多宝富士山要法寺

要法寺概要

多宝富士山と号する。現在は日蓮本宗(日尊門流)本山。本尊:十界曼荼羅。
日尊上人を開山とする上行院と日大上人を開基とする住本寺を前身とする。
暦応2年(1339)あるいは延元元年(1336)日尊上人、六角油小路に法華堂(後の上行院)を創建する。
興国3年(1342)日尊上人、弟子日印(会津実成寺)を招いて上行院を授ける。
正平17年(1362)日尊上人弟子日大上人、冷泉西洞院(二条堀川)に法華堂を建立。この法華堂が後の住本寺となる。
天文5年(1536)天文法華の法難で上行院・住本寺とも京を追われ堺に逃れる。
天文17年(1548)帰洛が勅許され、
天文19年(1550)住本寺日辰上人、上行院と住本寺を統合し、五條坊門堀川に要法寺を建立する。
 (新寺法条目15個条)
天正11年(1583)豊臣秀吉の命により、京極二条東(二条寺町)に移転する。
2013/01/17追加;
文禄4年(1595)秀吉の方広寺大仏千僧供養会を廻っては、21世日性は自らは本國寺の会合には参加せず、日賙(にちしゅう)を以って不出仕を主張させ、自身は一度も出仕しなかったが、要法寺としては出仕したらしいと云う。
 <「不受不施の信仰」渡辺宝陽(「日蓮信仰の歴史」講座日蓮3、昭和47年 所収)より>
  →千僧供養会の出仕・不出仕についての詳細は「仏性院日奥上人」>「大仏殿千僧供養会を廻る評価」の項を参照。
宝永5年(1708)の大火で類焼(宝永の大火)。同年、現在地に移転・再興。
宝暦9年(1759)大火、焼失。
安永3年(1774)本堂落慶(10間3尺×9間、瓦葺)、文政13年(1830)、開山堂再建(新堂・4間3尺×6間、瓦葺)
文化2年(1805)表門建立

日興門流(富士門流)八本山の一つである。(富士五山、保田妙本寺、伊豆実成寺と当山要法寺)
明治9年、末寺84ヶ寺とともに、富士門流の統一教団日蓮宗興門派の結成に参加。
明治32年、日蓮宗興門派は本門宗と改称。
昭和16年、戦時の強制で日蓮宗(一致派)、顕本法華宗(勝劣派)、本門宗の三派が合同し、日蓮宗となる。
昭和25年、要法寺は旧末寺50ヶ寺とともに日蓮宗を離脱、日蓮本宗となる。

2010/10/21追加:
当ページに於いて要法寺「開山堂」を「釈迦堂」の名称で掲載していたケースがあったが、これを「開山堂」に変更する。
その理由は、現在本堂西の堂は「開山堂」と揮毫する扁額が掲げられていること、諸記録からこの堂は開山堂として建立されたことが」明らかであること、現在地では釈迦堂は建立されなかったのが事実であろうと思われることなどである。
 ※この処置は要法寺を深く理解されている某氏より釈迦堂の名称は不適切との指摘を受けたことによるものである。
  曰く、要山に於いては釈迦堂か開山堂かは「化儀」に関わる事であるから看過できないことである。)
▲参考1:
 某氏ご提供:平成19年1月1日発行(第406号)「要法」では「元本山総代・本山本堂・開山堂屋根修復実行委員」云々の記事を認めることが出来る。
▲参考2:
 要法寺開山堂扁額:2009/11/05撮影、要法寺ではこの堂宇に開山堂の扁額を掲げる。
▲参考3:
 「近世京都日蓮宗妙顕寺・妙覚寺・要法寺の伽藍配置」丹羽博亨(日本建築学会計画系論文報告集 第402号所収)では以下の記載がある。
天正16年(1588)帰洛後の要法寺に於いて、漸く日辰13回忌に際し本堂(釈迦堂)が建立される。
寛永年中(1624-)本堂(釈迦堂)再興との記事があり、本堂(釈迦堂)が再興される。(退転理由は不明)
即ち伽藍中心は釈迦堂が南面し祖師堂は釈迦堂の前方東にあり西面する。
  ※二条寺町時代の伽藍については下掲の「○二条寺町の伽藍(要法寺伽藍絵図)、山州名跡志」の項を参照
宝永5年(1708)類焼、二条寺町から現在地(二条川東/東山三条)に移転。
「要法寺明細誌」(明治21年)では現在地での再興伽藍を以下のように記すと云う。
 ・本堂 竪10間3尺、横9間、瓦葺、明和7年(1770)上棟、安永3年(1774)落成。
 ・本堂本尊 彫刻本尊 日興上人筆 宗祖聖人御影 御丈2尺4寸5分。
  つまりは再興本堂は祖師堂本堂の性格となる。
開山堂については以下のように記す。
 ・開山堂 竪4間3尺、横6間、瓦葺、文政13年(1830)再建。
 ・開山堂本尊 彫刻板本尊、日蓮上人筆、開山日尊上人像 丈2尺2分5厘。
下掲の「本山要法寺全景:明治26年 」は
祖師堂本堂と開山堂(新堂)が並列し南面する現在の寺観で描かれる。釈迦堂は建立されていない。
▲参考4:
 「新撰京都名所圖會 3」竹村俊則、唱和36年 掲載の要法寺伽藍図
 新撰京都名所圖會要法寺:ここでは「釈迦堂」とあるが、上掲の▲参考3では、釈迦堂は建立されず、開山堂が建立とあるから、この絵図の挿絵の「釈迦堂」は何かの錯誤の可能性が高いであろうと思われる。
本文中には「広大な境内には本堂・新堂など多くの堂宇があり」と記載され、釈迦堂・開山堂の字句はない。
 なお「路 東山と東大路通」明永恭典編、唱和48年 では、現在の堂宇は享保元年(1716)より60年をかけて建築されたもので、本堂は出雲・石見の三瓶山より切り出された欅で再建された。落慶は安永3年(1774)で土壁を用いない総欅造の建築として名高いとある。

2007/10/11追加:
「近世京都日蓮宗妙顕寺・妙覚寺・要法寺の伽藍配置」丹羽博亨(日本建築学会計画系論文報告集 第402号 所収)
○二条寺町の伽藍
要法寺伽藍絵図:「新編法華霊場記」享保3年(1686)刊:二条寺町の伽藍
 本堂・祖師堂・刹堂・番神堂・同拝殿(推定)・鐘楼(推定)・寺中などが描かれる。(この行2010/10/21追加)
・「山州名跡志」元禄15年(1702)では
要法寺ハ妙伝寺ノ南二条ノ北ニ在り
堂ハ南面、祖師堂ハ堂前ノ西南ニアリ、刹堂ハ堂前ノ東南ニアリ、番神社ハ祖師堂ノ東南ニアリ西面ナリ」

○二条川東の伽藍
2015/01/18追加:
○「東山名勝圖會」(「再撰花洛名勝圖會 東山之部」)木村明啓・川喜多真彦/著、松川安信ほか/画、元治元年(1864) より

巻3:東山名勝圖會要法寺:左図拡大図
新堂については次のように述べる。
 「本堂の西にあり。釈迦牟尼仏を安ず。」
※この記述が正しいとすれば、新堂は開山堂の機能よりは、釈迦堂の機能であったといえる。
上述の「新撰京都名所圖會要法寺」では開山堂を釈迦堂と表記しているが、その表記はこの「東山名勝圖會」に影響されているものかも知れない。
なお。
本図の本堂左(東)に鐘楼、本堂右(西)に土蔵造の宝形堂が相対するが、この宝形堂は今はなき経蔵と推定される。

本山要法寺全景:明治26年 :(現開山堂の名称は読取不能、2文字であるから新堂か?)

要法寺現況
無印は2001年5月25日撮影、※印は2001年6月10日撮影、□印は2007/03/10撮影、△印は2009/11/05撮影、
○印は2014/05/01撮影

現伽藍(概要図)は宝暦の大火後の再建。概要図は目測をメモしたもので必ずしも正確ではない。
     →2010/10/21:左記概要図中の「釈迦堂」は「開山堂」が正しい。
・2001年5月25日
玄関・方丈の一角は近年新築された模様、本堂・開山堂も修理が行われた模様であるが、境内は駐車場と化す。
2009/11/05:
 要法寺伽藍俯瞰
   開山堂は以前には新堂と称するも、大正4年以降大御本尊と開山日尊上人御影像を安置し開山堂と改める。

表門
 表  門     △要法寺表門     ○要法寺表門2
西門
 △要法寺西門     ○要法寺西門2     ○要法寺西門3
伽藍
 開山堂・鐘楼(左から 開山堂・本堂・鐘楼)     □開山堂・本堂・鐘楼     △要法寺伽藍:本堂・寺務所・鐘楼
 ○要法寺鐘楼/表門     ○要法寺鐘楼/本堂     ○要法寺鐘楼/開山堂
本堂:桁行5間梁間5間
 本  堂     □本堂その2     △要法寺本堂1     △要法寺本堂2
 ○要法寺本堂3     ○要法寺本堂4
開山堂
 △要法寺開山堂1     △要法寺開山堂2     ○要法寺開山堂3     ○要法寺開山堂4
鐘楼
 1972年撮影画像:鐘  楼     要法寺鐘楼     ○要法寺鐘楼2     ○要法寺鐘楼3
寺務所/宗務所
 △寺務所・宗務所1     △寺務所・宗務所2     ○寺務所/宗務所3     ○寺務所/宗務所4
 △要法寺方丈       ○本坊門(仮名称)
要法寺寺中
・大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第ニ十八學區之部) より
元境内は4,356坪、今4,074坪。
旧塔頭14坊、今9坊となる。近く末寺宗法寺は伏見より、南陽院は愛宕郡大宮村より来り。本寺に合す塔中玄祥院は既に廃寺とす。
現塔頭:真如院・本行院・本地院・妙種院・顕壽院・法性院・信行院・実成院・恵光院
2010/12/19追加:
・「花洛羽津根」清水換書堂、文久3年(1863) より
多宝富士山要法寺塔中:
信行院、法性院、顕壽院、実成院、恵光院、良善院、妙種院、真如院、本地院、大林院、知見院、随信院、勧持院、惠明院、自成院 15ヶ院
花洛の末寺:小栗栖村久遠山本経寺(日蓮宗檀林中京都小栗栖檀林 )、鳥部山実報寺などがある。
・2001年5月25日
塔頭として現在は真如院・本行院・本地院・妙種院・顕壽院・法性院・信行院・実成院の8院を有する。
しかし信行院の古の堂舎は既に無く、駐車場と化し、駐車場奥にごく最近建立されたと思われる簡素な「信行院仮堂」が存在するだけとなる。
 北側塔頭     南側塔頭
 
本行院     寺中本行院2
 △本地・真如・妙種院     本地/真如/妙種院2
 本地院     △真如院     ○寺中真如院2     △妙種院     寺中妙種院2
 廃坊舎( 恵光院跡)     廃坊舎跡2・・・「京都坊目誌」には 恵光院の名称があるので、恵光院かも知れない。
   京都市明細図では「恵光院」とある。
 △顕寿院     ○寺中顕寿院2     △実成院     ○寺中実成院2     △法性院     ○寺中法性院2
 信行院        △信行院:仮堂      ○寺中信行院2
開山堂西側
 ○開山堂西側現況
 「新撰京都名所圖會要法寺」(上に掲載)では経蔵が描かれるので近年までは経蔵が存在した。
 2001/05/25撮影画像には以下のように経蔵が写る。
  要法寺経蔵:写真左端の宝形土蔵(白壁)造の堂が経蔵:現在は退転 (退転時期不詳)し存在しない。
 明治26年の「本山要法寺全景」(上に掲載)には番神社や経蔵と思われるような堂宇が描かれるが今は全て廃絶する。
 2015/01/18追加;
 上に掲載の「東山名勝圖會要法寺」では、本堂左(東)に鐘楼、本堂右(西)に土蔵造の宝形堂が相対するが、
 この宝形堂は経蔵と推定される。  


2010/05/13追加:
日尊上人

「日蓮教団史概説」影山堯雄 などより
文永2年(1265)奥州玉野(尾花沢の東)の産、幼少にて出家する(天台僧)。
 ※但し「霊山町史」、「霊山の歴史 史跡名勝霊山 改定版」、「伊達氏ゆかりの歴史を訪ねて」(小冊子)などでは
  「文永2年霊山の麓相馬市玉野に生れる」などと記述し、霊山の麓の玉野で生れたとする。
  少年の頃天台宗の寺院(霊山寺か)で修行するという。
 ※奥州亀卦川家(きけがわけ)の出身とする資料もある。
 ※日尊は玉野太夫阿闍梨と称する。
 ※久成院:富士大石寺久成院は正応3年(1290)、日尊の開基と伝える。
弘安6年(1283)地頭所(奥州三迫六町目)で日目に師事。久成日尊と改名。
弘安7年(1284)日目と共に身延に登り日興に師事する。
正安元年(1299)重須にて日興より破門。諸国を遍歴す。
 日尊は全国で36ヶ寺を開くと云う。
  立子山の一圓寺がその一寺で、高湯温泉で邂逅した地頭松尾信高の招請により開山する。
   (「伊達氏ゆかりの歴史を訪ねて」)
元弘3年(1333)師の日目に随って天奏の為京への途中、美濃の垂井にて日目が遷化、その意志を継ぎ入洛す。
建武元年(1334)日尊、後醍醐天皇に天奏を行う。皇室より六角油小路に寺地を寄進さる。この頃法華堂(後の上行院)を開山。
興国3年(1342)日尊、会津実成寺から弟子の日印を招じ上行院を授く。
興国6年(1345)日尊寂(81歳)。

サイト:日蓮正宗の余話の「要法寺開山日尊上人」には以下の情報がある。
1)日尊師は陸前国登米郡(現在の宮城県登米郡中田町)の出生
2)現在28ヶ寺の開山寺院が確認される。
正安2年(1300)出雲馬木安養寺、出雲妙剛寺、出雲須所妙音寺、出雲馬木金言寺
正安3年(1301)陸奥立子山一円寺、伊豆柳瀬実成寺、石見大田法蔵寺
嘉元元年(1303)会津黒川実成寺、陸奥岩瀬満願寺、下野小薬浄円寺、下総猿島富久成寺、武蔵粂原妙本寺、岐阜正興寺
嘉元2年(1304)陸奥仁井田願成寺、丹後奥大野長福寺
嘉元3年(1305)陸奥渡仏眼寺(→陸奥の日蓮宗諸寺中)、会津細工名妙福寺
徳治元年(1306)出羽高畠妙国寺、出羽米沢妙円寺、出雲朝山妙伝寺
延慶元年(1308)山城上行院
延慶3年(1310)出雲東郷東満寺
応長元年(1311)出雲平田本妙寺 (2012/10/19追加) → 「西国諸国の日蓮宗寺院」の出雲平田の項を参照。
正和元年(1312)武蔵浅草妙円寺
暦応元年(1338)出雲松江菩提寺
年代不明ながら下野那須稗田法華堂、下野石田法華堂、丹波上興寺


要法寺末寺

○陸奥渡利佛眼寺:要法寺末 →陸奥の日蓮宗諸寺
○山城多寳山實報寺 →山城の日蓮宗諸寺
○出雲平田本妙寺 →出雲平田の諸寺
 


2006年以前作成:2015/04/07更新:ホームページ日本の塔婆