弘経寺 宝国寺 学養寺 本覚寺 大妙寺 (京都21本山の内)

2017/07/15追加:
○「妙本寺誌」宮原日鷲、河岡妙本寺、平成10年 より
天文5年(1536)の天文法華の法難で、洛中の21ヶ寺本山は壊滅するが、やがて本山16ヶ寺は復興なるが、残り5ヶ寺は再興ならず、本山寺寺院の屋敷内に寺跡名号を残し、塔頭院となる。

大妙寺

○「法華諸本山の成立と法華一揆」藤井学、近畿教化研究会議連絡センター(立本寺内) 、刊行年不詳 より
暦応3年(1340)日行上人(四条門流)開基。
日行上人は日像上人と同一の日朗門下であり、日像の頃洛中に小庵を構え、布教する。のちにこれが本山に発展する。
○※京洛妙顕寺寺中「大妙寺」の項より:
妙音山と号する。暦応3年(1340)妙音阿闍梨日行(日朗門下の九老僧の一人)を開基として創建。
京洛法華宗21本山の一つとされる。天文法華の乱でことごとく焼失。
豊臣秀吉の京都改造により、妙顕寺山内に再興。
本堂には、三宝荒神像(伝教大師作と伝える)を安置。
 ※なお、近世には大妙寺は妙顕寺山内にあったが、平成3年西京区樫原百々ヶ池(西京区樫原秤谷町)に移転。
 ※洛中妙傳寺
○2010/12/19追加:「花洛羽津根」清水換書堂、文久3年(1863) より
具足山妙顕寺塔中:大如院(大妙寺といふ 寺領2石)、泉妙院(弘経寺といふ) ・・・以下略
○2016/03/31撮影:
 大妙寺山門     門前寺号碑:妙顕寺山内の旧地から移したものであろう。
 大妙寺本堂1     大妙寺本堂2     大妙寺三宝荒神堂     大妙寺三宝荒神     大妙寺鐘楼
 大妙寺庫裡客殿    大妙寺宝蔵か    大妙寺寮か
 大妙寺歴代墓碑     歴代墓碑1:開基日行上人ほか      歴代墓碑2
 


弘経寺

「法華諸本山の成立と法華一揆」藤井学 より
永和元年(1375) 開基日誉上人。
妙顕寺4世日霽上人代、像門(妙顕寺)から分流。

開基については以上であるが、その後の弘経寺については以下の諸説がある。
1)永享元年(1429)堺移転、明治28年愛媛県に移転、
2)寺籍は京洛妙顕寺寺中泉妙院が有する。天文法華の法難の後、泉妙院は京都五辻の本山弘経寺に寄寓する。
 ※堺移転の有無、天文法難の後、帰洛の有無などが不明

1) 洛中21ヶ本山の一つであった。寂光山と号する。
永享元年(1429)日延により堺(櫛屋寺町)に移転。明治28年に愛媛県に移転したという。
2008/11/16追加:
「堺市史 第7巻 別編」堺市役所編纂、1930:より
廃弘経寺:寂光山と号す、寺跡は櫛屋町東4丁目寺町にあり。
古は京洛21ヶ寺本山の一であったが、永享元年(1429)日延上人之を当所に移し、妙顕寺末寺となる。
 ※以上によれば、天文5年(1536)の法難以前に堺に移転と云うことになる。
明治28年愛媛県東宇和郡下宇和村下用へ移転。(「寺社明細帳」)
 ※移転先での現状情報は未掌握。

2)京洛妙顕寺寺中泉妙院の項より:
妙顕寺のサイトでは泉妙寺について以下のように述べる。
 永和元年(1375)日縁上人の開基なり。
天文法乱(天文5年(1536))後、京都五辻の本山弘経寺に寓居する。
天明の大火(天明8年(1788))後、本山弘経寺の天徳院日法上人、本行院と合併して興善院跡に泉妙院を再建す。興善院は尾形家一族の菩提寺にして光琳并に一族の埋葬地である。
光琳の血族の小西得太郎と共に株式会社三越が明治時代より施主となり泉妙院に於いて毎年光琳忌法要を営んでいる。
酒井抱一建立の供養碑并に株式会社三越建立の供養塔もある。

 ※弘経寺<永和元年(1375)日誉上人開基・京洛法華宗21ヶ本山>の寺籍を有すると云う。
上にある「妙泉寺は天文法乱後、京都五辻の本山弘経寺に寓居する」という文言から、永享元年(1429)に堺に移転する(「堺市史」)というのは誤伝であるのであろうか。あるいは、堺に移転するも、京都にも寺号を残したのであろうか。
あるいは、永享元年の堺移転は誤伝であり、天文法華の法難で堺に移転し、その後帰洛し、五辻に寺地を構えたのであろうか。
 泉妙院はもと北側(総墓地東)にあり(現在は駐車場)、今は現在地(南東位置)に移転と云う。
泉妙院は永和元年日縁上人の開基と云う。
天文法乱後、京都五辻の本山弘経寺に寓居する。
 (これは何を意味するのか。この意味は上述のように解釈される。)
天明の大火後、本山弘経寺の天徳院日法上人、本行院と合併して興善院跡に泉妙院を再建す。
 (これは、天明の大火まで本山弘経寺は存続し 、弘経寺に奇遇する泉妙院が妙顕寺本行院寺籍を得て、興善院跡に泉妙院を再興したという意味なのであろうか。)
 ※興善院は尾形家一族の菩提寺。

2010/12/19追加:「花洛羽津根」清水換書堂、文久3年(1863) より
具足山妙顕寺塔中:大如院(大妙寺といふ 寺領2石)、泉妙院(弘経寺といふ・・・以下略
 


宝国寺

「法華諸本山の成立と法華一揆」藤井学 より
応永8年(1401)頃、日善上人開基、寺地は本国寺に隣接と云う。
日善上人は日像上人と同一の日朗門下で、日像の頃洛中に小庵を構え、布教する。のちにこれが本山に発展する。

2010/12/19追加:「花洛羽津根」清水換書堂、文久3年(1863) より
大光山本圀寺塔中:
勧持院(又大法寺といふ)、松林院(又天雲寺といふ)、戒善院(又妙階寺といふ)、持珠院(又宝国寺といふ)・・・以下略

本圀寺塔頭配置の「持珠院」の項より:
珠院:四寺家の一つ。
歴応元年(1338)日範上人伊豆船田に大教寺を建立。
貞和元年(1345)日靜上人に従い入洛(姉小路)。
応仁元年(1467)兵火に罹り、明応年中(1492-)再興に及び本寺境内に移る。
天文法華の乱で堺に避難。日助上人に従い帰洛再興。楠木正虎の菩提寺。
天明の大火で類焼。その後再建。
明治20年伊予の国に移転。
松陰井:持珠院にあり
2009/06/09追加:
 ◎天明大火前持珠院平面1:1棟を構え、1棟を左右に仏間と庫裏に別ける。妻入。
 ◎天明大火前持珠院平面2:同上。平入。・・・・但し、変面1と2の前後関係は不明
※伊予瀬戸町三机に持珠院と号する寺院がある。
山号:海森山、宗派:日蓮宗、本尊:一塔両尊士(釈迦牟尼世尊、法無辺行、浄行、安立行)の4菩薩、別名、「法華寺」ともいう。
明治15年(1882)、中尾城跡に建立される。(資料によっては、明治17年に設立されたと記すものもある。)
以上が概要で、おそらく本圀寺持珠院と思われる。
 ※京洛21本山の一つであった宝国寺(日善上人)は本圀寺塔頭持珠院に合併とされる。
  以上とすれば、宝国寺に連なる寺院であろう。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 明治15年、持珠院移転、海森山持珠院として愛媛県西宇和郡伊方町三机1032に現存。
2014/08/15追加:三机移転後写真
ページ「海森山 持珠院」 より転載
 旧本圀寺寺中持珠院:三机移転後
 


学養寺

○応永34年(1427)、日讃上人(身延門流)開基、寺地は四条と云う。
○ 「法華諸本山の成立と法華一揆」藤井学 より
身延9世日学の宝徳年中(1450頃)洛中に止住する身延門流子弟のため学養寺が建立される。
○「御宝物で知る身延山の歴史」 より
身延9世日学、京都に学養寺を建立、身延門流における京都布教の拠点を作る。(2010/06/06追加)
9世成就院日新上人;
 身延入山応永29年(1422)、長禄3年(1459)遷化、京都學養寺開山。(2014/05/10追加)

2014/05/01撮影:
學養寺旧跡碑
妙傳寺寺中妙釈院に學養寺旧跡碑(石碑)が建つ。
學養寺については、史料が乏しく、上記以外にその事績を明らかにすることはできない。
 しかしながら、學養寺は京都の身延山の拠点として身延門流によって創建されたことは確実のようで、この意味から、身延山の京都の拠点である妙傳寺に學養寺の寺籍が引き継がれた可能性は高いと思われる。
 學養寺は幾多の変遷の中でいつしか衰微し、妙傳寺にその寺籍を遷す、あるいは寺中妙釈院がその後継となるといったことは十分に有り得ることと思われる。以上意味で妙傳寺寺中妙釈院に「學養寺旧跡石碑」が建てられたのであろうと推測する。
 ○學養寺旧跡碑1     ○學養寺旧跡碑2
   →「妙傳寺」中の「學養寺旧跡碑」の項を参照

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参考)★勝光寺
京都21ヶ本山の一つといい、學養寺との縁故がある可能性もあるが、良く分からない。

○2014/05/11追加:
ブログ「お寺の風景と陶芸」>「勝光寺 (京都市下京区) 洛中法華21ヶ寺」では以下のように述べる。
 「・・・<天文法華の乱>で21ヶ寺は悉く灰燼に帰し、以後6年間は京都において法華宗は絶えた。
天文11年(1542)勅許によって再び法華宗は復活し、15ヶ寺が再興されている。その中にあって、21ヶ寺の一つ学養寺は再興されずに廃寺となっている。学養寺の寺格を引き継いだのが学要山勝光寺である。
 勝光寺は応永34年(1427)妙慶寺として開創されたが、天文5年(1536)天文法華の乱によって焼失し、寛永8年(1631)勝光寺として再興されている。
いつの時点で学養寺の寺格を引き継いだかは不詳である。」
 ※なるほど、「真相」は學養寺が天文法華の法難で廃寺となり、その寺格を引き継いだということであろう。しかし、その引き継ぎの年紀は不明とも云う。寺格を引き継いだということの真偽は別にして、勝光寺の前身である妙慶寺が身延山の影響化で創建されたことを思えば妥当なところであろう。
 なお、妙慶寺が中興され勝光寺となったのであるが、そこには深刻な断絶があったようで、現在残る墓碑がそれを物語るようである。
 ※勝光寺が廃學養寺の寺格を引き継いだことは真としても、「勝光寺が京都21ヶ本山の一つに列する云々」は言い過ぎで、21ヶ本山の一つに列したのは、學養寺でしかありえず、それは決して勝光寺でないことははっきりしていることである。

○下京区中堂寺西寺町に勝光寺と号する寺院があり、学要山と号する。
勝光寺の縁起では以下のようにいう。
身延17世慈雲院日新上人によって妙慶寺として創建された。京都21ヶ本山の一つに列する。
龍嶽院日長上人(日新弟子)代、天文法難(1536)により焼失。
日長上人は静岡県感応寺へ転出。即是院日完上人(日長弟子)、寛永8年(1631)に中興再興。
再興開基檀越は勝光院殿日勇尼(金牧丹後守の妻、朝倉吉景孫)とし、寺号は勝光寺、山号は日完の字から学要山と改号する。
天明の大火(1788)で焼失。
昭和54年本堂新築、平成8年客殿・庫裡を新築する。
 ※しかしながら既知の情報と違うものもあり、京都21ヶ本山学養寺の系譜なのかどうかは不明。
○「御宝物で知る身延山の歴史」 より(2014/05/10追加)
17世慈雲院日新上人: 天正6年(1578)身延入山、天正20年(1592)遷化58歳。
小室妙法寺17世、茂原妙光寺15世、谷中瑞輪寺、信濃本立寺、広福寺、妙福寺、西谷南向坊など開山。
○2014/05/01撮影:
勝光寺山門:南面する。山門に隣接する建物は保育園で、本堂などはその背後・北にある。
 勝光寺山門1     勝光寺山門2
勝光寺伽藍:本堂はRC造、東面するが東面には入口はない。東は墓地である。寺務所は庫裡玄関客殿の複合と思われる。
 勝光寺本堂1     勝光寺本堂2     勝光寺本堂3     勝光寺寺務所
歴代碑:墓地中に日蓮碑、開山・中興碑、壇越勝光院殿碑、歴代墓碑・供養碑及び新歴代墓碑などがある。
 日蓮大菩薩碑:左に開山日新、中興日完上人碑がある。
 開山・中興碑:開山日新、中興日完 とある。しかし下に掲載の新歴代墓碑(2世以下の歴代を記す)には日完上人の名が無く、また日長上人の名も無いのであるが、これは日完上人を中興1世として、2世以下の歴代を記するためであろう。
要するに、妙慶寺から勝光寺の中興は深刻な断絶があったことを示すのであろう。
 勝光院殿日勇尼墓碑:妙法當寺開闢壇越勝光院殿日勇大姉
 歴代墓碑・供養碑
多くの碑が並ぶが、確認したものだけを以下に記す。
 前列向かって左から、
至道院日照:第40世/昭和45年、一道院日隋:第39世/昭和41年、本地院日宏:第38世/昭和17年、
本立院日誠:第37世/昭和15年、止玄院日清:第35世/明治20年 の墓碑である。
 中列は向かって左から、
不明の墓碑、智道院日進:第13世と智境院日演:第5世の連名の墓碑、
自寂院日行:第18世/宝暦5年(1755)、躰異院日迨:第15世と泰智院日洪:第14世の連名、4名連記の信者墓碑、
本是院日精:第3世/延宝元年(1673)、未確認の墓碑 である
 後列は向かって左から、3基の墓碑(未確認)があり、題目を刻む石卒塔婆、
旧歴代碑(下に銘を掲載)、一番右は辨成院日随:太12世/享保3年(1718) であろう。
 ※旧歴代碑の銘は、開山日新、2世日鷲、(3世)日精(延宝元年)、4世日榮(宝永5年/1708)、(5世)日演、
 6世日淳、(7世)日宣、8世日暁(宝永7年/1710)、(9世)日収(宝永7年)、10世日感、(11世)日営 である。
 新歴代墓碑;近年建立された新しい墓碑である。2世日鷲から前住持までの法名を刻む。

2017/07/
○「妙本寺誌」宮原日鷲、河岡妙本寺、平成10年 より
◆天正慶長の在地武士
即是院日完:伯耆会見郡河岡出身僧、寛文5年(1666)11月24日寂、寿88歳。
伯耆河岡妙本寺(妙春寺)14代圓妙坊日運の門弟。附書山崎市左衛門の族に当ル。
常陸水戸本行寺・安芸広島妙頂寺・若狭小浜妙光寺を巡歴し、京都下京に勝光寺を開山し、同寺で寂す。
 


本覚寺

文安元年(1444)、日延上人(妙覚寺9世)の開基と云う。 四条門流に属する。寺地は三条猪熊と云う。

文正元年(1466)本覚寺が隣接の妙覚寺に合併、妙覚寺の境内地は拡大、妙覚寺寺中は100余と云う記事があるが、この本覚寺が21ヶ寺本山の本覚寺かどうかは不詳。
 


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