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丹 後 ・ 但  馬 ・ 丹  波 ・ 播  磨 ・淡  路  の  塔  跡

丹後・但馬・丹波・播磨・淡路の塔跡

このページ中の播磨の塔跡の記述は、第三回播磨考古学研究集会報告・配布資料「古代寺院からみた播磨」※から多くの情報を転載。
 (※第3回播磨考古学研究集会編「古代寺院からみた播磨」、2002年2月、左記からの要約部分は▲・・・▲で括って区分)
また、「古代洲聚落の形成と発展過程」赤松啓介著 からの要約は△・・・△で括る。

丹後観音寺

かっては三重塔があり、近世には下一重のみ残存という。現在の状況は情報がなく、不明である。
○「舞鶴市史・各説編」舞鶴市史編さん委員会、昭和50年 より
【江戸期、市内の寺院は百余を数えるが、その内層塔を構えていたのは、史料「田辺志」によると次の四寺だけであった。
観音寺(観音寺):三重塔、貞治年中(1363-67)建立、古重也、上二重亡失、下一重斗残:真言、今亡失
松尾寺(松尾):五重塔婆:真言、今亡失 →次の項にあり。
金剛院(鹿原):三重素塔、同三間四面:真言、現存 →丹後金剛院三重塔
円隆寺(引土):三重塔 三間四方、本尊大日(作不知)九輪頭上迄六間五尺余:真言、三重塔は焼失多宝塔に造替】 →丹後圓隆寺
 とあり、丹後観音寺に三重塔があったと知れる。
◆丹後の地名/資料編>観音寺の地誌 という、優れたページがある。
以下、このページから引用する。
○『丹後国加佐郡旧語集』
 真言宗 観音寺 補陀落山 華蔵院 円隆寺末
  寺領七石弐斗三升 境内トモ   境内三千五百三十坪 其外山林有り
  華蔵院伝来ヲ記ス
  開基伝教大師
  人王五十代桓武天皇御宇延暦年中草創 其後及大破永徳年中 元年ヨリ九百五十三年ニ及 法爾上人堂塔再建当山称開山
 西屋 室牛 由里 観音寺 四ヶ村ノ寺
 本尊 千手観音 行基作  本尊 大日如来 慈覚大師作
 三重塔   貞治年中建立古重也 上二重亡失 下一重斗残 二間四方
 僧坊 四間半ニ五間 今方丈  庫裏 四間ニ七間半  鐘楼 八尺四方  坂中堂 九尺四方  坂元堂 二間四方
 荒神  千手観音
○『京都府の地名』
・・・南北朝の貞治二年(一三六三)に三級宝塔(三重塔)を建立したが兵火にかかり、応永二六年(一四一九)本堂が再建されたがこれも兵火にかかった。・・・
○《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
観音寺村
補陀洛山観音寺円隆寺末寺なり。桓武天皇御宇延暦年中より元禄十丁丑年まで九百十二年に成。本堂三間四面 本尊千手観音 行基作。
塔古は三重今は上二重亡失下一重あり。
本尊大日如来 慈覚大師作。
鐘楼あり僧房号花蔵院と縁起あり。
○《丹哥府志》
【補陀落山観音寺花蔵院】(真言宗、寺領七石余)
補陀落山観音寺は伝教大師の開基なり、本尊千手観音は行基菩薩の作なり、本堂の前に三重の塔あり、貞治二年光厳院の勅を奉じて之を建つといふ。
○《加佐郡誌》
観音寺は同地在の補陀落山観音寺(花蔵院)といふ寺の名に由来する。此寺は桓武天皇の延暦年間に僧最澄の開いた所で、僧行基の作った千手観音を本尊としている。後兵焚に罹ったが後土御門天皇の文明元年に僧法爾が再興した。しかし明治天皇の慶応三年に大火に罹り大半鳥有に帰した。
○《舞鶴市史》より
観音寺の小字
観音寺・・・別所 坂本 金輪渕 赤イ田・・・塔ノ上 札場ノ上 寺ノ下・・・寺ノ東・・・上別所・・・寺所・・・下坊田 堂ノ下・・・赤イ田口・・・堂山 奥ノ坊・・・
 ※寺院を偲ばせる多くの小字がある。

丹後松尾寺

慶雲〜和銅年間の創建、関山は威光と伝える。あるいは和銅元年(807)創建、養老年中(717-24)泰澄来山、妙理大権現を青葉山頂に祀るとも云う。青葉山と号す、真言宗醍醐派。本尊馬頭観世音菩薩。
中世には、鳥羽法皇・美福門院の崇敬を受け、時の惟尊上人に勅して伽藍および15宇の坊舎を再建。
戦国末期、織田信長の兵火によって灰燼に帰す。
天正9年(1581)細川藤孝、本堂改築、慶長7年(1602)京極高知、本堂修復、寛永7年(1630)、正徳7年(1716)の両度の火災で伽藍焼失。
享保15年(1730)牧野英成、伽藍を修復。
 「京都の社寺文化 続」京都府文化財保護基金、1972 より
  松尾寺伽藍古図:(松尾寺参詣曼荼羅)、松尾寺蔵、中世末もしくは近世初頭の製作と推定。    
 当図には五重塔が描かれる。下掲載の「丹後国加佐郡旧語集」では、文治5年(1189)頃五重塔が再建されたと記す。
中世末および近世初頭には数度伽藍が焼失と記録され、この頃に五重塔は退転したものと推定される。
◇「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より:2010/10/06追加
 松尾寺参詣曼荼羅:上掲の松尾寺伽藍古図と同一のもの。紙本着色、167×145cm。
◆サイト:「丹後の地名・資料編」に以下の資料の掲載がある。(転載)
「丹後国加佐郡寺社町在旧起」
 (「丹後国加佐郡寺社町在旧起」なのか「丹後国加佐郡寺社町在旧記」なのか今のところ不明、著作者不明、享保16年・1731)
松尾村
 青葉山松尾寺 遍明院と号す。本寺醍醐三宝院 真言。
開基一条院正暦年中、元禄十丁丑年まで七百十一年、元正皇帝養老元年始めて西国三十三番の内二十九番の札所中絶其後一条院の御宇、若州神野浦叟太夫先祖為光と云う漁夫観音の奇瑞を得て松尾山え登り草庵を結び為真と法名して観音を念ずる。
その後、後鳥院御時文治年中にすなわち勅諚あり惟尊上人七堂伽藍に御建立。
本尊馬頭観音。堂五間四面、鎮守天照皇太神宮、弁才天、鐘楼 二王門。
六所権現社同村の氏神なり、寺僧五軒境内の外、修験山伏、実相坊、池の坊、桜本坊、北の坊、円蔵坊、奥院青葉山大権現、加賀国白山権現勧請す。
  縁起有増
人皇四十四代元正皇帝之御宇初李し西国巡礼の札所なり、同六十六代帝一条院正暦年中若州大飯郡神野浦高野浦とも有、叟太夫先祖為光と云漁夫あり、元来公家の落ぶれ成が身命を送りかね北海へ出て釣を垂渡世する。為光毎日普門品三十三遍ずつ不怠して唱え有時つりに出しに俄に大風に吹流され海中に七日たたよひき、きかいが嶋へ着夢乃心地に老僧来ていふやう汝此浮木に乗べしとあり、為光夢覚サメて我をたすけ給ふと、ありがたく思ひ彼大木にのると、ひとしく本国神野浦しつみのはまに着にけり、為光こころに思ふ様いか成因縁にかくはたすけ給ふぞ不思議なりとよろこび家ワガやにかへり人々に語る。是希代なる事ぞとて親族とも彼浜へ行てみれ共浮木はなし、ふしぎ成とて尋ぬれば山に馬の足跡あり、したひみれは南山へ白馬と成て行給ふ、きいのおもいをなして猶跡より慕行ば萱カヤ野の中に彼浮木有、為光思ふ様正しく馬頭くわんおんにておはすらん有難しとて礼拝し其後出家と成、為真(光真ともあり)と改名し鹿のふしと成しに三間四面の草庵を結び居住する。
ふしぎや何国ともなく仏師来り、彼木にて一夜に馬頭之尊像を作り立、仏師は行方しれされば、為真坊よに有がたく思ひ則安置して香花を備へ朝暮読経懈怠なく一生送りし成。今の本堂の地是なり、為真子孫叟太夫七百年以来松尾観音開帳閉帳に立合事此因縁なり。
又人皇八十二代後鳥羽院御宇惟尊上人は都にかくれなき名僧成しが、有時上人え告たまわく是より北にあたりて馬頭観音あり、尋行て伽藍を建立すべしとて夢は覚たり、此上人為真坊化身なり、夢想に任尋行ば丹後国二十九番の札所青葉山松尾寺是ぞと思て建立の事、奏聞ありければ帝より過分の工料を下し給り七堂がらん造立あり、其上奥院青葉山並に寺門に到まで五十一坊立給ふ、三百年已前炎上して伽藍のこらず焼失す。
若州丹州両国として七間四面に建立す。又人皇百十二代本院女帝之御時、寛永七丙午年午之同之刻炎焼、其時とうしんの観世音焼給ふ、とうしんといふ事は自御作のほとけをいふ、其後年久しく無住にて寺領米は田辺の領主へ預り給ひ三間四面のかり堂立置なり。
本尊寺領米の内、領主よりこれを下され京都よの本尊新仏作り安置す。
其後鹿原山宝生坊入寺ありて遍明院と号す是寺院号之始なり。
二王再興釣鐘等、慶安二己丑年成就せり、其後仏舞の道具を求に今四月八日興行するなり、又人皇百十三代にあたり京極飛騨守殿加佐郡城主之時建立のためにとて家中町在奉加の事之を免ぜられ、其上被地領米相くわへ、上中知行高に応し借し預けさせ給ひて、年数経る所に御息伊勢守殿但州豊岡へ御所替に付寛文八年申年金子四百二十四両松尾寺へ渡し給ふゆへ、越前の国より数多の材木を調、延宝四丙辰年建立する。
此堂又享保元申年三月三日に炎焼、本尊二王ともに此時は恙なし之に依り国々貴賎巡礼に奉加帳相渡し遠国より年々奉加寄金を集め助情によって、京都大工飯田河内棟梁して享保十五庚戌年中堂建立成就せり、此外開帳閉帳之時寺法の事これを略す。
「丹後国加佐郡旧語集」
 (年代、著作者不詳)
真言宗 遍明院青葉山松尾寺 本寺上醍醐 三宝院門跡
 寺領弐拾壱石九升 境内山林竹木免許
  寺僧云縁起雖在之若州ヨリ認来不委大永四甲申年鏡尊坊乗六十四才記置タル書面之由写之左之通
 人王六十代醍醐天皇御宇延喜元辛酉年   本尊観音影向青葉山権現勧請
 其頃北ノ麓ニ壱人ノ漁夫春日性(ママ)惣太夫為光卜云若州甲野浦ノ人也常ニ観音ヲ信シ日々観音経ヲ読誦ス一日惣太夫強風ニ吹放サレ乗タル舟損ス 然時浮木流レ来ル為光是ニ飛乗命無恙シ ツミノ浜ニ寄此浮木ヲ取上持チ甲野浦ニ帰ル 其道スカラ光有テ昼ノ如シ 翌日置タル所ニ浮木不見怪思ヒ尋ルニ人告テ曰白馬来リ負テ行タリト云 因茲馬ノ爪跡ヲ尋行見ルに当山ニ在リ 仍テ為光爰ニ草庵ヲ結居其後天童降告有故此木ニ観音三体彫刻壱体ハ讃州四渡寺ノ観音 中ハ当山ノ尊像 三ノ切ハ若州青松山中山寺ノ尊像也 中山寺モ当寺ノ別レ也
 境内千百九拾八坪 人王六十六代一条院御宇正暦年中御草創 正暦五年ニテ長徳ト改元自是七百四十五年ニ成
  鎮守社 三間ニ二間 雨宝童子、荒神、弁財天社
  本堂本尊 馬頭観音 丈三尺二寸北海より出現、本堂 五間四面 享保十五庚戌年再興
  三十三所順礼二十九番之札所也 二十五年目ニハ開帳有
   毎年四月八日会式也 中ニ観音ヲ置 大日弥陀 釈迦 六体ノ仏面ヲ当テ仏舞在リ 皆此寺中山伏勤ム 是ヲ松尾祭ト云習ス
  方丈 七間ニ五間、庫裏 七間半ニ四間、摂待堂 四間四方、鐘楼 九尺四方 焼失後仮立、二王門 三間ニ二間、門 二ヶ所
  塔頭 二ヶ所今無之
  弥山鎮守 白山権現 二間、六所宮 富士浅間半ニ 華表一間半境内山内ニ有、熊野権現 三間
 弥山江寺ヨリ廿八丁有リ 籠堂山王上八九分目ニ在リ火ヲ改精進潔済シテ登山ス 松尾寺ノ奥ノ院也東西弐ヶ所ニ弥陀ヲ安置ス
 東若州領中山寺ノ奥ノ院ナリ
   大川大明神 聖ノ森トモ云  二尺五寸四方、中興 御建立ハ後鳥羽院御宇文治年中惟尊上人再興
   文治五年ニ建久ト改元自是五百五十年二及フ
        (狭)
   焼失再興堂挟ク成ル ・・・挟クは「あまねく」か
   本堂 七間四面 鎮守并拝殿三間、五重塔婆、二階鐘楼、阿弥陀堂 五間、常行堂、薬師堂 三間 、地蔵堂 三間、一切経蔵、二階中間
   食堂、浴堂
   寺中院主
   西方寺 不動院 谷ノ坊 薩賢 阿加井坊 岩本坊 南ノ坊 賢識 上ノ坊 池ノ坊 二王坊 往古坊中五十一ヶ寺 其後二十五坊
 古来ヨリ宝物
  ・・・略・・・
 当時寺僧五ヶ所境内地之外ニ附
   実相坊 桜本坊 北之坊 池之坊 円蔵坊焼失後無住
「丹哥府志」
 (宮津藩の儒者小林玄章・之保<玄章子>・之原<玄章孫>の著、宝暦13年・1763-天保12年・1841)
松尾村(吉阪村より北へ入る)
【六社権現】
六社権現は蔵王権現、白山権現、熊野権現、冨士権現、大川大明神、田口大明神を合せ祭る。
【青葉山松尾寺】(真言宗、塔頭五院、実相坊、池の坊、北の坊、円居坊、梅本坊、寺領廿一石)
青葉山松尾寺は西国順礼第廿九番の札所なり、本尊馬頭観音は海中より上るといふ、正暦年中一条帝の開基なり。後文治年中に至りて後鳥羽院勅して伽藍を重修す、是より以来永く勅願所となりぬ、勅使など久しく絶えたれ共其時に用ゆる椀器今に残る、今の堂宇壮ならざるに非ずといへども古に比すれば十の一分のみ、以前は寺中廿坊もありとて其名記録に残る、寛永年中の火に皆烏有となりたれども古物の今に伝はるもの亦尠からず、左に記す。   蔵宝目録 …略… ・・・・以下項目略・・・・
◆2007/10/20追加:
金剛院北東青葉山山腹に西国29番松尾寺がある。数町東に行けば、若狭・丹後の国境に至る。
「O」氏ご提供画像:2006/02/10撮影:
 丹後松尾寺本堂:享保15年(1730)竣工
 丹後松尾寺仁王門:享保15年〜享和2年(1730-1802)建立とされる。
   :2000/01/21撮影:
 丹後松尾寺本堂21     丹後松尾寺仁王門21
2010/03/23撮影:同行者撮影(デジタル一眼レフ)
 丹後松尾寺本堂2     丹後松尾寺仁王門2
2010/03/23撮影:使い捨てカメラにて撮影
 丹後松尾寺銅製宝塔
 松尾寺鏡智院跡:仁王門を入って右手に鏡智院跡の標識がある。跡地の一部には宝物館が建つ。鏡智院とは不詳であるが、明治34年、舞鶴北吸に移転と云う( 昭和16年、太聖寺と改号する)。
2010/04/05追加:
 五重塔跡について
本堂の堂守に聞くと、五重塔があったことさえ聞いたことがないとのことで、塔跡など見当がつかないとのことであった。


【参考】:丹後宮津城大手橋橋脚礎石

○ことの発端:
oshiro tennsyukaku氏より次のメールを受信
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kuro
さん(@s_walker38k)が3:38 午後 on , 11 21, 2021にツイートしました:
刺さる人!はいっ!🙋‍♀️
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塔心礎はよいものです https://t.co/BPJELjDxjm
https://twitter.com/s_walker38k/status/1462309362375208963?t=SdKzIPph3Dy566PeWHalJA&s=03 
このツイートに、写真で見た目には、心礎とも思われる礎石の掲載がある。
現地は未見であるが、Web上の既存の情報を総合すると、アップされている丹後宮津城の礎石は心礎ではなく、橋脚の礎石であるらしいことが判明するので、ここに掲載する。
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○宮津城:
近世の宮津城は細川藤孝により築城される。天正6年(1579)細川藤孝と明智光秀は信長の命により、丹後国を侵略し、丹後は細川藤孝に与えられ、宮津を丹後経営の中心とする。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、丹後一国は京極高知に与えられ、高知は丹後の中心地を舞鶴から宮津に再び戻し、この時宮津城は大改修される。
現在、宮津城は完全に姿を消しているようである。
しかしながら、次のように、若干は宮津城の遺物と伝えるものが残存する。
○宮津武田病院前宮津城遺物>宮津城大手橋橋脚礎石:
現在の宮津武田病院前には一見塔心礎とも見間違える礎石が残存する。
しかし、これは現地の「旧宮津城を偲ぶ」と題する現地説明板によれば、塔心礎ではなく、大手橋橋脚礎石という。
その他、本丸入口くろがね門の袖石垣の一つである巨石等が残されるという。一見塔心礎とも思われる大手橋橋脚礎石などという。
大手橋橋脚礎石は一見塔心礎とも思われるが大きさなどが不明であり、実見してないので、判断はできないが、説明板のいうように、橋脚礎石なのであろう。
なお、一見塔心礎と誤認された橋脚礎石の例は京都五条大橋橋脚礎石(京都国立博物館蔵)がある。
 宮津城遺物現地説明板:GoogleMap より
 大手橋橋脚礎石1:ツイッター より     大手橋橋脚礎石2:GoogleMap より


丹後俵野廃寺:網野町木津

網野町木津;心礎は現在網野町郷土資料館前庭に置かれ現存する。
心礎石は、径約180cm、高さ58cmのほぼ円形の自然石の上面を削平し、その中央に径15/16、深さ16cmの舎利孔を穿つ。「木津川村誌」
<実測:径1.5m 高0.6m><舎利壷は径約15cm高約11cmという。>
心礎は半裁され、半分強が現存する。
大正11年に俵野耕地整理組合事業として、俵野川の流路変更工事の折に心礎は発見される。付近には塔の坪・寺口・寺屋敷・防垣などの地名が残り、寺域の大きさは方100m以上と考えられる。出土瓦から創建は白鳳期とされる。
◆「木津村誌」1986年に以下の記載がある。: 2005/11/09記事追加・書換:
・廃寺は、大正11年の耕地整理事業で、俵野川の流路付替工事(谷の中央→西に)で発見される。
・出土状況の記録を残すため、地元の長老3名の談話を聴取し記録したものが以下のとおりである。
○礎石:1個。大きさは上に記載の通り。
○礎石の処置:覆土を取除くと表面中央の1箇所に孔があり、その上部に薄い石蓋があり、それを取除くと、麻織物のような僅かな布片と薄い金属製の壺状容器の首部が3/1ほど残っていた。下部はすっかり腐っていた。そのほかは何も無かった。
この大石が心礎であるとは誰も知らず、工事の邪魔になることと工事記念として、今の公会堂の庭に運ぶこととした。
ところが大きすぎて人力では動かず、2つに割って大きい方を今の公民館庭に引き上げた。
後この石は奥丹後震災記念碑の台石としたが、見学者が多く、見学者の利便を考えて、郷土資料館の庭に移した。
○丸木柱の根っこ:礎石のやや下流に、斜め一列に約1間半間隔で埋もれていた。全て杉材で、径50〜60cm、長さは1mくらいであった。(上部は朽ち、根っこが掘り出された。)区は競売にかけ、購入したものは盥や桶に作った。(桶1個は郷土史料資料館に寄贈され現存する。)
○壷形須恵器1個:どこから出土したのか良く分からない。礎石や柱の附近から出たものだろう。
後に判明したことであるが、この工事見学者が土手にすくい上げた土にまじっているこの壷を発見し、人夫に乞うて、自宅に持ち帰り久しく縁の下の置いていた。縁者である吉岡五左衛門が、その壷を見つけ、乞うて自家に持ち帰り、心礎の孔に入れてみると都合よく収まるため、「この壷は心礎の孔にあったに違いない」といい、調査にきた研究者に対して「これが舎利壷である」と説明するようになった。しかし、心礎の孔から出たものは上述のとおりで、須恵器は入ってはいなかったと思う。
○布目瓦:礎石の附近におびただしい布目瓦の破片が、層になって埋まっていた。(瓦は完存のものが少なく、粘土層に差し込まれた状態であったといい、塔の基壇化粧と思われる。)
○鬼瓦:昭和24年礎石出土位置より約100m下流で掘立式柱と思われる根部数本が発見された。(「毎日新聞」記事の掲載がある。)
鬼瓦は人手を渡るうちに行方不明の状態のようです。
○基壇らしい層:鬼側発見地の東100mくらいのところの水田中地下約1mに(東北より北西方向に)基壇らしきものがあるが、未調査である。
 ※心礎にある中央の孔について
この心礎の孔は、上述「木津川村誌」の記載では、心礎出土時に舎利容器らしきものが孔の中にあり、舎利孔とも考えられる。
しかし、当時出土の舎利容器らしきものの消息が不明で、現段階では舎利容器かどうかは確認が不能である。また心礎の現状からは蓋受孔の形跡は認められず、「出土時、薄い蓋石があり云々」の記録は確かとしても、その薄い蓋石が本当に蓋石として機能していたのかどうかは疑問と せざるをえない。
一段孔式の心礎であっても、地下式心礎ならば舎利孔の可能性も考えられるが、まず一段孔式で蓋受孔も無く、また確かに出土したと思われる舎利容器らしきものを 現段階では舎利容器と確認する術も無く、さらには心礎の形状から判断して、この孔は枘孔と考えるのが妥当であろうと思われる。
なお、舎利壷とされたもの(現存かどうかは不明)は「木津村誌」の記録からは、舎利容器ではないと思われる。
 俵野廃寺附近略図    附近の小字名・遺跡見取図:「木津村誌 」より
   ▽出土舎利容器の一覧は「舎利容器一覧表」を参照。
「網野町誌 上巻」:昭和58年には礎石出土地点の少し上流で瓦などが多数出土。
郷土資料館の談:現地(俵野公民館)に心礎の残り半分弱があるという。
しかし現地で探すも発見できず、付近の人々への聞き取りでは、「あったと思う・見たことが無い・全部資料館へ運んだと聞いている」という様々なもので、現地に 半裁された心礎の残りはまず無いと思われる。
 以上のように、現段階では半裁された心礎の残欠の行方は不明である。 (上述「木津村誌」では割った礎石の大きい半分を引き上げたとあり、残り半分についての記載はなく、そのまま放置か破壊か工事材料に転用なども考えられるが 、いずれにせよ不明である。)
廃寺遠望:楕円あたりが心礎出土地と思われる。(聞き取り)
 丹後俵野廃寺心礎1     同      2     同       3     同       4     同       5     同    廃寺遠望
2013/06/12追加:
「丹後の「謎」の古代寺院-俵野廃寺新発見の軒丸瓦と新たな謎-」村田和弘(「京都府埋蔵文化財論集 第6集」京都府埋蔵文化財調査研究センター、 2010 所収)より
平成18-20年の発掘調査においても伽藍配置は明らかにすることが出来ず将来に課題を残す。
 俵野廃寺発掘調査区

丹後等楽寺:現在曹洞宗:弥栄町等楽寺

丹後等楽寺縁起」 :個人蔵・製作時期:桃山とある。
等楽寺縁起と伝わるものは、上記の縁起以外に竹野神社所蔵本や等楽寺所蔵本があると云われる。
丹波・丹後には「麻呂子親王伝説」が現在42の寺社に伝わり、縁起類も11ヶ所に伝わるという。
「麻呂子親王伝説」とは荒っぽく云えば、「用明天皇皇子麻呂子親王が、勅命によって三匹の鬼を征伐する為に当地に赴き、薬師如来などの加護によって使命を成し遂げる。加護への返礼として七仏薬師(七ヶ寺)などを建立した。」という主旨の伝説で丹後丹波地方に広く流布すると云う。等楽寺はこの七仏薬師の1ヶ寺(溝谷荘等楽寺)とされる。
この縁起には多宝塔とは言い切れない「宝塔」に二重屋根を付設したような「多宝塔」が描かれる。
2007/11/06:追加
「紙本着色等楽寺縁起」竹野神社蔵、32×516cm(11枚紙継)、前半部分を欠失のため原題は不明。
絵巻中に「当寺の本尊は第5番に作りたてまつらせ給ひけり」とあり、巻末に寛印による再興が挙げられている。等楽寺は七仏薬師の第5番であること、寛印の再興が伝えられ、この縁起絵巻は等楽寺の縁起と推定される。作風から桃山期のものと考えられる。
縁起絵巻の絵によれば、等楽寺には本堂他数棟の堂宇と「多宝塔」などがあったと推測される。

丹後「薬師の塔」

 →丹後天橋立丹後智恩寺・丹後成相寺五重塔・丹後国分寺跡


但馬井土廃寺:新温泉町井土字福岡

廃寺は井土集落中央北寄とされ、東西130m南北110mで台地上に立地する。現状は田畑で心礎を残す。
心礎はトウノマチ(塔の田)と呼ばれる田畑にある。
心礎は径30.6cm×23.8cmの円孔を持つ。心礎は原位置を保つとされる。
「幻の塔を求めて西東」:円柱座造出一重円孔式、大きさは140×120cm、径43・高さ0.5cmの円柱座を造出し、
径32×28cmの円孔を穿つ。原位置を保つ。奈良後期。
2006/10/18:
現地で聞き取り・探索するも、発見できず、次に訪問する予定もあり、この地で時間を空費する訳にもいかず、探索は断念する。
土地の住人と思しき人も知らない人が多い。唯一「父親が布目瓦を思われる瓦を拾ってきていた」「但し場所は知らない」「近所のかっての郵便局長(土地のことに詳しい)は知っているだろう」とのことで あったが、 郵便局長は不在。井土地区の北部にあるとのことで北部を探索するも、発見できず。

但馬万場廃寺c:城崎郡万場 (豊岡市日高町万場)

「X」氏情報:心礎は万場集落の天満宮傍らで隣接する万場スキー場の駐車場付近にある。
「幻の塔を求めて西東」:二重円孔式、85×94×100cm、径60×35cmと20×11cmの円孔を持つ、白鳳、環状溝あり。
以上の見解に反し、心礎の形式は一重円孔式というべきで、径60cmの柱座を持ち、その外周は浅く環状溝を彫る。環状溝の状況から、心礎の周囲はかなり割られているようで、本来はもうひと回り大きい心礎であったと思われる。
心礎は万場天神社鳥居の脇に置かれている。さらにその横には「仏堂」が現存し、おそらく本来は天神社の本地堂であった可能性があります。またおそらく祭神は菅原道真で、神仏習合の形態であったと思われる。
心礎のあった寺院についての詳細は全く不明である。
 但馬万場廃寺心礎1      同        2     同        3      同        4      同          5

但馬鹿島神社c:城崎郡府中新

城崎郡日高町府中新の鹿島神社境内にある。
○「幻の塔を求めて西東」:一段円孔式、280×125×74cm、60×10cm、出所不明、付近に古瓦出土地あり、白鳳。
この心礎の伝承は皆無のようで、いつからこの神社にあるのかなどは不明。心礎は地方としては大型であろう。
2004/08/14撮影:
 但馬府中新心礎1       同         2      同          3      同          4
2018/06/02撮影:
府中新鹿島明神境内の心礎及び寺跡については情報が皆無で詳細は不明である。また鹿島明神についても由緒など不明である。
 府中新鹿島明神境内:中央右端に心礎が写る。
 但馬府中新心礎21     但馬府中新心礎22     但馬府中新心礎23     但馬府中新心礎24
 但馬府中新心礎25     但馬府中新心礎26     但馬府中新心礎27     但馬府中新心礎28

但馬立脇廃寺(大通院境内心礎)

通常地方の心礎は打ち捨てられた状態が多いが、この心礎は大通院境内に大切に置かれている。
以前は大通院の庭石に転用され、立てて置かれていたが、近年、鐘楼下に、立派な檜造りの覆屋(新築と思われる)が建てられ(行政もしくは近隣の人々の尽力と思われ る)その中に据えられている。
地区の人の談から、おそらく地区の「誇り」としてこの心礎 は守られている様が窺える。
心礎の大きさは(実測)240×115cm×55cm(見える高さ)で、短巾の115cmはおそらく欠損して狭くなったと思われる。高さ55cmは、はぼ見えているので全高と 判断できる。上面には、外径85cmの溝(巾約3cm)を環状に彫り、その中央に径28×12cmの円穴を穿つ。この地には大宝年間に寺院があったとの伝承があり、布目瓦を出土するという。
別の情報では二重孔式心礎で、1.8×1m高さ50cmの花崗岩製。径30cm深さ12cmの孔を穿孔し、周囲に浅く径83cmの柱座を穿つ。
北方約500mで布目瓦が採取され、寺院跡が有る可能性があると推定される。寺伝でいう大宝年間創建の晋勝寺の関連のものと推測される。
なお大通院は禅宗で、4,5年前から無住であると云う(土地の人の談)。
 但馬立脇廃寺心礎1       同          2      同          3      同          4
  同          5      同          6      同          7

但馬三宅廃寺:豊岡市三宅字塔屋敷ほか

1998年瓦積基壇の一部(北方建物?)、(転落)礎石3個を発掘するも、詳細は不明。
九輪や伏鉢(銅製)の一部なども発見されて塔の存在は確実とされる。

但馬金剛寺/但馬利生塔

 →利生塔

但馬赤淵神社心礎赤渕神社あるいは別当神渕寺塔跡):朝来郡和田山町枚田

赤渕大明神と号する。
赤淵神社楼門から勅旨門を過ぎ、本殿・拝殿に至る参道右脇に塔の心礎が1個残される。
大きさは目測であるが、約1.4m×1.2m2辺とする四角形の一隅が欠けたような石で、中央に径約33cmの穴を穿孔する。
(穴の深さおよび底の形状などは未確認)
心礎については、聞き取りもせず、また資料が全くなく、どういう由緒(原位置なのか、どこからか移転されたのか、塔の創建と退転時期・・)は全く不明 。現地には三重塔心礎の立札がある。
○2012/07/21実測:
心礎の大きさは130×105cm、表面は平に削平され、中央に径31cm深さ12cmの一段式の円孔を穿つ。
2002/05/05撮影:
 但馬赤淵神社塔跡1     但馬赤淵神社塔跡2;写真の正面石灯篭の向こうに心礎がある。
 但馬赤淵神社心礎1     但馬赤淵神社塔跡2     但馬赤淵神社塔跡3     但馬赤淵神社塔跡4
 但馬赤淵神社塔跡5     但馬赤淵神社塔跡6
  心礎5写真は心礎のある場所の現状であるが、塔婆建立のスペースとしては無理な感じを受ける。
2012/07/21撮影:
 但馬赤渕大明神心礎11     但馬赤渕大明神心礎12     但馬赤渕大明神心礎13
 但馬赤渕大明神心礎14     但馬赤渕大明神心礎15     但馬赤渕大明神心礎16
○2004/9/12:「式内社調査報告 第19巻」赤淵神社の項の記事に以下がある。
「『赤淵表米両神縁起』(年紀不明)の中に「・・・神前に3間4間ノ拝殿アリ少シ下リテ神門アリ是ハ白鳳壬申ノ建立ナリ本社ノ南ノ上ニ塔ノ遺跡礎石アリ其ノカタハラニ御垂水ノ池アリ・・・」
 ※以上時代は判然とはしないが、塔の遺跡・礎石と認識されるものはあったことは確実と思われる。
「本殿棟札に元和8年(1622)修造・権僧都空泉、元禄7年修覆・本願法印尭真、正徳4年修覆・本願弁海遮梨、
元文5年修覆・現住阿遮梨円乗、宝暦10年修覆・現住法印円乗上人、天明5年修覆・本願別当権大僧都法印祐照代の記載がある。」
 ※つまり修造は僧侶が主導し、しかもその僧侶は別当・神渕寺の社僧と推定され、少なくとも近世には赤淵大明神は別当・神渕寺あるいは社僧によって管理されていた ことが分かる。
神渕寺は明治維新の神仏分離で、廃寺となる。
(なお同書には、根拠不明であるが「この寺号は昭和4年大分県日田市に移されている。」との記載がある。日田市中央2−6−41に高野山真言宗神渕寺があるが、この寺院であろうか。
◆近世では神社に宮寺が付設され宮寺が神社を管理したが、明治の神仏分離の処置で佛教施設が取壊され殆どの神社でその関係が隠蔽されている。しかしこの赤渕大明神では近世の神社の姿つまり神社と宮寺が一体となって神社を経営した姿がほぼ完全に残る。
 当社は「延喜式神名帳」に記載される「赤淵神社」に比定される。
鳥居を潜り、階段を登ると、楼門があり神門に至り、その左手に神渕寺があり、さらに勅使門をくぐり、拝殿・本殿・その他末社に至る。
楼門(神宮寺山門)・仏堂(神渕寺・本地堂)・勅使門・塔心礎などが、明治の神仏分離からの破壊を免れ、今に近世の神社と神宮寺(宮寺・別当)との関係を視覚的に良く残す。なお神仏分離による破壊などを免れた理由は不明である。
楼門:神渕寺山門、文政13年(1830)再建、二重には大般若経が納められていたと云う。
神渕寺(別当・本地堂):宝形造、本尊は毎田如来と云う。
勅使門:寛政11年(1788)再建。
本殿:重文、室町初期、三間社流造、杮葺。正面と両側面に勾欄付椽を付設。4.8m×3.1m。 現状は覆屋に覆われほとんど見ることは不可。
2012/07/21撮影:
 赤渕大明神楼門1     赤渕大明神楼門2     赤渕大明神楼門3     2002/05/05撮影:赤淵神社楼門
 赤渕大明神随身門
 赤渕大明神神渕寺1     赤渕大明神神渕寺2     赤渕大明神神渕寺3     2002/05/05撮影:但馬元神淵寺(別当)
 赤渕大明神勅使門1     赤渕大明神勅使門2     赤渕大明神勅使門3     2002/05/05撮影:赤淵神社勅使門
 赤渕大明神拝殿1       赤渕大明神拝殿2      赤渕大明神本殿覆屋 


丹波日圓寺塔跡:綾部市井根町寺の段34

○日圓寺に塔跡が残る。「X」氏情報では塔跡は寺院西の民家の裏手の山裾にある。現地には礎石と思われる石が7個残る。三重塔と伝承する。以上のほかは詳細不詳。
2009/11/08:「X」氏撮影画像
 丹波日圓寺塔跡1        同    塔跡2
○現地案内板:中照山と号する。高野山真言宗。天平19年(747)行基の開創と伝える。
頭巾山、君尾山、蓮ケ峰、弥仙山等修験道の一連の行場として開かれた寺院であろうか。
延喜22年(922)空也上人再建とも云う。
日圓寺のページ中の「日圓寺縁由記」では
「とりまく力蔵坊、明王院等の十九坊及七堂三門、弥陀の玉堂、五間表多宝塔、鐘楼、仁王楼閣、護摩堂等その結構(すがた)は善美を尽し、珠髪は日に映え、宝鐸は月に輝き、遠くは華水山日閼伽(あか)の潤(たに)、近くは湯屋を呼称する浴室を構え、殿内二季修制す。」とある。
 ※五間表多宝塔とは不明ながら、初重平面5間の大塔形式の塔を意味するのであろうか?
近辺には塔跡・仁王門跡や寺の段・奥の坊・湯屋・仁王堂の坂など地名を残すと云う。高野山真言宗、現在は無住、丹後舞鶴円隆寺住職が兼帯。
○2012/07/22撮影:
塔跡は石造五重塔及びその基壇の廻りに礎石と推定される7個の石が置かれる。
但し、この石は全て浮き、また塔の東西南北四辺のどの辺にも4個の石が揃わず、かつその置き方は大雑把であり、従って原位置を動いているのは確実であろう。
しかしながら、以上のように石は動かされるも、現在置かれている石は敢えて原位置に近い場所に再配置されたと仮定すれば、四隅の石の間隔を計測することにより、塔の一辺を知ることが出来る。そこで四隅の礎石の各辺の間隔を実測すれば、 各辺とも凡そ360cmであり、あくまで現在置かれている石は原位置に近い位置に置かれているとの前提ではあるが、塔一辺は、およそ360cm程度であったと見ることができる。
 丹波日圓寺塔跡11     丹波日圓寺塔跡12     丹波日圓寺塔跡13     丹波日圓寺塔跡14     丹波日圓寺塔跡15
 丹波日圓寺塔跡礎石1     丹波日圓寺塔跡礎石2
 丹波日圓寺塔跡遠望:写真中央の独立墳丘の叢林の中に塔阯がある。向かって右に現日圓寺本堂がある。
 日圓寺塔跡五重石塔1     日圓寺塔跡五重石塔2     日圓寺塔跡五重石塔3:石仏     日圓寺塔跡五重石塔4:宝篋印塔
石佛と宝篋印塔以外の1面には「中照山 日圓寺 ■雄」と印刻、もう1面には多くの文字が彫られるが殆どの文字が判読できない。石塔の年紀など不明。
 丹波日圓寺参道:写真突き当たり正面が現庫裏     丹波日圓寺本堂     丹波日圓寺庫裏

丹波多保市(とうのいち)廃寺

土師川西岸の多保市にある。
多保市廃寺のものと伝える心礎は現在下六人部小学校校庭に移され現存する。円穴には石と砂が一杯詰まった状態であった。なお陰刻について詳細不詳。
多保市廃寺は奈良後期の創建とされる。
福知山市史:多保市とは塔のあった寺の前の市場という意味から生じた地名と言われる。
心礎は巾1m余り、高さ約60cm、径30×20cmの円孔を彫る。
この礎石はもと(今の善光寺の北7、8町の)通称多保市山田にあったといい、明治末期に現位置に運んだと云う。
山田には七堂伽藍があったと言い伝え、堂屋敷・観音屋敷・堂ノ尾の地名がある。『丹波志』には「・・・観音堂屋布(敷)有、字ナ堂屋布ト云、今田地ト成、此所ニ山門ノ跡、・・・礎石残レリ・・・」 とある。
また布目瓦を出土する。
同じく『丹波志』多保市古跡に「出雲路山豪摂寺古跡、天神の森ヨリ東奥ナリ小浜山トモ駒場山トモ云、四間四面ノ塔ノ跡有、壷ノゴトクナル穿抜ノ石ヲ伏セ・・・」とあり、昭和12年の調査での古老のに話では「・・塔の大礎石を中心に、直径3間くらいの周囲に小礎石の並んでいた跡は近年まで残されておったものである」といい、昭和の初頭には塔跡・礎石は残っていたとされる。
但し出雲路山豪摂寺は一向宗の寺院といわれる。『丹波志』:寛政7年(1795)刊
 丹波多保市廃寺心礎1      同      2      同      3      同      4      同      5

丹波和久寺廃寺

和久寺地区の鹿嶋神社境内に心礎が残存する。心礎には柱座は無いとされるが、良く見ると円穴の周囲にはかすかに柱座の痕跡とも思える跡があるようにも見える。現状は心礎及び礎石(推定)以外に何も 残らない。 伽藍配置などは不明。
○福知山市史:心礎は以前、鹿島神社西南約30mのところに約1坪の土壇(と思われる)があり、近年に現地に移した。
大きさは136×91cmで、径37×11cmの円穴を彫る。付近からは奈良期とされる瓦を出土する。この地は南北西が岡であり、おそらく伽藍は東面していたものと思われる。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、136×112×42cmで、径37×11cmの孔を持つ。奈良後期。側柱礎2個残存。
 丹波和久寺廃寺心礎1     同      2      同      3      同      4      同      5      同     礎石
2003/11/09追加:
○「第7回特別展 展示図録 国分寺」より
 丹波和久寺塔基壇
2007/12/14追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
心礎:長径174cm短径112cm高さ61cm、円孔は口径37cm底径29cm深さ11cm。
2013/10/26追加:
「和久寺廃寺」(「福知山市史第1巻:第8章第2節 和久寺廃寺」、福知山市編纂委員会、1976 所収
 和久寺廃寺心礎実測図:心礎は姫髪山産閃緑岩。自然石の一面を平滑にして据える。
大きさは1.36×0.91m、高さ0.42m。表面ほぼ中央に径37cm、深さ11cmの円孔を穿つ。

 ※廃寺北側の岡上に大西信雄氏による和久寺三重塔の再現が完成し、高さ約3mの塔が置かれている。
 この三重小塔については、日本の塔婆→現存塔婆→塔婆に関する参考→屋外小塔の項を参照。

丹波三ツ塚廃寺(史蹟)

1972年発掘調査。金堂基壇の東西に塔基壇を残す。
東塔は方10,8mの瓦積基壇で、心礎は地下式(壇上面から1.4m)で、ほぼ径1.5mの薄手の花崗岩製とされる。上面は径89cmの浅い柱座と径11cm、深さ11cmの孔を穿つ。壇上の礎石は全て流失。
西塔基壇は半分は削られていたが、礎石4個を残す。心礎は既になかったが地下式であったと確認される。
金堂跡には4個の礎石を残し、5×4間の建物と推定される。創建は奈良前期と云う。
その他中門跡(構造は簡単な木戸門程度とされる)南門跡(中門南35m、西10mにあり、中門金堂の中軸線より西に振れた位置にある)などの遺跡が復元され る。
現在は史蹟公園として整備される。以前は松の茂った三ツの塚で、東塔跡は大きな穴が開けられ、その穴に斜めに突っ込んだ形で心礎が横たわっていたという。
 丹波三塚廃寺全景:北より撮影。左より東塔、金堂、西塔。
  同 伽藍復元基壇       同   東塔心礎1      同          2  
  同 東塔復元基壇1        同        2        同        3
  同 西塔復元基壇1        同        2        同 金堂復元基壇      同      金堂礎石
なお、東塔・金堂・西塔が直線上に並ぶ伽藍配置は3例知られる。本廃寺と播磨奥村廃寺常陸新治廃寺である。
2011/10/28追加:
「国史跡三ッ塚廃寺跡」丹波市教育委員会、刊行年不明
 三ツ塚廃寺想定復元図
「兵庫県史考古資料編」兵庫県、1992
 三ツ塚廃寺遺構配置図
「丹波三ツ塚遺跡U」市島町、1972
 三ツ塚廃寺西塔遺構図     三ツ塚廃寺東塔遺構図

丹波与能(與能)神宮寺(与能廃寺)

心礎及び礎石を残す。寺院の明確な遺構は現状では未発見と云う。
○「日本の木造塔跡」 より
心礎の大きさは2.15×1.45m×74cm。径82×12cmの円穴を持つ。
明治の廃仏毀釈で寺は毀たれる。側柱礎5を残す。白鳳期の瓦を出土。
○「京都府史蹟勝地調査会報告 第5冊」京都府史蹟勝地調査会編、1923 より
 與能神宮寺心礎     與能神宮寺礎石形状図
「伝承では與能神宮寺は嵯峨天皇代の建立で、空海が奥の院露堂にて護摩修行を行う。口碑には口ノ院を二階堂と云い、奥の院を露堂と伝えるも詳細は詳らかならず。江戸時代には社域に明星山三光寺(寛永寺末)ありて、中興を心暁坊賢運と言うも、今廃滅す。今、ほぼ同地域に浄土宗無量寺あり。また、御旅所となれる裏の桑畑東田畝から5個の礎石を発見、犬飼の井口徳太郎氏邸へ移置す。内1個は心礎と思われる。これ以外に無量寺庫裏踏石に1個ある。礎石の発見場所は俗に二階堂と称する所で、附近の地名はこの地が寺院中心であることを示す。しかし、地形の改変が進行し、明白な堂塔の跡は発見するを得ず。
なお、慶長8年の本殿再興棟札が現存し、本願は心暁坊賢運云々と云う。」
○「新修亀岡市史 本文編 第1巻」 より
地形的に見て與能神社御旅所付近が寺院中心と思われる。御旅所裏で心礎が出土。北方無量寺に5個の礎石が残る。
但し、この「市史」の心礎の認識は出枘と柱座を混同し、おそらく丹波国分寺心礎や山城国分寺心礎が出枘であるためであろうか、心礎の形式は出枘であるとの思い込みがあるようで、出枘が手水鉢として加工され円穴になったと誤解していると思われる。
※手水鉢への転用の時多少の加工はあったとしても、基本的にこの心礎は柱穴の形式であろう。
與能神社:延喜式内社という。
「諸国鎮座神秘抄」写本では、四道将軍丹波道主命が、桑田郡に三座の神社(三宅神社・山國神社・與能神社)を祀ったという。当初は大和東大寺が別当であったが、後に與能神宮寺が建立され、曼茶羅堂・講堂・五重塔などがあったとされる。 社家二階堂氏は明治の神仏分離で還俗し、現在に到ると云う。
「谿端與能宮旧記」:空海が嵯峨天皇勅を奉じ、奥ノ院露堂に僧形八幡(現存するようです)を祀り護摩を修す。鎌倉期に焼亡。
本殿(三間社流造)は慶長8年(1703)の建立で、棟札によると、文応元年(1260)建立の本殿は慶長元年の地震で倒壊、同8年再建され、正徳4年(1714)に改修という。
2007/12/14追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
与能神社神宮寺跡とされるお旅所の東から、奈良期(あるいは白鳳期)の瓦が出土し、古代の心礎も現存することは、「神宮寺史」上注目すべきことであろう。
2019/12/12追加:
○「亀岡盆地における古代寺院建」京埋セミナー資料 No.141 − 434、亀岡市教育委員会・樋口隆久 より
能廃寺(曽我部町寺):
延喜式内社與能神社の御旅所周辺を中心に数多くの礎石が残る。曽我部町犬飼の井内家(井口家)庭園には、中央に直径0.6mの窪みを持つ、2.5m、1mの塔の心礎が確認されている。
與能神社の社伝等によれば、嵯峨天皇の勅命により弘法大師空海が弘仁元年(810)に創建した神宮寺の伝承もあり、周辺には往時をしのばせる古仏が多く残る。
未発掘であることから、伽藍配置は不明であるが、御旅所のある小高いところが、講堂跡等の主要堂宇の可能性があり、周辺からは、本薬師寺系の複弁八葉蓮華文軒丸瓦と扁行唐草文軒平瓦が出土する。
この本薬師寺系瓦である三角縁の内斜面に隆線鋸歯文が施された複弁八葉蓮華文軒丸瓦(平城宮6276型式系)は、これらが伝播したとされる紀ノ川流域を本貫地とする紀氏との繋りが想定される。
○2005/12/28撮影:
丹波與能神宮寺
心礎は井口弘氏邸にある。
 ※井口家はこの地の名家であり、その庭園は多くの庭石・踏石・石造品で構成される。
與能神宮寺心礎は手水石としてあり、恐らく100個近くある踏石の中の4個は明らかに礎石と思われる石が使用されている。
なお2005/12/09夜半、西隣に邸宅を構える親戚である(別の)井口邸母屋が全焼する不幸があった。
しかし幸いにして当家へは火の粉・灰が降り注いだが延焼は免れ、庭園等は無事であった。
塔礎石は1個が與能神社御旅所北の無量寺に、4個が井口氏邸に残存すると云う。(残存礎石は何れも柱座を持ち明らかに礎石と判断できる)
以上については、井口家の家人は邸内に残存する礎石は塔四天柱礎であると説明し、また踏石の中で長い長方形の石は塔基壇に関係する石である(見学者の誰かが、その様に解説したようです)と説明する。
井口氏邸庭園及び庭園には与能神宮寺心礎・礎石(4個)・塔基壇遺物(?)が配置される。
 井口氏邸庭園1       井口氏邸庭園2
 與能神宮寺心礎1     與能神宮寺心礎2     與能神宮寺心礎3     與能神宮寺心礎4
 與能神宮寺心礎5     與能神宮寺心礎6     與能神宮寺心礎7     與能神宮寺心礎8
 井口氏邸礎石1       井口氏邸礎石2     井口氏邸礎石3     井口氏邸礎石4      塔基壇構成石造品
与能神宮寺故地・礎石
 與能神社御旅所     無量寺残存礎石
輿能神社
 與能神社本殿1     與能神社本殿2     與能神社本殿3     與能神社本殿4    
 與能神社本殿5     與能神社本殿6
2019/11/03撮影:
井口家当主は2005年訪問時から代替わりをしている。突然の訪問にも関わらず、見学を快く許可され、茶菓の接待を受ける。
井口邸礎石
 輿能神宮寺心礎11     輿能神宮寺心礎12     輿能神宮寺心礎13     輿能神宮寺心礎14
 輿能神宮寺心礎15     輿能神宮寺心礎16     輿能神宮寺心礎17
 輿能神宮寺礎石11     輿能神宮寺礎石12
井口邸庭園
 井口邸庭園11     井口邸庭園12:五葉松であるが、6本立のしかも巨木である。     井口邸庭園13:菩提樹との説明。
 井口邸庭園14     井口邸庭園15     井口邸庭園16
与能神宮寺故地・礎石
 輿能神社御旅所2     無量寺残存礎石2:無量寺は知恩院末、毘沙門堂には鎌倉期の作と推定される毘沙門天像を安置する。
輿能宮
 輿能宮本殿11     輿能宮本殿12     輿能宮本殿13     輿能宮本殿14    輿能宮本殿15
 輿能宮常夜燈     輿能宮常夜燈棹:應永21年甲午(1414)の年紀を刻む。
 輿能宮常夜燈火袋:火袋には延宝二二年丙辰(1676)の年紀を刻む。延宝二二年とは延宝4年であろう。
 應永21年の棹に延宝4年再興の火袋を載せたということであろうか。
なお、犬飼井口邸に至る東西道に1ヶの道標がある。(井口邸の東にある。緯度経度:34.995268, 135.535120 )
 犬飼の道標:法華谷とあり、左妙見、右山道とある。この付近が法華谷であろうか、左に折れれば、妙見(能勢妙見)に至る。

丹波観音芝廃寺

「新修亀岡市史 本文編 第1巻」 より
昭和61年より発掘調査、金堂・講堂・僧坊・築地跡が発掘される。
調査以前から畑の中に一辺約20m・高さ1mの土壇が残る。この土壇は金堂跡と判定される。
金堂跡:残存土壇から瓦積基壇が発掘され、その規模は18.2×15,4m高さ約1〜0.4m。根石の残存から建物規模は12,4×9.5m、5×4間と判明。
講堂跡:金堂北で掘立式建物を発掘。20.7×11.9m、7×4間の規模。
「篠村村落絵図」:(「桑下漫録」亀山藩士矢部朴斉著 所収と云う。)
「ミコシ堂」と「塔ツカ」の位置が明示され、塔ツカはミコシ堂の南東に位置する。金堂跡の土壇は地元では「御輿塚」と呼んでいた。「塔ツカ」は「一塔跡 東西14間25間、南北17間27間」とある。
 以上の状況から金堂東南に塔が存在した可能性は非常に高いと思われるが、塔想定地のトレンチでは何の痕跡も出なかったと云う。おそらく近代に「ツカ」そのものが根こそぎ削平されたものと思われる。
以下は「新修亀岡市史 本文編 第1巻」より転載
 篠村村落絵図     観音芝廃寺伽藍配置      観音芝廃寺金堂跡     観音芝廃寺金堂基壇

丹波周山廃寺:京都府北桑田郡京北町周山;周山小学校の東北

○「丹波国周山廃寺」石田茂作・三宅敏之(「考古学雑誌 第45巻第2」日本考古学会、1959 及び石田茂作「佛教考古学論攷 1 寺院編」 所収)より
東京帝室博物館の疎開を契機に発見され、学校拡張により、昭和22年と昭和24年石田氏らよって短期間で発掘調査が実施され、その結果、東堂・塔・中堂 ・北西堂・南門・西堂の遺構が発掘される。
 □周山廃寺概要図:2013/10/26画像入替
塔跡は東西約35尺南北約40尺高さ約3尺の土壇が残り、礎石は全てが持ち去られていた(注)。
しかし土壇中央に径約10尺の礎石に抜取り穴が残り、その他の礎石の抜取り穴及び根石が確認される。
その結果柱間7尺8寸で、方3間の建物跡と判明する。土壇はほぼ崩壊し、辛うじて数個の列石のみが発掘される。
土壇周囲では多量の瓦と鉄製風鐸破片・舌の破片も発掘される。
 □周山廃寺塔跡概要図:2013/10/26画像入替
以上によりこの土壇は、ほぼ塔跡と断定される。
なお中堂付近地表から採取された石片はその一辺が軽くカーブし、これは心柱の根巻石の断片と推測される。
 □周山廃寺根巻石断片
東堂跡では礎石19個が発見され、7間×4間とされた。現在はこの堂跡のみ中学校校庭に現状保存される。
 東堂址実測図:2013/10/26追加
その他の堂宇については十分な調査がなされなかったきらいもあるが、礎石・瓦などが発見される。
また残念ながら、遺跡は、東堂を除きすべて学校拡張工事で破壊された模様である。
出土品から、この寺院の創建は白鳳期であり、奈良期・平安初頭に盛時を向え、その後衰退、鎌倉期若干の再興を見たが、やがて廃寺となったものと推測される。
 (注)礎石抜取:地元の川面卯三郎氏の談として、明治初年周山専売局建設で使用し、また明治16年周山大橋の建設で袖石垣として塔跡土壇の礎石を割って用いたということが伝えられる。
2005/11/09追加:「第7回特別展 展示図録 国分寺」より
 □周山廃寺東堂跡礎石
2006/03/25:「X」氏撮影・ご提供
東堂跡には礎石を残す。下に掲載の東堂・塔跡写真のように、写真左上方が塔跡と云う。写真では塔跡に土壇が残るように見えるが、これは近年まであった学校施設の土壇であり、廃寺の土壇ではないであろうとの見解である。おそらく塔跡は破壊もしくは施設建設のため土盛されたものと思われる。
 丹波周山廃寺東堂跡         同   東堂・塔跡         同        塔跡
2019/07/11追加:
〇「京北町五十年誌」京北町、平成17年(2005) より
仏教の伝来:
 現在周山中学校が建つ丘陵地にはこの地方の豪族によると思われる寺院(周山廃寺・京都府指定史蹟)が建立される。
この廃寺は特異な配置を採り、中には軒と軒を接するような位置関係の建物もある。この寺院は当地の自然地形を最大限に利用して建立され、また全ての建物が同時期に建立されたのではないということになろう。
 出土瓦は軒丸瓦が2種3形式、平瓦が3種4形式あり、大和川原寺式の形式を持つ。これらの軒瓦から推察すると、創建は奈良期以前の7世紀中葉の白鳳期で、8世紀前期から増築または修理が行われ、その後奈良末期から平安初期まで存続し、鎌倉期に若干の再興を見たものの、その後廃絶に及んだものと思われる。共に出土した須恵器も何れも奈良期の様式を示す。
 また、文字瓦も出土していて、これも大きな意味を持つ。この文字瓦は東堂の北西から出土したもので、文字がヘラ書されている。
それは「〇田部連君足」(第1文字欠損)と書かれている。欠損第1文字の下に僅かに「木」の文字が見えることから、「粟」もしくは「桑」ではないかという説がある。いうまでもなく、下部に「木」の文字を持つ漢字は多くあるわけで、上述の2文字は有力ではあるが、決定力を持つわけではない。
もし「粟」であれば、大和盆地の東北部に始り、山背宇治・山科・八瀬から琵琶湖西部・南部までを勢力下に置いた王仁氏の同族である「粟田臣」の存在が浮かび上がってくる。そうすると、この周山にも王仁氏の部族がいたことにも繫がるのである。
「桑」だとすれば、「桑田部」という当地の郡名を冠した氏族の存在が想定されるが、桑田部あるいは連という氏族は今日まで所見できる資料にその類例がない。
 周山廃寺出土文字瓦(「飛鳥白鳳の甍」 より・・・後出)
2019/05/22追加:
○「周山廃寺発掘調査現地説明会資料」京都市埋蔵文化財研究所、2018年7月1日
 丹波国桑田郡に所在する。(現在は京都市右京区)創建は白鳳期である。
昭和22年・24年に周山中学校建設工事に先立って、石田茂作によって初めて発掘調査が実施される。
北から南へ延びる丘陵裾部で東堂・塔跡を、さらに西の1段高いところで西堂が確認さる。このうち東堂以外は建設工事によって失われたと考えられてきた。
昭和55〜56年には南西約1kmの地点で、周山廃寺の瓦を焼成した周山瓦窯の発掘調査が行われる。
 今般(平成30年/2018)周山中学校の小中一貫校化に伴う新校舎建設に伴い、再度発掘調査が行われる。
この発掘の調査の成果は次のとおりである。
 西堂(礎石建物):昭和24年の発掘で発見された6個の礎石を再確認する。東西2間(柱間2.1m)南北2間以上(柱間1.8m)で、首位には排水溝が廻る。
西堂は失われたと考えられていたが、地中に残存していたことが明らかとなる。この建物は東西2間、地形から南北は2〜3間の小型の建物と推定され、経蔵・宝蔵・鐘楼などであろうと推測される。
 平坦面T・瓦溜:西堂北側のさらに一段高いところで、新たに平坦面が見つかり、その南斜面からは整理箱にして150箱を超える多量の白鳳期の瓦が出土する。また、礎石と考えられる石も出土する。出土状況から北西側から廃棄されたものとみられ、この平坦面Tの西部にもう一つの建物が存在したことが推定される。
 周山廃寺調査区配置図     周山廃寺調査区略図     周山廃寺西堂遺構
  ○京都新聞:2018年06月30日記事 より
   周山廃寺西堂遺構2
  ○サイト「京都市右京区の周山廃寺跡 (現地公開見て歩き209)」2018/07/03 より
   周山廃寺推定礎石:瓦溜より出土
2020/02/24追加:
〇「飛鳥白鳳の甍〜京都市の古代寺院〜」京都市文化財ブックス第24集、平成22年(2010) より
周山廃寺
 昭和20年米軍の空襲は激化し、東京帝室博物館(現・東博)は閉館を決定し、既に4年前から始まっていた収蔵品の疎開を本格化させる。
その時、疎開先に選ばれた一つが北桑田郡山国村の常照皇寺(周山の北東)と同郡弓削村(周山の北)の弓削旅館であった。
石田茂作は当時博物館員であり、責任者として収蔵品とともに1年余り京北に滞在することになる。
その石田に、この地にも古瓦の出る地があると教える人がいて、これが周山廃寺の知られるきっかけとなる。
 終戦後、この地に新制中学が建設されることとなり、その報を受けた石田らは急遽現地に赴き、昭和22年と24年にかけて、延べ12日間の緊急発掘を行う。
この調査は短期であり、それ故不十分なことも多々あったが、それでも、6つの堂塔が並び立つ伽藍の概要が明らかになる。
即ち東から東堂・塔・中堂・西堂の建物跡を検出し、北堂・南門は瓦の出土状況から2つの建物を推定した。
 東堂跡:関係者の努力によって、現在も良く保存される。桁行7間梁間5間の南北棟の建物で、実長は南北22.12m東西12.12mであり、礎石19個が残存する。
基壇は南北25.76m東15.76m高さ0.3mを測る。外装は不明であるが、延石として並べられた川原石が僅かに検出されたので、乱石積基壇であろう。
 塔跡:発掘当時は方形の土壇として残っていたという。しかし心礎を始め礎石は全て持ち去られていた。明治年中に周山大橋の袖石垣の材に使われたという。
塔一辺は7.09m、基壇一辺は11.94m、高さは.061mと推定される。基壇外装は不明、心柱の根巻石と推定される断片が採取されていて、そうだとすれば、心柱径は0.71mと復元される。
 中堂跡:半壊状態で検出のため、詳細は不明。東西15m南北12m程度の建物があったと推定される。建物方位軸は東堂・塔と同じである。この建物は一度再建され、再建堂宇は旧土壇に土盛をし、新たに礎石を据えて作られている。
 西堂跡:建物の北西隅の礎石6個と抜取痕跡1個を検出。全体規模は不明。
 北堂跡:発掘当時は斜面を削った人工の平坦面があったというも、造成工事で消滅。工事中多数の瓦が出土してという。
 南門跡:当時は中堂の南に瓦の堆積層が露出していて、これは本廃寺発見の契機となる。東西11m南北7mほどの堆積層で、礎石などは発見されなかったが、建物跡と推定される。
 周山廃寺堂塔跡平面図     周山廃寺出土文字瓦

○2019/02/23撮影:京都市考古資料館「平成30年度後期特別展示 京都の飛鳥・白鳳寺院-平安京遷都前の北山背-」の展示より:
 平成30年調査遠景:写真中央付近に校舎が写るが、その向かって右に東堂跡礎石、その下に発掘された西堂跡礎石が写る。
 周山廃寺遺構配置図     周山廃寺想像復元図     周山廃寺西堂跡
 均整唐草文軒平瓦      均整唐草文軒平瓦2      連珠文軒平瓦/重圏文縁素弁八葉蓮華文軒丸瓦
2019/09/26撮影:
現在、地表に見える形でほぼ完存しているのは東堂遺構のみである。塔跡は一見塔土壇が残存するように見えるが、残念ながら、これはおそらく戦後の学校施設建設に伴う土盛で、塔土壇ではないという。この土盛の下に削平された塔遺構が残るものと思われる。
 周山廃寺東堂跡・塔跡戦後土盛:東から撮影、中央の平坦地が東堂跡、その後に「塔跡戦後土盛」が写る。
 周山廃寺塔跡戦後土盛1:左手奥が東堂跡     周山廃寺塔跡戦後土盛2     周山廃寺塔跡戦後土盛3:東堂跡から撮影
 周山廃寺東堂跡1     周山廃寺東堂跡2
 周山廃寺東堂跡礎石1     周山廃寺東堂跡礎石2     周山廃寺東堂跡礎石3     周山廃寺東堂跡礎石4
 周山廃寺中堂附近:中央が中堂附近と思われるも良く分からない。

丹波伝知足寺石製露盤(在丹波大賣神社石製露盤):篠山市寺内

 →丹波伝知足寺石製露盤(大賣神社)

丹波福泉寺奥の院多宝塔跡

多紀三岳(御岳)は古代末から中世末まで修験道の霊山として栄えるという。
三岳の主峰御嶽の南に大岳寺、小金ヶ嶽の南山腹に宝塔山福泉寺などが建立され、山中には多くの堂宇・坊舎があったと云う。
三岳の修験は大峯山の修験と主導権を争うが、ついに文明14年(1482)大峰山・吉野蔵王堂僧兵山伏300が押し寄せ、大谷寺・福泉寺を始めとする堂塔・坊舎を焼く払うと云う。(「丹波志」)
今福泉寺跡には本堂跡(礎石48個)、奥の院多宝塔跡(礎石残存か)、坊舎などの平坦地を残すと云う。
 


播磨清水寺大塔跡

塔の創建は保元2年(1157)で、祇園女御(平清盛の生母)の建立と伝える。
明治40年大塔焼失。大正12年再建。再び昭和40年の台風で大破・取壊。
 →播磨清水寺大塔

播磨千坊谷竜華山転法輪寺

 →播磨転法輪寺三重塔跡

播磨明王寺多宝塔跡(現徳光院多宝塔跡)

 →播磨明王寺・摂津徳光院多宝塔

播磨日輪寺

播磨名所巡覧圖會より:巻之2:
記事:「普光山と号す。・・天台宗。開基行基。本尊千手観音。・・・講堂・食堂・五重塔などは兵火に亡びて後、・・・」
かっては五重塔が存在したと思われる。(ただし挿絵はなし)
 詳細不詳:情報なし

播磨太寺廃寺

天台宗高家寺の山門右脇に塔の土壇があり、4〜5 個の側柱礎石と心礎がある。東の脇柱礎3個は原位置を留めるという。
○「日本の木造塔跡」:心礎は1.15m×0.9mで中央に径25cm深さ8cmの孔がある。
心礎は庫裏の手水鉢に転用される。
 ※上記の資料では「庫裏の手水鉢に転用」とのことであるが、現在、心礎は塔跡に戻されていると思われる。近年庫裏は住宅風に新築され、庭も改装され たようであり、その時に心礎を土壇に戻したのであろう。ちなみに現在、庭には心礎らしき石はないと思われる。
なお現在心礎の置かれている位置は元の心礎の位置ではなく、土壇上の石仏の前の「飾りとして」あるいは「適当に」置いたという印象である。なお境内からは奈良前期から江戸期までの瓦が出土すると云う。
2006/04/19撮影:
 太寺廃寺心礎1    太寺廃寺心礎2    太寺廃寺心礎3    太寺廃寺心礎4    太寺廃寺心礎5    太寺廃寺心礎6
 太寺廃寺脇柱礎石     太寺廃寺塔土壇1    太寺廃寺塔土壇2
○2010/07/30追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
境内は開墾および宅地化で侵食され、古の伽藍があったことは侵食によって時折顔を出す古瓦の堆積などで偲ぶしかないが、辛うじて塔土壇が原型を損ねながらも残存する。
 播磨太寺廃寺礎石実測図:右が心礎、左は脇柱礎
2016/04/09撮影:
太寺廃寺塔土壇:東西凡そ12m、南北凡そ8m高さ凡そ1.5mの土壇を残す。
 太寺廃寺塔土壇11     太寺廃寺塔土壇12     太寺廃寺塔土壇13
原位置にある塔礎石:土壇上には心礎及び礎石(残欠を含む)が乱雑に置かれるが、東寄りにある礎石3個は原位置を保つと推定される。

原位置を保つと推定される礎石は東寄りにあるA、B、Cの礎石3個である。
 原位置を保つ礎石ABC:左図拡大図
北にある礎石ACの中心間の距離は約8尺(2.4m)、礎石ACと直角にある礎石ABの中心間の距離は約16尺(4.8m)を測る。

 原位置を保つ礎石AB:左図拡大図
礎石ABの中心間の距離は約16尺(4.8m)を測る。
AB間は2間分であると推定される。

 原位置を保つ礎石AC:左図拡大図
礎石ACの中心間の距離は約8尺(2.4m)を測る。
礎石ACと礎石ABは直角に交わる。
以上のことから、礎石AかBの何れが中央間の脇柱礎かは分からないが、塔は4尺の等間であると判明する。従って塔一辺は24尺(7.2m)と推定される。
これは、かなりの大型の塔婆で、おそらくは五重塔であろう。その規模は大和興福寺や山城教王護国寺五重塔には及ばないが、山城醍醐寺や山城法観寺五重塔の一辺を凌ぐ規模である。

 原位置を保つ礎石A     原位置を保つ礎石B     原位置を保つ礎石C
 太寺廃寺心礎11     太寺廃寺心礎12     太寺廃寺心礎13     太寺廃寺心礎14      太寺廃寺心礎15
 太寺廃寺心礎16      推定塔礎石類1      推定塔礎石類2
高家寺本堂は元和年中(1615-24)明石藩主小笠原忠政の再建という。5間×5間で向拝付設、寄棟造、本瓦葺き。
高家寺は太寺廃寺跡に建つ。
 高家寺本堂11    高家寺本堂12    高家寺本堂13    高家寺本堂14    高家寺本堂15    高家寺本堂16

播磨善楽寺

○「播磨名所巡覧圖會 」より:巻之2:
善楽寺(号、法写山。西の惣門<明石巌社であろう>より南へ三丁ばかり)
記事の要約:
「開基法道仙人。本尊地蔵菩薩(東叡山末、天台宗・・)
恵心の作の地蔵は、今、寺中実相院にあり。
保元元年(1156)平清盛諸堂寺院を再建。
養和2年(1181)寺僧等、清盛の為に五輪の石塔を建立して供養。境内に明石入道の碑あり。」
 播磨善楽寺三重塔:三重塔が描かれる。おそらく木造塔と思われるも、細目は全く不明。
○善楽寺は、大化年中、法道仙人の開基と伝える。
天喜元年(1053)住職源泉は第31代天台座主となる。
また善楽寺は源氏物語「明石の上」の父「明石入道」の館跡であったと伝承される。
元永2年(1119)堂塔を焼失。
保元元年(1156)播磨守平清盛が再興する。寺域は方1km、17ヶ院を数えるという。
養和2年(1182)善楽寺忠快法印(清盛の弟教盛子息)が清盛の冥福を祈り五輪塔を建立。高さ3.36m、花崗岩製、鎌倉期の作。
天文8年(1539)伽藍焼失、文禄年中に再興。
近世には明石藩主の庇護を受ける。5代藩主松平忠国「明石入道の碑」を建立。
 2016/04/17追加:
  明治4年火災により三重塔を焼失
   ※出典:ブログ「神戸の空の下で。〜街角の歴史発見〜」>「法寫山善楽寺」のページ。しかし、本ページの原典は不明。
昭和20年7月明石空襲で灰燼に帰す。昭和63年現在の伽藍が復興する。
現在は戒光院が本寺、塔頭実相院・円珠院が附属する。
※三重塔の細目については全く情報なし。
しかし、現在昭和再興といえども、堂宇の配置はほぼ、上述の「播磨名所巡覧圖會播磨善楽寺三重塔」を彷彿とさせ、三重塔があったであろう本堂前前庭はそのまま残る。「善楽寺本堂前空地」の写真の中央辺りに三重塔があったものと推測される。
2006/04/19撮影:
 播磨善楽寺東門  善楽寺本堂前空地  寺中実相院  寺中円珠院庭園  善楽寺平清盛供養塔  善楽寺明石入道の碑
2016/04/09撮影:
 善楽寺戒光院山門    善楽寺戒光院本堂    戒光院庫裡・右圓珠院庫裡等    善楽寺平清盛供養塔
 善楽寺明石入道の碑1    善楽寺明石入道の碑2
 善楽寺圓珠院本堂
 善楽寺圓珠院庭園:伝宮本武蔵作庭、明石上ノ丸本松寺庭園・播磨如意寺福聚律院庭園も武蔵作庭と云う。
 善楽寺実相院山門    善楽寺実相院本堂    善楽寺実相院大黒天堂    善楽寺実相院鐘楼    善楽寺実相院庫裡書院

播磨野口廃寺 :加古川市野口:教信寺東2町、駅ヶ池北東3町

2010/08/19撮影:山王五社宮社社殿の背後左右の土壇がある区域にはフェンスが設置され入ることはできない。
推定塔土壇は明確な土壇を残さない。(従って、掲載している塔土壇写真はややずれている可能性はある。)
一方、推定講堂土壇は半壊した土壇を残し、土壇には古瓦が散乱する。
 野口廃寺推定塔土壇1       同     塔土壇2     野口廃寺推定講堂土壇1       同     講堂土壇2
 野口山王五社宮社殿
▲野口神社境内地に複数の土壇跡といくつかの礎石が残る。発掘調査により、塔跡・講堂跡・回廊跡・北方建物跡が検出される。塔遺構として、基壇の外周が検出される。瓦の年代から8世紀前半の創建で9世紀まで存続したと推定される。▲
○2010/07/30追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
野口神社境内の門・拝殿・社殿・社務所の付近は後世の整地のためか土地は平坦地である。しかし社殿の西側及び背後には地形の高まりを認めることができる。特に西側の高まりには古瓦が散布し、礎石様の巨石の発見も伝えられる。なお神社を取り巻く方形区画及び濠は古の伽藍地を示唆するものかも知れない。
 野口廃寺跡実測図
 ※野口神社の沿革を明らかにする資料は無いが、旧号は「五社大明神」であり、播磨鑑には「中尊山王大権現」とあり、地元では当社を「山王五社宮」と今も呼ぶということからして、おそらく天台宗念仏山教信寺が山王権現を古の伽藍地の跡に勧請したものかも知れない。
○2010/08/12追加:「野口廃寺発掘調査概要報告書」加古川市教委、2004 より
 播磨野口廃寺遺構配置図

播磨教信寺

●播州念仏山教信寺縁起(元和7年、念仏山不動坊海長・同教蔵坊春盛)
「当寺は教信上人棲身入寂の地・・清和天皇御草創の霊地なり。・・・
後深草帝建長7年勅して、境内8町を賜ひ、伽藍を建立給ふ。
本堂弥陀殿(7間四面・中央)、来迎堂(5間四面・南)、開山堂(5間四面・西)、三重塔(東南)、地蔵堂(西南)、護摩堂(東北)、十王堂(南)、弁天社、山王祠、鐘楼、宝蔵、閼伽井、僧坊48院(諸堂の後に有り)・・・」
かっては大伽藍があり、三重塔があったと云う。
2010/08/19訪問:天台宗、現本堂は明治13年書写山念仏堂を移築、平成7年の震災で本堂・開山堂・観音堂・山門などが半壊するも、現在は美しく復興される。寺中遍照院、常住院、法泉院で護持されているものと思われる。三重塔の痕跡は無いと思われる。

播磨古大内廃寺b:加古川市野口町古大内 、駅ヶ池南西1町、教信寺南3町

2010/08/19撮影:
 遺蹟は昭和15年頃から急速に破壊され、現在では西南部の一角の祠(大歳神)を中心に残されている状態で、礎石と推定される自然石十数個が、祠の周辺や記念碑台石に使用される。
記念碑は古大内城跡とある。
 最近の発掘調査で古大内廃寺は寺院跡ではなく、賀古駅家と判断される。
「延喜式」(927年)には以下の記載があると云う。「播磨国駅馬、明石30疋。賀古40疋。草上30疋。大市、布勢、高田、野磨各20疋。越部、中川各5疋。」当然山陽道の駅家の記載である。
以上によれば、賀古駅家は馬40疋を備え、これは最大級の駅家であった。当然この駅家は「駅館院」(宿泊・接待施設)に類する施設があり、その建物は礎石建物・屋根瓦葺・丹塗柱・白壁であったと推定される。
 ※古代の遺構で、寺院以外にも、礎石建物・屋根瓦葺建物が存在したと云うことである。古瓦・礎石だけの出土でもって寺院跡と判断すうことはできない。
 ※播磨では近年駅家跡とされる以下の遺構が発見されている。古大内の遺跡もこれに準ずる駅家跡であろう。
・布勢駅家:「驛」及び「布勢井邊家」と墨書された土器が出土、「驛」の土器は昭和61年出土。この遺跡は以前は小犬丸廃寺と呼ばれていた遺構である。
・落地<おろち>遺跡(上郡野磨駅家跡):2002年からの発掘で駅家と判明する。なを「唐居敷」も出土と云う。
 兵庫県立考古博物館(2009年古大内廃寺を発掘)は、その成果から古大内遺跡は賀古駅家跡であろうと発表する。駅家跡とする根拠はおおよそ以下のとおりある。
1)古代山陽道から駅家の入口へ続く進入路を確認(発掘された道は遺跡の東辺の築地溝と直交して東に延び、山陽道と直交することから進入路と判断する。つまり東側に駅家正面入口があったと結論付けられる。山陽道と見られる遺構も発掘される。
但し、侵入路とされる遺構と東の築地溝とされる遺構の交わる付近で門跡が発掘されたという報告はない。
なおこの地点は現在の大歳神社東60〜70mの地点である。
2)大歳社境内で、唐居敷(門礎石)2個を発見。
礎石は、竜山石(凝灰岩)製。2個ともほぼ同じ大きさで、縦115〜130cm横60〜85cm厚さ40〜50cmの大きさで、それぞれ「軸摺穴」と「方立穴」と推定される方形の穴が2つある。(未見)
しかし、なぜこの礎石が東の門の礎石とされるのかの根拠は良く分からない。事実は門礎と思われる礎石が神社境内に搬入され現存していたということだけである。
 門礎石(唐居敷)     唐居敷実測図:いすれも兵庫県立考古博物館提供
3)播磨国府系瓦が発掘される。
4)付近(北東)に「駅ケ池」と称する池がある。この池は平安期、教信寺開山教信沙弥が造ると伝える。
 ※承和3年(836)教信沙弥、山陽道を西へ進み、賀古駅家の北に住む。(「日本往生極楽記」)
→現段階では古大内廃寺は寺院跡とも駅家跡とも断定は出来ないであろう。なぜなら寺院跡とするあるいは駅家跡とする決定的物証が未だ無いからである。上記1〜5)の根拠は駅家とする有力な状況証拠ではあるが、決定的証拠とは成り得ていない。
1)山陽道にほぼ接してあるから駅家とは断定できない、寺院が建立される可能性もある。
2)唐居敷(礎石)の存在をもって、駅家の礎石と断定はできない。この遺跡ではまだ門跡は出土していない。
3)播磨国府系瓦は駅家と寺院跡両方で出土する。「兵庫の遺跡10号」(兵庫県教委埋蔵文化財調査事務所、昭和61年)では以下のように述べる。「播磨国で奈良時代後期の播磨国府系瓦がまとまって出土する遺跡は14カ所あるが、このうち塔跡があって確実に寺であるものは5カ所である。」
4)この池の存在は有力な傍証ではあろう。
 播磨古大内大歳社     播磨古大内遺跡礎石1     播磨古大内遺跡礎石2
○2010/08/25追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
南北84m東西37mほどの短冊形をした松林(壇ノ森)があり、この中に土壇があり付近に伽藍石を残す。また道路を挟んで、古瓦が散布する。またこの付近は「播磨風土記」で云う駅家里もしくは「延喜式」で云う賀古駅家の地であることは容易に推測できる。
土壇は南北14m東西12m、高さ80cmを測る(掲載地籍図のA地点)。表面には礎石抜取穴が残る。2小祠の台石、碑の積石に13個ほど火中した礎石を残す。
地籍図A地点東25m付近には古瓦の散布を見る(地籍図B地点)。更に北側30m付近には古瓦と焼土とが横たわる(地籍図C地点)。地籍図A地点を塔阯と仮定すれば、法隆寺式伽藍配置を彷彿とさせる。
 播磨古大内廃寺付近地籍図       同     塔阯付近礎石       同  講堂跡古瓦包含層

播磨西条廃寺

▲1981年からの発掘調査で、塔(西)、金堂(東)、講堂(北)跡を検出する。ただし回廊跡は検出されず。瓦の年代から7世紀末の創建で、9世紀頃 退転したとされる。
塔基壇は一辺約11mで、基壇化粧は瓦積であった。塔跡・金堂跡では礎石痕のみ認められた。
心礎は、亡失を避けるため、戦後すぐに近くの永昌寺墓地に移されていたが、史蹟公園化により、現在は元に戻される 。
心礎は方形で辺は1.05×1.03m、高さは64cm、径44×22cmの孔があり、孔の周辺には径72cmの環状排水溝(もしくは柱座)と4本の放射状排水溝を持つ。 (心礎の法量は「日本の木造塔跡」による)▲
○実測:115×105cmの方形に整形され、径78cm(外径)巾2〜3cmの浅い溝がある、径45×19cmの孔を穿つ。
 ※2021/07/06追加:知識寺式心礎と思われる。
廃寺は標高約30mの丘上に位置する。現状、史跡公園として整備され、塔や講堂・金堂などの建物の基壇(基礎)、中門・回廊跡などが復元される。塔基壇は一辺11m高さ 1.2m、瓦積基壇とされ、現地での復元基壇は基壇保護のため、ひと回り大きく復元される。また基壇の西面と南面の瓦積は出土した飛鳥・奈良期の瓦で復元される。
なお、発掘調査(1981-83)で出土した風鐸・九輪・瓦などは加古川市総合文化センター博物館に展示される。
 播磨西條廃寺復元基壇1     同          2
 播磨西條廃寺心礎1           同        2        同        3        同         4
   同     塔礎石        同  復元瓦積基壇1      同  復元瓦積基壇2
○2010/08/12追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
・・塔阯の松林を除けば、近年殆ど畑地に変わっており、・・塔土壇にあるべきはずの礎石は心礎を除いて他は悉く搬出されており、心礎も発掘の厄に遭ひ辛うじて土壇の西端に留まっている・・・
なお遺物として風鐸が発掘されている。(風鐸は塔阯付近から発掘されたと云う。)
 播磨西條廃寺塔跡遠望      同       心礎      同   心礎実測図      同       風鐸      同   風鐸実測図
○2010/08/12追加:「西条廃寺発掘調査報告書」加古川市教委、1985 より
 播磨西條廃寺地形図       同   塔跡実測図       同  塔基壇実測図       同   心礎実測図

播磨石守廃寺

▲1983-84年の発掘調査で、塔(西)、金堂(東)、中門(南)跡を検出。回廊ではなく柵列が廻らされていたとされる。
出土瓦から8世紀初頭から9世紀ころまで存続したようで、寺域はほぼ1町四方と推定。
塔基壇は1辺約11mで石積基壇とされる。また側柱の根石も検出され、塔は1辺6mの規模とされる。
心礎が現存する。石守廃寺心礎図(「古代寺院からみた播磨」から加工)
なお風鐸・水煙(破片)も出土している。▲
○「日本の木造塔跡」では「川原寺式(上に石碑あり)」とあり、近年まで台石に転用されていたと思われる。
○心礎は現在、土中に埋められ、そのため上記の心礎図の向かって右の大部は土中に隠れ、そのため見た目には柱穴が極端に端に寄り、異形な心礎に見える。 上図から判断すると、土中に見えない部分もかなりあり、下記実測の大きさより、実際はもうひと回り大きい心礎と思われる。
実測:見える範囲の大きさ190×180cm、径60×20cmの円穴を彫り.円穴底から外に向かって水平に排水穴 が1本貫通している。これは心礎の一側面が約45度の傾斜をもつため可能な造作と思われる。排水穴の長さは約13cmで、出入口の径6cmで中間部の径は約4cmくらいであろう。
 現在心礎は日蓮宗宝塔寺境内と思われる場所にある。 境内?自体が造成工事中で、塔跡も現在(写真のように)土壇が造成されているが、これは個人(寺院)の工事なのか公共工事なのか不明。さらにこの心礎は移設 されたのか、 造成された土壇は、発掘成果から見て、ある程度忠実なのかなども全く不明。なお土壇上には、礎石らしき石が2,3個置かれている。この礎石は心礎と同質の石と思われ礎石であるようには見える。なお宝塔寺自体の実体も全く不詳。 →2008/06/02追加記事参照
 播磨石守廃寺復元土壇   同    心礎1   同       2   同       3   同       4   同       5
   同         6   同 心礎排水孔内   同 心礎排水孔外   同      礎石
○2006/03/11追加:「兵庫県史 考古資料編」:
 石守廃寺塔基壇
奈良時代前期の創建で平安初期めで存続したと推定される。法隆寺式伽藍配置であり、塔基壇は一辺11m、基壇南・東・西は自然石積の化粧基壇、北辺は玉石積の化粧で、北辺のみに階段遺構が検出された。基壇中央には径1.5m心礎抜取り穴があったが攪乱を受けていた。また基壇上部は削平され、礎石はない。
(※この記事からは心礎は既に別の場所に持ち出されていたとも推測される。)
遺物:瓦のほか、塔風鐸(塔北東部から9個、個人蔵をいれて10個)、水煙の破片などがある。遺物は加古川総合文化センタに収集・展示している由。
○2008/06/02追加:ブログに以下の記事がある。
「石守廃寺を訪ねてみた。廃寺跡がない。近所の人に訪ねてみても分からない。
市教委に問い合わすと、『保存が難しくなったので、現在少し南の宝塔寺の境内に移転保存されている』とのことだった。
基壇部等の保存はなかったが、塔の礎石が境内の隅に保存されていた。」

播磨山角廃寺:加古川市平荘町山角:↓次項参照

▲奈良期の瓦を出土。心礎は平荘小学校の校庭に保存。
なお報恩寺参詣曼荼羅図(報恩寺は寺跡に隣接する、曼荼羅図は16世紀の作とされる)には三重塔が描画される。▲
この心礎および廃寺についての情報は少ないが、小学校のすぐ北東にある報恩寺の心礎とも思われるが、関係ははっきりしない。
心礎実測値:大きさは130×120×75cm、径33×15.5cmの孔を穿つ、径70×高さ2〜3cmの柱座を持つ。小型の心礎。
なお残念なことに孔の底にはセメントが残り、底の状態は観察できない。おそらく、何かの台座として使用されていた名残りと思われる。
凝灰岩製という。
 播磨山角廃寺心礎1       同         2      同          3      同          4

播磨報恩寺↑前項参照

報恩時参詣曼荼羅:報恩律寺七堂図
報恩寺参詣曼荼羅(室町末期・加古川報恩寺蔵):荒廃した堂塔の再興勧進に用いられた と推測される。
楼門の正面に本堂があり、楼門を入ったすぐ右に三重塔が描かれています。
 報恩寺参詣曼荼羅    報恩寺参詣曼荼羅部分図
 2020/10/06追加:
 ○「特別展 聖域の美ー中世寺社境内の風景-」大和文華館、2019 より
  報恩律寺七堂図:上記参詣曼荼羅と同一図、報恩寺は14世紀末に大和西大寺末となる。
○「描かれた日本の中世」下坂守、法蔵館、2003 より
 「報恩寺参詣曼荼羅」裏書、
 「播州印南□報恩律寺七堂図 永禄11年(1568)戊辰2月15日 勧進道叡」とあり、この絵の勧進僧と年紀が分かる稀有の例とされる。
 なお報恩寺文書によれば、永正2年(1505)火災により、全てが焼失いたという。
報恩寺は和銅6年(713)証賢上人の開基と伝える。
境内には隆盛を極めたころの鎌倉〜室町期の有銘の多くの石造の塔・板碑・石仏を残す。写真十三重塔は元応元年(1319)のもので(相輪は後補)、19尺(約5.64cm)、常勝寺の銘がある。
鎮守社は明治の神仏分離で平荘神社となり、東隣に現存。山角廃寺との関係ははっきりしない。
2004/09/18撮影
 播磨報恩寺本堂      同 石製十三重塔

播磨古椅鹿廃寺心礎、播磨掎鹿寺多宝塔跡

 →播磨掎鹿寺多宝塔/古椅鹿廃寺心礎

播磨普光寺

2014/02/01追加:
○「峯相記」(貞和4年/1348頃成立) より
徳治元年(1306)12月14日蓬莱山普光寺、火災により講堂、常行堂、三重塔、鐘楼、経蔵等焼失。

播磨多哥寺:多可郡多可町中区天田

○「古代寺院からみた播磨」:心礎は量興寺境内にある。伽藍配置は四天王寺式あるいは山田寺式伽藍配置と推定される。
回廊内規模:東西52m、南北60m。7世紀中葉の建立。
心礎は現存するも、心礎は元位置を動き、従って塔の位置は不明である。
 多哥廃寺心礎図
○「幻の塔を求めて西東」:心礎の大きさは250×220×120cm、径94×14cmの円穴を彫る。
○2011/05/19撮影:
現地説明碑では心礎の大きさは2.8m×2.4m、厚さ1.3mで、上面の中央には直径95cm深さ20cmの孔が穿たれるとある。
何れにせよ、播磨では最大級の、全国的にも第1級の大きさを誇る心礎である。
 播磨量興寺遠望
 播磨多哥寺心礎1     播磨多哥寺心礎2     播磨多哥寺心礎3     播磨多哥寺心礎4
 播磨多哥寺心礎5     播磨多哥寺心礎6     播磨多哥寺心礎7

播磨野村廃寺(上ノ段遺跡)

○「古代寺院からみた播磨」:播磨野村廃寺(上ノ段遺跡)
寺域東西90m、南北70m。正門は東側にあり、金堂は西寄りの最高所にある(5間・2間が身舎で、周囲1間の庇が廻る。桁行7間・梁間4間)。塔は金堂の前にある(1辺12mの基壇)。講堂は金堂の東。僧房は講堂の北。
○2005/12/11追加:「X]氏情報:西脇市郷土資料館情報:
「住宅地(茜ヶ丘)開発に伴う全面調査を行った寺院跡である。調査後、主要部(金堂跡・塔跡)は埋め戻し地下保存。
位置は茜ヶ丘集会所横の公園(グラウンド)地下になる。現地には何の案内も設置されてはいないと云う。
郷土資料館(西脇市童子山公園)で発掘当時の空中写真、出土遺物(瓦・墨書土器・塼仏・塔の相輪片など)を展示。
○2007/02/11追加:
 播磨野村廃寺塔相輪片:西脇市郷土資料館展示  播磨野村廃寺相輪片部位図
○2010/09/06追加:「西脇市文化財調査報告書第11集」西脇市教委、2002 より
 播磨野村廃寺建物配置
○2011/05/19撮影:
 播磨野村廃寺遠望:遺跡は地下保存され、地表にはグランドが広がるだけである。
 播磨野村廃寺跡:遺跡上には約1mの表土を被せると云う。(付近住民の談)
 野村廃寺塔相輪片2:西脇市郷土資料館展示
 野村廃寺金箔押塼仏:西脇市郷土資料館展示、野村廃寺出土

播磨明楽寺町推定心礎(西脇六所神社所在推定心礎)

○「播磨明楽寺の塔心礎と八角形石燈籠--付・弘安8年銘宝篋印塔」藤原良夫・鈴木武・福澤邦夫(「歴史考古学(51)」2002 所収) より
六所神社(西脇市妙楽寺町)境内に塔心礎と推定される石が残る。この推定心礎は手水鉢として加工され転用される。地名である明楽寺は遺構も由緒も不詳で、遺瓦の出土もないが、当地には「大門」「寺田」の字を残し、薬師堂の東北約90mの所に荒井山明楽寺があったといわれていると云う。しかし何れにしろ明楽寺の実体は全く分からないのが現状である。
 推定心礎は安山岩の自然石で、大きさは196×135cm高さ約75cm(見える高さは51cm)、上面平坦部に(であるからやや中央を外す位置に)径65cm深さ3〜3.5cmの浅い円孔を彫り、さらに後世の加工と思われる長径60cm短径48cm深さ20cmの円形水溜部分を穿つ。
この後世の加工で、舎利項や枘孔の有無などの詳細は不明である。
 播磨明楽寺町推定心礎実測図
○さてこの「手水鉢」が心礎かどうかという点であるが、大きさや円孔の形状などからは、心礎である可能性は非常に高いであろう。しかし、出土地や伝承などの情報が無く、また後世の彫り込み加工もあり、心礎と明確に断定するには若干の躊躇がある。
なお当論文では1状の排水溝があるとするが、雑な彫りであり果たして排水溝かどうかは分からない。単なる「傷」であるかも分からないし、溝だとしても後世の加工の可能性がある。
 なおここ明楽寺には六所神社(由来の情報なし)と神社境内に接して薬師堂・鐘楼(青嶺山奥山寺飛地境内)が残る。また薬師堂脇には古式の八角石燈籠残欠と弘安8年銘宝篋印塔残欠が残る。
2010/11/07撮影:
 播磨明楽寺町推定心礎1     播磨明楽寺町推定心礎2     播磨明楽寺町推定心礎3     播磨明楽寺町推定心礎4
 播磨明楽寺町推定心礎5     播磨明楽寺町推定心礎6
 播磨明楽寺町薬師堂        播磨明楽寺町薬師堂鐘楼
 播磨明楽寺町薬師堂遺物:右は石燈籠残欠、左は宝篋印塔残欠
なお、塔心礎付近に2個(1個は不確実)、六所神社礎石の2個の古代の柱礎石が残る。

播磨道脇寺:兵庫県多可郡八千代町中野間
白雉2年(651)法道仙人開基と云う。天正3年(1575)別所重棟の野間城(有田氏あるいは在田氏)攻め・落城の際に道脇寺は延焼し、
西之坊が浄土信仰により、極楽寺として法灯を継ぐと云う。伊世輪寺、伊勢和寺とも称されたと云われる。
享保年間(1719〜1724)現在地に再建。江戸期黒印12石を受く。
 竹谷山道脇寺往古伽藍之図1:室町末期、極楽寺蔵:「社寺境内図資料集成」より
   同              2:同上:かっては三重塔が存在したと思われ る。
  本図は道脇寺参詣曼荼羅とも称す。紙本着色、169×121cm、極楽寺蔵。天正3年以前の伽藍を描く。
極楽寺は、中世、当地を支配した有田氏を檀越とし、有田氏寄進と思われる「六道絵」「当麻曼荼羅」「釈迦涅槃図」「千手観音二十八部衆像」などを蔵する。また寺蔵「伊勢和山中興図」には享保4年(1719)から同7年の極楽寺本堂普請の様子が描かれていると云う。

播磨広渡廃寺:(史蹟) (播磨土橋廃寺)

昭和48-50年に発掘調査を実施。加古川左岸段丘上に位置する。現在は歴史公園として整備される。
廻廊内に東西両塔があり、薬師寺式伽藍配置をとる。
ただし回廊は講堂及び金堂に取り付かず、北門取り付き、この点では特異な伽藍配置である。
東西両塔とも基壇化粧は丸い川原石を積んだ乱石積みであり、一辺10mを測る。(基壇も復原される。)
西塔心礎は以前は小野市役所あるいは市民会館前にあったと云うが、今は現地に戻され復原基壇上にある。
当廃寺は7世紀末に建立され、平安期末に廃絶し、本尊は浄土寺薬師堂本尊として遷座したと云う。(「浄土寺縁起」)
心礎の大きさは2.2m×1.45m×82cmで、径70cm、深さ17cmの孔が穿孔される。(「日本の木造塔跡」)
なおかなり精巧なスケール1/20の小伽藍模型(セラミック製模型)が屋外に設置される。
西塔跡5は現地説明板を撮影。
また現地には、史蹟の整備に加え、史蹟とはいえ廃寺跡にしては珍しく立派な「ガイダンスホール」があり、廃寺の説明・発掘の様子・発掘瓦等が展示される。
 広渡廃寺両塔復元基壇     同    両塔模型1     同         2     同      伽藍配置     同      伽藍模型
   同       西塔跡1     同         2      同        3     同          4     同          5
    同       東塔跡1     同         2      同         3
    同      西塔模型     同      東塔模型
○2010/08/12追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
加東郡大部村土橋の俚俗「広渡寺山」と云う松林中にある。長く荒れた松林であったが近年は次第に開墾の手が入りつつある。
礎石は搬出されたのか全く見当たらないが崩壊した土壇が3箇所残る。また古瓦が多く散布する。
松林の西南の地にやや崩れた方形の土壇がある。(一辺約10m高さ約80cm。)表面には凹窪があり、これは古老の言によれば、明治18年に巨大な伽藍石が発掘された跡で、この巨石は社警察署小野派出所に運ばれたと云う。(現存)これは塔土壇であろう。
塔土壇東北に崩れた土壇がありこれは金堂跡であろう。さらに金堂跡真北約38mにも崩れた土壇があり、これは講堂跡であろう。
また金堂跡中心から西に約60mの所に幅約5m、高さ約50cmの土塁が南北に約74m走る。この土塁は北で直角に約40m東行し消滅する。
心礎の大きさは222×145×82cmで、径70cm深さ17cmの円穴を彫る。口縁部には環状溝と思われる溝が認められるが、途中が切れ、太さも不定であり、環状溝かどうかは不明。
「浄土寺縁起」(貞享丁卯年<4年1687>では「・・有廃圯之仏宇数多、・・・建久4年(1193)・・立高堂一宇・・奉安置坐像薬師如来(長4尺)此像本広渡寺之本尊也。・・・」とある。
 ※浄土寺薬師堂は建久9年(1197)上棟、この時広渡寺本尊薬師如来が安置されるも、この堂は明応7年(1498)焼失、永正14年(1517)再建、現存する。(重文)薬師堂本尊薬師如来については特に古仏との情報がなく、広渡寺本尊薬師仏は明応7年に堂とともに焼失した可能性が高いと思われる。
 播磨広渡廃寺遠望       同    西塔心礎       同 西塔心礎実測図       同     実測図
 (整備後航空写真)
○2010/08/12追加:「小野の文化財」小野市教育委員会、平成8年
 播磨広渡廃寺西塔心礎:小野市市民会館前に展示
   同      西塔跡        同      金堂跡
○2010/08/12追加:「小野市史 第4巻」小野市教委、1997 より
 播磨広渡廃寺伽藍復元
○2010/08/12追加:「播磨広渡寺廃寺跡発掘調査報告」小野市教委、1980
東塔跡について:西塔より東へ40mのところで基壇南東隅の掘込地業を検出するが、その他辺縁部は破壊を受けており、辺長など正確な規模は不明。初年度調査で西塔基壇化粧と同質の大量の栗石や、おびただしい古瓦片、一部版築土を認めたことから、東塔の存在を確認。基壇西側には階段あり(詳細不明)
 広渡廃寺西塔跡実測図     広渡廃寺西塔心礎実測図

播磨河合廃寺

現地の上月氏の田地の地下に心礎が埋まっているとされる。
昭和2年に掘り出されるも埋め戻され、再び昭和28年に発掘調査が行われる。
○「日本の木造塔跡」:一辺12mの基壇面から1.33m下に心礎が発見される。
大きさは1.9m×2.6m、高さは0.6〜0.3mで、径71.2cm深さ9〜3cmの孔があり、さらにその中央に径50cm深さ21cmの孔を穿つ。
その後、心礎は埋め戻され、現在心礎を見ることは出来ない。
現地には金堂跡とされる土壇(上に粗末な薬師堂と金堂礎石2個が残る)があり、塔はその西方40mの田地にあったと云う。このことより法隆寺式伽藍配置であったと推定される。寺院は出土瓦から白鳳期の創建とされる。
 河合廃寺金堂土壇      同    金堂礎石
  同 金堂西方田地1:金堂土壇のおよそ40〜50m地点から撮影。
  同           2:金堂土壇のおよそ100m前後の地点から撮影。但し方位の若干のズレのある可能性あり。
塔心礎実測図・昭和 28年の実測と云う。
 ▲出典は「史迹と美術」287 田岡香逸ほか「播磨国河合廃寺」からと推定される。(「古代寺院からみた播磨」から加工)▲
○2010/08/30追加:「小野市史第4巻」小野市、1997 より
塔跡の上面は削平され、詳細不明。昭和2年まで方3間高さ6尺の土壇上に礎石2個があったと云う。
心礎の大きさは2.6×1.9mの砂岩。表面に径70cm、深さ3〜9cmの浅い刳込みがあり、中央に径50cm深さ20cmの舎利孔を穿つ。
 播磨河合廃寺塔跡発掘図
○2011/09/04追加:「古代の石造相輪についての一考察」:
石造平頭は4点の破片であるが、復元すると一辺24.5cmの平面正六角形を呈する。断面は梯形で厚さ15cm、中央に径20cmの円形貫通孔を有する。
 河合廃寺石造平頭図

播磨新部大寺廃寺 :新部廃寺、大寺廃寺、仙源寺跡

寺院跡は昭和43-46年に発掘調査され、東塔・西塔・鐘楼・回廊・中門などの遺構が検出され、薬師寺式伽藍配置と確認される。
創建は白鳳期とされる。ただし現地の現状は田畑・民家・寺院であり、東塔心礎以外には何も往時を偲ぶものはない。(もっとも東塔の西方に気になる土壇があるが、実態は未確認。・・・・多分、本廃寺とは関係がないと思われる。)
○2010/08/30追加:「小野市史第4巻」小野市、1997 より
 新部大寺廃寺伽藍復元
▲地元では仙源寺跡と伝承される。東塔は一辺15mの基壇と想定される。西塔は東塔の西方25mの位置に所在。▲
△心礎2個、側柱礎数個が保存され・・△
●東塔心礎:
東塔心礎はほぼ原位置にあるとされ、今は現地の岩本氏宅の庭先にある。
 新部廃寺東塔心礎1     新部廃寺東塔心礎2     新部廃寺東塔心礎3    新部廃寺東塔心礎4    新部廃寺東塔心礎5
○「日本の木造塔跡」:東塔心礎の大きさは1.6×1.4×1.3mで中央に径45cm深さ15cmの孔を穿つ。
西塔礎石は流出し、京都、大阪から現在は岡山にあると云う。(<出所:「日本の木造塔跡」の序章の注2(p.7)>)
○2011/05/10追加:「塔婆心礎の研究」田中重久(「考古學 第十巻第五號」昭和14年 所収)
 西塔心礎:「斯波喜策氏蔵」と記載する。
○2011/08/11追加:
「播磨に於ける第四分類A種心礎について<上>」島田清(「史迹と美術八ノ三」昭和10年か 所収)
大きさは5尺5寸×5尺高さ3尺9寸、上面は平坦に削平され、径1尺5寸2分(底部径は1尺4寸8分)深さ5寸2分の円孔を穿つ。
 新部廃寺東塔心礎実測図11
○2018/01/04撮影:
 新部大寺廃寺東塔心礎11:正面は岩本泰太郎氏邸、中央松の木の下に心礎が写る。
 新部大寺廃寺東塔心礎12    新部大寺廃寺東塔心礎13    新部大寺廃寺東塔心礎14    新部大寺廃寺東塔心礎15
 新部大寺廃寺東塔心礎16    新部大寺廃寺東塔心礎17    新部大寺廃寺東塔心礎18    新部大寺廃寺東塔心礎19
 新部大寺廃寺東塔心礎20    新部大寺廃寺東塔心礎21    新部大寺廃寺東塔心礎22
●西塔心礎:
以下の記録から、明治28年頃河合村西の斯波與七郎氏邸に移され、少なくとも昭和17年頃までは斯波氏邸にあり、その後は神戸の杉浦氏庭にあると云う。更に神戸から岡山にあるとの情報もあるが不明。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、265×163×120cmで、径46×13.7cmの円穴を彫る。神戸の杉浦氏庭にある。
○2010/08/30追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
現地には大寺跡、薬師堂畑、鐘楼畑などの俗称が伝えられ、心礎2個が残る。心礎以外の明確な遺構・遺物はない。
東塔心礎は2個の伽藍石とともに岩本濱治氏邸に遺留する。土壇等は消滅するも、概ね心礎は原位置にあると推定される。
西塔心礎はこの地の北方約1km河合村西の斯波與七郎氏邸にある。もとは地籍図1126番の岩崎友吉氏邸に埋没していたとの岩本氏の証言がある。両塔間の距離はおよそ24mを測る。
地籍図1101番は薬師堂畑と俗称し、最近まで東西36m南北22mの長方形の土壇があって畑地として利用されていたと云う。金堂跡か。
なお「幻の塔を求めて西東」の西塔心礎の法量は当書からの転載と思われる。
 新部大寺廃寺東塔跡現況     新部大寺廃寺東塔心礎     心礎実測図:左東塔・右西塔     新部大寺廃寺付近地籍図
○2011/08/11追加:
「播磨に於ける第四分類A種心礎について<上>」島田清(「史迹と美術八ノ三」昭和10年か 所収)
岩村濱治郎氏邸に東塔心礎と側柱礎1個とが残存するが、その西方28間の所にあったと云う(岩村氏談)西塔心礎は40年ほど前(明治28年頃か)河合村字西村の斯波喜策氏邸に移されたという。
西塔心礎は上面8尺6寸に5尺4寸高さ4尺5寸の大きさを持つ。石英粗面岩製。しかし上部は全部が削平されているのではなく、円孔を中心とする5尺2分×5尺ほどだけが削平される。円孔は径1尺5寸3分(底部径は1尺4寸9分)深さ4尺8寸を測る。
皿に特異なのは、円孔を巡る5寸7分乃至6寸4分ほどの間は一般の平坦部より更に2,3分〜4,5分低くかつ精美に削平され、東側ではこの平坦部は礎石の縁端まで至る。
なお西南側には一条の溝を放出する細工がなされる。
 新部廃寺西塔心礎実測図11
 新部廃寺西塔心礎写真11:写真の状態が悪く、詳しい形状が殆ど分からないのは遺憾である。

播磨殿原廃寺

 →「亡失心礎」の「播磨殿原廃寺」の項

播磨繁昌廃寺

 →「亡失心礎」の「播磨繁昌廃寺」の項

播磨百代寺

「佛教考古学論攷」石田茂作に以下の記事がある。
「百代寺多宝塔、加西郡九会村繁昌、高野山真言宗、天文年中火災」
※繁昌廃寺南西200m程のところに乎疑原神社があり、隣接して百代寺・同別院が現存する。
百代寺及び乎疑原神社、百代寺及び繁昌廃寺との関係を示す情報は殆ど無い。従って以下は推測である。
乎疑原神社の祭神は大国主、少名彦、菅原道真というから、大国主・少名彦が明治維新の付会とすれば、本来の祭神は道真であり、天神社であったのであろう。百代寺は神社に隣接するから天神社別当であった可能性が非常に高い。
また神社境内から古法華石仏と並ぶ白鳳期の古仏である五尊石仏が出土したと云う。現在この石像は奈良国立博物館寄託されているが、地元民はこの石像は繁昌廃寺本尊であると云い、早く地元に帰して欲しいとの願望があると云う。
百代寺は殿原廃寺の法灯を継ぐ可能性が考えられる。
天文年中火災と云う百代寺多宝塔については明らかにする資料がない。
なおこの規模の神社にしては珍しく宮司の居宅がある、この居宅の地は社僧(寺坊)の跡地なのであろうか。傍証として神社には現在梵鐘・鐘楼が現存する。
 播磨百代寺1     播磨百代寺2     乎疑原神社鐘楼      乎疑原神社宮司邸

播磨野条廃寺(西笠原廃寺):加西市野条町86-4

▲「古代寺院からみた播磨」:昭和初期には東西70m、南北80mの範囲を土塁状様のものが方形に囲み、その中に土壇があった。薬師寺式とされる。
昭和32年に西塔?跡発掘:1辺10mの基壇を確認。8世紀中葉建立。▲
○「X」氏情報:伽藍配置を記した説明板が土壇の傍らに立っている。
△「古代洲聚落の形成と発展過程」:「下里川東岸に位置し、伽藍配置の現状をほとんど完存している。ただし心礎の出土なく・・・」
「東西70m、南北80mの回廊をめぐらし、内区に2基の塔婆が東西に並立し、中央に金堂があり、背後に講堂があったと推定される。現状では回廊・西塔址・金堂址は明らかに認められるが、東塔址・講堂址はやや明瞭を欠いている。中門址は金堂正面において低平となれるため容易に推測できるが、南大門址は認めるに至らない。・・・注目すべきは東塔と西塔址の出土瓦は質量とも顕著な差があることで、東塔址は塔婆ではなくて他の堂舎であったことも推定されるし、あるいは早くから塔は焼失し、他の堂舎が代建されていたと考えるべきか。講堂址は極めて狭長なもので、回廊に接していない。・・西塔址・金堂址には未だ礎石が残存し埋没されているものと思われる。・・ ・面白いのは西方に更に回廊があることで、東西の回廊は北方で連結されていたと推測される。西方回廊内には・・・現状ではその西端に約6mの方形土壇が明瞭に認められるのみで、瓦および礎石の一部が表れている。
 野条廃寺実測図(「古代聚落の形成と発展過程」からトレースおよび加工) △
2009/10/05追加
○「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
現存の遺阯一郭のプランは東西約63m約76mの凡そ方形を示し、これを周縁づけて幅約4m高さ約30cmの土塁が繞っている。
この中央に不正形の東西約30m南北約21m高さ約50cmの土壇(B)が残る。その南方には土饅頭形の約15m×14mの土讃(A)も残す。これ等土壇及び付近では多くの古瓦が検出される。
更にこの西方約20m付近には上に述べた土塁と同じ規模のものが約70mに亘り稍湾曲して残存する。更に少し西に径約6m高さ50cmのコンリン塚と称する土盛があり、若干の古瓦を出土する。しかし、この土塁及び塚と主要伽藍との関係は全く手掛かりがなく不明とするしか無い。
礎石は全く存しない。また文献・口碑・伝説の類も皆無である。
 播磨野条廃寺実測図2
○加西市のサイト:野条廃寺 より
 播磨野条廃寺塔基壇:西から撮影
○加西市のサイト:発掘情報 より
昭和14年頃には、付近の田畑に瓦が散布し、東西約70m、南北約80mの方形の土塁が巡り、その区画内に堂塔跡の土壇が残っていた。
昭和31年甲陽史学会によって発掘調査が実施される。調査の結果、基壇跡は一辺長9.7m、礎石の抜取痕から建物平面は方三間で一辺長5.4mの奈良期の塔基壇が判明する。
その後塔基壇は自然崩壊が進行する。そのため、平成20年12月から21年3月に確認調査を実施。
その結果、瓦は平安初頭とされる播磨国府系瓦が出土し、白鳳・奈良期の瓦は出土せず、塔の創建は平安初頭と推定される。
塔土壇は版築と判明、基壇化粧は川原石を乱石積した基壇で、その根石には小型の板石状の割石が並べられていた構造であることも判明する。またこれ等の化粧材の多くは火を受けた形跡を留める。礎石は全く残存しないが、今回の発掘で全ての礎石の根石の検出があった。
 播磨野条廃寺塔基壇2     野条廃寺西側基壇化粧     野条廃寺東側基壇化粧
なお調査後塔跡は保存のため盛土をする。
昭和18年頃、鶉野飛行場格納庫建設で伽藍全体が削平を受けるが、加西郷土文化研究会の尽力で塔基壇だけは保存される。
○読売新聞(2009年03月07日) から
 播磨野条廃寺跡
○2011/05/19廃寺跡を探すも、2009/09/29と同様に、廃寺の位置を特定できず。(未見)
○2011/09/11追加:
「野条廃寺跡:平成20・21年度国庫補助事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」加西市教育委員会編、2011 より
昭和32年の甲陽史学会の調査で検出された塔跡を再発掘する。
基壇は版築状に築かれる。基壇化粧は乱石積基壇と想定される。
基壇上では心礎及び16個の礎石抜取り跡を検出する。
 野条廃寺発掘調査区:第1・2調査地が塔跡である。      野条廃寺塔跡平面図
  ※以上により、塔跡の位置ははっきり確認できる。
 野条廃寺塔跡検出状況     野条廃寺塔基壇化粧:東側
2014/02/01撮影:
戦前にはかなりの遺構が残っていたが、戦時中の軍需工場の建設で大部が破壊されるも、中心部は郷土史家の奔走で保存されると云う。
塔(西塔)跡は昭和32年と平成20、21年に発掘され、養鶏場(現在は倒産であろうか操業はしていない)の隅に保存される。
 野条廃寺航空写真:YahooMapより、中央やや右上に塔跡は写る。
 播磨野条廃寺塔跡1     播磨野条廃寺塔跡2     播磨野条廃寺塔跡3     播磨野条廃寺塔跡4
 播磨野条廃寺塔跡5     播磨野条廃寺塔跡6     播磨野条廃寺塔跡7     播磨野条廃寺石碑:昭和39年建立。

播磨吸谷廃寺:加西市吸谷町

東に開けた浅い谷筋の中ほどに慈眼寺の小宇が残り、ここに庭石に転用された心礎をはじめとする多くの礎石が残る。心礎は薄く荒れた小礎石であるが、礎石の多くは柱座を造り出す。
吸谷廃寺の具体像は判明してはいないが、慈眼寺付近に伽藍が展開し、創建は白鳳期とされる。
2011/05/19撮影;
 播磨吹谷廃寺心礎1     播磨吹谷廃寺心礎2     播磨吹谷廃寺心礎3     播磨吹谷廃寺心礎4
 播磨吹谷廃寺心礎5     播磨吹谷廃寺心礎6
 播磨吸谷廃寺礎石1     播磨吸谷廃寺礎石2     播磨吸谷廃寺礎石3     播磨吸谷廃寺礎石4
 吸谷廃寺五輪石塔1     吸谷廃寺五輪石塔2     播磨慈眼寺堂宇
○「古代寺院からみた播磨」2002年2月 より
慈眼寺境内に心礎・礎石(柱座・地覆座をもつ30個)が庭石に転用される。伽藍配置は不明。
○「日本の木造塔跡」:心礎は160×79×30cmの大きさで、径61×11cmの円穴がある。
慈眼寺の庭石組みに礎石は転用され、柱座のある礎石16個(内10個は地覆座も持つ)とその他礎石と推定される石7個を残すが、どれが塔の礎石かはまったく分からない。
○2010/08/12追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
現在境内には江戸末期の平面3間(宝形造)の堂宇と庫裏が残る。この堂宇の柱礎は地覆座や円形柱座を持つ礎石が使用される。
また堂前には弘安6年(1283)の在銘の石造五重塔が残る。
 慈眼寺遠望: この当時、礎石は観音堂前に立てて置かれていたようである。(庭石組に利用されたのはこの後であろう)心礎は観音堂向かって左の石製五輪塔の前に写る。
 観音堂転用礎石     播磨吸谷廃寺心礎    弘安6年銘石製五重塔    播磨吸谷廃寺心礎実測図    播磨吸谷廃寺礎石実測図
○2010/08/12追加:「加西市埋蔵文化財調査報告8」加西市教委、1992
 播磨吸谷廃寺心礎実測図2    播磨吸谷廃寺礎石実測図2
推定石製露盤;
  → 播磨吸谷廃寺石造露盤:石塔の台座が石造露盤と推定される。台石のため、未確認。

播磨中西廃寺

心礎及び石造路盤などを残す。
 → 播磨中西廃寺

播磨作門寺:七種山、滋岡寺、金剛城寺

2014/01/31追加:
○「峯相記の考古学」たつの市立埋蔵文化財センター、平成24年 より
「峯相記」には七種寺と記し、法道仙人の草創と云う。推定多宝塔跡が残ると云う。
「金剛城寺略縁起」(天文3年/1534)では高麗僧恵灌の建立で法道仙人を招じると云う。
 「日本歴史地名大系 巻次29-2 兵庫県U」では
 法道仙人の創建で滋岡寺と号する。その後焼失し、行基によって再興され七種山金剛城寺と号する。
 その後衰微していた当寺を真言宗圓満寺の覚明が中興開基する。即ち慶長16年(1611)堂宇を再建し作門寺と改号する。
 江戸期には黒印4石を受ける。天保3年(1832)火災で焼失、再建はようやく大正13年に再建される。昭和3年下山する。
七種の瀧の付近の山腹には削平地が点在し、多宝塔跡と思われる削平地には礎石が残り、付近から多数の中世瓦や風招が採取される。
現在では山中には山門(元禄14年/1701建立)と七種社が残るのみである。寺院本体は幕末/明治初頭に南方山麓に下山し、昭和3年もとの金剛城寺に復号するという。
 ※当初は滋岡寺と号し、その後金剛城寺と改号し、さらに慶長6年(1601)台肪明党により作門寺と改号すると云う。
 推定多宝塔跡遺構図     推定多宝塔跡礎石     七種山作門寺概念図     多宝塔跡採取風招
2014/02/01撮影:
上記「七草山作門寺概念図」のように「推定多宝塔跡」へ到達するには「七草社」から峻嶮な山腹をほぼ同じ等高で迂回しなければならない。
七種社に向かって右に道らしき痕跡は残るも、すぐに踏跡の痕跡は消え、険しい山腹斜面を滑落しないように樹木につかまりながら、進まなければならない。ほぼ同じ等高を保つように進み、谷筋を1つ超え、2、3の岩を乗り越え、ほぼ200m弱の距離を進めば、山腹を削平した推定多宝塔跡に到達する。
あるいは鳥居下に近世坊跡があるが、そこから尾根筋左側を直登すれば到達可能かも知れないが、恐らくここも道はなく、ガレ場を樹木につかまりながら登ることになると想像できる。こちらの方がやや傾斜は緩いのかも知れないが、保障の限りではない。
 多宝塔跡はほぼ完全に残る。
塔は北東を切り崩し南西に迫り出した削平地に建つ。北東の切り崩した崖が背後なら、南西が正面であろう。
上記の「推定多宝塔遺構図」のように、前部2列の礎石はほぼ露出し、その後の一列はほぼ堆積物に埋もれた状態である。最後列一列の礎石は図にはないが、おそらくは土砂に埋もれ、確認できなかっただけで、土砂などの堆積物の下には残存するものと推定できる。礎石は土壇と思われる僅かな高まりの上に存するが、その土壇上は近世の瓦が散乱し、一部には中世と思われる瓦も認められる。この状況から多宝塔が近世まで建っていたとも考えられるが、多宝塔が退転した後、何らかの多宝塔の後身の堂宇が建っていたものとも推測される。
 露出する礎石から計測すれば、塔の初重平面規模(芯-芯)は以下の通りである。
塔1辺4m15cm(13尺7寸)、内中央間155cm(5尺1寸)、両脇間130cm(4尺3寸)、礎石は花崗岩の自然石である。
 多宝塔跡(西より撮影)1     多宝塔跡(西より撮影)2     多宝塔跡(北より撮影)      多宝塔跡(北西より
 多宝塔跡(南から撮影)      多宝塔跡(東より撮影)
 七種山多宝塔礎石1     七種山多宝塔礎石2     七種山多宝塔礎石3     七種山多宝塔礎石4
 七種山多宝塔礎石5     七種山多宝塔礎石6     多宝塔跡散乱瓦
 七種山遠望           七種山七種の瀧        七種山虹之瀧
 七種山仁王門1     七種山仁王門2     七種山仁王門3      七種山仁王門4
 昭和7年仁王像写真:昭和7年現在の金剛城寺仁王門が建立された時の写真である。仁王像は本仁王門から現仁王門に遷されると云う。
 七種山仁王門棟札:元禄7年(1701)建立棟札が残存すると云う。
 近世坊舎跡1     近世坊舎跡2     近世坊舎跡3     近世坊舎跡4
 七種山拝殿      七種山本殿
山下金剛城寺景観
 金剛城寺遠望     金剛城寺仁王門     金剛城寺本堂1     金剛城寺本堂2
 金剛城寺玄関本坊     金剛城寺阿弥陀堂     金剛城寺護摩堂
 金剛城寺石像地蔵菩薩:有銘「応永六年二月 時正」(1399)

播磨溝口廃寺

▲東西塔の心礎を残す。▲
○現地説明板では東西両塔(薬師寺式)伽藍であるとも云い、また聖徳太子が関係するという縁起も伝えられるが、一切は不明とする。
創建は出土瓦などから奈良前期と推定される。
なお古い石碑もあり、そこには聖徳太子大塔跡と表示をする。
現状は土壇の上に大心礎、小心礎と多くの礎石を残す。大心礎の円穴には水が溜まり、孔の観察はせず。
さらに円孔の廻りの石の割れ目には雑草が根を張り、強固に繁茂し、心礎が相当痛んでいると思われる。
 (これは憂うべき状態と思わる。石に根を張った雑草は手では除去できず、このままでは心礎の割れがさらに進行すると思われる。)
なお、小心礎と同じような形状と大きさで、小円穴(円筒形ではなくて、椀形(半球形))を持つ礎石が小心礎の東側にある。円孔が浅く雑でなければ心礎である可能性も考えられる。東西両塔の心礎が残されているならば、むしろ釣り合いの上からは、この<心礎>と小心礎とが対であるとも思われる。
○「日本の木造塔跡」:巨大な心礎があり、大きさは2.7×2.2mで、径89×22cmの円穴を彫り、その中央に径16×11cmの孔を穿つ。
大心礎の廻りには柱座の造出のある礎石が10個が並んでいるが、動かされていない思われる北側4個の礎石及び残存基壇の石積みとの関係から、この礎石は塔ではなくて金堂あたりの礎石であり、大心礎は後から運びこまれたものであろう 。
小さい心礎は1.5×0.97mで、径25×10cmの円孔を彫る。
同じ時期に東西両塔が有ったとするには余りに心礎の大きさが違いすぎ、無理であり、小さい方の心礎は別の寺の心礎であろう。様式上小さい心礎は奈良期であろう。
 播磨溝口廃寺石碑   同    土壇1   同    土壇2   同  土壇礎石
   同   大心礎1   同    大心礎2   同    大心礎3   同    大心礎4
   同   小心礎1   同    小心礎2   同    小心礎3   同    小心礎4
  同  枘孔付礎石   同    礎石
○2010/07/30追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
曹洞宗聖徳山円覚寺境内に遺構は残る。境内南端に方約9mの土壇があり、ここが東塔跡である。土壇上には心礎以下11個の礎石が残る。
但し、礎石は全て後世にそれらしく並べられたもので、塔平面の復元をすることは能ず。
西塔跡は既に土壇を失いその位置は正確にし得ないが、俚人の言を総合すれば、心礎は東塔跡西およそ65mの今畑となっている地点から発掘されたと云う。
 延宝7年円覚寺境内絵図:「塔之石場」(現在の東塔跡)、「鐘楼堂之石場」などと今無い鎮守廣田大明神などが描かれる。 延宝7年/1679
 溝口廃寺実測図
 溝口廃寺東塔跡     溝口廃寺東塔跡実測図     溝口廃寺東塔心礎
 溝口廃寺西塔心礎     溝口廃寺心礎実測図

播磨多田廃寺

▲東西塔の心礎を残す。▲
多田廃寺心礎(2個)は現在市川中流域・諏訪神社に置かれる。諏訪神社は全長40mの前方後円墳の横穴式石室を本殿とする。後円部に接し拝殿があり(播磨諏訪社拝殿・心礎)、その傍らに2個の心礎が積み重ねられている(播磨多田廃寺心礎1播磨多田廃寺心礎2)。
心礎は、かって各々40m間隔で遺存していた土壇に埋没していたと伝える。東西両塔が存在していたのであろう。
○「日本の木造塔跡」:
・大きい心礎は1.8m×1.7m、中央に径30cm深さ20cmの孔を穿ち、その中央に径10cm深さ5cmの舎利孔(写真には写らず)と思われる孔も ある。孔の周囲には径76cmの環状溝を彫り(幅 2.5cm)、孔と環状溝の間に10数本の放射状の溝を彫る。(また環状溝から2本?の排水溝もあると云う。)
さらに珍しく孔の縁に径約11cmの半球形の彫り込みもある。この心礎は2つに割れ、セメントで補修される。
  播磨多田廃寺心礎4      同         5     同         6     同        7
・小さい心礎(大きい心礎の上に置かれる)は1.5m×1mの大きさで、中央に径20cm深さ6cmの(荒れているためか不整形の)孔がある。
また径約75cmの環状溝がある。(これも荒れているため、明瞭には分からない。)
  播磨多田廃寺心礎8      同         9     同        10
なお、この一帯は古代の多駝里とされ、廃寺の元地は諏訪神社の北西300m(林崎池西)付近とされるが、江戸期及び大正期の農地開拓で遺跡は消滅したと 云われる。
○「古代寺院よりみた播磨」より転載:多田廃寺心礎1図       多田廃寺心礎2図
○2010/07/30追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
多田諏訪神社の西北約400mに若宮屋敷と伝えられた処があり、付近一帯は古瓦が散布し、塔心礎2個が発掘されたと云う。
寛政3年東多田村寺社明細帳(控);御除キ地の証文無御座、若宮屋敷・芝地、境内南北1丁、東西2丁
宝暦10年東多田村寺社明細帳(控);若宮屋敷・・・東西60間南北120間・御除地芝野、右は朝日山青蓮寺と申す伽藍で・・境内に堂跡4ヶ所有之・・・・ と あり、この若宮屋敷が廃寺跡であろう。(但し、大正初頭に開墾され遺構は消滅する。)
大正初頭に開墾事業に関係し付近に居住する青田氏の記憶では、心礎2個は字松ノ本1174-72番と-73番の南端中央付近に遺存した土壇中に夫々埋没していたと云う。(東塔西塔土壇と思われ、その間は約40mを測る。)またその中間付近の北方に隆起する土壇様の土盛が2箇所あったとも云う。
 多田廃寺心礎実測図
なお心礎や瓦のほか次の遺物の出土を見る。
 多田廃寺石造塔相輪残欠   石造塔相輪実測図;凝灰岩製で、外輪破片2、車幅破片1、内輪破片3の出土を見る。竹中性達氏蔵。
 多田廃寺青銅製宝珠:大正3年の開墾で東塔付近から出土(東京帝室博物館蔵)
○2011/09/04追加:「古代の石造相輪についての一考察」:
凝灰岩製石造宝輪の外輪破片2、車輻破片1、内輪破片3が出土、復元すると宝輪の径約70cmで中心貫通孔の径は約25cmとなる。車輻は6本持つと推定される。
 多田廃寺石造宝輪図

播磨市之郷廃寺

○山陽線沿北に薬師堂があり、心礎はその敷地内に置かれる。現在付近は準工業地区のような様相であるが、(以下現地案内板)もと心礎は現在位置の南南東約30mにあり、昭和33年鉄道用地となり、現在地に薬師堂とともに移転されたと云う。
○「日本の木造塔跡」:山陽線の南にあり、土壇様の北に薬師堂があり、土壇様の中央に心礎があったとする。
心礎は1.7×1.1mで微かに柱座の造り出しがあり、中央に径37cm深さ8cmの舎利孔がある。
○2002/01/20撮影:
薬師堂は付近の開発には関係なく、今も信仰の対象であり、常にお参りの人がいると思われる。なお市之郷廃寺は白鳳期の創建とされる。
 市之郷廃寺心礎1       同         2      同         3      市之郷薬師堂
○2014/01/09撮影:
近年、山陽線は高架となり、付近の景観は一変するも、薬師堂及び心礎は従来の位置に無事存在する。
 市之郷廃寺心礎11     市之郷廃寺心礎12     市之郷廃寺心礎13     市之郷廃寺心礎14
 市之郷廃寺心礎15     市之郷廃寺心礎16     市之郷廃寺心礎17     市之郷薬師堂2
△寛延3年(1750)三木東水の「播州続古所拾遺」:「下市の郷村薬師堂、村より南、これは古へ牛堂山(国分寺のこと)七堂からんの時の西の門と云、今此処を築地の内と云、此少し西南に塔の峰と云所有、からんの時塔の堂有云々、今に石場の石布目の古瓦あり、秀吉公之時分は此処に日光坊月光坊といふ又東蔵坊といふ山伏住すと云々、秀吉此処へ御出の時右山伏出不申候、右此処やき打にあひ退転すと云、今山伏塚三つあり。」
現状況は線路の南側に東西13m、南北22m、高さ2mの矩形土壇1個が残存し、壇上には北隅に1間1面の薬師堂があるのみで、前に心礎が置かれ、数本の老松や柳・藤が生え、古瓦が散乱している・・・この土壇が塔の峰であるとは推定できるが、その他に地名は全く忘れ去られている・・・・△
△天川友親「播陽里翁説」宝暦8年:牛堂(国分寺)の南大門二階堂(地名)の薬師は七仏薬師の内也。・・・」
牛堂山国分寺縁起「南大門は本堂より20町先の下の二階堂と云う所也、本尊薬師如来也、長廻鐘有りと云」
 ※以上の2文献は意味不明なるも、市之郷薬師堂は播磨国分寺が拡大解釈され南大門と位置付けられていたとも思われる。
宝暦頃までは廻廊(址)などを残していたようです。
しかしながら大正末から昭和10年にいたる煉瓦工場の土採りで、薬師堂土壇を除きまったく遺構は消滅したと云う。
なお心礎は薬師堂土壇の西北2間ばかり離れたところで出土したと伝えられると云う。△
 市之郷廃寺心礎図:「古代寺院よりみた播磨」より転載
○2008/10/05追加:「市之郷廃寺 現地説明会資料」兵庫県立考古博物館、2008/09/06 及び 新聞記事 より
2008年の発掘調査で仏堂跡を検出。この仏堂位置は想定される寺域のほぼ中央の一角を占め、またこの位置は昭和32年まで薬師堂が建っていた土壇の下に相当する。仏堂跡土壇の上面および東側は後世に削平・攪乱を受けるも、東西20m強、南北16m以上、高さ0.60.6m程度の基壇が残り、礎石残欠1個と礎石抜き取り穴4箇所を発掘。基壇化粧は瓦積と思われるも不明。
瓦は飛鳥、奈良前後期、平安前期と思われるものが出土した。また、南端の調査区から相輪の水煙片(青銅製品)が出土すると報道される。
なお、引き続き東区の調査が行われる予定と云う。「播磨上代寺院址の研究」昭和17年では、山陽鉄道の南に土壇があり、その上に薬師堂があり堂の傍に塔心礎が置かれていたと云う。
昭和32年の山陽線拡張で土壇は削平され、薬師堂と心礎は現在の位置に移転する。
 市之郷廃寺発掘平面図      市之郷廃寺仏堂平面図      市之郷廃寺出土水煙片
○2010/08/30追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
山陽線姫路駅東約1.5kmの線路脇南に孤松の生えている所が遺構である。ここには東西約27m南北約19m高さ70〜150cmの土壇が残り、その上に小宇(薬師堂と礼堂)及び心礎がある。地籍図の「1018堂」がそれであり、その南の「1018ノ1山」の地番は現在は畑であるが、地番「山」が表すように元は土壇(山野)であり、土地所有者の言によれば、高さ約1mの方形の土壇があり、ここに伽藍石(心礎)が埋没していたと云う。その後鉄道敷設の時、付近の地とともに土採りに遭い跡地は耕地に引き均され、心礎は薬師堂前の現位置に置かれたと云う。
 市之郷廃寺現況:西南より     市之郷廃寺心礎22     市之郷廃寺付近地籍図     市之郷廃寺心礎実測図2
2014/01/08追加:
○「ひょうごの遺跡 69号」兵庫県立考古博物館、平成20年11月
「ものつくり大学」整備のために発掘を行う。山陽線が高架化される前には山陽線が走っていた場所である。
 出土鴟尾片/水煙片1
○「共同通信 配信記事」平成20年(2008)/08/06 20:03
土壇(東西約20メートル以上、南北約16メートル、高さ約0・6メートル)を発掘、飛鳥・奈良・平安期の瓦数万点を発掘。礎石破片1個と礎石抜き取り穴を確認。また鴟尾片と水煙片も発掘する。おそらくは本土壇は金堂跡である可能性が高いと判断される。
 出土鴟尾片/水煙片2

播磨見野廃寺心礎:在姫路文学館

 →「亡失心礎」の「播磨見野廃寺」の項 、現在は姫路文学館にある。

播磨白国廃寺(附録:播磨隋願寺 並びに 播磨廣峯牛頭天王

2009/09/29撮影 :
弁天池中に弁財天社の祠を乗せた「島」が現存する。この島は下に掲載の「播磨上代寺院阯の研究」から判断して、この付近に建立された古代寺院の塔跡の可能性が高いと思われる。 否、土壇及び礎石の残存並びに「塔の阯」との伝承からほぼ塔跡に間違いないであろうと思われる。
 播磨白国廃寺塔跡1     播磨白国廃寺塔跡2     播磨白国廃寺塔跡3
池中の土壇は円形の石積であったが、現在は方形のコンクリートで護岸される。
写真及び航空写真で分かるように池中の島には橋が架かるも、今は堤防とは切断され、島に立ち入ることはできない。
従って4個遺存すると云う伽藍石を見ることはできない。島にある弁財天祠は現存する。
2014/01/09撮影:
池中の島に立入ることはできず、従って島の下からの観察では、もちろん土壇及び礎石の残存などの確認はできず、塔跡あるいは伽藍跡の確証は得られない。
 播磨白国廃寺塔跡11    播磨白国廃寺塔跡12     播磨白国廃寺塔跡13     播磨白国廃寺塔跡14
 播磨白国廃寺塔跡15    播磨白国廃寺塔跡16     播磨白国廃寺塔跡17     播磨白国廃寺塔跡18
○「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
 白国廃寺:
白国の南方に弁天池(白国池)があり、池中に土壇が残る。土壇は東西約5m・南北約6m・現在の高さ約2mで、周囲は積石されていて、檀上に弁財天の小祠がある。さらに壇上および檀下付近に火中した伽藍石が4個遺存する。俚俗ではこの土壇を「塔の阯」と呼ぶと云う(長田亀松氏の言)。
白国池(土檀)を含む西方・南方は池と同一の台地にあり、かつここには疎らながら古瓦を出土する。
出土古瓦の文様は残欠ではあるが奈良末期の様相を呈する。ここに古代寺院が営まれたことは確実であろう。
 播磨白国廃寺土壇:南から撮影、戦前、土壇は円形に積石され、付近は一面の田畑であった。
 播磨白国廃寺地籍図:池中の土壇を含む点線の円付近が寺址と推定される。
 播磨白国廃寺付近地図:寺院推定地は小学校・幼稚園・宅地に変貌し、戦前の面影はない。
 播磨白国廃寺航空写真:上の地図及び写真はGoogle地図
更に白国の地名は「新羅訓(シラクニ)であり、これは新羅人がこの地に宿したことに因る」(風土記)とあり、この地には渡来人が住し、この寺院の創建に関与した可能性が考えられる。
但し、想定される寺院跡地は現在、田畑であり池であり顕著な旧規を偲ぶものはない。
さてこの寺院跡については以下の史料がある。
「峯相記」には「白國山麓龜井寺有 是山陰中納言・・・安和年中炎上、後再興ナシ」とあり、中世には白國山麓に亀井寺があったことが知られる。
 ※「峯相記」は貞和4年(1348)頃成立。書名は峯相山鶏足寺の山号による。
近世(江戸期)の地誌類には以下のように記される。
「名所拾録」(元禄5年)では「亀井寺旧跡・・・峯相記に見えたり。白國の地今池となる」
「播州續古所拾考」では「同村(白国村)龜井寺跡 村より5町西の方。・・・この他龜井寺堂塔跡は同村大地(池?)の内。等(東か)西4方(間?)南北3間4尺の芝地残。」
「播磨諸所随筆」では「龜井寺跡 芝地あり同村(白国村)より5町西の方。大池の内。4間四方。」
「播磨古跡便覧」(寛延3年)では「龜井寺旧跡 国衙庄白国村に跡あり、山陰中納言の愛子の開基。峯相記に見えたり。」
「播磨鑑」では「龜井寺 国衙庄白国村に有寺跡。今に布目の古瓦あり。村より5町酉の方。堂塔の跡は同村大地(池か)の□(内か)。東西4間南北3間4尺の芝地残る。」
「村翁夜話集」では「大池の内、空地右は龜居寺塔之跡と申伝候。」
即ち白国廃寺は伝承の通り亀井寺跡であると見て差し支えないであろう。また堂塔の跡として芝地(方4間・7m内外)が大池の中に残っていることが知られる。
但し古代寺院である白国廃寺が亀井寺に繫るのか、古代寺院跡に亀井寺が建立されたのかは良く分からない。
 ※白国廃寺西約500mに北平野廃寺がある。また白国廃寺の北の山塊は廣峯山であり牛頭天王が祀られ、北東には増位山が迫り隋願寺がある。
2014/01/09撮影:
○「日本歴史地名大系 巻次29−2 兵庫県U」 より
白国は廣峰山東南麓および増位山南録に位置する。「播磨國風土記」に「新羅訓(しらくに)村」とあり、村名の由来は新羅の国の人が来朝し、この村に宿ったことによると云う。中世から白国の名が史料に見える。
○「播磨國風土記」:
 「枚野の里。新羅訓の村・筥村。右、枚野と称ふは、昔、小野たりき。故れ枚野と号く。新良訓と号くる所以は、昔、新羅の國の人、来朝ける時に、この村に宿りき。故れ、新羅訓と号く、山の名も亦同じ。 」
○白国大明神:この地に鎮座する。由緒や縁起類ではこの種の社の例に漏れず国家神道丸出しの荒唐無稽の話(景行天応の曾孫の創建)を説くが、「特選神名牒」でいう「新羅人の祖神を祀るべし」とあるのが妥当な説であろう。蓋し、地名や同地に存在する古代寺院の存在や背後の広峰山の創建にも新羅との関係が濃厚なことを考慮すれば当然であろう。もとより「延喜式神名帳」の「白国の神社」に比定されるのは確たる証拠は無く、これも例のごとく復古神道家や国学者の単なる付会にしかすぎないであろう。
 古代、新羅人がこの地に定住し、古代寺院(白国廃寺・龜井寺)を造営し、広峰山の祭祀の根源にも新羅と云う國の脅威があると云い、さらに少し西には新羅人の創建とされる峯相山鶏足寺が存在するなどを考慮すれば、この地は日本における新羅の故地であったのであろう。
案外、近世で云う「白峰大明神」、明治維新後に云う「白国神社」とは、その位置関係から、古代寺院(白国廃寺・龜井寺)の鎮守であったのかも知れない。この際、もちろん祭神は新羅の祖神であったのであろう。
 播磨白国大明神随身門
 播磨白国大明神社殿:随身門はまだしも近年の流行仏や商売第一主義の寺院建築と同様の佇まいである。
○2014/01/22追加:
この地「白国」については、【播磨廣峯社「峯相記」縁起、播磨新羅訓の意味、峯相山鶏足寺「峯相記」縁起】を参照。


○附録:増位山随願寺
厩戸皇子(聖徳太子)が高麗僧慧便に命じ、増位寺を開基し、後に行基が中興する。 ※ただし、創建場所は不詳。
当初法相宗であったが、承和元年(834)天台宗となる。(乾元元年・1302「播州増位山随願寺集記」)
播磨天台六山(書寫山圓教寺、増位山随願寺、八徳山八葉寺、蓬莱山普光寺、法華山一乗寺、妙徳山神積寺)の一つとして大いに隆盛する。
金堂、講堂、法華三昧堂、常行三昧堂、食堂、毘沙門天堂などと伊勢、山王、白山など7神70社が存在すると伝える。
天正元年(1753)別所長治によって攻略され、全山焼失と云う。
近世初頭には姫路城主榊原忠次が菩提寺となし、伽藍を復興する。近世は寺領500石を有し、この期も30坊を数えると云う。
平成21年江戸期の建築ながら、以下5棟が重文指定になる。
 増位山絵図:播州名所巡覧図絵
・本堂(附:厨子、鬼瓦):桁行7間梁間9間、入母屋造本瓦葺。元禄5年(1692)の大鬼瓦銘がある。
唐様を用いる。
 播磨隋願寺本堂1       同       2       同       3
・経堂(附:石碑):3間×6間、平面は礼堂と正堂とを並べた撞木造。
 播磨隋願寺経堂1       同       2
・鐘楼:享保3年(1718)の瓦銘、3間×2間、入母屋造本瓦葺。
 播磨隋願寺鐘楼1       同       2
・開山堂(附:厨子):3間×3間、寛永18年(1641)と承応3年(1654)の墨書がある。屋根本瓦葺。
宝暦11年(1761)、同13年の銘がある。
 播磨隋願寺開山堂1       同        2
・唐門:榊原忠次墓所唐門、享保16年(1731)の瓦銘がある。屋根本瓦葺。
 播磨隋願寺唐門1       同       2
  ※榊原忠次墓所唐門で、重文。碑文は約3000文字の長文で忠次の生立ち、館林・白河・姫路時代の業績などを記すと云う。
   なお忠次は館林藩主の時、寛永13年<1637>上野板倉宝福寺三重塔の修造をなす。
 常行堂(念仏堂):屋根修理中であるも、おそらく資金不足で難渋と思われる。
 隋願寺推定坊舎跡;旧参道付近にある。

附録:廣峯牛頭天王(廣峯山) → 山城祇園感神院中「廣峰牛頭天王

播磨北平野廃寺心礎(播磨平野廃寺):在姫路船場本徳寺

 →「亡失心礎」の「播磨北平野廃寺」の項

播磨辻井廃寺(今宿)

▲塔の心礎のみを残す。寺域は方200mを想定。▲
△・・最近まで土壇があったが今や全く滅んだ。・・△
今宿(辻井)廃寺跡(「古代聚落の形成と発展過程」から加工・転載)・・・左が西塔址。
昭和9年頃には土壇および四天柱礎など10個の礎石があったと云う。現在は耕作地の中に、心礎のみ残る。その字名は西藤の本(塔の本)と称すると云う。
○「兵庫県史 考古資料編」:心礎は原位置を保つ、創建は奈良後期で平安末期まで存続したと推定。金堂跡は不明、塔北西に講堂跡と推定される礎石建物跡を検出。
○「日本の木造塔跡」;2,2×1.6×1mの大きさで、長径の1/3辺りにやや深い切込がある。切込を外した上面の中央付近に径40×12/10cmの円孔があり、さらに中央に径12×3.3cmの半球状の舎利孔がある。(※今回実見 せず。)また孔から長さ約60cmの一条の排水溝と思われる溝が走る。
○「幻の塔を求めて西東」:253×182×100cm、円柱孔は径41×12/10cm。舎利孔の存在の記載はない。
「昭和十年頃までは六間四方の草地であった。里道を農道に広げる時、草地の土を利用するため掘り起こした際発見された。」
なお、廃寺の礎石数個が「名古山」に移設されて現存すると云う。
 播磨辻井廃寺心礎1    同        2    同        3    同        4    同        5
   同        6    同        7    同        8    同        9    同       10
  同    心礎図:「古代寺院よりみた播磨」より転載
○2010/07/30追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
辻井集落に東トウノモト、西トウノモトと云うところがある。東藤ノ本には礎石を失った土壇が一箇所あり、西藤ノ本には心礎及び数個の礎石が遺存し、付近からは多くの古瓦の出土を見る。東藤ノ本の土壇は現状方約4m高さ約1mの残す。西藤ノ本には黒田氏によれば昭和9年春ころまで方約7m高さ約1mの土壇があり、心礎・四天柱礎・側柱礎が雑草に蔽われていたと云う。その後土壇は破壊されて農道の改修に使われ、礎石のみ遺存する状態となる。
 辻井廃寺西トウノモト現状:巨石が心礎であり、その前に立てかけてある円孔のある石は石造容器で、蔵骨器などを入れた石造容器と推測されるが、出土地点や出土状況が不明で その性格は良く分からない。大きさは径79cm、高さ45cmで表面は削平される。中央に径26cm深さ24cmの形状が碗形の円孔を穿つ。
 辻井廃寺付近地籍図     辻井廃寺西塔心礎     辻井廃寺西塔心礎実測図
○辻井廃寺東に名古山霊園があり、ここにはパゴタがある。その麓には辻井廃寺の礎石3個が搬入、展示される(解説板あり)。
2014/01/09撮影:
「半球状の舎利孔」は今回も実見せず。
 播磨辻井廃寺心礎11    播磨辻井廃寺心礎12    播磨辻井廃寺心礎13    播磨辻井廃寺心礎14    播磨辻井廃寺心礎15
 播磨辻井廃寺心礎16    播磨辻井廃寺心礎17    播磨辻井廃寺心礎18    播磨辻井廃寺心礎19    辻井廃寺僧坊跡石碑
以下は名古屋霊園(「名古山霊園平面図」)に移設されている辻井廃寺礎石。
但し現地の説明版では3個の礎石を移設とあるが4個ある。またどの遺構から出土したのかは明確でない。
 播磨辻井廃寺礎石1     播磨辻井廃寺礎石2     播磨辻井廃寺礎石3

播磨書寫山圓教寺(書写山円教寺)五重塔・多宝塔

 →播磨書写山

播磨峯相山鶏足寺

峰相山鶏足寺古蹟由来(開山堂横にある石碑)では以下のように述べる。
 峰相山と云うは東西両嶺相合う峰の様子から云う。鶏足寺と言うは釈迦十大弟子の迦業が入定した印度伽耶城の東西鶏足山に似ている処からで西峰の主峰は250mにして風早嶺と称し梢下に神岩大黒岩と名付くる奇岩等多く現出す。
 神功皇后三韓へ派兵の砌り新羅の王子を伴い帰朝す皇后帰洛の途次当国播磨に王子を留め給う王子此の山に草庵を結び十一面観世音菩薩を祭祀給うこれ即ち峰相山鶏足寺の起りなり。その後宮中にまで鈴声聞こえ錦繍金玉二丈五尺の幡降り下る斯くして奇瑞興り大いに発興す。
 即ち奈良朝には金堂講堂法華堂常行堂五大尊堂一切経堂鐘楼勧請神堂五重塔三重塔宝蔵及び僧房300余等々広壮なる寺観を誇る。平安初期より衰微の兆見え天正6年8月10日小寺氏により堂舎悉く焼亡さる。
 然して現在は堂塔伽藍の跡礎石若干残すのみ。尚竜野市誉田町井上の観音像は当焼亡の際難を免れし御本尊と推定される。当寺の縁起由来については峰相記/播磨風土記/播磨名所図絵等に詳述してある。

 ※「峯相記」(貞和4年/1348頃成立)による鶏足寺縁起は【新羅王子が開いた峯相山鶏足寺】を参照(2014/01/22追加)
2014/01/31追加:
峯相記に記す鶏足寺縁起は上記のリンク中にあるが、重複して記せば、以下の通りである。
 神功皇后三韓ノ異国ヲ攻メ給ニシ時、新羅國ノ質子王子ヲ取リ帰給ヘリ、王子云ク、渡海間、風波ノ難ナク日域ニ付給ハ、一伽藍ヲ建立セント、皇后仏法ノ是非ヲ知給ハネハ、分明ノ勅答ナカリキ、筑紫ニテ皇子降誕ノ後、帰洛ノ時、尚西戎ヲ怖レ給フ故ニ副将軍男貴尊ヲ当國留置給シニ、被王子ヲ預ケ奉ラル、王子当山ニ挙登リ、草庵ヲ結テ、一心ニ千手陀羅尼ヲ誦シ給フ、数百年ヲ経給ヘリ、敏達天皇御宇十年、野斤沢構ヲ加ヘ、越斧潤飾ヲソヘテ、一堂ヲ建立シテ王子入滅畢、王子暗誦行法御願ノ法咒師是也、国衙ノ祈祷トシテ今ニ絶ヘス、
 其後十八年ノ中秋十八日、空中ノ側ッ鈴音ヲ聞テ、同二十三日、日中ニ長二丈五尺ノ幡、寺ノ庭ニ降下ル、錦繍金玉粧也、懸ル所ノ鈴音スマシク妙也、其銘云、温州金光明会所造云々

 仲哀9年(200):神功皇后三韓ノ異国ヲ攻メ給ニシ時、新羅國ノ質子王子ヲ取リ帰給ヘリ
 敏達10年(581:敏達天皇御宇十年、野斤沢構ヲ加ヘ、越斧潤飾ヲソヘテ、一堂ヲ建立シテ王子入滅畢
 神護景雲の頃(767-):金堂、講堂、法華堂、常行堂、五大尊堂、鐘楼、一切経蔵、九所の社壇、五重と三重の2基の塔、宝蔵などが建ち並ぶ大伽藍で、僧侶の起居する≫建物も300余、別院は太市の観音寺、根本寺、寺門塔谷、馬山瓦屋等があった。(以上2014/01/31追加)
蓋し、「峯相記は峰相山鶏足寺の寺伝を伝える唯一の文献である と云う。その他、峯相山には以下の情報がある。
峰相山には中世空也や書写山性空の来山があったと伝える。
 2014/01/31追加追加:
 延長2年(924)12月2日空也上人、鶏足寺に金泥の法華経を施入。
 永延年中(987-)性空上人、鶏足寺に法華経を施入。
 貞和の頃(1344-)鶏足寺は法華堂と常行堂の2堂、勧請神一社、僧坊六、七坊残れりと云うまでに衰退。
峰相山中には多くの伽藍平坦地・石垣・礎石などを残すと云う。
昭和53年峰相山鶏足寺は峰相山東麓にある太陽公園の内に再興される。
2014/01/09撮影:
 峯相山想像復元図:現地の平坦地○1に 掲示されている図を撮影。「木内内則作、2012年」とある。
 峯相山概要図:「平成24年姫路市地域夢プラン事業(太市校区編)歴史散歩」NPO法人石倉企画、平成24年 より転載。
  本図は「姫路市立城郭研究室」発行の何らかの資料に、原図があり、それを転載したものと思われるも、不明。
  なお、本図の平坦地番号は下に掲載写真の「○数字」に符合する。
岩倉側(南側)から峯相山を目指せば、山麓から順次以下の遺構が展開する。
 峯相山開山堂     峯相山開山堂内部     峯相山観音堂
 峯相山○1平坦地     峯相山○2平坦地     推定○4平坦地     推定○6平坦地
 推定○8平坦地石垣1     推定○8平坦地石垣2     推定○8平坦地石垣3     推定○9平坦地
 推定○17平坦地付近1     推定○17平坦地付近2     推定○17平坦地付近3     推定○17平坦地付近4
 推定○17平坦地付近5     推定○17平坦地付近6     推定○17平坦地付近7
 推定○18堂跡     推定○18堂跡礎石1     推定○18堂跡礎石2
 推定○19堂跡1     推定○19堂跡2     推定○19石階跡1     推定○19石階跡2
 推定○19堂跡3:石階付近より撮影      推定○19石階転落石
 推定○22平坦地祠1     推定○22平坦地祠1内部     推定○22平坦地祠2     推定○22五輪石塔など
 推定○26平坦地        推定○26平坦地土塁1       推定○26平坦地土塁2:中央水平部分
2014/01/31追加:
「峯相記の考古学」たつの市立埋蔵文化財センター、平成24年 より
 峯相山鶏足寺想像復原図:木内内則作、現地平坦地○1に掲示図の原図と思われる。
 峯相山鶏足寺概念図:木内内則作、記載した番号は上に掲載写真の「○数字」に符号する。

播磨西脇廃寺

▲心礎を残す。▲
○「日本の木造塔跡」:菅原正則氏所有の田の中にある。元は田の中央にあったが耕作の邪魔なので田の西北の隅に移すという。
心礎は1.5×1,27m、表面は削平、中央に径19×10cmの孔がある。
○「幻の塔を求めて西東」:125×115cm、径18×11cmの円孔を持つ。
心礎が忘れられた状態もしくは邪魔者扱いで放置されているだけで、詳細は不詳。
播磨西脇廃寺遠望:東南から撮影、写真中央が心礎、心礎手前の田の中が塔の建立場所であろう。
  同       心礎1       同          2        同          3        同           4
 同      心礎図:「古代寺院よりみた播磨」より転載
○2010/09/06追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
廃寺跡は耕作され一部は宅地に変わり遺構は消滅する。「塔屋敷」と俗称する1枚の田の隅に心礎が残る。田の所有者(菅原正則氏)の言によれば、心礎は「塔屋敷」の中央やや南に遺存していたが、開耕にあたり現在の場所に移したと云う。なお南側の耕田は「寺門」と呼ばれると云う。
 西脇廃寺心礎実測図
○2013/12/22撮影:
「東屋敷」(田圃)の北側は住宅であるが、その住宅主の言では、
心礎は「東屋敷」(田圃)の南側で今野菜を作っている区画(写真参照)付近にあったと聞いている。その南側の田圃(今は休耕田か)は「テラカド」と云う。(以上 住宅主の言)・・・テラカドとは寺門であろう。
 播磨西脇廃寺心礎11    播磨西脇廃寺心礎12    播磨西脇廃寺心礎13    播磨西脇廃寺心礎14
 播磨西脇廃寺心礎15    播磨西脇廃寺心礎16    播磨西脇廃寺心礎17    播磨西脇廃寺心礎18
 播磨西脇廃寺心礎19    播磨西脇廃寺心礎20    播磨西脇廃寺心礎21
 播磨西脇廃寺跡1       播磨西脇廃寺跡2
 西脇廃寺心礎出土地1     西脇廃寺心礎出土地2     西脇廃寺心礎出土地3

播磨下太田廃寺

▲四天王寺式伽藍配置と確認されている。東西約115m南北約130mの寺域。▲
心礎は1.5×1.45mの大きさで、中央に径27cm、深さ16cmの枘孔がある。現存基壇は東西10m南北7mを測る。
心礎を含め9個の礎石が元位置で残される。現薬師堂(昭和10年改築)の位置が講堂跡で、ゲートボール場(明治18年まで土壇があったとされる)が金堂跡と推定される。出土瓦は奈良前期〜後期のものと云う。なお元薬師堂(万延元年建立)が残存する。
 播磨下太田廃寺1      同       2     同       3     同       4     同 南側柱礎石     同    薬師堂
建立した氏族は摂津太田廃寺を建立した同じ渡来系氏族太田氏の建立であろうとされる。
○2006/04/19撮影:
 播磨下太田廃寺塔跡1       同           2       同           3
   同      心礎1        同         心礎2       同         心礎3       同         心礎4
   同        礎石        同        薬師堂
下太田廃寺心礎図:「古代寺院よりみた播磨」より転載
○2010/08/12追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
塔跡の北約35m付近に14×19mの平坦地が残り、薬師堂の小宇と礎石約40個が残る。また塔跡と薬師堂境内の中間に俚俗「薬師田」と証する一枚の耕田がある。ここにはやや西に偏して南北約10m東西約5m高さ約50cmの土壇の残骸が礎石を伴って存していたとの所伝がある。しかしこの土壇は明治18年頃開墾され、礎石は薬師堂境内に移されたと云う。
(最新の知見では薬師田が金堂跡、薬師堂境内が講堂跡とされるようである。)
心礎は150×145cm見える高さは24cmの大きさであり、中央に径28cm深さ16cmの枘孔を穿つ。なお子細に見れば円孔の中心から44cmのところに幅3cm深さ0.5cmの円弧状の痕跡が部分的に剥落から免れて残っている。これは直径88cmの環状溝が復元される。
 播磨下太田廃寺心礎0       同   塔阯実測図1       同 心礎など実測図       同   推定復元図
○2010/08/12追加:「兵庫県の古社寺と遺跡」武藤誠、1997 より
 下太田廃寺塔跡実測図2
○2010/08/12追加:「第3回播磨考古学研究集会資料集」大谷輝彦、1990 より
 下太田廃寺塔跡平面図     下太田廃寺平面図

播磨山田廃寺:林田町山田

2002/02/23撮影:
○現在心礎は民家の庭石に転用される。寺域は民家の東方向・約200-300mの地点と云われる。
心礎は目測で1.8m×1.1m×1m前後の自然石で、上部全部を平に加工?しているように見える。中心に径20〜25cmの孔を穿孔する。
寺院の創建は奈良期と想定される。
林田町山田は林田の主邑のさらに奥に位置し、北東南の三方の山に抱かれ、西は林田川が南流する狭い盆地状の地にある。おそらく古代から近世まで殆ど変わらない小規模な生産力をもった地であったのだろうと推測される。
 播磨山田廃寺心礎1      播磨山田廃寺心礎2      播磨山田廃寺心礎3      播磨山田廃寺心礎4
○「幻の塔を求めて西東」:170×100×65cm、円孔は径24×8cm。奈良後期。
 播磨山田廃寺心礎図:「古代寺院よりみた播磨」より転載
2013/12/22撮影:
心礎は現在、林田町山田の段氏邸の庭石となる。その他の詳しい情報は皆無である。
心礎の大きさは170×110cm高さ65cmであり、表面に径25cm深さ6cmの円孔を穿つ。(実測)
 播磨山田廃寺心礎11    播磨山田廃寺心礎12    播磨山田廃寺心礎13    播磨山田廃寺心礎14    播磨山田廃寺心礎15
 播磨山田廃寺心礎16    播磨山田廃寺心礎17    播磨山田廃寺心礎18    播磨山田廃寺心礎19
2014/05/14追加:
○サイト:「姫路わが街ガイド」>「地域資源」>「山田廃寺の塔心礎」 に以下の情報がある。
 段氏邸は松山城の南麓にある。「この塔心礎は大正12〜13年頃、池の修理中に堤防の中から見つかった。また多くの瓦や、径3cm以上もある太い丸柱も出土した。その文様から奈良時代のものと考えられる。」とある。
 本サイトの地図では「山田廃寺の塔心礎」は次の地図で表記したところを指し示す。ここは池の堤防ではないが、あるいはかってはここも池であったのであろうか、それとも本サイトの地図が不正確なのであろうか。
 山田廃寺の塔心礎位置図
(地図の精度については因みに平野廃寺跡、見野廃寺塔土壇、市之郷廃寺心礎、辻井廃寺心礎の位置はいずれも正確に示すので、本サイトの位置情報は正確といえるのであろう。)
地図が正確として、念の為Yahooの写真情報を見ると、山田廃寺の塔心礎と指すところは不整形な荒地のような様子であり、かってはここが池であったあるいは山田廃寺跡であるのも知れないが、これ以上詳しいことは分からない。
なお、ここが池でないとすれば、付近には蓮池、堂山池、赤坂池の三つがある。蓮池か堂山池いずれかであろうが、どの池の堤防から出土したのかは分からない。
 心礎位置不附近の様子;Yahoo地図

播磨中井廃寺

心礎及び石製露盤を遺す。
心礎及び石製露盤は中井廃寺跡土壇に建つ観音堂西隣の山村氏邸にある。
 → 播磨中井廃寺

播磨千本屋廃寺

▲1976-78年の発掘調査で塔・金堂・講堂・築地・南門の遺構を確認。南門、金堂、講堂に中軸線が通り、塔は金堂東に配置。出土瓦より8世紀前半に創建され10世紀後半まで存続したと推定される。▲
○「X」氏情報:塔跡と比定出来る薬師堂の土壇が確認できる。
2010/08/20追加:
○「播磨千本屋廃寺跡」山崎町教委、1982 より
現状東西13m南北6.5mの土壇を残すが南へ延びていた可能性が考えられる。上面に薬師堂が建っており詳細不明。
 ※薬師堂土壇は塔跡の可能性があるが、塔跡と断定できる遺構・遺物の発見はなし。
 播磨千本屋廃寺遺構図:発掘するも、建物跡は削平を受け、建物規模などは不詳。
2013/12/22撮影:
薬師堂は土壇上にあり東面するが、薬師堂左右に2個の礎石と推定される石が残る。向かって右の推定礎石(北側礎石)はおよそ75×75cm、左(南側礎石)はおよそ75×65cmの大きさである。
なお、千本屋廃寺石碑側面にはおよそ以下のように刻まれる。
「幻の千本屋廃寺」跡としてごく一部の古老の間に伝承される。昭和52年から54年までの3次の発掘調査で薬師堂付近にその存在が確認される。
 薬師堂(南より撮影)    薬師堂(東より撮影)     薬師堂内部     千本屋廃寺石碑
 推定南側礎石        推定北側礎石

播磨香山廃寺:新宮町香山

心礎を残す。詳細不明。
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、大きさの記載なし、円柱孔は30×24cm、円柱孔中心で幅11.5cmと浅く彫ってある心礎の上に石碑がある。・・・一部意味不明?
2010/08/20追加:
○「香山」新宮町教委、1987 より
 播磨香山廃寺平面図:網目は瓦の密集する地点
2013/12/22撮影:
 ◎心礎(台石):大きさは110×85cm高さ50cm、表面は削平されていると思われる。しかし、上に碑があるため、心礎としてどのような加工がなされているのか全く不明である。
 ※上掲の「幻の塔を求めて西東」では一重円孔式とし、円孔の法量の記載がある。(何れかの資料によるものと思われるも資料名は不明。)
心礎であるならば、大きさがやや小さいので、周囲が割られているものと推測される。
 ◎現地案内板:以下の趣旨の記載がある:
香山廃寺は奈良から平安期の寺院跡である。寺域内には薬師堂土壇が残る。土壇内の記念碑には心礎が台石として転用される。また土壇周辺の水田には古瓦の散布を見る。昭和68-59に圃場整備に伴う発掘調査が行われ、土壇を中心に東西84m南北88mの寺域が確認される。
なお後世ここには霊泉が湧き、湯屋を作り薬師湯として賑わうと云う。

 ※土壇内記念碑の台石(心礎)側面には昭和31年建議の薬師湯建設委員会発起人名簿の銅板が嵌められている。
 ◎石碑:心礎上に建つ石碑には「薬師堂盛衰記」とあり、殆ど判読できないが、判読できた文字は以下の通りである。
  薬師堂盛衰記
 堂者鎮守大歳神社之艮位○○其/本地佛也○・・・・・・・・・/○古井清○之○・・・・・・以
 昭和廿二年八月○・・稟議・・/之堂○○三○・・・・・・多比/郡○・・・・・・・・・・・○
 布香山○・・・・・・・・・○/湯不○・・・・・・・・・・○/
   昭和廿三年○・・・・・
    ○・・・・・・・・・書
断片的にしか分からないが、(薬師佛は)西南にある大歳明神(神社)の本地佛であるらしい。そして昭和22年に堂の再建?が稟議され、昭和23年にこの碑が建立されたようである。
 ◎薬師堂再建の石碑:さらにもう一つの石碑があり、
ここには以下のように記す。
  薬師堂再建之記
 災害に依り焼けし薬師堂再/建之為香山部落民一同/懇志浄財を出資し協議/
 に及ぶ所 ○山下二階堂/両氏 先祖之思を謝し浄/財を寄せらる/為に此処に記録而懇意を/謝す
    昭和五十年十二月
     香山薬師再建委員会
  八拾萬圓也/             山下 誠
  ・・・・
  境内地壱百九拾壱平方米/     二階堂作次郎
焼失した薬師堂は昭和50年に再建され、これが現在の薬師堂と思われる。
 ◎香山廃寺現況
 香山廃寺薬師堂土壇1    香山廃寺薬師堂土壇2    香山廃寺薬師堂土壇3
 「薬師堂盛衰記」石碑     香山廃寺推定心礎1      香山廃寺推定心礎2     香山廃寺推定心礎3
 香山廃寺推定心礎4      香山廃寺推定心礎5
 香山廃寺薬師堂         香山廃寺薬師堂本尊     薬師堂土壇上の石仏・五輪塔     薬師堂土壇上の五輪塔残欠

播磨越部廃寺:新宮町市之保

▲薬師堂の土壇(東西 12m、南北10m)は塔跡の可能性が高い。また薬師堂礎石には巨大な礎石が転用される。詳細は不明。7世紀末−8世紀初頭の瓦が出土。▲
 但し、この薬師堂土壇が塔跡である確証がある訳ではない。
越部廃寺調査地周辺図▲:薬師堂礎石、祠中地蔵尊台石、手水鉢、土壇上、土壇東石組などに多くの礎石(推定)が残存する。
○2008/07/01撮影
薬師堂内には古代寺院の仏像と推定される天部(相当腐朽)が安置されると云う。
 越部廃寺薬師堂土壇正面:土壇東面土止(写真左)として推定礎石が並べられる。 (2013/12/24画像入替)
   同  薬師堂南側面:推定礎石が散在する。
 越部廃寺手水鉢1:推定礎石の内で最も大型のものと思われる。心礎の可能性もあり?。 (2013/12/24画像入替)
 越部廃寺手水鉢2;(2013/12/28追加)
   同    推定礎石1:薬師堂南側面の沓脱に転用。      同    推定礎石2:薬師堂北東隅の転用推定礎石。
   同    推定礎石3:薬師堂土壇南東隅の推定礎石
 越部廃寺薬師堂;(2013/12/28追加)
 越部廃寺地蔵尊台石;(2013/12/28追加)
2010/08/20追加:「新宮町文化財調査報告7」新宮町教委、1987
 ※薬師堂土壇が残存するが、この土壇を(自明のように)塔跡と云うが、塔跡とする根拠はよく分からない。
 播磨越部廃寺概要図
2013/12/22撮影:
 越部廃寺薬師堂礎石配置:礎石AからGの写真は下に掲載
 越部廃寺薬師堂土壇     薬師堂土壇推定礎石?
 薬師堂手水鉢3:平面はほぼ三角形の形状で、150×140cmの大きさである。
  もし本廃寺に塔が建立されていたとした場合、その大きさから心礎が手水鉢に転用された可能性があると思われる。
 越部廃寺推定礎石A;見える範囲での差渡は約90cmを測る      越部廃寺推定礎石B:実測せず     越部廃寺推定礎石C:実測せず
 越部廃寺推定礎石D:大きさは100×80cm       越部廃寺推定礎石E:見える範囲での差渡は約80cmを測る。
 越部廃寺推定礎石F:大きさは120×80cm       越部廃寺推定礎石G:大きさは110×80cm

播磨奥村廃寺

東西両塔の心礎を残す。
 → 亡失移転心礎「播磨奥村廃寺」の項

播磨小神廃寺:たつの市揖西町小神

▲築山とよばれる土壇が塔基壇と考えられる。その東の小祠に円柱座を持つ礎石2個が遺存する。詳細は不明。瓦から7世紀前半の創建の可能性もある。9世紀まで存続したと思われる。▲
○「X」氏情報:畑地の中に塔跡と推定される築山基壇が残存。
○附近を耕作中の年輩の方の談:「あの中には入れないですよ。(南東は民家で、後の2面は廃材等で囲ってある)あの持主は築山ではないと云っている。持主が石垣を積み瓦礫を積んで造ったものと主張している。」しかし「あの土壇は自分の子供の頃からあのような形をしていた記憶がある。・・・」「所有者は近所に住んでいますよ。」(多分この築山の南に接する居宅と思われる。)
持主の云うことの真偽の程は不明であるが、持主の主張は目的やその膨大な体積の土砂等を思えば、不自然とも思われる。但し、石垣は見た目は古いものとは思われず、近年に積んだものとも思われる。
礎石の残存や瓦の出土から寺院址であることは間違いないと思われるが、土壇が塔跡か(持主の主張のとおりなのか)は発掘調査を待つしかないと思われる。
 播磨小神廃寺土壇1      同        2      同        3      同        4      同      礎石
○2010/08/20追加:「龍野市文化財調査報告7」龍野市教委、1992 より
 小祠所在小神廃寺礎石:小祠はさくら神社と称する。

播磨中垣内廃寺

▲古代寺院跡は恩徳寺境内と重複する。心礎が境内に残 る。しかし未調査のため詳細は不明。▲
○「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは1.42×1.06m×94cm、径64×14cmの孔を彫る。
○「幻の塔を求めて西東」:大きさは144×107×95cm、径91/93×2cmと径59/61×17.4cmの2段の円孔を持つ心礎(柱座の彫り窪みが存在する)の見解を採る 。 ※確かに、柱座の彫り窪みは良く見れば、観察できる。
○なお、小型の心礎であり、心礎に品格があるとすれば、やや品格を欠く印象がある。
現状、心礎は五重石塔の台石となり、やや円孔の観察には不便である。
恩徳寺は養老6年(723)は揖保郡出身の得道上人の開基と伝える。嘉吉元年(1441)赤松満祐滅亡の時兵火に罹り焼亡する。
貞享元年(1684)森清雲当寺を再興し西山浄土宗となる。
本堂裏にも礎石を残すというが、現在庫裏が取壊し中で未見。
 播磨中垣内廃寺心礎1        同         2      同         3       同         4
   同         5        同         6       同         7       同         8
  同     心礎図:「古代寺院よりみた播磨」より転載
○2010/08/20追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
心礎の旧位置に関しては何の所伝もない。上記「幻の塔を求めて西東」の心礎法量は当書に依るものと思われる。
寺院明細帳には「得道上人開基」とし、播磨鑑などは「法道上人開基」とする。
 播磨中垣内廃寺心礎01     中垣内廃寺心礎実測図     播磨恩徳寺

播磨金剛山廃寺

▲龍隆寺境内が廃寺跡とされる。龍隆寺鐘楼脇に心礎があり、周辺にも礎石と思われる石が散在する。未調査のため詳細は不明。
7世紀末〜9世紀の瓦が出土する。▲
金剛山廃寺心礎は龍隆寺鐘楼附近にあるというも、龍隆寺はかなり長い間無住で、ここ数年は全くの放置状態と思われる。
境内特に鐘楼附近はブッシュが繁茂し、容易に様子が掌握できない状況である。
「X」氏情報では、2001年時点では境内は荒れてはいたが僧侶が信者と共に法要を行っていたとのことである。(いつから無住なのかは不明)
2001年以降のある時におそらく住職に事故があり、それ以降地区の人も檀信徒の人も誰も顧みなくなったと思われる。
現状でも相当程度堂宇は荒れているが、堂宇腐朽はさらに進み、危険と判断され取り払われるか、あるいは自然倒壊が目前と思われる。願わくは、山中の廃寺ならばいざ知らず、地区の中の寺院でありかつ法道上人の開基との伝承もあるので、例えば地区の「集会所」などの形で地区全体で護持するなどの方策 などで何とか存続を願うものである。
金剛山廃寺心礎「X」氏ご提供:2001年撮影画像
○2006/04/19撮影:
 磨龍隆寺山門前:無住、法道仙人開基と云う。       播磨龍隆寺全望:左より山門・本堂・鐘楼、境内一面はブッシュ化 する。
 龍隆寺鐘楼附近:ブッシュは特に鐘楼・山門附近に繁茂する。
 金剛山廃寺推定礎石:鐘楼前石段下に廃寺礎石と思われる石がある。
 金剛山廃寺跡:龍隆寺西に写真の木標が建ち、堂宇跡と思われる地点は更地である。
 龍隆寺道標:集落内にある道標 。開基法道大仙・中興盤珪国師とあり、播磨の古代大寺がほぼ法道開基と伝承される一例で、換言すれば、龍隆寺も古代からの法灯を継ぐ寺院と伝承されたのであろう 。
元禄期に国師とあるように禅宗として中興されたと思われる。
 旧丸亀藩高札場跡:この地は江戸前期以降丸亀藩領であった。万治元年(1658)龍野6万石京極高和が讃岐丸亀に転封される。この時西讃岐(丸亀)では約5万石の石高のため、揖保郡1万石を飛び地とした(「新室津紀行」)ということに由来する。
○2006/04/29撮影:
心礎は鐘楼基壇(石垣)北側直下にある。心礎の存在の故に心礎の面だけはブッシュ化から免れる。
 ○「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは1.6×1.5m、径42×4cmの孔を穿つ。
 ○「幻の塔を求めて西東」:心礎の大きさは160×150cm、孔の径45.5×13cm。※但し孔の深さ13cmは誤植、勘違いの類と思われる。
心礎はほぼ土中にあり、上面のみ観察が可能。上面はかなり荒れている印象で、元来は平滑であったが、おそらく後世に破壊をうけているとも思われる。現在円孔には五輪塔が載せられる 。また廻りの3方には長方形の切石が置かれる。円孔の底部には凹みがあるがこれは後世のものであろう。
なお、心礎は原位置を保つとされる。
鐘楼附近の全貌の掌握は困難になりつつあるが、鐘楼正面にある大石は礎石と思われ、塔の礎石の一部であろうと推測される。
また龍隆寺北側の山王権現境内と龍隆寺境内には礎石と思われる数個の石を残す。
 ※地区民の聞取情報:「龍隆寺(おそらく住職夫人)が5年ほど前に他界して以来無住である。近隣の寺院(寺院名は失念)が代務住職を務めるも、放置」と云う。「地域で保持するには財政的また人的にも困難と思われる。」 (寺院の保持は困難との見解である。)
 しかし地区で護持することは本当に困難なのか?。
この地区の山王権現(この地区のこの神社は国家神道的要素を今に色濃く残す)は神主が常駐している訳ではないが護持されている。
また先々週はたまたま新生「たつの市」の市議会議員選挙中で、おそらく地区からの立候補者がいたものと見えて、平日日中にも関わらず、自治会会館?敷地にテントを張り、揃いの法被で、そこに候補者がいた訳でもないのに数十名が集い、 気勢を上げている光景を目撃する。
戦後60年を経過しての光景であるが、戦前型の地区有力者の上意下達が当たり前の風土の残像を見た気がする。
おそらくこの戦前型の風土が地区を一丸とさせるパワー(強制力)と思われるが、このパワーが神社護持の源となっているのであろう。神社護持と同じように、このパワーを持ってすれば、地区の寺院の護持などいとも簡単と思えるが暴論であろうか。
 播磨金剛山廃寺心礎1      同          2      同          3      同          4      同          5
   同           6     同          7      同          8      同          9      同         10
   同 礎石?日吉神社       同   礎石?龍隆境内    龍隆寺本堂側面
 同   心礎見取図:「古代寺院よりみた播磨」より転載
○2010/08/20追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
龍隆寺の寺院明細帳:白雉元年創立、開基法道とあると云う。
 播磨金剛山廃寺心礎:心礎写真および実測図

播磨室明神社(室の津、明神山にあり)

 →播磨室明神社多宝塔

播磨高蔵寺三重塔跡

 →播磨高蔵寺・山城三室戸寺三重塔

播磨新宿廃寺

▲昭和37年の簡単な発掘で、塔の側柱礎石3個を検出。同時に7世紀末〜8世紀初めの瓦が出土。付近に塔垣内などの字を残す。その他の遺構は未検出。▲
現地には土壇が残存し、この土壇は(自明のように)塔跡とされるが、塔跡とする根拠は不明。 (あるいはこの土壇の字が塔垣内と称するのであろうかとも思われるも不明)
 播磨新宿廃寺跡土壇1     同        2     同        3     同        4     同        礎石

播磨長尾廃寺

▲字「塔の石」にある。昭和63年・平成元年の発掘調査で、塔基壇、金堂基壇、西築地、中門を確認。塔基壇は1辺約11 mで、東8mに金堂基壇がある。7世紀末〜10世紀後半までの瓦が出土。心礎は残存。礎石3個は作用高校の前庭に保存。 北方350mの長楽庵には宝光山鶏旭寺とする縁起がある。▲
 心礎の大きさは一辺およそ1.7mの自然石、上面に径100cmの円形柱座を彫り出し、径38cmと径11cmの円孔を穿つ。深さは柱座より12cmを測る。この心礎は昭和初期に掘り出され売却されようとするも、保存された経緯を持つという。寺院は宝光山鶏旭寺と伝えるも、不詳。 なお塔跡基壇には礎石と推定される石が数個残存する。
 ○「日本の木造塔跡」:
大きさは2.3m×2.19m、径100×1cmの円形柱座を造り出し、中央に径38×6cmと径11×4cmの円孔を2段に穿つ。
2008/07/01撮影:
 播磨長尾廃寺塔跡
   同     心礎1    同     心礎2    同     心礎3    同     心礎4    同     心礎5
  同  塔跡推定礎石   同 塔礎石(在高校)
 播磨長尾廃寺発掘調査図:作用高校より入手(調査報告の複写と推定)
2010/08/30追加:
○「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
 「浄光山長楽寺略縁起」(安政4年、廃寺の北方にあり、廃寺の法灯を継ぐと云う、無住)には「辺りは塔之本とも呼び、又寺中の古跡は・・・6尺四面の搗石並び古焼の瓦等今に顕然たり」とある。
 心礎は原位置を保つ。しかし鎌谷木の調査後、発掘に遭い、他に運搬されようとしたが、有志の尽力により、心礎は元の位置に戻される。
周囲には玉垣が出来、標識が立ち、保護される。なお付近の畔道の石積に転用礎石がある。(あるいはこれは今高校の庭に移されてものか?)
伽藍配置は良く分からない。
また長楽寺には永享8年(1436)奥書の「作用郡鶏旭寺縁起」(写)を伝える。鶏旭寺は行基開基と云う。
 長尾廃寺塔阯(玉垣附)     播磨長尾廃寺心礎2     長尾廃寺心礎実測図
 長尾廃寺畔積石     長尾廃寺畔積石実測図
2023/03/11撮影:
 播磨長尾廃寺塔跡2
 播磨長尾廃寺心礎11     播磨長尾廃寺心礎12     播磨長尾廃寺心礎13     播磨長尾廃寺心礎14
 播磨長尾廃寺心礎15     播磨長尾廃寺心礎16     播磨長尾廃寺心礎17     播磨長尾廃寺心礎18
 播磨長尾廃寺心礎19     播磨長尾廃寺心礎20     播磨長尾廃寺心礎21     播磨長尾廃寺心礎22
 播磨長尾廃寺石碑
 昭和33年塔跡南の高校の果樹園(現在は畑)から出土と伝える。これらは51〜57cmの柱座を持つ。(「校庭設置の説明板」)
 塔跡からは心礎の他2個の礎石が確認され、この2個の礎石は佐用高校の校庭に保管される。(「塔跡設置の説明板」)
 播磨長尾廃寺塔礎石1     播磨長尾廃寺塔礎石2     播磨長尾廃寺塔礎石3
 播磨長尾廃寺塔礎石4     播磨長尾廃寺塔礎石5
 播磨長楽寺遠望:長楽庵には薬師如来、観音堂には聖観音を安置する。
 播磨長楽寺庵室1     播磨長楽寺庵室2     播磨長楽寺観音堂1     播磨長楽寺観音堂2
 播磨長楽寺小宇      播磨長楽寺石塔類

播磨満願寺(廃寺)

▲唯一の遺構として心礎が残存する。心礎は満願寺跡北側の常徳寺の手水として改変される。
心礎は約3分1が欠損していると推定されるが、大きさは1.55m×1.1m×70cmで径32 cm深さ18cmの孔があり、周囲に径80Cmの環溝がある。心礎の元位置は長尾廃寺南方約700mの地点とされる。▲
満願寺については良く分からないが、「平安期には当地は上万願寺村と称し豪族満願寺氏が支配していた」とされる。
その後「大朴玄素開基の如意輪山満願寺を建立し、赤松氏全盛の頃は大いに栄えていた」とも云う。
おそらく古代この地の豪族が寺院を建立し、平安期までこの地を支配したと思われる。
中世には赤松氏が支配し、古代寺院は如意輪山満願寺として復興するも、赤松氏の没落とともに寺院も廃絶したのであろうか。
現在伝満願寺跡には大銀杏のみが残存し、その他のことは一切不明。
なお心礎には円孔より幅20cmで繋いだ55×29cmの方形孔があるが、これは手水として転用の時に新に穿ったものと推定される。
2008/07/01撮影:
 播磨満願寺心礎1   播磨満願寺心礎2   播磨満願寺心礎3   播磨満願寺心礎4   播磨満願寺心礎5
 播磨満願寺跡地
2023/03/11撮影:
心礎は満願寺跡北側に在る常徳寺(浄土真宗本願寺派)の手水として改変され、ある。
大きさ(概要・実測);110×150cm、径は33cm、深さ凡そ18cm。表面は荒れているため判然とはしないが、環状溝があるようには見える。
 播磨満願寺心礎6    播磨満願寺心礎7    播磨満願寺心礎8    播磨満願寺心礎9    播磨満願寺心礎10
「播磨鑑」(江戸中期)ではこの地には赤松氏建立という如意輪山万願寺があったという。当時すでに衰退し、観音の小宇のみ残るという。
万願寺は嘉吉の変(1441)で兵火に罹り、堂宇は焼失したといわれ、その境内の銀杏のみ残るとも伝える。(現地案内板)
 万願寺跡地・大銀杏
 播磨常徳寺山門     播磨常徳寺本堂     常徳寺秘崛蔵・釈迦堂     播磨常徳寺庫裡

播磨早瀬廃寺

▲塔心礎が現存。原位置と思われる。 大きさは2.0m×1.8m×55cmで、径18cm深さ8cmの孔がある。
8世紀初頭の瓦を出土。心礎や瓦以外の遺物・遺構は不明。▲
○「日本の木造塔跡」:
大きさは1.8×1.5mで、やや中心を外して径28×6cmの円孔を彫る。寺院は白山満願寺と称したとの伝承がある。
心礎実測値:大きさはおよそ190×150cm、円孔は径およそ17×深さ8cm。
現地には畑および人家の中に半壊状態の塔土壇と思われる高まりとその隅に心礎を残す。
すぐ背後には急斜面の丘が迫り、丘上には白山権現が鎮座する。白山満願寺の鎮守であろうと推測される。
2008/07/01撮影:
 播磨早瀬廃寺俯瞰:北側の白山権現参道途中から撮影、写真中央民家に多少隠れた独立樹の根元に心礎がある。
 播磨早瀬廃寺塔土壇:南やや東から撮影、独立樹の根元に心礎がある。
 播磨早瀬廃寺心礎1   播磨早瀬廃寺心礎2   播磨早瀬廃寺心礎3   播磨早瀬廃寺心礎4   播磨早瀬廃寺心礎5
2010/08/30追加:
○「西播磨の古代寺院と蓮華文帯鴟尾」たつの市立埋文センター、2007 より
心礎の大きさは2.0×1.8m、厚さ55cmの平らな石の上面に径18cm深さ8cmの円孔を穿つ。
 早瀬廃寺心礎実測図
2023/03/11撮影:
 播磨早瀬廃寺土壇
 播磨早瀬廃寺心礎11     播磨早瀬廃寺心礎12     播磨早瀬廃寺心礎13     播磨早瀬廃寺心礎14
 播磨早瀬廃寺心礎15     播磨早瀬廃寺心礎16     播磨早瀬廃寺心礎17     播磨早瀬廃寺心礎18
 播磨早瀬廃寺心礎19     播磨早瀬廃寺心礎20     播磨早瀬廃寺心礎21     播磨早瀬廃寺心礎22
 播磨早瀬廃寺心礎23
 播磨早瀬白山権現1     播磨早瀬白山権現2     播磨早瀬白山権現3     播磨早瀬白山権現4
 なお、拝殿前石灯篭には文政12年(1829)の年紀を刻む。

播磨櫛田廃寺

 亡失心礎「播磨櫛田廃寺」の項

播磨三野寺塔跡:三濃山、求福教寺、求福寺

2014/01/31追加:
○「峯相記の考古学」たつの市立埋蔵文化財センター、平成24年 より
「峯相記」には三野山観音と記載される。観音菩薩を本尊とし、秦ノ内満の建立と云う。
平安後期には三濃山3000坊と云われ、隆盛であったと伝える。
「赤穂郡史」には、かって三重塔があったが今は礎石のみ残ると記する。寺院遺構は三濃山の南側に多く残る。
 往古求福教寺壮観図:福田眉山(画家・相生生まれ)作、相生市教育委員会蔵。 本堂は背後に三重塔が描かれるが、史料的裏付は不明。
 三濃山周辺図          元山濃山村復原図:昭和15年頃の復原
○「赤穂郡誌」河原亀次郎編、出版者豊岡与一、明治26.9では次のように記す
「納経山は矢野村の内三濃山にあり、伝へ云ふ、昔山上に三重の塔あり、諸経を納めたるにより納経山ち云ふ・・・」
しかし、次に示す、「三濃山求福教寺の歴史」では次のように記すので、別本があるのであろうか。
 :『赤穂郡誌』に三野山求福寺としてしるされ、「三濃山村ノ北ニアリ。其山嶺三重ノ専有リシモ、今順境シテ断礎ヲ存スルノミ」とある。
○Webに「三濃山求福教寺の歴史」と云う優れた論考がある。
(以下、抜粋する。)
「相生史話」のP150〜15に「求福教寺由緒」として、小林楓村氏(郷土史家)纏めた資料がある。
「播磨鑑」では「箕覆山箕福寺、真言宗、矢野庄奥矢野村、弘法大師此処に来り、三本卒塔婆の由来を聞き大同年中に一伽藍を建立し、真言秘密の法窟とせり。今の箕覆山是也、本尊千手観音行基作也、八嶺十二谷の霊峰也」
 ※弘法大師の創建と記する。
「播州寺院考記」では「真言宗、三濃山観音寺、矢野庄三野山村、求福寺と云ふ秦内麿建立谷之多門院末寺」
 ※秦内麿(秦ノ内満)の建立と云う。
「濃山求福教寺縁起」では「・・・貞観六甲申年秦造内麿公の建立なり、・・・源家の棟梁八幡太郎義家淳和大学院の別当たりし時に至り、当山益々繁昌すと云々、・・・保元平治の世の乱れ諸国の動乱によりて終に平氏の為めに当山滅亡す、寺領も庄郷没収して悉く退転すと雖、本尊脇士今に至って安置し奉る。・・・」(文化五年三月「播磨国赤穂郡矢野庄三濃山別当」)
 古代末期には、源義家の御信仰厚く、堂宇を再建し三濃千坊の大繁昌を見る。然るに、漸次衰微の道を辿り本堂のみが残って三濃山観音寺となる。
現在、昔の盛時を偲ぶ礎石が地方に散在し残る。
奥野坊、三条坊、宝持坊、赤井坊、久保坊、裏門、表門、三重塔の諸堂の礎石等が、叉五輪石塔は到る処に数多く残る。源義家の供養の宝篋印塔、秦川勝の供養といふ五輪石塔が残る。何れも鎌倉時代の造顕と見られる。
今日、四間四面の木造茅茸の箕覆山求福寺本堂がある。院も坊も地名になって残る。
 ※昭和30年代は木造茅葺きの本堂があり、三濃山村に檀家八軒(宗派は真宗)があったと云う。
その後、江戸期には、矢野荘の平野部は真宗一色となり、山上の三野山観音寺だけが真言宗として残る。この頃の三野山観音寺は、衰えて無住になっていたかもしれない。
しかし、三濃山には新しい住民が現れる。即ち、江戸前期、新田開発の波は三濃山上の平坦部に及び、江戸前期には、近世村落である三濃山村が成立する。
三濃山村が成立すると求福教寺は村民の精神生活の中心になり、真言宗の寺院でありながら金出地にある浄光寺(真宗西本願寺派)の末寺となり、祭や葬式は浄光寺の僧侶が執り行うようになる。
 しかし、時代は変遷し、1960年代から離村する住人が続き、1966年に西谷で、1973年に東谷で人が去った。民家は朽ち、観音堂も荒れていったが、1981年金出地出身の大阪の篤志家によって求福教寺の修復が行われ、現在に至る。
求福教寺は今は無住、金出地にある浄光寺(真宗西本願寺派)の末寺である。現在の本尊は千手観世音菩薩像、向って右に金龍に乗った弘法大師像、左に聖徳太子像を祀る。
また、求福教寺の域内には、本堂右に大避社(祭神は秦河勝と猿田彦命)、左に市杵嶋社がある。
明治40年東谷山王権現を大避社に合祀、さらに昭和30年荒社が倒壊し大避社に合祀、昭和56年金出地出身の人が経納山麓に荒社を建立、分離する。
2014/02/01撮影:
三濃山村は廃村となるも、東谷(西谷は未見)には多くの田畑跡と1軒の倒壊廃屋などが残る。そして経納山南麓に近年に再興された三野寺観音堂・山王権現などが残る。
観音堂背後(北)・経納山へ登り口・山王権現西側に5個程度の礎石と思われる石が残る。
その内の3個は南北に並び、これが三重塔跡礎石と云われるものと思われる。但し、その根拠は全く不明である。ここには土壇様な高まりはなく、高さも南側に傾くようであり、さらに礎石も浮き石のようで、礎石であるとしても、動いているものと思われる。別の2個はこの東にある。
 伝三野寺三重塔跡1      伝三野寺三重塔跡2      伝三野寺三重塔跡3      伝三野寺三重塔跡4
 伝三野寺三重塔礎石1     伝三野寺三重塔礎石2     伝三野寺三重塔礎石3     伝三野寺三重塔礎石4
 伝三野寺その他礎石
三濃山村は廃村になるも、三野寺(求福教寺)は信者によって修復護持される。
 求福教寺参道     求福教寺観音堂:向かって左は弁財天      求福教寺大避社
 求福教寺山王権現1     求福教寺山王権現2     石造五輪塔     石造仏塔残欠
 東谷倒壊廃屋

播磨河野原宝林寺塔跡比定地

○「峯相記の考古学」の「『峯相記』の寺院と瓦」(田中幸夫)では、宝林寺の塔婆に関する記述があり、それは以下のようなものである。つまり、宝林寺には塔婆の建立があったことを示唆するものである。
 【(採取された「波状文瓦」の内)「(図15)七種寺跡と(図16)宝林寺は同范である。(図16)は宝林寺の塔跡から見つかったもので、宝林寺の大塔は応永13年(1406)から建築が始まっており、瓦はそれ以降のものである。】
 上述の宝林寺塔についての典拠あるいは史料の問い合わせを「上郡町教育委員会」にしたところ、「社会教育課文化財係」より、およそ以下の趣旨の回答(1〜3)を得る。
 ※回答の検証を行ってはいないため(後日予定)、そのままを転載(趣旨)する。
1)「宝林寺の大塔は応永13年から・・・」の記述は、「上郡町史」第三巻の「宝林寺遺跡」の記述の引用と思われる。
また、「赤松円心・満祐」高坂好氏、吉川弘文館、1970の新装版の記述が典拠とも思われる。
 但し、「赤松円心・満祐」・「上郡町史 第三巻」・「相生市史 第七・八巻上」に収録されている応永13年〜18年までの「東寺百合文書」の記述を見る限りは、「宝林寺材木引」や「宝林寺造営木引」などの記述はあっても、「塔」や「大塔」の記述はなく、当時、何度も造営し直されていた相国寺大塔の記述と混同された可能性がある。
2)宝林寺の塔の史料について
 永徳3(?)年の「東寺百合文書」の記述に「宝林寺塔地引人夫」とある。(「上郡町史 第三巻」あるいは「相生市史 第八巻上」に掲載、「上郡町史 第一巻」で解説)
3)塔の比定地:宝林寺・河野原集落の西の谷筋・小字名「塔之谷」に平坦地が残り、現在も瓦片などが散布していることから、この地と思われる。
平坦地の奥には礎石に使用できそうな大石を配した、横長の基檀跡が残るも、奥行きが狭く、塔の基壇跡とするには無理がある。後世に石塔や墓碑等の基檀として解体された可能性がある。
また、平坦地とその奥は、明治時代に銅山として開発されていたと云い(「上郡町史 第二巻」p.172〜p.175)、更なる地形の改変があったことが推測される。
 ※塔の比定地へは、宝林寺円心館脇の奥の院行きの登山道(ミニ三十三霊場経由)の途中から、行くことができる。
○「日本歴史地名大系 巻次29-2 兵庫県U」 より
貞和年中(1345-)赤松則祐、備前新田庄中山に創建し、雪村友梅を招じ開山とする。
文和4年(1355)火災に遭い、現在地に移建する。同年諸山に列する。
赤松氏は則祐、義則、満祐と播磨守護を継承し、国内荘園に当寺の材木引(持)夫などを課し、当寺は守護の氏寺的存在となる。
永徳3年(1383)十刹に列する。
しかし、赤松氏の没落とともに衰微し、永禄年中(1558-)尼子氏の兵乱によって伽藍焼失と云う。
その後、真言宗(智積院末)寺院として再興される。
○2014/02/01撮影:
宝林寺塔比定地は確かに残存する。宝林寺背後の急斜面にテラス状の削平地があり、矢板様な鉄板で閉鎖されてはいるが、鉱山坑道入り口様なものも残る。削平地には基壇様なものもあるが、礎石様な大石や瓦の散布は観察できず、これはむしろ近世の鉱山の残滓の堆積とも思われるものである。
 ※下記に掲載する基壇様なところ以外に、礎石様な大石や瓦の散布のある別の基壇ようなものがある可能性があるが、この削平地には探した限り存在を認めず。
 なお、この立地は急斜面を相当程度上がった谷筋であり、到底塔婆を建立する適地とは思われない場所である。この地の字が「塔之谷」であることは、この地に塔婆の建立を見たことを示唆する字ではあるが、それが何時からの名称なのかあるいは本当に塔婆に由来する字なのかは明確ではなく、立地を見るかぎりでは否定的にならざるを得ない。
 宝林寺塔比定地1     宝林寺塔比定地2     宝林寺塔比定地3     塔之谷の表示
 近世宝林寺模型:円心館に展示、三重塔は現境内地付近に建立と思われる。但しこの模型がどの程度の史実を反映しているのかは全く不明。
 宝林寺本堂     宝林寺俯瞰:左から円心館、本堂(あるいは観音堂、立木で写っていない)、庫裡。
2023/03/11撮影:
 宝林寺は赤松則祐(圓心の三男)が備前国新田庄中山(現・和気町)に、雪村友梅を開山として建立した臨済宗の寺院である。
備前の宝林寺は、文和4年(1355)の兵火で焼失し、この地に再建される。但し、文和4年は再建の年紀かもしれない。
室町期には高い寺格を有し、法雲寺と同様、十刹に列する。
赤松惣領家の手厚い庇護をうけ、義則の頃には最盛期を迎えるも、赤松氏の没落とともに衰微する。
江戸期には真言宗に改宗、再興される。
 宝林寺赤松三尊象:円心館に安置、赤松円心・赤松則祐・別法和尚の三尊を祀る。
 赤松円心坐像:円心還暦の寿像といわれる。法体姿(僧形)であるが、左脇に太刀を佩く。
 円心は南北朝期の武将で、室町幕府樹立に関わり、播磨守護職となる。
 赤松則祐坐像:法体姿である。京都建仁寺にあったものを、後に宝林寺へ移したといわる。像内に慶安3年(1650)の修理銘がある。
 則祐は円心の後継で、北朝・室町幕府の要職を占め、赤松氏の基盤を築く。
 別法和尚坐像:別法和尚は赤松義則の帰依を受けた禅僧。実際は法雲寺・宝林寺の開山であるが「雪村友梅」の像であろうといわれる。
 向かって左は覚安尼坐像、則祐の娘千種姫である。
 赤松則祐宝篋印塔     覚安尼供養塔     宝林寺円心館     宝林寺観音堂     宝林寺庫裡
 ※次項の栖雲寺を参照:円心・則祐などの履歴あり
 ※播磨法雲寺利生塔も参照

播磨赤松松雲寺
 白旗山麓の栖雲寺を継承した寺という。現在は東寺真言宗。
付近(東)には五社八幡、赤松円心館跡、赤松円心御影堂道標などがある。
 松雲寺全景     松雲寺榧木     松雲寺山門     松雲寺本堂     松雲寺不動堂     松雲寺庫裡
 赤松圓心御影堂寶林寺道標:是ヨリ拾五丁河野原村 とある。
赤松五社八幡
 八幡社は赤松則村(円心)の三男・則祐が建立したといわれ、明治32年白旗城麓にあった白旗神社及び素盞嗚神社を合祀する。
配祀神にスサノウがある、但し、素盞嗚神社が牛頭天王であったのかどうかは不明であるが、牛頭天王の可能性は大であろう。
写真は圓心館跡から撮影。上記の道標写真には天明社の社号が写るが、この社号の意味するところは不明。
 赤松五社八幡:円心館跡から撮影。
赤松円心館跡:東西105m、南北56mの平坦地(この平坦地の字は「御屋敷」という)が残り、南側崖下には堀跡である溝、西側には土塁が残る。
 赤松円心館跡1     赤松円心館跡2

播磨赤松栖雲寺

2022/09/06追加:
○「X」氏情報
播磨赤松栖雲寺跡が2014年に発掘調査され、ここに塔土壇が現存するとの情報を得る。
2022/08/30「X」氏撮影画像
 播磨栖雲寺跡推定塔土壇1     播磨栖雲寺跡推定塔土壇2:現状は埋め戻されている。
○上郡町郷土資料館サイト より
栖雲寺跡
栖雲寺は、赤松円心の次男・赤松貞範によって建立される。
大正7年、岡山県勝田郡豊国村(現・美作市)大字中尾字水上の果樹園で「播州栖雲寺」「永和戊午(1378)年)」の銘文がある梵鐘が発見される。(その後、東京国立博物館に所蔵される。)
このように、栖雲寺の名は知られていたものの、詳細な内容については不明、また寺院跡も植林や雑草の繁茂によって位置すら不明確になっていた。
近年、白旗山西麓の近畿自然歩道脇に大量の瓦の散布と建物痕跡が認められることが判明する。
(白旗山には赤松円心が築城以来の赤松氏の居城である白旗城がある。)
発掘調査の結果、一辺約6.9mの基壇が検出され、出土遺物に相輪の破片を含むことから、塔跡であることが判明する。
また調査地北側にも一辺約11mの基壇痕跡が確認され、廟跡であると推定されている。
栖雲寺は赤松氏の衰退で荒廃し、大永四年(1524)以前には良順上人によって栖雲寺跡の約1km西北の赤松に移されて再興され、寺号も『松雲寺』と改められ現存するという。
 栖雲寺推定塔跡全景:南西から     栖雲寺推定塔跡鳥衾出土状況
 ※赤松則村(円心)
建治3年(1277)〜正平5年/観応元年(1350)
建武4年(1337)円心は雪村友梅(臨済宗、元朝からの帰朝僧、後に豊後府内万寿寺建仁寺に住す、播磨法雲寺・宝林寺<上に掲載>の開山)を招き、金華山法雲寺(法雲昌国禅寺)を苔縄に建立し、赤松一族の菩提寺とする。
法名は法雲寺月潭円心。墓所は東山建仁寺塔頭寺院久昌院。供養塔が上述の法雲寺にある。また、木像が播磨河野原宝林寺にある。
嫡男・範資、二男・貞範、三男・則祐、氏範、氏康の子がある。
 ※赤松貞範
徳治元年(1306)〜文中3年/応安7年(1374)、法名は栖雲寺殿実翁世貞。
栖雲寺は貞範の建立という、であるならば栖雲寺は室町初頭に建立されたものと推定される。
 ※赤松則祐
正和3年(1314)〜建徳2年/応安4年(1372)、法名は宝林寺殿自天妙善。
宝林寺は当初、則祐によって備前新田荘中山(現在の和気町大中山附近)に建立されるも、文和4年(1355)に戦火を受け、この地に再建される。円心館には赤松三尊像(赤松円心・円心三男則祐など)が安置される。
墓所は播磨河野原宝林寺。同寺には則祐の坐像も現存する。
○2014年の現説の動画 より
発掘した土壇から相輪の破片が出土→塔跡であることを強く示唆する。
本遺構の西側基壇は二重基壇となり、おそらく西向きに建っていたものと推測される。
また、柱列礎石も発掘される
調査結果、心礎やその据付の形跡はなし。(多宝塔であった可能性もあるのでは?)
なお、(※推定塔跡から見て、北側の遺構)から約11m四方の基壇も発掘される。本堂跡と推定される。
 ※但し、現説資料を見ていないので、発掘平面図や相輪破片の形状が分からないので、詳細は不明。
○各種Webサイト より
 播磨栖雲寺跡推定塔土壇3:塔跡土壇であろう。
 播磨栖雲寺跡石垣:栖雲寺には石垣が残ると聞くが、現地未見のため、どの部分の石垣かは不明。
 播磨栖雲寺出土遺物:現地説明板より:下段の遺物が相輪破片と思われる。但し、写真は小さいため、はっきりとはしない。
  (2023/007/03:「出土遺物」の画像入替)
2023/03/11撮影:
2014年の調査の結果、「出土した基壇の規模は一辺約6.9m。遺物の中に塔の上部に使用される「相輪」の破片が含まれており、「塔跡」の可能性が考えられる。
また調査地点から約25m北側には一辺11mの建物痕跡と、その中央に土盛が確認され、「本堂」と本尊を安置する「須弥壇」の可能性が考えられる」という。
 赤松栖雲寺推定塔土壇4     赤松栖雲寺推定塔土壇5     赤松栖雲寺推定塔土壇6
 赤松栖雲寺推定塔土壇7     赤松栖雲寺推定塔土壇8     赤松栖雲寺推定塔土壇9
 赤松栖雲寺石垣跡     赤松栖雲寺伽藍跡1     赤松栖雲寺伽藍跡2
 :土壇様の高まりは本堂跡と思われるが不明。
明治32年白旗城麓栖雲寺跡にあった白旗社は五社八幡に合祀される。五輪塔は建武3年(1336)の白旗城合戦に倒れた人の供養塔と云う。五輪塔は18基ほどが散乱していたが、平成7年白旗社跡の集めれれるという。
 白旗八幡社跡1     白旗八幡社跡2     白旗八幡社跡3     白旗八幡社跡4     白旗八幡社跡5

播磨苔縄法雲寺;播磨利生塔跡

貞和元年(1345)播磨利生塔が金華山法雲寺に建立され、現在、現堂宇の背後の山麓部に推定利生塔跡土壇が残る。
 → 播磨法雲寺利生塔

播磨与井廃寺

 →亡失心礎「播磨与井廃寺」の項

播磨光明寺塔跡;黒沢山

2014/01/31追加:
○「峯相記の考古学」たつの市立埋蔵文化財センター、平成24年 より
発掘調査(昭和63年〜平成6年)で、3間四方4面庇の建物が発掘され、塔跡と云う。大師堂東に位置すると云う。
写真で判断する限り、塔土壇、若干の礎石が残ると思われる。
黒沢山山上にある。
山上には現在大師堂・鐘楼・庫裏が再建され残るが、多数の削平地、基壇、階段遺構、石組井戸、礎石、石垣、築地跡が現存し、多くの五輪塔、宝篋印塔、町石、笠塔婆などが残る
発掘調査では基壇状石列、基壇化粧石、礎石建物跡、溝などを発掘、また甕、壷、青磁、白磁、土師器、瓦、鉄釘、鉄製相輪、鉄製刀子などの鎌倉〜室町期の遺物も多く採取される。
 ※鉄製相輪とは詳細不詳であるが、文字通り相輪が出土なら、塔の存在が明確であり、その出土地が3間四方4面庇の建物跡であれば、この遺構が塔跡であることはほぼ確定であろう。なお「3間四方4面庇」とはよくわからない表記であるが、「3間四方/1間四面」堂の意味なのであろうか。
峯相記では黒澤山千手と記載する。
大同元年(806)弘法大師開基、本尊千手観音。古代・中世には史料に散見される。
永禄年中(1558-70)尼子晴久の争乱で灰燼に帰す。
古には千手院、龍生院、地蔵院、岩本院、華厳院などの存在が知られるも、慶長5年(1600)には岩本院が退転し、龍生院・地蔵院のみとなる。
慶長14年(1609)高野山明覚上人播磨七ケ寺再建、光明寺・地蔵院・龍生院も池田輝政の寄進もあり再興される。
宝永7年(1706)龍生院1院のみとなる。
文化3年(1806)龍生院住職、賊に殺害される。
文化2年(1819)光明寺山頂から山麓の現在地へ移転する。
 黒澤山平坦地分布図:本図のC・Dトレンチが設定された削平地が塔跡である。 「平成4年度 黒沢山光明寺跡発掘調査実績報告」から転載。
 黒澤山塔跡基壇
2014/02/08追加:
○「平成4年度 黒沢山光明寺跡発掘調査実績報告」兵庫県教育委員会:※本報告は公刊されたものではなく、行政の内部文書である。
 ※寺歴については、上記「峯相記の考古学」がほぼそそまま、転載していると思われるので、上記を参照。
平成4年度は平坦地3ケ所を発掘調査。A・Bトレンチ、C・Dトレンチ、E・Fトレンチである。
A・Bトレンチでは基壇の化粧石と思われる石列を発掘、石列は焼痕を残す。礎石はすべて抜き取られたものと思われ、礎石は存在せず。
C・Dトレンチは礎石を発掘、礎石から3間四方で、4面に縁を付設する。柱間は中央間が両脇間より広い礎石配置であった。
また鉄製相輪の一部が出土したことから、礎石配列の特色に鑑み、塔跡であることが確定する。ただし多宝塔なのか三重塔なのかは不明である。
身舎部分の礎石の大きさは、80cm内外、束石は40cm前後の大きさであり、火災を蒙っている。
E・Fトレンチでは浮いた2,3個の礎石を発掘する。
なお、出土瓦及び遺物は鎌倉期〜室町期の所産と判明し、文献による尼子氏の乱によって消失したという記載は妥当と判断される。
さらに、踏査によって平坦地の所在地と規模を調査する。その結果、寺院堂宇推定域で9ケ所、塔頭推定域で35ケ所の削平地を確認した。
塔頭推定地は南側参道両側及び南西斜面に分布する。その規模は10×8m程度から36×23m程度のものがある。そして石垣や石垣状遺構、階段跡、築地当も存在していた。
 黒澤山C・Dトレンチ配置図     C・Dトレンチ礎石(北から)     C・Dトレンチ礎石(西から)     C・Dトレンチ礎石(東から
  ※きれいに3間四方の礎石を残す。
○「平成4年度 黒沢山光明寺跡発掘調査実績報告」兵庫県教育委員会:※本報告は公刊されたものではなく、行政の内部文書である。
 ※寺歴については、上記「峯相記の考古学」がほぼそそまま、転載していると思われるので、上記を参照。
平成5年度は塔頭推定値の平坦地(現在の庫裏に接する南側の面である)で発掘調査を実施する。その結果、13世紀〜15世紀にわたる3面の遺構麺が発掘される。
2014/02/01撮影:
 塔跡は削平地と土壇を明瞭に残す。しかし土壇中に埋もれる礎石は発掘後埋め戻され礎石を見ることはできない。
土壇上には礎石様自然石2個とさらに礎石あるいは塔基壇を構成した可能性がある石が数個放置される。
なお、塔跡平坦地には付設する石階が現存する。石階は西南に付設するので、塔正面は西南であろう。
 黒沢山塔跡石階
 黒沢山塔跡(南から撮影)     黒沢山塔跡(東南から)     黒沢山塔跡(北東から)     黒沢山塔跡(北東から)
 黒沢山塔跡(東から撮影)     黒沢山塔跡(東南から)     黒沢山塔跡(西南から)     黒沢山塔跡(南から撮影)
 塔跡礎石様自然石1        塔跡礎石様自然石2
また山上には奥の院として、大師堂、鐘楼、庫裏などが近年に再建されたようでそれらが残る。本堂は現存せず本堂跡として残るが、これは近世の本堂跡に再建された本堂が再び退転した跡であろうか。
 黒沢山本堂跡1     黒沢山本堂跡2     黒沢山大師堂     黒沢山鐘楼     黒沢山庫裏     厳島(弁財天)か
さらに奥の院には中世や近世のものと思われる大量の五輪石塔、宝篋印塔などの石造物が集められている。これらは谷底などに落ちていたものを住職が集めたものと云う。
 黒沢山町石:室町中期のものと推定される。大部は失われ、現在は奥の院に4基、有年考古館に2基のみ現存。
 石造宝篋印塔:建武2年(1335)の年紀を刻む。
 石造題目笠塔婆正面     石造題目笠塔婆背面:康永4乙酉(1345)の年紀を刻む。
 奥の院五輪塔類1     奥の院五輪塔類2     奥の院五輪塔類3     奥の院五輪塔類4
 奥の院五輪塔類5     奥の院五輪塔類6
黒澤山は中世多くの坊舎によって構成され、今も参道左右などの多くの坊舎跡を明瞭に残す。
 黒沢山坊舎跡01     黒沢山坊舎跡02     黒沢山坊舎跡03     黒沢山坊舎跡04     黒沢山坊舎跡05
 黒沢山坊舎跡06     黒沢山坊舎跡07     黒沢山坊舎跡08     黒沢山坊舎跡09     黒沢山坊舎跡10
 黒沢山坊舎跡11     黒沢山坊舎跡12     黒沢山坊舎跡13     黒沢山坊舎跡14     黒沢山坊舎跡15
 黒沢山坊舎跡16
現在、山下には、幕末末期に下山した光明寺が2、3棟の堂宇を備えて現存する。
 山下光明寺門前     山下光明寺護摩堂     山下光明寺玄関庫裡
 


淡路賀集八幡宮多宝塔

 →淡路賀集八幡宮多宝塔跡

淡路八幡宮別当竜宝院二層宝塔

 →淡路竜宝院二層宝塔

淡路安国寺跡(参考):利生塔が安国寺に建立されていたのかどうかは不明 。

栖賢山安国寺。淡路守護細川師氏(あるいは氏春)が、居宅を改めて安国寺とし、大道一以を招いて開山としたという。多くの堂宇が建立されたが、永正14年(1517)細川尚春の没落により衰退、廃寺となったされる。
淡路國名所圖會:「大久保村にあり。寺山と称す。門前の池と号するあり。・・・
仏殿・法堂同時に建立なりて神祠・祖堂・亘殿の左右に連なる。しかうしてのち、僧堂・山門造営する。・・・今寺山の廃跡の上にあるは大雄仏殿の跡、その左は祖堂の跡なり。立石の正中を円鏡の形に彫りたるあり。俗にこれを鏡石といふ。・・・下の平地は演法堂の跡なるべし。その真下は僧堂の跡、または山門のありし所といふ。犂かれて田圃となれるところ多し。・・・」
現在現地は安国寺跡の石碑があるのみ。石碑は山門のあった場所とも思える。その石碑の右手の山地に伽藍跡地があった痕跡があると云う。あるいは左手田圃の地が伽藍地であるのか・・判然とはしない。なお利生塔の場所は不明とされ、ここの大久保に比定する見解もあると云う。(情報不足、不詳)
 淡路安国寺跡

淡路成相寺多宝塔

 →淡路成相寺多宝塔


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