現存する三重塔の概要:(江戸後期・元文以降)

江戸後期・元文以降の三重塔

名称・場所 国指定 画像 備  考
371 下野高勝寺 . 図1
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寛延4年(1751)建立
九輪の伏鉢銘:「大工下野国駒場村大山平六時千寛延四辛未季三月大吉祥日」とあると云う。
胴羽目板の彫刻が眼につき、各種の彩色・塗装がなされる江戸期坂東風塔婆の典型を呈する。しかし容姿はバランスの執れた優れたものと評価できる。初重・二重はニ重平行垂木、三重は扇垂木。屋根:銅板瓦葺 。総高19m(あるいは21mとも)。昭和50年代に修理。
なお、初重各間蟇股には十二支の彫刻を置く。
当寺は岩舟地蔵尊と称し、岩舟山山上にある。
○縁起:「伯耆大山寺弘誓坊明願は生身の地蔵菩薩を拝みたいと願じていた。宝亀元年(770)夢の中に、御仏の声を聞く。『生身の地蔵菩薩を拝せんと思わば、これより東、下野国岩舟山に登るべし、必ず生身の地蔵尊を拝すべし 』 と。明願は下野への旅に出立し、岩舟で地蔵尊の化身伊賀坊に邂逅し、そこで遂に生身の地蔵尊を拝む。明願は帰国した後、宝亀8年(777)再度岩舟を訪れ、岩舟山腹にある地蔵尊を本尊として高勝寺を創建 する。」→この縁起に対して、地藏信仰は筑柴宝満山からの伝播とする説もある。
元応2年頃、新田義貞が病気平癒の祈願をし、供田10石を寄進したと伝える。
縁起で推測(伯耆大山寺明願の創建)できるように天台宗を奉じる。
なお関東各地に当地蔵尊の分身が祀られていると云う。またこの山は「加工の容易」な岩舟石の産地であり、江戸期初頭から関東一円にその岩石が供給されたと云う。 (現在ではほぼ採掘し尽くされ、採掘は少量と云う。)
○2004/04/23撮影:
図9は胴羽目板:正面向かって左脇間から、向かって右脇間へと8面分の写真である。(逆時計廻)
図13・14:案内板の写真を転載・・・写真の撮り難い塔で、かつ逆光で良い写真は撮影出来ず。
○2008/01/16追加:「O」氏ご提供:1989/10/22撮影
 下野高勝寺三重塔21    同        22    同        23    同        24
   同        25    同        26    同        27    同        28
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★岩船山地藏菩薩縁起
2011/03/13追加:◎「宝満山の環境歴史学的研究」森 弘子、太宰府顕彰会、2008 より
「岩船山地藏菩薩縁起」は延享元年(1744)の成立であり、伯耆の「大山寺縁起」(鎌倉末期までには成立)より新しいものである。
 しかし、ここに語られる内容の中に
「明願は大智妙権現の御利益にて宝満大士の夢告を蒙り生身の地藏菩薩に遭遇し奉り年来の所願成就・・・」
「筑紫の竈戸山宝満大士は地藏菩薩とともに済度衆生の御誓ありときく」などがある。
 宝満大士(筑紫、竈戸山)とは宝満大菩薩であり、岩船山の地藏信仰は伯耆大山寺から伝えられたものではなく、筑前の大山寺から伝えられたものであろう。(つまり、岩船山の地藏も伯耆大山寺の地藏も宝満山の地藏信仰が伝わったものであろう。)
根拠の詳細は複雑なので割愛するが、以上のような推論・仮説が成り立つのではないだろうか。
 岩船山地藏菩薩縁起:下野高勝寺蔵:伯耆大山寺弘誓坊明願が竈門山にて宝満大菩薩からお告げを受ける場面と云う。
ここに描かれる堂塔は竈門山(宝満山)である。勿論実写ではないが、宝満山の何がしかの雰囲気を伝えるものであろう。
2011/09/17撮影:
 下野高勝寺三重塔61  下野高勝寺三重塔62  下野高勝寺三重塔63  下野高勝寺三重塔64
 下野高勝寺三重塔65  下野高勝寺三重塔66  下野高勝寺三重塔67  下野高勝寺三重塔68
 下野高勝寺三重塔69  下野高勝寺仁王門    下野高勝寺本堂
372 信濃真楽寺 . 図1
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慶長18年焼失の後、寛延4年(1751)再興(露盤銘)。一辺12.5尺(3.78M)。
中備は中央は蟇股、両脇間は撥束。蟇股彫刻は蒲公英、龍、水芭蕉、麒麟という。かっては本尊大日如来が安置されていたとされる。
浅間山と号する。現在は真言宗智山派。浅間山麓に位置する。寺伝によると、奈良期、浅間山の噴火鎮圧を祈願(用明天皇)して、浅間山中腹(上寺場)に建立された云う。その後浅間山噴火のため焼失、下寺場に移るも、山津波のため流失、現在地に移るという。慶長18年全焼、宝永4年火災、寛保2年洪水、文化13年火災と災害が続くが、現在も鬱蒼たる杉木立の中に本堂、観音堂、仁王門、聖天堂、閻魔堂、鐘楼、本坊などの伽藍を有する。
なお浅間山(2568M)は現在も噴煙を上げ、雄大な山容のようですが、訪問時とその翌日とも天候不良のため眼にすることは出来ず。
 ※2008/11/13撮影:浅 間 山:信濃新海大明神への途中に撮影
2005/12/05追加:「社寺境内図資料集成 1巻」
 真楽寺古絵図:元禄期
373 紀伊道成寺 . 図1
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宝暦12年(1762)再建。
安珍清姫の物語で有名。本堂(重文・室町時代天授4年<1378>建立)・仁王門(重文・江戸期)等の建築と多数の国宝・重文の仏像が残される。ちょっとした門前町も健在で ある。
○紀伊国名所図会 後編巻之5より:道成寺:道成寺全図(部分図)
2002/11/19:「祈りの造形 紀伊国神々の考古学 1」菅原正明、清文堂出版、2001より転載
寺伝では大宝元年(701)文武天皇の勅願で、義淵僧正を開山とし、紀大臣道成が建立したとする。始めは法相宗で、後に真言宗に転じ、さらに和歌浦東照宮天曜寺の末寺となり天台宗に転宗した。近年の境内発掘調査で古代伽藍配置が明瞭に なる。
 道成寺古伽藍配置図(現本堂は元の講堂位置に再建を繰り返すと判明する。)
2010/10/26追加:新聞写真
 昭和5年本堂・三重塔     昭和37年三重塔など     昭和37年三重塔
374 備前千光寺 . 明和2年(1765)建立。棟梁は邑久郡の尾形庄助と云う。一辺3.5m、総高18.5m。
 → 備前千光寺
375 武蔵西福寺 . 明和4年(1767)再興。
武蔵西福寺三重塔
376 常陸願成寺 . 画像

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安永9年(1780)建立。一辺4.28m、高さ25.1m。西を正面、廻縁付、屋根銅板葺、基本的には和様を基調とするが、多くの彫刻で装飾 する。(円柱表面は地紋、腰長押・頭長押・台輪に浮彫り彫刻、台輪長押間,組物間,小天井,軒支輪などには厚肉の彫刻を嵌める、尾垂木は龍を丸彫りする、初重脇間腰長押上は板で文字を配する)
平成5〜7年大修理。
 常陸願成寺三重塔17  常陸願成寺三重塔18  常陸願成寺三重塔19  常陸願成寺三重塔20
 常陸願成寺三重塔21  常陸願成寺三重塔22  常陸願成寺三重塔23  常陸願成寺三重塔24
 常陸願成寺三重塔25  常陸願成寺三重塔26  常陸願成寺三重塔27  常陸願成寺三重塔28
清安山願成寺不動院と号する。(板橋不動尊)不動院縁起では、大同3年(808)弘法大師が来錫、大師自刻の不動明王(重文)を祀るという。
本堂:文禄年間(1592-95)再興、重層入母屋造。
 常陸願成寺本堂1   常陸願成寺本堂2   常陸願成寺本堂3
楼門:元禄年間(1688-03)再興。
 常陸願成寺仁王門
不動院境内絵図(寛政10年1798):不鮮明であり、殆ど判別はできない。
2013/05/09撮影:
 願成寺三重塔31  願成寺三重塔32  願成寺三重塔33  願成寺三重塔34  願成寺三重塔35
 願成寺三重塔36  願成寺三重塔37  願成寺三重塔38  願成寺三重塔39  願成寺三重塔40
 願成寺三重塔41  願成寺三重塔42  願成寺三重塔43  願成寺三重塔44  願成寺三重塔45
 願成寺三重塔46  願成寺三重塔47  願成寺三重塔48  願成寺三重塔49  願成寺三重塔50
 願成寺三重塔51  願成寺三重塔52  願成寺三重塔53  願成寺三重塔54  願成寺三重塔55
 願成寺三重塔56  願成寺三重塔57  願成寺三重塔58  願成寺三重塔59  願成寺三重塔60
 願成寺三重塔61  願成寺三重塔62  願成寺三重塔63  願成寺三重塔64  願成寺三重塔65
 願成寺三重塔66  願成寺三重塔67  願成寺三重塔68  願成寺三重塔69  願成寺三重塔70
 願成寺仁王門11  願成寺仁王門12  願成寺仁王門13  願成寺仁王門14
 願成寺本堂11    願成寺本堂12   願成寺本堂13    願成寺本堂14   願成寺本堂15
 願成寺本堂奉納額
 願成寺鐘楼11    願成寺鐘楼12
377 陸奥高蔵寺 . 11
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安永3年(1774)高蔵寺17世承隆和尚<安永7年遷化>により塔と観音堂が再建 されると伝える。
 ※伏鉢左面に「安永3甲午歳七月」の銘があると云う。
一辺3.6m、総高16mの小塔である。
屋根銅板葺。細部には一部唐様の手法が用いられる。堂内には本尊として千手観音が安置されていたが現在は観音堂に遷され、その後に徳一大師坐像を安置する。(いわき市)
詳細はサイト:高蔵寺>高蔵寺三重塔>高蔵寺三重塔研究資料にある。
高蔵寺は寺伝によると大同2年(807)釈徳一上人によって開かれたと伝える。現在は新義真言宗智積院に属する。
○2013/04/28追加:上記の「高蔵寺三重塔研究資料」では以下のように云う。
 初重の「床は板張りで中央後部には後補の禅宗様須弥壇が置かれ、その上には旧観音堂から移されたと思われる唐破風の彩色された厨子が置かれている。初重中之間柱には須弥壇跡が刻まれ、重要な虹梁の切断跡が見られる。」

三重塔画像高蔵寺様ご提供 。

○2010/07/03「O」氏撮影画像:
 陸奥高蔵寺三重塔     陸奥高蔵寺三重塔内部

○2013/05/07撮影:
昭和50年三重塔屋根銅葺改修工事。
昭和54年三重塔安置観音像修復落慶。
昭和60年観音堂再建、塔安置の千手観音像遷座、塔には徳一坐像を安置。
平成12年三重塔修復落慶。
 高蔵寺三重塔内部1   高蔵寺三重塔内部2   高蔵寺三重塔内部3
 高蔵寺三重塔内部4   高蔵寺三重塔内部5   高蔵寺三重塔内部6
 高蔵寺三重塔厨子1   高蔵寺三重塔厨子2   高蔵寺三重塔厨子3
 高蔵寺三重塔厨子4   高蔵寺三重塔厨子5   高蔵寺三重塔厨子6
 高蔵寺三重塔厨子7   高蔵寺三重塔厨子8
 高蔵寺三重塔相輪;この相輪の形状は少々異形ではある。
 陸奥高蔵寺観音堂:白水阿弥陀堂を模す。
378 陸奥法用寺 . 11
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塔は大同3年(808)創建され、永享6年(1434)に再建される。
しかしこの塔は宝永6年(1709)大雪で倒壊する。
再々建となる現在の塔は金安永元年(1772)起工、安永9年竣工、この塔が現存する。
一辺4.12m、高さ17.3m。(総高は19mとも20mとも云う)
軸部の基本は和様を用いるが、斗栱の形状・三手先各組に置く尾垂木の形状・三つ斗・菱支輪など唐様を細部に用いる。また龍の彫刻や板支輪の彫刻など江戸期風の装飾も施す。
垂木は一重/二重は二軒平行垂木、三重は二軒扇垂木を用いる。
屋根銅板葺(元は杮葺)。
写真は2014/04/09撮影:
 法用寺三重塔相輪1     法用寺三重塔相輪2
 法用寺三重塔三重窓     法用寺三重塔初重椽     法用寺三重塔床下
内部には四天柱を建て、厨子を設け、釈迦三尊を安置する。
左脇侍は文殊菩薩、右脇侍は普賢菩薩を配し、塔の扁額が「文殊菩薩」とあるのは左脇侍によるものと推定される。
 法用寺三重塔内部1     法用寺三重塔内部2

○三重塔板図:二重目にあり明和5年(1768)の年紀あると云うも未見。
本板図は大工高山次右衛門(次右衛門は会津の中山次右衛門あるいは飛騨高山の次右衛門と解するのかは不明)・越国仙七が描くという。

○法用寺(会津高田町/現会津美里町)は天台宗、養老4年(720)徳道上人の開基、大同2年(807)火災焼失、同3年徳一によって現地に移転再興と伝える。
 ※徳道上人は大和長谷寺開山道明上人弟子で西国33所札所を開設という上人である。
その後修験道場となり33坊を数えるも天正17年(1589)伊達氏侵攻によって衰微し16坊に減ずると云う。
古くは飯豊山修験を司るといわれる。
 飯豊山遠望1:根岸付近から撮影     飯豊山遠望2:会津村から撮影

観音堂の厨子・仏壇は鎌倉期のもので重文、また観音堂には仁王門にあった平安期の仁王像が祀られこれも重文。観音堂は江戸期の建立。
 陸奥法用寺仁王門
 陸奥法用寺本堂鐘楼     陸奥法用寺本堂1     陸奥法用寺本堂2
 法用寺子安地蔵堂1      法用寺子安地蔵堂2     陸奥法用寺庫裡
379 備前金山寺 . 金山寺三重塔は天明8年(1788)建立。一辺5.1m、高さ26.3m。
 →備前金山寺
380 丹波高源寺 . 図1
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本尊
塔は天明年間(1780年頃)弘厳禅師の建立によるとされる。初層は輪蔵の形式で、5.045巻の経文が収められているようです。本尊は開運毘沙門天とする。相輪を上げ、三層建築であるので三重塔ではあるが、伝統的な塔婆建築とは云いがたく、組物もなく相当程度、高さに対する底面積は広いようです。
当寺は西天目瑞巌山と号する(甲斐の栖雲寺が東天目)。臨済宗妙心寺派。寺伝では僧・遠谿(えんけい)が中国抗州天目山で中峰明本禅師に師事し、帰朝して正中2年(1325)に後醍醐天皇より号を得て開山。創建地は現在地東方3kmの岩屋山であり、禅宗24流派中の中峰派の根本道場として、岩屋千坊といわれたとする。明智光秀の丹波攻めによりことごとく焼亡。江戸期に弘巌禅師が現在地に仏殿、三重塔、庫裡、方丈、山門などを再興。天目かえでの名勝としても有名のようです。
381 出羽
阿久津八幡宮
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寛永2年(1625)米沢の豪商鈴木十左衛門が寄進・造立。寛政2年(1790)烈風により倒壊。
寛政9年(1797)高畑村新藤喜兵衛が再建・現存。一辺4.63m、総高20.5m。各重とも和様2手先を用いる。また江戸後期風な彫刻を多用する。
 三重塔初重内部:須弥壇は残存するものの、 正体不明の「鏡」などが置かれているようです。
 別当金蔵院鐘楼:梵鐘は 失われているも、簡易な建築ながら鐘楼が現存する。ここには推定旧三重塔相輪の一部が置かれている。
 三重塔旧相輪1  三重塔旧相輪2  三重塔旧相輪3  三重塔旧相輪4  三重塔旧相輪5
昭和44年「日本の塔総観 下」では「相輪は請花を失い、9輪も8つしかなく、水煙の形はよろしからず・・」とあり、昭和44年以降に相輪の造替があったものと思われ、その折、旧相輪の一部が鐘楼に保存・展示されているものと推測される。
 阿久津八幡は貞観2年(860)慈覚大師が阿弥陀堂 ・金蔵院を創建したことに始まり、その後八幡太郎義家が鶴岡八幡宮を勧進したと伝える。
 ◇阿久津八幡宮阿弥陀堂跡
中世にはこの地方の信仰の中心として歴代領主から保護され、中世末には伊達氏の外護を受ける。
天文15年(1546)学頭金蔵院ほか衆徒頭千珠院はじめとする12坊、神職33人が附属していた。
伊達氏移封により、上杉家より金蔵院に50石の寄進、その他があった。
明治の神仏分離で本地仏木造聖観音立像(鎌倉期・県文)等仏像3体が亀岡大聖寺に残存する。
2003/7/21:阿久津八幡神社古図(明治) :
参道左の中島に三重塔、右に鐘楼、本地堂、別当金蔵院がある。 南鳥居附近の参道左右に社僧があったようです。金蔵院は現在の社務所の位置にあったが明治45年焼失という。
阿久津八幡宮拝殿:延享4年(1747)建立、本殿は宝暦3年(1753)建立
  同    舞楽殿:様式上室町末期の遺構と思われる。仏堂の様相を呈する。
その他の仏教的な遺物として
阿久津八幡宮経石塔  弁財天堂  、弘法水、石製仏像などが散在する。
2010/04/25追加:毎日新聞掲載
 平成17年阿久津八幡塔     平成18年阿久津八幡塔
382 下総成田山新勝寺 重文 成田山新勝寺
383 信濃貞祥寺 . 信濃神光寺跡・貞詳寺三重塔
384 備前成就寺 . 文化5年(1808)再建塔。高さ19.7m、一辺 3.4m。
 → 備前成就寺
385 信濃光前寺 . 図1
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塔本尊

文化5年(1808)再建。一辺3.3m、高さ17m。本尊五智如来。
棟梁は諏訪立川和四郎、四郎治と伝える。
元の塔婆は応永年中(1394-1427)の建立で享和3年(1803)焼失と云う。
光前寺:創建は貞観2年(860)本聖上人の開山と伝える。天台宗。宝積山と号す。本尊不動明王。
江戸期は朱印60石を受ける。
弁財天堂:重文・室町期。方一間入母屋造。厨子も室町期のものとされる。本尊弁財天・十五童子は明応9年(1500)七条大倉法眼の作とされる。
本堂:嘉永4年(1851)再建。
三門:嘉永元年(1848)再建。
信濃光前寺弁財天堂1   同  弁財天堂2   同  弁財天堂厨子
  同     本堂1    同     本堂2    同     三門
2008/01/16追加:「O」氏ご提供:1989/10/15撮影
信濃光前寺三重塔21    同        22    同        23    同        24
  同        25    同        26    同        27
信濃光前寺弁財天堂3
  同      三門2    同      三門3    同      三門4

386 丹波柏原八幡社 . 図1
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文化10年(1813)から文化12年にかけて再建。一辺 4.96m。総高約23m。
塔は応仁年間(1467-)に創建され、明智光秀の丹波侵攻で焼失。天正7年(1579)再興され、その後再度焼失。
本殿のすぐ背後の石垣上に立つ。初層は四天柱を立て、格天井を張り、来迎壁の前に須弥檀を置く。平成3年の台風で屋根が破損し、近年全面的に修理され、屋根・彩色等再建時の艶やかさに 復元される。関西では珍しく江戸・関東風な派手な装飾を施す。姿も江戸期風である。
本家の山城石清水八幡宮の僧侶は全て還俗し大塔・多宝塔を初め全ての坊舎に至るまで、仏教的なものを棄却したが、当社の塔婆は非常に目立つにも係わらず、 棄却を免れ現在に残る。その生き残りの 「術」として、今も塔にはは「八幡文庫」と揮毫した扁額を掲げる。なお前面左に鰹木のある鐘楼も残る。
当社は万寿元年(1024)山城石清水八幡宮の別宮として創建、後明智光秀の丹波攻めで焼失。天正10年(1582)秀吉が堀尾茂作に命じて再興。当時の拝殿・本殿(重文)が今に伝えられている。
○2001/8/25撮影:図1〜図9、図7〜図9は社殿画像。
○2004/8/28撮影:山門に八幡山の扁額の掲げた社務所がある。
 柏原八幡宮本殿・三重塔
 柏原八幡宮三重塔1    柏原八幡宮三重塔2    柏原八幡宮三重塔3
 柏原八幡宮三重塔4    柏原八幡宮三重塔5    柏原八幡宮三重塔6
 柏原八幡宮三重塔7    柏原八幡宮三重塔8    柏原八幡宮三重塔9
 柏原八幡宮本殿1      柏原八幡宮本殿2      柏原八幡宮社務所
○2014/12/13追加:
神宮寺である乗宝寺は東山麓に現存する。乗宝寺は八幡山と号する。現在は無住で少々荒廃するという。
2014/12/14追加;
○「兵庫県史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第8輯」兵庫県、昭和7年(1932) より
 元来柏原の地は山城石清水八幡宮社領であった。
当社は万寿元年(1024)この地に社殿を営み、石清水八幡宮より八幡大菩薩を勧請することに始まると伝える。
中世における石清水社の所領は他社の比ではなく、最盛期には全国に34荘を数えると云う。山城石清水社は荘園の荘官を統制することは当然ながら、精神面の支配を目的として荘園には石清水社末社を別宮として造営しその地の鎮守として崇め、精神的紐帯を強める方策を採る。
保元3年(1158)頃には18國に35個所の別宮を数えるという。丹波にはこの地柏原別宮、但馬には安良・伊福・亀・桝・勝楽寺・室尾・熊次の各別宮、播磨には魚吹別宮を構える・・のごときである。
 なお、別當八幡山乗宝寺は山裾にある。真言宗。實城院末。
亀山天皇の代に宗秀上人の再建する所と伝え、天文年中に中秀上人中興するも、天正の兵火で焼失、その後秀吉が再建し澄雲が中興開山という。
 三重塔は応仁年中僧秀慶の創建といい、天正の兵火に焼けて再興、万治2年(1659)に火災ありて三建、文化に焼けて、文化13年(1816)再建した塔が現存する。
2018/08/20追加:
○「中井権次一統」(Wikipedia:https://ja.wikipedia.org/wiki/中井権次一統 など) より
 天正の兵火で本三重塔は焼失、失われる。その三重塔再建の為、丹後与謝郡の中井役所(徳川幕府公認の宮大工集団)より中井道源とその弟が宮大工として派遣される。塔は元和元年(1615)から元和5年(1619)にかけて竣工する。道源はそのまま柏原に居を構え、柏原中井家の祖となる。
 徳川幕府が各地に多彩な建造物を建立する中で、4代目の言次君音から彫物師としての本格的な活動が始まり、特に宝暦年中(1751-64)における柏原八幡宮摂社五社稲荷の龍を中心とする多彩な彫物はその嚆矢と評価される。
5代目中井正忠以降も「青竜軒」の屋号を名乗ってその技量を十二分に踏襲。
文化12年(1815)に落雷により焼失した三重塔の再建に当たっては、一族の宮大工が建築を、正忠、正貞が彫物を担当する。
9代目貞胤まで6代に亘って続いた彫物の作品は、丹波を初め、丹後、但馬の北近畿一円及び播磨地方にまで及び、300近い神社、仏閣に残されている。
なお、10代目から京都府宮津市で印判業を営み、11代目光夫が健在という。
387 淡路千光寺 . 図1
図2
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図8
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文化10年(1813)頃の建立とされる。正面石段横には文政13年(1830)の銘がある。
一辺4.4m、高さ約26mで大型塔の部類であろう。塔本尊:五智如来。
軒は二軒繁垂木で3層目は扇垂木を用いる。 初層本瓦葺で2−3重は銅板葺。高田屋嘉兵衛らが改修したとも伝える。
千光寺は先山(447m)の頂上にある。本尊は千手観音、延喜元年(901)の創建と伝える。江戸期には50石。現伽藍は江戸期初め蜂須賀氏が再興したものと云う。
○2006/10/06追加;「神仏習合をとおしてみた日本人の宗教的世界 1 」1990  より
 三重塔本尊:五智如来(室町期)
牌:2体ある。 内1体:(表)大塔再建本願證覚上人(裏)発願寛政5寅年/入仏供養/文政13年寅年・・・(寛政6年は1794年)
○2011/05/10追加:「淡路名所図会」天明2年(1782)以降成立 より
 淡路名所図会・千光寺:三重塔はまだ建立されてはいない。(描かれない)
○「淡路國名所圖會」:暁鐘成(木村明啓)編纂、明治26年刊(嘉永4年成立)1893成立(1851刊)
清浄皇院千光寺「(先山の絶頂にあり。本尊観世音は当国33所巡拝札所の第1番なり。・・麓の諸村に門下の寺12区あり。無本寺)護摩堂・三層塔(本堂の前、左の傍にあり)香炉堂・・・六角堂・・・経蔵・・・鐘楼・・」
 千光寺全図       同   部分図
 2011/05/10追加:
  淡路國名所圖會・千光寺:上掲載図と同一である。
○2006/04/16追加:
 千光寺参詣曼荼羅:国立歴史民俗博物館蔵 :室町期:2007/08/02画像入替
○2006/10/06追加;「神仏習合をとおしてみた日本人の宗教的世界 1 」1990  より
山下:上下内膳宮・新堂・阿弥陀堂、山上:仁王門・本堂・三重塔・宝塔・鐘楼、左手に庫裏・護摩所・経蔵、右手に坊舎・石塔・講堂・大師堂、背後には諸神がめぐる。
388 山城真正極楽寺
 (真如堂)
. 図1
図2

図3

図4


画1
画2
画3
画4
画5
画6
文化14年(1817)再建。一辺4.8m。総高23m。塔婆全容の撮影は少々困難である。
内部には多宝小塔を安置と云う。
真正極楽寺は今なお大伽藍と多数の塔頭を有する天台の大寺である。
現存塔頭:喜運院、理正院、吉祥院、覚円院、東陽院、法輪院、松林院、法伝寺(荼枳尼天)、元真如堂
2015/01/18追加:
○「東山名勝圖會」(「再撰花洛名勝圖會 東山之部」)木村明啓・川喜多真彦/著、松川安信ほか/画、元治元年(1864) より
文化14年(1817)再建の三重塔(多宝塔と注記)が描かれる。
 巻4:東山名勝圖會真如堂
因みに安永9年(1780)刊の「都名所圖繪」の境内絵図には三重塔は描かれない。
 巻1;東山名勝圖會東山全図其三
 巻1;東山名勝圖會東山全図其三部分図
いずれも、向かって左が真如堂塔婆、右は黒谷塔婆である。
昭和47年真如堂三重塔:昭和47年(1972)年撮影画像。
○2017/01/11追加:
絵葉書:s_minaga蔵:通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。
 山城真如堂三重塔絵葉書
○図1〜4:2000/08/05撮影
○画1〜6:2002/03/30撮影
2002年6月空撮画像(マンション新聞折込広告から転載)左:真如堂、右:黒谷
2010/07/05追加:
 平成14年真如堂空撮:2002年毎日新聞報道写真
2006/04/08撮影:
 真如堂三重塔1   同       2   同       3    同       4
   同      5   同       6   同       7   同       8   同       9
2011/01/13撮影:
 山城真如堂三重塔21   山城真如堂三重塔22   山城真如堂三重塔23
 山城真如堂三重塔24   山城真如堂三重塔25   山城真如堂三重塔26
 山城真如堂三重塔27   山城真如堂三重塔28   山城真如堂三重塔29
 山城真正極楽寺本堂:享保2年(1717)建立、重文
2012/11/01撮影:
 山城真如堂三重塔31   山城真如堂三重塔32   山城真如堂三重塔33
 山城真如堂三重塔34   山城真如堂三重塔35   山城真如堂三重塔36
 山城真如堂三重塔37   山城真如堂三重塔38   山城真如堂三重塔39
 山城真如堂三重塔40   山城真如堂三重塔41   山城真如堂三重塔42
 山城真如堂三重塔43   山城真如堂三重塔44   山城真如堂三重塔45
 山城真如堂表門1     山城真如堂表門2     山城真如堂本堂
 山城真如堂宝塔1     山城真如堂宝塔2:本堂内に安置      山城真如堂新長谷寺
 山城真如堂元三大師堂   山城真如堂庫裏     山城真如堂千躰地蔵堂
 寺中法伝寺1      寺中法伝寺2:荼枳尼天     寺中法輪院
 寺中松林院1     寺中松林院1     寺中地藏庵     寺中理正院1     寺中理正院2
 寺中喜運院      寺中東陽院      寺中覚圓院1     寺中覚圓院2     寺中覚圓院3
 寺中吉祥院      寺中元真如堂は未見
2014/10/12撮影:
 山城真如堂三重塔51    山城真如堂三重塔52    山城真如堂三重塔53
 山城真如堂三重塔54    山城真如堂三重塔55    山城真如堂三重塔56
 山城真如堂三重塔57    山城真如堂三重塔58    山城真如堂三重塔59
 山城真如堂三重塔60    山城真如堂三重塔61    山城真如堂三重塔相輪
 山城真如堂表門3
389 備前五流尊滝院 . 備前十二所権現(五流修験)
390 飛騨国分寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
本堂
天平年間七重塔創建。天平期創建心礎(飛騨国分寺心礎) が残存する。
弘仁2年(819)創建七重塔炎上。
斉衡元年(854)五重塔再建、応仁年間に炎上と伝える。
元和元年(1615)金森氏が五重塔再興。
天和年中(1681-3)三重塔に改装、寛政3年(1791)三重塔強風で倒壊。
文政3年(1820)三重塔として再興。
一辺4.42m、高さ22.4m。おそらく素木造りであったと推測される。
屋根:再建当初は杮葺、大正11年桟瓦杮葺、昭和53年現在の銅板葺となる。本尊大日如来。
本堂(重文・室町・桁行5間梁間4間、入母屋造、屋根銅板葺)が残る。
(本尊薬師如来坐像<重文・平安期>、聖観音立像<重文・平安・飛騨国分尼寺本尊と伝える>を有す)
○2007/08/12追加:「岐阜県写真帖」岐阜県、明42年 より
 飛騨国分寺     飛騨国分寺三重塔:左図の三重塔部分
○2009/11/11撮影:
 飛騨国分寺三重塔11      同        12      同        13
   同        14      同        15      同        16
   同        17
 飛騨国分寺本堂11        同       12        同       13
391 阿波鶴林寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
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文政6年(1823)再建。和様、唐様とが混在する様式である。多少彫刻が「うるさい」が、かなりの大型塔である。一辺5.33m。三重塔は本堂の右上に位置する。
 当寺は霊鷲山と号する。四国88所20番札所。延暦年間、桓武天皇の勅願という。また弘法大師の巡錫があり、その折、大師は雌雄2羽の鶴が、黄金の地蔵菩薩を互いに守護しながら老杉に舞い下りるのを見たという。大師は自らも地蔵菩薩を刻んで小さい地蔵菩薩を胎内に納め本尊とし、堂宇を建立したという。寺は歴代天皇、武将の信仰を得、近世には阿液藩主の祈願所となり、山林 ・寺領の寄進をみる。寺は標高570mの頂上にあり、ドライヴウエイがなければ相当の難所と思われる。
明治維新前は塔中石室院、愛染院、東蔵院、不動院、宝積院、北室院、慈眼寺を有するも、明治維新の時、慈眼寺を除く6院を本坊に合併す。
2010/02/11追加
 昭和33年阿波鶴林寺三重塔:毎日新聞写真     昭和36年阿波鶴林寺三重塔:毎日新聞写真
2013/08/09追加:
○「四国徳島写真帖」徳島県、大正11年 より
 阿波鶴林寺:大正11年以前の撮影ということになる。
2013/08/15追加:
○「四国遍礼霊場記」(原本は元禄2年「内閣文庫本」寂本原著7巻7冊、東京国立博物館本/元禄2年刊の複製) より
 鶴林寺圖:元禄には塔は既に退転し、塔阯のみ残る。
六角堂の六地蔵は弘法大師作である。鎮守は熊野権現社、鎮守社の左には塔があったが、壊れてしまい跡だけが残る。その前には鶴守神と鐘楼が並ぶ。・・・寺数は現在7宇ある。・・・・2013/08/09追加:
○「四国遍路道中雑誌」松浦武四郎(「松浦武四郎紀行集. 中」1975 所収)
 ※「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」よりでは、「四国遍路道中雑誌」弘化元年(1844)上梓、天保7年(1836)武四郎19歳の頃に四国を巡ると思われる。
 鶴 山 圖:三重塔の位置に多宝塔が描かれるも、多宝塔とは不審である。天保年中では三重塔の存在は肯定できるが、三重塔を多宝塔と誤認あるいは誤記あるいは誤描したのであろうか。
なを、阿波熊谷寺多宝塔について同じ「四国遍路道中雑誌」の中で松浦武四郎は三重塔としているので、野帳の整理などで、熊谷寺多宝塔と取り違えたのであろうか。
 記事:廿番霊鷲山鶴林寺: ・・18丁にして「三寳荒神」并て「熊野三社」并て「仁王門」上に「六角堂」・・・少し上り出茶屋、茶屋。「地蔵堂」并て「十王堂」并て「護摩堂」石階上りて「鶴林寺」・・・本尊左の方に「多寳塔」上に「鎮守社」并て「鶴宮」少し南に當「弁天社」并て「大師堂」石階を下り「宝庫」・・・・是より大龍寺へ打抜けに行に、道の傍らに本坊并て石寳院、愛染院、寳積院等・・・・
392 出羽慈恩寺 . 出羽慈恩寺
393 出雲清水寺 . 図1
図2
図3

01
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本堂1
本堂2

安政6年(1859)の建立。かっては多宝塔があるも尼子・毛利氏の合戦で焼失(縁起)。
文化年中に再興に着手し文政・天保と勧進が行われる。蓮乗院慧教和尚が統括し、大工は地元の棟梁富谷覚太が指名された。完成まで33年間と云う年月を要し、棟梁は富谷覚太から、由助(子)、唯市(孫)に引き継がれたという。
高さ33.33m。材は欅を用いる。心柱はニ重梁上から建つ。塔には階段があり、3重まで登楼が可能。(近年は休日のみの公開)
出雲清水寺は寺伝では推古朝の頃の創建と云うも、おそらく本尊十一面観音(平安初期・重文)の造立の頃の創建であろうと推定される。以降伯耆大山寺・出雲鰐淵寺と並ぶ天台の大寺となる。中世には尼子氏・毛利氏の庇護を受ける。近世には松江藩堀尾氏・松平氏から100石を受ける。
当時、坊舎には大宝坊、見性院、松寿院、松井坊、真如院、蓮乗院があると云う。
現在は根本堂(本堂、7間4面、明徳4年1393・重文)など多数の堂宇と大宝坊(本坊)と蓮乗院の2坊を残す。
本尊十一面観音立像(重文・平安初期)、阿弥陀堂の丈六阿弥陀坐像(重文・藤原)、常念仏堂の阿弥陀三尊像(重文・藤原)なども有す。
なお三重塔板図(厚さ6分長さ10尺の9枚の桐板を継いだものと云う)が残ると云うも未見。(宝蔵に展示中と云う。)
図1〜3は三重塔画像:「X」氏2003/10/16撮影画像
01〜11は三重塔画像、本堂1〜2は本堂画像、何れも2005/05/02撮影
2012/09/30撮影:
 出雲清水寺三重塔21     出雲清水寺三重塔22     出雲清水寺三重塔23
 出雲清水寺三重塔24     出雲清水寺三重塔25     出雲清水寺三重塔26
 出雲清水寺三重塔27     出雲清水寺三重塔28     出雲清水寺三重塔29
 出雲清水寺三重塔30     出雲清水寺三重塔31     出雲清水寺三重塔32
 出雲清水寺三重塔33     出雲清水寺三重塔34     出雲清水寺三重塔35
 出雲清水寺三重塔36
 塔初重内部:木造五智如来を安置する。
 出雲清水寺三重塔37     出雲清水寺三重塔38     出雲清水寺三重塔39
 出雲清水寺三重塔40     出雲清水寺三重塔41     出雲清水寺三重塔42
 塔二重:内部正面には多宝塔を安置
 出雲清水寺三重塔43     出雲清水寺三重塔44     出雲清水寺三重塔45
 出雲清水寺三重塔46     出雲清水寺三重塔47     出雲清水寺三重塔48
 塔三重
 出雲清水寺三重塔49     出雲清水寺三重塔50     出雲清水寺三重塔51
 出雲清水寺三重塔52     出雲清水寺三重塔53     出雲清水寺三重塔54:根本堂を俯瞰
 出雲清水寺三重塔55:蓮乗院、本堂を俯瞰
 塔初重組物
 出雲清水寺三重塔56     出雲清水寺三重塔57     出雲清水寺三重塔58
 出雲清水寺三重塔59     出雲清水寺三重塔60
 出雲清水寺仁王門1      出雲清水寺仁王門2
 ※現在は伽藍西側の大門から参詣するのが主流であるが、かっては伽藍南を貫く広瀬清水街道の清水峠(東)からの参詣道は表参詣道であった。この表参詣道は仁王門に至る道である。現在は辿る人も少なく相当荒れている。 広瀬は広瀬藩陣屋町である。
 出雲清水寺本堂11    出雲清水寺本堂12    出雲清水寺本堂13    出雲清水寺本堂14
 出雲清水寺大門
 出雲清水寺開山堂     出雲清水寺高燈籠    出雲清水寺護摩堂    出雲清水寺護摩堂内部
 出雲清水寺弁財天堂
 清水寺本坊(太宝坊)     清水寺蓮乗院1     清水寺蓮乗院2     清水寺蓮乗院3
○「日本社寺大観 寺院篇」:塔頭に大宝坊、蓮乗院、松井坊、覚善院、松寿院、見性院
○2006/04/09追加:「慶応義塾図書館所蔵江戸時代の寺社境内絵図」
 出雲国瑞光山清水寺絵図:江戸末期
○2007/09/14追加:「出雲みやげ名所写真帖」福井写真館編、松江:福井写真館,大正6年 より
 出雲清水寺1   出雲清水寺2
394 伊予西山興隆寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
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天保3年(1832)建立−相輪露盤刻銘による。高さ18.6m。
文化年間光憧上人の発願で、次代の自性上人代に完成したと云う。初重・ニ重は二重繁垂木、三重は二重扇垂木を用いる。本尊は大日如来。
塔は急な階段を上がった斜面の造成地に建ち、北面し、南面する本堂と対する。木立も多く造成面も狭く、北の階段下からの撮影余地しかなく常に逆光で撮影しにくい塔婆の一つである。
西山と通称する。養老年中(717-724)空鉢上人(法道仙人)開基で、その後報恩大師が入山とも伝える。桓武天皇の勅命で伽藍造立・三重塔創建、さらに源頼朝が伽藍再興とも云う。
本堂(重文、文中4年/1375建立、寄棟造、屋根銅板葺)などの伽藍を有する。
2002/12/27撮影:
図1〜11   本堂1      本堂2      本堂3
2012/05/01追加:絵葉書
 西山興隆寺三重塔
2015/11/07撮影:
三重塔は屋根葺き替え中。
 西山興隆寺三重塔11    西山興隆寺三重塔12    西山興隆寺三重塔13
 西山興隆寺三重塔14    西山興隆寺三重塔15    西山興隆寺三重塔16
 西山興隆寺三重塔17    西山興隆寺三重塔18    西山興隆寺三重塔19
 西山興隆寺三重塔20    西山興隆寺三重塔21    西山興隆寺三重塔22
 西山興隆寺三重塔23    西山興隆寺三重塔24
 西山興隆寺本堂11   西山興隆寺本堂12   西山興隆寺本堂13   西山興隆寺本堂14
 西山興隆寺本堂15   西山興隆寺本堂16   西山興隆寺本堂17   西山興隆寺本堂18
 西山興隆寺本堂19   西山興隆寺本堂20   西山興隆寺本堂21   西山興隆寺本堂22
 西山興隆寺本堂23
 西山興隆寺仁王門1    西山興隆寺仁王門2    西山興隆寺仁王門3:大正7年建立。
 西山興隆寺本坊1     西山興隆寺本坊2     西山興隆寺本坊3
 西山興隆寺大師堂     西山興隆寺聖天堂
八角塔堂:近年の建立であろう。寶聚殿の扁額を掲げる。梵鐘(重文、鎌倉)などを収納。
八角単層堂に相輪をかかげる。
 西山興隆寺寶聚殿1    西山興隆寺寶聚殿2
他に六角堂:仁王門はるか前方にある。(写真なし)、鎮守護摩愛染堂、文殊堂などがあるも未見。
395 備前曹源寺 . 画像 文政年中(1820頃)建立。一辺3.98m。組物には和様と禅宗様が混在する。
曹源寺は元禄11年(1698)2代藩主池田綱政が祖父信輝と父光政の菩提と自らの冥福のため創建。
臨済宗妙心寺派。参道より総門・三門・仏殿を一直線に配す。仏殿右に鐘楼・左に鼓楼、鼓楼奥に経蔵、経蔵背後に開山塔(開山堂)がある。さらに仏殿右に方丈、方丈奥に池泉回遊式庭園がある。仏殿の奥は岡山藩主池田家墓所とする。墓所向かって左奥の丘陵中腹に三重塔がある。三重塔への道は荒れ、塔 周囲には厳重な柵がある。
本堂:安永9年(1780)焼失、現文政7年(1824)再興。桁行7間、梁間6間、重層、入母屋造、本瓦葺の大建築。
三門:五間三戸の楼門、入母屋造、本瓦葺、創建時の建物とされる。
往時は、おそらく宗教統制を目的としたものと思われるが、浄土宗清光院、日蓮宗大光院(現存)、臨済宗長泉院、天台宗玉泉院(現存)、真言宗光明院の塔頭を配する。
2008/02/01撮影:
 備前曹源寺三重塔1    同        2    同        3    同        4
   同        5    同        6    同        7    同        8
   同        9    同       10    同       11
   同      三門    同      仏殿
396 備前余慶寺 . 三重塔:天保12年(1815)建立。 一辺3.4m、高さ30.6m。屋根本瓦葺。
 → 備前余慶寺
397 和泉水間寺

画像11〜20:
「O」氏ご提供:
2007/07/31撮影

. 図1
図2

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江戸後期(天保6年<1835>頃か・寺伝では天保5年再建と云う)建立。
一辺4.3m、高さ約20mか。スタイル・装飾とも江戸後期の塔建築の典型とも思われる印象である。
天平16年(744)聖武天皇の勅願で創建と伝える。現在は厄除観音として参詣が多い。
水間鉄道は当寺への参詣鉄道として敷設されたもので、今も健在に走る。

◆和泉名所圖會<安永(1772-78)年中刊>より:水間寺伽藍図(部分図)
記事:「・・・多宝塔(本堂の前にあり。近年回禄の災に及ぶ。今、礎のみなり)・・」とあり、当時(安永年中)は塔・本堂等は跡のみの状態であった。

寺伝では古は多宝塔があり、天正の兵乱で焼失、その後、万治年中(1658-60)に三重塔を建立。
現在の三重塔は天保5年<1834>の再建。
※和泉名所圖會で云う「近年回禄の災」で万治年中建立塔は焼失と思われる。
※万治の塔は「日本永代蔵」(井原西鶴)の塔のモデルというも、未調査。(不勉強にして未読)
2010/10/26追加:
 昭和7年水間観音     昭和29年三重塔
398 上総観音教寺 . 図1
図2
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図5
図6
図7
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図9
10仁王門
本堂
芝山仁王尊。三重塔は天保7年(1836)完成。
寛政9年(1797)42世秀暁代に再建の発願、文化11年(1814)44世龍淵代に素建、天保7年48世湛定代に九輪完成という。
一辺4.61m、初重4.6m、ニ重9,05m、三重18.28m、総高24.98m。
初重ニ重の軒は平行垂木、三重は扇木垂木を用いる。屋根銅板葺き。三重の扇木垂木以外ほぼ和様を用いる。尾垂、枇杷板、支輪など全面に坂東近世風彫刻を多用する。
嘉吉2年(1442)千葉胤直、塔建立、弘治元年(1555)兵火により焼失。
○「千葉氏とその時代」、千葉氏フォーラム実行委員会、平成13年 より:
宝塔棟札(銅鍛造)が現存する。「奉造立宝塔一基」、嘉吉2年(1442)在銘、大旦那千葉胤直。但し塔の形式(三重か五重か)は記録がないので不明とする。(竜腹寺にも千葉胤直寄進の五重塔棟札<銅製>が残存する。)
仁王門:明治初頭の建立で門というより堂の建築であろう。本堂は享保6年建立。
○「寺伝と御利益集成」芝山仁王尊観音教寺、平成12年 より
 「上総芝山観世音仁王神縁起」ほか:享和元年(1801)三層塔の材を鳩(あつ)むに・・・
 「仁王神霊験録」中の「起き松の不思議」:文化2年の春山王の社を移して三層の塔を建る地を営みはかる・・・ (仁王尊三重塔の絵)
 「起き松の辞」嘉永7年、隋巣羽人 誌す・・「起き松の縁起外袋」 (仁王尊三重塔の絵)
「日本の文化遺産 」 より
 観音教寺三重塔
2013/02/15追加:「O」氏提供情報
2011年東日本大震災被害:
 
伏鉢が割れる。修理に携わった避雷針屋の談では、心柱が見えていたと云う。
塔全体に足場を掛け、伏鉢を交換する工事を実施する。伏鉢はかなり薄いものであったと云う(修理に携わった避雷針屋の談と云う。)
伏鉢を撤去する必要があり、そのため相輪全体を一度外し修復した伏鉢を再設置、避雷針も再接続する工事と云う。
サイト:「地球極楽とんぼ Travel & Stroll」>2012年(H24)7月9日(月)芝山仁王尊 より:
三重塔修理中外観写真がある。
 三重塔修理中外観
2013/02/17追加:
「O」氏1996/09/01撮影画像:
 芝山仁王尊三重塔相輪
2011/03/11東日本大震災塔婆破損情報(「O」氏提供情報)
     :江戸浅草寺銚子円福寺武蔵高幡不動金剛寺、下総仁王尊観音教寺
399 筑後清水寺 . 11
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天保7年(1836)頃竣工。九州最古の塔。 一辺6.7m、総高26.9m。
三重塔は近隣の信者の寄進により、大阪四天王寺五重塔を手本に文政5年(1822)に着工する。棟梁宗吉兵衛は途中逝去するも、五重塔を三重塔に変更し、天保7年頃竣工と云う。天保15年落慶法要。
また、塔の前身と伝える九輪塔があったという。これは単層堂に九輪(青銅製)を架したもので、単層の塔上に青銅の九輪を備えた形式であった。この九輪塔は安永8年(1779)瀬高の遊女たちの寄進で建立されると云う。
山号は本吉山、大同元年(806)最澄によって創建されると伝える。柳川藩(田中氏)により54石余が知行される。延享2年(1745)柳川藩復帰立花氏により山門が建立される。
2012/04/28追加:
 清水寺本堂・三重塔:絵葉書、年代不詳、現本堂と三重塔三重が写る。現本堂は昭和5年再建であり、右書であるので、昭和5年以降の戦前のものであろう。
2012/05/20撮影:
 筑前清水寺仁王門:延享3年(1746)建立
 筑前清水寺山門1    筑前清水寺山門2    筑前清水寺山門3    筑前清水寺山門4
 筑前清水寺本堂
 筑前清水寺稱名庵     筑前清水寺本坊
400 越中日石寺 . 図1
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当山中興の第11代如龍が境内竹林より古銅塔を発掘し、塔建立を発願、第12代覚伝の天保14年(1843)に石突を 始め、弘化2年(1845)に建築されたという。
棟梁は富山の池上清助と伝える。
いずれにせよ江戸末期の建築であるが、おそらく財政難のためと推測するが、全ての層が吹抜けで、未完成とされる。様式的には基本的に和様を用いる。軒は三層とも二軒扇垂木を使用。心柱は初層から立つ。四天柱・側柱は礎石に立たず、土台に立つのは異例と思われる。一辺4.38m、高さ約15m。
 (大岩不動)神亀2年(725)行基の開山とされ、行基は大岩川の岩に不動明王を刻んだと伝える。また立山本山の一つとして中世には隆盛を極める。天正年中に兵火に罹り灰燼に帰す。現在の堂宇は慶安年中に前田利常によって再建されたものという。現在は真言密宗の本山と称する。昭和42年本堂(重文)が焼失するも、不動明王は無事であったと云う。(現在、本堂は再興。)
本尊不動明王像(重文・高さ3.5m・ほか四体)は前置本堂の奥の凝灰岩の巨岩に半肉彫りで彫り出され、その置かれた雰囲気とともに異様な迫力がある。
2012/06/10追加:「Y」氏ご提供画像
 越中大岩山三重塔:絵葉書、明治40年〜大正6年頃(「Y」氏推定)
401 豊後竜源寺(臼杵) . 塔11
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安政5年(1858)竣工。九州では江戸以前の塔婆は2基しか現存しないが、その内の一つである。
一辺3.9m、総高21.8m。基本的に和様を用いる。心柱は初重梁から建つ。
聖徳太子の像を安置するといい、「太子塔」とも称する。
臼杵の大工高橋因内が畿内を巡り設計し、棟梁は弟子の坂本荘右衛門と云う。嘉永元年(1848)に着工し安政5年に完成と云う。
龍源寺(龍原寺とも綴る)は京都知恩院末。慶長5年(1600)杵築藩初代稲葉貞通が創建する。開山は圓誉上人。
 豊後龍源寺景観
 豊後龍源寺山門
 豊後龍源寺本堂
402 上野満行権現 . 江戸末期に改築・明治2年に竣工と云う。
上野榛名山三重塔・・・巌殿寺・榛名神社

403

越後五智国分寺 . 図1
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本堂
本2

寛政6年(1794)焼失
寛政9年(1797)起工、慶応元年(1865)上棟、あるいは安政3年(1856)に原形は完成とも云う。
明治に工事中断、昭和52年工事再開し、完成したと云う。 しかし細部は未だに未完成とも思える。
塔の再興の過程がだらだらと長いが、塔の時代区分は江戸末期の塔として大過はないであろう。
一辺4.8m、高さ25.85m。 和様を基本にして、木鼻などに唐様を用いる。
なお、心柱は日光山五重塔、谷中感應寺五重塔(焼失)と同じように上方から吊り下げる方式である。
 <「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より>、
現国分寺は永禄5年(1562)上杉謙信が禅宗圓通寺跡へ真言宗寺院として再興。その後上杉氏が会津移封の後、堀秀治と対立し無住となる。
江戸期上野寛永寺天海により徳川氏の宥和で俊海が天台宗として中興。寺領200石を安堵される。
なお天平創建の国分寺跡は海に没したのか全く分からないと云う。
また弘法大師が来錫し、五智如来を安置した伝承もある。さらに親鸞配所草庵なるものがある。(これにはまったく興味はない。)
昭和63年本堂を焼失、平成9年中世初期(鎌倉)様式で再興。再興本堂は桁行7間、梁行6間、向拝4間、単層入母屋造り、銅板葺き、青森ヒバ材使用 というもので、再興とはいえ鎌倉期の本堂建築の迫力を十分に感じさせる建築である。
2016/05/19追加:
○「乙宝寺心礎と頸城地方心礎の問題」平野団三(「越佐研究 第20集」新潟県人文研究会、昭和38年 所収) より
昭和37年本堂礎石に古い4基の円柱礎が使用されていることを紹介したい。径1.60mの自然石に浅い径55cmの柱孔が平らげされていて、一基は西南隅の外柱の礎石として据えられ、後の3基は床下にある。おそらく鎌倉-室町期の四天柱礎ではないだろうか。
三重塔心礎は再建着手以降のもので、蓮弁は華美ではあるが、これは問題に値しない。
 ※上述のように、昭和53年本堂が焼失といい、この焼失で上記の4基の古い礎石はどうなったのであろうか。その情報はない。

江戸後期・元文以降の三重塔

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