現存する三重塔の概要:(江戸前期・享保以前)

江戸前期・享保以前の三重塔

名称・場所 国指定 画像 備  考
346 越後乙宝寺 重文 越後乙宝寺
347 尾張甚目寺 重文 尾張甚目寺
348 山城清水寺 重文 山城清水寺三重塔・子安塔
349 山城金戒光明寺 重文 画像

画1

画2


図1

図2
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寛永10年(1633)建立。一辺4.6m。伊丹重好(秀忠家臣)が徳川秀忠の菩提を弔う為に建立。塔には文殊菩薩(渡海文殊形式を採る)を祀る。但し、この本尊は平成20年御影堂左脇壇に遷される。現在は分身(浄鏡)を祀る。
黒谷と通称される。浄土宗鎮西派大本山の一つである。
境内の荒廃が部分的に目立つとはいえ、今なお広大な寺地と大伽藍は健在である。塔頭は廃絶した塔頭跡も散見されるが、まだ一山に20坊に近い塔頭を残す。
現存塔頭:西雲院、松樹院、蓮池院、浄源院、光安寺、永運院、西翁院、勢至院、金光院、善教院、上雲院、超覚院、西住院、長安院、瑞泉院、龍光院、顕岑院、栄摂院、常光院
画像:金戒光明寺発行パンフレット(1970〜80年代か)から転載
画1〜2:2000/08/05撮影
図1〜6:2002/03/30撮影
81、82:2002/06/29撮影、蹴上からの遠望。画像81の左は、黒谷本堂、楼門の屋根である。
2002年6月空撮影画像(マンション新聞折込広告から転載)左:真如堂 三重塔、右:黒谷三重塔
2006/04/08撮影:
 山城黒谷三重塔1   同      2   同       3   同       4   同       5
   同        6   同      7   同       8   同       9   同     本堂
2011/01/13撮影:
 山城黒谷三重塔21   山城黒谷三重塔22   山城黒谷三重塔23   山城黒谷三重塔24
 山城黒谷三重塔25   山城黒谷三重塔26   山城黒谷三重塔27   山城黒谷三重塔28
 山城黒谷三重塔29   山城黒谷三重塔30   山城黒谷三重塔31   山城黒谷三重塔32
 山城黒谷三重塔33   山城黒谷三重塔34   山城黒谷三重塔35   山城黒谷三重塔36
 山城黒谷三重塔37   山城黒谷三重塔38   山城黒谷三重塔39   山城黒谷山門
2011/12/02追加:
 明治5年黒谷三重塔:「The Far East」VoLV、gX より転載
 明治7年黒谷三重塔:「The Far East」VoLY、gT より転載
2011/11/25撮影
 黒谷三重塔遠望41;蹴上より遠望
 黒谷三重塔遠望42:左は金戒光明寺伽藍、覆屋は山門、三重塔は左端に写る。
 山城黒谷三重塔43   山城黒谷三重塔44   山城黒谷三重塔45   山城黒谷三重塔46
 山城黒谷三重塔47   山城黒谷三重塔48   山城黒谷三重塔49   山城黒谷三重塔50
 山城黒谷三重塔51   黒谷崇源院供養塔:徳川秀忠室・家光生母・江、小督、江与
2014/10/12撮影;
 山城黒谷三重塔51   山城黒谷三重塔52   山城黒谷三重塔53   山城黒谷三重塔54
 山城黒谷三重塔55   山城黒谷三重塔56   山城黒谷三重塔57   山城黒谷三重塔58
 山城黒谷三重塔59   山城黒谷三重塔60   山城黒谷三重塔61   山城黒谷三重塔62
 山城黒谷三重塔63   山城黒谷三重塔64   山城黒谷三重塔65   山城黒谷三重塔66
 山城黒谷三重塔67   山城黒谷三重塔68   山城黒谷三重塔69   山城黒谷三重塔70
 山城黒谷三重塔相輪1   山城黒谷三重塔相輪2
 山城黒谷山門2
 山城黒谷本堂2     山城黒谷本堂3     山城黒谷本堂4     山城黒谷本堂5
2016/10/26撮影:金戒光明寺遠望(付・真如堂塔婆)・京都タワー展望台より
 金戒光明寺遠望(付・真如堂塔婆):写真中央左の大屋根が金戒光明寺(黒谷)本堂、黒谷本堂の斜後に写るのが真正極楽寺(真如堂)三重塔であり、向かって右端に写るのが黒谷三重塔である。但し、両塔とも相輪と三重目のみ写る。
350 加賀那谷寺 重文 図1
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本尊
本1
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護1
護2
遊仙
寛永19年(1642)建立。前田利常の再興による。様式は完全な唐様を用 い、柱・組物・軒など全てに唐様が見られる。。
一辺2.93m、高さ11.6mの小型塔である。
基壇は花崗岩を台状に整形しているようである。
また壁・扉・欄間などに板彫りの彫刻が嵌められる。
初重中央間が特に広く、そこから塔本尊が拝観できる。塔本尊は鎌倉期胎蔵界大日如来と云う。

本殿(重文・桃山)、護摩堂(重文・江戸初期)も唐様を用いる。
そのほか鐘楼(重文・江戸初期)・書院および庫裏(重文・江戸初期)を有するが実見せず。
那谷寺は白山信仰に関わりがあるとされ、養老元年(717)泰澄によって開かれ、自主山厳屋寺号した伝える。寛和2年(986)花山法皇 行幸し、33観音を感得し、故に西国1番那智山と33番谷汲山の1字をとり那谷寺と名付けたと云う。(那谷寺と改号する。)
往時は250坊があったと云うが、南北朝期および一向一揆により焼亡する。
境内に奇岩遊仙境を有する。
高野山真言宗。
2013/07/13追加:
 那谷寺三重塔:絵葉書、年代不詳。
351 美濃真禅院 重文 美濃南宮社・真禅院三重塔
352 美作本山寺 重文 画像
図1
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本堂
長屋門
承応元年(1652)津山藩主森氏による再建。高さ26.3m、一辺4.9m。
塔婆は南面する本堂の正面に立つ。
本山寺は金毘羅山上にあり、本堂(南北朝期・桁行5間・梁間5間、重文)ほか仁王門、霊廟、長屋、山王堂、常行堂、鐘楼、本坊等を今に伝える。
2010/10/29追加:
 美作本山寺三重塔11:新聞写真
「重要文化財本山寺三重塔保存修理工事報告書」平成2年 より
昭和62〜平成元年、解体修理。屋根を当初の杮葺に変更する。初重内部には四天柱がない。来迎柱廻りは木地呂塗とする。
 本山寺竣工外観    本山寺竣工内部1     本山寺竣工内部2
○2014/03/27追加:「改修 赤磐郡誌」昭和15年 より
役小角の創建で、鑑真が伽藍を整備するという。その後中興古道上人が山上奥ノ院にあった寺院を現在地に遷すという。現在本堂、三十塔、常行堂、山王権現、歓喜天堂、地蔵堂等があり、奥ノ院には行者堂、蔵王堂、金毘羅堂等がある。
寺中は最盛期には120坊を有するという。三重塔棟札(承応元年)には48坊の名がある。
明治維新の時は梅元院、佛性院、遍照院の3院のみとなり、現在は遍照院1院となる。
353 武蔵安楽寺 . 図1
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明暦2年(1656)建立。(現地説明板では寛永年中の建立とする。)
純然たる和様の手法を用いる。江戸初期の塔にも関わらず、関東の地では珍しく、装飾のない古風な意匠である。総高24.3m。銅板葺き。心柱は初重梁上から立つ。初重内部には四天柱を建て、誕生釈迦如来像を安置 する。
吉見観音。板東三十三観音霊場の第11番札所。行基の創建と伝える。
中世には源範頼が本堂・塔を建立したと伝える。この堂塔は天文年中の兵乱で焼失という。
範頼建立塔は高さ16丈(48m)と伝える。
   同      本堂       同     仁王門

2007/11/03追加:「O」氏ご提供:
 武蔵安楽寺三重塔1       同        2       同        3
    同        4       同        5       同        6
2011/08/11追加:「埼玉の瓦塔」資料館ガイドブックbP1、埼玉県立歴史資料館、平成6年 より
武蔵安楽寺三重塔20
354 安芸竹林寺
(東京椿山荘)
.

建築時期の資料を欠き、室町後期もしくはそれ以降の建築と考えられてきたが、2010-11の修理に於いて「年輪年代測定法」で調査した結果、1420年頃(室町前期)の部材が使われていることが判明する。
安芸竹林寺三重塔跡・東京椿山荘三重塔
355 山城泰産寺 重文 「子安塔」の全面解体(2013年3月竣工予定)で、小さい斗に「明応九年(1500)五月四日」の墨書が発見される。以上により、寛永年中の建立と推定されていた建立時期は室町後期であると判明する。
山城清水寺三重塔・子安塔
356 近江徳源院 . 図1
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江戸期寛文12年(1672)建立と推定。讃岐丸亀藩主京極高豊の寄進と伝える。
一辺約3m。高さ15,5m。
基本的に和様の様式を用いる。昭和53年の修理で桧皮葺に戻す。
関ヶ原の西・中仙道の旧宿場町柏原の北方・清滝にある。
霊通山清滝寺と称する天台の大寺で、現在は徳源院1坊となる。左右に院坊跡を残す参道の奥に清楚に荒廃した徳源院とその塔婆が在る。
徳源院は京極氏初代氏信の創建と伝え、近江源氏京極(佐々木)家の菩提寺で鎌倉期から江戸期の歴代一族の宝篋印塔及び廟所が並ぶ。近世初頭京極氏移封によって衰退したが、寛文12年(1672)京極高豊により再興される。この地は京極氏が丸亀移封後も領地交換によって護持されると云う。
 →丸亀宗泉寺(讃岐の日蓮宗諸寺中にあり)
 →霊通山清滝寺坊舎配置図
 清滝寺参道・坊舎跡
 京極家墓地上段  京極家墓地下段

357 美濃横蔵寺 . 図1
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図7
寛文年間(1661-73)建立。一辺3.65m。塔は高い石組み上の際に立ち、かつ周りを広葉樹の木立が囲んでいるため、写真はとりにくい位置にある。当寺は谷汲からさらに10 kmほど山中に入ったところにある。古くから延暦寺と関係があったとされ、古代中世は300余坊があり、近世には12坊があったと伝える。現在の伽藍は寛永及び寛文年間の再建とされる。伽藍は西面し、仁王門・本堂・三重塔・本坊の古伽藍と観音堂・瑠璃殿・舎利堂がある。再建前は両界山上に伽藍があり、仁王門・本堂址等が残っている と云う。その他本尊薬師如来・大日如来(塔本尊)等の多くの重文指定の什宝を残す。
付録:名鉄谷汲線
2008/12/11追加:「O」氏ご提供画像:2008/11/23撮影
美濃横蔵寺三重塔11     同        12     同        13
  同        14     同        15
358 陸奥木幡山
(隠津島神社)
. 塔11
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相輪1
相輪2
文明4年(1472)建立、三重塔は天正年中の伊達氏侵攻による兵火を免れる。
寛永20年(1643)藩主丹羽光重の巡拝時には初重のみを残す姿であったという。
光重は改築を命じ、延宝2年(1674)全面改築される。
享保元年(1716)修復工事。
明治35年暴風の倒木により再度初層を残し倒壊する。その後、二重三重は初重に倣って大修理が行われれ旧形に復する。
一辺3.71m、高さ約20m。細部は大きな木鼻が付くが、ほぼ和様を用いる。
内部は四天柱のうち後2本があり、これより後が厨子となる。
昭和50年屋根茅葺から銅板葺に改められる。
平成21年改修工事が竣工、外観は丹塗りに黒を配した配色となる。
現在は天満神社と称し、菅原道真を祀るという。
○2003/7/21:
 木幡山弁財天神図(元文3年<1738>)参道右は薬師堂、左は三重塔、別当治隆寺。

 社伝では、神護景雲3年(769)安積(阿尺)国造の丈部継足(はせつかべのつぐたり)の創建という。
これは木幡弁才天を延喜式神名帳の陸奥国安積郡隠津嶋神社と付会する為の作り話の類であろう。
元来、木幡弁才天は治陸寺と称する天台寺院(実態は羽黒修験であったという)の本社であったのである。そしてその治陸寺は大同年中の開創と伝える。
 ※治陸寺とは陸奥を治めるの意という。・・・これが本当かどうかは不明。
しかし、この治陸寺の開創についても明らかにする史料がなく真偽のほどは分からない。
 おそらくは、古くから霊山と崇められた木幡山が修験の地として栄え、治陸寺や弁才天が成立したものと思われる。それらは、かっては木幡山山頂には蔵王権現が祀られ、また平安末期と推定される経塚(蔵王経塚)の存在で窺い知ることができる。
 なお、修験と弁財天が結びつくとは良く分からないが、世俗と交わる修験の活動の中から、現世利益を希求する要求に応える意味で弁財天が祀られたのかも知れない。
 中世以降、木幡山一山は木幡山治陸寺弁財天として認識され、歴代領主によって護持される。
文明14年(1482)当時の領主で石橋(塩松)義衡の事と伝えられる源家博が社殿造営する。
天正5年(1577)塩松城城主、大内義綱が社殿を造営する。(棟札)
天正13年(1585)伊達政宗の仙道侵攻により社殿が焼き払われ、わずかに弁才天尊像1躯、宝塔一基(現境内三重塔)、治陸寺に対する勅願寺の扁額のみを残す状態となる。
しかし、その後歴代領主(蒲生秀行・加藤明利・丹羽氏)により再興・護持される。
丹羽氏は当社を祈願所となし、明暦元年(1655)光重が社殿の修復と寺領50石を寄進、貞享3年(1686)長次が社殿を再建、寛政年中(1879-1801)長貴が社殿を造営。
元禄9年(1696)の「木幡山相改帳」等にでは、木幡弁才天には本殿、三重塔(現天満神社)、薬師堂(同医薬神社)、千手堂(同養蚕神社)、門神堂(同門神社)、羽山権現宮(同羽山神社)、虚空蔵堂(退転)、筑山権現宮(退転)などの堂塔がある。本殿には弁才天(秘仏)と十五童子の木像を祀る。
元文頃(1738-)の「弁才天宮万書上帳」では24坊という。
 江戸期後半には弁才天社人であった阿部氏(丈部継足の後裔と称する)が擡頭し、治陸寺学頭と一山支配を廻る係争を起こす。社人阿部氏は吉田家の権威を着たものであったという。阿部氏は「延喜式内安達郡東郷惣鎮守、木幡山隠津嶋神社弁財天三女神」などと主張するも、治陸寺側からは「隠津嶋神社」号の停止を求める訴訟となる。寺社奉行の裁定は「隠津嶋神社」号の停止即ち「弁財天」を現号とすることを命じるものであった。
 明治2年神仏分離の処置で治陸寺は廃寺、弁財天宮は「厳島神社」と改号する。治陸寺亮澄は還俗して神主となるも、翌3年に阿部氏が神主に復し治陸寺系の支配は終焉する。本尊弁財天は隠津島姫(おきつしまひめ)、田心姫(たごりひめ)、湍津姫(たきつひめ)の宗像三女神に代替される。
 →弁財天を巡る神仏分離の様相は近江竹生島宝厳寺安芸宮島弁財天江島弁財天女社を参照
なお、隠津島神社の初見は、貞享4年(1687)「木幡山神領神田並古跡等書上」に「澳津島(おきつしま)。本社は境内南ノ谷中に有り。是社地の惣名なり」とあるという。
なんのことはない、近世まで専ら治陸寺・木幡弁才天と称されていたので、社人阿部氏が支配権を奪取するために「隠津島神社」を持ち出したものと容易に想像できるのである。
明治35年隠津島神社と改号。
昭和15年神主阿部家の居宅及び倉庫が焼失。
 ※木幡山は霊山として信仰対象であったと考えられるから何等かの社が祀られていたことは十分ありうるが、それが延喜式内社であったのどうかは分からない。確かなのは木幡 弁財天を廃し、厳島神社と改竄したのは明治の復古神道に毒された者共の仕業であることだけであろう。
○木幡弁財天の現況:2014/04/08撮影
 木幡山遠望     木幡山一鳥居と木幡山     木幡弁財天一鳥居
 木幡弁財天遥拝殿
旧本殿:現在は門神社と称する。3間×2間、入母屋造、向拝は後世の付加、内部は3区の仏壇を造りつける。内陣柱や長押には金箔を押し、天井には花鳥を描く。貞享3年(1686)丹羽長次の本宮再建に際し、願在地に移建という。
 木幡弁財天旧本殿1     木幡弁財天旧本殿2
 木幡弁財天旧本殿内部1   木幡弁財天旧本殿内部2   木幡弁財天旧本殿内部3
 木幡弁財天旧本殿内部4
薬師堂:現在は医薬神社と称する。
 木幡弁財天薬師堂1     木幡弁財天薬師堂2     木幡弁財天薬師堂内部
本殿:三間社流造・内陣は折上格天井を張り奥に造付の宮殿を安置・屋根銅板葺、寛政12年(1800)竣工。
 木幡弁財天本殿1     木幡弁財天本殿2     木幡弁財天本殿3
 木幡弁財天本殿4     木幡弁財天本殿5
拝殿:桁行7間梁間9間の入母屋造平入、正面屋根中央に千鳥破風を飾り、一間の向拝を向唐破風造で付加・屋根銅板葺、寛政6年(1794)竣工。
 木幡弁財天拝殿1     木幡弁財天拝殿2     木幡弁財天拝殿3
 木幡弁財天拝殿4     木幡弁財天拝殿5
本殿両脇には養蚕神社と松尾明神、本殿北側には足尾社、白山権現、疱瘡神社、牛頭天王、熊野権現、千手堂(養蚕神社)がある。
旧千手堂(大同年中の創建、現在は養蚕神社と称する)は、本尊とともに明暦元年(1655)頃の再建、本尊千手観音立像は明治の神仏分離の処置で松本坊(現在の治陸寺)に遷される。
 ※「木幡」とは「蚕機(こはた)」の謂いという。
 木幡弁財天千手堂1     木幡弁財天千手堂2
「三十三観音」と称される線刻の観音像が現存する。
 木幡弁財天三十三観音1    木幡弁財天三十三観音2     木幡弁財天三十三観音3
ほかに木幡の幡祭り舞台の羽山神社がある。(未見)
現存する什宝:
本尊弁才天像(秘仏)、御前立弁才天、十五童子の木像は現存する。明治の神仏分離の処置で御前立弁才天像は松本坊(現治陸寺)に遷され、秘仏弁才天像と十五童子像は内木幡村名主紺野宗助に譲渡され、自邸内に安置してきたが、昭和44年に神社に返納(なぜ治陸寺ではないのか)され第二社務所脇に安置されているという。秘仏弁才天像は天明期の製作という。
御前立弁才天像は現治陸寺観音堂内右仏壇(上下2段から成る)の上壇に祀られる。御簾が掛り直接には拝見できない。永禄3年・文禄3年の彩色銘が残るので室町期の造仏とされる。
第二社務所脇に安置されているという仏像については、その存在を確認しておらず、不詳である。
銅鐘:明暦4年(1655)銘、鐘楼に吊られているものと思われる。(鐘楼・梵鐘は未見)
 現治陸寺全貌     現治陸寺本堂:本尊は古代末か鎌倉初頭の阿弥陀如来坐像という。
 現治陸寺観音堂:中央仏壇には千手堂本尊千手観音立像を安置する。
 現治陸寺鐘楼
旧松本坊附近には旧坊舎跡を推定される石垣が見られるが、確認が取れず、推定である。
 木幡弁財天推定坊舎跡1     木幡弁財天推定坊舎跡2     木幡弁財天推定坊舎跡3
359 備前西大寺観音院 . ○三重塔:延宝6年(1678)建立。一辺3.9m、高さ20.9m。
 → 備前西大寺
360 伊予興願寺 . 貞亨元年(1684)阿波太竜寺塔として建立されるも、戦後伊予興願寺へ譲渡され、昭和28年解体、昭和34年移築復元される。
 阿波太竜寺三重塔跡・伊予興願寺三重塔
361 播磨太山寺 . 図1
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◎三重塔:江戸期の貞亨5年(1688)再建(新心柱墨書)。本瓦葺き。初層には須弥壇を置き金剛界大日如来及び・四天王を安置。四天柱と来迎壁には蒔絵を施す。 一辺4.61m。高さ20m。
○播磨名所巡覧圖會より:巻之2:大山寺
記事:「天台宗。僧坊12宇。洛陽青蓮院末なり。本尊薬師如来。・・大職冠鎌足の草創。開基、定恵和尚なり。・・」
 太山寺全図(2010/11/05画像入替)    同三重塔部分部・・・現存塔婆
○「日本真景・播磨・垂水名所図帖」大正〜昭和初期:2010/11/05追加;
 播磨太山寺の図
○播州太山寺伽藍之圖:2016/04/17追加:
 播州太山寺伽藍之圖:年代は不詳であるが、江戸後期のものであろうか。
仁王門門前の小川の西には十王堂がある。
仁王門の傍らには成就院があり、成就院は江戸後期に妙覚院と改称というので、あるいは仁王門の傍らから原位置(妙覚院の位置)に移転したのかも知れない。
龍象院は原位置に描かれる。
遍照院の位置ははっきりしないが、龍象院の背後もしくは阿弥陀堂の背後附近に描かれる。
仁王門から本堂に至る参道途中に妙覚院(現在の成就院で、江戸後期には松本坊から改号、さらに明治4年に成就院に改号という)と安如院(現在の安養院)がある。
現在の中門は存在せず、中門への石階下には浴室、上には食堂がある。本堂下の檀には三重塔・阿弥陀堂があり、芝居小屋や山本屋・大黒屋・小寺屋の宿屋があり、参詣者で賑わったものと思われる。
本堂の檀には本堂・現在の観音堂・釈迦堂・護摩堂・鐘楼・宝蔵などの他に山王・吉祥天・天神・茶所・開山堂・政所・籠堂・廊下・地蔵堂などが存在する。
伽藍の背後(北西)には成就院(現存)、□□□、長円坊、□□□、多門院、理性院が描かれる。
○太山寺略図:2016/04/17追加:
 太山寺略図:Mapion地図に「播州太山寺伽藍之圖」及び「前開上里づくり計画」>「前開上地区点検マップ」の情報を追加したものである。
 ※字松本坊(現成就院の故地か)、安養坊、大善坊、密教坊、宝光坊の位置は「前開上地区点検マップ」から転載。
2001/04/29撮影:
 図1〜5は三重塔写真
2003/11/04撮影:
 太山寺三重塔01    太山寺三重塔02    太山寺三重塔03    太山寺三重塔04
 太山寺三重塔05    太山寺三重塔07    太山寺三重塔08    太山寺三重塔09
 太山寺三重塔10    太山寺三重塔11    太山寺三重塔12
 太山寺三重塔塔本尊1    太山寺三重塔塔本尊2
2016/04/09撮影:
 太山寺三重塔111    太山寺三重塔112    太山寺三重塔113    太山寺三重塔114
 太山寺三重塔115    太山寺三重塔116    太山寺三重塔117    太山寺三重塔118
 太山寺三重塔119    太山寺三重塔120    太山寺三重塔121    太山寺三重塔122
 太山寺三重塔123    太山寺三重塔124    太山寺三重塔125    太山寺三重塔126
 太山寺三重塔127    太山寺三重塔128    太山寺三重塔129    太山寺三重塔130
 太山寺三重塔131    太山寺三重塔132    太山寺三重塔133    太山寺三重塔134
 太山寺三重塔135    太山寺三重塔136    太山寺三重塔137    太山寺三重塔138
 太山寺三重塔139    太山寺三重塔140    太山寺三重塔141    太山寺三重塔142
 太山寺三重塔143    太山寺三重塔144    太山寺三重塔145    太山寺三重塔146
 太山寺三重塔147    太山寺三重塔相輪1   太山寺三重塔相輪2   太山寺三重塔相輪3
 太山寺三重塔内部1   太山寺三重塔内部2   太山寺三重塔内部3   太山寺三重塔内部4
 太山寺三重塔内部5   太山寺三重塔内部6   太山寺三重塔内部7   太山寺三重塔内部8
◎太山寺:
霊亀2年(719)定恵上人(藤原鎌足子息)の開基し藤原宇合(鎌足の孫)が創建と伝える。(「播州太山寺縁起」)皇室の崇敬も厚く、中世には大伽藍が造営される。南北朝期には僧兵も養い、41ヶ院坊が存在すると伝える。
現在は龍象院・成就院・(遍照院?)・安養院・歓喜院の5ヶ坊で護持する。
現伽藍は本堂(国宝)、仁王門(重文)、三重塔、阿弥陀堂など以下の堂塔を備える。
○本堂(国宝・鎌倉):
弘安8年(1285)の火災後、永仁年間(1293-99)の再建、入母屋造、銅板葺、桁行7間・梁間6間銅板葺きの堂々たる大堂で 中世密教本堂の典型である。和様を基本とするが、唐様を一部混用する。
2001/04/29撮影:
 図6−8は本堂
2003/11/04撮影:
 太山寺本堂1    太山寺本堂2    太山寺本堂3    太山寺本堂4
2016/04/09撮影:
 太山寺本堂11   太山寺本堂12   太山寺本堂13   太山寺本堂14   太山寺本堂15
 太山寺本堂16   太山寺本堂17   太山寺本堂18   太山寺本堂19   太山寺本堂20
 太山寺本堂21   太山寺本堂22   太山寺本堂23   太山寺本堂24   太山寺本堂25
 太山寺本堂26   太山寺本堂27   太山寺本堂28   太山寺本堂29   太山寺本堂30
 太山寺本堂31   太山寺本堂32   太山寺本堂33   太山寺本堂34
○仁王門:
解体修理の結果、元来は楼門であったことが判明する。仁王門にその当初の軒組物の復元(部分)模型を置く。入母屋造、本瓦葺、八脚門、棟高8m。
2001/04/29撮影:
 図9は仁王門
2003/11/04撮影:
 太山寺仁王門
2014/02/13追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2010/05/26撮影・ご提供:
 播磨太山寺仁王門     播磨太山寺仁王門2
2016/04/09撮影:
 太山寺仁王門11   太山寺仁王門12   太山寺仁王門13   太山寺仁王門14
 太山寺仁王門15   太山寺仁王像
 仁王門組物模型1   仁王門組物模型2   仁王門組物模型3   仁王門組物模型4
 仁王門組物模型5
2016/04/09撮影:
 成就院前参道
 中門:太山寺中門1   太山寺中門2   太山寺中門3
 阿弥陀堂(常行堂)貞享5年(1688)建立、本像阿弥陀如来坐像(重文、鎌倉初期、像高274cm)
 太山寺阿弥陀堂1   太山寺阿弥陀堂2
 阿弥陀如来坐像1   阿弥陀如来坐像2   阿弥陀如来坐像3
 観音堂:寺のルーフレットでは太子堂と記す。建築年代不明。
 太山寺観音堂1   太山寺観音堂2
 羅漢堂 - 江戸後期、四天王像および十六羅漢尊像安置。
 太山寺羅漢堂1   太山寺羅漢堂2   太山寺羅漢堂3    太山寺羅漢堂4
 太山寺羅漢堂5
 釈迦堂 - 江戸後期、釈迦三尊像安置。
 太山寺釈迦堂1   太山寺釈迦堂2   太山寺釈迦堂3
 護摩堂 - 江戸中期、宝形造、大黒天像・不動明王像・毘沙門天像安置。
 太山寺護摩堂1   太山寺護摩堂2
 太山寺鐘楼:近年造替もしくは再興されたものと思われる。
 太山寺宝蔵:建築年代不明
 太山寺収蔵庫:近年建立と思われる。
 奥之院:稲荷舎、地蔵尊がある。
 奥之院閼伽井播   奥之院稲荷舎   奥之院地蔵堂
なお、伊川(太山寺川)の上流(奥之院の上流)の岩肌に彫られた磨崖仏(不動明王立像)がある。磨崖仏は鎌倉(弘安年中)期のもので、高さ約200cmの厚肉彫り であるというも、未見。
 ○次の4軒の寺中及び坊趾がある。
寺中龍象院
 寺中龍象院入口   寺中龍象院山門   寺中龍象院書院   寺中龍象院庭門
 寺中龍象院外庭園   寺中龍象院東
 仁王門南旧坊舎跡か:坊舎跡と思われるも坊舎名不明、今は龍象院別院写経堂道場と称する。
 龍象院南旧坊舎跡か1   龍象院南旧坊舎跡か2:坊舎跡と思われるも坊舎名不明、今は民家もしくは民家改造喫茶か?
寺中成就院:江戸後期に造園された枯山水庭園を有する。明石大蔵谷の庭師天一の作と云う。
桜本坊という名称で創建されたと伝わる。江戸後期に妙覚院と改称し、明治4年(1871)現在の院号に改められた。昭和33年門塀以外の建造物は全て焼失、現在の阿弥陀堂や庫裏等は近年の再建である。 庭園は主庭の枯山水のほか、庭門と表門の間に前庭が存在する。
 寺中成就院山門1   寺中成就院山門2   寺中成就院庫裡・書院・庭門
 寺中成就院庫裡・書院
寺中安養院:書院の前に安土桃山期の庭園(国指定名勝)を有する。書院は現神戸市北区にあった江戸中期(1730年代)築の茅葺民家2棟を移築し連結したものという。
 寺中安養院山門   寺中安養院土塀   寺中安養院土塀・書院・山門
 寺中安養院書院西面   寺中安養院書院東面   寺中安養院東
寺中歓喜院:江戸後期に造園された築山式枯山水庭園を有する。明石大蔵谷の庭師天一の作と云う。
 寺中歓喜院   寺中歓喜院山門   寺中歓喜院書院・玄関・庭門
2017/01/11追加:
s_minaga蔵絵葉書:通信欄の罫線が2分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、大正7年(1918)3月から昭和8年までのものであろう。
 太山寺三重塔絵葉書
362 下野四本竜寺 重文 日光山・本宮(四本竜寺)・輪王寺・中禅寺(中宮祠)
363 備前本蓮寺 . 備前牛窓本蓮寺
364 信濃高山寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
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本尊
遠望
元禄8年(1695)木食山居上人の三重塔勧化状大意:三重塔は源頼朝の建立にして、五智如来を安ず。久しく星霜を経て、自然に破壊し、中古両度の修復を加う。然れども今既に相輪差脱柱根腐朽し日ならず転倒せん。・・・という状態の三重塔を木食山居上人が元禄7年から5年をかけて再興したと伝える。
 ※木食山居上人は塔再興ののち大町弾誓寺住職に転住。
その後柿葺の屋根葺替が3回実施され、大正11年に銅板葺に変更、平成元年昭和大修理を行い現在に至る。
一辺3.36m、高さ約16m。装飾を極力排した純和様の塔婆である。かなりの高所でしかも雪深いと思われろところに建つ。
塔本尊は胎蔵界大日如来・釈迦如来・阿弥陀如来の三尊。
高山寺略伝:寺伝では大同2年(807)年坂上田村麻呂が戦勝祈願のため建立と云う。しかし寺観を整えたのは近世初頭と推定される。
慶安2年以降の朱印は15石であったと記録される。
鐘楼門は天明6年、本堂は寛政9年、観音堂(信濃33所観音札所の結願所)は江戸中期の建立。
なお高山寺を少し下ったところから、北アルプスが眺望できる。
参考文献:真言宗豊山派高山寺発行パンフレット。
365 山城三室戸寺 . 播磨高蔵寺・山城三室戸寺三重塔
366 常陸薬王院 . 画像

図1
図2
図3
図4
図5
図6
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図8
図9
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宝永元年(1704)完工、棟梁は桜井瀬左衛門安信(後に成田山三重塔を 完成、桜井瀬兵衛子息)。
一辺4.55m、塔高25m。基本的には和様を基調とする。塔の全面に彫刻を施す。初重連子窓部に島村圓鉄作と推定される十六羅漢の彫刻を嵌める、尾垂木は龍を丸彫する、その他多くの彫刻で装飾される。屋根銅板葺(建立時は杮葺、明治に石板葺、昭和22年銅板葺に変更する)。
●無印は2013/05/08撮影、△印及び左欄の図1〜20は2007/09/27撮影
 薬王院三重塔21    薬王院三重塔22    薬王院三重塔23    薬王院三重塔24
 薬王院三重塔25    薬王院三重塔26    薬王院三重塔27    薬王院三重塔28
 薬王院三重塔29    薬王院三重塔30    薬王院三重塔31    薬王院三重塔32
 薬王院三重塔33    薬王院三重塔34    薬王院三重塔35    薬王院三重塔36
 薬王院三重塔37    薬王院三重塔38    薬王院三重塔39    薬王院三重塔40
 薬王院三重塔41    薬王院三重塔42    薬王院三重塔43    薬王院三重塔44
 薬王院三重塔45    薬王院三重塔46    薬王院三重塔47    薬王院三重塔48
 薬王院三重塔49    薬王院三重塔50    薬王院三重塔51    薬王院三重塔52
 薬王院三重塔53    薬王院三重塔54    薬王院三重塔55    薬王院三重塔56
 薬王院三重塔57    薬王院三重塔58    薬王院三重塔59
 △塔正面扉・十六羅漢像     △塔正面十六羅漢像1     △塔正面十六羅漢像2
 ※塔の板壁に十六羅漢像を彫る例は成田山新勝寺三重塔陸奥應物寺五重塔(塔は既に退転、若干の板壁が現存すると思われる)などが知られる。
椎尾薬師(薬王院)は延暦元年(782)最仙上人による開山と伝える。
天文19年(1550)伽藍焼失、寛文6年(1666)より、本孝法印(後に信濃善光寺大勧進70世)などにより再興する。
◆本堂:延宝8年(1680)建立<床下柱根墨書>、桁行5間梁間5間、本尊薬師如来。
 常陸薬王院本堂11    常陸薬王院本堂12    常陸薬王院本堂13
 常陸薬王院本堂14    常陸薬王院本堂15
 △椎尾薬師本堂1     △椎尾薬師本堂2
◆仁王門:貞享5年(1688)落慶、棟梁は桜井瀬兵衛<墨諸>と云う。屋根はもと杮葺、大正12年瓦葺、昭和55年銅板葺に変更。
 薬王院仁王門11    薬王院仁王門12    薬王院仁王門13    薬王院仁王門14
 薬王院仁王門15
 △椎尾薬師仁王門1      △椎尾薬師仁王門2:本堂に至る石階から撮影、倒木あり。
◆毘沙門堂:元禄7年(1694)建立、もとは山王社であったが、明治維新で空祠、明治10年毘沙門天を安置する。
 薬王院毘沙門堂11   薬王院毘沙門堂12   薬王院毘沙門堂13   薬王院毘沙門堂14
 薬王院毘沙門堂15   薬王院毘沙門堂16   薬王院毘沙門堂17   薬王院毘沙門堂18
 薬王院毘沙門堂19
 △薬王院毘沙門堂1    △薬王院毘沙門堂2    △薬王院毘沙門堂3    △薬王院毘沙門堂4
◆頽廃する参道:
 △椎尾薬師旧参道:仁王門下まで新参道が整備、仁王門に至る旧参道は廃道に近く、崩落寸前で ある。(山寺に車道が整備されれば、旧参道は例外なく退転するのが通例のようである。)
 ※以上の参考資料:「真壁町の社寺装飾彫刻」真壁町歴史民俗資料館、平成6年
2012/07/20追加:絵葉書:製作時期不明
 常陸椎尾山三重塔
367 出羽八橋山王権現
 (日吉八幡神社)

図1・図2は
「X」氏ご提供画像

. 図1
図2

画1
画2
画3
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画5
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画8
画9
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宝永4年(1707)頃、豪商青木平兵衛が父の菩提のために建立と云う。 嘉永7年(1854)改築。
一辺方9尺(2.72m)・九輪の先端までの高さ6丈5尺(19.5m)。和様と唐様が混在する。
屋根銅板葺。ニ重東に春日・西に住吉・南に加茂・北に鹿島の各大明神の扁額を掲げる。
 八橋山王権現三重塔扁額
三重塔14写真(南東角)で見るように、北西部も含め軒下がかなり破損している状態である。
 諸古伝では、平安期、安倍宗任(安倍頼時の息、頼時は源義家に討たれる)が比叡山で修行し、日枝山王と石清水八幡宮を勧請し、日吉山延命寺(あるいは十禅寺 あるいは山王権現)を建立したのに始まると伝える。 但し、詳細は不詳。
元亨2年(1322)笹岡(今の外旭川)に遷座。
その後、鎌倉期または室町期(応永2年1395)に上新城五十丁に遷り、さらに天正17年(1589)安東実季により飯島に遷り、社領209石余が寄進される。
元和元年(1615)佐竹義宣の久保田の町割りにより八橋の狐森(今の寺内油田)に遷される。
寛永19年(1942)雄物川氾濫で流失、寛文2年(1662)現在地(八橋本町)に再び遷座、明和年中(1764-)大火により焼失し、安永7年(1778)再建する。
明治の神仏分離では、塔初重内部の仏像仏具を取り払い、塔に四つの大明神の扁額を掲げて、偽装し破壊を免れるという。
明治14年平田篤胤(平田神社)が祀られ、後弥高神社となり、明治30年日吉八幡神社と称する。

現本殿は寛政9年(1797)・拝殿は安永7年(1778)の建築で、両殿は相の間で繋がる権現造。なお社殿内には本居宣長像が祀られたと云う。
 八橋山王権現社殿    同     本殿1    同     本殿2  
   同     拝殿1    同     拝殿2
随神門は廃寿量院(明治3年廃寺)の山門で、現在地に移築される。
 廃寿量院山門(随身門)
寿量院:徳川家霊廟(位牌を祀る・天台宗)で、山王権現の南にあった。延亨3年(1746)久保田藩五代佐竹義峯が創建、日吉八幡神社の南にあった箱岡天満宮を現在地(菅原神社・日吉八幡神社の北西すぐ ・未見)に遷す。明治4年、天満宮社殿焼失、明治6年、廃寿量院の御霊屋を社殿として移築する。
 なお、以下の情報がある。(何れも未見)
秋田街道(風俗)絵巻:八橋山王や寿量院などが描かれていると云う。
八橋寿量院図:(付箋)秋田大病院トナリシ八橋寿量院ノ図
八橋村寿量院址東照大権現神廟拓本
寿量院附近測量図(安政6年1859)
 日吉八幡神社境内図(江戸中期)
2012/07/02追加:絵葉書
 山形名所八橋公園:撮影時期不詳
368 信濃若一王子 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
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観音堂1
同2
一辺4.2m、高さ20.2m。屋根柿葺。木食古信法阿の発願で、宝永3年(1706)に起工し、宝永8年(1711)に竣工したとされる。 外観はほぼ純粋な和様建築です。初重蟇股彫刻は、方位に合わせ十二支の動物が彫られ、しかもその12枝の動物は束帯をつけているユニークなものです(人身獣面)。なお棟札4枚(宝暦5年、文化5年、文政12年、安政6年)が 存在するようです。
観音堂は方三間。寄棟造・茅葺。棟は極めて短い箱棟を載せる。妻入りで小さい向拝が付く(柿葺)。棟札によると、宝永3年(1706)の造営とされる。本尊十一面観音像、仁科三十三番観音霊場1番札所。
若一王子権現社絵図(安政2年<1855>): 拝殿東に観音堂、南方に塔(三重塔)が描かれていて、現在も堂塔はほとんど江戸期の神仏習合時代の雰囲気を残しています。明治維新の神仏分離時の様子は資料を入手していませんが、例えば以下の破壊もあったようです。
木造伝十一面観音菩薩立像残欠が残されているという。破損状況は以下の様という。仏体は甚だしく焼け、無残に破壊を受け、ほとんど原形を留めない。頭部は鋸で切断され 欠落し、胸部下と背中にも切断の鋸目が残っている。さらに損傷状態から故意に焼却されたと思われる。江戸中期の後補である10面の化仏、台座、光背とともに焼け残りの仏体は かっては三重塔内に置かれていたことから、仏体残欠は十一面観音であろうと推測される。地方作の平安後期の造立と推定。 
若一王子社は、鎌倉期初期、地頭仁科氏が熊野権現から若一王子を勧進したことに始まるとされる。なお若一王子の本地仏は十一面観音とされる。 また本殿(重文・弘治2年<1556>・一間社、隅木入春日造)が残されていますが、瑞垣等に囲まれ見ることは出来ないようです。
369 旧伊賀開化寺
(宝塚長谷川邸)
. 伊賀浄瑠璃寺(開化寺・長谷川邸)三重塔
370 武蔵成就院 . 享保14年(1729)建立。
武蔵成就院三重塔
江戸前期・享保以前の三重塔

2006年以前作成:2017/01/13更新:ホームページ日本の塔婆