備 前 堂 屋 敷 廃 寺 (備 前 西 谷 山 妙 塔 寺)

備前堂屋敷廃寺(備前西谷山妙塔寺)・備前西谷山法萬寺・備前法界院・備前笠井薬師

備前堂屋敷廃寺:備前西谷山妙塔寺

備前堂屋敷廃寺

岡山県遺跡地図によれば、岡山市北区笠井山西谷に堂屋敷の字があり、ここは「堂屋敷廃寺」として遺跡登録される。
 堂屋敷廃寺位置:堂屋敷廃寺は以下のように遺跡として認識される。東に笠井薬師があり、磯尾谷を下れば法萬寺に至る。
◎遺跡名:堂屋敷廃寺、種別:寺院、主な時代:平安・鎌倉・室町、遺跡概況:山腹
情報は以上だけであるが、「堂屋敷」の地名と合わせ、古代寺院があったことが想像される。
そして、後の項目で推測するように、当廃寺は西谷山妙塔寺の跡と推測され、近世初頭の絵図には妙塔寺と推測される大伽藍に三重塔が描かれ、これが真実であるとすれば、本廃寺には三重塔があったものと思われる。

備前西谷山妙塔寺

堂屋敷廃寺には如何なる寺院があったのであろうか。
確実な手掛りは乏しいが、以下に1)〜4)の有力な資料がある。
まず、堂屋敷廃寺及び関係する社寺、付近の遺跡などの位置関係を示そう。
 笠井山周辺地図:北から金山寺、堂屋敷廃寺、舟山城跡、磯尾谷、法萬寺、龍ノ口城跡、明見山城跡、法界院などが位置する。

1)「西谷千軒及西谷山古圖」
「西谷千軒及西谷山古圖」とは当方(s_minaga)が便宜的につけた呼称である。
通常一般的には「備前法萬寺古圖」・「御津郡龍ノ口城及舟山城付近古圖」と呼ばれている古絵図のことである。
この古絵図の画像はサイト:『原 電子町内会』>『「原」の歴史、法萬寺に伝わる古図の解説と時代背景の探索』などにある。
 ※この項に掲載する「古図」(画像)は「原 電子町内会」サイトからの転載である。
  (2013/07/14:「原電子町内会」編集会議にて画像使用許諾を得る。・・・営利目的使用は不可、当ページ以外での使用不可の条件付)
 ※また以下の記述は「原電子町内会」各ページに記載された内容に負うものが多々ある。

○「西谷千軒及西谷山古圖」:法萬寺蔵か、寛永7年(1630)作、紙本着色、法量は130×90cm。
原本は判別し難いほど破損・剥落すると云う。大正期の模写(「御津郡龍ノ口城及舟山城付近古圖」)もあると云う。
 <原本は未見>
なお「上道郡誌」に古図(写本か)の記載がある。→この「上道郡誌」の古図は下に掲載する。
  ◇「西谷千軒及西谷山古圖」:全図

 この絵図の描く景観は、海と簸川(旭川)が原村付近で出会う古代中世の地勢の上に、近世初頭の現実の景観(原村法萬寺・金山金山寺)や中世末期の城郭(原船山城・龍ノ口城) 及びおそらくは古代末から中世前期頃の最盛期の姿を描いたと推定される堂屋敷廃寺の七堂伽藍を被せたものであろう。この意味でこの絵図は複合的懐古の絵図といっても良いのであろう。

 絵図を概観すれば、絵図中央やや右に大きく笠井山を描く。笠井山西の谷(西谷)には古代の大伽藍が描かれる。
   →直下に「古代大伽藍部分図」を掲載。
そして、伽藍に至る谷筋(磯尾谷)には西谷千軒といわれる門前があり、街を抜けると寺門(総門)がある。寺門の奥には、楼門とその脇に袴付鐘楼風堂宇がある。楼門を入ると右に鎮守・鐘楼・宝形造堂宇、左に多くの寺中と思われる建物が描かれる。その正面に古代様式の石積基壇の上に古代の建築を思わせる重層入母屋造の堂々たる金堂が立つ。金堂背後北西の丘上には三重塔があり、金堂背後には本坊であろうか重厚な客殿などの数棟の建物がある。
金堂・本坊客殿・三重塔・鎮守社の屋根は濃茶に彩色されこれは檜皮葺であったことを書き分けたものであろうか。
  ◇「西谷千軒及西谷山古圖」:西谷山伽藍部分図:古代大伽藍部分図

 なお磯尾谷には西谷千軒と谷の途中には現在の景観と同じ3つの池(上池・中池・下池)が描かれる。
以上が本図の主題であるが、絵図左下には現在の法萬寺及び八幡大菩薩、その北には中世末期の船山城、海を隔てて龍ノ口城、その北西遥かに金山寺及び雲海の上に金山を描く。また法萬寺の南西・絵図中央下には妙見(明見)山城を描く。
  ◇「西谷千軒及西谷山古圖」:西谷山法萬寺等部分図


2013/08/04追加:
※「上道郡誌」に掲載の古図
タイトルは「上道郡龍ノ口城及舟山城附近古圖」とある。
描かれた範囲・事象は殆ど同じであるが、圖の調子は上に掲載のサイト:『原 電子町内会』掲載の絵図とは随分と違うものである。
原本(判別し難いほど破損・剥落すると云う)を未見なので、なんとも云えないが、「上道郡誌」に掲載の図は大正期の模写なのであろうか。
それにしても、上に掲載のサイト:『原 電子町内会』からの転載の図はいわば「出来すぎ」のように良く出来た図であり、新に複写・復原した図なのであろうか。(本図の性格・由来が不明である。)
 上道郡龍ノ口城及舟山城附近古圖

2)原村西谷山法萬寺
法萬寺は報恩大師開基と伝え、山号は西谷山と号する。
さらに上述の古絵図の西谷山堂塔伽藍は古の法萬寺を描いたものと伝えると云う。

3)備前御野金剛山法界院
法界院は報恩大師が開基し、西谷山妙塔寺と号したことに始まると伝える。
創建当時、西谷山妙塔寺は笠井山の山麓にあり、大伽藍を有したと伝える。
元亀元年(1570)金川城主松田将監の日蓮宗改宗を拒み、西谷山妙塔寺は焼亡し、その後現在地に移転、再興されるとも云う。

4)備前笠寺(笠井薬師)
笠寺は金山寺末寺で畑鮎にあり、笠寺の名称は金山寺文書に鎌倉期より散見されると云う。
笠井山妙法寺(「吉備温故秘録」)と号するも、笠井の薬師と通称される。 (正式山号は笠井山薬師院妙法寺)
天平勝宝元年(749)報恩大師により建立と伝える。

以上に基づき、堂屋敷廃寺に如何なる寺院があったのかについて、次のように推測するものである。
 まず、堂屋敷廃寺及び1)〜3)を要約すれば、
笠井山西方の谷に字「堂屋敷」があり、ここは「堂屋敷廃寺」として古代・中世の遺跡・寺院跡と認識される。
一方、「西谷千軒及西谷山古圖」では笠井山西方の谷に古代の大伽藍が描かれる。
また、備前法界院の伝承として、本寺の前身は報恩大師建立の西谷山妙塔寺であり、妙塔寺は笠井山山麓にあったと云い、中世末期に現在地に下山したと伝える。
さらに、古代の大伽藍至る谷筋(磯尾谷)の入口には西谷山と号し、報恩大師の建立と伝える法萬寺が現存する。
 以上を総合すれば、次のように推測可能であろう。
天平勝宝元年、西谷山妙塔寺は報恩大師を開基とし、笠井山西方の谷(西谷・現在の堂屋敷)に建立され、堂塔坊舎を構える。
1)の古圖に描かれる古代の大伽藍はまさに報恩大師開基・西谷山妙塔寺の盛時を描いたものと考えられる。
この描かれた姿は確実な記録や伝承に基づくものなのか、あるいは全くの想像であるのか、あるいはその両者が混ぜ合わさったものなのかは全く分からない。しかし伽藍の筆致はかなり具体的であり、ある程度の想像はあるにせよ、古の古代伽藍の姿を かなり正確に表しているものと評価できるのではないかと思われる。

 しかしながら、中世末期、この繁栄は暗転する。
戦国期に入り、西谷山は、元亀元年(1570)金川城主松田将監の日蓮宗改宗を拒み、将監による焼払いを受け、焼亡する。
 その後、経緯は不明ながら、西谷山の寺坊の一つは、御野(三野)に移転再興され、現在の金剛山法界院となる。
さらに、もう一つの寺坊は、原村に移転再興され西谷山法萬寺となったであろうと推測されるのである。
 法界院は報恩の開基であり、その前身は西谷山妙塔寺と伝え、法萬寺は、その移転の伝承は失われているが、開基は報恩であり、山号は西谷山であることが、雄弁に語 っているのではないだろうか。
 なお、笠井山上に現存する4)笠井薬師も報恩大師の創建と伝え、このことから西谷山妙塔寺の寺坊が山上に残ったのかあるいは再興されたものとも推測される。
 備前備中の古い大寺には、報恩大師開基とする伝承が多い。 →報恩大師開基備前48寺
勿論それをそのまま単純に信ずるわけにはいかないが、しかし法界院・法萬寺・笠井薬師院が揃って報恩大師建立と伝承されるのは西谷山妙塔寺の系譜・後身であることを示しているとも解釈されるのである。

備前西谷山法萬寺

○西谷山と号し、天平勝宝年中報恩大師の建立と伝えるも、中世荒廃し縁起・古文書などが伝わらず、詳細は不詳と云う。
 ※現在は真言宗を奉ずる。
○「佛教考古学論攷」石田茂作には「法万寺多宝塔、御津郡牧石村原、真言、今なし」との記載がある。
 ※現在の住所は岡山市北区原
 ※法万寺多宝塔とは如何なる文献を出典とするのかは不明。
 また「多宝塔は今はなし」とは法萬寺が今の地に再興され、そのときに多宝塔も建立されたが今はなし、ということなのか、
 あるいは前身の西谷山妙塔寺にかっては多宝塔があったが今はなし、ということなのかも不明である。
   →多宝塔に関する情報をお持ちの方、乞連絡。
○「備前国四拾八箇寺領并分国中大社領目録」(文禄4年/1596)に「四十八箇寺之外御寄附寺領之事」として八塔寺以下11ヶ寺の書上があるが、その中に法萬寺拾石と記載される。
このことは、中世末に於いても、法萬寺は古代寺院(西谷山妙塔寺)の寺歴を受け継ぐ「由緒」寺院として認識されていたことを示すものであろう。
○遺物
・平安末期/鎌倉期の造立と云う本尊聖観音立像を蔵する。
・現在の本堂の礎石として平安期のものと推定される造出を持つ礎石が少なくとも3個以上使われる。
 (造出の径1尺7寸、高さ1寸3分ばかりを測ると云う。)
 この古風な礎石の由来は不明であるが、少なくとも、これは現在の本堂礎石として転用されたことは確かで、元来は江戸中期の建物と云う現在の本堂の礎石では無かったことは確かであろう。妙塔寺に関連する礎石がここに運ばれたのかも知れない。
 上述の「西谷千軒及西谷山古圖」には近世初頭の法萬寺が描かれるが、現在の本堂(入母屋造瓦葺)の位置に、彩色から判断して瓦葺と思われる椽付の宝形造の堂が描かれる。もとよりこの堂の由来も不明であるが、何か特別な堂のように描かれているように見える。
つまりこの描き方から見て、廃妙塔寺に関係した堂宇(例えば焼討による焼失を免れた妙塔寺の堂宇)がここに移建された可能性も考えられるが、想像の域を出ない。もし以上のような意味で廃妙塔寺に由来する堂宇であるならば、礎石も妙塔寺から転用されたと考えられるかも知れない。
 なお、「古圖」の大伽藍の金堂西に瓦葺宝形造の堂宇が描かれ、これは法萬寺の宝形造の堂宇と酷似する。
この近似は単なる偶然かも知れないが、大伽藍の宝形造の堂は現在の法萬寺本尊である聖観音立像を祀る観音堂であったが、この堂が焼失を免れ、「古圖」に描かれる法萬寺の宝形造の堂として本尊ともども遷されたと云う可能性もあるが、これも推測の域を出ない。
○法萬寺現状:磯尾谷入り口の丘を背景に何れも小規模な山門、本堂(江戸中期)、鐘楼、客殿、庫裏などを構える。
2013/06/23撮影:
 備前法萬寺山門     備前法萬寺本堂     備前法萬寺鐘楼     法萬寺本堂礎石

備前御野金剛山法界院

当寺は天平勝宝元年(749)報恩大師が開基し、西谷山妙塔寺と号したことに始まると伝える。
創建当時、西谷山妙塔寺は笠井山の山麓(笠井山西谷の堂屋敷であろう:堂屋敷廃寺)にあり、大伽藍を有すると伝える。
元亀元年(1570)金川城主松田将監の改宗を拒み、金山寺、妙塔字、西谷千軒は焼き討ちされ、焼亡する。
天正9年(1581年)現在地に移ると云い、江戸初期に伝審和尚が中興、伽藍を整備する。
その後も数度の火災に遭い、最後の大火は文久年中(1861-)と云う。現在の本堂はその後の再建、山門(仁王門)は文久年中の火災を免れ、嘉永年中(1848-)の再建と云う。
本尊聖観音立像(重文)は藤原期の作といわれ、秘仏である。
2013/06/23撮影:
 備前法界院仁王門     備前法界院二天門     備前法界院本堂1     備前法界院本堂2
 備前法界院大師堂     法界院大師堂・鐘楼


2013/07/03作成:2013/08/04更新:ホームページ日本の塔婆