神 仏 分 離

山 城 久 世 郡 及 び 綴 喜 郡 の 神 仏 習 合 な ら び に 神 仏 分 離

山城久世郡(現久御山町・城陽市など)・山城綴喜郡(現京田辺市など)の神仏習合ならびに神仏分離

◆概要
 明治維新後に創建された神社を除き、江戸期以前からの由緒を語る「神社」は、その歴史が古代から続き、また素朴な信仰がその源であるにせよ、古代に仏教が伝来して以来、神社には何らかの形で仏教が入り、古代は勿論のこと中世以降、ほぼ例外なく、何がしかの神仏が習合した形態であったのが一般的であった。
 ところが現在では、殆ど全ての神社は、仏教とは無関係であり、古来から純粋に「神社」であったような「顔」をしている。
しかし、「神社」が仏教とは無関係であるという「顔」は、明治の神仏分離により、神社からは佛教的な要素が取除かれ、 国家神道が明治政府の宗教政策として推し進められた結果、成立した極めて最近の政治的宗教政策によって作られたものでしかない。
そして、神社が神社の由緒・歴史を語るとき、神仏習合時代のこと、寺院による支配のこと、明治の神仏分離による廃仏毀釈のことなどには全く触れないかあるいは他人ごとのように触れるだけである。これは、現在の神社そのものが戦前までの国家神道に今日も毒されている、あるいはほんの百数十年前の歴史に無知である、あるいはある種の「後ろめたさ」があるということなのであろう。
さらにはごく一部の神社では、あの大東亜戦争などに帰結した天皇制国家を支えた国家神道の夢を未だに捨てきれず、今も国家神道の「隆盛」を夢見ているということなのであろう。
特に、延喜式内社などとおよそ破綻した由緒を吹聴するような神社(近世の国学者や復古神道家による捏造・付会である場合が殆どと思われる)には、それが顕著に見られるようである。
 また祭神についても、多くの問題を含む。
即ち、どの神社でもまず第一に誇らしげに語る祭神についても、ほぼ全ての神社で本来の祭神が捨てられたあげくに取り替えられ、あるいは祭神が追加変更されたことが指摘される。しかもその 取り替えられたあるいか新しく追加された祭神は国家神道の「教義」に合うように付会された場合がほとんどである。しかも、極めて「適当」にご都合主義的に祭神変更が行われた のである。
 以上のような意味では、国家神道とは古来からの日本の神々を否定し、古来からの神々を冒涜する新興宗教に他ならないのである。
かくして、現在殆どの「神社」の語る由緒とは明治以降の国家神道の「教義」を散りばめたものであり、祭神とは国家神道の祭神を強引に当て嵌めた場合が極めて多いと知るべきなのである。

 山城久世郡・綴喜郡(現在の久御山町・城陽市・京田辺市及びその周辺)にも、全国どこにでも見られるようにそんなに著名ではないごく一般的と思われる神社が散在する。
そしてこれ等の神社は、今は、殆ど仏教とは無関係な「神社」の顔をしている。
 (※注意深く観察すれば、神仏習合時代の痕跡が残る場合もあるが、それはかなりの注意力が必要である。 )
 (※文化財として見れば、この地の神社の社殿は、中世末もしくは近世初頭造営のものが多く伝えられ、国の重文指定およびそれに準ずる優秀な社殿が高密度で分布する。)

◆本ページの目的
 現在では仏教とは全く無関係を装う神社も、残された伝承・寺社明細帳・縁起類・棟札などの記録、境内あるいは周囲に辛うじて残る堂宇・仏像等を見、 そして少しその歴史を紐解けば、ほとんどの神社はその規模が大きく、かつ由緒が正しいとされるほど、神宮寺、本地堂、仏堂、塔婆などが建立され、本地仏が祀られ、経典が誦まれ、護摩が焚かれ、社僧が供奉していたのが「神社」の実態であったと見えてくる。
 今なお仏塔を残すあるいはかっては仏塔が建立されていたような著名な「官幣社」などと称する社は、このサイトの「塔婆」関連のページで取り上げているが、「村社」「郷社」レベルの「小規模」な神社の神仏習合および神仏分離の実態はどのようなものであったのかを、山城久世郡及び綴喜郡の神社を例として、取り上げる。

ついでながら、なぜ明治の神仏分離はそんなに簡単に貫徹したかと云えば、それは佛教が当時堕落(正確には佛教の堕落ではなくて、僧侶の堕落)し、その存立基盤から見捨てられた存在であったからなのであろう。


2008/07/14撮影画像:富野の現荒見神社(常楽寺・天神社)附近で撮影

式内社:延喜式内社(久世郡内)
久世郡内には9座の延喜式内社の記載がある。
即ち
旦椋社、巨椋社、石田神社(茶の前と里の2箇所にある)、双栗神社、水主神社、荒見神社、水度神社、伊勢田神社、室城神社という。
 ※なお荒見社についての比定は、現在、城陽市富野荒見田に鎮座の社と久御山町田井に鎮座の社の両説がある。
 ※荒見社・石田社などの「論社」に象徴されるように、要するに、延喜式内社といっても、その実態は中世・近世にはいつしか廃絶し、
  不明となった場合も多いと推測され、現在は式内社を名乗っていても、「不確実」な場合や近世末・近代初頭の「捏造」や「付会」も多く、
  祭神も含め、「本当かな?」と疑ってかかった方が賢明なのである。

------以下は旧久世郡現久御山町の神社に於ける神仏習合並びに分離-------画像は断りの無い限り2002/10/05撮影

2009/06/24追加:
広野円蔵院鎮守皇太神宮:2009/06//17撮影

現地説明板には以下のようにある。
「慶安2年(1649)淀藩主永井尚正、広野新田村を開き、曹洞宗円蔵院鎮守として天照大神を勧請。広野神社と称されたが、いつの時代か不明であるが、皇大神宮社の社名になる。明治の神仏分離で円蔵院から離され、村方三役がこの神社を引請けることになる。昭和36年社殿倒壊、昭和38年社殿再建。」
 以上が説くところから、この神社は円蔵院の鎮守として創建され、祭神や社名から、江戸初期には伊勢神宮の御師の勢力が及んでいたものと分かる。
明治の神仏分離で地方寺院の鎮守社如き小社も分離対象となり、神社として強引に分離させられたのであろう。
 広野円蔵院鎮守皇太神宮:境内には2対4基の石燈籠が残る。何れも「太神宮 」と刻まれ、年記は宝暦年中(1751-)・・・年は判読不可、と文化14年(1817)である。本殿は西面する。本殿背後(東)をJR奈良線が通るが、JR奈良線開通前本殿は線路東側にあったという、現在本殿のあったであろう地は荒地であるが、 数年以内に都市計画によって道路に変貌する予定である。 

2009/06/24追加:
栗隈天神(旦椋神社):但し、現在の行政区は宇治市:2009/06//15,16撮影

○「宇治市史 第1巻」では以下のように記載される。
「式内社旦椋神社は、別に栗隈社とか栗隈天神と呼ばれていた。」
 ※以上が意味するところは栗隈天神社は旦椋神社とは全く別の社であったということだけであって、まったく関係のない栗隈天神を明治の復古神道が付会したことを無批判に記載しただけのことであろう。
「祭神は高皇産巣日・神皇産巣日とし、後に菅原道真を併祀することになる・・・・高皇産巣日は・・・皇室の祖神として奉斉された神・・・」
 ※高皇産巣日・神皇産巣日などと云う胡散臭い祭神は、明治の国家神道ででっち上げられたものであることは一目瞭然であろう。「皇室の祖神」などを祀るのは近世から明治初頭に流行した復古神道のなせる悪行 なのである。
要するに、元来この神社は菅原道真を祀る天神社であったのであり、式内社旦椋神社とは無関係なのである。
○「宇治市史 第6巻」では以下のように記載される。
「兼右郷記」(吉田兼右・日記・吉田神社神官)の永禄9年(1566)8月23日条には以下の記事がある。
「山城国玖世郡大窪村天神社、及廿年余断絶、今度造立致新社、神躰奉造立之、供養事申候間遣了、座像タ力サー尺余」
新作の神体とは国常立尊・固扶槌尊などの9躰であったと記載される。
 (吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神と解釈するようである。)
 ※栗隈天神に伝わる棟札のうち最古のものは「造営 永禄九年八月吉日」の年記がある。これは符合する。
 ※即ち、これ等の史料が示すことは、天神社は20年余断絶していたが、永禄9年に再興されたということであり、少なくとも中世後期迄には、村の鎮守として天神が勧請されていたと云うことであろう。つまり、延喜式内の旦椋社とは何の関係も無かったと解するのが自然であろう。
 ※市史では旦椋神社は字旦椋の地にあり、天文19年(1550)の焼失、永禄9年の天神社再興の時、天神と旦椋社が合祀されたとの 「伝承」があるとするが、果たしてそのような「伝承」があったのであろうか?。明治の復古神道の付会を「伝承」と強弁しているのではないだろうか?。
 ※旦椋社は延喜式にその名があるのは確かである。また天文19年に焼失(典拠は不明)と云い、また旧鎮座地とされる土壇(5.3×3.6mで高さ0.5m)が付近に残る(未見)とも云う。 その土壇を発掘調査したところ、土壇から各時代の雑多な遺物が出土したといい、その性格は良く分からないのと云う。要するに旧鎮座地と云う土壇は何の確証もないと云うこと なのであろうか。
 (あるいはこの土壇は戦後しばらくまで残っていたと伝える「七つ塚」の一つ又はそれに類する土盛であったのかも知れない。)
一方、上記の伝承が正しいものとするならば、延喜式内旦椋社は、伝承の通り旧地と伝える土壇に社殿があった、しかし天文19年に廃絶 したということを示すのであろう。そして、その古跡が後世まで残ったと云うことなのであろう。
また
「明治10年6月、式内旦掠神社と認定され」とあるが、これの意味することは、大久保村の鎮守である天神は、国家神道家(明治の国家権力)によって、既に跡形もない延喜式内旦椋社と付会され、旦椋神社と改号されたということであろう。
祭神は高皇産霊神・神皇産霊神・天満天神と云う。天満天神はいざ知らず、村の鎮守が高皇産霊神・神皇産霊神などを平田派や復古神道ではあるまいし、祭神にすることなど、強制でもない限り、ありえないであろう。
栗隈天神の神宮寺について以下のように記す。
「観音寺は(慈尊院の末寺か?)旦椋神社の神宮寺であったから、村民は常に『宮寺さん』と呼んでいたといい、慶安元年(1648)の創建以来15代を経て無住となり廃絶したと伝える」
 ※神宮寺というより、天神社の管理に与った(社僧)寺院があったと云うことであろう。
 観音寺の位置は不詳。慈尊院は最近不祥事がある廃寺。
なお
「諸事書留帳」(文化13年・1816):旦椋神社文書では以下と云う。
「一、当村真言宗観音寺無住に付、・・・毎月替りに右寺え相詰め罷り在り候て、掃除等仕り度・・・」
○2010/03/20追加:
 明治8年栗隈山旦椋神社:「延喜式内並国史見在神社考証」(京都府立総合資料館蔵・明治初頭の式内社確定のための資料) より
基本的に現在の栗隈天神の風景と基本的にはほぼ同じである。石燈籠も現在に伝えられる。
○境内石燈籠概要
 現在境内には14基ほど近世の石燈籠が残る。これ等の概要は以下の通りである。
 本社は南面し、南北に長い参道がある。参道の中ほどを東西の道路が横切る。かっての境内は参道左右にも広がっていた形跡を残す。
 参道南端に2基の石灯籠:天満宮・大久保村、年記は享保7壬寅(1722)を残す。さらに
 上記の北側に2基の石燈籠;常夜灯、年記は天保2辛卯(1831)を残す。
 近年のものと思われる鳥居を潜り、東西道を渡る。その北に近年の簡単な門があり拝殿に続く。
 門の手前に2基の石燈籠;彫りが浅く磨耗し銘・年記ともはっきりと判読できない(近世のものと思われる);がある。
 拝殿前に2基の石燈籠:彫りが浅く磨耗し銘・年記ともはっきりと判読できない。(近世のものと思われる)上記と同形・同時期の石燈籠
 であろう:もある。さらに
 本殿前に2組4基の石燈籠がある。
 手前石燈籠2基:天満宮、年記は元文4己未(1739)
 奥の石燈籠2基:天満宮、年記は宝暦7丁丑(1757)である。
 本殿裏(北西)に廃社跡と1基の石燈籠:愛宕山常夜灯も残る。
 現在本殿東に覆屋がありその中に祠2棟と石燈籠1基があるが、何のものか暗くて良く分からない。
  以上を纏めると、6基が天満宮・1基が愛宕大権現・1基は不明・2基は常夜灯・4基は「御■前」であり、
  基本的に江戸中期の年記が刻まれる。
  このことは、この社は少なくとも近世は天満宮として崇敬され、愛宕権現も勧請されてはいたが、旦椋社と云う痕跡は見出せない。
  (要するに、近世では旦椋社は全く存在せず、この社は天満宮として崇敬されていたと解釈するのが素直であろう。)
○「久世郡大久保村史」(「京都府久世郡村史」明治14年 所収) より
「社 旦椋神社 式内村社、栗隈社に鎮座す、社前は古時の栗隈野社、後は即ち栗隈山脚なり、・・・面積2460坪・・・天文19年菅原道真を配祀す・・・」
○「京都の文化財 第3集」 より
栗熊天神社本殿:一間社流造・屋根檜皮葺、江戸初期の様式を残す。斗栱を組み、四面中備に近世風蟇股を置く。
永禄9年の造営で、延宝2年造替の社殿が現存する。
また以下の棟札を残すと云う。(「宇治市史 第6巻」)
永禄9年(1566・社殿造営)、慶安3年(1650・社殿修築)、明暦3年(1637・屋根葺替)、延宝2年(1627・社殿造営)、宝暦8年(1753・屋根葺替)、 安永6年(1777・屋根葺替)、寛政6年(1794・社殿修築)、文化6年(1809・社殿修築)、嘉永5年(1852)・・・
平成元年〜2年極彩色復原工事を施工。
 栗隈天神社本殿1:西面       同    本殿2:東面       同    本殿3:提灯の紋に星梅鉢を使用
   同    本殿4          同    本殿5           同    本殿6:西面
   同    本殿7:西面蟇股       同    本殿8:東面蟇股       同    本殿9:裏面蟇股
   同   本殿10:西面          同   本殿11:東面          同   本殿12:裏面
   同   石燈籠1             同   石燈籠2

荒見神社(五社明神):田井

近世には五社明神と称し、境内に薬師堂などがあったと云う。
「田井村寺社明細帳」(安政4年<1857>):
 真言宗 無本寺 薬師堂
   一、真言宗、無本寺、薬師堂、氏神境内に之有り候。
   一、本堂、梁裄2間、桁行5間、瓦葺。・・・
 氏神 正一位 五社大明神
   本社 末社 付属施設多数のほか「宝篋印塔」があったと云う。
本殿は寛文4年(1664)の再建とされる。
なお社務所は明治の神仏分離で廃された元薬師堂と伝えられる。
その他佛教的なものとして蓮華座の台石、石仏などが境内に残る。
  荒見神社社殿   同 推定旧薬師堂   同 蓮華座台石   同   石仏
○2010/03/20追加:
 明治8年荒見神社之絵図:「延喜式内並国史見在神社考証」(京都府立総合資料館蔵・明治初頭の式内社確定のための資料) より
この絵図では鳥居を入り向かって左手に瓦葺と思われる一宇があるが、薬師堂であろうか。現在この場所に堂宇はない。
元薬師堂と云われる社務所は鳥居右手にある。移建されたかどうかは不明。

雙栗社(椏本八幡宮):佐山

明治維新前は5箇の神宮寺が存在した。
「椏本八幡宮縁起」および「山州名跡志」元禄15年(0702):
佐山の三箇寺(西方寺・三福寺・浄福寺) と林の二箇寺(薬蓮寺・安楽寺) の計五箇寺を記す。
「興福寺官務牒疏」(嘉吉元年1441)では佐山の浄福寺と林の二箇寺とをあげる。
 2016/12/04追加:但し「興福寺官務牒疏」は偽書であり、その問題点は「椿井文書・興福寺官務牒疏」を参照。

「縁起式神名帳」;双栗神社三座とある。
「椏本八幡宮縁起」(延宝4年<1676>):
天治2年(1125)この地に椏の木の大木があり、この木のもとに八幡宮を勧請したものとする。
応保2年(1162)当宮に勅使が立てられ、勲一等を賜り、椏本一品八幡大菩薩の号と神田を賜ったと云う。
ただしこの「縁起」は石清水八幡社の末社としての立場から編まれたと推定される、即ち石清水に八幡大菩薩が遷座の後に、椏本八幡宮の起源を設定する必要があったもので、本社に「配慮」した「縁起」とされる。 本来は縁起より古い時代から鎮座していたとも可能性が大きいとも云う。(古い雙粟の氏神があり、後に八幡神が勧請されたものと思われる。)
2012/05/11追加:
「延喜式内社 雙栗神社」雙栗神社、案内ルーフレット は以下のように記す。
祭神:天照、素戔嗚、事代主(大国主)、品陀別(応神天皇)、比刀A息長帯比売(神功皇后)、大雀(仁徳天皇)
社名の由来は諸説があるが、羽栗郷と殖栗郷の間に鎮座するから「双栗」とも、古代豪族「葉栗」氏の祖神を祀った氏神とも云う。
延喜の制では小社に列せられ、雙栗神社三座と記される。
延宝4年の「椏本八幡宮縁起」では「椏の木の本に八幡宮を勧請」、神宮寺5ヶ寺が建立され、大般若経600巻が収められる。
明治に入り神仏は分離、神宮寺は廃寺となり、大般若経は大松寺に移管し、雙栗神社の旧号に復す。

 ※延喜の頃の雙栗神社と椏本八幡宮とを直接結びつけるものはない。延喜の頃の雙栗神社は旧豪族の没落とともにいつしか廃滅したのであろう。それに代わり、より神威の大きい八幡神が勧請され、新たな鎮守となったのであろう。
もとより、椏本八幡宮が雙栗神社に復号などとは、復古神道の取り繕いであり、椏本八幡宮の廃仏と換骨奪胎を目的とした悪行でしかない。

付近には佐山安楽寺、西方寺、三福寺、浄福寺、林の薬蓮寺の5箇の神宮寺があったが、浄福寺は既に江戸期には観音堂などを譲渡し、残りの神宮寺も明治維新の神仏分離の処置で全て廃寺となる。
現在神社境内には仏教的要素は全く残存しない。
今なおこの地方では有数の広大な境内(3330坪)を有する。西に鳥居を構え、鳥居から参道は長く東に進み、途中参道は突然、直角に北に折れ、社殿に至る。
  雙栗社東西参道(西方を望む ・・西向きに鳥居がある)
  雙栗社南北参道(北方を望む ・・社殿は南面する)
本殿:重文、三間社流造、檜皮葺、正面に向拝、明応3年(1494)の建立と推定される。昭和54年修復。
斗供、蟇股、柱、貫などには豪華な彫刻・彩色が施される。
また本殿の周りには瑞垣を廻し、入口門を設ける。
 

椏本八幡宮本殿(重文)

 雙栗社本殿1
  同     2
  同     3
  同     4(左図拡大図)
  同     5
  同     6
  同     7
  同     8
  同     9
  同    10
  同    11
  同    12
  同    13
  同    14
  同    15
  同    16
2007/03/03撮影:
 椏本八幡宮社殿
  同 入口門蟇股
  同 社殿枓栱など

2012/05/01撮影:
 

2012/05/01撮影:
 椏本八幡宮社殿11     椏本八幡宮社殿12     椏本八幡宮社殿13
 椏本八幡宮社殿14     椏本八幡宮社殿15     椏本八幡宮社殿16
 椏本八幡宮社殿17     椏本八幡宮社殿18     椏本八幡宮社殿19     椏本八幡宮社殿20     椏本八幡宮社殿21
 椏本八幡宮社殿22     椏本八幡宮社殿23     椏本八幡宮社殿24     椏本八幡宮社殿25     椏本八幡宮社殿26
2013/10/13撮影:
 椏本八幡宮社殿31     椏本八幡宮社殿32     椏本八幡宮社殿33     椏本八幡宮社殿34     椏本八幡宮社殿35
 椏本八幡宮社殿36     椏本八幡宮社殿37     椏本八幡宮社殿38     椏本八幡宮社殿39     椏本八幡宮社殿40
 椏本八幡宮社殿41     椏本八幡宮社殿42     椏本八幡宮社殿43     椏本八幡宮社殿44     椏本八幡宮社殿45
 椏本八幡宮社殿46     椏本八幡宮社殿47     椏本八幡宮社殿48
2017/01/19撮影:
上に記載しているが、再度記載する。
久御山町のサイトをはじめ種々のサイトは、本社を「延喜式神名帳に、『山城国久世郡 雙栗神社三座 鍬靫』とある式内社」などというが、ほぼ全ての「式内社」と同じく、何の根拠があるのであろうか。近世や近代初頭の国家神道がその郷で一番繁盛している社に目を付けて、祭神を記紀系統の神に取り替え、社号を改号しただけのことであろう。まさに「罰当たりな所業」であろう。



椏本八幡宮本殿拝所:左上図拡大図

椏本八幡宮本殿51
椏本八幡宮本殿52
椏本八幡宮本殿53
椏本八幡宮本殿54
椏本八幡宮本殿55
椏本八幡宮本殿56
椏本八幡宮本殿57
椏本八幡宮本殿58:左下図拡大図
椏本八幡宮本殿59
椏本八幡宮本殿60
椏本八幡宮本殿61
椏本八幡宮本殿62
椏本八幡宮本殿63
椏本八幡宮本殿64

椏本八幡宮拝所11
椏本八幡宮拝所12
椏本八幡宮拝所13

なお神仏分離で所蔵の大般若経600巻は大松寺に遷され、現在も当寺では毎年、大般若経の加持祈祷法要が営まれていると云う。

「椏本八幡宮縁起」などの記録により、以下の仏像が知られる。
西方寺(佐山) 阿弥陀如来立像 二尺一寸 定朝作(「山州名跡志」「拾遺部名所図会」は坐像とする)
三福寺(佐山) 薬師如来坐像 三尺一寸 恵心僧都作(「山州名跡志」は作不詳とする)
浄福寺(佐山) 観音菩薩立像 安阿弥作 (「山州名跡志」は「二尺許」と記す):佐山浄安寺に移安し現存か。
薬蓮寺(林) 薬師如来坐像 三尺五寸 「定朝之其作」(「山州名跡志」は立像とする):重文・林西林寺に移安し現存。
安楽寺(林) 薬師如来立像 四尺二寸 行基作 (「山州名跡志」は坐像とし、作不詳とする):
 2016/12/04追加:廃安楽寺の薬師如来像は佐古称名寺(重文)に移安との解説があるが疑問である。
  ※佐古称名寺に移安とするのは「旧巨椋池周辺の仏像」井上正(「学叢 創刊号」京都国立博物館、昭和54年/1979 所収)と
   「宇治の佛たち」安藤佳香、平成元年(1989)とがある。 →このページの「佐古称名寺」を参照。
  ※廃安楽寺の薬師如来像は佐古法蓮寺本尊の移安とする解説もある。もし、佐古称名寺像が佐古廃法蓮寺像であるとすれば、
   現在のところ、廃安楽寺像の行方は不明とするしかない。
  ※「旧巨椋池周辺の仏像」が佐古称名寺像を廃安楽寺像とする根拠ははっきりしないが、
   造形上、林西林寺像(廃薬蓮寺薬師如来坐像)が佐古称名寺像(廃安楽寺像)の根本仏と考えられるということから
   佐古称名寺像を廃安楽寺像であろうと推測するものと思われる。

雙栗社の五ヶ神宮寺
廃西方寺

佐山にあった。寺地は椏本八幡宮の鳥居のすぐ前方(西)だったと伝える。
久寿年中(1154-56)如一上人開基とし、本尊阿弥陀如来という。
また寺伝では大同元年(806)の創建とし、円乗坊・光成坊・乗坊・円蔵坊・新坊があったと云う。
如一上人により中興されたが、天文年間に荒廃し、円乗坊のみ残るという。
安政4年(1857)「佐山村寺社明細帳」;八幡山滝本坊末寺で真言宗憲源派とする。
明治初年、佐山浄福寺に合併という。

廃三福寺
佐山にあった。寺地は現在の大松寺の南隣であったと伝える。
建長元年(1249)興正菩薩の開基、本尊薬師如来、寛文11年(1671)再興されたと云う。
寛保元年(1741)焼失、同3年再建。慶応3年以降無住になり、佐山浄安寺に合併される。
なお堂宇は昭和27年頃まで、自治会集会場として残っていたという。
また、当寺にあった神牛石は大松寺南(三福寺跡)に神牛石神社が明治初年に建立され、ご神体として移安されている。
また大正5年には三福寺跡に散乱していた石塔の石を集め、十三重塔が建立され、また神牛石神社本殿が改築されたという。
  神牛石神社(写真後方の堂は大松寺本堂)
 ○旧大松寺金毘羅大権現(円蔵院金毘羅堂)
 なお大松寺境内には金毘羅大権現を祀っていたが、度重なる水害のために、明和7年(1770)広野円蔵院後方金毘羅山(前方後円墳)上に移転する。更に戦後の宅地開発で金毘羅堂は円墳上から降り、円蔵院境内に移転新築される。
2003/5/29撮影:
  円蔵院金毘羅堂1:堂の外観は完全に仏堂形式 を採る。
   同       2:金毘羅のマーク
   同       3:堂前には鳥居を構える。
   同       4:金毘羅大権現の仏体に鳥居を構える
   同       5:金毘羅堂前鳥居の銘、不鮮明 ですが、明和9年?と読める。
             移転したという明和期にこの鳥居は建立されたと思われる。
※現金毘羅堂は近年の再建堂であるが、近世の神仏習合の様子を良く伝える。
また堂本尊は中央金毘羅大善神(大権現に替えて大善神と呼んでいるようで、神仏分離のなせる悪行と思われる。)、
左右には熊野大権現、秋葉大権現(両者とも大権現号のままである。)を祀り、転読が修われるのかどうかは不明であるが、大般若経が什宝として備えられる。 毎年の金毘羅祭には100前後?の夜店が出店され、雑踏になる。

廃浄福寺
佐山にあった。寺地は現在の浄安寺の東隣であったと伝える。弘長年中の創建、本尊聖観音とする。
明暦年中(1655-56)に観音堂・山林を浄安寺に譲り渡し、廃寺となる。
旧浄福寺観音堂は現佐山浄安寺観音堂(昭和60年修復)が相当すると云う。
木造聖観音立像(浄安寺・10世紀末−11世紀初?)観音堂の旧仏で明暦年間に移安。
 浄安寺:佐山
 浄土宗。観音堂には旧浄福寺観音堂木造聖観音立像(平安後期)を安置する。
   佐山浄安寺観音堂

  廃浄福寺観音菩薩立像(旧佐山・廃浄福寺の旧仏・高さ143cm):2006/09/17画像追加:「学叢」創刊号

廃薬蓮寺
林にあった。寺地は椏本八幡宮北西、現宝照寺東隣あたりにあったと伝える。本尊薬師仏。
明治4年廃寺となる。以下の薬師仏と阿弥陀仏2躯および宝物仏具は林の西林寺に移座される。
本堂は明治14年売却され、明治27年威徳院(淀川顔町)に移され、現存する。
 木造薬師如来坐像(西林寺・11世紀前半?・高さ42cm)明治4年、移安。
 木造阿弥陀如来坐像−定印−(旧西林寺・11世紀中?)明治4年、移安。2006/09/17画像追加:「宇治の仏たち」
 木造阿弥陀如来坐像−来迎印−(旧西林寺・12世紀前半?)明治4年、移安。2006/09/17画像追加:「宇治の仏たち」
  ○西林寺:林
明治4年薬蓮寺旧仏三躯が西林寺に移安、この三尊の安置のため、明治13年に薬師堂が建立され、三尊が安置される。
昭和36年の第二室戸台風で堂後方の公孫樹の巨木が倒れ、薬師堂を直撃、3尊はバラバラに砕け、原形を失う。
仏像の断片は丁寧に拾い集められていたが、昭和45年京博国宝修理所にて修理が行われる。
阿弥陀仏2躯は国に譲渡され、京博に保管、薬師如来坐像は昭和48年新築の薬師堂に遷座する。
  西林寺薬師堂
2006/07/追加:
 上記3躯に加え、
  銅造釈迦誕生仏(像高11.4cm) 明治4年薬蓮寺より西林寺に移安。2006/09/17画像追加:「学叢」創刊号

廃安楽寺
佐山にあった。寺地は三福寺の北北西すぐにあったと伝える。
興正菩薩の中興、後二条院母后西華門院源基子本願で、本尊は薬師仏と伝える。明治7年頃まで建物は残っていたと云う。

室城神社:下津屋

寛永7年の木津川の洪水で社記を流失し、社歴は不詳。
江戸期には境内に神宮寺があったという。
神宮寺(妙感院);
泉湧寺末と伝える。明治の神仏分離で廃寺(おそらく破壊)。
寺院跡地は神社境内と共に、大正3・4年の木津川改修工事で買収され消滅したという。
従って現在は往時を偲ぶ遺構は何もない。
西側に現存する浄土宗迎接寺に安置の木造菩薩形坐像(9世紀末?)は明治初年、神宮寺(妙感院)から移安されたものと云う。
 室城神社社殿  浄土宗迎接寺
○2006/09/17画像追加:「学叢」創刊号 より
 室城社神宮寺菩薩形坐像
○2010/03/20追加:
 明治8年下津谷村室城神社:「延喜式内並国史見在神社考証」(京都府立総合資料館蔵・明治初頭の式内社確定のための資料) より
移転以前の姿を伝える。鳥居・石階・舞台・本殿と小祠2宇がある。絵図左にある茅葺と思われる庵は神宮寺に関係するものであろうか。

玉田神社:森

「御牧郷村名宮寺初記」文政11年(1828)の「玉田大明神縁起」:
 仁徳天皇の時代、木津川より流来るご神体を引き上げ(その場所を早揚という)、神宮山法楽院に宮を立て丹波津宮と称する。
天正14年及び寛永元年の棟札が現存し、それによれば天正14年、現在の場所に遷座し、御牧城主御牧勘兵衛尚秀によって再興とされる。
また寛永元年淀城主板倉伊賀守高勝によって修復される。
 かっては神宮寺法楽院があった。
かっての鎮座地は現在地の北西、中島より北の交錯地点あたりの字「法楽寺」と云う。
また法楽寺南を現在も早揚と通称していると云う。字「法楽寺」はかって玉田神社の神宮寺と社殿があったところとされる。
 玉田神社社叢   同   社殿1   同   社殿2
 ○法楽寺(廃寺);
「御牧郷寺社明細帳」(安政4年):
寛永元年開基(宗順)延享4年(1747)まで7代続く。延享4年大破し、文政6年(1823)まで放置され、ようやく玉田神社境内除地に本堂(4間×2間)が再建される。境内地は東西7間、南北6間。
山号は神宮山と称する。玉田神社の神宮寺の故と思われる。

珠城神社:市田

かっては神宮寺(護王寺)があったとされる。
「市田玉城神社護法神社並神宮寺巻」(天正13年・「玉城神社縁起」):
 垂仁天皇崩御の時、その神霊を祀ったのを始まりとする。
延暦18年(699)和気清麻呂の死にあたり、玉城宮に並べて神殿を造り、護法神社とする。
その後桓武天皇の時代、大僧都行賀によって護王寺(神宮寺)が建立された。
行賀は本尊薬師仏・五大尊を自ずから刻み安置する、護王寺は楼門伽藍を有し、市田を神領とする。
治承4年(1180)源平合戦で平氏の為灰燼に帰す。
文治元年(1185)源頼朝が再営し、護王寺諸仏は仮堂に移す。
元弘元年(1331)楠正成は珠城神社に拝礼し、武運長久を祈り、毘沙門天を刻み、北向に祀る。
天正元年(1573)填島の合戦で敗れた義昭の敗兵によって炎上し、御神体を仮宮に安置する。
江戸期には、椏本八幡宮に合祀されていたとされるが、昭和42年珠城神社が再建され、祭神は現在地に遷座する。
古老の伝えるところによると当社北側に薬師堂があったと云う。これはおそらく「縁起」でいう「諸仏を仮堂に移す」という仮堂に当り、近代初頭まで存続したものと推定される。
また現在市田の西福寺跡(明治12年伊勢田来迎寺に合併)に市田薬師堂が現存し、これは合併にあたり、西福寺薬師堂が空いたため、珠城神社薬師堂の諸仏を移したものと 推定される。従って市田薬師堂内の木造薬師如来坐像(後世の補修が多いものの10世紀頃の作という)は護王寺本尊であろうと推定される。
現在市田薬師堂には、上記木造薬師如来坐像、阿弥陀如来坐像(平安後期)、阿弥陀如来立像、地蔵菩薩坐像(昭和7年)の4仏を祀る。
  珠城神社社殿
2010/03/20追加:
「玉城神社縁起」は天正13年(1585)の年紀を持つが、このような古記録が今に伝わり、現存するのであろうか、不審である。
全文の写真及び翻刻が「久御山町の社寺」にある。書体は現代風な楷書であり違和観がある。内容も皇国史観風であり、記紀の頃を始まりとし、国史の著名人や事象をフンダンに登場させる。これ等の内容から見ると、古くとも近世後期のものであろう。あるいは明治維新後の偽作とも思われる。

野村神社(牛頭天王社・常盤神社):野村

明治維新前は牛頭天王社であり、神宮寺(長福寺)があった。
「城洲久世郡御牧郷野村寺社明細帳」(文化6年<1805>):牛頭天王社と称する。
境内東西23間、南北80間を有し、八幡山橋本坊除地とする。
境内には若宮八幡社(5尺四方)、蔵王権現社(2尺四方)、地蔵堂(1間四方、瓦葺)、舞殿(3間×1間半)、鳥居があった。
また神宮寺として長福寺(真言宗)があった。
神仏分離により、社号を野村神社に改号し、長福寺を廃す。明治6年村社になり、同14年常盤神社と改称する。
また境内地の大半は上地を命ぜられる。
地蔵堂は神仏分離により、拝所を西向きに変更し、神社と分離する。地蔵堂は、現在西にある野村称名寺に合併され、明治16年改築される。称名寺安置の地蔵菩薩坐像は牛頭天王地蔵堂本尊と伝える。
長福寺は沿革がはっきりしないが、明治元年廃寺となると云う。
本尊大日如来坐像、釈迦如来坐像は廃寺後、放置されていたが、明治22年称名寺に修理のうえ、移安する。
 旧牛頭天王社1   同      2   同      3   同      4   同      5
 野村称名寺(東=野村神社から撮影)


佐古若宮八幡宮:佐古

明治維新までは法蓮寺の鎮守であった。
創建については1)吉岡家の屋敷神を現在地に遷座して佐古の氏神とした。2)石清水八幡宮より勧請した。3)椏本八幡宮より分祀勧請した。の諸説がある と云う。
天文19年(1550)、寛永13年(1636)、寛文7年(1667)、元禄3年(1690)、享保3年(1718)、延享5年(1748)の棟札を残す。
少なくとも、天文19年には造営されていたと思われる。
享保3年、延享5年の棟札には佐古法蓮寺の名称があり、江戸後期の古文書に「法蓮寺鎮守、八幡社同寺境内」の記述があり、江戸期には法(宝)蓮寺の鎮守であった 。
また「佐古村寺社起立改帳」には法蓮寺寺家・庫裏・本殿・拝殿・鳥居などが描かれていると云う。
「法蓮寺堂再建記木札」(享保13年<1728>)・・・佐古称名寺蔵:
大同元年法界上人開基。仏殿・法堂・鐘楼・山門を有する。応永13年地震により倒壊。倒壊後残木で5間四方の堂を建立。享保13年新たに3間半×2間半の本堂を再建。
西隣の佐古稱名寺には法蓮寺本尊とされる木造薬師如来坐像(重文・佐古稱名寺・12世紀後半?)が残る。
 若宮八幡宮1    同     2    同     3
2016/12/04追加:
○「久御山町の社寺」阪部五三夫・中務佐市、久御山町郷土史会、昭和51年(1976) より
 佐古寶蓮寺伽藍配置:寶蓮寺は本堂・庫裡があり、鎮守として八幡宮(現在の若宮八幡宮)がある。

佐古稱名寺:佐古

2016/12/04追加:
 稱名寺安置の薬師如来坐像(重文)は、下記の諸資料に示すとおり、明治維新の神仏分離の処置では廃寺となった法蓮寺の本尊であったという。郷土史家・久御山町教委などの見解である。
 一方、上の椏本八幡宮の項に掲載したように、椏本八幡宮神宮寺の一つである安楽寺(廃)の本尊であるとする見解もある。この見解は「旧巨椋池周辺の仏像」と「宇治の佛たち」の 見解である。 →佐山椏本八幡宮の項を参照
 では、稱名寺安置の薬師如来坐像は廃法蓮寺あるいは椏本八幡宮神宮寺廃安楽寺のどちらの仏像であったのであろうか。
廃安楽寺像とする根拠は上述のように「造形上、林西林寺像(廃薬蓮寺薬師如来坐像)が佐古称名寺像(廃安楽寺像)の根本仏と考えられるということ」の1点につきるであろう。要するに、美術上の印象が唯一の根拠であるといえるであろう。
 一方、称名寺は近世には法蓮寺の本寺であり、また称名寺・廃法蓮寺(称名寺末)・廃東明寺・廃観音堂(称名寺末)・若宮八幡(法蓮寺鎮守)などは佐古内屋敷に隣接して存在し、明治維新に廃寺となった廃東明寺などの仏像類が称名寺に移されていることから、法蓮寺本尊薬師如来も称名寺に移されたとみるのが極めて自然であろう。以上の観点から、稱名寺安置の薬師如来坐像は廃法蓮寺の本尊であるのは間違いないものと思われる。
○「護念山稱名寺」佐古称名寺ルーフレット より
由緒:
安永3年(1774)の「稱名寺縁起」では次のように説く。
開基は西誉上人、諸国行脚中の上人は京都日野の平山氏より持仏堂安置の行基作阿弥陀如来を受贈する。この如来像は鴨長明が近郊の外山(方丈記を書いた日野の庵)に引きこもりし時に平山氏んぼ祖先に送ったものである。
天文3年(1534)西誉上人は行脚を続け、佐古村の吉岡邸で休息したところ、仏像は盤石の如く動かなくなるという。さては佐古村は有縁の地なりとして、吉岡氏に寺の建立と仏像安置を依頼する。吉岡氏は「当家は代々念仏の家なり」として、浄土宗の寺を建立し、仏像を安置、これが現在の本尊阿弥陀如来坐像である。
寺宝:
 本尊阿弥陀如来坐像(木造一木造、像高54.5cm、平安前期)
 薬師如来坐像(法蓮寺旧仏、重文、木造寄木造、像高138cm、平安後期)
 大日如来坐像(胎蔵界、東明寺旧仏、木造一木造、像高89.3cm、平安後期)
○「久御山町の社寺」阪部五三夫・中務佐市、久御山町郷土史会、昭和51年(1976) より
佐古称名寺:
浄土宗知恩院末、寺伝では大同年中(806-809)の創建といい、天台宗であった。
本尊:阿弥陀如来坐像、什宝:薬師如来坐像(法蓮寺(廃)の旧仏、平安末期、重文)、大日如来坐像(東明(名)寺(廃)の旧仏)
○久御山町WEBサイト より
「佐古の称名寺に安置されている薬師如来坐像は、材質は檜材、寄木造で作られ、像高は138.0cm、平安時代後期、12世紀後半頃の作と考えられている。
 この像は、佐古にあった法蓮寺の旧仏と考えられる。それは当寺に残されている享保13年(1728)の「法蓮寺堂再建記木札」によって知ることができる。 」
 ※「法蓮寺堂再建記木札」では「本尊薬師如来云々・・」と述べるのみである。
○現地の駒札
久御山町郷土史会の名称で設置。
佐古は典型的な環濠集落で、集落の中には稱名寺・善林寺・法(寶)蓮寺・東明寺・観音堂の諸堂宇があった。法蓮寺・東明寺・観音堂は明治初年に廃寺、三ケ寺の仏像は稱名寺に移座され、現存する。
法蓮寺の旧仏である木造薬師如来坐像は大正6年に国宝に指定される。また同寺には近世日野の里から移された本尊の木造阿弥陀如来坐像と東明寺の旧仏である木造大日如来坐像がある。
 ※なお、「久御山町の社寺」によれば、観音堂本尊は十一面千手観音立像で、現在は佐古の称名寺に安置されるという。また、法蓮寺及び東明寺は称名寺の末寺であり、観音堂は本寺を称名寺とするという。
○2016/11/10撮影:何れも稱名寺本堂安置
薬師如来像は金網越しの撮影であり、金網にフォーカスがあたり、像容がはっきりしない写真となる。
 旧法蓮寺本尊薬師如来坐像1     旧法蓮寺本尊薬師如来坐像2     旧法蓮寺本尊薬師如来坐像3
 旧法蓮寺本尊薬師如来坐像4
  2006/09/17画像追加:「宇治の仏たち」 より転載
  廃安楽寺薬師如来立像( 重文・佐古称名寺・高さ38cm):・・・「宇治の仏たち」では廃安楽寺とする。
   2016/12/04追加:
   旧法蓮寺薬師如来坐像5:「護念山稱名寺」佐古称名寺ルーフレット より転載
   旧法蓮寺薬師如来坐像6:「巨きいまち久御山」久御山町ルーフレット、平成27年 より転載
   旧法蓮寺薬師如来坐像7:「久御山町の社寺」 より転載
 称名寺本尊阿弥陀如来坐像1     称名寺本尊阿弥陀如来坐像2     称名寺本尊阿弥陀如来坐像3
 旧東明寺本尊大日如来坐像1:左に写るのは旧観音堂本尊十一面観音立像と推定される。
 旧東明寺本尊大日如来坐像2     旧東明寺本尊大日如来坐像3
 ※なお、「久御山町の社寺」の口絵には「稱名寺大日如来」として金剛界大日如来像が掲げられるが、旧東明寺大日如来は胎蔵界といい、また掲げられた口絵写真は稱名寺に安置の大日如来を像容が全く 異なる。これは何かの間違いであろうと思われる。但しこの口絵写真の大日如来はいかなる寺院の像であるのかは不明である。
「護念山稱名寺」佐古称名寺ルーフレットの大日如来坐像写真は胎蔵界大日如来であり、その像容は本人(s_minaga)撮影の像と同一と思われる。
 旧観音堂本尊十一面千手観音立像:推定:上 掲載の「旧東明寺本尊大日如来坐像1」左部分をトリムしたものである。

参考)佐古法蓮寺(廃)
2016/12/04追加:
○「久御山町の社寺」阪部五三夫・中務佐市、久御山町郷土史会、昭和51年(1976) より
薬王山瑠璃光院寶(法)蓮寺。
享保13年(1728)の「堂再建記木札」では次のようにいう。
大同元年(806)法界上人開基、応永14年(1407)地震により諸堂倒壊、地震の後、残木で5間四方の堂を再建、享保13年新たな堂を再建。
寶蓮寺本尊は現在佐古称名寺安置の薬師如来坐像である。
下の配置図は佐古若宮八幡宮の項に掲載した図である。
 佐古寶蓮寺伽藍配置:寶蓮寺は本堂・庫裡があり、鎮守として八幡宮(現在の若宮八幡宮)がある。

参考)佐古東明寺(廃)
2016/12/04追加:
○「久御山町の社寺」阪部五三夫・中務佐市、久御山町郷土史会、昭和51年(1976) より
旭光山東明(名)寺、京都知恩院末。
寛延4年(1752)奥書の「東明寺略縁起」が残り、この全文が「久御山町の社寺」の資料編に掲載される。
 (本ページへの掲載は割愛)

大藤神社:北川顔

「御牧郷寺社明細帳」安政4年:氏神牛頭天王・・・とある。
特に仏堂はなかったと思われるが、本来は牛頭天王社であり、大藤神社とは明治の神仏分離による改号とも思われる。

若宮八幡宮:藤和田

「御牧郷寺社明細帳」安政4年:若宮八幡宮・・・・往古より夕涼宮と申し伝え候・・とある。
特に仏堂があったという記録は無い。小社。

参考
「触書」・・・慶応4年4月淀藩が領内寺社に対して出した「神仏混淆禁止令」の要旨は以下のとおり。
淀藩は現久御山町の領主であった。

  淀藩「神仏混淆禁止令」(要約)

参考文献:
「久御山町史 第1巻」久御山町史編纂委員会編、昭和61年刊、京都府久御山町
「ふるさと歴史散歩・久御山町の社寺」坂部五三夫著、久御山町刊、平成12年
「久御山町の社寺」坂部五三夫、中務佐市偏、久御山町郷土史会、昭和51年
「宇治の仏たち」宇治市歴史資料館、平成元年
「学叢」創刊号、京都国立博物館、昭和54年所収:「旧巨椋池周辺の仏像」井上正

なお仏像関係の図版あるいは解説などは京都国立博物館『学叢』創刊号所収
 「旧巨椋池周辺の仏像」 を参照 。

------以下は旧久世郡現城陽市の神社に於ける神仏習合並びに分離------

久世若王社:(華霊天神社・久世神社)城陽市久世

若王社は宮寺(若王寺)の管理であり、廃若王寺堂宇は近年まで存在したと云う。

この社は若王社といわれ、明治維新の神仏分離で、久世神社と改号する。
 (あるいは華霊(かりょう)天神社とも云われたと云う。)
神仏分離前、若王社社殿には十一面観音、毘沙門天、歓喜天宮殿、地蔵菩薩等が安置されていたが、神仏分離で久世万福寺に遷座・現存と云う。
神宮寺は若王寺と称し、明治維新の神仏分離で廃寺となるも、大日堂は近年まで存続する。
「城陽市史」では、古老(明治21年生)の話として、廃寺後も人が住み、子供に読書きを教え、宮を管理し、仏像・鰐口も残っていた。しかし国鉄奈良線の敷設で境内は縮小し、 若王寺の井戸もその姿を消す。また毎年8月25日は宮寺のお祭りであったという話を伝える。
○2007/06/14聞取:近所のご婦人(昭和39年京都から久世に嫁ぐ)より
昭和39年当時壊れかけた社務所(廃若王寺)があり、それから4〜5年社務所はあったと思う。盲目の老夫婦が住んでいた。
線路下(西)に弁財天社が残る。下掲載久世神社図「新撰京都名所圖會 6巻」の蟹池側(東)の小祠が弁財天社 である。


久世若王寺

久世若王寺廃屋(左図拡大図)
 ・・・「城陽市史 2巻」(昭和54年刊)から転載
 昭和54年の城陽市史では、まだ現存する記述になっていて、これに従えば昭和後期までは廃若王寺の堂宇があったと思われる。
久世神社図・・・「新撰京都名所圖會 6巻」(昭和40年刊)から転載
 奈良街道から鳥居をくぐり、奈良線を越えてすぐ左にある一宇が
 若王寺の堂宇と思われる。
若王寺跡現状
若王寺跡遺物??(愛宕社石灯篭台石?)・・以上2003/11/12撮影
 現状は全く崩壊していて、何も残存しない。
 廃寺跡右(東)に築地塀の跡と思われる痕跡があり、これは
 若王寺に関係する築地と推定される。
築地塀跡・・・2003/5/7撮影

2012/08/26撮影
 山城廃若王寺跡1     山城廃若王寺跡1:何れも後方の土壇は金堂土壇
 山城廃若王寺築地跡1     山城廃若王寺築地跡2     山城廃若王寺築地跡3
 山城廃若王寺遺物?1:愛宕山常夜燈竿 、付近には台石と笠石も遺存する。
 山城廃若王寺遺物?2:愛宕山常夜燈竿年紀・明和年中と思われる。
なお若王寺本尊大日如来坐像、不動明王立像は久世阿弥陀寺に遷座・現存という。
2006/07/12追加
 木造天部半跏像:「城陽の指定文化財」城陽市歴史民俗資料館、1995:万福寺蔵
平安期、楠一木造、像高62.7cm。現久世神社本殿に安置されていたと伝える。のち久世宮寺若王寺へ、明治の神仏分離で西方にある万福寺へ遷座。寺では毘沙門天と称する。

久世神社本殿(重文)

久世神社本殿
(一間社流造・室町末期の造営と推定・檜皮葺・重文)
久世神社本殿1
 (左図拡大図)
 同      2
 同      3
 同      4
 同      5
 同      6
 ・・・2003/11/12撮影

2006/11/23撮影
久世神社本殿1
  同     2

久世神社本殿1
 同      2
 同      3
 同      4
 ・・・1999/5/5撮影

2008/03/25撮影:
 山城久世神社拝殿:重文・社殿の色彩の退色が 激しく、最近解体修理が開始される。
2008/05/14撮影:
 山城久世廃寺伽藍配置図:現地説明板
 山城久世神社透塀:かなり破損・退色する。
2009/04/12撮影:
 ほぼ、本殿の彩色が完了する。
 山城久世神社本殿      同     本殿1      同     本殿2      同     本殿3      同     本殿4
   同     拝殿:下塗の状態
2009/12/11撮影:
 山城久世神社社殿11     同     社殿12     同     社殿13     同     社殿14     同     社殿15
    同     社殿16     同     社殿17     同     社殿18     同     社殿19     同     社殿20
    同     社殿21     同     社殿22
2012/08/26撮影:
 山城久世若王社社殿1     山城久世若王社社殿2     山城久世若王社社殿3
 山城久世若王社社殿4     山城久世若王社社殿5
 山城久世若王社拝所1     山城久世若王社拝所2     山城久世若王社拝所3     山城久世若王社拝所4
 山城久世若王社拝所5     山城久世若王社拝所6     山城久世若王社拝所7     山城久世若王社拝所8
 山城久世若王社拝所9
 山城久世若王社本殿11    山城久世若王社本殿12    山城久世若王社本殿13    山城久世若王社本殿14
 山城久世若王社本殿15    山城久世若王社本殿16    山城久世若王社本殿17    山城久世若王社本殿18
 山城久世若王社本殿19    山城久世若王社本殿20    山城久世若王社本殿21    山城久世若王社本殿22
2013/04/04撮影:
 山城久世若王社社殿31    山城久世若王社社殿32    山城久世若王社社殿33    山城久世若王社社殿34
 山城久世若王社社殿35    山城久世若王社社殿36    山城久世若王社社殿37    山城久世若王社社殿38
 山城久世若王社社殿39    山城久世若王社社殿40    山城久世若王社社殿41    山城久世若王社社殿42
 山城久世若王社社殿43    山城久世若王社社殿44    山城久世若王社社殿45
2014/03/23撮影:
 久世若王社本殿51     久世若王社本殿52     久世若王社本殿53     久世若王社本殿54     久世若王社本殿55
 久世若王社本殿56     久世若王社本殿57     久世若王社本殿58     久世若王社本殿59     久世若王社本殿60
 久世若王社本殿61     久世若王社本殿62     久世若王社本殿63     久世若王社本殿64     久世若王社本殿65
 久世若王社本殿66     久世若王社本殿67     久世若王社本殿68     久世若王社本殿69     久世若王社本殿70
 久世若王社本殿71

なお、久世神社の西南は古代久世廃寺跡で、若王寺背後が久世廃寺金堂跡土壇(金堂東が塔跡土壇)である。
あたかも古代久世廃寺の鎮守のような位置に若王社は位置する。
久世廃寺概要は「近江・山城の塔跡」山城久世廃寺の項を参照

2016/02/06撮影:
 久世若王社本殿81     久世若王社本殿82     久世若王社本殿83     久世若王社本殿84     久世若王社本殿85
 久世若王社本殿86     久世若王社本殿87     久世若王社本殿88

平川牛頭天王社(平井神社):城陽市平川

近世には牛頭天王社であった。現在も神宮寺(蓮開寺)を残す。明治の神仏分離で平井神社と改称される。
なお当社は当初は古宮(現在の平川廃寺跡)にあったが火災焼失後、現在地に移ると云う(時期は不明)。

当社には珍しく神仏習合の姿が今に残る。以下神仏分離を潜り抜け、村人が守り続けたと云う。
参道左(西)に蓮開寺(真言宗)の堂宇が残り、大般若経が伝えられ、その転読法要が今でも存続しているとされる。
蓮開寺の初見は「平井神社宮座文書」と云われ、「享保18年(1733)、村に50年間庵を構えていた修験僧実賢が逝去し、蓮開寺が庵を相続した・・」とある と云う。少なくとも享保18年までには蓮開寺は成立していたと思われる。
さらに天保2年(1831)蓮開寺僧文龍は近隣に広く寄附を募り、大般若経600巻を求め、転読法要を始めたと伝えられる。(大般若経寄進帳)
転読法要は毎年2月15日に修法される。 なおかっての寺地は現在の安養寺裏であったとされる(現在は藪地)。
明治の神仏分離では村人は蓮開寺の堂はそのまま残し、寺号を蓮海寺とし、牛頭天王を平井神社と改称する。
大正11年蓮海寺を安養寺裏から現在の平井神社境内に移す。近年蓮開寺の寺号に戻すと思われる。
 

蓮開寺(牛頭天王神宮寺)

2003/11/14撮影
 牛頭天王社蓮開寺1(左図拡大図)
 牛頭天王社蓮開寺2(左:蓮開寺、右:お旅所)
 牛頭天王社蓮開寺3(蓮開寺跡地・・安養寺裏地)
 牛頭天王社蓮開寺4

2009/02/15撮影:2月15日蓮開寺大般若経転読
 蓮開寺内部     蓮開寺諸尊:中央薬師如来坐像、右弘法大師坐像、左不動明王立像     蓮開寺本尊薬師如来
 大般若経経函    大般若経600巻1:折本で、599巻(1巻欠)と云う。     大般若経600巻2
 蓮開寺仏画     大般若経転読法要1     大般若経転読法要2        蓮開寺堂入口
大般若経転読法要当日は地区世話役が準備をする。午後から僧侶が出て、法要を執行する。転読は約1時間半を要するという。
転読法要に際し、多くの地区民の参拝を見る。

本殿は一間社流造で正保2年(1645)の建立(棟札)。屋根鉄板葺き。桃山風の意匠・彫刻が良く残る。
2002/10/18撮影:
 牛頭天王社本殿1      牛頭天王社本殿2      牛頭天王社本殿3       牛頭天王社本殿4
 牛頭天王社本殿5      牛頭天王社本殿6      牛頭天王社本殿7
2006/11/23撮影:写真のように、ごく近年修理が行われ、鮮やかに蘇る。
 牛頭天王社本殿11     牛頭天王社本殿12     牛頭天王社本殿13     牛頭天王社本殿14     牛頭天王社本殿15
 牛頭天王社本殿16     牛頭天王社本殿17     牛頭天王社本殿18     牛頭天王社本殿19     牛頭天王社本殿20
2009/02/15撮影:
 牛頭天王本殿正面     牛頭天王本殿21     牛頭天王本殿22     牛頭天王・若宮八幡     牛頭天王本殿23
2014/03/23撮影:
 牛頭天王本殿31     牛頭天王本殿32     牛頭天王本殿33     牛頭天王本殿34     牛頭天王本殿35
 牛頭天王本殿36     牛頭天王本殿37     牛頭天王本殿38     牛頭天王本殿39     牛頭天王本殿40
 牛頭天王本殿41     牛頭天王本殿42     牛頭天王本殿43     牛頭天王本殿44     牛頭天王本殿45
 牛頭天王本殿46     牛頭天王本殿47     牛頭天王本殿48     牛頭天王本殿49
末社若宮八幡宮(ごく小さい一間社流造、本殿と同じ時期・17世紀中期の建立と推定)。屋根銅板葺き。
2003/11/14撮影:
 若宮八幡宮1       若宮八幡宮2        若宮八幡宮3
2006/11/23撮影:
 若宮八幡宮11        若宮八幡宮12        若宮八幡宮13        若宮八幡宮14
2009/02/15撮影:
 若宮八幡祠
2014/03/23撮影:
 若宮八幡祠2
水度神社:城陽市水度坂

古は神仏習合の社であったと思われるも、現在は下記に示す大般若経が現存すること以外に、その様相を知ることはできない。
 

水度神社本殿(重文)

水度神社本殿(重文)
一間社流造(側面2間)で千鳥正面破風の拝所を付設する。
建立は文安5年(1448)<社殿棟札>

水度神社本殿1
 同      2(左図拡大図)
 同      3
 同      4    ・・・以上2003/11/12撮影

2007/11/07追加(2007/10/24撮影)
水度神社本殿・拝所
水度神社拝殿1
水度神社本殿2
水度神社本殿向拝蟇股
水度神社奉納額1:年記は消滅し不明、本殿拝所拝殿など今の姿を示す
水度神社奉納額2:天保5年、本殿拝所拝殿などを描く
水度神社奉納額3:天保12年、今と同一の拝所の姿を描く

2014/03/23撮影:
 水度神社本殿11     水度神社本殿12     水度神社本殿13     水度神社本殿14     水度神社本殿15
 水度神社本殿16     水度神社本殿17     水度神社本殿18     水度神社本殿19     水度神社本殿20
 水度神社本殿21

神仏習合時代の様相は良く分からないとされるが、
大般若経601巻とその経箱7箱が伝来する。(巻282と巻357が重複、巻515が欠)
開くことが可能な466巻中444巻が鎌倉期の写経で、残りは江戸期中期までかけて製作されたと云う。(奥書)
寛元2年(1244)石清水八幡宮から山城正福寺に伝えられ、文明3年(1471)河内永持寺に移り、室町後期に水度神社に伝来したとされる。経箱7箱中6箱は享保7年(1722)の新調との記入があると云う。

なお水度神社の前の鎮座地は裏北東の大神宮山(どこか良く分からない)であると云われ、その時の宮寺の観音像が現在三縁寺(城陽市寺田)安置の乾漆観音像と云う。(城陽史誌1の寺田村誌・・中島孝太郎説)

2008/08/09追加:「城陽市の指定文化財」より
 大自在天神鉄湯釜:水度神社蔵、鋳鉄製
 鉄湯釜 ・陽鋳銘:応永32年製作、当時大自在天神と称したこと、大自在天神には日楽山薬師堂があり、そこの備品であったと分かる。

安羅見天神社(荒見神社):城陽市富野荒見田

維新前は常楽寺・安羅見天神社と称する。明治の神仏分離で現社名(明治21年までには)に改称する。
2003/11/12撮影: 鳥居・薬医門     薬 医 門
2014/03/23撮影; 安羅見天神社薬医門2     安羅見天神社薬医門3
近世は常楽寺境内に天神社が同居していたと思われる。

近世初頭絵図

近世初頭絵図(左図拡大図)
<市左衛門・仁左衛門作事場相論済絵図、推定元和4年>
 ・・・「城陽市史 4巻」から転載(部分・赤字は補足)
 境内は南面し、西に常楽寺本堂、北に薬師堂、
 東に天神と御霊が位置している。
 (現状寺の位置付近に社務所が建立され、薬師堂跡は更地と思われる。)

○2010/03/20追加:
 明治8年富野村氏神境内絵図:「延喜式内並国史見在神社考証」(京都府立総合資料館蔵・明治初頭の式内社確定のための資料) より
藥井門を入り向かって右手に鐘楼と思われる堂、正面に舞台、その奥に寄棟造瓦葺の薬師堂がある。左手には常楽寺の区画及び堂がある。
この後、間もなく薬師堂、鐘楼、舞台、常楽寺堂宇は廃される。
なお、当時は式内社としての認定はなされなかったようで、氏神とある。
○明治17年の「天神社明細帳」の境内略図では、南面する鳥居にすぐ後に薬医門があり、薬門右に釣鐘堂があり、境内右半分に西面する本社・拝殿・末社・御輿舎などがあり、門正面及び左境内は御供所のみで空地とな る。
境内左(西)の常楽寺本堂及び正面の薬師堂は既に廃されている。
現在も境内北は広く潅木の茂る空地になっていて、この北西附近からは石碑・石地蔵などが掘り出されたという。
要するに天神社は常楽寺と並列をしていたと思われる。
常楽寺は石清水八幡宮豊蔵坊末寺で、常楽寺法印が祭りその他を支配してきたと伝える。
明治の神仏分離で佛教施設は薬医門・釣鐘堂(明治20年代に売却)を残し撤去される。
仏像は南垣外・現在の極楽寺に遷され、祀られていると云う。
阿弥陀三尊とその宮殿(3間×1間・寄棟造・板葺・正面1間の唐破風付)、「浅間さま」と推定される立像、青面金剛像、地蔵菩薩、金剛夜叉明王、名称不明の立像が遷座したという。

◆荒見神社本殿(重文)

荒見神社本殿:重文、慶長9年(1604)再建、三間社造、屋根檜皮葺
2003/11/12撮影:
安羅見天神社本殿1(左図拡大図)    同         2
2002/10/18撮影:
 同       本殿3    同        4    同        5
2008/07/14撮影:
安羅見天神社本殿6     安羅見天神社本殿7
安羅見天神社本殿8     安羅見天神社本殿9
2014/03/23撮影;
天神社本殿11     天神社本殿12     天神社本殿13
天神社本殿14     天神社本殿15     天神社本殿16
天神社本殿17     天神社本殿18     天神社本殿19
天神社本殿20     天神社本殿21     天神社本殿22
天神社本殿23     天神社本殿24     天神社本殿25
天神社本殿26

○末社御霊社;元和9年(1623造営)棟札による
2003/11/12撮影: 御  霊 社 1          御  霊 社 2
2008/07/14撮影: 安羅見天神社御霊社11     安羅見天神社御霊社12
2014/03/23撮影: 天神社御霊社3         天神社御霊社4         天神社御霊社5

水主神社:城陽市水主

別雷大明神。本殿(一間社流造、檜皮葺、寛政10年1798造営)

枇杷庄天満宮社:城陽市枇杷庄

明治維新まで薬師院の管理であった。

文化2年「就御尋口上書」(寺社格改め届出書):
城州久世郡枇杷庄村 天満宮社
1.境内年貢地 東西19間、南北20間半  境内末社 春日、水神、弁財天 相殿社
                            右天満宮境内に薬師院と申寺御座候
1.境内年貢地 東西24間、南北2間 右末社 若王子社
右 ・・・本社神璽は十一面観音を勧請仕天満宮と称し・・、勧請並建立年歴・・末社勧請・・旧記無之・・・難相分御座候・・
                             社僧 薬師院 泰輪
御奉行様
----------------------------------------------------------------------------------------------
薬師院は瑠璃光山福徳寺薬師院と号し、知積院末であった。享和3年は無住であったが、その後泰輪が入寺した。十一面観音がご神体であった・・と云う。明治維新で廃寺となる。
当社神宮寺であった薬師院本尊木造薬師如来立像(平安前期・檜一木造・重文) が阿弥陀寺に現存する。
薬師院は明治の神仏分離により廃寺、阿弥陀寺へ遷されたという。
昭和35年の木津川改修で、旧地より北へ数十m社地が移動する。従って薬師院などを偲ぶものは何もない。
本殿は三間社流造(側面2間)で、寛永2年(1627)の造営とする(棟札)。
   枇杷庄天満宮社1  枇杷庄天満宮社2
○2006/07/12追加:
 薬師院本尊薬師如来立像:「城陽の指定文化財」城陽市歴史民俗資料館、1995
・木造薬師如来立像(重文、平安前期)阿弥陀寺蔵、像高95.1cm、檜一木造。枇杷庄天満宮薬師院本尊、明治神仏分離で薬師院廃寺、阿弥陀寺へ遷す。

賀茂神社:奈島

社僧(宮寺)として神福寺 (知積院末)が境内に付設されていた。
廃寺の後も大日堂は奈島の会議所として使用されていたが、近年取り壊され、今は存在しない。


神福寺大日堂

 旧大日堂取壊の時の写真が残されています。
 内陣(左)、外陣の構造を覗うことが出来る。
「城陽市史 2巻」に掲載
 

現存する大日堂棟札によると、堂は文政5年(1822)の再建で、
堂本尊は大日如来、両脇に不動明王、愛染明王を祀るとされる。

なお右の神福寺大日堂の取壊し直前の写真があるが、
写真の所有者である深広寺様の写真掲載の許諾が
得られないので、写真掲載は断念。

  大日堂跡地(左は社務所で 、右が旧大日堂跡の新しい会議所)

付近の人のお話では大日堂取壊は確か昭和40年頃という。現在は社務所と会議所は接しているが、大日堂と社務所とは別棟であった、また大日堂南には「土蔵」もあったという。 なお聞き取りでは、現在の建物は寺田小学校の作業所?を移建したものと云う。

 


 

 

 

 

大日堂本尊大日如来坐像

 

  上記大日堂本尊大日如来・不動明王・愛染明王及び十一面観音立像は神社西の深広寺に遷座され、大切に保存されている。
深広寺(浄土宗)境内に、廃仏のための大日堂が新たに建立され
今も地区民の信仰の対象となっていると思われる。

深広寺大日堂

大日堂軒札
 :本尊大日如来、脇侍十一面観音、
  愛染明王、不動明王、弘法大師
大日堂打付札
 :正?面 大日如来・・本地仏、神福寺ノ本尊、?端 十一面観音、
  前向かって右 不動明王、前向かって左 愛染妙明王

大日如来坐像(左図拡大図)

十一面観音立像

大日堂諸仏:弘法大師、大日如来、十一面観音)

 


賀茂神社本殿(隅木入春日造、檜皮葺、素木、明和3年1766造営<棟札>)
 賀茂神社本殿1   同     2   同     3

★旦椋神社:城陽市観音堂

観音堂村の産土神と云う。以仁王の胄を祀り、「胄神社」とも称する。
本殿(二間社流造、杮葺、江戸初頭の建築と推定)

★市辺天満宮:城陽市市辺

本殿(一間社流造、檜皮葺、慶長11年1606造営)

参考文献:
「城陽市史. 第1巻」 城陽市史編さん委員会. -- 城陽市, 2002
「城陽市史. 第2巻」 城陽市史編さん委員会. -- 城陽市, 1979
「城陽市史. 第3巻」 城陽市史編さん委員会. -- 城陽市, 1996

上津屋石田社(上津屋牛頭天王社):八幡市東石田、西石田、上津屋(現八幡市)に鎮座する。

詳しい社歴は未掌握。
上津屋の石田社については、明治まで牛頭天王社と称し、明治の神仏分離で石田神社と改号する。
上津屋の石田社境内には石造十三重塔が現存し、様式から南北朝期のものとされる。
おそらく神宮寺のものと推測される。
また十三重塔脇には推測であるが、神宮寺の堂宇と思われる建物(見当違いで近年の倉庫?の可能性もある)も残る。
2003/11/18撮影:
  石田社十三重塔・堂宇
  石田社十三重塔1      同       2   石田社十三重塔:2007/03/03撮影 、高さ約360cm、相輪は九輪以下を失う。
  石灯籠銘(牛頭天王と ある、裏面に年号の刻印があるが、判読不能。)
  上津屋石田神社本殿(嘉永4年の造営)
なお 東石田、西石田にある各々の石田社には現在、仏教的な遺物は残存しない。
2012/05/11追加:
「八幡 文化のふるさと」平成3年 より
『山城綴喜郡誌』では、大宝2年(702)鎮座、文治4年(1188)源頼朝により神事料として土地の寄進をうけると云う。
近世には牛頭天王社と称し、明治の神仏分離で石田神社と改号する。祭神は建速須佐之雄命と称える。
本殿(一間社流造)は、嘉永4年(1851)の造営(「伊佐家文書」)、拝殿も同時期の建築と云うも、再建時の享保20年(1735)銘鬼瓦を使用と云う。
宮寺福泉寺薬師堂が御輿倉に転用され現存する。本尊は本地薬師如来を祀るも、明治の神仏分離で北西すぐにある浄土宗西雲寺に遷座、現存する。
1200点以上ある「石田神社文書」には文政5年(1822)の薬師堂普請願書があり、この頃の建立であろう。
なお、この薬師堂はもともと北側に出入口があり(蔀戸か)、御輿倉転用時に前扉を付け替えたと考えられる。
 ※石田社などと延喜式内社に類する名称に改竄するも、何のことはない実は牛頭天王であったというお粗末な話である。
  牛頭天王社らしく、福泉寺薬師堂と本地薬師如来(西雲寺に移安・現存)が現存する。
  なお福泉寺薬師堂とは上掲の石田社十三重塔・堂宇であろう。

-------以下は旧綴喜郡に於ける神仏習合並びに分離------以下の画像は2003/11/18撮影

甘南備神社(神南備神社)

「山州名跡誌」:
「此の所中比在寺」「薬師堂 在同山の巽二町許麓。 本尊薬師仏(坐像3尺余) 作慈覚大師
此の堂初め神南備の山上にあり荒廃年久し。近年此の所に再建す。」
なお甘南備山上にはかって神奈比寺があり、また以上のように山上に薬師堂の存在があり、神仏の習合があったと思われる。
○2006/07/12追加:
「薪の神社と宮寺・宮座」薪区文化委員会、平成2年 より
甘南備神社:甘南備山で、役小角が柴灯護摩の秘法を修し、天平年間、行基が神宮寺の甘南備寺を創建したと伝える。
明治維新後、延喜式内小社とされ、明治期に今に見られる社殿や境内整備が行われる。
元禄2年(1689)吉川政信等により、甘南備山を離れる。
なお、次の一文は興味深い。
「薪の神社に神官や神職・神主が置かれた記録はなく、宮寺光通寺や酬恩庵の住職または僧侶がこれに当っていたらしい。
明治以降は田辺や草内の神主が兼務されていた。」
 ※殆どの「神社」は明治維新までは、僧侶(社僧)や仏教が深く関わり、実質の祭祀を執り行っていたのが実態であった。明治維新後の国家神道によって、仏教的なものを廃し、祭神の押し付け・変更が行われ、あまりに実態に乏しい小祠はそれらしく社殿の造替や境内整備で取り繕われ、「神社」である体面を保ったに過ぎないと思われる。

薪神社:京田辺市薪

明治41年天神社(鎮座地は現薪神社)と八幡神社(鎮座は南東150mの地・社殿跡は原形を保つという)とを合祀して成立。
両宮の維持管理は宮寺の光通寺が当る。
「寺社御改帳」:明和5年(1768)では
・・・
1.氏神 若宮八幡 但武氏小社
1.氏神 天神宮社 住吉小社 観音堂 拝殿 三軒
1.右境内 真言宗 無本寺光通寺 但釈迦堂 宮寺 春日小社 経蔵
・・・ とあり、「両宮は、本地仏は十一面観音と阿弥陀如来で、それぞれ垂迹神は八幡神と天満神である」(村田家文書)とある。
 今の薪社(元の天神社)境内に光通寺釈迦堂、経蔵、観音堂があり、光通寺が両宮を差配したとされる。
「天神社 住吉明神 八幡宮 観音堂 高良明神 釈迦堂 宝蔵諸道具控」(安永3年1774):では
・・・
1.天神本地観音堂 十一面観音1体 不動1体 多聞天1体 ・・・ 役行者1体(現在は北側の西光寺保管)
・・・
1.釈迦堂 本尊釈迦如来1体 薬師如来1体(西光寺保管) 不動明王1体(西光寺保管) ・・ 護摩壇 ・・ 聖天1体 ・・・
1.1間半四方宝蔵 大般若経六箪笥 ・・・
・・・ 光通寺現住 光湛湛代に改置
  の記載がある。
明治初年の神仏分離で光通寺は廃される。現状薪神社に佛教関係を偲ぶものは皆無。
なお本殿北側は元観音山と呼ばれ、観音堂があったが明治初年に廃され、山は削平され、現在は児童公園になる。
本殿は一間社流造・寛政6年(1794)の造営。
  推定元観音山付近    薪神社本殿
○2006/07/12追加:
「薪の神社と宮寺・宮座」薪区文化委員会、平成2年 より
 光通寺多聞天・薬師如来・不動明王:西光寺蔵
 光通寺役行者:西光寺蔵

天神森天神社・天満宮(棚倉孫神社):京田辺市田辺

旧天神森村にある。
社僧は松寿院であり、松壽院が天満宮(天神社・棚倉神社)の維持管理に当る。
近世には天神社・天満宮と称する。明治に至り、復古神道によって、式内棚倉孫神社と付会される。

元禄5年 田辺村松寿院由来の「覚」(御室御所様宛):
 1.梅香山長学寺松寿院 ・・・・
 1.天満宮 一宇 勧請之時代何之時欤不分明候 ・・・・・
 1.同御旅山観音堂 同村之内有之・・・・
 1.右寺社開基建立之時代不分明候 ・・・・
 1.・・・・
      元禄5年 田辺村 梅香山松寿院 教伝房慧照
とあり、松寿院が天満宮の社僧であった。なお、おそらく御旅所(場所は不明)に観音堂があったと思われる。
なお松寿院慧(恵)照は現在棚倉孫神社所有の「当社天満天神尊像再興記」(元禄7年)、「天満宮縁起副録」(元禄7年)を残すと云う。
また松寿院の記録としては寛文年中(1661-)、享保年中(1716-)の記録も残るという。

天神社松寿院

松寿院は社務所として現存する。
建物は天保14年(1843)の建築という。38坪5。

 旧松寿院1
  同   2(左図拡大図)
 松寿院跡石碑
2014/01/11撮影:
 天神森天神社松壽院寺門
 天神森天神社松壽院坊舎
 天神森天神社境内
天保14年(1843)松壽院再建
安政5年から明治4年まで寺子屋として使用され、明治5年田辺小学校仮校舎とあり、明治6年社務所となる。
何れにせよ、松壽院は明治の神仏分離の処置で廃寺となる。

 天神森天神社本殿1     天神森天神社本殿2      天神森天神社本殿3
2014/01/11撮影:本殿は桃山期の建築、一間社流造、屋根檜皮葺。
 天神森天神社本殿11    天神森天神社本殿12    天神森天神社本殿13    天神森天神社本殿14
 天神森天神社本殿15    天神森天神社本殿16    天神森天神社本殿17    天神森天神社本殿18
 天神森天神社本殿19

大住御霊社(月読神社:京田辺市大住

御霊社と称し、神宮寺として法輪山福養寺の六坊(奥ノ坊・新坊・中ノ坊・西ノ坊・北ノ坊・東ノ坊)があった。
「月読神社遷宮式に付申合せ一札案」(天保15年1844)が社坊より四座(宮座)衆中に差し出されている。
差出人は西之坊、東之坊、中之坊(以上は無住)、新シ坊、北之坊、奥之坊の連名になる。
 ※天保15年には福養寺は六坊の構成で、その内の3坊が無住であったと知れる。
○「乍恐社頭御伺付次第書」(慶応4年・別当職奥之坊権大僧正法印空善)では
境内除地:1524坪、本社:8尺四方、檜皮葺、舞殿;2間四方、拝殿:6間×2間、御鳳輦:5間×2間、
薬師堂:4間×3間、薬師堂篭堂:1間半四方<付箋があり「・・取払可申之事」とある>
以下略・・・
 

御霊社福養寺薬師堂

薬師堂は本殿南に位置し、堂跡を残す。
石柱が立ちその標とする。

「式内社調査報告第1巻」では明治初年に廃され、薬師堂本尊は両賛寺に遷された(田辺町史)とするが、両賛寺とは不明。
 2016/05/17:両賛寺は下に掲載。

2006/11/18撮影:
 福養寺薬師堂跡(右拡大図)
 薬師堂石碑
 薬師堂跡周辺の遺物1
 薬師堂跡周辺の遺物2

○「御霊大明神四座式文記」の慶応4年5月の項:
神仏分離の処置により、「大日尊取除、天照皇大神相祭、弁財天取除住吉社称ス、金毘羅相改、崇徳天皇奉称、薬師堂尊躰取片付候、社坊帰俗被仰出、就御布令、神主相勤候奥之坊事、奥大膳ト改名之事」
御霊社では、大日如来に替えて天照皇大神が祭られ、弁財天・薬師如来が取り払われ、福養寺奥之坊空善が還俗・改名し神官になったとされる。
 ※慶応4年には早くも神仏分離の名を借りた国家神道の理想が貫徹、仏教の廃除が完全になされた様子が分かる。
○「大住村元社坊田地に付口上書」(明治6年):
上記「口上書」には大住村元西之坊、北之坊、中之坊、東之坊の4ヶ所田面について、和談(内容は不明)が成立し、今までの申出の撤回が述べられている。
口上主は、元中ノ坊寺元樺井太良、元北ノ坊寺元樺井次良、元西ノ坊寺元岡本久雄、元東ノ坊新坊寺元森伝内、月読神社神主奥本敏材の5名となっている。
 ※すでに神仏分離が遂行された様子が見てとれる。
2006/11/18撮影:
  月読社本殿(明治26年建立)
○2010/03/20追加:
 明治8年大住村月読神社:「延喜式内並国史見在神社考証」(京都府立総合資料館蔵・明治初頭の式内社確定のための資料) より
4間×3間の薬師堂が残る。薬師堂は入母屋造瓦葺、1間の向拝を付設し、縁を廻らす。池中は弁財天社(住吉社と改)であろう。
○慶応4年石清水八幡宮が当地に一時遷座する。
 古文書は以下のように伝える。
「大住村樺井正資戊辰戦争覚書・慶応4年」:
慶応4年戊辰戦争により、石清水八幡宮が戦火を逃れ、当社に遷座する。
鳥羽伏見で幕府軍は大崩、大阪勢は淀まで引き、更に八幡まで引く。
「(正月六日)宿院、川口村再度之戦、樋の上要所崩れ相成、凡八九百人程討死す。且又同日早朝より八幡宮以下、当村鎮守へ御移り給ふ。御供奉人数弐百五拾人而行幸之事。云々 」
以上の八幡宮行幸に付き、石清水八幡宮別当新善法寺僧正澄清および権別当善法寺法眼弘清から、大住村鎮守(御霊社)へ永世献米の証文が出される。(慶応4年)
また
「御霊大明神四座式文記」の慶応4年正月6日の項:
「八幡宮兵乱ニ付、八幡宮三社御鳳輦之儘、其外御末社・御神宝、一社一同図随従被致、当村氏神江御遷社、正月8日長州・因州両藩屁兵隊一千人奉固衛還行、八幡社頭其外社人並当村座中・村役人供奉致候事」とある。
○2016/05/17撮影:
現在広くもない境内に伊勢神宮遥拝所・神武天皇遥拝所・明治天皇御陵遥拝所の3基の石碑があり、気持ちの悪いことこの上ない。
 御霊社社頭常夜燈:社頭に2基の常夜燈がある。年紀は幕末頃のものと記憶する。
 常夜燈背面社坊銘:左右の常夜燈背面に社坊名(奥之坊、北之坊)を刻む。幕末頃には 左記の2坊しか実態がなかったのであろう。
 大住御霊社境内     御霊社薬師堂跡
御霊社薬師堂礎石:附近に方形に加工された石が3個(確実なのは2個、1個はやや加工が粗い)あり、薬師堂礎石と推定される。
 御霊社薬師堂礎石1     御霊社薬師堂礎石2     御霊社薬師堂礎石3:やや不確実。
 弁才天池・弁才天社:池中に祠が新造されている。弁才天社とあるので、復号したものと思われる。
2016/06/12追加:
○「京田辺市の仏像ー京田辺市美術工芸品調査報告書」京田辺市教育委員会、2007 より
大住福養寺薬師堂に安置の薬師如来像および四天王は両讃寺本堂に客仏として祀られる。
 木造薬師如来立像:厨子入秘仏とされる。平安前期の作と推定される。像高130cm。
 木造四天王立像:広目天像以外は頭部と体部は別作dあり、東部は平安後期、体部は江戸期と推定される。像高は103〜115cm。

◆發迎山二尊院両讃寺:大住八河原(大住御霊社の北方およそ5町にある。)浄土宗鎮西派。
慶長6年(1601)創建、万延元年(1860)玉誉善住上人により再興。寺伝では、時の領主大住氏はこの地の城山に居を構え、西村の阿弥陀堂、東村の釈迦堂を信仰するも、織田信長に敗れ、両堂とも荒廃する。この時橋本甚太夫と刀根源太夫が堂宇を再建、阿弥陀如来と釈迦如来を遷し、願故上人を住持に迎え、發迎山両讃寺と号するという。明治維新後快念庵を合併する。現在の本尊は阿弥陀如来立像、釈迦三尊像は別に安置する。
客仏として法輪山福養寺薬師堂本尊薬師如来立像と同じく薬師堂安置の四天王立像を祀る。
 両讃寺山門     両讃寺本堂     両讃寺石造十一面観音立像     両讃寺歴代墓碑など

松井天神社:京田辺市松井

神宮寺として真言宗中性院が維持管理に当ってきたが、明治4年神仏分離の処置により廃寺となる。
本山からの「下知状」(明治5年)
1.其院義、・・・、神仏混淆廃止之旨、被仰出候。就而者、社僧院号廃止之義、中性院住職並びに本寺住職連署を以。
  政府表へ出願候処、本尊仏器経文書類悉皆本寺江差納め、願之通御聞済に相成候間、
  (以下意訳)  何分遠隔地などなどの故に、右の仏像仏器類は貴房(中性院)にて隋意にお任せする。
               高尾山翫玉院殿内 山本大隈 清滝摂津
                松井村 元中性院 光明御房へ
本山(高尾山翫玉院)から、神仏分離の申し出は認可され、仏像仏器類の処置は中性院に任されたとされる。
現在不動明王、歓喜天、役行者等の像が社務所に残されていると云う。
 ※高尾山翫玉院:永仁5年(1297)後深草天皇第4皇子・性仁法親王が神護寺に入寺し、翫玉院を建立するという。 この翫玉院が明治維新まで存続していたのであろうか。
 

天神社中性院

本殿の下段、社務所の上段の平坦地に中性院跡地を残す。
外見的には何の遺物もない。
2006/11/18撮影:
 中性院跡1(左図拡大図)
 中性院跡2

2006/11/18撮影:
 天神社本殿1(一間社流造・古い建築では無いと思われる。)     天神社本殿2
宝篋印塔が残る。但し中性院と関係はないと思われるも不明。
 宝篋印塔1     宝篋印塔2(正面:残念ながら解読不能。)
 宝篋印塔3(側面左:元禄15年 天満大神宮 徳?王山觀音寺 牛頭天王宮 ・・)
 宝篋印塔4(・・・ 通心院妙光信女? ・・ 願主法印清恕)墓碑なのかも??
 宝篋印塔5(裏面)・・・・・・・観音寺も不明で結局この石塔の性格は良く分からない。
2016/06/12追加:
○「京田辺市の仏像ー京田辺市美術工芸品調査報告書」京田辺市教育委員会、2007 より
天神社には木造1、銅造2躯の歓喜天像を伝える。木造は室町期の作と推定され、銅造は江戸期の作である。
天神社は元摂津枚方に接する交野ヶ原にあったと伝える。聖天像3躯は神宮寺である中性院に伝わったものである。
 木造歓喜天立像:像高16cm。

酒屋神社:京田辺市興戸

神宮寺として観音寺(真言宗常光山実心院観音院)があったという。神仏分離により、明治初年に廃寺という。
「旧観音寺本尊略縁起」(享和3年1803、酒屋神社社僧 観音寺探道):
意訳:「弘仁年中知泉僧都の建立で、本尊は聖観音である。酒屋大明神の本地仏なり。・・・」とある。
観音寺は境内東北隅にあり、明治9年の法律改正で取り払われ、地下して畑地となったという。
但し現地は都市化はしていないが、寺地の跡は良く分からない。居合わせた土地の数人の古老も知らないとのことであった。
  酒屋神社本殿(一間社流造・明治9年再興)
  本殿東北方面(観音寺跡地??)

佐牙神社:京田辺市宮津

明治維新前は、天神宮(佐賀天神宮)、吉田明神、若松大明神と称されるという。
社僧として恵日寺があり、神社の管理に与る。明治初年に廃寺となる。
「江津村恵日寺略縁起」(天明2年1782):
 大意;伝教大師開基、本尊は千手観音。中世には焼亡、仮屋に多数の仏像を篭置く。
 慶長年中に片桐市正(領司)が堂を再興し、本尊並びに五大明王像などを奉安する。
                                               天明2年 龍集
明治の神仏分離の処置で恵日寺は廃寺、廃寺の後、仏像類は以下のように処分されたという。
正福寺(佐牙垣内)には不動明王(南北朝期)・大威徳明王・軍茶利明王像が、寿宝寺(山本) には降三世明王・金剛夜叉明王が遷座、大般若経は300巻ずつを両寺に移す。
 

佐牙神社恵日寺

恵日寺跡:
奈良街道から参道を進み、石段が2段階になっていて、その中間に平坦地があり、その左平坦地に恵日寺があった。
現状は潅木の平坦地を残すのみで地表には遺構は残存しない。
2006/11/18撮影:
 恵日寺跡1(左図拡大図)
 恵日寺跡2
 恵日寺跡3(石碑)


佐牙神社本殿(重文)


佐牙神社本殿(重文):
本殿は2殿を構え、社伝によると天正13年(1586)の再興という。ともに一間社流造。
なを身舎3方の蟇股6面は鎌倉風の遺構とされ、再建時旧構を利用したものといわれる。
2006/11/18撮影:
 佐牙神社本殿1
 佐牙神社本殿2
 佐牙神社本殿3(左図拡大図)

2009/01/06撮影:
 山城佐牙神社本殿11   山城佐牙神社本殿12   山城佐牙神社本殿13   山城佐牙神社本殿14   山城佐牙神社本殿15
 山城佐牙神社本殿16   山城佐牙神社本殿17   山城佐牙神社本殿18   山城佐牙神社本殿19   山城佐牙神社本殿20
 山城佐牙神社本殿21   山城佐牙神社本殿22   山城佐牙神社本殿23
○三山木廃寺
当神社に接する南の丘陵地から、奈良前期の古瓦を出土したという。
現在三山木廃寺として、石碑が建てられている。現在この地は竹林をなす。
  □三山木廃寺石碑
廃寺は江津(宮津小字佐牙垣内)にある。古代は三山木廃寺の鎮守が当社であったのか、あるいは当社の神宮寺が三山木廃寺であった可能性もあるが、それは全く不明である。
2016/06/12追加:
○「京田辺市の仏像ー京田辺市美術工芸品調査報告書」京田辺市教育委員会、2007 より
廃恵日寺五大堂五大明王像が壽寶寺及び正福寺に伝わる。
 木造降三世明王立像:平安後期:像高155cm:現在壽寶寺安置
 木造金剛夜叉明王立像:平安後期:像高156cm:現在壽寶寺安置
 木造大威徳明王椅像:平安後期:113cm:現在正福寺安置・・・以上三像は一具作
 木造不動明王坐像:平安後期:像高81cm:現在正福寺安置・・・以上三像とは別手であり、他から転用か。
 木造軍荼利明王立像:室町期:像高161cm:現在正福寺安置・・・本来の像が失われ補作したものである。

朱智天王社(朱智神社):京田辺市天王

近世は牛頭天王社と称した。本殿内には牛頭天王立像(藤原期)を今も祀る。
神宮寺があり、天王6坊があったと云うも、詳細は不明。神宮寺の廃絶年も不詳。

「神祇官再興に付朱智神社神主の依頼状(下書)」<慶応4年>が残存する。
これによると、先ず慶応4年3月28日、3月13日の神仏判然の神祇官布告を写し、さらに4月4日の社僧還俗の布告を写した上で
「右之通(神祇官布告のとおり)御請書奉差上候」とある。
牛頭天王社においても上記「請書」に見られるように、何らかの神仏分離・廃仏が行われたものと推測されるが、具体的な神仏分離の内容は史料がなく不明。
2008/06/02追加:「別冊太陽 日本の神 68」平凡社、平成2年 より
 朱智天王社牛頭天王像;藤原、像高1m余、一木造彩色。
2010/02/18追加:
「椿井政隆による偽創作活動の展開」馬部隆弘(「忘れられた霊場をさぐる[3]」栗東市文化体育振興事業団、平成20年(2008) 所収)より
椿井政隆は、並河誠所の「山城志」で所在不明とした朱智神社を天王村牛頭天王社に付会した。これはその宮寺である普賢寺と合わせ、彼が普賢寺郷 の有力支配層の意向を受け、古代からの連綿たる正統性などを主張するためであった。
当然、現在の寺社の由緒や地域支配の正統性を証明する古文書などは通常は残存はしない。椿井は、まさにその残存しない事を利用して、椿由緒や系図(連綿たる正統性を証明するものとして)を創作することによって、古の虚偽の「史実」を作り上げることに成功した。

2010/03/20追加:
咋岡神社

いわゆる論社である。
京田辺市教育委員会は以下のように草内咋岡神社を説く。
即ち、「創建年代は健治年中(1274-78)で、応仁年中(1467-1469)、永和年中(1504-1521)に戦火で焼失したが、天文3年(1534)8月に再建されたと伝える。古くは天神社と称したが、明治26年咋岡神社と社名を改めるとともに、それまでの主神菅原道真を配神とし、倉稲魂神を主神とした。」「本殿は春日造、・・・江戸中期頃の建立と思われる。この神社地は、もと(山城国一揆の)草路城といわれ、周囲に濠をめぐらし土塁の跡が周囲の森林の中に残る。」と。
「偽文書からみる畿内国境地域史−「椿井文書」の分析を通して−」馬部隆弘 の論点は以下である。
並河(「山城志」)は咋岡神社 を草内天神社に比定する。(草内は飯岡<「続日本書紀」などの云う区毘岳>の隣である。法泉寺を宮寺とする。中世の十三重塔が残る。以上がその理由であろう。)
しかし明治初頭でも草内天神社は咋岡神社を名乗らず、天神社のままであった。
明治26年突然「旧記」が発見され、草内天神社は咋岡神社と改号する。
一方、飯岡咋岡神社であるが、椿井政隆は並河の比定とは違って、飯岡の天神社を咋岡神社と比定していたふしがある。
 ※綴喜郡筒城郷朱智庄佐賀庄両惣図(京都府立総合資料館蔵・「椿井文書・偽書」 )では咋岡神社を草内ではなく飯岡に描く。
明治2年の「南山城神社改帳」には飯岡では神社は認識されていないが、明治6-9年の「特選神名帳」では神社が認識される。
おそらく、明治維新の神祇復興の時流にのるために、急に式内社と主張を始めたものと思われる。
明治10年式内咋岡神社と決定される。飯岡の社も近世には天神社と称したと云う。

明治26年草内天神社が「旧記」発見し、咋岡神社と改号、草内・飯岡の氏子が争うも、実質的には飯岡が咋岡神社と裁定されたとされる。
物証はないので分からないが、無名の飯岡天神社が明治初期に式内社との決定を見たのは、「椿井文書」の存在があるのだろうか。
 一方の明治26年に「発見」された草内の「旧記」とは「椿井文書」の可能性が極めて高いと推定される。それは冒頭の京田辺市の説明では居様に社伝が詳細であることも、一つの傍証となる。つまり創建や2度の焼失の年号が伝わり、再建の年・月まで伝わっている。まず地方の小社でこのようなことは有り得ない。延喜式の頃には存在していたのだろうが、しばらく後には退転し、忘れられてしまうからである。有り得ないほどの詳細な社史が「伝わる」のは近世に創作されたからである。極めて詳細な事象の日付を示すのは「椿井文書」の一つの特徴である。
明治26年と云う年代も、椿井文書が木津の今井氏(今井佳平・後に府会議員)から古文書の因縁先に有償譲渡された時期に一致するのは偶然ではなかろう。

2010/04/13追加:
玉岡社(玉岡春日社、八王子社、椋本天神)

○由緒・由来をWebで探すと以下のように云われているのが分かる。
【玉津岡神社の由来】
欽明天皇元年(540)8月、下照比賣命、玉津岡の南峰に降臨する。これが始まりである。
天平3年(731)9月、井堤左大臣橘諸兄、橘一族の氏神として、椋本天神社を創祀する。
「玉岡の社」は、「玉岡春日社」、江戸期には「八王子社」と称号を変える。 (この経緯は良く分からないし、意味不明。)
明治11年10月5日、八王子社・春日社・田中社・八坂社・天神社の5社を八王子社殿(玉岡の社)に合祀する。
明治12年5月27日、村社。 明治14年7月8日、社号を「玉津岡神社」と改称。明治15年4月24日、郷社。明治23年4月14日、有王天満宮を合祀。
また以下の記事も見られる。
『嘉吉元年(1441)の興福寺の文書には、椋本天神の名で記され、由緒を欽明天皇元年に下照比売命が兎手玉津岡に降臨し、天平3年(731)に橘諸兄が下津磐根に遷座、文応元年(1260)現在地に遷座したとする。』

○以上から以下のことが判明する。
「嘉吉元年の興福寺文書」とは「興福寺官務牒疏」(椿井政隆による江戸後期創作の偽書)であり、古代の由緒はこの「牒疏」から採る。
政隆はこの付近南方の椿井の出自であり、この地方綴喜郡一帯に膨大な「偽書・偽絵図」を残す。
椿井文書」に掲載した【「椿井家古書目録」所収史料一覧表】の
18.北吉野山縁記1巻、20.狛寺伝補禄1巻、180.鷲峯山寺図 全(「山城国鷲峰山図」) 、182.北吉野山寺 全、183.狛寺 全、184、井堤寺細見図 全 など見れば、政隆のこの地方に対する並々ならぬ執着が感じられるであろう。
さらに、「椿井文書」に掲載した【「興福寺官務牒疏」所収寺社一覧】には42.椋本天神がある。
要するに、この社の実態は春日明神や八王子社や天神社であって、社伝に云う欽明朝の降臨や天平期の左大臣橘諸兄の創祀などは、椿井政隆の創作と考えるのが自然であろう。
欣明朝の8月とか天平の9月とか妙に月まで示すのは椿井文書の特徴であろう。また橘諸兄など持ち出すのは綴喜郡普賢寺郷の例に見るように、椿井が郡内の寺社の縁起の創作で用いる常套手段の一つであろう。
 (冷静に考えれば、近世には綴喜郡内式内社の全ての伝承が失われているのが実態であり、他の地方の実態も合わせ、古代の伝承がこの地方の小社に伝わっているはずがなく、ことさら細かな伝承が伝わるのは眉唾物として接するべきものなのであろう。)
 なお、付近には井堤寺跡がある。
また、社に至る参道石段向かって左に曹洞宗地蔵院がある。あたかも社の別当であるかのような位置を占めるが、詳細は不詳。
古くは東大寺系の寺院があったとも云われるが、寛永年中に曹洞宗に転ずる。
 ※以下の江戸初期の建立と思われる社殿を有する。
  玉岡八王子社本殿1     玉岡八王子社本殿2
  玉岡八王子社大神宮社1
  玉岡八王子社大神宮社2:末社である。大神宮社とは明治維新後の改号であろうと思われるも、元の社名は不明。
 


2010/03/20追加:
綴喜郡の式内社選定と「椿井文書」・・・・・椿井文書
「偽文書からみる畿内国境地域史−「椿井文書」の分析を通して−」馬部隆弘(「史敏」2005春号(通巻2号) 2005年 所収)の
『ニ.近世における式内社顕彰と「椿井文書」』の項があり、ここには山城綴喜郡の近世式内社の選定の動向が要領よく纏められている。
以下に要約する。
綴喜郡
延喜式神名帳
   記載13社
現在の比定 備 考:
茶色で示す文言は馬部論文の要約。「椿井文書」の存在が確実視される事項である。
樺井月神社 寺田村(久世郡)の水主神社 当社は綴喜・久世郡の郡堺にあり、久世郡水主神社に兼掌され、同社境内に移転と云う。
現在本殿の側に末社として在る。寛文12年(1672)に遷すと云う、
朱智神社 天王村 「朱智牛頭天王宮流紀疏」(椿井文書・偽書)が知られる。天王村牛頭天王は本来朱智神社であったと説く由来書が存在する。
月読神社 大住村 .
咋岡神社 飯岡村 いわゆる論社である。→上に掲載の咋岡神社の項を参照。
高神社 多賀村 「大梵天王」の扁額があると云う。宇多天皇筆というも、年紀の形式、翻刻された添状の官位などから、近世の偽書であろう。
内神社 内里村 当ページには非掲載
粟神社 市辺村 当ページには非掲載
棚倉孫神社 田辺村内天神森村 由来書が現存する。ここには椿井文書である「田辺城主系図」に出てくる同じ人物が登場する。間違いなく「椿井文書」であろう。
佐牙乃神社 江津村(宮津) 並河誠所が最初に比定、その根拠は小字「佐牙垣内」からであろう。「佐牙神社本源記」なる古文書がある。この文書は他の「椿井文書」と共通する記事が多くあり、また「特選神名牒」に「木津村今井某所蔵」とあり、「椿井文書」に間違いない。
酒屋神社 興戸村 .
甘南備神社 薪村 社蔵史料に「山城国神奈備記」なる社伝がある。体裁を全く一にする他の「椿井文書」がある。これも「椿井文書」であろう。
天神社 松井村 松井天神社の「椿井文書」は未確認であるが、松井天神社にも「椿井文書」があったと考えて間違いないであろう。その理由は下の項を参照。
地祇神社 上村(普賢寺) 普賢寺の鎮守といい普賢寺境内にある。明治6年式内地祇神社と付会される。

綴喜郡の式内社のうち、近世段階に至るまで地元民に式内社と認識し続けられた神社は一社もないのは厳然たる事実である。
現在は近世中期から明治初期の考証の結果、上記のように全て比定されている。これは「特選神名牒」の教部省の編集過程の調査(明治7〜9年)で確定したものである。
近世の綴喜郡式内社の比定の様子は以下の通りである。
・「雍州府史」黒川道祐、貞享元年(1684):式内社の一覧はあるも、石清水八幡宮・その末社しか具体的記述はない。
・「山州名跡志」坂内直頼、正徳元年(1711):薪村甘南備山の神社(甘南備神社)、田辺村内天神森村天満宮(天神社)、興戸村酒屋社(酒屋神社)を比定、天王村牛頭天王社は鎮座記不詳と記す。
・「山城名勝志」大島武好、正徳元年(1711):田辺村内天神森村菅原天神(天神社)、薪村甘南備山腹神社(甘南備神社)と比定、多賀村粟明神(粟神社)、下狛村鞍岡天神ノ社(咋岡神社)とい推定。
・「山城志」並河誠所、享保19年(1734):並河は式内社の所在を徹底追求する。初めて全ての式内社に論及する。
特に、田辺村内天神森村の神社を棚倉孫神社と比定、但しその根拠は不明。(「タナ」の音の一致か、式内大社であるから、大邑の田辺村に求めたのか)
次いで、天神社は天王村の牛頭天王社を本来は天神社と主張する。その根拠は特に示されないが、天神と天王の音の一致であろう。
なお朱智神社は延喜式以外の史料に全く表れず、同社境内の前近世の銘は全て「牛頭天王」とあり、強引な付会をした並河でさえ「朱智神社 在所未詳」としている。
・「山城名跡巡行志」浄慧、宝暦4年(1754):式内社に関しては基本的に「山城志」に従う。
・「都名所圖會」秋里籬島、安永9年(1780):田辺村内天神森の神社を天神神社とし、天王村牛頭天王社は牛頭天王として紹介する。

明治41年の「山城綴喜郡誌」には各神社の社伝を引用している箇所が多数あるから、郡内の神社には多くの由来書が残されていると思われる。その内確認できるものは「上表」の 「備考」欄に「茶色の文字色」で示す。これらはまず「椿井文書」と確認できるから、綴喜郡内の神社には「椿井文書」」が由来書として存在することが確実である。
そのほか、確認できない神社についても、上記の引用を見る限り、中世の事跡(焼失と再建)が日付単位にまで分っている特徴があり、これはまさに「椿井文書」の特徴でもあり、おそらく綴喜郡内のほぼ全ての式内社にその事跡を記した「椿井文書」(偽書)が存在するものと思われる。
ではなぜ椿井は式内社の由来を網羅的に作成したのか。
 「朱智牛頭天王宮流紀疏」と云う由来書がある。「下司息長宿禰」らが康元元年(1256)に作成したと自称すると云う。
この中で「朱智神社」の本来の祭神は迦爾米雷(カニメヅチ)王とし、その後牛頭天王が合祀されたと説く。この祭神の根拠(典拠)は明らかで、享保13年(1733)度会延経「神名帳考証」であろう。ここには「迦爾米雷(カニメヅチ)王 旧事紀云、山代大筒城真若王児迦爾米雷王、按雷訓豆知、豆与朱音通」とある。度会説もいい加減にしろと云いたくなる付会(雷は豆地<ヅチ>と訓み、豆と朱は音が通ずるという)であるが、椿井は以上から系図などを創作し、ついには子孫として「朱智」氏や「息長」氏を作り上げ、朱智神社の祭祀を行ったとする。<椿井家古書目録143>はこれ等を纏めたものであろう。
かくして、天王村牛頭天王は「朱智牛頭天王宮流紀疏」(椿井作偽書)によって、強引に明治になり、「古名に復し」朱智神社と改号する。
ではなぜ椿井はこのような創作を行ったのか。
それは並河の「山城志」の弱点を補うためであり、弱点とは資料的裏付けを欠く故に弱点であり、その弱点を補修するために、偽文書を創作したのであろう。椿井は普賢寺郷の富裕層の「世に出る」要望に答えたものなのであろう。
 椿井は並河が天神社とした牛頭天王を朱智神社とし、並河以外が天神社とする天神森の神社を棚倉孫神社とした以上、新に天神社の比定をする必要があった。
並河の「山城志」には綴喜郡の式外社として7社をあげ、内の1社は「松井村の坐す神祠」の記載がある。この神祠は大和志では「明応の修復」があり、これは「綴喜郡史」の松井天神社の由緒と一致する。松井天神社の「椿井文書」は未確認であるが、以上の経緯から、松井天神社にも「椿井文書」あったと考えて間違いないであろう。
 並河は「山城志」で綴喜郡内の式内社を朱智神社を覗き、全て付会した。椿井は並河の付会を創作文書で補強し、朱智神社・天神社の比定を新に捏造した。この地方では椿井の造り出した文書が式内社由来として確立しているのである。
当然、現在の式内社研究の到達点である「式内社調査報告」は並河及び椿井の比定を相当としている。恐るべきことである。

参考文献:
「田辺町近代誌」田辺町近代誌編さん委員会、昭和62年
「田辺町近世近代資料集」田辺町近代誌編さん委員会、昭和62年
「薪誌」薪誌刊行委員会、平成3年
「京都府田辺町史」村田太平偏、昭和43年
「興戸の歴史」興戸の歴史編纂委員会、昭和49年
「式内社調査報告第1巻」式内社研究会、皇學館大學出版部、昭和54年
「偽文書からみる畿内国境地域史−「椿井文書」の分析を通して−」馬部隆弘(「史敏」2005春号(通巻2号) 2005年 所収)


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