★備中国分寺五重塔【重文】
弘化元年(1844)頃完成。総高34.3m。本瓦葺。心柱は初重から立つ。四天柱を内側に仏壇を作り、五智如来を安置。三重までの材は欅を用い、四・五重は松材を主として用いると云う。
<文政4年(1821)五重塔再建開始、天保6年(1835)上棟。弘化元年20年余りの歳月を経て完成と伝える。>
かって(数十年前)は、一般でも五重塔の途中まで、急階段で昇れたような記憶があるが、現在は望むべくもない。
元の塔は延元元年(1336)福山合戦で焼失。
享保2年(1717)清水・惣持院の増鉄和尚の尽力と領主蒔田氏の援助で廃寺同様の国分寺跡に現伽藍を再建。
なお東数百米先に備中国分尼寺跡があり、礎石がよく残る。
「岡山の建築」昭和42年 より
文政4年(1821)から天保8年(1837)の間に建立される。初重19尺6寸(5.94m)四方、五重13尺7寸(4.15m)四方、心礎の上端から相輪の上端まで126尺(38.18m)。心柱は床下の心礎から建つ。
2000/12/25撮影:
備中国分寺五重塔1 備中国分寺五重塔2 備中国分寺五重塔3
2001/12/30撮影:
備中国分寺五重塔00 備中国分寺五重塔01 備中国分寺五重塔02 備中国分寺五重塔03
備中国分寺五重塔04 備中国分寺五重塔05 備中国分寺五重塔06 備中国分寺五重塔07
備中国分寺五重塔08 備中国分寺五重塔09 備中国分寺本堂
2008/02/10追加:「月間 歴史と旅」昭和49年4月号、秋田書店 より
備中国分寺五重塔11
同 12
同 13
2008/02/10追加:「吉備路」吉備路観光連絡協議会パンフレット、2007.8 より
備中国分寺五重塔14
2008/02/10追加:「備中」岡山県備中県民局発行パンフレット、2007.7 より
備中国分寺五重塔15
同 16
2009/06/06追加:「五重塔はなぜ倒れないか」上田篤、新潮選書、1996 より
備中国分寺五重塔断面図
2010/11/01追加:「重要文化財備中国分寺五重塔保存修理工事報告書」平成6年 より
備中国分寺五重塔絵図:詳細不詳
備中国分寺五重塔竣工 五重塔竣工内部 五重塔立面図 五重塔初重平面図
2012/02/04撮影:薄暮・夜間
2012/02/05撮影:夜明
2012/02/05撮影:早朝
2012/02/18追加:
「平成15年古代吉備王国」岡山県総社市観光ガイド(パンフレット) より
備中国分寺五重塔74
2014/03/02追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2010/05/04撮影・ご提供:
備中国分寺五重塔75 備中国分寺五重塔76
2014/05/18撮影:
2022/05/05撮影: 本日は五重塔初重が開扉。
備中国分寺五重塔211 備中国分寺五重塔212 備中国分寺五重塔213 備中国分寺五重塔214
備中国分寺五重塔215 備中国分寺五重塔216 備中国分寺五重塔217 備中国分寺五重塔218
備中国分寺五重塔219 備中国分寺五重塔220:上図拡大図
備中国分寺五重塔221 備中国分寺五重塔222 備中国分寺五重塔223 備中国分寺五重塔224
備中国分寺五重塔225 備中国分寺五重塔226 備中国分寺五重塔227 備中国分寺五重塔228
備中国分寺五重塔229 備中国分寺五重塔230 備中国分寺五重塔231 備中国分寺五重塔232
備中国分寺五重塔233 備中国分寺五重塔234 備中国分寺五重塔235 備中国分寺五重塔236
備中国分寺五重塔237 備中国分寺五重塔238 備中国分寺五重塔239 備中国分寺五重塔240
備中国分寺五重塔241 備中国分寺五重塔242 備中国分寺五重塔243 備中国分寺五重塔244
備中国分寺五重塔245 備中国分寺五重塔246 備中国分寺五重塔247
備中国分寺五重塔248:上図拡大図
備中国分寺五重塔249 備中国分寺五重塔250 備中国分寺五重塔251 備中国分寺五重塔252
備中国分寺五重塔253 備中国分寺五重塔254 備中国分寺五重塔255 備中国分寺五重塔256
備中国分寺五重塔257 備中国分寺五重塔258 備中国分寺五重塔259 備中国分寺五重塔260
備中国分寺五重塔261 備中国分寺五重塔262 備中国分寺五重塔263 備中国分寺五重塔264
備中国分寺五重塔265 備中国分寺五重塔266 備中国分寺五重塔267
初重内部は心柱が通り、四天柱の間は須弥壇となり、金剛界四方仏の騎乗像を各面に安置する。
大日如来を中央芯柱とし、東から右回りに、阿閦如来(像に騎乗)、宝生如来(馬に騎乗)、阿弥陀如来(孔雀に騎乗)、不空成就如来(釈迦如来と同一視、鳳凰に騎乗)の四如来を配置し、金剛界の五智如来を構成する。
天井は格天井で、横山春篤(備前長船の住人)筆の天女や四季の草木が描かれる。 なお、横山春篤は→備前日應寺本堂天井画も描く。
備中国分寺五重塔268:上図拡大図
備中国分寺五重塔269 備中国分寺五重塔270 備中国分寺五重塔271 備中国分寺五重塔272
備中国分寺五重塔273 備中国分寺五重塔274 備中国分寺五重塔275
横山春篤筆天井画 備中国分寺五重塔276 備中国分寺五重塔277 備中国分寺五重塔278 備中国分寺五重塔279
備中国分寺五重塔280 備中国分寺五重塔281
備中国分寺五重塔床下:心柱は心礎から建つ、但し、写真で見る限り、心礎及び四天柱礎はRC造の台石上に建つ。
おそらく、再建塔婆の礎石が貧弱もしくは脆弱などの理由で、解体修理でRC造の礎石(台石)が使用されてのであろうか。
備中国分寺五重塔相輪
◆備中国分寺現伽藍
無印は2012/02/05撮影、◇印は2014/05/18撮影、□印は2022/05/05撮影:
備中国分寺伽藍 ◇備中国分寺遠望
備中国分寺山門 ◇備中国分寺山門2 ◇備中国分寺山門3
□備中国分寺山門4 □備中国分寺山門5
備中国分寺石碑:台石は礎石を転用か。
備中国分寺本堂1 備中国分寺本堂2
備中国分寺本堂内部
国分寺薬師如来:本堂安置
◇備中国分寺本堂3 ◇備中国分寺本堂4 □備中国分寺本堂5
国分寺玄関客殿:玄関向かって左が庫裏 備中国分寺客殿
◇備中国分寺客殿2 ◇備中国分寺客殿3
□備中国分寺勅使門・客殿 □備中国分寺玄関・客殿 □備中国分寺玄関・客殿2
□備中国分寺庫裏
備中国分寺大師堂 ◇備中国分寺大師堂2 □備中国分寺大師堂3 備中国分寺鐘楼 ◇備中国分寺鐘楼2 □備中国分寺鐘楼3 備中国分寺経蔵:一辺4.3m
◇備中国分寺経蔵2
備中国分寺聖天堂:本堂向かって左に附属する堂宇が聖天堂である。
その他に 表書院、長屋、土蔵、厨などを備える。
◇第三開基増鐵墓碑:江戸期に国分寺を再興したのが、蒔田氏と増鉄和尚であった。 →清水・惣持院
★備中国分寺跡現況
2015/09/07追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
「備中国分寺伽藍は延元元年(1336)福山合戦にあたり、足利直義の大軍殺到し兵火に罹りて烏有に帰す。
宝永7年(1710)賀陽郡清水日照山惣持院万勝寺の僧増鐵、其堂塔一切を挙げて之を国分寺の旧地に移転し日照山国分寺と改称する。」
「国分二寺は延元の兵火で僅かに断礎のみを留めしが、宝永7年の再興に方り礎石を転用セシために、旧規模を窺ふに由なし。
これに加え明治10年頃境内の池を拡張したる為にその付近における金堂(?)の礎石を移転し、又は破砕して池畔もしくは寺敷の石垣に使用せり。かくして史蹟は全滅の厄に遭へり。」
「礎石:現存するもの。金堂址に於いて原状のまま2個(図中4、5)住職の記憶によって復原せらるるもの4個(1、2、3、6)
中門址に於いて原状のまま1個。大門址に於いて原状のまま2個。
備中国分寺現存礎石分布図其1
金堂礎石: 備中国分寺金堂礎石図其2
現存及び記憶に存する6個の礎石を図に略説せん、(図其1)移動せるもの4。(1、2、3、6)
1は今移されて4の南方5の西隣にあり。2、3は共に移されて4に南隣記念碑の台石となれり。6も亦移されて宿の国道の側にある国分寺標柱の台石となれり。
而して原状のままなる4、5の2個は住職一観龍辨氏の記憶に依て其の原位置に復したる(図其2)ABCDの4個に依て図の如き配置に在しことは明確なり。
(中略)おそらくこの堂宇はその礎石配列及び中門址・南門址の位置関係から金堂址ならむことを思ふ。
中門址: 備中国分寺大門・中門礎石図其3
現在国分寺東側門柱よりさらに東方29尺の地点より南方96尺(16間)にして礎石1個あり。是中門の位置なり。
大門址(南門址):
中門の南方89尺(約15間)にして礎石1個あり。その南方13尺の点より東方8尺の所にも礎石あり。是れ大門址ならんかな。
・・この2個は移されて今溝手保太郎邸内に在り。
2009/09/29追加:
○「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
現寺の石垣塀の内部庭園で、5個の礎石を存し内2個は現位置を保つ。
門前の宿には国分の標石、大師の碑の台石はこの場所からの転用とされる。
中門址と考えられるところにも原位置と考えられる礎石がある。また大門址と伝える場所にも2個の礎石を存す。
※残存礎石の概要は以上であるが、本文には一切の説明がなく、つまり何の脈略も無く以下の塔址実測図及び心礎写真の掲載がある。従って、実測図・写真の詳細は全く不明
(所在場所など不明)。
備中国分寺塔址実測図 備中国分寺塔心礎
なお以下の主旨の文面があるが、典拠は亡失。
「建物跡ーここには四個の大きな掘立柱をすえるための穴と雄大な柱の根元の部分が残っており、また柱穴のまわりには、建物の重量にたえられるよう一層一層ていねいにつきかためた版築層も部分的に残っています。
この建物跡は塔跡という説もありますが、はっきりしたことはわかりません。」
○「吉備路」岡山文庫18、神野力、昭和42年
創建時の礎石は江戸期の再建などで、庭石・台石などに転用され、殆ど原位置を留めず、伽藍配置は明確ではないが、南大門礎石が2個、及び廻廊礎石1個が原位置を留める。
備中国分寺南大門礎石 備中国分寺廻廊礎石 備中国分寺踏石転用礎石:礎石を転用した前庭の踏石
備中国分寺俯瞰1
備中国分寺俯瞰2
○「吉備の古代寺院」2006年 より 2022/09/18追加:
備中国分寺跡遺構配置図:1/3000、塔址遺構については
現在も未発見のままである。(図中の太子堂は大師堂であろう)
(2012/02/18:「総社市史」に掲載の図に差替。黒丸印が遺存する礎石を示す。)
昭和46年の発掘調査で、南門・中門・築地などが検出される。
南門は正面66尺、側面43尺の基壇に、創建時は3×2間の、改修時は5(50尺)×2間(22尺)の建物が建つ。 原位置を保つ礎石3個を検出。
中門は5(52尺)×2間の規模を有する。原位置の礎石1個を検出。 築地は四周で検出され、その寺域は東西約163m、南北約176mである。
しかし、現国分寺の伽藍部分は未調査である。ただ、北からの丘陵が寺域北に張り出し、金堂・講堂が南北に並ぶのは無理があり、「遺構配置図」に示すように講堂の南西に金堂、南東に塔を置く法起寺式の伽藍配置ではなかっただろうか。
*無印は2012/02/05撮影、□印は2022/05/05撮影:
山門内には10個の礎石があると云うも、何れも移動したもので、伽藍配置の参考にはならない。
五重塔のある檀にも1個の礎石がある。
国分寺南門礎石1 国分寺南門礎石2 □備中国分寺南門跡 国分寺中門礎石 □備中国分寺中門礎石
国分寺山門横礎石 国分寺鐘楼前礎石 国分寺五重塔南礎石 □備中国分寺塔南礎石2
*備中国分寺西に作山古墳(前方後円墳、墳丘長は約286mで、墳丘長では全国第9位)があり、西にはコウモリ塚
(前方後円墳、墳丘長100m、巨大な横穴式石室を持つ)がある。
2014/05/18撮影、□印は2022/05/05撮影:
備中作山古墳1 備中作山古墳2 □備中作山古墳3 □備中作山古墳4
備中蝙蝠塚古墳1 備中蝙蝠塚古墳2 備中蝙蝠塚古墳3
2006年以前作成:2022/09/19更新:ホームページ、日本の塔婆
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