京 洛 平 安 期 の 塔 婆

京洛平安期を中心とした塔婆

背景色「薄緑部分」は「朝日百科 日本の国宝 別冊 【国宝と歴史の旅 8 塔】朝日新聞刊>「裏表紙の見返ページ」>
 「旅の栞 京の百塔詣で」冨島義幸著(金沢工業大学教授※) からの要約である。
 ※冨島氏は現在(2019年)京都大学大学院教授である。
2019/01/20追加:
「京の塔をめぐる-塔のある風景をもとめて-」2019/01/11アスニーセミナー、冨島義幸<セミナー資料> より記事追加


中山(藤原)忠親の日記:「山槐記」より:忠親は花山院の流れにして、家忠の孫忠宗の子、内大臣正ニ位。
 ※記載時期は仁平元年(1151)から建久5年(1194)までの40年間に及ぶ。

■治承3年(1179)2月12日からの藤原経宗らの巡礼
  2月12日庚子
天晴、
左大臣(経宗)相伴三条大納言・實房、右中将頼言朝臣等、被礼百塔、三ヶ日可礼畢云々、
是延齢之祈祷也、左府六十一、
後聞、
今日稲荷北辺至清水寺祇園辺五十基、
13日粟田口至于白河堂四十二基、
14日自五辻北辺于広隆寺廿八基、合百廿基礼、供一燈紙一帖被押塔之、

※三日間で百塔を巡礼する。
12日は稲荷北辺から清水寺祇園辺の50基、13日は粟田口から白河堂辺で42基、14日は五辻辺から広隆寺まで28基をめぐる。
※更なる長壽を願う(延齢の祈祷)巡礼であった。その時61歳であった。
※礼拝時には一燈を供え、塔に紙一枚を押す(貼付)する。

■治承3年(1179)2月23日からの忠親自身の巡礼

2月23日
天晴、卯剋為禮百塔向廣隆寺方、至于春日木辻、而右大将宗盛、被前行、依稠人更出一條東行、巡禮一條条櫛笥邊、法成寺、浄土寺、白川邊、合四十基、秉蜀之後帰亭、
今年四十九、依重厄有此勤、於于中山堂并善法寺開破子、件善法寺者、東光寺内算博士形衛知行也、
即在共、抑塔一基別供一塔一花一香、焼、佛布施雑神一帖、裏之、又押摺高塔、相具辨圓大徳、令廻遶塔三匝、所作心経一巻、
壽命経一巻、寶篋印陀羅尼、一反、尊勝陀羅尼経七反、延命真言廿一變反也、所摺之塔一昨日總供養了、
2月24日
陰晴不定、卯剋向廣隆寺、仁和寺、知足院、雲林院、彼(皮カ)堂等禮堂、
彼(皮カ)堂招人、乗燭之後広隆寺彼(皮カ)堂供燈明、今日禮三十二基、於徳大寺開破子、又禮慈尊院塔之時、隆遍阿闍梨(故光房次子、予猶子也)、儲盃饌、於一条大宮河内権守行忠亭又開破子、行忠予家人也、
2月25日
自至夜雨、卯剋禮塔(堂)、此間雨止、向東寺、法性、法住、観音、長楽寺、入夜之後零清水、六波羅、今日五十六基、三ヶ日都合百二十八基、供養具設百丗五巻料、随塔底之所當也、用残塔押六波羅塔了、

忠親は翌年治承4年にも百塔禮拝を行う。

■治承4年(1180)
3月21日
自今日、禮百塔、始自法成寺。終于清水寺。自卯時及秉蜀、・・・・於菩提寿院。乗手輿今日禮四十五基。毎塔奉押摺写塔・・・

3月23日
今日猶禮百塔残二十八基、(中略)牛刻於観音寺先妣御堂羞饌


 

山槐記 治承3年

山槐記 治承4年

 中山(藤原)忠親の百塔巡礼に先立つこと10日ほど前、藤原経宗らが3日間をかけて、120基の百塔巡礼を行う。
概要の経路は次の通りであった。1日目は稲荷北辺から清水寺祇園辺の50基、2日目は粟田口から白河堂辺で42基、最終日は五辻辺から広隆寺まで28基をめぐり、合計120基をめぐる。

続いて、中山(藤原)忠親自身が百塔巡礼を行う。
大意はわずか3日間で、合計128基(1日目:40基、2日目:32基、3日目:56基)の塔の禮拝を行うというものである。
その目的は齢49に達し、その重厄の為の巡礼という。
巡礼した塔には、一塔につき一塔(一燈であろう)一花、一香(焼香)、佛布施を供え、陀羅尼経を読み、摺高塔=塔を摺った紙を押し(貼付し)、僧辨圓を伴い、塔の周囲を3回廻り、読経(般若心経・寿命経)、陀羅尼、延命真言21反を念誦したという。
 途中中山堂及び善法寺(以上第1日目)、徳大寺及び一条大宮河内権守行忠亭(第2日目)では破子(わりご・弁当)を開く。
さらに、慈尊院塔之時には盃饌(はいせん=酒と肴)を儲ける。
 最終日、135巻料の供養具を用意していたが、都合128基の塔をめぐり7巻料が残る。この残りは六波羅塔で全部押すという。
(つまり、忠親は135基の塔を認識し、それを巡礼する予定であったのかも知れない。)

 勿論128基の中にはいわゆる屋外の木造塔婆だけではなく、屋内の小塔、石塔などもあったとは類推されるが、
平安期には京洛の周辺に多くの塔の造立があり、治承年間にもまだまだ、仁和寺周辺・東山山麓には塔婆が林立していた様子が窺える。
 やがてこれらの塔婆は兵火、老朽、自然災害などで移建された一条大宮の塔を除き、全てが失われ、今は僅かに後世の法観寺・東寺・仁和寺・清水寺の再建塔を残すのみとなる。
 ※なお、木辻の塔については山城花園成願寺多宝塔を参照
 (成願寺では春日木辻の塔は菅原道真の霊を祀った七保の一つである本寺にあったと思われると云うも、真偽は分からない。)

以下の表は平安期に建立されていたことが確認できる京洛周辺の塔婆の概要である。
(表は【旅の栞 京の百塔詣】に掲載の図をそのままテキストで表現する。そのため正確さを欠くが、おおよその位置関係は掌握可能かと推測する。)

:2月23日、:24日、:25日に礼拝した(と思われる)塔婆を示す。●は記事中に出てくる左記以外の塔・寺院を示す。

栂尾高山寺
高尾神護寺


○賀茂別雷神社
 多宝塔など
仁和寺性徳院
    新塔

 

円融寺五重塔
●徳大寺
●慈尊院塔
円教寺塔
仁和寺観音院
     多宝塔
 同 五重塔
 同 南院三重塔
同宝塔院多宝塔
法金剛院三重塔
●知足院
雲林院塔
雲林院多宝塔
雲林院多宝小塔
雲林院塔
西林寺塔
 

 

 

一条大宮三重塔
  革堂多宝小塔
  革堂塔

○賀茂御祖神社塔
○ 同    東塔
○ 同    御塔

 

 

大炊殿一条
    多宝塔
法成寺三重塔
 同 三重塔
 (再建五重塔)

福勝院三重塔 ●浄土寺
東山堂九重塔
東山塔
広隆寺塔
 同別院三重塔

●春日木辻

蓮華蔵院三重塔
  同     塔
白河東御堂多宝塔
白河御塔
白河塔
●中山堂
●善法寺
円成寺塔
●●尊勝寺五重塔2
●●最勝寺塔2
延勝寺塔●●円勝寺東西三重塔
円勝寺五重塔
法勝寺八角九重塔
白河安芸守能盛塔
←西 珍皇寺三重塔
●六波羅密寺
祇園御塔
祇園感神院多宝塔
祇園塔
八坂法観寺五重塔
●長楽寺

東→

●六波羅常光院塔 清水寺三重塔
○今天王寺
   普成仏院塔
蓮華王院五重塔
●法住寺
最勝光院塔

○西寺五重塔

東寺五重塔 法性寺多宝塔
法性寺多宝塔
法性寺中山塔
○成菩提院三重塔
○成菩提院多宝塔
○成菩提院多宝塔
○安楽寿院三重塔
○安楽寿院塔


 

平 安 期 を 中 心 と し た 京 洛 の 塔 婆 状 況 (但し掌握できた範囲)
(記録として伝えられていない塔婆、記録の曖昧な塔婆、眼に触れていない記録等がまだあると思われる。)

本ページ主要参考資料:
○「よみがえる 平安京」は図書「よみがえる 平安京」京都市企画、村井康彦編集、淡交社、平成7年 より掲載。
○「平安京復元模型」は京都市平安京創生館(京都アスニー)に展示される。
 平成6年平安建都1200年記念事業の一環として制作される。縮尺1/1000(東西4.5km、南北5.2km)で、我が国最大級の歴史都市復元模型という。
 平成30年3月、今まで展示が出来ていなかった上賀茂神社や神護寺、高山寺のほか仁和寺などが含まれる北西部側エリアを加え,模型全体の展示を開始する。

2023/03/25追加:
○「院政期の京都」井上満郎(「院政期最大の遺跡 鳥羽離宮跡を歩く」京都渡来文化ネットワーク会議、京都三星出版、2017 所収)より
 院政期とは摂関時代に続く時代で、白河院政の開始(応徳3年/1086)または後三条天皇即位(治暦4年/1068)から平家滅亡(文治元年/1185)または承久の乱(承久3年/1221)までの時代、白河・鳥羽・後白河(高倉・後鳥羽)上皇が院政を行なった時代をいう。この時代は荘園制が確立し、武士の身分が成立し、天皇が神から人へ転化した時代であり、古代から中世へ轉換する時代であった。
 院政期の京都:白河殿・六勝寺、法住寺殿、鳥羽離宮などの位置概要が示される。

栂尾高山寺
三重塔があった。(山城名勝誌)
三重塔一基:毘盧遮那仏、文殊、普賢、観音、弥勒・・・
 高山寺絵図(重文・神護寺蔵)部分図・・・左に高尾塔も見える。 : 高山寺領膀示繪圖
 ※安貞元年(1227)三重塔上棟<寛喜年中造畢>(「高山寺縁起」)
十三重塔があった。(高山寺縁起)
 ※嘉禎2年(1236)禅堂院十三重塔造立(「高山寺縁起」)
  →高山寺のページを参照
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 栂尾高山寺1    栂尾高山寺2

高尾神護寺
五重塔があった。(三代実録・元亨釈書)
承和2年(835)〜嘉承3年(850)に一重毘盧遮那宝塔が建立、塔は仁明天皇御願・空海弟子真済建立と云う。
三代実録は「一重宝塔」、神護寺実録帳は「一重檜皮葺毘盧遮那宝塔」とあり、裳階については不明で多宝塔形式か宝塔形式かは不明。
なお「神護寺寺領牓示絵図」 <寛喜2年(1230)>では下層5間の大塔が描かれる 。<絵は簡略であるが、真言大塔形式と思われる。>
本尊:五大虚空蔵
→昭和再興塔は「明治以降の多宝塔」「神護寺」の項を参照。
2015/03/05追加:
○「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
「高山寺縁起」では、寛喜2年(1230)神護寺と高山寺の要請によって太政官符が発せられ、錯綜した寺領の明示され、その四至に膀示が打たれるのである。その時、神護寺領・高山寺領膀示絵図が作成される。
高山寺領膀示繪圖と同じく、鎌倉期神護寺の伽藍を知る唯一の繪圖である。
 神護寺領膀示繪圖:全図、中央向かって左が神護寺伽藍、右は高山寺伽藍であり、右下は神護寺鎮守平岡八幡宮である。
 神護寺領膀示繪圖・部分図;上の繪圖と同一のものである。多宝塔が描かれ下重は方5間にように見えるも確証はない。
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」 より
 神護寺模型
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 神護寺模型2

大雲寺
◆2003/8/18追加:「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊 より
宝塔院:縁起に云、成尊母は堤大納言の女実方中将の孫文慶の孫なり。如法院東に多宝塔を建立、法華曼荼羅46尊安置、多宝院と号す。
◆2010/07/02追加:「実相院の古文書」京都市歴史資料館、平成21年 より
大雲院略歴:
天禄2年(971)円融天皇の勅願により、日野中納言藤原文範が真覚(藤原敦忠息)を開山として創建したと伝える。
永観3年(985)昌子内親王(冷泉天皇中宮・朱雀天皇皇女)寺内に観音院を建立。(日本紀略)
天元4年(981)余慶僧正(智弁、園城寺長吏、法性寺座主)は山門・寺門の対立の激化により、叡山を降り、寺門の僧数百人を連れ大雲寺へ入寺する。
この頃寺門の拠点として大雲寺は最盛期を迎えるも、その後寺門・山門の抗争は止まず、大雲寺はたびたび山門により焼払われる。
その後、中世を通じ、次第に衰微する。
元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼討により大雲寺も炎上する。
寛永年中(1624-)実相院門跡義尊、本堂等再建。
昭和60年、寛永年中再建本堂を焼失(不審火?)。寺地を岩座神社(八所明神・十二社)東に移転、再興される。(仮本堂のまま)
旧寺地には閼伽井(智弁水)・不動の滝・実相院宮墓・昌子内親王高倉陵などが残る。

大雲寺絵図:岩倉実相院門跡蔵、作成年不詳

 大雲寺絵図:左図拡大図
盛時の大雲寺を描くもので、北大門を東から入り直右手(北)に堂名不明の堂と三重塔が並んで建つ。
本堂位置が寛永期再興の大雲寺があった場所であろう。その他多くの坊舎・堂・社が立ち並ぶ。
実相院は移転前であろうか確認できない。
なお、「山城名勝志」で云う「宝塔院」も確認できない。

 ※実相院は寛喜元年(1229)静基僧正による開基。
静基僧正は関白近衛基通の孫であり、門跡寺院となる。もとは紫野にあったが、応仁の乱の戦火で岩倉に移転する。この地岩倉大雲寺は南北朝期から実相院門跡の支配化にあった。天台宗園城寺に属する。

◆近世・近代の大雲寺
都名所圖會・大雲寺:江戸後期の姿、多くの「こもりや(篭屋)」がある。

大雲寺古写真:昭和初期撮影か:
「精神保健福祉論2007」(「岩倉の伝統と近代との相克:日本のゲール」 所収)、
右は焼失前大雲院、左は保養所

新撰京都都名所圖會:昭和60年の大雲寺焼失前の景観

2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
賀茂上社(賀茂別雷神社・上賀茂神社)
多宝塔:今澤田社東蓮池北に小堂有り、多宝塔と号す。
百錬抄云、永久4年公家賀茂上社の多宝塔供養、今上懐孕の時の御願なり。但馬守家保の造立なり。
○「よみがえる平安京」:
 上賀茂社模型:図の中央附近に多宝塔がある。

 茂別雷神社社頭図(室町期?)、神宮寺があり、塔婆の興亡が多くあったと思われる。
この図では2基の多宝塔が描かれる。
「神宮寺 在本社東南」「今澤田社東蓮池北、有小堂、号多宝塔」(山城名勝志)、「永久4年<1116>公家供養賀茂上社多宝塔、今上懐妊之時御願也。但馬守家保建立之」「康治2年<1143>賀茂神宮寺供養。先年炎上之後、・・」(百練抄)、その他経所も建立されていた。
2007/02/04追加:
○「社寺絵図とその文書」
 賀茂別雷神社社頭図・神宮寺(部分図):紙本着色、室町期、賀茂別雷神社蔵。 ・・・掲載図の多宝塔は神宮寺多宝塔
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 上賀茂社模型2     上賀茂社模型3:何れも中央付近に多宝塔がある。

2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
賀茂下社塔(賀茂御祖神社塔)
東御塔:本宮東高野川西旧跡なり。
百錬抄云、大治3年太上天皇鴨御祖社東御塔供養。播磨守家保の造立。
西御塔:御祖社西北に石橋あり、その傍の塔壇いう所旧跡なり。
百錬抄云、天承元年待賢門院賀茂の下の社御塔供養。保延4年鴨社神館、神宮寺社頭西の塔院焼く。

嵯峨天皇御願の神宮寺(本尊十一面観音・不動明王)が河合神社北にあったという。
鎌倉期の境内図(模写)では神宮寺・経所・経蔵が描かれる。
 ※神宮寺跡明治初年の廃仏毀釈のため廃絶,森の中に基壇と礎石3個が残る。
「大治3年<1128>太上天皇供養鴨御祖社東御塔。御在位之時、播磨守家保造進之」「天承元年<1131>待賢門院賀茂下社御塔供養」「保延4年<1138>鴨社御館並びに神宮寺社頭西塔焼亡、件塔、待賢門院御願也」(百練抄)
2007/02/04追加;
 賀茂御祖神社絵図A:京都国立博物館蔵:「鴨社の絵図」より
 賀茂御祖神社絵図B:「鴨社の絵図」より:下賀茂神社蔵:A・B両図とも河合神社北に神宮寺が描かれる。
 賀茂御祖神社絵図(神宮寺附近)

知足院
平安前期に創建された園城寺の別院であった。のち藤原氏(近衛家)との関係を深め大いに隆盛したと伝える。
本堂(不動堂)、能寂院、周丈六堂、阿弥陀堂、林殿、豊後堂、大湯屋、東堂、西堂、塔などがあったと云う。
 ※塔があったという見解は川勝政太郎「紫野知足院考」(「史迹と美術」210、211号所収)にある。
中世の兵乱で荒廃し、室町前期には全く衰微し、やがて廃絶したと云う。旧地は船岡山の東南付近と云う。
 ※紫竹常徳寺が知足院の名跡を継ぐとも云うが、多少場所も離れ、実際のところは不明。

西林寺塔
「平安時代仏教建築史の研究」;仁安2年(1166)摂政藤原基実薨去、西林寺塔に葬られる。
「早旦向西林寺、・・・・、行部大輔奉行御骨、安置御塔、・・・・」(兵範記)
翌、仁安2年木幡浄妙寺に改葬。
 ※西林寺は知足院の子院と云う。

雲林院
天長年間(824-)淳和天皇が造営した離宮で、のち常康親王によって遍照僧正に付託され天台の寺院とした。
嵯峨、淳和両帝の追善のため菩提講を修した。いつしか寺地は大徳寺に施入され、現在は大徳寺が管理する近世の小堂が僅かに残存する。
2003/8/18追加
○「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
扶桑略記云、天暦7年勅し、雲林院に於いて御願小多宝塔8基の中の仏像を造り奉り始める。応和3年雲林院の塔供養会を行い、多宝塔1基五仏の像を安置す。
2013/02/19追加:
○「院家建築の研究」:
雲林院の伽藍がどのようなものであったのかは必ずしも明確にしえないが、天歴7年(953)村上天皇発願の小多宝塔8基中の仏像がこの院に作り始められたと云い、天徳4年(940)心柱立柱、応和3年(963)塔供養会を行い、塔内に五仏の像を安置すと記録される。ともかく多宝塔が建立されたには事実であろう。
「扶桑略記」応和3年の条、「有雲林院塔供養会矣、行幸彼寺、結構多宝塔1基、安置五仏像、・・・・」
また、長治2年(1105)中宮内侍が雲林寺小堂中に多宝塔を供養し、源国信が参詣と云う。

一条大宮の塔
治承2年(1178)この塔は山城浄瑠璃寺に移建され、現存する。
元の寺名は明らかでないが世尊寺ともいわれる。
 ※世尊寺は,長保3年(1001)藤原行成が邸宅内に「世尊院堂」を建立する。現在の上京区大宮通一条上る西側附近と推定される。
行成の子孫が代々伝えた書流はこの寺に因み、世尊寺流と称するようになる。
世尊寺は平安末期以降、史料から消え,廃絶したと思われる。

革堂(行願寺)
寛弘元年(1004)行円上人により一条油小路(一条北辺堂跡)に創建されたとする。
往時は多くの信仰を集めていたが、中世の兵乱で衰微し、寺町今出川に移転し、ついで現在地に移転する。
現在は西国33所19番札所として辛うじて伽藍を維持する。
宝仁3年日来、行願寺において等身の多宝塔を造立・・・(野府記)
保延6年(1140)行願寺塔ならびに法成寺西塔同時に雷火にて焼失(百錬抄)
仁平元年(1151)行願寺堂塔多く炎上・・(百練抄)
承久2年(1220)行願寺内塔供養・・・(百練抄)
仁治3年(1242)住僧の放火で両門ほか僅かを残し焼亡。(百練抄)
 ※古には多宝塔など塔婆が建立されていたようであるが、詳細は不明。
2022/10/25追加:
○「京都坊目誌 上京第26学区の部」 より
行圓加茂神社の槻材を得て、丈8尺の十一面観音像を造り本尊とす。
保延・栄治・仁平・平治・仁治・興国等数回の火災に罹る。応仁元年兵燹に罹り全山烏有に帰す。
天正18年秀吉の命により京極近衛口に南に移る。寛永5年京師の大火に類焼し、現在の地(聞名寺址)へ転ず。
 五輪ノ石塔:高1丈2尺餘。寺伝に僧行圓加茂ノ神の為に建つる所なりと云ふ。或云法華経を蔵むと。
舊地より遷す所也。
○「新撰京都名所圖繪」竹村俊則 より
五輪石塔:鎌倉期。高さ3n余、水輪の正面に穴をあけ、その中に不動石仏を安置する。行圓が加茂明神を勧請して建立すると伝える。
京都市内に散在(北野天神/東向観音寺など)する忌明塔の一つという。
2022/05/17撮影:
霊麀山(れいゆうざん)と号す。天台宗。
 山城行願寺山門     山城行願寺本堂     山城行願寺玄関     山城行願寺庫裏
 行願寺壽老神      行願寺鎮宅霊付神:妙見大菩薩である。隣は鐘楼
 行願寺五輪石塔:隣の小宇は弁才天。     行願寺五輪石塔・地輪:石造不動明王(加茂大明神?)を祀る。
2023/01/13追加:
京都北村美術館・四君子苑庭園に阿弥陀三尊石仏が蒐集されている。
  →京都北村美術館・四君子苑
○「四君子苑の庭と石」 より
解説文:行願寺伝来、室町初期、中央は阿弥陀、左右は観音・勢至菩薩を配する。
 四君子苑・山城行願寺阿弥陀三尊石仏
2023/04/14撮影:
○於京都国立博物館西庭園
 石造大日如来坐像:行願寺(革堂)伝来、平安期(12世紀)
本像は、腹前で両手を重ねた定印を結ぶ故に、胎蔵界大日如来である(金剛界大日は智拳印を結ぶ)。
行願寺は11世紀初頭天台僧行円によって開かれる、行円が常に皮の衣を纏い、それ故皮聖とよばれ、寺も革堂と通称される。

上出雲寺址
大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第二學區之部)
三重塔:二基瓦葺安置佛舎利16粒 の記事(「山城名勝誌」引用、延長4年<926>出雲寺流記云う)伝教大師の草庵に発する巨刹だったと云う。
 三重塔礎石は東本願寺渉成園に残るともいわれる。
  → 参照:山城上出雲寺三重塔礎石

祇陀林寺塔址
大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第十七學區之部)
仁安元年(1166)新造塔供養(百錬抄)
2003/8/18追加
○「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
中御門京極東。
扶桑略記云、治安4年(1024)・・・天台の舎利会試楽祇陀林寺に於いて行う、之に先立ち仏舎利二塔をこの寺に遷す。
百錬抄云、治承2年祇陀林寺・・・焼亡。仁安元年(1166)祇陀林内に新造の塔供養・・・。

平野社・施無畏寺
平野神社社頭絵図(部分)
○「よみがえる平安京」:
 平野社・施無畏寺模型: 模型左が平野社・右が施無畏寺、
 施無畏寺は左大臣源兼明(醍醐天皇皇子)の建立。当時は観音寺と称する。その後半世紀も経たずに荒廃に任せられる。
 なお、施無畏寺は一時、平野社神宮寺となるという。
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 施無畏寺2:中央三重塔が施無畏寺塔     施無畏寺3:左端三重塔が施無畏寺塔、何れも手前の社殿が平野社

--仁和寺院家------------------------------------------
仁和寺
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」 より
 仁和寺・圓融寺・圓教寺・仁和寺南院・法金剛院:中央付近の五重塔が仁和寺、右上五重塔が圓融寺、右中央付近の三重塔が圓教寺、
  左端中央三重塔が仁和寺南院、下段下段やや右の三重塔が法金剛院。
 圓融寺・仁和寺・仁和寺南院:左上から圓融寺五重塔、仁和寺五重塔、仁和寺南院三重塔
2019/01/17追加:
仁和寺概要・四円寺跡
「第264回 京都市考古資料館文化財講座 世界遺産を掘る 第6回 — 仁和寺 —」 京都市埋蔵文化財研究所 モンペティ恭代、2015 より
 仁和寺概要図:四円寺の配置が分かる。
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 仁和寺・圓融寺・圓教寺・法金剛院:中央やや左が仁和寺五重塔、右上は圓融寺五重塔、右中央は圓教寺三重塔、下中央右は法金剛院
 圓融寺・仁和寺・仁和寺南院:中央上から、圓融寺五重塔、仁和寺五重塔、南院三重塔

仁和寺:光孝天皇発願で宇多天皇が造営し、仁和4年(888)落慶供養。
○「よみがえる平安京」:
 仁和寺模型  仁和寺・円融寺模型:左-仁和寺、右-円融寺(2019/01/10:円教寺を円融寺に訂正)、中央下段は圓教寺三重塔
※双ヶ丘周囲一帯には十数を越える多くの仁和寺院家が存在した。
そのうち、塔婆が建立されたと確認できる院家は以下の通りである。
2013/02/19追加:
○「院家建築の研究」:
 ◆仁和寺概要図:明治28年陸地測量部地図に平安京条坊もしくは条理を推定復原し、その上に想定される遺構を示したものである。
          なお、仁和寺は江戸期に今の位置に戻ってくる。
 →現存塔婆は「御室仁和寺(江戸期以前の五重塔)」のページを参照
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 仁和寺模型2

2003/8/18追加
 ☆円堂院多宝塔
○「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊 より:
百錬抄云、天治元年(1124)覚法法親王、仁和寺内に多宝塔1期供養・・・。

 ☆仁和寺南院三重塔
○「塔における両界曼荼羅空間の展開」:
南院塔、三層、安金色等身大日如来像一体、長承元年(1132)8月17日供養。南院は高野御室によって建立された院家という。
仁和寺南東に位置したと推定される。
○「平安時代仏教建築史の研究」;
宇多法皇御所跡と云う。「仁和寺諸院家記」では平安時代末期の伽藍配置が分かる。
長承元年三重塔供養(金色大日を安置)、長承2年(1133)経蔵供養(金銅多宝塔安置)、保延元年(1135)1間四面二階堂供養、康治元年(1142)迎接堂(光堂)供養。
塔の位置は長秋記(保延元年1135の条)に「池西岸大石在之、南院塔跡也云々」とある。
○「よみがえる平安京」:
 仁和寺南院模型:仁和寺南西に位置していたと思われる。
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」 より
以下は上に掲載写真:
 仁和寺・圓融寺・圓教寺・仁和寺南院・法金剛院:中央付近の五重塔が仁和寺、右上五重塔が圓融寺、右中央付近の三重塔が圓教寺、
  左端中央三重塔が仁和寺南院、下段下段やや右の三重塔が法金剛院。
 圓融寺・仁和寺・仁和寺南院:左上から圓融寺五重塔、仁和寺五重塔、仁和寺南院三重塔
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 仁和寺南院模型2

 ☆仁和寺観音院
天暦5年(951)仁和寺観音院供養。
寛和元年(985)上東門院彰子(一条天皇中宮)仁和寺観音院再営造供養。
元永2年(1119)仁和寺金堂、東西廻廊、鐘楼、経蔵、三面僧房、観音院、灌頂院等焼亡。
宝安2年(1121)観音院、灌頂院、仏母院供養。
久安3年(1147)〜永仁2年(1264)観音院において伝法灌頂が8度修される記録あり。
応安2年(1369)大風雨、仁和寺円宗寺・観音院・真言院等倒壊。
「平安時代仏教建築史の研究」:
天治元年(1124)多宝塔(下層3間)、本尊:大日如来供養。(百錬抄、本要記)
---仁和寺院家・四円寺---------------------
 ☆四円寺」 (円融寺、円教寺、円乗寺、円宗寺)

 ☆円融寺
円融天皇御願で、天元6年(983)創建。永祚2年(990)「五重塔1基を造る」とある。
「太上天皇供養円融寺塔、造五重塔一基、摩訶〓盧遮那如来像四躰、図絵於塔中、弥陀・釈迦・薬師・弥勒各一躰安置於壇上」(扶桑略記)
○「塔における両界曼荼羅空間の展開」より:
「仁和寺諸院家略紀」:「同五重塔安置大日如来四体、図絵於塔中弥陀・釈迦・薬師・弥勒等、永延2年(988)3月20日供養」
円融寺に2基の塔があったことは確認できないから、一基とすれば、史料の性格から「仁和寺諸院家略紀」を信用すべきであろう。
※「百練抄」:永延2年(988)の供養の記事、「濫觴抄」では永祚2年供養、
円融寺は仁和寺別当寛朝の禅室を基にする。
○「よみがえる平安京」:(上に掲載写真)
 仁和寺模型  仁和寺・円融寺模型:左-仁和寺、右-円融寺(2019/01/10:円教寺を円融寺に訂正)、最下段中央付近に円教寺三重塔。
2018/12/17撮影:○「平安京復元模型」 より
 圓融寺模型
以下は上に掲載写真:
 仁和寺・圓融寺・圓教寺・仁和寺南院・法金剛院:右上五重塔が圓融寺、中央付近の五重塔が仁和寺、右中央付近の三重塔が圓教寺、
  左端中央三重塔が仁和寺南院、下段下段やや右の三重塔が法金剛院。
 圓融寺・仁和寺・仁和寺南院:左上から圓融寺五重塔、仁和寺五重塔、仁和寺南院三重塔
2013/02/19追加:
○「院家建築の研究」:
その位置は今の龍安寺に想定される。
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 圓融寺模型2

 円教寺
一条天皇御願で、長徳4年(998)創建。
長和2年(1013)天皇の御国忌が行われた時に、御塔で念仏が修せられる。(小右記)
寛仁2年(1018)「去夜円教寺焼亡有実、御塔・幢・僧房等、悉以焼了、無所遺云々、件寺故一条院御願也」(小右記)焼失。長元7年(1034)復興。
○「よみがえる平安京」:
 仁和寺・円融寺模型:左-仁和寺五重塔、右-円融寺五重塔、最下段中央付近に円教寺三重塔がある。
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」 より
以下は上に掲載写真:
 仁和寺・圓融寺・圓教寺・仁和寺南院・法金剛院:右中央付近の三重塔が圓教寺、右上五重塔が圓融寺、中央付近の五重塔が仁和寺、
  左端中央三重塔が仁和寺南院、下段下段やや右の三重塔が法金剛院。
○2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
「小右記」では長和2年(1013)の御国忌は御塔で修せられたと云う。また寛仁2年(1018)去夜円教寺焼亡有実、御塔・幡・僧坊等、悉以焼了、・・・
 ☆
円乗寺
後令泉天皇御願で、天喜3年(1055)。承徳元年(1097)大風で堂舎倒壊、長治2年(1105)焼失。以降再建されることはなかったという。
塔婆建立の記録は見当たらず。
 ☆円宗寺
後三条天皇御願で、延久2年(1070)。金堂、講堂、法華堂、常行堂、灌頂堂、五大堂などが建立され、四円寺のなかでは最も規模が大きかったとされる。
塔婆建立の記録は見当たらず。

  ※四円寺は中世の兵火でいずれも消亡し、現在はその位置さえ明確ではなく、何も往時を偲ぶものはない。
----以上 四円寺---------------------------
 ☆
蓮華心院:仁和寺院家の一とされる。
2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
 八条院(鳥羽天皇第三女、母は美福門院)御願・建立。承安4年(1174)蓮華心院御堂供養。その位置は常磐林(右京区常盤古御所町、双ヶ丘南西麓、常磐御所跡)の付近と推測される。
 建暦元年(1211)八条院崩御、御墓をこの地に設け、その上に多宝塔を建立。
建暦2年・・・蓮華心院内御墳墓上建立小塔・・・(「東寺金剛蔵聖教目録」)
「明月記」:建暦2年6月29日(供養当日)、午時許・・・・参蓮華心院、事始之後也、・・・・此御塔多宝塔也、
 ☆法金剛院
 待賢門院(鳥羽天皇の中宮。崇徳天皇・後白河天皇の母)が仁和寺中に御堂の建立を発願。長承4年(1135)三重塔<瓦葺>、ニ階八角経蔵、南御堂(九体阿弥陀堂)、三昧堂などが建立された。法脈は法金剛院として現在に伝えられる。
2003/8/18追加:
○「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊 より
三重塔:百錬抄云、保延2年(1136)待賢門院法金剛院内三重塔ならびに金一切経供養。
○「塔における両界曼荼羅空間の展開」 より
保延2年建立の三重塔は初重に心柱のない構造であると云う、これは文献上での初出である。
但し、大治元年(1126)円勝寺西三重塔、長承元年(1132)仁和寺南院三重塔は法金剛院塔に先行するも、初重に心柱が通っていなかったことは十分想定できる。
○「平安時代仏教建築史の研究」 より
塔は北向き、四柱に両部諸尊、四面扉に釈迦八相成道、金色大日如来を安置。(仁和寺諸院家記、長秋記)
 法金剛院復元配置図
2015/02/24追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
三重塔には両界いずれかの五仏を安置し、四天柱に両界曼荼羅諸尊を描く。
○「よみがえる平安京」 より
 法金剛院模型
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」 より
 法金剛院模型2:下段が法金剛院、左上は仁和寺五重塔、右端中央よりやや上は圓教寺三重塔
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 法金剛院模型3     法金剛院模型4     法金剛院模型5
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
1995年発掘調査で三重塔・庭園跡が発掘される。境内西端の低い丘上にあり、礎石などで一辺は約4.8mと推定。
○「発掘調査現地説明会史料」京都市埋蔵文化財研究所、1996 より
 法金剛院旧境内跡・・・・ 写真手前:三重塔基壇・礎石・礎石抜取穴、写真奥:池跡
 20113/01/13追加:今般(2012/12/25)塔阯の探索はせず。
  発掘調査位置図:JR花園駅西側、線路南側に塔阯がある。
  発掘調査区配置図:図の左に塔阯がある。現在の法金剛院境内 の南、国道及びJR線の南にある。
○「発掘調査現地説明会史料2」京都市埋蔵文化財研究所、1997 より
 五位山法金剛院古伽藍之図1:法金剛院蔵 :下と同一画像
 五位山法金剛院古伽藍之図2:法金剛院蔵 :上と同一画像
大治4年(1129 )待賢門院璋子(鳥羽上皇后)、仁和寺御堂(法金剛院)に着手
大治5年(1130 )西御堂、本尊(現存、院覚作)供養、庭園・池・滝が完成、御所・大門等完成。
保延元年(1135)三重塔、軽蔵・翌年北斗堂完成
保延5年(1139)南御堂(半丈六九体阿弥陀堂)完成
康治元年(1142)待賢門院落飾
久安元年(1145)待賢門院薨る(45才)、法金剛院法華堂下石穴に埋葬(花園西陵)
 造営当時は敷地の中央に大池を掘り、滝を落し、池の西に西御堂(丈六阿弥陀堂, 方五間)、東に待賢門院の御所を設ける。
在世中に三重塔(本尊:釈迦如来)、経蔵、南御堂(九体阿弥陀堂, 正面十一間)など多くの建物が営まれ、死後、女の上西門院が出家し、西御堂と相対して池の東に方三間の東御堂(阿弥陀堂)を造営する。
永仁5年(1297)円覚十万上人が中興。
その後応仁の乱をはじめ震災などで堂塔を失い、衰微する。江戸期に再興に努めるも往時の盛観には至らず。
明治期に山陰線が敷地中央を通り、寺地は分断され、昭和43年丸太町通りが拡幅、本堂(礼堂)と地蔵院を移築、釣殿を設ける。
なお、北斗堂:檜皮葺一間四面堂、安一字金輪一躰、北斗七星九曜十二宮神廿八宿等、長承4年(保延元年1135)3月27日供養
三重塔:瓦葺三重塔、四柱図絵両界諸尊、四扉図尺迦八相成道、安金色等身大日、保延2年(1136)10月15日供養
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
2008/09/12追加:
○「京都の庭園 遺跡にみる平安時代の庭園」 京都市文化財ブックス 第5集、京都市文化観光局文化部文化財保護課、1990.3 より
 法金剛院古図:時期不明、法金剛院蔵、三重塔がある。
なお、当寺は大和唐招提寺末で、その縁であろう、 「鑑真和尚像(文化2年/1805)):唐招提寺東塔真柱で作る」を有する。
○2012/12/25寺院外観撮影:
 山城法金剛院山門     山城法金剛院伽藍:覆屋中は仏殿であろう、その左奥のRC造の大きな堂は寺中地蔵院。
-------------------------------
 ☆
蓮華心院:仁和寺院家の一とされる。
2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
 八条院(鳥羽天皇第三女、母は美福門院)御願・建立。承安4年(1174)蓮華心院御堂供養。その位置は常磐林(右京区常盤古御所町、双ヶ丘南西麓、常磐御所跡)の付近と推測される。
 建暦元年(1211)八条院崩御、御墓をこの地に設け、その上に多宝塔を建立。
建暦2年・・・蓮華心院内御墳墓上建立小塔・・・(「東寺金剛蔵聖教目録」)
「明月記」:建暦2年6月29日(供養当日)、午時許・・・・参蓮華心院、事始之後也、・・・・此御塔多宝塔也、
----------以上は御室仁和寺の院家である。--------------

春日木辻辺塔

広隆寺
2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
宝塔院:五重塔婆一基・・
百錬抄云、承安2年(1172)広隆寺内塔供養。
○「よみがえる平安京」:
 広隆寺模型:模型では三重塔として作成される。
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」 より
 広隆寺模型2:三重塔は広隆寺別院三重塔
なお、広隆寺には古代の心礎が現存するも、由来や詳細は不明な点がある。 →山城広隆寺心礎
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 広隆寺模型3:別院三重塔

嵯峨大覚寺
○「よみがえる平安京」:
 嵯峨大覚寺模型:三重塔があった。
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」 より
 嵯峨大覚寺模型2     嵯峨大覚寺模型3     嵯峨大覚寺模型4
右に大覚寺金堂横の三重塔、中ほどに中御所金堂裏の多宝塔、左に教王常住院本堂横の多宝塔がある。
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 嵯峨大覚寺模型5
2006/12/10追加:「Y」氏ご提供
 大覚寺伽藍図:絵葉書、「後宇多法皇御在住当時之大覚寺」とある。紙本著色。
後宇多法皇時代の大覚寺伽藍古絵図と伝える。徳治3年(1308)大覚寺に入寺、元亨元年(1321)には寺観が整うとされる。但し絵図そのものは江戸中期のもので、寺観は復元的な描写でしかない。建武3年(1336)火災で灰燼に帰す、その後この景観の再興は実現しない。
当図によると、(文字の判読が不能で詳細は不明)本寺に多宝塔1基、御殿区画に多宝塔1基、北側山麓に五重塔1基、その東に塔1基があったと思われる。但し、遺構などがあるわけではなく、詳細は不明。
2008/09/12追加:
「京都の庭園 遺跡にみる平安時代の庭園」 京都市文化財ブックス 第5集、京都市文化観光局文化部文化財保護課、1990.3
(上掲を詳細に記すると)金堂東に多宝塔1基、中御所北の本堂裏に多宝塔1基、長尾山麓の教王常住院に五重塔1基、その東の西来院に塔(種別は不明)1基があった。
 ※教王常住院:前身は後嵯峨院の別宮であり、のちに後宇多法皇が改修、教王常住院と号する勧学所となる。重要な院家であった。
 ※西来院:不詳
 大覚寺伽藍図2:大覚寺蔵、上に掲載の大覚寺伽藍図(絵葉書)と同一
→昭和42年に建立の多宝塔については「明治以降の多宝塔」中の729を参照。

松尾社
松尾神社及近郷絵図(全図)、松尾神社及近郷絵図(部分図) :紙本着色:室町期
○「よみがえる平安京」:
 松尾社模型:左手に三重塔
2007/02/04追加;
秦氏の氏神とされる。社頭景観では楼門、廻廊、庁屋、楽所、経所、舞殿、祝屋、拝殿、御料理、講坊、正神殿、緞殿などがある。
さらに摂社月読社があり、社頭の南には三重塔・宿院があり、山麓には神宮寺がある。
2007/10/11追加:
「松尾社一切経」は嘉永7年(1854)「読経所」が取り壊された時、流出し、安政4年(1857)に京都妙蓮寺に納められる。
 (「松尾社一切経」の項参照。
神宮寺は十禅寺と号する。
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 松尾社模型2     松尾社模型3
2022/05/26追加:
○「神社とは何か」新谷尚紀、講談社現代新書2646、2021 より
第4章:磐座祭祀の伝承>2.山上の磐座と山麓の社殿
磐座信仰祭祀には泉水への信仰が伴っている場合も多い。日枝山王権現の樹下宮の本殿下の霊泉、杵築大社の磐座祭祀の眞名井遺蹟や貴船明神の奥社の御神水などがしかりである。
松尾社背後の松尾山大磐座から地下水脈として流れ出る霊亀の滝や霊泉の亀の井がそうである。神社の鎮座地と水源祭祀と霊泉祭祀という両者の構造は注意しておく必要がある。
2022/02/25撮影:
 山城松尾社1     山城松尾社2
2024/01/12追加:
○朝日新聞2024/01/08「松尾大社展」京都文化博物館 記事 より
 松尾社には女神像1体と男神像2体の三神像が伝わる。平安初期の神像彫刻で、最古級のものといい、重文指定されている。
 松尾社女神像:平安期(9世紀)、重文、松尾社蔵

法成寺
藤原道長の創建で寛和3年(987)より造営される。
○「平安時代仏教建築史の研究」:
 法成寺伽藍復元図:完成時の伽藍、但し塔の位置については推定で、塔は「多宝塔」と思われる。
天喜6年(1058)火災。再建はほぼ同一規模で為されると伝える。
康平元年(1068)ころの伽藍は阿弥陀堂(無量寿院)、十斎堂、三昧堂、金堂、五大堂、鐘楼、経蔵、西北院、薬師堂、塔(1基)、尼戒壇、釈迦堂、宝蔵、南楼などがあったと云う。
○「よみがえる平安京」:
 法成寺模型
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」 より
 法成寺・福勝院:中央上に法成寺塔婆、下に福勝院塔婆がある。
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 法成寺模型2     法成寺模型3     法成寺模型4
○「塔における両界曼荼羅空間の展開」 より:
天承2年(1132)東西五重塔再建。 東塔安置仏は胎蔵界五仏、西安置仏は金剛界五仏。
 ※塔は東西2基で再建されたという。
 2015/02/24追加:
 ○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
  天承2年(1132)再建東西五重塔
  天承再建塔については平知信の日記「知信朝臣記」に当時の記事・指図があり、詳しく分かる。 → 知信朝臣記/法成寺塔指図
  塔の規模は興福寺五重塔よりやや小規模であるが、大型塔であった。
  中尊として、東塔に胎蔵界、西塔に金剛界の大日如来4体ずつを四方に配し、四仏として、両塔とも薬師、弥勒、阿弥陀、釈迦を安置した、
  つまり天承の再建では法成寺の東西二塔に両界曼荼羅を現出したのである。
  しかし、本来は両界に1体ずつであるはずの大日如来が東西いずれの塔にも4体も安置され、
  また本来は密教の両界曼荼羅四仏が安置されるべきものが、東西いずれの塔にも顕教の四方浄土変の四仏が安置されている。
   ※胎蔵界は、東に宝幢 、南に開敷華 (かいふけ)、西に無量寿、北に天鼓雷音 (てんくらいおん) の四仏、
   金剛界は、東に阿閦 、南に宝生、西に阿弥陀、北に不空成就の四仏を祀る。
  これはどうしたことであろうか。
  おそらくは、これは密教の同体説に起因するのであろう。密教は顕教の仏を密教の仏と同一視する。
  例えば、昆盧舎那仏は大日と同体であり、薬師は金剛界阿閦、釈迦は金剛界不空成就と胎蔵界天鼓雷音と同体である云々・・・。
  つまり法成寺五重塔の空間は密教の論理による顕蜜融合の両界曼荼羅空間であるといえるのである。
  さらに、一塔に4体の大日如来を安置するとは、法勝寺八角九重塔の例に見られるように、心柱が通る狭い初重空間で、
  中尊大日如来を彫刻として祀る工夫であったのであろう。
    →さらに時代は進み、法成寺では2塔で両界曼荼羅を表現したが、蓮華王院五重塔では一塔で両界曼荼羅を表現するように変容する。
永久5年(1177)両塔、南大門など焼失。のち再興。
健保6年(1219)南大門、左右脇門、東塔など焼失。
建長6年(1254)金堂、塔、南大門など焼失。
正和年中(1312-17)南大門焼失、その後金堂倒壊。
元弘元年(1331)最後まで残った阿弥陀堂(無量寿院・康平2年<1059>再興)焼失し、その後は廃墟となったと伝える。
○大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第十七學區之部)
法成寺の址:
五重塔:長元3年(1028)五重塔供養(日本略記)(百錬抄)
承歴3年(1079)法成寺東西塔供養(一代要記)
永久5年(1117)塔焼く・長承元年塔供養(伊呂波字類抄)
永久5年東西塔等を焼失(百錬抄)
天承2年(1132)塔供養(天台座主記)
保延6年(1140)西塔並びに行願寺塔同時に雷火にて焼失(百錬抄)
2009/12/10追加:
○「中右記」天承2年(1132)2月28日条には以下のようにあると云う。
「天喜6年(1058)2月23日夜 本寺(法成寺)焼亡時為■<火+畏の漢字>燼 其後有議移薬師寺塔成ニ基 三重毎有母層 作八相成道 承暦三年(1079)戌十月五日供養 了」
 ※天喜6年(1058)法成寺が焼亡し、その再興に当って薬師寺塔2基が移建されたと解釈される。薬師寺とは大和薬師寺であろうと推定される。
であるならば、平城薬師寺には今も創建時の東塔が存在する以上その薬師寺とは本薬師寺でしかありえない。
但し、上記資料の「移(うつ)す」は「模(うつ)す」であろうとの強い批判もある。
2013/02/19追加:
○「院家建築の研究」:
 法成寺当初の塔についての供養の記録は直接には見られない。塔の造立は随分遅れて、「扶桑略記」萬壽4年(1027)11月26日の条に「造塔が成る」主旨の記載があるので、その頃竣工したのであろうか。道長はその10日もたたないで病没する。
ところで塔の造立は造作を急ぎ、無理があったようで、翌年萬壽5年(長元元年)大風・洪水で、塔が巽の方向に3尺ばかり傾くと云う。
この修復は礎石を塔を解体し、礎石を据え直すしか方法なないと判断され、塔は解体されたのであろう。
「小右記」長元2年(1029)塔に心柱が倒れ、工人1名が死亡、1人は負傷、奉仕1名が骨折と云う。
この再営は頼通により、長元3年に成る。
 天喜5年(1056)法成寺伽藍全焼す。焼けた堂塔は以下の通り。
金堂、阿弥陀堂、講堂、薬師堂、五大堂、十斉堂、八角圓堂、東北院、西北院、戒壇、西法華堂1、西法華堂2、塔、僧坊、鐘楼、経蔵、南楼、宝蔵
これ等の建物はただちに再建に着手される。
 塔については、「扶桑略記」承暦3年(1079)の条で「供養法成寺東西二塔、・・・・」とあり、二塔として再建される。
「本朝続文粋」の「法成寺塔供養願文」では、先公(頼通)は新に一基を加え、両所にしたい願望があり、叔父教通は瓦葺三重宝塔2基を造立しかける。
しかし、教通も逝去したので、その宿志を(藤原師実が)継ぎ、塔二基を造立すると云う。
上述の「中右記」天承2年(1132)2月28日条にある
「故御堂御時此塔被立一基、其後天喜6年(1058)2月23日夜 本寺(法成寺)焼亡時為■<火+畏の漢字>燼 其後有議移薬師寺塔成ニ基 三重毎有母層 作八相成道 承暦三年(1079)戌十月五日供養 了」には
薬師寺塔両塔を移したと書いてある。移建したとすれば、本薬師寺の塔であるが、それは塔のことではなく、模したとすべきであろう。
即ち、「平知信記」には承暦のこの塔は、永久5年に焼失した後、天承2年(1132)に供養と記し、「件御塔元者各三重東西両塔、模薬師寺塔八相成道也」としていることからも、薬師寺塔の模建であろうことが分かる。
この再興両塔の工事・供養は遅れ、立心柱の後15年が経過した長承元年(1132・天承2年)となることも知れる。
 この両塔の内、西塔は保延6年(1140)落雷により焼亡、この時は行願寺の塔にも落ち、両塔とも焼亡す。
西塔再建については、仁平2年(1152)事始、翌3年立柱、久壽元年(1154)には依然として造塔中の記録がある。
さらに「山槐記」文治元年(1185)の条では、大地震の後、「東塔北傾、西塔未造畢、只有組物許、不傾」とあり、未だ未完であった。
西塔は、遂に未完のまま、承久元年(1219)の火災で半作のまま焼亡してと推定される。
 この両塔の内、東塔は、上述の「山槐記」文治元年(1185)の条では、地震で傾くと云う。
建仁2年(1202)には東塔の修理があるも、承久元年(1219)の火災で、堂宇5宇と東塔、総社、南大門が焼失する。おそらく未完の西塔も焼亡と思われる。
2022/04/24追加:
○浄土宗大本山清浄華院情報:
 清浄華院南方の教会(教会の名称は失念、取り壊し・マンション建築、この付近は法成寺跡という)の工事現場で礎石など3点の石材が出土するという。
この工事施工業者は偶々清浄華院と以前取引があり、その由縁で、清浄華院にその知らせがあり、礎石などの出土遺物が持ち込まれたという。
出土遺物は案内板と共に境内に置き、展示され、誰でも見学可能という。今後の予定(誰が何処で管理するかなど)は未定であるので、当面は境内にて展示予定とも云う。
○2022/04/17「京都新聞」報道 より:
 出土した場所はマンション工事現場で、法成寺跡の東から東南部分に該当する。工事施工業者が地面を掘り下げると焼けて赤茶色に変色した礎石様石材(80×56高さ50cm)と鎌倉期の金剛界大日如来坐像(高さ114・幅55cm)が発見される。
更に、別の地点から最大幅150×高さ45cmの平安期とも思われる巨大礎石が出土する。この礎石には径90cm高さ10cmの柱座が作り出され、その中央には径25cmの出枘が残存する。出土遺物の材質は何れも花崗岩。
近大網伸也教授は、この巨大礎石は出土場所などから法成寺の遺物と見るのが妥当であろうという。また寺の逸話どうり平安京関係建物の礎石が転用されたか、平安初期を理想化して復古を意識して作られた礎石と云えよう、と云う。
 法成寺跡出土遺物
○浄土宗大本山清浄華院:ツイッター より
藤原道長が法成寺を造る時、羅城門の礎石をもっていった(「小右記」)という。
 法成寺跡出土遺物2     法成寺跡出土遺物3     法成寺跡出土遺物4     法成寺跡出土遺物5
 法成寺跡出土遺物6
○「2022/04/17京都新聞・朝刊」記事 より
藤原道真 法成寺跡地に巨大礎石 「規格外」は語る栄華の象徴
法成寺跡地とされる地点で巨大礎石が発見される。
この礎石について、考古学者の大方の見方は法成寺の礎石である「要件は十分整っている。可能性は高い。」とする。
 同志社大学准教授浜中邦弘は「これほど大きな礎石は本来道長・頼通の時代には不要だった。・・・但し、法成寺においては例外的に用いられた可能性はある。」
この「例外」が有り得たいきさつは、当時の文献から分かる。同時代の藤原実資の「小右記」では、貴族らに礎石の提供を求めたといい、調達先は平安京豊楽殿や神泉苑や羅生門などであった。今回の巨大礎石は西寺を含めた同時代の建物で発見される礎石と酷似している。
 近畿大学教授網伸也は「平安京の発足時に築かれた神泉苑や羅生門は道長の時代には廃れつつあった。道長は天皇をも凌ぐ権力者であり、いわば聖域である神泉苑などから礎石を持ち出したか、復古を意識して造らせたことになる。法成寺の礎石に間違いない。」
 石材に詳しい古代学協会の客員研究員森岡秀人は「巨大礎石は豊臣秀吉の”京都改造”の時代にもみられるが、今回の巨大礎石には近世初頭を思わせる加工の跡は見当たらない。藤原京や平城京や平安京初頭に使われて礎石に似ている。」
 大阪大谷大学狭川真一教授は「本礎石は古代寺院などに由来する礎石という見方に賛同しつつ、”庭石”という別の使い道を考慮すべし」という。江戸後期になると「礎石」は邸宅の庭石として飾られるようにもなる。法成寺跡とされる一帯も秀吉の京都改造を経て、近世は公卿屋敷が建ち並ぶにうになる。この礎石も法成寺の礎石として転用されたかも知れないが、近世に邸宅の庭石となった後、埋められたのかも知れない。
 概ね附近一帯は遺跡の残りが悪く、礎石発掘地点も2021/01に「試掘」を行ったが、目だった遺構や遺物は発見されず、本格調査は見送られた経緯がある。
その後、民間業者のマンション開発工事を通じて礎石など石材2点と石仏1点とが発見される。市教委もこれは立ち合い調査で確認をしている。
これらの遺物は何れも供養を兼ねて近隣の浄土宗大本山清浄華院に贈られ、境内にあかれている。
清浄華院としては「今は仮置きだが、近いうちにきちっと祭祀したい」との意向という。
○清浄華院現地説明板 より
2022/03月末、法成寺境内推定地の東端部である上京区東桜町25の工事現場の地下凡そ3mより、巨大礎石と有孔石と石仏(大日如来)とが掘り出される。これら遺物の供養の為、清浄華院に持ち込まれる。
2021/12月、工事現場担当者より石仏とその台座(有孔石)が出土したから供養の依頼がある。現部に出向き、現物を拝見、歴史に関心のある職員が法成寺の遺物ではないかとの考察を述べる。
供養後の行き先は決まってないとのとこだったので、清浄華院で引き受けることにする。
大日如来像は現地で祀ることを提案するも、難しいとのことであった。
数日後、巨大礎石の出土の連絡があり。いよいよ法成寺の遺物の可能性が高まり、それも清浄華院で受け入れることとする。
京都市文化財保護課に連絡し、同課による実測や拓本などの記録を済ませ、2022/01月正式に清浄華院への受け入れが決定する。
奇しくも、2022年は法成寺金堂の落慶が行われた治安2年(1022)から丁度1000年の節目にあたるという。
清浄華院では3点の遺物を受け入れ、保存のための整備を実施し、公開する意向である。
2022/05/17撮影:
 法成寺跡出土礎石位置図:清浄華院説明板 より
 法成寺跡出土礎石1     法成寺跡出土礎石2     法成寺跡出土礎石3
 法成寺跡出土有孔石1     法成寺跡出土有孔石2:本遺物はおそらく門礎の一つである「唐居敷」であろう。
 法成寺跡出土石仏1       法成寺跡出土石仏2

清隆東山堂
久安5年(1149)参議藤原清隆東山堂九重塔建立。(百練抄)
 ※これは石造九重塔と思われる。

東山塔
「平安時代仏教建築史の研究」:久寿元年(1154)藤原家成薨じ、東山塔に埋葬する。(台記)

法成寺東南山中塔
「平安時代仏教建築史の研究」:久寿2年(1155)関白藤原忠通室宗子薨じ、予め建立されていた法成寺東南山中塔に葬られる。
「御車経御堂西南東行 自滝東山中入 ・・・控御塔西・・・ 入御塔南戸・・・ ・・・次堅御塔南北戸・・・
件御塔、自御所当巽方行程二町余、被建立山中也、・・・」(兵範記)

円城寺
円城寺(円成寺とも表記する)は、応仁の乱後、大和忍辱山に移すという。
大和忍辱山円成寺
延喜7年(907)寛平殊有御願作起宝塔。(歴代編年集成)
延喜12年(912)円成寺塔供養。(日本略記)

如意寺
三井別院であり、広大な山中に数多くの堂宇が造営されていた。
総門を過ぎて、・・西上三層塔婆・・・(寺門伝記補録撮要)
 →近江園城寺中の如意寺

華頂山五重塔
寛喜2年(1230)・・・一昨日被搦取武士向粟田塔前。・・(名月記)
康永元年(1342):岡崎の民家より出火・・法勝寺九重塔、華頂山の五重塔、醍醐寺の七重塔同時に焼 く・・・(太平記)
※太平記記事:
 ○法勝寺塔炎上事:康永元年(1342)3月22日に、岡崎の在家より俄かに出火出で来て・・・わずかなる火屑・・・十町餘を飛び去て、
 法勝寺の塔の五重の上に落ち留まる・・・(その後塔、金堂、講堂、阿弥陀堂など灰燼に帰す)・・・
 暫しあれば華頂院の五重塔、醍醐寺の七重塔、同時に焼けたることこそ不思議なれ。・・・
2009/02/02追加:「幕末明治 京都名所案内」 より
 華頂山五重塔
  「華頂山大谷寺知恩教院全圖」右上部分図・・・近世の知恩院全図であるが、(知恩院とは無関係の)華頂山五重塔が描かれている。
・「太平記」記事によれば(史実かどうかは不明)、中世に五重塔は焼け、その後の再興は不明、少なくとも近世に五重塔の存在は知られずと思われる。
  ※太平記記事:○法勝寺塔炎上事
 康永元年(1342)3月22日に、岡崎の在家より俄かに出火出で来て・・・わずかなる火屑・・・十町餘を飛び去て、法勝寺の塔の五重の上に落ち留まる・・・
 (その後塔、金堂、講堂、阿弥陀堂など灰燼に帰す)・・・暫しあれば華頂院の五重塔、醍醐寺の七重塔、同時に焼けたることこそ不思議なれ。・・・
・「新撰京都名所圖會」:中世この地に唐の天台山を模したという近江園城寺別院・華頂院があった。康永年中、五重塔焼失。応仁の乱で院は全く廃絶した。近世まで粟田神社の東方に華頂院の池と伝える古池が存在したと伝えるも、今は埋め立てられ往時を偲ぶものは無い。
・京都東山第21峰を華頂山と云う。この山麓には、現在は近世に浄土宗総本山と時の権力者によって認定された知恩院(華頂山知恩教院大谷寺)がある。知恩院建立前には、この山麓に華頂院があり、五重塔があったと伝えられる。
 ※知恩院:法然(法然坊源空)、勢至堂付近に草庵(吉水御坊)を営む。
 天正3年(1575)正親町天皇の論旨により、知恩院が知恩寺(百万遍)を押さえ、浄土宗本寺となる。
 慶長3年(1608)徳川家康、知恩院の寺地を拡大、諸堂造営。造営は秀忠、家光(再興)に引継がれる。
 元和5年(1619)良純法親王(後陽成天皇第八皇子)知恩教院初代宮門跡となる。
 宝永7年(1710)霊元天皇、「華頂山」の勅額を下賜。
  要するに知恩院が隆盛になったのは近世の江戸幕府権力によってであり、華頂院や華頂山五重塔とは直接の関係はないと思われる。

--白河殿-----------------------------------------------------------------------------------------------

2005/05/29追加:平安期の白河略図:下図拡大図

北より福勝院(三重塔)、聖護院、熊野権現、山王権現、歓喜光院、白河北殿、白阿南殿(蓮華蔵院<五重塔>)、得長壽院、
尊勝寺(東西五重塔)、最勝寺(五重塔)、延勝寺(五重塔)、成勝寺、円勝寺(中央五重塔・東西三重塔)、法勝寺(八角九重塔)、
証菩提院、善勝寺などがある。

○2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
 ◆洛東白河概要図:明治28年陸地測量部地図に平安京条坊もしくは条理を推定復原し、その上に想定される遺構を示したものである。

福勝院(高陽院白河御堂)
鳥羽法皇皇后藤原泰子(高陽院)の御願によって仁平元年(1143)九体阿弥陀堂が供養され、三重塔は仁平4年(1154)に供養されるという。
皇后は没後この院(護摩堂壇下)に葬られたと伝える。
久寿元年(1154)高陽院福勝院内三重塔供養。(百練抄)
○「平安時代仏教建築史の研究」:
高陽院猶子叡子内親王(鳥羽院皇女)の菩提のため建立、三尺の釈迦・多宝の二仏を西向きに安置。(兵範記)
 福勝院復元図
○「よみがえる平安京」:
 福勝院模型
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」 より
 法成寺・福勝院:(上に掲載写真):中央上に法成寺塔婆、下に福勝院塔婆がある。
 福勝院模型2:三重塔と九体阿弥陀堂、右下の宝形造の堂は護摩堂であろうか。
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 福勝院模型2
○2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
福勝院の場所は熊野権現の北側にあったものと推定される。
「兵範記」仁平4年「白河御堂中三重御塔供養也、・・・」、末尾には「願文」が載る。即ち「・・・建立三重塔婆一基、奉安置三尺金色社k如来像一躯、同多宝如来一躯、・・・・三層之重甍也、・・・」

2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊 より
白河堂塔:寺院号古記に未だ見ず。
  ※「寺院号古記に未だ見ず。」とは院の御所内には多くの場合、仏堂もしくは仏堂・塔婆などが建立されるも、寺号院号が特に定められていない場合があったという意であろう。 本書では、法号(寺院号)のない御堂の塔婆を以下のように一括して挙げる。
 続文粋粹云、・・・・白河の傍に五重塔三重塔2基を建つ云々
 永久5年(1117)白河御願塔、件塔従二位光子奉院宣造立(推定最勝寺塔)
 大治元年(1126)3月太上法皇白河三重塔供養。紀伊守顕長造進之。(円勝寺東御塔)
  永昌記云、大治元年・・・御塔の内等身皆金色の大日如来を安ず。・・・(同上か)
 大治2年(1127)1月太上法皇白河の五重塔供養。但馬守敦兼朝臣造進之。(円勝寺中御塔)
 大治2年(1127)3月太上法皇白河の三重塔供養。伊予守基隆造進。(円勝寺西御塔)
 大治4年(1130)12月太上法皇白川の御塔供養。備前守忠盛造立。(忠盛造進の5基のうちの白河御塔であろう。)
 仁平元年(1151)一院川東の御所の中島御塔供養。(下に掲載の白河東御所内東小御堂内多宝塔である。)
○2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
まず大治元年三重塔、大治2年五重塔、大治2年三重塔については円勝寺塔である。
これは「中右記」大治2年3月19日の条に「・・・参白河新造御塔所、今日依有供養也、本三基御塔、東中御塔供養先畢、西御塔伊予守基隆朝臣作也、今日被供養也。」でも証明できる。
大治4年 (1130)造立塔については「中右記」同年12月28日の条で「今日白河新造御塔供養也、・・・是忠盛所作女院御祈十基中云々、今日又祇園御塔・・・・是又忠盛造進十基中忠盛五基承也」とある。女院とは待賢門院(上記3塔の御願でもある)であり、平忠盛が女院御願十基のうち、五基を造進し、一基は白河にあり、一基は祇園にあったのである。この忠盛造進の白河御塔とすべきであろう。
永久5年(1117)の御願塔は「中右記」の云う「元永元年(1118)・・・新御願木作始、是最勝寺東辺地也、塔一基造立供養了」の塔であろうと推定される。

○「よみがえる平安京」:
 白河模型:東(右)から、法勝寺、西(下)三塔ならぶのが円勝寺、西(上)五重塔は最勝寺、その西2塔は尊勝寺
              さらに西は得長寿院三十三間堂、その西の塔は蓮華蔵院
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」 より
 白河殿模型・文字入り:下図拡大図
  
 白河殿模型:文字入れなし
 白河殿模型・主要部
 法勝寺・圓勝寺・最勝寺:法勝寺八角十三重塔、圓勝寺五重塔・三重塔二基、最勝寺五重塔
 延勝寺・尊勝寺・蓮華蔵院:延勝寺五重塔、尊勝寺五重塔二基、蓮華蔵院五重塔・三重塔二基
 蓮華蔵院:五重塔・三重塔二基
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 白河殿模型2:南から撮影     白河殿模型3:南東から撮影     白河殿模型4:東から撮影
 白河殿模型5:最勝寺・尊勝寺など

白河南殿(白河泉殿、白河阿弥陀堂)、後に院号が与えられ蓮華蔵院と号す。
○永久2年(1114)白河天皇の御願により平正盛が九体阿弥陀堂を造立。
永久5年(1117)建立三重塔
 2003/8/18追加:「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊:
  百錬抄云、永久5年公家白河御塔供養。件の塔従2位光子院宣にて造立。
  永久5年(1117)5月上皇白河阿弥陀堂内新造塔供養・・(百錬抄)、
  永久5年10月従ニ位光子が院宣を奉り造立した「白河御願塔供養」・・(百錬抄)
 2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
  永久5年(1117)勤仕白川御塔供養御導師蒙賞、・・・・(「東寺長者補任」)、太上皇供養白河阿弥陀堂内新造塔(「百錬抄」)
   ※これは三重塔と云われる。
保安3年(1122)建立三重塔
 2003/8/18追加:「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊:
  保安3年(1122)中宮職白河御塔供養。泉殿御塔と号す。尊勝寺の西北。(百錬抄)
  百錬抄云、大治5年上皇・・・白河阿弥陀堂(千躰阿弥陀堂)の内の塔を供養。
 2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
 保安3年(1122)中宮職供養白河御塔 号泉殿御塔・尊勝寺西北(「百錬抄」)
○大治4年(1129白河泉殿内に千躰阿弥陀堂が造営される。
大治5年(1130)鳥羽上皇の御願・白河上皇追善三重塔
 大治5年(1130)白河上皇白河阿弥陀堂内塔供養。伊予守家信之進造。(百錬抄)
 2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
  大治5年(1130)白河上皇追善の三重塔・九体阿弥陀堂が建立。(これは藤原基隆の寄進による。)
2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
以上のように、白河泉殿は塔3基を具備したものと判断される。
塔3基は以下のように退転す。
承久3年(1221)蓮華蔵院塔婆、為放火焼亡(「承久3年4月日次記」)
寛喜元年(1229)蓮華蔵院焼亡、 ・・・・ 夜前火、蓮華蔵院巽角塔二基、先東三重次高塔、次・・・金物盗所為云々(「明月記」)
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」よりの写真は上の六勝寺の項に掲載
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 蓮華蔵院模型1     蓮華蔵院模型2     蓮華蔵院模型3

白河東御所内東小御堂
2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
白河北殿の東に東御所とも云うべき御所があり、ここには東小御堂とも云うべき御堂があった知れる。
「本朝世紀」:仁平元年(1151)「法皇令供養白河東御所内多宝塔給(在池中島)・・・・
また「本朝世紀」には「鳥羽天皇白河東御堂内御塔供養御願文」が収録され、文中に「建立多宝塔一基、四面扉図絵十二天像、奉安置金色三尺釈迦如来像一躯、同田寳如来像一躯」とある。

白河六勝寺

白河法勝寺
白河天皇御願で造立。
法勝寺八角九重塔
 今の岡崎動物園内の「塔の壇」と称するところがその跡と伝える。戦前までは塔基壇を残していたが、進駐軍により完全に破壊されたと云う。
○「よみがえる平安京」よりの写真は上に掲載
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」よりの写真は上の六勝寺の項に掲載
白河法勝寺塔略歴
永保元年(1080):創建:立柱
永保3年(1083)九重塔等を供養。金剛界五智如来を安置。
 総高は27丈(約81m)と伝えられる。<「院家雑々跡文」(室町期)>
 金堂前の池の中ノ島に建立される。(想定復元図・・・山川出版社刊「京都府の歴史」から)
 法勝寺伽藍復元図:「平安時代仏教建築史の研究」
 2015/02/24追加:
 ○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
  心柱が初重を通っているが、金剛界大日如来を四方に1体づつ、四仏を四隅に各1体安置する。
  これは、大日如来4体と四仏を彫刻として安置した初例であろう。
  しかし、この塔で中尊大日如来は「四方に分かちて坐」した(「法勝寺御塔供養願文」)とされ、
  実は一体の大日如来を四つに分けて安置したものであった。
   つまり、心柱がいわば邪魔で、中尊大日如来の彫刻を初重内にうまく置くことができないことを示しており、
  その解決策として心柱の回りに4分割した中尊大日如来を安置したのであろう。
  但し、三重塔では初重には心柱の無い塔が建立され、山城法金剛院三重塔には五仏をうまく配置できたことが知られる。
  同じく心柱の通らない山城白河円勝寺三重塔も等身の金剛界大日如来を安置していたという。
  さらに心柱の通らない構造である多宝塔の初重も大日如来は1体で配置される。石山寺多宝塔高野山金剛三昧院多宝塔がその例である。
  なお中尊大日如来を4体安置する構成は天承2年(1132)再建法成寺東西五重塔に引き継がれる。
承徳2年(1098):本塔を改造、保延6年朽損を補修。
嘉応元年(1169):九重塔第3層に落雷、焼損。
承安4年(1174):落雷、仏像・柱破損。
安元2年(1176):第9層に落雷、2名死亡。
元暦2年(1184):大地震、心柱は無事、瓦は全部落下、なすすべなし。
承元2年(1208):落雷。塔焼失。(創建125年目)
承元3年(1209):東大寺大勧進栄西(建仁寺開山)は法勝寺八角九重塔再興のため、朝廷の命により法勝寺に転ずる。
承元4年(1210):栄西により再建立柱。建保4年(1217)九重塔落慶供養。
 建保4年再興塔は高さ27丈、かって存在した土壇の径15間(約30m)という。
嘉禄元年(1225):盗賊により九輪倒れる。
安貞2年(1228):台風、九輪北方に傾く。
建長6年(1254):第6層に落雷。
康永元年(1342):民家の出火が飛び火。ほぼ全伽藍を焼失。九重塔も焼亡。
 ※太平記記事:
 ○法勝寺塔炎上事:康永元年(1342)3月22日に、岡崎の在家より俄かに出火出で来て・・・わずかなる火屑・・・十町餘を飛び去て、
 法勝寺の塔の五重の上に落ち留まる・・・(その後塔、金堂、講堂、阿弥陀堂など灰燼に帰す)・・・
 暫しあれば華頂院の五重塔、醍醐寺の七重塔、同時に焼けたることこそ不思議なれ。・・・
この後九重塔は再建には至らず。 (※塔が存在した期間は170年余)
法勝寺そのものも、応仁文明の大乱で壊滅的な打撃を受け、残った伽藍も戦国期に兵火で焼亡。
元亀2年(1571):法脈を近江坂本西教寺に移し、白河の法勝寺は廃寺となる。
その後、八角九重塔の基壇跡(塔の壇)と現在の二条通の北側にある金堂の基壇跡を残して藪となり、明治期には耕作地として利用される。(明治19年「土地区割図」)
明治34年法勝寺の敷地の南半部で京都市動物園の工事が着工、明治36 年(1903)開園。動物園となっても「塔の壇」は残され、その上は休憩所などとして利用されていが、昭和21年米軍により接収され、キャンプ地設営で「塔の壇」は削平される。
終に、地上に痕跡を留める遺構は、現二条通の北側にある金堂の基壇跡のみとなる。
白河法勝寺塔及び伽藍模型

○「よみがえる平安京」より:
 法勝寺九重塔復元図
 法勝寺九重塔模型:初重は裳階付であったとされる。

○2008/12/05撮影 :京都歴史資料館所蔵、みやこめっせに展示。
 京都法勝寺九重塔模型1
 京都法勝寺九重塔模型2
 京都法勝寺九重塔模型3
 京都法勝寺九重塔模型4
 京都法勝寺九重塔模型5
 京都法勝寺九重塔模型6

○2014/05/24撮影:京都アスニー(「平安京創成館」)展示、みやこめっせに展示のものを移設。
 白河法勝寺九重塔模型11
 白河法勝寺九重塔模型12
 白河法勝寺九重塔模型13
 白河法勝寺九重塔模型14
 白河法勝寺九重塔模型15
 白河法勝寺九重塔模型16
 白河法勝寺九重塔模型17
 白河法勝寺九重塔模型18
 白河法勝寺九重塔模型19;左図拡大図
2018/12/17撮影:
○「法勝寺復元模型」(「平安京創成館」展示) より
 法勝寺復元模型21      法勝寺復元模型22     法勝寺復元模型23     法勝寺復元模型24
2022/09/09追加:
○「X」氏情報:
 「平安京創成館」(京都市生涯学習総合センター[京都アスニー]1F)にて、2022年12月28日までの企画展で1/150法勝寺八角九重塔模型が展示されている。
発掘調査結果をもとにした瓦葺の塔模型で、冨島義幸(京大教授)の復元図をもとに京都大学の学生が制作したとのこと。
2022/08/31「X」氏撮影画像:
 冨島氏復元図に基ずく法勝寺九重塔模型(法勝寺九重塔新模型)
2022/12/11撮影:
◇京都市平安京創生館(京都アスニー)展示法勝寺八角九重塔模型
 現在、2基の塔模型が展示される。何れも京大教授冨島義幸の設計である。
 一つは従来からある法勝寺伽藍模型中に組み込まれている模型<上に掲載>で、これは1/100スケールのものである。
法勝寺塔跡の発掘調査が行われる前の1994年に作成されたもので、屋根檜皮葺の塔である。
この模型が設計された時の法勝寺塔の情報は、建保元年(1213)再建塔の高さが27丈(約81m)、残存する基壇跡の直径が約30mで、初重に裳階が付設し、屋根檜皮葺という程度のものであった。
この模型は建都1200年記念で1994年に開催の「甦る平安京」展で復元模型として復元されたもので、その後京都アスニーに常設展示されることとなる。
 二つ目は2021年に制作された塔模型(スケールは1/150)で、発掘調査の成果などを含め、屋根瓦葺きで、平面も初代模型と比して瓦葺屋根重量に耐えうる構造の塔模型とした。
屋根瓦葺とした根拠は九条兼実の日記「玉葉」中に元暦2年(1185)の大地震のときは瓦が剥がれ落ちたと記載があることを発見し、さらに2010年の発掘で、塔跡から平安期の瓦が多量に出土したことである。そして、基壇の地業は極めて厳重になされていて、これは九重の屋根瓦の重量に耐えうる施工であると判断されることである。
 法勝寺八角九重塔復元の新旧比較図     法勝寺八角九重塔CG復元(瓦葺)
 法勝寺九重塔新模型1     法勝寺九重塔新模型2     法勝寺九重塔新模型3
 法勝寺跡出土蓮華文軒丸瓦:「九」文字瓦
 法勝寺復元模型25    法勝寺復元模型26    法勝寺復元模型27    法勝寺復元模型28    法勝寺復元模型29

白河法勝寺塔跡遺構
○2010/03/12追加:
「法勝寺八角九重塔基壇基礎が出土・・・京都市文化財保護課発表」と新聞各紙が報道。
市は動物園の新施設整備に伴い、2009年12月と2010年2月に試掘調査を実施。
発表では、基礎部分は一辺12.5mの八角形の南側の一部とみられ、地表から約2mの深さにまで40〜70cm大の石を詰め、粘土で固められていたと云う。また塔の中心があったとみられる場所は、現在観覧車などがある。市埋蔵文化財研究所が2011年度中に調査が可能な場所を特定し、本格的な発掘調査を実施するとのことである。
なお塔基壇は戦前まで残存という。この基壇は戦後米軍の接収で削平と云われる。
 八角九重塔基壇基礎     八角九重塔復元模型:京都市生涯学習センター展示
○2010/06/29追加:「法勝寺八角九重塔跡発掘調査現地説明会資料: より
2010/06/26山城法勝寺塔跡発掘調現地説明会がある。
 山城白河法勝寺遺構図:八角九重塔跡は岡崎動物園の中にある。水色部分が今回の発掘調査部分。
 山城白川法勝寺調査区:1区、2区、3区の調査区を設定、3区では目的の通り、園地の遺構を検出。
発掘区1区・2区:堀込地業を発掘、地業1は塔土壇の地業で、平面は八角形で5箇所のコーナー部を検出、1辺は12.5m〜14.5m、東西幅約32m、深さは検出面から約1,5m(基壇は今は削平されているが、約1.5mの高さがあったと記録される)、基本的に薄黄色の粘土に径40〜70cmの河原石を混ぜ衝き固める。
地業2は地業1の外側を廻るもので、幅約3mで、深さは約1.5m、薄赤色の粘土に約30〜70cmの河原石・チャートを混ぜる。
発掘区1区:
○法勝寺塔跡遺構発掘
 法勝寺塔跡遺構11:2010/06/26「X」氏撮影画像、動物園観覧車から見下ろす。:下図拡大図
   
 法勝寺塔跡遺構12:2010/06/26「X」氏撮影画像、同上、八角基壇の南辺が写る 。
 2010/06/26撮影:
 法勝寺塔跡遺構13     法勝寺塔跡遺構14     法勝寺塔跡遺構15     法勝寺塔跡遺構16     法勝寺塔跡遺構17
 法勝寺塔跡遺構18     法勝寺塔跡遺構19     法勝寺塔跡遺構20     法勝寺塔跡遺構21     法勝寺塔跡遺構22
 法勝寺塔跡遺構23     法勝寺塔跡遺構24:手前は土抗
 法勝寺塔跡遺構25:奥の薄黄土色部分が地業1の版築、手前薄赤色部分が地業2の版築
 法勝寺塔跡遺構26:同上、地業1部分は八角形の135度の隅がくっきりと出ている。
 法勝寺塔跡遺構27:凝灰岩列      法勝寺塔跡遺構28:凝灰岩列
 法勝寺塔跡園地遺構
 塔跡北西すぐに池があり、池中に八角塔基壇の布石(基壇の縁に廻らせる)と推定される石がある、長さは不明であるが、端の切れ角は135度と云う。
 法勝寺塔基壇布石1     法勝寺塔基壇布石2     法勝寺塔基壇布石3     法勝寺塔基壇布石4
 出土凝灰岩製塼:基壇上の内外を覆っていた塼なのであろうか。
2011/08/11追加:
○「京都府史蹟勝地調査會報告 第六冊」京都府史蹟勝地保存委員会、大正14年 より
近世・近代の法勝寺塔跡(塔ノ檀)
近世の地誌「山城名跡志」・「山城名勝志」などにかなり詳しく遺跡の状態が記される。
 宝暦年中岡崎村田畑絵図:塔檀芝原180坪、五大堂芝原490坪などとある。
 明治19年土地区割図:伊地知氏蔵、中央の不正八角形39番が塔の檀である。
 京都市地籍図:京都市役所、御所ノ内・池の内・塔の檀の地名あり。
 明治20年頃水田低地図:不正七角形(塔の檀)は畑地であり、東側池ノ内町は田となる。
 明治25年頃法勝寺跡付近:一面田畑であったことが分かる。中央左側が土壇なのであろうか。
 動物園内塔の檀:径15間の円形をなす低き土壇の如きものあり。これ法勝寺九重塔の遺跡なり。 :(塔ノ檀古写真として貴重であろう。)
 法勝寺遺跡石材:石階の石材なるべし。 上掲の塔基壇布石の写真と同一のもの。
法勝寺その他の遺構・遺物
2009/11/10追加:
○法勝寺礎石
 推定法勝寺礎石;引接山大蓮寺本堂前に「法勝寺礎石」と称する加工された石がある。(引接山大蓮寺本堂
大蓮寺の檀家である「権太呂」(岡崎南御所町)の岡崎店の庭から出てきたもので、大蓮寺に譲渡されたと云う。
権太呂岡崎店は二条通北に面して土壇を残す法勝寺金堂跡土壇のすぐ西に位置する。この位置から判断して、法勝寺の遺構・遺物の出土があっても不思議はないが、建物の通常の礎石とするには形が異形であり、法勝寺の遺物ではあるとしても礎石かどうかは不明であろう。
2014/05/01撮影:
○法勝寺金堂遺構
京都市動物園の北側の二条通りの北に金堂跡の土壇が遺存する。二条通りに面し、その大きさが高さ約2m、東西約55mの土壇である。
 法勝寺金堂跡土壇
 2022/05/17撮影:
  法勝寺金堂跡土壇2     法勝寺金堂跡土壇3
なお、近世、この金堂土壇上には本光寺(日蓮宗と思われる)が建っていたと思われる。本光寺は安永3年(1774)大火により類焼という。
○岡崎満願寺
本境内は金堂跡の背後にあり、法勝寺の閼伽井という井戸が残存する。(→岡崎満願寺
2019/01/11撮影:
○「京都市平安京創生館」展示
法勝寺八角九重塔跡出土の瓦
(以下は展示の「解説文」の要約
 塔跡の発掘調査で、創建時のものとして、唐草文の瓦に加え、胎蔵界大日如来を表す梵字を書いた軒丸瓦や、大日如来の法身真言の5文字の梵字を書いた軒平瓦などが発見される。
 法勝寺では金堂に胎蔵界五仏、九重塔に金剛界五仏を安置し、伽藍の中心に両界曼荼羅を構成する。
また密教では大日如来を象徴する三昧耶形は宝塔と云う。法勝寺の九重塔は、将に曼荼羅の中心である大日如来の象徴であったと云えるであろう。
 さらに「九」と書かれた鎌倉期の軒丸瓦も発見され、これは承元2年(1208)の落雷の後、栄西による再建で葺かれた瓦と見られる。栄西はこの時東大寺東塔(七重塔)の再建にも携わっていて、東塔跡では「七」と書かれたよく似た形式の軒丸瓦が発見されている。
   →東大寺東塔跡>「東大寺東塔院跡平成27年度発掘調査続報(平成28年度続報)」の項を参照。
 梵字文瓦解説     梵字文瓦3種
 梵字(アーク)文軒丸瓦:アークは胎蔵界大日如来を表す。     梵字(5文字)文軒平瓦:5文字の梵字は胎蔵界大日如来を表す。
 梵字文軒平瓦:詳細不詳
 「九」銘軒丸瓦
2016/04/30追加:
「京都市法勝寺跡出土瓦について −熊本博物館所蔵 山崎正董古瓦コレクション−」美濃口紀子・坂田美智子
 熊本博物館所蔵の山崎正董古瓦コレクションは国内はもとより朝鮮の古近東西のコレクションである。
就中、国内の瓦コレクションの中でも最も所蔵数が多い京都市法勝寺跡出土瓦63点を有する。
 では、山崎正董古瓦コレクションとは、如何なるものか。それは昭和27年に山崎氏より熊本博物館に寄贈されたものである。
しかし、山崎氏がいつどこでどうして法勝寺瓦を入手したのかは、まったく記録になく、それは分からない。
ただ、京都大学上原真人氏の指摘によれば、「山崎コレクションのうち何点かは、大正時代に横地氏のコレクションとして紹介された瓦資料と同一個体であるようだ」「その後、京都ではこれらの瓦は見あたらず、現在は所在不明資料という扱いになっている」とのことである。
横地氏とは京都の古瓦収集家(元山口高等商業学校長)であり、明治27年頃に横地氏自身が六勝寺古瓦を採集している。その後、大正6年から昭和25年 (昭和25年は山崎氏の没年)のいつの時点かで横地氏から山崎氏へ法勝寺跡出土瓦の一部が譲渡され、それらが後にまとめて「山崎コレクション」として熊本博物館へ寄贈されたのだろうと思われる。
 以上のような熊本博物館蔵の「山崎正董古瓦コレクション」の法勝寺瓦の中に、「九」文字入りの瓦及び「七」文字入りの瓦の紹介があるので、転載する。
 法勝寺文字入瓦1:「京都府史蹟勝地調査會報告第六册」京都府、大正14年 に記載のもの
 法勝寺文字入瓦2     法勝寺文字入瓦3
なお、平成22年(2010)度の発掘調査(上に掲載)においても、文字入瓦が出土する。
 平成22年度出土文字入瓦:ページ「京都の九重塔があった!法勝寺発掘調査速報」 より転載
参考資料:
 岡崎法勝寺伽藍:「法勝寺跡 京都市埋蔵文化財年次報告 1974 −U』京都市文化観光局文化財保護課、1975 より転載したもの。
さらに、『中房に「九」「七」「卍」を持つ複弁八弁蓮華文軒丸瓦の位置づけについて」ということで、上原真人氏の見解が追記として記される。
『この類の瓦は、鎌倉時代の東大寺再建工事(第一代勧進の重源ではなく、第二代栄西、第三代行勇の東大寺再建)の時に東大寺で採用され、栄西が京都の法勝寺や建仁寺を造営したときに京都に持ち込み、中央官衙系瓦屋でもその影響で製作するようになったもの(上原真人 1995「京都における鎌倉時代の造瓦体制」『文化財論叢U―奈良国立文化財研究所創立 40 周年記念論文集―』)。…中略… 今のところ法勝寺の「九」「七」軒丸瓦は初期(13 世紀前半)のもので「南 都産」。<後略>』

白河尊勝寺
康和4年(1102):堀河天皇御願。
伽藍;金堂・講堂・阿弥陀堂・東西の五重塔等
 「東西御塔身舎并庇懸彩幡花鬢代、五箇層并堂層(裳層か)懸宝幡」:「尊勝寺供養記」
鎌倉末期までに火災・地震で廃絶。
 尊勝寺伽藍復元図:「平安時代仏教建築史の研究」
  網掛部分は既発掘部分
○「よみがえる平安京」:
 尊勝寺・最勝寺模型:西(左下)尊勝寺、東(右上)最勝寺
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」よりの写真は上の六勝寺の項に掲載

白河最勝寺
元永元年(1118):鳥羽天皇御願。
伽藍:塔3基・金堂・薬師堂・五大堂等
元永元年(1118)塔1基金堂に先立ち供養。(中右記)
「自北門西塔へ阿闍梨御渡り」(最勝寺灌頂図)より東塔も想定されるが、その他の伽藍についても史料が乏しく不明。(塔3基かどうかは不詳。)
たびたびの災害で鎌倉末期には青蓮院門跡の管理下に入り、応仁の乱で廃絶。
 最勝寺伽藍概念図:「平安時代仏教建築史の研究」
「よみがえる平安京」:
 尊勝寺・最勝寺模型:西(左下)尊勝寺、東(右上)最勝寺
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」よりの写真は上の六勝寺の項に掲載

白河円勝寺
大治3年(1128):鳥羽天皇中宮賢待門院璋子御願。
伽藍:金堂・五大堂・薬師堂・東塔(東御塔・三重塔)・中塔(中御塔・五重塔)・西塔(西御塔・三重塔)等が建立される。
天治2年(1125)東御塔の起工、同年心柱を立柱。本尊大日如来。
大治2年(1127)中御塔供養。
同年、西御塔供養。
○「塔における両界曼荼羅空間の展開」より:三塔とも本尊は大日如来一躯を安置。
建保7年(1219)京都大火で、塔3基、鐘楼、西門が焼失。その後の建物の興亡は詳らかにせず。
中世の兵火で焼亡。
2015/02/24追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
大治元年(1126)建立の三重塔には、等身の金剛界大日如来を安置し、残る36尊を四天柱に描き、金剛界37尊を揃えていた。
○「よみがえる平安京」:
 円勝寺模型:南(下)の西(左)は証菩提院、東(右)は善勝寺、北(上)は最勝寺
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」よりの写真は上の六勝寺の項に掲載
2022/05/17撮影:
 円勝寺石碑

白河成勝寺
保延5年(1139):崇徳天皇御願。
伽藍:塔が建立された形跡はないと思われる。

白河延勝寺
久安5年(1149):近衛天皇御願。
伽藍:金堂・塔・一字金輪堂・回廊・後に九体阿弥陀堂等
中世の兵火で廃亡。
 延勝寺伽藍概念図:「平安時代仏教建築史の研究」
「よみがえる平安京」:延勝寺模型:北東(右)の五重塔は尊勝寺西塔、東は成勝寺。
2022/05/17撮影:
 延勝寺石碑1     延勝寺石碑2

※善勝寺
応徳4年(1087)供養。願主は藤原親子(白河天皇乳母)、子の顕季か白河院の近習。

白河安芸守能盛塔:安芸守藤原能盛
安芸守藤原能盛は平清盛の側近であり能吏であったと云う。出自など謎が多い人物とされる。
安芸守能盛塔とは情報がなく、不明。
2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
 「兵範記」:法勝寺の巽において、安芸守藤原能盛が堂塔を建て、供養したと云う。
--以上 白河殿------------------------------------------------------------------------------

祇園社
感神院と号し、中世には延暦寺別院、日吉山王権現の末社となり権勢を振う。明治の神仏分離で寺院は棄却され、八坂神社などと称する。
承徳2年(1098)公家供養祇園御塔。(歴代編年集、百錬抄、代要記)
大治4年(1129)供養祇園御塔(百錬抄)
天正18年(1590)祇園宝塔供養。(華頂要略稿本)
近世まで存続した大塔は寛政年中の火災で失われ、以後再興はされず。
 →
祇園感神院
2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
上記の大治4年 (1130)造立塔については「中右記」同年12月28日の条で「今日白河新造御塔供養也、・・・是忠盛所作女院御祈十基中云々、今日又祇園御塔・・・・是又忠盛造進十基中忠盛五基承也」とある。
女院とは待賢門院(白河円勝寺3塔の御願でもある)であり、平忠盛が女院御願十基のうち、五基を造進し、一基は白河にあり、一基は祇園にあったのである。大治4年(1129)供養祇園御塔とはこの忠盛造進の祇園御塔であり、これが祇園感神院の塔婆であるかどうかは未検証である。
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
祇園社大塔が描かれる。
 祇園感神院1     祇園感神院2     祇園感神院3

八坂(法観寺)塔
 上古に創建され、四天王寺式伽藍であったとされる。
創建塔は治承3年(1179)雷火で焼失。現在に伝えられる塔は永享12年(1440)の再建と云う。
 なお後世には、この塔は山城国の利生塔に選定され、康永元年(1342)再興の落慶法要が行われたという。
治承3年雷火で焼失の後、源頼朝により再興され、さらに正応4年(1291)祇園神人と清水衆徒との争いで放火され、これ以来の補修とされる。
 また山城国安国寺は神鶏山北禅寺(開山は仏光寺派大同妙普A開基は細川顕氏、十刹の第九位、寺地は四条大宮北西、廃寺)が指定されたという。
 →八坂法観寺
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」 より
 八坂法観寺1:左が法観寺、右端は祇園社(祇園感神院)・・・この写真では多宝塔は写っていない。
 八坂法観寺2:八坂塔(五重塔)
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 八坂法観寺3

清水寺
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 清水寺模型:仁王門、本堂・礼堂のみ表される。

珍皇寺
承安2年(1172)珍皇寺内三重塔供養(百錬抄)

六波羅
「平安時代仏教建築史の研究」:天仁3年(1110)平正盛、3間四面檜皮葺堂(丈六阿弥陀如来安置)を建立、
この「六波羅蜜堂」には「南塔」も建られたと云う。(長秋記・天永4年<1113>)
なお
行願寺は後世六波羅密寺の寺中で存在するが、明治維新前廃するという。
寛喜2年(1230)行願寺の内塔焼、六波羅地蔵堂。後聞く行願寺内本堂、・・五重新塔・・・多宝塔一・・(名月記)

六波羅常光院
平正盛が珍皇寺より、1町ばかりの畑地を借り、屋敷を構え、常光院と号する御堂を建立したと云う。
常光院には「石塔」があり、百塔めぐりの対象となったとされる。
その後この地は平家一門の隆盛とともに、清盛をはじめとする一門・郎党が20町の地に、200を越える屋敷を構え、大集落となる。
○「平安時代仏教建築史の研究」:
常光院は御所内東壇上にあり(山槐記)、治承4年中山忠親、常光院塔を巡礼する。

清閑寺:2013/01/26追加修正:
延暦21年(802)紹継法師により創建、延暦寺末となる。その後一条天皇代佐伯公行によって再興され、法華三昧堂、宝塔などが建立される。
長保2年(1000)勅願寺と成る。平安末期、高倉天皇(中宮は平清盛娘)、六条天皇(高倉帝甥)の陵が山内に営まれる。なお小督局(高倉帝寵姫)の墓(宝篋印塔)が高倉帝墳墓の傍らにある。
○「佛教考古学論攷」石田茂作:
 清閑寺多宝塔、京都、今なし
○「京都坊目誌」:
応仁元年()兵火に罹り全く荒廃す。慶長年中紀州根来の僧性盛、僅かに修営復興す。遂に真言宗智山派となる。
△宝塔址:今の本堂より東北の山上にあり。尚少許の地は飛地境内として存す。其址に石造塔1基を立つ。
△法華三昧堂址:佐伯公行の建立、今の本堂の西北と伝える。しからば御陵のあるところ歟。
○2013/01/10撮影:△印は2013/04/09撮影:
 山城清閑寺入口     山城清閑寺遠望:山門・本堂・鐘楼
 山城清閑寺山門     △清閑寺山門2     山城清閑寺本堂     △清閑寺本堂2     山城清閑寺鐘楼     △清閑寺鐘楼2
 清閑寺からの著名な眺望     △清閑寺の著名な眺望2          六条・高倉清閑寺陵
※上述のように「宝塔址には石造塔1基を建つ」と云う。宝塔跡の訪問は後日を期す。Web情報では、今本堂背後の山中に石造三重塔が現存すると云うも未見、またこの石造三重塔が宝塔址の石造塔1基であるのかどうかも不明というより確認の術がない。
 ○2013/04/30追加:2013/04/09撮影:
  現在の清閑寺のほぼ北側の山中(山腹)に石造三重塔がある。「京都坊目誌」で云う「今の本堂より東北の山上」と云う説明とは方向及び立位置(山上)
  とは少し違和感っがある。なお、この山腹を清閑寺山とも云うが、本当の清閑寺山はから東方向に踏み入ったところにあるとも云う。
   石造三重塔のある場所が清閑寺宝塔跡かどうかは不明、この場所は山腹の小尾根の背であり、岩が少々露出する。
  この地に土壇の痕跡とか礎石に類するような遺物があり、塔が建っていたことを偲ばせるものは皆無であり、石造三重塔1基が建つのみである。
  石造三重塔は相輪を欠く。初重塔身に多くの文字が刻まれるも、全く判読はできない。従って建立された年紀も不明である。
  2重目には四方に仏、三重には四方に梵字を刻む。三重目屋根は欠落があり、古に落下があったのであろうか。
  大きさは最下段の石積基壇と争論を除き、9尺ほどであろうか。  印象でいえば、おそらく近世に入ってからの造立であろうと思われる。
   清閑寺石造三重塔1     清閑寺石造三重塔2     清閑寺石造三重塔3     清閑寺石造三重塔4
   清閑寺石造三重塔5     清閑寺石造三重塔6     清閑寺石造三重塔7
※清閑寺陵についてはサイト:邪馬台国大研究>天皇陵めぐり>清閑寺陵・後清閑寺陵では以下のように云う。
 (当たり前ではあるが、正気な解説であろう。)
 六条天皇は安元2年(1176)崩御し、清閑寺の小堂に土葬された。しかし後世所在を失い、あるいは清閑寺本堂前の要石、あるいは高倉天皇陵と同じ場所、あるいは小督局塔と称する古塚がそれではないかといわれてきたが、谷森善臣によって、山神とも法華堂とも呼ばれていた現陵が考定された。
 高倉上皇は、養和元年(1181)崩御し、遺体は清閑寺に運ばれ法華堂に葬られた。現陵は清閑寺旧境内の山腹にあり、六条天皇陵と同所にある。法華堂はすでにないが、清閑寺が陵の祭祀と管理を続けていたため、陵の位置に誤りはないと思われる。陵の東側に宝筺印塔と呼ばれる石塔があるが、高倉天皇の寵愛を受けた小督の供養塔と伝えられる。
2013/01/26追加:
○「花洛名勝図会」元治元年年(1864)刊行 より
 歌中山清閑寺:陵墓には厳重さはなく、国家神道の隆盛とともに整えられたことが分かる。向かって左手の背後の山が清閑寺山であろうか。

今天王寺普成仏院
安元2年(1176)供養(百錬抄)。のち天王寺。「左京七条一坊一町」にあったと思われるが、詳細不詳。

--法住寺殿----------------------------------------------------------------------
法住寺殿
2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
後白河法皇の造営した御所である。多くの殿舎、堂宇が営まれたと云う。
営まれた御堂は以下が知られる。(創建順)
蓮華王院御堂、南殿不動堂、最勝光院御堂、同小御堂、南殿千手観音堂、北殿念仏堂、蓮華王院五重塔、最勝光院塔、蓮華王院北斗堂
それ以外にも今熊野権現、今日吉権現もその域内に営まれ、この両権現は現在に伝えられる。
 ◆法住寺殿概要図:明治28年陸地測量部地図に平安京条坊もしくは条理を推定復原し、その上に想定される遺構を示したものである。
法住寺
右大臣藤原為光が永延2年(988)に創建した法住寺跡を後白河法皇が永暦元年(1160)離宮として造営。
宮内には蓮華王院、法華堂、最勝光院など80余の殿舎が立ち並んだと云う。
永寿2年(1183)木曾義仲の兵火で焼失、その後再営されたが、程なく廃絶。
蓮華王院五重塔および高塔は巽角にあったとされ、寛喜元年(1229)金物盗賊によって焼失したと云う。

蓮華王院五重塔
○大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(下京第三十一學區之部)
治承2年(1178)後白河上皇の願により、建立供養。(帝王編年記)
建長元年(1249)焼失、其の後再建に及ばず。
○「塔における両界曼荼羅空間の展開」より:
「蓮華王院五重塔御塔に安置は八体である。これは心柱が初重から建ちあがっていたため」である。
詳しい伽藍配置は不詳。:「平安時代仏教建築史の研究」
○「よみがえる平安京」:
 蓮華王院模型:東(右上)は法住寺殿
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」 より
 蓮華王院模型2:右は法住寺殿     蓮華王院模型3:五重塔、三十三間本堂
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 蓮華王院模型4     蓮華王院模型5     蓮華王院模型6     蓮華王院模型7

2013/02/19追加:
○「院家建築の研究」:
長寛2年(1164)三十三間本堂供養、本堂のほか不動堂、北斗堂、五重塔、総社、宝蔵、南御所などがあった。
五重塔は治承元年(1177)供養(「玉葉」)供養と伝える。
焼亡は建長元年(1249)と記録される。(「百錬抄」、「岡屋関白記」、「一代要記」)
2015/02/24追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
 蓮華王院 治承元年(1177)五重塔供養
塔内には心柱があり、安置仏8体が置かれた。8体の内、4体は大日如来で、しかも4体の内訳は胎蔵界及び金剛界大日如来が2体づづという。
 この例を見ない配置は何を意味するのか。
まず、両界の大日如来を安置することから、一基の塔で両界曼荼羅を構成しようとしたと推測できる。
安置8体の内、大日如来が4体であるので、残り4体は両界曼荼羅の四仏であろう。
ここで、密教の顕蜜同体説に準拠すれば、両界曼荼羅の四仏は顕教の四方浄土変の四仏であったであろうことは容易に推測できるであろう。
まさに、密教の両界曼荼羅に顕教の四方浄土変の四仏が安置されるように時代は変容したのである。
要するに、密教の胎蔵界もしくは金剛界の曼荼羅を塔の中で立体的に表そうとした初期段階から、顕密が癒合し密教の思想の中に顕教の仏が取り入れられ 天承2年(1132)再興法成寺の東西塔に於いて顕密融合した両界曼荼羅を実現する段階に進み、ついには蓮華王院五重塔においては、ただ一基の塔で両界曼荼羅しかも顕密の融合した世界を実現しようとするまでに、両界曼荼羅は変容したということであろう。

2021/09/16追加:
2016/10/26撮影:智積院・蓮華王院遠望/京都タワー展望台より
 智積院・蓮華王院遠望:中央やや上の大屋根が金堂、下の長大な屋根は蓮華王院本堂(三十三間堂)。
2021/04/08撮影:
○蓮華王院現況:
蓮華王院
 この地は、後白河上皇(大治2年/1127 - 建久3年/1192)の離宮・法住寺殿の地であった。
この一画に建てられたのが蓮華王院であり、その本堂が三十三間堂と呼ばれる長大な堂である。
往時は五重塔・不動堂・北斗堂なども具備するという。
現在は天台宗妙法院門跡に属する。
 蓮華王院は後白河上皇が平清盛に命じて建立させたもので、長寛2年(1165)に建立という。
建長元年(1249)の建長の大火で蓮華王院は焼失するも、文永3年(1266)に本堂が再建され、この堂が現存する。
当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。
 蓮華王院本堂は国宝。
入母屋造、本瓦葺、桁行35間、梁間5間(桁行33間、梁間3間の身舎の四方に庇を設ける)。実長は桁行が118.2m、梁間が16.4mを測る。
軒は二軒繁垂木、組物は出組を用いる。
 柱間装置は正面はすべて板扉、側面は最前方の一間のみ板扉で他は連子窓、背面は5か所に板扉を設け、他を連子窓とする。
正面中央に7間の向拝を付設。現状の向拝は慶安3年(1650)のものであるが、創建当初から現状のような形式の向拝が取り付いていたと推定される。
 内部は板敷で、身舎が内陣となる。内陣は中央の3間分を内々陣とし、本尊千手観音坐像を安置する。(千手観音立像は本尊の背後にもう1躯ある)
その左右には、15間分・10段の階段状の長大な仏壇が設けられ、千手観音立像1,000躯を安置する。
 天井は内々陣部分が折上組入天井、左右の部分は二重虹梁蟇股に化粧屋根裏とする。
庇部分(背面を除く)は各側柱(庇部分の柱)から身舎柱へ繋梁を上下二重に渡す。
各身舎柱間は飛貫(ひぬき、頭貫の一段下に位置する水平貫)で繋がれること、繋梁のうち下段のものが身舎柱を貫いて突出し、その部分に大仏様の木鼻を設ける。
 堂内の諸仏
内々陣には本尊千手観音坐像(国宝・仏師湛慶作)を安置する。本尊の左右には各500躯(50体X10段)の千手観音立像が置かれる。なお、千手観音立像は本尊の背後にもう1躯あり、計1001躯であり、それは圧巻である。
 蓮華王院本堂11     蓮華王院本堂12     蓮華王院本堂13     蓮華王院本堂14     蓮華王院本堂15
 蓮華王院本堂16     蓮華王院本堂17     蓮華王院本堂18     蓮華王院本堂19     蓮華王院本堂20
 蓮華王院本堂21     蓮華王院本堂22     蓮華王院本堂23     蓮華王院本堂24     蓮華王院本堂25
 蓮華王院本堂26     蓮華王院本堂27     蓮華王院本堂28     蓮華王院本堂29     蓮華王院本堂30
 蓮華王院本堂31     蓮華王院鐘楼
 なお、千躰観音堂で現在に伝えられるのはこの蓮華王院のみであるが、
蓮華王院に先立つ天承元年(1131)平忠盛が鳥羽法皇のために得長寿院千躰観音堂(三十三間堂)を造営し、
さらに清盛も蓮華王院に先立ち平治元年(1159)白河千躰阿弥陀堂を作っている。
 ※白河千躰阿弥陀堂:「百錬抄」平治元年(1159)3月22日条:「白河千鉢阿弥陀堂供養。大炊御門北。讃岐院御所。保元戦場為灰燼之跡。佛者鳥羽院令造立給。為彼御追福也。」 白河北殿の跡地に鳥羽法皇追善のための千鉢阿弥陀堂が造立されるという。
 →白河北殿      →得長寿院
南大門は重文。慶長5年(1600)豊臣秀頼が建立したと推定さえる。
 切妻造、本瓦葺、三間一戸の八脚門。境内東南側の敷地外に建つ。
なお、かっては、慶長6年秀頼によって建立された西大門も存在したが、これは明治28年に東寺に遷され、教王護国寺南大門(重文)として現存する。
 蓮華王院南大門1     蓮華王院南大門2     蓮華王院南大門3
太閤塀も重文。
 豊臣秀吉が方広寺(大仏殿)を創建した時、蓮華王院もその境内に含有され、そのため、蓮華王院の南及び西は築地塀によって区画される。
本瓦葺。現在は現境内の南端(高さ5.3m、長さ92m)が残存し、西端部分は現存しない。
修理の際に「天正十六年‥‥大ふつ殿瓦」と刻んだ瓦が発見されるという。軒丸瓦には豊臣家の桐紋を使用する。
 蓮華王院太閤塀1     蓮華王院太閤塀2     蓮華王院太閤塀3

最勝光院
承安2年(1172)後白河皇后建春門院滋子の建立。
治承2年(1178)最勝光院内御塔立柱(百錬抄)・・・その後の供養などの経過は知られず。
嘉禄2年(1226)南方有火、・・・塔不焼・・(名月記)・・・その後の塔の興亡も知られず。
○2013/01/26追加:
後白河法皇の院御所の法住寺殿の一部に建てられ,その女御建春門院平滋子とその子高倉天皇を本願とする。
承安3年(1173)落慶,嘉禄2年(1226)火災に遭う。
サイト:「3D京都」>後白河法皇の法住寺殿に最勝光院が完成しました。には最勝光院の3D復原画像が8点掲載される。
 法住寺殿から見た最勝光院:手前が法住寺殿で後方が最勝光院
2013/02/19追加:
○「院家建築の研究」:
 最勝光院御堂想定図:本図は掲載を割愛する。

大弐清隆堂
2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
法住寺殿が営まれる以前に造営されていた多くの堂舎の一つと考えられる。
「本朝世紀」久安5年(1149)5月、東山七条末のこの御堂において大般若経供養がある。
さらに同年9月に九重塔の供養が行われる。太宰大弐清隆の私堂である。
--法住寺殿---------------------------------------------------------------------

--法性寺-----------------------------------------------------------------------
法性寺
延長3年(925)左大臣藤原忠平の創建と云う。元弘3年(1333)全く廃絶した。
五大堂、薬師堂、三昧堂、潅頂堂、常行堂、多宝塔などを備えていたという。
法性寺多宝塔址:大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(下京第三十一學區之部)
天慶8年(945)多宝塔・一切経等供養(日本記略)
天慶8年多宝塔新造供養。金色普賢菩薩、観世音の像を塔婆に安置。一切経も供養(「扶桑略記」)
○2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
天慶3年忠平は没するも、天慶8年多宝塔が供養される。
「勅供養法性寺塔、造金色普賢菩薩像、金色観世音菩薩像、安置塔婆」(「扶桑略記」)
2013/03/14撮影:
 現在東福寺に接し、明治維新以降に法性寺と称する小寺(尼寺)が再建される。
これは旧名を継いだもので、名刹の隠滅を惜しむものであろうか。
本堂には創建時の法性寺潅頂堂本尊と伝える木造千手観音立像(国宝・貞観)安置する。
 明治再興法性寺

最勝金剛院
○「平安時代仏教建築史の研究」:
久安4年(1148)供養、摂政忠通室宗子が願主、法性寺子院。(華頂要略、百錬抄)
本堂のほか塔、鐘楼・僧坊があった。
2013/02/19追加:
○「院家建築の研究」:
法性寺殿と呼称される忠通はその室宗子の墓所を最勝金剛院に営む。
「法性寺最勝金剛院巽角故北政所御塔供養也、去年9月奉殯件塔下、其上安仏像、」(「兵範記」久寿3年9月の条)
 中世に入り、藤原(九条)道家は法性寺寺地に大伽藍建立を発願し、嘉禎2年(1236)造営に着手する。造営は建長7年(1255)まで続けられる。
その結果、法性寺及び最勝金剛院を代表とする多くの院家は藤原(九条)道家によって建立された東福寺に多くがいわば吸収されていくことになる。
 ◆最勝金剛院付近概要図:昭和50年頃(推定)京都都市開発局作成の地図に遺構の想定地を重ねたものである。
2013/03/14撮影:
○再興最勝j金剛院
久安4年(1148)摂政藤原忠通室宗子の発願により法性寺域内東方の地に御堂(最勝金剛院)が建立される。
久寿2年(1155)宗子は法性寺御所で没し、御所南東二町の付近、山中の塔に埋葬されたと云う。(『兵範記』)
建長2年(1250)東福寺塔頭との記録がある。(「九条家文書」)
その後、室町期に衰微、何時しか退転すると思われる。
昭和46年現在地に再興される。由緒寺院の復興と九条家一族の墓所の管理目的と云う。
Web情報では、八角堂は九条兼実廟、その他九条家歴代11人の墳墓があると云う。
※九条兼実:摂政藤原忠通の六男、九条家祖、月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。
 最勝金剛院山門1     最勝金剛院山門2     最勝金剛院八角堂1     最勝金剛院八角堂2
 九条兼美御陵:推定      九条家歴代墳墓1:推定      九条家歴代墳墓2:推定

光明峯寺
2013/02/19追加:
○「院家建築の研究」:
 ◆最勝金剛院付近概要図: (上に掲載済):昭和50年頃(推定)京都都市開発局作成の地図に遺構の想定地を重ねたものである。
本図の右下の方にある「峯殿」は現在は京都国際高(以前は韓国学園)であるが、著者(杉山信三)は堂頭(龍吟庵跡か)から川を遡り、「白髭神社」まで行き、地図の深草車坂町飛び地に至り、開墾された土に土器の散乱しているのを発見す。
 峯殿(藤原道家は光明峯寺殿と呼ばれる、峯殿とは道家の邸宅を云う)と称することから推定すれば、その場所は谷筋ではなく峯筋であろうから、土器の散乱地から峯に登ると、そこに平坦地があり、その平地には湧水があることを発見する。そこは水があるので戦時中は畑であったと思われる畔が残るが、その中に瓦の集められた所があり、礎石もあり、それらは鎌倉期の遺跡と確認し、水もあり生活も可能であるので、峯殿の跡と想定をする。
昭和45、6年頃、この峯殿の地は韓国学院が移転先とし、遺跡地でもあるので、立会調査で礎石のあることも再度確認をする。その後、結果として京都市が調査を実施する。その結果は「京都市埋蔵文化財年次報告・1976-V(光明峯寺・奥院跡」として報告される。
光明峯寺御影堂・草庵跡と想定される遺構と十三重塔跡とする「石室」とを発掘すると云う。
 ※この十三重塔と石室とは道家の墓ということなのであろうか。 しかしこれは乱暴な話であり、文献資料によれば、道家の墓は光明峯寺奥の院(峯殿)の御影堂ということであり、その御影堂跡が石室とは別に発掘されたのであれば、この石室は道家の墓ではないと云える。
 2013/05/16撮影:
  峯殿/京都国際高校:峯殿北谷より撮影。
   中央の道を進むと高校校門へ至り、向かって右手上が推定峯殿(奥の院)跡であるが、現在は校舎/校庭となっているものと思われる。
  五社之滝神社:峯殿の南谷には 上で云うように確かに川が流れるが、同じく上で云う「白髭神社」とは不詳である。
   しかし、修行場と思われる「五社之滝」と称する社がある。これが「白髭神社」と関係するのであろうか。
  峯殿/南谷左岸より:南谷左岸より撮影。左手の丘上が推定峯殿跡であるが、現在は校舎/校庭となっていると思われる。
  峯殿/南谷右岸より:南谷右岸より撮影。上方が 現在は校庭となっていると思われる推定峯殿跡である。南谷右岸は民有地であり、現在は畑となる。
  光明峯寺僧坊並在家等:上に掲載の「最勝金剛院付近概要図」中の「光明峯寺僧坊並在家等」とある付近である。
   ※この付近一帯および背後の丘上に光明峯寺の伽藍があったものと推測されるも、往時を偲ばせるものは何もない。
2013/06/12追加:
○「光明峯寺の歴史」福山敏男(「京都府埋蔵文化財論集 第6集」京都府埋蔵文化財調査研究センター、 2010 所収) より
 嘉禎2年(1236)藤原道家、東福寺造立を発願し、延応元年(1239)最勝金剛院の西に仏殿の立柱を行う。これが東福寺の創建である。
一方、ほぼ同時に
嘉禎3年(1237)頃、道家は光明峯寺殿(御堂并御所等)の造営にも着手する。同時代史料に光明峯寺と思われる記録が散見される。
光明峯寺の寺地及び御殿の地は最勝金剛院の東(定法寺は挟んだ)東である。
 光明峯寺推定位置図:上に掲載の「最勝金剛院付近概要図」と同一視点の図である。
建長2年(1250)の「九条道家初年惣処分状」には光明峯寺の略縁起と堂塔の記載があると云う。
これによれば、東山の奥の恵日山は・・・都に近くかつ人脈を隔て修行に適すると思われ、この地に高野山を擬し、光明峰寺を創建したとする。
建立された堂塔は金堂、多宝塔、御影堂、食堂、伝法堂、経蔵、鐘楼、中門、楼門、僧坊、禅堂、丈六堂であり、奥の院には御影堂、十三重塔、草庵が建立されると云う。多宝塔には周半丈の胎蔵界大日如来像などを安置し、塔も高野山大塔を模したが、土地が狭く寸法を半分にし、また周尺を用いたと云う。
 ※光明峯寺には高野山大塔を模した半分の大きさの多宝塔があったと知れる。
奥の院は東方6町ほどのところに小平地があり、地形が高野山奥の院に似ているので、ここを選定し、道家の墓所に定めたと云う。
御影堂は高野山奥の院御廟を模し、弘法大師像を安置し、十三重塔は多武の十三重塔を模し、仏舎利32粒を宝瓶に入れて安置と云う。
奥の院十三重塔は多武峰を模すと云うので木造であろうか。それとも十三重の形を模しただけで、木造ではなく、石造であろうか。現時点では何れであるのかは分からない。
最後に道家が世を辞した後は(奥の院)御影堂の下に遺骸を納めるように命じて、本文書の光明峰寺の条は終る。
 ※光明峯寺奥の院には多武峰十三重塔を模したという十三重塔の存在が知られるが、上述のように木造塔なのか石塔なのかは不明である。
 法性寺(光明峯寺など)を具体的に示す最古の史料として「法性寺御領山指図」がある。
法性寺御領山指図には泰任法眼注進之正安元年(1299)正月三十日の割注を有する。
 法性寺御領山指図:向かって左が北を示す。
  ※参考資料:「稲荷山経塚覚書」安藤信策(「京都府埋蔵文化財論集 第6集」京都府埋蔵文化財調査研究センター、 2010 所収)
本図で東端に峯殿と記す小区画があるが、ここが光明峯寺奥の院で、僧坊并在家等とあるところが、僧坊などがあったことろであろう。その北に小松谷とあるが、東西を垣などで区画したように見え、ここが光明峯寺本寺かも知れない。
なお、泉涌寺大門の南に西峯(現在解脱会金剛宝塔のある場所)、北に北西峰(現在楊貴妃観音堂のある場所)の区画があるが、峯殿の付随施設があったのかもしれない。
 昭和50年以降に峯殿(奥の院)は韓国学園の建設予定地となり、発掘調査が実施される。
  ※その結果は「法性寺・光明峯寺(奥院)跡発掘調査概要」(下に掲載)として公開される。
△東福寺康永2年十三重石塔
最勝金剛院跡地と想定される区画内に現在五社大明神及び東福寺大鐘楼があるが、ここに康永2年十三重石塔(重文)がある。
十三重石塔(重文)には康永2年/1343造立銘が刻まれ、銘文には「比良山■■・・・延応元年/1239・・・」とある。
この銘文は家道が病気に罹ったとき、比良明神が家道の寺院建立や十三重石塔造立などの功徳を称え、自身が伽藍神とならんと託宣したことを示すものである。なお京都坊目誌(下巻31)ではこの十三重石塔はもと光明峯寺にあったとするが、他の地誌にはなく、疑問である。
 2013/07/11撮影:
  東福寺十三重石塔:重文、康永2年(1343)造立銘、初重軸部の梵字は金剛界4仏を刻む。高さ4.5m、花崗岩製。
   東福寺十三重石塔1     東福寺十三重石塔2     東福寺十三重石塔3     東福寺十三重石塔4
   東福寺十三重石塔5:基礎東面、殆ど判読不能であるが、左端に「康永二癸未仏生日・・・・・造立」とあると云う。
○「法性寺・光明峯寺(奥院)跡発掘調査概要」江谷寛・浪貝毅
   (「京都府埋蔵文化財論集 第6集」京都府埋蔵文化財調査研究センター、 2010 所収) より
調査地は「最勝金剛院付近概要図」(上掲)では「峯殿」、 「光明峯寺推定位置図」 (上掲)では「奥の院」と 記入されている地で、面積1800平方mほどの平坦地であり、標高92mほどの地である。
戦後暫くは畑となり、表面は削平されている。古瓦は全体に散布し、造り出しのある礎石4個が残る。
 調査地全景(南から)     奥院跡発掘調査平面図
南北2棟の建物が検出され、文献などとの照合で御影堂跡と草庵跡とほぼ確定される。
瓦などの出土遺物は平安末期-鎌倉期のものが出土する。
遺跡地東端には墳墓があり、それは径7mほどの円丘であり、上部は改葬などの掘り返しと思われる擂鉢状の窪みがあり、中央には3m×2mの石室が確認される。底には蔵骨器の破片が残っていた。
これは九条道家の墓(火葬墓)を収容した十三重石塔が構築された場所である可能性が高いと判断される。
 ※発掘された墳墓は道家の墳墓であり、ここには十三重石塔が建立された可能性が高いと云うも、ことはそんなに単純ではないと思われる。
この結論は文献史料と発掘事実から導かれたと云うも、文献資料からも以下のことが知られ、どれも検討を要する史料であり、軽々しく結論がでるものでもない。
即ち
・延応元年(1239)道家が病臥の折、諸僧が祈祷中比良明神が託宣して、道家が寺院を建立しまた十三重石塔を造立しようとしていることを称え、自分は眷属を率いて伽藍神にならんと僧政慶(証月上人)に告げたと云う。(「比良山霊詫記」、「聖一国師年譜」)
 ※上の「東福寺康永2年十三重石塔」の項を参照。
・建長2年(1250)の「九条道家初年惣処分状」(上に掲載)には光明峯寺の略縁起と堂塔の記載があり、堂塔の記載の中で、奥の院は東方6町ほどのところにあり、地形が高野山奥の院に似ているので、ここを選定し、道家の墓所に定めたと云う。
御影堂は高野山奥の院御廟を模し、弘法大師像を安置し、十三重塔は多武の十三重塔を模し、仏舎利32粒を宝瓶に入れて安置と云う。
・奥の院十三重塔は多武峰を模すと云うので木造であろうか。それとも十三重の形を模しただけで、木造ではなく、石造であろうか。
建長4年(1252)道家没す。そして遺命により光明峰寺(奥の院であろうか)に葬られる。(「聖一国師年譜」)
・文明12年(1180)の「桃花蘂葉」(一条兼良の作)には、十三重塔に道家の遺骨を納めていたが、寺は応仁の乱で全焼すると記す。
 ※しかし、十三重塔に道家の遺骨を納めるとは、御影堂下に収めるべしとの遺命に背く。遺命に背いて埋葬されたか、後に改葬されたのであろうか。
・寛文9年(1669)九条兼晴長子を東福寺に葬った時、毘沙門谷(光明峰寺)の光明峰寺殿廟を普門寺跡に改葬する。(「東福寺誌所両引檀歴代御廟記」)
・天和2年(1682)成立の「雍州府志」では、光明峯は道家を葬ったところで、墓上に毘沙門堂(または十三重塔)を建て云々とある。
以上であるが、道家廟所・その建物などは容易に断定できるものではない。
最後に、上述の「東福寺康永2年十三重石塔」が東福寺山内東(最勝金剛院跡)に厳然としてあり、 この十三重塔は元からここにあったのか、あるいは光明峯寺から遷されたのかその解明も容易ではない。

2015/12/27追加:
○「十三重木造塔婆の造立例」足立康(「足立康著作集 3 塔婆建築の研究」中央公論美術出版、1987) より
九条道家「惣処分」の光明峯寺の条に
 十三重塔一基
 奉安置仏舎利三十二粒、納宝瓶
別条には
 於十三重塔并護摩堂庵室等、所始修仏事、
とある。
十三重塔では仏事が修され石造ではなく木造であったと推察される。
さらに、十三重塔一基には次の注釈がある。
 模多武峰十三重塔
これによっても、光明峯寺十三重塔は木造であったと察し得るであろう。
但し、模したとする多武峰の十三重塔は現存の塔婆ではなく、承安3年(1173)焼失し、元暦2年(1185)落慶した塔婆ではある。
参考:
木造十三重塔が現存するのは多武峯妙薬寺の一基のみであるが、文献上 あるいは遺構の残る木造十三重塔は以下が知られる。
山城笠置寺南都興福寺四恩院鎌倉極楽寺山城高山寺・ 山城光明峯寺・大和長谷寺大和菩提山正暦寺備前八塔寺
--法性寺-----------------------------------------------------------------------

東寺/教王護国寺
○「よみがえる平安京」:
 東寺模型
 →山城教王護国寺
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」 より
 東寺模型2     東寺模型3     東寺出土平瓦:「左寺」とある。(京都市平安京創生館展示)
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 東寺模型4     東寺模型5
東寺境内出土瓦:京都市平安京創生館展示
 「左寺」銘軒平瓦     出土軒丸瓦

参考:
○羅生門跡
平安京の正門であり、朱雀大路の南端九条通に面して建っていた。重層、瓦葺き。
弘仁7年(817)大風で倒壊、再建されるも、天元3年(980)再び大風で倒壊、その後再建されることはなかった。
江戸期にはなお礎石が残っていたという。
付近の発掘調査では羅生門に関わる遺構は発見されていないという。
2019/10/23撮影:
 羅生門跡石碑
2019/10/26撮影
○矢取地蔵
 矢取地蔵堂内羅生門模型
 矢取地蔵尊

西寺(右寺/右大寺)
2003/8/18追加
○「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
醍醐寺縁起云、聖宝西寺の別当となり、始めて宝塔を造る、・・・
明恵上人行状云、建久年中文覚上人西寺の塔修理。
名月記云、建永2年(1207)久我の前桂川の西を経て、吉祥院の西を渡り、西寺の塔前に出・・・
百錬抄云、天福元年(1233)西寺の塔焼亡。
○「よみがえる平安京」:
 西寺模型
2018/12/17撮影:
○「平安京復元模型」 より
 西寺模型2     西寺出土軒丸瓦1:西寺の銘をあしらう。     西寺出土軒丸瓦2:何れも、京都市平安京創生館展示
2019/01/11撮影:
○「平安京復元模型」 より
 西寺模型3     西寺模型4
西寺跡出土瓦:京都市平安京創生館展示
 「西寺」銘平瓦
○2019/10/25朝日新聞記事:
「焼失の西寺 五重塔跡発見か」
西寺跡で五重塔跡の可能性の高い建物跡が発掘されるということに関連して、網伸也(近畿大教授)は「西寺の塔は東寺の五重塔と左右対称の位置にあると考えられ、塔跡の可能性が極めて高い。柱の位置も東寺の塔とほぼ重なり、同規模の塔だったと考えられる」という。
○2019/10/21「X」氏撮影画像:
 山城西寺推定塔跡01:中央の2つ及び向かって左の2つの壷地業が推定四天柱壷地業
 山城西寺推定塔跡02:中央の2つ及び下側の2つの壷地業が推定四天柱壷地業である。
 山城西寺推定塔跡03:壷地業底栗石か
2019/10/23撮影:
西寺跡:平安京遷都の後、延暦15年(796)頃から羅生門の西側に、東側の東寺と対称に造立された官寺である。
右寺・右大寺とも云われ、南大門・中門・金堂・講堂を中心にして五重塔・僧坊・食堂などが建立される。開創と王書は権操・守敏などが住する。
しかし東寺と違って早くから衰退し、正暦元年(990)年伽藍を焼失、天福元年(1233)には僅かに残っていた塔も焼失し、以降再建されることは無かったという。
現在、公園に残る土壇は、以前コンド山と云われ、松尾社の神事舞台であったが、これが西寺の講堂跡である。
土壇上には附近から出土した礎石3個が置かれる。
なお、現存する土壇は講堂土壇の上に更に盛土された土壇である。
 戦前のコンド山     山城西寺西寺跡石碑     山城西寺講堂跡土壇1     山城西寺講堂跡土壇2     西寺復元図
 西寺跡講堂土壇上礎石1    西寺跡講堂土壇上礎石2
 西寺跡講堂4区地覆座1     西寺跡講堂4区地覆座2     西寺跡講堂4区地覆座3     西寺跡講堂4区地覆座4
 西寺跡講堂4区地覆座5     西寺跡講堂4区地覆座6     西寺跡講堂4区地覆座7
 西寺跡講堂4区礎石1      西寺跡講堂4区礎石2
 西寺跡講堂5区基壇       西寺跡講堂5区礎石抜取穴
2023/01/21撮影:
 西寺講堂土壇
 西寺講堂土壇上礎石     西寺講堂土壇上礎石     西寺講堂土壇上礎石
2019/10/26現地説明会:
 推定塔跡と講堂跡が発掘され、現地説明会が実施される。
○「史跡西寺跡・唐橋遺跡 現地説明会資料」 より
 西寺跡調査位置図
◇37次調査(推定塔跡)
 塔跡と想定される地点で、大型の壷地業を12基確認する。壺地業とは礎石を置く所をピンポイントで地盤強化・改良を行う施行である。
壷地業は平面がほぼ円形で径約2m、深さ約0.5〜1.2mであり、底には人頭大の石を据え、粘質土と砂礫などを交互に突き固めたものである。
以上からこの地点には、東西3間、南北2間以上の総柱建物であったことが判明する。
地業の中央に礎石があったとすれば、東西約10.5m、南北約7m以上の規模となり、柱間は約3〜3.5m(約9〜12尺)となる。
また壷地業からは9世紀中から後半と思われる灰釉陶器や瓦片が出土し、壷地業は9世紀後半に着手されたものと思われる。
本地点は西寺堂塔が東寺と対称に設置されたとすれば、塔の総定地であり、さらに出土した建物規模は東寺五重塔と酷似し、かつ壷地業の施工時期が西寺塔の造営料が定められた元慶6年(882)に近いことから、塔跡である可能性が極めて高い。
しかし、残念ながら、心礎位置と想定される所に壷地業がなく、塔と断定はできない。宝蔵などの可能性が否定できないからである。
 調査区1略図と東寺五重塔平面図との重ね合わせ図
◇36次調査(講堂跡)
 コンド山:現在のコンド山は、西寺廃絶後の耕作地化にともない、周囲に散乱していた瓦片等を講堂基壇に積み上げ、現在の高さ(約3m)になったことが判明する。江戸期には現在の高さとほぼ同じになり、昭和12年唐橋西公園開園に合わせ、裾部に盛土して現在の姿になる。
 講堂跡:
基壇:4区にて正面階段及び基壇南縁、5区にて南縁及び東縁の凝灰岩延石抜取溝(巾約80cm)を確認する。
東縁は講堂中軸線より19.2mであることから、基壇東西巾は38.5m(129尺)となる。講堂基壇は版築で構築される。
基壇上面は叩き床の土間であるが、上面には焼土と焼き瓦が堆積することから、正暦元年(990)の西寺焼亡にて講堂は焼失したことが裏付けられる。昨年度の調査と合わせ、基壇高は1.5mとなる。
階段:4区にて正面階段の凝灰岩製延石抜取溝(幅80cm)を確認。階段巾は3間以上と思われる。階段の出は1.5m。
建物:4区にて出枘礎石1個(径1.2m柱座径1m)、礎石抜取穴(径1.5m)3基、5区にて礎石抜取穴1基を確認。4区の柱間中央が講堂中軸線であり、5区の礎石抜取穴が建物東南隅に当たることから、身舎桁行柱間15尺、庇の出13尺、基壇の出14尺の桁行5間の身舎に庇を廻らした5間四面(桁行7間梁間4間)の礎石建物に復元できる。
また側柱列には凝灰岩製の地覆座2列(幅82cm)及び礎石回りに唐居敷座の座(径1.2m)が残る。その上面の被熱痕跡から、唐居敷座(一辺約1m)と蹴放(巾27cm)の存在が推定できる。
 36次調査区平面図     講堂推定復元図     講堂復元平面図・壇上積基壇及び礎石据付模式図
2019/10/26撮影:
37次調査(推定塔跡)
 西寺推定塔跡11     西寺推定塔跡12     西寺推定塔跡13     西寺推定塔跡14     西寺推定塔跡15
 西寺推定塔跡16     西寺推定塔跡17     西寺推定塔跡18     西寺推定塔跡19     西寺推定塔跡20
 西寺推定塔跡21     西寺推定塔跡22     西寺推定塔跡発掘図
36次調査(講堂跡)
 西寺講堂4区概要1     西寺講堂4区概要2     西寺講堂4区概要3     西寺講堂4区概要4
 西寺講堂4区石階1     西寺講堂4区石階2
 講堂4区地覆座・礎石1    講堂4区地覆座・礎石2    講堂4区地覆座・礎石3    講堂4区地覆座・礎石4
 講堂4区地覆座・礎石5    講堂4区地覆座・礎石6
 西寺講堂4区基壇     西寺講堂4区礎石1     西寺講堂4区礎石2     西寺講堂4区礎石3     西寺講堂4区礎石4
 講堂4区礎石抜取穴1     講堂4区礎石抜取穴2     講堂4区礎石抜取穴3
 講堂4区唐居敷座
 西寺講堂5区概要1     西寺講堂5区概要2     西寺講堂5区基壇1     西寺講堂5区基壇2     西寺講堂5区基壇3
 講堂5区延石抜取穴     講堂5区軒廊基壇
鋳造関係遺構など
 西寺鋳造関係遺構1:向かって右の溝は西面築地内溝という。     西寺鋳造関係遺構2
出土瓦
 西寺跡出土軒丸瓦     西寺跡出土軒平瓦     西寺跡出土鬼瓦     西寺跡出土文字瓦1     西寺跡出土文字瓦2
 西寺跡出土文字瓦3     西寺跡出土文字瓦4     西寺跡出土塼


2028/05/28追加:
六孫王神社
祭神は源経基(経基王)、アマテラス、八幡大菩薩
経基は清和天皇第六皇子の貞純親王の子で、つまり天皇の孫であるから「六孫王」という。
社伝によれば、境内は源経基の邸宅「八条亭」の地である。応和元年(961)に経基が歿する。
応和3年(963)嫡子源満仲が現社地に経基の墓所を建立、墓前に社殿を造営する。本殿後方に残る石の基壇は、経基の廟であるという。
それ故、当地は清和源氏発祥の地として摂津源氏、多田源氏によって代々伝えられ、鎌倉期には源頼朝が領する。
鎌倉期には、源実朝の菩提のため、妻の本覚尼がこの地に大通寺(遍照心院)を建立、神社は鎮守とされる。
その後は荒廃するも、
元禄13年(1700)徳川氏が再興に着手し、権現号が授与され、六ノ宮権現とも称される。
宝永4年(1707)社殿が再興され、これが現在に伝わる。
当時は東は大宮、西は朱雀、南は八条、北は塩小路を限りとする広大な寺地であったという。
 往時の大通寺;都名所圖繪・大通寺
明治維新で徳川氏の庇護を失い、神仏分離で大通寺と分離される。
明治44年大通寺境内は鉄道用地とされ、東寺の南方に移転す、現存する。
昭和39年六孫王社の社地の一部が東海道新幹線用地となり、社地を減ずる。
なお、
明治7年大通寺仏殿は京洛寺町誓願寺本堂として移建されるという。
 ※明治初頭の誓願寺:本堂内掲示写真を撮影。旧大通寺本堂で、昭和7年焼失。 <上記誓願寺のページより>
 ※明治初頭写真の誓願寺本堂は重層入母屋造であり、上掲の都名所圖繪・大通寺の大通寺仏殿と酷似する。
しかし、惜しくもこの本堂は昭和7年焼失し、現存しない。
ただ、明治初頭という写真が残り、僅かにその姿を窺うことができる。
2023/01/21撮影:
 六孫王社景観     六孫王社唐門1     六孫王社唐門2     六孫王社拝殿
唐門、廻廊、拝殿、本殿は何れも元禄14年(1701)の再建、唐門前の池は龍神池である。

2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
極楽寺
今宝塔寺門前なり。
塔:或年代記応仁2年大風極楽寺十三重塔吹折、とある。
 ※藤原基経極楽寺の建立に着手するも、未完のうちに寛平3年(891)逝去、その子忠平がその意思を継いで造営する。

2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
嘉祥寺
仁明天皇のために、その子文徳天皇が創建。<嘉祥3年(850)仁明天皇が崩御、深草に葬られ、その追善のため嘉祥寺が造営(文徳天皇)された。>
三代実録云、元慶8年勅し、嘉祥寺五重塔造立。<元慶8年(884)「造五重塔料」が充てられる。(三代実録)>

深草貞観寺
摂政藤原良房は嘉祥寺に西院を建立(年代不詳)し、貞観4年(862)西院を独立させて貞観寺と改号。
貞観16年(874)「構毘盧遮那之宝塔、造尊勝如来之金像」。(三代実録)

--鳥羽殿-------------------------------------------
鳥羽離宮
白河天皇が応徳3年(1088)より造営を開始。南殿・北殿と東殿の三殿および田中殿(北殿の東)・馬場殿(南殿の東)の区画が形成される。
○鳥羽離宮図・安楽寿院図: 現地の鳥羽離宮鳥瞰図(杉山信三博士による)を撮影。
鳥羽離宮の東殿が安楽寿院で、向かって左(西)から白河法皇陵三重塔、鳥羽法皇陵三重塔(現在は法華堂)、近衛天皇陵多宝塔(現在は再建塔)が描かれる。
 鳥羽離宮復元図     東殿・泉殿部分図
○2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
 ◆洛南鳥羽殿概要図:明治28年陸地測量部地図に平安京条坊もしくは条理を推定復原し、その上に想定される遺構を示したものである。
2018/12/17撮影:
○「鳥羽離宮復元模型」 より
 東殿・泉殿復元模型1:南から俯瞰、中央付近は白河天皇陵三重塔、右端は鳥羽天皇本御塔(三重塔)
 東殿・泉殿復元模型2:南から俯瞰、中央やや左は鳥羽天皇本御塔(三重塔)、その右下は近衛天皇新御塔(多宝塔)
 東殿・泉殿復元模型3:東から俯瞰、手前左下から近衛天皇新御塔(多宝塔)、鳥羽天皇本御塔(三重塔)、白河天皇陵三重塔
 東殿・泉殿復元模型4:東から俯瞰、同上     白河天皇陵三重塔:北から俯瞰
2019/01/11撮影:
○「鳥羽離宮復元模型」 より
 鳥羽離宮復元模型5:東から俯瞰     東殿・泉殿復元模型6:北東から俯瞰
2023/03/25追加:
○「鳥羽離宮の歴史」長宗繁一(「院政期最大の遺跡 鳥羽離宮跡を歩く」京都渡来文化ネットワーク会議、京都三星出版、2017 所収)より
鳥羽離宮
 白河天皇は応徳3年/1086堀河天皇に譲位し、院政を開始する。以降白河院政47年、鳥羽院政27年の70年が鳥羽殿の最盛期であった。続く後白河上皇は院政の拠点を東山七條の法住寺殿に移し、鳥羽殿は衰退する。
鳥羽殿の構成は3つの区域からなる。西は院の諸庁舎、中央は御所と御堂、西は墓所となる。
 鳥羽殿概念図
御所は白河上皇によって南殿、北殿、馬場殿、泉殿、東殿が造営され、鳥羽上皇によっては田中殿、安楽寿院が造営される。
御堂は末法思想に依る造仏・造堂が行われる。即ち南殿の証金剛院、北殿の勝光明院、田中殿の金剛心院である。安楽寿院は九体阿弥陀堂と鳥羽・近衛天皇陵を合わせ持つ。
墓所
白河上皇は東殿・泉殿に3基の塔を造立し、その一基が今び白河天皇陵(三重塔)であるが、他の2基の場所は不明である。
次いで、鳥羽上皇は2基の塔を造営する。1基は今の鳥羽天皇陵(三重塔・今は法華堂)と近衛天皇陵(多宝塔・元々は鳥羽天皇皇后美福門院陵として造営)である。
これらの造営はまず墓所である御塔を造立し、その後に御堂を建立する手順で行われ、白河天皇陵には成菩提院、鳥羽天皇陵には安楽寿院が建立される。
2022/12/11撮影:京都市生涯学習総合センター[京都アスニー]展示・「鳥羽離宮復元模型」 より
 東殿・泉殿三塔婆11:南より撮影、向かって右から、近衛天皇陵多宝塔、鳥羽天皇陵三重塔、白河天皇陵三重塔
 東殿・泉殿三塔婆12:北より撮影、向かって右から、白河天皇陵三重塔、鳥羽天皇陵三重塔、近衛天皇陵多宝塔

証金剛院:鳥羽南殿
康和3年(1101)白河法皇による証金剛院供養。
勝光明院:鳥羽北殿
北殿には鳥羽上皇により、宇治平等院を模したという勝光明院が建立される。
現在、跡地は鴨川の流路変更により、鴨川が流れ、何も遺構は残らない。
成菩提院:鳥羽東殿
白河法皇は三重塔1基、多宝塔2基をこの鳥羽に造営する。
天仁2年(1109)東殿において、白河上皇は自らの没後の遺骨安置所として、三重塔が建立される。(本三重塔は藤原基隆の寄進)
実際に上皇崩御の後、遺骨はこの三重塔に埋葬される。
 白河上皇は死後三重塔に埋葬することを遺言。大治4年(1129)上皇崩御。
 天承元年(1131)方忌(かたいみ)の後、火葬されていた遺骨は香隆寺より移され、塔の下の石櫃(4尺四方)に副葬品とともに埋葬される。
 2003/8/19追加:「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
  続文粹・・・・塔婆3基を造る、その中三重塔1基、金文銅紙妙法蓮華経を安ず。
現在、白河天皇成菩提院陵が現在の安楽壽院(鳥羽天皇陵)西方数町に残るが、ここが三重塔跡なのであろうか。(不明)
 →成菩提院陵は「安楽寿院」中の成菩提院陵の項を参照
多宝塔については、天永2年(1111)および3年に各多宝塔1基づつ、都合2基が建立される。その建立位置は文献の記載から東殿と推測される。
 ※この多宝塔2基の詳細は不明。

安楽寿院:鳥羽東殿
○本御塔
保延3年(1137)東殿には鳥羽上皇による安楽寿院御堂の落慶法要が営まれる。
鳥羽上皇は保元元年(1156)崩御し、本御塔(三重塔)に葬られる。
本御塔(三重塔)は永仁4年(1296)および天文17年に焼失したと云う。
慶長17年仮堂となり、現在鳥羽天皇陵には元治元年(1864)再造営された方形堂1宇(法華堂)が残される。
 ※現存する法華堂基壇がこの三重塔の基壇なのであろうか。(不明)
 2003/8/19追加:「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
 安楽寿院記云、久安4年法皇宸筆の法華経石函に盛て、本御塔の刹柱の下に置く、今なお堂下にあり。(今塔無くて、本御塔と呼ぶ小堂を遺構とする)
○新御塔
美福門院は新御塔(御塔)を自身のために建立。しかし永暦元年(1160)没した美福門院は新御塔には葬られず、高野山伝法院に渡され、新御塔には長寛3年(1163)美福門院実子の近衛天皇の遺骨が納められたという。
この新御塔は慶長の大地震で倒壊し、現在は豊臣秀頼再建の多宝塔が現存する。
 → 詳細は 「安楽寿院」 を参照
 → 美福門院については、紀伊最上廃寺の項、紀伊高野山の六角(荒川)経蔵の項を参照

金剛心院:鳥羽田中殿
鳥羽上皇の御願により阿弥陀堂・釈迦堂などが造営される。

--以上 鳥羽殿-------------------------------------------

勧修寺
創建の経緯は必ずしも明確でない。
保延5年(1139)の勧修寺文書:本堂、御願堂、多宝塔、宮道氏建立堂、承俊律師建立堂、鐘楼などがあったと云う。
多宝塔:承平3年(933)以前、延長年間?に一重多宝塔(四面在層庇)建立、本尊は金剛界五仏。(勧修寺旧記)
天暦元年(947)落慶:六条斎宮柔子内親王の「願文」
「塔における両界曼荼羅空間の展開」より:
 天承元年(1131)勧修寺宝山院に三重塔建立。「勧修寺文書」:「三重塔一基 奉安置 三尺金色四方四仏各一体」

小野曼荼羅寺
正暦2年(991)仁海僧正(弘法大師第8世の法孫)が一条天皇より寺地を受け、開基する。牛皮山と号す。小野流大本山。
第5世増俊が塔頭随心院を建立。
寛喜元年(1229)第7世親巌の時、後堀河天皇より門跡の宣旨を受ける。
承久・応仁の乱で灰燼に帰す、慶長4年(1596)九条家から入山した第24世増孝が再興。
多宝塔(本尊:大日如来天)永元年(1110)造立:(東寺王代記、江都督納言願文集)

醍醐寺
醍醐雑事記:久寿2年(1155)には堂42宇、塔4基、鐘楼3宇、経蔵4宇、神社10社、高倉2宇、御倉町3所、湯屋3宇、僧房183宇など合計750余家があったという。
○2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
 下寺の院家には以下が知られる。西大門北に勧頂院(三宝院)、南に無量光院、西大門前参道南側の東から大智院、西方院、金剛王院、参道北側の東から湯屋、金剛輪院(湯屋・金剛輪院は現在は三宝院が占地)、成見院の院家がある。
さらに、無量寿院、勝倶胝院、蓮蔵院、中院、蓮華院、妙法院、密厳院、西大智院の院家も知られる。
その他には東安寺、深沙寺、菩提寺、多賀寺、勝願寺、岸寺、持法院、遍智院、西光院、大谷薬師堂、越智堂、櫻町内堂、櫻町十斉堂、千手堂、地蔵堂、冨杜堂、槻殿堂、大谷塔がある。
 上寺には延命院(聖宝住房)、円光院、一条院の院家がある。それ以外に上寺に属する堂舎として観音堂、念覚院、北尾塔、花台院、遍照院、斗賀尾新堂、慈心院塔が存在する。
○太平記には以下の記事があるも、醍醐寺七重塔については不詳。
 ○法勝寺塔炎上事:康永元年(1342)3月22日に、岡崎の在家より俄かに出火出で来て・・・わずかなる火屑・・・十町餘を飛び去て、
 法勝寺の塔の五重の上に落ち留まる・・・(その後塔、金堂、講堂、阿弥陀堂など灰燼に帰す)・・・
 暫しあれば華頂院の五重塔、醍醐寺の七重塔、同時に焼けたることこそ不思議なれ。・・・
→現存塔婆は明治以前の五重塔のページを参照
醍醐大智院:「平安時代仏教建築史の研究」
 寛治7年(1093)左大臣藤原俊房が越智の地に創建、康和4年(1102)無量光院西の池の下に移転。
 多宝塔:康和6年供養(醍醐雑事記)
醍醐越智堂:「平安時代仏教建築史の研究」
 丈六の九体阿弥陀仏を安置する九間四面堂、地蔵堂、釈迦堂、三重塔、経蔵、鐘楼、廊1宇からなる。
 天承2年(1132)越智九体阿弥陀堂供養、本願は藤原基隆。
 ○2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
 本願は藤原基隆であったので多くの堂塔を備えていた。
慈心院:「平安時代仏教建築史の研究」
 阿弥陀丈六堂(1間四面)、があった。阿弥陀堂は少納言藤原資隆・僧都覚敬(覚鏡)の結構になる。
 塔は両名の父藤原重兼の粟田邸より壊渡したものと云う。院の創建時期不詳。(覚敬の灌頂は永治元年1141)
 2008/03/04追加;「大仏再建」より
  慈心院塔は粟田口から移したもので、藤原重兼の墓の上に建てたもの。俊乗房重源の「作善集」に記載されている。
大蔵卿堂:「平安時代仏教建築史の研究」
丈六九体阿弥陀堂(八角2階)、三重塔があった。願主は大蔵卿源師行、院の創建時期不詳。(師行は承安2年1172没)
 2008/03/04追加;大蔵卿堂は現在では 「栢杜遺跡」として知られる。
 「醍醐雑事記 巻第5」(平安末):
 1.大蔵卿堂 八角二階
    九体丈六堂 三重塔一基 各檜皮葺
    本佛阿弥陀丈六像
  願主大蔵卿 正四位上源朝臣師行之建立也、敷地は三寶院領也、
北尾塔
「願主事、慶延記云、願主峯阿闍梨懐深・与王入道、檀越之間、勧進立之。
修理檀越事、同記云、今正三位藤原俊盛卿之室源氏、如新造、加修理、奉安置宝篋塔八万四千基也。
上葺始事、(北尾塔多宝、屋根檜皮葺)、同記云、保安4年六月九日、葺始也。」(醍醐寺新要録巻第5)
 遍照院
  「北尾塔者当堂之具足事、慶延記云、件堂本所北尾塔下也、彼塔則其堂具足之塔也、・・・
  花台院改号遍照院事、同記云、花台院破損之後、真海阿闍梨、如新造、加修理、可号遍照院也。
  寅云、北尾塔・花台院・遍照院一所号也、委見右記了。」(醍醐寺新要録巻第5)
大谷塔
「慶延記第4巻云、大谷塔(多宝檜皮葺)、本仏、願主筑後守藤原国兼建立也、供養導師三宝院権僧都正御房。
 寅云、塔婆依無其類、入加諸堂部了。
慶延記第7巻云、保安5年7月27日大谷塔供養。」(醍醐寺新要録巻第13)

慈徳寺
位置不詳。 ※崋山寺(山科区北花山河原町・元慶寺に北に接する)がその跡地とも云われる。
          →華山寺は「近世日蓮宗関東檀林・京都檀林」中の「京都小栗栖檀林(本経寺)」の項を参照
東三条院詮子の御願、金堂・講堂・塔を備えるとされるが、規模などは不詳。
「見慈徳寺塔作様、頗不似他塔、是山上惣持院体云々」(中右記)、長保元年(999)供養。
 ※東三条院詮子(藤原詮子、摂政関白・太政大臣藤原兼家次女、道隆・道兼・道長の兄弟、第64代円融天皇女御、第66代一条天皇生母)
○2013/02/19追加:「院家建築の研究」:
この寺は山科元慶寺の東にあり、遍照僧正の住坊を覚慶律師が伝領し、妙業房といっていたものであった。(「門葉記:)一条天皇の即位とともに妙業房を核にして慈徳寺が創建されたものと考えられる。
この慈徳寺の伽藍を整えたのは道長であった。(「御堂関白日記」)
供養は長保元年(999)であり、「中右記」には「東三条院供養慈徳寺、・・・・衣召移着仏前座、・・・則是御塔内、院御在所同在塔中、・・・・・」とあり、塔の存在が知れる。
この塔については、「中右記」永久2年(1114)の条で、日野に行った帰途、この塔を実見し、「晩頭帰洛之次、見慈徳寺塔作様、頗不似他塔、是山上惣持院体云々」とすると云う。
 ※この多宝塔が他の多宝塔は似ず、叡山東塔法華惣時院体ということは、慈徳寺「多宝塔」は天台大塔形式をあったことを示すものであろう。
  →詳細は初期多宝塔」のページを参照。
 ※遍照僧正は円仁・円珍に師事。花山の元慶寺を建立し、貞観11年(869)雲林院の別当を兼ねると云う。
  覚慶律師は叡山良源に師事。延長6年(928)-長和3年(1014)、長徳4年天台座主、長保2年大僧正に任ぜらると云う。
  以上の経歴から慈徳寺は天台系時院であり、この観点からも、天台大塔形式の塔の建立があっても不自然ではない。

京極堂:位置不詳
「平安時代仏教建築史の研究」:天永3年(1112)源雅俊、京極大路の東の京極堂の傍らに「塔婆」を建立する。(中右記)
 


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