報 恩 大 師 開 基 備 前 4 8 寺

報恩大師開基・備前四十八ヵ寺

基本は「備前国四拾八ケ寺領并分国中大社領目録(金山寺文書・文禄4年ー1595)」による

 1.金山観音寺
  (金山寺)
御野郡 金山寺は金山の山頂近くに位置し、塔婆は本堂背後の長い石段を 上った場所に独立して立つ。
三重塔は天明8年(1788)建立。一辺5.1m、高さ26.3m。
2001/12/30撮影:
 金山寺三重塔1     金山寺三重塔2     金山寺三重塔3     金山寺三重塔4
 金山寺三重塔5     金山寺三重塔6     金山寺三重塔7     金山寺三重塔8
 金山寺三重塔9     金山寺三重塔0
○1999-2002年に解体修復。ほとんどの部材に「番付」を発見。「上重 表 西角」「上六」などと取り付ける階や個所、順番が墨書されていたと云う。また二層の軒裏で棟札を発見。棟札には、棟梁は邑久郡宿毛村田淵繁枚(しげかず)と記載される。田淵家は備前・美作を中心に活躍し、金山寺の後、五流尊瀧院など三基の三重塔を連続して建築した。金山寺三重塔建設当鵜時は、繁枚の先代・勝繁からの代替わり期に当たると云う。なお今回の修復でかなりの部材が新材(古色塗装)と取り替えられたといい、新材が相当眼につく。また内部四天柱・須弥壇装飾も復元されたようである。
○2002/12/14撮影:解体修理中写真:塔婆は全部組み上がり、あとは足場を外すばかりのようである。
 金山寺三重塔11    金山寺三重塔12    金山寺三重塔13    金山寺三重塔14
 金山寺三重塔15     金山寺三重塔16     金山寺三重塔17     金山寺三重塔18
2013/06/23撮影:

金山寺三重塔21
金山寺三重塔22
金山寺三重塔23
金山寺三重塔24
金山寺三重塔25:左図拡大図
金山寺三重塔26
金山寺三重塔27
金山寺三重塔28
金山寺三重塔29
金山寺三重塔30
金山寺三重塔31
金山寺三重塔32
金山寺三重塔33
金山寺三重塔34
金山寺三重塔35
金山寺三重塔36

金山寺三重塔37
金山寺三重塔38
金山寺三重塔39
金山寺三重塔40
金山寺三重塔41
金山寺三重塔42
金山寺三重塔43
金山寺三重塔44
金山寺三重塔45
金山寺三重塔46
金山寺三重塔47
金山寺三重塔48

 金山寺三重塔内部1    金山寺三重塔内部2    金山寺三重塔内部3
 金山寺三重塔内部4    金山寺三重塔内部5
 塔内部には須彌壇があり、大日如来坐像を安置する。
「A」氏(岡山模型店DAN)ご提供・推定2010/04/14撮影
 金山寺三重塔相輪


○2012/12/26追加:
備前金山寺本堂が焼失する。各種の報道によれば、以下の状況であると云う。
2012年12月24日午後7時35分頃、備前金山寺本堂から出火。本堂(約165平方m、旧国宝・昭和25年重文指定)を全焼する。約2時間半後に鎮火。本堂では蝋燭は絶やさず灯す伝統であったと云う。
本堂全焼に伴い、本尊の観音像や、修復工事中の県文・護摩堂から本堂に移されていた同・木造阿弥陀如来坐像、不動明王像なども「焼失はほぼ間違いない」(同市教委文化財課)とみられる。
なお、毎年2月に開かれる宝木を奪い合う祭り「金山寺会陽」は600年以上続く伝統行事という。
※木造阿弥陀如来坐像は檜の寄木造で平安末期の作とされ、高さ85cm。衣紋が繊細に表現されている。本堂南の護摩堂に安置されていたが、護摩堂が昨秋から修復中のため、本堂に移されていたと云う。
 炎上する金山寺本堂1     炎上する金山寺本堂2     炎上する金山寺本堂3
 炎上する金山寺本堂4     炎上する金山寺本堂5     炎上する金山寺本堂6
 鎮火した金山寺本堂1     鎮火した金山寺本堂2     鎮火した金山寺本堂3
○金山寺諸写真:2012/12/26追加:
2002/12/14撮影画像: 備前金山寺本堂3     備前金山寺本堂4
諸本より転載
 金山寺全景1:「岡山を歩く」昭和54年 より
 金山寺全景2:「岡山の宗教」昭和48年 より
 金山寺全景3:「岡山の神社仏閣」昭和53年 より
 金山寺本堂1:「岡山の会陽」昭和60年 より、当寺の会陽は600数十年の歴史を持つといわれる。
 金山寺本堂2     金山寺本堂内部: 左の2点とも「岡山の建築」昭和42年 より
 金山寺本堂3:「岡山の神社仏閣」 より
 阿弥陀如来坐像1:「岡山の神社仏閣」 より
 阿弥陀如来坐像2:「岡山の仏たち」昭和40年 より
  ※金山寺の建築の詳細な解説は「岡山の建築」にあるので参照すべし。
サイト:「社寺建築逍遥」>金山寺 より転載
 金山寺本堂正面     金山寺本堂側面     金山寺本堂外陣     金山寺本堂外陣虹梁
 金山寺本堂内陣     金山寺本堂内陣装飾
ページ:http://www2a.biglobe.ne.jp/%257emarusan/phkanayamaderahondo1.html より転載
 金山寺本堂
○2013/06/23撮影:
 金山寺焼失本堂11     金山寺焼失本堂12     金山寺焼失本堂13     金山寺焼失本堂14
 金山寺焼失本堂15     金山寺焼失本堂16     金山寺焼失本堂17
 金山寺焼失本堂18:火災で花崗岩製の石階が破損する。礎石も同様の様相を呈する。
 金山寺焼失本堂19     金山寺焼失本堂20
○2014/02/08追加:「A」氏(岡山模型店DAN)ご提供:焼失前高精細本堂写真である。
2010/04/14撮影:

 金山寺2010年本堂1
 金山寺2010年本堂2
 金山寺2010年本堂3:上図拡大図
2010/04/20撮影;

 金山寺2010年本堂4
 金山寺2010年本堂5:上図拡大図

2013/07/03追加:
金山寺は銘金山観音寺遍照院と号する。
「金山観音寺縁起」(室町期成立)では天平勝宝元年(749)報恩大師の建立とする。
創建の地は裏山の三鈷峰で、本尊は報恩大師自作千手観音と云う。
延久元年(1069)焼失、康治元年(1142)現在地に遷る。
鎌倉期には将軍家御祈祷所となり、入宋僧栄西により護摩堂などが建立、法相より天台に改宗する。
室町期には将軍家御願所であった。
文亀元年(1501)金川城主松田将監は日蓮宗への改宗を迫るも、これを拒否、将監は焼払い灰燼に帰す。
伯耆大山寺法印円智(豪円僧正)が来山、天正3年(1575)本堂・護摩堂を再建する。この時に建造された本堂は国の重要文化財に指定されている。宇喜多氏の庇護下、備前国の寺社総管として優遇された。
寛永11年(1634)池田光政は金山寺の地位を備前・美作・備中東部の寺社総管から備前国天台宗総管に改めらる。なお仁王門は光政寄進である。
慶安4年(1648)家光は朱印186石を下し、幕末に至る。
近世には本坊遍照院、寿量院、善住院、龍珠院、安禅院、中正院、妙音院の坊があった。
平成24年(2012)12月24日本堂焼失(上述)。
2001/12/30撮影:
本堂(桁行5間、梁間6間、入母屋造り、本瓦葺き、桃山、重文)、仁王門、護摩堂、潅堂、客殿等を残すが現在は相当荒れている印象である。
 金山寺仁王門1    金山寺仁王門2
 金山寺本堂1      金山寺本堂2      荒廃した金山寺庫裏
2013/06/23撮影:
 備前金山寺伽藍1:仁王門、護摩堂、三重塔
 備前金山寺伽藍2:護摩堂向かって右は焼失本堂のブルーシート
 金山寺仁王門11     金山寺仁王門12     金山寺仁王門13
 金山寺仁王門14     金山寺仁王門15     金山寺仁王門16     金山寺仁王門扁額
  仁王門は正保2年(1445)池田光政の寄進により再興される。
 金山寺石階参道:近世には恐らく両脇には坊舎の幾つかがあったものと思われる。
 金山寺護摩堂1     金山寺護摩堂2     金山寺護摩堂3     金山寺護摩堂4
  護摩堂は天正3年(1575)の建立と伝えるも、円柱などの部材に当初材が見られる。
  移築された可能性が高く、江戸中期の改造され現状のようになったものであろうと推定される。
 金山寺本坊東脇門    金山寺本坊山門・土塀    金山寺本坊庫裏1    金山寺本坊庫裏2
 金山寺本坊玄関1     金山寺本坊玄関2      金山寺本坊玄関3
  なお、文化10年建立と云う客殿(入母屋造)は写真に写らないが玄関を入った奥にあると思われる。
 金山寺潅頂堂: 潅堂と推定、文化2年(1180)建立、7×9間、瓦葺四註造。
  この写真の手前は本堂に面する扉門であるが、本堂火災で焼失し炭化した材のみが残る。
 金山寺鎮守1:手前は拝殿跡      金山寺鎮守拝殿跡
 金山寺鎮守社1     金山寺鎮守社2     金山寺鎮守社3
  山王権現社と思われるも不詳。
 金山寺歴代墓所:推定      金山寺開山堂: 開山堂と推定
 金山寺豪円堂1          金山寺豪円堂2: 豪円堂と推定
 2.金光山岡山寺 御野郡 「備陽記」(「備陽国志」)「:報恩大師が天平勝宝元年、今の岡山城の二の郭の位置に建立。 天正年中、宇喜田直家の築城で城西に移転。直家の法名から光珍寺と改称。天正18年(1590宇喜多秀家の時、)山崎町に移転。慶長6年(1601)小早川秀秋 の時に、現位置に移転、岡山寺と改号する。
文禄4年には寺中光珍寺30石、円明院20石、月窓寺20石、観音堂30石、清鏡寺20石、宗(惣)福寺20石の合計140石。
慶安5年(1652)一山争論があり、金光山岡山寺と紫岡山光珍寺との2寺に分離する。
----2014/04/07追加:「岡山市史 第1巻」岡山市役所、昭和11年 より
 金光山岡山寺は40石、天台宗、本坊は観音坊、寺中は清鏡寺、徳元院、一乗院、本住院。
寛文年中遍照院訴状:9坊の内、光珍寺方4坊還俗、観音坊5坊は云々とある。
今次大戦で焼失。本住院、一乗院、徳元院は再建に至らず、寺中では清鏡寺のみ復興。
なお、岡山寺は岡山明神(酒折宮、岡山大明神、坂下大明神、下神社、下宮明神)の宮寺か。因みに酒折宮の社僧、平福院、実成院、福泉院の3寺あり、これら3寺は元岡山寺の寺中なり。「備陽国志」に「平福院、実成院、福泉院は酒折宮の社僧、天正年中酒折宮を今の地に遷すとき、3寺とも今の所に遷す。」とある。
 紫岡山岡山寺は50石、天台宗、本坊は光珍寺、寺中は円明院、月窓院。
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○月窓院(寺) :「備前国四拾八ケ寺領并分国中大社領目録」では岡山寺の寺中、宇喜多秀家から寺領20石を寄進されるとある。「吉備前鑑」では光珍寺の寺領50石の内10石を分与。「吉備温故秘録」巻之27の注記では「月窓円心の位牌あり」とする。江戸期には岡山寺仁王門西側に立地。文久年間、堂宇が大破・取壊され廃絶。
○円明院 :「備前国四拾八ケ寺領并分国中大社領目録」では岡山寺の寺中、宇喜多秀家から寺領20石を寄進されるとある。「吉備温故秘録」巻之27の注記では、「円明の位牌あり」とする。江戸期には月窓寺の北隣に立地。明治初年、堂宇が大破していたため取壊され、大正11年光珍寺に合併。
○清鏡寺:「備前国四拾八ケ寺領并分国中大社領目録」では岡山寺の寺中、寺領20石を寄進。「吉備前鑑」岡山寺の寺領40石の内10石を分与という。「吉備温故秘録」巻之27の注記では「直家の息女、清月明鏡の位牌あり」とする。江戸期には岡山寺仁王門東側に立地。本堂は梁行3間3尺、桁行3間。普賢堂(3尺6方6角)、観音堂(2間に3間)、鐘楼堂(1間半に4間)が存在、天保年間以降、堂宇は大破、明治維新前後には貸家となり、明治20年頃には取壊しとなる。その後、再興され、昭和20年戦災による被災、 戦後も同位置に再建。
○本住院:あるいは本珠院ともいう。初見は「備陽国誌」。古くは大蔵坊と称したとされ、江戸期には清鏡寺北隣に立地。寛政6年全焼。以降長く再建されることはなかったが、再興。昭和20年の空襲で全焼。
○一乗院:初見は「吉備前鑑」で、岡山寺の寺領40石の内10石を分与。古くは西之坊と称したとされ、江戸期には本住院北隣に立地。寛政6年の本住院出火により類焼、取壊。昭和8年岡山寺に合併。
○徳元院:あるいは賦元院ともされる。初見は「吉備前鑑」で、岡山寺の寺領40石の内10石を分与。古くは福蔵坊と称したとされ、江戸期には一条院隣に立地。本堂(梁行4間、桁行3間)。江戸後期には岡山寺の兼帯が続き、明治初年には貸家、明治20年頃に堂宇大破のため取壊し。昭和8年岡山寺に合併。
 岡山寺外観・・・市街地の中で境内も縮小され辛うじて寺院の外観を保つ。後方の九輪は光珍寺 。
 光珍寺外観・・・ビル建築に変貌する。屋上に九輪もどきを載せ寺院の印とする。
 光珍寺標識
 3.吉乗山石井寺
 【廃寺、現妙林寺という説もあるが、疑問】
御野郡 下伊福村にあったとされるも、詳細は不詳。現三門の津倉妙林寺ともいう(後身か?)。
 → 備前津倉妙林寺、但し妙林寺のサイトでは全く石井寺との関係について触れることはない。
備前三門吉祥山石井寺(寛文6年不受不施派弾圧に際して破却される)というWeb情報がある。
2013/04/08追加:
○「備前四十八ケ寺」平成16年:(吉乗山石井寺は廃寺、現妙林寺)
元は石井山吉祥寺と称し、御野郡万成村にあり、寺中に9坊を有していたが、後に御野郡伊福村三門(現在の国神社付近か?)へ移り吉乗山石井寺と称したと云う。
松田氏により日蓮宗に改宗、寛文6年(1666)池田氏の廃仏/不受不施弾圧で廃寺となる。
2014/04/07追加:
○「岡山市史 第1巻」岡山市役所、昭和11年に上記の2013年の追加記事内容と同一の記載がある。
2014/12/04追加:
 妙林寺の西に「國山」がありその山上に現在「國神社」がある。
しかし、延喜式内社の國神社は昔に廃絶し、江戸期には「國山」山上にある下伊福村の八幡宮の相殿に祀られていたという。もっとも「國神社」が國山山上の八幡宮に合祀されていたということも今となっては確認の術もないが、明治初年に八幡宮は「延喜式」「國神社」と改号され、おそらくは祭神などの取り替えなどが行われたものと推測される。国学や復古神道の常套手段である。
要するに、國神社とは近世末期及び近代初頭の復古神道の風潮や国学の台頭により、明治初頭に捏造された社であることに間違いはないと思われる。
 ※延宝3年(1675)「備前国々神社記」及び「備陽記」では三門に國神社が鎮座と記す。
 ところが、「備陽國記」「東備郡村記」や文化年中の「岡山藩領手鑑」では三門に社地のみが残ると記す。
 明治3年「岡山藩神社明細帳」では下伊福八幡宮の相殿に國神社を祀ると記す。
 要するに、江戸中期には國神社は廃絶し、明治初頭に八幡宮に寄生したということであろう。
さて以上は前置きであるが、石井寺に関しては、池田家文書のなかに「(伊福八幡宮は)慶長年中(1596-1615)に再建され。社領は2石6斗2升であり、このうち1石5斗7升2合を社僧石井寺に納めた、云々。」というような記述があるという。即ち、近世初頭には石井寺は「八幡宮」(現在の國神社)の社僧であったというから、「 國山」付近にあった可能性が高いと思われる。
 ところで、現在の津倉妙林寺の境内は吉乗山石井寺があった場所という言説がある。
 ※吉乗山石井寺(金川妙國寺末)は三門にあり、寛文6年(1666)廃寺となり、寺跡は元禄年中初頭(1688-)薬師院(城下磨屋町真言宗薬師院か)が購入し田畑に開墾するという。また本尊「釈迦多宝」は蓮昌寺の堂に入るという。(「撮要録」)
 ※大乗山妙林寺境内は狭小・・に付・・・今般、召上られ、御野郡伊福村寺屋敷三増倍七百八十三坪を替地として拝領という。(「岡山藩寺社奉行文書中の妙林寺関係文書」)蓋し、伊福村寺屋敷とは吉乗山石井寺跡であろう。
 以上の説に従えば、万成村にあった石井山吉祥寺はいつしか今の妙林寺のある場所に移転し、吉乗山石井寺と称したということであろう。そして戦国期松田氏により日蓮宗に改宗し、寛文6年池田氏の弾圧で廃寺となる。その後、岡山城下山崎町にあった妙林寺が貞享3年(1686)廃寺となった石井寺跡に移転したということであろう。
 以上であるとすれば、吉乗山石井寺と現妙林寺とは直接の繋がりはなく、廃石井寺の跡地に日蓮宗妙林寺が単に移転してきたということだけであろう。即ち、妙林寺は後身ということではなく、現妙林寺境内地はかっては吉乗山石井寺の建っていた場所ということだけであろう。
 4.瓶井山禅光寺 上道郡 多宝塔寛延4年(1751)建立(棟札)。一辺5.68m、高さ19m。(あるいは総高20mとも云う)本尊:金剛界大日如来座像。
修理棟札より右の修復が知られる:文化10年(1843)、明治15年、明治39年、大正15年、昭和36年。
現在解体修理中、平成22年完工予定。
多宝塔は岡山藩主池田綱政が後楽園の借景として建立と伝え、丘陵地(瓶井山)の山腹に建つ。
瓶井山禅光寺の現状は住宅地の中に2坊(安住院、普門院)のみを残す。
かっては十数坊がこの地を埋めていたと云う。 (尭王院、蓮華院、理澄院、法妙院、閑安院、歓喜院、万徳院、伝経院、金蔵院、妙寿院、安住院<現存>、中蔵院、普門院<現存>など)
天平勝宝年中(749-756)報恩大師開基とする。
延喜7年(907)醍醐寺聖宝、第一の中興をなす。応永2年(1395)讃岐與田寺増吽僧正、第ニの中興をなす。
2000/12/27撮影:
 禅光寺多宝塔01      禅光寺多宝塔02
2007/09/10追加:「岡山市写真帖」岡山市役所、大正15年 より
 備前禅光寺多宝塔
本堂:慶長6年(1601)新造(棟札)。当初建立場所は現在地の南方数十mと云う。(現在は古観音堂<小宇>が建立されている歴代墓所のある附近と云う。)寛政12年(1800)現在地 (寺中安住院)に移築。桁行6間、梁間5間、入母屋造、本瓦葺。
仁王門:康生2年(1456)建立(仁王堂造営奉加控帳)。延宝4年(1676)修理大改造(棟札)。
三間一戸の楼門、入母屋造、本瓦葺。
2008/02/01撮影:※多宝塔写真は解体修理中写真
 備前禅光寺多宝塔1    同        2    同        3    同        4
   同    仁王門1    同    仁王門2
   同 (安住院)本堂    同 (安住院)伽藍    同     普門院
2012/03/03撮影:
瓶井山禅光寺の現状の伽藍は以下の通り。
仁王門(赤門)、鐘楼門、本堂、多宝塔、薬師堂、大師堂、鎮守、本坊安住院、普門院。
平成22年12月多宝塔修理竣工し落慶。

備前禅光寺多宝塔11
備前禅光寺多宝塔12
備前禅光寺多宝塔13
備前禅光寺多宝塔14
        :左図拡大図
備前禅光寺多宝塔15
備前禅光寺多宝塔16
備前禅光寺多宝塔17
備前禅光寺多宝塔18
備前禅光寺多宝塔19
備前禅光寺多宝塔20
備前禅光寺多宝塔21
備前禅光寺多宝塔22
備前禅光寺多宝塔23
備前禅光寺多宝塔24
備前禅光寺多宝塔25
備前禅光寺多宝塔26
備前禅光寺多宝塔27
備前禅光寺多宝塔28
備前禅光寺多宝塔29
備前禅光寺多宝塔30
備前禅光寺多宝塔31
備前禅光寺多宝塔32
備前禅光寺多宝塔33

 備前禅光寺仁王門11     備前禅光寺仁王門12     備前禅光寺仁王門13
 備前禅光寺伽藍俯瞰      備前禅光寺伽藍
 備前禅光寺鐘楼門11      備前禅光寺鐘楼門12
 備前禅光寺本堂11      備前禅光寺本堂12      備前禅光寺本堂13
 禅光寺薬師堂・大師堂     備前禅光寺鎮守
 備前禅光寺安住院11     備前禅光寺安住院12     備前禅光寺普門院
 備前禅光寺寺中跡11     備前禅光寺寺中跡12:仁王門入ってすぐ左手にある。中蔵院跡か。
 備前禅光寺寺中跡13     備前禅光寺寺中跡14
2014/04/07追加:「岡山市史 第1巻」岡山市役所、昭和11年 より
 旧境内、南方山麓に清泉あり、傍らの小堂に八大竜王を祀る。瓶井の山号はこの清泉に因るなり。井は堯王院の南方3丁許の所にあり。
 古境内一山の堂塔跡は今古観音と呼ばれ堯王院の西南半丁許にあり。
明治維新に至り、寺領悉皆上地となりしを以って、維持の方法を失い、寺中堯王院、蓮華院、理證院、法明院、萬徳院、閑松院、歓喜院、明壽院の8ヶ院を廃止・合併し、今普賢院、中蔵院の2ヶ院を残すのみ。
本堂;5間5面、桁行7間梁間7間。慶長6年の再建。本堂再建棟札裏面には、實相坊、傳経院、圓城院、圓福坊、岩本坊、□□坊、奥泉坊、□□坊、圓蔵坊、圓城内忍誠房、奥泉内□□房、普門院、岩本内□識房、長昌坊、観音坊、智善坊の僧侶名がある。
仁王門:松、弁柄塗、八脚門・・・
塔頭子院:寛文5年には本坊安住院ほか中蔵院、明壽院、普門院、圓城院、傳経院、實相坊、華厳院、圓福院、利生院、明教坊、奥泉坊の11坊がある。
明治初年には10坊あり。
 瓶井山禅光寺略図
堯王院:明治6年廃毀。大師堂は本堂中門に北側に遷して現存す。
蓮華院:安政3年頃既に荒廃して畑となる。
理證院:明治6年廃毀。大師堂、金神祠、庫裡、台所、門などありき。
法明院:明治6年廃毀。
歓喜院:庫裡、台所、門ありしが廃す。
中蔵院:今薬師堂を存す、もと明壽院のを遷す。
萬徳院:荒廃して敷地は安住院に属す。
閑松院:庫裡、倉庫、門ありしが皆廃し、安住院に属す。
明壽院:山門に西側にして今俗家となる。
普門院:現存す。
薬師堂、鐘楼堂、仁王門、二重塔:当山には往古塔ありしが、何時の頃にや損しけるにや、再興あり。本堂は山の上にありしを、寛政12年安住院の南の明地へ下し建ける。
2017/01/04追加:
「備前の霊場めぐり」岡山文庫151 では以下の記事がある。
宝暦3年瓶井山理證院、弘法大師21ヶ寺所巡りを藩に願い出、許可される。
1番;瓶井山薬師堂、2番;瓶井山普門院、3番;瓶井山理證院、4番;瓶井山堯王院、5番;瓶井山明住院・・以下は瓶井山外となるので省略。
なおこれには異説があり、一説には1番;普門院、2番中蔵院、3番安住院・・以下は瓶井山外となるので省略・・ともいう。
現在は1番:普門院、2番;退転、3番;安住院本堂本尊、4番;安住院不動堂、5番;安住院薬師堂(堯王院より移築)、6番;安住院大師堂・・・という。
 ※以上によれば、安住院薬師堂は堯王院大師堂を移築というから、安住院大師堂・薬師堂写真(向かって右が薬師堂、左が大師堂)の向かって右の薬師堂は堯王院のもと大師堂遺構ということになる。
(但し「備前の霊場めぐり」では薬師堂が大師堂、大師堂や薬師堂と入れ替わって紹介されている。

 5.澤田山恩徳寺 上道郡 行基の創建で、報恩大師により48ヶ寺に加えられたという。 本尊は行基作薬師如(秘仏)。
寺中に西方(最法)院・池松院・多聞坊・薬師坊、北方山塊中に竪巌権現(竪巌宮、竪巌大明神、竪巌稲荷大権現)、医王院、光明院を有したという。
 ※丸山曹源禅寺の寺中 真言宗光明院は岡山高屋村にあった恩徳寺末寺光明寺が移転したもので、寛文6年に廃寺となり、この末寺が曹源寺に遷され、寺中になったものと思われる。従って、曹源禅寺寺中光明寺と恩徳寺寺中光明院とは無関係と思われる。
(江戸初期には、西方院・多聞坊・松之坊・松岳院・医王院の5院があった。)
寛文6年、寛文の廃仏で医王院は廃寺。
嘉永五年(1852)、仁王門を残し諸堂宇を焼失。現伽藍は明治10年の再建。 明治の神仏分離で堅巌宮を寺内に移転。明治4年多聞坊、薬師坊は廃寺。明治38年光明院は廃寺(?)、池松院を西方院に合併。
高野山真言宗。30石。
「備前記(元禄13年・1700)」:
 『沢田村 村中に真言宗 恩徳寺と云う寺あり。本尊薬師、・・・(寺中二軒 松之坊・多門坊) 村東に寄せ宮・春日大明神あり。』
「備陽記(享保6年・1721)」:『真言宗 「沢田山 恩徳寺・西方院」 沢田村之内にあり。本寺 「高野山随心院」 本尊 薬師 寺領高 七石 御免帳立 「寺中二軒 池松院・多門坊」』 (松之坊は池松院に改号か)
「吉備温故秘録(寛政11年・1799)」:『恩徳寺 真言に改宗・本尊も薬師に改む』と云う。
「古義真言宗 本末帳 第十二 備前国古義真言宗 本末帳」:『高野山随心院末 澤田山恩徳寺寺中西方院・寺中池松院・寺中多門坊』とある。
○2012/03/10撮影:
仁王門を除き現伽藍には古建築はない。明治4年に客殿・庫裏(西方院)再建、明治10年に本堂・大師堂・観禅堂など再建、本堂裏手の急石階上に堅巌最上稲荷がある。
 備前恩徳寺全景1:伽藍は東面する。仁王門左右に寺中が配置されていたものと推定される。
 備前恩徳寺全景2:仁王門・本堂と並ぶ、向かって左の小宇は大師堂、さらに東に西方院がある。
 備前恩徳寺仁王門1     備前恩徳寺仁王門2     備前恩徳寺仁王門3
 恩徳寺石階・本堂       備前恩徳寺本堂1       備前恩徳寺本堂2
 本堂天井方位盤:方位盤一辺は2mと云う。
 恩徳寺堅巌最上稲荷京都伏見稲荷本願所愛染寺より勧請と伝える。
 恩徳寺竪巌権現石階
 備前恩徳寺観禅堂:中央が観禅堂
 備前恩徳寺西方院
 恩徳寺推定坊舎跡:仁王門入って右手にある。石組は坊舎跡石組か、建物は民家で坊舎とは無関係。
○2012/04/03追加:サイト「澤田山恩徳寺西方院・精神医学」 より
 伏見稲荷愛染寺勧請証書     伏見稲荷愛染寺証文
慶応4年神仏判然令、伏見稲荷社中は愛染寺舜雄に社頭にある仏堂と愛染寺内の二堂を即時取払うように指示、3ヶ月後に取払い完了と云う。
愛染寺舜雄:安政6年(1859)愛染寺住持、慶応4年(1868)還俗、愛川民部と改名と云う。(「祠官補佐表・其四」)
○2014/03/24追加:
元禄元年(1688)恩徳寺北方山塊中に竪巖権現(竪巖宮、竪巖大明神)が勧請される。
 ※備州岡山片上町住の商人・久志屋吉太郎が勧請か?
明治初年の神仏分離の処置で竪巖権現は恩徳寺本堂裏に遷座する。本堂裏には扉があり、現竪巖権現を拝することができるという。
 通常、恩徳寺竪巖権現のような場合、神仏分離の処置の手法は、竪巖権現を恩徳寺より分離させ、荼枳尼天を廃毀し新たな祭神を捏造し、竪巖神社などと改号して、神社をでっち上げるのが常套手段であるが、竪巖権現の場合は、理由はよくわからないが、竪巖権現は絶対死守するという強い意志が寺院側にあり、古立石の社は破壊しても、竪巖権現は寺内に遷座して死守したということなのであろうか。
現地<未見>には、今なお、割られた扁額、鳥居の残骸、「奉」「献」の文字が彫られた石などが散乱するという。
 また、ここには不動明王磨崖仏がある。その前に不動堂(拝所)があり、拝所を通じて拝するようである。像高は約5m、巾約5mという。恩徳寺では幕末文化・文政頃の造作と伝えられるという。
・「A」氏(岡山模型店DAN)2014/03/11撮影/ご提供:
 古立石竪巌権現跡:中央石積基壇が社殿跡か、手前に棄損された石造物がある。奥に写る堂は不動堂でその背後に拝所があり、その背後の巌に不動明王が刻まれるのであろう。(未見につき推定)
 古立石竪巌権現社殿跡:推定      古立石不動明王磨崖仏1
・「A」氏2014/03/10撮影/ご提供:
 古立石不動明王磨崖仏2
 6.今谷山長楽寺 上道郡 近世には光明院、成就院、延命院、南光院の5ケ寺あり。明治維新の時王蔵院廃寺。明治5年成就院を光明院へ合併。明治6年光明院焼失、明治8年残った延明院、南光院も焼失。高野山真言宗。本尊阿弥陀如来。30石。 現在本堂、庫裡、客殿、仁王門(江戸中期)、茶室などを有する。
2013/04/08追加:
寛永19年(1642)銘の仁王門棟札には成就、延命、光明、玉蔵、南光、大智院の6坊の名がある。
寛文6年玉蔵院廃寺、明治維新のとき大智院廃寺、明治11年仁王門を残し、全山焼失。現在の建物は明治13年以降の再建である。本堂左手に入母屋造の護摩堂、宝形造の大師堂がある。
 7.岩間山西明寺
    (最明寺)
上道郡 古くは千号寺と称したという。建長年中(1249-56)北条時頼巡国の折、堂塔修復し、最明寺とする。寺中吉祥院、阿弥陀堂、鐘楼、権現堂などがあったとされる。高野山真言宗。30石。 寛文5年寺領として2石6斗寄付。
現在、本堂(宝暦11年再建)、鐘楼(安永年中再建)、庫裡(文久2年再建)、客殿(慶応3年再建)、護摩堂(明治11年建築)などを残す。
岡山市(西大寺) I 氏サイト:古寺巡礼→【古寺巡礼その23 (山本院・岡山市)】に現況の掲載がある。
2013/04/08追加:
「撮要録」では山本院、吉祥院、照蓮院、宝性院があったが、寛文6年照蓮院、宝性院が廃寺、吉祥院も後に廃寺、現在は山本院のみとなる。
2014/03/24追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2014/03/14撮影/ご提供:
 岩間山西明寺遠望     岩間山西明寺本堂
 8,築地山常楽寺 上道郡 盛時には20余の院坊があったと伝える。文化年中に大半の堂宇(本坊明静院、勧了院、池泉院、弥勒院、常楽院、光明房、善明院、中蔵院、円浄院、多聞院、薬師堂、如法経堂、鐘楼)を焼失。その後再建。明治16年再び大部を焼失。その後再建。寺中に池泉院が残ると思われる。 文化年中の火災を免れた仁王門を山麓に残す。天台宗。110石。
2013/04/08追加:
文化年中に本堂・三重塔その他を焼失する。明治16年再び火災焼失、本堂は明治33年再建。
近年まで池泉院と観了院が残るも、池泉院は廃寺、観了院は大正年中に寺籍を勝田郡に移し、現在は明静院のみとなる。
 9.湯迫山浄土寺 上道郡 かっては12院坊があったという。現在は持教院のみを残す。付近には「塔の坂」などの地名を残すと云うも詳細は不詳。江戸中期再建の本堂、客殿、庫裏、鐘楼、仁王門 、鎮守山王権現などを残す。天台宗。50石。
建久4年(1193)東大寺造営料として備前国が宛てがわれ、俊乗房重源が備前に設けたとされる大湯屋はこの地であったと推定される。
○2008/06/28撮影:
 備前浄土寺本堂1    備前浄土寺本堂2    備前浄土寺本堂3    備前浄土寺湯屋遺構
○2013/04/08追加:
境内から「浄土寺」と刻する軒平瓦や「東大寺」の刻印のある瓦が出土する。重源の建てた備前大湯屋跡の地と推定される。
○2014/03/27追加:「改修 赤磐郡誌」昭和15年 より
本堂の正面、丘の上を塔の坂という。ここに重層の大塔があったのであろう。
○「A」氏(岡山模型店DAN)2016/02/24撮影 :
 備前浄土寺境内風景1  備前浄土寺境内風景2  備前浄土寺境内風景3  備前浄土寺境内風景4
 備前浄土寺本堂4     備前浄土寺山王権現   備前浄土寺地蔵堂
 備前浄土寺寺門      備前浄土寺客殿
 浄土寺境内文英様石仏:湯屋遺構附近にあると思われる。
10.脇田山安養寺 上道郡 もともとは賞田堂屋敷(賞田廃寺・乗興寺)にあったが、火災により脇田山東谷 (古屋敷)に移転し、さらに脇田山山上へ移転したと云う。ここでも火災に遭い、宝暦年中(1751-64)具法法印が 現在地に移転・再興するという。
天台宗。50石。 現在近世・近代の本堂、庫裡、客殿、鐘楼などが残る。なお本堂前に旧地から移したという奈良後期の礎石8個が築山で保存される。
参照:安養寺の部屋270脇田山安養寺のページ   ※参考:賞田廃寺
2008/06/28撮影:
 脇田山安養寺本堂
安養寺本堂右に、大悲観音と彫られた自然石の碑がある、この台石のうち8個は賞田廃寺の礎石を移して、旧本堂に使用した礎石と伝える。現在8個の内、数個はおそらく賞田廃寺の復元基壇に戻されたものと推定され、レプリカで代替される。  伝賞田廃寺礎石:左は代替品
2013/04/08追加:
明治18年火災焼失、現本堂は昭和11年再建。
備前安養寺相輪橖
脇田山は天台宗、本堂右裏手にRC製のシェルタ様の構造物(観音堂・納骨堂)が作られ、その土盛の上に相輪橖が建立されている。
 脇田山安養寺相輪橖1    同         2    同         3
   同         4    同         5
観音堂は平成9年建立と思われる、従って相輪橖も平成9年建立と推定される、相輪橖の材質や高さは不詳。
11.広谷山如法寺 上道郡 神亀2年に大倫和尚が創建したとも云う。備前記:正覚院、勝摩院、威徳院、西方寺、鐘楼、鎮守若王寺など、文化年間の岡山藩領手鑑:寺中のほか薬師堂、大日鎮守神堂、鐘楼、仁王門があったとする。大正5年威徳院を合併。高野山真言宗。30石。
○芥子山中腹に位置し、現在は広谷無量寿院と通称?する。西大寺会陽に使用される宝木の原木を西大寺からの使者に授与する「宝木取り」という儀式が行われる。ただし、それは明治34年からで、明治33年までは西方院(現西方寺)が原木授受を行っていたと記録される。
なお、芥子山から南にやや離れて「松中山観音寺」がある。この観音寺は藤原皆足姫が観音堂を建てたと伝えるところで、この観音(千手観音)を安隆上人が現在の西大寺観音院に移したと伝承する。
2013/04/08追加:
「撮要録」では「無量寿院、西方寺、正覚院、威徳院、常勝寺、羯磨院の6院があったと云う。現在は無量寿院、西方寺のみが残る。
○2014/02/14追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2008/01/16撮影・ご提供:
 備前如法寺本堂
12.室山満願寺 上道郡 現地に鑑真開創、空海修営という慈眼院1坊(満願寺)が存続する。中世に転退し、近世小笠原長光が再興と伝える。文化年中の岡山藩領手鑑:寺中3院(安楽院、報恩院、慈眼院)観音堂、大師堂、鎮守、鐘楼、仁王門があったと云う。高野山真言宗。50石。
2010/03/29追加:
岡山市(西大寺) I 氏サイト:古寺巡礼→【古寺巡礼その39 (慈眼院・岡山市)】に現況の掲載がある。
2013/04/08追加:
寛文6年持宝院、東之坊が廃寺。
13.馬路山明王寺 上道郡 江戸期には毘沙門堂、観音堂、鐘楼、仁王門、地蔵堂、智明権現、山王宮などがあったと云う。天台宗。60石。
現在、本堂・観音堂・庫裏などの伽藍を残すと思われる。
○2010/03/29追加:
岡山市(西大寺) I 氏サイト:古寺巡礼→【古寺巡礼その27 (明王寺・岡山市)】に現況の掲載がある。
○2013/04/08追加:
盛時には8院14坊を擁すると伝える。天正年中兵火に罹って灰燼に帰すと云う。
その後再興されるも、院坊の多くは衰退し、今では付近に禅知院、円城坊、奥之坊などの荒廃した寺跡を留めるのみである。江戸中期の本堂、観音堂、客殿、庫裏などを残す。観音堂本尊聖観音立像は藤原初期。
○2014/02/08追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2008/04/15撮影/ご提供:
 馬路山明王寺本堂
14,塚原山西明寺
    (最明寺)
上道郡 現地に塚原山最明寺持香院が存続していると思われる。建長元年(1249)北条時頼が來山・中興とする。江戸期には持香院、一条院、宝香院の3坊、堂宇として薬師堂、阿弥陀堂、地蔵堂があったと云う。高野山真言宗。50石。
2010/03/27追加:岡山市(西大寺) I 氏より、以下のご指摘あり。
諸堂<と思われるが>は「昭和60年に火事で焼失したと、訪れた友人」の記載がある、と。
 ※現地は未訪問。従って、現状は未確認。確認するまで、上記を備忘として掲載する。
2010/03/29追加:
岡山市(西大寺) I 氏サイト:古寺巡礼→【古寺巡礼その77 (持香院 岡山市)】に現況の掲載がある。
昭和60年の火災に起因するのであろうか、ほぼ廃寺の状態と思われる。
2013/04/08追加:
昭和60年本堂・庫裏など全て焼失。東山上には大智明大権現が祀られ、昭和初期までは盛大に「権現祭」が行われたというも、今では社殿は腐朽寸前の状態と云う。
15.金陵山西大寺 上道郡 三重塔延宝6年(1678)建立。一辺3.9m、高さ20.9m。 基本的に和様で構成されるが、一部唐様に流れる部分もある。
2000/12/25撮影
 西大寺三重塔01     西大寺三重塔02     西大寺三重塔03
2001/12/29撮影
 西大寺三重塔08
     西大寺三重塔09
2010/10/29追加:
 備前西大寺三重塔11:新聞写真、昭和6年撮影
2012/04/08撮影:
 西大寺境内1     西大寺境内2     西大寺境内3     西大寺境内4

西大寺三重塔11
     :左図拡大図
西大寺三重塔12
西大寺三重塔13
西大寺三重塔14
西大寺三重塔15
西大寺三重塔16
西大寺三重塔17
西大寺三重塔18
西大寺三重塔19
西大寺三重塔20
西大寺三重塔細部1
西大寺三重塔細部2
西大寺三重塔細部3
西大寺三重塔初重11
西大寺三重塔初重12
西大寺三重塔初重13
西大寺三重塔初重14
西大寺三重塔初重15
西大寺三重塔初重16
西大寺三重塔初重17
西大寺三重塔初重18
西大寺三重塔初重19
西大寺三重塔初重20
西大寺三重塔本尊

○西大寺は天平勝宝3年周防国の藤原皆足媛の開基、もしくは報恩大師の開基とも云う。かっては広大な境内と伽藍を誇ったというも、現在は観音院のみを残す。
近世の建築であるが壮大な本堂等の多数の堂宇を有する。旧西大寺市は当寺の門前町として発達。修正会(会陽、かつては旧正月に行われた)で有名である。
讃岐金毘羅大権現(象頭山松尾寺)観音堂本尊十一面観音脇侍不動明王及び毘沙門天の二尊が当寺に現存する。その経緯は以下の通りである。
明治の神仏分離の狂気で松尾寺(金毘羅大権現)の多くの仏像が毀されるが、明治7年、松尾寺万福院宥明は故郷である津田村君津の角南助五郎宅へ、脇侍不動明王と毘沙門天の二尊を持ち帰る。その後、旧岡山藩主池田章政が、祈願寺である円務院(下出石村)に移安する。 その後池田氏は東京へ移住するが、明治15年、西大寺光阿上人が西大寺に再度移安、金毘羅大権現本地として、西大寺鎮守牛玉所(ごうしょ)大権現とともに、牛玉所殿に合祀する。
抑金毘羅権現は松尾寺の鎮守であり、牛玉所権現は西大寺の鎮守である。
2012/05/14追加:「岡山文庫118 岡山の会陽」三浦叶、日本文教出版、昭和60年 より
 金毘羅大権現遺仏:不動明王及び毘沙門天像
2001/12/29撮影:備前西大寺本堂    備前西大寺境内
2007/09/10追加:「岡山後楽園・備作名勝写真案内」北村長太郎編、岡山:細謹舎,明35年 より
 西大寺観音院本堂:左は三重塔
2012/04/08撮影:
 西大寺仁王門1   西大寺仁王門2   西大寺仁王門3   西大寺仁王門4
  仁王門:元文5年(1740)建立、明和7年(1770)修理銘。
 西大寺北の西門   西大寺南の西門
 西大寺石門1    西大寺石門2    西大寺石門3:石門:文政2年(1819)建立。初重は石造。
 西大寺本堂1    西大寺本堂2    西大寺本堂3    西大寺本堂4    西大寺本堂5
  本堂:文久3年(1863)建立。
 西大寺牛玉所殿拝殿   西大寺牛玉所殿本殿1   西大寺牛玉所殿本殿2
 西大寺牛玉所殿扁額:牛玉所殿:明治13年建立。拝殿・釣屋・本殿・楼閣から成る。
 西大寺高祖堂1   西大寺高祖堂2   西大寺高祖堂3
  高祖堂(御影堂):延宝年中(1673-75)建立、安永9年(1780)改築。
 西大寺輪蔵:輪蔵:嘉永7年(1854)建立。
 西大寺千手堂     西大寺本坊鐘楼門     西大寺本坊客殿
2012/05/14追加:「Y」氏ご提供画像:絵葉書
 備前金陵山西大寺会陽之図:大正7年〜昭和7年のものと推定。(「Y」氏推定)
「岡山文庫118 岡山の会陽」三浦叶、日本文教出版、昭和60年 より
※ただし、以下の図版は少々写真の状態やスキャンの状態が悪いままである。
 絵馬「会陽の図」:本堂に掲額、大きさは2間×1間半、狩野永朝画、明治10年
 版画「西大寺会陽之図」3:明治16年
 版画「西大寺会陽之図」1:江戸期、石門がなく、文政2年以前のもの
 版画「西大寺会陽之図」2:江戸期、文政2年以降のもの
 版画「西大寺会陽之図」4
 版画「西大寺会陽之図」5: 上記2枚は何れも昭和4年の印刷発行とある、「Y」氏ご提供画像と同一のものと推定される。
江戸期には会陽の大観の版画が参詣人に土産として売られていた。文政2年以上前から昭和4年まで数種の版画が作成されると云う。
2012/05/06撮影:備前餘慶寺より撮影
 備前西大寺遠望1     備前西大寺遠望2
○「A」氏(岡山模型店DAN)2010/08/25撮影・ご提供:
 2014/02/14追加:備前西大寺境内    2014/03/02追加:備前西大寺境内2    備前西大寺仁王門5

16.大平山善興寺
 【廃寺】
邑久郡 大山(たいやま)村にあった。寛文6年(1666)光政の廃仏で廃寺。善明院、東門坊、長福寺、中之坊、不動寺があったと云う。
現在福田山円福寺(邑久町豆田)が法灯を継ぐと思われる。高野山真言宗。30石。邑久郡福田村。
2008/02/13追加:「邑久郡史 改訂 下」昭和29年より
始め鯛山寺と号す。先の中納言様(宇喜田秀家)代は30石、池田氏(輝政様、宰相様、少将様3代)は8石。
寛文7年まで寺数5軒。住持善明院・寺中東門坊・寺中長福寺は還俗、中之坊は他国、不動寺は死亡。豆田村円福寺は善明院弟子で末寺。
17.南谷山長楽寺
 【廃寺】
邑久郡 寛文6年(1666)廃寺。古寺跡5とあるから多少の院坊があったと推定される。真言宗。20石。 邑久郡南谷村。
2008/02/13追加:「邑久郡史 改訂 下」昭和29年より
中興坊、本坊、総持坊、今泉坊、医王院の諸坊あり。
南谷山長楽寺医王院、寛文6年落墜、同8年相果、寛文6年本坊立退、惣持坊同、金(まま)泉坊同、寛文9年中興坊立退、本堂1軒延宝3年(1675)焼失、阿弥陀堂・大師堂・鐘楼・鎮守三王寛文6年潰、高9石7斗3升。
2013/04/08追加:
寛文6年吉照院、医王院、中興坊、総持坊、今泉坊が廃寺となり、廃絶する。
18.真徳山明王寺
 【廃寺】
邑久郡 山手村にあった。寛文6年(1666)廃寺。20石。
2008/02/13追加:「邑久郡史 改訂 下」昭和29年より
真言宗高野山隋心院末。蓮祥院出寺、明松院出寺、寛文6年堂寺破却、本尊は大滝山法光寺に預け置く。後2間半に5間の寺取立。
2013/04/08追加:
寛文6年蓮詳院、明松院、妙成寺が廃寺となり廃絶する。
19.上寺山余慶寺 邑久郡 三重塔天保12年(1815)建立。 旧塔跡に再建と云う。近世風の典型を示す塔婆である。西幸西村、草井幸右衛門が私財を投じ再建と伝える。一辺3.4m、高さ30.6m。屋根本瓦葺。
棟札には大工宿毛村田淵市衛門繁数・田淵宇三郎勝孝の名が記されると云う。
本尊大日如来は盗難に遭うと云い、現在は新しく奉安されたと思われる大日如来尊がポツリと安置されている様子である。
2000/12/25撮影:
 余慶寺三重塔1     余慶寺三重塔2
2002/06/16撮影:
 余慶寺三重塔11    余慶寺三重塔12    余慶寺三重塔13    余慶寺三重塔14
 余慶寺三重塔15    余慶寺三重塔16    余慶寺三重塔17    余慶寺三重塔18
 余慶寺三重塔19    余慶寺三重塔20    余慶寺三重塔21    余慶寺三重塔22
 余慶寺三重塔本尊
○上寺山(地元では一般的には上寺と呼ぶ。)と号し、報恩大師開基(日輪寺と号す)と云う。
平安期には慈覚大師(本覚寺と号す)が中興し、古代末期には近衛天皇の勅願所(餘慶寺と号す)となる。
戦国期には赤松氏、宇喜田氏の保護を受け、近世には池田氏の保護を受ける。
江戸期前期に7院7坊、正徳4年(1714)に5院3坊があり、現在は寺坊6院(本乗院・明王院・定光院・円乗院・恵亮院・吉祥院)を有し、6院により護持される。
山門は失われるも、今なお一山多院制の中世寺院の姿を伝える。
吉井川河口東側の丘上にあり、西からは塔などの伽藍が遠望できる。
2000/12/25撮影:
 本   堂      塔   頭
2002/06/16撮影:
 境   内  図     境     内
2012/04/08撮影:
 備前余慶寺遠望1     備前余慶寺遠望2
 備前余慶寺遠望3    備前余慶寺遠望4     備前余慶寺遠望5
2012/05/14追加:
薬師堂左に八幡宮がある。社伝では舒明天皇6年(634)豊前宇佐宮より勧請、神社東の巖に藁を解き敷いて奉祀する。この故事から「ときわら」が荘名の「とよはら」に転化すると伝える。祭神は品陀和氣(応神天皇)、神功皇后、比淘蜷_と云う。近世は上八幡大菩薩・正八幡宮・豊原北嶋明神・北島明神などと称される。
寛文6年(1666)池田光政の神仏分離(岡山藩寛文の神仏分離)により、余慶寺本乗院良庸が還俗(還俗名:業合斉)し、八幡宮神職となり、代々相続する。その六代の八幡宮祠官業合大枝は本居宣長の門弟であり吉備津宮祠官である藤井高尚、後には平田篤胤の門人となる。要するに国学者・復古神道家であったのである。
本殿は大正9年の再建、平成14年本殿以外を焼失、平成18年に拝殿・幣殿・釣殿を再建する。
明治3年、おそらくは国学者・復古神道家の業合大枝の思想などが巣食い、八幡大菩薩号の停止などの布告に雀躍したのであろうか、八幡大菩薩号を捨て、豊原北嶋神社などと云う馬鹿な改号を行う。 そもそも、この社は寺院鎮守として八幡神が勧請されたというのが本来の姿と考えられるからである。
2012/05/06撮影:
餘慶寺三重塔;

餘慶寺三重塔31
餘慶寺三重塔32
餘慶寺三重塔33:左図拡大図
餘慶寺三重塔34
餘慶寺三重塔35
餘慶寺三重塔36
餘慶寺三重塔37
餘慶寺三重塔38
餘慶寺三重塔39
餘慶寺三重塔40
餘慶寺三重塔41
餘慶寺三重塔42
餘慶寺三重塔43
餘慶寺三重塔44
餘慶寺三重塔45
餘慶寺三重塔46
餘慶寺三重塔47
餘慶寺三重塔48
餘慶寺三重塔49
餘慶寺三重塔相輪

餘慶寺伽藍:
 餘慶寺伽藍図
  余慶寺空撮:2013/04/08追加:「吉備の国寺社巡り」山陽新聞社、2012 より
 餘慶寺旧参道:今は車道が設くが、これが南の旧参道であろう。鳥居を過ぎて随身門がある。
 餘慶寺随身門1
 餘慶寺随身門2:建築年代不明、仁王門(八脚門)を明治の神仏分離で随身門に改変した可能性もあるが、少々貧弱な建築であり、おそらくは明治以降のものであろう。餘慶寺山門(この地方の例に倣えば仁王門)がこの場所もしくは少し北にあったものと思われる。
 餘慶寺境内1;北方を望む。左築地は明王院、右築地は吉祥院
 餘慶寺境内2     餘慶寺境内3
本堂:重文、永禄13年(1570)の棟札があり、正徳4年(1714)の再建と云う。向拝は江戸後期の付加。
 餘慶寺本堂1   餘慶寺本堂2   餘慶寺本堂3   餘慶寺本堂4   餘慶寺本堂5
 餘慶寺本堂6   餘慶寺本堂7   餘慶寺本堂8   餘慶寺本堂9
薬師堂:古には下寺にあったという、享保19年(1734)再建棟札がある。5間×6間、入母屋造本瓦葺。
なお、2012/05/06薬師堂解体修理落慶法要が営まれる。背後には収蔵庫があり、木造薬師如来坐像(平安前期・重文)、木造聖観音立像(平安前期・重文)、木造十一面観音立像(平安後期)を安置する。
 餘慶寺薬師堂1    餘慶寺薬師堂2
 薬師堂内陣1      薬師堂内陣2     薬師堂内陣3
以下3点は2012/05/06附山陽新聞6面全面広告「薬師堂・餘慶寺会館完成」 より
 餘慶寺薬師堂3    薬師堂外陣    薬師如来坐像
鐘楼:嘉永3年(1850)再建、梵鐘銘には元亀2年(1571)豊後府中の惣道場(一向宗?)に寄進された鐘とある。宇喜田秀家の九州出陣で、宇喜田軍が持ち帰り、当寺に寄進したと伝える。
 餘慶寺鐘楼1     餘慶寺鐘楼2
 餘慶寺地藏堂:平成元年十王堂を再建し、十王と地蔵尊を祀り、地蔵堂とする。
 愛宕権現・山王権現:左が愛宕権現
法華経塔:宝暦10年(1760)建立、古絵図には現在の三重塔の位置に描かれる。三重塔は戦国期に焼失と伝え、塔が再建されたときに現在の位置(本乗院西)に移設されたものと思われる。
 餘慶寺法華塔
 牛頭天王:近年の簡素な建築であるが、今に祇園牛頭天王の名称で呼ぶのは一つの見識であろう。
 弁天社・弁天池    餘慶寺開山堂:近年八角堂に造替されると思われる。右は廻廊と云う。
 餘慶寺八幡拝殿    餘慶寺八幡本殿
 餘慶寺本乗院1     餘慶寺本乗院2:大正初期まで頂坊(本坊)の地位にあった。
 餘慶寺明王院1     餘慶寺明王院2     餘慶寺明王院3     餘慶寺明王院4
 餘慶寺吉祥院1     餘慶寺吉祥院2     餘慶寺吉祥院3
 餘慶寺塔頭1:右圓乗院、左明王院         餘慶寺塔頭2:左定光院
 餘慶寺圓乗院1     餘慶寺圓乗院2     餘慶寺圓乗院3
 餘慶寺定光院1     餘慶寺定光院2     餘慶寺定光院3     餘慶寺定光院4
 餘慶寺恵亮院1     餘慶寺恵亮院2     餘慶寺恵亮院3     餘慶寺恵亮院4
 業合大枝邸跡:本乗院北にある。寛文以降は神職屋敷であったのであろうが、元々は坊舎であったと思われる。この東及び北には坊舎跡と思われる区画が残る。

20.畑山大聖寺
 【廃寺】
邑久郡 江戸前期は堂7、坊舎16があったと云う。寛文6年(1666)廃仏により廃寺と云う。30石。 大詳寺とも旁る。
2008/02/13追加:「邑久郡史 改訂 下」昭和29年より
旧称今寺山。本堂5間四面、阿弥陀堂3間四面、薬師堂3間四面、十王堂、寂光堂、鎮守堂、鐘楼堂以上堂数7ツ先年16坊、今は6坊。(慶安元年の文書)
寺領14石3斗6升。頭坊岡之坊、寺中不動寺、西蔵坊、実壽坊、南之坊、東之坊
本寺真言宗高野山隋心院。泉良坊還俗、西蔵坊還俗、教権坊還俗、東之坊住僧出寺弟子還俗、宝壽坊還俗、南之坊出奔、寛文6年堂寺破却。後堂跡に2間半に5間半の寺取立。
2013/04/08追加:
邑久郡東須恵村。今寺山と号す。寛文6年泉良坊、西蔵坊、教権坊、宝寿坊などが廃寺、廃絶する。
21.大雄山
       大賀島寺
邑久郡 行基菩薩の開基と伝える。後に報恩大師によって備前48ヶ寺に内に加わる。
宇喜田氏の本貫地であったため宇喜田氏との関係(菩提寺)が深いと伝える。元亀元年(1570)焼亡。慶長元年(1596)円智僧正再興。元和5年(1619)には本坊等覚院、南陽坊、円蔵坊、浄教坊、明教(鏡)坊。寛文5年(1665)には本坊等覚院、円蔵坊、浄教坊、明教(鏡)坊、真如坊、不動坊、西之坊。正徳年中(1711-16)には13坊。現在は円蔵院、蓮池院の2坊。江戸期の本堂、薬師堂、荒神社、山王社、大智明大権現社、天神社、仁王門等が残る。天台宗。80石。
2013/04/08追加:
本堂は慶長17年(1612)再建、安永10年(1781)改築、山王堂は慶長17年再建、客殿は寛永2年(1625)建立と云う。大智明大権現の権現祭はこの地方最大の見世物であったと云う。
22.横尾山静円寺 邑久郡 多宝塔元禄3年(1690)建立。 一辺 3.3m、高さ12mの小型塔。
天文年間(1532-55)に上層が倒壊、下層も寛永16年(1639)破損、光明院の清養が長押から下を寛永年間にそれ以外を元禄3年(1690)に再興したと伝える。以前の写真では荒廃が目立つも、平成2年に大修理。南面する本堂等諸堂の東側にあり東面して立つ。
2001/12/29撮影:

静円寺多宝塔1
静円寺多宝塔2
静円寺多宝塔3:左図拡大図
静円寺多宝塔4
静円寺多宝塔5
静円寺多宝塔6
静円寺多宝塔7

伽藍は現在地の南西の山上にあり33坊が谷を埋めたとされる。元禄年中に今の地に伽藍は引きおろされ、本坊光明院、中道院、定光院、地蔵院、安楽院があったとする。現在は光明院・地蔵院・安楽院で維持される。高野山真言宗。50石。
2001/12/29撮影:
 主要伽藍     本堂1     本堂2     仁王門
本堂は天正7年(1579)建立。

23.庄田山朝日寺 邑久郡 養老2年(718)中国僧智蔵上人の開創とする。慶長年間1596〜1614)小早川秀秋により再興、本堂、護摩堂、辻堂及び龍王院、圓福院、圓蔵院、地蔵院、成就院、吉祥院、持明院の坊舎があったという。寛文6年(1666)池田氏による廃仏で、円林坊、地蔵院、円蔵院、円福院、吉祥院、龍生院、奥之坊が廃寺となり廃絶。円林坊などは還俗すると伝える。元禄8年(1695)再興 (龍王院)。高野山真言宗。50石。本尊薬師如来。
2013/04/08追加:
享保13年(1728)建立の客殿、寛延元年(1748)の本堂、寛延3年の鎮守堂、天明5年(1785)の鐘楼などがある。なおこの寺の大日如来像は寛文の廃寺の際、攝津西宮西広寺に寄託されたといい、近年この寺に帰ってきたと云う。
24.岡隆山薬王寺
 【廃寺】
邑久郡 行幸村福岡の地にあった。寛文年間(1661-73)廃寺と云う。高野山真言宗。15石。
2008/02/13追加:「邑久郡史 改訂 下」昭和29年より
高野山西南院末。寺中最城院還俗、成就院還俗、正徳元年(1711)寺屋敷に2間に4間半の寺建立。
寺中乾生院・西浄院・成就院。伽藍薬師堂、阿弥陀堂、十王堂、大師堂(今花光寺在)、観音堂(同上)、仁王堂(作州倉敷安養寺在)・・薬王院文書
2011/08/06追加:
廃寺の後(正徳元年か)、信徒の再興願いが叶えられ、二間に四間半の薬師堂が再建され、住僧一人を住まわせる。大正の末までこの状態であったと云う。現在は無住、薬師堂は大正15年改修と云う。
2013/04/08追加:
邑久郡福岡村にあって、山号は岡隆山、本尊薬師如来、真言宗。寛文6年最城院(西浄院)、成就院、見樹院が廃寺となり廃絶する。
「撮要録」(文政6年(1823))では「福岡村に薬王寺と云う廃寺はなし」といい、「福谷村薬王寺の下之坊、善福寺両寺の中にて、岡と谷との文字誤りか」と云う。
 ※但し、後段はどのように解釈せべきか意味が分からない。福谷村も邑久郡にあり。
2017/01/07追加:
○現地案内板では次のように云う。(全文)
「岡隆山(こうりゅうざん) 薬王寺跡
薬王寺は、奈良時代の報恩大師ゆかりの備前48ヶ寺の一つです。
平安、鎌倉、南北朝、室町時代にかけては、五反余の寺域に、三院(乾生院、西浄院、成就院)、六堂(薬師堂、大師堂、観音堂、仁王堂、阿弥陀堂、十王堂)が建ち並ぶ大寺院で、日常多数の参拝者でたいへんなにぎわいであったと伝えられています。
本尊は薬師如来です。
江戸時代に入り、寛文六年(1666)、藩主池田光政の寺院整理で、薬王寺も廃寺の憂き目にあい、本尊薬師如来は、小豆島の寺院へ、三院、六堂もそれぞれ他地域の寺院へ移され、北門鎮守の稲荷社、鬼門魔よけの地蔵堂の他の建物は、全部取り払い廃棄されました。
その後、信徒達の本尊取り戻し信仰したき旨の熱心なる願いが藩より許可されたので、二間に四間半の薬師堂を再建して本尊を迎え、僧一人を住まわせてこれを祭り、以来、地域の人々の熱心な信仰により、大正の終わりまでその状態が続いていました。
現在の堂宇は、大正十五年(1926)に改修されたもので、今は無住です。
邑久郡北巡り八十八ヶ所霊場の第二番札所にもなっています。
境内にある墓石は、信徒である東原一統の元祖東原左京之尉夫妻(道栄禅定門・妙栄禅定門尼)のものです。
昭和十六年十月  備前福岡史跡保存会」
○「撮要録」では:
「真言宗高野山西南院末薬王寺々中最城院住僧還俗四郎右衛門神職と成、寺株田地賜同人、
成就院住僧還俗半右衛門、寺株田地藪賜同人、本尊薬師小豆島池田村来光寺ニ預置申候、右堂屋敷ニ二間ニ四間半ノ寺ヲ建、坊主一人住居仕セ、右本尊取戻度願、正徳元年(正徳九年本尊奉迎)」
○「渡辺金右衛門記薬王寺文書」では:
「岡隆山薬王寺 、寺中乾生院・西浄院・成就院。伽藍薬師堂、阿弥陀堂、十王堂、大師堂(今花光寺在)、観音堂(同上)、仁王堂(作州倉敷安養寺在)、観音菩薩者開基行基菩薩之御作也、寛文之暦退転」
2017/01/01撮影:
 廃薬王寺跡     廃薬王寺薬師堂     廃薬王寺鬼門/地蔵堂
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「備陽国誌」(江戸中期)では真言宗朝尾山薬王寺(現岡山市矢井)を備前48ヶ寺の一とすると云う。
2017/01/04追加:
「岡山・備前地域の寺」岡山文庫195、平成10年 では「朝尾山薬王寺、岡山市東区矢井290、高野山真言宗、由緒 寺伝によれば、天平勝宝4年(752)報恩大師の創建、備前48ヶ寺の一なりという。」
 ※朝尾山薬王寺は吉井川右岸にあり、.岡隆山薬王寺は左岸にあり。
25.千手山弘法寺 邑久郡 多宝塔は昭和42年本堂・普賢堂・ 大師堂・鐘楼・坊舎等の主要伽藍とともに焼失。宝永8年(1711)の再建塔であった。主要伽藍は未だ再建に至らず。多宝塔は一辺 4.9m。本瓦葺き。木部は丹塗り。下層は四天柱を立て、内外陣を区別し内陣は唐様の須弥壇を置き、天井は折上格天井、外陣は格天井。五智如来を本尊とする。中心柱は珍しく床下礎石から立ち、 相輪に達しているとされる。
中世には30数院があったと伝える。現在は仁王門と本堂跡上段の常行堂・山王社と遍明院・東寿院の2坊を残す。善集院は火災で類焼と云うも住職は兼住。延寿院と称したようで、元禄年中根生院、竜樹院と合併する。
多宝塔跡は院坊(跡)を抜けた石段上の平地(千手山の上段)にある。現状は薮の中に本堂跡・塔婆跡の基壇を残す。本堂は東面し、塔婆は本堂北東にあり、南面する。
坊舎の高い石垣は組み直され、建物も立派に新築された(つつある)と推定されるも、主要伽藍跡は未だ再建に至らず。もっとも焼失後40年近くになるが、 主要伽藍のあった場所は定期的には薮の刈り込みは行われている模様で、林に帰るということは無いと思われる。高野山真言宗。
 詳細は:備前弘法寺多宝塔」(近世に喪失した塔婆)にある。
26.牛窓山観音院 邑久郡 経緯不明なるも、現在の海岸山妙福寺観音院(東寺)と室谷山金剛頂寺真光院(西寺)が法統を継ぐと云う。
東寺:寛文6年(1666)転退、五香宮の社地となる。元禄9年(1696)再興。
 ※妙福寺境内は現在狭く、門を入ると庫裏、玄関、書院、本堂が並ぶと云う。なお五香宮も妙福寺に隣接して存在する。
西寺:11坊舎あり。寛文年中還俗、元禄9年(1696)再興。大日如来坐像が現存し、この像は旧多宝塔の本尊と云う。いずれも高野山真言宗。30石。
 ※元禄9年高野山金剛頂院の栄鏡上人の仲介により、千手山竹本坊玄翁が入寺、中興第1世とするという。
2013/04/08追加:
○室谷山金剛頂寺
報恩大師創建。寛文6年(1666)岡山藩の廃仏によって、高藏坊、今泉坊、本覚坊、中之坊、南之坊が廃寺となり中絶するも、元禄9年(1696)再興される。現在本堂、鐘楼、客殿、庫裏などを残すが、元禄9年の再興にあたり、当時廃寺であった牛窓村大唐山台蔵寺法蔵坊、鹿忍村大船山宝光寺宝生坊、長浜村室谷山清運寺などの建物と移築したと伝える。
27.蕃山正楽寺 和気郡 嘉元2年(1304)信賢上人が現在地に再建。盛時には24坊を有する。天和元年(1681)焼失。岡山藩の廃仏に会う。近世初頭には千手院、東之坊、南之坊があったが、寛文6年(1666)の 廃仏で2坊は廃寺。現在は千手院1坊のみ。山門 (文化年中)、以下宝永年中建立の本堂、大師堂、客殿、庫裏等を残す。
高野山真言宗。15石。
「和気郡史 中巻2」:盛時には寺中24坊、中世末期には12坊(大坊<千手院>、中坊、南坊、東坊、森坊、宝蔵坊、松本坊、梅坊、西坊など)、寛文6年までは3坊がある。 山号は日光山。
○「A」氏(岡山模型店DAN)2008/04/22撮影/ご提供:
2014/02/08追加: 正楽寺本堂・大師堂:本堂は5×5間入母屋造、本瓦葺き。大師堂は方2間の宝形造、本瓦葺き。天和元年(1681)焼失し、宝永年中に再建と云う。
その他に山門(楼門、文化年中建立、仁王門)、客殿・庫裡(いずれも宝永年中建立)、鐘楼などがある。
2014/03/10追加: 正楽寺仁王門     正楽寺鐘楼
28.御瀧山真光寺 和気郡 三重塔現存。重文、塔は室町中期あるいは初期の建立とされ、慶長15年(1610)牛窓蓮華頂寺(廃寺)の塔を移築と伝える。塔は本堂の西の一段上の基壇に立つ。本尊:大日如来。一辺3.8m、総高18.24m。
2012/12/31追加:「和気郡史 通史編 中巻2」和気郡史編纂委員会/編纂、2002 より
慶長18年(1613)牛窓の蓮華頂寺から移築。室町後期の建築である。初重一辺は3.83m、二重一辺は3.10m、三重一辺は2.62m、総高18.24m。
初重内部にはニ本の来迎柱を立て仏壇を設け、蝋石製大日如来像を安置する。
2000/12/25撮影:備前真光寺三重塔1    備前真光寺三重塔2
2002/06/16撮影:
 真光寺三重塔11     真光寺三重塔12     真光寺三重塔13     真光寺三重塔14 
 真光寺三重塔15     真光寺三重塔16     真光寺三重塔17     真光寺三重塔18
 真光寺三重塔19     真光寺三重塔20
2013/04/21撮影:

真光寺三重塔31
     ;左図拡大図
真光寺三重塔32
真光寺三重塔33
真光寺三重塔34
真光寺三重塔35
真光寺三重塔36
真光寺三重塔37
真光寺三重塔38
真光寺三重塔39
真光寺三重塔40
真光寺三重塔41
真光寺三重塔42
真光寺三重塔43
真光寺三重塔44
真光寺三重塔45
真光寺三重塔46
真光寺三重塔47
真光寺三重塔48
真光寺三重塔49
真光寺三重塔50
真光寺三重塔51
真光寺三重塔52
真光寺三重塔53
真光寺三重塔54
真光寺三重塔55
真光寺三重塔56
真光寺三重塔57
真光寺三重塔58
真光寺三重塔相輪

真光寺は御瀧山(もとは小滝山)と号す。報恩大師開基とする。
本堂(重文)は応永年間再建の三間堂を、永正13年(1516)五間堂に拡張したとされる。
 2012/12/31追加:「和気郡史 通史編 中巻2」和気郡史編纂委員会/編纂、2002 より
 本堂:棟札には「小滝山真光寺本堂上棟 永正13年(1516) 大工藤原家次・・」とある。
 昭和37年の解体修理で寺伝で云う応永年中(1394-)の再建とは、応永年中の三間堂を永正13年に
 五間堂に大改修したと判明する。
 規模は5間×5間、内部に2間×3間の内陣を設ける。入母屋造、本瓦葺。
文化年間には平等院、華蔵院(現存)、成就院、西福院、松寿院、自性院(現存)、心王院などの存在が知られる。現在塔頭花蔵院、自性院の2院に減じ、境内をJR赤穂線と国道2号線で分断され、仁王門は 鉄路、国道の南方に取り残される。高野山真言宗。30石。
昭和30年代の国道2号線の新設工事では花蔵院境内を買収、花蔵院は現在地に移建する。
2000/12/25撮影: 備前真光寺本堂
2002/06/16撮影: 本堂
2013/04/21撮影:
 備前真光寺本堂11     備前真光寺本堂12     備前真光寺本堂13     備前真光寺本堂14
 備前真光寺本堂15     備前真光寺本堂16     備前真光寺本堂17
仁王門:文禄年中(1592〜1596)十萬屋良喜の寄進で建立、現在の仁王門は、花蔵院宥敞が一山七坊を率いて発願、万人講の奉賛によって宝永8年(1711)竣工と伝える。
三間一戸八脚楼門、入母屋造、屋根本瓦葺。
2002/06/16撮影: 仁王門 仁王門2
2013/04//21撮影:
 真光寺仁王門11     真光寺仁王門12     真光寺仁王門13     真光寺仁王門14
 真光寺仁王門15     真光寺仁王門16     真光寺仁王門17
 真光寺大師堂:大師堂の創建は慶長年中と云うも、現存建物が慶長年中のものかどうかは未確認。
 真光寺鐘楼1        真光寺鐘楼2
 真光寺花蔵院1      真光寺花蔵院2:正門     真光寺花蔵院3
 真光寺花蔵院4:手前は三重塔、鐘楼の屋根
 真光寺自性院1      真光寺自性院2       真光寺自性院3
 真光寺自性院4:左手前の宝珠は大師堂、その手前は本堂屋根

29.小幡山長法寺 和気郡 寺伝では鑑真開基、後鳥羽帝勅願所と云う。文禄4年(1595)宇喜田氏「寺社帳」には、本坊光明院、大乗院、東光院、西光院、谷之坊、中蔵院、北之坊、実相院、光明坊、泉蔵坊、宝蔵坊、宝泉坊の記載がある。高野山真言宗。30石。
2013/04/08追加:
寛文2年(1662)には光明、大乗、中蔵、慈心、法泉の5院となる。寛文6年法泉院廃寺。明治7年光明院1院となる。宝暦-明和年中建立の本堂、江戸中期の釈迦堂・大師堂、庫裏、昭和55年建立の鐘楼がある。
2013/04/21撮影:
本堂に接して本坊があるも、現在では付近に坊舎があったことを示す雰囲気は全く見られない。
本堂は異様に背が高く異形である。
大師堂は東側にRC造の基壇を設けてた上に曳屋され、移動して状態である。元地には礎石が全て残る。蓋し、この工事目的は皆目見当がつかない。
 小幡山長法寺     長法寺本堂1      長法寺本堂2     長法寺本堂3     長法寺本堂4
 長法寺釈迦堂     弘法大師堂礎石1    弘法大師堂礎石2    弘法大師堂1    弘法大師堂2
 長法寺本坊山門     長法寺本坊       長法寺鐘楼
30.大滝山福生寺 和気郡 (寺伝では鑑真の開基とも云う)。
観応年中足利尊氏が再興。応永年中足利義満が本堂を再興、33坊を数える。
康正年中の戦乱で塔婆・仁王門を除き焼失。
文化年間には本坊西明院、円蔵院、本命院、大聖院、西法院、円光院、吉祥院、宝光院、宝生院、中道院、実相院、福寿院、宝寿院の13坊があった。現在も多くの坊跡を見ることが出来る、
現在は福寿院、西法院、実相院の3坊のみとなる。
元は天台宗であったが、早い時期に真言宗に転宗。高野山真言宗。50石。

三重塔現存
塔は嘉吉元年(1441)足利義教の再興。
一辺 3.8m、総高19.72m。
昭和27年解体修理。

詳細は 備前大瀧山福生寺 のページを参照。

写真は2013/04/21撮影。

31.黒澤山満願寺
 【廃寺】
和気郡 15石。寛文年中の池田光政の廃仏に遭い、廃寺となる。寛文6年、松尾山松本寺理性院(南方にあると思われる)に合併。
「和気郡史 中巻2」:吉永町福満。盛時には12坊を有するが、寛文年中に廃寺。寺跡には本堂などの礎石を残す。 ※付近には「〜坊」という字名の段々になった畑などが残ると云う。
2012/12/30追加:寺域ははっきりと残ると云う。東光院、源珠院、普賢院、南ノ坊の地名が残る。廃寺の時、本尊と四天王像を真言宗松本寺に遷座と伝える。また旧域には山王権現社が残る。
 ※本尊千手観音の消息は不明、本尊ではなく地藏菩薩像が遷座というのが正しい。
2012/12/30追加:
○「吉永町史 通史編2」吉永町史刊行委員会/編、2006 より
現在も吉永町福満倉吉に寺跡を残す。寛文6年池田光政の廃仏で廃寺となる。この時は真言宗で普賢院、賢長院、常教院の3坊があり、普賢院は還俗、新庄釆女と名乗り、吉永中村の春日明神と八幡宮の神職となる。賢長院住職は退院し、いずこかへ去り、賢長院田地・山藪は新庄釆女が引継ぐ。常教院は還俗し、常教院は還俗し、庄兵衛と名乗り帰農する。常教院田地・山藪を引継ぐ。
萬願寺跡は、今も、よくその姿を現地に残す。
 黒沢山萬願寺遺跡図:大門・門畑の地名があり、旧参道の中道が一直線に伸び、その突き当たりの大きな田畑は堂屋敷と呼ばれ、本堂跡である。その背後には日吉山王権現が現存する。また参道東側には東光院、西には宝生坊、南之坊、西蔵坊の地名を残す。本堂裏手の新庄屋敷は祖先が普賢院の住僧であったから、普賢院跡であろう。廃萬願寺本堂はその後朽ちるに任されるが、貞享4 年(1678)頃取壊されると云う。
なお萬願寺本尊は千手観音であったが、その本尊を刻んだ版木が備前大滝山福生寺に現存する。この版木は本堂修造のために助力してくれた衆徒に配布する摺仏の版木であるが、裏面には墨書がある。年紀は天文12年(1543)、萬願寺関係者として、院主観音院、次いで西之坊、三は西光坊、行事坊は南之院、小行事は中道院、版木開主は西明坊、願主は金剛坊ならびに西蔵坊の名がある。
本尊千手観音の消息は不明であるが、本堂安置の地藏菩薩(先年の客殿焼失とともに焼失)と四天王像4躯(現存)は南方の松本寺に遷座すると云う。
2013/04/08追加:
寛文6年(1666)岡山藩の廃仏で、普賢院、賢長坊、常教坊が廃寺となり廃絶する。
32.照光山安養寺 和気郡 報恩大師の建立と伝え、龍王山の山上に創建される。
康保年中(964-968)に焼失し、天台僧信源上人(播磨書写山性空上人弟子) によって現在地に再興される。
2013/07/03追加:
宝治2年(1248)北条泰時の菩提のため、塔婆が建立され、田3町畠3町6反が寄進される(「預所沙弥某寄進状」)。鎌倉期には千手堂(観音堂)、山王七社、香堂(叡山根本中堂の真火を奉安)、南坊などが確認できる。
建治2年(1388)には50余坊とも35坊とも云う。
永正年中(1504-)に兵火に罹り、如法堂、山王権現、香堂と坊舎12坊のみになると伝える。
中世には僧兵も抱え相当な勢力を誇ったと推測される。天正18年(1589)には本坊延寿院、奥之坊、山本坊、西之坊、中谷坊、辻之坊、東の坊、地蔵坊、池之坊 、文槐坊、常住坊など10坊。文禄4年(1595)宇喜田氏「寺社帳」には11坊が記載される。明治初頭には延寿院、本智院、南光院、吉祥院の4坊、現在は延寿院1坊。現本堂は永正の火災を遁れた常行堂を充てる。天台宗。50石。
池田光政の時19石、以降幕末に至る。
鎮守山王権現社が残ると思われる。
詳しくは安養寺の部屋281照光山安養寺のページを参照 。
33.杉澤山長楽寺 和気郡 報恩大師の建立と伝える。かっては杉澤山山頂にあった。昭和12年現杉澤山から現在地に移転。旧境内山頂付近の大門に「貞治五(1366)年丙午二月□日」銘の五輪塔(県文)が残る。古は150石、32坊と云う。仁寿天安の頃(849〜857)兵火のため荒廃、康保年中(964〜967)信源上人により中興。
文治年中(1185-90)源頼朝再興・15坊と云う。弘治年中(1555-58)天神山城主浦上宗景の祈願所となるも戦乱で焼亡。文禄年中(1592〜1595)豪円が復興。本坊は円了院、寺中に利(理)性院があった。天台宗。20石。
昭和33年本堂炎上、現在は仁王門、十王堂、薬師堂を残すのみ。(本堂炎上や仁王門などの遺存は旧境内のことと思われるも、現地未見のため、詳細は不明)
2013/04/08追加:
昭和12年庫裏を焼失し、山上より現在地に移転する。本堂は昭和30年新築。
34.市倉山宝城寺
 【廃寺】
和気郡 江戸初期に廃寺と伝える。天台宗。15石。
2012/12/30追加:熊山天台の影響を受け、天台寺院として成立する。後世日蓮宗に改宗し、寛文年中に廃寺となる。なお寺域である市倉山からは平安期の布目瓦10数点が出土と云う。
2013/04/08追加:
和気郡木倉村にあって日蓮宗空城寺(ママ)と称する日蓮宗の寺であったが、寛文6年の池田光政の廃仏によって廃寺となる。
なお、上道郡門田村(岡山市御成町)に真言宗聖満山大福寺と称する寺院があり、寺伝では「天平勝宝年間備前四十八 カ寺の一として和気郡伊部に建立したるが寛永年間岡山に移せり、寺領三石」とあると云う。
しかし、和気郡伊部あるのは29.小幡山長法寺であり、この寺は今も現地に現存する。従って、この寺伝と云う48ヶ寺の一つとは不明である。市倉山に結びつける見解もあるようであるが、本当のところは分からない。
35.中津山願興寺 磐梨郡 法相宗、三論宗より天台宗に転宗。願興寺記<宝暦5年(1755)>:往古は三重塔(「塔の段」と称する屋敷跡があると云う)、毘沙門堂、坊舎15 (「中津山旧記」には大乗院、法性院、多宝坊、泉蔵坊、光明院、大円坊、常住坊、無動院、法動院、西明坊、中蔵坊、昷栄坊の12坊を記す)ありという。建長年中(1249-56)本尊盗難に遭う。明応元年(1492)兵火で焼亡。文禄、慶長頃豪円が修復。明暦元年(1655)炎上。寛文6年 (1666)廃寺となり、本尊盗難。寛文9年金山寺の抵抗により備前35、備中19ヶ寺の復興が許可され、大乗院と大円坊(後光明院)が復興した。 復興に当っては堂宇が失われていたので、元禄元年、金山寺役者修善坊常教院が「宗堂村廃妙泉寺の本堂を元恩寺へ、客殿・仁王を願興寺へ、梵鐘は金山寺へ貰い受けたい」と願い出、許可される。
延宝7年(1679)大風、本堂・仁王門とも倒壊。貞享4年(1687)盗難にあった本尊が岡山大雲寺に祀られていることがわかり、大雲寺より返還。本堂は享和2年(1802)の再建。天台宗。
○2014/03/27追加:「改修 赤磐郡誌」昭和15年 より
本堂(方33尺)は南面し、その右に山王権現がある、本堂右前が光明院跡、左前が現在の僧坊である。
中津の谷の奥の山の頂には塔ノ段と称する屋敷跡がある。
36.石生山元恩寺 磐梨郡 (岩生山)。現在地1,5Km西の榎谷に報恩大師によって創建され、康保元年(964)天台僧信源上人 (播磨書写山性空上人弟子)によって現在地に移転と云う。盛時には36院坊があったという。その後兵火に会い、寛文の寺院整理により中絶。寛文9年に再興。 なお復興に当っては堂宇が失われていたので、元禄元年に金山寺役者修善坊常教院が「宗堂村廃妙泉寺の本堂を元恩寺へ、客殿・仁王を願興寺へ、梵鐘は金山寺へ貰い受けたい」と願い出、許可される。
現在 本堂、仁王門、開山堂、山王社、鐘楼、本坊等を残し、宝積院、妙行院があると思われる。天台宗。20石。寛文年中遍照院訴状:一山4坊不残還俗。一説には三学院が現存し、かっては寺中妙行院、宝積院ありとも云う。 鎮守山王権現社が残ると思われる。
2010/03/29追加:
岡山市(西大寺) I 氏サイト:古寺巡礼→【古寺巡礼その38 (元恩寺・和気町)】に現況の掲載がある。
2013/04/08追加:
寛文6年(1666)岡山藩の廃仏により三学院、宝積坊、知乗坊が廃寺となり、中絶。寛文9年に再興される。
近年まで常明院、宝積院、妙行院があったが、現在は常明院一坊だけとなる。
本堂は安永7年(1778)再建、そのほか鐘楼、開山堂、仁王門、庫裏などがあり、後の山中に明王堂や宝積堂などが散在する。
○2014/03/27追加:「改修 赤磐郡誌」昭和15年 より
本堂(方5間)は南面、その西前には本坊、東前には妙行院、正面には単層仁王門、西後上に宝積院、東後に開山堂、後に山王権現、前に鐘楼等がある。昭和5年積宝堂(5.5間3間)が建立される。
坊跡:妙行院(本坊兼帯)、寶積院(本坊兼帯)、十善坊(古屋敷363、宅)、岡本坊)、塔ノ段(片山335、畑)
37.平満山石蓮寺
 【廃寺】
磐梨郡 石蓮寺山山上にあり、かっては20数坊を数えたと云う。寛文年中池田光政の廃仏で廃寺となる。今も山上には門前集落の一部が残ると云う。遺物として石造十三重塔(鎌倉中期・高さ6.5m)が塔隣坊といわれるところに時代を超えて立っていると 云う。その他、寺中の梅本坊、玉泉坊などの20ヶ所の坊舎跡、本堂礎石等も残ると云う。また本坊跡には日吉神社が残り、阿弥陀堂に寺宝の釈迦涅槃像が安置されていると云う。
2013/04/08追加:
真言宗の大寺であったが、寛文5年池田氏の廃仏で成就院、?泉坊、梅本坊が廃寺となり、いつしか廃寺となる。
付近の地名に20余の院坊の名前を残すと云う。
○2014/03/27追加:「改修 赤磐郡誌」昭和15年 より
石蓮寺山頂点に山王権現(日吉神社)がある。本殿の前が本堂のあった場所で、礎石2個を残す。この一隅に阿弥陀堂がある。その西側に上寺跡があり泉水・弁財天碑を残す。また石階の下の西側には仁王門の形見として地蔵堂(仁王堂)を残す。本堂東下には蓮華岩という大石があり、その前に大師堂を建つ(魂生坊)。
東の崎の突端には(塔隣坊)花崗岩製十三重塔がある。
坊跡:北ノ坊(字北ノ坊、畑)、中ノ坊(字中ノ坊、畑、井戸跡2ヶ所あり)、正王坊(字正王坊、池、正王坊大池)、大教坊(字大教坊、畑、村の前、南の出端)、松本坊(字松本坊、竹林、改修道路の上、窪地小池を残す)、實生坊(字實生坊、畑、大教坊の西下、松本坊の北上)、徳蔵坊(字徳蔵坊、宅、大教坊の北)、西光坊(字西光坊、開墾地、西谷の西上頂上で北側に塀の跡があった)、金蔵坊(字金蔵坊、山、松本坊より約100m上、西の窪より約200m下)、梅本坊(字梅本坊、山、南南西面した山、南端に井戸跡がある)、上寺跡(山、本堂の西)、魂生坊(字魂生坊、宅、徳蔵坊の上)、空ノ坊(字空ノ坊、畑、周囲に旧墓地あり)、多宝坊(字多宝坊、畑、石塔の南下)、玉泉坊(字玉泉坊、畑、多宝坊の南下、井戸あり)、塔泉坊(字塔泉坊、畑、玉泉坊の東隣)、阿弥陀坊(字阿弥陀坊、竹林、塔泉坊の東南下)、塔隣坊(字塔隣坊、畑、阿弥陀坊の東に廻った處)
38.石井原山
         千光寺
赤坂郡 三重塔明和2年(1765)建立。棟梁は邑久郡の尾形庄助と云う。寺は西北西に向き、塔は本堂の南西の本堂を見下ろす斜面に立つ。一辺3.5m、総高18.5m。
(現地の縁起では総高20.65m、一辺5.978mとするも、少なくとも一辺は過剰な数値であろう。)
平成11年大修理が竣工し、面目を一新する。スタイルは江戸期塔婆の典型であるが、装飾は少なく極めてシンプルな塔婆である。なお三重のみ扇垂木を用いる。(他は二重繁垂木)
本尊は大日如来。
2002/06/16撮影:
 備前千光寺三重塔01    備前千光寺三重塔02    備前千光寺三重塔03    備前千光寺三重塔04
 備前千光寺三重塔05    備前千光寺三重塔06    備前千光寺三重塔07    備前千光寺三重塔08
 備前千光寺三重塔09    備前千光寺三重塔10    備前千光寺三重塔11
石井原山と号する。報恩大師開基48ヶ寺の一とする。天台宗。40石。
往時は南の竜王山上に創建されるも天正18年(1590)沼田左衛門によって現在地に再興される。
元禄年中には金蔵院、西明院、玉泉院があった。享保20年(1735)火災にあい、本堂は延享元年(1744)に再興される。
寺域は広大であるが、現在は僅かに本堂、三重塔、仁王門(本堂下約500mの田圃の中に建つ・天明6年1786再建)、本坊(坊舎名不詳)、塔頭1、その他の小宇を有するのみである。
2002/06/16撮影:
 写真1は仁王門と三重塔(右手上方に三層目の屋根と相輪が見える)
 本  尊:三重塔本尊
 仁王門と三重塔      本  堂    諸  堂    仁王門
2011/07/31撮影:

備前千光寺三重塔31
備前千光寺三重塔32
備前千光寺三重塔33:左図拡大図
備前千光寺三重塔34
備前千光寺三重塔35
備前千光寺三重塔36
備前千光寺三重塔37
備前千光寺三重塔38
備前千光寺三重塔39
備前千光寺三重塔40
備前千光寺三重塔41
備前千光寺三重塔42
備前千光寺三重塔43
千光寺三重塔参道石階
備前千光寺三重塔相輪

元の相輪は鉄製であったが昭和56年の補修で、青銅製のものと取替えられる。
 ※鐘楼・2宇の堂が並ぶ壇に鉄製相輪の残欠と防錆合金製(2分割)相輪が放置される。鉄製相輪は昭和56まで塔上にあった相輪であろう。防錆合金製相輪の性格は不明であるが、推測するに当初合金製相輪を製作するも、色合など古塔に相応しくなく、再度青銅製で再製作し今ある塔上の相輪が上げられたのではないだろうか。
なお、相輪は無雑作に放置されているが、就中鉄製相輪については腐食防止の観点から、屋内に保存するなどの処置が取れないものなのであろうか。
 千光寺鉄製相輪1     千光寺鉄製相輪2     千光寺鉄製相輪3     千光寺鉄製相輪4
 千光寺合金製相輪1    千光寺合金製相輪2    千光寺合金製相輪3    千光寺合金製相輪4
 千光寺合金製相輪5    千光寺合金製相輪6
 備前千光寺仁王門1    備前千光寺仁王門2    備前千光寺仁王門3    備前千光寺仁王門4
 備前千光寺本坊山門    備前千光寺本坊      本坊から本堂下檀へ
 千光寺塔頭玉泉院(坊名の泉は推測)
 千光寺本堂下檀       千光寺鐘楼
 千光寺2宇の堂:堂名不詳 、内一宇は開山堂か、
          新築の一宇は近年入母屋造の堂から造替される。参考:諸  堂(上掲)
 備前千光寺本堂1     備前千光寺本堂2     備前千光寺本堂3     備前千光寺本堂4
○2014/03/27追加:「改修 赤磐郡誌」昭和15年 より
三重塔1辺は1.5間。
推定される坊舎:教王院(千手谷350、宅、元院主、現存)、玉泉院(千手谷383、畑)、西明院(千手谷418、畑、明治初年廃寺)、浄心院(千手谷420、畑、明治初年廃寺)、新寺(新寺西、竹林)、東ノ坊(東ノ坊、畑)、橋本坊(道々、宅地)

39.大松山妙光寺 赤坂郡 天平年中に鑑真によって創建され、報恩大師により48ヶ寺に加えられたという。永禄5年(1562)松田氏の法華宗転宗を拒んだため 焼払われ壊滅。現伽藍は江戸後期の再建と言われる。高野山真言宗。大松村にあったという5寺(真言宗・観音院、蓮上院、福寿院、不動院、普賢院)は当寺の坊舎であったと思われる。
2013/04/08追加:
当初は現在地の西の山上にあり、大松山松光院あるいは来迎寺と称するという。松田将監の焼き払いの後、現在地に再建され、元地の山上は堂屋敷あるいは踊の檀と呼ばれている。
昭和初期までは本堂の付近に蓮上院、谷を隔てた向いの丘の上に観音院があったが、昭和6年観音院を蓮上院に合併する。仁王門、本堂などを残す。
○2014/03/27追加:「改修 赤磐郡誌」昭和15年 より
坊跡;観音院(昭和6年廃寺、上に金毘羅宮を遺す)、不動院(寺坂1522、荒)、福寿院(寺坂1536、原野)、普賢院(金谷1494、山、本堂の南脇)、堂屋敷(堂山、山、山の頂)
40.金泉山正満寺 赤坂郡 天平宝字4年(760)報恩大師の開山という。
吉備温故秘録:妙覚院、東光坊、本明院、東明院、観照院。天明8年(1788)には無住、千光寺が住職を兼ねる。同年仁王門を残し全焼。東光院、観照院は無住。天台宗。10石。寛文年中遍照院訴状:正満寺4坊、内3坊還俗。
寛文年中 岡本坊住職は還俗、大屋村の氏宮の神職になる。天明8年門を残して全焼。天保9年「手鑑」では妙覚院、本明院(無住)、観照院(無住)の3院、寺領18石。昭和12年火災、同13年庫裏、同31年本堂再建。現在は妙覚院の1坊となる。
○2014/03/27追加:「改修 赤磐郡誌」昭和15年 より
本堂(21尺15尺)庫裡(藁葺平屋)が並び、本堂前に山王権現がある。
「手鑑」(文政9年):寺3軒、出家1人、妙覚院、無住本明院、無住観照院。
41.菖蒲谷山
         西光寺
赤坂郡 天平宝字4年(760)報恩大師の開山という。建久3年(192)持運上人によって再興。塔坂の東の山上に三重塔があったと伝える。江戸前期には本坊随縁院、安養院、真如院、地蔵院、本覚院があった。天保9年(1838)には随縁院と無住の安養院・地蔵院の3院になる。
庫裏(万治3年ー1660)、仁王門(天和3年ー1683)、本堂(安永3年ー1774)などがある。現在は随縁院1坊のみ。天台宗。20石。寛文年中遍照院訴状:菖蒲寺4坊、内1坊還俗。
2013/04/08追加:
現在、坂の下から旧参道に沿って「大門」の地名が残る。坂の東の山上には三重塔が建ち、安養院、真如院、地蔵院、本覚院、岩本坊、竹之坊などが山上まで立ち並んでいたと云う。
○2014/03/27追加:「改修 赤磐郡誌」昭和15年 より
坊跡;隋縁院(蓮池736、現存)、地蔵院(蓮池736、畑、寺の下)、安養院(蓮池734、山、東の東脇)、岩本坊(清水、山、向いの丘の上)備陽記には寺中2軒、真如院、本覚院とあるが、これは何かの誤りであろう。
42.沓石山高福寺 赤坂郡 報恩大師の建立と云う。建久年中(1190-99)全山焼亡。正治元年(1199)観運上人再興。備陽記:本尊大日、山王社、鐘楼堂、仁王門、本坊蓮華院、善行院、西明院、利生院とある、天台宗。20石。寛文年中遍照院訴状:沓石寺4坊、内2坊還俗。
現在本堂、鐘楼、山王社、牛頭天王、薬師堂、仁王門、観音堂(沓石1172)、西の谷には善行院(無住)がある。
2011/09/11追加:沓石山高福寺サイトより
「往古ハ即応院、西明院、善行院、経理院、新坊、岡之坊、西音坊、東泉坊、東福坊、松本坊等ノ寺中ニ末寺アリシモ今ハ其ノ敬地跡ニ古ヲ思ブノミ」とある。
○2014/03/27追加:「改修 赤磐郡誌」昭和15年 より
坊跡:即應院、善行院(無住・建物を残す)、西明院、経理院、松本坊
43.笠寺山浄土寺 赤坂郡 天平宝字4年(760)報恩大師の開山という。
本堂(文明12年<1480>の棟札、あるいは享和3年/1803造立とも云う)、仁王門(天保11年造営)が残る。鐘楼は昭和44年、浄客殿は昭和48年建立。
文禄4年(1595)の検地:勧持坊、北ノ坊、宝生坊、東福坊、南泉坊、南ノ坊があった。備前記:持教院、養性(善)院、慈善院、円光院と記す。天保9年慈善院、円光院は無住と化す。天台宗。19石。
かっては12の坊舎と四末寺を有する。四末寺:西軽部村西方寺、東軽部村本願寺、町苅田村東之坊、神田村金剛坊。文禄5年:宝生坊、北之坊、南之坊、観持坊、南泉坊など。「赤磐郡誌」には、持教院、円光院、観持坊、養善院の名がある。万延元年(1860)の絵図面には慈善院、養善院、円光院などの名がある。持教院は江戸期寺領、22石。現在は持教院1院で護持する。
○2014/03/27追加:「改修 赤磐郡誌」昭和15年 より
坊跡;持教院(長佐古、田)、圓光院(長佐古、原野)、勧持坊(風呂乢、畑)、養善院(風呂乢、宅、現在の庫裡の宅地)
44.幡降山極楽寺 赤坂郡 縁起では、天平宝字4年(760)報恩大師の開山という。当初は伊田村萱野にあったが、焼失、大治元年(1126)再建されたと伝える。永禄12年(1569)現在地に移転。
元和4年(1618)本堂以下全焼。元禄13年(1700)再建されるも、その後焼失。宝暦7年(1757)再建。 天保9年(1838)には普門院、光明院、泉蔵院、千手院がある。現在は普門院のみ。天台宗より転宗し現在は真言宗御室派。20石。 本堂、薬師堂、薬師門、庫裏、仁王門等がある。
2013/04/08追加:
近世には吉祥院、光明院、千手院、善真院、泉蔵院などがあったことが記録に残る。
○2014/03/27追加:「改修 赤磐郡誌」昭和15年 より
山の中腹に本堂(4間5間)、庫裡の前に薬師堂、山王社があり、仁王門(2.5間1.5間)もある。
坊跡:千手院(千手院996、上に位置)、光明院(堂東992、右横に位置)、泉蔵院(仁王門西1985+3、上西に位置)、善真寺(善真寺904-2、普門院の東下の谷)、堂屋敷(畫谷、位置は向、4畝許の平坦地)
45.上地山満楽寺 赤坂郡 上地山満楽寺(万楽寺)と号する。報恩大師開基と伝え、上地山の山上付近に創建されたとする。
寿永年間(1182-85)現在地へ移転したという。盛時は20数坊を数える。元禄年間(1688-)堂宇の修理。
東福坊、国蔵坊(円城坊)、明王院の3坊あり。文化年間には地蔵院、自性院、平等院、利益院あり。
西塔(多宝塔もしくは二重塔)は天正年中、東塔(五重塔)は文禄年中から取り壊し保存していたが、文化12年(1815)備前妙林寺に塔株を譲ったとされる。 (「同年・御内意窺」)
真言宗大覚寺派。10石。
なお妙林寺については現在のところ細目不詳。(妙林寺は下記のように判明)
2013/04/08追加:
かっての坊舎跡は殆ど桃畑となる。小型の本堂、大師堂、庫裏、仁王門などがある。
仁王門は享保年中(1716-)の建築。現在は地蔵院1坊のみと思われる。
○2014/03/27追加:「改修 赤磐郡誌」昭和15年 より
御内意窺:一、拙寺山内に西塔と唱、二重塔4間四面、屋根瓦葺御座候處、及破損候に付、天正年中取崩置有之之候、東塔と唱、五重の塔7間四面、屋根瓦葺御座候處、是又及破損候に付、文禄年中奉願取崩置有之之候。此度右塔株、御野郡津倉妙林寺より、所望候に付、山内且家中共及示談候處、承知の上譲り申度奉存候。両塔再建の儀は、迚も及力不申候儀に御座候に付、譲り申出、同寺再建の仕候へば、・・・・(以下略)
  文化12年12月11日   赤坂郡上地山地蔵院
 ※御野郡津倉妙林寺は日蓮宗で津倉に現存する大寺である。
              →西国諸国の諸寺中の津倉妙林寺の項参照 。
末寺跡;
堂屋敷(上地山山上、城山の横尾の谷の西北にある平地)、實仙坊(上地山979、畑)、平等院(上地山976、開墾地)、利益院(バセウ、山)
46.本宮山円城寺 津高郡 現在地6Km東北東の本宮山中腹に創建される。7堂伽藍と16院坊を有すると伝える。弘安5年(1282)焼失。翌6年蓮信が現在地に再建したと云う。天保4年(1833)門前町とともに焼失。その後再建。本坊観音院、杉本坊、福蔵坊があった。文化年間までに杉本坊は医王院、福蔵坊は地蔵院に改名し、明治維新に独立し現在も存続する。現伽藍として、本堂(明和2年再建)、阿弥陀堂、 提婆宮(鎮守社)、弁財天社、山門、鐘楼、護摩堂、本坊(庫裏)を有する、昭和34年宝篋印塔(延文2年)の基壇下から高さ8Cm内外の約4000体の土仏が発見されたと云う。天台宗。20石。寛文年中遍照院訴状:一山7坊還俗。
2010/03/29追加:
岡山市(西大寺) I 氏サイト:古寺巡礼→【古寺巡礼その46(医王院/吉備中央町)】に 寺中医王院の掲載がある。
2011/08/16追加:
以前は14の塔中を数えると云う。(東楽坊、中之坊、西蔵坊、実相坊、北之坊、畑之坊、鳴之坊、三教坊、明静坊、福蔵坊、松本坊、外二ケ坊)
ウォーキングマップなどによれば、以下の坊舎跡が知られる。
鳴の坊(現在はふるさと村駐車場)、東楽坊(現在は塚本内科医院)、北の坊(現在、宝篋印塔<県文・南北朝期>がある付近)、西蔵坊(現在、西の五輪塔がある付近)、中の坊(現在の金比羅堂付近)、畑の坊(現在の二番組集会所付近)
2014/03/24追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2012/04/17撮影/ご提供:
 円城寺遠景     円城寺本堂
47.菅野山
(大光山妙福寺)
(正保山幸福寺)
 【廃寺、
  現幸福寺】
津高郡 現在菅野に小湊誕生寺末の同名の寺院(正保山幸福寺)が存続する。松田氏により天台宗から転宗と伝える。
「備前四十八ケ寺」平成16年:大光山妙福寺は廃寺となり、現幸福寺と称する。
「日蓮宗寺院の調査報告:岡山県香雲寺・日応寺、山梨県立正寺など」:永禄2年(1559)金川城主松田氏により日蓮宗に改宗。
2013/04/08追加:
妙福寺:
菅野山と号し、津高郡菅野村西菅野にあり、後に大光山妙福寺と称する日蓮宗となる。
寛文5年(1666)岡山藩の廃仏によって、円立坊、正光坊、本乗坊、円行坊が廃寺となり廃絶する。
なお、「御津郡史」大正12年では菅野の日蓮宗正保山幸福寺を48ヶ寺の一つする。
2014/02/08追加:○「A」氏(岡山模型店DAN)ご提供:
 撮影日不詳:   幸福寺相輪付設建物1
 2008/02/12撮影:幸福寺相輪付設建物2     幸福寺の本堂か
 2014/02/04撮影:幸福寺相輪付設建物3     幸福寺相輪付設建物4     幸福寺伽藍
但し、幸福寺は未見のため、伽藍堂宇が良く分からず、正確を期すことができない。
2014/02/14追加:○「A」氏(岡山模型店DAN)ご提供:
 2014/02/04撮影:幸福寺相輪付設建物相輪
48.藤田山成就寺 津高郡 三重塔文化5年(1808)の再建塔。高さ19.7m、一辺 3.4m。屋根桟瓦葺き。
二層の軒のみ扇垂木を用いる。
2001/12/26撮影:

成就寺三重塔1
成就寺三重塔2
成就寺三重塔3
成就寺三重塔4:左図拡大図
成就寺三重塔5
成就寺三重塔6
成就寺三重塔7
成就寺三重塔8

寺伝では報恩大師開基備前48ヶ寺の最後の寺であるとする(故に成就寺と号する)。
領主松田左近将監の法華宗強制により、天台宗より改宗す。この折、大覚大僧正を請し開基(延文3年<1358>改宗)とす。
明和3年(1766)仁王門を残し全山焼失。
京洛妙覚寺末。
成就寺末として以下がある。
池本山孝徳寺(岡山市北区建部町品田)
法住山妙浄寺(岡山市北区建部町建部上)
2001/12/26撮影:
 成就寺伽藍    成就寺仁王門    成就寺三重塔    成就寺報恩大師碑    成就寺大覚大僧正碑
○「妙圀寺諸末寺宗旨改証文(妙覚寺文書)」寛文5年(1665):「成就院、寺中慈仙坊、大林坊、学乗坊、中之坊、末寺蓮乗院、正光院、涌円坊、本住坊」と云い、同6年に中之坊・慈仙坊・学乗坊の住僧還俗・廃寺と云う。
2013/04/08追加:
仁王門は江戸前期の建築と推定、本堂は明和4年(1767)の再建、鐘楼・庫裏も近世の建立。
平成22年仁王門は改築される。旧軌を踏襲した新築であり、修理というレベル以上の造作と思われるも不明。

石高は基本的に「備前国四拾八ケ寺領并分国中大社領目録」(金山寺文書・文禄4年ー1595)の石高を表示。
2013/04/08追加:の記事は「備前四十八ヵ寺」小出公大、昭和62年 より要約転載。

○報恩大師の出自:
大和説と備前説とがあり、はっきりとはしない。
大和金峯山で修行し、安禅寺多宝塔(明治の神仏分離で廃寺)創建の伝承も持つ。

○備前48寺以外の開基寺院
 備前宝光寺(牛窓)、備中日差山日差寺、備中福山寺、備中竜泉寺(龍泉寺)
 備中龍王山神宮寺(現在は日蓮宗最上稲荷山妙教寺となる。)
 勅命山日應寺(備前):養老2年(718)の創建といい、開基(中興)は報恩、48ケ寺建立にあたり、当山を根本道場とする。
        永禄2年(1559)金川城主松田氏により日蓮宗に改宗。
 瑞雲山香雲寺(備前):三論宗・天台宗を経て、大永7年(1527)日徳代金川城主松田氏により日蓮宗に改宗。
        (但し、香雲寺を報恩開基とする典拠は不明)
 「岡山の門」岡山文庫136、昭和63年 より
 医王山上願寺、天平勝宝年中報恩大師の創建という。
 その後慶長年中本堂再建、元禄年中足守藩守木下利当(としまさ)によって諸堂宇が再興される。

また大和小島寺に住したとも伝える。

◇2007/04/25追加:「岡山の宗教」より
備前津高郡波珂(今の芳賀・顕本寺)に生まれる、15歳で家を出て、応永山法華経寺(現日応寺)に入り、快賢芳賀坊と称する。
30歳で大和吉野山に入る。
天平勝宝4年(752)孝謙天皇の病気加持、平癒により、得度・報恩の名を賜る。
天平宝宇4年(760)大和小島寺に観音像・四天王像を安置。
延暦14年(795)寂す。墓所は備前千手永倉山(山頂に墓があると云う)とも小島寺とも云う。
 報恩大師坐像:備前金山寺蔵

2009/04/04追加:
※報恩大師の入寂地には諸説がある。
千手北方の永倉山(報恩山)も入寂地とされ、報恩大師供養塔があると云う。
 千手永倉山図;江戸期か、所在は不詳。左山上に報恩大師塚がある、右下の仁王門は弘法寺仁王門か。 :「千手山弘法寺踟供養」 より

2009/06/19追加:
◇「日蓮宗寺院の調査報告 : 岡山県香雲寺・日応寺、山梨県立正寺など」坂輪宣敬(「法華文化研究 29」、2003 所収) より
 (本論文の主題ではないが、報恩大師への論及があり、その部分を要約する。)
香雲寺は報恩大師の開山、瑞雲院日徳の開基、天文年中日徳代に領主松田氏により天台宗より法華宗に改宗と云う。
報恩大師に関する文献資料:
大和での記述と吉備での記述の2系統の文献がある。
大和での記述は
「本朝神仙伝」(12世紀初めの成立):報恩は大和子島寺に居て、昼は山城清水寺に飛ぶが如く往返し、不老不死の様相であったという。
「元亨釈書」(元亨2年・1322):報恩は15歳で出家、30歳で吉野山に入り修行、孝謙天皇、桓武天皇の病気を快癒させ
天平宝宇4年(760)大和子島に子島寺を建て、延暦14年(795)寂す。
「東国高僧伝」(貞享5年・1688)、「本朝高僧伝」(元禄15年・1702)、「子島山観覚寺縁起」などは「元亨釈書」の記述を踏襲する。
吉備での記述は
「金山寺文書」中に「金山寺は報恩大師の建立」との記事がある。(仁安3年・1168)
「金山観音寺縁起」(治承4年/1180の奥書)も同上。
報恩開基の48ケ寺の記事の初出は「備前国四拾八箇寺領并分国中大社領目録」(文禄4年/1596)である。

2012/12/30追加;
◇「吉永町史 通史編1」吉永町史刊行委員会/編、1990 より
備前芳賀に生まれ、15歳で出家し、備前日応寺に入り、三十歳で吉野山にこもり山林修行に入る。験力を身につけ、孝謙天皇・桓武天皇の病気を治癒し、報恩の名を与えられる。後年子島寺を建て、延暦14年(795)ここで入寂する。
(「元亨釈書」「吉野山報恩」「金山観音寺(備前金山寺)縁起」)
天和3年(1683)「金山寺縁起」では孝謙天皇病気快癒の後、備前に帰り、国中に千手観音を本尊とする48ヶ寺を建て、金山寺を総本寺とすると云う。
以上が通説といってよいが、これには多くの疑問がある。
1)報恩大師の生誕地について
報恩についての最も古い史料は康平7年(1064)頃の「清水寺縁起」、次いで承徳2年(1098)大江匡房「本朝神仙伝」、次いで永万元年(1165)「七大寺年表」、建保2年(1214)頃「僧綱補任抄出」である。ところが出生地について記してあるのは大和国とする「本朝神仙伝」のみであり、他は全く記載がない。最も詳しい伝記のある元亨2年(1322)「元亨釈書」にも出生地の言及はない。
つまり、報恩が備前の生まれということを証する古史料は全く無いのである。
即ち、報恩を備前の産とする根拠は史料上は全く無いのである。
2)備前48ヶ寺は報恩の開基というのは本当か。
まず弘安3年(1168)「金山寺住僧等解文并備前国目代外文」では金山寺は報恩の建立した観音霊場であると云う。
即ち、最初は金山寺が報恩の開基と云うことから始まる。
次いで治承4年(1180)<実際は戦国期の15世紀末期頃の成立>「金山観音寺縁起」では、初めて、報恩大師は「備前国津高郡駅郷波河村」生まれと云う。
即ち、報恩大師の死後700年ほどのちに報恩の備前生誕説が始めて現れる。
さらに、備前48ヶ寺が報恩の建立と云う所見は天和3年(1683)「金山寺縁起」<既出>であり、ここでは「(報恩は)国中に千手観音を本尊とする48ヶ寺を建て、金山寺を総本寺とする」と云う。
 要するに、報恩と備前とを結びつける古史料は全くないが、報恩を備前に結びつけたのはどうやら金山寺であったと推察される。
古代金山寺は法相宗であり、報恩弟子延鎮を開祖とする山城清水寺と交流があり、中世の金山寺の処世として、金山寺の開祖を報恩にしたのではないかと推測される。これは金山寺の権威付け 、新たな処世(生き残り術)であったのであろう。
その後、金山寺は栄西(吉備津神社神官の出)の来山を機に天台宗に改宗するが、宇喜田氏の保護(寺社総取締役に任命)により、天台宗寺院の頂点に立つこととなる。金山寺はその力を背景に配下寺院の中の有力な天台の寺院に「開基は報恩とし、本尊を千手観音とする」ように命じたのが報恩大師による備前48ヶ寺の発端であろうと推定される。
かくして、報恩の生誕地は備前であること、そして有力な天台寺院は報恩の開基であることが造られたのであろう。
これは所謂備前48ヶ寺のうち、今までの考古学的知見から創建が奈良期や平安初期に溯れる寺院は殆どない。また文献史料上から平安期に存在が確実視されるのはほんの数ヶ寺しかないということからも裏付けられる。
つまり、備前の48ヶ寺とは、「48=多数」の「寺=行場」という意味合いで、古代多くの行場・修行場が設けられ、それらが寺院に発展し、中世末期や近世初頭に「報恩大師開基48ヶ寺」として結実したと云うのが真相ではないであろうか。
 


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