清水寺三重塔 ・ 泰産寺(子安塔)三重塔
★都名所圖會
天明年間刊「都名所圖會」巻3の清水寺 より(部分)
清水寺三重塔は西門背後(現位置と同じ)にあるが、明治維新前には、子安の塔は仁王門下にあった。
(現在、泰産寺三重塔<子安の塔>は清水寺本堂の南方、谷を隔てた峰上にある。)
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都名勝圖會 巻3 清水寺:左図拡大図:2012/01/28画像入替 ※仁王門下に子安塔がある。
清水寺泰産寺は、明治維新の頃廃寺、子安塔のみ現地に残るも、
清水寺堂宇再配置構想(清水寺の国有地払下の思惑)により、明治43年(この前後の説もある)現在地に移される。 |
2003/5/18:追加
清水寺参詣曼荼羅図:16世紀:図中の左端に清水寺三重塔(上)、泰産寺三重塔(下)がある。
※「描かれた日本の中世」下坂守、法蔵館、2003 では
清水寺参詣曼荼羅図は清水寺本(推定16世紀半ば制作)と中島家本( 推定16世紀後半制作)の2本がある。
両本の構図はほぼ同じであるが(中島家本は清水寺本を底本とする)、個々の図柄は異なる点がある。
掲載図は中島家本、下段中央の三重塔は不詳。(五條大橋を渡り、一の木戸を潜って左にある。)
洛外洛中図屏風(上杉本):上が清水寺三重塔、下が泰産寺三重塔と思われる。
洛外洛中図屏風(町田本):清水寺三重塔 2010/10/11追加:「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より
八坂法観寺塔曼荼羅:下の八坂法観寺塔参詣曼荼羅図と同一のもの、左上に清水寺三重塔・子安塔が描かれる。
紙本着色、147×169cm、法観寺蔵
2003/5/17:
八坂法観寺塔参詣曼荼羅図:法観寺蔵・
推定16世紀 2015/01/18追加:
○「東山名勝圖會」(「再撰花洛名勝圖會 東山之部」)木村明啓・川喜多真彦/著、松川安信ほか/画、元治元年(1864) より
2006/09/17追加:
2015/01/18画像修正:
○「東山名勝圖會」(「再撰花洛名勝圖會 東山之部」)木村明啓・川喜多真彦/著、松川安信ほか/画、元治元年(1864) より
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巻6:山城清水寺
:左図拡大図
※「清水寺三重塔」と
仁王門下に「子安観音」塔が描かれる。 |
2009/02/03追加:「幕末明治 京都名所案内」 より
音羽山清水寺略圖(左半部分図):右手上に清水寺三重塔、右下に子安塔が描かれる。 2011/03/31追加
「四百年前社寺建物取調書」明治15年社寺調査 より
清水寺見取図:明治15
年では、依然として、子安の塔は仁王門下泰産寺にある。
★山城清水寺三重塔:重文 塔創建は承和14年(847)とされる。
「塔における両界曼荼羅空間の展開」より:
「清水寺縁起」:
「三重宝塔一基 坐四仏 件塔、承和14年故師葛井親王(嵯峨天皇皇子、田村麻呂大納子女春子女御所生也)請官符建立之、・・・」
寛永10年(1633)徳川家光再建。純和様の大型塔。高さ(総高)約31m。一辺5.2m。
なお本堂(江戸)は国宝。西国16番札所。 2010/09/19追加;「Y」氏ご提供:
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山城清水寺三重塔18:左図拡大図
明治40年から大正6年の間に発行された絵葉書と推定(「Y」氏見解)
なお裏面に「清水寺発行 舟屋敬写 京都便利堂謹製」とある。
(舟屋の舟は不確実) |
2002/3/30撮影画像など:
2009/11/05撮影:
山城清水寺三重塔31 同 32 同 33 同 34
2012/01/26撮影、2013/01/10撮影:
2013/12/26撮影:
3014/04/05撮影:
山城清水寺三重塔は2014年初頭から工事中、工事は彩色の修復という。工期は1年を予定(2015年3月竣工予定)というので、来年度には彩色が蘇るものと思われる。
山城清水寺三重塔137 山城清水寺相輪
2015/02/27追加:2015/02/25朝日新聞 より
清水寺三重塔の塗り替え工事がほぼ終了し、彩色は鮮やかに蘇る。1988年の解体修理以来の塗り替えである。
清水寺三重塔空撮
2015/03/15撮影:
三重塔塗り替え工事竣工直後の撮影:
2016/03/20撮影:
2016/11/05撮影:
2023/04/07撮影: 山城清水寺三重塔260
◆山城清水寺三重塔模型:
→山城清水寺三重塔模型:近江大工棟梁高木師成作:1/30模型
★山城清水寺伽藍
近世の清水寺:
豊臣秀吉は130石の寺領を安堵、徳川将軍も代々この寺領を安堵する。
清水寺は執行(山主)宝性院(現存)、目代(副山主)慈心院(本堂が随求堂として現存)、本願(寺院・門前維持管理)成就院の三職と六坊で組織される。現在は成就院が本坊を称する。
六坊は義乗院(明治維新で廃絶)、延命院(現存)、真乗院(織田信長により廃絶)、智文院(明治維新で廃絶)、光乗院(同左)、円養院(同左)の六院を云う。
2013/01/10撮影:
音羽山清水寺遠望12 音羽山清水寺遠望13
2013/04/09撮影:2013/04/30追加:
音羽山清水寺遠望14 音羽山清水寺遠望15 音羽山清水寺遠望16 音羽山清水寺遠望17 音羽山清水寺遠望18
音羽山清水寺遠望19:三重塔
音羽山清水寺遠望20:本堂1
音羽山清水寺遠望21:本堂2
2010/03/08追加:
昭和9年清水寺空撮:毎日新聞社
2015/03/15撮影:三重塔遠望
山城清水寺三重塔184 山城清水寺三重塔185 山城清水寺三重塔186 山城清水寺三重塔187
2016/10/26撮影:清水寺遠望・京都タワー展望台より
山城清水寺遠望25 山城清水寺遠望26
2017/03/17撮影:清水寺遠望:京都伊勢丹オープンビューレストランより
山城清水寺遠望27 山城清水寺遠望28
◎清水寺現況
無印は2012/01/26撮影、◇印は2013/01/10撮影、□印は2013/12/26撮影、△印は2014/04/05撮影
、▽印は2015/03/15撮影、
○印は2016/03/20撮影、◎印は2016/11/05撮影、◆は2020/12/21撮影、■印は2023/04/07撮影
本堂:国宝、寛永10年(1633)再建
◇清水寺本堂1 ◇清水寺本堂2 ◇清水寺本堂3 ◇清水寺本堂4
△清水寺本堂5 △清水寺本堂6 △清水寺本堂7 △清水寺本堂8 △清水寺本堂9
▽清水寺本堂回廊:奥に写るのは朝倉堂
■清水寺本堂30 ■清水寺本堂31 ■清水寺本堂32 ■清水寺本堂33
善光寺堂: 元地蔵院(本尊地蔵菩薩)であったが、何時しか如意輪観音を中尊とし、明治中期に、奥の院南庭の善光寺如来堂を合併、善光寺堂と称する。堂内には本尊地蔵菩薩立像と如意輪観音坐像、善光寺如来堂本尊善光寺型阿弥陀如来三尊像をお祀ると云う。
◇清水寺善光寺堂 △清水寺善光寺堂2 △清水寺善光寺堂仏像 △清水寺善光寺堂本尊
馬駐:重文、室町期
◇清水寺馬駐1 ◇清水寺馬駐2 △清水寺馬駐3 ▽清水寺馬駐4
◆清水寺馬註5
仁王門:重文、室町期
山城清水寺仁王門1
清水寺仁王門2
清水寺仁王門3
清水寺仁王門4 清水寺仁王門5
清水寺仁王門6
◇清水寺仁王門11 ◇清水寺仁王門12
◇清水寺仁王門13
◇清水寺仁王門14
□清水寺仁王門21 □清水寺仁王門22
□清水寺仁王門23
□清水寺仁王門24
△清水寺仁王門25 △清水寺仁王門26 △清水寺仁王門27
▽清水寺仁王門28 ▽清水寺仁王門29
○清水寺仁王門30 ○清水寺仁王門31 ○清水寺仁王門32
◆清水寺仁王門・西門
◆清水寺仁王門33 ◆清水寺仁王門34 ◆清水寺仁王門35
鐘楼:重文、慶長12年(1607)再建
◇清水寺鐘楼1 ◇清水寺鐘楼2 ◇清水寺鐘楼3
□清水寺鐘楼21 □清水寺鐘楼22 △清水寺鐘楼23
▽清水寺鐘楼24 ▽清水寺鐘楼25 ▽清水寺鐘楼26
○清水寺鐘楼27 ○清水寺鐘楼28 ○清水寺鐘楼29
◆清水寺鐘楼30
西門:重文、寛永8年(1631)再建
山城清水寺西門1 山城清水寺西門2
◇清水寺西門11 ◇清水寺西門12 ◇清水寺西門13 ◇清水寺西門14
□清水寺西門21 □清水寺西門22 □清水寺西門23 □清水寺西門24 □清水寺西門25
□清水寺西門26 □清水寺西門27 □清水寺西門28 □清水寺西門29 □清水寺西門30
□清水寺西門31
△清水寺西門41 △清水寺西門42 △清水寺西門43 △清水寺西門44 △清水寺西門45
△清水寺西門46 △清水寺西門47 △清水寺西門48 △清水寺西門49 △清水寺西門50
○清水寺西門51 ○清水寺西門52
◆清水寺西門53 ◆清水寺西門54
■清水寺西門55 ■清水寺西門56 ■清水寺西門57
経堂:重文、寛永10年(1633)再建
山城清水寺経堂
◇清水寺経堂1
◇清水寺経堂2
□清水寺経堂21 □清水寺経堂22
□清水寺経堂23
△清水寺経堂24 △清水寺経堂25 △清水寺経堂26 ▽清水寺経堂27 ▽清水寺経堂28
◎清水寺経堂29
◆清水寺経堂30
田村堂(開山堂):重文、寛永10年(1633)再建
山城清水寺田村堂1 山城清水寺田村堂2
◇清水寺田村堂11 ◇清水寺田村堂12 ◇清水寺田村堂13 ◇清水寺田村堂14 ◇清水寺田村堂15
□清水寺田村堂21 □清水寺田村堂22 □清水寺田村堂23 □清水寺田村堂24 □清水寺田村堂25
□清水寺田村堂26 □清水寺田村堂27
△清水寺田村堂28 △清水寺田村堂29 △清水寺田村堂30 △清水寺田村堂31 ▽清水寺田村堂32
○清水寺田村堂33
◆清水寺田村堂34 ◆清水寺田村堂35
轟門:重文、寛永8年〜10年に再建
◇清水寺轟門1 ◇清水寺轟門2
◎清水寺轟門21 ◎清水寺轟門22
◆清水寺轟門23
朝倉堂:重文、寛永10年(1633)再建、永正7年(1510)越前守護朝倉貞景が法華三昧堂として寄進する。
本尊十一面観音、堂内には明治の神仏分離の処置で地主権現本地文殊菩薩が遷座する。
解体修理が平成25年竣工する。
◎清水寺朝倉堂21
◆清水寺朝倉堂・轟門
釈迦堂:重文、寛永8年(1631)再建
◇清水寺釈迦堂1 ◇清水寺釈迦堂2 △清水寺釈迦堂3 △清水寺釈迦堂4 ▽清水寺釈迦堂5
◆清水寺釈迦堂6 ◆清水寺釈迦堂7
■清水寺釈迦堂8
阿弥陀堂:重文、寛永8年〜10年に再建
◆清水寺阿弥陀堂
奥の院:重文、寛永10年(1633)再建
◆清水寺奥之院1 ◆清水寺奥之院2 ◆清水寺奥之院3 ◆清水寺奥之院4
◆清水寺奥之院5 ◆清水寺奥之院6 ◆清水寺奥之院7 ◆清水寺奥之院8
■清水寺奥之院9 ■清水寺奥之院10 ■清水寺奥之院11
音羽の瀧
▽清水寺音羽の瀧
◆清水寺音羽の滝2
辨天堂:詳細不明
△清水寺辨天堂 ▽清水寺弁天堂2 ▽清水寺弁天堂3
本坊北総門:重文、寛永年中建立
◇本坊北大門 △清水寺北大門2 △清水寺北大門3
鎮守地主権現総門:重文、寛永10年(1633)再建
◇清水寺地主権現惣門 △地主権現総門
鎮守地主権現拝殿:重文、寛永10年(1633)再建
◇清水寺地主権現拝殿1 ◇清水寺地主権現拝殿2
鎮守地主権現本殿:重文、寛永10年(1633)再建
◇清水寺地主権現本殿1 ◇清水寺地主権現本殿2 ◇清水寺地主権現本殿3
△地主権現本殿4 △地主権現本殿5 △地主権現本殿6 △地主権現本殿7
▽鎮守地主権現 ▽鎮守地主権現本殿8 ▽鎮守地主権現本殿9 ▽鎮守地主権現本殿10
※鎮守社は明治維新の神仏分離などという阿呆な処置で地主神社と改竄され、清水寺より分離され未だにそのままである。
※地主権現本地文殊菩薩は朝倉堂に遷座、現存という。
春日権現(春日社/鎮守堂:重文、室町後期(桃山期)あるいは江戸初頭の建築。
△清水寺春日権現
▽清水寺春日権現2 ▽清水寺春日権現3 ▽清水寺春日権現4 ▽清水寺春日権現5 ▽清水寺春日権現6
中興堂;大僧正大西良慶の御霊屋という。大西良慶は中興開山と称されるようである。平成9年(1997)建立。
□清水寺中興堂
大講堂
△清水寺太講堂
◎近世の清水寺:
豊臣秀吉は寺領130石を寄進、徳川幕府も130石を安堵する。明治維新まで法相・真言兼宗であった。
近世清水寺は三職(執行宝生院、目代慈心院、本願成就院)六坊(義乗院、延命院、真乗院、智文院、光乗院、円養院)で構成・護持される。
宝生院は現存、慈心院本堂は随求堂として現存、成就院も現存、六坊は「花洛名勝圖會」に描かれるように南方に存在し、延命院のみ現存、真乗院は織田信長により廃絶、義乗院、智文院、光乗院、円養院は明治の神仏分離による廃仏毀釈で廃寺となる。
宝生院:執行
■清水寺寶性院1 ■清水寺寶性院2
随求堂(慈心院本堂):塔頭・慈心院:寺中慈心院の本堂が現存する。江戸中期の建立。
▽清水寺随求堂
成就院:現在は清水寺本坊という。応仁の乱で焼失した清水寺再興した願阿上人の住坊であり、以降清水寺の本願本坊であった。現在の建物は寛永16年(1639)の再建。
△清水寺成就院1 △清水寺成就院2 ▽清水寺成就院3 ▽清水寺成就院4
真福寺:清水寺宝生院の塔頭、大日堂と称する。 天文3年(1534)の建立とも、中御門富小路に建立されていた尊体寺が現在の場所に移され、寺号を真福寺に改めたともいう。
天保年中(1831〜45)僧・一円が中興する。現在は宝性院の境外塔頭という。以前は法相宗・真言宗兼学であったが、現在は真言宗という。
□清水寺真福寺 △清水寺真福寺2 △清水寺真福寺3
宝徳寺:清水寺塔頭、霊光山と号する。浄土宗西山深草派に属し、本尊は阿弥陀如来、清水寺一山の無常寺として存在したというから、浄土宗に属し、一山僧侶の菩提を弔ったのであろう。創建・沿革などは諸説あり、不詳。
□清水寺宝徳寺 △清水寺宝徳寺2
清水寺六坊:延命院が唯一現存する。
□清水寺延命院
経書堂(清水寺寺中来迎院):聖徳太子の創建といい、太子16歳像を本尊とする。
△清水寺経書堂
★山城泰産寺三重塔(子安の塔):重文 2006/09/17追加:
◇花洛名勝圖會 巻6 清水寺 より:
○「東山名勝圖會」(「再撰花洛名勝圖會 東山之部」)木村明啓・川喜多真彦/著、松川安信ほか/画、元治元年(1864) より
泰産寺三重塔(子安観音・子安塔)部分図
2006/09/17追加:
●移転前の山城泰産寺三重塔写真
2011/12/02追加:
◇明治5年6月17日以前撮影画像:「The Far East」Vol3、2、June 17st, 1872 より
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「The Far East」掲載写真
◆明治5年子安塔0:
この写真が掲載されている 「The Far East」発刊日である明治5年6月17日以前の撮影画像である。
上に掲載の「花洛名勝圖會」の子安塔部分図に描かれる子安塔横清水寺参道の門柱および子安観音冠木門は木造であろう。
また清水寺参道門柱外には1対の燈籠があり、子安観音冠木門と三重塔の間の塀に沿って瓦葺切妻造小宇(用途不明)がある。
この写真には「花洛名勝圖會」(上に掲載)に描かれる木造清水寺参道門柱、門柱外の燈籠、木造子安観音冠木門、瓦葺切妻造片流小宇が写る。
まさに、元治元年(1864)刊行「花洛名勝圖會」そのままの姿が写る。 |
2022/07/03追加: ○「別冊 歴史読本 古写真にみる幕末・明治」新人物往来社、昭和62年 より
横山松三郎撮影子安塔:
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横山松三郎撮影子安塔:左図拡大図:
明治5年撮影と思われる。下に掲載のように、横山松三郎は明治5年壬申検査に同行している。その時の撮影であろう。また、上述のように、木造清水寺参道門柱、門柱外の燈籠、木造子安観音冠木門、瓦葺切妻造片流小宇が写ることも、明治5年の撮影であることを補強する。
横山松三郎 天保9年(1838)〜明治17年(1884)、択捉島で生誕し、47歳で逝去。 幕末・明治初頭には写真術を取得していた。
明治5年(1872)5月から10月まで、町田久成、蜷川式胤らが伊勢・名古屋・奈良・京都の古社寺・華族・正倉院の宝物を調査した『壬申検査』に同行する。 |
2010/03/08追加:
◇明治5年7月撮影画像:「蜷川式胤奈良の筋道 / [蜷川式胤原著] 」 より
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明治5年壬申検査時の写真である。
◆明治5年子安塔:
左図拡大図:壬申検査時の写真である。
壬申検査での一行の京都滞在は7月1日から7月いっぱいであり、従って明治5年7月撮影と推定される。
・・・恐らく現存する子安塔写真では上記の写真に次ぐ古写真であろう。
少々画像は劣化しているが、上に掲載の「花洛名勝圖會」に描かれる木造清水寺参道門柱、木造子安観音冠木門、瓦葺切妻造片流小宇が写る。
基本的には上記写真と変化はないが、上記写真に写る瓦葺切妻造片流小宇の脇の小屋は写らない。
この小屋は上記写真の後撤去されたのであろうか。 |
2006年追加:
長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・DB より
◇撮影時期不詳:幕末から明治17年の間の撮影か
◆移転前子安塔3:やや不
鮮明であるが、しかし相輪などは判別可能。
撮影時期不詳:撮影者はF.ベアト と云う。
ベアトは文久3年(1864)に横浜に移住、明治17年(1884)離日すると云う。
であるならば、幕末に撮影された可能性も残る古写真であろう。
※下に掲載の「清水寺西門下瞰」(写真集「撮影鑑 二」より)の右端写真とほぼ同一のアングルで瓜二つといって良い写真誌である。
◇撮影時期不詳:明治2年から明治16年の間の撮影か
◆移転前子安塔2:
左手に子安の塔が写る。右手建物は清水寺仁王門、中央は参道石段、上方に京都市街が霞む。
撮影時期不詳:撮影者は(?)付きであるが、スチルフリード Stillfuried, Raimund とされる。
スチルフリードはオーストリアの写真家で、明治2年来日、明治4年横浜で写真館開業、明治18年帰国と云うから、もしスチルフリードの撮影ならその間の撮影であろう。
更に、下に掲載の「子安塔5」・「子安塔6」とほぼ同一アングルの写真でり、子安塔の向かって右に切妻造片流小宇が写るのも同一である。幕末・明治5年にはこの小宇の存在は確認でき、下掲載の明治16年以降の写真には確認できないので、明治
2年から明治16年までの間の写真であろう。 2007/05/23追加:
◇撮影時期不詳(幕末・明治初頭から明治16年までの間の写真と推定できる)
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◆明治期子安塔5:左図拡大図:明治15年頃の撮影と推定
:「矢野家写真資料」 より
撮影時期は不詳であるが、子安塔の向かって右に切妻造片流小宇が写る。
また清水寺参道門柱も明らかに木造と思われる。
幕末・明治5年には切妻造片流小宇の存在は確認でき、下掲載の明治16年以降の写真には確認できないことと清水寺参道門柱は明治16年に石造に造替と云うから、幕末・明治初頭から明治16年までの間の写真であろう。
2013/01/26追加:
写真ソースは「矢野家写真資料」(京都総合資料館蔵、平成7年矢野家より寄贈)である。
写真は明治15年頃の撮影と推定される。(京都府立総合資料館解説) ◆清水寺西門下瞰:写真右に子安塔相輪と八坂五重塔が写る
:写真集「撮影鑑 二」 より
2013/01/26追加:
写真ソースは「撮影鑑 二」である。
「撮影鑑 二」は<見返しに「明治十四年四月調製 京都舎密局蔵板自」と記され>る。(京都府立総合資料館解説)
明治14年4月以前の撮影である。 |
2007/08/08追加:
◇撮影時期不詳(幕末・明治初頭から明治16年までの間の写真と推定できる):日文研 外像DB より
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◆明治期子安塔6:左図拡大図
:
撮影時期は不詳であるが、子安塔の向かって右に切妻造片流小宇が写る。
幕末・明治5年にはこの小宇の存在は確認でき、下掲載の明治16年以降の写真には確認できないので、幕末・明治初頭から明治16年までの間の写真であろう。 |
2010/09/19追加:「Y」氏ご提供画像
◇撮影時期不詳:明治16年から明治43年前後:万国郵便聯合端書
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◆移転前子安塔13:左図拡大図
この写真は絵葉書「万国郵便聯合端書」であり、明治40年前後の発行、
但しこの葉書は左右反転して印刷されているため、その誤りを修正して掲載。また左右天地の余計な余白はトリミングして掲載。
既に幕末・明治初頭にはあった切妻造片流小宇はなく、参道の木造門柱および子安観音の木造冠木門は石造に変更されているように見える。
入り口の石の柱は明治16年(1883)8月に建立されたものと云う。(出所は不詳)もしこれを信ずるならば、撮影時期は明示16年から明治43年前後ということになる。
下に掲載の「明治期子安塔4」にはある中央に写る石柵で囲われた石碑がない相違がある。 |
2007/05/23追加:
◇撮影時期不詳:明治16年から明治43年前後:「矢野家写真資料」
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◆明治期子安塔4:左図拡大図
、撮影時期不詳
既に幕末・明治初頭にはあった切妻造片流小宇はなく、参道の木造門柱および子安観音の木造冠木門は石造に変更されているように見える。
入り口の石の柱は明治16年(1883)8月に建立されたものと云う。(出所は不詳)もしこれを信ずるならば、撮影時期は明治16年から明治43年前後ということになる。
上の「子安塔13」にはない、中央やや下に写る石碑がある。この石碑の銘文及び現状は不明である。
2013/01/26追加:
写真ソースは「矢野家写真資料」(京都総合資料館蔵、平成7年矢野家より寄贈)である。
写真は明治15年頃の撮影と推定される。(京都府立総合資料館解説)
※上掲の「矢野家写真資料」中の明治期子安塔5は明治15年頃の撮影と思われるも、本社真は時代はもう少し下るようで、明治16年以降とするのが妥当と思われる。
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2009/11/10追加:
サイト「OLD
PHOTOS of JAPAN」 より
◇撮影時期不詳:明治16年から明治43年前後
◆移転前子安塔11:
本サイトには入り口の石の柱は明治16年(1883)8月に建立されたものと云う解説がある。
また本作品は「江南信國」の撮影であろうとほぼ断定がなされる。2009/11/10追加:
◇撮影時期不明:この写真は泰産寺境内から移転前の塔婆を写したものである。:日文研 外像DB より
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「La sociedad Japonesa : usos, costumbres, religion, instituciones, etc.
」
Bellessort, Andre, 1866-1942 より
移転前子安塔12:左図拡大図、撮影時期不詳 |
2013/04/30追加:
◇ページ:川面美術研究所からのお知らせ に子安塔の古写真がある。本ページより写真を転載する。
:撮影時期不詳
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○移転前子安塔13:左図拡大図:音羽山清水寺所蔵 子安塔は明治末期の移築に際し、解体工事前の朱塗に塗替られたと云う。
川面美術研究所(京都福王寺)では子安塔の彩色資料を収集し移築・塗替前の子安の塔の彩色調査を実施している。これは、可能であれば、明治末期の移建前の彩色に復元することを目的とするものである。
しかし、移建前の彩色が明確に判明しない場合は、明治の移建の時の朱塗りに復原することが決まっているようである。
→今般の工事で朱塗に復原されたということは、明治末期の移建時の朱塗りに復原されたということと思われるが、はっきりとはしない。
※左記の写真で見るように、移建前は斗栱や柱には何らかの極彩色の彩色があったと思われるが、これがはっきりせず、明治末期の移建時の朱塗りに復原されたということなのであろうか。
あるいは「今回の調査で、建立当時の華やかな彩色に復元されることになる。」との解説も散見するので、建立当時の朱色に塗られたのであろうか。 |
◆明治43年頃、子安塔は清水寺仁王門下から、清水寺本堂の南の谷を隔てた尾根上に移建する。
◇大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編(下京第ニ十ニ學區之部)より
<泰産寺三重塔の記事部分>
元仁王門の西南にあり。
三重塔
寛永6年清水寺諸堂炎上。寛永7年清水寺造営に際し、この塔も修理を加える。その後寺院荒廃。
元禄年中僧清長之を中興。明治42年本寺境内の整備の際、現在地へ移転、修理す。なおその時、書院を新築。
○2013/01/21追加:「京都府総合資料館企画展 世界遺産40周年紀念『京都の世界遺産』資料解説集」 より
「寺院境内外地」(明治38年、重文、京都府行政文書:清水寺が土地払下を国に願い出た時に作成と云う)について以下の解説がある。
建物等の再配置構想を図示したもので、門前子安塔をはじめ多くの堂宇を南苑に移す計画であったと知れる。
但し、実際に移されたのは子安塔だけに留まると云う。
※子安塔が移建されたおよその事情が推測される史料であろう。
なお、直接の関係のない話ではあるが、写真集「撮影鑑 二」明治14年(「一巻」が想定されるが、確認されていない。)には山城から大和の写真を納めると云う。押された印章から、舎密局明石博高の撮影と推定される。
2010/09/19追加;「Y」氏ご提供:
◇推定移建後間もない頃の子安塔写真:絵葉書
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明治40年から大正6年の間に発行された絵葉書と推定(「Y」氏見解)
なお裏面に「清水寺発行 舟屋敬写 京都便利堂謹製」とある。
(舟屋の舟は不確実)
山城清水寺三重塔19:左図拡大図
※この写真は明らかに移建後の写真であり、絵葉書の推定発行年と塔移転時期(明治43年)から見て、移建後間もない頃の写真と思われる。 |
◇子安塔跡地
元地には「子安塔址」の石碑が建てられ標とする。
碑 文:
【北面】 上部は「光明皇后、念持観音」と並列し、下部は「子安塔址」と標す。
【東面】 明治四十三年十二月境内下山ニ移ス
【南面】当山末泰産寺跡 とあると云う。
2009/11/05撮影:
子安塔跡石柱
子安塔跡現況:写真中央に松の木が1本立つが、この付近に子安塔はあったものと思われる。松木の向かって右手すぐに上記の石柱はある。
2012/01/26撮影:
山城清水寺泰産寺跡:写真中央付近が泰産寺跡、中央右に写る松の木付近に三重塔があったものと思われる。
2013/01/10撮影:
山城清水寺泰産寺跡2
2015/03/15撮影:
子安塔跡石柱:旧泰産寺跡整備が終わり、本石柱も元に戻る。
◆山城泰産寺三重塔
山城清水寺子院。今は清水寺本堂の南の谷を隔てた尾根にあり。
泰産寺三重塔:江戸初期建立。全貌の写真撮影は結構難しい。
一辺2.5m、高さ約12m。
※明治43年頃までは、清水寺仁王門下にあり。
○2011/12/02追加:
◇子安塔建立時期判明
子安塔は現在解体修理中(2013年3月竣工予定)、
今回、「子安塔」の全面解体で、小さい斗に「明応九年(1500)五月四日」の墨書が発見される。
以上により、寛永年中の建立と推定されていた建立時期は室町後期であると判明する。
◇2013/04/30追加:
ページ:修復で新発見。「子安塔」の建立は定説より130年も古かった! に明応9年の墨書入り斗の写真があるので転載する。
◎明応9年墨書入斗:写真が小さく必ずしも明確ではない。この斗は初重のもののようである。
なお、明治末期の移建の時の基礎はレンガ積であったが、今般の修復で基礎は御影石に変更されると云う。 2000/8/5撮影:
山城泰産寺三重塔1 山城泰産寺三重塔2
山城泰産寺三重塔3
2002/3/30撮影:
泰産寺三重塔11 泰産寺三重塔12
泰産寺三重塔13
泰産寺三重塔14
泰産寺三重塔15
泰産寺三重塔16 泰産寺三重塔17
泰産寺三重塔18
2007/09/22追加:
「O」氏ご提供画像:2006/02/11撮影
山城子安塔遠望
山城子安塔
1
山城子安塔
2
山城子安塔
3
山城子安塔
4
2013/01/10撮影:
2013/04/30追加:2013/04/09撮影:
ほぼ竣工、工事用囲は取り払われる。但し、周囲は建前上は立入禁止のままである。
本日は塔正面(西)の扁額の取り付け工事の予定のようである。
山城子安塔61 山城子安塔62 山城子安塔63 山城子安塔64 山城子安塔65 山城子安塔66
山城子安塔67 山城子安塔68 山城子安塔69 山城子安塔70 山城子安塔71 山城子安塔72
山城子安塔73 山城子安塔74 山城子安塔75 山城子安塔76 山城子安塔77 山城子安塔78
山城子安塔79 山城子安塔80 山城子安塔81 山城子安塔82 山城子安塔83 山城子安塔84
山城子安塔85 山城子安塔86 山城子安塔相輪
子安塔扁額
山城子安塔扁額 子安塔扁額裏面
三重塔に掲額される直前の修復後の扁額である。
扁額の修復は川面美術研究所(京都福王寺)の修復である。
本研究所では文献資料・塗料の僅かな残りの成分分析などから当初の彩色を推定する高い技術を持つと云う。しかし、推論が出ても、出された推定に従って、本研究所の工房で、すぐに修復されるということはなく、しかるべき専門機関で審議され、妥当であると認められれば、はじめて当初の彩色に修復されると云う。時には専門機関で認められないこともあると云う。
扁額裏面には新に「川面美術研究所」の施工銘が取り付けられる。
扁額の裏面によれば、明和2年(1765)に作成され、文久2年(1862)再建とあるので、文久2年に修理されたのであろう。
2014/04/05撮影:
2016/03/20撮影:
2020/12/021撮影: 山城子安塔171 山城子安塔172 山城子安塔173 山城子安塔174
山城子安塔175 山城子安塔176
2023/04/07撮影: 清水寺子安塔177 清水寺子安塔178 清水寺子安塔179
2012/11/29追加・修正:
★山城清水寺三重塔模型(1/30模型)
2006年以前作成:2023/08/10更新:ホームページ、日本の塔婆
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