる。
2010/08/20追加:
○「播磨千本屋廃寺跡」山崎町教委、1982 より
現状東西13m南北6.5mの土壇を残すが南へ延びていた可能性が考えられる。上面に薬師堂が建っており詳細不明。
 ※薬師堂土壇は塔跡の可能性があるが、塔跡と断定できる遺構・遺物の発見はなし。
 播磨千本屋廃寺遺構図:発掘するも、建物跡は削平を受け、建物規模などは不詳。
2013/12/22撮影:
薬師堂は土壇上にあり東面するが、薬師堂左右に2個の礎石と推定される石が残る。向かって右の推定礎石(北側礎石)はおよそ75×75cm、左(南側礎石)はおよそ75×65cmの大きさである。
なお、千本屋廃寺石碑側面にはおよそ以下のように刻まれる。
「幻の千本屋廃寺」跡としてごく一部の古老の間に伝承される。昭和52年から54年までの3次の発掘調査で薬師堂付近にその存在が確認される。
播磨香山廃寺
 ◎香山廃寺現況
香山廃寺薬師堂土壇1
香山廃寺薬師堂土壇2
香山廃寺薬師堂土壇3
「薬師堂盛衰記」石碑
香山廃寺推定心礎1
香山廃寺推定心礎2
香山廃寺推定心礎3
香山廃寺推定心礎4
香山廃寺推定心礎5
香山廃寺薬師堂
香山廃寺薬師堂本尊
薬師堂土壇上の石仏・五輪塔
薬師堂土壇上の五輪塔残欠

心礎を残す。詳細不明。
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、大きさの記載なし、円柱孔は30×24cm、円柱孔中心で幅11.5cmと浅く彫ってある心礎の上に石碑がある。・・・一部意味不明?
2010/08/20追加:
○「香山」新宮町教委、1987 より
 播磨香山廃寺平面図:網目は瓦の密集する地点
2013/12/22撮影:
 ◎心礎(台石):大きさは110×85cm高さ50cm、表面は削平されていると思われる。しかし、上に碑があるため、心礎としてどのような加工がなされているのか全く不明である。
 ※上に掲載の「幻の塔を求めて西東」では一重円孔式とし、円孔の法量の記載がある。(いずれかの資料によるものと思われるも、資料名は不明。)
心礎であるならば、大きさがやや小さいので、周囲が割られているものと推測される。
 ◎現地案内板:以下の趣旨の記載がある:
「香山廃寺は奈良から平安期の寺院跡である。寺域内には薬師堂土壇が残る。土壇内の記念碑には心礎が台石として転用される。また土壇周辺の水田には古瓦の散布を見る。昭和68-59に圃場整備に伴う発掘調査が行われ、土壇を中心に東西84m南北88mの寺域が確認される。
なお後世ここには霊泉が湧き、湯屋を作り薬師湯として賑わうと云う。」

 ※土壇内記念碑の台石(心礎)側面には昭和31年建議の薬師湯建設委員会発起人名簿の銅板が嵌められている。
 ◎石碑:心礎上に建つ石碑には「薬師堂盛衰記」とあり、殆ど判読できないが、判読できた文字は以下の通りである。
  薬師堂盛衰記
 堂者鎮守大歳神社之艮位○○其/本地佛也○・・・・・・・・・/○古井清○之○・・・・・・以
 昭和廿二年八月○・・稟議・・/之堂○○三○・・・・・・多比/郡○・・・・・・・・・・・○
 布香山○・・・・・・・・・○/湯不○・・・・・・・・・・○/
   昭和廿三年○・・・・・
    ○・・・・・・・・・書
断片的にしか分からないが、(薬師佛は)西南にある大歳明神(神社)の本地佛であるらしい。そして昭和22年に堂の再建?が稟議され、昭和23年にこの碑が建立されたようである。
 ◎薬師堂再建の石碑:さらにもう一つの石碑があり、
ここには以下のように記す。
  薬師堂再建之記
 災害に依り焼けし薬師堂再/建之為香山部落民一同/懇志浄財を出資し協議/
 に及ぶ所 ○山下二階堂/両氏 先祖之思を謝し浄/財を寄せらる/為に此処に記録而懇意を/謝す
    昭和五十年十二月
     香山薬師再建委員会
  八拾萬圓也/             山下 誠
  ・・・・
  境内地壱百九拾壱平方米/     二階堂作次郎
焼失した薬師堂は昭和50年に再建され、これが現在の薬師堂と思われる。

播磨越部廃寺 再訪 → 播磨越部廃寺
播磨奥村廃寺  → 播磨奥村廃寺(たつの市歴史文化資料館は再訪)
龍野本行寺  → 京都本隆寺末寺の項
林田宝塔寺  → 四条妙顕寺末寺の項
2013/12/12 大和中川寺跡 再訪 → 大和中川寺跡
大和圓成寺 再訪 → 忍辱山圓成寺
山城廃随願寺心礎11 山城当尾東小に「からすの壷」と称する「石造物」がある。
一方石田茂作の「佛教考古学論攷」では、「山城東小廃寺心礎」とする写真の掲載がある。
即ち、戦前から、東小廃寺のものと推定される心礎の紹介が石田茂作によってなされているが、その後「この心礎」について、取り上げた資料がなく、容易にその所在を知ることができなかった。
 しかし先般、Web上で、山城当尾の「からすの壷」と称する石造物の写真を拝見し、これが「山城東小廃寺心礎」であろうとほぼ確信するに至る。 心礎はほんの身近にあったのである。
そして今般「からすの壷」を実見し、塔心礎であることを確信する。
 随願寺心礎の大きさはおよそ135×105cm高さは60cm内外であり、表面は平に削平される。柱座の有無については、石の質なのであろうか、表面の一部が「一皮」剥け、 見方のよっては柱座があるようにも見えるが、柱座の造出は認められない。さらにこの心礎の削平された表面の中央には蓋受硬孔と舎利孔が穿たれる。舎利孔は径14cm深さ15cmを測り、その一番上部に径16cm深さ1cmほどの蓋受孔を穿つ。石質ははっきり分からないが、固い部類に属する堆積岩の一種と思われる。
 なお石田茂作が本心礎を東小廃寺心礎とする根拠は不明であるが、東小廃寺には三重塔があったこと、東小廃寺の至近距離に存在することから、東小廃寺心礎とするのであろう。
ただし、心礎は蓋受孔のある舎利孔を有する古風な心礎であり、平安期の創建と伝える随願寺とは時代が合わず、別の古代寺院の心礎であるか、あるいは随願寺の前身は古代に遡る可能性もある。
 → 山城随願寺心礎:からす(唐臼)の壷
山城岩船寺 再訪 → 山城岩船寺
山城浄瑠璃寺 再訪 → 山城浄瑠璃寺
2013/10/28 豊前大建寺五重塔11
豊前大建寺五重塔12
豊前大建寺五重塔13
豊前大建寺五重塔14
豊前大建寺五重塔15
豊前大建寺五重塔16
豊前大建寺五重塔17
豊前大建寺五重塔18
豊前大建寺五重塔19
豊前大建寺五重塔20
豊前大建寺五重塔21
豊前大建寺五重塔22
豊前大建寺五重塔23
豊前大建寺五重塔24
豊前大建寺五重塔25
豊前大建寺五重塔26
豊前大建寺五重塔27
豊前大建寺五重塔28
豊前大建寺五重塔29
豊前大建寺五重塔30
豊前大建寺五重塔31
豊前大建寺五重塔32
豊前大建寺五重塔33
宇佐市鳥越(宇佐郡安心院町):深見五重塔と称する。
昭和58年(1983)竣工、高27m(88尺、基壇面より)、一辺4.68m、鉄骨補強/木造、山城醍醐寺塔をモデルとする。松井建設(株)設計・施工。
会社経営者(安心院出身・糸永貞樹氏)が私財を投入して建立。
糸永氏は大正10年ユフ精器を設立し、後に財をなす。
大建寺は古代(平安期)に創建され、中世(鎌倉期)まで現在地付近に存在し、その後廃寺となると云う。しかし、如何なる文献や遺構・遺物に基ずくものか資料がなく、その真偽は不明とするしかない。
 大建寺五重塔:定樹山大建寺リーフレット より
2013/10/28撮影:
 豊前大建寺山門     豊前大建寺鐘楼     豊前大建寺持仏堂
なお、少し離れてはいるが付近に「仙の岩」と称する名勝がある。「仙の岩」は剣ヶ岳と云う大柱、100mと云う大絶壁や正面の平岩・大中小の屏風岩・大巌寺岩窟などがある。名前の由来は法道仙人の修行したので、 「仙の岩」と云う。当時から山岳佛教の修行地であったと云う。
大巌寺の本尊は仁聞作と云う千手観音であり、その脇仏には奥の仙から下した十数体の古木仏像(鎌倉期)などが安置されている云う。但し、大巌寺堂宇は途中で引き返したため、未見。
 「仙の岩」景観1     「仙の岩」景観2     「仙の岩」景観3     「仙の岩」景観4
 「仙の岩」大巌寺石門
豊後柞原八幡宮  → 豊後柞原八幡宮
豊後浄土寺八角三重塔  → 豊後浄土寺:平成25年竣工。納骨堂の故に、高さに対して平面規模が広大であり、塔としてのバランスを欠くのが残念である。外装は檜の木造と思われる。
豊後国分寺  → 豊後国分寺跡/大分歴史資料館豊後国分寺七重塔模型を含む
豊後善徳寺三重塔11
豊後善徳寺三重塔12
豊後善徳寺三重塔13
豊後善徳寺三重塔14
豊後善徳寺三重塔15
豊後善徳寺三重塔16
豊後善徳寺三重塔17
豊後善徳寺三重塔18
豊後善徳寺三重塔19
豊後善徳寺三重塔20
豊後善徳寺三重塔21
豊後善徳寺三重塔22
豊後善徳寺山門
豊後善徳寺本堂

平成11年竣工。平成の三重塔/竹尾光寿廟と称する。
RC造。まず竹尾光寿廟と称するかなり大きな納骨堂があり、その納骨堂を基壇にし、その上に建つ。塔は非常に大きな逓減率を持つ姿であるが、RC造とはいえ見た目の木割りが華奢で、組物も一手先を用いバランスを欠く。施工は梅林建設株式会社(大分市) といい、社寺建築を専門とはしない建設会社の施工と思われる。
2003/12/26「X」氏撮影/ご提供画像
 豊後善徳寺三重塔1  豊後善徳寺三重塔2   豊後善徳寺三重塔3  豊後善徳寺三重塔4
2013/10/26追加:
善徳寺は真宗大谷派。
 善徳寺三重塔01:サイト:梅林建設>竹尾光寿廟のページより転載
 善徳寺三重塔02:Google Map より転載
本三重塔は善徳寺から少し離れた小丘上に建ち、丘の南に竹尾観音堂(泉入寺)がある。
◆参考:竹尾観音(竹尾山泉入寺)
大永年中(1521-)もしくは享禄年中(1528-)星野外記介(豊後大友氏の一族臼杵鑑親の家臣)によって建立される。外記介は観音菩薩の加護により白い犬と白い鷺の導きで窮地を切り抜け る。その報恩のため一宇の堂(2体の観音像を安置)と2基の九重石塔を建立する。これが泉入寺の起源である。2体とは白い犬と白い鷺の霊である。
その後観音1体は臼杵の海添に遷され、今は1体のみ祀る。また九重塔一基は洪水で流出すると云う。(臼杵海添に同名の泉入寺があり、関係があるのかも知れない。)
現在の観音堂は享保8年(1724)の建立。境内に室町期のものと推定される九重石塔が残る。
 竹尾観音堂     泉入寺九重石塔1     泉入寺九重石塔2
なお、写真塔11、12の左下に写る堂宇が竹尾観音堂である。

豊後龍源寺三重塔11
豊後龍源寺三重塔12
豊後龍源寺三重塔13
豊後龍源寺三重塔14
豊後龍源寺三重塔15
豊後龍源寺三重塔16
豊後龍源寺三重塔17
豊後龍源寺三重塔18
豊後龍源寺三重塔19
豊後龍源寺三重塔20
豊後龍源寺三重塔21
豊後龍源寺三重塔22
豊後龍源寺三重塔23
豊後龍源寺三重塔24
豊後龍源寺三重塔25
豊後龍源寺三重塔26
豊後龍源寺三重塔27
豊後龍源寺三重塔28
豊後龍源寺三重塔29
豊後龍源寺三重塔30
豊後龍源寺三重塔31
安政5年(1858)竣工。九州では江戸以前の塔婆は2基しか現存しないが、その内の一つである。
一辺3.9m、総高21.8m。基本的に和様を用いる。心柱は初重梁から建つ。
聖徳太子の像を安置するといい、「太子塔」とも称する。
臼杵の大工高橋因内が畿内を巡り設計し、棟梁は弟子の坂本荘右衛門と云う。嘉永元年(1848)に着工し安政5年に完成と云う。
龍源寺(龍原寺とも綴る)は京都知恩院末。慶長5年(1600)杵築藩初代稲葉貞通が創建する。開山は圓誉上人。
 豊後龍源寺景観
 豊後龍源寺山門
 豊後龍源寺本堂
2013/10/27 豊前木山廃寺  → 豊前木山廃寺:半裁された心礎及び石製露盤を実見。
豊前天台寺跡  → 豊前天台寺跡:塔跡などは推定可能であるが、地上には全く痕跡はない。
豊前椿市廃寺  → 豊前椿市廃寺
豊前妙覚寺三重小塔1
豊前妙覚寺三重小塔2
豊前妙覚寺三重小塔3
豊前妙覚寺三重小塔4
豊前妙覚寺三重小塔5
豊前妙覚寺三重小塔6
豊前妙覚寺三重小塔7
豊前妙覚寺三重小塔8
豊前妙覚寺三重小塔9
木造三重小塔であるが、製作年代などの詳細は一切不明。高さは2mほどと思われる。
相輪は別にして、スタイル及び意匠は近隣の豊前国分寺三重塔をモデルにしたものであることは確実であろう。
塔に「三重塔/別府良雄(87歳)」の紙が貼ってあるので、別府氏の設計工作と推定される。但し、別府氏は本職の大工などでは、仕上げ・出来具合などから判断すると、全くの素人と思われる。従って、正式な仏塔ではなく、趣味の工作に分類できる塔であろう。
本塔は真宗大谷派神護山妙覚寺(京都郡みやこ町勝山黒田)本堂前横の鞘堂に納められる。
妙覚寺自体のWeb情報も皆無で由緒はこれまた不明。
 妙覚寺山門     妙覚寺本堂     妙覚寺鐘楼にも相輪もどきを架する。
豊前菩提廃寺  → 豊前菩提廃寺
豊前国分寺  → 豊前国分寺
豊前上坂廃寺  → 豊前上坂廃寺
豊前相原廃寺  → 豊前相原廃寺
2013/10/13 山城椏本八幡宮  → 山城椏本八幡宮
2013/10/03 山城東福寺  → 山城東福寺
2013/09/22 熊本蓮華院誕生寺奥之院
誕生寺奥之院五重塔1
誕生寺奥之院五重塔2
誕生寺奥之院五重塔3
誕生寺奥之院五重塔4
誕生寺奥之院五重塔5
誕生寺奥之院五重塔6
誕生寺奥之院五重塔7
誕生寺奥之院五重塔8
昭和53年(1978)建立高51.5m、RC造。
塔そのものが堂の積み重ねである。1重は本堂(本尊を祀る)、2重は写経道場、3重は護摩道場、4重は座禅道場、5重は望龍閣で皇円と開山上人の足跡を絵で示すと云う。そのため広い平面を持つ。
蓮華院誕生寺は真言律宗別格本山と称する。奥之院は昭和53年開創される。
 誕生寺奥之院仁王門    誕生寺奥之院鐘楼    誕生寺奥之院護摩堂
 誕生寺奥之院阿閦堂    誕生寺奥之院弥勒堂
熊本蓮華院誕生寺本院
誕生寺本院五重塔11
誕生寺本院五重塔12
誕生寺本院五重塔13
誕生寺本院五重塔14
誕生寺本院五重塔15
誕生寺本院五重塔16
誕生寺本院五重塔17
誕生寺本院五重塔18
誕生寺本院五重塔19
誕生寺本院五重塔20
誕生寺本院五重塔21
誕生寺本院五重塔22
誕生寺本院五重塔23
誕生寺本院五重塔24
誕生寺本院五重塔25
誕生寺本院五重塔26
平成9年(1997)落慶。再興塔と称する。
現在の本堂南東部に五重塔の遺構とされる約10m四方の基礎部分が出土し、その部分に再興 したというも、真偽は分からない。
総高33.3m、一辺5.8m、基壇一辺9.3m。本格木造(ひば材)建築。山城醍醐寺塔婆に範を採ると云う。大浦社寺建築社の設計施工。
○「塔をゆく 巻1」では以下のように述べる。
平重盛が(この地)に蓮華院浄光寺と五輪塔2基を建立し、四方に築地を設け、南に大門を開き、常住念仏の道場とする。(「肥後国誌」)
一方この地は法然の師・皇円上人生誕の地のいわれがあると云う。皇円上人は祖先関白藤原道兼菩提のため五輪塔を建立する。嘉禄元年(1225)皇円の法孫恵空は蓮華院浄光寺をこの地に建立する。しかしこれ等の伽藍は天正10年(1582)戦国の兵乱で焼失すると云う。
昭和4年荒地であるこの地に来た川原是信大僧正が皇円上人より霊告を受け、この地に五輪塔の再興を目指し蓮華院誕生寺を再興する。(蓮華院誕生寺の寺伝 ・昭和5年とも云う)
また現地の西南部からは大きな建物跡を発掘するとも云う。(熊大教授北野隆の文化財報告書)
なお皇円上人は「扶桑略記」30巻を編述する。(篇者は諸説あり)
 誕生寺本院伽藍    誕生寺本院南大門1    誕生寺本院南大門2    誕生寺本院中門
 誕生寺本院本堂    誕生寺本院鐘楼       誕生寺本院曼荼羅堂
熊本蓮華院誕生寺御廟
誕生寺御廟1
誕生寺御廟2
平成3年建立、おそらく木造の正式建築と思われるも不詳。屋根銅板葺。高さ10.7m、径2.84m。本尊聖観音(観音堂)
御廟とは蓮華院誕生寺の霊園の本堂的な建築と思われる。
早朝のため開門前であったので、止む終えず門外から撮影。
熊本長洲霊堂  → 九州諸国の擬塔婆形式納骨堂
肥前国分寺跡  → 肥前国分寺跡
肥前川上妙法寺宝塔1
肥前川上妙法寺宝塔2
肥前川上妙法寺宝塔3
肥前川上妙法寺宝塔4
肥前川上妙法寺宝塔5

七宝山妙法寺川上別院と称する寺院があるようである。ここに「宝塔」がある。
しかしこの宝塔は本堂の背後に独立して建つのか、それとも本堂の屋根上に身舎の一部と上層のみ建つのか、あるいは堂と宝塔が一体して建つのかは現地訪問を驟雨のため断念し、不明。
また建築年代・仕様などの情報も皆無で詳細も不明。
RC造で軸部は木造とも思われるが不明。
佐賀市大和町大字川上976にある。
正法附属法華宗妙法寺實道院と称する恐らく法華宗系の新興教団の妙法寺(佐賀市にあると思われるも未確認)の川上別院なのであろうが、正法附属法華宗も妙法寺も全く不明である。
川上川(嘉瀬川)川上峡右岸にあり、対面(左岸)には宝塔山がある。

宝塔山親正寺本尊題目1
宝塔山親正寺本尊題目2
宝塔山親正寺本尊題目3
本尊題目宝塔型覆屋1
本尊題目宝塔型覆屋2
本尊題目宝塔型覆屋3
本尊題目宝塔型覆屋4
日親上人血洗いの霊水
宝塔山白龍の滝
宝塔山親正寺本堂

川上川(嘉瀬川)川上峡左岸にあり、対面(右岸)には妙法寺川上別院がある。
「血染めの宝塔」などと称される本尊題目は岩壁に刻まれるも、それを覆うように宝塔型の覆屋が建つ。覆屋の建築年代は不明、宝塔型身舎はRCで上部の軸部は木造とも思われるが不明、粗末な相輪を掲げる。
宝塔山親正寺は膝折坂の宝塔山とも称する。本尊の題目は「血染めの宝塔/書きかけの題目/清正公槍先のお題目」などと称する。この題目の上段は日親上人の彫ったものであり、下段の「華経」は加藤清正の筆になると伝える。
日親上人は中山法華経寺を破門され、光勝寺を追われ、迫害の中、京に上る途中、この川上の地で血に染まりながら谷間の清水で洗い、題目を彫りはじめるが、追手が迫り「蓮」の 字の途中で彫るのを断念する。
時は移り、
文禄元年(1592)熊本から唐津名護屋城に向かう清正がこの地を通過するとき、突然乗馬が膝を折り、立ち止まる。清正はここに書きかけの題目があるのを見出し、そしてその由来を聞き、それならばと穂先で「華経」の文字を書き足し、石工に残りを彫るように命じ、進軍を開始すると云う。

肥前與止日女社/河上山神通寺
肥前與止日女社心礎11
肥前與止日女社心礎12
肥前與止日女社心礎13
肥前與止日女社心礎14
肥前與止日女社心礎15
肥前與止日女社心礎16
肥前與止日女社心礎17
肥前與止日女社心礎18
肥前與止日女社心礎19
肥前與止日女社心礎20
與止日女(淀姫)神社(河上神社):祭神は與止日女。肥前一ノ宮と云う。ただし笑止なことに近世以降肥前千栗八幡と 肥前一宮の地位を争う。
 (なお、川上川流域には多くの與止日女が祀られると云うも良く分からない。)
明治維新まで、河上山実相院が別當として與止日女社を差配する。実相院(現在は真言宗御室派)は西側に現存する。
神通寺(実相院)は行基の開基と伝え、その後寛治元年(1089)與止日女社社僧天台僧円尋が河上別所に移し、與止日女社神宮寺となすと云う。室町期以降 、座主として実相院が実権を握ったとされる。
戦国期には80坊を擁したと伝える。
天明5年(1785)には実相院、観音院、円通寺、光明院、明王院、宝珠院、竹内坊、菩提院、大門坊が存在。(「河上御領絵図」)この頃までに廃寺となった坊舎に理趣院、学頭坊などが あると伝える。
寛永20年(1643)仁王門が建立されたと推定される。(「扁額銘」・仁王門は現存)
嘉永7年(1854)の火災で実相院、観音院、大講堂等を焼失するが、仁王門などは焼失を免れるという。
金堂には本尊は薬師如来を安置する。
 與止日女社は中世には大きな勢力をもち、つまりは神通寺(別當実相院)が権勢を振るい、多くの中世領主の保護を受ける。
明治維新以前の一般的な大きな社の在り方として、その実態は把握してはいないが、塔婆・本地堂などがごく自然に存在したものと思われる。
●「X」氏報告:塔心礎は社殿の左前方に現存する。
神社の説明では、塔は神仏習合の名残であり、中世のものであろうとのこと。
穴は二段であったが、雨水がたまりボウフラがわくので砂で埋めていると云う。外側の穴の径はおおよそ50cm弱。 :

心礎の詳細は不明であるが、古式な心礎とも思われる。中世のものであろうとは、おそらく塔婆は古代に建立され、それが中世まで伝えられたと云うことであろうと解釈できる。
なお、
「河上神社神領絵図」(天明5年1785)には境内南西部に観音堂が、また仁王門を入ると八角堂が描かれていると云う情報がある。
  淀姫(與止日女)神社心礎・・・X氏ご提供画像
○2003/6/10:「幻の塔を求めて西東」 より:
 心礎の大きさは160×150×60cm、円孔は径51×深20cm、下円孔径13×深13cm、創建;白鳳期
○山城淀姫社
 山城淀姫社は僧千観内供が肥前佐賀郡河上神(與度日女神)を勧請したものと云う。
○2013/09/22撮影:
與止日女社は川上川左岸に位置する。與止日女社のやや上流は山に挟まれ急流である。川上川が山を抜けると、流れは澱む。
まさに與止日女はその澱みの処に鎮座する。水を鎮め、ひいては農耕の安定を願うものなのであろう。
 ◎山城與杼止日女社(山城淀姫社/山城与杼明神/山城水垂明神)は応和年中(961-963)僧千観内供が 肥前佐賀郡河上神(與度日女神)を山城淀水垂に勧請すると云う。このことの真偽は別にして、なるほどと頷ける。それは、この肥前與止日女の鎮座の地と、山城淀の地 は良く似ている。即ち山城淀の地もも上流は嵐山(保津川)の急流であり、その下流の平地の淀は桂川・宇治川・木津川が合流し低湿地に面した水の澱む地形 なのである。
  ※桂川は上流より上桂川(京北)→桂川(園部)→大堰川(亀岡)→保津川(亀岡・嵐山)→桂川(桂)と名称を変える。
 川上川の急流:川上峡付近、 與止日女社のやや上流付近。
 川上川の澱み:與止日女社境内から見た澱み
 川上川澱みと社殿     與止日女社社殿
◆與止日女社心礎
與止日女社境内に心礎が単独で置かれる。
心礎は2段円孔式で、実測値は次の通りである。
大きさは140×130×60(見える高さ)cmであり、径52×深さ20cmの孔と、径14×深さ13cm孔を穿つ。なお小孔の底は碗形である。
不幸にして、その由緒伝来は全く不明である。大きさはやや小振りであるが、2段式円孔は精美に加工される。この様式また加工技術から古式な心礎と思われる。また表面には特に柱座などの加工はなく、大円孔は心柱の柱穴であろう。そしてその径から見て小型の塔婆であったと推定される。
心礎の様式が古式であることから、白鳳もしくは奈良期に神宮寺の建立を見て神宮寺塔婆が建立され、それの心礎であるとも考えられる。それとも付近にある古代の寺院から搬入されたのであろうか。
 與止日女社西門:棟札写(「実相院文書」中)が残り、元亀4年(1573)の建立と記されると云う。唯一の古建築である。
◆與止日女社神宮寺/河上山神通寺実相院の現況は以下の通りである。
 神通寺仁王門1     神通寺仁王門2
 神通寺仁王門内:左右には坊舎が並んでいたのであろうか。左の屋根は明王院。
 神通寺坊舎跡?:仁王門内の更地であるが、古には坊舎があったのであろうか。
 実相院総門     実相院石垣1     実相院石垣2
 実相院山門     実相院本堂1     実相院本堂2     実相院本堂3
 実相院本堂横門    実相院本堂横:かっては客殿・庭園などがあったのであろうか。
 実相院境内
 実相院からの眺望:中央の屋根が仁王門、その奥に重なる屋根が與止日女社社殿、さらに向うに川上川が流れる。
 河上山明王院1     河上山明王院2
肥前辛上廃寺心礎1
肥前辛上廃寺心礎2
肥前辛上廃寺心礎3
肥前辛上廃寺心礎4
肥前辛上廃寺心礎5
肥前辛上廃寺心礎6
肥前辛上廃寺心礎7
肥前辛上廃寺心礎8
肥前辛上廃寺心礎9
○「X」氏情報:
 塔心礎石が、廃寺の南方の辛上橋西の集落の祠?付近に現存する。大正期に移されたと伝え、その時に手水鉢用に枘穴が拡大されると云う。本来の穴の径は一尺八寸三分(55.5cm)、深さは四寸(12cm) 程度で、花崗岩製である。
発掘された寺跡は現在ビニールシートがかぶっており、様子は分からないが、塔跡の土台があると思われる。吉野ヶ里遺跡の一部として発掘が始まったと推定される・・・。

辛上の地名は「蕃神(からかみ)」に由来すると云われ、出土瓦から寺院は奈良期創建とされる。
 肥前辛上廃寺心礎 ・・・X氏ご提供画像
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、140×110×33cm、径55×12cm、移動している。民家志岐氏宅下にあると注記。
2011/02/13追加:
○「奈良時代の遺構と遺物」(「佐賀県文化財調査報告書 第152集 吉野ヶ里銅鐸−吉野ヶ里遺跡大曲一の坪地区発掘調査概要報告書−」佐賀県教育委員会、平成14年 所収) では
推定塔跡は一辺約10mの地業痕跡のみ確認と云う。
心礎の大きさは1,41×1.105mで長方形の2角を除く形状である。刳り込みは径0.555、深さ0,12m。民家庭石に転用される。
2012/04/28追加:
○「吉野ヶ里遺跡大曲一の坪地区・枝町遺跡 : 県立吉野ヶ里歴史公園整備に伴う埋蔵文化財調査報告書」佐賀県教育委員会, 2007 (佐賀県文化財調査報告書:第172集).  より
辛上集落は奈良期の辛上廃寺が所在することが知られていたが、平成10年から発掘調査が行われ、辛上廃寺に関する遺構・遺物の存在が確認される。
 辛上廃寺遺構配置図1:311区や342区は辛上廃寺の主要な建物や溝が存在する地区である。
 辛上廃寺遺構配置図2:SX049(瓦葺建物)が推定塔跡、SB061(大型の掘立式建物)が推定金堂跡遺構である。
 辛上廃寺伽藍配置図:寺域は二重の区画溝で囲まれ、その切れ目から東西と南の3箇所に出入口があったものと推定される。南には門跡と推定される掘立式建物(SB058)があるが、東西には門跡は認められない。
SB061(推定金堂跡)とSB058(推定門跡)と北方の推定僧坊跡(SB097を除く)は何れも掘立式建物で、第1期に作られたものと推定される。
第2期にはSX049(推定塔跡)の瓦葺建物が造られたと推定される。
問題はSB011であるが、門跡とは断定は出来ないが、金堂正面にあることなどから門跡と考えられなくもないが、その性格は保留しておこう。
 辛上廃寺塔跡俯瞰:一辺は約10mの方形を呈する。削平がひどく詳細は不明であるが、規模・形状から塔跡と推定される。
 (心礎が元素するから、塔の存在が想定されると云うわけであろうか。)
 ※辛上廃寺跡はおそらくは埋め戻され遺構をみることは出来ないと思われるも、整備された「吉野ヶ里歴史公園」の中でどのような位置付けであるのかは不明。
 ※心礎が現存するも、所在場所については資料によって微妙に表現が相違するため、所在場所の確認を要する。
2013/09/22撮影:
心礎は辛上橋西詰の小公園にある。
心礎実測値は次の通り。
大きさは150×120cm×70cm(見える高さ)、径62/54×深さ10mの円穴を穿つ。
円穴の径は54〜62cmを測り楕円形を呈する。これは、円穴底から外に向かってほぼ水平に貫通する小孔が穿たれるが、おそらくはこの小孔を貫通させたときに円穴を楕円形に彫り広げたのであろう。
円穴の周囲の壁は明らかに粗雑な仕上げである。よって円穴の径は当初は少なくとも54cm以下であったはずである。
なお塔の遺構地は未訪問。
肥前西光寺ニ層塔1
肥前西光寺ニ層塔2
肥前西光寺ニ層塔3
肥前西光寺ニ層塔4
肥前西光寺ニ層塔5
肥前西光寺ニ層塔内部
納骨堂。RC造。その他は不詳。
2013/09/22撮影:
肥前西光寺山門
肥前西光寺本堂:西光寺は浄土宗
肥前東妙寺(肥前利生塔)  → 肥前東妙寺
肥前塔の塚廃寺  → 肥前塔の塚廃寺
肥後玉名常楽山妙性寺  → 肥前小城光勝寺 ・肥前日蓮宗諸寺
2013/09/21 肥後宮寺廃寺心礎 再訪 → 九州の塔跡
肥後八代妙見 再訪 → 肥後八代妙見(白木山妙見)
肥後八代正法寺跡  → 肥後八代正法寺跡
肥後八代医王寺  → 肥後八代妙見(白木山妙見) 中
肥後川尻西教寺擬塔婆  → 九州諸国の擬塔婆形式納骨堂
肥後川尻法宣寺  → 肥後本妙寺/肥後日蓮宗諸寺
肥後川尻本立寺  → 肥後本妙寺/肥後日蓮宗諸寺
肥後高麗門諸寺 妙永寺、本覺寺、覺圓寺、瑞光寺 → 肥後本妙寺/肥後日蓮宗諸寺
肥後細川氏安国寺  → 肥後利生塔如来寺
肥後熊本城、肥後妙解寺跡 参考 → 肥後本妙寺/肥後日蓮宗諸寺
2013/09/05 大和西大寺 再訪 → 大和西大寺
2013/07/11 山城東福寺 再訪 → 山城東福寺/三聖寺山城光明峯寺跡
2013/07/08 山城安楽壽院多宝塔 再訪 → 山城安楽壽院
紀伊那智山青岸渡寺 再訪 → 紀伊那智山青岸渡寺
2013/06/23 備前法萬寺

 → 備前堂屋敷廃寺(備前西谷山妙塔寺)

備前法界院
備前金山寺三重塔  → 備前金山寺
備前妙善寺  → 備前妙善寺
2013/05/18 備後三原松寿寺 再訪 → 備後三原松寿寺三重塔
2013/05/16 山城最勝金剛院  → 法性寺/東福寺最勝金剛院
2013/05/09 筑波山中禅寺 再訪 → 筑波山中禅寺
常陸願成寺三重塔 再訪 → 常陸願成寺三重塔
武蔵島根来迎寺
  施工中多宝塔
来迎寺施工中多宝塔11
来迎寺施工中多宝塔12
来迎寺施工中多宝塔13
来迎寺施工中多宝塔14
来迎寺施工中多宝塔15
来迎寺施工中多宝塔16
来迎寺施工中多宝塔17
来迎寺施工中多宝塔18
来迎寺施工中多宝塔19
来迎寺施工中多宝塔20
来迎寺施工中多宝塔21
2013/06竣工予定。木造総檜造の塔婆と推定される。
設計:須永建築設計事務所、施工;中島工務店
来迎寺:足立区島根3-11-9
照林山と号する。真言宗豊山派。建久6年(1195)創建、天和年間(1681-84)再興と伝える・
往時は総持寺(西新井大師)末寺、近来は大和長谷寺の直末と云う。
2013/05/09:
多宝塔施工中。広くはない境内に本堂・庫裏・山門・墓地があり、山門・墓地・本堂間の狭い空地に多宝塔を押し込む形で建築される。木造総檜造の塔婆である。初重の様子は辛うじて垣間見ることが可能であるが、二重は全く分からない。
多宝塔11写真:多宝塔覆の左が本堂、右が山門
来迎寺山門:中島工務店施工
浅草浅草寺 再訪 → 武蔵浅草浅草寺
江戸土冨店長遠寺 → 日樹上人・江戸土冨店長遠寺の項
東叡山寛永寺 再訪 → 東叡山寛永寺
江戸音羽護国寺 再訪 → 江戸音羽護国寺
安芸竹林寺三重塔
 (東京椿山荘)
再訪 → 安芸竹林寺(東京椿山荘)三重塔
2013/05/08 常陸下君山廃寺 再訪 → 常陸下君山廃寺/心礎/石造露盤
常陸西蓮寺相輪橖1
常陸西蓮寺相輪橖2
常陸西蓮寺相輪橖3
常陸西蓮寺相輪橖4
常陸西蓮寺相輪橖5
常陸西蓮寺相輪橖6
常陸西蓮寺相輪橖7
常陸西蓮寺相輪橖8
常陸西蓮寺相輪橖9
西蓮寺相輪橖実測図
弘安10年(1287)建立。弘安の役(元寇)の戦勝記念 に建立と云う。
高さ9.16m。心柱は木製で、周囲に10枚の鍛造銅板を巻き、繋目には7.6cmの帯輪で継ぐ。
頭部は五輪塔形式で、宝珠に火焔をつけ、それを取り巻く太い大輪及び大輪に懸かる12個の小輪からなる。大輪には卍字が飾られている。全体では錫杖の形をなす。
慶長9年(1604)修理、貞享5年(1688)解体修理、天保12年(1841)再建、明治36年大風により倒壊・再興、昭和53年 完全解体修理・基礎積み直し・腐蝕した心柱を檜材に取替え。
西蓮寺は延暦元年(782)最澄の弟子である最仙上人の開山と伝える。
明治16年本堂・薬師堂などを焼失するも、仁王門・相輪橖は焼失を免れる。
仁王門、薬師堂、常行堂、法華堂、中堂、鐘楼が現存する。
 ※仁王門:重文、天文12年(1543)建立、当初は三間一戸の楼門であった。寛政年中(1789-1801)楼門上重を撤去する。安政7年(1860)現在地に移築、仁王門に改造する。特異な形の蟇股と蓑束がある 。
2012/08//20追加:「日本仏塔の研究 図版篇.」石田茂作、講談社、昭和45年 より
 常陸西蓮寺相輪橖
2013/05/08撮影:
 西蓮寺仁王門1   西蓮寺仁王門2   西蓮寺仁王門3   西蓮寺仁王門4
 西蓮寺仁王門5   西蓮寺仁王門6   西蓮寺仁王門7   西蓮寺仁王門8
 西蓮寺本堂      西蓮寺常行三昧堂     西蓮寺鐘楼
常陸茨城廃寺露盤1
常陸茨城廃寺露盤2
常陸茨城廃寺露盤3
常陸茨城廃寺露盤4
常陸茨城廃寺露盤5

石製露盤レプリカ1
石製露盤レプリカ2

 
2013/05/08撮影:
○万福寺西に石製露盤がある。(巾着石と呼ぶ。)茨城廃寺塔跡から移動する。
石製露盤の大きさは110×110cm、厚さは土砂に埋没し不明、孔の径は46cm。貫通しているかどうかは土砂に埋もれ、さらに孔に円形の石が嵌められ確認することができない。しかし諸資料では貫通すると云うので貫通しているのであろう。 (厚さは35cm)
○石製露盤レプリカ:
レプリカ:大きさは110×110cm、厚さ35cm。径46cmの貫通孔を穿つ。断面は長方形に作成。
法量・形状とも正確に複製しているものと判断される。
なおレプリカは塔跡の北側118号道路を渡ったところに設置される。
○茨城廃寺塔跡
 茨城廃寺塔跡1:廃寺跡を南から撮影、手前に2枚の畑があるが、塔跡はその北にある畑1枚である。塔跡の畑は左に写る民家の東側である。写るビニールハウスは塔跡南東隅である。奥に1軒の民家が写るが、その付近が講堂跡である。
 茨城廃寺塔跡2:写る畑1枚のほぼ全面が塔跡である。
茨城廃寺残存礎石
塔跡から南東方向に直線で150mの所に礎石が1個残存する。(解説板設置)
小目代公民館西すぐにある。公民館東に接して鹿島明神があり、北に接して鉄製と思われる露盤・青銅製と思われる宝珠をあげる宝形造の堂(何の堂かは不明)がある。上述の「同5号:貝地2丁目の平岡氏邸」礎石と思われる。
礎石の大きさは径およそ110cmの円形で、径65cm高さおよそ1cmの円形造出を造り出す。
 茨城廃寺5号礎石1     茨城廃寺5号礎石2
 参考:その他の写真
  ページ「茨城廃寺礎石6号」より転載、在石岡清凉寺:茨城廃寺6号礎石
  ページ「茨城廃寺礎石7号」より転載、在石岡清凉寺:茨城廃寺7号礎石
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○「幻の塔を求めて西東」:露盤は一辺110cmの正方形、厚さ35cm、貫通孔径45cm、花崗岩製、万福寺隣の農家の梨畑にある。
○「山尾権現山廃寺」1991:茨城廃寺石製露盤;長さ110、厚さ32、円孔径41cm
○当寺は7世紀終末もしくは8世紀初頭の創建とされる。
1979-81年の発掘調査で塔・金堂・講堂などの基壇が確認され、法隆寺式伽藍配置と云う。
塔跡は東西12m、南北11mで掘込地業と版築が見られる。「茨木寺」「茨寺」の墨書土器が出土と云う。(以前は地名から「小目代廃寺」と称される。)
常陸国分寺跡南方に位置する。「国分寺の研究 上下巻」では礎石1個の存在が紹介されていただけであったが、現在は柱座を持つ礎石7個(清凉寺・平福寺・貝地地区内)が確認されている 。
以下、柱座を造り出した礎石(7個を確認)が附近に伝わる。
・茨城廃寺礎石1号・2号・3号・4号:在国府5丁目の平福寺
・同5号:貝地2丁目の平岡氏邸:柱座造出礎石
・同6号・7号:国府6丁目の清涼寺;6号は自然石の上面削平
○2011/09/04追加:「古代の石造相輪についての一考察」:
発掘調査によって法隆寺式伽藍配置と確認、塔基壇の一辺は12m、出土瓦などから奈良前期の創建とされる。
石造露盤は萬福寺横の梨畑にあり、地元の人は「茨城童子の巾着石」と云う。
花崗岩製、平面正方形で一辺110cm、厚さ35cmで、中央に径45cmの円形貫通孔を有する。(「茨木廃寺跡T」石岡市教育委員会、1980)
 茨木廃寺石製露盤図:(「茨木廃寺跡T」)
○2011/09/04追加:サイト:「歴史の里石岡ロマン紀行」中の「万福寺」のページ より 転載
 茨城廃寺石製露盤:「萬福寺の左、脇道を約20m程入っていくと、畑の中に110cm角ほどの「きんちゃく石」の立て看板があ る。」、さらに、これとは別の場所に地元ロータリークラブが設置した模造露盤と説明板があるとも云う。
○2013/05/06追加:「茨城廃寺跡 ―第4次調査 現地説明会資料―」平成24年、石岡市教育委員会 より
 塔・講堂跡/昭和55年発掘調査     茨城廃寺発掘調査図
常陸台渡里廃寺 → 常陸台渡里廃寺
下野高藤権現三重塔初重 → 下野茂木高藤権現三重塔初重
下野般若寺五重小塔1
下野般若寺五重小塔2
下野般若寺五重小塔3
下野般若寺五重小塔4
下野般若寺五重小塔5
下野般若寺五重小塔6
下野般若寺五重小塔7
下野般若寺五重小塔8
下野般若寺五重小塔9
五重小塔の詳細(建立時期、由緒など)は不明。
真岡田町にある。大前山と号する。般若寺は貞観4年(862)慈覚大師の開山と伝える。鎌倉期には芳賀氏の庇護を受ける。
江戸期には真岡藩主稲葉正成(春日局が室である)の菩提寺となる。かっては正成の霊廟も建立されるが、火災焼失と云う。
2013/05/08撮影:
境内は幼稚園の園庭となる。五重小塔の建立時期は不明。木造工作物である。屋根銅瓦棒葺。
おそらくは宮大工の造作ではなく、素人の工作であろうと思われるも、相当丁寧に作られ素人としても相当腕がたつものと思われる。
一辺は73cm。高さ(総高)は4m50cm内外と推定される。
 ※高さの根拠は基壇上から二重軒下までの高さが約130cmを測るからである。
 真岡般若寺山門     真岡般若寺本堂
常陸椎尾薬王院三重塔 再訪 → 常陸薬王院三重塔
常陸中台廃寺石造露盤 再訪 → 常陸中台廃寺石造露盤
2013/05/07 閼伽井嶽薬師多宝塔11
閼伽井嶽薬師多宝塔12
閼伽井嶽薬師多宝塔13
閼伽井嶽薬師多宝塔14
閼伽井嶽薬師多宝塔15
閼伽井嶽薬師多宝塔16
閼伽井嶽薬師多宝塔17
閼伽井嶽薬師多宝塔18
閼伽井嶽薬師多宝塔19
閼伽井嶽薬師多宝塔20
閼伽井嶽薬師多宝塔21
閼伽井嶽薬師多宝塔22
閼伽井嶽薬師多宝塔23
閼伽井嶽薬師多宝塔24
閼伽井嶽薬師多宝塔25
閼伽井嶽薬師多宝塔26
閼伽井嶽薬師多宝塔27
閼伽井嶽薬師多宝塔28
閼伽井嶽薬師多宝塔29
閼伽井嶽薬師多宝塔30
閼伽井嶽薬師多宝塔31
閼伽井嶽薬師多宝塔32
閼伽井嶽薬師常福寺(赤井岳薬師)
平成12年(2000) 落慶。純和様の木造塔である。総高14.96m、一辺 3.98m。屋根銅板葺。総工費15000万円。内部には本尊金剛界大日如来と正中2年(1325)京都東山真如堂から送られたという仏舎利を安置と云う。
塔は近江石山寺多宝塔を模すと云う。設計は著名な大森けんじ(本坊の補修に入っている大工三本松氏の言による。)、また施工は松本工務店(松本庸一)と云う。
 ※大森けんじ氏とは「社寺建築の技術」の著者である大森健二氏か宮大工大森健司氏かと思われるも情報が乏しく特定できない。あるいは外の第三者か。
 閼伽井嶽薬師は水晶山常福寺と号する。真言宗智山派。
この山の始まりは天平6年(734)大和鷲峰山竹林寺源海が源観に託した薬師如来を奉持したことによると云う。当初は西北の剣が峰に祀られるも、大同元年(806)徳一 が現在地に開基と伝える。
幾多の山火事で堂宇は失われ、本堂は昭和17年、本坊は昭和28年、鐘楼は昭和49年の再建と云う。その他不動堂などを具備する。
 閼伽井嶽薬師本堂     閼伽井嶽薬師鐘楼
 閼伽井嶽薬師本坊:2011年東北大震災による損壊復興:屋根葺替(桟瓦葺→ステンレス瓦へ?)
 閼伽井嶽薬師庭園     閼伽井嶽薬師不動堂
 赤井岳下(バス停)から延々と車道が続くが、閼伽井嶽薬師のおよそ7町付近から、旧参道及び滝不動道がある。旧参道沿には「首なし地蔵」(石像)、亀の子石、石仏群、石階などがある。
 閼伽井嶽薬師亀の子石    閼伽井嶽薬師丁石    閼伽井嶽薬師石仏
陸奥飯野八幡宮社頭
陸奥飯野八幡宮楼門1
陸奥飯野八幡宮楼門2
陸奥飯野八幡宮楼門3
陸奥飯野八幡宮楼門4
陸奥飯野八幡宮石橋1
陸奥飯野八幡宮石橋2
陸奥飯野八幡宮拝殿1
陸奥飯野八幡宮拝殿2
陸奥飯野八幡宮拝殿3
陸奥飯野八幡宮本殿1
陸奥飯野八幡宮本殿2
陸奥飯野八幡宮本殿3
陸奥飯野八幡宮本殿4
陸奥飯野八幡宮本殿5
陸奥飯野八幡宮本殿6
陸奥飯野八幡宮本殿7
陸奥飯野八幡宮若宮1
陸奥飯野八幡宮若宮2
陸奥飯野八幡宮仮殿
陸奥飯野八幡宮神楽殿
陸奥飯野八幡宮唐門1
陸奥飯野八幡宮唐門2
陸奥飯野八幡宮唐門3
陸奥飯野八幡宮寶藏1
陸奥飯野八幡宮寶藏2
2013/05/07撮影:
現地では仏教的要素は壊滅し、その痕跡を偲ばせるものは皆無である。この意味で飯野八幡宮は半分壊滅し頽廃した社なのである。
2007/11/17更改:参考文献:「飯野八幡宮古絵図考」坂田泉(「日本建築学会計画系論文報告集 第365号」昭和61年 所収)
中世の境内絵図が伝えられる。
 飯野八幡宮古絵図
境内西は八幡宮領域で、社殿は南面する。一、ニ、三の鳥居、楼門、本殿の区画が南北に並び、本殿西に本地阿弥陀堂、東に若宮が並ぶ。
境内東は神宮寺領域で、巡礼観音堂・三重塔・十一面堂・十王堂など7堂宇から構成される。
さらに外周の南には(推測)多数の社家があり、東には桜山坊・松尾坊などの社僧が、北には地蔵院・○本坊・梅本坊・般若寺などの社僧が、西には巡礼観音別当・宮大工屋敷などが 描かれる。
 飯野八幡宮古絵図部分図:堂宇名称書入
境内西域は本社・西に阿弥陀堂(八幡神本地)、その西南に般若堂、東に若宮、その東に禰宜屋、北東に御供屋がある。
本社と阿弥陀堂の中間に武氏(武内社)、白幡(白幡社・祭神は源頼朝)がある。瑞垣内は石敷であった。
三鳥居の北に楼門があり、その中間西に城主座敷と会美酒社(夷社)、東に鐘楼、神主座敷がある。
楼門から拝殿に向い石敷の参道があり、参道西には講坊(講堂・現在は社務所か?)、山王社、東には舞仕屋、神民屋、健児屋がある。
境内東は神宮寺で、北に庵室の区画があり、その西に普賢堂(若宮本地)、庵室の南に釈迦塔三重塔・八幡神本地)があり、さらに釈迦塔南の左右に巡礼観音堂、十王堂、十一面(観音)堂、十王堂(後世には地蔵堂がある)を配する。
 ※飯野八幡宮古絵図:1.33×1.60m、軸装、紙本着色。慶長19年焼失以前の景観を描くとされる。年代不詳(推定慶長年中)。
 ※釈迦塔(三重塔)の経歴は不詳、元久3年(1206)社殿造営完了とあるから、この頃三重塔も造営されたとも思われる。
  上記「古絵図」が現在地への遷宮後の慶長19年焼失前の景観であるとすれば、慶長19年までは三重塔が存在したものと思われる。
  慶長19年〜寛永19年の「八幡宮萬御造営之帳」では三重塔はd阿弥陀堂に代替、下記の「當今境内全図」も塔は阿弥陀堂に代替と思われる。
 飯野八幡略歴:
康平年中(1058-65)源頼義、前九年の役出征の時、京都石清水八幡宮を勧請と云う。(社伝) 
あるいは、文治2年(1186)源頼朝、石清水八幡宮の御正躰を奉じて、赤目崎見物岡(不詳・現在の物見岡と云う)へ勧請したとの別伝もある。
建永元年(1206)鎌倉幕府、幕府政所執事伊賀光宗を好嶋荘の預所に任じ、以降、伊賀氏は飯野氏を名のり、預所職と神主職を世襲する。
南北朝期、兵火で焼失するも、中世を通じ勢力を維持したようである。
頼朝の時代は供僧は12口であったが中世には16坊(長久寺、般若寺、神宮寺、井上院、金剛寺、地蔵院、梅之坊、宝国寺、善龍寺、不動院、阿遮院、養福寺、宝泉院、成福院、常住院、橋本坊)であり、全て真言宗を奉じ、薬王寺末であった。
慶長7年(1602)鳥居忠政、磐城平に10万石で入府、飯野八幡が鎮座する赤目崎見物岡の地を新城として縄張りを行う。そのため赤目崎見物岡(鳥居氏平城) にあった飯野八幡は現在地に遷座する。
慶長19年、火災、元和2年(1616)本殿が再興される。
近世には、幕府から400石の朱印地が安堵され、歴代の磐城平藩主からは社領50石の寄進を受ける。
 當今境内全図:文政9年(1836):磐城志巻之三
ここには江戸後期の境内の様子が描かれる。
本殿は元和年中(1615-)の造営であり、江戸初期には拝殿、前殿、楼門、若宮、仮殿、・・・・阿弥陀堂(本地堂)、大般若堂、護法堂、十王堂、観音堂、釈迦堂、地蔵堂、鐘楼・・・など が造営される。
近世の組織は真言宗社僧16ヶ寺、宮司飯野氏、社家32人、神子8人などであった。
明治の神仏分離の処置で社僧及び仏堂仏器は除かれる。(詳細不詳)
※現在以下の重文建築を有する。
本 殿:元和2年(1616)再興、当初は前殿付き流造、延宝2年(1674)大改修、桁行3間梁間3間入母屋造屋根杮葺となり、そのとき幣殿・拝殿も造立される。
楼 門:万治元年(1658)建立、三間一戸楼門、入母屋造、銅板葺(当初は杮葺)
神楽殿:江戸初期の建立と推定、桁行2間梁間2間、入母屋造、南面する。
唐 門:元禄期の建立と推定、一間一戸平唐門、屋根瓦棒式銅板葺(当初は杮葺)
仮 殿:現御輿殿、寛文年中の建立と推定。
宝 蔵:江戸初頭の建立と推定。
若宮八幡:元和5年(1619)建立、一間社流造り前殿付。
陸奥夏井廃寺跡
 :北から撮影、中央左が塔土壇、右は推定金堂跡
陸奥夏井廃寺塔土壇1
陸奥夏井廃寺塔土壇2
陸奥夏井廃寺塔土壇3
陸奥夏井廃寺塔土壇4
夏井廃寺塔土壇・礎石
陸奥夏井廃寺塔礎石1
陸奥夏井廃寺塔礎石2
陸奥夏井廃寺土塁遺構
 :左端が塔土壇、やや離れて金堂跡、そこから土塁状遺構が右端まで続く。
昭和41年から5次の発掘調査を実施、金堂、講堂、塔跡と推定される3棟の礎石建物を発掘、金堂は南北棟とされ、塔・金堂が相対する配置であろうと推定される。現状跡地は田圃で、塔跡土壇(半壊)、講堂跡土壇(西1/3のみ残)、西と南の土塁状遺構が残る。
塔土壇には心礎と推定される礎石がある。
 夏井廃寺推定伽藍配置図:「東国の初期寺院」から転載
○「日本の木造塔跡」:円柱座のみの礎石あり。心礎なりや否や不明。
2008/08/12追加:
○「平成14年度範囲確認調査 夏井廃寺 現地説明会資料」いわき市教育委員会 など、より
 夏井廃寺全体遺構図;第1号建物跡が塔跡と推定される。    夏井廃寺中央部遺構図
 夏井廃寺塔跡発掘:第1号建物跡
第1号建物跡は広さ30平方m、高さ約2mの土壇の残欠であり、上に花崗岩製の円形造出礎石一個が残存する。平成元年の調査で方3間の方形建物が確認され、版築で築かれた塔土壇と確定する。塔跡西15mに第二号礎石建物が、その北30mに第三号礎石多々獲物が検出される。出土する瓦は平安初期の様式を示す。
なお付近の渡辺行郎宅には円形造出礎石(1個?)が残存するようである。
2013/05/07撮影:
土壇上に残る礎石の大きさは80×90cmで、中央に径60cm高さ3cmの円形造出を造りだす。
大きさやその形状から心礎である可能性はほぼゼロと思われる。
陸奥勝行院三重塔31
陸奥勝行院三重塔32
陸奥勝行院三重塔33
陸奥勝行院三重塔34
陸奥勝行院三重塔35
陸奥勝行院三重塔36
陸奥勝行院三重塔37
陸奥勝行院三重塔38
陸奥勝行院三重塔39
陸奥勝行院三重塔40
陸奥勝行院三重塔41
陸奥勝行院三重塔42
陸奥勝行院三重塔43
陸奥勝行院三重塔44
陸奥勝行院三重塔45
陸奥勝行院三重塔46
陸奥勝行院三重塔47
陸奥勝行院三重塔48
陸奥勝行院三重塔49
平成元年(1989)竣工。一辺3m、総高14m、木造白木。純和様を用いる。
現地案内板では、昭和63年(1688)竣工、高さ14m、柱間3m(一辺か)、本尊胎蔵界五仏、鎌倉後期の様式、小島建設(株)施行、山本亮治設計、飯山万平工匠(棟梁か)とある。
勝行院は三函山勝行院法海寺と号する。通称は「中の寺」。大同年中徳一の開創と伝える。真言宗。
楼門・本堂・釈迦堂などを具る。
いわき市湯本温泉にある。堂宇は、釈迦堂を除き、多くの堂塔が近年の造営のようであり、潤沢な資金があるものと思われる。
2010/07/03「O」氏撮影画像
 陸奥勝行院三重塔11    陸奥勝行院三重塔12    陸奥勝行院三重塔13
 陸奥勝行院三重塔14    陸奥勝行院三重塔15    陸奥勝行院三重塔16
 陸奥勝行院三重塔17    陸奥勝行院三重塔18    陸奥勝行院三重塔19
 陸奥勝行院三重塔20    陸奥勝行院三重塔21    陸奥勝行院三重塔22
 陸奥勝行院三重塔23
2013/05/07撮影:
 陸奥勝行院楼門1    陸奥勝行院楼門2    陸奥勝行院楼門3    陸奥勝行院本堂
 陸奥勝行院釈迦堂:文化年中(1804-18)再建と云う唯一の古建築
 陸奥勝行院鐘楼     勝行院成田不動
陸奥高蔵寺三重塔11
陸奥高蔵寺三重塔12
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陸奥高蔵寺三重塔34
陸奥高蔵寺三重塔35
陸奥高蔵寺三重塔36
陸奥高蔵寺三重塔37
陸奥高蔵寺三重塔38
陸奥高蔵寺三重塔39
安永3年(1774)高蔵寺17世承隆和尚<安永7年遷化>により塔と観音堂が再建 されると伝える。
 ※伏鉢左面に「安永3甲午歳七月」の銘があると云う。
一辺3.6m、総高16mの小塔である。
屋根銅板葺。細部には一部唐様の手法が用いられる。堂内には本尊として千手観音が安置されていたが現在は観音堂に遷され、その後に徳一大師坐像を安置する。(いわき市)
詳細はサイト:高蔵寺>高蔵寺三重塔>高蔵寺三重塔研究資料にある。
高蔵寺は寺伝によると大同2年(807)釈徳一上人によって開かれたと伝える。現在は新義真言宗智積院に属する。
○2013/04/28追加:上記の「高蔵寺三重塔研究資料」では以下のように云う。
 初重の「床は板張りで中央後部には後補の禅宗様須弥壇が置かれ、その上には旧観音堂から移されたと思われる唐破風の彩色された厨子が置かれている。初重中之間柱には須弥壇跡が刻まれ、重要な虹梁の切断跡が見られる。」

三重塔画像高蔵寺様ご提供 。

○2010/07/03「O」氏撮影画像:
 陸奥高蔵寺三重塔     陸奥高蔵寺三重塔内部

○2013/05/07撮影:
昭和50年三重塔屋根銅葺改修工事。
昭和54年三重塔安置観音像修復落慶。
昭和60年観音堂再建、塔安置の千手観音像遷座、塔には徳一坐像を安置。
平成12年三重塔修復落慶。
 高蔵寺三重塔内部1   高蔵寺三重塔内部2   高蔵寺三重塔内部3
 高蔵寺三重塔内部4   高蔵寺三重塔内部5   高蔵寺三重塔内部6
 高蔵寺三重塔厨子1   高蔵寺三重塔厨子2   高蔵寺三重塔厨子3
 高蔵寺三重塔厨子4   高蔵寺三重塔厨子5   高蔵寺三重塔厨子6
 高蔵寺三重塔厨子7   高蔵寺三重塔厨子8
 高蔵寺三重塔相輪;この相輪の形状は少々異形ではある。
 陸奥高蔵寺観音堂:白水阿弥陀堂を模す。

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