備 前 一 宮 (備 前 吉 備 津 宮)

備前一宮・備前吉備津宮(吉備津彦神社)・備前一宮神力寺・備前一宮神宮寺

備前一宮・備前一宮神力寺塔婆・備前一宮神宮寺(2011/06/24修正)

中世、備前一宮は今の社殿の地の南の谷間に社殿があり、その南には備前一宮神力寺が北には神宮寺があった。
そして、「古図」に見るように、神力寺には塔婆2基が建立され、岡山藩池田光政による寛文の神仏分離まで存在したと思われる。
さらに「岡山県通史」(下に要約)によれば、重塔の心礎は明治維新後も存在したことが知れる。
 (時期は判然とはしない<古老の聞き取りでは幕末か明治初頭と推定される>が、心礎は破壊と云う。)

備前吉備津宮(吉備津彦神社)の古い史料は乏しいが、康永元年(1342)<北朝>奥書の「一宮社法」及び文明3年(1471)奥書の「総社家社僧中神前御祈念之事等注文」と慶長9年(1604)の「社殿絵図」が残る。
「一宮社法」では、本社(正殿)、拝殿、南門客人、御釜殿、御供所、御備所、本宮など「総棟御社大小五十一宇也」と云う。
「総社家社僧中神前御祈念之事等注文」では、本社、拝殿、長ノ屋、両門客人、本宮、神宮寺など三十余棟があると云う。

慶長9年(1604)「社殿絵図」:

古代御社図」(備前吉備津宮蔵):左図拡大図

本絵図には、年代と規模の書き込みがあり多くの情報がある。
○中央に本社(本殿)、拝殿、長之屋、御備所、南北の門客人などがあり、南に御供所、御釜殿その他、本社の北脇に本宮およびその関連の殿舎などがある。
○本社南には山神山神力寺があり、本堂(7面四面とあり相当な大堂と思われる)、地蔵堂、観音堂、神力寺塔2基、鐘ツキ堂、二階山門、西蔵坊、徳壽寺(現存)などが ある。
塔2基のうち、1基は「塔重」、「二階輪堂」とあり、輪堂とは円形の堂と解釈すれば、形式は多宝塔であったと推測される。三重(五重)塔と多宝塔が並び建っていたと思われる。
○一方本社北側には神宮寺(6間四面の大堂)と諸堂宇がある。

※上図は神社境内にある案内板に掲図している図を撮影したものである。
※康永元年(1342)<北朝>、文明3年(1471)、慶長9年(1604)の各年次の造営と思われる。
※中世には塔2基(内1基は二階・輪堂・・・多宝塔と思われる)があったが、その創建の事情・時期及び退転の時期などは不詳。

なお慶長および文明の造営の本社は8間8間・屋根檜ワタフキ、拝殿は「4間4間二階作り、カワラ葺也」とあり、この大きさは尋常ではなく、中世の当社の本殿は備中吉備津神社本殿に似た建築であった可能性が考えられる。
俊乗房重源による神力寺常行堂の造営(神力寺跡の常行堂銘の瓦の出土)、大仏様を色濃く残す備中吉備津宮本殿などと考え合わせると、
備前吉備津宮の本殿も大仏様が伝播したきわめて吉備津神社本殿に似た建築であったと推定することも不思議ではないであろう。
 ※極めて隣接したこれ等の神社や寺院が全く無関係であったことは有り得ないからである。

池田氏による寛文の神仏分離後の本殿(現存)は三間社流造の規模で、かつ社殿の配列は中世の形を一新し、本殿・渡殿・釣殿・拝殿などを一直線に廃する形式でおそらく中世以前の形に復古したものと考えられる。

2008/02/05撮影:
 天台宗山神山徳寿寺:上掲の「古代御社図」にある「徳寿寺」が現存する。
2014/02/16撮影:
 備前徳寿寺門前     備前徳寿寺仁王門     備前徳寿寺客殿庫裏     備前徳寿寺堂宇

現地での現存するその他の遺物:
神力寺跡の一角に「神力地蔵」があり、その台石は造出のある礎石が用いられていると云う。(未見)

2011/06/24追加:
「岡山県通史」上下巻、永山卯三郎、昭和5年 より
備前一宮所蔵「古代御社圖」:上に掲載の「古代御社図」と同一のもの
当図の神力寺には塔及び塔重と2基の塔が描かれ、以下のように描写される。
 「塔、塔重  文明3年 神力寺塔二本但内一ハほそく二階の輪塔なり。」
※文明3年の造営になり、2塔の内の1基は細い二重ノ塔でしかも輪塔(円形の塔)であったとされる。二重の輪塔とは宝塔もしくは多宝塔であったと思われ、塔・塔重のどちらなのかは判然とはしないが「重」とは多重塔(層塔)の意とも思われ、であるならば塔が「輪塔」を指すのであろう。
なお塔の規模も記すことがない。
○考察:
 ・塔重址 字観音前797番地宅地
黒住五郎氏(今年84歳)の記憶談では、今を距てること70余年前、今の日曜学校(図の塔重の地点)の中央付近に巨石が存し、その表面は削平され、その中央に径2尺3寸(70cm)深さ1寸(3cm)ばかりの円孔あり。巨石は表面2畳敷ばかりで厚さ3尺餘(90cm余)あり。小児の遊び場であった。
而して70餘年前之を割いて建築その他の石材に使用して了れり。
また曰く、径2尺餘深さ1寸ばかりの円孔凹所の中央更に小円孔を穿てりと。

 ※以上を信ずれば、大きさは差渡し凡そ6尺(180cm・畳2枚)で、中央に径70cm深さ3cmの円穴(柱穴)を彫り、その中央に小円孔(舎利孔)を穿つ心礎が存在したと思われる。
 しかしこの心礎は幕末・明治維新頃 (今を隔てること70余年前とあり、今とは昭和5年もしくは数年前であるから、70余年前とは幕末・明治維新頃であろう)破壊されたと伝えられる。
 ・塔址 字観音前798と799番地の境界上
ここには礎石が土中に存せり。長径3尺5寸(106cm)短径2尺6寸(79cm)厚さ1尺2寸(36cm)ばかりの自然石にして、その表面に径1尺9寸(59cm)許高さ5寸(15cm)許の円形繰出の突起物あり。是は地中に埋没せしを大正14年冬黒住五郎氏是を其宅地内に移し、現に庭園内の離れ座敷の沓脱石となれり。
 ※これは円形柱座を持つ塔の礎石であろう。この礎石が現存するかどうかは不明。
備前一宮・神力寺跡地図
これは最近の地図であるが番地表示は昭和初頭の番地を引継ぐと思われる。神力寺跡堂塔位置の概要理解に役立つものと思われる。
中世には現在の吉備津彦神社地に神宮寺があり、神宮寺の南の谷筋に一宮、その南に神力寺があった。
 ・地藏堂址 字観音前804番地山川仙吉氏宅
この付近古瓦片多し。字御釜南881番地官有地に石造地藏菩薩があり、その台石は長径2尺8寸(85cm)短径2尺5寸(76cm)厚さ1尺7寸(52cm)、表面5分(1.5cm)許径1尺5寸(45cm)許の円形繰出あり。地蔵堂の礎石と口伝する。
 ・観音堂址 字観音前891番地小林槙太郎氏所有畑
畑及び付近に古瓦多し。石造地藏菩薩、観音石像云々についての言及あり。
 ・鐘つき堂址 字観音堂前807・808番地
現観音石仏の東隣突端にして、付近に古瓦片多し。「古図」の「鐘つき堂是南の尾崎なり」に地形上合致する。
 ・本堂 字観音前800番地
 ・山門 字観音前812番地
何れも、塔〜鐘つき堂跡の推定から、本堂・山門跡は「古図」によって以上のように推定される。

2012/05/01追加:
「『吉備の中山』と古代吉備」薬師寺慎一、吉備人出版、2001 より
○備前吉備津宮神宮寺
上掲「古代御社圖」では、神宮寺は右端に描かれる。これは現在の本殿のある場所である。中世(室町期)には神宮寺は現在の本殿のある場所にあったのである。即ち、池田綱政は中世の神宮寺の位置に本殿を復興したのである。
即ち、中世(室町期)の本殿は、「古代御社圖」の示すように、今の本殿の向かって左(南)側・今の忠魂碑のある場所付近にあったのである。
 ところで、今の忠魂碑前の広場からは奈良期の鴟尾片や緑釉瓦片(4個)が出土した。特に緑釉瓦が使われたとなれば、中央の大寺と比しても遜色のない寺院があったものと推定される。まさに古代神宮寺は今の忠魂碑のある広場付近にあったのである。
 ところが「鹿苑院(足利義満)西御所(義満妾)御再興被遊候神宮寺」「鹿苑院大婦人西御所垂願輪、新立神宮寺」(史料名不明)との記録が残り、神宮寺は古代神宮寺のあった場所から、「古代御社圖」の示す神宮寺の位置に再興されたのである。
 以上を整理すると、古代の備前吉備津宮の姿はイワクラ(岩)であり、その岩は今の忠魂碑の上方にあったものと考えられる。従って、古代備前吉備津宮はイワクラであり、まだ社殿はなく、イワクラの前に神宮寺があったのである。これは寺院そのものの姿であった。神宮寺の中にイワクラがあり、それが神のヨリシロであったのである。延喜式神名帳に備前吉備津宮の名をみないのはそれが寺院であったからであろう。
 ※古代の山城石清水八幡宮も実態は寺院であったゆえに、延喜式にその名を見ないのと同様であろう。
中世には、「古代御社圖」の示すように、イワシロの前に社殿が造営され、神宮寺はその左(北)に造営される。
近世・現代では、イワクラは下に降ろされ忠魂碑の台石に転用され、社殿が「古代御社圖」の神宮寺に位置に造営される。
以上であろう。
○古代の神力寺
上述永山卯三郎の「岡山県通史」の神力寺の「破壊心礎」、黒住五郎氏邸に移した塔礎石(沓脱石)、「地蔵堂の礎石との口伝」などの紹介がある。
昭和5年の「岡山県通史」の発刊後、黒住秀雄氏により以下の遺物が神力寺跡から発見される。
白鳳期の瓦、平安前期と推定される瓦塔の片、三彩塔の片などがあり、これ等からみて、神力寺は古代より中世まで「古代御社圖」に描かれる位置にあったものと推定される。
なお
「(塔重)」跡にあり、破砕されたという心礎の一部が山神の黒住小弥太氏邸の庭に保存される。」<未見>
との記載がある。
 ※であるならば、心礎破片は現存ということになる。
また、黒住五郎氏邸に移された礎石と同じく、礎石と思われる石が塔重山神(旧豊洲荘の近く)の石仏の台石に転用され残存する。
 神力寺礎石:二面石仏の台石となる。表面に繰り出し突起部がある。これは上述の地藏石仏(神力地蔵)の台石と同じものであろう。

2014/02/16撮影:
 上掲の備前一宮所蔵「古代御社圖」によれば、山神神力寺は東面し、神御山を背にして本堂が建ち、その前面に重層の山門が開く。山門と本堂を結ぶ線の南側に東から塔重と塔が建ち、北側に東から鐘楼と地蔵堂があり、さらに北側に観音堂を配する伽藍であった。
これも上掲の「岡山県通史」に従って現地を訪ねれば、今は宅地および耕作地となり、何も往時を偲ぶ遺構は地上には残らない。
 ○神力寺堂塔推定図:「岡山県通史」に従えば、およそ左図のような配置と推測できる。

 神力寺伝本堂跡:黒住鉄弥氏談では「写真に写る竹藪の下付近が本堂跡と云われる」とのことである。
以下の推定は「岡山県通史」の記述に従ったs_minagaの推定である。
 神力寺推定大門跡     神力寺推定塔跡     神力寺推定塔重跡
 神力寺推定地蔵堂跡:撮影せず     神力寺推定観音堂跡:撮影せず     神力寺推定鐘楼跡
備前神力寺遺物(心礎残欠、礎石)について
 伝地蔵堂礎石1     伝地蔵堂礎石2
撮影日当日、僥倖にも、備前一宮の地元(山神)の旧家である黒住家の本家である「黒住鉄弥」氏の「談」及び「案内」を得る機会を得る。
この様子は以下の通りである。
 ※「鉄弥」氏の本邸・庭は***番地に現存する。
 ※「鉄弥」氏は昭和12年生まれで、2014年現在で76歳である。
まず、備前一宮の随身門を入った左右の巨大な石灯篭および手水の施主の一人である「黒住久助」は「黒住鉄弥」氏の祖先である。
そして「岡山県通史」の塔重跡の回顧談で登場する「黒住五郎」氏は分家であり、五男の故をもって五郎である。
さらに「『吉備の中山』と古代吉備」で登場する「黒住秀雄」氏は「黒住五郎氏」の孫である。そして秀雄氏のお子はすべて女子であり、他家に嫁ぎ「秀雄」氏の家は、「秀雄」氏の逝去とともに、絶家する。
そのため、現在「五郎」氏→「秀雄」氏の屋敷・庭は取り壊され、今は木下製薬の工場となる。
 ※付近一帯の土地は広く黒住家一族の所有であったと云う。
さて、「岡山県通史」では「塔跡」から出土の造出のある礎石を「五郎」氏邸に移すとあるが、この礎石についての「鉄弥」氏の「談」は以下の通りである。
 「五郎」氏邸には、確かに門を入った左に「離れ」があり、云われるような大石の沓脱石があった記憶がある。但し円形の造出があった記憶はない。これは沓脱石であるから、天地を逆にして据えたと云うことかもしれない。
自分は「五郎」氏→「秀雄」氏邸取り壊しの時は、名古屋方面に居住していたので仔細なことは承知しないが、庭の石及び礎石は「徳寿寺」に運んだと聞いている。礎石は徳寿寺にあったと思うので、案内しよう。
 
という訳で、「鉄弥」氏は徳寿寺に入るや否や迷うことなく境内の一画に置かれた遺物のある場所に赴くも、「これではない、これは礎石ではない、私の思い違いであろうか」ということであった。この遺物は何やら俳句を刻んだ石?であった。
 十数年前迄は自分が徳寿寺の檀家総代を務め、現本堂裏に新本堂を建築する予定である。現在本堂予定地の整地及び納骨堂(御影石造)は建立を終わっているが、資金面のこともあり、本堂はいまだ着工には至らず。
 「五郎」邸にあった多くの庭石は寺に運び置いている。そこにあるかも知れない。
確かに数十の庭石が本堂建築予定地の横に置かれる。しかしその中を探すも、礎石らしい石を見つけることは能わず。
 →従って、塔跡から出土し「五郎」氏邸の沓脱石に転用されたという「塔跡の礎石」は現在所在が不明である。
さらに、
「『吉備の中山』と古代吉備」で登場する「黒住小弥太」氏<破砕された心礎の一部を庭に保存と云う>は「鉄弥」氏の「いとこ」であり、分家であるとの「談」も得る。
 「小弥太」氏邸は797番地(「岡山県通史」で云う塔重の跡地で心礎出土地である。)である。心礎の一部が庭に保存かどうかは 知らない。「小弥太」氏に聞けば、分かるであろう。
また、上記の今所在の分からない「塔跡」から出土の礎石の行方も聞いたらよろしいのではないか。

 ※「小弥太」氏邸は797番地にあり、この地番はまさに「塔重跡」であり、かって心礎の置かれていた場所である。
 ※「黒住小弥太」氏は公職が多く多忙であり、面談は後日を期すこととする。
  因みに「小弥太」氏は「吉備の中山を守る会」で活躍もされているようである。
 備前徳寿寺堂宇:写真右端下に写る甕の右の石が「鉄弥」氏が移動した「礎石」と思い込んでいた石である。
 北石灯篭・黒住久助     南石灯篭・黒住久助     手水舎水盤・黒住久助
 黒住五郎石碑
黒住鉄弥氏蔵文物:鉄弥氏より本邸の庭園・庭石の案内を受け、さらに所蔵文物の一部の閲覧の栄に与る。
  ※但し、文物については、s_minagaには鑑識眼がないので、コメントはできない。
 英一蝶絵画1     英一蝶絵画2     英一蝶絵画落款
 頼春水書画1
 頼春水書画2:頼春水の長子が頼山陽である。この書画が伝わるのは頼春水の眷属と黒住家とが姻戚であったからと云う。
 犬養木堂揮毫扁額
 庭石・石塔残欠:庭石としておかれる。左記のほかにも、五輪塔の残欠と思われる石も点在する。
 これらは神力寺跡背後の山中から搬入し、山中には今なお数基の石塔が残ると云う。

2016/01/09追加:
○「岡山県立博物館平成19年度特別展 吉備津神社」岡山県立博物館、2007 より
「神力寺・吉備津宮常行堂跡」という項目で次の写真掲載がある。
 神力寺の礎石
在り場所など不明であるが、藤原成親供養塔・供養塔下古墳の近辺にあるものと思われる。

備前吉備津彦大明神概要

当社は備前一宮と称するも「延喜式」にその名を見ないと云う。おそらく平安後期に備前一宮の地位に就いたものとされる。
当社の南隣接地が神力寺跡(古代の寺名かどうかは不明)で、ここから奈良期の瓦、奈良ニ彩の瓦塔破片が出土し、このことから奈良期の寺院があったものと推定される。いずれにせよ、この寺院と神社は密接な関係があったものと思われる。
また境内の前庭は古代(平安期)の三島式庭園の形態を残し、神宮寺庭園と云われる。
 2007/12/27撮影:備前吉備津宮三島式庭園:北部分
 2008/02/05撮影:備前吉備津宮三島式庭園:南部分
 2014/02/16撮影:備前吉備津宮庭園・北     備前吉備津宮庭園・南
中世の遺物として、神力寺跡からは「吉備津宮常行堂」銘の瓦(鎌倉)を多く出土すると云う。
 備前吉備津宮常行堂瓦1:「岡山文庫52 吉備津神社」より
 備前吉備津宮常行堂瓦2:「岡山文庫16 吉備路」より
東大寺再興大勧進俊乗房重源、備前の国(大仏殿再興料)を管理、吉備津宮に常行堂を造営(「南無阿弥陀仏作善集」)するが、神力寺にこの重源常行堂が造営されたと思われる。
※この瓦は備前万富の重源経営の東大寺瓦窯跡の出土瓦と一致すると云われる。
 南無阿弥陀仏作善集(部分):東京大学史料編纂所所蔵:画像下段中央付近に「備前常行堂一」とある。

「備前吉備津彦神社縁起寫」(文亀2年<1502>):
「・・・備前鎮守一品吉備津彦大明神、本朝神社始日、當社為権輿也、別而神□々々爾来代々帝王下勅言、寄國中貢米官米、奉遂造営、正宮、本宮、拝殿、舞殿、楽屋、廳屋清涼殿、参籠所、不老門、百八廻廊、二階楼門、備中備後二三之宮殿、惣社、両御前、神宮寺、七座奉□□□都合五拾一之殿宇、七本花表柱、鏤金琢玉、西國旅行第一之社観也、仁明天王承和十年拾月廿四日、再官位贈送一品爵位、同神主祝部許爵冠矣、神威赫々、霊験繁昌盆新焉、・・・」
 ※中世には神宮寺の存在を見る。また仏教が導入され、社殿の周囲には多くの仏堂仏塔が建立されていたと推定される。
永禄9年(1566)松田左近将監による日蓮宗勧請を拒み、焼き払われる。※あるいは永禄5年(1561)とも云う。
慶長2年(1597)宇喜多秀家、慶長6年(1601)小早川秀秋再建に着手、慶長9年(1604)池田氏により五十一宇が復元される。
寛文8年(1668)池田光政の神仏分離、五十一宇(御釜殿、百八廻廊など)すべて廃除、新しく社殿造営に着手。
延宝5年(1677)池田氏、350石の社領寄進
元禄10年(1697)池田綱政代に社殿造営が成る。
昭和5年、綱政代造営の社殿焼失(本殿<三間社流造、桧皮葺>、随身門、宝庫を除く)。
昭和11年!官費!などで再建。
2007/12/27撮影:
 備前吉備津宮本殿等
 備前吉備津宮随身門:仁王門の雰囲気を醸し出す八脚門である。
2008/02/05撮影:
 備前吉備津宮随身門2
2014/02/16撮影:
 備前吉備津宮参道     備前吉備津宮随身門
2020/04/03撮影:
 備前吉備津宮門前     備前吉備津宮神泉
 吉備津宮北大鳥居     北大鳥居前常夜燈:なぜか常夜燈には「最上位経王大菩薩」と刻する。

参考文献:
「吉備津神社本殿の形式」稲垣栄三(「日本建築学会大会学術講演梗概集(中国)」昭和43年 所収)など
「岡山県通史」上下巻、永山 卯三郎、昭和5年
「考えながら歩く吉備路」薬師寺慎一、吉備人出版、2008


2007/12/31作成:2020/05/17更新:ホームページ日本の塔婆