弘経寺 宝国寺 学養寺 本覚寺 大妙寺 (京都21本山の内)

2017/10/30追加:
洛中法華宗21本山

洛中法華宗21本山とは通常次のように云われる。(妙慶寺は含有しないことに留意)

元亨元年(1321)/日像(四条門流)/四条妙顕寺/今小路
建武元年(1334)頃あるいは暦応2年(1339)あるいは延元元年(1336)/富士門流日尊/上行院(現要法寺)/六角油小路
暦応3年(1340)/四条門流日朗門下日行/大妙寺(本ページ中)/
貞和元年(1345)/日静(六条門流)/六条本國寺/堀川六条
正平17年(1362)・上行院より分立/富士門流日源あるいは日尊弟子日大/住本寺(現要法寺)/冷泉西洞院(二条堀川)
永和元年(1375)/四条門流日譽/弘経寺(本ページ中)/
嘉慶元年(1387)/四条門流日實/妙覺寺/
永徳元年(1389)/日什(日什門流)/妙満寺/六条坊門室町西頰
応永8年(1401)頃/四条門流日朗門下日善/寶國寺(本ページ中)/
應永13年(1406)/日陣(日陣門流)/本禪寺/四条堀川
應永16年(1409)/六条門流日秀/本満寺/
應永23年(1416)/四条門流玄武日實/立本寺/四条櫛笥
応永年中(1394-1428)勝劣派大成房日慶(開山は日應)/妙連寺/四条綾小路
応永30年(1423)頃/身延9世日學の時身延門流日養(一説日學門人日讃)/學養寺(本ページ中)/綾小路
永享3年(1431)/妙満寺5世日舜/妙泉寺/綾小路(三条油小路とも云う)/寂光寺中に在りしが、近年廃絶す
永享5年(1434)/日隆(日流門流)/本能寺/六角大宮
永享8年(1436)/中山門流日親/本法寺/四条高倉
文安元年(1444)/妙覚寺9世日延/本學寺(本ページ中)/三条猪熊/文正元年(1466)妙覚寺と合併
宝徳元年(1449)/中山門流日祝/頂妙寺(日英の洛中妙法寺を改号)
文明9年(1477)/身延門流身延12世日意/妙傳寺/一条
長享2年(1488)/日眞(日眞門流)/本隆寺/四条大宮
 典拠:
 「日蓮教団史概説」影山尭雄、昭和34年
 「法華諸本山の成立と法華一揆」藤井学、近畿教化研究会議連絡センター(立本寺内) 、刊行年記載なし
 「京都の歴史 第3巻 近世の胎動」京都市編、昭和54年
 「新撰京都名所圖繪 巻3及び巻4」竹村俊則

 参考;
  京洛諸本山の現況

2017/07/15追加:
○「妙本寺誌」宮原日鷲、河岡妙本寺、平成10年 より
天文5年(1536)の天文法華の法難で、洛中の21ヶ寺本山は壊滅するが、やがて本山16ヶ寺は復興なる。
しかし、残り5ヶ寺は再興ならず、本山寺寺院の屋敷内に寺跡名号を残し、塔頭院となる。

2023/06/02追加:
○「伊那郷土文化10 日樹上人の研究」山田居麓、山村書院版、昭和16年 より
天文法華の乱:天文5年(1537)
 遠因は都に於ける法華宗の隆盛と、それを笠に着て母体となった天台への攻撃が烈火し、天台との確執が昂じていたことであるが、直接の発端は、当時将軍不在の都は管領細川晴元の支配下にあったが、天文元年(1532)晴元と対立した本願寺(一向一揆)が入洛する構えを見せ、晴元は法華一揆と同盟してこれを防御し、翌年には山科本願寺を焼き討ちする。
これに対し、天文5年、敵対する山門はその僧兵を用い近江の佐々木氏・六角氏の援軍を得て武装した洛中の法華宗(法華一揆)寺院の攻撃を開始する。いよいよ両者は数日各処に展開し、双方多数の戦死者を出し、妙覚寺日兆・小倉中将公右・卜部兼永などは戦死、結果は悉く法華宗側の敗戦となり、21ヶ本山及び洛中の62ヶ寺全て烏有に帰し、貫主法類などは悉く堺に退避する。その劫火は漸く応仁の乱から復興した京の街区を再び焦土とする。法華宗は暫く堺に謹慎する。
 天文11年(1542)後奈良院より帰洛及び再興の勅許が下され、順次再興が為されるが、帰洛できた本山は15ヶ寺にとどまる結果となる。これ沈衰の兆しならむ。
 日樹上人伝>天文法華の乱 より転載


大妙寺

○「法華諸本山の成立と法華一揆」藤井学、近畿教化研究会議連絡センター(立本寺内) 、刊行年記載なし より
暦応3年(1340)日行上人(四条門流)開基。
日行上人は日像上人と同一の日朗門下であり、日像の頃洛中に小庵を構え、布教する。のちにこれが本山に発展する。
○※京洛妙顕寺寺中「大妙寺」の項より:
妙音山と号する。暦応3年(1340)妙音阿闍梨日行(日朗門下の九老僧の一人)を開基として創建。
京洛法華宗21本山に列する。天文法華の乱でことごとく焼失。
豊臣秀吉の京都改造により、妙顕寺山内に再興。
本堂には、三宝荒神像(伝教大師作と伝える)を安置。
 ※なお、近世には大妙寺は妙顕寺山内にあったが、平成3年西京区樫原百々ヶ池(西京区樫原秤谷町)に移転。
 ※洛中妙傳寺
○2010/12/19追加:「花洛羽津根」清水換書堂、文久3年(1863) より
具足山妙顕寺塔中:大如院(大妙寺といふ 寺領2石)、泉妙院(弘経寺といふ) ・・・以下略
2017/10/31追加:
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
妙音山大妙寺:
暦応3年(1340)妙音阿闍梨日行によって開山される。日行は日朗のもとで出家得度し、朗門九鳳の一人であった。
日朗寂後、妙顕寺日像のもとに至り、日像の尊客徳行を慕い、京都に留まることととなる。日行は大妙寺の前身寺院を建立する。
 かっては下鴨にあり、京都21ヶ本山の一つに属したが天文5年(1536)の法難で焼失し、その後再興されたが、秀吉の命で現在地に移転する。
 ※下鴨には松ヶ崎妙泉寺末「大妙寺」と称する寺院があったようである。(→山城下賀茂大妙寺<山城の諸寺中)
 下鴨大妙寺は日像との関係が濃厚であり、この下鴨大妙寺は京都21ヶ本山であったとも思われるが、下鴨大妙寺のいう
 開山の沿革を見る限り、別の寺院であったようにも思われる。
 ※「法華諸本山の成立と法華一揆」では天文初年の21ヶ本山の地図が示されるが、大妙寺の位置は不明とされる。
寺内には伝教大師作と伝える三宝荒神像が安置される。(昭和56年当時)妙顕寺山内にある。
 ※現在、移転した樫原百々ヶ池の寺地には三宝荒神堂が建立され、そこに安置される。
 四条妙顯寺山内大妙寺:現在は移転し、この堂宇はない。
2017/10/31追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
旧本山:京都妙傳寺(京都妙顕寺)、勇師法縁。
沿革:上記の「日蓮宗大図鑑」と同一。
 1世:妙音阿闍梨日行/元徳2年(1330)62歳、29世は中興改歴1世:境順院日義/昭和13年、2世:尚義院日要/昭和18年・・・とある。
 ※開山後の2世の名称は詳らかならず。
○2016/03/31撮影:
 大妙寺山門     門前寺号碑:妙顕寺山内の旧地から移したものであろう。
 大妙寺本堂1     大妙寺本堂2     大妙寺三宝荒神堂     大妙寺三宝荒神     大妙寺鐘楼
 大妙寺庫裡客殿    大妙寺宝蔵か    大妙寺寮か
 大妙寺歴代墓碑     歴代墓碑1:開基日行上人ほか、但し下鴨大妙寺二祖という日良の名称は無いように思われる。
 歴代墓碑2 


弘経寺

○「法華諸本山の成立と法華一揆」藤井学 より
永和元年(1375) 開基日誉上人。
妙顕寺4世日霽上人代、像門(妙顕寺)から分流。

開基については以上であるが、その後の弘経寺については以下の諸説がある。
1)永享元年(1429)日延により堺移転、明治28年愛媛県に移転
 ※永享元年(1429)もしくは天文5年(1536)の法難で堺に移転、その後京都にての本格的再興が困難で、堺に本拠を置く。
 その状態が近代まで続くも、寺門の維持する困難がましたのであろうか、伊予に移転する。
 (明治28年愛媛・妙典寺の請願により、現在の愛媛県西予市に寺号を移す。
 あるいは明治26年妙典寺が弘経寺と改称したとも、四条妙顕寺寺中泉妙院に併合されたともいう。
2)寺籍は京洛妙顕寺寺中泉妙院が有する。天文法華の法難の後、泉妙院は京都五辻の本山弘経寺に寄寓する。
あるいは本山弘経寺は四条妙顯寺々中泉妙院を仮寺とする。
 ※永享元年(1429)もしくは文5年(1536)の法難で堺に移転、その後京都にて本格的再興を目指すも、
 実現できず、四条妙顯寺々中泉妙院を仮寺とする状態が現在までも続く。

1) 洛中21ヶ本山の一つであった。寂光山と号する。
永享元年(1429)日延により堺(櫛屋寺町)に移転。明治28年に愛媛県に移転したという。
2008/11/16追加:
「堺市史 第7巻 別編」堺市役所編纂、昭和5年 より
廃弘経寺:寂光山と号す、寺跡は櫛屋町東4丁目寺町にあり。
古は京洛21ヶ寺本山の一であったが、永享元年(1429)日延上人之を当所に移し、妙顕寺末寺となる。
 ※以上によれば、天文5年(1536)の法難以前に堺に移転と云うことになる。
明治28年愛媛県東宇和郡下宇和村下用へ移転。(「寺社明細帳」)
 ※移転先での現状情報は未掌握。
2022/11/27追加:
Webで探した結果、現在、東宇和郡下宇和村下用(下川?)には「弘経寺」という寺院は見当たらない。
 ※東宇和郡下宇和村下用(下川?)は現在の行政区では西予市下宇和町下川
一方
宇和島市に弘経山妙典寺と称する寺院がある。
所在は宇和島市妙典寺前506。
「日蓮宗寺院大鑑」および「日蓮宗大図鑑」では
文禄3年(1594)現住院日相の開創。四条妙顕寺末。
文化2年(1805)全焼、その後再興、安政2年(1855)山門を除き、全焼。
(あるいは寛政元年/1789焼失とも云う。)
明治18年備中高松から勧請した稲荷堂を後山から現在地に移築、昭和の初めから戦後にかけて堂宇を再興、境内を整備する。
という。
山号が弘経山とあるから、あるいは弘経寺は妙典寺と合併し、山号にその名を遺したとも思われるも、「日蓮宗寺院大鑑」および「日蓮宗大図鑑」では、上記のように、一切そのようなことには触れられていない。
妙典寺が四条妙顕寺末ということも傍証であるかも知れない。
従って、弘経寺の伊予での消息は已然として、不明である。

2)京洛妙顕寺寺中泉妙院の項より:
妙顕寺のサイトでは泉妙寺について以下のように述べる。
 永和元年(1375)日縁上人の開基なり。
天文法乱(天文5年(1536))後、京都五辻の本山弘経寺に寓居する。
天明の大火(天明8年(1788))後、本山弘経寺の天徳院日法上人、本行院と合併して興善院跡に泉妙院を再建す。興善院は尾形家一族の菩提寺にして光琳并に一族の埋葬地である。
光琳の血族の小西得太郎と共に株式会社三越が明治時代より施主となり泉妙院に於いて毎年光琳忌法要を営んでいる。
酒井抱一建立の供養碑并に株式会社三越建立の供養塔もある。

 ※弘経寺<永和元年(1375)日誉上人開基・京洛法華宗21ヶ本山>の寺籍を有すると云う。
上にある「妙泉寺は天文法乱後、京都五辻の本山弘経寺に寓居する」という文言から、永享元年(1429)に堺に移転する(「堺市史」)というのは誤伝であるのであろうか。あるいは、堺に移転するも、京都にも寺号を残したのであろうか。
あるいは、永享元年の堺移転は誤伝であり、天文法華の法難で堺に移転し、その後帰洛し、五辻に寺地を構えたのであろうか。
 泉妙院はもと北側(総墓地東)にあり(現在は駐車場)、今は現在地(南東位置)に移転と云う。
 ※上記の位置関係は四条妙顕寺のページに掲載の
  妙顕寺境内建物配置図(江戸後期・「天明8年類焼以前の記載」があるという。)
  及び
  妙顕寺境内建物配置図(妙顕寺蔵)・・・上図と同一図、天明8年類焼以前の配置図  で確認できる。
泉妙院は永和元年日縁上人の開基と云う。
天文法乱後、京都五辻の本山弘経寺に寓居する。
 (これは何を意味するのか。この意味は上述のように解釈される。)
天明の大火後、本山弘経寺の天徳院日法上人、本行院と合併して興善院跡に泉妙院を再建す。
 (これは、天明の大火まで本山弘経寺は存続し 、弘経寺に奇遇する泉妙院が妙顕寺本行院寺籍を得て、興善院跡に泉妙院を再興したという意味なのであろうか。)
 ※興善院は尾形家一族の菩提寺。
 ※四条妙顕寺の寺中:泉妙院の項を参照。

2010/12/19追加:「花洛羽津根」清水換書堂、文久3年(1863) より
具足山妙顕寺塔中:大如院(大妙寺といふ 寺領2石)、泉妙院(弘経寺といふ・・・以下略
2017/10/31追加:
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
泉妙院:
永和元年(1375)泉妙院日縁の開基で、23世(日明)まで続くも、その後弘経寺に合併される。
弘経寺の開基は日譽で、和泉住吉郡寺町(※現在の堺市/摂津住吉郡か)に寂光山弘経寺を建立した後、帰京し、泉妙院に住む。
本山弘経寺は六世日健の代天文法華の法難で、廃絶し、天文11年(1542)泉妙院を仮寺とする。
天保2年(1831)弘経寺の天徳院日法は、天明の大火の後、泉妙院を興善院旧地に再建する。その間興善院(尾形光琳・乾山の菩提寺)や本行院などを合併する。
また、株式会社三越は明治41年以降小西徳太郎(光琳の血縁)と共に施主となり、昭和22年頃小西家が淀にて絶えた後も、毎年当院にて光琳忌法要を営むという。
 ※妙顯寺のサイトで云う「(泉妙院は)本山弘経寺に寓居する」とは、天文法華の法難の後、本山弘経寺は再興ができず、あるいは下の述べる「堺市史 第七巻」でいうように永享元年(1429)堺に遷され、帰京するも天文法華の法難の後は再興ができず、妙顯寺塔頭泉妙院を仮寺とするということであろう。
 ※「日蓮宗寺院大鑑」も同一趣旨の記載である。
2017/10/31追加:
○「堺市史 第七巻」昭和5年 より
第二編 ~社、寺院、教會誌 第二章 寺院誌 第六節 日蓮宗 より
(一九)廢弘經寺   692 / 897 ページ
 弘經寺は寂光山と號し、【寺址】寺址は櫛屋町東四丁字寺町にあり、日蓮宗妙顯寺末で、【本尊】本尊は題目寶塔、釋迦、多寶二佛、宗祖日蓮である。【沿革】當寺古くは京キにあつて、二十一箇本寺の一であつたが、永享元年(1429)八月日延之を當所に移し、遂に妙顯寺の末寺となり、【移轉】明治二十八年三月愛媛縣東宇和郡下宇和村大字下川へ移轉した。(社寺明細帳)


宝国寺

「法華諸本山の成立と法華一揆」藤井学 より
応永8年(1401)頃、日善上人開基、寺地は本国寺に隣接と云う。
日善上人は日像上人と同一の日朗門下で、日像の頃洛中に小庵を構え、布教する。のちにこれが本山に発展する。

2010/12/19追加:「花洛羽津根」清水換書堂、文久3年(1863) より
大光山本圀寺塔中:
勧持院(又大法寺といふ)、松林院(又天雲寺といふ)、戒善院(又妙階寺といふ)、持珠院(又宝国寺といふ)・・・以下略

本圀寺塔頭配置の「持珠院」の項より:
持珠院:四寺家の一つ。
歴応元年(1338)日範上人伊豆船田に大教寺を建立。
貞和元年(1345)日靜上人に従い入洛(姉小路)。
応仁元年(1467)兵火に罹り、明応年中(1492-)再興に及び本寺境内に移る。
天文法華の乱で堺に避難。日助上人に従い帰洛再興。楠木正虎の菩提寺。
天明の大火で類焼。その後再建。
明治20年伊予の国に移転。
松陰井:持珠院にあり
2009/06/09追加:
 ◎天明大火前持珠院平面1:1棟を構え、1棟を左右に仏間と庫裏に別ける。妻入。
 ◎天明大火前持珠院平面2:同上。平入。・・・・但し、変面1と2の前後関係は不明
※伊予瀬戸町三机に持珠院と号する寺院がある。
山号:海森山、宗派:日蓮宗、本尊:一塔両尊士(釈迦牟尼世尊、法無辺行、浄行、安立行)の4菩薩、別名、「法華寺」ともいう。
明治15年(1882)、中尾城跡に建立される。(資料によっては、明治17年に設立されたと記すものもある。)
以上が概要で、おそらく本圀寺持珠院と思われる。
 ※京洛21本山の一つであった宝国寺(日善上人)は本圀寺塔頭持珠院に合併とされる。
  以上とすれば、宝国寺に連なる寺院であろう。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 明治15年、持珠院移転、海森山持珠院として愛媛県西宇和郡伊方町三机1032に現存。
2014/08/15追加:三机移転後写真
ページ「海森山 持珠院」 より転載
 旧本圀寺寺中持珠院:三机移転後
 


学養寺

○応永34年(1427)、日讃上人(身延門流)開基、寺地は四条と云う。

○ 「法華諸本山の成立と法華一揆」藤井学 より
身延9世日学、宝徳年中(1450頃)洛中に止住する身延門流子弟のため学養寺が建立される。

○「御宝物で知る身延山の歴史」 より
身延山9世日学、京都に学養寺を建立、身延門流における京都布教の拠点を作る。(2010/06/06追加)
身延山9世成就院日學上人;
 身延入山応永29年(1422)、長禄3年(1459)遷化、京都學養寺開山。(2014/05/10追加)

2017/10/31追加:
○「日蓮教団史概説」影山尭雄、昭和34年 より
応永30年(1423)頃身延9世日學の時日養(一説日學門人日讃)が京都綾小路に開く。

2012/11/07追加:
○「丹後日蓮教団の考察:本圀寺門流の展開を中心に」高野聡顕(「日蓮教学研究所紀要 33」2006 所収) より
丹後日蓮宗は宝徳年中(1449-51)京都学養寺開山(身延山9世日学)弟子実教院日養の宮津開教を始まりとする。

2017/10/31追加:
天文5年(1536)の法難で焼失した後、再興はままならなかったようで、現在では洛中妙傳寺々中妙釈院にその痕跡を僅かに残す。それ故、次に洛中妙傳寺のページから、寺中妙釈院の記事を転載する。

◆洛中妙傳寺々中妙釈院・・・・・洛中妙傳寺のページから転載
2014/05/01撮影:
學養寺旧跡碑
妙傳寺寺中妙釈院に學養寺旧跡碑(石碑)が建つ。
學養寺については、史料が乏しく、上記以外にその事績を明らかにすることはできない。
 しかしながら、學養寺は京都の身延山の拠点として身延門流によって創建されたことは確実のようで、この意味から、身延山の京都の拠点である妙傳寺に學養寺の寺籍が引き継がれた可能性は高いと思われる。
 學養寺は幾多の変遷の中でいつしか衰微し、妙傳寺にその寺籍を遷す、あるいは寺中妙釈院がその後継となるといったことは十分に有り得ることと思われる。以上意味で妙傳寺寺中妙釈院に「學養寺旧跡石碑」が建てられたのであろうと推測する。
 ○學養寺旧跡碑1     ○學養寺旧跡碑2:以上2014/05/01撮影
 ◇學養寺旧跡碑3:側面には開山日養聖人などとあり、學養寺の由来が記されるも、ほぼ判読不能(2022/05/17撮影)
2017/09/03追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
応永24年(1417)學要寺日養が創立、本山妙傳寺開山圓教院日意を開基に迎える。もと學要寺と名乗り、寺子屋学問の道場であったと伝えられる。
2017/10/31追加:
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
法鏡山妙釈院:
応永24年(1417)に創建と伝える。開山は妙傳寺開山である円教院日意とする。開基は日養である。
もとは學養坊と称する。応永24年開創とするのはその前身を學養寺とするからであろう。
學養寺は身延9世日學の門人大乗坊日讃が創立し、師日學を開山とし日讃は2世となる。その後、関西身延門流の諸寺は悉く學養寺の末寺と云われたというが、天文法華の法難(1536)で焼失する。再興はままならなかったが、後立本寺10世日経が一寺を建立したが、新寺建立禁止であったため、學養寺を称するという。しかしこの學養寺は勅命により燈明寺と改号する。この間(年代不明)日養が塔頭支院としてなら建立できたので、妙傳寺内に學養坊を建立する。
現在妙釈院と称しているのは、學養坊が改称したのか、妙釈院に接収されたのかは不明である。


本覚寺

文安元年(1444)、日延上人(妙覚寺9世)の開基と云う。 四条門流に属する。寺地は三条猪熊と云う。

文正元年(1466)本覚寺が隣接の妙覚寺に合併、妙覚寺の境内地は拡大、妙覚寺寺中は100余と云う記事があるが、この本覚寺がおそらく21ヶ寺本山の本覚寺であろう。


参考
山城勝光寺
勝光寺は洛中法華宗21本山の一つである妙慶寺の後身と云う。
しかし、かくいう妙慶寺は洛中法華宗21本山には含まれないのが通説である。妙慶寺が洛中法華宗21本山の一つという典拠は寡聞にして全く知らないというのが実態である。
 ※本ページの冒頭の「洛中法華宗21本山」を参照
さらに、妙慶寺ではなく、勝光寺は洛中法華宗21本山の一つである學養寺と縁故がある(寺格を引き継ぐ)と云うサイトもあるが、引き継いだ時期、経緯、典拠など一切が不詳であり、真偽は全く分からない。

勝光寺略歴
下京区中堂寺西寺町、学要山と号する。
勝光寺の縁起は以下のようにいう。
身延17世慈雲院日新上人によって妙慶寺として創建された。京都21ヶ本山の一つに列する。
 ※「大鑑」では妙慶寺ではなく「妙華寺」とするが、しjかし「妙華寺」とは単純な誤りとも推定される。
龍嶽院日長上人(日新弟子)代、天文法難(天文5年/1536)により焼失。
日長上人は駿河感応寺へ転出。即是院日完上人(日長弟子)、寛永8年(1631)に中興再興。
 ※日完については本項の下に掲載する「妙本寺誌」に略歴がある。
再興開基檀越は勝光院殿日勇尼(金牧丹後守の妻、朝倉吉景孫)とし、寺号は勝光寺、山号は日完の字から学要山と改号する。
 ※金牧丹後守についての詳細は摂津上牧本澄寺を参照。
天明の大火(1788)で焼失。
昭和54年本堂新築、平成8年客殿・庫裡を新築する。
2017/09/03追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より。
初め身延17世慈雲院日新により妙華寺として創立。京都21ヶ本山の一つ
開基の法資竜嶽院日長(圓覺院とも号し、伯耆米子感應寺・山城竜嶽院の開山)の時、天文法華の法難で焼失する。
日長は弟子即是院日完に復興を託し、駿河感應寺に転ずる。
中興日完は、寛永8年(1631)開基檀越勝光院殿日勇尼(金牧丹後守の室・朝倉吉景の孫)の外護を得て再興する。
寺号は開基檀越の法号を採り、山号は日完の字により學要山と号する。
天明の大火で焼失、昭和54年本堂を造替。
 ※「日蓮宗大図鑑」も同一の内容である。(但し、前身は妙慶寺とする、妙華寺ではない。)

○2014/05/01撮影:
勝光寺山門:南面する。山門に隣接する建物は保育園で、本堂などはその背後・北にある。
 勝光寺山門1     勝光寺山門2
勝光寺伽藍:本堂はRC造、東面するが東面には入口はない。東は墓地である。寺務所は庫裡玄関客殿の複合と思われる。
 勝光寺本堂1     勝光寺本堂2     勝光寺本堂3     勝光寺寺務所
歴代碑:墓地中に日蓮碑、開山・中興碑、壇越勝光院殿碑、歴代墓碑・供養碑及び新歴代墓碑などがある。
 日蓮大菩薩碑:左に開山日新、中興日完上人碑がある。
 開山・中興碑:開山日新、中興日完 とある。しかし下に掲載の新歴代墓碑(2世以下の歴代を記す)には日完上人の名が無く、また日長上人の名も無いのであるが、これは日完上人を中興1世として、2世以下の歴代を記するためであろう。
要するに、妙慶寺から勝光寺の中興は深刻な断絶があったことを示すのであろう。
 勝光院殿日勇尼墓碑:妙法當寺開闢壇越勝光院殿日勇大姉
  ※中興開基檀越勝光院日勇尼 →上牧本澄寺中「牧兼重(金牧丹波守・富松兼重)事跡」にあり。
 歴代墓碑・供養碑
多くの碑が並ぶが、確認したものだけを以下に記す。
 前列向かって左から、
至道院日照:第40世/昭和45年、一道院日隋:第39世/昭和41年、本地院日宏:第38世/昭和17年、
本立院日誠:第37世/昭和15年、止玄院日清:第35世/明治20年 の墓碑である。
 中列は向かって左から、
不明の墓碑、智道院日進:第13世と智境院日演:第5世の連名の墓碑、
自寂院日行:第18世/宝暦5年(1755)、躰異院日迨:第15世と泰智院日洪:第14世の連名、4名連記の信者墓碑、
本是院日精:第3世/延宝元年(1673)、未確認の墓碑 である
 後列は向かって左から、3基の墓碑(未確認)があり、題目を刻む石卒塔婆、
旧歴代碑(下に銘を掲載)、一番右は辨成院日随:太12世/享保3年(1718) であろう。
 ※旧歴代碑の銘は、開山日新、2世日鷲、(3世)日精(延宝元年)、4世日榮(宝永5年/1708)、(5世)日演、
 6世日淳、(7世)日宣、8世日暁(宝永7年/1710)、(9世)日収(宝永7年)、10世日感、(11世)日営 である。
 新歴代墓碑;近年建立された新しい墓碑である。2世日鷲から前住持までの法名を刻む。

2014/05/10追加:
○「御宝物で知る身延山の歴史」 より
17世慈雲院日新上人:
天正6年(1578)身延入山、天正20年(1592)遷化58歳。
小室妙法寺17世、茂原妙光寺15世、谷中瑞輪寺、信濃本立寺、広福寺、妙福寺、西谷南向坊など開山。
2017/07/25追加:
○「妙本寺誌」宮原日鷲、河岡妙本寺、平成10年 より
◆慶長期の特異な内規
 「(伯耆妙本寺)14代圓妙坊日運ノ同座、圓覺坊日長ハ甲州巨摩小室産、慈雲日新門弟、京洛法華寺住、甲州小室徳栄山(小室妙法寺)17代、駿州感應寺11代、伯耆米子感應寺開檀、雲州啓雲山開山。(※雲州啓雲山は不詳)
中村式部大輔嫡子一忠公、伯耆太守封サレ尾高ニ入ル老臣横田内膳、米子府縄張ニ兵法才智ノ上人併道、当山住ス内膳慶長8年誅殺入封3年、裏砦台ニ葬ス日長九年出雲ニ出国ス同12年当山ニ養老、同16年示寂、寿90余。徳栄山に葬ス。
感應寺伝とはいささかに相異する。龍巌院日長上人と感應寺は誌す。感應寺日長は伯耆に入国して、当山に滞在1年、米子に2年、内膳亡き後に出雲に出国、伯耆に再入国は4年後で、老病体で来訪、5年後に当山で示寂。とある。
2017/07/25追加:
○「妙本寺誌」宮原日鷲、河岡妙本寺、平成10年 より
◆天正慶長の在地武士
即是院日完:伯耆会見郡河岡出身僧、寛文5年(1666)11月24日寂、寿88歳。
伯耆河岡妙本寺(妙春寺)14代圓妙坊日運の門弟。附書山崎市左衛門の族に当ル。
常陸水戸本行寺・安芸広島妙頂寺・若狭小浜妙光寺を巡歴し、京都下京に勝光寺を開山し、同寺で寂す。

2017/10/31追加:
洛中法華宗21本山の一つという「妙慶寺」の後身として、上記のように、日完によって妙慶寺は中興され、勝光寺となるという。
但し、上記で縷々述べたように、「妙慶寺」を21ヶ本山の一つとするのは異説である。
一方、洛中妙傳寺々中竜嶽院も「妙慶寺」の流れを汲むという。
それ故、次に洛中妙傳寺のページから、寺中竜嶽院の記事を転載する。

2017/10/03追加:
◆洛中妙傳寺々中竜嶽院・・・・・洛中妙傳寺のページから転載
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
天文5年(1536)の創立、開山竜嶽院日長、開基は身延17世慈雲院日新の資である。
日新が身延山に晋山、日新の創立した妙華(ママ)寺(旧21ヶ本山の一つ)の2世となる。
しかし、天文5年天文の法難により妙華寺は焼失、一時難を避けるも、後妙傳寺に接し居を構える。これが今の当院である。
 →同じく學養寺を参照:學要山勝光寺が廃學養寺の寺格を引き継ぐともいう。
2017/10/31追加:
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
法鏡山竜嶽院:
慶長17年(1612)の創建、開基は竜嶽院日長である。日長は身延17世慈雲院日新の弟子であり、日新が身延へ晋山したため、日新の建立した妙慶寺(旧21ヶ本山の一)の2世となる。しかし天文の法難(1536)にて妙慶寺は焼失し、一時堺に退避する。その後日長は妙傳寺に接して居を構え妙慶寺の復興を図る。是が現在の当院である。

2017/10/31追加:
勝光寺は學養寺の寺格を引き継いたというブログがある。(2014/05/11追加記事である。)
○2014/05/11追加:
ブログ「お寺の風景と陶芸」>「勝光寺 (京都市下京区) 洛中法華21ヶ寺」では以下のように述べる。
 「・・・<天文法華の乱>で21ヶ寺は悉く灰燼に帰し、以後6年間は京都において法華宗は絶えた。
天文11年(1542)勅許によって再び法華宗は復活し、15ヶ寺が再興されている。その中にあって、21ヶ寺の一つ学養寺は再興されずに廃寺となっている。学養寺の寺格を引き継いだのが学要山勝光寺である。
 勝光寺は応永34年(1427)妙慶寺として開創されたが、天文5年(1536)天文法華の乱によって焼失し、寛永8年(1631)勝光寺として再興されている。
いつの時点で学養寺の寺格を引き継いだかは不詳である。」
 ※勝光寺が學養寺の寺格を引き継いだ時期は不詳といい、また引き継いだという典拠や資料の明示は一切なく、このことの真偽は不明である。従って、勝光寺が學養寺の寺格を引き継いだということを真とする訳にはいかず、このことを取り上げることは躊躇せざるをえない。

2017/10/31追加:
洛中法華宗21本山の學要寺、その後身という妙傳寺々中妙釈院および洛中法華宗21本山と自称する妙慶寺、その後身という洛中勝光寺と妙傳寺々中竜嶽院とを要約すれば、次のようになる。

洛中法華宗21本山の學要寺は宝徳年中(1450頃)洛中に止住する身延門流子弟のため身延7世日學あるいは日養によって創建される。
応永24年(1417)學要寺日養、妙釈院を創建。
天文5年(1536)天文の法難で、學要寺は焼失し、堺に難を避ける。
天文11年頃他の諸山が帰洛を果たす中で、學要寺は洛中に伽藍を再興できず、妙釈院に居を借り、寺号のみを戻したものと推定される。
それ故、妙釈院はもと學要寺と名乗り、後世には學要寺旧跡の碑が建てられたのであろうと思われる。
一方
応永34年(1427)妙慶寺(「大鑑」では妙華寺という)が身延17世慈雲院日新によって創建される。21ヶ本山の一つであるという。
天文5年(1536)天文の法難により、日新弟子竜嶽院(圓學院とも号す)日長代であったが、焼失する。なお日長は妙慶寺開基、伯耆米子感應寺開山、駿河感應寺11世などである。
寛永8年(1631)日長の弟子である即是院日完上人妙慶寺を中興し、寺号を勝光寺と改める。
一方では
日長は妙傳寺に接して居を構え妙慶寺の復興を図る。是が現在の妙傳寺々中竜嶽院であるという。
つまり、妙慶寺が21ヶ本山の一つかどうかは別にして、妙慶寺は勝光寺として中興されたということ以外に、妙傳寺々中竜嶽院として継続されているということもいえるのであろう。

2017/10/31追加:
堺に妙慶寺が存在する。
現状の資料だけでははっきりしないが、おそらく、京都の妙慶寺が天文法華の法難で堺に退避するも、法難の後京都に再興できず、堺に根付いたものが堺妙慶寺と推測される。
堺の諸寺中より、堺妙慶寺の項を次に転載し、参考に資する。
堺妙慶寺・・・・堺の諸寺より転載
2017/10/31追加:
〇「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
堺妙慶寺
栄照山と号す、四条妙顕寺末、筵師法縁。日像真筆の宝塔を有する。
文亀元年(1501)創立、開基龍華樹院日像、開山竜玄院日英。京都21本山の一つとして創建。当時は京都七道軌道にあった。天文5年(1536)天文法華の法難で堺(現在地)に移る。
 ※京都七道軌道とは不明。
 ※「日蓮宗大図鑑」:「大鑑」と同一の記述である。
〇「堺市史 第七巻」堺市役所編、昭和5年 より
 妙慶寺は榮照山と號し、【位置】新在家町東二丁字石塔側にあり、日蓮宗妙顯寺末、寺格平僧跡。【開基】文龜元年の交日英京キ妙顯寺より來つて創建し、(堺鑑中、社寺明細帳)【中興】天正年中、日唱法師中興した。(堺南北寺庵本末開基旨旨改帳、堺鑑中)【日像自書の石塔】庭前に日像上人自書と傳ふる石塔がある、故に世俗之を石塔寺と呼ぶ。此石塔は日像七國七所に造立したものの中の一基であるといふ。(堺鑑中)
 ※妙慶寺は文亀元年(1501)創立、開山は四条門流竜玄院日英。
「大鑑」では京都21本山の一つであり、天文の法難で堺の現在地に移るという。(堺に退避するも京都に再興できなかったということであろう。)
「市史」では文亀元年日英が堺に創建したというように捉えられる。(京都21本山や天文の法難などには言及がない。是らは史実でないとの立場なのであろうか。)


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