山 城 日 蓮 宗 諸 寺

山城日蓮宗諸寺

松崎山妙円寺(松ヶ崎大黒天)

湧泉寺(松ヶ崎檀林)から東すぐ、湧泉寺とほぼ同一の段上に当寺がある。
元和2年(1616)日英上人開基。
近世の姿は不明ながら、現在の堂宇の姿から判断すると、現世利益を前面に打ち出した経営をする寺院と思われる。
 △松ヶ崎妙円寺西門:本湧寺から東に 道を辿ればこの門に至る。正門(表門)の賑々しさとは別の風情がある。
 △松ヶ崎妙円寺堂宇
2012/11/29追加:元和2年(1616)本涌寺能化本覚院日英の隠居場所として開基する。松ヶ崎東部の人々を檀徒する。
境内の大黒堂に松ヶ崎大黒天(勇猛庵主日量の遺仏、伝教大師作と伝える)を祀る。
昭和44年本堂、庫裏、大黒堂等を焼失、昭和47年現在の堂宇が再建される。

松ヶ崎檀林(本涌寺)

 → 関西檀林 に記載

松ヶ崎妙泉寺(廃寺)

 → 関西檀林 に記載

愛宕郡紫竹村常徳寺

四条妙顕寺末(明治3年日蓮宗本末一覧)
 →紫竹常徳寺(日奥上人中)

京都鷹峯

2016/06/18追加:2016/06/19追加修正:
元和元年(1615)本阿弥光悦、徳川家康より鷹峰に屋敷地を受領し本阿弥一族、工匠、豪商らとともに鷹峯に移住する。
この頃の鷹峯を表す光悦町古図<元和4年(1618)から寛永4年(1627)の間に成立と推定>が現存する。
 光悦町古図:「光悦拝領略図地面写」承應3年(1654)写:
江戸初期の鷹峯の屋敷配置が良く示される。寺院は鷹峯檀林/常照寺1ヶ寺のみがあり、現在の光悦寺は前身の「位牌処」としてある。
 ※活字(行書体)での文字入れは本人(s_minama)が行う。
○当時及びその後の鷹峯について以下の情報がある。
 ※周辺の街道筋には、光悦のもとに参集した人々の屋敷跡が数多く残されているともいう。
 茶屋四朗次郎清次、呉服商尾形宗柏(光琳・乾山祖父、乾山が相続)、唐織屋の蓮池常有、蒔絵師土田宗沢、京唐紙の祖紙屋宗二、
 筆製作の筆屋妙喜、光悦の屋敷、光悦養子・光瑳、光悦孫・光甫、光悦の母・妙秀の菩提寺妙秀寺などである。
 ※瑞芳寺境内北には、かつて本阿弥光悦、光悦の養子・光瑳の屋敷が隣接していたという。
  ※妙秀:享禄2年(1529)-元和4年.(1618)
  ※妙秀寺:山城本法寺末。 (明治3年「寺院本末一覧」による)
 ※知足庵は妙秀寺の向かいに開かれるという。なお、明治17年(1884)妙秀寺は光悦寺に合併され現存しない。
○「本阿弥行状記」(五三段)では以下のように述べるという。
 ※「本阿弥行状記」の上巻光甫の編集という。何れにしても江戸初期の成立であろう。
「・・・寺院を四ヶ所まで建立、一ヶ所は嫡子光瑳が才覚にて法花の談所を建立す、常照寺これなり。・・・又一ヶ所は光悦が母妙秀が菩提所なり、則ち妙秀寺と号す。・・・また一ヶ所は天下の御祈祷、次に本阿弥が先祖の菩提所光悦寺なり。信の志ある道心者を集めて昼夜十二時声を絶さず。替る替る法花の首題を唱へ奉り、又知足庵には八軸の読誦猶以てたえず・・・・・」
即ち、談所・常照寺、光悦母妙秀菩提所妙秀寺、本阿弥家菩提所光悦寺、徳川天下の安泰の祈祷所知足庵の4ヶ寺が建立され、しかも注目すべきは「鷹峰では常に唱題の声が絶え間無く綿々として聞こえている」(深草元政上人『太虚庵記』)状態であったという。
以上に関連して、
明暦年間(1655-1658)本阿弥光伝(光悦の孫)、大虚庵(光悦寺)の地の一部を寄進し、法華堂唱道場の知足庵真浄堂を建立する。
なお、知足庵の由信、春継は、大虚庵脇に常題目堂を建立し、唱題修行を続けたという。
2016/08/15追加:
○「町衆の信仰」藤井学(「講座日蓮3 日蓮信仰の歴史」春秋社、1972 所収)より
「東西南北の長さがせいぜい2〜300m、戸数も50数戸というこの町に住民たちは4つの法華宗寺院を建てた。本阿弥一族の菩提寺(後の光悦寺)、妙秀の居跡に建てられた妙秀寺、天下平安の祈願所として建立された知足庵、さらに日乾を招いて開かれた鷹峯檀林(常照寺)がそれである。・・・やがて光悦没後の明暦元年(1655)檀林にいた由信院日得の発願により、この町では住民と檀林の所化による常題目行が行われだした。鷹峯の山々にこだまする昼夜12時の題目の声、・・・まさに法華の聖域であった。」
○安永9年(1780)初版本「都名所圖會」 より
 「都名所圖會」鷹峯: 光悦寺及び題目堂、檀林常照寺、圓成寺(寺名表示はない)、源光房の寺院が描かれる。残念ながら南鷹峯に属する知足庵、瑞芳寺、妙秀寺などは、絵図の範囲外であろうか、描かれない。
○「改正京町繪圖細見大成」天保2年(1831)
 改正京町繪圖細見大成・鷹峯部分図
光悦寺、常照講寺、円城庵(圓成寺)、知足庵、體眞庵、妙秀寺(妙修寺)、源光庵などが描かれるが、宝永3年(1706)建立の瑞芳寺は描かれない 。しかしこの理由は不明。
明治12年瑞芳寺と知足庵は合併というも、あるいは知足庵の屋敷に瑞芳寺が建立されていたのかも知れない。
繪圖の西南には曲尺形に御土居が描かれる。
本繪圖によれば、妙修寺は御土居のすぐ北側・南北の光悦丁の東にあったようである。そして、知足庵は現在の瑞芳寺の向い側(西側)附近にあったようである。
體眞庵は情報がなく、不明。また、円城庵(圓成寺)の附近に旲鷲アン(リョジュ庵?)が見えるが、現存しないし、不詳。
御土居については、本繪圖ではしっかりと連続して残るようであるが、現在では断片的に残るばかりである。
2011/05/15撮影:参考資料
 大宮土居町御土居1     大宮土居町御土居2     大宮土居町御土居3     大宮土居町御土居4
2016/05/26撮影:参考資料
 鷹峯御土居1         鷹峯御土居2          鷹峯御土居3         鷹峯御土居4
○寛政11年(1799)の鷹ヶ村の家数は168軒・人数383人であった。
人数383人のうち尼1人・僧132人と僧侶が多いのは、日蓮宗の瑞宝寺(瑞芳寺)・常照寺・光悦寺・円成寺、浄土宗の吟松寺・、臨済宗の讃州寺、曹洞宗の源光庵などの寺庵が建立されたことによるのであろう。

京都鷹峯檀林(常照寺)

 → 鷹峯檀林 に記載

鷹峯円成寺(鷹峯岩戸妙見)

 → 妙見大菩薩中の山城鷹峯岩戸妙見

鷹峯光悦寺

大虚山と号する。山城本法寺末。
元和元年(1615)本阿弥光悦、徳川家康により鷹峯の光悦寺の地を賜り、一族・工匠等と移住し、ここに芸術郷を築く。
そして、現在光悦寺のある場所は光悦が先祖供養の霊屋として位牌堂を設けた場所である。
光悦寺は、光悦没後、本阿弥家の位牌堂(法華題目堂)を本法寺の日慈上人を開山に請じて、寺に改めたという。
なお、本阿弥家は本法寺の大檀越であった。
2011/04/02撮影:2016/01/31追加:
 光悦寺題目碑     光悦寺山門     光悦寺中門      光悦寺本堂     光悦寺鐘楼

鷹峯瑞芳寺:(知足庵):放光山と号す。川端頂妙寺末。

元和元年(1615)本阿弥光悦、徳川家康より鷹峰に屋敷地を受領し本阿弥一族、工匠、豪商らとともに鷹峯に移住する。
 ※瑞芳寺境内北には、かつて本阿弥光悦、光悦の養子・光瑳の屋敷が隣接していたという。
 ※現在の光悦寺の附近に光悦の母・妙秀の菩提寺妙秀寺があったものと思われる。
寛永14年(1637)日龍上人により鷹峯に知足庵が営まれる。
 ※日龍:精進院と号する。頂妙寺8世、中山23世。深草瑞光寺元政と親交あり。
 ※知足庵は妙秀寺の向かいに開かれる。
「本阿弥行状記」(五三段)では以下のように述べるという。
 「・・・寺院を四ヶ所まで建立、一ヶ所は嫡子光瑳が才覚にて法花の談所を建立す、常照寺これなり。・・・又一ヶ所は光悦が母妙秀が菩提所なり、則ち妙秀寺と号す。・・・また一ヶ所は天下の御祈祷、次に本阿弥が先祖の菩提所光悦寺なり。信の志ある道心者を集めて昼夜十二時声を絶さず。替る替る法花の首題を唱へ奉り、又知足庵には八軸の読誦猶以てたえず・・・・・」
即ち、談所・常照寺、光悦母妙秀菩提所妙秀寺、本阿弥家菩提所光悦寺、徳川天下の安泰の祈祷所知足庵の4ヶ寺が建立され、しかも注目すべきは「鷹峰では常に唱題の声が絶え間無く綿々として聞こえている」(深草元政上人『太虚庵記』)状態であったという。
明暦年間(1655-1658)本阿弥光伝(光悦の孫)、大虚庵(光悦寺)の地の一部を寄進し、法華堂唱道場の知足庵真浄堂を建立する。
なお、知足庵の由信、春継は、大虚庵脇に常題目堂を建立し、唱題修行を続けたという。

宝永3年(1706)了義院日達、瑞芳寺を開山。
 ※日達:延宝2年(1674)-延享4年(1747)、陸奥の産。鷹峯・六条・中村檀林の能化を歴任し、享保5年(1720)六条本圀寺26世となる。
明治12年(1879)瑞芳寺は知足院(知足庵か)と合併する。
 ※以上のような寺歴が知られるが、不明確な部分があり、その部分は次のように推測される。
 知足庵は、光悦寺の近くにあったと思われる妙秀寺の向かいに建立されるということ、さらに大虚庵の一部を割き知足庵真浄堂を建立と
 いうことから、現在の瑞芳寺の地ではなく、光悦寺の近くにあったのであろう。
 そして、明治12年おそらく知足庵は維持困難となり、瑞芳寺と合併することとなったのであろう。
2016/06/19追加:
 ○「改正京町繪圖細見大成」天保2年(1831)
  改正京町繪圖細見大成・鷹峯部分図
 光悦寺、常照講寺、円城庵(圓成寺)、知足庵、體眞庵、妙秀寺(妙修寺)、源光庵などが描かれるが、
 宝永3年(1706)建立の瑞芳寺は描かれない。この理由は不明。
 明治12年瑞芳寺と知足庵は合併というも、あるいは知足庵の屋敷に瑞芳寺が建立されていたのかも知れない。
 繪圖の西南には曲尺形に御土居が描かれる。
 本繪圖によれば、妙修寺は、上述の推測とはやや違い、御土居のすぐ北側・南北の光悦丁の東にあったようである。
 そして、知足庵は、これも上述の推測とはやや違い、現在の瑞芳寺の向い側(西側)附近にあったようである。
2016/05/26撮影:
現在、瑞芳寺には住職は常駐せず、堂守(夫人)一人が守る。そして瑞芳寺には檀家は1軒もなく、その運営は質素そのものである。
 鷹峯瑞芳寺     瑞芳寺門前題目碑:「常法華経堂 知足庵」と刻む。
 瑞芳寺山門     瑞芳寺堂舎1     瑞芳寺堂舎2
 了義院日達上人墓所     了義院日達上人墓碑:「延享四丁卯歳 開基了義院大僧都法印日達大和尚 二月二十六日」と刻む。
なお、境内に日達廟と日龍墓があるともいうが、日龍墓は不詳。

衣笠常修寺

行法山と号する。
情報がなく、開基・開山などの由緒不明。
2016/06/19KG氏情報追加:
昭和21年行法院日進上人が開山する。創建当時は本門法華宗に属する。当時山号はなかったと思われる。
昭和29年3月に宗派離脱し単立寺院となり、10月に日蓮宗に所属する。この時山号を行法山とするという。
2016/05/26撮影:
 衣笠常修寺入口     衣笠常修寺題目碑
本堂:入母屋造の本堂(内陣)の前に、切妻造の前殿(外陣)を付設し、さらにその前方の妻に唐破風の1間四方の向拝を付設した複雑な構造である。本堂 の概要は桁行5間×梁間6間、前殿の概要は桁行3間×梁間4間である。
 衣笠常修寺本堂1     衣笠常修寺本堂2     衣笠常修寺本堂3     衣笠常修寺小宇:名称不明
 衣笠常修寺小祠:名称不明      衣笠常修寺客殿:客殿・書院か      衣笠常修寺法喜堂:庫裡

京都猿畠山法性寺

2011/11/20追加:
鎌倉から法華堂が京都に移転し大光山本国寺(六条本圀寺)の礎となる訳であるが、この移転の時、猿畠山法性寺、四大坊(東大坊松林院、西大坊勧持院、北大坊持珠院、南大坊戒善院)も日静上人に従い移転すると伝える。
 ※猿畠山法性寺は左京区田中下柳町27に現存する。近世では本圀寺末頭(筆頭)の地位にあったと思われる。
  2011/11/01撮影:
  京都猿畠山法性寺題目碑     猿畠山法性寺山門     猿畠山法性寺本堂     猿畠山法性寺鐘楼か
  但し、猿畠山法性寺は鎌倉(逗子)にも現存する。 → 比企谷妙本寺及び鎌倉日蓮諸寺 の該当項を参照
 2013/02/01追加;「雍州府志」黒川道祐撰、天和2年(1682)草稿、貞享3年(1686)刊 より
  ※武蔵寺:田中村の東にあり。・・・元、天台宗なり。相伝う、武蔵坊弁慶、時々来たりて遊ぶ。之によりて武蔵寺と号す。
  今、日蓮宗の僧之れを守る。京極今出川の南、本国寺の末派、法性寺に属す。
   貞享3年京大絵図
    上部が京極今出川であるが、今出川北に立本寺・本満寺があり、今出川少し南に法性寺・本禅寺が描かれる。
    →「雍州府志」では田中村には本国寺末法性寺に属する日蓮宗の僧の守る武蔵寺があり、法性寺は京極今出川に
     あると云う。確かに「京大絵図」によれば、法性寺は京極今出川下がるに存在する。
     これらから推測するに、法性寺は秀吉の都の改造で京極今出川に移されるも、宝永(1708)の大火で類焼、
     法性寺は本禅寺北側には再興されず、田中村の武蔵寺に移り、寺号を法性寺に改めたものと思われる。

京都東山檀林(妙恵山善正寺)

 → 関西檀林 に記載

岡崎満願寺:無本寺

 → 洛陽十二支妙見(山城岡崎満願寺

東山仁王門本妙寺(京都市左京区北門前町):愛宕郡二条本妙寺

祥光山と号する。京都妙覚寺に属する。
寺伝では、正和4年(1315)日像上人が洛北岩倉に創建する。
その後一時中絶するも、天正2年(1574)京都妙覚寺18世日典上人が再興する。
宝永の大火で焼失し、宝永5年(1708)現在地へ移転する。
 ※日典上人が再興した寺地は不明、
 宝永の大火で焼失し、現在地へ移転する間の事情は「寺町移転・宝永の大火・天明の大火」のページを参照。
 即ち、「貞享3年京大絵図」では宝永の大火前本妙寺は本満寺・立本寺・・法性寺・本禅寺の南、
 本能寺・妙満寺・要法寺・妙伝寺・寂光寺の北の中間付近の寺町に位置することが分かる。
 宝永の大火後は、天保2年(1831)「改定京町御絵図細見大成」で見るように、
 妙傳寺の南、要法寺・寂光寺の北東の位置に移転していることが分かる。
享保13年(1728)本堂などを再建する。
当寺に安置する鬼子母神像は大覚大僧正自作で日像上人開眼という。
2014/05/01撮影:
 二条本妙寺本堂1     二条本妙寺本堂2     二条本妙寺鐘楼

東山清水前大漸寺

寶林山と号する。下総中山法華経寺末。
寛保2年(1742)寶林院日逢上人によって開創される。その基(もとい)は日逢上人が大漸院日琢上人に師事していた元禄15年(1702)にあると伝えられる。
開山日逢上人は中山法華経寺の大験者という。また日逢上人は南にある松原通(清水坂)に鬼子母神堂を建て、大いに賑わったという。
また東側のなだらかな丘(現在の清水小学校校庭)には柘榴の樹が植えられ、「柘榴寺」と通称されたという。
鬼子母神堂は昭和20年代まで存在したというが今はそれを偲ぶものはない。今松原通から北側に当寺に至る小路があるが、その小路の入り口の左右に「寶林山」「大漸寺」と彫った石柱が建つがその付近にあったのであろうか。
2016/03/27追加:
「日本歴史地名大系 27 京都市の地名」より
「京都府地誌」に「弘治元年(1555)乙卯、宇治郡山科郷北花山に創立。爾後中絶。寛保2年(1742)壬戌、僧日琢、此地に移し、日蓮宗とす。初め桂林庵と号す」とある。
2012/03/22撮影:2016/01/31追加:
 大漸寺題目碑     大漸寺山門・本堂
2016/03/20撮影:
 寶林山大漸寺門柱     大漸寺山門1     大漸寺山門2     本堂前題目碑     大漸寺本堂
 大漸寺歴代墓碑       開山寶林院日逢上人墓碑

東山清水日體寺

 → 洛陽十二支妙見

東山鳥辺野本壽寺

2009/11/10追加(2009/11/05撮影画像)
山城本法寺菩提寺(山城本法寺末)であり、日親上人廟がある。(当日は工事中で境内立入不可のため実見せず)
本堂・日親廟・開山堂・庫裏・番神社(現在退転)・鐘楼などを備える。
 本寿寺山門     本寿寺門前石碑     本寿寺開山堂
2012/01/26撮影:
番神社は山門を入って右すぐ、鐘楼は西側にあったが、現在は退転し、石組の基壇と基壇上に積まれた瓦が残る。
 鳥辺野本壽寺題目碑     鳥辺野本壽寺本堂1     鳥辺野本壽寺本堂2     鳥辺野本壽寺庫裏
 本壽寺日親上人廟1      本壽寺日親上人廟2     本壽寺日親上人報恩塔    本壽寺日親上人像
 鳥辺野本壽寺開山堂1     鳥辺野本壽寺開山堂2
2013/04/09撮影:
 鳥辺野本壽寺遠望:左から庫裏(客殿・書院)、山門、本堂、日親上人廟、開山堂、鐘楼などと白壁の土塀が写る。
※西側にあった鐘楼は東に移建されているのであろうと推定されるが、鐘楼が西側にあったかどうかは再度確認を要する。
2015/03/14撮影:
 本壽寺門前     本壽寺山門     本壽寺山門/門番     本壽寺山門/門番2
 本壽寺本堂3     本壽寺本堂4     本壽寺本堂/庫裡
 日親上人廟3     日親上人廟拝所     日親上人廟4     日親上人廟5     日親上人廟扁額
 本壽寺開山堂3     本壽寺開山堂4
 本壽寺鐘楼:境内東にある。
 本壽寺旧鐘楼?;鐘楼建物と思われ、旧鐘楼であろうか。2基の鐘楼建物がある事情は不明。

東山鳥辺野實報寺:多寳山と号する。
2012/01/26撮影:
要法寺菩提所である。山門、本堂、庫裏、日尊上人逆修塔(笠塔婆)などがある。
 鳥辺野實報寺題目碑     實報寺開山本廟碑     鳥辺野實報寺山門
 鳥辺野實報寺本堂:本堂はRC造、近年の造替か。
 實報寺歴代墓所1:開山題目笠塔婆、 写真手前左に写るのは当初の笠塔婆残欠と云う。
 實報寺歴代墓所2:中央 は要法寺開山題目笠塔婆、向かって左端の笠塔婆は二世日大上人笠塔婆(応安2年・1369、花崗岩)
 實報寺開山笠塔婆:康永2年(1343)、花崗岩製、高さ約4m。
  開山塔正面の下方左右に「右為日尊逆修、康永二(1343)癸未六月」の銘文があると云う。
2015/03/15撮影:
 實報寺遠望

妙蓮寺道林寺学室(道輪寺学室):勝劣派檀林
 → 関西檀林 に記載

北野十如寺:無本寺:明治3年「寺院本末一覧」に無本寺と記載

寿福山と号する。
日像上人開山という。その他の寺歴は情報がなく不明。
2015/05/25追加:
 永仁2年(1294)頃、日像上人は平野の地で、北野天満宮の参拝者をあつめて法華経を説く。
 正和2年(1313)日像上人この地に「法華堂」を開く。
 寛正5年(1466)法華堂は現在の山号・寺号に改号するも、創立以来、一貫して北野の地に存在し続ける。
本堂内陣はご本尊と日像上人像を祀り、その右隣(南隣)は、三十番神、妙見菩薩(厨子入)、鬼子母神像など法華経守護の神々を祀る。
明治45年十如寺敷地に約600坪の京都で2番目に古い撮影所が開設され、「法華堂撮影所」と称したという。当時は、付近にはいくつかの寺院と畑ばかりであり民家は一軒になかったという。なるほど、現在十如寺は民家の奥に僅かの堂宇を構えるが、道路に面した石柱から寺門まで相当な距離があり、かっては寺域が広大であった雰囲気を色濃く残し、撮影所の用地であったことは頷ける。
2014/05/28撮影:
 北野十如寺石柱:題目碑背面は「法華堂十如寺」と刻む。     北野十如寺門前     北野十如寺山門     北野十如寺本堂

北野法華寺

妙喜山と号する。妙見堂があり、妙見大菩薩を祀る。 →池上本門寺
2016/08/15追加
○「大覚大僧正」より
延文年中(1356-61)に大覚大僧正が北野日像弘通の旧跡を法華堂としたのに始まる。
江戸初期に第2世乾性院日進上人が再興する。
延文2年(1357)大覚大僧正絵曼荼羅、享保年中造立大覚大僧正坐像を蔵する。
2014/05/28撮影:
 北野法華寺妙見堂      北野法華寺妙見大菩薩
 京都北野法華寺山門     京都北野法華寺本堂1     京都北野法華寺本堂2     北野法華寺玄関客殿

瑞竜寺(村雲御所)

○「新撰京都名所圖繪3巻」竹村俊則、昭和36年初版/昭和47年七版 では以下のように記述する。
 瑞竜寺(村雲御所) 文禄5年(1596)瑞竜院日秀尼(豊臣秀吉姉、秀次実母)が秀次の菩提を弔うために創建。
後に家康は俸禄を給し、家光もまた二条城客殿を寄進するなどして当寺を庇護する。
しかし天明の大火で堂宇を焼失、いまの建物は天保年中の再建である。
広大な境内には本堂以下の多くの堂宇があるが、第二次世界大戦後は荒廃を極めている。いかしいまなお、門跡寺院たる古格を捨て切れず、一般市民を寄せ付けない。(註 昭和38年近江八幡市へ移転する。)
○2016/07/14撮影:
このとき村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのが後陽成天皇であり、このため瑞龍寺は日蓮宗寺院では唯一の門跡寺院となり、別名を村雲御所と称するようになる。以後、代々皇女や公家の娘を貫首として迎えた。江戸時代には嵯峨から西陣(現在の堀川今出川付近)に移転する。
なお秀次の首塚と日秀の墓は、京都東山善正寺にある。秀次の幼児妻妾たち39人、賜死した家臣10人の墓と秀次の五輪の塔が 京都三条瑞泉寺(東山善正寺の項にあり)にある。また、秀次が切腹した高野山(光台院裏山)には秀次の墓所がある。
 村雲瑞竜寺跡:跡地には「西陣織会館」が建ち、何も偲ぶものはない。唯一「村雲御所跡」と「西陣」の石碑が建つのみである。

上京本瑞寺

身延山末・妙伝寺支配(明治3年「寺院本末一覧」に記載)、その他は情報なし。
 2016/02/27追加:
 「日本歴史地名大系 27 京都市の地名」より
  慶長11年(1606)日浄の創建、元は寂光寺の末寺であった。(「坊目誌」)
    ※元は寂光寺末ということは、腑に落ちないことである。
  境内には大黒堂・妙見堂・鬼子母神堂などがある。
  寛永14年(1637)洛中絵図には南北27間半、東西15間半あり、現在より境内は広かった。
  享保15年(1730)の大火に類焼し、堂舎はその後の再建である。
2014/05/28撮影:
 上立売千本本瑞寺山門     上立売千本本瑞寺本堂     上立売千本本瑞寺玄関      上立売千本本瑞寺鐘楼
2016/03/01撮影:
 本瑞寺山内題目碑     本瑞寺山門2     本瑞寺本堂2:向かって右が妙見宮      本瑞寺玄関2      本瑞寺鐘楼
 本瑞寺妙見宮     妙見宮扁額     妙見宮千度石

上京本久寺:上立売千本

境智山と号する。真門流本隆寺末(明治3年「寺院本末一覧」に記載)
永禄7年(1564)日屼(にちこつ)の創建、以来焼けずの寺として有名という。
 ※ 2016/02/27追加:
 「日本歴史地名大系 27 京都市の地名」では「日屼」とあるが、日岏が主流であるので、日岏の誤植かも知れない。
開山:智願院日岏上人(にちがん)、日岏上人は京都洛北の信者森吉太夫から京都在住の一寺を寄進され、この寺が本久寺という。
本堂、庫裡、客殿、鐘楼、山門を有する、境内 300坪
2014/05/28撮影:
 上立売千本本久寺山門     本久寺本堂鐘楼     本久寺本堂     本久寺玄関など
2016/03/01撮影:
 本久寺本堂2     本久寺鐘楼2     本久寺題目碑

上京玉渕寺(京都市上京区姥ケ北町)

佛坐山と号する。京都頂妙寺末。
寛文年中(1661-)日遊によって創建。享保の大火・天明の大火に類焼、後に再建される。本尊;釈迦如来
平成25年建物 (山門・本堂・庫裡)は破却され、境内地は貸駐車場となる。しかし駐車場の隅に「日蓮宗玉渕寺」の扁額を掲げる小宇が建立され、門前の題目碑はそのまま残る。 しかし、実態は廃寺であろう。
堂宇は破却され、既に無いので、GoogleMapなどで探す。すると破却前の写真が残っていたのでそれを掲載する。
 玉渕寺本堂;GoogleStreetVierw:2013/10
  既に山門は破却、本堂右に庫裡があったとすれば、庫裡も既に破却され、本堂のみ残った姿である。
  正面から見ると入母屋造妻入のように見える、左右には付属建物が付属する。
 玉渕寺GoogleMap:山門は東面し、本堂とその北に付属建物があり、本堂右には庫裡のような建物が写る。
 玉渕寺YahooMao:何れにせよ、狭小な境内であり、南北と西の境内を切り売りした結果であろうと推測される。
2016/03/01撮影:
境内は駐車場となり、門前にあったと思われる題目碑一基が残る。また駐車場の一隅に小宇が建てられ、この小宇が玉渕寺の正系を名のり、本尊などがそのまま祀られるものと思われる。
 玉渕寺門前題目碑     玉渕寺跡駐車場及小宇     玉渕寺小宇     日蓮宗玉渕寺
小宇内部には、おそらく旧本堂に安置されていたであろう本尊を始めとする仏像・仏具などがそのまま安置されているものと思われる。
 玉淵寺小宇内部     玉渕寺小宇本尊:一塔両尊と脇侍4尊を配する形式であるが、写真が不鮮明で脇侍4尊は不明
 小宇高祖扁額       小宇推定日蓮大菩薩像       小宇位牌類

上京三會寺:五辻千本西入

報恩山と号する。四条妙顕寺末(明治3年「日蓮宗本末一覧」)。
情報が殆どない為、寺歴など不明。
2016/02/27追加:
「日本歴史地名大系 27 京都市の地名」より
寛文年中(1661-73)日這の創建。享保15年(1730)の「西陣焼け」で類焼、その後再建。現在は尼寺。
2016/03/01撮影:
 上京三會寺山門     三會寺山門内     山門内題目碑     境内題目碑1     境内題目碑2
 上京三會寺本堂     上京三會寺庫裡     上京三會寺堂宇:堂名称不明

上京燈明寺:六軒町通今出川上る

妙法山と号する。京都立本寺末
永禄元年(1558)日像上人の「七口之塔」奉安のため、日経上人を開基として、建立される。
2016/02/27追加:
「日本歴史地名大系 27 京都市の地名」より
日像の創建、初め學養寺と号したが、後陽成天皇が一日に百燈の供養を命じたことから、今の寺号に改めたという。
2016/03/01撮影:
 上京燈明寺山門
 上京灯明寺山門扁額:燈明寺と掲げるが、寺出入の大工曰く、本扁額の部材は東福寺三門(国宝)の部材を貰い受けたものである。
  ※この由来は俄かには信じ難いが、東福寺仏殿の巽の柱は「日蓮柱」と云われ日蓮宗徒の寄進という。
  このこととなにか関係があるのであろうか。
 境内題目碑:法華経一字一石石塔、天保14年(1843)年紀      上京燈明寺本堂     上京燈明寺庫裡
 燈明寺妙見宮     燈明寺妙見宮扁額     灯明寺妙見宮内部

中千本慧光寺:

智照山と号する。六条本圀寺末。
天文年中(1532-55)三好長慶は将軍足利義輝を暗殺せんと図り、家臣の松永秀久をして、足利将軍家の家臣である野本式部少輔輝久に同意を求めるも、これを拒否したため、 輝久は松永秀久に殺害される。
輝久の室の伊佐(久我晴通女)は、亡夫の追善供養のために剃髪して妙法尼と号し、日安上人を請じて私邸を寺院に改める。これが草創である。寺号は輝久の法号慧光に由来する。
 ※その後、足利義輝は永禄8年(1565)松永秀久及び三好三人衆により暗殺される。
初め今出川通猪熊西入元伊佐町に在りしも、天正年中現在地に移る。
享保15年(1730)火災焼失、その後再建される。
2016/03/01撮影:
 慧光寺山門     慧光寺境内1     慧光寺境内2     境内一字一石塔     慧光寺本堂
 慧光寺七面堂拝殿     慧光寺七面堂     慧光寺鐘楼     慧光寺玄関・庫裡     慧光寺歴代墓碑

西町妙栄寺:京都市上京区西町(立本寺北西に隣接)

法園山と号する。玉沢妙法華寺末(明治3年「日蓮宗本末一覧」に記載)。
情報がなく、詳細な寺歴は不明。
2014/05/28撮影:
 西町妙栄寺山門     西町妙栄寺本堂     西町妙栄寺全容

西陣愛染寺:千本中立売通り千本西入(亀屋町)

京都本満寺末(明治3年「日蓮宗本末一覧」)。 愛染山と号する。
僅かに天正年中天台宗愛染院として亀屋町に建立されたという情報があるが、それ以外は皆無であり、詳細などは不明。
 ※下に写真掲載した墓碑のように、天正年中天台宗愛染院として開基したのが頂珠院日康上人であり、時期は不詳であるが日蓮宗に改宗/中興したのが智怗院日覺法尼であるのであろうか。
2016/04/17追加:
「日本歴史地名大系 27 京都市の地名」より
開基は日康上人、創建年月は不明、もと(上京区)愛染寺町(亀屋町の南々東150m)にあったが天正年中に当地に移転。
2016/03/01撮影:
 山城愛染寺山門     山内題目碑     山城愛染寺境内
 法華擁護愛染明王碑:正面「法華擁護愛染明王」と刻む。おそらく愛染院本尊愛染明は転宗によって法華の守護神とされたのであろう。
 山城愛染寺本堂1     山城愛染寺本堂2     山城愛染寺本堂3:愛染明王は右脇檀に祀られるものと思われる。
 山城愛染寺庫裡
 愛染寺歴代墓碑     當山開基頂珠院日康上人墓碑     中興開基智怗院日覺法尼墓碑

西陣妙徳寺:下長者町千本西入

四条妙顕寺末(明治3年「日蓮宗本末一覧」)。 広布山と号する。情報が皆無で、由緒など不明。
2016/04/17追加:
「日本歴史地名大系 27 京都市の地名」より
貞享元年(1684)日慈上人の開基。
2016/03/01撮影:
 門前題目碑:常題目堂とある。      山城妙徳寺山門
 山城妙徳寺全景:左は妙見宮、中央が本堂兼庫裡?      妙徳寺本堂兼庫裡?1     妙徳寺本堂兼庫裡?2
 妙徳寺妙見宮1     妙徳寺妙見宮2     妙徳寺妙見宮扁額

出水西寺町華光寺:

出水の毘沙門と通称する。華金山と号する。四条妙顕寺末(明治3年「日蓮宗本末一覧」)。
天正11年(1582)妙顕寺12世日堯上人が隠居所として開創。この時豊臣秀吉が伏見城に安置していた毘沙門天像を寄進する。
なお、加藤清正の累代子孫一族の墓碑があるというも不明。(未見)
2014/05/24撮影:
 出水華光寺山門     出水華光寺境内     出水華光寺本堂     出水華光寺鐘楼

出水西寺町本昌寺(京都市上京区七番町・七本松通り出水通り東入る)

寛文3年(1663)了光院日円上人により開創、二世顕性院日善上人代に伽藍建立。長寿山と号する。
元禄17年(1704)本山妙覚寺(京都妙覚寺)より九世信解院日従上人が入寺。
大正9年書院建立、 昭和47年山門建立、昭和57年本堂を造替。
本尊一塔両尊四士/日蓮上人像/日像上人御真骨/宝永2年(1705)七面大明神/宝永5年大黒天/子安鬼子母神/
鬼形鬼子母神/妙見大菩薩/信解院日従上人像/僧形八幡大菩薩像を有する。
 出水本昌寺山門     出水本昌寺山門内     出水本昌寺本堂

西京妙堯寺:上京区七本松通り下立売通り下ル(寺町)

神力山と号する。六条本圀寺末(明治3年「寺院本末一覧」に記載)。
宝治2年(1248)以降日蓮は比叡山での籠山の後下山する。その一時期五条油小路の書店「天王寺屋」に一時寄宿したという。
書店は、浄本及び妙蓮という夫妻が運営していた。
日蓮が日蓮宗を開宗後、夫妻は信者となり、家を精舎にし、その精舎は夫妻の名を一字ずつ取り、本蓮寺と号する。
天文5年(1536)天文の法難で焼失。
弘治元年(1555)頃あるいは永禄2年(1559)、妙堯禅尼が別邸を寄進、宗祖旧蹟の復興と子の菩提のために現在地に再興、妙堯寺と称するという。
 ※妙堯禅尼:日蓮宗尼僧。本蓮寺の檀越であった。
 ※境内墓所に浄本・妙蓮の墓及び秋山自雲の墓の一つがある。
 秋山自雲の墓は京都に8ヶ寺ある(→山城東漸寺のページを参照)と云われ、本寺の秋山自雲墓はその1つである。
2014/05/28撮影:
境内・堂舎は市中に埋もれるようにして、在る。
 西京妙堯寺山門     西京妙堯寺堂舎     西京妙堯寺歴代墓所:向かって左 の題目碑は享保20年(1735)年紀。
2016/03/01撮影:
 西京妙堯寺山門2     天王寺屋浄本・妙蓮墓碑
 西京妙堯寺歴代墓所2:向かって右が秋山自雲墓碑      秋山自雲墓碑

勝光寺

 →京都21本山學養寺中の勝光寺の項を参照

東堀川六条本蔵寺(吉水町)

昭和20年山城本蔵寺(勅願所一道院)戦時の強制疎開の措置で全建物破毀されるも、再興の目途が立たず、明石本立寺(→播磨の日蓮宗諸寺中)に本蔵寺本尊及び什宝を遷す。
ここに寺屋敷の再興を断念した京都本蔵寺は実質廃寺といって良く、本尊及び什宝は明石本立寺が引き継ぎ、本蔵寺は本立寺へ合併すると云って良いだろう。
「拾遺都名所圖繪」では
一道院 〔堀川通五条坊門にあり、法華宗本圀寺に属す。開基は吉祥院日喜上人、中興は一道院日法上人、本蔵寺と号す〕
日蓮上人像 〔和泉阿闍梨日法上人の開眼なり。霊元法皇の勅願所として、経王祈祷所の額を賜ふ〕
とある。
○山城堀川本蔵寺
東堀川佛光寺、六条本圀寺末、開山吉祥院日喜上人。
本蔵寺6世一道院日法上人<万治2年(1659)-享保4年(1719)/享保5年(1720)>は「大験者」として名高く、霊元法皇の病気快癒を祈祷、霊験が現れ、上人は「一道院日法上人」の称号を賜る。
昭和20年戦時の強制疎開で、寺敷は強制買い上げ、堂宇は破却、檀家もなく、再興の方途がたたず、再興は断念し、明石本立寺に本尊・什宝を格護することになる。
ところで、山城嵯峨常寂光寺は究意院日ワ辮lの開基であり、つまり、松本本立寺開基上人が同一であり、加えて一道院日法上人は常寂光寺に遷化(迁化)の記録がある。つまり上人は常寂光寺歴世たることを知る。しかしながら、常寂光寺への転住の経緯詳らかならず、加えてその墓所の何処たるを知らずという。
常寂光寺年表では、正徳5年(1715)一道院日法が入山、当山で遷化という。
要するに、嵯峨常寂光寺、堀川本蔵寺、松本及び明石本立寺は縁で結ばれている関係である。
以上の縁であろう、平成16年(2004)明石本立寺野口僧正と夫人により常寂光寺に開山堂が建立され、新たに発見された日ワ辮l坐像が安置される。同年、日法上人墓も開山堂傍らに建立される。
 → 山城嵯峨常寂光寺
2016/05/08追加:
○「京町鑑」白露亭主人、宝暦12年(1762)(「新修京都叢書第三巻」臨川書店 所収)
 京町鑑縦町
  ○仏光寺下ル  ▲東吉水町
此の町に本蔵寺といふ日蓮宗の寺あり。
2016/05/08追加:
○「京都坊目誌 下京第十學区之部」碓井小三郎、大正4年(「新修京都叢書」所収)
一道院
吉水町北角325番地にあり。寺門西面す。日蓮宗本圀寺に属し。本尊宝塔首題釈迦多宝佛を安す。承應元年僧日喜(号吉祥院)之を開基し。本藏寺と号す。六世日法(号一道院)正徳2年12月霊元上皇御不豫の砌玉體に近侍し加持を奉修せしが。御悩平癒す。仍て日法を律師に任し。勅額及び種々御物を賜ふ。天明8年堂舎類焼し。尋で再建せしが。元治元年兵燹に罹り今に假堂とす。現在境内面積171坪3合を有す。

京都求法院檀林(六条檀林)

 → 関西檀林 に記載

島原慈雲寺:下京区藪之内町

島原の妙見さんとして知られる。 →洛陽十二支妙見

山科檀林(竹ヶ鼻護国寺)

 → 関西檀林 に記載

山科大乗寺:山科区北花山大峰町38−1

 → 京都本能寺

深草瑞光寺:2006/01/18追加:

  ※瑞光寺は寶塔寺末寺(明治3年の「日蓮宗本末一覧」では宝塔寺末とある)、 両寺とも旧極楽寺跡に立地する。
瑞光寺は寶塔寺惣門より南すぐに位置する。
寺地はもと極楽寺薬師堂の跡といわれる。
明暦元年(1655)元政上人(1623〜67)が草庵を結ぶ。元政上人を瑞光寺開山とする。
寛文年間(1661-73)に堂宇の建立がなり、瑞光寺となる。
 山城瑞光寺本堂     2010/02/02撮影:山城瑞光寺本堂2
 元政上人墳墓:境内西(JR奈良線を越える)にあり、簡素な土盛に竹を植えた墳墓が今も護持される。
2015/01/09追加:
深草瑞光寺末寺
○深草養壽庵・・・瑞光寺北堂と称するも、詳細は不明。
 ※瑞光寺サイトに「明歴元年(1655)元政上人は瑞光寺のそばに養寿庵を設け、母をここに住まわして孝養を尽した。」とあるので、寺中であったと思われる。また元政上人には多くの女性弟子がいて、その多くは養寿庵に住まうという。京都市伏見区深草西出町33-5に堂舎が存在する模様である。
○紀伊郡田中村浄妙庵・・・左京区田中上玄京町に浄妙庵として現存する。
○伏見米(?)町琳照庵・・・青木山琳聖寺(宇治市広野町大開)として現存する。
 →下掲「宇治琳聖寺」を参照。

小栗栖檀林(本経寺):勝劣派檀林

 → 関西檀林 に記載

大亀谷檀林(隆閑寺):勝劣派檀林

 → 関西檀林 に記載

伏見鷹匠丁真福寺

鶴林山と号する。情報がなく寺歴、本寺など不明。
開山は法調院日顯上人、中興は29世唱譣院日随上人。(中興は随分後世のことで、一体どのような寺歴であったのであろうか。)
○2016/03/27K.G氏情報:
本寺は小湊誕生寺、法縁は繁珠会(達師法縁)。
なお、次の別院を有する。
 松林山真福寺:昭和43年創立、石川県小松市八幡ハ1
2016/03/07撮影:
 桃山真福寺山門     真福寺山内題目碑     桃山真福寺本堂     桃山真福寺庫裡
 真福寺歴代墓所     真福寺歴代上人碑     日蓮・開山・中興各上人墓碑     開山日顯上人墓碑     中興日随上人墓碑

伏見泉経寺:伏見区新町9-412

普潤山と号する。四条妙顕寺末 (明治3年日蓮宗本末一覧)。寺歴、本寺など詳細は不明。
本堂に掲げる「普潤山」の扁額は「鶏冠井檀林三十一嗣」の揮毫と思われる。
2016/03/07撮影:
 伏見泉経寺山門     伏見泉経寺本堂     伏見泉経寺本堂・庫裡
 伏見泉経寺鳥居・小詞:おそらく妙見社とも思われるが、不明。

伏見法性寺(京都市伏見区東大手町)   →廃寺となる。 (但し、名跡は残っているのであろうと推測。)

円珠山と号する。京都妙覚寺末。
 2016/02/27追加:
 「日本歴史地名大系 27 京都市の地名」より
  「京都府地誌」では「延宝元年(1673)癸丑僧日延之を起す」とあるも、
  寛文10年(1670)「山城國伏見街衢並近郊図」では「法花法生寺」として記載される。
大正期、「伏見七福神」廻りが盛んに行われたという。そしてそれは戦後暫く経って廃れたという。
伏見七福神の構成寺社は次のとおりで、日蓮宗法性寺が3番毘沙門天を祀るという。
  1.恵比寿:金札宮   2.大黒天:大黒寺・伏見区鷹匠町4   3.毘沙門天:法性寺・伏見区東大手町766(廃寺)
  4.弁財天:長建寺   5.布袋尊:石峰寺   6.寿老人:西福寺   7.福禄寿:海宝寺
◇法性寺は昭和32年頃廃寺という。
跡地は商業施設・マンションなどに変貌するも、毘沙門小祠が祀られ、これが唯一の現地での遺物である。
この小祠には毘沙門天立像(おそらく模刻した小像)が祀られるようであるが、未見。
廃寺の後、本尊毘沙門天は伏見墨染寺に遷座という。
そしてこの毘沙門天の所在場所は墨染寺山門を入った左手の小宇に祀られるようであるが、未見。  → 墨染寺は求法院檀林中にあり 。
2015/06/28撮影:
 伏見法性寺跡推定図:伏見法性寺は伏見大手筋商店街の中ほど北側にあった。現在伏見本教寺の狭い入口が大手筋商店街の南側に口を開けているが、その付近の北側に狭い入口を開けていたようである。
 法性寺跡入口付近:現在、入口跡(参道跡)左右は数件の呑み屋が並び、その中間は狭い路地となる。
突き当りはマンションであり、通り抜けは出来ず、袋小路である。
さらに入口跡左右は京都銀行・證券会社などであるが、ここも古は法性寺境内地であったのであろうと推察される。
裏側にまわると、大林マンションがあり、ここが本堂跡であろうか。その東は現在ハイツが建つが、墓地であったという。
西側の京都銀行駐車場付近も寺地であり、おそらくは庫裏などが建っていたのであろうかと推定される。
なを山本宣治の選挙事務所が置かれていたのはこの法性寺のあった番地であったという。
   毘沙門天小祠:大林マンションの北側に各町内にある地蔵堂と見間違える小祠がある。

伏見本教寺

 → 洛陽十二支妙見

伏見妙福寺:伏見区風呂屋町262

慈眼山と号する。六条本圀寺末(明治3年日蓮宗本末一覧)。情報が殆どなく寺歴など不明。
伏見妙福寺鐘楼門:昭和52年建立。梵鐘は宝歴4年(1760)年紀があるという。おそらく昭和52年に鐘楼門、本堂、庫裡などの堂宇が鉄骨造で造替されたものと思われる。
2015/06/28撮影:
 伏見妙福寺鐘楼門     門前題目碑
2016/03/07撮影:
 伏見妙福寺本堂

伏見常照寺:伏見区片原町291

情報が皆無、山号、寺歴、本寺など全く不明。
本寺は宝塔寺であろうか。というのは、明治3年「日蓮宗本末一覧」では宝塔寺末として伏見畑中に常照庵が挙げられる。しかし現在その常照庵は伏見畑中に、その所在を確認することができない。何らかの事情で畑中常照庵は退転し、常照庵は現在地(片原町)に移転し、常照寺を称するのであろうか。
常照寺の所在地とされる伏見区片原町291を訪ねると寺院らしき堂宇はなく、ごく一般の民家としか見えない家屋があるだけである。門もごく普通の引違戸の門があるだけであるが、門札には「常照寺住職 □□□□」と表示され、確かに常照寺住職が居住しているようではある。
しかし、外部から垣間見るだけでは、寺院が存在している確認もとれず、実態がどうであるのかは、皆目不明である。
○2016/03/27K.G氏情報:
昭和24年に寺号を公称。
本寺は深草宝塔寺、法縁は奠統会(奠師法縁)。
 ※昭和24年に寺号公称また深草宝塔寺末ということから、畑中常照庵が常照寺と公称したのであろうと推測されるが、詳細は不詳。
2016/03/07撮影:
 伏見常照寺引違門     伏見常照寺門札    伏見常照寺遠望:西側より撮影、石材店背後の家屋が常照寺?
 伏見常照寺1     伏見常照寺2

伏見妙栄山本成寺

当寺地藏堂地蔵菩薩は元大亀谷地藏院(伏見三栖薬師寺末)にあったと伝える。地藏院は承応元年(1652)隆閑寺堂宇に転用、明治3年当寺境内に遷座と云う。
当寺は慶長2年(1597)本能寺日逕上人によって現在の上板橋中之町に創建される。本能寺末(明治3年日蓮宗本末一覧)。
寛永13年(1636)篤信の中村隆運が現在地に移転する。
 ※当寺の住職は転住が多く、元の地藏院の位置(大亀谷檀林位置)・隆閑寺廃寺の時期などは承知しないと云う。
2011/06/18撮影:
 伏見本成寺山門     伏見本成寺本堂     伏見本成寺地藏堂     伏見本成寺歴代墓碑
2016/02/15追加:
「秋山自雲居士」と書かれた位牌が、地蔵堂に安置されているという。
※本来は秋山自雲の墓があったのであろうが、今は位牌のみしか無いという。位牌のみになった経緯などは不明。
※京都に8ヶ寺あるという秋山自雲墓のある1ヶ寺である。

上鳥羽実相寺

上鳥羽にあり。正覚山と号する。開基:大覚大僧正、京都妙覚寺末。
 ※以下「正覚山実相寺の沿革」四方行正、『近世初期文芸』第10号(平成5年12月) より
「山州名跡志」:
「正覚山実相寺 在上鳥羽中民居西方 門東向 仏殿南向 宗旨法華 属妙覚寺 開基大覚上人 上人ハ日像ノ弟子ナリ。近衛摂政経忠公男 初真言 嵯峨大覚寺ニ住ス。日像上人宗旨弘通時 為弟子 委龍華伝」
 中世末から近世初頭にかけて当寺は、妙覚寺の筆頭末寺、隠居寺であった。
慶長元年(1596)豊臣秀吉の千僧供養に際し、妙覚寺日奥上人の不受不施派に連座し、弾圧を受け、約50年間回復するところとならず、現在も十八代以前の歴代名等は一切不明と云う。
のち、妙覚寺は身延受不施派に転向。
「上京妙覚寺諸末寺覚」(幕府に提出、寛永10年・1633・11月28日)には、本寺と共に受不施に転じた末寺は、同意、随順とあり、転じなかったものは、違背、于今不参と記録されているが、実相寺は「違背」と記されている。
しかしながら、その後は回復、
「京都御役所向大概覚書」には「正徳六(1716)年申年、鳥羽実相寺本堂、為修復、相撲為取申度之旨相願候、右寺は朝鮮人来聴之節、休息所罷成候ニ付、願之通同年日数七日赦免」とある。
江戸期には中本山格、寺中四ヶ寺あり、明治8年、最後の寺中の一ヶ寺も水害で消滅。
 江戸期、当寺は松永貞徳ゆかりの寺として有名であった。それは貞徳の兄であり、日奥上人の後を追って対馬に渡りその地で没した教行院日陽が当寺の住持であった関係から、貞徳没後はその墓が本寺に置かれたことによる。
※2007/08/02追加
○「都名所圖會」より
 上鳥羽実相寺
2016/08/15追加
○「大覚大僧正」より
大覚大僧正勅願祈雨の旧跡と伝える。
大覚大僧正絵曼荼羅、大覚大僧正作日蓮上人坐像、大覚大僧正坐像を伝える。

宇治直行寺

宇治市街にあり。寶乗山と号する。四条妙顕寺末(明治3年「日蓮宗本末一覧」)。
日蓮上人が南都遊学の途上、宇治の地に立ち寄り、当時の茶司金地久弘を教化する。
その後、日像上人がその屋敷跡に庵を建て、洛中布教の時の宿とする。
初めは直行庵と称するも、2世大覚大僧正の時、後醍醐天皇より寶乗山直行寺の寺号が贈られる。
近年堂宇は全て造替され、本堂・大黒天堂はRC造となる。
2016/08/15追加
○「大覚大僧正」より
大覚大僧正絵曼荼羅を蔵する。
2016/06/19追加:
○「宇治郷総絵図」、江戸中期3.74m×5.24m、宇治市歴史資料館蔵 より
 宇治郷総絵図・直行寺部分:上部の中ほどに直行寺伽藍が描かれる。現在はRC造の堂宇に造替されるも、往時は山門、本堂(重層)、廊下、庫裡、右手に鐘楼、左手には堂宇(大黒堂?)の建物があったものと思われる。
2016/05/19撮影:
 直行寺々号碑     日像菩薩霊蹟碑:永仁4年(1296)春、日像菩薩南都御遊学途最初転法輪霊跡
 宇治直行寺入口     直行寺本堂・大黒天堂     宇治直行寺庫裡      直行寺題目碑     直行寺日蓮上人碑

宇治琳聖寺:宇治市広野町大開

青木山と号する。深草瑞光寺末。もとは琳照庵と称し、伏見米(?)町にあったが、宇治大開に移転する。 →上掲「深草瑞光寺」を参照
2015/01/09撮影:
住職談:深草瑞光寺末寺であった。かっては伏見にあった。
当地宇治に移転したのは昭和戦後(正確な年代は調べてみないと分からない)である。
 宇治琳聖寺1     宇治琳聖寺2
 琳聖寺題目碑:石碑の年紀は不明、古いもののように見え、あるいは伏見からの移建かもしれない。
 宇治琳聖寺3:宝形造本堂、庫裡、題目碑と本堂背後に若干の墓地があるのみの小寺院である。

大住法華寺:大住岡村にある。瑞應山と号する。六条本国寺末。

 法華寺の前身は、旧記を案ずるに、中古は醍醐山三宝院に属する岡村大日堂盛行庵と称する庵室であった。
当時の本尊は大日如来で「雷除けの大日如来」として信仰を集めると伝える。
寛永15年(1638)六条本国寺喜見院日便上人、その出身地岡村に、洛中曇華院宮・三宝院門跡から寺領の分与を受け、本國寺第17世鷲峰院日桓上人の本尊を受け、法華寺を開山する。
寛政11年(1799)鐘楼堂再建棟札には、曇華院宮・三宝院宮・旗本天野氏・代官澤井氏などの名が連なるという。
慶応4年鳥羽伏見の戦いの際には、曇華院宮が澤井家に避難し、当寺に宮方の霊牌を安置、その所領を下賜するともいう。
平成3年(1991)本堂庫裡再建。
 ※六条本国寺喜見院日便上人は当地岡村澤井家の出身、寛永年中奈良油阪蓮長寺を中興開山する。
また寛文3年(1663)頃、山城燈明寺の本堂・三重塔を修理・再興という。
 ※現住38世開聞院日梵上人、近江大津本要寺<近江の諸寺中>兼帯。
2016/05/17撮影:
 大住法華寺山門     山内法華題目碑:開山喜見院日便上人二百□回忌・・と刻む。
 大住法華寺本堂     大住法華寺庫裡
 大住法華寺内陣     法華寺日蓮大菩薩
 法華寺大日尊厨子:下に掲載の大日如来坐像を安置と思われる。「大日尊」の扁額は旧大日堂時代のものであろう。
 法華寺鬼子母神立像     法華寺左脇檀     法華寺妙見大菩薩1     法華寺妙見大菩薩2     法華寺三十番神
2016/06/13追加:
○「京田辺市の仏像ー京田辺市美術工芸品調査報告書」京田辺市教育委員会、2007 より
 木造大日如来坐像:室町期の作と推定、像高40cm。大日堂時代の本尊であったのであろう。
 木造妙見菩薩坐像:江戸期の作と推定、像高27cm。いわゆる能勢型妙見菩薩である。

大原野灰方日正寺

山下の日正寺題目碑の裏面に「大正1□年」の年紀があること、当山開基日正上人の墓碑に「昭和56年遷化」の刻銘があることから、おそらく当山は大正後期に開山された近代の寺院と推測される。
山号は不明、萬霊納牌堂の扁額に本満寺日政の花押があることから、京洛本満寺に属すると思われるも不明。
日正上人遷化の後、齢92の尼僧が寺を守る(但し若い僧が居るとの情報もあり)とのWeb情報がある。
2016/03/31撮影:
 山下題目碑:妙見道とは不明、しかし 題目碑に日正の花押があるので、日正寺の題目碑であるのは間違いないだろう。
 日蓮上人像     日正寺本堂1     日正寺本堂2     萬霊納牌堂1     萬霊納牌堂2:扁額の花押は本満寺日政(上述)
 日正寺庫裡か客殿     日正寺庫裡かあるいは民家か     開基日正上人墓碑:昭和56年遷化(上述)
2016/06/14追加:KG氏情報:
「灰方日正寺:山号は恵神山。
大正12年に、明渡日正(鶏冠井石塔寺43世)により灰方妙見教会として創立。
その後、荒廃する。
川崎恵神が担任となり、昭和24年に寺号公称。」
 ※開祖墓碑(上掲載:開基日正上人墓碑)がある。この正面には「當山開祖 菩提行院日正上人」、側面には「昭和56年・・遷化、川崎恵神享年78歳」と刻む。
以上に拠れば、日正上人は俗名川崎恵神、明治36年(1903)頃の生まれ、大正12年(1923)は20歳前後、昭和24年(1949)は46歳ということになる。なお、庫裡に懸る表札は現在も「日正寺住職/川崎恵神」とある。
つまり、川崎恵神は日正寺開祖菩提行院日正であり、昭和24年46歳の時、寺号公称・日正寺を開山したと思われる。そして日正寺の草創は大正12年に明渡日正(菩提行院日正とは別僧であろう)が灰方妙見教会として創立したことにあるということであろうか。
 ※山下の題目碑(上掲載山下題目碑)の年紀は大正1□年であり、また「妙見道」と刻むので、大正12年妙見教会として創立ということと符合する。なお、この題目碑にある日正の花押は明渡日正と考えられる。
また、日正寺は「妙見さん」と通称されるようであり、妙見教会として創立されたという寺歴と符合する。
KG氏情報:(追伸):2016/06/15
「扁額に本満寺梅本日政貫首の花押がある理由は、日正寺は隆源会(莚師法縁)であり縁頭本山の本満寺に揮毫を依頼したのであろう。」
 ※日正寺「妙見さん」がもし能勢妙見からの勧請であるとすれば、能勢妙見の本山が本満寺である縁で本満寺日政の揮毫があるのかと解釈していたが、そうではなく本満寺の法縁から「妙見さん」を勧請したのであろうか。
しかし、いずれにしろ日正寺妙見については片鱗の情報もないので判断は保留せざるをえない。

大原野上羽日啓寺

(有)三輪工業の敷地内に一宇がある。この一宇に日啓寺の木札が懸る。 ※住所:京都市西京区大原野上羽町267番地
三輪工業は織物を業とするようである。従業員を何人か雇ってはいるようであるが、家内工業の範疇であろう。
 ※三輪工業はHP(http://nrh21649.wix.com/miwakougyou)を所有している。これによれば、製袋業のようである。
責任者を呼んでもらうと、居合わせた40〜50歳代と思われる人物が現れ、三輪工業の身内(責任者)という。
その身内(責任者)という人物との問答は以下のとおり。
「日啓寺は三輪工業の所有か、お寺なのか、何をお祀りしているのか」
「自分は詳しくは知らないが、自分の祖母が早く亡くなって、そのために、祖父が建立した。」
 ※祖父が早世した妻の菩提を弔うために日啓寺を建立したということであろう。
「寺の名称から、宗旨は日蓮宗とも思われるが、日蓮宗なのか」
「日蓮宗である。毎月一度お坊様が来て供養?する。」
 ※月一度は日啓寺で法要が行われているということなのであろうか。
「お坊様とはどこの寺院のお坊様なのか。」
「自分の父は知っているが、自分は知らない。」
「日啓寺の本山(本寺)はどこか。例えば京都市内の本満寺とか・・」
「自分は知らない。」
「日啓寺の中をお参りさせて欲しいのだが?」
「それは、無理。」
「では、外観だけでも、写真を撮らせて欲しい。」
 これには「頷いて」、身内の方は仕事場に戻る。
2016/03/31撮影:
 日啓寺1     日啓寺2     日啓寺3     日啓寺4
2016/06/14追加:KG氏情報:
「大原野日啓寺は宗教法人ではないようで個人の私坊のようです。」
 ※確かに、「個人の私坊」という表現が的確であるのかも知れない。「日啓寺」という「寺号」は掲げるも、個人宅にある仏壇の延長線上にある性格の一宇あるいは仏間を一宇として建立し、それに寺号を私的に名乗る個人的施設というのが妥当であるのかも知れない。


鶏冠井(北真経寺・南真経寺・興隆寺・石塔寺)

京洛での法華弘通を使命とする日像上人は既存佛教により何度か洛外に追放される法難を受ける。
徳治2年(1307)西国に赴く途中、日像上人は向日明神の導きで、鶏冠井に至り、説法して、鶏冠井を皆法華となす。
この時、鶏冠井村真言宗真言寺の実賢律師を論伏して改宗させ、名を真経寺と改号する。
現在、鶏冠井には、北真経寺及び南真経寺、向日明神参道入口の「日像説法石」、日像が京の七口に建立した「題目石」及びそれを守護する石塔寺などが残る。
天正20年(1592)頃、向日町が発展するが、この頃日蓮宗興隆寺が創建される。
明暦3年(1657)通明院日祥上人が真経寺に17堂舎を設け檀林を設立し、真経寺は2分される。
 ※現地の説明板などでは開檀は承応3年(1654)とする。
即ち真経寺は檀林として北真経寺と称し、新に信仰の対象として、興隆寺西南に南真経寺が移転・建立される。
 「拾遺都名所圖會 巻三」天明7年 より:西岡鶏冠井村 檀林
 「拾遺都名所圖會 巻三」天明7年 より:西岡向日興隆寺真経寺
  ※図の上が興隆寺で本堂・鐘楼・方丈・庭園などを具備した寺院であった。図の下が南真経寺。
   興隆寺の現状は法務局北側に土塀跡が一部残り、その内側の竹薮に墓地が残るのみと云う。
   なお興隆寺は中世の鶏冠井城跡とも云われる、かっては室町末期の金箔瓦・磁器なども出土と云う。
明治8年興隆寺は廃寺となり、檀林も廃止される。
2015/08/13追加:
◇「企画展示図録 むこうし・おとくにの絵図・地図・写真―うつりかわる景観」向日市文化資料館、2013.3 より
 乙訓郡鶏冠井村絵図:文化10年(1813):鶏冠井区有文書
西端の鳥居は向日明神、その東に真経寺(南真経寺)と興隆寺、さらにその東に檀林(北真経寺)、興隆寺と真経寺の南に石塔寺が配置されている様が分かる。 この4ヶ寺は全て日蓮宗寺院である。
 城州乙訓郡鶏冠井村惣絵図面:明治3年:鶏冠井区有文書
興隆寺はこの数年後に廃寺となる。檀林(北真経寺)に泉行坊、成就院が存在したことが分かる。おそらく間もなく廃寺となったものと推測される。
○日像上人説法石
2016/01/23撮影:
 日像上人がその上で説法したという「日像上人説法石」が向日明神の社頭にある。
  鶏冠井日像説法石1     鶏冠井日像説法石2
○向日明神
2016/01/23撮影:
 今なお社頭に社家が残る。この社家には、幕末に80代宮司として、国学者六人部是香(よしか)が居住する。是香は王政復古に狂騒する。
  向日明神社家1     向日明神社家2:現在の表札 は「六人部是継」とある。
 本殿は応永25年(1418)の三間社流造の建築で重文という。しかし覆屋に覆われ一瞥すら不可で、残念である。
なお国家神道・国策神社であると一目で分かる明治神宮本殿はこの社殿の1.5倍のスケールで設計されたというので、是香といい国策神社の本殿モデルの話といい、 穢らわしいかな、向日明神は民に暴戻を尽くした国家神道の一つの出生地というべきであろう。
  向日明神本殿覆屋

鶏冠井檀林(真経寺/北真経寺)

 → 関西檀林 に記載

鶏冠井南真経寺

承応3年(1654)通明院日祥上人が真経寺に開檀したとき、真経寺を檀林北真経寺とし、民衆の信仰施設として興隆寺山内に南真経寺を開創する。これが現在の南真経寺である。勿論、根源は日像上人開基の真教寺であるから、開祖は日像、二祖は実賢律師となることは北真経寺と同一である。四条妙顕寺末(明治3年「日蓮宗本末一覧」)。
なお、鶏冠井興隆寺は明治8年廃寺となり、鶏冠井石塔寺に合併する。
近世の景観は次の通り:「拾遺都名所圖會 巻三」天明7年 より:西岡向日興隆寺真経寺
2007/07/19撮影:
 南真経寺本堂・開山堂:興隆寺は既に無く、境内は周囲から侵食されるが、基本的に主要堂宇は江戸期のままである。
   同   本堂:「拾遺都名所圖會 巻三」では鬼子母神堂とある。 正徳4年(1714)建立。
   同  開山堂:「拾遺都名所圖會 巻三」では本堂とある。寛永11年(1634)建立。
2016/01/23撮影:
 南真経寺南門1     南真経寺南門2     南門前題目碑     南真経寺西門     西門前題目碑
 南真経寺本堂1     南真経寺本堂2     南真経寺本堂3     南真経寺本堂4     南真経寺本堂5
 南真経寺開山堂1    南真経寺開山堂2    南真経寺開山堂3    南真経寺開山堂4    南真経寺開山堂5
 開山堂扁額:扁額は本阿弥光悦の揮毫という。
 南真経寺鐘楼:元禄12年(1699)建立 。
 小祠跡か:鎮守 ・三十番神などの小祠跡と思われるが、不明
 中門・庫裡・客殿・書院     南真経寺中門     南真経寺庫裡     南真経寺玄関     南真経寺客殿
 歴代墓所:中央の新しい六角形の笠塔婆は「開山龍華院日像菩薩」と刻む。

鶏冠井興隆寺(廃寺)

天正20年(1592)頃、日堯上人によって開山。四条妙顕寺末(明治3年「日蓮宗本末一覧」)。
明暦3年(1657)通明院日祥上人が真経寺に17堂舎を設け檀林を設立し、真経寺は2分される。 即ち元地の真経寺は檀林として北真経寺となり、信仰の対象としては、興隆寺の一画に間借りする形で南真経寺が建立される。
 日堯上人については「日本古典作者事典」(Web)に次のようにある。
日堯:法諱・淳誉、顕彰院/玄孝院、天文12年(1543)ー慶長9年(1604)、備前日蓮僧/飯高檀林で修学、京妙顕寺12世/岩倉金竜寺/鶏冠井興隆寺開
 (備前の出身で飯高檀林で学ぶ。四条妙顕寺12世、鶏冠井興隆寺及び岩倉金竜寺開山、顯彰院/玄孝院と号する。)
 (岩倉金竜寺は四条妙顕寺末(明治3年「日蓮宗本末一覧」)であるが、明治3年には既に廃寺に分類されている。)
 2016/03/27追加:
 「日本歴史地名大系 26 京都府の地名」の興隆寺の項 より
  「本化別頭仏祖統記」所蔵の「洛西鶏冠山真経寺實賢上人伝」には龍華10世日堯の建立、
  日運が池上祖堂の日蓮影像を模して安置と云う。
明治8年廃寺となる。(廃寺の理由は不明)
現在は、東側土塀跡が一部残り、その中に興隆寺歴代墓碑と檀信徒と思われる多数の墓碑が残るのみで、荒れ果てている。
2016/01/23撮影:
 興隆寺跡石碑及土塀跡     興隆寺土塀跡     歴代及檀信徒墓碑1     歴代及檀信徒墓碑2     歴代及檀信徒墓碑3
三菩薩碑:日蓮大菩薩・日朗菩薩・日像菩薩と刻み、上部台石に開山日堯上人と刻む。開山日堯が建立したものであろう。
三菩薩碑の背後にはおそらく興隆寺初期の歴代墓碑と思われる墓碑があるも、刻が浅く、判読ができないため解明できず。
 三菩薩碑1     三菩薩碑2     三菩薩碑3     初期歴代墓碑か1     初期歴代墓碑か2
第九〜十三世歴代墓碑:第九世日順/享保12年(1727)、第十世日達/享保14年(1729)、第十一世日成/宝暦八年(1758)、第十二世日皎/宝暦?、第十三世日豊/要法院日演聖人(意味が不明)などと 刻まれる。
 九〜十三世墓碑1     九〜十三世墓碑2

鶏冠井石塔寺:法性山と号す。

延慶3年(1310)日像上人は向日明神の社頭に法華題目石塔婆を建立。
文明2年(1470)日成上人、その傍らに堂宇を建立し石塔寺と称する。開山は日像上人。四条妙顕寺末(明治3年「日蓮宗本末一覧」)。
元和年間(1615-)勧修寺宮御殿を下賜され、本堂を再建。
石塔寺は京都妙覚寺に属し、妙覚寺が受派に接取された後も不受不施たらんとする。
その後、悲田派に属するも、幕府の弾圧(悲田派禁制)により、禁制後は京都妙顕寺に属し命脈を保つ。
 ※「石塔寺の紹介」のページでは以下のように述べる。
  (不受不施)禁制による幕府の迫害に遭った時、当時の寺僧が、豊臣秀吉から賜った御本尊を持ち出し、
  西国へ逃げ延びた事が、近年判明しました。その御本尊は江戸末期には大分県別府にあり、明治に入り、
  大分県日田市の妙栄寺創建の御本尊として安置され現在に至る。
妙顕寺の配下で中本山と称し、宝永6年(1709)には、近畿、備中に33ヵ寺の末寺を有するという。
近世後期は衰微するも、明治11年(明治8年ともいう)興隆寺を合併、 本堂、庫裡、座敷、小座敷、塔堂、七面堂、妙見堂、鐘楼、山門、仁王門などを整備する。
本堂前には廃興隆寺から移建した仁王門があったとするも、近年(昭和38年以前)の台風で大破、撤去されると云う。
なお、昭和29年、単立し、本化日蓮宗本山と称する。
2016/01/23撮影:
 山門前題目碑     石塔寺山門     山門内参道     山内題目碑     石塔寺本堂1     石塔寺本堂2
 塔堂・七面堂・迹殿・鐘楼     御塔(石塔)題目碑     石塔寺塔堂     塔堂内部:日像菩薩御塔
 石塔寺七面堂
 石塔寺迹殿:迹殿とは不明、以前には塔堂、七面堂、三十番神、妙見堂が並んでいたが、七面堂は造替され、三十番神、妙見堂は姿を消し、新しく迹殿が建立されたようである。
2016/03/27追加:
「日本歴史地名大系 26 京都府の地名」の石塔寺の項に「興隆寺も境内の一宇となっている。」との記載がある。
つまり、「迹殿」とは「あとの殿舎」「古跡の堂」であり、興隆寺の跡の堂という意味であろう。
 石塔寺鐘楼     石塔寺庫裡1      石塔寺庫裡2
 石塔寺歴代1:左端は日蓮上人供養塔      石塔寺歴代2:右端は日像上人供養塔      石塔寺歴代3:右端日像上人供養塔
2014/11/12追加:
現存する旧末寺は次の通り
 長栄山妙典寺:伊勢名張(名張市元町)
 正覚山実光寺:山城上鳥羽(南区上鳥羽南中ノ坪町)
 小泉山好堅寺:丹波東別院(亀岡市東別院町小泉大道)
 栄長山妙勝寺:大和・田原本(奈良県磯城郡田原本町新町)
 ○恵雲山星友寺:備中高松(岡山市北区高松)・・・・・・・・・「西国諸国の諸寺/備中」にあり。
 ○清涼山妙立寺:備中高松・現和井元(岡山市北区和井元)・・・同上
 ○法意山蓮休寺:備中加茂(岡山市北区加茂)・・・・・・・・・・・・・同上
 ○都宇山宗蓮寺:備中津寺(岡山市北区津寺)・・・・・・・・・・・・・同上
 ○如意山呑海寺:備中簑島(岡山市南区箕島)・・・・・・・・・・・・・同上
 ○海母山正福寺;備中箕島(岡山市南区箕島)・・・・・・・・・・・・・同上
 ○寿永山妙法寺:備中早島(岡山県都窪郡早島町早島)・・・・・・同上

上植野法華寺:乙訓郡西岡植野村(京都府向日市上植野小字西小路24)

広布山と号する。四条妙顕寺末。
:はじめは真言宗であったが、延慶3年(1310)に日像上人の教化により改宗する。
2016/02/17KG氏情報:
末寺として、摂津加賀山乾性寺(→摂津の諸寺中 )を有する。
2016/03/27追加:
天正19年(1591)日了開基。(「日本歴史地名大系 26 京都府の地名」)
2016/01/23撮影:
 植野法華寺参道     法華寺門前題目碑    法華寺山門
本堂・玄関・庫裡・(客殿・書院も)は平成7年(1995)の阪神淡路大震災で相當な被害を受け、その後に造替する。設計施工は桂離宮の昭和の大修理に関わった大工と云う。基本的に檜材を使用して建造する。
 法華寺本堂1     法華寺本堂2     法華寺本堂3     本堂扁額:山号「廣布山」
 本堂扁額:「鬼子母善神」とあるので、鬼子母神堂が退転し、脇檀に鬼子母神を祀っているのかも知れない。
 玄関・庫裡:背後にさらに2棟の新築建物があり、客殿・書院の類と推定される。
日像上人髭題目:いわゆる髭題目である。日像上人は髭題目の髭の部分を曲線で描く特徴があるが、まさに日像の髭題目である。
 境内題目碑     日蓮上人像と髭題目
 法華寺鐘楼     法華寺梵鐘:寶歴8年(1758)の年紀がある。(写真には写っていない)
妙見堂:明治年中、東海道線の開通あるいは拡幅かで、法華寺四方2、3町のところにあった真言宗の寺院(寺名は失念)が立ち退きになり(九州へ?)その寺院の薬師堂を譲り受けそれを妙見堂となしたという。 本尊の妙見像はいわゆる能勢型の小像という。
2016/03/27追加:
上述の『真言宗の寺院(寺名は失念)』という寺院について
向日明神の御旅所の東隣、現在の上植野公民館の場所に乗願寺が描かれる。(明治初年の「乙訓郡上植野村惣絵図面」)
乗願寺(字西小路、浄土宗西山派、現廃寺)は本尊薬師如来云々。(「日本歴史地名大系 26 京都府の地名」)
とある。
※法華寺妙見堂は乗願寺よりの受贈と思われる。乗願寺は法華寺の西南100mほどの所にあったようである。
上では受贈された寺名は失念と記載したが、住職の言は「はっきりとは覚えていないが、ジョウジョウ寺と云ったような寺院名の寺院から譲り受けたと聞いている云々」といったものであり、真言宗というのは別にして、住職の言の「はっきりと記憶していない寺院名」の類似から、現妙見堂はほぼ間違いなく上植野の乗願寺からの受贈であろう。しかも乗願寺本尊は薬師如来というから、受贈された「薬師堂」とは乗願寺本堂であった可能性は高いと思われる。
 法華寺妙見堂1     法華寺妙見堂2     法華寺妙見堂3     法華寺妙見堂4
 法華寺番神堂1     法華寺番神堂2     法華寺番神堂3:文化3年(1806)鳥居造立
 三十番神石燈籠:享保16年(1731)年紀
 七面大明神石燈籠:七面大明神御寶前と読め、おそらく七面天女も祀られていたのであろう。

八幡本妙寺

石清水八幡宮東谷下に法華宗本妙寺がある。(但し、石清水八幡宮との関係は認められない。)
開基は普伝院日門上人とする。(日門上人墓所であり、久遠山と号する。)
日門上人は元南光坊と云い、真言僧であった。竹内伊予守経孝が南光坊に帰依し、願主となり一寺を建立する。
永禄7年(1564)洛中本隆寺6世日雄上人八幡にて説法をなす。南光坊これを聴聞し法華宗に転宗し、名を日門に、寺号を本妙寺に、山号を久遠山に改める。これに呼応し檀越竹内伊予守は寺観を拡張、寺中円珠坊、乗蓮坊を設立す。
日門は、その後当寺を本山及び弟子に託し、京都・堺・安土に弘通する。その様子は以下のようであったと伝える。
「普伝日門は信長の膝下の安土城下に来って猛烈な折伏伝道を行い、これによってまず本願寺門徒大脇伝介、禅宗徒建部紹智は日門の熱心な帰依者となり、かくして毎日数百人の改宗者を生じたという。」(「日蓮教団史概説」影山堯雄 より)
この日門の弘教は後の天正7年(1579)の安土宗論の一つの遠因となる。
安土宗論では奸計をもって、法華宗側の敗北とされ、大脇伝介・日門上人は捕らえられ拷問をもって惨殺され、建部紹智は堺に捕らえて殺害されたのである。法華宗京都諸本山は連署して、法華宗の敗北であること・一切法論をせぬことなどの起請文を信長に入れ、さらに日諦・日b・日淵の三人は安土の正覚院に27日間拘禁されたのである。
安土宗論では以上のように法華教団は打撃を受けるも、本寺は近世を通じ維持される。
平成8年不審火によって本堂焼失、同12年本堂再興。洛中本隆寺
2009/12/17撮影:
 八幡本妙寺本堂     八幡本妙寺妙見堂:由緒は未調査 (下に掲載)
2013/03/31追加:
○「石清水八幡宮境内調査報告書」2011 より
元禄5年「神社仏閣并坊舎寺庵改帳」
  京本隆寺末寺城之内町 御朱印高14石6斗8升 本妙寺
   124年以上前永禄12年竹内伊豫建立日吽開基
  寺家 御朱印高7石7斗3升              圓珠坊
   124年以上前永禄12年竹内伊豫建立日休開基
  寺家 御朱印高6石                   乗蓮坊
   以上2ヶ寺同時同人建立日元開基
2016/02/09追加:
由緒:永禄7年(1564)、檀越竹内伊予守経孝によってに創建。開山は本隆寺の證誠院日雄上人、二世は、日門上人とする。
日門上人墓所:田中智学が「安土法難」執筆で、本妙寺に墓参したときに、天正7年(1579)安土宗論の犠牲になった日門上人に相応しい墓を提案して、大正11年4月に除幕式を行ったという。<未見>
妙見堂:明治の神仏分離の処置で石清水八幡宮境内から遷座するという。

加茂燈明寺

 → 加茂燈明寺:六条本圀寺末、三重塔(重文)及び本堂(重文)は現在横浜三渓園に移建、現存する。

相楽郡総神寺:相楽郡南山城村童仙房車谷

昭和25年創建、法華日蓮宗(別格)総本山と称する。
木造二層塔を有する。

 → 山城総神寺


2014/06/03作成:2016/08/15更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系