山 陽 諸 国 の 日 蓮 宗 諸 寺・祖 師 堂 / 題 目 石 な ど

山陽諸国<備前西部・備前南部・備中>の日蓮宗諸寺・祖師堂/題目石等

美作・備前東部・備前北部は別ページに掲載)


播磨の諸寺

 →播磨の諸寺

   ◇明石大聖寺  →明石大聖寺

   ◇室津大聖寺・・・未見  →室津大聖寺

伯耆の諸寺

 →伯耆の諸寺

   ◇米子常住山感應寺  →米子感應寺

出雲の諸寺

   ◆
出雲平田  →出雲平田


大覚大僧正開基寺院

 大覚大僧正開基寺院<三備(備前・備中・備後)、三備以外>、大覚大僧正自筆題目石<備前和気法泉寺、備前曹源寺寺中大光院、備中西辛川大覚堂、備中軽部大覚寺>、その他
  → 大覚大僧正開基寺院

日樹上人関連寺院

 備中屋守法福寺、備中屋守仏乗寺、江戸土冨店長遠寺、江戸市野倉長勝寺 など
  → 日樹上人供養塔


美作の諸寺

  →美作の諸寺

 ◇美作大庭廃妙蓮寺
   →美作大庭妙蓮寺


2020/06/12追加:
三備における古い法華題目石
○「岡山の石仏」岡山文庫、巌津政右衛門、昭和58年 など より
備前・備中では祖師堂(日蓮堂)・路傍・寺院境内などに数多くの法華題目石が安置されるが、年紀の判明しているもので、古いものは以下が知られる。
 備中大覚寺大覚大僧正題目石:暦應5年(1342) →備中軽部大覚寺
 備前法泉寺大覚大僧正題目石:康永元(1342)<暦應5年4月改元>年紀 →備前大樹山法泉寺
 備中辛川大覚堂(寺)題目石:年紀はないが、暦応年中(1338-42)大覚大僧正が関与と伝える。 →備前辛川蓮光寺
 備前圓山大光院法華題目石:康永4年(1345) →備前圓山大光院
 備前圓山大光院比丘尼妙善題目石:應永18年(1411)  → 同  上
 備前上芳賀題目石:永禄3年(1560) →上芳賀題目石は備前津高郡芳賀村
 備中中島妙立寺題目石(逆襲塔):永禄4年(1561) →中島妙立寺は備中中島清涼閣<備中高松近辺諸寺中)にある。
 備前長野祖師堂題目石:天正19年(1591) →長野祖師堂は備前津高郡横尾村・長野村中にある。
 備中東花尻御祖師様題目石:天正19年(1591) →東花尻題目石は備中東花尻中にあり


備前の諸寺

 →備前の諸寺

 ◇和気佐伯本久寺:和気郡寺山村
   →備前和気佐伯本久寺

 ◇備前和気藤野實成寺:和気郡和気町藤野348
   →備前和気藤野實成寺

 ◇備前浦伊部妙圀寺
   →備前浦伊部妙圀寺

 ●備前牛窓本蓮寺
   →備前牛窓本蓮寺

 ◇備前福岡妙興寺
   →備前福岡妙興寺

 ◇備前中田龍渕寺
   →備前中田龍渕寺

 ●備前金川近辺諸寺
   →備前金川近辺諸寺

 ◇備前金川妙國寺:寛文6年廃寺
   →備前金川妙國寺

 ◇備前國ヶ原香雲寺
   →備前國ヶ原香雲寺

 ◇備前野々口實成寺跡 及び 備前野々口實成庵
   →備前野々口實成寺跡

 ◇日典上人産湯の井戸;日典生誕地
   →日典上人生誕地

 ◇備前中山道林寺
   →備前中山道林寺

 ◇備前日應寺
   →備前日應寺


★★備前西部 及び 備前南部の日蓮手諸寺


●「前旧岡山市内の諸寺:旧岡山市内とは1970年頃の岡山市を想定・・・但し、大雑把な切り分けである。

〇「岡山市史 社会編」1968 より
   ・・・但し、一部論旨は変え、追加もしている。
 大正10年岡山市に編入した何れも近代の伊島村、石井村、鹿田村及び戦後に編入した何れも近代の大野村、今村、芳田村、福浜村、白石村はかっては「備前法華」の中心で、全村が日蓮宗といってよい地域も少なくない。
このような地区を歩くと必ずといってよいほど「祖師堂」を見かける。
 堂の内部の奥正面もしくは堂の奥背後の堂外正面に題目石を建て、その脇には必ず大覺大僧正と刻んだ石塔がたててある。七文字の題目は祖師日蓮上人を表徴する本尊であり、大覺大僧正はこの地に日蓮宗を弘通した行者であり、その恩人をともに祀るのが備前法華の在り方であろう。
 これは大覺大僧正が巡錫先で祖師堂の建立を奨励したからで、村民が交互に堂の内外を清掃して香華を供える。この作業の内に祖師尊崇の念を養い、民心の教化を図るのが狙いであったのであろう。
 これらの村々には大覺大僧正の弘通以来必ず日蓮種の寺院が建てられていた。さらに、これらの寺院は悉く不受不施を堅固する立場であり、それ故に岡山藩(池田光政)の寺院淘汰の標的にされあるいは幕府の宗教政策と衝突し、寛文6年受派に転向した数ヶ寺を除き、悉く廃寺となり、僧侶もほぼいなくなった。このような苦難もあり、最寄の祖師堂に一層深い信仰が向けられるようになった側面もあるのだろう。
 また祖師堂には題目石(日蓮)と石塔(大覺大僧正)の二塔のほかに、地神・水神の石塔も必ずといってよいほど建ててある。地と水は生活の基本ななすからであろう。
 さらに祖師堂には常夜燈も必ずといってよいほど設けられ、おそらく夕闇とともに毎夜、燈火されたのであろう。そしてそれは村人の信仰の証あるいは村人の宗教的象徴としての役割を果たしたのであろう。

備前上道郡海面村、圓山村、山崎村、福泊新田
海面は福泊新田の北にあり、南流する百關西に沿って集落がある。笠井山の南東面に当り、倉安川が西流する。明治8年南接する福吉新田と合併し、海吉村となる。海面村の地区は本村・中村(いずれも元の村)・出村(分村)に区分けされ通称される。
そして後の福吉が合併し、4区分となる。
圓山は福吉新田の西にあり、操山・笠井山の中間付近南麓、倉安川北辺にある。元禄11年(1698)曹源寺及び塔頭5ヶ院が創建される。
山崎は圓山村の南、元々は葦原であったが、寛文年中(1661-)に新田開発される。貞享3年(1686)山崎村となる。北辺を倉安川が流れる。
福泊は山崎の東にある。北辺を倉安川が西流する。

備前海吉本村地神 【未見】
2022/10/07追加:
○サイト:富山学区連合町内会 より
地神:五角柱碑、花崗岩製。
所在地:岡山市中区海吉 379-1 番地(倉安川本村橋の橋上)
来歴:元は倉安川東岸にあったが、平成8年の本村橋改修に伴い、現在の場所に移設される。
社日は、年2回・本年(平成26年)は3月18日と9月24日。
祀り方は、本村町内の吉備津岡辛木神社氏子有志により行う(木見初男さんを中心として)。
方法は、方法は、青竹4本を立てしめ縄ごへいで地神様を囲み、酒、米を供える。なお、しめ縄、ごへいは町内有志でつくる。
社日の日は、8時30分頃から有志が集いお祀りをする。
常夜燈:花崗岩製、笠石と竿石が欠損している。
 海吉本村地神・常夜燈     海吉本村地神     海吉本村地神寸法図     海吉本村常夜燈寸法図

備前海吉中村地神 【未見】
2022/10/07追加:
○上と同じくサイト:富山学区連合町内会 より
地神:五角柱碑、花崗岩製。
所在地:岡山市中区海吉726番地(倉安川中村橋の橋上)
来歴:元は倉安川東岸にあったが、平成9年の中村橋改修に伴い、現在の場所に移設された。
社日は、年2回、本年(平成26年)は3月18日と9月24日である。
祀り方:11軒の農家が一軒ずつ持ち回りで地神様の四隅に笹竹を立てしめ繩を張ってごへいをつける。青竹、お供えの酒、煮干し、おにぎりは翌朝片付ける。
常夜燈:宮立形(宝珠石、請花、笠石、火袋石、火袋石台、竿石、台石)
 海吉中村地神・常夜燈     海吉中村地神     海吉中村地神寸法図     海吉中村常夜燈寸法図

備前海吉出村地神 【未見】
2022/10/07追加:
○上と同じくサイト:富山学区連合町内会 より
地神:五角柱碑、花崗岩製
所在地:岡山市中区海吉 1385番地(通称「丸端」の市有地) ※緯度・経度:34.659567413476076, 133.9840646458908
来歴:(古老言) 江戸時代、疫病平癒を祈願して建立されたという。明治3年に再建か?
社日は、春秋2回農家組合が祭祀を行っていたが、昭和30年代ころから行われなくなってしまった。
常夜燈:すべて左右対称、ほぼ正方形である。
来歴:吉備津岡辛木神社の参道入り口に位置し、天保15年(1844)の建立である。花崗岩。
 海吉出村地神・常夜燈     海吉出村地神     海吉出村地神寸法図     海吉出村常夜燈寸法図
 海吉出村地神境内図:中央に地蔵堂、左右に地神・常夜燈を配する。背後の堂宇は大師堂。前方は数十坪の境内地がある。
○GoogleStreetView より
 海吉出村地神境内1:広い境内を有する。
 海吉出村地神境内2:地神、地蔵堂、常夜燈を有し、背後は大師堂。    海吉出村大師堂
○海吉出村町内会サイト 中>地蔵堂・大師堂より
地蔵尊
地蔵尊は安政二年(1855)にこの地に鎮座し、毎年8月23日には海吉出村子ども会の「地蔵祭り」が行われる。
前地蔵堂は大正9年(1920)に再築されたが、平成30年(2018)に再築される。
大師堂安置不動尊・大師堂
お堂は古くよりこの丸端台地にあり、昭和20年代まではこの台地の西端に建っていた。
不動尊立像と弘法大師座像が祀られる。
 海吉出村地蔵堂     海吉出村地蔵尊     海吉出村大師堂     大師堂内部:不動明王・弘法大師
大師講の終焉:
平成24年9月、最後のお講として残っていた大師講(東講組)の閉講する旨の申出がある。
時代の流れで講中の家が減少し、講の維持が困難になったという理由である。
海吉出村には、古くから「伊勢講」「金神講」「大師講」という講があったが、既に、前2者は閉講し、遂に大師講に存続が不能となる。
今秋吉日を選び、丸端大師堂に関係者相集い、祭壇を設え、経を唱えて閉講の行事を行うこととなる。
伝承してきた大師講縁の品や祭祀用具は、容器に収納し、由緒と品目を明らかにして丸端大師堂にて永代保管〜伝承する。
元来、出村大師講は「東講組」「西講組」の二つがあり、西の大師講も昭和30年度ごろに閉講状態にあり、西組講連中で保存している「お道具一式」もこの際、東講組と同様に閉講の運びとし、大師講縁の品々の保管についても東組同様の措置とすることに決する。
かくして、東講組、西講組に分け、平成24年11月の二日にわたり丸端大師堂において厳粛に閉講の儀式が執り行われたのである。
向後
伝承の鐘の刻字によれば「文政十年四月吉日、西村和泉守作、上道郡海面出村東」などとあり、文政十年といえば1827年だから、2012年の現在を遡ること185年も前(もしくはそれ以前から)から大師講はこの地の先人たちによって営々として守り伝えられてきたことになる。
遺された「講順」書きによれば、1年に6〜10回程度のお講が籤で決められて持ち回りにより営まれたようだが、村人たちは弘法大師とその訓えに対する純真にして敬虔な信仰と畏敬の念のうちに講当番の家に集まり、祭祀のあとは馳走に与かり、あるいは痛飲歓談し、まさに同士交流の場としても有効に機能したであろうことは想像に難くない。
庶民信仰に纏わる伝統文化行事は、いまや毎年8月23日に子ども会によって行われる「地蔵祭り」と秋祭りの「だんじり巡行」だけとなったが、昭和57年に創めてすでに30余回を数えた「納涼盆踊り大会」共々、この地に住む人々が歴史と伝統文化を重んじつゝもこれらの行事を住民の触れ合いと交流の場として、いつまでも大切に守り伝えてほしいと祈るや切である。

備前海吉福吉地神 【未見】
2022/10/08追加:
○上と同じくサイト:富山学区連合町内会 より
地神:五角柱碑、花崗岩製。
鎮座:岡山市中区海吉2175-5番地 ※:緯度・経度 34.65158273400605, 133.98622974829325
来歴:現在常夜燈などが建立されている場所から北東方向約5mの所に東から常夜燈、地神様、木山神社祠の順に建てられていた。
昭和38年頃、道路工事に伴い大師堂と共に現在の場所に移転して今日に至っている。
社日は、年2回行われる。本年(平成26年)は、3月18日と9月24日である。
祀り方は、福吉町内の農家(12世帯)で1回ごとに持ち回りで行っている。(平成10年代後半の頃より)社日の2〜3日前に当番農家が地神様を清掃、竹、しめ縄、榊などを備え付けて当日を迎える。午前7時頃から午後8時30分頃まで農家の人が、三々五々お参りする。
平成20年代になっても、お参りの際には酒一升、賽銭などをお供えして当番農家が食事などの酒一升、賽銭などをお供えして当番農家が食事などの接待をしていたが、最近(平成23年頃から)は何もない。(元町内会長より)
常夜燈:
来歴 : 昭和21年12月に発生した昭和南海地震で笠石が地上に落下し先端部分3ヶ所及び宝珠石の先端が破損した。
昭和38年頃、道路建設に伴い大師堂と同様現在の場所に移転しは同上。
祈念碑:
来歴:江戸期建立という大師堂(中区海吉2150-2)の北西側に明治38年頃に石碑が建てられた。(日露戦争終結明治38年)
昭和38年頃、道路工事に伴い大師堂を南約30mの所へ南向きに新築移転した。石碑は、大師堂の移転に伴いその東側に建てられ現在に至る。 ※海吉2150-2が大師堂の元位置とし、かつその南約30m位置に移転したとするならば、現在位置とは辻褄が合わないが、これは良く分からない。
材質:御影石(花崗岩)、形状:133×17×14cmの直方体。
 海吉福吉地神境内     海吉福吉祈念碑:日本帝国の軍国化記念碑であろう。     海吉福吉常夜燈寸法図
○GoogleStreetView より
 海吉福吉地神全容     海吉福吉大師堂:大師堂前には手水石、祈念碑前にも手水石(?)がある。
 海吉福吉地神:向かって左手前は旧の木野山祠、右は新造の木野山祠であろう。

備前海吉福泊地神 【未見】
2022/10/08追加:
○上と同じくサイト:富山学区連合町内会 より
地神:五角柱碑、花崗岩製。
鎮座:岡山市中区福泊328-6番地 ※緯度・経度:34.65707254666049, 133.97827376793862
来歴: 江戸時代末期 1855 年(嘉永7年)に現在のバス停付近に建立された。大正14年県道改修にともなって現在の場所に移転した。
社日の日は、夏(月日不明)農作業をしない日として一日休みをとっていた。
祀りは、当番が竹を立て、しめ縄をはり菓子酒米などをお供えをした。お参りした人はお賽銭を盆にのせ、子どもはお菓子を、大人は酒(一升瓶)をいただいていた。
社日は、農家の減少と時代の推移で次第に廃れ、現在では、忠魂碑にお参りする遺族の方が忠魂碑の掃除をするときに掃除やお供えをしている。
 海吉福泊地神など     海吉福泊地神     海吉福泊地神寸法図     海吉福泊常夜燈
 海吉福泊常夜燈寸法図

備前圓山曹源寺寺中大光院

  → 曹源寺寺中大光院

圓山番神(圓山番神堂・題目石) 【未見】
2022/10/07追加:
○サイト:富山学区連合町内会 より
番神様:岡山市中区圓山792地先
 ※GoogleStreetViewの対象外地域で、Web上では立地が良く分からない。
・由緒来歴
 「ばんじんさま」と読む。
池田光政の寛文年間、不受不施派は禁教となり、僧徒は追放され、信徒は改宗させられる。しかし、信仰に厚い人々が番神様を建てて、密かに信仰を続けて今日に及んでいる。
円山の法華題目石のあるところを山に登っていくと、住宅の間にはさまるようにして「南妙法蓮華経」と書かれた題目石と灯籠2基が建っており、まわりには小さな五輪塔がたくさん置いてある。これは題目石をお守りしている仏様である。このあたり一帯は昔円山城が建っていたところという。(岡山市立富山公民館ホームページ「歴史と自然」より引用)
 番神まつり(4月27日・9月27日)
春、秋2回、番神まつりをしていた。やり方は妙見まつりと同じだったが、お接待はなかったように思う。
今は、春は番神まつりのときに、妙見まつりもいっしょに行い、秋は妙見まつりのときに、番神まつりもいっしょに行っている。
おまつりの日も勤め人が多くなったので、それぞれのおまつりに最も近い日曜日にしているが、だれも参らなくなった。
今は妙楽寺のお上人さんに、来て拝んでもらっている。 大正10年生・男性・円山
(私たちの富山「今聞いとかにゃあおえんがな」より引用)
 圓山番神堂     圓山番神(題目石)等
 番神堂があり、題目石1基、常夜燈2基、五輪塔多数などがある。番神様とは題目石であり、この付近には不受不施の信仰が続いていて、この題目石は不受不施の信徒の人々の拠り所であったのかも知れない。五輪塔もそれらの人々に関係する墓碑であるのかも知れない。
番神祭と妙見祭は同時開催のようで、付近などに妙見大菩薩が祀られているかも知れないが、それは確認できず。

備前圓山題目石: お大師様の北の題目石 【未見】
2022/10/07追加:
○上記のサイト:富山学区連合町内会 より
中区圓山798地先  ※緯度・経度:34.65614436537016, 133.9686753308907に所在
・由緒来歴
お石塔まつり
公園の前に小さいほこらがあって、大きな自然石に、「南無妙法蓮華経」と書いたのが建っとったが、そこで日蓮さんのおまつりをしていたんじゃ。日蓮さんの題目石のところへ、よう行きょうった。(よく行っていた。)
夏に、題目石のところには、初盆の家からちょうちんをもらってきてぶら下げたんじゃあ。
日蓮宗の檀家だけの5、6軒が回り持ちで、その年の当番の家が主体でやりょうた。(やっていた。)みんな集まって、お経をあげとった。(あげていた。)子どもがようけ(大勢)来るから、お菓子をぎょうさん(沢山)こうといて(買っていて)接待しとった。
 明治33年生・男性・円山
(私たちの富山「今聞いとかにゃあおえんがな」より引用)
 ※GoogleMapで確認する限り、「公園の前の小さいほこら」というのは確認できない。すぐ南に、数坪の空地があり、そこに地蔵尊の石仏と小さい祠がある(上でいうお大師様かの知れない。)ので、このことかいうのかも分からない。
 圓山題目石     圓山題目石寸法図

備前圓山操山題目石 【未見】
2022/10/07追加:
○上記のサイト:富山学区連合町内会 より
・鎮 座:岡山市中区円山761 地先
 ※GoogleStreetViewの範囲外で詳細な位置は不明、上に記載の「圓山題目石」から北方に行き、「圓山番神」を過ぎ、更に北方に登ると墓地がある。この墓地中にこの題目石はあると思われる。
・由緒来歴
法華題目石に天明六丙午(ひのえうま)年十月十三日(1786年)と刻まれています。
近くに、お地蔵様と六地蔵様が建っています。
(岡山市立富山公民館ホームページ「歴史と自然」より引用)
 圓山操山題目石

備前圓山嶽題目石 【未見】
2022/10/07追加:
○上記のサイト:富山学区連合町内会 より
岡山市中区円山229地先  ※緯度・経度:34.65148651168652, 133.96157698880725に所在
 ※嶽という地名(?)が不明であるが、圓山村の字なのであろうか。この場所は圓山の西端で、すぐ西は湊村である。
・由緒来歴
正面題目「南妙法蓮華経」の下に「南無日蓮大菩薩」・背面に「上道郡富山邨大字圓山 山田金吾建之」・東側面に「開宗紀元六百五十歳 明治三十五年四月廿八日」・西側面に詳しい題目誌?が刻まれている。
 ※年紀では明治35年の新しいものである。西面の由来書きは不明。
 圓山嶽題目石:GoogleStreetView     圓山嶽題目石2     圓山嶽題目石寸法図

備前圓山地神 【未見】
2022/10/07追加:
○上記のサイト:富山学区連合町内会 より
所在地:岡山市中区円山14-10番地 ※緯度・経度:34.65501654474868, 133.96905492083764
来歴:昭和60年頃、排水路東岸火の見櫓付近(円山34—2)に鎮座していた地神様を道路改修に伴って遊園地に移設した。
台石に建立の期日らしい文字が見えるがはっきりしない。
毎年春(3月)と秋(9月)の社日に農家組合の人が順番に2〜3人(当番)でお参りをしている。
2014年春は、3月18日が社日になる。果物・お菓子やお花をお供えし、家内安全・五穀豊穣などを願い石高神社の神主さんに祝詞をあげてもらっている。
材 質 : 五角柱碑と台座(豊島石)台石(花崗岩)
 圓山地神     圓山地神寸法図
○GoogleStreetView より
 圓山地神丸山遊園地

山崎祖師堂跡:おそらく祖師堂があったものと思われる。
中区山崎83地先:緯度・経度 34.654092749070834, 133.97114215351246 に所在。
岡山市電子町内会(4)大覚大僧正・題目石・三十番神(山崎公会堂)  より
題目石(日蓮大菩薩)、大覺大僧正、三十番神の3基の石碑と更に明治の題目石(日蓮大菩薩)もある。
明治の題目石(日蓮大菩薩)は、村中安全五穀豊穣成就を願い岩戸雄太郎(現岡山市北区奥田本町在住の岩戸顕の曾祖父)が明治41年3月20日に建立したものである。
現在(2009年)は毎年5月3日(憲法記念日)に町内有志により「しぐさんにち」(大覺大僧正の命日旧歴4月3日)と称し、大覺大僧正並びに番神様を祀り併せて町内の安全及び五穀豊穣等を祈願している。
2022/05/06撮影;
題目石計4基の他、常夜燈2基がある。
 山崎祖師堂跡石塔1     山崎祖師堂跡石塔2     山崎祖師堂跡石塔3     山崎祖師堂跡石塔4
 題目石(日蓮大菩薩)     題目石(三十番神)     大覚大僧正石
 明治の題目石(日蓮大菩薩)1    明治の題目石(日蓮大菩薩)2
 明治の題目石(日蓮大菩薩)3:沖邑山は平井妙楽寺。

備前山崎地神 【未見】
2022/10/08追加:
○上と同じくサイト:富山学区連合町内会 より
所在地:岡山市中区山崎85-6番地 ※緯度・経度:34.65313728412653, 133.97180903060826
来歴:台石に大正5年3月の刻字があるが、これは台石の新調の時期と考えられる。
平成9年五角柱石碑が倒れた為、鉄筋を埋め込みセメントで補修する。
毎年5月3日に11〜12人/18人(農家組合)が集まり、しめ飾りをして、ローソク、線香、花、酒をお供えし祝詞を上げていたが祝詞を識っている古老がいなくなった現在では、家内安全・五穀豊穣などをお願いしてお祀りをしている。
材 質 : 五角柱碑と台座(豊島石)台石(花崗岩)
 山崎地神     山崎地神寸法図
地神の他に牛神、常夜燈(竿・台石は欠損か)がある。
○GoogleStreetView より
 山崎地神立地

備前上道郡國富村

備前国国富題目石

2022/05/06撮影:
緯度・経度:34.664803, 133.944289に所在する。西国街道(旧山陽道)沿いの路傍にただ1基ある。
情報は皆無で、詳細は不明。
 国富題目石1:背後の道が岡山城下に入る西国街道(山陽道)である、当初から、この題目石は旧山陽道に面して建っていたのであろうか。
 国富題目石2:題目の左右に4文字ずつ文字があるが、判読できず(向かって左の下2文字は「之力」か)。題目の下には「南無観音𦬠」とあると思われるが、だとすれば、この刻文の意図が分からない。
 国富題目石3;向かって左は西国街道、右の砂利道は西大寺軽便鉄道廃線跡。
■西大寺軽便鉄道跡
帰宅した後に、この題目石を緩く巻くように軽便鉄道が走っていたことが判明する。
○ページ「むら歩き・まち歩き」 より
 西大寺鉄道森下駅付近:一時期まで森下駅が終着であったが、その後、後楽園駅まで伸延される。
○GoogleMap より
 西大寺鉄道廃線跡
  →西大寺軽便鉄道は「鉄道風景」中

備前上道郡網浜村・湊村・平井村(備前南東部新田地帯を含む)

岡山桜橋通力寺

○日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
旭光山と号する。旧網浜村にある。中区桜橋2-1-6
明治28年頃の創立。開山要中院日行。親師法縁。通力稲荷堂として建立。昭和27年寺号公称。
開山日行は福山中之坊20世から大阪善徳寺加歴38世へ。
 ※福山中之坊とは不詳であるが、山田常国寺々中に中之坊があった。この中之坊であろうか。
 常国寺々中中之坊は明治6年廃寺となり、明治22年再興するも、大正15年常国寺に合併するという。
 大阪善徳寺は大阪に現存。
2019/10/30撮影:
 桜橋通力寺全容    桜橋通力寺全容2    桜橋通力寺本堂1    桜橋通力寺本堂2    桜橋通力寺本堂・庫裡

備前湊地神 【未見】
2022/10/08追加:
○上と同じくサイト:富山学区連合町内会 より
所在地:岡山市中区湊409番地 ※緯度・経度:34.65061378965544, 133.96012931634493
来歴:五角柱碑が新しいのは、戦後間もなく道標と地神様主柱が盗難にあったので、池の内町内でお金を出し合い再建したためである。
町内当番の町内当番の「年業」によると、8月23日と10月(?)に当番が笹竹を4隅にたててしめ縄を張り、供物、お水、榊をお供えし長老が簡単に祝詞を唱えてお祀りをしていた。
農家が減少し、ついになくなって昭和の終わりごろから何もしなくなった。
 備前湊地神       湊地神寸法図

備前東湊題目石
緯度経度:34.649451, 133.958961 付近に所在。
○「ふるさと平井」平成6年 より
大池西の山側の墓地に一画に、文政2年(1820)の題目石と六地蔵がある。石の門柱が入口に2本残されていて、往時は題目石と六地蔵の聖域であったことが偲ばれる。
前の道は藩政時代東山峠を越える牛窓往来で、大池茶屋が附近にあったと思われる。
2019/10/30撮影:
 東湊題目石と六地蔵     東湊題目石(日蓮)1     東湊題目石(日蓮)2     東湊題目石(日蓮)3


湊茶臼山古墳題目石
「ふるさと平井」平成6年 に「神社・寺院・民間信仰碑等配置図」があり、この図中では湊茶臼山古墳の墳丘上に題目石が配置されていることになっている。
しかし、一方ではこの碑のついての言及は本文には一切なく、またWeb検索でも墳丘上の題目石についてはヒットせず、詳細は不明である。おそらく存在するのだろうと思われるも、存在確認ができず、また時間の関係で今般(2019/10/30)は探索せず。

備前西湊題目石
緯度経度:34.641719, 133.950668に所在。
○「ふるさと平井」平成6年 より
倉安川に架かる米山橋北側にある。
題目石(日蓮)の年代は寛政8年(1796)、大覺大僧正の年代は貞治3年(1364)と刻む。
2019/10/30撮影:
題目石(日蓮)と大覺大僧正が並んで建つ。
地神とか常夜燈は見当たらないが、敷地や石塔の配置から、おそらく南面した祖師堂があったものと思われる。(推定)
大覚大僧正石碑は「貞治三年/四月三日寂」と刻むが、これは大覚大僧正の示寂の時である。題目碑(日蓮)の寛政8年は題目石建立の年紀であろうが、「貞治三年/四月三日寂」は大覚大僧正の示寂の年である。
 西湊題目石1     西湊題目石2     西湊題目石3
 西湊題目石(日蓮)1     西湊題目石(日蓮)2
 西湊大覚大僧正1     西湊大覚大僧正2:少々見づらいが、大覺大僧正示寂の年月日を刻する。

岡山平井最上稲荷東山教会

岡山市中区平井2-2299、本尊は最上位経王大菩薩・八大龍王・三面大黒天、
平成6年、現住が備中高松最上稲荷より勧請という。従って近年の寺院である。
2019/10/30撮影:
 平井最上稲荷東山教会     最上稲荷東山教会本堂     最上稲荷東山教会庫裡     最上稲荷東山教会鐘楼

平井四軒屋筋牛頭天王・地神
四軒屋から北の峠路沿いに、現在ある。緯度経度:34.641558, 133.944768
元は下の川(倉安川)の河畔にあったが、近年(そんなに遠くはない近年、平成半ばくらい)の倉安川の改修で、現在地に移されたという。(聞取り)
2019/10/30撮影:
多くの石が並べられるが、唯一「牛頭天王」だけが無事である。その左右には豊島石製の石塔類(台石・五輪塔・常夜燈の棹など)の部材があるが全て残欠である。
その中、形を保つのは豊島石製五角柱地神であるが、文字は判読できないし、また折れた石柱をセメントで補充して継いでいる状態である。
 四軒屋筋牛頭天王     牛頭天王と石塔類残欠1
 牛頭天王と石塔類残欠2:写真右端の蜜柑の木にほぼ隠れているが、木の下に五角柱地神がある。
 石塔類残欠1     石塔類残欠2
 四軒屋筋五角柱地神

備前平井松壽庵跡:不受不施派

平井奥聖寺から北に約100mほど緩やかな坂を登り、2ツ目の交差路を70mほど西(尾根道)に進み、(北山工作所の角を)北に下れば三叉路に至るが、その東が松壽庵があった場所という。松壽庵手前には清水井戸がある。
 平井松壽庵跡地図:地図の中央やや右の位置に日奥供養石塔を示す。
延宝年中(1673-80)春雄院日雅によって創建と伝え、日雅以降歴代清僧の指導によって明治初頭まで不受不施信仰の拠点として法脈を伝える。
明治年中、不受不施派公許の後、今の奥聖寺(下に掲載)の隣接地にそのまま移され、平井村第八教会所となる。
その後、教会所が手狭になり、現在の奥聖寺の地へ地元信者の奉仕で松壽庵が建立される。
昭和22年松壽庵は奥聖寺と寺号を公称する。
2019/10/30撮影:
現在は3方から入る道があるが、禁制下ではほぼ路らきものは無かったのではないだろうか。庵跡は今も薮中にあるが、禁制下では、路がほぼ無かったとすれば、今以上に「薮の中」に「埋もれているように存在していた」ものと思われる。
松壽庵跡には石垣と、今も水を湛えた井戸が2つ残る。
松壽庵西直ぐには「清水井戸」称する名水がある。これは松壽庵とは関係がなさそうであるが、昭和の初めまでは酒造業者が水を汲みにきていたという。その為であろうか、井戸枠は切石で、周囲は石畳が敷かれ、取付きには石階が作られる。
なお、付近には、松壽庵が創建されたと同じころ(延宝年中/1673-80)に造られたという古井戸も残り、現在も地区民によって水神祭が行われ、手入れされているようである。
 平井松壽庵跡1     平井松壽庵跡2     平井松壽庵跡3     平井松壽庵跡4
 平井松壽庵跡5     平井松壽庵跡6
 松壽庵へ北から下る路     松壽庵へ西から入る路     松壽庵へ東から入る路
 松壽庵跡井戸その1-1     松壽庵跡井戸その1-2
 松壽庵跡井戸その2-1     松壽庵跡井戸その2-2
 平井の清水井戸1     平井の清水井戸2     平井の清水井戸3     松壽庵附近の古井戸

備前平井奥聖寺:不受不施派

不受不施派である、平井松壽庵である、平井元上町に所在する。(岡山市中区平井1-12-12)
○「ふるさと平井」平成6年 より
寛文6年以降の岡山池田藩の不受不施弾圧下、春雄院日雅によって、現在地より少し北の竹藪中に創建された松壽庵がその前身である。松壽庵の開基は延宝年中(1673-80)と伝え、日雅以降歴代清僧の指導によって明治初頭まで不受不施信仰の拠点として法脈を伝える。
明治9年宣妙院日正他多くの信徒の運動により、不受不施派は公許される。
なお、この地は宣妙院日正の遷化の地である。
不受不施派再興されてからは、松寿庵は今の奥聖寺に隣接した地へそのまま移転され、上道郡平井村第八教会所となり、津島妙善寺法中が住持となる。
昭和4年教会所が手狭になり、現在地へ地元信者の奉仕で松壽庵が建立される。
昭和22年奥聖寺と寺号を公称する。
再興会:毎年4月8日は奧聖寺において、再興会が奉納される。現在は簡素になってきているが、昭和の初めまでは大掛かりであったという。
2019/10/30撮影:
 平井は一村全部が不受不施であったという。現在も奧聖寺(今に松壽庵と呼ぶという)近隣には多くの信徒がいるようである。
しかし、時代の変遷とともに、次第に、例えば平井柳原刑場跡のお参り・清掃への参加、あるいは定期的な矢田部六人衆への墓参などが難しくなっているともいう。(聞取り)
 平井奥聖寺1     平井奥聖寺2     平井奥聖寺3     平井奥聖寺4     平井奥聖寺5     平井奥聖寺6
 平井奥聖寺遠望:中央が奧聖寺     奥聖寺日正上人碑     奥聖寺からの眺望

日奥上人供養塔・祖山妙覚寺歴世墓碑
○「ふるさと平井」平成6年 より
 延宝7年(1679)−(松壽庵が創建されたころである。)−倉安川第二水門工事で石材の一部が平井の山から切り出されるが、たまたま笹山墓地にあった日奥上人の大石塔が手頃でありかつ禁教者の石塔であったので、現場に担ぎ降ろされる。ところが石工が細工の為鑿を入れると、滑り、二〜三度大怪我をする始末となり、そのまま放置される。
ある夜、信者たちは夜陰に紛れ、石塔を取り戻し、土中に埋め隠してしまう挙に出る。
明治の初め、不受不施派公許となると、土中から掘り出し改めて祭祀するという。
2019/10/30撮影:
次の情報がある。
岡山市中区桜橋四丁目:妙覚寺墓地>不受不施派御先師御墓所>日蓮宗不受不施派僧・春雄院日雅・妙覚寺歴代住職・日奥聖人供養塔
 確かに日奥上人供養塔のある区画は桜橋4丁目に属するが、平井元上町と境を接する場所で、不受不施先師の墓も並び、上記情報と一致すると思われる。一致するとすれば、この区画は祖山妙覚寺墓地ということになるだろう。但し春雄院日雅の碑は、見落としの可能性もあるが、見当たらず、これだけは不審である。
 平井祖山妙覚寺墓所1:中央が日奥上人石塔     平井祖山妙覚寺墓所2:中央やや右が日奥上人石塔
 日奥聖人供養塔1     日奥聖人供養塔2     日奥聖人供養塔南面
 日奥聖人供養塔北面     日奥聖人供養塔東面:背面、南・北・東面の銘は殆ど読み取れない。
 日奥聖人300遠忌報恩
 日正上人墓碑1:宣妙院と号する。     日正上人墓碑2:墓碑は日奥聖人石塔の向かって右前に建つ。祖山35世。
 日正上人顕彰碑:墓碑の隣に建つ。
 教妙院日耀墓碑:日正墓碑の手前。
 妙行院日淳聖人:日淳は日正弟子と刻む。日耀墓碑の手前。
 祖山36世日解聖人墓碑:遠成院と号する、墓碑は日奥聖人石塔の向かって左前に建つ。
 日徳聖人墓碑:日解墓碑の手前、明治丗一年と刻する。明治31年化とすれば、宣妙院日正弟子である十妙院日徳である。
日徳は唯紫庵12世・津島妙善寺21世、御野郡北長瀬不受不施派祖師堂に日正・日徳の題目石あり。
    ※十妙院日徳については、備前法華の系譜>不受不施派の再興中に記事あり。
    ※北長瀬不受不施派祖師堂<備前御野郡高柳・野田・北長瀬村中>に日徳の供養塔あり。
 祖山39世日高墓碑:真正院と号する、墓碑は日徳の手前。
付近には題目を刻んだ墓碑が多く建つ。中には次のような大型の墓碑もある。
 大型の題目墓碑:日諦・花押を刻む。墓碑の性格は不明。

備前平井元町題目石
平井元町にある。緯度・経度:34.643099, 133.936387 に所在。
題目石は道路に面せず、民家と民家の間の細い路地を入り、民家の裏にひっそりとあるから、所在場所は分かり難い。
地図で示せば、右の図のようである。     左下方にあり。
○「ふるさと平井」平成6年 より
 この題目石については、次のような伝承がある。「昔、村人が三櫂(みさお)山に薪取りに行った時、奥市の谷川に石橋として題目石が架けられているのを見つける。薪取りから帰った人々が村人に題目石の存在を話したところ、村で祀ろうということになり、現在地に祀る」という。
2019/10/30撮影:
題目石が2基祀られる。年紀が彫られていないので、何時のものか分からない。
見た目はそれほど古いものとは見えないが、それは、以前には祖師堂があり、その中に祀られていたため、古く見えないのかも知れない。
珍しく地神が祀られていないがその理由は分からない。
なお常夜燈の笠・火袋と思われる部材が置かれているので、常夜燈もあったものと思われる。
 平井元町題目石1     平井元町題目石2     平井元町題目石3
 題目石(大覺大僧正):刻銘が見えづらいが大覺大僧正と刻む。     題目石(高祖大士)

平井新道法華経五角柱地水二神
倉安川が旭川に流入する附近の北方にある。平井元町新道北にある。緯度経度:34.642845, 133.935765
○「岡山の地神様」正富博行、吉備人出版、2001 より
花崗岩製、正面に「妙地水二神」、他の面に「法十法佛土中」「蓮唯有一乗法」「華我此土安穏」「経天人常充満」と刻む。
その台石の側に豊島石の塊があり、辛うじて各面に「天照」「倉稲」「埴安」「少彦」「大己」と刻まれるのが見える。(実見するも、まず読めない。)
豊島石製の地神が摩耗したので、花崗岩製に造替したと考えるのが自然であるが、そうだとしても、両者の刻銘が違う理由は分からない。日蓮宗に強く影響を受けた人物が造替時に主導的役割を果たしたのであろうか。
2019/10/30撮影:
 法華経五角柱地水二神1:「妙地水二神」と「法十法佛土中」が見える。
 法華経五角柱地水二神2:正面「妙地水二神」と刻する。     法華経五角柱地水二神3
 法華経五角柱地水二神4:「蓮唯有一乗法」と刻む。向かって左は上述の古い「豊島石製地神」である。

備前平井柳原刑場跡:柳原不受不施殉教遺跡
2019/10/30撮影:
岡山市中区平井6−4。緯度経度:34.640020, 133.936806に所在。
寛文8年6月19日矢田部六人衆(佐伯六人衆)が備前平井の柳原刑場で斬首の刑に処せられる。
平井村は全村不受不施と云われ、その平井村の刑場で斬首されたのである。「非道」というしかないだろう。
 平井柳原刑場跡:現在の姿である。現在は堤防の東にある。柳原刑場遺跡碑と不受不施殉教遺跡碑が建つ。
 写真遠方の岡上に奧聖寺の屋根が見える。(白字で「↓奧聖寺屋根」と表記したところである。)
 柳原刑場遺跡碑1:「柳原刑場之遺跡 距此石柱西丗九米」と刻む、西に39m堤防西側が遺跡という。
 柳原刑場遺跡碑2:「日蓮法華宗不受不施僧妙覺院日閑聖人檀越所謂矢田部六人衆亦被斬此地實寛文八年六月十九日也」と刻す。
 柳原刑場遺跡碑3:土手の向う側(西側)が柳原刑場跡で、河川工事で無数の白骨を発掘という。
 不受不施殉教遺跡碑     不受不施殉教遺跡碑文
   ◎矢田部六人衆については
     →寛文の法難と矢田部六人衆備前矢田部法難:矢田部六人衆 などを参照
 柳原刑場推定地:写真中央付近が刑場跡であるのだろう。
また、天保法難では法立後藤吉五郎が斬首となる。
◎法立後藤吉五郎
○「ふるさと平井」平成6年 より
 天保9年(1838)、天保の法難の時、全国で不受不施派の探索・捕縛が行われるが、大阪から出張中の役人と藩役人が西中島の宿屋である西屋に宿泊中の平井村富田直兵衛夫妻が不受不施信者であることを聞き込み、獄に投じる事件が発生する。
これを聞いた津高郡金川の法立・後藤吉五郎が藩に直訴する。
 私が不受不施の法立である。藩は夫婦だけを罪人にしているが、信者はこの二人だけではなく、村内全てである。直兵衛を勧誘したのは私である。直兵衛は放免し、私を罰するべきである と。
藩は直兵衛夫婦を赦し、吉五郎を投獄し、翌10年(墓碑には天保9年とあるという)柳原刑場で断罪となる。

備前上平井題目石
○「ふるさと平井」平成6年 より
旧堤防の三叉路:大きな木の下にある。題目石:明治39年の年代である。
○「岡山の地神様」正富博行、吉備人出版、2001 より
題目石とともに瓦製の足神様と地神碑がある。地神碑は正面「妙地水両神」、他の面「法十方佛土中」「蓮唯有一乗法」「華我此土安穏」「経天人常充満」と刻む。花崗岩製。
2019/10/30撮影:
緯度経度:34.636832, 133.940501に所在
題目石(日蓮大士)、題目石(大覚大僧正)、法華経五角柱地神がある。
 上平井題目石1     上平井題目石2     上平井題目石3
 上平井題目石(日蓮大士)     大覚大僧正
 上平井法華経五角柱地神1     上平井法華経五角柱地神2

備前平井上町地神・石造祠
平井上町公会堂横にある。井戸経度:34.634583, 133.943032に所在
地神は法華経五角柱地神である。石造祠の祭神は下記によれば「ゑびす」である。
○「岡山の地神様」正富博行、吉備人出版、2001 より
公会堂横、豊島石製の「ゑびす様」とともに建つ。
正面は「妙地水二神」、他の面は「法十方佛土中」「蓮唯有一元水法」「華我此土安穏」「経一大人常花満」と刻むが、頭文字をあわせると「妙法蓮華経」となる。台石には「大正4年3月18日」と彫る。但し、刻銘は若干不正確である。
2019/10/30撮影:
 平井上町地神・石造祠1     平井上町地神・石造祠2
 平井上町法華経五角柱地神:頭文字をあわせると「妙法蓮華経」となる。
 平井上町法華経五角柱地神台石:大正4年の年紀がある。

備前上平井妙楽寺入口題目石
岡山市中区平井6丁目22−9、緯度経度:34.634431, 133.943734に所在
○「ふるさと平井」平成6年 より
上平井題目石・大覺大僧正があり、題目石は寛政8年(1796)の年代。
2019/10/30撮影:
妙楽寺宝塔改修記念碑という碑が建つので、本題目石類は妙楽寺宝塔と称するのかも知れない。
 上平井妙楽寺入口題目石1     上平井妙楽寺入口題目石2
 妙楽寺入口題目石(妙楽寺)1     妙楽寺入口題目石(妙楽寺)2:寛政八丙辰と彫る。
 妙楽寺入口題目石(妙楽寺)3:石塔下部に妙楽寺と彫る。
 妙楽寺入口大覚大僧正     妙楽寺入口常夜燈     妙楽寺入口改修記念碑

備前平井妙楽寺

○「ふるさと平井」平成6年 より
 本堂・庫裡は享保初年(1716)の再建(但し庫裡は老朽化し造替されたものと思われる。)の建築。
 縁起には「古へは真言宗にて極楽寺といひしが、天正年中(1573-91)改宗して今の号に改る」とある。
妙廣寺の寺記には「妙廣寺中興2代目實乗院、弟子2人御座候處、一人は立圓院と申し候て、妙廣寺三代目の住持仕り候。
今一人は常林院日詳と申し候て、即ち妙楽寺を天正年中に建立仕り、開山にて御座候。」とある。
 本尊は建治3年(1277)身延滞在中の日蓮真筆の題目である。この題目は京都で購入したもので、享保3年(1718)京都妙覚寺住職の鑑定書と文化8年(1825)岡山蓮昌寺住職の鑑定書が付いている。
 清正公:由緒ははっきりしないが、高さ約10cmの清正公木造が古くから祀られている。その後、大正10年肥後本妙寺から現在の清正公像(高さ約50cm)が勧請され、旧像はこの像の胎内に安置される。なお、本像は本堂に安置。
  平井妙楽寺清正公像
 山門を入り向かって右に三十番神堂があり。宝永5年(1708)の建立。
 石塔類:享保16年(1731)日蓮450遠忌題目石、明治13年日蓮600遠忌題目石、天保5年(1835)清正公神儀(石碑)などがある。
○日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
山号は沖邑山。平井妙廣寺末(平井妙廣寺は下に掲載)、奠師法縁(奠統会)。清正公をまつる。
天正年間(1573‐1591)常林院日祥(妙廣寺中興2世実乗院の弟子という、実乗院日頼は妙廣寺中興2世で、妙廣寺累世15世)が真言寺院の極楽寺を改宗し妙広寺の末寺として創建する。
2019/10/30撮影:
 平井妙楽寺全容1     平井妙楽寺全容2     平井妙楽寺山門     平井妙楽寺通用門
 平井妙楽寺本堂      平井妙楽寺玄関客殿     平井妙楽寺庫裡
 妙楽寺三十番神堂     三十番神堂内部
 平井妙楽寺石塔など     日蓮600遠忌題目石:明治13年年紀    日蓮450遠忌題目石:享保16年(1731)年紀
 清正公神儀(石碑):天保5年(1835)年紀

備前平井妙廣寺

○「ふるさと平井」平成6年 より
 文化5年(1808)の日響届出文書には「当寺開基は・・・永和年中(1375-78)本山妙覚寺5世龍華院日實にて御座候、当時は法華山妙實寺と号し今の地より10町余り北方神道山辺、元平井と申す處に有之候」とある。
 開基日實は大覺大僧正弟子であり、その山号法華山は大覺が備前備中に多く建立した法華堂に因むものと思われ、その寺号妙實は大覚大僧正の名に因むものに相違ないであろう。大覺は備前法華の祖であり、日實は大覺が帰洛した後、備前における大覺大僧正の遺業を継承したのである。
 開基の場所「神道山辺」は今となってはかっきりしないが、天文元年(1532)地震により壊滅、小庵として再興するも、天文18年火災焼失、退転する。
 前述文書には「永禄年中(1558-69)領主平井助之進、二親菩提の為、今の地に引き移り建立仕り候、即ちその名字を山号とし、平井山妙實寺と申す由伝承候」とある。なお平井氏は平井城に拠り、宇喜多氏傘下であった。
 天正16年(1588)本山妙覚寺の命により、現在の平井山妙廣寺と改号する。
享保6年(1721)本堂再建、享保16年(1731)鐘楼門建立、宝暦2年(1752)庫裡・客殿新築、宝暦3年大玄関完成、明治15年南門建立、明治39年番神堂建立。
鬼子母神像は日蓮上人直作と伝える。
 平井妙廣寺鬼子母神像
石塔類は以下の通り。
山門前題目石:寛政12年(1801)銘、裏面には芭蕉の句を彫る。
山門内南法塔:五輪の法塔、明和7〜9年(1770頃)建立、土手地内から移す。2基ある。
山門内南題目石(日蓮大士):享保10年(1726)、下平井土手町内から移す。
山門内南題目石(曼陀羅):明治34年建立、土手地内から移す。
三要大明王:南門内、下平井市場地内から移す。病気平癒に霊験を験わした稲荷のようである。
地神:南門内、下平井市場地内から移す。(これは法華経五角柱地神である。)
日朝石像:大正9年建立。
 平井妙廣寺境内図
○日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
平井山と号する、京都妙覚寺末、開山竜華院日實、開基平井助之進、奠師法縁。
◆末寺として次の一寺がある。
○備前平井妙楽寺・・・・・上に掲載
2019/10/30撮影:
 平井妙廣寺門前     平井妙廣寺山門     平井妙廣寺山門扁額     妙廣寺門前題目石
以下の石塔類は平井の土手地内から移すという。
 山門内石塔類1     山門内石塔類2     山門内南法塔1     山門内南題目石(日蓮大士)
 山門内南法塔2     山門内南題目石(曼陀羅):花押は良く分からない。
 平井妙廣寺南門   
 平井妙廣寺本堂1     平井妙廣寺本堂2:本堂裏には祖師堂があると思われるも、不注意にして未見。
 本堂は3間四面入母屋造本瓦葺。
 平井妙廣寺本堂扁額     平井妙廣寺本堂内部     平井妙廣寺本堂掲額題目
 大玄関・客殿・庫裡:向かって右が客殿、中央が大玄関、左が庫裡、なお本建築の裏に寮:離れがあったようであるが、現在は退転していると思われるも、未確認。
 妙廣寺大玄関・客殿     妙廣寺大玄関
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 では次のように云う。
客殿は庫裡を併せた長大な一棟、桁行12間梁間5間入母屋造本瓦葺き、南面する。玄関から上手が客殿でこの部分が本堂と同時の建築らしく稍古い、玄関から下手が広い台所を持つ庫裡で、後に建て継いで一棟としたものと思われる。
 妙廣寺番神堂1     妙廣寺番神堂2     妙廣寺日朝石像
以下の三要大明神と地神は下平井市場地内から移すという。
 妙廣寺三要大明王
 妙廣寺法華経五角柱地神1
 妙廣寺法華経五角柱地神2:向かって右面の上部と左の下部が本来の正面で「妙堅牢地神」となるのが元々の形である。
地神については、次のような考察がある。
○「岡山の地神様」正富博行、吉備人出版、2001 では本地神について次のように云う。
 この地神は三要大明王に隣接して建つ。本地神は途中から折れたため、接合されているが、接合の際方向を見違えたようで、刻まれた文字が不自然となっている。これを修正して読み取ると、正面は「妙堅牢地神」他の面は「法十万佛土中」「蓮唯有一乗法」「華我此土安穏」「経天人常充満」となり、頭文字を合わせると「妙法蓮華経」となる。
 ※備前南部、備中東南部には地神様が多く祀られる。
その形式は自然石に地神と刻むタイプと五角柱石碑に神々の名を刻む2タイプがある。そして日蓮宗が地域の信仰として他を圧倒する地域では題目(妙法蓮華経)と結びついて祀られる形式も多くみられる。それらにも多くの形式があるが、五角柱石碑に法華経の一部を刻み、更に五角柱石碑の各面の先頭文字に「妙法蓮華経」の一文字を刻み、それを合わせると題目(妙法蓮華経)となるタイプもある。
この地神はまさに以上のタイプである。しかし五角石碑の補修の折、その接合の方向を間違えた珍しい例である。

平井土手道題目石
土手道の平井バス亭T字路:岡山市中区平井7丁目9:緯度経度=34.633392, 133.944900に所在
○「ふるさと平井」平成6年 より
題目石は昭和34年に建てられたものであり、旭川の水難者の慰霊の為、建てられたものであろう。
2019/10/30撮影:
 平井土手道題目石1      平井土手道題目石2     平井土手道題目石3

備前平井牛頭天王碑
岡山市中区平井7丁目12−33:緯度経度=34.633254, 133.946608に所在
「南無牛頭天王」と刻む、由来・年紀など不明。
2019/10/30撮影:
 平井牛頭天王碑1     平井牛頭天王碑2

備前下平井土手町牛頭天王・地神
岡山市中区平井7丁目29、緯度経度 34.631367, 133.949379 に所在
○「岡山の地神様」正富博行、吉備人出版、2001 より
五角柱地神:豊島石製、正面は南無妙法蓮華経、他の面は「天照大神」「堅牢地神」「百穀苗稼」「八龍大菩薩」と刻まれる。この刻銘は他に類例を見ない。
2019/10/30撮影:
 下平井土手町牛頭天王・地神
 下平井土手町牛頭天王     下平井土手町地神:正面は題目を彫る。     下平井土手町石柱:「奉 燈」と刻む。

下平井八反地題目石:旭川大橋北の船着き場の東、新堤防外にある。(船着き場はある)
○「ふるさと平井」平成6年 より
八反地土手は石垣が高く、深みでありかつ流が急であった。そのため明治の中頃まで身投げをする人が多かった。明治24年近くにセメント会社ができたが、自殺者は絶えなかった。そこで、地元の人と会社とが話し合い、明治45年に題目石(溺死者各霊)と刻んだ題目石を川岸近くに建立する。
ところが昭和の初めセメント会社は倒産し、工場用地は荒れ、また河川改修のため、この題目石は倒されたままの状態になる。
新堤防が完成の後、土手町内に住む奇特な人が倒れた題目石を堤防外の現在地を移転したということである。
 ※本題目石については、2019/10/30不注意により、スルー、よって未見。


備前南東部新田地帯
平井村の南方には新田地帯が広がる。その中の一つに沖新田があり、さらにその中の1村・沖新田三番(明治6年藤崎村と改称)には昭和14年三蟠教会が創建される。

岡山三蟠教会

○日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
御真筆堂と通称する。本尊は日蓮真筆と伝える曼荼羅である。
昭和14年、授法院日正(初和48年寂)の開山、奠師法縁、清正公銅像あり。
 ※授法院日正とは不詳であるが、備前上伊福妙林寺寺中に授法院があり、あるいはこの授法院と関係するかも知れない。
2019/10/30撮影:
岡山市中区藤崎63番地に所在する。
 三蟠教会遠望     三蟠教会全容     三蟠教会全容2     三蟠教会石碑
 三蟠教会本堂     三蟠教会本堂内部
 三蟠教会日蓮曼荼羅:日蓮真筆と伝える曼荼羅であろうか。
 三蟠教会清正公像:初和9年銅像建立、今次侵略戦争で供出、初和36年銅像再建     三蟠教会庫裡
境内には、備前日蓮宗地帯に祀られる典型である日蓮大菩薩題目碑・大覺大僧正碑・地神水神碑がある。
 境内題目石類     題目石(日蓮大菩薩)     大覚大僧正     地水両神

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備前御野郡竹田村・西河原村、濱村
御野郡濱村には日蓮宗濱田山教藏寺があったが、おそらく寛文6年に住持還俗し廃寺となる。
御野郡東河原村には法輪山籐蓮寺(京都妙覚寺末)があったが、寛文6年住持立退、弟子某還俗し廃寺となる。
御野郡西河原村には西河原村大林寺末廣田寺があったが、寛文6年住持還俗し廃寺となる。廣田寺の田畑8畝余は後に大林寺の耕地となる。

備前岡山竹田妙龍寺

○「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」平凡社、昭和63年 より
御野郡竹田村。
永禄年中の創建という。
当初は村の北の方にあり、岳光寺と号したが、慶長年中(1596-1614)現在地に移転、今の寺号に改めるという。(備陽国誌)
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
蓮昌寺系。創立は慶長年中らしく、甲斐武田氏由縁の寺と云われる。
同寺の由緒に
 武田信玄晴信の弟武田秀義この地に居住す。故に竹田村と云ふ。往古は三野郡弘西南方の内北村と有、
 嫡男九郎左衛門、その子息秀行宇喜多家に仕え・・・
 秀行嫡女子早世、花用院妙竜日瑞菩提の為一寺を建立す、右戒名を以って花用院妙竜寺と号す。
とある。
本堂は入母屋造本瓦葺、これに庫裡が続き、山門が立つ。境内に流造本瓦葺の鬼子母神堂がある。
○日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
 華用山と号す。城下蓮昌寺末。奠師法縁。
 慶長12年(1607)創立。開山華用院妙竜日瑞尼、開基檀越武田九郎左衛門秀行。
 永禄年中に建立され岳光寺と称するも、慶長年中に妙竜寺と合併し、寺号を改称する。現在地より北方にあったが移転。
2019/03/07撮影:
 竹田妙龍寺門前題目碑     竹田妙龍寺山門     妙竜寺境内題目碑:日蓮大菩薩、安永8年(1779)年紀。
 竹田妙龍寺本堂1     竹田妙龍寺本堂2     竹田妙龍寺新庫裡     竹田妙龍寺鬼子母神
 開山華用院妙竜日瑞墓碑     開山竹田家墓碑:元祖武田先祖代々霊、題目碑などがある。
 妙竜寺ラントウ墓(藍塔墓):中に3基の墓碑があるが、刻銘は判読できない。おそらく武田家の墓碑であろうと推測される。
 妙竜寺歴代上人墓碑その1:中央左の板碑様の墓碑は古いものと思われるが、刻銘は判読不能。
 妙竜寺歴代上人墓碑その2:かなり古いと思われる五輪塔などがある。

備前岡山西河原大林寺

○「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」平凡社、昭和63年 より
御野郡西河原村。
法昌山と号す。文禄元年(1592)實成院日典が創建する。
日典は野々口村の豪族であり、金川城主松田氏の老臣大村氏の出である。京都妙覚寺15世。佛性院日奥の師である。
4世日継の時、寛文6年(1666)岡山藩の不受不施派弾圧で廃寺となる。
貞享4年(1687)蓮昌寺が自派寺院として再興される。
同寺には帝釈堂があり、庚申の日を縁日とする。従って「河原の庚申」の名で呼ばれる。
末寺廣田寺は寛文6年廃寺となる。
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
寺記に
 文禄元年實成院日典の創立なり。三十番神の絵像が加藤清正の感得にて、第2世恵性院日南の需め(もとめ)也、
 天正10年と記しあり。
 4代目壽正院日継不受不施の変に当寺を退出と見えたり。その時此番神画像を所持して備中帯江休岸山妙忍寺へ移転す。
 15世日明嫡弟の代に三十番神画像一幅当山へ納め帰さる。
 当寺は寛文年中廃滅に及ぶ、鎮守本尊の霊験にて貞享年中興起中興、4世日成を後の開祖とす也
という。
寛文6年不受不施派の故に廃寺とされ、住僧日継は番神画像を護持して備中帯江妙忍寺へ立ち退く。大林寺末西河原廣田寺も廃寺となり、住持は還俗し帰農する。
 貞享4年(1687)城下蓮昌寺から自派の寺院として再興すべく、藩に出願し、再興される。
現在の建物は再興以降の建物で、本堂は入母屋造本瓦葺、これに庫裡が接続する。本堂西には帝釈堂(入母屋造本瓦葺)があり、番神堂((元禄8年建立)と山門がある。なお帝釈堂帝釈天は伝教大師作と伝える。
3019/04/03追加:
○ブログ:お祖さま(帝釈天) より一部抜粋。
大林寺々記では次のようにある。
 文禄元年実成院日典の創立なり、三十番神の絵像は加藤清正の感徳にて、当山第二世恵性院日南師の需め也、
 天正十年壬午十一月と記しあり。
 四代目寿正院日継師不受不施の変に当寺を退出と見えたり、
 其時此番神画像を所持して備中帯江村休岸山妙忍寺(当時は羽島村)へ移転す。
 当寺十五世日明上人嫡弟の代に因縁ありて三十番神之画像壱幅当山へ納め帰さる。
 当寺は寛文年中に破滅に及ぶ、鎮守本尊の霊験に依て貞享年中に興起中興、四世日成師を後の開祖とす也
寛文の法難によって寺は廃され、時の住職日継は番神画像を護持して備中帯江村(当時は羽島村)の妙忍寺に立退く。
また同じ西河原にあった大林寺末広田寺も同様の運命に陥ったが、住持は還俗して土着する。
 その後20年を経て蓮昌寺から自派の寺院として再興すべく藩に出願し、許可を得て再興したのが現在の大林寺である。
貞享4年(1687)八月五日の藩の留帳に「此寺ハ先年妙覚寺ヘ御渡シ被遺候七ケ寺ノ内ノ寺故、蓮昌寺ヨリ出願且方共寄合再興致度旨ニヨリ願意許可セラル、十一月四日蓮昌寺弟子回弁ヲ住持トス」とあるのは、再興手続きの根拠を示すものである。
○日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
法昌山と号す。京都妙覚寺末。寺は奠師法縁、住職は親師法縁。
宇喜多直家が岡山城艮の鎮護を願って建立、伝教大師作帝釈天を安置する。
1世實成院日典 天正20年(1592)7月25日
2019/03/07撮影:
 西河原大林寺門前題目碑     備前西河原大林寺山門
 大林寺本堂・庫裡・新庫裡     大林寺番神堂・題目碑     西河原大林寺手水石
 西河原大林寺本堂1     西河原大林寺本堂2     西河原大林寺本堂3     西河原大林寺庫裡
 西河原大林寺帝釈堂1     西河原大林寺帝釈堂2
 大林寺題目碑群     大林寺題目碑その1:年紀不詳
 大林寺題目碑その2:大覚大僧正碑、天保14甲辰年(1844)年紀
 大林寺題目碑その3:日蓮大菩薩碑、年紀不詳     大林寺石製宝塔
 大林寺番神堂1      大林寺番神堂2:元禄8年(1695)建立。
 墓地題目碑:由緒不明     墓地五輪塔:由緒不明
 大林寺歴代上人供養塔:開基實成院日典、二世恵性院日南、中興四世信受院日成と刻む。
 大林寺歴代上人墓碑

御野郡濱村三十番神堂
  (濱田山教藏寺跡):岡山市中区浜1丁目20-40
○「岡山の地神様」正富博行、吉備人出版、2001 p.84
 地神碑があり、その年紀は「慶応二丙寅四月吉日」と刻む。題目石とともに立ち並ぶ。
○ページ「風に吹かれて:浜三十番神堂」 より
 ここにはかつて浜田山教蔵寺という日蓮宗の寺院があったという・・・不受不施派の寺であったことから、池田光政による寛文の寺社整理の際に、弾圧されて廃寺となり住職は還俗したという。
教蔵寺は廃寺の後も、地元民たちが三十番神画像を密かに祀り、信仰の灯を灯し続けた。・・・番神画像は、第二次大戦の戦火でお堂と共に失われたが、戦後に新たな三十番神画像を勧請し、現在も地元の人々の手により守られているという。
 浜田山教蔵寺:備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧の59を参照
2019/07/08追加:
○「撮要録巻之二十九」 より
  ○濱村
 濱田山教藏寺 日蓮宗本寺岡山蓮昌寺
  住持還俗改名自斎後宝永之頃土方水也と名乗土肥右近茶道を勤しむ 寺株畑三反十九歩賜自斎
○2019/08/31撮影[無印]:
○2019/10/30撮影および追加[▽印]:
 濱三十番神堂:岡山市中区浜1丁目20番40号に所在
濱三十番神堂が現存し、堂の背後に題目石類が並ぶ。
上記「撮養録」によれば、濱村に濱田山教藏寺があり、寛文年中廃寺となる。
同じく、ページ「風に吹かれて:浜三十番神堂」では、教藏寺跡には村人により三十番神堂が建てられ、密かに法灯を守るという。
 ※如何なる資料に基づくのはあるいは聞取りであるのかは不明であるが、有り得ることと推察する。
題目石類は向かって右から次のように並ぶ。
地神、題目石(日蓮大菩薩)、大覚大僧正、題目石(法界)、題目石(日奥?)、社日塚(?)、五輪石塔、不明石塔その1、不明石塔その2と五輪塔、世話人石碑3基、五輪供養塔(題目)
 濱三十番神堂1     濱三十番神堂2     濱三十番神堂内部
 濱三十番神堂常夜燈     濱三十番神堂手水など
 濱三十番神堂石塔類     東側石塔類     西側石塔類     西側判読困難古石塔類
 濱三十番神堂地神:年紀ははっきり判読できないが、「岡山の地神様」では慶応2年(1866)という。
 題目石(日蓮大菩薩)     題目石(日蓮大菩薩)2:天保十五甲辰(1844)年の年紀
 大覺大僧正:側面に年紀を刻むと思われるも判読出来ず。
 題目石(法界):豊島石製であり、側面などの情報は判読できず。
 ▽題目碑(法界)2:年紀の部分
  ▽左側面には慶應3丁卯年(1867)の年紀<慶應の文字は潰れているが、輪郭から推定>、右側面は当村中と刻む。
 題目石(日奥?):日奥の題目石とも思われるが、日奥と刻むとは断定はできない。
 題目石(日奥?)2:署名と花押であるが、日奥と思われるも不確実である。花押は日奥の花押とは違うようである。
日奥の署名・花押は「不受不施派殉教の歴史」p.50に十数種類掲載されるが、本石塔の署名・花押は左記の何れにも該当しないと思われる。
 題目石(日奥?)3:年紀は「寛永十九壬午」(1642)と判読できる。寛永年中の建立であれば、これは寛文年中以前のものであり、備前においては殆ど例をみない古い時代の題目石である。
しかしこの年紀の意味は不明である。ちなみに日奥は寛永7年3月10日示寂である。
この題目石については再調査を要する。
▽再調査するも、正面の銘は判然とはせず、しかし、年紀は「寛永十九壬午」であることは間違いないであろう。
 ▽題目石(日奥?)4:年紀の部分
 濱三十番神堂社日塚?:社日塚の社は不確実である。また社日塚とは初見である。社日と刻む例や社日に塚と刻む例は見たことがないので「社日塚」とは誤読かも知れない。
 五輪石塔:豊島石製、五輪塔と思われるも不確実、また何等かの刻銘があると思われるが、まったく読めない。
 不明石塔その1:豊島石製、刻銘は判読不可
 不明石塔その2と五輪石塔:豊島石製、刻銘は判読不可
 ▽不明石塔その2
  不明石碑は何妙法蓮華経と刻むが、そのほかの文字は判読できない。形状から墓碑であるのかも知れない。
 世話人石碑3基:世話人3名ずつを連記した3基の石塔がある。
 五輪供養塔(題目):どのような性格の五輪塔であるのかは不明。
なお、題目石(法界)、題目石(日奥?)、社日塚(?)、五輪石塔、不明石塔その1、不明石塔その2と五輪塔については豊島石製であり、おそらく古い時代のものと思われ、特に題目石(日奥?)に記される年紀・寛永19年が建立年代とすれば、あるいはこれらの石塔は寛文以前のものであり、寛文年中に廃寺となった濱村教藏寺の遺物である可能性も有り得ると思われる。

備前岡山城下の諸寺

備前岡山瑞雲寺

○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
黄門山と号する。小湊誕生寺末。
暦応年中(1338-41)この地方の豪族能勢太郎左衛門頼仲の創立にかかり、満願山成就寺と号したが、慶長7年(1602)岡山城主小早川秀秋を当寺に葬ったので、法名瑞雲院殿前黄門秀厳日詮大居士に因み、現在のように改めたという。
本堂は江戸中期の建築で5間5面、入母屋造、本瓦葺。内陣中央に須弥壇を据え本尊を祀る。内陣南側奥に清正公を祀り、北側奥には秀秋墓塔(五輪塔)、位牌、秀秋木像を安置する。木像は東山高台寺寺中随雲院に安置したものと酷似する。
 ※六条本圀寺寺中瑞雲院に金吾中納言秀秋廟があり、秀秋の菩提を弔う。
秀秋については死亡した年齢さえよく分からない。21、23、26とも言い、31歳説もある。
野史の秀秋伝の末尾には「慶長5年備前美作50万石に封ぜられる。秀秋大封を受けて奢侈日に甚だし・・・。慶長7年・・・10月薨ず。歳二十六。嗣なく國除かる。」
「備前軍記」では俄かに薨じたと記し、死因については数説を上げる。「于時二十三歳、嗣子なき故家断絶す。御野郡出石郷伊勢宮の辺りに葬る。その墓の前に本行寺という日蓮宗の寺を建てて是を守る。」
「備前温故」には「寺領300石初め本行寺と称せしが、宝暦年中より改称」とある。
 「備前軍記」「備前温故」では本行寺が秀秋菩提寺として建立され、そこの葬られたという。問題は能勢頼仲の創建した成就寺と本行寺との関係であるが、その関係を示す古文書が発見されず、またこの付近は近世に入っても度々火災に遭っているので、詳しく伝えるものがない。
ただ、興味を引くのは当寺の庫裡である。庫裡は南面し、入母屋造・本瓦葺で火災に対応した土蔵造である。古い建物で中心柱(大黒柱)は欅の面取り方柱で、柱巾9寸、切面の巾2寸7分5厘、面の内5寸の大面取りで、表面は釿でしあげている。これは建築史的に判断すれば鎌倉期に置いてより建物である。寺でも庫裡が最も古い建物と伝える。(もっとも、他から移築の可能性、大黒柱だけ古材を使用した可能性もあるので、この建物だけで暦応年中草創当時の遺構と考えるには早計であろう。)
 その他、書院、茶堂、白位堂、山門を有する。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
開山大覚大僧正、開基檀越能勢太郎左衛門頼仲。生師法縁。
 →大覚大僧正
稲荷堂・山門はともに桃山期の名作。
2018/07/22撮影:
 岡山瑞雲寺全容     岡山瑞雲寺山門1     岡山瑞雲寺山門2
 岡山瑞雲寺本堂1     岡山瑞雲寺本堂2     岡山瑞雲寺庫裡1     岡山瑞雲寺庫裡2
 岡山瑞雲寺玄関     本堂前題目碑     本堂前案内碑     岡山瑞雲寺稲荷堂     岡山瑞雲寺歴代墓碑

備前岡山妙應寺

平成27年(2015)岡山市北区富田町から北区岩井に移転する。
移転に際し、本堂・客殿・庫裏は新築、山門・番神堂・公徳大善神堂は移転するという。
山門・番神堂は旧地で今次大戦の空襲から焼失を免れた建築である。
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
峰林山と号する。六条本圀寺末。
應永年中六条本圀寺日傳(※建立院日傳、六条本圀寺5世)の開基と伝えるも、戦国期廃寺同様となる。近世初頭から中期にかけて、漸く伽藍を再興する。
 「大観」には開基華光院日正とある。(「日蓮宗寺院大鑑」)
しかし、寛政2年(1790)伽藍を全焼、寛政9年に本堂その他を再建、昭和12年都市計画で寺地を狭められるるも、寛政9年再興の堂宇が昭和20年まで残っていた伽藍である。
昭和20年岡山空襲で本堂・庫裡・本尊などを焼失。
戦後、まず庫裡を再建、昭和33年本堂(3間5面・4間半に4間・入母屋造瓦葺)を再建、番神堂と山門は焼失を免れる。
 富田町時代の妙應寺
2019/03/02追加:
 妙應寺門前題目碑:年紀不明     備前妙應寺山門1     備前妙應寺山門2
 妙應寺境内題目碑:文化14年(1817)年紀     備前妙應寺本堂     備前妙應寺本堂内部     備前妙應寺庫裡
 番神堂・公徳大善神・題目碑:中央が公徳大善神で富田町時代は境外にあったようである。題目碑の詳細は不明。

備前岡山本行寺

○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
本涌山と号する。顕本法華宗妙満寺末。
慶長16年(1611)一音院日圓開基。
昭和20年の空襲まで旧山崎町(現・野田屋町、現在地の西)にあり、明治44年同町にあった本門山宝仙寺を合併する。
 ※旧山崎町の本門寺及び寶仙寺の位置を示す絵図・地図があるので、以下に示す。(3点)
  岡山市街図:上が東である。中央やや左の山崎町に本行寺と寶泉寺(寶仙寺)が描かれる。<▲印で示す。>
   本図の年代は不明であるが、明治45年開業の岡山電気軌道・内山下線が描かれていないこと、
   また明治43年開業の鹿田駅(停車場)が描かれるので、明治43年、44年ころの地図と推定される。
  岡山城下之図(元禄頃家中屋敷割之図):上が東である。中央付近に本行寺・法仙寺(寶仙寺)がある。<▲印で示す。>
  備前御城下故図(冬天保11年):上が東である。右下に本行寺・宝仙寺が描かれる。<▲印で示す。>
文化13年火災で全焼、寛政年中(1789 -1801)に再建されるも、昭和20年岡山空襲で山門だけを残し、堂宇は焼失。
戦後都市計画で現在地に換地を受け、桟瓦の庫裡を再建、山門はそのまま移建し、昭和24年現在地に移転。
昭和37年RC造の本堂を建立する。
○本行寺のHP から
慶長16年(1611)一音院日円が池田輝政の外護を受けて岡山市野田屋町に日蓮宗妙満寺派(現在の顕本法華宗)の寺院として創建した。江戸後期に伽藍を全焼し、寛政年間(1789-1801)に再建される。明治維新で再び荒廃するが、明治42年)能仁日統(28世、本行寺中興)の代に庫裡を改築した。大正時代に本堂を大修理し、町内にあった本門山宝仙寺を合併した。
2018/07/22撮影:
山門:昭和20年の空襲時、旧山崎町にあったが、山門のみ焼失を免れる。しかし焼夷弾の油脂により焼痕を残すも、現在地にそのまま移建され、今に戦争の惨禍を伝える。
 岡山本行寺山門1     岡山本行寺山門2     岡山本行寺山門3     岡山本行寺山門4
 岡山本行寺本堂      本行寺本堂扁額      岡山本行寺玄関      岡山本行寺庫裡
 日什聖人塔:日什350遠忌、元文6年(1741)年紀     日蓮大聖人塔:嘉永5年(1852)年紀
 本行寺題目碑:本行寺歴代報恩塔
 本湧山本行寺御歴代ノ碑:以下のように刻むも完全には判読できず。
  開創慶長16年/本湧山本行寺開山一音院日圓上人/京都本山妙満寺第29世/寛永9年8月15日遷化
  草創寛永18年3月/本門山寶仙寺開山玄種院日展上人/以下判読不能
  第28世權大僧正頭■院日統上人/以下判読不能
  第29世大僧正明浄院日法上人/以下判読不能
  第30世權大僧正天宏院日乗上人/平成20年4月22日遷化/以下判読不能

備前岡山蓮昌寺

 →備前蓮昌寺

備前岡山菅能寺:城下新道より、戦後旧御野郡七日市村に移転する。

法華宗本門流に属する。(京都本能寺尼崎本興寺末)
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
康松山と号する。終戦直後まで新道にあった。
寺伝では慶長年中の創立で、開基は小早川秀秋の重臣管若狭である。若狭は小早川家断絶ののち池田家に仕え録3000石を食む、寺域はその下屋敷の跡と伝える。(新道の寺域は474坪であったという。)
昭和20年の被災前は本堂、客殿、庫裡、書院、三光堂、鎮守堂、山門があり、三光堂と鎮守堂は慶長の創立当時の建築であった。
初和20年空襲により山門だけを残し全焼する。戦後焼け跡に仮堂を建て仮復興するも、都市計画の為寺地を失うこととなり、現在地(七日市)に新し寺地を得る。昭和34年、5間6面入母屋造瓦葺の本堂を建築して、新道より移転する。
同年庫裡を新築、旧地の仮本堂を引き移し客殿とし、山門は旧のものを移建。
 ※新道の菅能寺:
   岡山城下之図(元禄頃家中屋敷割之図)2:本図は上に掲載の妙福寺の項で示した図と同一のものである。
    中央やや下にある。妙勝寺は現位置のままである。
   備前御城下故図 秋:天保11年、図の中央やや下に菅能寺はある。妙唱寺(妙勝寺)は現位置のままである。
なお、因幡鳥取に、寛永9年(1632)池田光仲の国替により、家老菅道之が開基となり鳥取に移建された官能寺が現存する。
 <因幡の諸寺中の鳥取管能寺を参照>
2018/07/22撮影:
 門前題目碑など     岡山菅能寺山門     岡山菅能寺本堂1     岡山菅能寺本堂2
 岡山菅能寺客殿:おそらく旧地の仮本堂で新地では客殿に転用した建物であろう。本妙院の扁額を掲げる。
 岡山菅能寺庫裡     山内題目碑・日隆碑     日蓮・日隆供養塔     菅能寺歴代墓碑
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備前天保國繪圖
天保9年((1838)作成、街道を挟む形で描かれている黒丸は一里塚の表示である。
 備前天保國繪圖(部分図):文字入れを実施。
  津高郡の南端部分と御野郡のほぼ全域(北部の一部を欠く)を切り取りする。
  ※村々の位置を確認願いたし。
補足資料:
 御野郡南部のおよその成立過程は(松槐の島跡・松の島跡)を参照
  御野郡南部の要図:備前御野郡南部要図を参照
  西長瀬村・中仙道村(本村・中村・新屋敷)・田中村の由来や地域については
              西長瀬村など形成想像図を参照

備前御野郡北方村
東は旭川、南は南方村、北は三野村、東は津島村。村内で津山往来と倉敷往来が分岐する。
南に中井村、東に四日市村の枝村がある。

備前北方法龍寺
山号:妙珠山
以下は2022/09/29北方法龍寺現住より聞取り。
創立:
江戸後期?頃、金萬家屋敷に慈感和尚(金萬家の人物か?)が庵を創る。
この庵は三門妙林寺と関係し、後に妙林寺の慈感教会となり、次いで慈感院と称し、昭和27年5月に法龍寺の寺号を公称する。
明治3年(1870)妙林寺の教会所(慈感教会)となる。<ただし、時期は多少不確実ではある。>
昭和24年か25年に日蓮宗を離脱、平成29年日蓮宗に復帰、現在に至る。
法龍寺第1世は泰龍院日心、俗名岡村學明。
現住職(2022年)は第3世。
法龍寺北側に金萬家墓所(こんま家)がある。
 ※金萬家は室町期に現在地に移住してきた豪族で、大庄屋時代には管掛用水を自費で開発、牧石・原・三野・北方の各村の生産高増大に寄与するという。
 ※管掛(かんかけ)用水(合同用水)
 管掛用水は、岡山市玉柏・牟佐間の管掛堰から取水し、明(妙)見山北側で旭川に還流していた。
寛文3年(1663)御野郡77ヶ村の大庄屋金萬平次郎(北方村)は、私財を投じて宿堀越(三野村・宿村間の岩盤)を掘って通水し、座主川(暗渠)の上を通し、三挺樋から取水した西川用水(小早川秀秋が作らせたという)に合流させる。

金萬家は現在もこの地に住居する。 ※調べると、法龍寺南に大邸宅があり、ここが金萬家であろう。
元々、法龍寺境内も金萬家の土地であったという。
境内の石塔類:
以下の石塔類があり、ほぼ備前・備中の祖師堂の本尊要素を備えている。
 題目石・日蓮500遠忌(天明元年(1781))、題目石(日朗/日像/大覚)、牛頭天王、地水両神、常夜燈
 ※以上のこのセットはこの地方の村落の祖師堂の典型的な本尊ではないか。
事情は不明であるが、元々北方村祖師堂の石塔類がこの法龍寺に保存されているのではないかと推測される。
(中井及び四日市には祖師堂跡が現存するが、本村である北方には祖師堂が無いと思われる。本村たる北方に祖師堂がないのは不自然と思われる。)
但し、法龍寺住職は次のように談する。「寛文年中に廃寺となった吉蔵院と称する寺院があったと聞いているので、その廃寺にあった石塔類ではないかと思う。」と。
 ※しかし、調査するも、吉蔵院とは不明で、分からない。というか、寛文年中に廃寺となったのは直下に掲載の神宮寺の項で示す寺院だけである。
2022/05/05撮影:
 北方法龍寺堂舎1     北方法龍寺堂舎2     北方法龍寺堂舎3
 題目石(日朗/日像/大覚)1    題目石(日朗/日像/大覚)2
 題目石・日蓮500遠忌:日蓮500遠忌は天明元年(1781
 地水両神・牛頭天王     法龍寺地水両神:地神水神と思われるも地水両神と刻するのかどうかは不明。
 法龍寺牛頭天王
 法龍寺墓碑:本妙院、恵光(院)などとあり、古い墓碑もあるがこの墓碑の性格は不明
 金1萬家墓所:多くの蘭塔と墓碑がある。かなり古く蘭塔は朽ち果てている。墓碑の銘も判読不能である。
 金萬家墓所1     金萬家墓所2     金萬家墓所3


備前四日市祖師堂跡
●C92EOO 無名 岡山市北方4
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
コンクリ塀でかこまれ屋根がある。
地神塔は豊島石で字が読みにくい状態、おそらくスタンダード、左後「少彦名命」左「大己貴命」正「天照大神」右「倉稲魂命」右後「埴安媛命」。
題目「南無妙法蓮華経 四日市宗門中」右「天保十一(1840)庚子九月如意日」。
丸石は正体不明。
四日市祖師堂跡
 34.681987 , 133.937469 →緯度・経度 34.685147,133.934906 に所在。
1999年から2005.8月の間の四日市祖師堂0
2022/05/05撮影:
雰囲気から以前は祖師堂があったものと思われる。
直ぐ近くに「北方四日市公会堂」があり、本祖師堂跡は四日市村祖師堂であろう。
なお、以前には、上記の写真のように、簡易な屋根があったが今は失われている。
 四日市祖師堂跡1    四日市祖師堂跡2:門柱には大正14年の年紀を刻む。
 祖師堂跡石塔類     祖師堂跡題目石1    祖師堂跡題目石2    祖師堂跡地神塔    祖師堂跡不明石塔


備前中井神宮寺山(神宮寺・古墳・八幡宮・地神)
○「撮要録二十九、廢寺社之部抄録」 より
 御野郡 北方村 妙法山   神宮寺 9)津島妙善寺末 住持立退 9)寛文6年廃寺(撮要録)
 御野郡 北方村 (妙法山か) 今藏坊 9)津島妙善寺末 住持還俗 同上、神宮寺々中であろう。
 御野郡 北方村 (妙法山か) 圓住坊 9)津島妙善寺末 住持還俗 同上、神宮寺々中であろう。
 御野郡 北方村 (妙法山か) 法珠院 9)津島妙善寺末 住持還俗 同上、神宮寺々中であろう。
  【北方神宮寺】:今藏坊・圓住坊・法珠院は神宮寺々中と思われるも不明、神宮寺古墳(前方後円墳)があり、墳丘上に八幡宮がある。
2022/09/29追加:
神宮寺山古墳々丘上に天計神社(八幡宮)が鎮座する。天計神社は延喜式内社というけれども、復古神道による妄想で取るに足らない。
「岡山県神社庁」のサイトなどでは、「備陽国誌本郡廃寺の部に、妙法山神宮寺北方村とある。即ち天計神社の別当である。彼の小庵に天計神社の本地仏として、左手に巻物一巻、右手に弓を挾んだ仏像が一躯ある。銘に天計八幡大菩薩、備前国御野郡北方村と記してある。」という。
さらに、平凡社「岡山県の地名」・諸Webサイトでは
『明治初年「備前国式内書上考録」、明治3年「神社明細帳」では旧地を北方村北西に「幸田畑」という。金吾中納言秀秋(小早川秀秋)が、古墳上に移した・』ともいう。
※推測するに、中古、中井村に八幡大菩薩が勧請され、天台系であったと思われる神宮寺が管理に与る。中世、神宮寺は松田氏などによって日蓮宗に改宗、津島妙善寺末となる。近世初頭、神宮寺山に移転、寛文6年池田氏により、廃寺となる。住持は立退とあるから、不受不施を堅持して出寺、寺中3院は還俗とあるから、態度不明。八幡宮のみ墳丘に残り、近世末期頃に天計神社に捏造される。
2022/05/05撮影:
 神宮寺山古墳:国史跡、前方後円墳で、墳長約150m、後円部径約70m、後円部高約13m、前方部長75mで、後円部三段築成、前方部二段築成である。中期(西暦5世紀〜6世紀)古墳とされていたが、埴輪などの検討から現在は、前期(西暦3世紀後半〜4世紀)古墳とされ、周濠の存在は否定されている。
 墳丘上(八幡宮敷地)に地神塔がある。
 神宮寺山古墳平面図:現地説明板より     神宮寺山八幡宮石階     神宮寺山古墳後円部
 神宮寺山八幡宮本殿
 神宮寺山古墳地神塔:型の如く、左後「少彦名命」左「大己貴命」正「天照大神」右「蒼稲魂(ウカノミタマ)命」右後「埴安媛命」の配列と思われる。


備前中井題目石
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
C90EWO 牛頭天王 岡山市北区中井町1
古い公民館らしき場所。牛頭の石の文字は「牛頭天王」のみ。
題目「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 寛政十二年(1800)庚申 八月十三日」。
地神塔、左後「大日月天王」左「大己貴神」正「天照皇大神」右「八幡大菩薩」右後「春日大明神」。かなり魔法的。台座は、五角で二段、模様あり。
34.678425 , 133.931692 → 経度・緯度:34.681585,133.929129 に所在。
2022/05/05撮影:
中井公民館敷地にある、公民館はおそらく祖師堂の後身と思われる。
4基の石塔(牛頭天王・日蓮題目石・不明石塔・地水神)と石灯篭1基が並ぶ。
不明石塔は立派な台石に五輪塔残欠様なものを載せるが、本来は題目石類の石塔であったと思われる。台石には宗門中とあるが、もしこの石塔が題目石類であったとすれば、日蓮宗門中(仲間/講中)ということなのであろうと推察される。
地水神石塔は今アマテラスが正面であるが、本来は地水神が正面であろう。国家神道への忖度であろう。
 推定中井祖師堂跡     中井題目石群
 中井題目石・日蓮大菩薩1     中井題目石・日蓮大菩薩2     中井牛頭天王     中井不明石塔
 中井地水神塔1     中井地水神塔2     中井石灯篭

備前御野郡津島村
東は北方村、南は上伊福村、北は半田山の尾根。市場を本村とし、西坂・奥坂・福居・羽浮(土生)・新野から成る。
大覚屋敷は西坂にあった福隆寺跡の呼称で、大覺大僧正が逗留したため、その名があるという。
寛文6年日蓮宗鷲林山妙善寺とその下寺福居浄圓寺は廃寺となる。

福居祖師堂跡
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
●●D52OOO 法華守護諸神もしくは三十番神 岡山市津島 福居
山に向かった道のどんずまりに、ブロック塀に囲まれて法華宗の石が4つ。
何かの塔、「天保十子歳(1839)」「」他にもあるが読めない。それに天保十は亥歳。
題目の塔・「南無妙法蓮華経 日朗并 日連大并 日像并」(并みたいな字で)「南無妙法蓮華経 大覚大僧正」。
題目1・「南無妙法蓮華経 大覚大僧正 南無日連大菩薩 日奥聖人」。
題目2・「南無妙法蓮華経 法華守護諸神」「大正十四年八月 三十番神移**」。
石燈籠「常夜」「天保十三寅(1842)**」「十一月十三日」。
 34.688034 , 133.915736 → 緯度・経度 34.691194,133.913173 に所在。
 法華守護諸神石0:三十番神とある。
2022/05/05撮影:
明らかに祖師堂跡であろう。
日奥大聖人の題目石があり、不受不施派の系統の祖師堂であろう。
 福居祖師堂跡1     福居祖師堂跡2
 福居不明石塔1:確かに正面は判読不能、最後の3文字は大菩薩かもしれない。
 福居不明石塔2      福居不明石塔3
 先聖題目石1:正面、日蓮大𦬠、日朗大𦬠、日像大菩薩
 先聖題目石2:側面、大覚大僧正     先聖題目石3:側面、代々先聖■(木?)
 先聖題目石4:背面、奉唱満首題壱万千五百部
 日蓮大覚日奥題目石1     日蓮大覚日奥題目石2:日蓮、大覚に加えて日奥大聖人と刻む。
 法華守護諸神石:法華守護諸神とは三十番神をいう。(上記の法華守護諸神石0を参照)
 福居祖師堂跡常夜燈


備前津島妙善寺

 →備前津島妙善寺


備前津高郡深溺村・清水村・佐山村
深溺(ふかだわ)村:明治4年富吉村と改称、日蓮宗正林坊(菅野妙福寺末)は寛文6年池田光政により廃寺
清水村:山間にある。清水廃寺がある。
佐山村:日蓮宗圓松山法林寺(津島妙善寺末)は寛文6年池田光政により廃寺

備前富吉祖師堂(深溺祖師堂)
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
a46ewo 地神 岡山市富吉 山内公会堂の前をちょと行くとお堂がある。中には、日蓮と大覚と地神。外に「魔利支天王 十三日」。三叉路の正面にあたる。
34.716959 , 133.868146 → 緯度・経度:34.720207, 133.865508 に所在。
2019/11/07撮影:
明治4年、深溺村が富吉村に、益田村が吉宗村にそれぞれ改称。
サイト:「8000000」には祖師堂の写真が掲載されている、このサイトは1999年(平成11年)から2005年(平成17年)8月迄の調査
というから、少なくとも1999年まで、遅ければ2005年8月までは、祖師堂は存在していた。
 富吉祖師堂:サイト「8000000」より
また、GoogleMapの写真(撮影時期は不明)にも、祖師堂が写っているので、確実に祖師堂があったことが分かる。
 富吉祖師堂航空写真:GoogleMap
既に、祖師堂は取り壊され、石塔類は裸形で祀られる。
 富吉祖師堂跡1     富吉祖師堂跡2
 富吉祖師堂跡3:向かって左から題目石(大覺大僧正)、題目石(日蓮大菩薩)、地水神、前面に常夜燈がある。
 題目石(大覺大僧正):明治8年の年紀     題目石(日蓮大菩薩):天保6年(1835)の年紀
 祖師堂地水神     祖師堂常夜燈
 祖師堂脇井戸:祖師堂脇に井戸があり、井戸枠に刻銘があるが、判読できない。
なお、外に「魔利支天王 十三日」とあるが、これは見当たらない。
 魔利支天王 十三日:サイト「8000000」より

備前清水祖師堂
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
清水の道標の右側の道を100mほど登ると左手の高台にある。
中央は題目石(日蓮大士):<天明2年(1782)500遠忌>を祀り、右は地神、左は常夜燈を配置する。
なお、祖師堂から北東約150mほどに本堂池があり、その池に南面する谷間一帯が清水廃寺跡という。(未見)
付近に大門口・大門・青木坊・奥の坊・仁王門・経塚・聖屋敷などの地名が残る。
当廃寺は平安末期から鎌倉期の創建で僧月珍の建立と伝える。天台系の山岳寺院というも、昭和10年頃の調査では五輪塔・題目石・板碑・焼物破片などが出土するという。
2019/11/07撮影:
清水の道標は緯度・経度:34.721039, 133.883153 に所在、清水祖師堂は緯度・経度:34.720620, 133.882869 に所在。
 清水の道標:右は二軒茶屋・かながわ道で、右に進めば、清水祖師堂にいたり、そこから山中に入り、二軒茶屋に下り、野々口経由で金川に至る。なお、二軒茶屋には祖師堂がある。 (→ 二軒茶屋祖師堂
 清水祖師堂1     清水祖師堂2     清水祖師堂内部1     清水祖師堂内部2
 題目石(日蓮大士)1     題目石(日蓮大士)2     祖師堂地神     祖師堂常夜燈

備前佐山教会所並びに備前佐山祖師堂
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7
佐山の教会所は日吉神社の北に隣接する。ここでは宗派を超えて春と夏に佐山のお祭りが行われる。
ここには日朗直筆の曼荼羅を祀る。隣には題目石を納めた堂がある。
また
日吉神社随身門の右手に「牛神」の石造案内板がある。30mほど上に牛神がある。(未見)
2019/11/07撮影:
岡山市北区佐山1354:緯度・経度 34.698650, 133.880527 に所在。
佐山教会所前の「由緒を記した石碑」には次のように刻する。
 日蓮が慈悲広大な■■/南無妙法蓮華経は万年の外/未来までも流布すべし。
         日蓮在御判
 本教会所の御本尊は/日朗上人の御真筆と伝えられ/縁あって当佐山の地に在り、/爾来、住民の変わらぬ信仰により/護持している。/由緒は別記に在り。
         信徒
    昭和62年(1981)2月吉日
                  建立
    ※由緒は別記にあり とあるが、その別記とは不明である。
佐山教会所:
 佐山教会所1     佐山教会所2     佐山教会所3     佐山教会所4     佐山教会所手水石
 佐山教会所外陣     佐山教会所内陣
 日蓮坐像・日朗坐像:(いずれも推定):向かって左は日蓮坐像、右は日朗坐像・曼荼羅本尊
 推定日蓮坐像1     推定日蓮坐像2
 推定日朗坐像1     推定日朗坐像2
 日像曼陀羅本尊1     日像曼陀羅本尊2
佐山祖師堂は佐山教会所の南に隣接して建つ。両者の関係などは教会所の歴史が不明のため、分からない。
 佐山祖師堂1     佐山祖師堂2     佐山祖師堂3     祖師堂前常夜燈
 祖師堂題目石1:向かって左から題目石(判読不能)・題目石(大覚大僧正)・題目石(日蓮大菩薩)・題目石(日朗菩薩・日像菩薩・日親聖人)が並ぶ。
 祖師堂題目石2     祖師堂題目石3
 題目石(判読不能)1     題目石(判読不能)2:題目の下及びその左右の銘の判読が困難(判読不能)
 題目石(大覚大僧正)1     題目石(大覚大僧正)2:年紀など不明、銘文の判読ができない。
 三宝荒神像:どこかから遷座したものであろう。
 題目石(日蓮大菩薩)1     題目石(日蓮大菩薩)2:題目の左右、外縁の左右に銘があるが判読できない。
 題目石(日朗・日像・日親)1     題目石(日朗・日像・日親)2:日朗菩薩・日像菩薩・日親聖人、外縁の左右に銘があるも判読不能。


備前津高郡富原村・首部村・東楢津村
富原村:
 首部村・東楢津村、坊主山の北にある。古代・中世の山陽道は富原村を通り、辛川市場に抜けていたと推定されている。
 枝村に大岩、富野がある。
 正□山 妙本寺、中原村浄本寺末 住僧立退
 大岩 圓妙寺、中原村浄本寺末 住僧立退、弟子某還俗
 大岩 本行寺、中原村浄本寺末 住僧立退、弟子某還俗し、何れも寛文6年廃寺(撮要録)
首部村:
 津高郡 首部村 教永山 法久寺 金川妙國寺末 住持還俗 )寛文6年廃寺(撮要録)
東楢津村:
 東楢津村の枝村に中楢津村、西楢津村があった。
 中楢津日蓮宗金宝山宝仙寺(金川村妙國寺末)、西楢津日蓮宗承永山寺(金川村妙國寺末) 寛文6年(1666)廃寺となる。
  (撮要録)

 当地一帯は岡山市に属するも、まだまだ昔からの民家・住民が多く、村落の大部が新住民で占められるという状況の一歩手前の段階にある。そのため、祖師堂などの祭祀は辛うじて命脈を保っている状態である。
「このまま、高齢化が進み、私たちの世代が代替わりすれば、何時まで、御祖師様の世話を続けられるは分からない。」というのは本音であろう。
 参考資料:楢津関係では次を参考とする。
サイト:ヤマレコ>「岡山市北区 西山〜坊主山 室町〜江戸時代史跡を巡るプチ迷路
PDF文書:「東楢津文化財 (NO 1)」伊丹毅、平成25年

備前津高郡富原祖師堂
祖師堂位置については富原村南西部に位置し、小高い丘の山腹にある。周囲は小規模な墓地である。
マピオンのMapには「祖師堂」との表示がされている。
堂は施錠されている。但し正面の格子(小動物侵入防止の金網を張る)から内部を拝することは可能。しかし、少々暗い。
 富原祖師堂遠望:GoogleStreetView より
2019/04/06撮影:
内部には中央・題目石(判読不能)、右・題目石(大覺大僧正)、左・地水両神を祀る。何れも年紀は不明。
 富原祖師堂1     富原祖師堂2     富原祖師堂3     富原祖師堂4     富原祖師堂5
 富原祖師堂石灯篭:年紀は不明
 富原祖師堂内部1     富原祖師堂内部2     富原祖師堂内部3
 中央題目石1        中央題目石2:題目のほかは判別できず、題目の下の1文字は「日」であるが、それ以外は判断できず。左右に銘があると思われるもこれも判読できず。
 右題目石(大覚大僧正)     右題目石(大覚大僧正)部分:大覺大僧正とある。
 左地水両神

備前富原散泊峠題目石
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
旭川を渡り牟佐に着岸し、半田山の北麓を西進し笹ヶ瀬・散泊峠・呼び坂を通り、唐川橋を渡り、板倉に至るのが古代の山陽道であった。
散泊峠(三泊峠)は「うない坂」の名が残る。それは永禄5年(1562)松田氏が吉備津彦神社に火をかけるが、反撃にあい松田勢は逃走する。しかし、迫撃を受け、この峠で全滅し、その唸り声が凄まじく、それ故「うない坂」という伝承が残る。
峠の頂上に題目石がある。題目石は安政6年(1859)銘。
2019/11/07撮影:
北区富原:緯度・経度:34.690075, 133.885295付近に所在。
 散泊峠題目石1     散泊峠題目石2     散泊峠題目石3
 題目石(日蓮在判)1     題目石(日蓮在判)2
 題目石(日蓮在判)3:左側面には「天下泰平國土安穏村中安全五穀成就/大覺大僧正五百遠忌御報恩謝徳祈」と刻む。背面には安政6年(1859)銘を刻むので、この時大覚大僧正の500遠忌であった。
 題目石(日蓮大士)1     題目石(日蓮大士)2:日蓮600遠忌/明治14年の銘を刻む。

備前津高郡坊主山題目碑:坊主山薬王菩薩
備前津高郡首部村坊主山山頂にある。
題目石は正面に題目と薬王菩薩と刻む。側面・背面・台石には何も銘はなく、年代など一切不明である。
2019/04/06撮影:
 坊主山遠望:海抜121mという。
 坊主山山頂と題目石     題目石(薬王菩薩)1     題目石(薬王菩薩)2     題目石(薬王菩薩)3

備前津高郡首部題目碑・堅牢地神
首部白山権現の南方・首部の集落の東端にある。
題目石(日蓮大士)1基が建つ、この題目石の北側約25m程の所に堅牢地神碑がある。堅牢地神も1基のみ建つが、祖師堂を構えることのできるほどの整地された敷地を持ち、あるいは以前には、地神の位置に、地神と題目石はセットで在り、祖師堂の形式であったのではないだろうかと推測される。
勿論、白山権現の西方・部落の北西端にも祖師堂があるが、併存していたのであろう。
2019/04/06撮影:
元禄14辛巳(1701)3月の年紀を刻む、かなり古い時代の題目石である。
中央には題目と日蓮大士、その左右に〇〇院日〇(院日も推定)、清了院日道と僧侶名を刻み、下段に判別できないが、信徒と思われる名前を刻む。
 首部題目碑1     首部題目碑2     首部題目碑3     首部題目碑4
 首部堅牢地神1     首部堅牢地神2
2019/10/15追加:
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
法華題目石塔:
元禄14年(1701)の銘がある。この石塔には次のように刻む。
  元禄十四 智有坊日師
 南無妙法蓮華経 日蓮大士
    法承院日真 三月○日
     法体・法院・法太・清○・法順・宗体・法春・法清・法悦・宗○
堅牢地神:
明治20年以降、洪水・旱魃などが続き伝染病も蔓延する。明治27年、荒ぶる自然を鎮め、疫病退散を願い、この土地の人々はこの地に堅牢地神を建立すると伝える。
延享3年(1746)池田綱政が大筒を白山権現東の畑地に据えて、烏山に向けて試射するが、この時綱政が腰を掛けたのがこの場所との言い伝えが残る。
 ※だとすれば、上記の「以前には、地神の位置に、地神と題目石はセットで在り、祖師堂の形式であったのではないだろうかと推測される。」という管理人(s_minaga)の見解は見当外れと言わざるを得ない。
2019/04/06撮影:
なお、首部には白山権現が鎮座する。
平安期初期に加賀白山権現を坊主山山頂に勧請し、後に現在地に遷座するという。明治2年神仏判然令にて白山神社と改号する。由緒及び地名伝承は次のように云う。
吉備津彦は備中岩屋の温羅を退治し、その首をこの地の首塚に晒す。ところがいつまでもその首は唸り聲を発するので、吉備津彦は吉備津神社御釜殿の地中深くに移すと唸り聲は収まったという。以上のような伝承から、集落を首部(こうべ)と称する。
白山権現には末社米神があり、この末社は温羅を祭神とし、鬼神首塚として祀るという。実は温羅は善神で、吉備の国の農業の発展に力を尽くし、米の神として崇められるという。(「現地説明板」)
白山権現は部落民の有志で、定期的な清掃が行われるという。
 白山権現末社米神

備前津高郡首部祖師堂(教永山法久寺跡)
白山権現の西方・部落の北西端にある。
祖師堂堂宇は老朽化するも、プレハブ建築ではあるが、部落民の資金で、造替されるという。
堂は通常は施錠されるというも、開錠をお願いすると、部落民有志数名が参集され、堂内に案内される。部落民有志は今も定期的に堂に参集し、看経し交友を深めるという。
 昔この付近は土葬であったといい、葬式(埋葬の葬儀)はこの祖師堂前で行われたという。その為、今は使うことは無いが、堂前には石蓮台・石経机(石御供机)、石香炉が置かれている。
 ※この祖師堂の所在場所及び開錠については、岡山北区役所地域振興課及び首部町内会々長婦人並びに町会員有志数名にお世話になる。
2019/04/06撮影:
 首部祖師堂1     首部祖師堂2     首部祖師堂3
 首部祖師堂内部1     首部祖師堂内部2     首部祖師堂内部3
 題目石(日蓮大士):中央:天明元年(1781)の年紀、500遠忌とある。230有余年経過するが殆ど風化はしていない。
 日像髭題目石:左端:年紀はなし、題目は所謂日像の髭題目(波振り題目)の書体で書かれる。
 題目石(日親上人):年紀はなし、日親上人碑がある由来は分からないという。そもそも日親上人がどのような上人なのかは意識をせずに礼拝しているという。
 堂前石灯篭:年紀の確認をせず。(年紀は下に掲載)
 堂前蓮台・石経机・石香炉
2019/10/15追加:
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
この場所は寛文6年廃寺となった法久寺の跡と考えられている。昔、この堂は村内の葬儀場所として使用されていたようである。
奉燈:寛政6年(1781)銘

備前首部法久寺跡
2019/10/15追加:
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
上記の首部祖師堂の地が寛文6年廃寺とされた法久寺跡と考えられるという。
 ※撮要録には次のようにある。
83 津高郡 首部村 教永山 法久寺  9)金川妙國寺末 住持還俗  9)寛文6年廃寺(撮要録)
なお、首部祖師堂の下方に満丸様という小祠があり、法久寺と関係するようである。
◇満丸様:
胸の病気を治す神として祀られる。寛文6年法久寺は取壊され廃寺となる。この付近には「寺の坪」「寺屋敷」の字が残る。
出寺した(還俗とあるが)僧が、この付近で辻説法(村の安泰祈願)をしているとき病に斃れ歿する。村人は供養の為五輪塔を建て祀るという。
2019/04/06撮影:
 首部満丸様:五輪塔は写真に写らないが、どのような理由かは不明、小祠とその土台は近年に設置と思われる。
なお、写真右肩に1本の桜とその背後に建物が写るが、その建物が法久寺跡と伝える首部祖師堂である。

備前津高郡八畳岩北西題目碑:東楢津十二本木大権現
東楢津祖師堂から北へ100mほど行けば、山裾に天満宮があり、その前を左に曲がり山手の道を500mほど登ると八畳岩に至る。 八畳岩から北西に緩やかな登りを100mほど進めば、十二本木大権現題目碑に至る。
但し八畳岩も十二本木大権現題目碑も首部村と東楢津村の境にある。
2019/03/02撮影:
 津高郡八畳岩     八畳岩からの眺望:岡山市街
 十二本木大権現題目碑1     十二本木大権現題目碑2     十二本木大権現題目碑3
 十二本木大権現は牛神と云う。
 近世から戦後しばらくの間まで、農村では牛馬は田の耕作や荷車での運搬などで貴重な働き手であった。
2019/10/15追加:
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
八畳岩:
昭和30年代ころまでは、4月の初旬に地域の山登りの行事があり、多くの村人が酒や弁当を持ってこの場所に集まり大変賑わった。
十二本木大権現:
伯耆大山の分社と伝える。昔は盛大に牛馬に感謝する祭が行われていたという。

備前津高郡東楢津祖師堂 ・・・ 内部未見
○「東楢津文化財 bP」伊丹毅、平成25年(PDF文書) より
祖師堂内には以下を祀る。
 題目石 / 高さ約145cm 幅約83cm 厚さ約36cm
 題目石 / 高さ約100cm 幅約53cm 厚さ約43cm
 地水神 / 高さ約 67cm 幅約43cm 厚さ約36cm
 題 目 石:堂内には題目碑2基と地水神1基を祀るようである。(写真は不鮮明)
2019/03/02撮影:
祖師堂は施錠され、また全ての扉・掃き出し窓は閉じられ、内部は全く窺うことはできない。
 東楢津祖師堂
 東楢津祖師堂前題目碑;宝暦12年(1763)の年紀     東楢津祖師堂前常夜燈:安政8年(1861)の年紀
 東楢津祖師堂扉:祖師土王扉は、明治維新の時、岡山城から移すという。
2019/04/06撮影:
町会長が鍵を保管と判明、町会長宅を2度にわたり訪れるも、いずれも不在、内部の拝見は出来ず。
 東楢津祖師堂正面     東楢津祖師堂扉2

備前津高郡東楢津村不受不施派題目碑・墓地
東楢津祖師堂より西へ200mほどの所の崖に東楢津貝塚があり、その崖状の貝塚の東にある石階を少し上に上ったところに不受不施派墓地がある。
現地に案内してくれた地区民への聞取りによれば、墓碑への供養は津島妙善寺が行うという。
貝塚から戦後の昭和の頃までは貝殻が採取できたという。
ただ、不受不施派にはある種のいわれなき敵意があるようで、今なお、お上に反抗した無宿者のような差別感情が言葉の端に出ているような気がしたのは考えすぎであろうか。
2019/03/02撮影:
 不受不施派墓地     不受不施派墓地中央題目碑:日蓮・日朗・日像の三菩薩を刻する。
 不受不施派墓碑1     不受不施派墓碑2     東楢津貝塚:案内が無ければ全く分からないと思われる。

備前中楢津祖師堂
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
B15DQ 気配のみ 岡山市楢津 山へ向かって坂を上ると、石垣の上にお堂。開かない。入り口前には危険なので手すり。石燈に「天明六(1786)丙午歳 講中」。地神有るかも。
34.68044 , 133.89111 → 緯度・経度:34.6836,133.888547に所在。
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
中楢津の集落を上った一番上の高台にある。堂の前面に題目石と常夜燈がある。常夜燈には天明6年の銘が刻まれる。
堂内には天井まで届きそうな題目石が祀られる。
2019/11/07撮影:
施錠され、さらに堂中を窺うことも全くできず、内部は全くわからない、また情報もほぼ皆無である。
 中楢津祖師堂1     中楢津祖師堂2:向かって右に題目石、左に常夜燈     中楢津祖師堂3
 堂前題目石:豊島石製で題目のほかは判読不能。
 堂前常夜燈1     堂前常夜燈2     堂横手水石

備前津高郡中楢津展望所題目碑
東楢津村中楢津集落の背後の丘陵の展望の開けたところに題目碑がある。
成田山西南院門前から西南院背後に廻り、車の通れる農道を上る。農道は果樹園の中をほぼUターンするがそのまま東南方向に行く。すぐに農道は北東方向にコースを変えるが、その変換点の附近に送電用鉄塔がある。その鉄塔を突っ切り、藪の中に入ると草苅のされた広場があり、南方への展望が少しだけ開けた「展望所」(というようなものではなく、単に草苅のされた広場で多少展望がきく程度)があり、そこに題目碑がある。
2019/03/02撮影:
 中楢津展望所題目碑1     中楢津展望所題目碑2     中楢津展望所題目碑3:薬王菩薩題目碑である。
 農道変換点から鉄塔・展望所を望む:鉄塔の向うの薮が「展望所」である。

備前西楢津小西山題目碑
西楢津西山の西に小ピーク(故に「小西山」と勝手に呼称する)があり、この頂上に「大意僧妙王」(と思われる)と刻んだ題目石がある。但し「大意僧妙王」とは如何なるものかは分からない。
題目石のある山頂はきれいに整備されている。今も部落民などの手入れが行われているものと思われる。
年紀は天保13年(1842)とある。
2019/04/06撮影:
 小西山題目碑1     小西山題目碑2     小西山題目碑3     小西山題目碑4     小西山題目碑5
2019/10/15追加:
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
西楢津の牛神:
この石塔についての由緒は不明。終戦頃までは、農家の大半が牛を飼い、家族同然の存在であった。

備前西楢津野辺題目碑
野辺とは葬送である。
おそらく昔は土葬が行われ、この集落の野辺(葬式・埋葬の葬儀)はこの地で行われたものと思われる。
そのため、この地には題目碑と石蓮台・石経机(石御供机)が設けられているものと思われる。
(同じような例は上述の首部祖師堂や下に掲載の備前一宮梟首台墓地で見られる。)
下の「西楢津北祖師堂跡」から登れば、すぐ右に題目碑などがある。そしてこの上方には古い時からの墓碑が多くみられる。墓地を抜けて、さらに登れば小西山に至り、小西山題目碑に至る。
2019/04/06撮影:
○野辺題目碑その1
傍らに石碑が建つが、これは死後の安寧を願う願文が記され、平成3年に建立されたものである。
 野辺題目碑その1-1     野辺題目碑その1-2     野辺題目碑その1-3
 野辺題目碑その1-4:石蓮台・石経机
○野辺題目碑その2
傍らに石碑は建つが、これは嬰児の死を悼む詩が記され、昭和61年に建てられたものである。おそらくこの題目石はみどり子の供養塔であろう。この題目碑は題目碑その1の奥に建つ。
 野辺題目碑その2-1     野辺題目碑その2-2
○野辺附近の墓碑
野辺題目碑・石蓮台などの上方には多くの幕末頃の年紀を刻んだ墓石が建つ。これらは拝見した限りでは全、刻まれた法号から日蓮衆徒のものと判断できる。拝見した限りの年紀は次の通りである。明治元年以降は割愛。
文化4年(1807)、文化6年(1809)、文化11年(1814)、文政5年(1822)、文政8年(1825)、文政11年(1828)、
弘化2年(1845)、嘉永5年(1852)、安政3年(1856)、万延元年(1860)、文久2年(1862)、明治元年(1868)である。
 西楢津墓碑その1     西楢津墓碑その2
 西楢津蘭塔墓:おそらく古いものであろう、銘があるようにも見えるが、まったく判別できない。

備前西楢津北題目碑(西楢津北祖師堂跡)
どのように呼ばれているのか不明、小字名も分からず、仮に「西楢津北題目碑」と呼称する。
石垣を築き、石階を作り、土塀で囲む。この構えや石塔などから、下に述べる「西楢津日蓮様」と同じように、祖師堂があったものと思われる。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
 地神・水神は土塀の中にあり、ちょっと変わった堅牢地神と水神。正面には「南無妙法蓮華経 堅牢 地神水神 村講中」と刻み、地神と水神が並び、堅牢が両方にかかるようなレイアウトである。
 題目石は正面「南無妙法蓮華経  日像菩薩 日朗菩薩 大覚大僧正」左面「文政八年(1825)乙酉四月三日」右面「天長地久国土安徳 五穀成就 村中繁栄」と刻む。
2019/04/06撮影:
向かって左から、石灯篭・堅牢地神水神・題目碑(日朗日像大覚)が並ぶ。
 西楢津北題目碑1     西楢津北題目碑2     西楢津北題目碑3     西楢津北題目碑4
 題目碑(日朗日像大覚)1     題目碑(日朗日像大覚)2     題目碑(日朗日像大覚)3:年紀は文政8年(1825)
  日像菩薩/日朗菩薩/大覚大僧正と刻む。
 堅牢地神水神1     堅牢地神水神2
 堅牢地神水神・文字入れ:左に天○○○とあり、おそらく天保と推定される年紀が刻まれていると思われる。
 北祖師堂跡石灯篭

備前西楢津祖師堂
祖師堂が現存する。この祖師堂は備前や備中南東部で一般的に見られる題目碑・大覚大僧正碑・地水神などを本尊とする堂ではなくて、この地方では珍しい堂内に厨子を入れ、祖師像を保存とする堂である。
この堂は通常は施錠されているが、講中の当番が鍵を管理するという。
2019/04/06撮影:
 西楢津祖師堂1     西楢津祖師堂2     西楢津祖師堂3     西楢津祖師堂扁額
 祖師堂宮殿     祖師堂改築入佛:大正3年     祖師堂祖師像写真     祖師堂脇檀厨子

備前西楢津日蓮様(西楢津南題目碑・西楢津日蓮堂跡)
土地の人は「日蓮様」と呼ぶようである。
その構え(石垣を組み、石階を設え、おそらく100坪近い敷地があり、周囲をブロック塀で囲い、題目碑(日蓮)・大覺大僧正碑・水神が残る)から、ここは西楢津日蓮堂の跡と推定される。
 (この北方に西楢津祖師堂が残る・・・本尊は石塔ではなく日蓮上人坐像である。)
場所は西楢津平津児童館の西にある。但し、児童館とは直接の繋がりはなく、児童館前の道を西進すれば、すぐに旧街道が交差(四つ角)する。その四つ角を北進すれば、すぐ右手に「日蓮様」はある。
日蓮堂跡には向かって左から題目石(日蓮大菩薩)、大覚大僧正と並び、右に北面して福水善神(水神)が並ぶ。石灯篭が入口左隅にある。この日蓮様の石塔類は総じて彫が浅く、風化も進み、判別が難しい。従って、年紀など不明である。
2019/10/15追加:
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
題目石(日蓮大菩薩)/高さ150cm、幅70cm
題目石(大覺大僧正)/高さ90cm、幅40cm
福水善神/高さ60cm、幅35cm
2019/04/06撮影:
 西楢津日蓮様構え:日蓮堂跡     西楢津日蓮様石塔1     西楢津日蓮様石塔2     西楢津日蓮様石塔3
 題目石(日蓮大菩薩)1     題目石(日蓮大菩薩)2:正面の縁に銘があるが、まったく判別できない。
 題目石(大覚大僧正)      西楢津日蓮様福水善神     西楢津日蓮様石灯篭:寛政3年(1791)の年紀がある。
2019/11/07撮影:
西楢津稲荷大明神
東に西楢津平津児童館があり、敷地の東に小祠がある。これは正一位稲荷大明神を祀る祠で、祠は退転寸前である。
正体もここにはなく、どこかに合祀されたのであろう。
 西楢津稲荷大明神1     西楢津稲荷大明神2

備前御野郡上伊福村
枝村として定國、栄ヶ崎、別所、津倉があった。
東は南方村、西は下伊福村國守・三門、万成村と山塊。北は津島村、南の下伊福村との境を山陽道が通る。
寛文6年池田光政の不受不施弾圧により、下伊福村三門吉乗山石井寺(金川妙國寺末)、上伊福村福立山宗蓮寺教音坊(三門石井寺末)、上伊福村常林坊(三門石井寺末・宗蓮寺々中か)が廃寺となる。

備前上伊福村栄ヶ崎祖師堂:北区伊島町1丁目
○「京山物語」平成15年(2003)<「京山公民館」より当該箇所の複写資料の提供を受ける> より:
文政7年(1724)年紀の題目石、大覚大僧正、地水両神、牛頭天王の石塔が建つ。
内部に題目碑などを安置する形式の祖師堂である。
2019/03/02撮影:
 上伊福栄ヶ崎祖師堂     栄ヶ崎祖師堂内部:左から牛頭天王、地水二神、題目碑、大覚大僧正と並ぶ。
 栄ヶ崎祖師堂題目碑:文政7年(1724)年紀     題目碑・大覚大僧正     栄ヶ崎祖師堂大覚大僧正
 地水両神・牛頭天王

備前上伊福村本村題目碑
○「京山物語」平成15年(2003)<「京山公民館」より当該箇所の複写資料の提供を受ける> より:
上伊福村本村の観音寺用水沿いの伊福東町公会堂(北区伊福町2丁目10)付近にある。
向かって左から、牛頭天王石碑、地水二神、日蓮題目碑、大覚大僧正碑が並ぶ。
題目碑正面は題目・日蓮大菩薩、左側面には安永10年(1781)の年紀、側面には授法院日晴代、台石には五百御遠忌と刻む。
 ※授法院は上伊福別所妙林寺の寺中授法院であろう。
これらの題目碑は石垣(柵)に囲まれ、石柵の傍らには嘉永7年(1854)年紀の石灯篭がある。
2019/03/02撮影:
現在は石柵で囲われているも、かっては祖師堂があったとも思われるが、不詳。
地神・水神は農耕神であり、牛頭天王は疫病神であったのであろう。
 上伊福村本村題目碑     上伊福村本村題目碑2     上伊福村本村日蓮題目碑
 上伊福村本村牛頭天王     上伊福村本村地水二神     上伊福村本村大覚大僧正     上伊福村本村石灯篭

上伊福霊源寺:岡山市北区伊福町3丁目20-12
不受不施日蓮講門宗、鹿瀬本覚寺末。
岡山市上伊福に岡山教会と称する講門宗教会があった(「岡山県緊急古文書調査報告書 不受不施派史料目録(2)」)が、その後身(岡山教会が寺号公称)であるとも思われるも、詳細は不明。
2019/03/02撮影:
 上伊福霊源寺1     上伊福霊源寺2     上伊福霊源寺3     上伊福霊源寺4     上伊福霊源寺5

備前上伊福村別所題目碑:岡山市北区京山1丁目11
○「京山物語」平成15年(2003)<「京山公民館」より当該箇所の複写資料の提供を受ける> より:
右に大覚大僧正、左に地神水神を配した題目石が建つ。左側の石灯篭の棹には元禄4年(1691)の年紀が刻まれる。
2019/03/02撮影:
現状題目碑はブロック塀で囲まれるも、かっては祖師堂があったとも思われるが、不詳。
 上伊福別所題目碑     上伊福別所題目碑2     別所題目碑・大覚大僧正     別所日蓮題目碑
 別所大覚大僧正       別所地神水神         別所左端石灯篭:元禄4年(1691)の年紀

津倉稲荷:日蓮宗妙応寺津倉稲荷別院

殆ど情報がないが、ページ「津倉稲荷堂の由来」では以下のように述べる。
 縁起類が伝わらず由緒は不詳。口伝では池田光政が因幡鳥取から備前岡山に国替になったとき、岡山城の真西に当たる当地(津倉)に最上位経王大菩薩を祀ったことに始まるという。
 現在の正式名称は、「宗教法人 日蓮宗妙応寺(通称:妙応寺津倉稲荷別院・津倉稲荷堂)」と云う。
また、平成元年に和気妙応寺第38世太田智光上人および深い信仰者の方々の協力の下で本院が新築されたことで妙応寺の飛地境内となり現在に至る。  → 和気妙應寺は上に掲載
 ※和気妙応寺が本院本堂の新築に関係した故に、和気藤野妙應寺の別院(飛び地)であるということであるが、その関係性の詳細は不詳。
2014/11/22撮影:
 津倉稲荷鳥居    津倉稲荷入口    津倉稲荷石階    津倉稲荷境内    津倉稲荷稲荷堂    津倉稲荷本堂?
2019/03/02撮影:
 津倉稲荷全容:庫裡・玄関・本堂・稲荷堂     津倉稲荷玄関     津倉稲荷石階
 津倉稲荷堂:近年背後に写る墓地の場所から現在地へ移転すると思われる。
 津倉稲荷墓地:稲荷堂のあった場所に墓地が設けられる。

備前上伊福村別所題目碑:妙林寺東:妙林寺東参道入口
上伊福別所の妙林寺東入口付近にある。
この地の題目碑も現状はコンクリート塀に囲われるが、かっては祖師堂があったとも思われるが、不詳。
構えや石塔などから、おそらくは祖師堂があったと思われる。
2014/11/22撮影:
 妙林寺東・別所題目碑       妙林寺東・別所大覚大僧正碑
2019/03/02撮影:
左から石灯篭、題目碑、大覚大僧正、牛神と並ぶ。年紀等は何れも不明である。
 妙林寺東・別所題目碑     妙林寺東・別所題目碑2     妙林寺東・別所日蓮題目碑
 日蓮題目碑・大覚大僧正・牛神

備前上伊福妙林寺:三門妙林寺:岡山市北区三門東町(上伊福別所)

 → 三門妙林寺(上伊福妙林寺)

御野郡下伊福村
東は上出石村、南は島田村・高柳村、北の上伊福村との境界付近を山陽道が通る。
街道に沿って、東から本村(街道の南)、三門(街道北)、西崎(街道南)の枝村があり、街道が北に向きを変え万成村に抜ける手前、街道東に枝村国守がある。
  備前天保國繪圖(部分図):下伊福本村・三門・国守・西崎の位置関係が分かる。
 下伊福村三門には金川妙國寺末吉乗山石井寺があり、寛文6年池田光政の不受不施弾圧で、住持立退、廃寺となる。
石井寺の花押并衆徒連判には衆徒:領雄院(石井寺住持)、延壽院、勧持院、蓮乗院、實相院、三祥院、是雲院、常林房、中藏院、千壽院、林乗房、鷲林房、本浄房、恵運房、圓住房、教雲房、本住房、千櫻房の名がある。おそらくこれら衆徒は寺中に坊を構えていたものと思われ、同時に廃寺となったものと思われる。

廃・下伊福吉乗山石井寺:
 備前天保國繪圖(部分図)では下伊福村内石井寺とある。枝村として石井寺があった。

 →備前48ヶ寺吉乗山石井寺

備前岡山妙應寺

 → 備前岡山城下の諸寺中、平成27年(2015)岡山市北区富田町から現在地の北区岩井に移転する。

備前三門東祖師堂跡(推定)
岡山市北区三門東町、捏造神社國神社の東下にある。緯度・経度:34.669602,133.904679 に所在
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
D35RO 八大龍玉 岡山市三門 東町
龍と日蓮の組み合わせ。大覚「大覚大僧正」「文化十三子四月」。龍「南無妙法蓮華経 八大龍玉」。日連「高祖日蓮大士」。他にも古い石燈籠や石の祠があり、集めてきたのかも。
○現況
構えから、ここに祖師堂があったものと推定される。
石塔類は向かって右から、日蓮大士、題目石(八大龍玉)、大覺大僧正、常夜燈残欠2基、石仏が並ぶ。
2019/08/31撮影:
 三門東祖師堂跡1     三門東祖師堂跡2     三門東祖師堂跡石塔類     三門東祖師堂跡石塔類2
 高祖日蓮大士:年紀不詳
 題目石(八大龍玉):年紀不詳、八大竜王は法華経(序品)に登場し、仏法を守護するという。
 大覺大僧正:年紀は側面にあるが、文化以下は判然とはしない、「800000」のサイトでは「文化十三子四月」という。
 常夜燈残欠2基
 石仏と常夜燈棹2本:石仏の尊名は分からない、背後に写るのは常夜燈の棹2本と思われる。内1基の年紀は文化九(1812)とあるから、常夜燈の内1基は文化9年の建立であろう。
 三門東祖師堂跡石製香炉?:香炉ではなくて石の祠(「800000」のサイト)かも知れない。香炉であれば祖師堂前にあったものであろう。銘は判読困難。

備前三門中祖師堂跡(推定)
岡山市北区三門中町、捏造神社國神社の西下にある。緯度・経度:34.669752,133.902476 に所在
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
C81EOO 地神塔(折れてる!) 岡山市三門 中町 山の坂の途中。空き地のように見えるが、奥に石が沢山。
題目「南無妙法蓮華経 南無日蓮大菩薩」。
題目の有る塔、文字沢山、「南無妙法蓮華経 日蓮大士」「天明元*牛星未秋中三*施主三門通筋講中立之」「奉***第五百御遠忌**」。
大覚「南無妙法蓮華経 大覚大僧正」。
地神塔は、読めないので標準と思っておこう。
○現況
構えから、ここに祖師堂があったものと思われる。三門筋講中の銘があるので、あるいはこの講中によって維持・管理されてきたのであろうか。
石塔類は向かって左から、題目石(日蓮大菩薩)、題目石(日蓮大士)、常夜燈、題目石(大覺大僧正)、地神塔が並ぶ。
2019/08/31撮影:
 三門中祖師堂跡1     三門中祖師堂跡2     三門中祖師堂跡石塔類
 題目石(日蓮大菩薩)1
 題目石(日蓮大菩薩)2:題目 日蓮大菩薩/奉讀■■■五百部/五百五十遠忌報恩 と刻む。
 題目石(日蓮大菩薩)3:年紀は天保二歳辛卯(1831)3月13日、その他は判読できない。
 題目石(日蓮大士)1
 題目石(日蓮大士)2:天明元辛丑(1781)星未穐中三/施主三門通筋講中立之、他の側面には「奉唱満首題二百萬遍/第五百御遠忌御報恩」と刻む。
 三門中祖師堂跡常夜燈
 題目石(大覺大僧正):年紀など銘があると思われるも、判読不能。     三門中祖師堂跡地神塔

下伊福本村祖師堂跡(推定)
北区下伊福本町16-14、緯度・経度:34.666327,133.90437 に所在。
下伊福本町に所在なので、おそらく下伊福本村の祖師堂であったと推定する。
 下伊福本村祖師堂:GoogleStreetView(2011年1月)より転載、
  中央に石塔類3基と常夜燈があり、その向かって右に若宮八幡の拝殿・本殿がある。
  石塔類前に白の車が駐車しているが、その場所が空地であり、かってはここに祖師堂があったのであろうと推定される。
  なお、ここに写る常夜燈は現在(2019年8月)撤去され、その石材も現地には残らない。
 下伊福本村祖師堂2:同上 より転載、本殿手前に現在は残らない常夜燈(既に火袋は欠)写る。
  なお、石塔類前の空地に祖師堂がかって存在したと思われる。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
938YOQ 読めない 岡山市下伊福本町 若宮八幡宮、題目石、奥に入っていくと全く読めない四角柱。
 ※全く読めない四角柱とは未見、多分拝殿の奥(東)にあるものと思われる。次に写真を転載。
  若宮八幡大菩薩四角柱:本サイトより転載。
○現況
現在は更地であるが、若宮八幡大菩薩の社殿横に祖師堂があったものと推定される。
2019/08/31撮影:
石塔類は向かって右から、日蓮大士、題目石(日蓮/日朗/日像/大覺)、大覺大僧正が並ぶ。
 下伊福本村祖師堂跡石塔1     下伊福本村祖師堂跡石塔2
 日蓮大士1     日蓮大士2:天明六年(1786)と読めるが、はっきりとは読めず、誤読の可能性あり。
 題目石(日蓮/日朗/日像/大覺)1
 題目石(日蓮/日朗/日像/大覺)2:左右側面及び背面にも銘があると思われるが、全く判読できない。
 大覺大僧正1     大覺大僧正2:刻銘は維時天保十歳(1839)・・・と思われる。
 若宮八幡大菩薩拝殿:下伊福三町若宮集会所の札が掛かる。     若宮八幡大菩薩本殿

備前日蓮宗西崎妙見教会(西崎妙見)
岡山市北区西崎本町。備前下伊福村西崎に所在。
参道の右に下の段の通夜堂(内殿)があり、七段の石階の上が上の段(外殿)で妙見堂がある。
内殿には、後醍醐天皇から足利尊氏・赤松氏の手を経て備前の住人前田六郎に与えられたという妙見大士を、外殿には享和2年(1802)の御野郡の大飢饉に際し、能勢の妙見山から勧請された妙見大菩薩が祀られている。
平成4年内殿屋根修理、平成26年外殿屋根修理。
平成26年の修理で、銅板葺である妙見本殿屋根は檜皮葺であったことが判明する。また棟板が発見され、次のように記される。
  「維時明治十三歳十一月十七日落成
   愛媛懸讃岐國中野郡塩飽㠀棟梁田中音吉建立」
※明治13年落成、棟梁は讃岐塩飽島田中音吉。香川県が揺れ動いた時代であり、当時讃岐は愛媛県の次代であった。
以上の他には情報がなく、開基など不明である。
2019/03/02撮影:
 西崎妙見大菩薩碑     西崎妙見門前     西崎妙見入口及び下の段     西崎妙見通夜堂(内殿)
 西崎妙見上の段1      西崎妙見上の段2     西崎妙見上の段3
 西崎妙見拝殿1        西崎妙見拝殿2      西崎妙見本殿1     西崎妙見本殿2     西崎妙見お滝場

備前西崎祖師堂跡(推定)
備前下伊福村西崎に所在。
西崎妙見教会の入口を入った一郭にある。しかし西崎妙見教会とは別の施設であろう。
推測であるが、かっては大安寺村西崎に祖師堂があり、そこに祀られていた題目石だったのであろう。
向かって左から、石碑・石塔残欠碑、大覚大僧正、日蓮題目碑、題目碑の4基が並ぶ。
2019/03/02撮影:
 備前大安寺西崎題目碑     西崎題目碑右3基     西崎題目碑左3基
 日蓮大聖人題目碑:刻銘は殆ど判読できないが、五百とも判読できる文字がある。
 もしそうであるならば日蓮五百遠忌報恩塔と解釈でき、この題目碑の年紀は、天明元年(1781)ということになる。
 大覚大僧正碑:年紀など不明     題目碑(性格不明):年紀なども不明
 石碑・石塔残欠碑:頭部の2部品は石灯篭あるいは石塔類の残欠であろう。
 塔身の部分は文字が全て欠落しているが、かっては題目を刻んでいた題目碑であったように思われる。

備前御野郡万成村
津島村の南西にあり、矢坂山の北麓にある。北側は笹が瀬川で対岸が東楢津村・首部村。
枝村に谷(谷万成)がある。
寛文6年池田光政の不受不施派弾圧により、萬成村正雲坊(三門石井寺末)、萬成村自正院(三門石井寺末)が廃寺となる。
◇万成村一里塚
萬成村には次に示すように、一里塚(一里山)があった。
○「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」平凡社、昭和63年 より
万成村:
山陽道が通過、街道沿いに茶店があり、城下栄町千阿弥橋からの一里塚がある。
○「中国行程記」有馬喜惣太、宝暦年中作成、萩市立博物館蔵(「太陽コレクション『地図』第2号『京都・大阪・山陽道』平凡社、昭和52年 所収) より
 中国行程記・万成村部分図     中国行程記・左図文字入図
本図の中央に万成村とあり、一里山(一里塚)が表されている。
◇山陽道の変遷
 万成坂附近の山陽道:GoogleMapから転載、文字入れ
現在、上の地図に示されるように、山陽道は黒字で「山陽道」と示された部分と理解されている。
しかし、この黒字で示された「山陽道」は江戸期の位置ではなく、実は明治9年県令高橋五六が車馬の往来の便を図るため、2000人ほどを募集して整備したものという。
江戸期の山陽道は道幅はもっと狭く、山中では屈折したいたようである。
地元民の聞取りでは、江戸期の山陽道はおよそ赤字ので示すような経路であったといわれているとのことであった。
 (但し、経路の一部はs_minagaの推測もある。)
現在、一里塚のあったとされる場所は、明治9年以降の山陽道から見れば常識外の高所にあるが、江戸期の山陽道は一里塚と同じレベルにあったことが分かる。

備前谷万成祖師堂
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
●C83EWO 地水神 谷万成地水神 お堂のような建物あり脇に、題目、大覚、石燈籠、地、石燈籠。
題目「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩」「弘化二巳(1845)二月吉日」、
大覚「南無大覚大僧正」、石燈籠、地水神、石燈籠。
  34.674692 , 133.900836 →緯度・経度 34.677936, 133.898181 にあり。
2022/05/05撮影:
 谷万成祖師堂:堂前に手水石がある。     祖師堂題目石群1     祖師堂題目石群2
 日蓮大菩薩題目石1     日蓮大菩薩題目石2     南無大覚大僧正石
 谷万成地水石     石灯篭2基


備前万成坂題目碑:現・万成東町
万成一里塚跡にあるので、「万成一里塚跡題目碑」と称しても可であろう。
○「京山物語」平成15年(2003)<「京山公民館」より当該箇所の複写資料の提供を受ける> より:
万成坂(※旧山陽道沿いにある。現・万成町内会倉庫のある場所)には題目石などの大小13の石碑が立つ。その内の4基は刻文を判読できず。判読可能の石碑の内の7基は題目石である。
その題目石の内、大型の3基は次の年紀が刻まれる。
 正保2年(1645)、日蓮五百遠忌・安永9年(1780)、文政8年(1825)
 正保2年の年紀は当地区の金石文としては古いものに属する。
2019/05/11追加:
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
本サイトでは次のように述べ、写真(3枚)の掲載がある。
「C14EWO 地水神 石の万成公会堂 題目が5つあるがこれはもう省略。右から、三十番神、地水神、地神塔がならんでいる。「南無妙法蓮華経三十番神」。地水神は「南無地水神」と刻む。地神塔は6角、純粋に法華風、左後「安政二年乙卯(1855但し卯は判別怪しい)九月建之」、左「五穀成就 萬民快楽」、正「南無妙法蓮華経 妙正大明神」、右「天下泰平国土安隠」、右後「縁日 毎月六日」、後ろは空白。こんなストレートな塔って有り?」
 旧状万成坂石塔類1     旧状万成坂石塔類2     旧状万成坂石塔類3
○2019/03/02撮影:
万成坂・西側大型題目石3基
 大型題目石3基1     大型題目石3基2     大型題目石3基3:何れも背後は移設された万成町内会倉庫
 大型題目石3基・北題目碑:文政8年(1825)年紀
 大型題目石3基・中題目碑1     大型題目石3基・中題目碑2:正保2年(1645)の碑と思われるも、年紀は判読できず。
 石碑の下部の左右及び背後に多くの文字が刻まれるも、殆ど判読できない。
 大型題目石3基・南題目碑1     大型題目石3基・南題目碑2:日蓮五百遠忌・安永9年(1780)の年紀
万成坂・東側残余の題目碑類
残余の題目石類の中には4基の題目石が認められる、従って「京山物語」でいう7基の題目石があるということと合致する。
 残余の題目碑類1     残余の題目碑類2     残余の題目碑類・南題目石:年紀は不詳
 残余の題目碑類・中央題目石1     残余の題目碑類・中央題目石2:年紀は不詳
 残余の題目碑類・北題目石1       残余の題目碑類・北題目石2:題目以外は判読できず、年紀は不詳
 残余の題目碑類・六角題目碑1
 残余の題目碑類・六角題目碑2:題目は判読可能ででるが、他の面の文字は殆ど判読できない。
 南無地水神:年紀は不詳     石 灯 篭:年紀は未確認
 刳開萬成坂記1     刳開萬成坂記2:明治9年、県令「高崎五六」が車馬の往来の便宜を図るため、2000人程動員して、万成坂を刳開したというのが大意である。
 石製手水盥
 移設前題目石類の所在場所:写真向かって右の附近に移設前題目石類があった。整地され痕跡は残らない。
  2019/09/12:これは明らかに誤謬である。移設前題目石類は現在の「万成町内会倉庫」の前にあった。
 万成坂題目碑への石階:明治開削の山陽道から旧山陽道(万成坂題目碑)へ上がる石階である。
 上部に「残余の題目碑類」の一部が写る。
◎万成坂題目碑類の旧状:2019/09/12修正:
題目碑類は万成一里塚(上掲の「備前萬成村>万成村一里塚」の項を参照)の跡地に設置されているようである。
近年、この地の造成が成され、題目碑類石が若干移設されたようである。
それはどのように移設されたのか、それを検証しよう。
 2019/09/12追加:
 この題目碑の移設前と移設後の写真が、サイト:旧西国街道をゆく>岡山市西部 に掲載されている。
  万成坂題目石新旧写真
 2003/02/09の写真は移設前の状態で、2006/02/11の写真は工事中の写真である。
 故に、2006年に万成坂題目石は移設・配置換えがなされたと判明する。
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その他、新旧の写真は次のページにもあるので転載する。
旧写真
 平成14年(2002)万成坂題目碑:ページ「旧山陽道その3 高島〜備前一宮 2002・5・17歩く」 より
  背後の建物が「万成町内会倉庫」である。
 平成15年(2003)万成坂題目碑:「京山物語」より転載
現状と同じ写真
 平成18年(2006)万成一里塚跡:ページ「西国街道を歩く(備前一宮〜岡山城下町) 2006/1/15(日)」 より
 平成18年(2006)万成一里塚跡2:ページ「吉備路を歩く 吉備津〜岡山駅 2006/2/10」 より
◎題目石移設
以上、本項の資料で、移設前の題目石類は
上掲の万成坂題目石新旧写真の2003/02/09撮影写真や旧写真の2点で分かるように、
「万成町内会倉庫」の前に向かって右から、これも上掲の大型題目石3基1を右端にして、左側に各種の石塔類が一列に並んで建っていたと思われる。
ところが、2006年に大型題目石3基1の3基は現状のまま残し、左側にあった各種の石塔類が撤去され、大型題目石3基の対面(東)に移設する工事が行われたようである。
 その工事中の写真が上掲の万成坂題目石新旧写真の2006/02/11撮影写真の中段のものである。
移設された写真は現在残余の題目碑類2のようになっている。
 題目石移設は以上のようなものと推定する。
◎題目石移設の旧見解----誤謬であった。
これは、題目石類の移設に関するs_minagaの旧見解で、上記の「◎題目石移設」で示した見解が正しく、以下の旧見解は誤謬であり、撤回する。(2019/09/12)
---旧見解---
 題目碑類の移設:まず、グリーンで色付けした附近に元の題目石類があった。(平成14年(2002)万成坂題目碑を参照)
どういう理由かは不明であるが、2002年〜2006年の間に北側の一段下の檀に移設が行われる。
大型題目石3基は北側下段の西側に、残余の題目石類は同じ檀の東側に移設される。
同時に、題目石類元位置の背後にあった万成町内会倉庫も北側下段の西端に移建される。
以上で、現在の題目石類の配置となったものと思われる。
---旧見解--- 
◎現在の万成坂題目石の由来
 では、なぜ、万成坂(万成一里塚跡)に多くの題目石類が集まっているのであろうか。
ページ「山陽道を歩く 2008年10月19日(日) 岡山〜板倉〜JR清音」に次の記載がある。蓋しそういうものであろうと思う。
 「町内の方がおられ、今日はこの場所の掃除の日ということで掃除をされていた。
 旧道題目石ここには以前万成公民館が立っていたそうだが、今はなくなっている。
 ただ、大きな題目石がいくつも立っていて、その中の一つが備前藩主の池田侯が立てられたということだ。
 これらは皆このあたりにあったものだが、車道を造る時に、下から上へ上げてここに集めたということを教えていただいた。」
  ※おそらくは万成のこの付近に少なくとも2個所以上の祖師堂(法界様)があったものと思われる。
  しかし、明治9年の山陽道万成坂を刳開(上に掲載)するにあたり、これらの祖師堂は刳開される場所と重なり、
  取り壊され、石塔類は上述のように万成村一里塚跡に集められたものと思われる。

備前万成坂西題目碑:現・万成東町、万成東町公園
 上記万成坂題目碑から明治9年以前の旧山陽道を西に凡そ2町程の所にある。題目碑所在地は現在、万成東町公園になる。
聞取りによれば、
万成東町公園は以前は池であり、それが何時しか畑となる。次第に附近が住宅化し、平成元年の頃に公園化されるということのようである。
明治9年に県令高崎五六によって万成坂が開削され新山陽道が開通するが、旧山陽道はそれまで、万成一里塚からこの池の堤を通っていたという。題目碑はこの旧山陽道の堤上に、石仏(地蔵菩薩か)と並んで建つ。
 上述の万成村>◇山陽道の変遷 の項で述べたように
 万成坂附近の山陽道:GoogleMapから転載、文字入れ
現在、上の地図に示されるように、山陽道は黒字で「山陽道」と示された部分と理解されている。
しかし、この黒字で示された「山陽道」は江戸期の位置ではなく、実は明治9年県令高橋五六が車馬の往来の便を図るため、2000人ほどを募集して整備したものという。
江戸期の山陽道は道幅はもっと狭く、山中では屈折したいたようである。
地元民の聞取りでは、江戸期の山陽道はおよそ赤字ので示すような経路であったといわれているとのことであった。
 (但し、経路の一部はs_minagaの推測もある。)
 ※本図の中央が万成東町公園である。
○2019/03/02撮影:
 万成坂西山陽道と題目碑:中央が「池」の堤であり、旧山陽道である。向かって左は「池跡」(現・公園)であり、堤上(旧山陽道沿い)に題目碑及び石仏が置かれる。
 万成坂西石仏・題目碑     万成坂西題目碑:年紀等は不詳。
 万成東町公園:向かって左が旧山陽道、写真の左端中央に石仏・題目碑の一部が写る。右は「池跡」(現・公園)である。

御野郡上出石村・下出石村・嶋田村
上出石村:東は城下、西は下伊福村・島田村、南は下出石村。(現在は岡山駅駅東側の商業地一帯である。)
下出石村:上出石村の南、東は西川を限り、西は島田村、南は大供村。
島田村:下出石村の西にあり、西は高柳村、南は大供村。
 三門石井寺末佳林坊があったが、寛文6年廃寺となる。住持還俗(撮要録)。
 島田村は本村・新島・二軒屋の集落がある。

備前下出石祖師堂跡(推定)
所在:岡山市北区下石井2丁目8、経度・緯度は34.65928,133.917023
井戸側稲荷大明神の奥に祖師堂と石塔などがある。
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
ヨーカドー(※現在は廃店)の近くの稲荷の奥にあった。石垣の上に石がならぶ。
右端にスタンダード地神塔。どっちが正面だか分からない。左後「天照太神」左「倉稲魂命」中「埴安媛命」右「少彦名命」右後「大己貴命」。
題目の石、正「南無妙法蓮花経 日蓮大菩薩」右「五百遠忌御報恩」左「天明三癸卯(1873)八月講中」。
大覚の石、「大覚大僧正」。
変な塔、崩れた石燈籠かも、正「大願成就未歳女子」右「常夜燈」後「慶応元乙丑年(1865)六月吉日」。
○現況
立派な石積基壇を備え、常夜燈・題目碑(日蓮)・大覺大僧正・地神の石塔があり、その前に堂宇の名残りがあり、下出石村祖師堂跡と思われる。その形式は堂の背後に石塔を祀る形式である。
2019/05/25撮影:
 井戸側稲荷大明神:この背後が祖師堂・石塔など
 井戸側稲荷大明神2:構造は不明であるが、この稲荷堂の背後に祖師堂もしくは題目石拝所が設けられる。
 祖師堂(題目石拝所)
 下出石村祖師堂題目石1    下出石村祖師堂題目石2    下出石村祖師堂題目石3:左端は題目石拝所、石積基壇
 下出石村祖師堂常夜燈1:左端は常夜燈の火袋と棹台石であろう。
 下出石村祖師堂常夜燈2:慶応元乙丑年(1865)六月吉日の年紀
 大覚大僧正1     大覚大僧正2:背面に銘があるが、判読できない、年紀など不明。
 題目石(日蓮大菩薩)1:損傷しているのは、確証はないが、今次大戦の空襲によるものかも知れない。
 題目石(日蓮大菩薩)2:天明三癸卯(1873)八月の年紀、日蓮500遠忌。
 地神(社日塔)
2019/07/03追加:
○「岡山の地神様」正富博行、吉備人出版、2001 より
近くのお年寄りにたずねてみると、井戸側稲荷は以前柳町にあったものを現在の稲荷の近くに移し、更に現在の地に移したとのことです。いくつかある石碑も同じように移動したかどうかは定かではない。
 ※おそらくここに祖師堂があり、戦災や都市開発などで、祖師堂が廃され、祖師堂の位置に稲荷が移されてきたということであろう。あるいは祖師堂と稲荷が合体したような祖師堂が建立されたのかもしれない。
地神は五角柱地神碑で型どおり文字を各面に刻む。

島田本村祖師堂跡(推定)
北区島田本町、経度・緯度:34.662108, 133.906968 に所在
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 では
012EO 地神塔 岡山市島田本町 島田コミュニティーハウスの溶けた地神塔。青黒いほか、特徴も何も判らない。他にもいくつか石があるが、その中に、歯の神?
○現況
2019/08/31撮影:
島田コミュニティハウスがあり、その奥に題目石・石塔類がある。
おそらく、ここに島田本村祖師堂があり、その背後に題目石・石塔類が祀られていたと思われる。
島田コミュニティハウスはおそらく島田本村祖師堂の後身であろう。
石塔類は向かって左から、題目石(日蓮・日朗・日像・大覺)、不明石塔、三十番神、題目石(妙見大士)、地神塔、歯神大明神が並ぶ。
 島田本村祖師堂跡:島田コミュニティハウスと石塔類     島田本村祖師堂跡常夜燈
 島田本村祖師堂跡石塔類
 題目石(日蓮・日朗・日像・大覺):日蓮・花押/日朗菩薩/日像菩薩/大覺大僧正、年紀は文久元酉(1861)四月吉日と刻む。
 不明石塔1     不明石塔2:刻銘が全く判読できない。
 三十番神:年紀は昭和30年、戦後の新しいものである。
 題目石(妙見大士)1     題目石(妙見大士)2:天保五甲午年(1864)と刻む、反対側面は村中安全と刻む。
 社日塔と歯神     社 日 塔:正面天照・・、側面埴安・・     歯神大明神
なお、祖師堂跡の少し南方に坪田譲治生家跡がある。おそらく島田村の村役人あるいは豪農の分家であったようであるが、広大な屋敷を構えていたようである。
参考:
「坪田譲治 作品の舞台--譲治生家」山根 知子(「清心語文 12号」2010-09 URL http://id.nii.ac.jp/1560/00000295/ 所収)

備前島田村新島祖師堂跡(推定)
所在:北区中島田町1丁目8、経度・緯度は34.65965,133.910517
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 では
「ブロック塀と鉄柵の中。」とあるので、1999年から2005年8月までは塀と鉄柵があったと思われる。
 ※現在は、ブロック塀も鉄柵もなく、まったくの更地に杭が打たれとロープが張られている。
 おそらく、塀と鉄柵の中に祖師堂が構えられていたものと思われる。
○「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」
枝村の新島は享保13年(1728)の成立という。(「備陽記」)
 ※枝村に新島があり、それは享保13年に成立し、おそら「新島」とは「新島田」の意であろうと思われる。
○現況
更地に、向かって左から、(推定)島田新島由来碑、大覺大僧正、題目石(日蓮大菩薩)、地水両神、江戸期の墓碑、手前に新島開地250年記念碑が並ぶ。
 (推定)島田新島由来碑には「妙法為 島田新島古来/総家●●●塔(?)」と刻む。
しかし、後半部分が解読できず、意味が不明であるが、おそらく島田の枝村新島の由来を述べたものと推定される。
 (妙法の「法」はサンズイに大、大の下にムを書く「法の別体」で刻される。」)
  →下掲載:2019/08/31撮影の項を参照。
  「(推定)島田新島由来碑」は「島田新島田絶家精霊供養塔」と名称を変更、総家は絶家の誤読であった。
  また「総家●●●塔」は「絶家精霊𦬠塔」」と判明する。
新島開地250年記念碑は「奉燈 當新島田講中祖先開地/弐百五十年記念建立/昭和54年9月吉日 新島田講中」と刻み、側面には講中十二氏の氏名を刻す。
 昭和58年から起算して250年前は1729年<享保14年>であり、この頃、新島田講中の祖先がこの新島田(枝村の新島であろう)を開地したことがわかる。上記の「岡山県の地名」の記事とほぼ符合する。
そして、この新開地は新島田(新島)であり、まさにこの碑が建てられているところが新島田(現在の中島田町)であろう。
本村はこの地(現在の中島田町)の北側現在の島田本町であったと推定される。
なお、坪田譲治は明治23年現在の島田本町に生まれる。生家跡が残るという。
2019/05/25撮影:
 島田新島祖師堂跡1     島田新島祖師堂跡2     新島祖師堂跡石塔など     新島祖師堂跡石塔
 (推定)島田新島由来碑     大覚大僧正:天保5年(1834)年紀
 題目石(日蓮大菩薩)1     題目石(日蓮大菩薩)2:年紀確認失念     新島祖師堂跡地水両神
 新島祖師堂跡墓碑:夫婦であろう、天保14年(1843)及び文政2年(1819)の逝去、経歴は不明
 新島開地250年記念碑1     新島開地250年記念碑2
2019/08/31撮影:
当日、近隣住民から聞取りができる。次のようであった。
 今から20年ほど前(平成10年/2000年前後)堂宇を取壊す。
 理由は老朽化し、傾き、屋根瓦が落下する懼れがありからである。
 それに、堂は殆ど利用されていなかったということもある。
  ※つまり、祖師堂に講中が集まり看経するなどの行事は既に絶えていたということのようである。
 取壊しの費用は講中で出し合い捻出する。現在、跡地は更地ままで、駐車場などに利用はしていない。
  ※つまり、跡地は第三者に売却などはしていなく、講中が所有しているということであろうか。
 なお、祖師堂跡のある附近は中島田という。(中島田に住所表示がなる前、新島田と云ったかどうかは知らないという。)
 島田新島田絶家精霊供養塔:銘は「妙法為 島田新島古来/絶家精霊𦬠塔」と刻する。
意味するところは「南無妙法蓮華経 島田・新島田の古来(昔から今まで)の絶家の精霊𦬠塔(精霊供養塔)」であろう。
島田あるいは新島田の昔から今までの絶家の精霊を供養する塔とちう意味であろう。
 新島祖師堂跡墓碑2:法光院圓底日明信士/法性院妙底日歓信女と刻む。
 新島祖師堂跡墓碑3:難波治右衛門夫婦墓と刻む。
 ※難波治右衛門とはWeb上に情報なし。


岡山市日蓮宗報恩結社
所在:岡山市北区桑田町5−2
○日蓮宗 報恩結社のサイトより
平成12年開創、開山は蓮中院日意。祖師像、鬼子母神、七面大明神を祀る。
2019/05/25撮影:
 岡山報恩結社扁額:日蓮宗龍王山祖師堂の扁額を掲げる。     岡山報恩結社1     岡山報恩結社2

岡山県大野村・・・・近代に成立
概要:
明治8年、御野郡辻村が御野郡北長瀬村に合併し、辻村は消滅する。
明治22年、御野郡高柳村・同大安寺村・同北長瀬村・同野田村・近世津高郡野殿村が合併し、御野郡大野村となる。
 ※野殿村は明治9年津高郡から御野郡に移管される。
明治33年、御野郡・津高郡の区域をもって御津郡が発足。御野郡・津高郡は廃止される。
昭和27年、御津郡大野村、岡山市に編入合併し、大野村は消滅する。
御津郡大野村行政区域:
 御津郡大野村行政区域: 「歴史的行政区域データセットβ版」より転載

「大野村誌」にみる祖師堂一覧

「大野村誌」には村内に存在する16ヶ所の祖師堂の一覧表がある。
その16ヶ所の位置のついては
 大野村祖師堂位置図1大野村祖師堂位置図2大野村祖師堂位置図3大野村祖師堂位置図4
にて表示する。全て現地にて確認済。

◇大野村祖師堂一覧の概要は次の通りである。
 参考文献:
  「大野村誌」昭和31年
  「大野学区六十年のあゆみ」平成25年(2013)・・・「岡山県立図書館」からの提供資料を転載
  祖師堂の所在場所については、「岡山県立図書館」より教示を頂く。

2019/07/15追加:
〇「大野学区六十年のあゆみ」平成25年(2013) より
 大覺大僧正は、祖師堂を部落の住民の信仰の道場とし、且つ隣保融和互助の協議の場としたのである。正慶年中(1332-34)から今日に至る数百年間、各部落毎に日参の小幟または木札を家並に回送して一日も休むことなく、祖師堂の清掃と香華の手向が続けられた。
 ※備前における祖師堂の起源については、今後の研究が待たれるところである。
---追加終---
(1)祖師堂(東正野田)
 ○「大野村誌」
  所在:東正野田、堂宇:2間3間瓦葺、祭祀:日蓮大士・大覚大僧正・地神、備考:附近に井戸あり。
 ○現 況
  北区大安寺東町26付近に現存する。但し、GoogleMapなどでは「卍妙林寺」と表示されるが、御認識である。
  位置図:大野村祖師堂位置図1、現況:備前御野郡大安寺村

(2)講門派祖師堂
 ○「大野村誌」
  所在:下正野田、堂宇:3間2間半瓦葺、祭祀:日蓮大士・日心上人
 ○「大野学区六十年のあゆみ」
  3間に2間半の瓦葺きの堂であったが、昭和41(1966)年1月、祖師堂公会堂として建て直す。
 ○「ゼンリンの住宅地図 岡山編」善隣,1971 (p.78)
  南町1丁目地区に「公会堂」と記された建物がある。(「岡山県立図書館」)
 ○現 況
  大安寺南町1丁目(下正野田)、「はるやま」(紳士服)の西側に昭和41年造替されたと思われる堂が現存する。
  位置図:同 上、現況:同 上

(3)大安寺祖師堂(狐崎)
 ○「大野村誌」
  所在:大安寺狐崎山麓、堂宇:1間半3間瓦葺、祭祀:日蓮大士・大覚大僧正・薬王大菩薩・地神・三十番神
 ○「大野学区六十年のあゆみ」
  所在地:大安寺中町(上正野田)狐崎山麓、1間半に2間の瓦葺きの堂を平成5年に撤去、付近に日蓮宗久道稲荷あり。
 ○現 況
  北区大安寺中町13付近にあり。(久道稲荷の西)にあり、堂は退転し、石塔類のみが残る。背後の丘が狐崎であろう。
  位置図:同 上、現況:同 上

(4)大安寺祖師堂(講門派大安寺西)
 ○「大野村誌」
  所在:大安寺教会の西北、堂宇:2間3間瓦葺、祭祀:大覚大僧正・地水2神、備考:常夜燈一基
 ○現 況
  日蓮講門宗大安寺(昭和31年当時は講門派大安寺教会)の西にあるが、堂宇は既に退転し、石塔類のみが祀られる。
  位置図:同 上、現況:同 上

(5)大安寺祖師堂(太然寺裏)
 ○「大野村誌」
  所在:太然寺の裏側、堂宇:2間3間瓦葺、祭祀:題目石・地水2神、備考:常夜燈一基
 ○現 況
  太然寺の裏側にあるが、堂宇は既に退転し、石塔類のみが残る。
  位置図:同 上、現況:同 上

(6)三本杉祖師堂
 ○「大野村誌」
  所在:矢坂三本杉、堂宇:3間半2間、祭祀:日像上人・日蓮大士・日親上人、
  備考:宝塔、法界、石灯篭、常夜燈、富山大掾の碑
 ○現 況
  北区矢坂本町13附近に現存する。GoogleMapでは北向八幡宮末社と表示されるが、誤認識である。
  位置図:大野村祖師堂位置図2、現況:同 上

(7)矢坂茶屋祖師堂
 ○「大野村誌」
  所在:矢坂龍王川と旧国道の交差点の北、堂宇:4間2間半瓦葺、
  祭祀:三十番神・地水・大覺大僧正・日蓮大士・日像日朗菩薩、備考:宝塔、石灯篭、笑塚
 ○現 況
  北区矢坂東町9附近に現存するも、祖師堂は矢坂東町集会所茶屋という集会所に造替されているようである。
  位置図:同 上、現況:同 上

(8)野殿祖師堂
 ○「大野村誌」
  所在:野殿、堂宇:3間2間瓦葺、祭祀:題目石三基・地水神・帝釈天王、備考:常夜燈
 ○現 況
  祖師堂は「子供会館」に改組し、北区野殿東町11付近に現存する。
  位置図:大野村祖師堂位置図1、現況:備前津高郡野殿・尾上・花尻村

(9)北長瀬祖師堂(北長瀬新屋敷)
 ○「大野村誌」
  所在:新屋敷、堂宇:1間半1間半瓦葺、題目石・大覺大僧正・三十番神、備考:石灯篭
   ※下の資料のように、新屋敷とは現在の日吉町をいうようである。
   北長瀬本村から新しく西方にできた集落をいうようである。
   ※現地での聞取りでは、新屋敷の祖師堂は「戦争により岡山操作場が拡張され、線路敷となる」ため、
   今線路の走っている場所から現在地移転されるという。
   但し、「戦争に・・・となる」の個所は、曖昧であり、時期も含め、正確ではないかもしれない。
   ただ、現在地の南から移転してきたのは確かと思われる。
 ○「大野学区六十年のあゆみ」
  所在地:日吉町(新屋敷)、堂宇:三間に一間半の瓦葺きの堂
 ○現 況
  北区日吉町6の東端 に所在、
  北長瀬駅北口から山陽線沿いに西進し、最初の跨線橋下をすぎ、直ぐにY字形に道路が分かれる。
  この分岐の所に祖師堂はある。
  位置図:大野村祖師堂位置図3、現況:備前御野郡高柳・野田・北長瀬村・辻村

(10)北長瀬祖師堂(北長瀬東)
 ○「大野村誌」
  所在:北長瀬東、堂宇:2間1間半、法塔・地水二神等、備考:常夜燈
 ○「大野学区六十年のあゆみ」
  所在地:北長瀬本町(北長瀬本村東)、堂宇:なし、
  祭祀:題目日蓮花押日像日朗大覚大僧正地水二神
  その他:堂は昭和に撤去、現在は道の脇に設置、弘化三年(1846)の常夜灯一基
 ○現 況
  北区北長瀬本町8附近にあり。
  少なくとも、大野村誌が編集された頃はあった祖師堂は現在では退転し、石塔類のみ残る。
  位置図:同 上、現況:同 上

(11)北長瀬祖師堂(不受不施派)
 ○「大野村誌」
  所在:北長瀬本村、堂宇:2間2間瓦葺、祭祀:宝塔・日典・日興・日船・日正・日徳・通性院日念・日是、備考:不受不施
 ○現 況
  北区北長瀬本町21−14、日吉権現北側の公園北の東西道の西にある。「北長瀬御先師」の表札が掲げられる。
  位置図:同 上、現況:同 上

(12)辻番神堂
 ○「大野村誌」
  所在:本村の中央にあり、堂宇:方5尺の瓦葺厨子・2間2間瓦葺前堂、
  祭祀:三十番神・大覚大僧正・地水両神等、備考:アマテラス・八幡大菩薩・春日明神・菅原天神の4体現存する。
   ※所在で云う「本村」とは大野村と解釈できる。
   ※辻村は明治8年北長瀬村に合併、その北長瀬村は明治22年近隣の村と合併し大野村となる。
   辻村は北長瀬村の東、野田村の西に位置し、北も北長瀬村に接し、南は中仙道村に接する。
   大野村の時代及び岡山市の住所表示の変更までは、辻村の名称は「大野辻」(大野村の辻)という大字として
   残っていたが、昭和57年町名整理・変更が実施 され、大野辻の表示は消滅する。
   現在、辻村を偲ばせる表示は、かつての辻村の中心であった鴨方往来と今村に至る道の分岐(辻)であった「大野辻」
   (旧国道2号線の交差点)という交差点の表示と辻村の番神堂という意味で残る「辻番神堂」という名称だけであろうか。
     位置図:大野村祖師堂位置図3・・・・大野辻の交差点表示が今に残る。
 ○「大野学区六十年のあゆみ」
  掲載なし。
 ○現 況
  北区北長瀬表町2-7の北西端に所在する。一間社流造の社と石塔類が現存する。
  位置図:同 上、現況:同 上

(13)北長瀬祖師堂(本村)
 ○「大野村誌」
  所在:本村の中央にあり、堂宇:2間半3間瓦葺、帝釈天王・大覚大僧正・宝塔等、備考:石灯篭
 ○「大野学区六十年のあゆみ」
  堂宇:二間半に三間の瓦葺きの堂、その他:常夜灯一基(天保六未年)、輪塔三基・小米石三基、木彫りの子を抱く猿の像
 ○現 況
  北区北長瀬本町26の墓地の傍にある。帝釈天を祀る堂内に石塔などを祀る。
  位置図:同 上、現況:同 上

(14)野田寺屋敷祖師堂
 ○「大野村誌」
  野田字寺屋敷、3間四方草葺の四ツ堂、題目石・宝塔(日蓮・日像・日朗)・大覚大僧正、備考:常夜燈・五輪塔
  ※祖師堂とは直接の関係はないが、次の記載がある。
   寛文の廃寺>鷲榮山妙傳寺:津島妙善寺末、比較的規模大であった。住持は寺を退去、その跡を墓地とする。
   地下道の西の御堂と称したところが寺跡と云われている。
    ※字寺屋敷と符合すると思われる。
 ○「大野学区六十年のあゆみ」
  掲載なし。
 ○現 況
  北区野田4丁目-1(大部は広大な岡山操車場であるが)の南東隅に所在する。
  つまり、南の野田西交差点から北の高柳東交差点に抜ける山陽線の下を潜る「野田地下道」の南側の西にある。
  ここは墓地であり、その隅に祖師堂の流れを汲むと思われる「野田共同墓地 休憩所」がある。この「休息所」は
  大野村誌で云う、3間四方草葺の四ツ堂そのものではないが、同規模の宝形造で屋根に三輪の相輪を載せた
  建物がある。野田祖師堂の後継とすべきであろう。石塔などは現存する。
  厳密に検証した訳ではないが、地下道の西の御堂と称したところが寺跡と云われているという
  及びこと妙傳寺の跡は墓地とするということから、ここは字寺屋敷で、妙傳寺跡と推測される。
  位置図:大野村祖師堂位置図4、現況:同 上

(15)高柳祖師堂
 ○「大野村誌」
  所在:北の丸、堂宇:2間1間、祭祀:宝塔・題目石(大覚・日朗・日像・日親)、備考:常夜燈
 ○現 況
  北区高柳東町4の南辺に所在する。堂宇は存在するも、大野村誌時代の堂宇かどうかは不明。
    備前天保國繪圖(部分図)の高柳村の東に高柳村ノ内・市場、さらに東に高柳村ノ内・北ノ丸が確認できる。
  以上により、少なくとも、現在の高柳東町は高柳村北ノ丸に相当していたものと推測される。
  位置図:同 上、現況:同 上

(16)高柳祖師堂
 ○「大野村誌」
  所在:高柳部落、堂宇:2間四方の堂、祭祀:題目石・最上位経王大菩薩・最上位荒滝天王・地水両神、備考:常夜燈
 ○現 況
  北区高柳西町14の中央付近に位置する。(この付近が高柳部落<本村>であるのであろう)
  現在、祖師堂は退転し、塀の中に石塔などが祀られる。
  位置図:同 上、現況:同 上

◎備前南部・備中南部の題目石の所在情報については次の資料を参照する。
サイト:「岡山の街道・鴨方往来

備前御野郡大安寺村
東は高柳村・下伊福村、西は笹が瀬川を限り、対岸は尾上村など、南は野殿村。枝村に正野田、矢板がある。
御野郡 (大安寺村)矢坂には金川妙國寺末龍光山慈雲寺があり、当時の「慈雲寺の花押并衆徒連判」には衆徒として本法院、眞浄院、化明院、善正院、圓明院、常養坊の連判がある。
また、御野郡(大安寺村)正野田には日蓮宗圓明院(善傳寺)があった。
寛文6年、池田光政の不受不施弾圧により、何れも廃寺となる。
なお、大安寺村に石造地蔵菩薩立像の文化財がある。
○松山長昌寺延命地蔵尊(石仏)
高さ1丈6尺、幅1丈、厚さ1丈3尺の花崗岩自然石に、高さ8尺4寸5分の舟形を彫り窪め、身長5尺5寸の地蔵尊を陽刻する。
右に松山長昌寺応永10年(1403)4月24碑始、左に同19年(1412)夏十三幹縁長昌上人記 とある。
言い伝えでは、後方中腹の寺に地蔵尊があり、天保7年(1836)8月の大地震で現在の位置に落下、嘉永3、4年頃岡山藩から滑車を借りて引き起こし、法華開眼となる。
なお、松山長昌寺とは不詳であるという。昭和33年地蔵堂再建。
2019/03/02撮影:
 松山長昌寺地蔵尊堂宇     松山長昌寺地蔵尊

備前正野田祖師堂:北区大安寺東町26番地・・・・・・・・(1)祖師堂
○「大野村誌」昭和31年 より
祖師堂
 所在:東正野田、堂宇:2間3間瓦葺、祭祀;日蓮大士・大覚大僧正・地神、備考:附近に井戸あり
とある。
2019/07/15追加:
〇「大野学区六十年のあゆみ」平成25年(2013) より
祭祀:題目日蓮花押、題目日蓮大士、大覺大僧正、地神
題目日蓮花押を刻む碑には享保4年巳八月(1719)
堂の前に三祠、東から妙法法龍明王、妙法荒砂明王、明王顕善明王を祀る。
堂の前の石クド内に道祖神(男女の神を刻む)
自然石で組んだ常夜燈1基、瓦クド3基 ※瓦クド3基というのは良く分からない。
2019/03/02撮影:
祖師堂の形式は祖師堂背後の堂外に石塔などを安置する形式である。
この祖師堂は平素は施錠されている。町会員の持ち回りで鍵は保管されている。
祖師堂は背後の屋外に石塔などを安置する形式であるが、祖師堂奥はブロック塀で囲われ、祖師堂裏に入り込む余地はなく、題目石などを拝する場合は、町会の当番に祖師堂を開錠して貰い拝する外はない。
 正野田祖師堂1     正野田祖師堂2
 正野田祖師堂内部:内部は集会などができる空間で、何もない。背後屋外に題目碑などを祀る。
 正野田祖師堂題目碑など4基     祖師堂題目碑など左3基     祖師堂題目碑など右3基
 正野田祖師堂題目石(日蓮花押):花押は日蓮という。側面に多くの文字が刻まれるも、判読困難。
 正野田祖師堂題目石(日蓮大士)     正野田祖師堂大覚大僧正     正野田祖師堂地神
 なを、堂前には毎日当番で香華が手向けられている様子で、それは、どうやら題目石そのものではなく、祖師堂前の左右の小祠、石祠に供えられるようである。右の木造小祠の性格は不明、左の石祠には「道祖神」が祀られるという。(訪問後に判明する。)「道祖神」の左は髪の長い女性、右が冠をつけた男性の姿をしているという。
「岡山県性信仰集成」では、この道祖神は「お賽様」とか「足王様」とか呼ばれ、脚の神で脚気によく効くという。
 祖師堂前三祠     祖師堂前石クド

大安寺祖師堂(狐崎)・・・・・・・・(3)大安寺祖師堂(狐崎)
○「大野村誌」昭和31年 より
 所在:大安寺狐崎山麓、堂宇:1間半3間瓦葺、日蓮大士・大覚大僧正・薬王大菩薩・地神・三十番神
○「大野学区六十年のあゆみ」平成25年(2013) より
 所在地:大安寺中町(上正野田)狐崎山麓、堂宇:なし
 祭祀:牛頭天王、題目日蓮大士、大覺大僧正、地神、三十番神
 その他:一間半に二間の瓦葺きの堂を平成五年に撤去
  付近に日蓮宗久道稲荷 (他略)がある。※久道稲荷は北区大安寺中町13に所在
  石段東横に昭和14年の題目石 ※昭和14は誤りで、正しくは明治14年である。
  題目日蓮大士の碑に天明□十月
  自然石で組んだ常夜燈1基 ※現状常夜燈は2基ある。
2019/04/06撮影:
「大野学区六十年のあゆみ」でいうように堂宇は平成5年に撤去され、現存しない。
 写真のように、現地は道路から3段に平地を造成し各段には石垣を築く。中央には道路から少なくとも10段以上の石階を築く。
ここに一間半に三間(あるいは2間か)の堂宇がどのように建っていたのであろうか。
一間半が正面とすると、1段目から2段目に、あるいは2段目から3段目に渡って堂宇が建てられていたのであろうか。しかも、中央の石階を中央に取り込むような建物であったのあろうか。
このイメージは建築規模は違うが、但馬妙見(帝釈寺)の帝釈寺妙見社拝殿13(割拝殿)のような建築であったかもしれない。
但し、明治14年銘の日蓮600遠忌の題目碑が2段目に建つので、以上のような建築は無理であるかも知れない。
現状は3段目の平地からさらに石製基壇を造り、その基壇上に石塔などを安置する。
石塔両脇前に石灯篭があり、石塔は向かって左から、三十番神・地神・大覺大僧正・日蓮大士・牛頭天王である。
 (「大野村誌」では薬王大菩薩とするが、牛頭天王である。)
 大安寺狐崎祖師堂跡     狐崎祖師堂題目石(日蓮大菩薩):600遠忌、明治14年銘
 狐崎祖師堂石塔など1     狐崎祖師堂石塔など2     狐崎祖師堂石塔など3
 狐崎祖師堂石塔など4     狐崎祖師堂石塔など5     狐崎祖師堂石塔など6
 狐崎祖師堂三十番神      狐崎祖師堂地神     狐崎祖師堂大覺大僧正     狐崎祖師堂日蓮大士
 狐崎祖師堂牛頭天王      狐崎祖師堂右燈籠     狐崎祖師堂左燈籠


備前下正野田講門派祖師堂・・・・・・・・2)講門派祖師堂
○「大野村誌」昭和31年 より
  所在:下正野田、堂宇:3間2間半瓦葺、祭祀:日蓮大士・日心上人
2019/07/15修正:
○「大野学区六十年のあゆみ」平成25年(2013) より
  3間に2間半の瓦葺きの堂であったが、昭和41(1966)年1月、祖師堂公会堂として建て直す。
  祭祀:題目、題目石(恵蓮院日心)、題目石(日蓮大士)、三方題目石
   三方題目石には、三方に題目を刻み、
    東面に大覺和尚・日典聖人・日舩聖人・日奥聖人・日相聖人、
     ※日相聖人:
      寛文6年12月備前藩は津島妙善寺日精、城下蓮昌寺先住日相、赤坂郡矢原石井寺、福岡妙興寺ら4名が追放処分を申し渡す。
      蓮昌寺先住日相は出寺し、京都方面に潜伏する。
      のちに、日指派と津寺派が論争に及ぶと、日相は日講・日養とともに津寺派(不導師派)を支持する。
    南面に日朗菩薩・日蓮大菩薩・日像菩薩、
    西面に日賢聖人・日弘聖人・日進聖人・日頌聖人・日充聖人の名を刻む。
     ※「日頌聖人」はママ。
     ※日頌聖人は日樹聖人か(頌は呉音ではジュと発する)、だとすれば前六聖人の日領聖人が欠であるが、その理由は不明。
     あるいは、頌が領の誤植などであれば、日頌聖人は日領聖人ということになる。
  その他:題目石の配置により解読困難、年号確認できず。
   日心聖人の個所に「聖人ハ備前金川之出也不受不施講門派ニ改宗シ」と。
○「ゼンリンの住宅地図 岡山編」善隣,1971 (p.78) より
  南町1丁目地区に「公会堂」と記された建物がある。(「岡山県立図書館」)
○現 況
  大安寺南町1丁目(下正野田)、「はるやま」(紳士服)の西側に昭和41年造替されたと思われる堂が現存する。
2019/04/06撮影:
祖師堂の形式は背後屋外に石塔を配置するものである。石塔など5基が並ぶ。祖師堂は通常は施錠されている。
石塔は向かって左から、
 題目石(六親法界万霊●)・・・「大野学区六十年のあゆみ」でいう「題目」か
 題目石(日蓮・日朗・日像)、南無日蓮大士、・・・「大野学区六十年のあゆみ」でいう「三方題目碩」であろう。
 題目碑(恵蓮院日心)・・・「大野学区六十年のあゆみ」でいう「題目石(恵蓮院日心)か
 題目石(判読出来ず)
の5基が並ぶ。
何れも年紀は不詳(背面は確認が困難で未見であるが、刻銘されていないと思われる)。
 題目石(日蓮・日朗・日像):正面には日蓮日朗日像の三菩薩を刻む、左側面にも題目を刻み、その下に大覺●●とあり、さらにその下に2行に渡り、日号の上人名があると思われるも不明、右側面は未確認。・・・「大野学区六十年のあゆみ」でいう「三方題目碩」であろう。
 題目碑(恵蓮院日心):恵蓮院日心は講門派本山本覚寺36世である。
 題目石(判読出来ず):正面の題目の下に2行に渡り、銘があるが、判読できず。
側面に施主の名前がある。次の6名の名称が刻まれる。
編啓(?)院日遼(?)/本華院日慈/安心院日住/禪(?)智院日秀/施林院日仁/圓(?)明院日諦
 講門派祖師堂1     講門派祖師堂2
 講門派祖師堂石塔など1     講門派祖師堂石塔など2     講門派祖師堂石塔など3
 題目石(判読出来ず)1     題目石(判読出来ず)2
 題目碑(恵蓮院日心)1     題目碑(恵蓮院日心)2
 南無日蓮大士1     南無日蓮大士2
 題目石(日蓮・日朗・日像)1     題目石(日蓮・日朗・日像)2
 題目石(六親法界万霊●)1     題目石(六親法界万霊●)2
なお、「大野村誌」の講門派大安寺の項(下に記載)では
「下正野田祖師堂の西南半町ばかりのところに寺屋敷と称する土地がある。ここに経蔵庵があって、講門派恵蓮院日心が示寂した庵室であった。この庵室の詳細は不明であるが、元禄頃内信者の隠れ家であったとも思われるが、日心示寂後取り壊し、今の大安寺の所に移転した・・・」という。
この経蔵庵跡については未確認、確認を要する。
また石塔などについて、判読不能な箇所があり、再確認を要する。

日蓮講門宗備前大安寺

○「大野村誌」昭和31年 より
明治29年本華院日心、下正野田の小庵(経蔵庵)をここに移し、金川本覚寺の宗務支院とする。
明治36年法華正教会教会所と称する。
昭和27年日蓮宗不受不施講門派から日蓮講門宗と宗派が改称し、日蓮講門宗大安寺となる。
なお、本寺には日蓮上人真筆の曼荼羅を伝える。
下正野田祖師堂の西南半町ばかりのところに寺屋敷と称する土地がある。ここに経蔵庵があって、講門派恵蓮院日心が示寂した庵室であった。この庵室の詳細は不明であるが、元禄頃内信者の隠れ家であったとも思われるが、日心示寂後取り壊し、今の大安寺の所に移転したことは上述の通りである。
 参照 → 備前法華の系譜>【不受不施講門派の再興運動】、講門宗本山本覚寺
2019/07/15追加:
〇「大野学区六十年のあゆみ」平成25年(2013) より
 明治期の建物の老朽化が進んだため、平成4年から7年にかけて、本堂・庫裡・離れの改築がなされる。
次いで、崖の改修工事と永代供養堂を建立する。
年間行事として、宗門行事「(和泉)日相寺参り」、日向「日講様参り」などの特色のある行事がある。
 →補論として「不受不施派の成立」の論があるが、それは「備前法華の系譜」の<受不施派の出現>の項を参照。
2019/03/02撮影:
 備前大安寺全景     備前大安寺本堂1     備前大安寺本堂2     備前大安寺位牌堂     備前大安寺庫裡
 備前大安寺墓地     大安寺日蓮題目碑     日奥300遠忌報恩塔     本華院日心墓碑:本山本學寺38世


備前大安寺祖師堂(講門派大安寺西)・・・・・・・・(4)大安寺祖師堂
○「大野村誌」昭和31年 より
 所在:大安寺教会の西北、堂宇:2間3間瓦葺、祭祀:大覚大僧正・地水2神、備考:常夜燈一基
  ※現:大安寺西町、講門派大安寺西に接する、堂宇は既に退転する。上記にはないが題目石も存在する。
  ※祖師堂は2間3間というから、畳12帖敷の大きさであったと思われる。
2019/07/15追加:
○「大野学区六十年のあゆみ」平成25年(2013) より
祭祀:大覺大僧正、題目日蓮大菩薩、地水二神
その他:二間に三間の瓦葺きの堂を平成5年に撤去。
  寛政4年(1792)の常夜燈1基
  題目日蓮大菩薩の碑に天明元年(1781)辛歳十月十三日
2019/03/16撮影:
 大安寺祖師堂(講門派大安寺西)     大安寺祖師堂2     大安寺祖師堂3:写真背後は講門派大安寺である。
 大安寺祖師堂石塔類:向かって左から地水二神、題目碑(日蓮大菩薩)、大覚大僧正と並ぶ。何れも年紀は不明。
 大覚大僧正     題目石(日蓮大菩薩)     地水二神     大安寺祖師堂常夜燈:寛政4年(1793)の年紀。

備前大安寺村太然寺

○「大野村誌」昭和31年 より
岩根山と号する。創建不詳、元禅宗、永禄4年(1561)松田元勝によって日蓮宗に改宗。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年
京都妙覚寺末、奠師法縁。
天平年中の創立、開基(顕彰院)日堯。開基檀越武田信久。
2019/07/15追加:
〇「大野学区六十年のあゆみ」平成25年(2013) より
小字岩崎に所在、大安寺村付近は南都大安寺の荘園の故地と云われる。(「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」)
永禄年中(1558-70)西備前の領主松田氏によって禅宗から日蓮宗に改宗させられるという。開基は日堯、開基は尾上の則武太郎左衛門信久・輿一郎久勝父子で、江戸期には大庄屋を務めた家である。
寛文6年以降岡山藩の寺院淘汰が行われ、不受不施派への熾烈な弾圧が行われた。改宗以来、当山は不受不施派京都妙覚寺の末寺でもあったが、受不施に転じて廃寺を逃れる。
本堂は嘉永元年(1846)の再建、山門は宝暦8年(1758)の再建、帝釈堂は文化4年(1807)の再建、鐘楼は明治22年の建立、客殿は昭和5年の再建、方丈庫裡は平成7年の再建。
境内に妙法二大神の石碑があり、アマテラスと八幡大菩薩を祀る。其の他宝塔2基がある。
六角の宝塔は正面日蓮大菩薩、右日朗菩薩、左日像菩薩・大覺大僧正と刻し、延享5年(1748)の年紀である。
その隣の宝塔は日蓮大士650遠忌と刻する。
山門南側の法持大明神への石階右にある法界石塔は高さ3mで文化2年(1805)の銘があり、元は寺の正面西の路上にあったが、昭和の終わり頃、現在地に移転する。
(注記):太然寺の改宗
「岡山県御津郡誌」の事業家の項に、則武輿四郎(1635-1696)が、「大野村大然寺は禅宗庵寺なりしを法華経に改宗せしめ、地を開き堂宇を建築し、田地を寄進す。実に同寺開基の檀方なり」と記されていることを考えると、中世松田氏による改宗の説より具体的で信憑性が高い。
2019/03/02撮影:
 太然寺山門:宝暦8年(1758)再建
 太然寺六角題目碑:正面日蓮大菩薩、右側は日朗、左側は日像、次に大覺大僧正と刻む。
 太然寺日蓮題目碑:日蓮650遠忌(昭和6年)     妙法二神題目碑:天照皇太神、八幡大菩薩の二神を刻する。
 日蓮上人立像     太然寺本堂:嘉永元年(1848)再建     太然寺玄関庫裡     太然寺客殿
 太然寺鐘楼       太然寺納骨・位牌堂     太然寺帝釈堂:文化4年(1807)再建     太然寺歴代墓碑
 法持大明神       法持大明神下題目碑:文化2年(1805)の年紀

備前大安寺祖師堂(太然寺裏)・・・・・・・・(5)大安寺祖師堂
○「大野村誌」昭和31年 より
 所在:大然寺の裏側、堂宇:2間3間瓦葺、祭祀:題目石・地水2神、備考:常夜燈一基 とある。
  ※祖師堂は2間3間というから、畳12帖敷の大きさであったと思われる。
2019/07/15追加:
○「大野学区六十年のあゆみ」平成25年(2013) より
祭祀:題目(地水二神)、題目(日蓮大菩薩)、題目
その他:二間に三間の瓦葺きの堂を昭和30年以降台風によって倒壊後撤去
  平成20年2月の常夜燈2基
  題目石(日蓮大菩薩)の碑に天明元年(1781)辛丑十月十三日
2019/03/02撮影:
上記のように「大野村誌」では祖師堂の存在を伝えるも、現在は退転し、題目石のみとなる。常夜燈の古いものの痕跡はなく、新しいものと代替されていると思われる。
 大安寺祖師堂(太然寺裏)     大安寺祖師堂題目石1     大安寺祖師堂題目石2
 天保2年題目石
 祖師堂題目石(日蓮大菩薩):正面左右に文字が刻されるも、判読不能。
 題目石(地水二神)
聞取りをするも、祖師堂の退転時期は不明、部落の持ち回りで、読経・供花・献線香・清掃などを行うという。幟(のぼり)が部落内を順次回され、幟が来れば当番となる。しかし、部落内は高齢化し、何時までこのお世話ができるか不安であるとのことである。

備前矢坂三本杉祖師堂・・・・・・・・(6)三本杉祖師堂
○「大野村誌」昭和31年 より
 所在:矢坂三本杉、堂宇:3間半2間、祭祀:日像上人・日蓮大士・日親上人、
 備考:宝塔・法界・石灯篭・常夜燈・富山大掾の碑 とある。
2019/07/15追加:
○「大野学区六十年のあゆみ」平成25年(2013) より
祭祀:題目日像、題目日蓮大菩薩、題目、題目日親大(士)
その他:天明8年(1788)と大正6年の常夜燈2基
  題目日蓮大菩薩の碑に天明元
  東向きの堂の前、南側に天明7年(1787)題目元祖富山大掾を祀る碑、北側に天明4年(1784)の題目法界
2019/03/02撮影:
この祖師堂は平素は施錠されている。内部は薄暗闇であるが、賽銭入れとして格子の一か所(二格子)が開いていて、そこから辛うじて内部を拝することができる。
 三本杉祖師堂1     三本杉祖師堂2     三本杉祖師堂3
 富山大掾題目碑     法界萬霊題目碑:天明四甲辰九月吉日の年紀が読み取れる。天明4年は1784年。
 祖師堂・石灯篭・常夜燈
 三本杉祖師堂内部
 祖師堂題目碑4基:一部はっきりと読み取れないが、向かって左から日親上人、題目、日蓮大士、日像上人碑であろう。
 祖師堂題目碑右3基:日親・題目・日蓮(推定)     祖師堂題目碑左3基:題目・日蓮(推定)・日像(推定)
2019/04/06撮影:
祖師堂鍵は講中の責任者が管理しているという。それ故、講中の責任者宅を訪れるも不在であり、開錠は無理と思ったが、当日祖師堂にて寄り合いがあるということで、人々が集まってきて、堂は開錠され、堂内を拝する好運に遭遇する。
堂内には向かって左から日親上人、題目石、日蓮大菩薩、日像𦬠である。(但し、𦬠は環境依存文字)
 三本杉祖師堂4     三本杉祖師堂5     三本杉祖師堂6     三本杉祖師堂7
 三本杉祖師堂内部2     三本杉祖師堂石塔1     三本杉祖師堂石塔2
 題目石(日像𦬠):寛政3年(1791)の年紀
 祖師堂題目石:側面の銘の確認を亡失の為、年紀不明。またその由来も不明。
 題目石(日蓮大菩薩):天明元年(1781)の年紀、日蓮500遠忌報恩で建立。
 題目石(日親上人):年紀は不明、日親が祀られていることの由来は講としても知らないという。
 昭和49年三本杉・祖師堂     平成17年大修理正面     平成17年大修理側面

備前矢坂茶屋祖師堂・・・・・・・・(7)矢坂茶屋祖師堂
○「大野村誌」昭和31年 より
 所在:矢坂龍王川と旧国道の交差点の北、
 堂宇:4間2間半瓦葺、祭祀:三十番神・地水・大覺大僧正・日蓮大士・日像・日朗菩薩
 備考:宝塔・石灯篭・境外に笑塚(芭蕉の句を刻する)
とある。
2019/07/15追加:
○「大野学区六十年のあゆみ」平成25年(2013) より
堂宇:三間に五間の瓦葺き(二階建て)の集会所
祭祀:南無三十番神、題目地水尊、題目大覺大僧正、題目日像菩薩、題目日蓮大菩薩、題目日朗菩薩、題目
その他:元4間も2間半の瓦葺の堂を平成15年4月に立て替え、矢坂東町集会所茶屋と名称変更(建設実行委員長戸守誠)
  題目日蓮大菩薩の碑に五百五十と刻む(天保2年1831に相当)
  自然石で組んだ常夜燈2基
  川の東にかって一里塚の松があったという
2019/03/02撮影:
現在は祖師堂そのものは退転するも、矢坂東町集会所茶屋という名称の町会の集会所に建替されているようである。
集会所裏に題目碑7基が並び、この構図は祖師堂時代と変わらないものと思われる。
集会所横には手水・石灯篭がある。山陽道に接して「笑塚」がある。
題目碑7基は向かって左から題目碑、日朗菩薩、日蓮大菩薩、日像菩薩、大覚大僧正、地水尊、三十番神である。
 矢坂茶屋祖師堂題目碑7基     矢坂茶屋祖師堂左題目碑5基     矢坂茶屋祖師堂題目碑7基2
 矢坂茶屋祖師堂題目碑:年紀不明
 矢坂茶屋祖師堂日朗菩薩1     矢坂茶屋祖師堂日朗菩薩2:年紀不明
 矢坂茶屋祖師堂日蓮大菩薩1     矢坂茶屋祖師堂日蓮大菩薩2
 矢坂茶屋祖師堂日蓮大菩薩3:日蓮550遠忌、天保2年(1831)
 矢坂茶屋祖師堂日像菩薩1     矢坂茶屋祖師堂日像菩薩2:安政2年(1855)年紀
 矢坂茶屋祖師堂大覚大僧正1     矢坂茶屋祖師堂大覚大僧正2
 矢坂茶屋祖師堂大覚大僧正3:安政2年(1855)年紀
 祖師堂地水尊・三十番神     矢坂茶屋祖師堂地水尊:年紀不明
 矢坂茶屋祖師堂三十番神:日蓮650遠忌、昭和6年
 矢坂祖師堂手水     矢坂祖師堂地石灯篭
 矢坂茶屋祖師堂瓦:集会所塀の瓦、おそらく旧祖師堂の鬼瓦と思われる。
 矢坂茶屋祖師堂笑塚:草書で判読困難なので、他サイトから転載
 表面:「八九間空て雨降る柳かな はせを
       かゐわいを配合せて初時雨 十瓢庵玖宇」 という。また、「右 慶應三年丁卯三月十二日建立」 とあるという。
2019/09/12追加:
矢坂茶屋祖師堂は上掲の「大野学区六十年のあゆみ」によれば、平成15年(2003)4月に建替という。
その建替前後の祖師堂写真が、サイト:旧西国街道をゆく>岡山市西部 に掲載されている。
 矢坂茶屋祖師堂・新旧写真:2003/02/009撮影の写真が今はなき矢坂茶屋祖師堂で、2006年撮影は現在の矢坂東町集会所茶屋の写真である。
また、ページ「旧山陽道その3 高島〜備前一宮 2002・5・17歩く」 に旧矢坂茶屋祖師堂写真の掲載がある。(下に転載)
 旧矢坂茶屋祖師堂:2002年5月撮影、2003年4月に取り壊される。

備前御野郡高柳・野田・北長瀬村・辻村
高柳村の西と北は大安寺村正野田、南は野田村。
野田村は辻村と北長瀬村の東にあり、南は今村・上中野村・西古松村、東は大供村である。
北長瀬村の東は野田村、南の西長瀬村との境を鴨方往来が通る。
辻村は北長瀬村の東、鴨方往来沿の村である。村内で鴨方往来から南の今村に通じる道が分岐し、そこには竹通しの茶屋があった。 →備前天保國繪圖(部分図)
御野郡高柳村には金川妙國寺末實相院(長福寺)があった。
同じく野田村には津島妙善寺末妙傳寺及び妙傳寺の寺中と思わわれる蓮昌院・蓮昌坊・圓能坊があった。
同じく北長瀬村には中仙道村寶積寺末妙香寺があった。
同じく辻村には中仙道村寶積寺末大圓坊があった。
しかし、寛文6年池田光政の不受不施派弾圧により、住持還俗し、廃寺となる。
なお、
明治8年、御野郡辻村が御野郡北長瀬村に合併し、辻村は消滅する。
明治22年、御野郡高柳村・同大安寺村・同北長瀬村・同野田村・津高郡野殿村が合併し、御野郡大野村となる。
明治33年、御野郡・津高郡の区域をもって御津郡が発足。御野郡・津高郡は廃止される。
昭和27年、御津郡大野村、岡山市に編入合併し、大野村は消滅する。

高柳村
2019/07/15追加:
〇「京山物語」郷土史「京山物語」編集委員 高原忠敏、平成15年(2003) より
高柳城
 伊福郷の南辺に拓けた中世野田荘の一部、高柳には「北の丸」の地名が残り、高柳城(北の丸城)の跡と伝えられる。
「北の丸」の南部には「城下(やぐらじた)」「中の丸」、西隣の板屋地区内の東南には「馬場」「鉄砲田」の地名が残る。
 高柳地区略図:北の丸などの小字と城下などの地名が残る。
「備陽国誌」「吉備温故秘録」「東備郡村史」「撮要録」などに城主名と城名などがあるが割愛。
 高柳本村と北の丸に祖師堂がある。
現在の地図の下部に、上記の「高柳地区略図」を貼付したものが次の図である。
 高柳祖師堂略図
高柳は開発が進み、住宅・店舗などが密集し、区画整理もある程度され、昔と比べ変貌しているも、新旧の図を見比べると、意外に旧の骨格(道路)を残すようである。
(15)高柳北の丸祖師堂が「北の丸」にあり、(16)高柳(本村)祖師堂は「コボシ堂」(コボシとは不明)にあることが分かる。

備前高柳祖師堂・・・・・・・・(16)高柳祖師堂
○「大野村誌」昭和31年 より
 所在:高柳部落、堂宇:2間四方の堂、祭祀:題目石・最上位経王大菩薩・最上位荒滝天王・地水両神、備考:常夜燈
○現 況
 北区高柳西町14の中央付近に位置する。 ※おそらく、この付近が高柳部落<本村>であるのであろうと思われる。
 現在、祖師堂は退転し、ブロック塀の中に石塔などが祀られる。
石塔は向かって左から、地水両神、題目石(日蓮・日像・大覺大僧正)、題目石(日蓮500遠忌)、最上位経王・最王位荒滝天王が建ち、右手前に石灯篭がある。
 題目石(日蓮500遠忌)は多少判読しずらいが、サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」では、「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 天明元丑(1781)十月十三日 五百御造忌講中」と判読する。
2019/04/06撮影:
 高柳祖師堂跡1     高柳祖師堂跡2     高柳祖師堂跡3
 高柳祖師堂跡石塔など      祖師堂地水両神
 題目石(日蓮・日像・大覺大僧正)1     題目石(日蓮・日像・大覺大僧正)2      題目石(日蓮500遠忌)
 最上位経王・最王位荒滝天王
 ※備中最上稲荷山奥之院一乗寺には最上位経王菩薩と八大竜王・荒滝天王を祀るという。荒滝天王は最上位経王菩薩と同じくおそらくは備中最上稲荷山から勧請したものであろう
 祖師堂石灯篭 祖師堂石灯篭

備前高柳北の丸祖師堂・・・・・・・・(15)高柳祖師堂
○「大野村誌」昭和31年 より
  所在:北の丸、堂宇:2間1間、祭祀:宝塔・題目石(大覚・日朗・日像・日親)、備考:常夜燈
○現 況
北区高柳東町4の南辺に所在する。堂宇は存在するも、大野村誌時代の堂宇かどうかは不明。
  備前天保國繪圖(部分図)の高柳村の東に高柳村ノ内・市場、さらに東に高柳村ノ内・北ノ丸が確認できる。
 以上により、少なくとも、現在の高柳東町は高柳村北ノ丸に相当していたものと推測される。
祖師堂が現存する。その佇まいは堂宇というより、拝所といった造りで、正面の中央1間は格子戸(引き戸)で正面両脇半間は壁、両側面は全面壁、背面は全面吹き放ちである。床は無く土間である。屋根は瓦葺き。
昭和31年の2間1間の規模は踏襲されていると思われるが、建物は改修されているものと思われる。
2019/04/06撮影:
祖師堂は小規模であり、向かって左から小題目石、題目石(日蓮・日朗・日像・大覺・日親)が祀られ、石灯篭が並ぶ。
 高柳北の丸祖師堂1     高柳北の丸祖師堂2     高柳北の丸祖師堂3
 北の丸祖師堂石塔など1     北の丸祖師堂石塔など2
 題目石(日蓮・日朗・日像・大覺・日親)1
 題目石(日蓮・日朗・日像・大覺・日親)2:両脇に銘があるが、判読できない。従って、年紀など不明。
 北の丸小題目石1     北の丸小題目石2:年紀など不明
 北の丸石灯篭:天保11年(1840)の年紀

備前野田寺屋敷祖師堂・・・・・・・・(14)野田寺屋敷祖師堂
○「大野村誌」昭和31年 より
 野田字寺屋敷、3間四方草葺の四ツ堂、題目石・宝塔(日蓮・日像・日朗)・大覚大僧正、備考:常夜燈・五輪塔
  ※祖師堂とは直接の関係はないが、次の記載がある。
   寛文の廃寺>鷲榮山妙傳寺:津島妙善寺末、比較的規模大であった。住持は寺を退去、その跡を墓地とする。
   地下道の西の御堂と称したところが寺跡と云われている。
    ※字寺屋敷と符合すると思われる。
○「大野学区六十年のあゆみ」
 掲載なし。
○現 況
北区野田4丁目-1(大部は広大な岡山操車場であるが)の南東隅に所在する。
つまり、南の野田西交差点から北の高柳東交差点に抜ける山陽線の下を潜る「野田地下道」の南側の西にある。
ここは墓地であり、その隅に祖師堂の流れを汲むと思われる「野田共同墓地 休憩所」がある。この「休息所」は大野村誌で云う、3間四方草葺の四ツ堂そのものではないが、同規模の宝形造で屋根に三輪の相輪を載せた建物がある。野田祖師堂の後継とすべきであろう。石塔などは現存する。
 厳密に検証した訳ではないが、地下道の西の御堂と称したところが寺跡と云われているということまた妙傳寺の跡は墓地とするということから、ここは字寺屋敷で、妙傳寺跡と推測される。
但し、「大野村誌」が編まれた昭和31年当時、大野村誌のいう「地下道」がすでに存在していたのか、あるいはここの小字が寺屋敷なのかなどの確認が必要である。
  位置図:大野村祖師堂位置図4
2019/07/08追加:
○「撮要録巻之二十九」 より
  ○野田村
 妙傳寺 日蓮宗本寺津島村妙善寺
  住持立退 跡屋敷墓所と成 無本尊
2019/04/06撮影:
野田共同墓地休憩所:屋根には三輪の相輪を載せ、仏堂の雰囲気を残し、建物も3間四方の旧祖師堂の旧規模を踏襲しているものと思われる。以上の意味で祖師堂は退転するも、祖師堂の代替としての意図で、休憩所は設けられたものと推測する。
石塔などは、向かって左から、推定題目石、不明石塔、題目石(大覚大僧正)、題目石(日蓮・日朗・日像)、石塔/五輪塔残欠、五輪塔残欠である。
 野田寺屋敷祖師堂跡     寺屋敷祖師堂跡石塔など1     寺屋敷祖師堂跡石塔など2
 祖師堂跡推定題目石:礫岩製で判読不能、おそらく題目が刻まれていたのであろう。
 祖師堂跡不明石塔;砂岩製であろうか正面の銘は全て剥落し、石塔の性格は不明である。
 題目石(大覚大僧正):文政4年(1821)の年紀
 題目石(日蓮・日像・日朗)1
 題目石(日蓮・日像・日朗)2:砂岩製であろうか、大部が剥落する。辛うじて日蓮大菩薩・日像菩薩の銘がのこり、「大野村誌」では「宝塔(日蓮・日像・日朗)」とするので、その頃は日朗菩薩の銘は残っていたのであろう。
 石塔・五輪塔残欠など:もしこの地が野田妙傳寺跡であり、しかも旧来からこれらの石塔などが祖師堂に祀られていたとするならば、妙傳寺関係の遺物であったのかも知れない。
 五輪塔残欠:宝篋印塔型の五輪塔であるが、下から2番目の水輪を欠く。妙傳寺関係の墓石であったのかも知れない。
 祖師堂跡常夜燈     野田墓地と祖師堂跡     推定野田妙傳寺跡

備前辻番神堂・・・・・・・・(12)辻番神堂
○「大野村誌」昭和31年 より
 所在:本村の中央にあり、堂宇:方5尺の瓦葺厨子・2間2間瓦葺前堂、
 祭祀:三十番神・大覚大僧正・地水両神等、備考:アマテラス・八幡大菩薩・春日明神・菅原天神の4体現存する。
  ※所在で云う「本村」とは大野村と解釈できる。
  ※辻村は明治8年北長瀬村に合併、その北長瀬村は明治22年近隣の村と合併し大野村となる。
  辻村は北長瀬村の東、野田村の西に位置し、北も北長瀬村に接し、南は中仙道村に接する。
  大野村の時代及び岡山市の住所表示の変更までは、辻村の名称は「大野辻」(大野村の辻)という大字として
  残っていたが、昭和57年町名整理・変更が実施 され、大野辻の表示は消滅する。
  現在、辻村を偲ばせる表示は、かつての辻村の中心であった鴨方往来と今村に至る道の分岐(辻)であった「大野辻」
  (旧国道2号線の交差点)という交差点の表示と辻村の番神堂という意味で残る「辻番神堂」という名称だけであろうか。
    位置図:大野村祖師堂位置図3・・・・大野辻の交差点表示が今に残る。
○「大野学区六十年のあゆみ」
 掲載なし。
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地水両神 岡山市北長瀬 「拝地水両神」と刻む。むかしは犬が昼寝していた、番神堂。別名、大野辻集会所。2002春に周囲がごっそり整地されていた。
 ※以上から推測すると、平成14年(2002)頃には区画整理が行われたようである。
 「拝地水両神」の写真の掲載があり、その背景の塀は今のブロック塀ではなく、土壁の塀であったので、平成の始め頃は
 土壁で囲われていたと思われる。
 「大野村誌」では「堂宇:方5尺の瓦葺厨子・2間2間瓦葺前堂」とあり、本ページには「番神堂。別名、大野辻集会所。」と
 ある。 つまり、辻番神堂は方5尺(1.5m)の瓦葺厨子(社殿と思われる)と瓦葺前堂(拝殿と思われる)の2棟があり、
 「2間2間瓦葺前堂」が「大野辻集会所」として使われていたのではないかと推測する。
○現 況
北区北長瀬表町2-7の北西端に所在する。一間社流造の社と石塔類が現存する。
 上の項で述べたように、辻番神堂には「大野村誌」でいう「方5尺の瓦葺厨子と2間2間瓦葺前堂」の2棟があり、「方5尺の瓦葺厨子」とは番神堂本殿であり、「2間2間瓦葺前堂」とは番神堂拝殿であったのであろう。
そして、拝殿(2間2間瓦葺前堂)は大野辻集会所として使われていたが、現在は存在せず、おそらく区画整理の頃、取り壊されたのかも知れない。本殿(番神堂・瓦葺厨子)は一間社流造の小宇として現存しているということであろう。
 石塔などは向かって左から、不明石塔、題目碑、地水両神、題目石(日蓮大菩薩)、大覚大僧正の5基である。
年紀などは全て不明。
2019/04/06撮影:
 辻番神堂1:番神堂のみ残る。かっては番神堂(瓦葺厨子)の前か覆屋の形で2間2間瓦葺前堂(拝所)があったのであろう。
 辻番神堂2     辻番神堂3     辻番神堂扉
 辻番神堂扁額;扁額の左右に諸天善神の当番表を掲げる。この当番表には明治35年の銘がある。
 アマテラス神像1
 アマテラス神像2:「大野村誌」には「アマテラス・八幡大菩薩・春日明神・菅原天神の4体現存」とあるから、アマテラスが番神として安置されているのであろう。他の3体はおそらく堂内の祭壇の中に収納されているのであろうか。
 三十番神当番表
 辻番神堂石塔など1     辻番神堂石塔など2
 辻番神堂石塔など3:右に「土光家菩提」「土光家先祖・・・」の墓碑が写る。この墓地は土光家の土地であるのであろう。あるいは番神堂境内も土光家の所有であり、番神堂を護持しているのも土光家かも知れない。
 辻番神堂不明石塔:正面は全く剥落     辻番神堂題目碑     辻番神堂地水両神:拝地水両神
 題目石(日蓮大菩薩):側面に銘があるが判読不能
 辻番神堂大覚大僧正1     辻番神堂大覚大僧正2:奉唱首題/壱千部と刻む。

備前辻経王殿
辻番神堂の200mほど南にある。
辻村の土光一族の私的な法華道場である。
創建は昭和46年、近年は祭祀が絶えたようで、物件は不動産業者の手にあるようである。
○「私の履歴書(土光敏夫)」日本経済新聞記事、昭和57年(1982)1月 より
土光敏夫は「明治29年(1896)9月15日、岡山県御津郡大野村大字北長瀬字辻(現在は岡山市大野辻792)で生まれた。父は菊次郎、母は登美といい、中の下くらいの農家であった。」
 ※付近は区画整理され、大野辻792とは現在の地図では、辿ることができない。
「私の実家は、先述のように中の下くらいの農家だが、これは分家で、そのうえの本家、総本家は、たいへんな土地持ちで、代々庄屋をつとめたり、明治以後に村長をした者もいる。本家は、父の兄、嘉惣治が継ぎ、私の幼時でも100町歩ぐらいを所有していた。そのうえの総本家は、約300町歩、どこそこまで歩いても、まだ総本家の地所だったという話をよく聞かされた。」
中の下くらいの農家というが「父菊次郎は新八の三男。父が親から譲り受けた田畑は約1町歩だった。」という規模の農家であったようである。
 ※1町歩とは3、000坪であり、これが中の下というのかどうかは良く分からないが、本家は300、000坪、総本家は900、000坪である。代々庄屋であったとも云い、一族は村の支配者であり豪農であったということであろう。
 ※他のサイトでは、土光一族は備前法華の土壌の中で育まれたような評価があるが、備前法華の本来の姿は不受不施であったということであれば、村の支配層として土光一族がどのような立場であったのかは、慎重に見極めなければ、即断できない問題であろう。
 ともあれ、辻経王殿については、次のように語られる。
「私が東京で生活をするようになって、父母を東京に迎えた関係上、家屋は親類の管理にまかせきりであったが、父の三十三回忌に当たる昭和46年(1971年)に、600平方mほどの母屋を大改築、日蓮宗の道場とした。両親が熱心な信者だったので、この道場を『経王殿』と名付け、毎月1日に、土光一族が集まり、お経をあげている。東京からは、家内や妹たちが毎回駆けつけている。」
 経王殿内部;写真説明には「もとは生家の母屋であった。」とある。
○雑誌「正論」
両親が日蓮宗信者で、幼いころから読誦した法華経を、晩年も朝5時に起きてあげるなど、自らは修行僧のような暮らしを続けながら、世のために尽す。
土光氏の母、登美は、女子教育の必要を唱え、1942年に橘学苑(中学・高校=現在は共学、横浜市鶴見区)を創設する。土光氏はその理事長兼校長を務め、そこへ収入の大半を投入し、次代を担う若い世代の育成にも尽力する。
2019/04/06撮影:
 辻経王殿1:祭祀は絶えているものと思われ、荒廃する。
 辻経王殿・看板:不動産は第三者の手に渡っているものと思われる。
 辻経王殿題目碑     辻経王殿2
 辻経王殿題目碑背面:建立の銘がある。平成4年に建立され、土光敏夫の顕彰が目的で、ここは土光敏夫生誕の地であること、建立には大野辻講中、橘学苑が関係していることが分かる。
土光家墓地
辻番神堂の南東120mほどの所、辻経王殿の北東120mほどの所に「大野辻集会所」があり、その南に土光家などの墓所がある。この墓地の経緯については下の写真「墓地移転之碑」を参照。
なお、辻番神堂の東にも土光家の墓碑(辻番神堂石塔など3)が建ち、この付近一帯は村の支配層であった土光一族を偲ばせる。
2019/04/06撮影:
 土光家墓地:題目碑がある。
 墓地移転之碑:昭和44年に移転、記されている番地は旧地番である。何れにしろ、旧地は現在の岡山貨物ターミナル駅に変貌している。

備前北長瀬東祖師堂(祖師堂跡)・・・・・・・・(10)北長瀬祖師堂(北長瀬東)
○「大野村誌」昭和31年 より
 所在:北長瀬東、堂宇:2間1間半、法塔・地水二神等、備考:常夜燈
○「大野学区六十年のあゆみ」
 所在地:北長瀬本町(北長瀬本村東)、堂宇:なし、
 祭祀:題目日蓮花押日像日朗大覚大僧正地水二神
 その他:堂は昭和に撤去、現在は道の脇に設置、弘化三年(1846)の常夜灯一基
○現 況
北区北長瀬本町8附近にあり。
少なくとも、大野村誌が編集された頃はあった祖師堂は現在では退転し、石塔類のみ道路脇に残る。
その状態はかって、祖師堂があったという構えの痕跡はなく、路端の石塔としか見えない。
向かって左から地水二神、題目石(日蓮・日朗・日像・大覚)・常夜燈が配される。
題目石の両側面に銘があるが、殆ど判読できない、享保とも読める年紀があるが、不確かである。
2019/04/06撮影:
 北長瀬東祖師堂跡1     北長瀬東祖師堂跡2     北長瀬東祖師堂石塔など
 題目石(日蓮・日朗・日像・大覚)1     題目石(日蓮・日朗・日像・大覚)2     祖師堂跡地水二神
 祖師堂跡常夜燈

備前北長瀬牛頭天王・地水両神
下に掲載の不受不施派祖師堂の北にある。不受不施派祖師堂のある東西通りの一つ北側の東西通りにある。
牛頭天王、地水両神、球形石があるが、球形石は不明。
なお、サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」の掲載写真(地水両神・牛頭天王)では、地水両神と牛頭天王との間やや前に自然石と思われる石碑が写るが、この石碑は現在は無く、それが何であったのかは不明である。
2019/04/06撮影:
 牛頭天王・地水両神1     牛頭天王・地水両神2     牛頭天王・地水両神3

備前北長瀬不受不施派祖師堂(北長瀬御先師堂)・・・・・・・・(11)北長瀬祖師堂(不受不施派)
○「大野村誌」昭和31年 より
 所在:北長瀬本村、堂宇:2間2間瓦葺、祭祀:宝塔・日典・日興・日船・日正・日徳・通性院日念・日是、備考:不受不施
  ※現:北長瀬本町、日吉神社北側の公園北の東西道の西にある。「北長瀬御先師」の表札が掲げられる。
    岡山市北区北長瀬本町21−14に所在
2019/07/15追加:
○「大野学区六十年のあゆみ」平成25年(2013) より
祭祀:題目通性院日念、題目日典日興日船聖人、題目日朗日蓮大菩薩日像、題目日正日徳両聖人、妙法相如院日是
     ※日典日興日船の日興は日奥が正しい
その他:日是の碑に安永五丙申(1776)不受不施派
2019/03/16撮影:
祖師堂が現存する。
形式は堂内に石塔類を安置するものであるが、完全に堂内という訳ではなく、背後の半分は解放されている。
日蓮宗不受不施派の先師を祀る。
 備前北長瀬不受不施派祖師堂     北長瀬不受不施派祖師堂表札
 北長瀬不受不施派祖師堂石塔類
  向かって右から、通性院日念題目碑・日典日奥日船題目碑・日蓮日像題目碑・日正日徳題目碑・相如院日是碑である。
 通性院日念題目碑1     通性院日念題目碑2:日念は唯紫庵4世/津島妙善寺13世、寛延4年(1751)化
 日典日奥日船題目碑1     日典日奥日船題目碑2:少々判別し難いが、題目と日典日奥日船三聖人と刻む。
  「大野村誌」では日典日興日船とするが、日興は誤読で日奥が正であろう。
  日典は實成院日典、日奥は不受不施派派祖である。 →日典・日奥の略伝は佛性院日奥上人を参照。
  日船は本寿院日船 →本壽院日船上人を参照。
 日蓮日像題目碑1     日蓮日像題目碑2:日蓮大菩薩・日像菩薩と刻む。
 日正日徳題目碑1     日正日徳題目碑2:日正日徳両聖人と刻む。
  日徳は十妙院日徳、唯紫庵12世/津島妙善寺21世、
  日正は宣妙院日正津島妙善寺22世/祖山35世、不受不施派を再興する。
   →備前津島妙善寺を参照。 →不受不施派祖山妙覚寺を参照。
   →十妙院日徳については、備前法華の系譜>不受不施派の再興中に記事あり。
   ※平井村に接する妙覚寺墓地:不受不施派先師墓所(備前上道郡網浜村・湊村・平井村中)に日徳の墓碑あり。
 相如院日是碑:妙法相如院日是と刻む。日是は唯紫庵5世、安永5年(1776)化。
  →唯紫庵は備前津島妙善寺を参照。

備前北長瀬本村祖師堂・・・・・・・・(13)北長瀬祖師堂(本村)
○「大野村誌」昭和31年 より
 所在:本村の中央にあり、堂宇:2間半3間瓦葺、帝釈天王・大覚大僧正・宝塔等、備考:石灯篭
2019/07/15修正:
○「大野学区六十年のあゆみ」
 堂宇:二間半に三間の瓦葺きの堂
 祭祀:題目日蓮大士、帝釈天、題目大覺大僧正
 その他:題目大覺大僧正の碑に五百と刻む(天明元年1781にあたる)
  常夜灯一基(天保六未年)、輪塔三基・小米石三基、木彫りの子を抱く猿の像
○Web情報
サイト:市久会 矢坂山を語る会>Archive for the ‘未分類’ category(2015年1月12日) より
「今年一年はお祖様の当番となった。今でも17軒あるため17年ぶりということになる。」
「年7回帝釈天の日に夕方、1回のみ8時ごろお上人が中心部の蓮昌寺の前の覚善院お上人が拝む・・・」
 ※以上が北長瀬本村祖師堂の記事である。2015年に17軒の講で運営しているということであり、2019年の当番表も17軒の名前の掲載があり、講の構成員の増減はないとうことになる。
 ※「お祖さま、お飾り」というタイトルで北長瀬本村祖師堂帝釈天祭壇宮殿の写真3枚の掲載がり、転載する。
 帝釈天宮殿01     帝釈天宮殿02     帝釈天宮殿03
○現 況
北区北長瀬本町26の墓地の傍にある。帝釈天を祀る堂内に石塔などを祀る。
堂内祭壇中央に帝釈天を祀り、左脇檀に題目石(日蓮大士)<年紀不詳>、右脇檀に題目石(大覚大僧正)<年紀は不詳>を祀る。
祖師堂平面図は次の通りである。
 北長瀬本村祖師堂平面図
2間半3間瓦葺の堂ということであるが、正確には次のような構造であろう。
 堂は東面するが、東は民家である為、出入口は南北の2個所に設けられる。そして、その内の一つである南出入口の前横に1基の常夜燈を設置する。
堂は2間半2間の板床のいわば「拝所」の建物と2間1間の「祭壇」覆屋とを結合させた複合的な堂を構成する。この複合的な堂は外見的に2間半3間の堂となる。
「祭壇」部分は2間1間である訳であるが、中央の1間四方は比較的高く花崗岩の切石で石垣を築き、帝釈天宮殿の基壇とする。帝釈天宮殿基壇の両脇は半間の比較的低い基壇を作り、題目石(日蓮)と題目石(大覚)などを安置する。
 帝釈天の由来は明らかでないが、帝釈天が何処からか勧請され、あるいは寛文6年に廃寺となった北長瀬妙香寺に祀られていた帝釈天がここに移され、石垣の基壇が築かれ宮殿が安置されたのかも知れない。やがて宮殿の前に2間半2間の「拝所」が作られ、さらに宮殿を風雨から守るために、2間1間の「祭壇」覆屋が造られたのかもしれない。そして、以上と前後して、日蓮や大覚の題目石が帝釈天宮殿脇間に祀られたのかも知れない。
2019/04/06撮影:
 北長本村瀬祖師堂1     北長本村瀬祖師堂2     北長本村瀬祖師堂3
 北長本村瀬祖師堂祭壇1     北長本村瀬祖師堂祭壇2
 帝釈天宮殿1      帝釈天宮殿2     帝釈天宮殿3
 題目石(日蓮大士)1     題目石(日蓮大士)2     題目石・五輪塔ほか1     題目石・五輪塔ほか2
  輪塔三基・小米石三基とあるが、輪塔とは五輪塔であろうか、小米石というのは良く分からない。
 題目石(大覚大僧正)1     題目石(大覚大僧正)2     北長本村瀬祖師堂常夜燈:天保6年(1835)

備前北長瀬新屋敷祖師堂・・・・・・・・(9)北長瀬祖師堂(北長瀬新屋敷)
○「大野村誌」昭和31年 より
 所在:新屋敷、堂宇:1間半1間半瓦葺、題目石・大覺大僧正・三十番神、備考:石灯篭
  ※下の資料のように、新屋敷とは現在の日吉町をいうようである。
  北長瀬本村から新しく西方にできた集落であるから、新屋敷と称される」のであろう。
  ※現地での聞取りでは、新屋敷の祖師堂は「戦争により岡山操作場が拡張され、線路敷となる」ため、
  今線路の走っている場所から現在地移転されるという。
  但し、「戦争に・・・となる」の個所は、曖昧であり、時期も含め、正確ではないかもしれない。
  ただ、現在地の南から移転してきたのは確かと思われる。
2019/07/15修正:
○「大野学区六十年のあゆみ」
 所在地:日吉町(新屋敷)、堂宇:三間に一間半の瓦葺きの堂
 祭祀:大覺大僧正、題目日蓮大士、三十番神
 その他:三基の碑は明治15年
   2間に2間半の瓦葺きの堂が道を挟んで南にあった。 ※道を挟んだ南は現在山陽線が走っているので、
   今の鉄道敷に祖師堂はあったと思われ、上記の聞取りと大筋では符合する。
2019/08/25追加:
〇「北長瀬物語:市久保・白髪宮(旧 御崎宮)・岸一太・まちづくり」坪井 章/編集、平成21年(2009) より
日吉町のお祖さま:
鴨田踏切西旗にあった野佛(題目石)を操車場拡大に伴い現位置にお堂として設立。
 ※鴨田踏切の位置:
 下に掲載の「大野村祖師堂位置図3」であるが、その図に基づいて推測する。
 図の(9)北長瀬祖師堂の南は山陽本線であり、東すぐは山陽本線を跨ぐ跨線橋である。
現在、この跨線橋の下にありかつ山陽本線の南にある遊園地は「鴨田遊園地」という。従って、この跨線橋の附近が鴨田であると分かる。つまり、この跨線橋の所に鴨田踏切があったのは間違いないだろう。この付近および岡山操作場跡の再開発で、踏み切りは撤去され、跨線橋となったのであろう。(但し、西旗とは不明。)
 また、山陽本線の南側は現在再開発中で、地図でいう市民病院・北長瀬駅南口広場・岡山ドームの関連施設などの敷地は、かっては岡山操車場の敷地であり、無数の線路が敷かれていた。
 以上から考えると、新屋敷祖師堂は、現在の跨線橋附近(山陽本線南側)にあったと推測される。
○現 況
北区日吉町6の東端 に所在、北長瀬駅北口から山陽線沿いに西進し、最初の跨線橋下をすぎ、直ぐにY字形に道路が分かれる。この分岐の所に祖師堂はある。
  位置図:大野村祖師堂位置図3
祖師堂は堂内に石塔などを祀る形式である。
向かって左から、三十番神、題目石、大覚大僧正を祀る。「大野村誌」では「石灯篭」を挙げるが、既に失われたようである。
2019/04/06撮影:
 北長瀬新屋敷祖師堂1     北長瀬新屋敷祖師堂2     北長瀬新屋敷祖師堂内部
 新屋敷祖師堂石塔など     三十番神石塔     題目石(日蓮大士)     大覚大僧正碑

備前大供村・内田村・岡村・東古松村・西古松村
大供村:
 島田村・下出石村の南にある。西は野田村、南は東古松村・西古松村、東は内田村・岡村及び西川を限り城下と接する。
 村内を鴨方往来が通過、村内で西に方向を変える。
 集落として本村・新屋敷・茶屋筋・大曲・枝川がある。
内田村:城下の南、妙福寺は当村(内田村)の内という。
岡村:内田村の西にある。
東古松村:岡村・奥市村の西にあり、西は西古松村、南は富田村、北は大供村。
西古松村:西は神中野村、南は木村・下中野村、北は大供村・野田村。
 西古松村は本村・西沖・前沖・茶屋並の集落からなる。
寛文6年池田光政の不受不施弾圧で、次の日蓮宗寺院が廃寺となる。
 大供村:城下蓮昌寺末安立山大福寺
 東古松村:何れも京都妙覚寺(金川妙國寺)末東海山福傳寺及び妙深山善正寺
 西古松村:何れも京都妙覚寺(金川妙國寺)末妙印山大乗寺・圓覺山願心寺・乗蓮寺
 岡村:京都妙覚寺末長福山法泉寺  が廃寺となる。
明治22年大供村、内田村[大部分]、東古松村、西古松村、岡村、岡山区岡山下西川町[一部]が合併し、鹿田村が発足する。

備前岡山妙福寺:小原町妙福寺

○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
慧日山と号する。四条妙顕寺末。
寛永9年(1632)池田光政鳥取から岡山に移封、光政に従身した日運の開基と伝える。
昭和20年の空襲まで、本堂・庫裡・山門・妙見堂(天明6年勧請)があったが全焼する。戦後すぐさま伽藍再興に着手、昭和20年11月に5間四面入母屋造桟瓦葺の本堂及び庫裡を再建する。昭和27年茶室を兼ねた客殿を建立。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
当山は元は「妙恩寺」と称する。
開山は大覚大僧正、文和・延文・貞治年中(1352-68)(御野郡)内田郷小原町に創建という。 →大覚大僧正
慶長年中、不受不施禁令によって取り壊され、創立以来250年の記録は不詳。
当時安置されていた祖師像は津山に退避したという。
池田光政岡山入城の時、寛永9年4月28日妙福寺として復興・創立。
妙福寺開山開基は圓立院日運、開基檀越は岩成重久・野殿屋三太夫・黒瀬屋嘉太夫。
昭和20年6月29日未明の岡山空襲にて境内地内全て焼失、
同年12月に仮本堂・庫裏を開堂。
昭和36年4月に約350年前に津山へ退避した祖師像を再び本堂に安置。
昭和50年RC造2階建ての本堂・書院を再建。
 ※平成14年宗祖日蓮大聖人銅像を建立(立教開宗750周年記念事業)。
 ※(御野郡)内田郷小原町について
  大覚大僧正が創建した妙恩寺の地・内田郷小原町は現妙福寺のすぐ東の地である。
   岡山城下と現市街地1:上が北である。現妙福寺の東に小原町がある。
   岡山城下と現市街地2:岡山城下と現市街地1の部分図である。現在の清輝橋電停を挟んで東が小原町であった。
   岡山市街図2:上に掲載の本行寺の項で示した地図と同じ地図である。その小原町附近の部分図である。上が東を示す。
   岡山城下之図(元禄頃家中屋敷割之図)2:上に掲載の本行寺の項で示した地図と同じ地図であるが、
    その小原町附近の部分図である。上が東を示す。妙福寺は▲で示す、小原町は小原丁と表記される。
2018/10/15追加:
○「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」 より
小原町:光清寺は真宗本願寺派で、以前は栄町にあり時宗千阿弥寺と称する。同所が町会所とされて、寛文8年当町の妙恩寺跡地に移った。この時の境内地1反8畝余。
2018/07/22撮影:
 門前題目碑:萬延2年(1861)年紀
 門前妙恩寺口・石碑:門前題目碑脇にある。新しいもののようである。妙恩寺とは当初の寺号であるが、
 ここにある意味は不明である。内田郷小原町の位置はここから東すぐであるから、「妙恩寺口」ということかも知れない。
 門前法華経霊場石碑     岡山妙福寺山門     岡山妙福寺本堂     日蓮上人立像1     日蓮上人立像2
 岡山妙福寺庫裡
 日蓮大菩薩石塔:享保16年(1731)年紀     大覚大僧正石塔
 妙福寺五輪塔:刻銘がなく、時代や由来は不明である。五輪塔の基本形が、下から、地輪:方形(六面体)、水輪:円形(球形)、火輪:三角(宝形屋根形)、風輪:半月型(半球形)、空輪:団形(宝珠型)からなるとすれば、水輪を欠くものと思われる。また火輪の内の身舎は残るも宝形屋根部分も欠くものと思われるもよく分からない。
何れにしろ独特の五輪塔で、近くの妙勝寺の大覚大僧正五輪塔や能勢頼吉墓碑(五輪塔)によく似ている。
 妙福寺題目石碑
 妙福寺題目石塔:平成28年境内鎮守石塔建立というので、題目石碑もしくは本石塔が該当するのであろうか。
 妙福寺歴代墓碑:左から2,3の石塔は歴代墓碑である。「黨山開基圓立院日運聖人」の刻銘もある。


備前内田祖師堂跡・・・未見
所在:岡山大学病院の東横に西川が流れる。その西川左岸にある。経度・緯度:34.649844,133.92177
旧村では内田村と岡村の境界である西川に接してあり、岡村なのか内田村なのか判断が難しいが、近代の都市化で移転していないとすれば、西川の東にあり、当ページでは内田村にあると判断する。
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
病院の横の川と道路のあいだに、樹がそびえている。日蓮と「牛頭天王」の二基あり。日蓮には「南無妙法蓮華経日蓮大士」左「當門中」右「文政七申年九月(1824)」。


備前大供本村祖師堂遺構(仮称)
所在:鹿田幼稚園西にあり、大供祖師堂北100mほどの所にある。経度・緯度:34.652906, 133.913049
向かって左から、地水神、方形石塔(不明)、常夜燈残欠、題目石(大覚大僧正)、題目(日蓮大士)、小祠(不明)が並ぶ。
背後は用水路であり、一帯は明らかに近年に区画整理が行われた様子であり、向かって左には新しいプレハブの倉庫(恐らく町会などの倉庫であろう、祖師堂の後継とも思われる)があり、祖師堂本尊たる石塔なども残り、おそらく、祖師堂があったものと思われる。
 但し、次項で述べるように、祖師堂があったのはここから、150mほど北の地点であったと推定される。
 その地点から、石塔類・小祠が移設されてものと思われる。それは2005年以降のことである。
祖師堂の名称は不明であるが、おそらく本村か枝川の祖師堂跡と推定される。
また、祖師堂の所在地が本村か枝川なのか現段階で判然としないが、「大供本村祖師堂」と呼称する。
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地水神塔 岡山市大供本町 厚生町? ミニ五角塔、左後「 」左「安全」正「地水神」右「村中」右後「 」。鹿田と言うのかも。
なお、本サイトは1999年(平成11年)から2005年(平成17年)8月までの調査という。
大供本村祖師堂旧状写真があるので、それを転載する。
 大供本村祖師堂旧状
写真で判断すると、旧状写真に写る石塔及び小祠は全て、現在地に移設されている。但し、小祠は覆屋がないので、やがて腐朽することが懸念される。
大供本村祖師堂石塔類は簡素な覆屋が架せられている。(屋根セメント桟瓦葺)
しかし、石塔類の前は石材で区画され、もっと以前は石塔類の前に祖師堂があったようにも思われる。
 この祖師堂の所在場所は、元データでは経度・緯度:34.65081 , 133.91581であり、それを補正すれば:34.65397,133.913247となるが、34.65397,133.913247は明らかに区画整理が行われた場所のようで、面影は殆ど残らず、その位置を明示することはできない。附近には墓地がるが、その北側附近とも思われるが確証はない。
 さらにもう一枚の写真の掲載(「地 水 神」)があり、左の石柱は「十二本木大権現」と判読できる。
 ※十二本木大権現は牛神と云う。
 近世から戦後しばらくの間まで、農村では牛馬は田の耕作や荷車での運搬などで貴重は働き手であった。
  →備前津高郡八畳岩北西題目碑:東楢津十二本木大権現<備前津高郡富原村・首部村・東楢津村・芳賀村中>
2019/05/25撮影:
 大供本村祖師堂遺構     本村祖師堂石塔など
 地水神、方形石塔(不明)、常夜燈(残欠):地水神は社日塔の形式であり、方形石塔は全く判別できず、常夜燈の年紀は天明元年(1781)であるから日蓮碑と同じ時のものであろう。(方形石塔は「十二本木大権現」と刻すると判明)
 題目石(大覚大僧正)1     題目石(大覚大僧正)2
 題目石(大覚大僧正)3:弘化●●(1844〜)と判読できなくはないが・・・
 題目石(日蓮大士)1     題目石(日蓮大士)2:天明元年(1781)の年紀、日蓮500遠忌報恩
 大供本村祖師堂小祠     本村祖師堂小祠内木札:この小祠の性格は不明

備前大供茶屋筋祖師堂跡(仮称)
 大供祖師堂跡は旧「鴨方往来」沿いにある。岡山市北区大供表町8付近にある。大供本村祖師堂跡(仮称)南100mほどの所にある。
現在、大供石塔類は四周をブロック・モルタル塀で囲われ、正面にはおそらく棟門があったと思われるも、棟門の柱2本のみが残される。
現状の構えから、ここにもかっては祖師堂があったものと推定される。但し、今は3基の石塔類があるが、かっては題目石及び地水神の合計2基だけであったのは、この地方の例からいえば、少々「本尊」が足りない感じではある。
○2019/06/07追加:
大供には本村・新屋敷・茶屋筋・大曲・枝川の集落がある。本祖師堂跡は鴨方往来沿いにあり、この付近には茶屋もあったといい、おそらく、この付近が茶屋筋であろうと思われる。従って、今まで本祖師堂跡を「大供祖師堂跡」と呼称してきたが、「大供茶屋筋祖師堂跡(仮称)」と呼称するものとする。
但し、鴨方往来はこの付近で北東から西に方角を変えるので、大曲であるかも分からないが、大曲は水路の大曲とも考えられ、いずれにしろ、細かい小字が掌握できないので、大供茶屋筋と仮称する。
○参考Webページ「鴨方往来2・野田茶屋から境目川
2019/05/11追加:
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
本サイトでは次のように述べ、写真(1枚)の掲載がある。
「881EWO 地水神 岡山市大供 表町 ブロック塀に囲まれて、いるにも関わらず、中央の題目石が倒れている。」
 大供茶屋筋祖師堂跡0:現在門の屋根は失われ、柱だけ残存するが、この写真では辛うじて門(屋根)が残る。
但し、相当荒廃しているようで、草が生え、門の屋根はトタン板葺きであったようである。
2019/03/16撮影:
 石塔類は手前に常夜燈、後方に向かって右から地水神、天保2年中央題目碑、大正14年題目碑がある。但し大正14年題目碑は他所より移されたもので、本来は祖師堂のものではない。地水神碑の年紀は不明。
中央題目碑は、左面(東)は「天保二年歳(1831)正月吉日 五百五十遠忌奉謝馬」、右面(西)は「宗門繁栄並村中牛馬安全」と刻む。
大正14年題目碑は正面に日蓮大菩薩、日朗・日像菩薩、大覚大僧正と刻み、背面に「大正十四年七月十二日建之 大供表町信者」「元此法塔ハ字枝川某氏邸内二建立セシヲ有故(※故あって)町内信者ニ於テ譲受勧請セシ者也」と刻む。この題目碑は枝川(枝川とは不明であるが、大供の東部に枝川緑地公園というのがあるので、その付近であろうか)の某氏邸より移建されたことが分かる。
 大供茶屋筋祖師堂跡1     大供茶屋筋祖師堂跡2     大供茶屋筋祖師堂跡石塔類
 中央題目碑1       中央題目碑2      大正14年題目碑1      大正14年題目碑2
 大供茶屋筋祖師堂跡地水神     常夜燈残欠
2019/07/03追加:
○「岡山県歴史の道調査報告書 第6集 金比羅往来と由加往来・倉敷往来・鴨方往来」、岡山県教育委員会、1993 より
戸隠大明神(石戸分神社と付会される)を過ぎて、道が西に向きを変える南側に「小山邸」がある。小山邸から西へ約200mで題目石がある。題目石を中心に、左に明治(大正であろう)の題目石、右へ地水神、右手前んび奉燈がある。これら全ては、施主小山氏とある。
 ※施主が小山氏かどうかは、未確認。

備前大供御真筆堂(祖師堂)
 大供御真筆堂は旧「鴨方往来」沿いにある。岡山市北区大供本町717-22の南に所在。
情報が皆無でまったく詳細は不明である。
御真筆堂と称する瓦葺き堂宇と題目碑がある。写真には写っていないが、常夜燈の棹や笠のような部品があり、かっては常夜燈があったとも思われる。
御真筆堂はおそらく祖師堂で、祭壇中央に小厨子があり、おそらく日蓮上人像(祖師像)が安置されているものと思われる。
さらに、推測であるが「御真筆堂」と称するので、あるいは小厨子には高祖真筆と伝える題目本尊が安置されているのかも知れない。
祭壇左に十界曼陀羅本尊、日蓮上人画像を掲げる。題目本尊の詳細は良く分からない。
題目碑は明治34年の年紀である。
2016/03/16撮影:
 大供御真筆堂1     大供御真筆堂2     大供御真筆堂題目碑     大供御真筆堂内部
 大供御真筆堂祭壇     御真筆堂十界曼陀羅     御真筆堂日蓮上人画像

岡山不受不施派宣妙寺
北区西古松1−22−2に所在。
山門は閉ざされ、また殆ど情報がなく、由来などは全く不明である。
創立年は不明、春雄山と号する。開山は「春雄院日雅?」との墓碑があるので、春雄院日雅?と思われる。
寺号の宣妙寺は再興上人「宣妙院日正」に由来するのであろう。
境内に次の墓碑がある。
 無縫塔(智昭院日從)、善興院日圓墓碑(付:日圓上人終焉の地石碑)、題目石(妙覚寺先師)、題目石(日蓮大𦬇)、
 宝塔(春雄院日雅?)、題目石(不明)、無縫塔(凌雲院日要)、宝塔(●●院日教)、無縫塔(一實院日然)
日圓上人墓碑には「日圓聖人は日船聖人ノ高弟ニシテ、青江妙長寺の住職タリ/寛文六年十二月飲水行路ニ国主(以下は未確認)」とある。
 昭和50年宗堂桜を宗堂村宗堂山妙泉寺より寄贈される。
 平成10年北長瀬・辻村から「日圓上人終焉の地」石碑を宣妙寺境内に移す。
  →善興院日圓
 平成15年宣妙寺新保講社は新保にあった「宝塔4」を備中山田のお塚に移転をしている。
  →備中山田のお塚
  (新保よりの移転記念碑、     五輪塔残欠などと移転記念碑と宝塔4     五輪塔残欠と移転記念碑と宝塔4
2019/05/25撮影:
 岡山宣妙寺山門     岡山宣妙寺山容1     岡山宣妙寺山容2     岡山宣妙寺鐘楼
 無縫塔(智昭院日從)
 善興院日圓墓碑1(付:日圓上人終焉の地石碑)
 善興院日圓墓碑2:側面に次のように刻む。
「日圓聖人は日船聖人ノ高弟ニシテ、青江妙長寺の住職タリ/寛文六年十二月飲水行路ニ国主」
 (以下は未確認のため不明)
 付:日圓上人終焉の地石碑1     付:日圓上人終焉の地石碑2:さらに住所表示が変更されたのか、北長瀬3丁目とは不明、現在では北長瀬表町(大野辻)と思われる。
 題目石(妙覚寺先師)1     題目石(妙覚寺先師)2:正面:日朗𦬇、日像𦬠、左面:大覚和尚、朗源、日實、日成各聖人、右面及び背面は未確認、京都及び祖山妙覚寺の2世〜7世である。
 題目石(日蓮大𦬇)1     題目石(日蓮大𦬇)2
 宝塔(春雄院日雅?):宣妙寺の山号が春雄山であり、おそらく宣妙寺開山の墓碑であろう。
 題目石(不明):判読不能     無縫塔(凌雲院日要):宣妙寺歴代
 宝塔(●●院日教)     無縫塔(一實院日然)

備前西古松祖師堂跡(推定)
所在:北区西古松、宣妙寺の西にある、宣妙寺の一筋西の南北通りにある。経度・緯度:34.64959,133.907107
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
民家の狭間。一見題目石のような形で「南無妙法蓮華経 地水二神」 とある。
○現状
民家の「狭間」の小スペースに、石塔などと「棟門」形式の拝所がある。
 (この形式の拝所は富田祖師堂跡にても見られる)
石塔などは向かって右から題目石(地水二神)、常夜燈、題目石(日蓮大士)、石製小祠である。
題目石(日蓮大士)、石製小祠の前には「棟門」形式の拝所がある。この拝所は祖師堂の名残りであろうか。但し、門ではなく拝所であるので、棟門の柱下部は貫で結合される。
その構えや石塔類などから、西古松の祖師堂跡と推定される。
2019/05/25撮影:
 西古松祖師堂跡1     西古松祖師堂跡2     題目石(地水二神)・常夜燈     棟門・題目石(日蓮)・小祠
 題目石(地水二神)     祖師堂跡常夜燈
 題目石(日蓮大士):天保2年(1831)の年紀、日蓮500遠忌。     祖師堂跡石製小祠:性格は不明である。

備前御野郡濱野村

備前濱野松寿寺:御野郡濱野村
      →浜野松寿寺

備前濱野牛王神・地水神
松壽寺から妙法寺に下る土手下の道沿いにある。緯度・経度:34.629287, 133.944756
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地水二神 岡山市浜野4 土手の上、家のある角。左、牛王神「奉勧請牛王神牛安全 (左)八月吉* (右)安政元寅年」(1854)。右地水神「奉勧請地水二神 (右)明治三十一年八月吉日」(1898)。
2019/10/30撮影:
 濱野牛王神・地水二神
 濱野牛王神1:「奉勧請牛王神牛安全」と彫る。     濱野牛王神:「安政元**年」と彫る。**は甲寅とあるのだろう。
 濱野地水二神:「奉勧請地水二神」、明治31年の年紀は未確認。

備前濱野妙法寺

○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
感善山と号す。濱野の旧備前藩舟入の跡にある。小湊誕生寺末。
寛永年中の開基で、はじめ安宅山教善寺と称したが寛文6年現在の通り改号したという。
「寺記略」には、「当寺は池田忠継の召船なりし安宅丸の舟入せし旧跡に建てたものにして、其の創立は寛文11年なり、其の始めは下総平賀本土寺の末寺にして上道郡平井村妙楽寺の分寺なりしが如し。その後80年日晴の頃堂塔悉く頽廃す。日晴は高徳の僧にして本堂庫裡を修理葺替へ大いに面目を革む、中興開基の祖と命ぜられる。明治6年全部焼失、同45年本堂改築。」
 寛永年中の開基とはこの地方の開発が進み平井妙楽寺が建立された時で、その後寛文11年に独立寺院となったということであろう。
本堂は明治45年の再興(入母屋造本瓦葺妻入)、庫裡客殿、帝釈堂、妙見堂、三門、通用門がある。多くは明治6年の火災以降の建築であるが、茅葺の妙見堂は本尊とともに平福より遷したものである。
 濱野妙法寺:向かって左端の建物が萱葺のようであり、上記に従えば妙見堂であろう。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
寛永11年の創立、開山常住院日教。松ヶ崎法縁。寛文6年に安宅山教善寺を改称。初めは平賀本土寺の末寺。開山日教は平井妙廣寺14世。
2019/10/30撮影:
 濱野妙法寺遠望
 濱野妙法寺山門     門前題目石(法界萬霊):側面の刻銘は判読できず、年紀不詳。     門前題目石(日蓮花押)
 濱野妙法寺本堂1     濱野妙法寺本堂2     妙法寺玄関客殿1     妙法寺玄関客殿2
 妙法寺離れ?:「岡山市史」の写真ではここに茅葺の妙見堂があったと思われるも、現在は退転し、離れ?が建つ。
 推定帝釈堂:堂の名称不明     妙法寺通用門
 妙法寺題目宝塔:塔身には題目を刻する。
 妙法寺題目石:正面日蓮大菩薩、両側面は日朗菩薩并日像菩薩、背面は年紀などあると思われるも判読できず。
 堂名称不明堂:納骨堂?     釈迦石像・題目石(法界萬霊)     歴代墓碑か:良く分からない。

二日市村・七日市村・十日市村・奥内村・田住村・青江村・円覚村・新福村
二日市村:東は岡山城下、西は奥内村、南は七日市村、北は内田村
七日市村:東は旭川、西・北は二日市村、南は濱野村など
十日市村:七日市の西南にあり、西は富田村、南は青江村・圓覺村など
田住村:二日市村・十日市村の西に位置し、西・北は奥内村
奥内村:二日市村の西に位置し、西は東古松村
圓覺村:十日市村の南にあり、東は濱野村、西は青江村
新福村:圓覺村に南にあり、西は青江村・泉田村、南は福田村、東は福富新田
青江村:東は新福村、西は新保村・泉田村・福田村、北は富田村・田住村
寛文6年池田光政により
 七日市村日蓮宗春林山圓光寺(二日市妙勝寺末)、<廃寺の後、寺屋敷は春日宮宮司に与えられる。>
 十日市村日蓮宗常福寺および覚城院(何れも城下蓮昌寺末)
 田住村日蓮宗恵雲坊(城下蓮昌寺末)
 奥内村日蓮宗林光山安詳寺(城下蓮昌寺末)
 圓覺村日蓮宗圓覺山廻仙寺(城下蓮昌寺末)
 青江村日蓮宗正住山妙長寺・天満山妙仙寺・宝林山圓照寺(何れも城下蓮昌寺末)は廃寺となる。
明治8年奥内村・田住村が合併して奥田村、円覚村・新福村が合併して豊成村となる。
明治22年奥田村、青江村、豊成村と十日市村、七日市村、二日市村などが合併し古鹿田村となる。

備前二日市妙勝寺二日市妙勝寺

○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
明光山と号する。京都妙覚寺末。
開基は大覚大僧正、大覚大僧正妙實は四条妙顕寺2世、師命を受け中国巡錫のときこの地にとどまり、法華堂を設けたのに始まると伝える。
妙勝寺沿革は云う。「当山は興国三辛巳年(1342)・・・大覚大僧正中国弘通の際当地に錫を留め給ひし時、多田頼貞厚く覚師を請じ法を聴かしむ、阿比宿縁ありてか頓に悟り捨邪帰正信仰益々深く遂に邸を改めて法華堂と為す、是れ当山の草創なり因て大覚大僧正を仰て開祖とす。」
 二日市に中世阿比という豪族が住み多田頼貞との関係も深く、また大覚大僧正に帰依して、自分の居舘を法華堂に直し、これが妙勝寺縁起にある法華堂で、現在の寺地はすべて阿比氏の屋敷跡と伝えられる。
 法華堂からスタートしたのは牛窓本蓮寺も同じであるが、本蓮寺はほどなく伽藍を構えるも、妙勝寺の場合は近くに大覚や多田頼貞と関係の深い濱野松壽寺があり、両者の間で争いを生じたり、室町期の不安定な状況が続き、伽藍の建立も思うにまかせず、近世初頭まで法華堂のままであったという。
 妙勝寺沿革はいう。「康永元年(1342)一寺をなさんとせしも兵戦の為果たさず。その後多田頼貞の6世の孫頼吉に至り松壽寺と争いを生せしかは国主浮田直家、頼吉に命じ和解せしめ一寺と為して妙勝寺を建設す。斯くて堂宇の建築伽藍の広壮美を極め境内頗る広豁なりしが、爾来兵乱の為に頽廃其極に達し、遂に本山妙覚寺の直轄するところとなれり。
元禄5年廿八世日還上人再興の意を決し、その後日慶上人に至り堂宇完成し旧観を一新す、實に元禄10年3月なり、・・・」
 上記「沿革」のいうように、江戸初期にこの寺が衰微して本山妙覚寺の直轄に移るわけであるが、「沿革」の述べる「兵乱」という事情もあろうが、事情の最大なるものに不受不施派禁制による弾圧がある。
寛文年中この禁令にふれて追放に遭い、本寺である妙覚寺に寺を引き渡したのであろう。
 ※寛文年中の妙勝寺が不受不施であり、備前金川妙國寺を中心とした「本末諸寺異体同心掟」(不受不施堅持に
 妙勝寺も同心したことは上に掲載の「○妙国寺本末寺諸寺誓状」(備前金川妙國寺中)を参照。
 この後、妙国寺を始め一味同心寺院は弾圧され、廃寺や還俗に追い込まれていく。
元禄10年(1697)の再興は不受不施を断念し受不施の日蓮宗の寺院として再興したもので、大林寺の場合と同じ事情である。妙勝寺の末寺であった七日市の青林山円光寺も不受不施禁制によって追放となり、往持は立退き、寺は廃寺となる。
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 昭和20年6月の空襲で、本堂・客殿・書院・七面堂・法珠堂・毘沙門堂・鐘楼・山門等全焼する。残ったのは石造の大覚塔と能勢頼吉の墓塔と大銀杏一株だけであった。
戦後、伽藍の再興にかかり、間もなく庫裡を建て、入母屋造の本堂を再建、昭和27年には西村多吉の寄進になる大鐘楼(欧文入りの平和の鐘)が成り、また山門も建てられた。そして昭和33年に現在の本堂を建立、旧本堂を客殿に直して伽藍を整備する。
 本堂は消失した本堂の跡に建てたもで、五間六面入母屋造、総円柱、桟瓦葺の建物、東を正面にする。
 ※平成29年新客殿が落慶する。(旧本堂を改築した客殿はおそらく取り壊されたものと思われる。)
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 能勢修理太夫頼吉の墓:豊鳥石製の五輪塔でかなり損傷するも近世初頭のものとして間違いないようである。鐘楼の南手に丈の高い豊島石製の大覚塔が立っており、これと並んでいる丈の低い五輪塔がそれである。宇喜田家分限帳(「群書類従」所収)に四百石能勢勝右衛門とあるのがこの頼吉であろうか。
 ※能勢修理太夫頼吉の墓は未見、紀行歴史遊学>清和源氏、嫡流の行方 より写真を転載する。
  能勢修理太夫頼吉五輪塔
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○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
寺宝:大覚真筆三十番神大曼荼羅(2間×3間)、大覚遺品数点
興国3年の創立、奠師法縁。
大覚が中国弘通の砌、多田頼貞が深く帰依し、己が屋敷を転じて寺となす。かっては塔頭7ヶ寺、末寺7ヶ寺を擁する。
大覚供養塔、多田頼貞3世能勢修理太夫頼吉の墓がある。
2018/07/22撮影:
 妙勝寺門前題目碑     岡山妙勝寺山門     岡山妙勝寺山内     日蓮上人立像
 岡山妙勝寺本堂1     岡山妙勝寺本堂2     岡山妙勝寺本堂扁額
 七面大明神鳥居ほか     妙勝寺七面大明神     日蓮上人三重石塔
 岡山妙勝寺鐘楼:向かって左に「西村多吉頌徳碑」がある。     岡山妙勝寺宝蔵か
 岡山妙勝寺客殿1     岡山妙勝寺客殿2     岡山妙勝寺玄関庫裡
 大覚大僧正塔:五輪塔の基本形が、下から、地輪:方形(六面体)、水輪:円形(球形)、火輪:三角(宝形屋根形)、風輪:半月型(半球形)、空輪:団形(宝珠型)からなるとすれば、火輪が冗長で独特であり、風輪を欠くものと思われる。
何れにしろ独特の五輪塔で、能勢頼吉墓碑(五輪塔)や近隣の妙福寺五輪塔に形状が似ていると思われる。
 大覚大僧正碑     身延山日朝塔:由来は不明である。


備前二日市祖師堂跡(推定)・・・・未見
岡山市北区旭本町に所在、経度・緯度:34.642885,133.930948
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
左から「南無妙法蓮華経 大覚大僧正」「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩」。地神塔、左後「蓮 唯有一乗法」左「法 十方仏土中」正「妙 地水二神」右「経 天人常充満」右後「華 秘此土安穏」。


備前岡山妙栄寺:旧御野郡七日市村に創建される。

○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
昭和26年この地の岡崎妙栄尼の創立になる。岡崎家は七日市の実業家であったが、昭和20年の空襲で財産全部を焼失、加えて妙栄尼の夫も犠牲となる。そこで、多くの戦争犠牲者の菩提を弔うため、岡山妙林寺を本寺として、一寺を開く。また高松稲荷から日車明神を勧請して祀る。本堂は梁間3間半、桁行5間半、入母屋造妻入桟瓦葺きである。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
唱導山と号する。
昭和28年の創立。開山随唱院日温尼、開基檀越藤原誠一、奠師法縁。唱導教会を設立。昭和29年寺号公称。
2018/07/22撮影:
 門前題目碑     岡山妙栄寺山門     岡山妙栄寺本堂1     岡山妙栄寺本堂2
 妙栄寺本堂・庫裡     岡山妙栄寺手水舎     岡山妙栄寺庫裡
 岡山妙栄寺稲荷:日車稲荷と思われる。日車天王社は備中高松稲荷の七十七末社の一つであるというも詳細は分からない。


備前田住村祖師堂跡(推定)
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地神塔:岡山市奥田南町
・・・左から。「南無妙法蓮華経日蓮大士」。大覚の正「南無妙法蓮華経 大覚大僧正」右「文久三癸亥年正月吉日(1863)」左「施主近藤千代女」。
右端に折れた地神塔。コンクリで接着してあるが文字はほとんどつぶれている。左後「埴(?ほとんど読めない)」左「大己」正「天照」右「倉」右後「小彦」。
○現状
所在:岡山市北区奥田南町、岡山南高校の西南にある。経度・緯度:34.641855,133.922456
道路脇の狭い敷地に、向かって左から、題目石(大覚大僧正)、題目石(日蓮大士)、地神塔(社日塔)がある。
現在は道路脇に押込められ、「構え」からは想像しずらいし、また常夜燈を欠いてはいるが、おそらく田住村の祖師堂があったと推定される。
2019/05/25撮影:
 田住村祖師堂跡     田住村祖師堂跡石塔
 題目石(大覚大僧正);上記のように文久3年(1863)の銘     題目石(日蓮大士):年紀なし
 地神塔(社日塔):殆ど判読できないが、上記に判読結果があり。

備前圓覺村日蓮堂:仮称(豊成日蓮堂)
明治8年円覚村・新福村が合併して豊成村となるのは既述の通りであるが、この場所は、ほぼ間違いなく旧圓覺村であると思われるので、圓覺村日蓮堂と仮称する。
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
A79EWO 地神 岡山市豊成1 豊成の民家の間に日蓮堂。1つの石で「妙法 地神 水神」
緯度経度:34.630791,133.928073に所在する。
2019/10/30撮影:
中央は題目石(推定)で左右に題目石(大覚大僧正)、地神水神、その他を祀る。
中央の題目石は豊島石製で刻銘が判読できないが、題目と日蓮の称号を刻むものと推定される。
 圓覺村日蓮堂1     圓覺村日蓮堂2     圓覺村日蓮堂3     圓覺村日蓮堂石塔類
 推定題目石(推定日蓮)1     推定題目石(推定日蓮)2
 題目石(大覚大僧正)        日蓮堂地神水神

備前圓覺村祖師堂跡:推定:仮称(豊成題目石)
明治8年円覚村・新福村が合併して豊成村となるのは既述の通りであるが、この場所も旧圓覺であると思われるので、圓覺村祖師堂跡と仮称する。現在は路傍に建つが、石塔類とその構えから、かっては祖師堂があったものと推定される。
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
A77EOO 地神塔 岡山市南区豊成2 題目石文政七年(1824)、大覚安政三年(1856)。地神塔、左後「」、左「」、正「八月吉辰**」、右「*堅牢地神守」、右後「天保四癸巳年」(1833)。
緯度経度:34.628549,133.929426に所在。
2019/10/30撮影:
題目碑(日蓮大菩薩)、題目石(大覚大僧正)、地神、常夜燈棹の4基が祀られる。五角柱地神は劣化し殆ど文字は判読できない。
 圓覺村祖師堂跡1     圓覺村祖師堂跡2     圓覺村祖師堂跡3
 題目石(日蓮大菩薩)1      題目石(日蓮大菩薩)2:文政7年(1824)年紀
 題目石(大覚大僧正):安政3年(1856)の年紀は刻銘が薄く未確認。
 常夜燈残欠(棹)      五角柱地神


備前青江天野八幡宮南鳥居題目/青江村日蓮宗妙泉寺八幡大菩薩像
御野郡青江村
1)サイト:岡山県神社庁>天野八幡宮では次のように云う。
 「由 緒:創建は平治元年(1159)8月26日である。山城国男山八幡宮を勧請する。
大正10年に御津郡鹿田村内の天野神社を八幡宮に合祀し社号を改称した。
 要するに由緒は次の2行で済む単純な話である。
 平安末期、青江に石清水八幡宮が勧請され、青江八幡宮が成立する。
 大正10年青江八幡宮に鹿田村天野神社を合祀する。
以上である。
  (但し、鹿田村天野社とあるが、鹿田村とは明治22年に大供村、内田村[大部分]、東古松村、西古松村、岡村、
  岡山区岡山下西川町[一部]が合併し、発足した村で、近世にどの村にあったのかは判然とはしない。)

2)サイト:おかしな世の中>天野八幡宮 旧村社 式内社 では次のように云う。
 「由緒沿革 創建は平治元年八月二十六日である。山城国男八幡宮を勧請した。大正十年に御津郡鹿田村内の天神神社を八幡宮に合祀し社号を改称した。
 「この由緒は、何故か岡山県神社庁のHPでは、掲載されていません。
 「(天野八幡宮の由緒を)次のように書いておられる方もあります。
 由緒:創建は不詳ですが、延喜5年(905)の神名帳に記載されている式内社です。
鹿田庄十二カ村(大供・東古松・岡・内田・奥内・田住・二日市・七日市・十日市・浜野・円覚・青江)の総鎮守で、元は三門に鎮座していました。天承元年(1131)奥田に移転し、さらに、大正10年(1921)青江に移転し、八幡宮を合祀して現在の天野八幡宮になりました。
 上記で奥田村とは、明治8年御野郡奥内村・田住村が合併し、御野郡奥田村が成立する。つまり奥田村の成立は明治維新後のことである。
 それはさておき、天野八幡宮(実は青江八幡宮のこと)の由緒沿革は岡山県神社庁のHPの通り(「岡山県神社庁のHPに掲載されていない」とは管理人の単純な勘違いであろう。)であるのだが、Webページを見る限り天野八幡宮の由緒沿革は「鹿田庄十二カ村の総鎮守で、元は三門に鎮座、天承元年(1131)奥田に遷座し、大正10年青江に再び遷座、青江八幡宮を合祀して、現在の天野八幡宮になる。」という「解説」が主流のように思われる。
 しかしながら、この主流と思われる「由緒沿革」は、青江八幡宮のそれではなく、実は奥田の天野神社のそれを述べたものなのである。
それをきちんと切り分けした記事が次である。
 (但し奥田村とは明治8年に奥内村・田住村が合併してできた村で、奥内・田住両村とも、明治22年に発足した鹿田村
 とは関係がないのである。)

3)サイト:神社と古事記>天野八幡宮(2001年01月24日掲載) では次のように云う。
もとは天野神社、鹿田庄12ヶ村の総鎮守、大正期に八幡宮を合祀
『延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 備前国 御野郡「天神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
もとは天野神社(高皇産霊神・若日女神・神皇産霊神)。創祀年代は不詳。社伝によれば、鹿田庄12ヶ村の総鎮守で、はじめは三門に鎮座していた。
12ヶ村は、大供・東古松・岡・内田・奥内・田住・二日市・七日市・十日市・浜野・円覚・青江。
平安時代末期の天承元年(1131)、奥田に遷座した。さらに、大正10年、現在地である青江に遷座し、青江の八幡宮を合祀して、現社号に改称した。
この八幡宮(仲哀天皇・応神天皇・神功皇后)は、平治元年(1159)8月26日、山城国男山八幡宮を勧請したもの。
 要するに、
青江八幡宮は平治元年山城石清水八幡宮を勧請したものであり、一方の奥田の天野神社は創祀年代は不明であるが、初め三門にありしが、天承元年奥田に遷座するという。
そして、大正10年青江八幡宮と奥田天野神社は合祀され、天野八幡宮となる。
ということであり、まったく別の神社が合体したのが現在の天野八幡宮なのである。
 さらに本サイトは次のように云う。
明治維新後、南側にある石鳥居に彫られた「南無妙法蓮華経」という文字を削り落とそうとしたところ、途中で石工が腹痛に襲われて中断したままになったという逸話がある。
もともと当社の御神体は大覚大僧正手刻の八幡大菩薩の木像で、青江にあった日蓮宗妙泉寺に祀られていたが、同寺が廃寺になった際、当社に移されたものだという。
 青江八幡宮の神体は大覚大僧正自刻の八幡大菩薩像で、元は青江の日蓮宗妙泉寺に祀られていたが、妙泉寺は廃寺となり、八幡大菩薩像は青江八幡宮に遷座するという。

 なお、蛇足ながら、御野郡式内社「天神社」は論社であり、それについては、次のような概説がある。

4)サイト:備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)>コラム248.天野八幡宮(2010-03-25 | Weblog) では次のように云う。
「旧・御野郡鎮座の式内社「天神社」には4つの論社がある。
A.一般に式内社「天神社」とされる「天神社」(岡山市北区三野本町)
B.「天津神社」、通称「福居天神社」(岡山市北区津島福居)
C.「天神山」にあった「天満天神社」。現在は「岡山神社」(岡山市北区石関町)の境内末社
D.岡山市北区青江の「天野八幡宮」。
天野八幡宮は、元は岡山市三門に鎮座していた「天神社」で、天承元年(1131)に奥田に遷座、鹿田庄12ヵ村の総鎮守であったが、大正10年に現在地に遷座し、八幡宮を合祀して現在の天野八幡宮になったとされる。
元の「天神社」が式内社であるとの伝承なのだが、「元は三門にあって、後に奥田に遷座・・・」というのは、「石門別神社」(岡山市北区奥田南町)にも同じ伝承があるらしい。また、そもそも三門にあった「天神社」が式内社であったかどうかも確証はない。とはいえ、A.の「天神社」にも式内社であるとの確証がないことは同じである。
(以下題目の削平の話と八幡大菩薩像の話が続くが上記3)と同一の記述であるので、省略する。)」
 悲しいかな、復古神道家や国学者や天皇教信者や戦前回帰希求派の面々にとって、式内社の比定と国家神道のヒエラルキーの揺るぎない構築は絶対命題であって、御野郡鎮座とされる今となっては所在の分からない天神社を何が何でも現存する神社のどれかに比定しなければならないらしい。A.、B.、C.いやD.であるとの付会が行われる由縁である。

 さて、本論(青江村日蓮宗妙泉寺八幡大菩薩像と鳥居に刻された題目)である。
 青江八幡宮は大正10年奥田天野神社を合祀し、天野八幡宮と改号する。合祀の形態は、奥田天野神社の社殿・社地は廃し、青江八幡宮の社殿に天野神社祭神を加えたということであろう。
 (因みに現在の天野八幡宮の主祭神は「仲哀天皇 応神天皇 神功皇后 高皇産靈神 稚日女尊 神皇産靈神」という、八幡宮祭神と天野神社祭神のミックスされたものである。)
 どのような資料に基づくのかは不明であるが、3)サイト:神社と古事記>天野八幡宮 では
青江八幡宮の「御神体は大覚大僧正手刻の八幡大菩薩の木像で、青江にあった日蓮宗妙泉寺に祀られていたが、同寺が廃寺になった際、当社に移されたものだという。
  ※2019/08/25追加:「青江史」では上記資料は「社伝にある」という。
 奥田・青江を含むこの地帯(御野郡南部)は中世及び近世初頭日蓮宗の信仰が盛んで、多くの寺院が建立された土地である。それは南北朝期大覚大僧正の弘教が広く行われたことによる。
付近の大覚妙實の開基と伝える寺院として浜野松壽寺、小原町妙恩寺(妙福寺)、二日市妙勝寺、津島妙善寺、城下蓮昌寺が現存する。
 青江妙泉寺については、寛文元年の「○妙国寺本末寺諸寺誓状」<備前金川妙國寺中にあり>にその名が見える。
即ち、寛文元年には御野郡南部に次の不受不施を固守する寺院があったことが知れる。
 妙勝寺(二日市)並衆徒、大供寺(大工村)並衆徒、宝積寺(宮ノ方)並衆徒、乗蓮寺(西古松)、寶泉寺(西古松)、
 福仏寺(東古松)、善性房(東古松)、願福寺(福長村)、本立寺(新保村)、正行寺(新保村)、真福寺(木村)、
 妙長寺(青江村)、妙泉寺(青江村)、成就院(田住村)、安静寺(奥内村)
である。  (但し、宮ノ方とは不明、福長村は福永村とも、この村は享保2年富田村と改称する。)
当時、二日市妙勝寺及び青江村妙泉寺も不受不施固守に同心した寺院なのである。
 岡山藩池田光政は寛文6年(1666)藩領の寺院整理を断行する。
特に整理の対象にされたのは不受不施の寺院であった。その結果、不受不施の寺院は惣滅する。勿論青江村妙泉寺も廃寺となる。なお、二日市妙勝寺が現存するのは、荒廃の後に受派の寺院として再興されたからである。
 青江村妙泉寺の資料は殆ど無いので、推測するしかないが、妙泉寺は金川妙国寺末で、大覚妙實の弘教で盛んになった青江村の法華宗徒が建立した寺院であろう。そして、妙国寺僧侶が関わったか大覚妙實が直接関わって建立されたのであろう。大覚妙實が直接関わったのであれば、大覚妙實手刻の八幡大菩薩像は直接授与されたのであろう。いずれにしても、大覚妙實手刻の八幡大菩薩像は妙泉寺に安置されていたのである。
 寛文6年、不受不施の固守の儀で妙泉寺は廃寺の処分となる。廃寺に伴い、大覚妙實手刻の八幡大菩薩像は同じ青江の八幡宮に移座されたのであろう。あるいは当時妙泉寺は青江八幡宮の別當(社僧)であったのかも知れないので、そうであれば八幡大菩薩像が八幡宮に移坐するのは自然であろう。
そしてこの木像が現存しているという話は聞かないので、おそらく本像は幕末まで伝えられるも、明治初頭の神仏分離の処置で棄却されたものと想像されるのである。
 なお、大覚妙實手刻の八幡大菩薩像などとはありうるのか。
「大覚大僧正」では、疑問が残るとされるも、大覚妙實造立という日蓮上人坐像2躯が紹介されている。(P.16〜)
また、大覚妙實の曼荼羅本尊では数多くの曼荼羅に八幡大菩薩が書かれている。(P.89〜、口絵)
以上のことから、大覚妙實造立の八幡大菩薩像もありうるものと思われる。
2019/05/30追加:
青江妙長寺は城下蓮昌寺末、正住山と号するという。寛文6年不受不施派弾圧により廃寺となった寺院の一つであるが、その時の住持は善興院日圓という。そしてこの日圓はこの弾圧に対し、御野郡辻村にて、棺桶に入り土中に埋もれ、抗議の入定を果たすという。
  →善興院日圓

 一方南参道の鳥居は、刻銘にあるように「嘉永2己酉歳(1849)8月、施主當邑水川七兵衛」によって建立され、その時向かって左の柱には題目「南無妙法蓮華経」と刻まれる。
(「「明治維新後、南側にある石鳥居に彫られた「南無妙法蓮華経」という文字を削り落とそうとしたところ、途中で石工が腹痛に襲われて中断したままになったという逸話がある。」)
 青江村施主水川七兵衛は熱心な日蓮信徒で、おそらく古の妙泉寺伝来の八幡大菩薩像が八幡宮に安置された事情を汲んで、鳥居を奉納したものと思われる。しかし、明治維新の王政復古で小躍りした復古神道家どもが、おそらく八幡大菩薩像を棄却したついでに、鳥居に刻まれた題目も削り取るべしと指示したのであろう。
 しかし事は、小躍りした復古神道家の意図のとおり進展しなかった。石工が日蓮宗徒であったのであろうか、あるいは石工にも良心があったのであろうか、結果は題目は削り落としたようであっても完全に削平せず、南無妙法蓮華経の刻銘が読めてしまう絶妙な細工をしたのである。
2018/10/30追加:
○「岡山市史 宗教教育編」昭和43年 より
○「青江史」青江町内会、昭和56年 より
 (項目「天野八幡宮」については、「岡山市史 宗教教育編」と「青江史」は全く同一の記載内容である。)
平治元年(1159)8月山城国男山八幡宮の分霊を勧請すると伝える。
 天野神社の縁起に天承元年9月8日巖井国守字三門高御殿に鎮座せしを、奥田村清見神兵衛氏子と謀り奥田に移す。
 建長2年頃までは天神社と称し、爾後鹿田天神社と改号、鹿田庄十二ヶ村の鎮守なりしが、
 その後各村に氏神を勧請してより、延宝4年の頃天野神社と改む。社領5斗4升9合1勺なり。
この天神社の縁起は巖井字宮山に鎮座した「天津神社」が対象となっている。
延宝4年に天野神社と改称して存続を図るも、維持困難となり、大正15年に青江の八幡宮に合祀するという経緯を辿ったわけである。 
2018/07/22撮影:
 備前青江八幡社南鳥居     青江八幡社南鳥居題目     青江八幡社南鳥居刻銘
昭和20年6月29日に空襲により幣殿、拝殿、神饌所を焼失した。昭和25年拝殿を新築。
 青江八幡社随身門        青江八幡社拝殿         青江八幡社拝殿本殿

備前青江村祖師堂・・・内部未見
2019/08/25追加:
〇「青江史」青江町内会/編、青江町内会、昭和56年(1931.10) より
祖師堂が存在する。(経度緯度は34.630195, 133.922981)
昭和20年戦災により焼滅。
昭和31年町内会の手で復興、町内戦没者合祀。
 青江祖師堂内部
※写真でははっきりしないが、中央は日蓮坐像と一塔両尊を祀る様式であろう。さらに向かって左に1基、右に2基の石塔(石塔とは断定はできない)を祀るものと思われる。
よって、この青江祖師堂は御野郡や津高郡の村々にある「お祖師様」などと呼ばれる題目石塔を祀る「祖師堂」とは性格が違うようである。日蓮坐像を祀る祖師堂の類例としては「備前西楢津祖師堂」がある。但し、西楢津祖師堂には石塔類は祀られず、この意味では、もし青江祖師堂に石塔類が祭られているとすれば、西楢津祖師堂とも性格は違うものである。
2019/10/30撮影:
施錠され、正面格子戸は不透明なアクリル板でまったく内部を窺うことはできない。
 青江村祖師堂1     青江村祖師堂2     青江村祖師堂3     祖師堂常夜燈
 祖師堂石製香炉:「奉献/戰捷記念」とある。町内戦没者合祀ともいい、国家神道そのものではないか。

岡山青江教会
〇「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
明治37年常説法院日䢒(大正8年寂。)によって開山。開基檀越小松原弥惣次。
 ※日䢒:にちこう、「こう」はしんにょうに交と書く。
〇「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
 日蓮宗青江教会
2019/10/30撮影:
北区青江5丁目21−3に所在する。
 岡山青江教会全容     岡山青江教会玄関
 開基百周年記念之碑:平成16年紀、この年を以って開基100周年を迎える。

備前青江新田祖師堂
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
a66ewo 地水二神 岡山市南区福田 青江新田 今は住宅地の合間を通る古い道。青江新田公民館の向いに、道に向けて、石が並んでいて稲荷も。
2019/10/30撮影:
緯度経度:34.62288,133.919573に所在。
祖師堂と思われる建物に接して石塔類が祀られる。但し石塔類背後に接する建物が祖師堂かどうかの確証はなく、祖師堂の後身ではあるが、単に物入れであるのかも知れない。何れにしても、ここに祖師堂があったことは確かであろうと思われる。
 青江新田祖師堂1     青江新田祖師堂2     青江新田祖師堂3     青江新田祖師堂4
向かって左から、地水二神、題目石(日蓮大菩薩)、題目石(大覚大僧正)、稲荷(「8000000」ではそのように称する)社が並ぶ。
題目石(日蓮大菩薩)は文政10丁亥(1827)年の年紀、題目石(大覚大僧正)は嘉永4辛亥年(1851)の年紀。
 祖師堂石塔類1     祖師堂石塔類2     祖師堂石塔類3
 題目石(日蓮大菩薩)1     題目石(日蓮大菩薩)2     題目石(大覺大僧正)
 祖師堂地水二神       祖師堂稲荷社1       祖師堂稲荷社2

備前御野郡濱田新田・平福村・福島村・福成村・福富新田・福田村・その他干拓地
明治8年平福村・浜田村(濱田新田)が合併して洲崎村となる。

備前御野郡濱田村牛王神・地神
旧濱田新田(濱田村)に所在、緯度・経度:34.624205, 133.947591
2019/10/30撮影時、
地区の年寄の談では「他の場所からここに移す、真言宗徒と日蓮宗徒とがいがみ合いここに移転する」という。
 ※聞いた時は、真偽のほどは不明と思ったが、以下の検討によって、ここに現在ある五角柱地神が直下に掲載の「備前洲崎題目石」のある辻の辻南東から、移転されたことを確信する。また真言宗徒と日蓮宗徒との対立は備中高尾厳島明神(市杵島明神)や備中山田伍社明神に見られるので、これは有り得ることと思われる。
 ともあれ、ここには現在、「牛王神」石碑とその南直ぐに「五角柱地神」石塔が祀られる。
一方、
1999年(平成11年)から2005年(平成17年)8月までの調査という「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」
では次のように云う。
     →「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」>地神塔
 1.A74B.html 牛王神 岡山市洲崎2 結構文字が多い「奉勧請牛王神牛安全」右脇「安政二年」(1855)左「*九月吉日」
洲崎2丁目には「牛王神」の存在が報告される。
つまり、地神は報告されていないのである。本サイトの網羅性からいって、掲載漏れは有り得ないと思われるから、本サイトの調査時点では地神は祀られていなかったと考えられる。
 さらに、ここから西方の洲崎3丁目に所在する「備前洲崎題目石」(直下に掲載)では次のように云う。
この記事は2個所に分けて掲載される。
(2.と3.であり、2は西側の地神塔であり、3.は東側の地神水神の塔の記事である。)
 2.A73EEO 地神塔 岡山市洲崎3 辻に2つの塔。西側の地神塔は飾りあり、左後「小彦名命」左「大己貴命」正「天照太神」右「倉稲魂命」右後「埴安姫命」。東にはケージがあってその中に地神水神の塔。
 3.A73EEO 地神水神の塔 岡山市洲崎3 辻に2つの塔。西側に地神塔。東にはケージがあってその中の中央に題目、左に地神水神塔(左後「」左「水神」正「地神」右「明治十六年二月建之」右後「」)、右に題目の小塔。
 現在、洲崎3丁目の「備前洲崎題目石」には、ケージがあって、その中央に題目、左に地神水神塔、右に題目小塔しかない。
西側の地神塔は存在しないのである。
つまり、本サイトの調査時点(2019/10/30)では、2.の西側の地神塔は飾りあり、左後「小彦名命」左「大己貴命」正「天照太神」右「倉稲魂命」右後「埴安姫命」という地神塔は既に無いのである。
 これは、どう考えるべきか。
冒頭の老人の談の「他からここに移す」という意味は、移したのは、ここにある2基(牛王神と地神)前部なのか、あるいはその内のいずれか1基なのかは不明であるが、地神の1基のみが移されたということであれば、洲崎3丁目にあった「地神」(五角柱地神で、正面に天照大神・・・と彫る)が洲崎2丁目の「牛王神」の祀られた場所に移されたということに相違ないと思われる。
その結果、現在この地には「牛王神」と五角柱「地神」が祀られるているということであろう。
 その移転時期は「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」の掲載記事や写真などから、またその調査時期が1999年(平成11年)から2005年(平成17年)8月までということから、少なくとも1999年までは確実に五角柱地神は洲崎3丁目にあり、最大限譲っても遅くとも2005年8月まで洲崎3丁目にあったものと判断できるから、早ければ1999年以降に、遅ければ2005年8月以降ということになろう。また下の項で述べるように、2017年08月のGoogleMapの写真には既に五角柱地神の存在は確認できないから、2017年08月には確実に移転が完了したいたと判断できる。
 なお、上記の西側と東側は「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」氏が取り違えていると思われるが、それは直下の項で説明する。
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
 移転前の五角柱地神1     移転前の五角柱地神2:洲崎3丁目にあったこ頃の五角柱地神
2019/10/30撮影:
 濱田村牛王神・地神:手前が五角柱地神、奥が牛王神。
次の牛王神はもともとこの地にあったものと思われる。
 濱田村牛王神1     濱田村牛王神2:安政2年の年紀というも、未確認。
五角柱地神は洲崎3丁目付近から、洲崎2丁目(現在地)へ移されたものと思われる。
 濱田村五角柱地神1     濱田村五角柱地神1

備前濱田村祖師堂(備前洲崎題目石)
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
A73EEO 地神水神の塔 岡山市洲崎3 辻に2つの塔。西側に地神塔。東にはケージがあってその中の中央に題目、左に地神水神塔(左後「」左「水神」正「地神」右「明治十六年二月建之」右後「」)、右に題目の小塔。
緯度経度:34.622199,133.946434に所在する。
2019/10/30撮影:
現地には題目石(日蓮他四師)・題目小塔・地神水神塔が残り、鉄骨スレート葺・四面吹抜の覆屋に覆われる。
この覆屋は勿論近代のものであるが、祖師堂であろうと推定される。
 備前濱田村祖師堂1     備前濱田村祖師堂2     洲崎濱田村石塔類
 洲崎題目石正面:日蓮大菩薩     洲崎題目石左側面:日朗菩薩/日像菩薩
 洲崎題目石右側面:大覚大僧正/日親大上人
 題目石背面には日蓮550遠忌報恩、天保2年(1831)建立、濱田村宗門中の意の刻銘がある。
 濱田村祖師堂・題目小塔:刻銘は判然とはしないが、題目を刻むと思われる。
 地神水神石塔1     地神水神石塔2
※直ぐ上の項及び本項で示すように「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」では
洲崎3丁目の辻に2つの塔があるといい、一つは西側にある地神塔(五角柱地神)であり、もう一つは東側にあるケージ(洲崎祖師堂)に祀られる題目石・地神水神塔・題目小塔であるという。
そして次の写真が掲載される。
 移転前の五角柱地神1     移転前の五角柱地神2
ところが、現在、洲崎3丁目の辻には濱田村祖師堂と題目石類しかなく、五角柱地神は存在しない。
即ち、直ぐ上の項で考察したように、濱田村祖師堂の西にあった五角柱地神は洲崎2丁目の牛王神の祀られる地に移転したのである。
 では、西にあった五角柱地神はどこにあったのであろうか。
2017年08月及び2018年08月のGoogleMapの画像から考察してみる。
 2017/08月濱田村祖師堂附近1:南から北側を撮影、五角柱地神は東(西ではなく)の辻角のケージのさらに東に建っていたものと推定される。なお、東の辻角のケージの東には、現在(2017年当時も)集合住宅が建っているが、その建物は五角柱地神の撤去後建立されたのであろう。
 2017/08月濱田村祖師堂附近2:北から南を撮影、濱田村祖師堂が西(東ではなく)にあり、五角柱地神は東(西ではなく)の辻角のケージのさらに東に建っていたものと推定される。
 2018/08月濱田村祖師堂附近:東から西を撮影、五角柱地神はゲージの手前(東)にあったものと推定される。辻の向う(西)には祖師堂が写る。
上記の「2018/08月洲崎祖師堂附近」の画像は西から東を撮影したもので、このアングルは移転前の五角柱地神2とほぼ同じものとなる。
もし、「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」氏がいうように、西に五角柱地神があったとすれば、
上で示した移転前の五角柱地神2(向かって左端が駐車場であり、右が道路である)という写真は決して撮影することは出来ないと思われる。故に、「西側に地神塔。東にはケージがあって・・・・・」は「東側に地神塔。西にはケージがあって・・・・・」ということが正しいと思われる。

備前平福村祖師堂跡:推定(平福題目石)
 題目石・地神・常夜燈がセットであり、今は狭いがそれでも堂宇があったようなスペースの名残りもあり、確証はないが、おそらく平福村祖師堂があったものと思われる。
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
A70EO 法華地神塔 岡山市平福1 青黒くてボロボロの地神塔で、左後「連 **由*」左「経 **百命*」正「**有一**」右「妙 堅牢地神守」右後「法 十方佛土中」。小道の突き当たり。法華経の「十方仏土中  唯有一乗法」が2行で、あとが???各面の先頭文字は「妙法蓮華経」
緯度経度:34.619624, 133.948761 に所在する。
2019/10/30撮影:
題目石(日蓮大士)、地神塔、常夜燈(但し、火袋などを欠く)の3基がある。
年紀は何れも不明、地神は五角柱であるが、ほぼ判読は出来ない。しかし、上記によれば、五面の頭文字を拾えば「妙法蓮華経」ということなので法華経五角柱地神であろう。
 平福村祖師堂跡1     平福村祖師堂跡2     平福村祖師堂跡3
 題目石(日蓮大士)     法華経五角柱地神     祖師堂跡常夜燈残欠

岡山三浜町三浜教会
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
岡山市南区三浜町1−10−11に所在
昭和24年(1949)の創建。
2019/10/30撮影:
旧平福村に所在する。
 三浜町三浜教会     三浜町三浜教会本堂     三浜教会本堂庫裡

岡山立川町本成寺(旧城下蓮昌寺々中本成院)
立川町は近代の干拓地であり、昭和31年この地に移転し、本成寺と公称する。
 → 備前蓮昌寺

岡山福島公園題目石・地神:旧備前福島村祖師堂題目石及び福島村地神・・・未見
 現在、福島公園に題目石及び地神が祀られる。
この題目石は旧福島村祖師堂(堂は推定)に祀られていたが、昭和53年公園に移転、2基の地神は昭和9年福島村堤防畔から移転されるという。
○GoogleMapの掲載写真 より
 現地説明板では次にように云う。
法華題目石について、向かって右は「南無妙法蓮華経 日蓮大士」、左は「南無妙法蓮華経 大覺大僧正」と刻む。大覺大僧正碑の背面には天保12年(1841)の年紀がある。
これらの法華題目石はかっては福島1丁目の端にあったが県道福島橋本線(213号)の拡幅にともない、昭和53年本公園に移転される。
2基の地神については次のとおりである。
五角柱地神:正面は天照大神、順次各面に、埴安媛命、少彦名命、大己貴命、倉稲魂命と刻む。
五角柱地神水神:正面は妙鬼子母神・十羅刹女・堅牢地神水神、順次四天王を刻む。法大持国天王、蓮大増長天王、華大広目天王、教大毘沙門天と刻む。
これらは以前、旭川の縁にあったが、度重なる水害によって昭和9年現在の堤防ができたときに、全部の民家とともに、現在地に移転する。
 福島公園題目石・地神:奥手前が大覺大僧正、奥が題目石(日蓮)であろう。常夜燈も備えている。手前2基が地神。
○「ええとこ発見図 福浜中学校区」平成28年 より
 奥の2本の石碑は法華題目石で、右は「日蓮大士」左は「大覚大僧正」を祀る。
 旧福島村祖師堂石塔
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
・ A71EEO 埴安神地神塔 岡山市福島2 公園の一角に2基ならんで有る。
地神塔、背「天照大神」左後「埴安神」左「小彦名命」右「大己貴命」右後「倉稲魂命」。四天王塔、左「経 大毘沙門天、王」。
! A71EEO 四天王塔 岡山市福島2 それからもう一基。
正左「妙 鬼子母神 十羅刹女 堅牢地神 水神」、正右「法 大持国天、王」、右「蓮 大増長天、王」。背「華 大廣目天王」。
 福島公園題目石・地神1     福島公園題目石・地神2     福島公園五角柱地神     五角柱堅牢地神・水神

備前福成村祖師堂:推定・・・未見
おそらく、福成公民館は祖師堂の後身ではないだろうか。そこに、まったく周囲の道路からは全く見えない状況で石塔類が置かれているようである。
石塔類は妙見大菩薩・題目石(日蓮)・大覺大僧正・石灯篭・五角柱地神が祀られるようである。
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
・ a68eoy 地神塔 岡山市福成 福成公会堂の道から見えないブロック塀。
並んでいる妙見大菩薩、題目日蓮、大覚、石灯籠の右端が標準地神塔。2神3命。左後「少彦名命」左「大己貴神」正「天照大神」右「倉稲魂命」右後「埴安媛命」。字が薄くてよみにくい。
 福成村祖師堂石塔など:おそらく向かって左から、妙見大菩薩小祠、題目石(日蓮)、大覚大僧正、常夜燈、五角柱地神が写るものと思われる。
 祖師堂五角柱地神

備前福島村祖師堂跡:推定(千鳥町題目石)
現在は千鳥町公民館前の狭い一画に閉じ込められているが、元来、公民館は福島村祖師堂の後身で、セットである題目石・地水両神・常夜燈は祖師堂に祀られていたものと推定される。
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
A72EOO 地水両神 岡山市南区千鳥町 千鳥町公民館の前
緯度経度:34.613507, 133.946416 に所在
2019/10/30撮影:
 福島村祖師堂跡1     福島村祖師堂跡2     福島村祖師堂跡3    福島村祖師堂跡4
 題目石(日蓮大士)     題目石(日蓮大士)台石銘:文政七申八月□□、文政7年は1824年
 祖師堂跡地水両神     祖師堂跡常夜燈

備前福田村祖師堂
○岡山市芳泉中学校区「ええとこ発見図」平成28年 より
祖師堂:明治初期建立、水害や疫痢があり、妙見菩薩を祀った。現在も日蓮宗檀家を中心に堂を護っている。
○「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
a67ewo 地神 岡山市南区福田 福田公会堂の近く、横道入って、お堂。ガラス越しにみてもなかなか見えないお堂の中を、ズームで撮ると「地神水神」が読めた。
2019/10/30撮影:
緯度経度:34.620869,133.928311に所在。
福田祖師堂は施錠されている。鍵の管理者を探すも突き止められず、従って、堂外からの撮影となる。今も講中によってお祀り、護持されているという。
堂の形式は堂奥の屋外に石塔類を安置する形式である。
 福田村祖師堂1     福田村祖師堂2     福田村祖師堂3     福田村祖師堂石塔類
 福田村祖師堂内部:妙見菩薩を祀るともいうので、向かって右の祭壇に祀るのかも知れない。
 福田村祖師堂石塔類2:向かって右から、三十番神、題目碑(日蓮大菩薩)、大覚大僧正、地神水神を祀る。
 福田村祖師堂石塔類3:情報がなく、何れの年紀も不明である。
 題目石(日蓮大菩薩)     祖師堂大覺大僧正     祖師堂三重番神     祖師堂地神水神

御野郡今村・上中野村・下中野村・木村・中仙道村・辰巳村・西長瀬村・田中村・平吉村
今村:上中野村・下中野村の西にあり、西は中仙道村・辰巳村、北の野田村・辻村との境を「鴨方往来」が通る。
 集落は本村と竹通しがある。
上中野村:東と北は西古松村、西は今村、南は下中野村。
下中野村:西市村の北にあり、東は木村・新保村、北は上中野村。村中央を南北に金比羅街道が通る。野崎は枝村。
木村:下中野村に東にあり、南は新保村、北は西古松村。
中仙道村:今村の西にあり、西は西長瀬村、南は辰巳村、北の辻村との境界を鴨方往来が通る。
 中仙道村は本村・新屋敷・中村・新田の集落からなる。
  ※本村・中村・新屋敷の由来や地域については(松槐の島跡・松の島跡)を参照。
    西長瀬村など形成想像図     備前御野郡南部要図
  また、下に掲載の「今 村 図」も参照ください。
西長瀬村:中仙道村の西にあり、西は笹が瀬川、南は田中村。
辰巳村:田中村の東にあり、東は今村、南は平吉新田(平吉村)、北は中仙道村。
田中村:笹が瀬川左岸にあり、東は辰巳村、北は西長瀬村。
 田中村は本村・野田・条の集落からなる。
   →備前天保國繪圖(部分図)
明治8年木村が下中野村に編入、平吉村が平田村に改称。
明治22年御野郡今村・上中野村・下中野村・中仙道村・辰巳村・西長瀬村・田中村・平田村が合併し「今村」が発足。
寛文6年(1666)池田光政の不受不施弾圧で
 木村では 台龍山真福寺(金川妙國寺末)
 上中野村では 榮壽山萬福寺 津島妙善寺末
 下中野村では 大名山南光寺、要行坊 何れも津島妙善寺末
   <南光寺本堂(4間四面)・客殿(3間半・5間半)は御弁当所となる。>
 中仙道村では 常□山寶積寺、通圓寺 何れも金川妙國寺末
 今村では    仲道山相雲寺、善立坊、南仙□(□は虫食いで不明) いずれも津島妙善寺末
 辰巳村では  正林寺(昌林寺)、妙教坊
   ※昌林寺は下に掲載の中仙道白髭宮を参照
 田中村では  妙藏寺、遊圓坊 何れも金川妙國寺末
 西長瀬村では 永久寺 金川妙國寺末
   ※永久寺は下に掲載の西長瀬祖師堂跡を参照
が廃寺となる。
2019/07/08追加:
今村の概要
○「今村史」今村史編集委員会、今村史刊行会、昭和30年 より
明治22年新「今村」が成立するが、昭和30年頃の今村図である。
 今 村 図
東から木村、上中野、下中野野崎、下中野、今村竹通、今村(本村)、中仙道新屋敷、中仙道中村、中仙道(本村)、辰巳、平田、平吉、田中野田、田中、西長瀬の概要が示される。
 太古、新「今村」の一体は海(穴の海)であった。しかもこの海は非常に浅い海であった。そしてそこにはいくつかの小さな島が点々と横たわっていた。中仙道の白髭宮の社地が「松の島」であり、西長瀬の稲荷社の敷地が「槐の島」であり、そこから貝塚が発見されている。
 こうした海面に旭川と笹ヶ瀬川が土砂を吐出し、洲ができ、やがて、その洲は開墾され、後の中野・今村・中仙道・西長瀬・田中などとなるものと思われる。これらの村々は中世の資料にも表れるので、その頃には集落が形成されていたのであろう。平吉は寛永19年、辰巳は寛文10年の開墾、平田は最後に開墾されたと伝える。
 南北朝期、大覺大僧正が備前を教化、浜野の多田氏、富山の松田氏が帰依し、さらに浦上氏、宇喜多氏も崇信となり、治者の権威と兵力を利用して弘教に務め、改宗を迫ったので、村内(今村)の殆どが日蓮宗となった。そのため、村内には数多くの日蓮宗寺院が建てられていた。
ところが、寛文年中、藩主池田光政の政策(不受不施派弾圧、不良寺院の廃寺、淫祠の廃止、神道請の推奨)で今村村内の寺院は全て廃寺となる。
 ※それら寺院は上で列挙した通りである。
 ※但し、若干「今村史」と「撮要録」とは食い違いがあるが、その理由は分からない。
  「今村史」にあるが「撮要録」にない・・・上中野連行寺、田中長覚坊、辰巳妙教寺
  「今村史」にないが「撮要録」にある・・・今村善立坊、今村南仙□、中仙道通圓寺である。
勿論、村内の寺院は悉く廃寺となるも、今までの信仰が衰えた訳ではなく、受派に転ずるかあるいは内信として、信仰は続いたのである。

備前今村竹通祖師堂跡
 今村竹通祖師堂は旧「鴨方往来」沿いにある。岡山市北区今1丁目8-10付近に所在。
現在は囲い(塀)もなく、石塔類があるだけであるが、その「構え」や次に説明するように、ごく最近まで棟門や塀が残っていて、かっては祖師堂があったものと思われる。
○2019/06/07追加:
名称の変更について
本ページでは、今まで、「今村祖師堂跡」称してきたが、今村本村(今村教会境内)に祖師堂跡があると推測するに至り、名称を「今村竹通祖師堂跡」と変更する。
今村の集落は大きくは「本村」と「竹通し」の2個所にあり、この付近は「竹通し」に属する。
○ごく近年まで門や塀があったことについて
最近修復工事が行われたようで、「平成30年11月外壁工事・修復工事竣工」したという石碑(寄付者の芳名録)が建つ。
工事内容については具体的には触れられていないが、GoogleStreetView及びページ「鴨方往来2・野田茶屋から境目川」に修復工事前の写真3枚があるので、それとの比較でおおよその工事内容の推察ができる。
まずはGoogleStreetViewの修復前竹通祖師堂跡写真:2018/05撮影
 修復前竹通祖師堂跡1:正面に門を構え、正面は瓦葺きのブロックモルタル塀で、まだ新しいように見える。
 修復前竹通祖師堂跡2
 修復前竹通祖師堂跡3:門は銅板葺きの棟門、正面は新しい瓦葺きのブロックモルタル塀で左右背後は
 瓦葺き土塀(推定)で特に傷みはないと思われる。
 内部は向かって右手前に石灯篭、奥に右から地水二神、題目石、石祠その他がある。
「鴨方往来2・野田茶屋から境目川」から
 修復前竹通祖師堂跡4:向かって左から、竹通祖師堂跡外観、竹通祖師堂跡内観、2個の地水二神の写真である。
 2個の地水二神とは『「地水二神」の碑の後ろには「地神水神」と彫られた小さな石が隠れるように置いてあった。』という
 解説がある。
 2019/05/11追加:
 ○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
 本サイトでは次のように述べ、写真(3枚)の掲載がある。
 「643ewo 地水二神 岡山市今 塀に囲まれて門まであって、手入れが良い。
 「祖師道場塀再新築」。古いのが「地神水神」で新しいのが「地水二神」だろうと思われる。」
  修復前竹通祖師堂跡5     地水二神碑     地神水神碑
   ※門があり、「祖師道場」の塀があり、今は見られない「地神水神」碑が写る。
以上の写真などから、平成30年(2018)11月の補修では棟門及び正面と左右・背後の塀の撤去が行われ、常夜燈が東から西に移設され、「地水二神」の碑の後ろにあった「地神水神」石が撤去されたようである。(現地にはこの石は残されていない。)その他細かな整備が行われたことも推察できる。
 しかし、特に老朽化しているとは見えない棟門の撤去とか、比較的新しくかつどこも傷んでいるとは思えない四周の塀の撤去など、文化遺産の破壊としか思われないが、どのような事情あるいは判断だったのであろうか。
いずれにしても、残念なことである。
○参考Webページ「鴨方往来2・野田茶屋から境目川
2016/03/16撮影:
 今村竹通祖師堂跡1     今村竹通祖師堂跡2
向かって右から、地水二神、題目碑、石祠、前に常夜燈が並ぶ。常夜燈以外は年紀は不明である。
 竹通祖師堂跡地水二神
 今村竹通祖師堂跡題目碑1     竹通祖師堂跡題目碑2:正面は日蓮大士、左右に日朗菩薩・日像菩薩、
 背面には大覚大僧正の名を刻む。
 竹通祖師堂跡石祠:正体は不明。     竹通祖師堂跡常夜燈:慶応元年(1865)の年紀

備前上中野正福寺・・・昭和47年(1972)正福寺と宗善寺は合併し、旧上中野村の現地に移転。

○「岡山市史 宗教教育編」 より・・・刊行年が昭和43年であるので、合併前の正福寺・宗善寺の寺歴である。
◇正福寺
かっては現在の中央町にあった。
山号は智光山、四条妙顕寺末、元和年中(1615‐24)に因幡から移したといい、また寛永2年(1625)の草創とも伝えられる。
戦前には本堂、客殿、庫裡、毘沙門堂(嘉永5年創立)、山門などがあった。
昭和20年空襲で全焼、戦後の復興で寺地を狭められるも、昭和20年庫裡を建立し、その一半に本尊を祀って再興、寺地内に富貴稲荷宮を祀る。
◇宗善寺
かっては今保字寺前にあった。
妙圓山と号す、京都妙覚寺末、寛文6年不受不施派の弾圧により、縁起その他の古文書を全て失うも、昭和31年岡山市史編集のため、同寺でも催した座談会の記録から要約すれば、概ね次のような寺歴になる。
 開山は津島妙善寺の学僧日誠で、日誠から8代目通然の時、寛文6年不受不施弾圧に遭い、伽藍を焼き払われるという。当時この付近に塔頭末寺が七ヶ寺あり、今の宗善寺の位置にあった大住坊のみが焼け残る。
 ※判明している寺中・末寺は、今保村大住坊、久米村教雲坊、白石村圓住坊が宗善寺寺家というから塔頭、今保村是相坊、今保村慶山坊が宗善寺末寺である。
その後岡山の正福寺から覚性院日親が来て、廃寺となった大住坊を足場に再興運動を始め、天和3年(1693)正福寺の竜水院日意と協力して京都妙覚寺の末寺として再興、寺号を妙圓山宗善寺とする。本堂は中興日秀の代に再建したものである。
現在の建物は本堂、庫裡、番神堂、山門などであるが、享保年間建立の本堂は3間三面の入母屋造本瓦葺の南面した堂である。
  旧宗善寺写真
  →今保宗善寺跡の現況は「備前今保宗善寺跡」<備前津高郡白石・久米・今保村中>を参照。
○「Wikipedia」 より
正福寺:現在は、岡山県岡山市北区上中野にある。
山号は宗善山。旧本山は大本山妙顕寺(四条門流)、奠師法縁(奠統会)。 <城下正福寺と今保宗善寺との合併寺院である。>
旧正福寺
寛永2年(1625)池田光政、因幡鳥取城より国替えのため備前岡山城に入城後、大明院日宥を開山に現在の市内北区中央町付近に創建される。
城下では蓮昌寺、妙林寺と並ぶ大寺であったが、今次大戦で昭和20年岡山大空襲により諸堂を焼失する。戦後の区画整理で境内が分断縮小されたため現在地への移転復興が決定される。
旧末寺:
○赤松山正住寺(岡山市南区箕島) →備中妹尾近辺の諸寺
旧宗善寺
文亀2年(1502年)松田左衛門佐(金川城主松田左近将元喬の子)を開基檀越に日誠を開山とし現在の市内北区今保付近に創建される。
その後岡山藩主池田光政の宗教政策(寛文法難)で一時廃寺となるが、貞享2年(1685)正福寺の末寺として再興された。
(しかし、堂宇の痛みが増し)
昭和47年(1972)両寺が合併し宗善山正福寺として復興される。
2019/04/06撮影:
 正福寺山門1:鐘楼門     正福寺山門2     正福寺山内1     正福寺山内2
 正福寺本堂     正福寺鬼子母神堂     正福寺客殿     正福寺庫裡
 三十番神堂     富貴大善神     早御崎天王:富貴大善神・早御崎天王とは不詳
 正福寺本堂北側:本堂北側に堂宇が2棟あるが、納骨堂などと思われる。


備前野崎祖師堂跡(推定)
野崎は下中野村の枝村である。
下中野字野崎に所在し、野崎公会堂敷地にある。経度・緯度:34.64109,133.906517
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地水両神 岡山市下中野 野崎公会堂の前。「明治九丙子年(1876) 九月吉日建之」。右隣に牛頭天王。左は題目石。
○現況
野崎公会堂敷地に野崎サロンがあり、公会堂敷地に石塔3基が残る。
 備前野崎祖師堂跡:GoogleMsp より転載
石塔3基:題目石(日蓮大士)、地水両神、牛頭天王である。
公会堂は野崎祖師堂の後継であろう。石塔2基の立地から、ここに野崎祖師堂があったものと推定される。
2019/05/25撮影:
 題目石(日蓮大士):左右の両側面に銘があるも、判読できず、年紀などが不明
 野崎祖師堂跡地水両神:上記に従えば、明治9年の年紀(未確認)     野崎祖師堂跡牛頭天王:年紀は不明


備前木村祖師堂
岡山市南区(北区ではない)下中野に所在する。経度・緯度:34.638215, 133.908476
 ※現在、下中野のJR線東側は北区ではなく南区である。おそらく下中野の南区部分がかつての木村にほぼ相当すると思われる。従って、下に記載のように堂に「木村町」の表示があったということからも木村祖師堂であると思われる。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地神 お堂には木村町と書いてある。正面は地味なお堂で、その後ろにごっそりある。
左から、溶けた地神塔(もう読めません)、その後ろ「南無妙法蓮華経 地神水神」、日蓮大士、大覚、三十番神、牛頭天玉。
日蓮には「天明元辛丑年」「五百御++忌」(1781)。
 ※堂に木村町と書いてあるとのとこであるが、現在はそれはない。木村の名残りが残っていたということであろう。
 なお、本サイトは1999年(平成11年)から2005年(平成17年)8月までの調査という。
木村祖師堂旧状写真があるので、それを転載する。
 木村祖師堂旧状:現状と比較すると、祖師堂及び石塔類は現在地から北西約20mの地点からそっくり移設されたのではないかと推定される。
○現況
祖師堂が現存する。前に常夜燈を配し、堂宇の外・背後に石塔を安置する形式の祖師堂である。
石塔は、向かって左から、地神塔(推定)、題目石(地神水神)、題目石(日蓮大士)、題目石(大覚大僧正)、題目石(三十番神)、題目石(牛頭天王)と並ぶ。
題目石(日蓮大士)以外の年紀は不明である。
2019/05/25撮影:
 木村祖師堂1     木村祖師堂2     木村祖師堂3
 木村祖師堂石塔1     木村祖師堂石塔2     木村祖師堂石塔3
 地神塔(推定)・題目石(地神水神)・題目石(日蓮大士)
 題目石(日蓮大士)・題目石(大覚大僧正)     題目石(三十番神)・題目石(牛頭天王)
 地神塔(推定)     題目石(地神水神)
 題目石(日蓮大士)1:木邑講中とあり、ここは木村であることを示す。
 題目石(日蓮大士)2:天明元辛丑年(1781)、五百遠忌 と刻する。
 題目石(大覚大僧正)     題目石(三十番神)     題目石(牛頭天王)     木村祖師堂常夜燈

備前下中野祖師堂跡
北区下中野の下中野本町公会堂の北側の墓地に所在する。経度・緯度:34.63834,133.900577
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
『地水神 岡山市下中野 ここは墓地です。しかし題目石などあります。気配を感じで茂みをかき分けると「地水神」が居ました。しかし、写真をとれる状況でありません。無念。』
とあり、夏に訪れたのか、地水神があり、かつ草木が繁茂して荒廃した様子が分かるだけである。
○現況
 石材で囲った基壇上には、向かって左から地水神、石佛、題目石(日蓮大菩薩)、大覚大僧正、不明石塔が並び、基壇の前中央には大型の香炉(推定)が置かれ、右前には常夜燈がある。そして、現地では見落としていたが、不明石塔の前の基壇には「石碑」が立て掛けてあると思われる。
「立て掛けの石碑」は現地では気が付かず、写真をセレクトしていた時に気がついたもので、それ自体を写したものではないので、はっきりとは写っていないが、おそらく「祖師堂●●」と刻む石碑のようである。
 たまたま、墓碑の清掃に来ていた婦人にお聞きすると、ここには祖師堂があったという。いつ頃まであったかとお聞きすると、多分昭和の終わり頃あるいは平成の初め頃、つまり、今から30年ほどまであったような気がするとのことであった。
退転した時期は別として、祖師堂は確かにあったものと判断できる。
 残存する石塔などや基壇や構えからも祖師堂があったのは確実と思われる。
2019/05/25撮影:
 下中野祖師堂跡1     下中野祖師堂跡2     下中野祖師堂跡3     下中野祖師堂跡4
 「立て掛けの石碑」:写真が小さく確実な訳ではないが「祖師堂●●」のように判別できる。
 下中野祖師堂地水神     下中野祖師堂石佛
 題目石(日蓮太菩薩)1     題目石(日蓮太菩薩)2:天保元年(1830)年紀、日蓮500遠忌
 大覚大僧正1           大覚大僧正2:年紀は不明
 下中野祖師堂・不明石塔:まったく判読できず、性格は不明。
 下中野祖師常夜燈:年紀はあると思われるも、判読できず。

備前今村・今村宮
建武元年(1334)奥州白川の城主である菖蒲七郎左衛門の子・正寿が内山下の榎の馬場に創建する。
祭神はアマテラス、八幡大菩薩、春日大神であったので、「三社明神」、「三社宮」と称したと云う。
天正8年(1580)宇喜多直家が岡山城を拡張し、その際に三社明神を今村(現在地)に移転し、三社八幡宮と称する。
元々、今村には八幡神が祀られていたが、そこに遷座するという。江戸期に入り、社号は今村宮と改められる。
元和8年(1623)本殿が再建され、現存する。本殿は三間二間の三間社流造・屋根檜皮葺で、地方の社殿としては大規模である。昭和30年県文に指定。
2019/05/25撮影:
 今村宮神門     今村宮随身門
 今村宮本殿1    今村宮本殿2    今村宮本殿3    今村宮本殿4    今村宮本殿5    今村宮本殿6

備前今村本村祖師堂跡(推定)
現在の今村教会境内に江戸後期の常夜燈・石塔などがある。
おそらくは、今村本村の祖師堂跡であろう。
 (今村の集落は本村と竹通しがある。)
かつては、ここに本村祖師堂があり、昭和の初め今村教会が祖師堂の場所を取り込む形で建立されたものと推定する。
手前に常夜燈2基があり、向かって左から大覺大僧正、日像菩薩、題目石(日蓮大菩薩)、日朗菩薩、地神の石塔が並ぶ。
2019/05/25撮影:
 今村本村祖師堂跡1     今村本村祖師堂跡2     今村本村祖師堂跡3
 大覺大僧正:年紀不明     日像菩薩:年紀不明
 題目石(日蓮大菩薩):天明元年(1781)年紀     日朗菩薩:寛政3年(1791)年紀
 今村本村祖師堂跡地神
なお、常夜燈の年紀は慶応2年(1866)である。

日蓮宗今村教会(御真筆堂)
北区今7丁目2−30に所在。
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
明治年中、今村在住の篤信者・霜山幸次郎は備中吉村智俊師秘蔵の御真筆本尊を譲り受け信仰に励む。
おりしも家族が病気となり、回復し難いことを知った村人が御真筆前で祈念すると、家族は全快する。
この村人の恩義に報いるため、明治45年御真筆を村に寄贈する。村はこれを護持していたが、昭和の初めに教会所を建立し、昭和27年に「日蓮宗今村教会所」として発足する。
2019/07/08追加:
○「今村史」今村史編集委員会、今村史刊行会、昭和30年 より
日蓮上人54歳6月の御染筆大曼荼羅を勧請して開創される。この曼荼羅は所有者吉村智俊氏の没の後未亡人より今村の霜山幸次郎氏が譲り受け、同氏よりさらに今村に寄付せられたものである。そこで(黒住馬吉氏以下20名の)村民によって教会所建設が議決せられ、現地に27坪の聖堂が建てられ大正4年教会所として認可される。
担任教師は三門妙林寺となっている。
 ※今村本村題目石(推定今村本村祖師堂)については全く言及がない。
2019/05/25撮影:
昭和の初め教会所が建立されるが、それは今村本村祖師堂を取込拡張する形で建立されたと推定される。
なお、門は石製角柱であるが、この石柱には大正4年1月建設との銘があり、経会所建立は大正初期であるかも知れない。
 日蓮宗今村教会1     日蓮宗今村教会2     日蓮宗今村教会3     日蓮宗今村教会4

備前中仙道白髭宮
○サイト:岡山県神社庁>白髭宮 より
由緒
 当社は後小松天皇の応永8年近江の白髭宮を勧請し、中仙道松之島(松槐の島跡・松の島跡)に創建した。
 文亀・永正の大洪水に、社殿が辰巳村に流され、昌林寺に祀っていたが、寛永13年中仙道地区に再建した。
○サイト:神社人>白髭宮 より
由緒
応永8年(1401)に、近江の白髭宮を勧請し、中仙道松之島(松槐の島跡・松の島跡)に創建したことに始まる。
そして、文亀・永正年間(1501〜1520)の大洪水に、社殿が辰巳村に流され、昌林寺に祀っていたが、寛永13年(1636)に、岡山市北区中仙道地区に再建した。
現社地は、大昔、海であった当時の松の島と呼ぶ一孤島であったが、今は稲田に囲まれてその面影はない。この松の島へ・・社殿を創設したのが白鬚宮である。
その後、文亀永正(1501〜1520)の頃、大洪水があって社殿は南方の辰巳村へ流れたので、氏子一同は、同地の法華宗昌林寺に構えてしばらく祀っていたが、寛永13年(1636)に、氏子一同が協議して元の松の島に社殿を建て、神霊をお迎えして旧に復することができた。・・・(今村史より抜粋 昭和30年9月発刊)。
○特記事項
1)寛文6年廃寺となった辰巳昌林寺(正林寺)の消息の一端に由緒が触れていること。
2)境内に牛頭天王社があり、その祭神は保食神であるということ。
2019/05/25撮影:
末社に牛頭天王社がある。
但し、祭神は保食神(ウケモチノかみ)となっている。
おそらく、明治維新の神仏分離で牛頭天王は廃され、祭神が融通無碍に保食神に変更されたのであろう。しかし、社号は元の牛頭天王の名を残すとは粋な計らいではないだろうか。
また、祭神保食神はいってみれば地神や牛馬神と同じ神で、少々牛頭天王とは性格が異なるが、祭神変更を強制されるなかで、この地方の信仰形態を踏まえた妥当な選択であったというべきか。
 中仙道白髭宮末社牛頭天王

備前中仙道新屋敷祖師堂跡
中仙道新屋敷集会所(西小学校の東)がその場所である。
 中仙道村は本村(20軒)・新屋敷(16軒)・中村(16軒)・新田(11軒)の集落からなる。
  ※本村・中村・新屋敷の由来や地域については(松槐の島跡・松の島跡)を参照。
    西長瀬村など形成想像図     備前御野郡南部要図
  2019/07/08追加:
  ○「今村史」今村史編集委員会、今村史刊行会、昭和30年 より
  明治22年新「今村」が成立するが、昭和30年頃の今村図である。
    今 村 図
石塔などが中仙道新屋敷集会所前にあり、ここは中仙道新屋敷であり、中仙道新屋敷祖師堂跡であろう。
集会所は新屋敷祖師堂の流れを汲むものと思われ、石塔などの種類からも、ほぼ確実に祖師堂跡と思われる。
石塔などは向かって左から、地水神、三十番神、題目石(日蓮大菩薩)、大覺大僧正、常夜燈が祀られる。
年紀は何れも不詳である。
2019/05/25撮影:
 中仙道新屋敷集会所     中仙道新屋敷祖師堂跡1     中仙道新屋敷祖師堂跡2
 祖師堂石塔など1     祖師堂石塔など2
 祖師堂地水神     祖師堂三十番神     題目石(日蓮大菩薩)     大覺大僧正     祖師堂常夜燈

備前中仙道本村祖師堂跡(推定)
北区中仙道2丁目9−32に所在する。西小学校西側の道路を隔て、少し西にある。経度:緯度:34.645716, 133.886382
 この付近が中仙道村本村かどうかは確証がなく、また一帯は区画整理事業が行われていて、現在の石塔の位置が原位置なのかどうかも不明であるが、現在の石塔の位置がほぼ原位置であるとすれば、東が中仙道村新屋敷であることはほぼ確実で、北西の方向に中村があったらしいので、この付近が中仙道村本村であろうと推定する。
  (中仙道村は本村(20軒)・新屋敷(16軒)・中村(16軒)・新田(11軒)の集落からなる。)
従って、本石塔などを中仙道本村祖師堂跡と推定仮称する。また、石塔などが原位置のままなのかどうかは不明なので、現在ある石塔などの種類から祖師堂跡と推定する。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
牛神 円盤形の牛神。石灯籠などいろいろあり、地神塔も。
なお、本サイトは1999年(平成11年)から2005年(平成17年)8月までの調査という。
本村祖師堂跡旧状写真を転載する。
 中仙道本村祖師堂跡旧状:1999〜2005年、石塔や基壇は2019年の現状と変わらない。
向かって右の建物も変わらないが、左の建物は事業所に変わり、石塔前は田圃であったが、事業所の駐車場になっている。
○現況
明らかに区画整理の行われたと思われる街中にあり、種々の事業所の狭間に閉じ込められたような環境にある。
繰り返すが、石塔などが原位置を保つのかどうかは不明である。
石塔類は北側から、題目石(日蓮大菩薩)、無縫塔(不明)、題目石(大覺)、牛神、地神塔(社日塔)、常夜燈と続く。
2019/05/25撮影:
 中仙道本村祖師堂跡1     中仙道本村祖師堂跡2     中仙道本村祖師堂跡3
 題目石(日蓮大菩薩)1;右側面は南無日像菩薩     題目石(日蓮大菩薩)2:左側面は南無日朗菩薩
 無縫塔(不明)
 題目石(大覺):大覺は不確実であるが、そのように見える。     中仙道本村祖師堂牛神
 地神塔(社日塔):正面は「天照大神」と思われる。     中仙道本村祖師堂常夜燈:嘉永4年(1851)の年紀と思われる。

備前中仙道中村祖師堂遺構(推定)
中仙道公会堂横にある。経度・緯度:34.646299, 133.884906
石塔などは一見、祖師堂跡にような構えをしているが、下記の記事のように、2001年春?(平成13年)頃に少し東に移動したようである。それ故、祖師堂跡ではなく、祖師堂遺物であろう。
ここには、石塔などと、その背後に細江越前守の祠と井戸枠及び顕彰碑が、中仙道村中村から移設されて、在る。
 さて、この石塔などは祖師堂の遺物と推定されるが、どの祖師堂であったのかは情報がなく、分らない。
しかし、この付近が中仙道・中村である確証はないが、中村から上記の祠・井戸枠が移設されているので、中村祖師堂の遺物と推定される。従って、中仙道中村祖師堂石塔と推定・仮称する。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地水神 妙見大士と題目石と並んで、盆栽を連想させます。しかし、2001春?、工事により解体されて、場所が移りました。石は残ったが風情は残らなかった。(ちょい東)
なお、本サイトは1999年(平成11年)から2005年(平成17年)8月までの調査という。
中村祖師堂跡旧状写真を転載する。
 中仙道中村祖師堂跡1     中仙道中村祖師堂跡2
 ※上記の写真とちょい東ということから、GoogleMapで移動前の中村祖師堂跡位置を推定する。
  中村祖師堂跡推定地:経度・緯度は34.646374, 133.884170、中仙道公会堂から約50m東の地点と推定する。
○現況
石塔などは、向かって右から地水神、題目石(日蓮大士)、妙見大士、常夜燈が並ぶ。(年紀はいずれも不明)
背後には、右から、中村の井戸枠、瓦製祠、細江越前守の祠、「細江様・井戸の由来」(顕彰碑)が移設されている。
なお、100mほど北西に中仙道中村の墓地がある。
2019/05/25撮影:
 中仙道中村祖師堂石塔1     中仙道中村祖師堂石塔2     中仙道中村祖師堂地水神
 題目石(日蓮大士)         中仙道中村祖師堂妙見大士     中仙道中村祖師堂常夜燈
●中仙道中村遺物
 中仙道中村遺物
 「細江様・井戸の由来」(顕彰碑):この文面の通りである。
 「細江様・井戸の由来」(顕彰碑)裏面:平成13年(2001)現在地から北西200mの場所から、移設するという。碑の建立は平成23年(2011)。碑建立の主体は「中仙道中村」とある。
 中村の井戸枠:豊島石(角礫擬灰石)製     瓦製祠・細江越前守の祠

備前中仙道中村墓地題目石
中仙道中村に墓地がある。
備前中仙道中村祖師堂石塔(推定)から北西約100mに位置する。経度・緯度:34.646823, 133.883398
2019/05/25撮影:
墓地入口(南)に題目石(法界萬霊)と墓地奥に摩耗した角柱と宝篋印塔などの残欠がある。
 題目石(法界萬霊)1     題目石(法界萬霊)2:昭和三年十一月/中村中建之 とあり、昭和初期のものである。
中村中の建立とあり、ここは中村であることが分かる。左は古い墓誌のようである。
 角柱・宝篋印塔残欠:角柱は摩耗して読めないが、地神などと思われる。宝篋印塔は基礎及び屋根2基を積み上げたもので、おそらくは、古い墓碑の残欠であろう。碑も建てられ、それによると平成18年(2006)墓地の嵩上が行われたようである。

備前辰巳祖師堂跡
北区辰巳17−101、辰巳公園の北側にあり。経度・緯度:34.640841, 133.887698
広くブロック塀に囲まれ、その中に石塔などがある。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地神 岡山市辰巳 地神と、三十番神の塔(1846)、牛神かもしれない熔け石。
○現況
ブロック塀に四周を囲われる、その広さは祖師堂が十二分に入る大きさである。
以上の構えや石塔などから、辰巳祖師堂跡であろう。
石塔は次のように祀られる。(向かって左から)
不明四角柱、地神、題目石(疫神大菩薩)、大覺大僧正、笠塔婆(推定:高祖日蓮大聖人)、笠塔婆(不明)、題目石(日蓮大菩薩)、三十番神、前方に常夜燈
2019/05/25撮影:
 辰巳祖師堂跡1     辰巳祖師堂跡2
 祖師堂跡石塔など1     祖師堂跡石塔など2
 祖師堂跡石塔など3:写真地面の中央に長い石材が置かれているが、この石材の向かって右側の石塔類が辰巳祖師堂の
 もので、左の3基の石塔類は区画整理などで、辰巳祖師堂に移設されたのではないかという感じがする。
 不明四角柱:牛神かどうかは不明     辰巳祖師堂跡地神
 題目石(疫神大菩薩)1
 題目石(疫神大菩薩)2:明治廿六(?)年 / 御題目二十(?)部 / 疫神大菩薩 / 五月十(?)●日 / 立之 とある。
 疫神大菩薩とは聞きなれない菩薩名であるが、建立が明治維新後であり、牛頭天王の名称が禁止され使用が憚られ、牛頭天王の代わりに使われたのではないかと推測する。
 大覺大僧正
 笠塔婆2基
 笠塔婆(推定:高祖日蓮大聖人)1
 笠塔婆(推定:高祖日蓮大聖人)2:判然とはしないが「高祖日蓮大聖人」と刻するように見える。
 笠塔婆(不明)1     笠塔婆(不明)2:一層判然とはしないが、下部は「日像(?)」とも見えるも、どうであろうか。
 題目石(日蓮大菩薩)1     題目石(日蓮大菩薩)2:文政7年(1824)年紀
 祖師堂跡三十番神        辰巳祖師堂跡常夜燈:年紀は不明

備前辰巳墓地(辰巳公園東墓地)題目石・墓碑
辰巳公園東に墓地があり、題目石と智妙院日弘上人墓碑がある。
2019/05/25撮影:
辰巳題目石
 辰巳墓地題目石:無縁佛中に題目石が建つ。少々判読しずらいが、題目石である。
智妙院日弘上人墓碑
 智妙院日弘上人墓碑:墓碑左右背後に次のような文面(大意)が彫られる。
  山本本誓寺上人は明治32年岡山市辰巳179ノ1番地の山本家長男として生まれる。
  中年発願し身延七面山道十万部寺にて剃髪僧籍に入り、生家を改築して本誓寺と定め、宗教活動に精励す。
  昭和51年行年78歳にて遷化。
おそらく昭和の初期から少なくとも昭和51年までは、辰巳に智妙院日弘が開基と思われる日蓮宗本誓寺があったと知れる。
しかし「辰巳179ノ1番地」は旧番地であり、旧地は不明、また本誓寺に関する何の情報もないので、本誓寺の具体像は全くわからない。

備前辰巳本誓寺・・・存在確認できず
2019/07/08追加:
○「今村史」今村史編集委員会、今村史刊行会、昭和30年 より
本誓寺:辰巳
辰巳の昌林寺に大覺大僧正真筆の十誡があった。
 ※十誡;不殺生・不偸盗 ・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語 ・不貪欲・不瞋恚・不邪見か。
寛文年中光政の圧殺によって昌林寺は廃寺となり、その時、寺とともに焼かれる十誡を守ってお祀りした辰巳の山本氏は代々密かに信仰していた。
大正元年3月時の山本日弘氏はこの十誡に併せて身延山鎮守開運妙法の二神を勧請、現在の場所にお祀りし、同志の信徒を集めて宗教結社をを作る。
大正5年結社を改築し、信徒も県内外に増加していった。
昭和21年別格山本誓寺として日蓮宗寺院として寺号を公称する。日弘はその住職となり、現在の信徒は600人(半数は県外)となる。
 備前辰巳本誓寺
 ※本誓寺は当時(昭和30年)ある程度隆盛であったが、現在(2019年)では全く情報がなく、おそらく現在では廃寺(建物も退転か)となっているものと思われるが、どうなのであろうか。

備前西長瀬祖師堂遺構
 西長瀬公会堂南に稲荷大明神があり、そこに題目碑などの宝塔類と石灯篭がある。
また、公会堂の北東一帯は「西長瀬南公園」であるが、祖師堂跡東にある墓地に墓参に人に聞くと
 現在は西長瀬公園となるが、ここに祖師堂(稲荷大明神と思われる)と大木(樹木種類は失念)と碑(多分石塔類のこと)があり、区画整理で公園には公園施設以外のものを置くことはできないとのことで、堂も碑も現在地へ移転した。
とのことである。
 以前の稲荷大明神と石塔の位置関係は不明で、また稲荷社とは別に祖師堂があり、祖師堂は公会堂に転用され現在の公会堂に造替されたのかなどは不明である。何れにせよ、稲荷社・石塔類はすぐ北東の現在の西長瀬公園の何れかの場所から移転・再興されたことは確かである。
 「西小学校区名勝史跡めぐり」では「槐の島跡」とある。
 では、「槐の島跡」とは何かということであるが、下に掲載の「◆槐の島跡・松の島跡」の記事を参照。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
三十番神、四角塔 扁平な四角柱で新しいが、趣旨は地神塔と同じらしい。正「三十番神」左「五穀成就」右「地水神」裏「平成六年」西長瀬。そう、平成なんである。
なお、本サイトは1999年(平成11年)から2005年(平成17年)8月までの調査という。
三十番神、四角塔の旧状写真があるので、それを転載する。
 三十番神、四角塔の旧状写真1:左に写る石塔は今はなき「日朗・日像・大覺」のいずれかの石塔であろうか。
さらに左の大型の石塔はおそらく「題目石(日蓮大士)」であろうか。
 三十番神、四角塔の旧状写真2
これらの写真では判断できないが、フェンスや墓碑が写るので、祖師堂は西長瀬公会堂に北側にあったのかも知れない。
○現況
 A.西長瀬公会堂南に稲荷大明神があり、稲荷社を入って左手に石塔類が置かれる。
稲荷大明神に鳥居には「平成20年9月建立」とあり、また「稲荷大明神平成新築建替」の寄付芳名碑があるので、稲荷大明神は平成20年(2008)頃、移転の上新築建替されたものであろう。
 B.石塔類は向かって左から、右常夜燈、三十番神・地水神、題目石(日朗菩薩)、題目碑(日蓮大士)、題目石(日蓮大士)、題目石(日像菩薩)、題目石(大覺大僧正)、左常夜燈が置かれる。
但し、古いものは題目碑(日蓮大士)と左右の常夜燈のみで、三十番神・地水神、題目石(日朗菩薩)、題目石(日像菩薩)、題目石(大覺大僧正)は平成の再興の石塔に造替されているのは残念なことである。
三十番神・地水神は平成6年(1994)の建立、題目石3基(日朗・日像・大覺)は西長瀬講中による平成20年(2008)8月の再建である。
 C.稲荷社境内に「西長瀬正一位稲荷大明神の跡、西長瀬槐の島跡、西長瀬永久寺の跡」と記す1基の石碑が建つ。
つまりここは、中世には槐の島跡であり、西長瀬永久寺の跡とも推定されている縁の地であるのであろう。
2019/07/08追加:
○「今村史」今村史編集委員会、今村史刊行会、昭和30年 より
正一位稲荷大明神
神木:槐と楝の大樹あり。
 ※楝:センダン・おうちの木、落葉高木という。
古来この社地を白髭宮の松の島に対して槐の島と云い、傍らに貝塚があるあることから、太古からの島であったと思われる。里人はこの地を選び京都の伏見稲荷から勧請いて村内守護神として祀る。これは今から550年ほど前であるが、その後一時白髭宮の境内に移されたが、再び槐の島に復帰するという。
100年ほど前に前堂を新築、昭和12年改築する。
2019/05/25撮影:
 西長瀬稲荷大明神     西長瀬祖師堂遺物石塔類     西長瀬祖師堂遺物石塔類2
 右常夜燈     三十番神・地水神
 題目石(日朗菩薩)     題目石(日蓮大士)     題目石(日像菩薩)     題目石(大覺大僧正)
 左常夜燈
しかし、再建に当たり、日朗を「日郎」、日像の像の漢字を「日偏に象」とするなどは、お粗末すぎるのではないか。

槐の島跡・松の島跡
参考文献:サイト:「市久会 矢坂山を語る会」>「西野田庄城
古代、現在の西長瀬・中仙道・辰巳・田中などは海(吉備の穴海)であった。
しかし、旭川、笹が瀬川の乱川が土砂を運び、吉備の穴海に次第に中州が形成されてきたと想定される。
その中州の一つが「槐の島」であり、「松の島」であったのである。
そして、この微高地(中州)を中心にして、鎌倉末期から室町期にかけて開墾が進み、ひとの定住が見られるようになったと考えられている。
「槐の島」はやがて集落を形成し、中世には日蓮宗西長瀬永久寺が創建され、近世には西長瀬村として成立する。
さらに、「槐の島」から南に開墾されたのが田中村で、東に開墾されたのが中仙道中村と中仙道本村なのである。
一方の「松の島」も集落となり、中世には白髭宮が勧請される。近世には中仙道新屋敷として成立する。そのさらに南方は辰巳村として開墾される。
標記のページより転載
 西長瀬村など形成想像図     備前御野郡南部要図

備前田中祖師堂(田中の経堂さん)
北区田中140−122附近に所在、経度・緯度:34.6437,133.880387
西小学校区名勝史跡めぐり」では「田中の経堂さん」とある。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地神 三十番神のお供で地神。「三十番神地神水神 文政八年(1825)???」。水神も同居。他に、地神塔。伍番善神。
○現況
まず、「経堂さん」がどのような由緒なのかが不明、石塔類の中央に配置される小祠が経堂さんであるのだろうか。
中央に配置される小祠を除けば、配置される石塔類は祖師堂に配置される石塔類とほぼ変わらない。
そして、石塔類の前には拝所(堂宇)が現存する。
従って、「経堂さん」は仮に田中祖師堂と呼称することとする。
2019/05/25追加
 田中祖師堂1     田中祖師堂2     田中祖師堂3     田中祖師堂4     田中祖師堂5
 田中祖師堂6     田中祖師堂7
 石塔類・その1     小祠・石塔類1     小祠・石塔類2:小祠の祭神・名称・由来など不明。     石塔類・その2
 右常夜燈     三十番神地神水神:文政8年(1825)年紀
 大覺大僧正:年紀は判読できず。     題目石(日蓮大士):寛政3辛亥(1781)年
 三十番神伍番善神:文政8年(1825)年紀
 五番善神とは薬王菩薩、勇施菩薩、多聞天、持国天、鬼子母神、十羅刹女をいうようであるが、文化8年の段階で
 伍番善神の信仰が流布していたのであろうか。
 題目石(妙見大菩薩):文化2乙丑(1805)     社日塔(地神)1:天照大神/倉稲魂命
 社日塔(地神)2:倉稲魂命/埴安媛命     左常夜燈

備前田中野田祖師堂跡
野田は田中村の大字?と思われる。野田の地名はここ田中村の野田だけでなく、野田村、西市村の野田などがあるので、混同を避けるため、田中野田と呼称する。
〇PDF文書「地区の守り神『地水神さま』などについて」昭和63年 より
 田中野田公会堂の入口のところにつぎのような三つの石塔がある。
1)地水二神と三十番神、2)南無妙法蓮華経(題目石)、3)大覚大僧正
2)は嘉永の始めに建立されたことが、石塔に刻まれているので、今から140年ほど前に この土地の住民が祭ったものと思われる。私が子供の頃にはお年寄りの人が毎日お参りしていた。(中略)
この石塔も公会堂と同じく区画整理のために移転しなければならなくなっている。(後略)
 ※昭和63年の記述に石塔も公会堂も区画整理で移転する手筈といい、また祖師堂への言及はないので、この頃祖師堂は既に公会堂となったいたと思われる。そして間もなく、公会堂も石塔も区画整理で移転したものと思われる。
 ※嘉永の初めの建立と石塔に刻まれるという。この石塔は「地水二神と三十番神」と推測される。この石塔の年紀は「●永元年」とあり、●が判読できないが、●永は嘉永と判読したということであろう。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地水二神 岡山市田中野田? 「地水二神」と「三十番神」で合計32神?
○現況
上記のように、公会堂と石塔は区画整理で移転したものと思われる。どのような距離を移動したのかは不明であるが、元々の祖師堂の形式をやや毀す形で移動したのであろう。
現在は公会堂と石塔はやや離れて、横に並列に配置されているが、元は、備前・備中の祖師堂の形式の通り、公会堂(祖師堂)の背後に石塔が祀られていたものと推測する。そして、そもそも、公会堂は祖師堂が改組されたものと思われる。
石塔などは、向かって左から、大覺大僧正、題目石、三十番神/地水二神、常夜燈と祀られる。
2019/05/25撮影:
 田中野田公会堂:写真左端に祖師堂石塔などが写る。
 祖師堂跡石塔など1     祖師堂跡石塔など2
 大覚大僧正:左面は「正當四百御遠忌建」、右面は宝暦13年(1763)年紀を刻む。
 祖師堂跡題目石:嘉永2年(1849)の年紀
 地水二神・三十番神:●永元年四月吉日の年紀、●永は上記のように嘉永であろう。
 祖師堂跡常夜燈

備前平田祖師堂跡(お祖師様)
平田公民館の前にある。平田消防庫の横にある。経度・緯度:34.63445,133.887247
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
牛頭天王 四角柱の牛頭天王。地神塔とペアになっていて、塔の形。
 正「牛頭天、王」右「慶応二丙寅年(1866)四月二日」左「新田講中」
〇現況
かっては現存する石塔などの前に祖師堂があったものと思われる。そのスペースは現在も空き地となっている。
さらに、その奥には平田公民館となる。石塔などの背後は平田消防庫である。
石塔などは、向かって左から牛頭天王、大覺大僧正、題目石(法界)、三十番神、常夜燈1基が祀られる。
題目石(法界)の年紀は文化14年(1817)、大覺大僧正は文久2年(1862)、牛頭天王の年紀は上記の通り。
2019/05/25撮影:
 平田公民館     平田祖師堂跡1:石塔類の前にはおそらく祖師堂の区画が残る。
 平田祖師堂跡2     平田祖師堂跡3:この石塔類の構えや基壇は祖師堂のあった時代そのものであろう。
 祖師堂跡牛頭天王:天王の天には「、」読点が付く。
 正面:大覚大僧正     左面:日朗菩薩     右面:日像菩薩
 題目石(法界)        左面:高祖日蓮大菩薩
 正面:三十番神     右面:堅牢地神:左面は判読できず、背面は未確認
 祖師堂常夜燈      祖師堂石製香炉:香炉?

備前平田木野山祠
木野山様と称する一画があり、そこに木野山様小祠と地神が祀られる。
平田祖師堂跡から100m程東進し、突き当りのT字路を右折すれば直ぐにある。
Webサイトの情報を総合すれば、平田の木野山様は次のような由来という。
 江戸幕府が倒れ、明治の世になって疫病が流行し、多くの死者が出るという。このため疫病平癒と防疫のため、備中木野山神社を勧請するという。備中木野山神社は中四国では当時大変な流行神であり、多くの村々が争って勧請するという。
 因みに、疫病(コレラ)は安政5年(1858)全国で大流行し、死者の数は30〜40万人にも上ったという。備前では藩士が33人町人が166人亡くなったとの記録がある。
明治になってからもコレラは猛威をふるい、明治10年(1877)、明治12年、明治35年と大流行したという。
なお、米倉公会堂(南区米倉46)の北側にも一画があり小祠が祀られ、それも木野山様が勧請されているという。
 ※備中木野山神社は伊予大三島(伊予三島大明神)から大山祇命他五大神を勧請し成立したと伝える。
 ※備中木野山神社は上記の伊予三島大明神の項の最後にあり。
2019/05/25撮影:
 平田木野山様     小祠と地神(社日塔)
 地神(社日塔)1:アマテラスとオオナムチ     地神(社日塔)2:スクナヒコナとハニヤスヒメ
 地神(社日塔)3:ウカノミタマとアマテラス

【参考項目】:五角柱地神石塔
 ※地神(社日塔):
   地神として五角形の社日塔も多く祀られる。
   社日塔の五つの面には五神が刻まれる。
    天照大神(あまてらす)  太陽神
    大己貴命(おおなむち)  国造り
    少彦名命(すくなひこな) 穀物に宿る
    埴安媛命(はにやすひめ) 土に宿る
    倉稲魂命(うかのみたま) 五穀を司る
  備前・備中・美作では江戸期から明治中期にかけて流行し、各地に「地神」碑が祀られる。
  地神は年に2回祭日があり、社日(しゃにち)の日と言われ春には生育を祈り、秋には収穫のお礼参りをする。
  社日とは、春分・秋分に最も近い戊(つちのえ)の日を云い、この日土地の神が土から出て空にうかび秋の社日まで、
  農民の作業を守り豊作をもたらすとされる。
2019/07/03追加:
○「岡山の地神様」正富博行、吉備人出版、2001 より
概説:
地神碑には2つのタイプがある。一つは自然石に「地神」と刻したもので、もう一つは台石の上に五角柱石を置き、その柱面に神仏銘を刻するものである。
五角柱地神碑は、岡山の地では、江戸中期頃から忽然と出現してくる。
本書ではこの「五角柱地神碑」に的を絞って論及する。(自然石の地神碑は考察の対象外である。)
なを、2つのタイプの地神碑の分布は錯綜しているが、概ね自然石に地神と刻む碑は県の中北部に分布し、五角柱地神碑は県の南部一帯に分布する傾向が見られるという。
さて、五角柱地神碑に刻まれる文字は様々な文字が刻されるが、通常の五つの面には、次の五神が刻まれる。
    天照大神(あまてらす)  太陽神(農業祖神)
    大己貴命(おおなむち)  国造り(五穀祖神)
    少彦名命(すくなひこな) 穀物に宿る(五穀祖神)
    埴安媛命(はにやすひめ) 土に宿る(土御祖神)    
    倉稲魂命(うかのみたま) 五穀を司る(五穀祖神)
また、地神碑は社日塔ともいわれるが、その由来は次のようである。
中国では、古来土地の神を「社」といい、それを祀る日は「社日」という。社日は春分と秋分に最も近い戌の日をいう。
五角柱地神碑のトピックス:
 五角柱地神碑建立の具体的動機は推察するしかないのが現状であるが、その動機を具体的に記した例が、岡山市中区倉益に存在する。それは、五角柱地神碑の台石に、天保4年(1833)沖新田の大庄屋(里正)日笠豊展が里人(村人)に命じて五角柱地神碑を建立させた旨の刻文である。
天保期は地神碑の建立かピークの時であったが、この碑文の意味するところは、村役人層が、自らのバックアップで村人に土地の神の碑を建立させることによって、疲弊した農村の復興と生産性向上を図ることに尽力したことは間違いないと推察されるのである。
 ※備前・備中の日蓮宗の盛んな村々に、近世後期・明治初頭の時期に、講中(村人)によって、多くの祖師堂(題目石・大覺大僧正・地神などを安置)が建立された事実があるが、一脈通じるものがあると思われる。
 上記の倉益の地神は村役人層の関与を示唆するものであったが、また別の地域ではその地域特有の五角柱地神碑が存在し、その刻隠される文字から、様々な背景が読み取れる。
 例えば、備中南部には特異なタイプの五角柱地神碑が存在し、そして、それは倉敷型と矢掛型とに分類できる。
 倉敷型は例えば、堅牢地神(黄竜王)、赤龍王、青龍王、黒竜王、白竜王などと刻まれる。
その詳細は本書に譲るととて、結論だけ言えば、その背景は備中地方では山伏(修験者)の活動が活発で、その影響を受けたものであろうと考えられる。さらに、これら山伏は児島五流の統制下にあったものと思われるので、児島五流の活動と関係するものかも知れない。
 矢掛型は「(梵字)堅牢地神」「諸眷属等」「五大地神」「梵字」「諸地神等」あるいは「梵字と諸神名の組み合わせ」さらには「梵字のみの碑」などがある。おそらくこれらは古代・中世の地神などが修験を通じて伝えられたもので、この意味では、上古の地神信仰が修験者を通じ、近世に伝えられたものと考えられ、これは、上古の地神信仰の修験者による復活と考えられるという。
 日蓮宗地帯の地神碑
岡山市東区瀬戸町坂根の清水番神堂、川上地区、岡山市東区瀬戸町鍛冶屋の中村・・・四角柱地神碑がある。附近には題目石が多く祀られる。
 ※日蓮宗地帯の地神碑については多少煩雑であるので、当面は、記載は省略する。
五角柱地神碑の探訪記:
探訪記の一例(平井の例は日蓮宗地帯である)を以下に記す。
 下平井土手町附近
五角柱地神碑・牛頭天王・おそらく題目石もあると思われる。地神碑には正面「南無妙法蓮華経」他面には「天照大神」「堅牢地神」「百穀苗稼」「八龍大菩薩」と刻む。
 平井上町附近
公会堂(平井上町)横、五角柱地神碑とえびす様が立つ。地神碑は正面「妙地水二神」他面には「法十方佛土中」「蓮唯有一元水法」「華我此土安寧」「経一大人常花満」とあり、頭文字を合わせると「妙法蓮華経」となる。
なお、妙楽寺西方に題目石などがあると思われる。
 上平井(平井6丁目)附近
三叉路の場所に題目石(日蓮大士)、瓦製足神様、地神碑がある。地神碑は正面「妙地水両神」他面には「法十方佛土中」「蓮唯有一乗法」「華我此土安寧」「経天人常充満」
とあり、頭文字を合わせると「妙法蓮華経」となり、碑面の文字は法華経の一部と思われる。
 平井妙廣寺境内
接合された地神碑がある。接合が違っていて、それを修正すれば、正面「妙堅牢地神」他面には「法十方佛土中」「蓮唯有一乗法」「華我此土安寧」「経天人常充満」とあり、頭文字を合わせると「妙法蓮華経」となる。豊島石の為、風化が進む。
 平井新道元町附近
花崗岩製の五角柱地神があり、これは正面「妙地水二神」他面は上述と同じで、頭文字を合わせると「妙法蓮華経」となる。一方古いと思われる豊島石製の五角柱地神もあり、風化が進んでいるが、「天照」「倉稲」「埴安」「少彦」「大己」などの文字が読み取れる。
 加茂川町案田(五角柱地神碑の岡山県下有銘最古の例)
天明7年(1787)銘で、天照大神・大己貴命・少彦名命・埴安媛命・倉稲魂命(うかのみたま)を刻む。
天明期及び次の寛政期は農村は疲弊し、社会の大きな変化が顕在化する時代であった。このような時代に五角柱地神碑が作られだしたということであろう。そしてその後、幕末、明治維新、戦前の国家神道の時代を経て、戦後の経済至上主義の時代となり、社会の構造は一変した。「地神」様は幻影となったのである。

備前平吉松壽庵・・・存在確認できず
2019/07/08追加:
○「今村史」今村史編集委員会、今村史刊行会、昭和30年 より
松壽庵:平田字平吉
明治32年2月新保から浅沼日諦が日蓮宗弘通の為に建立したもので、建物は畳数22畳の日本風建物で松壽庵と命名する。
4月2日大覚大僧正忌日、8月2日平吉の先祖浦田新左エ門供養、御影講を三大祭とし、信徒は平吉の全戸30であったが、浅沼氏の退転により現在の戸数は10戸余、他は離檀する。
 ※情報が全くなく、現在は廃寺・退転していると推定される。

御野郡富田村・新保村・泉田村・西市村・米倉村・万倍村・当新田村・京殿村
富田村:新保村の北西もあり、東は十日市村、南は青江村、北は奥内村・東古松村。
新保村:青江村の西にあり、西は京殿村、南は泉田村。
泉田村:当新田村の北にあり、東は青江村・福田村、西は万倍村、北は新保村。
西市村:京殿村の西にあり、西は今村、南は米倉村、北は下中野村。
 西市の集落は本村・野田・樋守がある。
京殿村:新保村の西にあり、西は西市村、北は下中野村。
米倉村:西市村の南、笹が瀬川の左岸にあり、東は万倍村、南は当新田村。
万倍村:泉田村の西にあり、西は米倉村、南は当新田村。
当新田村:福田村の西、笹が瀬川の左岸にあり、南は児島湾、北は万倍村。
 明治8年京殿村が西市村に合併。
 明治22年富田村・新保村・泉田村・西市村・米倉村・万倍村・当新田村が合併し芳田村となる。
寛文6年(1666)池田光政の不受不施弾圧で
 富田村の願福寺(城下蓮昌寺末)
 新保村の本立寺・圓住院(何れも金川妙國寺末)
 西市村の新福寺・是清坊・立覺坊(何れも津島妙善寺末)
 京殿村の常心寺(津島妙善寺末)
が廃寺となる。


備前冨田清正公祠堂
御野郡冨田村:
 所在:岡山赤十字病院の北角の北が富田の交差点であるが、その富田交差点の北西角にある。
○現地説明板では次のように記す。(大意):説明板は下に掲載
 当地一帯(備前御野郡南部)は日蓮宗の信仰が盛んで、多くの寺院が建立された。
これは南北朝時代、大覚大僧正の布教が広く行われ、更に中世に至って加藤清正が日蓮宗の大信者として、僧侶・檀徒を庇護したことが、大いに与っていると思われる。
 当地区の資料にも「清正公は・・・この地に鹿田庄の住民を集めて説法教化し、その霊地が、この祠堂の地であったと伝えられる。・・・」と記載されている。当地でも清正公の遺徳を偲んで祭祀したものであろう。
 二日市妙勝寺の過去帳にも「浄地院加藤肥後守、慶長16年6月卒。永運日乗神儀、福永村」とあり、この芝塚の五輪塔も、後に清正公を追慕供養のため建立されてものと考えられる。
 説明板にあるように、富田を含むこの地帯(御野郡南部)は中世及び近世初頭日蓮宗の信仰が盛んで、多くの寺院が建立された土地である。それは南北朝期大覚大僧正の弘教が広く行われたことによる。
 付近の大覚妙實の開基と伝える寺院として浜野松壽寺、小原町妙恩寺(妙福寺)、二日市妙勝寺、津島妙善寺、城下蓮昌寺が現存する。
 富田を含むこの地帯(御野郡南部)の日蓮宗寺院については、寛文元年の「妙国寺本末寺諸寺誓状」<備前金川妙國寺中にあり>にその一端を窺うことができる。
勿論、「妙国寺本末寺諸寺誓状」は不受不施を固守する連判状であるが、寛文元年の御野郡南部には次の不受不施を固守する寺院があったことが知れる。
 妙勝寺(二日市)並衆徒、大供寺(大工村)並衆徒、宝積寺(宮ノ方)並衆徒、乗蓮寺(西古松)、寶泉寺(西古松)、
 福仏寺(東古松)、善性房(東古松)、願福寺(福長村)、本立寺(新保村)、正行寺(新保村)、真福寺(木村)、
 妙長寺(青江村)、妙泉寺(青江村)、成就院(田住村)、安静寺(奥内村)
である。(但し、宮ノ方とは不明、福長村は福永村とも、この村は享保2年富田村と改称する。)
 なお、以上の他に大供村に浄林坊(現在は妹尾盛隆寺々中浄園院となる。 →妹尾盛隆寺中)があったことも知れる。
当時、御野郡の各村には日蓮宗寺院が建立されていたことが分かり、それもおそらく不受不施を固守する寺院であったことも分かる。
しかし、岡山藩池田光政は寛文6年(1666)藩領の寺院整理を断行する。特に整理の対象にされたのは不受不施の寺院であった。その結果、不受不施の寺院は惣滅する。
御野郡に於いても不受不施の寺院は全て廃寺となる。なお、二日市妙勝寺が現存するのは、荒廃の後に受派の寺院として再興されたからである。
○ページ「加藤清正公祠堂のご紹介 − 岡山市富田地区」 より 転載
◇説明:
 清正公祠堂は、戦国時代の武将加藤清正ゆかりの祠堂である。
 加藤清正は、日蓮宗を信仰し、この地に鹿田庄の住民を集めて説法教化を行っていたが、それが、この祠堂地であったとのことである。
 かつて、この祠堂の社地は、一畝(約100平方m)あり、そのほか、3ヶ所の社地も近くにあり、これらを芝塚とよんでいたが、現在は、この祠堂が残っているのみである。
 祠堂の敷地内には、五輪塔があり、「おくろ」という厨子を祭っていた。この塔は、相当古く、身分高貴の人のものと伝えられている。
 なお、現在の祠堂は、昭和54(1979)年に建てられたものである。
◇祠堂に関する言い伝え:
 ◆地元の方のお話より
「豊臣秀吉の時代、加藤清正が九州に下る途中、この地富田末政に逗留しました(その当時はすぐ近くまで海だったそうです)。それを記念し清正公様として、富田出屋敷の人達によって祀られてきました。
現在も毎年7月24日、関係者によりお祭りが行われています。(以下 略)』
◇参考情報
 ◆取材こぼれ話
 ・「岡山市神田町」と富田の関係
Q 清正公祠堂の住所は、岡山市富田だが、隣の神田町地区の人もわが町の祠堂と敬っているのは、なぜ?
A 岡山市富田付近は、中世、野田庄の南にできた開拓地で、はじめ、福永新田、ついで、福永村と称したが、享保2(1717)年、富田村に改められた。その後、いくつかの変遷をへて、昭和27年に岡山市に編入され、岡山市富田となり、昭和44・45年の住居表示事業により、その一部が神田町1・2丁目となった。つまり、富田と神田町は、もともと1つだったのである。
2018/10/30追加:
○「ふるさと富田」富田八幡宮奉賛会/〔編〕、昭和53年
項目:清正公祠堂:
祠堂は敷地が1畝余歩(30坪)あるというが、現在ではずっと狭められていて、正味13坪である。五輪塔はどうにか形ばかりのものが残っている。
「資料」には四ヶ所に十二坪の社地があり、芝塚と呼んだとあるが、既に3ヶ所は失われている。
富田の社地は末正、青江のは清政、その東の十日市のを末正といった。清政は2,3坪のもので、中央青果市場の敷地になって今はない。末政も既にない。
2018/07/22撮影:
 備前冨田清正公祠堂説明板
 備前冨田清正公祠堂1     備前冨田清正公祠堂2     備前冨田清正公祠堂3
 清正公祠堂五輪塔:向かって右が五輪塔であるが、残欠であろう。中央は牛馬神
2019/05/25撮影:
 富田清正公祠堂境内      富田清正公祠堂     富田清正公祠堂石仏

富田願福寺【廃寺】
○「撮要録巻之二十九」 より
  ○福永村 後富田村と改
 願福寺 日蓮宗本尊(山)岡山蓮昌寺
  住持立退 寺株田畑1反3反7畝11歩半村割賜後同村弥助助七に村より遣 寺家賜御野郡七日市村神職主計
  本尊なし
○「ふるさと富田」富田八幡宮奉賛会/〔編〕、昭和53年 より
寺地という地名があり、願福寺跡と伝えられる。現在の墓地であろう。
藩主光政公、寛文6年5月社寺改革の布令を出したので、この時廃寺となったらしい。
当時の寺は一村一家の指導的役割を果たし、各種の儀式を行い、大いに徳義心を養ったもので、地方文化の源泉であった。
 ※当時、村々にあった寺院は、一部の権門に結びついた寺院などを除き、一村一家の指導的役割を果たし、・・・地方文化の源泉であったとは、魅力的であり、事実そういう側面が強かったと推測される。近世以降、葬式以外にその存在価値を見出せない寺院や、権力の末端として機能した寺院(特に日蓮宗受派の寺院の振る舞いを見よ)の在り方とは大きく違っていたのではないか。

備前富田出屋敷祖師堂跡
・・・(以前には神田祖師堂跡として掲載)
北区神田町1丁目9にある。経度・緯度:34.638786, 133.920543
 ※神田町は昭和44年45年の居住表示で、富田から分かれた町名という。(上項:冨田清正公祠堂を参照)
 ※しかし、神田の地名は富田八幡宮の神田があったことによるとも云い、富田八幡宮を含む現神田町は
 神田と呼ばれていたようである。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地神 岡山市神田町 土台のアスファルトには 1983.5.15。
水神地神、正「水神 地神」、左「安政三丙辰年八月吉日(1856)」、うら白、右「村中安全 」。
大覚、正「南妙法蓮華経 大覚大僧正」左「妙法広宣流布 村中安全」右「弘化三丙午年四月三日(1846)」、うら白。
日蓮、正「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」右「文政五年二月(1822壬午)」。
妙見、正「南無妙法蓮華経 妙見大士」左「村中安全攸」右「嘉永元戊申(1848)四月吉日」
 ※土台のアスファルトとは、石塔類が置かれている地面は切石と道路側溝で区画されているが、その区画の石塔類の置かれている地面は土ではなくアスファルトで固められ、そのアスファルトに「1983.5.15」の刻印がある。昭和58年(1983)に当祖師堂跡の整備が行われたということであろう。
○現況
石塔などは向かって左から水神地神、題目碑(大覚大僧正)、題目碑(日蓮大菩薩)、題目碑(妙見大士)と並び、題目碑(日蓮)の前に棟門形式の拝所がある。(この形式の拝所は西古松祖師堂跡にても見られる。)
勿論、現在は祖師堂はなく、また常夜燈も無いが、この構えや石塔などから、祖師堂があったものと推測される。
2019/07/08追加:
○「ふるさと富田」昭和53年 より
祖師堂:
日蓮上人を祀った祖師堂は地区内に2個所ある。碑面にいずれも祭神と年号が次のように刻まれている。
出屋敷のは
 日蓮大菩薩 文政5年3月吉日
 大覚大僧正 弘化3年4月3日
 妙見大士  嘉永元年4月吉日
 水神地神  安政5年8月吉日 が祀られる。(安政5年は安政3年が正しい)
昔は氏神様とお祖師様は、地区の信仰の対象であったから、朝夕お詣りの人が絶えなかった。宵ごとに石灯篭に火が入って、そこだけ明るい隈をつくっていた。
子供たちは、夕食前に老人に連れられて、よく詣ったものだ。あの頃を思うと、時代もすっかり変わった。
2019/05/25撮影:
 富田出屋敷祖師堂跡1     富田出屋敷祖師堂跡2     水神地神・大覚大僧正     日蓮大菩薩・妙見大士
 富田出屋敷祖師堂跡水神地神:安政3年(1856)年紀     題目碑(大覚大僧正):弘化3年(1846)年紀
 題目碑(日蓮大菩薩):文政5年(1822)年紀
 題目碑(妙見大士):嘉永元年(1848)年紀     題目碑(妙見大士)部分

富田本村祖師堂跡
所在が富田本町というから、付近は、もと富田本村であったのであろう。経度緯度:34.639141, 133.915106に所在
○「ふるさと富田」昭和53年 より
祖師堂:
日蓮上人を祀った祖師堂は地区内に2個所ある。碑面にいずれも祭神と年号が次のように刻まれている。
本町のは
 日蓮大菩薩 安永10年(1781)10月13日
 大覚大僧正 弘化2年(1845)3月吉日
 妙見大菩薩 天保14年(1843)10月14日
今1基あるが碑面が壊れかけていて、定かには読みがたい。地水両神を祀ったものだろうと思われる。
昔は氏神様とお祖師様は、地区の信仰の対象であったから、朝夕お詣りの人が絶えなかった。宵ごとに石灯篭に火が入って、そこだけ明るい隈をつくっていた。
子供たちは、夕食前に老人に連れられて、よく詣ったものだ。あの頃を思うと、時代もすっかり変わった。
※なお、祖師堂の北西の区画に墓地があり、「ふるさと富田」によれば、明治39年に富田の墓地の整理が行なわれ、整然としたものになるという。供養塔の写真の掲載があり、題目石のように見えるが判然とはしない。(現地での確認を要する。)
また、この墓地が上述の願福寺跡であるかどうかは分からない。
2019/10/30撮影:
現在は石塔類の上部を覆う腕木門のような造りの屋根で覆われているが、「ふるさと富田」では祖師堂と言い切っているので、昭和の後期まで祖師堂があったものと思われる。但し、現在の敷地は祖師堂があったすれば、少々狭小と思われるが、どうであろうか。
 富田本村祖師堂跡1     富田本村祖師堂跡2
 題目石(大覚大僧正)1     題目石(大覚大僧正)2     地神(推定)1     地神(推定)2
 題目石(日蓮大菩薩)1     題目石(日蓮大菩薩)2     題目石(日蓮大菩薩)3
 妙見大菩薩1     妙見大菩薩2
※祖師堂の北西の墓地には3mを超すと思われる巨大な題目石がある。「ふるさと富田」にいう供養塔であろう。おそらく明治39年の墓地整理の時に建てられたものであろう。
 富田本村墓地題目石

備前新保祖師堂跡(推定)
北区新保に所在する。経度・緯度:34.637247, 133.909465
おそらく、ここに祖師堂があったと思われる。しかも新保の祖師堂であったと2重の意味で推定する。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地神塔 ラーメン屋の横の墓地にそびえる題目石。どの下の地神塔は溶けてしまって読めない。
その横の四角柱には、左「九月吉日」正「村中**」右「**十年」後「」。
 ※ラーメン屋現在は見当たらない。墓地にあることは合致する。「どの下」とは「その下」か。四角柱も地神であろうか。
 ※掲載の写真は現況と変わらないので、このサイトが1999年(平成11年)から2005年(平成17年)8月迄の調査ということから、調査時点から、祖師堂現状は変わっていないと思われる。
○現況
この地帯は区画整理が行われ景観が一変しているのであろう。
しかし、墓地だけが残り、その一画には新保村祖師堂があったと推定されるが、未確認である。
再建ではあるが題目石があり、地水神と推定される石柱があり、新保村にて祖師堂を求めるとするとここしかないと思われる故に新保祖師堂跡(推定)と呼称する。ただ、祖師堂跡としてはほぼ壊滅の状態ではある。
2019/05/25撮影:
 新保祖師堂跡(推定)
 再建題目石(日蓮大菩薩)1     再建題目石(日蓮大菩薩)2:大正13年再建とある。
 推定地神塔・不明四角柱・石塔残欠:この残欠は常夜燈残欠である可能性が高いと思われる。
 推定地神塔・不明四角柱

備前新保妙見堂(祖師堂)
岡山市南区新保557付近に所在する。経度・緯度は 34.633016, 133.911942 である。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地神 ブロック塀の中に色々あるが、左の4角柱a-dがポイント。
右から2番目のCは地神で、左「七月日」正「地神」右「***三月」後「」。
あとは左端からa、左「村中」正「牛頭天王」右「**七寅**(嘉永7が寅で1854)」後「」。
B(b)、左「七月日」正「***」右「***」後「」。
d、左「八大龍王」正「地神水神」右「三十番神」後「**(年?)」。
 ※妙見堂向かって左から4基の四角柱が並び、その四角柱を左からa,b,c,dと呼称している。
○現況
妙見堂が現存する。堂宇は正面1間、側面3間で正面1間は側面3間より柱間は広い。四面とも柱間装置(壁や扉や窓など)は一切なく、素通しである。屋根は寄棟で瓦葺き、床はなく土間である。四周はブロックモルタル塗り塀に囲われる。
中央の梁に修理額が掲げられ、昭和62年(1987)に妙見堂の修理が行われたことが分かる。
堂の背面屋外に石塔などが安置される。
石塔などは向かって、左から、牛頭天王、不明四角柱、地神、地神水神など、題目石(妙見大菩薩)、題目石(日蓮大菩薩)、大覚大僧正が置かれる。常夜燈は2基あり、石塔などの前の左右に置かれる。
2019/05/25撮影:
 新保妙見堂1     新保妙見堂2     新保妙見堂3     新保妙見堂修理額
 新保妙見堂石塔類     新保妙見堂石塔類2     新保妙見堂石塔類3
 向かって左の4角柱
 牛頭天王:上記に従えば、年紀は嘉永7年と推定される。
 不明角柱:まったく判読できない。
 地  神:上記に従えば地神ということになるが、ほぼ判読できない、正面は地神2文字ではないように思われる。
 地神水神:左右には八大龍王、三十番神と刻む。
 題目石(妙見大菩薩)1:年紀は側面にあると思われるも判読できず。     題目石(妙見大菩薩)2:妙見大菩薩刻銘部分
 題目石(日蓮大菩薩):左側面に安永十辛丑(1781)年、右に當村講中の銘がある。
 大覺大僧正:左側面に天保●●・・・、右に當村本寺講中の銘がある。
 右常夜燈:天保六年の年紀と思われるも、誤読かもしれない。     左常夜燈:年紀は未確認

備前泉田祖師堂跡:推定
現在は路傍に題目石・大覺大僧正・地神・常夜燈が建つのみであるが、かっては祖師堂があったものと推定する。
石塔類の背後には一宇の建物があるが、これが祖師堂なのか、それとも無関係なのか、またそれとも祖師堂を後継する建物なのか、詳細は不明である。石塔類の種類や現在の構えから祖師堂がかってはあったものと思われる。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
◇a65eo 堅牢地神尊 岡山市泉田 昔からの街道か?常夜灯には「嘉永六癸丑年(1853)十月十三日建立」。題目には「天明元年辛丑(1781)十月十三日」。
緯度経度:34.626329,133.917642に所在。
2019/10/30撮影:
 泉田祖師堂跡1     泉田祖師堂跡2     泉田祖師堂跡3
向かって右から題目石(日蓮大菩薩)・常夜燈・大覺大僧正・堅牢地神が祀られる。
 泉田祖師堂石塔類1     泉田祖師堂石塔類2     泉田祖師堂石塔類3
 題目石(日蓮大菩薩):年紀は天明元年辛丑(1781)十月十三日、日蓮500遠忌。
 大覺大僧正     堅牢地神四角柱

備前京殿祖師堂
祖師堂は京殿公会堂として造替されると思われる。南区西市102−7、経度・緯度:34.632200, 133.902400
京殿公会堂は比較的新しく、比較的近年に、造替されたものと思われる。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地神 京殿公会堂のうらで、隣接する墓地のため見えにくい。
「大覚大僧正」。
「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩」、右「天明七丁未十月十三日(1787)」左「當村中」。
地神は長い石で、下よりの字はやっっと読める程度。
○現況
京殿祖師堂は京殿公会堂として造替され、その京殿公会堂は近年造替されたと思われる。
石塔などは京殿公会堂の裏の屋外に安置され、この造りは典型的な祖師堂の造りである。つまり、公会堂裏面はサッシ窓であり、窓を開けると石塔などを礼拝することができる祖師堂の造りになっている。
これは、講中の看経などにも使われる機能を備えているものと推察する。勿論、公会堂は、文字どうり、公共の各種集会などに使われ、地域の交流などの場ともなっているものとも推察する。
石塔などは本来の配置から変更されていると思われるが、現在、常夜燈、題目石(日蓮大菩薩)、大覺大僧正、地神が祀られる。
2019/05/25撮影:
 京殿公会堂(祖師堂)正面     京殿公会堂(祖師堂)側面
 京殿公会堂(祖師堂)裏面:裏面はサッシ窓、裏面に対面して石塔などを安置     京殿祖師堂石塔など
 題目石(日蓮大菩薩)     居殿祖師堂大覺大僧正:この石の背面に地神がある。
 京殿祖師堂地神     京殿祖師堂常夜燈

備前西市野田祖師堂
下津井往来(金比羅街道)沿いにある。西市野田公会堂が祖師堂である。
経度・緯度:34.632127, 133.895376
下津井往来1・野田茶屋から相生橋西詰・・・平成27年(2015)12月 より
備前西市駅前から西に向って進む。・・・・ 少し行くと道をはさんで左側にホームセンタータイム(裏出口)、右側に西市野田公民館がある。公民館西端と隣家のあいだに題目碑がある。
 正面には「南無妙法蓮華経」右面「文化七歳庚午天十月十三日立之」左面「日朗菩薩大覚大僧正 日像菩薩日親大聖人」と刻んでいる。奥に小さな地水二神碑がある。こちらの側面にも何か刻んであるようだが判読できなかった。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地水二神の四角塔 正「地水二神」右「五穀成就(?)」左「堅牢地神(?)」後ブランク。公民館の裏です。
〇現況
野田の地名はここ西市だけでなく、野田村、田中村の野田などがあるので、混同を避けるため、西市野田と呼称する。
現在の西市野田公会堂は祖師堂の典型例であり、明らかに祖師堂が造替されたものであろう。石塔類は現在道路に向かって建てられているが、本来は祖師堂の背後に向かって建てられていたのは間違いないであろう。
石塔類は題目石、地水二神、不明遺物が安置される。
2019/05/25撮影:
 西市野田祖師堂1:西市野田公会堂     西市野田祖師堂2
 題目石(日蓮花押)1     題目石(日蓮花押)2:側面に日朗、日像、大覺、日親、文化7年(1810)と刻む。
 西市野田祖師堂地水二神     不明遺物:石塔の台石あるいは石灯篭の残欠なのであろうか、不明遺物である。

備前西市樋守祖師堂
下津井往来(金比羅街道)沿いにある。西市樋守公会堂が祖師堂である。
経度・緯度:34.631851, 133.891975
下津井往来1・野田茶屋から相生橋西詰・・・平成27年(2015)12月 より
家と家のあいだに大きな皇紀2600年の記念碑。常夜燈、その横に地水二神碑。(左写真)そのうしろに題目碑と大覚大僧正碑が建っている(右写真)。調査報告p.6によると、題目碑には「寛政四任子七月十三日」「日蓮大菩薩五百遠忌」、大覚大僧正碑には「大覚大僧正 寛政九丁巳年十二月吉日」と書いている。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地水二神 四角柱の地水二神。古い公民館の塾の裏。石柱に「皇紀二千六百年記念」。
〇現況
下津井往来が西向きから南向きに向きを変えたすぐに地点にある。
現在の西市樋守公会堂は祖師堂の典型を示し、明らかに祖師堂を造替したものであろう。
石塔類は祖師堂外の背後に配置する形式である。常夜燈・題目石・大覺大僧正・地水二神を配する。
2019/05/25撮影:
 西市樋守祖師堂1     西市樋守祖師堂2:西市樋守公会堂
 西市樋守祖師堂3:向かって右が祖師堂、左の民家との間の塀などの区切りがない。
 常夜燈・題目石・大覺大僧正:地水二神は常夜燈の陰にあり、写らない。
 祖師堂題目碑1     祖師堂題目碑2:寛政4年(1792)年紀
 祖師堂題目碑3:右側面に「日蓮大菩薩五百遠忌」と刻むとあるが、右面の遠忌は判断できるが、写真ではその他の文字は判断できない。しかし、500遠忌は天明元年(1781 )であり、寛政4年(1792)の年紀とは齟齬がある。11年後に建立か。
 大覺大僧正1     大覺大僧正2:寛政9年(1797)年紀
 祖師堂常夜燈     祖師堂地水二神

備前万倍祖師堂
祖師堂は万倍公会堂に造替される。造替は近年であろう。経度・緯度:34.627654,133.900187
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地神 墓地の一画に石碑のようなもの。大覚、題目、石灯籠。地神は、ほんとは「地神水神」。
○現況
万倍公会堂;GoogleStreetViewより
写真で見るように、公会堂は2階建てである。
 たまたま、出会った公会堂で書道教室を開いている方の談では、以前は祖師堂があったが立て替えされ、1階は水回りと祖師堂の機能があり、2階は書道教室などを行う集会所の機能がある。1階の祖師堂の機能を持つ部屋では今でも講の集まりがあり、看経が行われるという。
祖師堂の機能のある部屋の西面はサッシ窓で、窓を開けると石塔などを拝することができる構造となっている。
 石塔などは次のように祀られる。
向かって右から、安國婦人會記念碑、常夜燈、大覺大僧正、題目石、地神水神、常夜燈、不明四角柱(墓碑か)が並ぶ。
2019/05/25撮影:
 万倍祖師堂1:万倍公会堂
 万倍祖師堂2:公会堂1階祖師堂、奥のサッシ窓を開けると、石塔などを拝することができる。
 万倍祖師堂と石塔など:祖師堂のサッシ窓と石塔などは相対する。
 万倍祖師堂石塔など1     万倍祖師堂石塔など2
 安國婦人會記念碑1:昭和3年の銘     安國婦人會記念碑2:国家神道に手を貸した犯罪の記念碑であろう。
 左常夜燈
 大覚大僧正1     大覺大僧正2:古く見えるが、意外にも「文化15年(1817)建立、昭和50年再建」の銘
 万倍祖師堂題目石1:寛政4年(1792)の銘     万倍祖師堂題目石2:左側面が判読できず、性格が不明。
 地神水神1     地神水神2     右常夜燈:昭和50年7月の銘がある。
 不明四角柱(墓碑か):「●●大徳」とも読める、だとすれば僧侶の墓碑で、祖師堂石塔とは関係はないのであろう。

備前當新田祖師堂跡(推定)
岡山市南区当新田188−2に所在する。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
広い教会の敷地に、巨大な題目石と、大覚、ほこら。
地神塔、左後「小彦名命」左「大己貴命」正「天照太神」右「倉稲魂命」右後「埴安媛命」。
 ※広い教会の敷地に・・・とあり、當新田教会の石塔類のような認識であるが、當新田教会とは無関係であり、巨大な題目石を含め、石塔などのある場所は當新田祖師堂の跡と推測される。
○現況
向かって右から、小祠(不明)、題目石(日蓮大菩薩)、大題目石(妙経一石一字供養塔)、大覺大僧正、地神(社日塔)が祀られ、前部の左右に常夜燈(合わせて2基)が建つ。
 大題目石(妙経一石一字供養塔)は「宗祖大士六百四忌修書寫妙経一石一字・・・供養塔/明治12年當新田村信徒中謹誌・」と記され、この題目石は明治維新後のものである。
題目石(日蓮大菩薩)は寛政壬子(4年/1792)の年紀、大覺大僧正は安政四丁巳年(1857)の年紀である。
 石塔などの種類、敷地の構えなどから、これは祖師堂の跡であろう。明治28年に當新田教会が創立されるが、その場所が偶々當新田祖師堂に接する所であったということと思われる。
○サイト:当新田町内会>当新田マップ>法塔様 より
奉塔様(法塔様)創立
 明治12年5月西南の役后当時全国で疫病が蔓延し、村民が病魔に冒され、困窮していたとき、当時の伏見義三郎という方が英知を以って村民を救うために信仰の基をと、奉塔様(法塔様)の建立を決意されたのであり、ついては、犬島より四番樋までは海上輸送して伏見氏の指導のもとに村民一丸となって総力を結集し、陸揚し、川を渉り、道無き道を幾日も要し現地に運び、稀に見る巨大なる石塔が築かれたのである。(以下略)
2019/05/25撮影:
 當新田祖師堂跡石塔1:右から、小祠(不明)、題目石(日蓮大菩薩)、大題目石、大覺大僧正、地神(社日塔)、常夜燈
 當新田祖師堂跡石塔2:右から、題目石(日蓮大菩薩)、大題目石、大覺大僧正
 小祠・題目石(日蓮大菩薩)・常夜燈     大覺大僧正・地神     常夜燈・大覺大僧正
 題目石(日蓮大菩薩)・大題目石・大覺大僧正     小祠・題目石(日蓮大菩薩)     小祠(不明)
 題目石(日蓮大菩薩)
 大題目石(妙経一石一字供養塔)1    大題目石(妙経一石一字供養塔)2    大題目石(妙経一石一字供養塔)3
 大覺大僧正1     大覺大僧正2     地神(社日塔)1     地神(社日塔)2

日蓮宗當新田教会
岡山市南区当新田188−2に所在する。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より
明治28年の創立、開山唯妙院日苗(明治33年寂)、奠師法縁。
○サイト:当新田町内会>当新田マップ>当新田教会所 より
当新田教会創立 (※大意は次のとおり)
 明治二十八年五月二十九日日清戦争が終結した頃、村民総意のもと建立される。
その当時、明光山(二日市)妙勝寺第四十八寺(世)日苗は隠居の身であったが、妙勝寺総代であった尾銭忠三郎を通じ日苗を開山として招聘する。
 その際、高祖日蓮像、三宝、鬼子母大善神、妙見、阿佛房日得上人の御真筆等を拝戴、当教会に安置する。
2019/05/25撮影:
 當新田教会門前     當新田教会本堂1     當新田教会本堂2     當新田教会本堂3
 當新田教会庫裡

當新田相生橋東詰北題目石(転倒題目石)
明治期に新しく設定された下津井往来(金比羅街道)沿いにある。
當新田の北西端、笹が瀬川左岸、国道2号線(岡山バイパス)のアンダーパス南側にある。すぐ北は米倉である。
當新田の北西端、笹が瀬川左岸、県道21号線の相生橋東詰の北側にある。
 (経度・緯度:34.627189, 133.889606)
下津井往来1・野田茶屋から相生橋西詰・・・平成27年(2015)12月 より
笹ヶ瀬川に沿って国道2号線(岡山バイパス)の下をくぐる。
 すぐ先、道の左側に大覚大僧正碑があり、その横に同じような石柱が倒れていた。文字の判読はできなかったが、おそらく題目石であろう。
 調査報告p.6には『米倉港から土手を南に二〇〇メートル下がったところに、題目石がある。
正面側に倒れていて正面の文字を読む事はできないが、正面には「南無妙法蓮華経」とあるのだろう。
右側面に「明治廿六年十月良日建」右に「地水二神」左に「大覚大僧正」明治廿七年八月建とある。
明治二〇年に相生橋が木橋として初めて架けられ、金毘羅往来が土手の上を通るようになって建てられたものかと思われる。』とある。
 現地の状況は若干記述と異なるが、笹ヶ瀬川に橋が架けられた明治二〇年以降にこの土手が往来に組み込まれたことはまちがいないと思われる。
 ※調査報告とは「岡山県歴史の道調査報告書 第6集 金比羅往来と由加往来・倉敷往来・鴨方往来」岡山県教育委員会、1993年(平成5年)を云う。
 ※現地の状況は若干記述と異なるとは、2015年には『右に「地水二神」』が既に無いことを言っているのであろうか。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地水両神 岡山市当新田 倒れているのはたぶん題目石。米倉の堤防の道脇。草に隠れてちんまり。
 ※サイト:「8000000」は1999年から2005年8月までの調査、2005年8月から調査は中断しているということなので、この記述に拠れば、1999年から2005年8月まででは「地水両神」が存在したことになる。
〇サイト:「わが町の歴史 上巻」(米倉) では 相生橋について次のように云う。
米倉の渡し船と相生橋
 足守川と笹ヶ瀬川の合流した川口に近いところ対岸の大福の間に相生橋(木橋)が出来たのは明治24年(1891)のことです。それ以前は渡し舟で、一般には米倉渡しと呼ばれていました。
 岡山から上中野、西市、米倉を経て妹尾を通り下津井に至る金比羅往来を行き来する人は、この米倉渡しを利用しました。相生橋の北西隅に「右・おゝのやま・むねただ宮」「左・琴比ら宮・ゆうが宮」と刻まれた道しるべがありましたが今は木野山様の所に移されています。
 明治19年ころの渡賃は、普通の水量の時は5厘、水かさが増え流れが急な時は船頭が二人でこぐので1銭、大水の時は舟どめとなりました。このような時旅人は渡ることが出来ず米倉の宿に泊まりました。
 この渡しに木製の相生橋を架けるため川沿いの村が力を合わせ1株20円の株券を作りお金を集めました。
 橋を作る費用は3540円でした。出資者にお金をかえすため有料の橋としました。
 渡り賃は1人1回5厘、人力車や荷車は1銭、牛や馬は5厘、馬車は2銭でした。
 橋の中ほどは橋板を開閉できるようにし帆柱のある舟が通れるようになっていました。
 明治24年につくられた「相生橋の碑」が西岸の堤防下にあります。
旧相生橋跡記念碑
 明治二十年四月に起工し、同二十四年に完成した、長さ百六十四m幅三.六mで、総工費三千五百四十円を要した。
 当時、笹ケ瀬川は、児島湾に注ぎ、常時海水による潮の干満があり、少しの災害でも渡し舟が止まったため、地区住民が協議して橋を架けた、当時としては画期的な大工事であった。
〇現況
笹が瀬川左岸堤防上の道沿いに大覚大僧正と転倒した題目碑がある。
さて「地水二神」であるが、
1993年の「岡山県歴史の道調査報告書 第6集」では「地水二神」の存在が報告されている。
さらに、1999年から2005年8月までの調査であるサイト「80000」も「地水両神」の存在が認識されている。
ところが、ページ2015年の「下津井往来1・野田茶屋から相生橋西詰」では「地水二神」の存在はないものとされている。
今般の2019年の現地での実見でも、「地水二神」の存在は確認していないことを記録しておく。
 ところで、石塔などは堤防上の道路脇に建てられているので、これらの石塔の背後は崖であり、下には灌木が繁茂するような状況である。おそらくは、自然か故意にか事故などの衝撃で、背後の土手下の崖に転落したのかもしれない。そうだとしても、台石はもとの場所に残っている可能性が高いのであるが、それは現地では、探索をしていないので不明。
 転倒している題目石は1m超の大きさで到底一人の人力では、起すことは勿論動かすことも困難な状況である。
少なくとも、1993年(平成5年)以前にこの題目石は転倒した状態であったようで、少なくともも30年近く転倒したままのようである。
2019/05/25撮影:
この題目石がどのようなことを祈願して建立されたのかは、不明であるが、初めて相生橋が村々の資金捻出で架橋されたこと、金毘羅街道(下津井往来)沿いの相生橋付近に建てられたこと、建立年代が明治25、27年の相生橋架橋の直後であることなどから、橋を含めての往来の安全を祈願して建立された可能性が高いと思われる。
川沿いの村々、備前藩領の下津井往来沿いの村々は受派といえども、日蓮宗衆徒が圧倒するので、当然題目石と大覺大僧正と地神水神が建立されてのであろう。
 相生橋東詰北題目石1     相生橋東詰北題目石2
 大覺大僧正1     大覺大僧正2:明治廿七年八月建
 転倒題目石1     転倒題目石2:明治廿六年十月良日建

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◇備前藤田広昌寺:備中妹尾の南方、そんなに遠くない距離に位置するも、備前と思われる。
寺歴など全く不明。
この付近の干拓は明治維新後の明治・大正期のことであり、それから判断してそんなに古い寺院ではないであろう。
2019/04/18追加:
「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
開基大乗院日選(昭和13年寂)、開基檀越安原真一。生師法縁、住職は奠師法縁。
大正4年藤田村に安原喜太郎・喜平兄弟が草庵を建立。
昭和4年安原真一らの協力により、妹尾盛隆寺21世大乗院日選を教師として藤田教会を設立。
昭和24年に寺号を公称する。
 ※大正・昭和の時代であり、備前とか備中とかの区分の範疇外である。

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村々の位置については備前天保國繪圖<部分図>を参照。

備前津高郡芳賀村
報恩大師の出生地という。
日蓮宗地榮山妙典(妙傳)寺・同宗芳賀之坊・下芳賀の同宗恵日山當福(東福)寺(何れも金川妙國寺末)は寛文6年廃寺となる。

備前芳賀顯本寺
御流儀の本寺である。また境内山手に報恩大師産湯の井がある。
境内に接し、スサノヲ神社がある。長い石階を上る・・・但し、特に牛頭天王とは関係がないと思われる。(未見)
 →御流儀/芳賀顕本寺

備前上芳賀祖師堂
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
a45ed 地神 岡山市芳賀 黒い日蓮堂の前に目立たない様子で有る。石灯籠には「常夜灯」の文字。寛政八丙辰(1796)。なぜかこのとき、ジョジョとは関係なく、付近にはカタツムリが沢山いたのであった。
34.706414 , 133.873536 → 34.709574,133.870973 に所在。
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
石塔タイプの題目石を中央にして、左右には背の高い題目石2基が堂内に安置される。向かって右側の題目石には天保7丙申年(1837)の銘がある。
2019/11/07撮影:
 上芳賀祖師堂1     上芳賀祖師堂2     祖師堂前常夜燈:寛政8年銘     祖師堂前地神
 祖師堂内部
 題目石(日蓮大士)1     題目石(日蓮大士)2:題目の左右の銘は判読できない。
 題目石(日蓮花押)1     題目石(日蓮花押)2:左右の側面に長文の銘があるが、実見せず。
 題目石(日朗・日像・大覚)1     題目石(日朗・日像・大覚)2:日朗菩薩/日像菩薩/大覺大僧正    
 地徳明王石:地徳明王とは地神であろうか。

備前上芳賀題目石
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
人家の裏山に露出した大きな花崗岩がある。その岩には「大持国天・大広目天/永禄三天八月廿六日/南無妙法蓮華経・日蓮大菩薩/大毘沙門天・大増長天年/施主持覚院日清上人」と刻む。<永禄3年は1560年>
この「題目岩」の前に2基の題目石と常夜燈が祀られる。題目石の1基には享保6年(1721)<享保16年が正>の銘がある。
土地の人の話では戦後間もない頃まで尾上あたりからもお参りがあり、盛大にお祭りが行われていたという。
2019/11/07撮影:
残念ながら、今般、永禄3年銘の「題目岩」を見落とす。従って写真は無い。従ってその大きさなどは不詳。
永禄3年の年紀というから、石に刻まれた題目としては屈指の古いものであろう。
 2020/06/12追加:
 ○岡山文庫「岡山の石仏」巌津政右衛門、日本文教出版、昭和58年 より
  永禄三年上芳賀題目石
その他の題目石は次の通り。
 上芳賀題目石1:常夜燈の向かって右に石製香炉などが置かれるも、これは「題目岩」の礼拝の為であろう。「題目岩」は石製香炉の上方の岩に刻まれているのであろう。
 上芳賀題目石2      上芳賀題目石3:手前の石製香炉(3基ほどある)及び花立は上述のように、「題目岩」の礼拝の為であろう。
 題目石(日蓮大菩薩)1      題目石(日蓮大菩薩)2:年紀は享保十六辛亥年(1731)、日蓮450遠忌と刻む。
 題目石(墓石?)1     題目石(墓石?)2:正面の題目の左右に刻銘があるが、その刻銘が殆ど読めない。
 上芳賀題目石常夜燈:向かって右の石製香炉などは上述の通り。

備前上芳賀妙見大菩薩
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
上芳賀の妙見:上芳賀題目石のすぐ西側の山裾にある。
2019/11/07撮影:
岡山市北区芳賀2535、緯度経度:34.708668, 133.870888 に所在。
拝殿と本殿が道路より一段高い山裾にある。現状はほぼ打ち捨てられたような様相で堂宇は荒れている。何れ近いうちに退転する可能性が大きいと推測される。
 上芳賀妙見大菩薩1     上芳賀妙見大菩薩2     妙見大菩薩拝殿     妙見大菩薩拝殿内部
 拝殿掲額寄付者名:昭和41年の年紀があり、この頃堂宇が造替もしくは改築が行われたものと推定される。
 妙見大菩薩本殿1     妙見大菩薩本殿2
 妙見大菩薩石塔:拝殿脇にある。中央の銘は最下段が「千部」と読める以外は判読できない、左は「村中安全牛馬長久祈失■」と彫り、右は「嘉永2年(1849)」の年紀を彫る。

備前下芳賀祖師堂
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
題目石、「奉勧請千咬み(ママ)置座」石碑、常夜燈2基がある。
題目石の裏面には天明元年辛丑(1781)の年紀がある。
2019/11/07撮影:
祖師堂は緯度・経度:34.704829, 133.866456に所在する。下芳賀横穴式石室から数十m北に上ると左側にある。
祖師堂の奥は吹抜けで、その奥の屋外に石塔類は置かれる。
左右両脇には常夜燈が置かれ、その中に勧請千神置座と題目石(日蓮大菩薩)が祀られる。
 下芳賀祖師堂1     下芳賀祖師堂2     下芳賀祖師堂3     下芳賀祖師堂石塔類
 題目石(日蓮大菩薩):天明元年/日蓮500遠忌報恩     勧請千神置座
 常夜燈その1     常夜燈その2

備前下芳賀今井家題目石(大最大権現)
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
下芳賀祖師堂の西側にある。土塀で囲まれ、石灯篭を中央にして右側に今井家元祖の墓碑があり、左側には題目石が祀られる。
礼拝堂改築寄付芳名の看板がある。今井以下34名の名があり、これらの人によって大庄屋今井家の題目石は祭祀されている。
2019/11/07撮影:
 下芳賀大最大権現1:手前は下芳賀祖師堂、写真中央の石階が大最大権現への入口である。
 下芳賀大最大権現2:境内は土塀に囲まれ、石階を上れば石柱が2基建ち、プレハブ的な拝所があり、その奥に大最大権現・今井家元祖塚・常夜燈が祀られる。楠であろうか大木がある。
 下芳賀大最大権現3     下芳賀大最大権現4
 題目石(大最大権現):大最大権現とは不明であるが、境内を掃除していた婦人に聞くと、ここは「だっさい様」を祀り、だっさい様はどうやら最上稲荷から勧請したようなことであるという。
 今井元祖之塚     大最権現礼拝堂新築札:昭和39年に礼拝堂が新築される。

備前下芳賀地神・題目石・・・未見
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
今井家題目石の少し西方向にある。
地神の小祠(じじんさま)と題目石がある。
 下芳賀地神・題目石:未見に付、転載、地神を祀る小祠と題目石が並んで建つ。

備前下芳賀題目石
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
a43eoo 地神 岡山市芳賀  下芳賀 階段付きの巨岩の上に、草ぼうぼう。地神と、題目石*2、石灯籠、ミニ半鐘。
34.7006 , 133.869115 → 緯度・経度:34.703771, 133.866534 に所在
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
題目石、題目石(日朗菩薩・日像菩薩)と地神が自然石を積み上げた高台の上に建つ。石組の様子から元は横穴式の石室であったとも推測できる。中央の題目石には文政10年(1827)の銘がある。
2019/11/07撮影:
題目石の置かれる高台に祖師堂があったとは想定し難い。少々高台上は面積が狭いようでsる。
 下芳賀題目石高台1     下芳賀題目石高台2     下芳賀題目石高台3     下芳賀題目石石塔類
 題目石(日朗菩薩・日像菩薩):天保十四年癸卯(?)1843の年紀がある。
 下芳賀題目石:文政十丁亥年(1827)の年紀がある。     下芳賀地神     下芳賀常夜燈
東すぐに東の井戸枠、さらに東すぐに古墳石室がある。
 下芳賀東井戸:井戸はいつ造られたかは不明であるが、明治9年には存在が確認できるという。
 下芳賀横穴式石室:上記の題目石の高台はこのような石室を転用したものなのであろうか。

備前津高郡横尾村・長野村
横尾村:備中竜王山の北側にある。東南は長野村。
長野村:西の山塊の西麓は備中賀陽郡稲荷村である。
 村内梨ヶ原にあった日蓮宗長野山長宝寺は金川妙國寺末で寛文6年(1666)池田光政の不受不施弾圧で廃寺となる。
本尊釈迦・高祖・十羅刹女は備中和井元龍泉寺へ預けられたという。
   →日蓮宗長野山長宝寺は備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧中の86〜86_2を参照
   →備中和井元龍泉寺は当ページ中の備中高松近辺の諸寺中の和井元妙立寺を参照
 長宝寺は中世に栄え、僧坊33を数えるという。現在その地は長野廃寺と云われ、跡地には永和4年(1378)銘の板碑(阿弥陀如来像を浮き彫りにする)がある。周囲には台坊、信光坊、門之坊、仙寺坊、法僧坊、遠南坊、古薬師坊、僧久坊、最明坊、向之坊、八之芝坊などの地名が残る。
備中和井元村蓮福寺の縁起によれば、長宝寺本尊は伯耆大山権現と同木同作の地蔵菩薩で根来覚鑁の作。初め備前竜ノ口の北にある高山の山腹に飛来、次いで当地に移ったという。その後この地蔵は蓮福寺の本尊として祀られるという。
  →和井元蓮福寺地蔵院は江戸中期原古才に移り、現存する。当ページ中の備中高松近辺の諸寺中の蓮福寺を参照

備前長野祖師堂
祖師堂は長野八幡宮に接してある。長野八幡宮:岡山県岡山市北区長野962 34.713091, 133.845051 に所在
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
長野の祖師堂・・・長野八幡の南に接する。 
建物内に2基の題目石と地神がある。題目石の一つは天正19年(1591)銘との看板がある。
2020/02/28撮影:
日蓮堂は施錠され、内部を窺うことはできない。講中の鍵管理者に開錠をお願いする。
 長野祖師堂1     長野祖師堂2     長野祖師堂3     長野祖師堂4
 長野祖師堂内部1
 長野祖師堂内部2:中央は題目石(日蓮大𦬠)、向かって左は日蓮大士(日蓮大菩薩)、右は地神を祀る。
 題目石(日蓮大菩薩)1     題目石(日蓮大菩薩)2:題目と日蓮大菩薩/五百御遠忌 と刻む。
 題目石(日蓮大菩薩)3:天明元辛丑(1781)天 と年紀を刻む。
 題目石(日蓮大𦬠)1     題目石(日蓮大𦬠)2
 題目石(日蓮大𦬠)説明立札:以前は堂外にあったようであるが、現在は堂内に置かれる。
 題目石(日蓮大𦬠)3:題目と日蓮大𦬠と刻み、その左右にも銘文があるが、判読できない。天明19年年の年紀もあると思われるが、残念ながら肉眼では判読できず、確認ができない。
 長野祖師堂地神
長野日蓮堂の背後が長野八幡宮である。
 長野八幡宮

備前長野地蔵院跡(長野廃寺)
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
地蔵院跡(長野廃寺):「馬屋下村史」は地蔵院跡について次のように記述するという。
 「小字などで堂宇・坊を推定すれば、次にようになる。
八幡宮の南西に塔の段という小字があり、ここに2基の塔があった。そこから南30mほど南の鐘撞堂という小字に南大門が建ち、その南に辨天池があったと考えられる。
塔の段から西北約50mの高台に台坊があり、これから南へ新坊・新光坊・向井坊があり、さらに山裾に向之坊・信光坊、その南に最明坊・八之聖人があった。(※しかし、新光坊と信光坊、向井坊と向之坊とは同一の坊舎であろう。)
台坊と向之坊との間の約100mほどの山裾一帯は墓地で五輪塔などの印塔が立ち並んでいたが、一帯の開墾で土留や石垣や低地の埋め足しに使用したという。
大膳山の麓には仙寺坊・門之坊・法僧坊があり、少し離れて遠南坊・古薬師があった。
大講堂の東方の城山にあった僧久坊とそれから約100m南の山際の法僧坊との間にある4基の経塚は僧坊の跡地であった。」
○フリーペーパー「こんにちは、」2017年5月10日号 より
「吉備の断片(かけら)-41-」真野行治>長野廃寺 の記事掲載がある。
 吉備の断片-41-長野廃寺・記事
 長野祖師堂:この堂にある題目石は古く天正19年(1591)の年号が入っている。
 長野八幡宮:そこから、さらに奥へと足を進めると板碑に遭遇する。板碑とは板状の頭部が山形でその下に横二条線と阿弥陀仏を刻んだものである。今は年号の部分は土中に埋まるが以前は社殿の前にもたれて建ち、永和4年(1378)の年号があった。
社殿脇に毘沙門山の麓と記した石碑が近年建てられて、社殿真後ろに毘沙門山がそびえる。ここは遥拝所であった。
 長野山長宝寺:「撮要録」廃社寺之部には「長野村 長野山長宝寺 日蓮宗」云々とある。
   →長野山長宝寺は備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧中の86〜86_2を参照
この地区の児子家の墓所には古い墓碑が残る。その墓地は長野廃寺を見下ろす山の中腹にある。その墓碑には正保3年(1646)の年紀があり、「南無妙法蓮華経 長野山長宝寺 本住院日秀」と刻する。
 ※フリーペーパー「こんにちは、」は岡山初のフリーペーパーで1979年に創刊され、現在も発刊され続けられている。
 ※永和4年(1378)の板碑は未見。(現地訪問後に知る)
 ※児子家正保3年(1646)墓碑も未見(現地訪問後に知る)、蓋し、確実な日蓮宗時代の長宝寺を称する遺物である。
2020/02/28撮影:
長野廃寺はおそらく松田氏によって日蓮宗に改宗させられ、やがて池田光政の不受不施弾圧というより日蓮宗弾圧により、寛文6年廃寺となる。
現地には中世の長野廃寺を偲ぶものはなく、日蓮宗時代の長宝寺を偲ぶものは1基の児子家の墓碑を除いて何もない。
 長野廃寺跡(地蔵院跡):中央の鳥居とその背後の社殿は八幡宮、その向かって左の堂宇は長野祖師堂、八幡宮鳥居の前面が地蔵院(長野廃寺)跡、八幡宮背後の中央に写る山が毘沙門山である。八幡宮は毘沙門天の拝所でもあるという。中央を流れるのは砂川である。
 想定地蔵院跡1     想定地蔵院跡2

備前長野毘沙門天・題目石
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
長野の毘沙門天・題目碑あり
長野祖師堂より北西に500mほど行き、長野橋手前の三叉路を右に入り、すぐに毘沙門天にのぼる石段がある。
毘沙門天まで450m、頂上直前の100m以外は急坂。毘沙門堂・題目石(嘉永7年/1854の銘)、手水石などある。
2020/02/28撮影:
毘沙門堂は既に大破、現状では倒壊を待つのみ、安置されていた毘沙門天など一切なく、どこかに遷座したのであろうか。
一方、登山参道は整備され、そんなに打ち捨てられた様子ではない。
題目石・石灯篭・磐座・手水石は健在。稲荷と思われる小祠も空っぽである。
 毘沙門山登山石階     毘沙門山磐座?1     毘沙門山磐座?2
 毘沙門天石燈籠
 毘沙門天題目石1     毘沙門天題目石2     毘沙門天題目石3     毘沙門天題目石4:嘉永7年の年紀
 長野毘沙門堂1      長野毘沙門堂2     長野毘沙門堂3
 毘沙門堂背後の基壇:毘沙門堂と紹介した堂宇の背後に基壇があり、その一角に稲荷の小祠があるが、この基壇には毘沙門堂があったのかも知れない。そうすれば毘沙門堂と紹介した堂宇は毘沙門堂拝殿となろう。
 推定稲荷小祠:毘沙門堂背後の基壇の一角に石を積みその上にある。毘沙門堂倒壊の後に稲荷が祀られたのであろうか。

備前横尾祖師堂
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
横尾の祖師堂には中央は題目石、右は大覚、左は地神が祀られる。
堂は2間×3間、木造瓦葺。空港線の道路工事により、現在地に新築移転される。
中央に題目石、右は大覚、左は地神を祀る。題目石の上部の壁には日蓮上人像(額)が掲げられる。
地神の側面には嘉永元年(1848)銘がある。
2020/02/28:
岡山市北区横尾557、緯度経度 34.728575, 133.833239 に所在。
当日、訪問を計画するも、長野からさらに山中に入り遠隔地のため、時間的な制約があり、訪問を断念(未見)する、よって祖師堂写真はGoogleMapより転載。
 横尾祖師堂1     横尾祖師堂2


備前津高郡松尾村・大窪村
松尾村;大窪村の東にある。
大窪村:当村から三光山南部の鞍部を越え高松稲荷へ抜ける参道があり、「大窪越え」という。
日蓮宗日遊山妙泉寺(金川妙國寺末)は寛文6年廃寺となる。

備前松尾祖師堂
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
a42bod 牛頭天王 岡山市松尾
「南無牛頭天王守攸(?)」の左に塔、右に石灯籠。山にちょっと乗った感じで、遠くからでも見える。日蓮堂と石灯籠がある。
34.694445 , 133.869358 → 緯度・経度:34.697730, 133.866912 に所在する。
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
松尾八幡宮の南の山裾にある。
昭和9年祖師堂改修(金257圓50銭也)の木札が掲げられる。堂内と堂外に題目石がある。
2019/11/07撮影:
 堂は荒廃し、床は全て解体され、廃材は堂内に置かれる。昭和9年の木札は既に堂内にはないが、昭和9年に改修され、その後抜本的な修理は行われなかったのであろうか、堂は崩壊の危機にある。いや崩壊の前に近々に取り壊されそうな様子である。
講中と思われる女性の方の談:
堂は随分荒廃している様子との問いかけに、「そんなことはない、毎週当番で境内は清掃し、奇麗にしている。しかし、堂の維持管理は大変な苦労となっている。」との返答がある。堂境内は講によって清掃されるも、今や堂は荒れ、少なくとも堂内の祭祀は絶えている様子である。
 松尾祖師堂1     松尾祖師堂2     松尾祖師堂3     松尾祖師堂4     松尾祖師堂5
 松尾祖師堂6     松尾祖師堂内部1    松尾祖師堂内部2    松尾祖師堂内部3    松尾祖師堂内部4
 松尾祖師堂内部5:題目石(日蓮大菩薩)・題目石(大覺大僧正)を祀る。何れも年紀は不明。
 題目石(日蓮大菩薩)     題目石(大覺大僧正)
 松尾祖師堂前石塔:題目石(法界萬霊)・牛頭天王・常夜燈を祀る。何れも年紀は不明。
 題目石(法界萬霊)     松尾祖師堂牛頭天王:「南無牛頭天王守攸」と彫る。     松尾祖師堂常夜燈

備前松尾題目石(地神)
緯度経度:34.696899, 133.864440にあり。
中川右岸にあり、「はなの前橋」の西詰にある。
2019/11/07撮影:
正面には「南無妙法蓮華経 地神」と彫られる。題目を主体として、「題目石(地神)」と呼称するかそれとも地神を主体として「地神(題目石)」と呼称するのが妥当なのかは、良く分からない。
 松尾題目石(地神)1     松尾題目石(地神)2
 松尾題目石(地神)3:側面に刻銘があるも、判読不能。
なお、ここから東方に松尾大池があり、その北岸に「地神」がある。
これは自然石に地神と彫るタイプである。未見。

備前大窪祖師堂・・・内部未見
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
a38eo 地神 岡山市大窪 宗形神社の下にある、普通の家みたいなお堂の中にある。
34.692921 , 133.86158 → 緯度経度:34.696081,133.859017に所在。
 ※宗形神社とは復古神道家の「悪ふざけ」の類であろう。即ち、現地説明板では、「延喜式内社といい、宗像3神(田心姫・湍津姫・市杵嶋姫)を勧請した」ものという。境内の摂社には「相殿とされるスサノウを祭神とする疫神社がある」というので、この地の疫神社(スサノウが祭神)を延喜式の「宗形大明神」に付会したものであろう。そして「宗形」と同音である宗像3神を明治維新の前後に祭神としたのであろう。まさに、悪ふざけ以外のなにものでもないであろう。
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
内部は板張り、正面は大曼陀羅をお祀りする場所、西側に題目石と地神、東側にも題目石を安置。
10年前までは、お祭りも賑やかであったという。
2019/11/07撮影:
 大窪祖師堂1:堂入口に一対の常夜燈があり、祖師堂の常夜燈なのであろうか。
 大窪祖師堂2     大窪祖師堂常夜燈・手水石
 大窪祖師堂内部:残念ながら施錠され、かつ集落内の戸外に人影はなく、ガラス戸から、内部を覗くしかないが、祭祀場所はアコーディオン式カーテンで閉じられ、上記資料でいう正面の大曼荼羅や題目石などを拝することはできない。

備前大窪題目石(法界)
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
高さ約175cm、幅約70cmで、「南無妙法蓮華経 法界」と刻む。
2019/11/07撮影:
緯度・経度:34.695232, 133.853768に所在。
題目石(法界)の年紀は不明、高松稲荷への参道である「大窪越え」の入口付近にあるので、参詣者を意識して建立されたものとも思われる。
 大窪題目石(法界)1     大窪題目石(法界)2     大窪題目石(法界)3:右に写るのが「鳴岩」であろう。
付近に「鳴岩」があるというが、不明、しかし、すぐ近くに大石があるのでこれが「鳴岩」であろう。
なお、下記に掲載の地図(大正元年地図及び昭和41年地図)には「鳴岩」が表示される。
 大窪鳴岩(推定)

備前大窪奥田池題目石(八大龍王)
緯度・経度:34.696599, 133.851622に所在、大窪越え途中の奥田池堤防上にある。
題目に八大龍王と刻み、旱魃のないことを願って建立されたのであろう。明治11年の年紀があり、幕藩体制崩壊後の早期の建立である。
2019/11/07撮影:
 奥田池題目石(八大龍王)1     奥田池題目石(八大龍王)2     奥田池題目石(八大龍王)3

備前大窪「大窪越え
大窪から、三光山南の鞍部を越えて、岡山方面から備中高松最上稲荷に至る参詣道で、現在は忘れられたような存在であるが、江戸後期から昭和初頭まで、賑わった街道のようである。
 ※津高郡大窪から峠までは備前であるが、峠を越えたところにあった寺院(大覺山一乗寺)は備中であり、ここから大谷を経て稲荷へ行く道は備中である。
その大窪越えのルートと三光山南鞍部にあった寺院の存在を記す地図を次に掲載する。
 明治28年地図:1/20000、眞金、明治28年測圖:
大窪越え三光山南の鞍部には寺院の記号(卍)は無い。しかし人家の記号(■)ははっきりしないが有るように見える。あるとすれば、これが寺院の堂宇であろう。
要するに、明治28年には寺院は存在しなかったか、存在はしたが人家記号のみの表示で寺院記号(卍)は省略されたかのどちらかであろう。
 大正元年地図:1/25000、足守、大正14年修正:
大窪越え三光山南の鞍部に寺院の記号(卍)が表示される。また、大窪の大窪越え入口付近に「鳴岩」の表記が現れる。さらに、峠から三光山への尾根筋に鳥居の記号(三光天王/三光天子)が現れる。
なお、三光天王であるが、参道が崩れ、別の場所に移転したという情報がある。
2020/04/03撮影:
 三光天子鳥居:大谷から大窪越えに入り、すぐに三光天子への参道がある。     三光天子石碑
 三光天子案内板:三光天子の参道が修復困難な程度に崩落する。よって龍王山一乗寺(稲荷山奥之院)に遷座する。一乗寺では宝塔を建立するという。
 本趣旨とは無関係であるが、地図左端に鐡道線が描かれ、上部には「いなりやま」駅が描かれる。これは中国鉄道稲荷山線で、明治44年(1911)から昭和19年(1944)まで存続した鐡道であった。
 昭和41年地図:1/25000、総社東部、昭和41年改測:
大窪越え三光山南の鞍部に寺院の記号(卍)が消える。既に三光山南の鞍部寺院は退転したということであろう。
一方「鳴岩」の表記はまだ残ったままである。
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
大窪越え頂上付近:
奥田池から600mほど先に土砂を採取する開かれた場所があり、やや急坂があり、上り詰めると南側は平坦な土地で、題目石や僧侶の墓がある。玉垣で囲われていたような区画もある。
反対側は竹藪であるが土地は平坦で、ここに寺院があったと伝える。
ここは備前と備中の国境で、昭和初期まで茶店があったという。大窪越えは高松稲荷への参道であった。
 大窪越え道1:頂上付近・備前へ下る道
 道路修繕記念碑:頂上付近やや下ったところにある。明治32年萬民の寄付によって改修されたようである。
 大窪越え道2:頂上付近・向かって左の薮は坊舎跡、右は「垣で囲われていたような区画」である。
 大窪越え道3:頂上付近・備中へ下る道
 2020/04/03撮影:大窪越道4:備中からの道
[参考]大窪越え道標:三光山南の鞍部に至る道の途中(備前側)に3基の道標が残るといい、次の2基を実見した。残りの1基は見落としたのであろうか、未見。
 大窪越え道標その1:是ヨリ廿三丁と刻む、鳴岩と奥田池との間にある。緯度・経度34.695594, 133.852630に所在。
 大窪越え道標その2:是ヨリ十廿丁と刻む、奥田池と三光山南の鞍部との間にある。

備前・備中大覚山一乗寺跡
 この地点は備前・備中の国境である。この地点は大窪越えの三光山南の鞍部であり、この鞍部の北側に寺(堂宇)があったといい、南側には題目石、9基の墓碑、祠跡と思われる高い石積基壇、推定土塀跡などの遺物を残す。
 後述するように、ここに残る題目石の刻文には山号(大覺山)、寺号(一乗寺)、開山上人、中興開山上人などがある。これらから、本廃寺は大覺山一乗寺跡であることが判明する。
 なお、本寺跡は国境に位置するため、備前に属するのかそれとも備中に属するのかは、情報もなく、どちらかといえば備中とも思われるが、判然とはしない。判然とはしない故に、当面備前・備中という扱いで掲載する。
 ※大覺山一乗寺は大覺大僧正の開基といい、備後神辺・備中小田郡神島・備中高松奥之院などにその伝承を残すが、その伝承の関係性の有無などが良く分からない。仍って、後日、整理した上で改めて掲載する予定である。

  →備前・備中・備後大覚山一乗寺中→備中高松村稲荷一乗寺(備中大覚山一乗寺跡)


備前津高郡今岡村・山崎村
今岡村:日蓮宗福聚山妙教寺(金川妙國寺末)は寛文6年廃寺となり、その後一時手習所として使われる。また寛永年中(1624-44)廃寺となった宗善寺に日蓮真筆の曼荼羅が伝えられていたという。
山崎村:日蓮宗妙圓山蓮教寺(金川妙國寺末)は寛文6年廃寺となる。

備前今岡上の祖師堂
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
741oq 気配のみ 岡山市今岡 有るんじゃないかなあ。
34.68686 , 133.871424 → 緯度経度:34.69002,133.868861 付近に所在する。
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
堂は1間半×2間、木造瓦葺き。平成4年に改築。
内部に地神、題目石、妙見大菩薩石があり、大正5年の銘を刻む。
2019/11/07撮影:
 今岡上の祖師堂1     今岡上の祖師堂2     今岡上の祖師堂常夜燈
 今岡上の祖師堂内部     祖師堂題目石:彫が浅く解読困難
 祖師堂妙見大菩薩:彫が浅く、辛うじて判読可能。     祖師堂地水神     祖師堂改築木札

備前今岡祖師堂:福聚山妙教寺跡
北区今岡、経度緯度:34.685274,133.870287
祖師堂がある。
 ※すぐ北の中川に架かる橋が番神橋とあるが、その番神は橋から南約1町にある番神堂に由来するものであろう。
今岡祖師堂は今岡妙教寺跡という。
○デジタル岡山大百科>一宮再発見 馬屋下小学校区編 より
 今岡妙教寺跡:創建時の馬屋下小学校跡であり、今岡手習所(寺子屋)を小学校とする。手習所の前身は岡山藩手習所で、寛文6年廃寺とした妙教寺を手習所とする。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地神 岡山市今岡 お堂の中に、「地神」と「日蓮」の石。外のブロック塀の中に題目石など沢山あるが、蜂が剣呑で調べなかった。恐い恐い。お堂の前にも小さな塔。
 今岡のお堂
○GoogleMap より
 今岡祖師堂      今岡祖師堂空撮:文字入れを番神堂としているが、これは祖師堂である。
備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧 より
 福聚山妙教寺は79を参照
○「岡山の地名」:日蓮宗福聚山妙教寺は寛文6年廃寺となり、一時手習所として使われる。
(また寛永年中廃寺となった宗善寺に日蓮直筆の曼荼羅が伝えられていたという。)
○Wikipediaなど より
寛文8年(1668)岡山藩により手習所制度が施行。津高郡馬屋郷の南部域(現在の一宮地域)では大字今岡に在した妙教寺に手習所が設置される。(妙教寺の手習所)
延宝2年(1674)手習所制度廃止。岡山藩の機関としての手習所は廃されるが、のち馬屋郷内にこれの流れを継ぎ汲む村立・私設の手習所(寺子屋)が設立・普及する。
明治23年の小学校再編分離統合で妙教寺跡の手習所が驛小学校となり、これが現在の馬屋下小学校の源流という。
2018/07/08追加:
○「撮要録巻之二十九」 より
  ○今岡村
 福聚山妙教寺 日蓮宗本寺金川村妙國寺末
  住僧立退 寺手習所に成後岡山に引かる 屋敷地村方へ賜 田地賜妙教寺養立清三郎
2019/11/07撮影:
この地は創建時の馬屋下小学校であり、今岡手習所、岡山藩手習所、廃妙教寺と遡る地である。
昭和元年建築の今岡祖師堂が建ち、堂前には一基の常夜燈を配する。堂内は土間で日蓮大菩薩石塔・地神を祀る。
堂の東には題目石・多くの僧侶と思われる墓碑を置く区画がある。
 今岡祖師堂1     今岡祖師堂2     今岡祖師堂3     今岡祖師堂4     今岡祖師堂常夜燈:火袋を欠く。
 今岡祖師堂内部1     今岡祖師堂内部2
 宗祖日蓮大菩薩1
 宗祖日蓮大菩薩2:正面:宗祖大菩薩/右:元文三戊午年(1738)十月十三日/左:看経講一結と刻む。
 祖師堂地神
 祖師堂建築誌:建築年月日:昭和元年九月一日、建築総額:四百九圓五十壱銭・・・
 祖師堂改築誌:改築年月日:平成17年7月吉日、改築費総額;百参拾六万円・・・日応寺檀家今岡下講社・・・
今岡祖師堂横石塔類(下図は配置平面図)
 祖師堂横石塔類1     祖師堂横石塔類2     祖師堂横石塔類3     祖師堂横石塔類4
【1】:駒形碑・題目石、正面:南無妙法蓮華経 法界■■、右側面:四文字刻むも判読できず。
 【1】:駒形碑・題目石
【2】:2,3の石塔類の残欠がある、判読できない。
 【2】:石塔類残欠
【3】:四角柱・墓碑、正面:妙法先祖・・・3行に渡るが、判読できず。
 【3】:四角柱・墓碑
【4】:四角柱・墓碑、正面:圓行院日薫大徳、左側面:師■以/明治■■乙酉四月八日寂/解読できず。 ※明治乙酉は18年。
 【4】:四角柱・墓碑
【5】:櫛型塔・墓碑、正面:妙法光林院日仁、左側面:寛保三癸亥(1743)
 【5】:櫛型塔・墓碑
【6】:四角柱・墓碑、正面:南無妙法蓮華経、左側面:開祖常腎院日淳三祖■■■日■/二祖善性院日■四祖■■、右側面:五祖・六祖などの法号を刻むと思われるが判読できない:背面:■寛政十戊午年(1798)十月十三日/知足庵■■義誠院日■
 【6】:四角柱・墓碑1:正面
 【6】:四角柱・墓碑2:左側面
 【6】:四角柱・墓碑3:背面
【7】:笠塔婆・題目石(台石の上に屋根付き石龕を載せ、その上に笠塔婆を載せる構造である)、正面:南無妙法蓮華経■・・・■、左側面:蓮の花の絵、右側面:左と同様に蓮の花の絵
 【7】:笠塔婆・題目石1:正面     【7】:笠塔婆・題目石2:左側面     【7】:笠塔婆・題目石3:右側面
【8】:四角柱・墓碑、正面:南無末法唱導師日蓮大菩薩、左側面:師範達誠院日鷲大徳/安永六丁酉年(1777)/、六月三日行年三十五歳、背面:判読できず(珍しい宝塔である)
 【8】:四角柱・墓碑1:正面     【8】:四角柱・墓碑2:左側面
【9】:笠塔婆・題目石、正面:判読できず(おそらく題目などを刻むと思われる)、左側面:正保二乙酉年(1645)
 ※正保二年かどうかは、刻銘が摩耗し、不確実である。
 【9】:笠塔婆・題目石
【10】:櫛型塔・墓碑、正面:妙法 恵雲院日教覺位、左側面:元文三戊午歳(1738)
 【10】:櫛型塔・墓碑
【11】:櫛型塔・墓碑、正面:妙法 禪智院日秀
 【11】:櫛型塔・墓碑
【12】:無縫塔・墓碑、正面:妙法恵碩院日深法印
【13】:無縫塔・墓碑、正面:妙法了高院日誠覺位
 【13】【14】:無縫塔・墓碑
番外: 寄進者石碑
【14】:常夜燈(火袋・笠欠、それに替えて五輪塔などの部材を載せる)
 【14】:常夜燈
【15】:四角柱・墓碑、正面:一如是■■■■/文化八辛未年(1811)・・・台石は欠
 【15】:四角柱・墓碑
※これらの石塔類については情報も文献にも出会わず、聞取りもせず、従ってこの性格(由来)などは全く不明である。
 石塔類の内、題目石は3基でいずれも豊島石製で古いものと思われる。墓碑が多数を占め10基を数え、残りは常夜燈1基と墓碑と思われる残欠1塊である。 
 題目石の中の【9】:笠塔婆・題目石の解読した年紀である正保二年(1645)が正しいとすれば、これは妙教寺が廃寺となった寛文6年以前のものであるが、これは俄かには信じ難いものである。しかし、この年紀が解読した通りであるとすれば、廃妙教寺ものもであった可能性はあると思われる。
 多数を占める墓碑は10基を数えるが、その墓銘からほぼ全てが日蓮宗僧侶のものであり、判明した年紀から江戸中期のものも多く、どこの寺院・庵室のものであるのであろうか不明である。
このうち、【6】:四角柱・墓碑には開祖から六祖までの法号が記されていて、大きな手掛かりにあると思われる。さらに、刻銘によれば「寛政十戊午年(1798)に知足庵■■義誠院日■」がこの墓碑を建立したとも解釈され、ここにいう知足庵とは不受不施派庵室である可能性は排除できないだろう。
因みにここにいう知足庵の手掛かりは、下に掲載の辛川市場祖師堂の現地説明板中の「元妙寺は寛文6年池田光政の弾圧により廃寺となり廃滅するが、文化2年(1805)附近から宝塔が発掘され、慶長14年(1609)村の先祖の者が建立した旨の由緒が読み取れ、村中の内信者が共同で敷地を買い取り、不受不施派庵室・知足庵へ寄進したことが古文書で確認できた」という文言にある。即ち、ここでいう知足庵とは辛川の内信者が寄進したという知足庵と考えられるであろう。今岡祖師堂と辛川市場祖師堂とは約500mの距離である。
なお、知足庵については講門派(津寺派)の庵室である知足庵が知られるが、この知足庵は「備中引舟(古新田)」に所在し、この備中引舟知足庵とは別の庵室であろう。

2024/09/20追加:
 今岡祖師堂は寛文6年廃寺となった今岡妙教寺跡という。
祖師堂内は土間で日蓮大菩薩石塔・地神を祀るが、これだけ見ると、備前の村々に営まれた「祖師堂」と同一のものと思われ、不受不施派とは無関係のように思われる。
 しかし、祖師堂横の石塔場には多くの石塔(供養塔・墓塔類)がある。
 従前、これらの石塔類については、僅かに「知足庵」との関係を仄めかす刻銘があり、それと推測はされるも、詳細は不明のままであった。
今般、知足庵および東知足庵の系譜と照合した結果、石塔類の刻銘について若干のことが判明したので、以下のように整理をする。

【4】:四角柱・墓碑、正面:圓行院日薫大徳、左側面:師■以/明治■■乙酉四月八日寂/解読できず。
 →明治■■乙酉は「明治18乙酉」である。 
【5】:櫛型塔・墓碑、正面:妙法光林院日仁、左側面:寛保三癸亥(1743)
 →光林院日仁は資料がなく、判明せず。
【6】:四角柱・墓碑、正面:南無妙法蓮華経、左側面:開祖常腎院日淳三祖■■■日■/二祖善性院日■四祖■■、右側面:五祖・六祖などの法号を刻むと思われるが判読できない:背面:■寛政十戊午年(1798)十月十三日/知足庵■■義誠院日■
 →右側面は未見。
 →開祖常腎院日淳は作州遠需寺出寺、知足庵開基、元禄3.7.16寂と判明。
 →三祖■■■日■は知足庵三租・沾妙院日利、享保3.8.23寂、字學雄と判明。
 →二祖善性院日■は知足庵二租・善性院日隆、正徳2.2.19寂、字覺賢と判明。
 →四祖■■  は義雄院日厳と刻むのであろう、知足庵四世は義雄院日厳、宝暦1.12.12寂。
 →背面の知足庵■■義誠院日■は知足庵七世(東知足庵6世)義誠院日随、寛政11.2.24寂で、本塔の建立者であろう。
 →■寛政十戊午年(1798)十月十三日はこの墓塔を建立した年紀であろう、翌年寛政11年に日随は寂する。
【7】:笠塔婆・題目石(台石の上に屋根付き石龕を載せ、その上に笠塔婆を載せる構造である)、正面:南無妙法蓮華経■・・・■、左側面:蓮の花の絵、右側面:左と同様に蓮の花の絵
 →正面の銘が判読出来ず、僧侶名は不明、左右の蓮華の彫刻は元禄期など江戸中期に見られる装飾と思われる。
【8】:四角柱・墓碑、正面:南無末法唱導師日蓮大菩薩、左側面:師範達誠院日鷲大徳/安永六丁酉年(1777)/、六月三日行年三十五歳、背面:判読できず(珍しい宝塔である)
 →達誠院日鷲は東知足院五世、安永6.6.3寂
【10】:櫛型塔・墓碑、正面:妙法 恵雲院日教覺位、左側面:元文三戊午歳(1738)
 →恵雲院日教:不明
【11】:櫛型塔・墓碑、正面:妙法 禪智院日秀
 →禪智院日秀:不明
【12】:無縫塔・墓碑、正面:妙法恵碩院日深法印
 →恵碩院日深は知足院九世・東知足庵八世、文化5.7.29寂。
【13】:無縫塔・墓碑、正面:妙法了高院日誠覺位
 →了高院日誠は東知足庵7世、享和2.10.22寂。

以上のように、知足庵・東知足庵に関係する銘が頻発するが、両庵の系譜は下に掲載する。

 整理した結果は、判読不明な銘、未確認の銘、刻銘された僧侶の事績が不明などの問題はあるが、総じて不導師派(津寺派)に連なる「知足庵」「東知足庵」に関係する石塔群であると判明する。
ただ、通説では知足庵・東知足庵は備中にあったとされ、なぜここ(備前と備中の境界付近の今岡)にあるのかは分からない。一般的に云えば、弾圧の手から逃れるため、禁制下の庵は備前・備中を点々としたということかもしれない。
また、これだけ大量の不受不施派石塔が備前藩領に纏まって存在するのはある種「謎」である。
しかしながら、下に掲載の辛川市場下の日蓮堂(辛川元妙寺跡)の現地「説明板」や「日蓮宗不受不施派讀史年表」の記事などから判断すれば、辛川市場一帯には知足庵・東知足庵に関係する内信者が多くいたと推定される。彼らの活動・強固な意思がこれらの石塔類を守り、ここに結集させたのかも知れない。
 ただ、知足庵・東知足庵の具体的痕跡については不明のままである。

講門派知足案系譜【系譜15】

開基:常賢院日淳、元禄3.7.16、作州遠需寺出寺 ━ 二世:善性院日隆、正徳2.2.19、字覺賢 ━ イ
 ┗ 隆善院日聡、貞享3.1.8          ┗ 要修院日悦、宝暦3.3.12

イ ━ 三世:沾妙院日利、享保3.8.23、字學雄 ━ 四世:義雄院日厳、宝暦1.12.12 ━ 五世:義観院日勇、明和5.1.11、字智健 ━ ロ
                         、日隆甥

             東知足庵5世達誠院日鷲、安永6.6.3 ┓
ロ ━ 三世:沾妙院日利、享保3.8.23、字學雄 ━ 四世:義雄院日厳、宝暦1.12.12 ━ 五世:義観院日勇、明和5.1.11、字智健 ━ ハ


ハ ━六世:義傳院日鏡、安永9.4.11 ・・・ 七世:東知足庵6世義誠院日随、寛政11.2.24 ━ 二

    ┏ 八世:義學院日如、寛政2.3.15、日鏡弟子
ニ ━╋ 東知足庵7世了高院日誠、享和2.10.22、字恵本 ━ 九世:東知足庵8世恵碩院日深、文化5.7.29、日鏡符弟
    ┗ 義精院日運、享和3.2.晦            ┗ 恵直日正

-----------------------------------------------------------------------------------------------------

講門派東知足庵系譜【系譜16】

安國院日講 ━ 開基:本行院日長、享保16.1.23、字學雄、岡村善亮こと ━ 二世:恵定院日新、元文4.5.23、字賢立 ━ ホ
春雄院日雅 ┛                            ┗ 善性院日了、寶永6.6.23

ホ ━ 三世:恵観院日定、寛延3.12.29 ━ 本了院日透、天明2.11.17、字恵了 ━ 五世:達誠院日鷲、安永6.6.3 ━ ヘ
                         、日隆甥
                         浄眼院日慈、宝暦6.1.22 ┛
   (知足庵7世)                                 (知足庵9世)
ヘ ━ 六世:義誠院日隋、寛政11.2.24 ━ 七世:了高院日誠、享和2.10.22、字恵本 ━ 八世:恵碩院日深、文化5.7.29、日鏡符弟
                  ┣ 義精院日進、享和3.2.晦       ┗ 恵直日正
                  ┗ 知足庵8世義學院日如、寛政2.3.15、日鏡弟子

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備前今岡番神堂
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7
今岡の番神(番神堂)
大三角の東200mの番神橋の南に100mの山裾にある。坂を少々上がったとこにある。
この番神はもと大西家で祭祀していたが、大西氏がこの地を離れてから、今岡の約90軒が交代でお祀りする。
2019/11/07撮影:
岡山市北区今岡79、緯度経度:34.684359, 133.870054に所在
2019/11/07撮影:
 今岡番神堂1     今岡番神堂2     今岡番神堂3     今岡番神堂4     今岡番神堂5
 番神堂内部1     番神堂内部2
 番神堂諸尊:三十番神が祀られている形跡はなく、雑多な諸尊が祀られる。手前は不動明王立像、狛犬、奥には向かって右から男子神像、女子神像、僧形坐像、女子神像と思われるも、具体的な尊名は不詳。氏神様との修理銘板が架かるので、日蓮宗・三十番神とは無関係であろう。

備前山崎祖師堂
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
C28EWO 地神尊 岡山市一宮山崎 一宮山崎の扉付きのお堂=これは日蓮堂?、閉まってるし、暗くてよく見えない。お堂の前には記念碑がある。お堂の中、左から、祠*2、石「地水尊」、石「南無妙法蓮華経 日蓮大士」、石「南無大覚大僧正」。
緯度経度:34.68294,133.873357に所在
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7
一宮山崎の祖師堂
建物の正面に題目石・地水神・常夜燈などが祀られる。堂内の壁には「日蓮大聖人第七百御遠忌報恩・昭和56年10月10日」の木板があり、52名の喜捨された方の芳名がある。
2019/11/07撮影:
堂内に向かって右から、大覚大僧正、題目石(日蓮大士)、地水尊、木造小祠、常夜燈を祀る。
 備前山崎祖師堂1     備前山崎祖師堂2     備前山崎祖師堂3     堂前記念碑
 山崎祖師堂石塔類1     山崎祖師堂石塔類2     祖師堂大覺大僧正:明治39年建立
 題目石(日蓮大士)1     題目石(日蓮大士)2:文政七甲申年(1824) の年紀
 祖師堂地水尊      祖師堂内小祠:祭神などは不明。     祖師堂内常夜燈
 明治14年奉納額     昭和56年木札


備前津高郡辛川市場村・西辛川村・一宮村
西辛川村:西は備中である。東榮山妙蓮寺(金川妙國寺末)は寛文6年廃寺とされる。
辛川市場村:日蓮宗妙本山元妙寺(金川妙國寺末)は寛文6年廃寺とされる。
一宮村:一宮敷地村を含有する。西は備中である。日蓮宗小松山妙法寺(金川妙國寺末)は寛文6年廃寺とされる。一宮敷地村は備前一宮の門前である。

備前辛川市場上の日蓮堂
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
 a36eo 地神 岡山市辛川市場 お堂は締まっているけど、格子から覗ける。このエリアは難しいね。
34.683966 , 133.865819 → 緯度経度:34.687126,133.863256付近に所在
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7
辛川市場上の日蓮堂
2間×2.5間、瓦葺き。
題目石(花崗岩製)高さ約143cm・幅約72cm・厚さ約24cm、および地神(花崗岩製)高さ約73cm・幅約51cn・厚さ約33cmを堂内に祀る。
2019/11/07撮影:
 辛川市場上の日蓮堂1     辛川市場上の日蓮堂2     辛川市場上の日蓮堂3
 上の日蓮堂常夜燈     上の日蓮堂内部     題目石(日蓮大菩薩)     上の日蓮堂地神
なお、辛川市場上の日蓮堂は三叉路の西北角にあり、その対角線上の南東角に「備前辛川市場上の道標」がある。
 
備前辛川市場下の日蓮堂(辛川元妙寺跡)
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
 739oq 気配のみ 岡山市辛川市場 地図によれば日蓮堂だ!ということはあるぞ。きっと。たぶん。。。。
34.680869 , 133.867113 → 緯度経度:34.684029,133.86455付近に所在
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
日蓮堂は2×2.5間、瓦葺き。
堂内安置:題目石(花崗岩)は高さ約143cm、幅約72cm、厚さ24cm、地神(花崗岩)は文化7年(1810)銘、高さ約73cm、幅約51cm、厚さ約33cm。
○現地説明板 より
 この付近は古代山陽道の津高駅(馬屋)があったといわれる。後世、馬屋には市が開かれ辛川市場村といわれ、江戸期に備中板倉宿が設定されるまで、辛川宿と云われる宿場町であった。
 この祖師堂の場所は元妙寺と称し、備前守護代松田氏6代松田元運(もとかつ)の建立という。これは、系図に元運生前の應永21年(1414)に辛川庄に建立とあるのが根拠である。また元妙寺とは元運の法名寶相院殿前親衛校尉現妙日行大居士に因むという。なお、隣地は談義所という小字であり、備前法華のいわば「談所・檀林」のあった場所であったという。
 元妙寺(金川妙國寺末)は寛文6年池田光政の弾圧により廃寺となり廃滅するが、文化2年(1805)附近から宝塔が発掘され、慶長14年(1609)村の先祖の者が建立した旨の由緒が読み取れ、村中の内信者が共同で敷地を買い取り、不受不施派庵室・知足庵へ寄進したことが古文書で確認できたという。
 なお、辛川は圓山大光院に伝わる題目石の旧地・俗に「御跡(おあと)」と称する寺跡も地名を蓮光寺と称し、備前松田氏3代元泰(法名・蓮光院殿燈明日経大居士)が生前から営んだものと云われる。但し、蓮光寺は早く金川の寺院に集合されたようで、寛文の廃寺の資料では西辛川村東榮山妙蓮寺となっている。妙蓮寺は山際地区にあったようである。
 ※文化2年発掘されて宝塔の所在およびその銘文は不明。
 ※元妙寺跡は不受不施派内信者が買い取り知足庵に寄進したという古文書とは不明、また知足庵の所在・由来なども不明。
 ※知足庵に関しては、今岡祖師堂横の石塔類の中に知足庵の刻銘があるが、これとの関連性も不明である。
知足庵の刻銘のある今岡祖師堂横の石塔(墓碑)は次の通りである。
 【6】:四角柱・墓碑、正面:南無妙法蓮華経、
左側面:開祖常腎院日淳三祖■■■日■/二祖善性院日■四祖■■、
右側面:五祖・六祖などの法号を刻むと思われるが判読できない、
背面:■寛政十戊午年(1798)十月十三日/知足庵■■義誠院日■ とあり、背面に知足庵の刻銘がある。
2024/03/19追加:
○「日蓮宗不受不施派讀史年表」昭和53年 より
文化2年(1805)1月15日
 備中辛川市場村元妙寺の旧跡より寛文7年に埋没した石塔を掘り出す。(内田家文書)
文化3年(1806)9月
 備中辛川市場村元妙寺屋敷地に宝塔の屋敷を建て、その維持費は辛川市場村の内信者が負担することを連署する。(内田家文書)
 ※但し、記事には”備中”辛川市場村とあるが、備前である。確かに辛川村は備前と備中の境界ではある。
2019/11/07撮影:
 下の日蓮堂現地説明板     辛川市場下の日蓮堂1     辛川市場下の日蓮堂2     下の日蓮堂常夜燈
 下の日蓮堂内部1     下の日蓮堂内部2     下の日蓮堂内部3     下の日蓮堂内部4
 下の日蓮堂題目石1     下の日蓮堂題目石2     下の日蓮堂地神

備前一宮日蓮堂
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
B09DQ 気配のみ 岡山市一宮 木の額がかかっており日蓮堂と分かる。この付近の日蓮堂は地神を置いている事が多く、可能性ありあり!
緯度経度:34.67802,133.870797に所在
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7
中川橋の日蓮堂、堂内には題目石(日蓮大士)と大覚大僧正碑がある。
題目石(日蓮大士)は文政13(1830)庚寅の年紀がある。高さ133cm、幅約47cm、厚さ約33cm、花崗岩製。
大覺大僧正碑は高さ約86cm、幅約69cm、厚さ約28cm、花崗岩製。
2019/11/07撮影:
中川右岸堤防上にある。施錠されていたが、町会長に開錠をお願いする。
 町会長則武氏談:「日蓮堂は今月(2019年11月)取壊し予定である。講中が高齢化し、堂を維持できないのが理由である。であるから、取壊しの後は堂が再建されることはない。日蓮堂扁額は既に取り外されている。この扁額は講中で彫ったものである。」
残念なことであるが、祖師堂が一つ消えることとなる。おそらく、石塔類はそのまま現地に残され、日蓮さまとして整備・祀られるのであろうと思われる。
また、会長は「この地方(備前)の日蓮堂(祖師堂)は寛文6年の廃寺のあと、日蓮宗徒のガス抜き(懐柔策)として奨励されたのではないか」との見解をお持ちである。
なお、会長の姓は則武であるので、則武氏についてお訊ねすると、次のような回答であった。
備前に多い「則武」とはもともと宇喜多氏の家臣であったが、宇喜多氏の滅亡とともに、帰農し土着した家が多く、その流れになる。会長である則武氏もそのような家系という。但し、一宮の土着ではなく、備中花尻より近代に引っ越ししたという。
 備前一宮日蓮堂1     備前一宮日蓮堂2     備前一宮日蓮堂3
 一宮日蓮堂扁額撤去:取壊しの為であろう、既に扁額は取り外されている。
  ※2015年の日蓮堂:扁額の掲げられた日蓮堂:GoogleMapより     在りし日の日蓮堂扁額:GoogleMapより 
 昭和60年日蓮堂増改築下げ札:堂内の下げ札で昭和60年に日蓮講などによって増改築が行われたことが分かる。
 町会長則武氏談では「日蓮堂は昔今の規模より小さかったが、後の1/3くらいが増築され、規模が拡大された」という。
 一宮日蓮堂内部
 一宮日蓮堂石塔類:大覚大僧正、題目石(日蓮大士)、地神(推定)を祀る。地神(推定)は大破していて、全く読めない。
 日蓮堂大覚大僧正     題目石(日蓮大士)1     題目石(日蓮大士)2     日蓮堂地神(推定)
2020/02/28撮影:
前回、2019年11月取り壊し予定とお聞きしていた。その予定どうり、日蓮堂は取り壊され、更地となる。
しかし、中に祀られていた石塔類が全く見当たらない。石塔類は当然堂跡に祀られるのが自明のことと思っていたので、再度町会長に石塔類の行方についてお訊ねする。
「日蓮堂の土地は堤防上であり、そこは県の土地であり、県から借地していた。今般日蓮堂取り壊しに際し、土地は県に返却した。石塔類は別の場所に移し、そこにお祀りしている。移転場所は山神の上(一宮山神の北の先端)の場所である。」
 一宮山神の北の先端とは備前一宮社の北西にあたり、一宮社の前を吉備中山道が通るはその道を吉備津の方に進み、やがて左手に山が迫り、墓地が現れる。その墓地の附近に移転する。右手には小川が流れ、その川の向うは西辛川である。
 ※移転後の石塔類は次回に訪れることとする。
 備前一宮日蓮堂跡:取り壊された日蓮堂の跡地
2020/04/03撮影:
備前一宮梟首台墓地
(梟首台墓地とは地元でどう呼ばれているのか不明であり、偶々梟首台が置かれているので、そう仮称する。)
 備前一宮日蓮堂は取り壊され、安置していた題目石類は、上述のように、備前吉備津宮(備前一宮)の北の大鳥居から、吉備中山北麓を備中方向へ約160mほど行ったところにある墓地(梟首台墓地)の一画に遷座することとなる。
 ※緯度経度:34.678814, 133.861290 の地点である。
この場所は墓地(埋葬の地)であり、奇しくもここには街道脇に梟首台が置かれ、その上方の墓地には、かっては葬式(埋葬の地における葬儀)が行われていたのであろうか、その葬式の施設が設置されている。
そしてここには、その施設が2種類あり、その一つは日蓮宗の葬式施設であり、もう一つは非日蓮宗(と推定)の葬式施設である。
日蓮宗の葬式施設は題目石・石蓮台・石経机(石御供机)であり、非日蓮宗のそれは六地蔵石仏・石蓮台・石経机(石御供机)である。
 まず、梟首台については、次のようなWeb記事が散見されるので、その記事のようなことであろう。(真偽のほどは分からない。)
「備中福山合戦で足利直義が敵将の首実検をした後、ここに晒した」と伝わる。
また、備前吉備津宮は「足利氏に庇護され数々の寄進を受け、その中には、馬屋職と呼ばれた自治権が神官の一部に与えられていた。その警察権を持つ神官が裁いた刑罰の結果をここに曝した」とも伝わる。
なお、「現存する石は、当時のものではない。」ともいう。
 備前一宮「梟首台」
 備前一宮葬式施設:向かって左は日蓮宗葬式施設、右は非日蓮宗のそれ。
 日蓮宗葬式施設1     日蓮宗葬式施設2
 日蓮宗葬式施設3:年紀は享保十■巳■/十月十三日とあるから、享保十乙巳歳(1725)であろう。看経講中とある。
 非日蓮宗葬式施設
  ※同じような葬式施設は上に掲載の備前首部祖師堂及び備前西楢津野辺題目碑に見られる。
 訪問日は日蓮堂が取り壊されて4ヶ月以上が経過した時であったが、丁度、題目石再建の工事中であった。
従って、残念ながら、再建題目石への参詣は次回の訪問までお預けとなる。
 一宮題目石再建工事1:墓地の東端・中山道沿いに再建される。     一宮題目石再建工事2
 一宮題目石再建工事3:題目石は伏せて置かれている。堂内には題目石(日蓮大士)・大覚大僧正碑・推定地神が置かれていた。
 題目石(日蓮大士):塔身と第2台石     題目石(日蓮大士)第1台石
 大覚大僧正碑     推定地神:向かって左と下の部材は花立・線香立などであろう。

備前辛川大覚堂(辛川大覚寺)

 →備前辛川大覚寺

備前西辛川鳴日蓮堂・・・・・不受不施派の祖師堂である。
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
堂内正面に
題目石(日正大聖人)・高さ約1229cm、題目石(日蓮大菩薩・昭和4年)・高さ約137cm、題目石(日通大徳位・元禄11戊寅年11月18日)、地神を並べ、堂内側面には多くの墓碑が祀られる。
2019/11/07撮影:
緯度経度:34.684474, 133.861898付近に所在。
祀られる題目石・墓碑から判断すれば、云うまでもなく不受不施派祖師堂である。但し日正・日通以外の墓碑の墓銘には既知の法号がなく、どのような法脈が祀られているのかは不明である。後日を期す。
備中に近く、さらに日通の業績が刻まれているので、あるいは備中日指庵につながる法脈とも推測されるが、日指庵の具体的法脈なども不明であり、まったく分からない。
 西辛川鳴日蓮堂1     西辛川鳴日蓮堂2     西辛川鳴日蓮堂3     西辛川鳴日蓮堂4
 西辛川鳴日蓮堂5     西辛川鳴日蓮堂6     西辛川鳴日蓮堂7     西辛川鳴日蓮堂8
 日蓮堂内部正面     日蓮堂内部正面及側面     日蓮堂内部側面
 日蓮堂内部正面2     正面(日正・日蓮・日通・地神)     日蓮堂内部正面及側面2
正面には、向かって左から、次の7基の石塔(題目石3基、地神1基、墓碑3基)が並ぶ。
題目石(日正大聖人)、題目石(日蓮大菩薩)、題目石(日通大徳位)、地神、行法院日観など墓碑、慈照院日存墓碑、智見院日普墓碑である。
 題目石(日正大聖人)1     題目石(日正大聖人)2:日正大聖人と刻む。
 題目石(日蓮大菩薩)1     題目石(日蓮大菩薩)2:日蓮大菩薩と刻む。
 題目石(日通大徳位)1     題目石(日通大徳位)2:日通大徳位と刻む。
 題目石(日通大徳位)3:左側面:元禄11年11月18日日通遷化
 題目石(日通大徳位)4:右側面:師範覺隆院日通大徳位者備■(後)國福山樹■(榮)山光/■(政)寺六世依不受謗施退寺■■■五千五百■■■■/勧進唱題五万五千部■■■経九千從■ と刻む。
   →備後福山光政寺:覺隆院日通は備後福山光政寺6世という。
 西辛川鳴日蓮堂地神
 行法院日観など墓碑1:正面、妙法 行法院日観     行法院日観など墓碑2:右側面、妙法 久遠院日然
 行法院日観など墓碑3:左側面、妙法 正法院日遊
 慈照院日存墓碑:正面、一如 慈照院日存、左側面は解読できず。
 智見院日普墓碑:正面、妙法 智見院日普と刻み、左側面は享保十八年(癸丑)の年紀(日普遷化)を刻む。
北側側面には、向かって左から、次の7木の石塔(墓碑4基、墓碑と思われるも不明2基、常夜燈1基)が並ぶ。
信定院日全墓碑、信行院日■ほか墓碑、普應院日恩墓碑、不明石塔その1、不明石塔その2、常夜燈である。
 信定院日全墓碑:正面、妙法 信定院日全、左右側面の刻銘は良く分からない。
 信行院日■ほか墓碑1:正面、信行院日■徳位、前右側面、自得院日生位
 信行院日■ほか墓碑2:前右側面、隆傳院日■位、後3面の刻銘は未確認。
 普應院日恩墓碑:正面、妙法 普應院日恩
 ■■院日■墓碑:正面、妙法 ■■院日■:解読困難
 不明石塔その1:正面、解読困難(最初の2文字は妙法か)豊島石製。
 不明石塔その2:正面、まったく判読不可。        日蓮堂常夜燈

備前西辛川鳴の地神
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
地神は高さ約45cmの台石を置き、その上に高さ約75cmの自然石(花崗岩)に地神と刻む。
木造小祠2棟と常夜燈が横一列に並ぶ。
2019/11/07撮影:
緯度経度:34.684203, 133.862606付近に所在。
 西辛川鳴の地神1     西辛川鳴の地神2
 西辛川鳴の地神3:写真奥に大覚大僧正道:是より北3町2の石碑が写る。

備前西辛川五軒家日蓮堂
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
a40eoo 地神 岡山市西辛川 ご免くださーい。
34.678637 , 133.862665 → 緯度経度:34.681797,133.860102付近に所在。
 なお、調査報告書「山陽道」では「地神を祀ったお堂があり」とある。
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
2×3間、瓦葺きの堂宇である。
堂内に題目石2基、地神、常夜燈を祀り、題目石の1基には文政9丙戌の刻銘がある。
2019/11/07撮影:
日蓮堂前の東西道路は近世山陽道である。
 五軒家日蓮堂1     五軒家日蓮堂2     五軒家日蓮堂3
 五軒家日蓮堂内部1     五軒家日蓮堂内部2
 題目石(大覚大僧正)1     題目石(大覚大僧正)2     五軒家日蓮堂常夜燈
 題目石(日蓮大士)1     題目石(日蓮大士)2     五軒家日蓮堂地神

備前西辛川山際日蓮堂
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
内部に題目石(日蓮大士)、三十番神、地神を祀る。堂前に常夜燈(天保7年(1836))あり。
題目石は高さ約182cm、幅約52cm、厚さ約45cm、三十番神は高さ約72cm、幅約37cm、厚さ約2cm、地神は高さ約87cm、幅約56cm、厚さ約38cm。
2019/11/07撮影:
およそ緯度経度 34.683755, 133.857408 の附近に所在する。
 山際日蓮堂1     山際日蓮堂2     山際日蓮堂3     山際日蓮堂常夜燈:天保7年銘あり。
 山際日蓮堂手水石     山際日蓮堂石製香炉
 山際日蓮堂内部1     山際日蓮堂内部2
 題目石(日蓮大士)     山際日蓮堂三十番神     山際日蓮堂地神
なお、上に掲載の「備前辛川市場下の日蓮堂(辛川元妙寺跡)」の説明板には、「寛文6年廃寺となった西辛川村東榮山妙蓮寺は山際地区にあったようである」といい、これに従えば、この付近もしくはこの近辺に妙蓮寺があったものと思われる。(この日蓮堂は妙蓮寺跡にあるのかも知れない。)


備前津高郡野殿・尾上・花尻村
大安寺村西に野殿村があり、野殿村西に尾上村があり、尾上村南に花尻村がある。その備前花尻村(備前藩領)の西(境目川の西)は備中で、備中東花尻村(幕府領・庭瀬藩領)と接する。
 ※明治9年野殿村は津高郡より御野郡に編入される。
野殿村には日蓮宗蓮昌寺末恵應山大雲寺及び大雲寺々中常養坊があったが、寛文6年廃寺となる。(住僧還俗)
尾上村には日蓮宗津島妙善寺末松田山明光寺があったが、寛文6年廃寺となる。(住僧還俗)
 ※「京山物語」p.602に「野殿地区略図」の掲載があり、字「城之内」の北、天満宮の南に字「寺前」がある。
 推測するに、「寺前」とは野殿大雲寺に因むものではないだろうか。

野殿村
2019/07/15追加:
〇「京山物語」郷土史「京山物語」編集委員 高原忠敏、平成15年(2003) より
 矢坂山の南西麓に位置する野殿は、最近で、北東南の三方を大川とも呼ばれた三日月湖に囲まれ、西側には笹ヶ瀬川が流れる約59ヘクタールの環濠集落をなしていた。中世には矢坂山の西麓から平野部に出た笹ヶ瀬川は矢坂山の南麓に向けて大きく湾流していた。前記の三日月型の大沼はその名残りだったことは言うまでもない。
 昭和23年野殿附近航空写真
 野殿はこの湾流の西側(笹ヶ瀬川右岸)に位置するため、長い間、御野郡ではなく、津高郡に属していた。
ちなみに、野殿村が津高郡から御野郡に編入されたのは明治9年である。
また、笹ヶ瀬川が現在のように直線的な流路になったのは江戸前期のことで、岡山藩の治水事業で河川改修がなされた結果と思われる。
 昭和38年(1963)新設の県立大安寺高校用地の代替として、環濠の三日月沼が埋め立てられ、農地となり、かっての水郷風景は消滅する。また近年では宅地も増加し、純然たる農村風景も変貌しつつある。


※「地域資料叢書1 村人が語る17世紀の村―岡山藩領備前国尾上村総合研究報告書―」
  東昇、服部英雄研究室(九州大学)、1997 の概要は「不受不施派弾圧による備前尾上村の動向」に掲載する。


備前野殿祖師堂・・・・・・・・(8)野殿祖師堂
○「大野村誌」昭和31年 より
 所在:野殿、堂宇:3間2間瓦葺、祭祀:題目石三基・地水神・帝釈天王、備考:常夜燈
  ※現:岡山市北区野殿東町11−28 、JR吉備線北側、堂宇は「子供会館」となっている。
  「大野村誌」に記載の帝釈天王は堂の背後にはない(堂は施錠され確認できないが、堂内に安置かも知れない?)。
  ※祖師堂は堂の背後の屋外に石塔類を祀る形式である。
2019/07/15追加:
〇「大野学区六十年のあゆみ」平成25年(2013) より
祭祀:題目法界、題目地神水神、題目日蓮花押、題目大覺大僧正
その他:文化7庚(1810)の常夜燈1基
  祖師堂は子供会館となり、県知事三木行治揮毫の額
  題目日蓮花押の碑に天明5年乙巳(1785)8月13日
  四基並んだ題目石の裏手に瓦クド1基
  周囲に土塀を残す
  堂附近の井戸を埋めた
また
「神社仏閣・思い出」相賀常昭 の稿 では
「・・・祖師堂には大覚大僧正と三箇の題目石と常夜燈一基がある。村人たちは当番札を回して輪番で祖師堂に参詣している。
 春秋の社日には、社日祭が行われ住職を導師に参詣して居る。以前は、社日祭の後には子供たちにお供えのお菓子が配られた。祖師堂と云っても地区の人の間では、馴染みのない言葉で「お祖っさま」「集会所」と呼ばれている。今では子供会館と呼ばれている。・・・」とある。
2019/08/25追加:
〇「ふるさと野殿」有松清友/編さん代表、野殿福利講友会、平成5年(1993) より 1993.10
 今でも村人たちは当番札をまわして、輪番に祖師堂に参詣し香華を手向けている。春秋の社日には社日祭が祖師堂で行われている。以前は井戸があったが、必要がなくなり、また危険であるため、埋め立てられた。
 祖師堂といっても馴染みのない言葉で、「おそっさま」、「集会場」が古くからの呼び名で、今では「子供会館」と呼ばれている。
地水神・牛馬神・帝釈天王・大覺大僧正を祭祀するとともに題目石3個と常夜燈1基がある。
 野殿祖師堂輪番札
  ※「帝釈天王日■」とあり、帝釈天の名称があるが、帝釈天は堂の背後には無く、堂内に祀られているのであろうか。
なお、「天満宮と出征兵士」の項があり、次のような記述がある。
 「太平洋戦争をはじめいつの世の戦争の時も、戦場へ赴く兵士は天満宮の神前に立って無事を祈願し、地元の人々に見送られて戦場へ赴いたものである。」
 ※国家神道の本質が語られている。戦場に兵士を連行した、つまり国家神道を利用し国民を死地に追いやった為政者や官僚たちは責任をとって割腹・自決でもしたのであろうか、そういう話は全く聞かないから、そういう責任はとっていないのだろう。
2019/03/16撮影:
祖師堂は「子供会館」の扁額が懸り、そこには岡山県知事三木行治の署名がある。
三木行治は昭和26年岡山県知事に当選、以降連続4期連続当選、4期目在任中の昭和39年逝去という経歴であるので、祖師堂が子供会館に衣替えしたのは昭和20年後半から昭和30年代のことと推測される。
終戦後早い時期に祖師堂は子供会館に改組されたものと思われる。
 野殿祖師堂(子供会館)     野殿子供会館扁額
 野殿祖師堂石塔類1     野殿祖師堂石塔類2:向かって右から、題目碑・地水両神、題目碑、大覚大僧正碑と並ぶ。
 野殿祖師堂土塀1       野殿祖師堂土塀2:登山口・頂上の札があるが、この意味は不詳。
 祖師堂題目石(法界):文政4年(1821)の年紀     祖師堂題目石(地神水神守)
 祖師堂題目石(日蓮花押):花押は不詳、天明□□年(1781-89)の年紀
 大覚450遠忌報恩塔1     大覚450遠忌報恩塔2:文政5年(1822)の年紀

備前尾上北浦日蓮堂(祖師堂)
岡山市北区尾上1590-1の北:緯度・経度:34.667966, 133.866217
○「吉備の中山を歩く 岡山文庫281」熊代哲士・熊代建治、日本文教出版、2013 より
堂は平成12年に改築される。2間と2間半(畳10帖敷の広さであろう)の木造瓦葺きである。
18世紀初めの銘を刻んだ大覚石、題目石、地神などを祀る。
2019/03/16撮影:
祖師堂が現存する。その形式は堂の背後の屋外に石塔類を祀る形式である。
 尾上北浦日蓮堂1     尾上北浦日蓮堂2     尾上北浦日蓮堂3     北浦日蓮堂石塔類1
 北浦日蓮堂石塔類2     北浦日蓮堂石灯篭     日蓮大菩薩題目碑:年紀は不明
 大覚大僧正碑:文政7年(1824)の年紀、上著では18世紀初めの大覚石というも錯誤であろう。
2019/07/10追加:
○「地域資料叢書1 村人が語る17世紀の村―岡山藩領備前国尾上村総合研究報告書―」 より
大覚石-文政7年、題目石-天保2年(1831)550遠忌、北浦講中が大覺と日蓮を一緒に、地神は別に祭を行う。

備前尾上八幡宮裏東花尻妙傳寺故地
この八幡宮自体は何も取り上げるものは無いが、本殿北側は東花尻妙傳寺の故地であるという。
 東花尻妙傳寺故地:八幡宮本殿裏の畑地である。おそらくこの付近が妙傳寺の故地であろう。
  → 備中東花尻妙傳寺は備中東花尻

備前尾上南浦日蓮堂
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
2×2.5間瓦葺、内部には天明元年(1781)銘の題目石、左右には大覚大僧正と地神を祀る。
大覚石は高さ約100cm・幅約40cm、題目石は高さ約120cm・幅約50cm、地神は高さ約100cm幅約50cm
2019/11/07撮影
岡山市北区尾上118 緯度経度:34.667711, 133.867263に所在。
堂の外に常夜燈や石塔類が全くなく、この日蓮堂は単なる納屋などと区別がつかず、まったくひっそりと建つ。
堂は施錠される。参拝には講中の当番の家を探し開錠してもらう必要がある。
 尾上南浦日蓮堂1:中央小祠は大歳様     尾上南浦日蓮堂2     尾上南浦日蓮堂3
 尾上南浦日蓮堂4     尾上南浦日蓮堂5     尾上南浦日蓮堂6
 尾上南浦日蓮堂内部1    尾上南浦日蓮堂内部2:向かって左から大覺大僧正、題目石(日蓮大菩薩)、地神を祀る。
 南浦日蓮堂大覺大僧正     題目石(日蓮大菩薩):天明元辛丑年(1781)の年紀あり。
 南浦日蓮堂地神     南浦講中貼紙:現在は11軒で運営するようである。春秋2回の社日(地神さま)と9月12日の日蓮様が行事として行われるようである。

備前尾上畑日蓮堂(祖師堂)
岡山市北区尾上1451の東南
○「吉備の中山を歩く 岡山文庫281」熊代哲士・熊代建治、日本文教出版、2013 より
堂は平成6年改築、瓦葺・3間と2間(畳12帖敷のひろさであろう)で、18世紀初期の塔婆石、大覚石、地神などが祀られる。
2019/03/16撮影:
祖師堂が現存し、その形式は石塔類を堂内部に祀るものである。
 尾上畑日蓮堂     尾上畑日蓮堂内部     尾上畑日蓮堂石塔類
 尾上畑日蓮堂大覚大僧正碑:文政8年(1825)の年紀
 畑日蓮堂日蓮大士題目碑:500遠忌報恩塔、天明元年(1781)の年紀、
  上著では18世紀初めの塔婆石というも錯誤であろう。
 尾上畑日蓮堂地神
2019/07/10追加:
○「地域資料叢書1 村人が語る17世紀の村―岡山藩領備前国尾上村総合研究報告書―」 より
大覚石-文政8年、題目石-天明元年500遠忌、塔婆石-享保16年(1731)450遠忌、畑講中・中石講中・向山講中が全て一緒にお祭りをする。
 ※ここにいう塔婆石及び「吉備の中山を歩く 岡山文庫281」にいう塔婆石は堂内に見当たらない。「地域資料叢書1」には「塔婆石-享保16年(1731)450遠忌」と記すので、存在しているあるいは存在していたのであろうが、2019年には見当たらない。
どうたことであろうか。なお「吉備の中山を歩く」は「地域資料叢書1」を引用と思われる。
◇参考:
尾上の舟溜り:畑日蓮堂の北方約60mの所にある。
近世は勿論、昭和30年代まで、物資・農産物は田舟で運搬されたという。今は水路も狭まり、往時の面影はないが、ここから舟は笹が瀬川に入り、川は児島湾に注ぎ、児島湾は瀬戸内海に繋がっていたのである。
 尾上の舟溜り

備前尾上妙見堂
岡山市北区尾上668の東
情報は全くなし。
2019/10/15追加:
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
妙見大菩薩は能勢妙見から勧請する。
昭和年代までは尼さんが居住していたが、没後は尾上の中石・畑・向山北・向山南の4講中約80戸で妙見堂の管理と祭祀を行っている。
2019/03/16撮影:
 備前尾上妙見堂:堂としてはかなり広い境内地を有する。その中に本堂・庫裡と庭園がぽつんとある。
 尾上妙見堂本堂・庫裡:写真右下に鑓水の石鉢があるが、大正3年の年紀がある。
  これは尾上妙見堂初祖が遷化した年である。
 初祖恵信院日浄法尼墓碑:下のような銘文を刻む。一部判読できない文字がある。
  初祖恵信院日浄法尼
  法尼諱日浄字恵信御津郡高柳金/光嘉四郎長女天資温順■有土塵/之志明治四十一年二月廿六日■
  妙傳寺日顕上人得道染衣専盡於/法佛二道能守勤倹道日成堂守修/■且購田四畝余歩而納妙見堂初
  祖之功大矣實可謂婦女鑑也然中/途侵于病大正三年四月十日溘然/逝之矣歳四十二噫悲乎
   ※妙傳寺日顕上人とは備中東花尻妙傳寺26世高山院日顕(示寂年など不明)であろう。
   ※妙見堂開祖は恵信院日浄法尼で、備前高柳の出自、明治41年に妙見堂を開く(左は解釈を誤っている可能性あり)
   東花尻妙傳寺日顕に師事したようである。田4畝余を贖い、妙見堂の初祖としての大功があったが大正3年逝去する。
 妙見堂2世3世墓碑:正面は 第二世顕信院日成法尼/第三世顕順院日温法尼 と刻み、
   側面は 平成九年六月二十二日遷化/昭和三十年三月渋谷顕順建之/天寿八十五才と刻む。
   ※昭和30年この墓碑を3世日温法尼が建立し、2世日成法尼は85歳で平成9年遷化 と解釈すべきか。

備前尾上久保谷辻堂(祖師堂)
岡山市北区尾上888の南
○「吉備の中山を歩く 岡山文庫281」熊代哲士・熊代建治、日本文教出版、2013 より
尾上と花尻の境界付近にある。
身延の日朝のほかに、題目石、大覚石、地神などが祀られる。
2019/03/16撮影:
堂内には向かって左から石像(上記の著書に日朝とあるから、地蔵では無くて日朝であろうか)、大覚大僧正、常夜燈、日蓮大菩薩題目石、地神(はっきり判読できないが、上著で地神とあるから、地神であるのだろう)の石塔が並ぶ。
施錠されていて内部に入れず、年紀は全て不明である。
 尾上久保谷祖師堂     久保谷祖師堂内部     推定日朝上人石像
 大覚大僧正碑     常 夜 燈     日蓮大菩薩題目碑     推定地神碑
2019/07/10追加:
○「地域資料叢書1 村人が語る17世紀の村―岡山藩領備前国尾上村総合研究報告書―」 より
日朝様・大覚石-文政7年(1824)、常夜燈-寛政10年(1798)、題目石-文政4年(1821)、地神、久保谷講中が全て別々のお祭りを行う。

備前尾上久保谷三十番神堂
上の久保谷祖師堂前を西に進み、すぐの山麓にある。また下の花尻妙見結社は南すぐにある。
○「吉備の中山を歩く 岡山文庫281」熊代哲士・熊代建治、日本文教出版、2013 より
1ヶ月30日を毎日当番で国家と人々を守る30の善神を祀る。最澄が比叡山を開くとき、日本諸国の神々を勧請したのが始まりと云う。
2019/10/15追加:
○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
尾上久保谷の講中がお祀りする。2間×2間瓦葺き。
2019/03/16撮影:
詳細は不詳であるが、現在もきっちりと祭祀されているものと思われる。
 久保谷三十番神堂     三十番神堂内部1     三十番神堂内部2

不受不施派弾圧による備前尾上村の動向」に背景の説明などを掲載。

備前花尻妙見結社
北区花尻68に所在する。(花尻の北端・尾上に接する)
岡山県日蓮宗教化センターのサイトの日蓮宗寺院一覧に「北区花尻無番地 妙見結社」とあり、日蓮宗であると思われる。
しかし、それ以外の情報は一切なく、詳細は不明である。
妙見結社という名称と日蓮宗ということから、妙見大菩薩を祀るものと思われる。
2019/03/16撮影:
外観から判断すると、近年無住になったものと思われる。
 花尻妙見結社本堂:この建物が本堂であろうか、また寺門などはない。手前の宝篋印塔は古いもので、妙見結社に縁に
 あるものではないであろう。同じくて手前石灯篭の年紀は昭和8年とあり、その頃までには創建されていたものと思われる。
 花尻妙見結社本堂2     妙見結社玄関・庫裡
 妙見結社背全景:玄関・庫裡の背後に方1間の入母屋造屋根瓦葺きの堂(名称は不明)があり、
 本堂横に書院とも思われる堂宇が写る。
 妙見結社方1間堂:この堂の周りに石製柵が廻るが、写真向かって右端の束石には昭和41年の年紀がある。
 昭和41年頃の当時は隆盛であったものと思われる。

備前花尻題目碑
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
平成26年周辺に祀ってあった石碑を半鐘場(火の見櫓)跡地に移転し、整備する。
常夜燈は半壊の状態で放置されていたが、平成25年地元民の熱意で復原される。整備・修復は花尻 東・中・西 講中により行われる。
石碑は向かって左より、牛神、大覚大僧正(文政4年/1821)、日蓮大士題目碑(天明元年/1781)、高祖600遠忌報恩塔(明治14年)、堅牢地神題目碑(天保13年/1842)と並ぶ。
常夜燈は火袋が新調される。棹には弘化4年(1847)の年紀。
 備前花尻題目碑平面図     備前花尻題目碑立面図
○「吉備の中山を歩く 岡山文庫281」熊代哲士・熊代建治、日本文教出版、2013 より
「法界様」は元は川辺に建つ堂内に祀られていたが、道路工事に際し、この場所に移され、堂は復原されなかった。
 ※もとは堂内に祀られ、その後現在地に移転し、堂は再建されなかったとうことであり、祖師堂内に祀られていたようである。
 そして、その祖師堂の形式は堂内安置の祖師堂であったようである。
2019/03/16撮影:
 備前花尻題目碑群1     備前花尻題目碑群2
 花尻堅牢地神題目碑:堅牢地神は一般的には地神と同一であろう。     高祖600遠忌報恩塔
 日蓮大士題目碑      大覚大僧正碑      花尻牛神石碑      花尻常夜燈
 花尻道標:元々は20mほど北の三叉路にあった。庭瀬/一宮・岡山/白石・久米とある。大正9年の年紀。

備前津高郡白石・久米・今保村
花尻村の南に白石村が位置し、その南に久米村、さらに南に今保村が位置する。
各村とも東は笹が瀬川を限りとし、西は境目川を限りとする。境目川の西は備中(平野村・延友村)で岡山藩領外である。
南も足守川を限りとし、足守川以南は備中古新田村である。
寛文6年池田光政の不受不施弾圧による廃寺
 津高郡白石村には今保宗善寺寺家圓住坊があったが、住持還俗神職となり、廃寺となる。
 津高郡久米村には今保宗善寺寺家教雲坊があったが、住持還俗神職となり、廃寺となる。
 津高郡今保村には明圓山宗善寺及び寺中是相坊・慶山坊・大住坊があったが、宗善寺は書物を拒否し、衣を剥ぎ追放となる。
  是相坊は住僧還俗神職と成り、慶山坊は住僧立退き、同じく廃寺となる。
  大住坊も寛文6年廃寺となるも、城下瓦町正福寺の覚性院日親が大住坊を足場に宗善寺再興を図る。

備前白石村祖師堂跡(推定)
 笹ヶ瀬川右岸にあり、山陽新幹線とJR山陽線とに挟まれた中間地点の堤防下に位置する。
全く資料がないので、現地の様子及び遺物から次のように推測する。
 この地は、村落からやや離れた場所にあり、通常村落内もしくは接して祖師堂が設けられるとすれば、この点では異例である。
然し、江戸期の古い題目石2基・常夜燈の棹と推定されるもの3基・多層石塔残欠などがあり、地水神などは欠けているものの、白石祖師堂の存在があったと思われる。
四周は近年「白石太陽霊園」として分譲されたようで、新しい墓碑が並ぶ、昭和56年(日蓮700遠忌)には新しく巨大な題目石が建立されていて、あるいは古い題目石などは村内のどこかからか移設されたのかも知れない。
なお、一基の題目石には「日什/在<?>●・・・判読できない」とあり、さらに昭和56年建立の題目石には本行寺僧正の書になるという銘がある。日什銘及び本行が城下の本行寺であるのであれば、白石村には顕本法華宗本行寺の檀家が多いと推測される。日什在銘の題目石とは珍しいものである。
2019/05/25撮影:
向かって左より、常夜燈棹(推定)、題目石(日什)、手水石、多層石塔残欠、題目石(日蓮大士)、常夜燈棹(推定)、昭和56年題目石がある。これらはおそらく墓地の分譲は行われた時に造成されたと思われる凝灰岩製の基壇上に設置される。
植栽もあり、樹木も植えられるも、樹木は大木となり石塔などを圧迫し、定期的な祭祀が行われている様子もなく、いささか祖師堂跡は荒廃が進んでいるようである。
 白石村推定祖師堂跡1     白石村推定祖師堂跡2     白石村推定祖師堂跡3:中央は常夜燈棹か
 白石村推定祖師堂跡4     白石村推定祖師堂跡5
 題目石(日蓮大士):天明元辛丑(1781)の年紀、左側面は殆ど判読できないが、おそらく日蓮500遠忌報恩と思われる。
 題目石(日什/在●)1     題目石(日什/在●)2
 題目石(日什/在●)3:文政6癸未(1823)の年紀、日什/在●は完全には読めない。
 推定常夜燈棹     多層石塔残欠:一番上に乗るのは常夜燈の棹(文政?)であろう。
 昭和56年題目石     昭和56年題目石銘


備前上久米御祖師様/(おそっさま)/上久米祖師堂跡(推定)
元々は木橋であった白石橋の袂にあったという。木橋であった白石橋は今の「久米通学橋」の附近にあったという。
現在は「久米通学橋」の袂の土手下にあるので、場所は多少移動したのであろう。
なお、石塔類の構成から、石塔類は祖師堂に祀られていたものと思われる。
○参考Webページ「鴨方往来2・野田茶屋から境目川
2019/03/16撮影:
久米御祖師様の片隅に「御祖師様改築」の記念石があり、ここに平成11年(1999)11月の日付があるので、平成11年に改築が行われたようである。
大覚大僧正碑は天保3年(1832)の年紀、題目碑(日蓮大菩薩)は宝暦11年(1761)の年紀が刻まれる。
 備前久米御祖師様1     備前久米御祖師様2     備前久米御祖師様3     備前久米御祖師様4
 題目碑(日蓮大菩薩)     大覚大僧正碑         久米御祖師様常夜燈
2019/05/25撮影:
 備前久米祖師堂跡
2019/08/25追加:
〇「私たちの故郷・御南」御南学区水辺の集い協議会編、平成14年(2002) より
「若い頃のわが町久米」鈴木珠夫/稿 中より
上久米お祖師様:
 □題目碑 南無妙法蓮華経:宝暦11年8月建立
 □奉燈:宝暦14年7月建立
 □花筒:明治27年7月
 □大覺大僧正碑:天明3年8月(※天明3年は誤で、天保3年が正しい)


備前久米中法界様/久米中祖師堂跡
○参考Webページ「鴨方往来2・野田茶屋から境目川
久米御祖師様から「鴨方往来」を南下すると、「鴨方往来」は分岐し、西方向は備中庭瀬(鴨方往来)、南方向は今保である。
その鴨方往来の分岐に「中久米法界さま」(私たちの故郷・御南p13)<久米中法界様>がある。
久米中法界様には常夜燈、2基の題目碑、地神、「判読できない石碑」がある。
2基の題目碑は中央に並び、それぞれ「南無妙法蓮華経」、「南無妙法蓮華経法界」と刻む。
題目碑は正面に「南無妙法蓮華経」、右側に「維時文政二巳卯四月三日」と年号が刻んである。
法界碑は正面に「何無妙法蓮華経 法界」、右面に「天明元辛丑十月十三日/■■/五百御遠忌構中」と刻む。
2019/03/16撮影:
ここも、石塔類の種類、法界様の構えなどから、久米中祖師堂であったものと思われる。
法界様の南に隣接し久米集会所がある。久米集会所は改築されて新しいものであるが、その前身は久米中祖師堂ではなかったかと推測する。
 久米中祖師堂跡:向かって右が久米集会所である。     久米集会所      久米中祖師堂跡2
 久米中祖師堂跡施工記念碑:法界(石碑)沈下嵩上の施工を為す/久米中講中/平成9年(1997)10月吉日 と刻む。
 平成9年に法界様が沈下し、嵩上工事を施工し、修復が為される。
 久米中祖師堂跡題目碑1     久米中祖師堂跡題目碑2
 久米中祖師堂跡法界碑1     久米中祖師堂跡法界碑2     久米中祖師堂跡法界碑3:側面には日蓮大菩薩と刻む。
 久米中祖師堂跡牛神       「判読できない石碑」
2019/08/25追加:
〇「私たちの故郷・御南」御南学区水辺の集い協議会編、平成14年(2002) より
「若い頃のわが町久米」鈴木珠夫/稿 中より
中久米法界様:
ブロック塀に囲まれ中久米講中により祀られている。
 □牛神様:維時文政2年巳卯4月3日
 □題目碑:南無妙法蓮華経/奉唱法著第千部 天明元年辛己10月13日/500遠忌講中敬白
 □法界碑:南無妙法蓮華経法界/南無日蓮大菩薩
 □番神碑:三十番神守(天下泰平)碑 文化3年正月 ・・・ ※上記の写真「判読できない石碑」は三十番神と判明する。
 □奉燈 常夜燈:弘化5年3月吉日

備前久米下祖師堂跡/久米の御跡
北区久米72−1の北側に所在する。(私有地というが、普通に見学可能)
 下掲のページ:「久米下題目石」にあるように、「題目石のある一角は、戦前には、お堂が立っていた。その中に題目石が有った」という事なので、久米下祖師堂跡である。
 特筆すべきは、三面題目石があり、背面には銘があり、それは当地には大覺大僧正造立の小宝塔があって、中古圓山大光院に引き移されたという。そしてこのことを著わすために文久3年石塔を建立する云々と ある。
 ※大光院にある題目石が久米からの引き移しであることに言及した注目の金石文である。以上は下に改めて掲載する。
○現況
ブロック塀に四周を囲われ、石塔類が置かれる。
石塔類は、向かって左から五輪塔残欠、台石に載る瓦製祠、題目石、三面題目石、地神水神、一石五輪塔残欠である。
○ページ:久米下題目石 より
(転載)
題目石のある一角は、戦前には、お堂が立っていた。その中に題目石が有ったということである。
さて、下久米の題目石には、写真のような文面が残されている。簡単に言えば、池田の殿様が題目石を持ち去り、いまは、曹源寺の隣にある、大光院に設置されていると書かれている。もともと大覚大僧正がこの地に布教に訪れた時立てられたものであるとも書いてある。
とすれば、久米の部落は、1364年以前に集落としての形を成していたことになり、部落の歴史を現在に伝える貴重な史跡ということが出来る。
以前、岡山市文化財課に冗談めかして、題目石を返してほしいといってみたが、やんわりと断られた。
 この発見は、地域の歴史を考えようと取り組んでいたことがきっかけで、体協会長の野上和夫さんが見つけられたもので、「私たちの故郷・御南」に収録している。
(転載終)
 ※池田の殿様とは池田綱政のことであろうが、
大覺大僧正500遠忌である文久3年(1863)に新造した宝塔<再興大覺大僧正小宝塔>裏面の刻銘は次の通りである。(s_minaga読)
 大僧正大覺上人乃徃弘通此處為無■會立小寶塔矣  中古此塔引移圓山中安置大光院是也 依而此地俗曰御跡
 今年文久三癸亥覺上人正當五百回為御報恩 且欲令其遺跡永忘失新造小塔表其遊化地而已
  (大覺大僧正この地弘通し、・・・・小寶塔立つ。中古この塔圓山へ引き移し、そこに安置す、大光院が是なり。
   よってこの地俗に御跡と云う。
   今年文久3年(1863)大覺大僧正正當500遠忌報恩をなす。
   かつ、その遺跡永く忘失、小塔を新造し、その遊化の地を表せんと欲す。)
2019/08/25追加:
<再興大覺大僧正小宝塔>裏面の刻銘
s_minagaが解読できない個所は「為無■會立小寶塔矣」であるが
鈴木珠夫氏の論考中で紹介される矢吹寿年氏の解読・釈文は次のようである。
「為無■會立小寶塔矣」は「衆庶を會つめ(あつめ)小宝塔を立てたり」 とする。
一方
佐藤芳範氏の論考では
「為無■會立小寶塔矣」は「無庶會立小寶塔矣」と解し、「多くのあつまり無きために、小宝塔を立てたり」 と訓読する。
 ※判読できなかった文字■は「庶」(実際は庶の俗字が刻されている)であることは間違いないと思われる。
 ※意味としては、前者の「衆庶を會つめ(あつめ)小宝塔を立てたり」がすっきりするが、「為無庶會」の文字列からすれば、「もろもろの會(あつまり)が無きため」と解釈すべきであろう。
 因って、次のように、解読(s_minaga読)を修正する。
 大僧正大覺上人乃徃弘通此處為無庶會立小寶塔矣  中古此塔引移圓山中安置大光院是也 依而此地俗曰御跡
 今年文久三癸亥覺上人正當五百回為御報恩 且欲令其遺跡永忘失新造小塔表其遊化地而已
  (大覺大僧正この地に弘通し、もろもろの會(あつまり)が無きため、小寶塔立つ。
   中古この塔圓山へ引き移し、そこに安置す、大光院が是なり。
   よってこの地俗に御跡と云う。
   今年文久3年(1863)大覺大僧正正當500遠忌報恩をなす。
   かつ、その遺跡永く忘失せしめんと欲し、小塔を新造し、その遊化の地を表するのみ。)
○しかしながら、圓山大光院に現存する、あるいは、かっては現存した宝塔(題目石)の「由緒」については、奇妙なことに久米村から引き移したという諸文献は管見の限り、全くない。
 諸文献のいうところは、ページ「大覚大僧正伝並びに開基寺院」中の
備前辛川大覚堂」」及び「備前曹源寺寺中大光院題目石」で述べている通りで、大覺大僧正真筆という題目石の概要は次の通りである。
現在、大光院には次の2基の題目石が残る。
1)康永四年(1345)銘題目石
2)応永十八年(1411)比丘尼妙善題目石
一方
備中辛川大覚堂(大覚寺)は次の1基の題目石が祀られる。
3)年紀は不明の四面題目石塔:本石塔は明治9年大光院より辛川大覚堂に戻されるという。
 以上の3基の題目石であるが、諸文献とも、3基は元々、辛川の連光寺にあったもので、寛文年中蓮光寺が廃寺となり、その後池田氏によって、圓山曹源寺大光院に移されたものという。(但し蓮光寺ではなく東栄山妙蓮寺からともいう文献もある。)
辛川の連光寺跡は「おあと様」と呼ばれていたという。
 残念ながら、諸文献では、大光院の3基(現在は2基)はすべて辛川の「おあと様」蓮光寺から移したものと云う。
勿論、同時代の資料があるわけではなく、3基の題目石に「辛川」などの銘があるわけでもない。
 また、辛川蓮光寺から移設したという記述した後世の一つの文献(どの文献かは特定できないが)があり、後続する諸文献はそれを引き写し、その結果、現在では諸文献の記述が全て同じになっている可能性も考えられなくはない。
従って、3基全てが辛川蓮光寺から大光院に移されたという「通説」を、疑う余地はあるだろう。
 久米下から大光院に題目石が移されたという資料は上記の「久米下題目石」(文久3年年紀)だけである。
しかしながら、この資料は文久3年(1863)大覚大僧正400遠忌の資料である。
つまり、もう金石文の範疇の資料であろう。従って、十分信用に足る資料あるいは伝承の記述と思われる。少なくとも1)及び3)の題目石のうちの1基は、通説である辛川蓮光寺からではなく、久米下から大光院に移された可能性はあるだろうと推定してもよいのかも知れない。
2019/05/25撮影:
 久米下祖師堂跡1     久米下祖師堂跡2     久米下祖師堂跡3
 久米下祖師堂跡石塔類1     久米下祖師堂跡石塔類2     久米下祖師堂跡石塔類3
 五輪塔残欠・瓦製祠
 題目石(法界)1     題目石(法界)2:文政4年(1821)の年紀
 ◎再興大覺大僧正小宝塔:文久3年(1863)再興、正面左右の三面は題目、背面には石塔建立の由来を記す。
  再興大覺大僧正小宝塔1      再興大覺大僧正小宝塔2     再興大覺大僧正小宝塔3
 地神水神・一石五輪塔残欠:地神水神は安政5戌牛年(1858)の年紀
2019/08/25追加:
〇「私たちの故郷・御南」御南学区水辺の集い協議会編、平成14年(2002)>「若い頃のわが町久米」鈴木珠夫/稿 中 より
下久米の法界さま:
久米72番地題目石、ブロック塀で囲われている。
 □地神・水神(牛頭天王):文政5年2月吉日(※これは安政が正しい)
 □題目石碑:南無妙法蓮華経 文久3年
 □法界碑:南無妙法蓮華経法界 文政4年4月3日
 〇瓦製祠     〇五輪塔(豊島石製)
下久米講中により祀られている。子供時分の記憶によるとお堂の中に立っていたように思う。床が張ってあり石塔の上の部分が床より出ていたように記憶している。
 ※上記より以前は祖師堂があったが現在は退転していることが分かる。祖師堂の形式は堂内に石塔類を安置する形式であったことも分かる。
◎再興大覺大僧正小宝塔:文久3年(1863)再興
○「若い頃のわが町久米」鈴木珠夫/稿 中 より
 大覺大僧正真筆の題目石は岡山県下に5ヶ所あると言い伝えられるが、現存して判明しているのは次の3ヶ所である。
1)和気郡益原法泉寺 2)軽部大覺堂(大覺寺) 3)辛川市場お跡さま(辛川大覚堂)
残り2基の内の1基は、現在、圓山大光院にある1基が、下久米祖師堂に建立されていた題目石で、それが圓山大光院に持ち帰られ建立されているものではないだろうか。
 南北朝期この地に弘教に来た大覺大僧正が真筆の題目石を建て、信仰の中心としていたのであろう。
池田光政の寛文の寺院淘汰でこの題目石は持ち去られたが、真筆の題目石があったことは言い継がれ、大覺大僧正500遠忌の文久3年(1863)に題目石を再建し、裏面の題目石の由来を刻んだのであろう。
○「聞き書き」佐藤芳範/稿 中 より
 下久米題目石の碑文どおり、大覺大僧正がこの地で遊化したのであれば、貞治3年(1364)に寂するまでに、久米を訪れていたことになる。圓山大光院に残る2基の題目石のうち、1基は尼僧に関わるものであり、康永4年(1345)の石碑が下久米から持ち去られたものと考えられる。
 多くの人が3基(辛川に返却された1基を含んで3基)とも西辛川蓮光院(寺)にあったとするが、これは確かな証拠があってのことではないようである。
下久米に残る題目石にはその由来が刻んであり、久米の人々のうちにかなり熱心な言い伝えがあったのだろうと考えられる。
寛文6年池田光政により不受不施派宗善寺が焼き払われる。その後、圓山曹源寺創建の元禄11年(1698)ころまでに、池田綱政によって石碑が持ち去られ、久米の人は、大覺大僧正500遠忌である文久3年(1863)にこのことを刻んだ訳であるから、約200近くこのことの申し送りが代々続いたことになる。
 ※「再興大覺大僧正小宝塔」裏面に刻まれる史料は久米の歴史及び大覺真筆と云われる題目石の解明に大きな手掛かりを与えるものであろう。
 大覺真筆と云われる題目石の解明についていえば、現在、圓山大光院にある康永4年(1345)年紀の題目石は久米からも持ち去られて、大光院に設置されたものである可能性が相当高いといえるのではないか。


備前久米村国境石
久米中祖師堂跡から西進すれば、境目川(備前と備中の境目)に至り、ここに「久米村国境石」がある。
 久米村国境石:従是東備前國久米村分」と彫る。
 境 目 川1:今は単に溝であるが、備前と備中を隔する境目川である。 北方を撮影。
  左中央は吉備の中山で、備前花尻村、備中東花尻村付近である。向かって左が備中延友村、右が備前久米村である。
 境 目 川2:単に工場地帯の溝であるが、南方今保村方面を撮影、向かって左が備前久米村、右が備中延友村である。
 現地説明板:久米村の国境石

備前今保宗善寺跡
今保村については、「岡山藩領手鑑」(文化年中)では、田高821石余、畑高78石余、家数128全て日蓮宗明圓(妙圓山)宗善寺檀家であるという。
宗善寺は今保字寺前にあったと伝える。およそ北区今保121付近であり、聞取りでは、北区今保121に宗善寺があったという。
(南北の県道61号の西、御南小学校の東にあったという。)
現在は「太陽建機レンタル(株) 岡山支店」がある地が宗善寺のあった場所と想定される。
現地には宗善寺を偲ぶものは皆無である。
津高郡今保村には明圓山宗善寺及び寺中是相坊・慶山坊・大住坊があったが、宗善寺は書物を拒否、住持は衣を剥がれ追放となる。
是相坊は住僧還俗神職と成り、慶山坊は住僧立退き、同じく廃寺となる。
大住坊も寛文6年廃寺となるも、城下瓦町正福寺の覚性院日親が大住坊を足場に宗善寺再興を図る。
天和3年(1683)正福寺竜水院日意の協力を得て、京都妙覚寺末の寺として大住坊を再興し、寺号を妙圓山宗善寺と改める。
 ※宗善寺は松田氏によって文亀中創建されるという。
 文亀2年(1502)松田左近将元喬の一子左衛門佐が開基檀越となり、日誠上人を開山として、今保に創建されると伝える。
 ※昭和47年城下正福寺と正福寺末寺今保宗善寺が合併、北区上中野に新しく伽藍を構え宗善山正福寺として発足する。
   →上中野宗善山正福寺
2019/05/25撮影:
 今保宗善寺跡:写真の附近が宗善寺跡と思われるも、古の宗善寺を偲ぶものは皆無である。
但し、昭和38年及び昭和46年の「5000国土基本図」で、想定位置に宗善寺が確認できないが、その理由が不明である。
 2019/08/25追加:
 上記の今保宗善寺跡の位置は誤認であった。
 正確な位置が判明したので、次の項(2019/08/25追加:)で訂正する。
 昭和38年及び昭和46年の「5000国土基本図」には宗善寺が確認できるので訂正する。
2019/08/25追加:
〇「私たちの故郷・御南」御南学区水辺の集い協議会編、平成14年(2002) より
宗善寺:
寛文6年(1666)池田光政の不受不施弾圧により、焼討にあう。
貞享2年(1685)再興される。
戦前戦中のお寺は土塀に囲まれ、本堂・庫裡・炊事場・脇納屋・門があり、太鼓石橋を渡って境内に入り、門と橋の間は空地となっていた。
4月8日は花祭、甘茶がふるまわれ、一種独特の香りと甘さがあった。
夏祭、境内には鬼子母神が祭られ、イグサの刈り取りが終わったころ行われていた。境内には夜店が十数件でて、門わきにはノゾキがあった。玩具屋・細工屋・たい焼屋・回転焼屋・洋食焼屋・氷屋などが出ていた。
 ○「岡山市史 宗教教育編」昭和43年 より
 ◇宗善寺
 かっては今保字寺前にあった。
 妙圓山と号す、京都妙覚寺末、寛文6年不受不施派の弾圧により、縁起その他の古文書を全て失うも、昭和31年
 岡山市史編集のため、同寺でも催した座談会の記録から要約すれば、概ね次のような寺歴になる。
  開山は津島妙善寺の学僧日誠で、日誠から8代目通然の時、寛文6年不受不施弾圧に遭い、伽藍を焼き払われるという。
 当時この付近に塔頭末寺が七ヶ寺あり、今の宗善寺の位置にあった大住坊のみが焼け残る。
  ※判明している寺中・末寺は、今保村大住坊、久米村教雲坊、白石村圓住坊が宗善寺寺家というから塔頭、
 今保村是相坊、今保村慶山坊が宗善寺末寺である。
 その後岡山の正福寺から覚性院日親が来て、廃寺となった大住坊を足場に再興運動を始め、
 天和3年(1693)正福寺の竜水院日意と協力して京都妙覚寺の末寺として再興、寺号を妙圓山宗善寺とする。
 本堂は中興日秀の代に再建したものである。
 現在の建物は本堂、庫裡、番神堂、山門などであるが、
 享保年間建立の本堂は3間三面の入母屋造本瓦葺の南面した堂である。
  旧宗善寺写真
●今保宗善寺跡は次のように判明する。
 今保宗善寺跡0:国土地理院地図、中央やや北側に□囲いの卍印で表示した位置が宗善寺跡である。
 今保宗善寺跡1:昭和38年「5000国土基本図」、中央部分に宗善寺が表示される。
 今保宗善寺跡2:昭和46年「5000国土基本図」、中央部分に宗善寺が表示される。
 今保宗善寺跡3:昭和20年久米部落の家並み、中央の下部分に宗善寺が示される。(「私たちの故郷・御南」より転載)
 今保宗善寺跡4:昭和20年頃今保・久米地区の集落、中央付近に宗善寺が表示される。( 同  上 )
2019/12/07追加:
○近代地図に見る宗善寺位置:何れも地図の中央付近に「卍」で示される。
 明治28年1/20000庭瀬       大正14年1/25000倉敷
 昭和42年1/25000倉敷       昭和56年1/25000倉敷

備前今保祖師堂跡(推定)
今保八幡宮横裏三又路(八幡宮の西)にある。その場所東西道に南北道がT字に交差する場所であるが、三方を道に囲まれてた中州状の場所にある。経度・緯度:34.638058, 133.874391
石塔類の種類から、かっては祖師堂があったものと思われるが、現在の状況からはどういう状態の祖師堂であったのかは、推測することができない。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
地水両神 岡山市今保 三沢と小橋。それも今は昔と思っていたら復活か?
 とあるが、「三沢と云々・・・」とはどういう意味なのか分からない。
○現況:
石塔類は、向かって左から、地神水神、牛頭天王、大覺大僧正、三十番神、日蓮大菩薩、常夜燈が並ぶ。
2019/05/25撮影:
 今保祖師堂跡1     今保祖師堂跡2
 今保祖師堂跡石塔類1     今保祖師堂跡石塔類2     今保祖師堂跡石塔類3     今保祖師堂跡石塔類4
 地水両神     牛頭天王
 大覺大僧正:正面は大覺大僧正、左は文政10年(1827)年紀、右は未調査、背面は題目
 三十番神守護:正面は三十番神守護、左は文化3年(1806)年紀、右は未調査、背面は無銘
 日蓮大菩薩:正面は日蓮大菩薩、左は安永7年(1778)年紀・500遠忌、右は法界萬霊、背面は題目
 今保祖師堂跡常夜燈:寛政7乙卯歳(1795)の年紀

備前今保妙見大菩薩
今保旧村内にある。
情報皆無、聞取りも実施せず、堂は施錠され、由緒など全く不明。
2019/05/25撮影:
 今保妙見大菩薩1     今保妙見大菩薩2

備前今保加古浦祖師堂/今保東祖師堂
情報は皆無である。
岡山藩加子浦今保港跡の西に接する。また「登録有形文化財 大賀家住宅」の北に接して所在する。
今保港跡の西・大賀家住宅の北に、今保東町内会集会所があり、その背後に石塔群がある。
従って、現在今保東町内会集会所は今保加古浦祖師堂であったことは間違いないだろう。そしてその形式は堂外の背後に石塔類を安置する形式のものであろう。
祖師堂には常夜燈、日朝上人題目碑、日蓮大士題目碑、大覚大僧正題目碑、石祠がある。
日蓮大士題目碑は嘉永元年(1848)の年紀
大覚大僧正題目碑は左側面に題目を刻み、背面に文化11年(1814)の年紀を刻む。
日朝上人題目碑は右側面に題目を刻み、左側面に天保15年(1844)の年紀を刻む。
2016/06/16撮影:
 今保加古浦祖師堂1     今保加古浦祖師堂2:向かって左石門の奥が今保港跡
 今保加古浦祖師堂3     今保加古浦祖師堂4:背後が大賀家住宅
 高祖日蓮大士法界碑     大覚大僧正題目碑     日朝大聖人題目碑     今保加古浦祖師堂常夜燈
 参考:岡山藩今保港跡1     岡山藩今保港跡2     岡山藩今保港跡3     岡山藩今保港跡4




備 中 の 諸 寺

 ※備前の金川城主松田将監元喬、備中高松領主花房氏、備中庭瀬藩主戸川氏、備中妹尾領主戸川氏は世俗の権力を使用して、領内の寺院・民衆に対して法華宗改宗を迫る。
これは世俗(政治)権力が個人の内面を蹂躙するという意味で、近くは明治維新で成立した国家やその後継である天皇制国家による復古神道/天皇教の強制、古くは儒学を重用した備前藩池田光政による寛文年中の向儒廃仏政策の強行、江戸幕府による切支丹や不受不施派の禁教などと同列の行為である。
 では現代では、政治権力によって、時の政治権力にとっての都合のよい価値観(宗教)を押し付けられるような怖れはないのであろうか。確かに、備前の松田氏、池田氏、江戸幕府の宗教政策、備中の諸氏の振る舞いはほぼ古のことといってよい。
しかし、国家神道つまり天皇教を奉じる面々は戦後70年を経過した現在でも跋扈し、戦前の天皇教国家の復古を夢見ているのが現状であろう。しかも、懲りない政治勢力の面々の活動は活発化し、その勢いを増している現状を見ると、決して楽観はできないと知るべしであろう。

備中庭瀬近辺諸寺:基本的には備中庭瀬藩戸川氏の弘教(というより権力による強制)により成立する。
 本サイトでは、庭瀬近辺とは概ね以下を指す。
 備中東花尻備中西花尻備中川入備中庭瀬備中中撫川備中撫川備中平野備中延友備中古新田備中大福
 備中高尾備中山田(含む・大内田)
  ※参考文献:「岡山・備前地域の寺」(岡山文庫195)川端定佐三郎、日本文教出版、平成10年
          「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 ほか

備中東花尻

備中東花尻天神社
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
祭神:菅原道真、創建は徳川家光の頃(1630年頃)。
むかし、備前尾上(備前藩領)の丘に道真を祭祀していた小宮を備中東花尻村民の願いで、この地に勧請したという。尾上の宮跡は礎石も残り、天神山と呼ばれている。
創建時は西側の山王を経由して山道を登り参拝したという。山王は天神の100m手前にある。その後108段の石階が作られる。
2019/03/16撮影:
この地方のある程度の規模の神社には鐘楼が付属する。この天神社も鐘楼を付設する。
梵鐘は昭和29年再鋳、旧梵鐘は今次の無残な大戦により、戦時供出される。
 天神社参道石階     天神社随身門     天神社拝殿鐘楼
 天神社鐘楼1      天神社鐘楼2      天神社鐘楼3      天神社梵鐘      天神社本殿


備中東花尻妙傳寺:吉備中山の南の矢藤治山々麓にある。

題號山と號す。庭瀬不変院末。
天文元年(1532)教社坊日有の開基と伝える。(「岡山備前地域の寺」、但し「備中誌」からの転載とする。)
永禄年間(1558年頃)玄成院日戒上人が備前津高郡尾上村に建立するも、備前藩池田光政の寛文の法難(不受不施派弾圧)を逃れ、当地に退避すると云う。寛文の寺院棄却を事前に察知し、寺院を移すという。
 ※備前尾上八幡宮の裏(北側)に妙傳寺があったと伝える。
   →備前尾上八幡宮裏妙傳寺故地は備前津高郡野殿・尾上・花尻村
 ※永禄年間(1558年頃)日戒によって備前尾上村に建立されるという。その後、おそらく寛文年中(1661-)尾上から備中東花尻
 に退避するという。一方、東花尻には日戒の建立とされる天正19年(1591)年紀の題目碑がある。
  (下に掲載の「備中東花尻おそっさま(御祖師様)題目碑」の項を参照)
 尾上村の日戒と題目碑建立願主の日戒とは同一僧と思われ、だとすれば日戒は尾上村から東花尻村に弘教していたものと
 推測される。あるいは当時この地方には野火のように日蓮宗が広まる「熱気」に溢れていたとも推測できるのである。
東花尻村は備中国でありすぐ東の境目川の東は備前国花尻村である。
当地は江戸初頭には庭瀬藩戸川氏領であり、元禄期に幕領、庭瀬藩板倉氏領となる。いずれにせよ、川一つ隔てて、当地は備前藩池田氏領ではなかったである。
2014/03/02追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2010/09/21撮影・ご提供:
 備中妙伝寺門前
2014/06/29撮影:
 妙傳寺/立成寺     妙傳寺全貌
 妙傳寺山門     妙傳寺題目碑     妙傳寺本堂1     妙傳寺本堂2     妙傳寺歴代墓碑
2019/03/16撮影:
 妙傳寺山門2     妙傳寺本堂     妙傳寺歴代墓碑その2

備中東花尻立成寺:吉備中山の南の矢藤治山々麓にある。

福寿山と号す。庭瀬不変院末。
開山本立坊日香、天文元年(1532)開基す。(「岡山備前地域の寺」、但し「備中誌」からの転載とする。)
慶長年中(1596年頃)恵性院日通上人により、備前津高郡辛川村に開創されるも、備前藩池田光政の寛文の法難(不受不施派弾圧)を逃れ、当地に退避すると云う。当寺も、寛文の寺院棄却を事前に察知し、寺院を移すという。
なお山門(四脚門)は廃藩置県の際に、庭瀬城の表門を移築したものと云う。
2015/10/05追加:岡山文庫281「吉備の中山を歩く」熊代哲士、熊代建治、2013 より
慶長年中恵性院日通上人辛川村に建立、寛文6年池田光政の不受不施派寺院淘汰によって取り潰され、第7世成就院日香によって現在地に移転再興されると伝える。
2014/03/02追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2010/09/21撮影・ご提供:
 備中立成寺山門
2014/06/29撮影:
 妙傳寺/立成寺
 立成寺山門1     立成寺山門2     立成寺山門3     立成寺本堂1     立成寺本堂2     立成寺本堂3
 立成寺題目碑     立成寺歴代墓碑
2019/03/16撮影:
 立成寺山門4     立成寺本堂4     立成寺本堂5

備中東花尻おそっさま(御祖師様)題目碑
  :東花尻467南に所在:妙傳寺/立成寺東側の辻にある。
東花尻村東端に石塔婆群がある。囲柵の中に数基の題目碑と大覚大僧正碑がある。正面の最大の題目碑は145(高)×140(最大幅)×20-25(厚)cmを測り、天正19庚卯年(1591)の年紀などを刻む。
石碑は4基あり、内1基は大覚大僧正碑で、3基は題目碑である。
2015/10/05追加:
○岡山文庫281「吉備の中山を歩く」熊代哲士、熊代建治、2013 より
 正面の碑は高145cm巾140cm厚20-25cm、中央は「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」、
その右は「天正第十九辛卯年奉唱首題一千部成就砌」左は「花尻村東西真俗一結社大願主 二月十三日 日戒敬白」とある。
  ※日戒とは現東花尻妙傳寺の前身である尾上の玄成院日戒のことであろう。
  上に掲載の東花尻妙傳寺の項を参照。
2013/07/04追加:
○「岡山県緊急古文書調査報告書 不受不施派史料目録(2)」 より
   天正19年(1591)とあり、岡山附近では古い題目石塔である。
2018/12/25追加:
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
 ※下に掲載しているように、駒札の文字は殆ど判読できないが、次のよう(大意)であるという。
  大覚大僧正と題目石
             (岡山市東花尻)
大覚大僧正は・・・(中略)・・・正和2年(1212)師の命を受け、はじめて中国地方に日蓮宗(法華宗)を広める。
辻説教により教法は広められ、以降大覚大僧正の石碑とともに、題目石の建立が相次ぎ民衆の法華信仰の対象となる。
当所の題目石(中央)は天正19年(1591)2月13日[岡山県下では備中軽部の題目石(大覚大僧正真筆)の次に古い]と云われており、日戒上人の建立と見られる。
享保4年(1792)、左側のものは天明6年(1786)の建立と見られる。
 銘 天正第19年辛卯年
   奉唱首題一千郶成就砌
   南無妙法蓮華経 日蓮菩薩
   花尻村東西真俗一結士
   2月13日
          大願主日戒敬白
 東花尻御祖師様題目碑・平面図     東花尻御祖師様題目碑・立面図
大覚大僧正碑は文政6年(1823)、題目碑3基は向かって左から天明6年(1786)、天正19年(1591)、享保4年(1719)の年紀
2014/06/29撮影:
 東花尻御祖師様題目碑群1:駒札の文字は消えかかり殆ど判読できない。      東花尻御祖師様題目碑群2
 題目碑群大覚大僧正碑
 題目碑群題目碑3基:向かって左端は天明6年(1786)、右端は享保?年(1716〜)の年紀がある。
2019/03/16撮影:
 東花尻御祖師様題目碑群3     東花尻御祖師様題目碑群4     東花尻御祖師様題目碑群5
 日蓮大菩薩法界碑      日蓮菩薩題目碑      日蓮大士題目碑      大覚大僧正碑

備中東花尻地域の題目碑
 :妙傳寺/立成寺西側の辻にある。
辻の北側に7基の石碑があり、左右の2基の性格は不明であるので除外するとして、5基の題目碑/大覚大僧正碑が並ぶ。
さらに辻の南に1基あり、合計6基の題目碑が立つ。何れの石碑も年紀は不明である。
2018/12/25追加:
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
東花尻429西に所在。
 ※おそらくは東花尻地域などにあった石碑類をこの辻に集めたものであろう。
 備中東花尻地域の題目碑・平面/立面図
題目碑群向かって左から、大覚大僧正碑は大正11年、題目碑は明治37年、次の題目碑は不明、次は明治3□年、右端は明治37年、辻南の題目碑は昭和5年の年紀
なお、昭和5年の辻南の題目石は「南無日蓮日朝大聖人」とあるが、正しくは「南無日朝大聖人」である。
2014/06/29撮影:
 東花尻地域の題目碑群     題目碑群大覚大僧正碑     題目碑群題目碑:明治36年銘
 題目碑群辻南題目碑:昭和5年銘
2019/03/16撮影:
当地の題目石群の由来の資料がなく、詳細は全く不明である。
 東花尻地域の題目碑群:向かって左から、大覚大僧正碑(明治38年)、日蓮大菩薩題目碑(明治37年)、大毘沙門天王題目碑(年紀不詳)、日蓮大菩薩題目碑(年紀不詳)、妙見大菩薩題目碑が並ぶ。さらに通りを挟んだ南辻に日朝大聖人題目碑(昭和5年)が建つ。
上記の2014年の題目碑群の写真と比べると、真新しい「西谷番神社」の石柱が建てられている。推測するに、この付近が西谷であり、この地に番神社があった。しかし番神社はいつしか退転し、番神社にあった題目碑群がここに移建され、この地の題目碑の幾つかになったのであろうか。
 日朝大聖人題目碑(南辻)     大覚大僧正碑     日蓮大菩薩題目碑(明治37年)
 大毘沙門天王題目碑        日蓮大菩薩題目碑(年紀不詳)     妙見大菩薩題目碑

備中西花尻

  ◆西花尻地図(案内図)

備中西花尻正法寺:吉備中山の南の矢藤治山々麓にある。
浄泉山と号する。庭瀬不変院末。
元和元年(1616)、鹿ヶ谷事件で流罪となった大納言藤原成親の菩提を弔うため、智円院日泉上人が、古くから成親に関係のあった三つの坊(正林坊・法住坊・月心坊)を集め、寺として開基す。
  →月心寺跡は次項「備中西花尻月心坊址題目碑」を参照
もとは外宗(天台宗)であったが、戸川氏によって日蓮宗に改宗したものと思われる。
 なお、北方の庚申山に帝釈天を祀るが、これは宝暦年中(1751-64)、正法寺第8世観達院日道上人が堂(庚申堂)を建立し、大納言藤原成親が信仰していた帝釈庚申天を祀ったものである。さらに安永2年(1773)第11世成就院日鎮上人が二天門を建立、210段の石段を築くと伝える。
石段上には宝暦13年(1763)銘大覚大僧正塔などがある。
2015/10/05追加:
○岡山文庫281「吉備の中山を歩く」熊代哲士、熊代建治、2013 より
 元和元年(1616)智圓坊日泉上人が開基し、庭瀬不変院末寺とすると伝える。
寛永15年(1638)岡山蓮昌寺住職正蔵院日定上人が入山し、正法寺と改め、大納言藤原成親を弔うことから、日定上人を開山とする。備前に流された藤原成親は児島から船で正法寺附近に着き、ここから有木の別所に移されたといわれ、このことが成親供養の動機となったと推測できる。
2019/08/25追加:
〇「北長瀬物語:市久保・白髪宮(旧 御崎宮)・岸一太・まちづくり」坪井 章/編集、平成21年(2009) より
 成親は鹿ケ谷の密議が発覚し、一宮有木の郷に流され、監視下におかれる。数箇月後、成親は清盛の刺客に殺害される。
成親と共に流された一門は20数名におよび、後に三個所の坊となる三つの庵室に住まわされる。
三つの坊は現在の庚申や間の麓にあり、正林坊・法住坊・月心坊(奥谷)という。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
 元和年中(1615-24)の開山。(大観には慶安4年の創立とある)。開基正蔵院日定。
治承3年平清盛によって備中一宮に流された藤原成親およびその一族が帝釈天信仰に活路を求め、泉地区に法住坊・正林坊・月心坊を建てたが、元和元年に合併して正法寺となる。もと三ヶ寺は天台宗であったが大覚の巡化に浴し、以降変遷して元和年中に改宗。寛永15年(1638)に日定が備前蓮昌寺より入寺し開基となる。
8世観達院日道代に領主戸川氏より寺領の寄進を受け、山頂に諸堂を建立。
2014/06/29撮影:
西花尻村は江戸初頭には庭瀬藩戸川氏領、元禄年中には幕領、さらに元禄年中には庭瀬藩板倉氏領となる。
大納言藤原成親は一門の20数名で流され、庚申山の麓の3坊に置かれ監視される。成親の信仰する帝釈天庚申は3坊で信仰され、その信仰はやがて里人の受け入れるところとなり、代々伝えられる。元和元年あるいは2年、3坊の内正林坊・法住坊の頭を採り正法寺として3坊は現在地に合体建立される。
江戸中期には正法寺には成親の菩提を弔い、庚申山には帝釈庚申天を祀る形態となる。但し現在は無住であり、地区民の輪番で清掃・護持されているようである。
 正法寺山門1     正法寺山門2     正法寺山門3
 正法寺題目碑1     正法寺題目碑2     正法寺題目碑3
 正法寺本堂1     正法寺本堂2     正法寺庫裡1     正法寺庫裡2
 帝釈天石階1:二天門見上げ      帝釈天石階2:二天門から見上げ
 帝釈天二天門1     帝釈天二天門2     帝釈天二天門3     二天門毘沙門天立像     二天門持国天立像
 2015/10/05追加:この二天門には双龍が架けられる。昭和30年供出された梵鐘が新調された時の更新大祭に合わせて
 奉納される。藁と棕櫚で西花尻の人々が60日かけて製作したもので、以降何度も補修を重ねるという。
 帝釈天拝殿1     帝釈天拝殿2
 帝釈天本殿1     帝釈天本殿2     帝釈天本殿3     帝釈天本殿4
 帝釈天鐘楼      帝釈天祠:名称不明      帝釈天立像:昭和30年建立
※正法寺帝釈天は山中にあり長い石階と二天門、拝殿(脇に庫裡付設)、本殿、鐘楼、2ヶの小祠、大覚大僧正石造三重塔を具備する。本殿は現状(恐らくは明治以降の造立と思われる)一間社流造の建築である。勿論山麓には管理する正法寺がある。
要するに、形態は全国津々浦々にある八幡菩薩、天神、妙見菩薩、弁財天などと同じなのである。明治の神仏分離の処置でこれらは殆ど神社に改竄される。しかし当地の帝釈天は神社に改竄されることは免れたようで、寺院のままなのである。
◇正法寺大覚大僧正三重石塔
帝釈天堂脇の石階をさらに上ると土塀に囲まれた区画があり、ここに大覚大僧正三重石塔がある。
初重には大覚大僧正と刻み、二重には日蓮大菩薩を中央にして左に日朗菩薩、右に日像菩薩と刻む。日像門流の典型を示す。
三重の塔身は刳りぬかれ、恐らく木枠が嵌められ、扉もしくは格子が取り付けられ、何らかの什宝が収納されていたものと推測される。
 大覚大僧正三重石塔1     大覚大僧正三重石塔2     大覚大僧正三重石塔3     大覚大僧正三重石塔4
 大覚大僧正三重石塔5:日蓮大菩薩/日朗菩薩/日像菩薩と刻む。
 大覚大僧正三重石塔6:正面は大覚大僧正、右面は當山開基/観達院日道、左面は宝暦13年(1763)の年紀を刻む。
2019/03/16撮影:
 西花尻正法寺山門4     正法寺本堂内部     正法寺歴代墓碑     天満天神社     庚申山帝釈天遠望
 帝釈天二天門:残念なことに、昭和30年に新調され、以降何度も補修され、老朽化の著しかった双龍の姿が消える。
 二天門毘沙門天立像2     二天門持国天立像2
 帝釈天拝殿3     帝釈天本殿5     帝釈天鐘楼2     帝釈天小祠その1     帝釈天小祠その2
 大覚大僧正三重石塔7     大覚大僧正三重石塔8

備中西花尻月心坊址題目碑
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
月心坊址:西花尻615東(下池西の山中)
東の祠は持地妙正大明神であり、昭和35年には祠の説明札(説明板)があった。
妙正大明神は日蓮宗の疱瘡神である。(「きびのさと」)
 ※説明札中の「正法寺21世日□」について:「日蓮宗寺院大鑑」では18世から22世(23世は日廣)が欠けていて、
 21世の住職名は不明である。
中央の題目石は22世日廣上人建立とあるので明治初期のものであろう。
 ※22世日廣:「日蓮宗寺院大鑑」では23世とあり、明治7年2月寂とある。
この石柱の下部に観音菩薩坐像が刻まれて「観音古墳」の名はこれに由来する。
古老の話では、この碑が「疱瘡」に効くという伝承があり、子供のころ石を削りに来たという。
西側の「谷住明王」の碑の詳細は不明。
この地は藤原成親が配流された三つの坊の内の一つ月心坊のあった場所である。
月心坊は観音古墳の下の平地に建てられ、ここが庵の跡地である。現在は古墳は盗掘され、塚石は散乱する。
日廣上人は成親の遺徳を偲び、700年経ってこの碑を建立する。
題目碑側面:月心坊舊跡 當邑講中、反対側面:正法寺廿二正日廣代建之 と刻する。
 月心坊址題目碑立面図
2019/03/16撮影:
 西花尻月心坊址:下池西の道路から少し入った場所であるが、この付近が月心坊址か。画面中央少し右上に石塔類が写る。
 月心坊址題目碑と観音古墳     観音古墳羨道口
 月心坊址題目碑1     月心坊址題目碑2     月心坊址持地妙正大明神     月心坊址谷住明王碑

備中西花尻奥谷祖師堂
西花尻奥谷の「ばんじんさま」あるいは「法界様」
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
岡山市北区西花尻789南
祖師堂(法界様、番神様)堂内に番神、石塔3基を祀る。
中央題目碑は文政5年(1822)年紀、向かって右大覚大僧正碑も文政5年(1822)年紀、地神碑は明治12年年紀
堂内の天神木像は西50mほどの「番神堂」に祀られていたが、堂が老朽化し解体、本尊(天神)をここに移安する。
 西花尻奥谷祖師堂平面図     奥谷祖師堂石碑立面図
2019/03/16撮影:
祖師堂(法界様)が現存する。施錠されていて、鍵は鍵当番が管理する。
 西花尻奥谷祖師堂1     西花尻奥谷祖師堂2
 奥谷祖師堂石塔類1     奥谷祖師堂石塔類2     奥谷祖師堂石塔類3
 奥谷祖師堂大覚大僧正     奥谷祖師堂日蓮大士     奥谷祖師堂地神
番神様は西50mほどにあった番神堂本尊であった。番神堂が退転し、祖師堂に本尊を移すという。番神堂本尊がなぜ天神(像容から見て菅原道真と思われる)なのかは不明。
 奥谷祖師堂番神厨子     奥谷祖師堂番神本尊

備中西花尻本村題目碑
2014/06/29撮影:
左の地神は除き、左から大覚大僧正、題目碑、日蓮大菩薩題目碑の3基が並ぶ。
大覚大僧正碑の年紀は不明確であるが大正10年とも判読できる(であるならば新しいものである)。中央題目碑の年紀は宝暦13年(1763)と刻む。
 備中西花尻題目碑群     備中西花尻大覚大僧正碑
2018/12/25追加:
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
西花尻739北に所在、「地神さま」と通称される。
 西花尻本村題目碑・平面図     西花尻本村題目碑・立面図
3基の題目碑の向かって左から、大覚大僧正碑は大正12年、中央は宝暦13年(1763)、右端は天保2年(1831)の年紀
2019/03/16撮影:
現在の題目石の種類、敷地の構えから、古は祖師堂があったものと推測される。
 西花尻本村題目碑群2
 西花尻本村日蓮大菩薩碑     西花尻本村法界碑     西花尻本村大覚大僧正     西花尻本村地神

備中川入

備中庭瀬(川入)八幡宮・・・不変院・大乗院の故地である。
八幡山庭瀬八幡宮
サイト:岡山県神社庁では川入八幡宮について以下のように述べる。(大意)
「貞観2年(860)宇佐八幡宮から勧請し、その後備中守藤原宗弘、藤原良之に命じて祖神天児屋根命を合祀し、同年良之を神主に任ずる。
天慶5年(942)伊勢大神を合祀する。
延長2年(924)申上棟。永延2年(988)戌子上棟。寛徳2年(1045)乙酉上棟。長治2年(1105)乙酉上棟。承安4年(1174)午上棟。文永2(1265)乙丑上棟。応永11(1404)年甲申上棟。文明6年(1474)甲午上棟。天文23年(1554)甲寅上棟。寛永11年(1634)甲戌上棟。宝暦11年(1761)辛巳上棟と云う。
貞観2年藤原良之が奉職以来累代に世襲する。承応年中(1652-)良之21代の孫良三が病死、庭瀬藩主戸川氏が庭瀬村日蓮宗大坊不変院を別当とし、良三の三男平太を宮守とする。」
 現在、本殿・前殿・釣殿・鐘楼・鳥居・石灯篭(板倉勝興寄進)・三十番神堂・土塀(江戸期)などがある。
境内西側(千手堂西側)に不変院・大乗院があったが、天正14年(1586)以降、それらは庭瀬に移転する。
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
梵鐘の変遷
 神仏分離令以前:日蓮宗不変院が別當であり、題目(南無妙法蓮華経)が鋳込んであった。
 明治2年神仏分離の処置により、題目を削除
 昭和18年頃、太平洋自滅戦争の戦時供出によって砲弾素材として鋳潰される。
 昭和34年、再鋳、「八幡神社平和の鐘」の銘、寄付金の多くはアメリカ移民の人々による。
 平成2年、再々鋳、「平和の鐘」の銘
2014/06/29撮影:
 三十番神堂とは不明(未見)、本殿西側に土塀があり、土塀の西側はかなりの平坦地があり、おそらくはここに不変院/大乗院があったものと思われる。 しかし、現状地上には不変院などを偲ぶものは何もない。また上の項でいう千手堂も不詳。
 現在川入八幡宮は鐘楼・梵鐘が残存し、また奇妙な土塀が西側を画する以外、明治の国家神道によって画一的な神社の姿に変貌したようで何の面白味もない。期待外れで残念なことである。
 なお、備中撫川知行所の領内では、ほぼ全ての神社に鐘楼が付属する。本神社もその例であり、鐘楼・梵鐘が残るのは喜ばしことである。
 備中川入八幡宮遠望     備中川入八幡宮随身門     備中川入八幡宮中門
 備中川入八幡宮拝殿     備中川入八幡宮鐘楼
 備中川入八幡宮西土塀1      備中川入八幡宮西土塀2
 推定不変院/大乗院跡地1     推定不変院/大乗院跡地2

備中川入八幡題目碑
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
八幡山庭瀬八幡宮の北西、直線距離で約150m程の所にある。山陽新幹線の北側。
八幡の地神、水神。秋の社日祭は法華経を唱えてお祭りする。
社日の「社」は土地の意で春分・秋分に最も近い戌の日を云う。土地の神をお祭りして春は生育、秋は収穫のお礼参りをする。
 ※持地菩薩:Webサイトでは次のように云う。
「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」に持地菩薩のことが語られる。
持地は「大地を支え持つ」という意味をもつ。
持地菩薩は大清浄地藏菩薩とも言う。地蔵菩薩は、釈迦の入滅後の五十六億七千万年後に救済者弥勒菩薩が登場するまでの間、人間を救うのが主な役目であう。
地蔵の地は大地を意味する。大地は私たちの衣食住から金銀財宝に至るまで、いろいろなものを与えてくれる。地蔵菩薩も同様に私たちにいろいろな恵みを与えその生活を護持するところから、この名前が就いた。安産・健康・長寿・智恵・豊作・求財などにご利益がある。
2019/03/16撮影:
 川入八幡題目・地水両神     川入八幡題目碑:年紀は不明

備中川入三十番神堂・・・不変院塔頭中正院の故地という。
現在鳥居、拝殿、本殿、鐘楼を残す。
 ※備中撫川知行所の領内では、ほぼ全ての神社に鐘楼が付属する。本神社もその例である。
小社にしてはかなり広い境内を有し、これは中正院の故地であるからであろうか。
三十番神堂は悪しき国家神道の標準的な姿に造替されたのであろうが上記の川入八幡宮と同じく醜悪な姿をしている。
しかし、鐘楼や梵鐘(再鋳)を残すのには何かの強い意志を感ずる。
2018/12/25追加:
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
戸川達安が八幡神社から分霊、水門守護の番神。
2014/09/29撮影:
 川入三十番神堂境内     川入三十番神堂社殿     川入三十番神堂本殿
 川入三十番神堂鐘楼:梵鐘は昭和43年再鋳(戦時供出)

備中川入公民館隣題目石
川入公民館隣にある。
題目碑2基と日親上人碑1基の計3基がある。
ここに日親上人碑がある所以は不明であるが、上人は西国九州を何度か巡錫したと伝えるので、この地にも来錫したのであろうか。現に山陽筋である備中井原妙典寺、備後神辺妙立寺、備後三原壽徳寺は日親上人巡錫の地と伝える。
2018/12/25追加:
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
川入75に所在。
 川入公民館隣題目石・平立面図
上記の立平面図によれば、日親上人は400年遠忌報恩、明治26年年紀、中央題目碑は享保12年(1727)、右端題目碑は文化10年(1813)の年紀とある。
2014/06/29撮影:
 備中川入題目碑群:中央題目碑は享保12年(12年は推定、1727年)、向かって右は文化10年(1813)の年紀
 備中川入日親上人碑:年紀は明治26年、400年遠忌報恩
2019/03/16撮影:
題目石の配置や題目石の前が広く空いている位置取りを勘案すれば、ここに祖師堂があったのは間違いないだろう。
 備中川入題目碑群2     備中川入題目碑群3
 備中川入文化10年題目碑     備中川入享保12年題目碑     備中川入日親上人碑2

備中庭瀬

備中庭瀬若宮八幡宮
北区庭瀬15−10 に所在。
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
本殿左に祇園牛頭天王を祀る社がある。
創建は不明、若宮八幡は八幡山より分祀した。
板倉の御用人田丸屋新吉が京都の祇園神社(祇園社・感神院)に参詣し分霊を頂き祭祀する。
往時、社頭は広く鳥居は50mほど先に設置され参道が続いていた。現在は近隣が宅地化し、境内は狭められる。
2019/03/16撮影:
 庭瀬若宮八幡本殿:右の小祠は荒神社
 庭瀬若宮八幡本殿扁額:本殿左に祇園牛頭天王を祀り、右に荒神を祀る。
 庭瀬若宮八幡牛頭天王     庭瀬若宮八幡牛頭天王社内部

備中庭瀬中田祖師堂
2014/06/29撮影:
ここには、かって中田祖師堂があったものと思われる。
現在、中田祖師堂は庭瀬中田公民館となり、その裏に法華宝塔、題目碑、大覚大僧正碑の3基及び小祠が残る。
つまり、この配置は祖師堂背後屋外に題目石などを置く祖師堂の典型例である。
 備中中田題目碑群:向かって左から、法華宝塔(一天四海皆帰妙法 末法萬年廣宣流布、元治元年/1864年紀)、石灯篭、小祠(祭神不明)、題目碑(文化8年/1811年紀)、大覚大僧正碑(年紀不明)が並ぶ。
 ※法華宝塔は元治2年の年紀、大覚大僧正碑は天保14年(1843)の年紀という。(「路傍の文化財」2017)
 備中中田大覚大僧正碑     備中庭瀬中田題目碑
2018/12/25追加:
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
庭瀬21南に所在。
 中田公民館裏題目碑・平面図     中田公民館裏題目碑・立面図
題目碑向かって左から、一天四海皆帰妙法碑は元治2年(1865)、日蓮大士非違は文化8年(1811)、大覚大僧正碑は天保14年(1843)の年紀がある。
2019/02/16撮影
 庭瀬中田法華宝塔2:並びに石灯篭     庭瀬中田題目碑2:日蓮大士     庭瀬中田大覚大僧正2

備中庭瀬大坊不変院

 → 備中庭瀬大坊不変院

参考:
庭瀬藩  → 備中庭瀬大坊不変院中にあり。

備中庭瀬信城寺
法正山と号す。不変院末寺。
天正13年(1544)戸川氏によって改宗。寛永元年(1624)城国院日鳳上人によって創立。
三十番神叢祠本社があり、また戸川家信城院殿(戸川正安の祖母、戸川逵安の母)の位牌を祀る。
2019/08/25追加:
〇「庭瀬城址ものがたり」庭瀬城址保存会、平成11年(1999)
信城寺
戸川逵安の母(信城院殿日友尊女)が開くという。
2015/10/05追加:「日蓮宗寺院大鑑」 より
開基檀越戸川正安。久遠成院日親の持仏鬼子母神像を戸川家が伝え、真城院が鬼子母神堂を建立したのが始まり。
2013/12/31撮影:
 庭瀬信城寺山門     庭瀬信城寺本堂     庭瀬信城寺鎮守殿
2014/11/23撮影:
 信城寺山門2     信城寺本堂2     信城寺本堂内部     信城寺鎮守殿:手前の祠は三十番神堂か

備中庭瀬題目碑:庭瀬駅西踏切南所在:庭瀬923東
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
向かって左から、寛政10年(1798)銘石灯篭、文化10年(1813)銘題目碑、年紀不詳の「大覚大僧正」碑、堅牢地神日、観音堂(祠)がある。「大覚大僧正」碑は今は剥落して読めないが、昔は「大覚大僧正様」と呼ばれていたという。
 庭瀬題目碑平立面図
2018/12/27撮影:
 庭瀬題目碑群     題目碑・大覺大僧正碑
 大覚大僧正碑:剥落して判読不能     題目碑:剥落が激しい     題目碑南面:正善院12代とは不変院塔頭正善院か

備中中撫川

中撫川疫神社(撫川牛頭天王、現スサノヲ神社)
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
中撫川・撫川の日蓮宗以外が信仰層である。
ス北区中撫川502 鐘楼・梵鐘あり、日蓮衆徒以外が参詣する社である。----西の集落中に題目碑あり。
疫神社の由来は定かではないが、次の伝承が最も信憑性がある。
康平4年(1061)吉備津大明神が火災炎上、その時現在地附近に仮宮を建てて神体を安置する。
康平7年(1064)備中守藤原定綱が吉備津大明神を再建、神体は現在地から遷座し、仮宮だけが現地に残る。
そこで、この地の有力者が祇園感神院から分身を受けて、奉斎したと伝えられる。
 ※本書では京都の八坂神社からスサノヲを分祀するというが、正しくは祇園感神院から牛頭天王を勧請したというべきであろう。
創建以来「疫神社」と称するも、明治2年神仏判然令で「スサノヲ神社」と改号する。
撫川知行所初代戸川達富の時、疫神社は真言宗金華山観音院が社僧であり、真言宗宗徒の神社として祀られた。一方中撫川八幡大菩薩は日蓮宗法正山信城寺が別當であり、日蓮宗宗徒の神社として祀られた。明治維新まで、領主の庇護のもとにあった日蓮宗とそれ以外の宗派とは対立関係にあり、それは今でも同一地区に二つの宗派の違う神社が併存する関係は続いている。しかし一方では祭礼の同一日の実施であるとか、梵鐘の同時再鋳、社号碑の同時建立などの融和の努力はなされている。
 ※しかし融和の努力とはいっても、その背後にあるのは、明治国家の宗教政策の色合いが濃いであろう。一村一社の遂行・仏教を廃し敬神の奨励・記紀神話以外の神々の排除の祭神政策などが根底に横たわるものと思われる。
2019/03/19撮影
備中撫川知行所の領内では、ほぼ全ての神社に鐘楼が付属する。本神社もその例である。
 中撫川疫神社社頭     中撫川疫神社拝殿     中撫川疫神社本殿
 中撫川疫神社鐘楼1     中撫川疫神社鐘楼2
 中撫川疫神社梵鐘:昭和31年仲秋再建、下に掲載の下の宮梵鐘と同時再鋳という、今次大戦で軍事供出。

中撫川八幡宮:鐘楼あり
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
撫川及び中撫川の日蓮衆徒が信仰層である。
「きびのさと 7」昭和39年 より以下のような転載がある。
 天和3年(1683)撫川5000石を知行した初代戸川達富が、領内に国家鎮護の社がなかったので、
 八幡大菩薩を八幡山(庭瀬)八幡大菩薩の分祀し、八幡宮と称する。
 この下の宮は日蓮宗法正山信城寺が別當として管理する。
 創建時期については、境内の灯篭に正徳4年(1715)の年紀があるので、戸川氏が転封してきてから30余年の間に
 創建されたのは確実であろう。
 上の宮(疫神社、現在のスサノヲ神社)には、境内の石灯篭に享保3年(1718)の年紀があるので、八幡宮に若干おくれて、
 建立されたおのと思われる。(「きびのさと 7」昭和39年)
2019/03/19撮影
備中撫川知行所の領内では、ほぼ全ての神社に鐘楼が付属する。本神社もその例である。
 中撫川八幡宮境内     中撫川八幡宮拝殿     中撫川八幡宮本殿     中撫川八幡宮鐘楼
 中撫川八幡宮梵鐘:昭和31年仲秋再建、上に掲載の上の宮梵鐘と同時再鋳という、今次大戦で軍事供出。
 妙見大菩薩を祀る。
 中撫川八幡宮妙見宮1     中撫川八幡宮妙見宮2
 中撫川八幡宮時芳社:如何なる由緒なのかは不明

中撫川福井公民館南題目石
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
福井公民館南:中撫川507東・・・・・スサノヲ神社西の集落中にあり。
向かって左から、大覚大僧正碑は天保14年(1843)、2番目の題目碑は文政3年(1820)、3番目の日朝上人碑(※)は大正12年、右端の日蓮大菩薩碑は明治15年(600年遠忌)の年紀
 中撫川福井公民館南題目石立平面図
 ※日朝上人碑:標記資料では、行学院日朝上人とするが、また判読しずらいのは確かであるが、行學院日朝ではなくて「行覺院日朝」であろうと思われる。ここ備前・備中にも日朝上人碑は数か所見られる。日朝は身延11世、眼病守護とされる。
2019/03/16撮影:
ここには明らかに祖師堂があったものと思われる。
今も題目碑群の南に名称が分からない小宇が建ち、この小宇が祖師堂もしくは祖師堂の流れを汲むものと思われる。そして、この小宇の裏の屋外に題目碑などが祀られる祖師堂の典型を示すものと思われる。
 福井公民館南題目石群1     福井公民館南題目石群2:手前から、日蓮大菩薩・日朝上人・題目碑・大覺大僧正
 福井公民館南大覚大僧正     福井公民館南題目碑1     福井公民館南題目碑2
 福井公民館南日朝上人       日蓮大菩薩1           日蓮大菩薩2

中撫川三十番神題目碑
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
中撫川三十番神題目碑:中撫川683南
題目碑は嘉永6年(1853)の年紀
 中撫川三十番神境内平面図
 中撫川三十番神題目碑立面図
2019/03/16撮影:
 中撫川三十番神1     中撫川三十番神2     三十番神題目碑など
 三十番神題目碑:日蓮大士     三十番神地神・牛神

中撫川中島公会堂題目碑
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
中島公会堂・荒神社の隣・中撫川259東
大覚大僧正石灯篭は文政7年(1824)年紀、題目碑は文政2年(1819)の年紀
 中撫川中島公会堂題目碑立面図
2019/03/16撮影:
現在は中島公会堂前にあり、ブロック塀に囲まれるが、おそらくは祖師堂があったものと思われる。
 中島公会堂題目碑群1     中島公会堂題目碑群2
 中島公会堂題目碑1       中島公会堂題目碑2       大覚大僧正石灯篭
隣に荒神社があり、鳥居・小祠・手水鉢・石灯篭を具え、祠横に龍宮海・牛神・地神碑を祀る。これらの石碑は龍宮海とは不明であるが、牛神・地神は隣の題目碑と一体をなすものであろう。
 中島荒神社1:鳥居は天保4年(1834)の年紀     中島荒神社2:石灯篭は嘉永5年(1852)、手水鉢は明治29年の年紀
 荒神社龍宮海・牛神・地神碑

中撫川福富公民館題目碑
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
福富公民館北:中撫川66隣:足守川右岸にある。
現在、福富公民館裏にある。福富公民館は以前石碑の御守堂であったが、昭和23年頃、公民館の形をとる。
 ※公民館の前身は石碑の御守堂であったというから、所謂祖師堂があったということであろう。
 そしてその形式は堂の背後の屋外に石塔を並べるという形式の堂であったようである。
石碑類は向かって右から、地神(安政2年/1855)、大覚大僧正(明治3年)、題目碑(法界碑/文化8年/1811)、牛頭天王、秋葉権現(三尺坊権現)と並ぶ。
秋葉権現は、むかし、集落で火災が多発し、火除けとして勧請する。
常夜燈は足守川左岸の妹背用水の取水口にあった。
 福富公民館平面図     福富公民館石塔類立面図
2019/03/16撮影:
 中撫川福富公民館1     中撫川福富公民館2     福富公民館石塔類     福富公民館大覚大僧正地神
 福富公民館地神        福富公民館大覚大僧正     福富公民館題目碑     福富公民館牛頭天王

備中撫川

備中撫川大橋妙見宮題目碑
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
大橋妙見宮題目碑:撫川28東に所在
妙見宮は足守川東側堤防にあったが治水子工事のため現在地に遷座する。寄進者は藺草で財を成した人という。
題目碑は寛政4年(1792)の年紀、撫川在町惣講中と刻む。
 撫川大橋妙見宮平面図     妙見宮石塔類立面図
2019/03/16撮影:
 撫川大橋妙見宮境内     撫川大橋妙見宮     撫川大橋妙見宮内部     撫川大橋妙見宮地蔵堂
 撫川大橋妙見宮題目碑     撫川大橋妙見宮石灯篭
 撫川大橋妙見宮水神:五角石塔であるので「社日塔」の類であろう。
  社日塔について、村井康彦「出雲と大和」岩波新書p.244 では次のように云う。
   社日とは、社=地神をまつる春分・秋分に近い戊の日をいい、この日、五穀豊穣を祈り、収穫に感謝した。
 撫川大橋妙見宮地神
参考資料:
○旧大橋西袖の常夜燈・・・未見
大正5年旧大橋の架け替えに伴い、旧大橋の西袖に再建、旧大橋の廃止に伴い、昭和42年西向に移転、平成25年吉備公民館駐車場に移転。
○旧大橋東袖の常夜燈
慶応4年の建立つまり明治元年の建立であり、時代の転換のその時に建立される。
昭和43年旧大橋の廃止に伴い、スサノヲ神社に移転、平成19年旧大橋の近くの大橋中之町公民館前(現在地)へ移建される。
 旧大橋東袖常夜燈

備中撫川下東題目碑
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
下東:撫川332西側に所在
正面大覚大僧正碑は明治4年、題目碑は文政10年(1827)の年紀
 撫川下東題目碑立平面図
※上図の公民館前の道標は未見
※江戸期に大庄屋の難波純一郎が出雲大社の分霊を奉祀したという。
 台石の上に小祠があり、その祠には杵築大社のお札が収められていたという。
 撤去の後、小祠などがどのようのなったのかは、言及がなく、不明である。
2019/03/16撮影:
正面に大覺大僧正碑、側面に地神、三尊・権現碑、題目碑が並ぶ。
三尊・権現碑は大峰山上大権現・金比羅大権現・吉備津大明神の本地仏を三尊として浮彫にしたものであるが、おそらく附近の別の場所から移設したものであろう。
現在はモルタル塀で囲われているが、石塔類や構えから、かつては祖師堂があったものと思われる。
 撫川下東題目碑     撫川下東題目碑2     撫川下東題目碑3     撫川下東題目碑4
 撫川下東大覚碑     撫川下東地神社碑     撫川下東三尊・権現碑     撫川下東題目碑:日蓮碑、下撫川と刻む。

備中撫川関戸舟溜題目碑:ふれあい広場内題目碑:撫川713隣 関戸に所在
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
題目碑は天保4年(1833)の年紀
往時、ここは足守川の半役樋門と関戸樋門の間の舟溜であった。撫川(西)・庭瀬(北)・平野(北東)・妹尾崎(南東)・大内田(南西)の境目である。
この題目碑はその西側の堤防の路肩に建てられる。
今は埋め立てられ遊園地になったが、この題目碑は建立時と同位置を保つといわれる。
水の事故で亡くなった人の慰霊の為建立される。世話人 坂右衛門が如何なる人かは不明である。
 関戸舟溜題目碑平立面図
2018/12/27撮影:
 関戸舟溜題目碑1     関戸舟溜題目碑2

備中撫川関戸題目碑:撫川714 関戸に所在
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
天明元年(1781)年紀、この近辺では最大級の題目碑という。高さは台石を入れ6尺強。
 関戸題目碑平立面図
2018/12/27撮影:
 関戸題目碑1     関戸題目碑2

備中平野

備中平野牛頭天王・地神碑
JA備南吉備支所西:庭瀬676に所在、牛頭天王碑の年紀は不明
2019/03/16撮影:
今は市街地の中にひっそりと建つ。
 平野牛頭天王・地神碑1     平野牛頭天王・地神碑2

備中平野了性寺
不変院末寺7ヶ寺の一つ(「備中誌」)と云う。山号、その他の詳細は不明。
2015/10/05追加:「日蓮宗寺院大鑑」 より
「大観」には寛永17年(1640)の創立、開山日学とある。
2014/06/29撮影:
了性寺妙見堂は北面する。鳥居妙見堂(拝殿に本殿が奥に張り出す堂の構造か)・鳥居・庫裡・三十番神堂?などを具備する。
 備中了性寺妙見堂1:妙見堂は昭和59年改修される。
 備中了性寺妙見堂1:右端には南に接する本堂あるいは客殿とも思われる屋根と「水子・・」の紅い幡が写る。
 備中了性寺妙見堂内部     了性寺三十番神堂?:推定
妙見堂南に接しておそらくは了性寺の本堂もしくは客殿とも思われる堂がある。入口は南面する(恐らくこの入口は明治維新後に整備されたものであろう)。入口を入り左手に これまた推測であるが戦後に祀られたと思われる露座の水子観音を祀る。一見了性寺とは別のようであるが、次の写真のような題目碑・日蓮碑があるので、ここも了性寺であることは間違いないと思われる。
 備中了性寺本堂・客殿     備中了性寺題目碑     備中了性寺日蓮碑
2018/12/27撮影:
 平野了性寺妙見堂鳥居     平野了性寺妙見堂境内     平野了性寺妙見堂
 備前備中国境標石:妙見堂境内にある。しかし、ここが國境であった訳ではなく、撤去された標石がここに移設されたという。

備中平野妙見社東法界様:題目碑
2018/12/25追加:
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
 平野妙見社東法界様平面図     平野妙見社東法界様立面図
題目碑北側から、北側題目碑(大覚大僧正碑)は文政6年(1823)、その次の大覚大僧正碑は弘化2年(1846)、次の題目碑は明治9年、次の題目碑は文化7年(1810)、西に設置される石塔は判読不能、さらにその西の最西端の日親・日朝碑の年紀は分からない。
石塔類や構えから、かつては祖師堂があったものと思われる。
2014/06/29撮影:
左から題目碑(側面は大覚大僧正碑、文政6年/1823年紀)、大覚大僧正碑(弘化2年/1845年紀)、日蓮大菩薩碑、題目碑(文化7年/1810年紀)、題目碑、日親上人/日朝上人碑の6基が並ぶ。
 備中平野題目碑群     大覚大僧正碑     右端題目碑側面:大覚大僧正と刻む。
2018/12/27撮影:
 備中平野題目碑群2     平野題目碑(大覚大僧正)     平野大覚大僧正碑     平野日蓮大菩薩碑
 平野文化7年題目碑     平野判読不能題目碑        平野日親/日朝上人碑

備中平野庭瀬駅東踏切南西題目碑:平野239西南線路側
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
題目碑は明治8年年紀。
 備中平野庭瀬駅東踏切南西題目碑立面図
2018/12/27撮影:
 備中平野庭瀬駅東踏切南西題目碑1     備中平野庭瀬駅東踏切南西題目碑2

備中平野庭瀬駅東踏切東社日塔など
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
2019/05/25撮影:
 平野庭瀬駅東踏切東北向地蔵:どういう理由なのかは不詳であるが、平成25年に地蔵堂が新設されるという。
 社日塔・牛馬神・牛神     東社日塔(地神)     平野庭瀬駅東踏切東切牛馬神     平野庭瀬駅東踏切東切牛神

備中平野庭瀬駅東踏切南題目碑:平野235西
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
平成25年の道路拡張によって、題目碑や社殿などの遷座や移動が行われる。その状況は図の注釈で示される。
題目碑は天明7年(1787)の年紀、大覚大僧正碑は弘化3年(1846)の年紀。
 平野庭瀬駅東踏切南題目碑新旧平面図:平成25年道路拡幅が行われ、題目碑や小祠が配置換される。
 平野庭瀬駅東踏切南題目碑道路拡幅前平面図
石塔類から見て、おそらく往時は祖師堂として祀られていたものと思われるも、附近が市街地化し、往時を偲ぶのは困難である。
2018/12/27撮影:
 平野庭瀬駅東踏切南題目碑群1     平野庭瀬駅東踏切南題目碑群2
 平野庭瀬駅東踏切南題目碑        平野庭瀬駅東踏切南大覚大僧正碑
 平野庭瀬駅東踏切北向地蔵:北向地蔵は木野山神社の跡に移動し、
 その北向地蔵の跡付近には東にあった題目碑群が移動したようである。
2019/05/25撮影:
 平野庭瀬駅東踏切南石塔など
なお、東に少し離れても新設された北向地蔵がある。

備中延友
この地は庭瀬と延友の境界で、毘沙門天石像などは延友にある。石造前面の道路の東は庭瀬村で、西が延友村である。
また、延友村の北は平野村であり、東は境目川である。境目川を東に越えれば、そこは備前國である。さらに延友村の南は古新田である。

備中延友題目碑群:延友334東、延友公民館西
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
題目碑/日蓮大菩薩碑は寛政4年(1792)、題目碑/大覚大僧正碑は天保5年(1834)の年紀
 延友題目碑平面図     延友題目碑立面図
おそらく、往時は祖師堂として整備されていたものと推定される。
2018/12/27撮影:
 延友題目碑群1
 延友題目碑群2:向かって左より、地水両神、題目碑(日蓮大菩薩)、題目碑(大覚大僧正)、窓前天子守と並ぶ。
 延友地水両神
 延友題目碑(日蓮大菩薩)1     延友題目碑(日蓮大菩薩)2
 延友題目碑(大覚大僧正)1     延友題目碑(大覚大僧正)2
 窓前天子守:文政10年(1827)年紀、窓前天子守とは不詳・不明である。

備中延友毘沙門天
○岡山市吉備中学学区「ええとこ発見図」 より
高松城水攻めの後、領主岡豊前守が庭瀬沖の干拓をする。その第1期工事の南端で、自然石に刻んだ毘沙門天など七福神が
祀られている。庭瀬・延友の境界で道標も建てられている。
2018/12/27撮影:
 延友毘沙門天石像など     延友毘沙門天石像
 延友七福神:自前の写真が無いのでGoogleMapより転載、
 写真向かって右下が「道標」、瓦製の小祠が多く並ぶがこれらが七福神であろうか。
2019/05/25撮影:
 延友毘沙門天全景     庭瀬延友境界の道標:右にわせ/いなり道、左なつかわ/くらしき道

備中延友薗碕社:(薗碕=おんざき)
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
 社記:祭神は吉備津彦命の重従臣なり、この地には貞享4年(1687)鎮座せり、これは備中加夜郡延友村と御尊像に明記してあり・・とある。(少々意味が不明ではある。)
 延友薗碕社梵鐘の銘:昭和32年の鋳造であるので、おそらく馬鹿な国策で戦時に供出され、戦後再鋳したのであろう。
○岡山市吉備中学学区「ええとこ発見図」 より
天正14年(1586)岡豊前守が干拓用築堤の際の出城址と云われ、延友村の氏神である。本尊に「貞享4年丁卯9月廿日」(1687)と墨書あり。
2018/12/27撮影:
この地区の神社には、よほどの小社を除き、まず鐘楼があり、梵鐘があるのが普通である。この地区では日蓮宗が盛んであり、三十番神も寺院から独立して祀られるのが普通のようである。神社にも梵鐘があるのが普通である文化であったのであろう。
 延友薗碕社全景:随分な低地に立地する。東に境目川が接する。即ち東は川を超えれば備前國である。
 延友薗碕社鳥居     延友薗碕社随身門     延友薗碕社随身門組物     延友薗碕社拝殿
 延友薗碕社鐘楼1     延友薗碕社鐘楼2     延友薗碕社梵鐘     延友薗碕社本殿    延友薗碕社本殿組物

備中古新田

備中古新田引舟一鶴庵
 資料が殆どなく、詳細は不明である。一鶴庵は古新田引舟に所在する。
   (緯度経度:34.6319806370593, 133.87013994001276)
不受不施講門派の資料(「不受不施派の分裂と動向」>「地下に潜った日蓮宗不受不施派」を参照に、禁制時代の地下組織としての庵として「備中引舟(古新田)一鶴庵」とあるので、不導師派(津寺派)の庵としての伝統を継承するのであろう。
なお、同資料には「備中引舟知足庵」ともあり、知足庵も引舟に存在したのあろうが、知足庵の所在は知り得ていない。さらに同じく地下の庵として「東知足庵」の名前もあるので、知足庵の東に存在したのあろうが、これも所在は知り得ていない。
2018/12/27撮影:
 備中引舟一鶴庵1     備中引舟一鶴庵2     備中引舟一鶴庵扁額
 一鶴庵石塔群:庵の東に4基の題目碑と祠(祠の名称は不明)と水神碑がある。
 一鶴庵題目碑群4基:向かって左から妙法碑(判読不能)、日量(推定)墓碑、日■墓碑、恵蓮院日心聖人碑である。
 判読不能妙法碑:妙法の文字以外判読不能
   ※下に掲載:「妙法/真至院法相日惇/蓮池院浄光日深」と刻むと判明。
 日量(推定)墓碑:題目、日量(量の文字は推定)大徳とあるので日量(推定)の墓碑であろう。日量は一鶴庵の関係者か。
   ※下にも掲載
 日■(判読不能)墓碑:題目、日■大徳とあるので、日■の墓碑か、日■は一鶴庵の関係者か、明治9年の年紀がある。
   ※下に掲載:日■は日護と判明
 恵蓮院日心聖人碑:恵蓮院日心は本華院日心の師、明治12年遷化 → 講門宗本山久遠山本覚寺
 恵蓮院日心聖人碑2:上図の部分拡大図である。題目の下は恵蓮院日心聖人と判読できる。左右の文字は判読不能。
   ※下にも掲載
 祠(名称は不明)と水神碑
2019/05/25撮影:
上記の2018/12/27撮影(説明)中、不明などについては、本撮影画像を参照。
 ○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
  三十二神の塔 水神に三十番神、地神を加えた塔。古新田、一鶴庵。
  左「水神」正「三十番神」右「地神」右後「安政五戊午(1858) 八月十日」左後はブランク。
   ※上記の2018/12/28撮影「水神碑」は正確には、安政5年の「三十番神・地神・水神」である。
 引舟一鶴庵全景
 日惇・日深墓碑:妙法/真至院法相日惇/蓮池院浄光日深と刻む。
   ※真至院日惇および蓮池院日深とも情報なし。
 日量墓碑:背面には「吉田橘夫家」と刻む。
   ※吉田橋夫家とは不明であるが、参考「木屋の屋敷跡」にあるように、古新田を開発した吉田家の一統であるならば、
    この吉田家が一鶴庵の信徒であり、一鶴庵の壇越であったのかも知れない。
 日護墓碑:背面には「○○院日心建立」と刻む、明治9年の年紀
   ※「○○院日心」は恵蓮院日心」とmの思われるが、〇〇院が恵蓮院と読み取るには無理がある気がする。
 題目石(恵蓮院日心)1     題目石(恵蓮院日心)2
   ※恵蓮院日心は講門派本山本覺寺36世、明治12年寂、本華院日心は弟子である。
 三十番神・地神・水神1     三十番神・地神・水神2
参考:付近には次のような歴史的資産がある。
 木屋の屋敷跡:江戸期古新田を開発した吉田氏は屋号を木屋という。その広大な屋敷跡の一部が残るという。が残るという。
 引船の洗い場:用水路に面した家では、洗い場がもう置けられていたといい、今もそれが残る家がある。
なお、この付近では不受不施講門派の信者の家が多いという。

備中古新田妙泉寺
本覚山と号する。
寛永9年(1632)新田として干拓された新開地に古新田村及び大福村ができるが、戸川正安(2代庭瀬藩主)は寺院建立の必要性を認め、寺院建立を命ずる。
当然、戸川家の信奉する日蓮宗寺院であった。
開基檀越は新田干拓に功があった初代庄屋吉田四郎右衛門、開山は本覚院日感上人で吉田四郎右衛門の二男という。
(吉田四郎右衛門の法号は妙泉院善勝)
寛文10年(1670)2世蓮勝院日賢上人三十番神堂を建立。
文政10年(1827)6世境性院日観上人本堂・玄関を再建。
明治35年山門再建。
昭和46年客殿再建。
昭和57年本堂新築・自雲堂再建・山門修復。
2018/12/11追加:
○「わたくしたちの福田村」昭和58年(1983) の 「神社と寺院」の項 より
本覚山妙泉寺:古新田字寺前、妹尾盛隆寺末
開山・本覚院日感が庭瀬藩主戸川佐守正安の招きにより、開発後まもない当地に来て、吉田四郎右衛門などの外護を受けて堂宇を建立し、寛永十三年丙子年開堂供養を行う。
吉田四郎右衛門は藩主戸川達安の命により、寛永三年妹尾新田(木屋新田)九十三町五反八畝十歩、高一千石の新田開発をして、古新田の基礎を築いた人である。
開山日感上人は吉田四郎右衛門の第二子であり、師は備前三門吉祥山石井寺(寛文六年十二月不受不施派弾圧に際して破却される)領擁院日英である。
寺号は吉田四郎右衛門の院号妙泉院善勝からきたものである。
本堂は、文政十年(1827)に再建。山門(薬医門)は明治32年暴風雨で倒壊し、現在の山門は明治41年再建。その他、客殿・庫裡(昭和46年再建)白雲堂(昭和41年建立)などの建物がある。 
境内本堂に向かって石塔三基がある。(下に写真の掲載あり。)
 (1)妙泉寺開山塔:万治二巳庚(1659)十一月二十一日
  開基本覚院日感大徳:文政四辛巳歳(1821)十二月造立之
 (2)文政十三年庚寅年(1829)三月吉祥日建之:南無高祖日蓮大菩薩五百五十遠忌御報恩
 (3)文化五戊辰(1808)五月二十七日:南無妙法蓮華経日蓮
2018/12/27撮影:
 古新田妙泉寺遠望:金谷題目碑付近から北西方向を撮影、中央にあるのが妙泉寺及び古新田厳島社である。
 古新田妙泉寺門前     古新田妙泉寺山門     古新田妙泉寺本堂     古新田妙泉寺玄関
 古新田妙泉寺庫裡     古新田妙泉寺白雲堂:白雲堂と思われるも、堂の性格は不明。
 古新田妙泉寺開山塔:上掲     日蓮大菩薩550遠忌宝塔:上掲     文化5年妙泉寺題目碑:上掲
 見寶塔品第十一石塔:妙法蓮華経見寶塔品第十一

備中古新田厳島社
○「わたしたちの福田」 > 「歩いてみよう ふる里の地」 より
厳島神社
 祭神 三十番神、厳島大明神(市杵島比売命)
寛文10年(1670)妙泉寺第2世蓮勝院日賢の代、三十番神を勧請して寺内に社殿を建立し、翌年古新田庄屋吉田三郎左衛門(甚次郎の子)の発願によって高尾厳島神社を分祀して三十番神と合祀し古新田の氏神とする。
明治元年神仏分離の処置によって厳島明神を妙泉寺境内から分離し、独立せしめ、現在に至る。
拝殿は公民館としても使用される。
 ※元来は三十番神であることが分かる。
2018/12/27撮影:
 古新田厳島社全景     古新田厳島社拝殿     古新田厳島社本殿

備中古新田金谷題目碑・水神・地神
 下に掲載の金谷法界様(小宇)の北側に道路を隔ててある。そして、北西方向約100mほどの所に上に掲載の妙泉寺がある。
2018/12/27撮影:
 金谷題目碑・水神・地神     金谷題目碑:年紀などは不明。
 古新田妙泉寺遠望:金谷題目碑付近から北西方向を撮影、中央にあるのが妙泉寺及び古新田厳島社である。

備中古新田金谷法界様:題目碑
 古新田金谷に「法界」という扁額を掲げた小宇がある。内部には法界様(題目石塔・題目碑・題目宝塔)を安置する。
小宇の堂名称あるいは庵室の名称は不明なので、仮に「法界様」として置く。
「法界様(石塔)」は丁寧に祀られ、定期的に集会が行われている様子である。今尚篤い信仰が続いていることを思わせる。
なお、「法界様」(小宇)の前には天保5年(1834)年紀の石灯篭がある。
この「法界様」は堂内に題目碑などを祀る形式の祖師堂である。そしてこの「法界様」は今も日常として機能しているようである。
2018/12/27撮影:
 金谷法界様(小宇)1     金谷法界様(小宇)2     金谷法界様(小宇)扁額
 金谷法界様(石塔)正面:題目及び日蓮・日朗・日像名を刻む。     金谷法界様(石塔)側面1:大覚大僧正名を刻む。
 金谷法界様(石塔)側面2:文政13年(1830)の年紀と550遠忌(日蓮上人)と刻む。

備中大福

備中大福鴨池八幡宮
○「わたしたちの福田」 > 「歩いてみよう ふる里の地」 より
鴨池八幡宮
 北大福の氏神で、寛永20年(1643)大福新田が完成した後、古新田の厳島明神から三十番神が分祀され、続いて大雀命(仁徳天皇)が祀られる。この辺りは低地で周辺に鴨が飛来していたので、鴨池八幡と称される。
鴨池八幡神社
 祭神 三十番神 大雀命(仁徳天皇)
 寛永20年(1643)大福新田の開拓が成就し、古新田庄屋吉田甚次郎次男喜七郎(宝永元年<1704>逝去)が大福に分家して庄屋となる。
 その後、古新田厳島明神から三十番神を分祀して社殿を建立し、続いて大雀命を合祀して八幡宮とする。
創建当時、社域周囲は池になっていて、鴨が群生していたので鴨池八幡宮と呼ばれるようになる。
現在でも周辺一帯は低湿地であり、石垣をめぐらした周囲は幅約一間の堀となっている。
 ※未見、八幡宮と称するも、元来は三十番神(古新田の三十番神を分祀)であるtことが分かる。

備中大福祇園社(三社宮)
実は元々は牛頭天王である。 → 備中の牛頭天王中にあり。

備中大福題目碑群
 旧大福村のほぼ中央(大福祇園社・三社宮の西約100mほどの地点)にこの題目碑群がある。
この地点は住宅化しているが、附近にある水路は縦横に走り、かっては干拓地であった名残りを示す。
この構えから、古は祖師堂があったものと思われる。
2018/12/27撮影:
向かって左から、題目碑(大覚大僧正)、題目碑(日蓮大菩薩)、石灯篭の3基がある。
 大福題目碑群1     大福題目碑群2
 大福題目碑(大覚大僧正):側面は大覚大僧正と刻する。寛政7乙卯(1795)の年紀。
 大福題目碑(日蓮大菩薩):年紀は不詳。
2019/07/03追加:
○「岡山県歴史の道調査報告書 第6集 金比羅往来と由加往来・倉敷往来・鴨方往来」岡山県教育委員会、1993 より
東は江戸中期の建物である「吉田医院」である。

備中大福子授け仏題目碑
○「わたしたちの福田」 > 「歩いてみよう ふる里の地」 より
子授(さず)け仏:
題目を4面に刻むという。(未確認)
嘉永7年(1854)頃、笹ヶ瀬川の両岸(今の相生橋付近)の川原に捨子をする者が後を絶えず、これを憂えた地頭が、子供の霊をとむらうため建立したと言い伝えられており、いつの間にか、子授け仏として祀られるようになった。霊験があると知らされて遠近の者が参詣するに至った。後年、今の相生橋附近から現在地へ移される。
 ※要するに、「子授け仏」とは題目碑のことである。
2018/12/27撮影:
 大福子授け仏:題目碑と地神の石塔がある。(背後の墓碑は近年のものであり、子授け仏とは無関係である。)
 大福子授け仏題目碑
 大福子授け仏題目碑・細部:嘉永七甲寅年(1854) 嘉正月為赤霊供養 地頭建之 と判読。<赤霊とは赤子の霊の意か>
また、日告と花押があるが、日告とは不明、近隣の盛隆寺及びその寺中・妙泉寺・浄泉寺などの歴代を参照するも不明。

備中大福外野題目碑
2018/12/27撮影:
 外野八幡宮
外野八幡宮:祭神は八幡大菩薩(誉田別あるいは應神天皇)、外野(南大福)に鎮座する。
 年代は不明であるが、ある日外野海岸へ八幡大菩薩の屋号を認めた神札が流れ着く。そこで村人が家老陶山氏へ言上し、その札を祀り社殿を建立したのが始まりと伝える。
 外野題目碑は上記の八幡宮の少し東にある。題目碑1基と石灯篭<文政二己卯年(1819)の年紀>1基がある。
 大福外野題目碑・石灯篭     大福外野題目碑:題目と日蓮大士・日像大聖人・大覺大僧正と刻む。年紀は不明。

備中高尾

備中高尾番神堂
○「わたくしたちの福田村」 > 「寺院と神社」 より
社殿の天井に二枚の棟札板がある。
 其の1:備中古新田 明和三(1766)丙戌年九月吉祥日
     南無妙法蓮華経三十番神
      本覚山妙泉寺三世真善院日洞代
 其の2:氏子中世話人之面々家運水昌子孫長久
     南無妙法蓮華経奉三十番神拝殿建立
      維時文政癸未天(1822)四月中旬大吉祥日
                       施主惣氏子中
                          本覚院妙泉寺日観 花押
                            河口 小左門衛門/永瀬 六右衛門
以上によれば、少なくとも、明和3年には三十番神が成立していたようである。
2018/12/27撮影:
 備中高尾三十番神1     備中高尾三十番神2     備中高尾三十番神3     三十番神一覧
高尾十五人塚:番神堂に登る石階の下にある。
元禄8年(1695)の年紀、高尾山東方が海であった頃、舟が暴風雨により難破、総員が死亡、その霊を慰めるため後年海岸に建てられたという。石塔の高さは2.2m。高尾山東海域が埋め立てられたのは江戸期に入ってからである。

備中高尾切通東題目碑
 高尾のいわゆる切通の東口に1基の題目碑が建つ。由緒は不明。
表面は題目と大覚大僧正と刻する。その他の文字と台石の文字は判読ができないので、年紀などは不明。
2018/12/27撮影:
 高尾切通東題目碑1     高尾切通東題目碑2:大覚大僧正と刻する。

備中高尾切通西題目碑
 高尾のいわゆる切通の西口に1基の題目碑が建つ。
備中山田のお塚でいうように、山田村には、不受不施派法中一同で建立している石碑が二か所にあるという。その一つが高尾山の切り通しを西に出たところの道の北側(B)にあるという。この石碑のことであろう。
但し、側面などに刻む文字は難しく殆ど判読できず、年紀なども不明である。石碑は比較的新しく明治以降のものと思われる。
2018/12/27撮影:
 高尾切通西題目碑1     高尾切通西題目碑2

備中高尾天城往来題目碑
 高尾山東側天城往来沿いにある。左から大覚大僧正碑<文政11年(1828)年紀>、地神、題目碑<寶永6己丑(1709)年紀>の3基を並べる。構えから、古は祖師堂があったものと推測される。
2018/12/27撮影:
 高尾天城往来石塔群     高尾天城往来大覚大僧正碑     高尾天城往来題目碑

高尾厳島明神(市杵島明神)
参考文献:
○「わたくしたちの福田」岡山市福田地区地域活性化事業実行委員会/編集、1995/03
○「わたくしたちの福田村」笠石隆秀、1983/01 より
 妹尾村北・山田村東に高尾村があり、この付近は妹尾兼康の屋敷跡と伝承し、南高尾の丘上に兼康の勧請と伝える厳島明神がある。ここにも同じ祭神を祀る二つの社殿があり、一つは当村の日蓮宗信者、もう一つは真言宗信者の氏神として別々に祭祀される。
 向かって右が法華宗社殿、左が真言宗社殿である。高尾にも、山田・妹尾崎と同様に真言宗徒と日蓮宗徒とがいて、伍社明神と同じように、同じ境内に別々に社殿を建てて祭祀する。社僧は法華宗が古新田妙泉寺、真言は千手寺である。
2014/06/29撮影:
 備中高尾厳島明神参道:鳥居・参道は共通である。      高尾厳島明神神門:神門も共通である。
 高尾厳島明神法華宗拝殿     高尾厳島明神法華宗社殿     高尾厳島明神法華宗本殿
 高尾厳島明神真言宗拝殿     高尾厳島明神真言宗本殿

備中高尾甚兵衛井戸題目碑
 概要は下の説明板の通り。
井戸は木屋一族の加地甚兵衛が掘削する。井戸には題目碑が付設され、甚兵衛の子孫である九四郎が建立と云う。年紀は不明。木屋一族は古新田などの干拓に尽力し、一族は村役人などを幕末まで世襲する。
2018/12/27撮影:
 甚兵衛井戸説明板     甚兵衛井戸題目碑     甚兵衛井戸

◇備中西高尾祖師堂<未見>
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」に次の記事と写真の掲載がある。
「254EDO 地神 岡山市妹尾 高尾 西高尾集会所。三十番神と題目石が同居。」
 ※西高尾集会所とは祖師堂であろう。題目石・三十番神・地神があると思われる。写真では題目碑2基と地神1基が写る。
 ※34.61835 , 133.86195 → 34.62151,133.859387 ・・・GoogleMapで堂を確認、しかし内部は全く分からない。

備中山田(含む・大内田)

補足備中大内田千手寺
天平勝寶4年(752)報恩大師開山と伝える。(「遍光山千手寺縁起之記」)
高野山真言宗、本尊千手観音菩薩。近隣には日差山坊舎であった千蔵坊址と大藏坊址がある。
 備中千手寺遠望     備中千手寺門前     備中千手寺本堂     備中千手寺客殿     備中千手寺大師堂

補足:備中大内田千蔵坊址
2018/12/27撮影:
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
 日差山二十二坊の一つの千蔵坊址。本尊千手観音は千手寺の観音堂に安置される。
現在は石地蔵尊が祀られ、傍らの塀の内に堅牢地神、水神が祀られ「荒神様」と呼ばれている。
 大内田千蔵坊址:この丘が千蔵坊址という。     千蔵坊址石地蔵     千蔵坊址荒神     千蔵坊址堅牢地神

補足:備中大内田大蔵坊無量寺跡
○「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」庭瀬かいわい案内人編、吉備まちづくり研究会、2017 より
 日差山の山坊のひとつが移った場所。本尊などは千手寺へ。
二畝(60坪)ほどの敷地の南東に石地蔵あり、北に2祠あり、右は皇太后太夫天神、左は大藏大明神。皇太后太夫天神は藤原中納言俊成(大内田里正<※村長>の公森家の祖)を祀る。皇太后太夫とは皇太后に仕える役所の長官で俊成はその職にあった。
2018/12/27大蔵坊址を求めて山中を探索するも、発見するに至らず。(未見)
後日検討すると、おそらく八幡社の北側(天満宮がある)ではなく、もう少し東側(千手寺の西側)の山中と推定される。
山中には八幡社・天満宮・役行者などの石像・地場大師88ヶ所の幾つかの札所・地神碑などがある。

備中大内田題目碑:塚山公園内に所在
 庭瀬から撫川・大内田を経由して早島に至り、茶屋町・瑜伽山を経て、丸亀に渡る金比羅街道(金比羅往来)がある。
大内田から早島へ抜けるルートは昭和末期の「岡山県総合流通センター」の造成により大規模流通団地となり、街道そのものが消滅したようである。街道は流通センタ―が出来て無くなったが、昔は塚山の横を通っていたという。(地元の人はそう云うという。)
 昔日の面影は辛うじて「塚山公園」に残る。
「塚山公園」はその名のとおり、古墳があった一画で、今も横穴式石室及び羨道が保存されている。
また、おそらく元位置から動かされていると思われるが、かつては大内田から早島に至る金比羅街道沿いにあったであろう題目碑と大覚大僧正碑・石灯篭なども保存されている。
また、ここには「地場大師88箇所霊場」のひとつを移設したという記念碑も建つ。
2018/12/27撮影:
向かって、左から大覚大僧正碑、題目碑、三角形状の日(不詳)、石灯篭(上部は後に落下)などが残るも、残念ながら何れも年紀は不明である。
確たることは言えないが、かっては祖師堂があったものと推定される。しかし、何時しか祖師堂は退転し、題目碑のみ残るも、その土地は造成され、塚山公園に石塔類が移設されたものと思われる。
 大内田題目碑・大覺碑     大内田大覚大僧正碑     大内田題目碑     大内田石灯篭
 塚山古墳横穴式石室

備中山田伍社明神
参考文献:
○「わたくしたちの福田」岡山市福田地区地域活性化事業実行委員会/編集、1995/03
○「わたくしたちの福田村」笠石隆秀、1983/01 より
 浄泉寺北の丘上には伍社明神があり、ここには同じ祭神を祀る二つの社殿が建ち、一つは山田村日蓮宗浄泉寺(下に掲載)が社僧で、もう一つは妹尾崎村真言宗千手寺(大内田)が社僧であったという。
妹尾崎村は妹尾戸川氏の日蓮宗改宗を拒んだ領民を妹尾村から妹尾崎村に追い出したといい、村民は数軒を除き真言宗という。それ故、伍社明神も日蓮系社殿と真言系社殿に分かれたのだという。
 (高尾厳島明神が同一の形態を取る。)
向って左が法華宗社殿、右が真言宗社殿である。
2014/06/29撮影:
 備中山田伍社明神神門:参道・鳥居は共通であるが神門から法華・真言の2系統となる。
 山田伍社明神拝殿1      山田伍社明神拝殿2
 山田伍社明神法華宗神門     山田伍社明神法華宗神門2     山田伍社明神法華宗本殿
 山田伍社明神真言宗神門     山田伍社明神真言宗本殿

備中山田題目碑
 地蔵鼻から浄泉寺に至る路脇に一基の小型の題目碑が建つ。年紀は安永7(1778)戊戌年。
2018/12/27撮影:
 備中山田題目碑1     備中山田題目碑2

備中山田浄泉寺
 山田(村)は庭瀬の南方、妹尾(村)北西にあり。
領主は複雑に変わるが、江戸期には不受不施の拠点の一つであった。
 ※寛永年中は庭瀬戸川氏領、その後幕府領、庭瀬藩領と変遷、文政6年(1823)より幕末まで幕府領。
 ※天保2年、不受不施の拠点であった山田村にて天保法難が発生する。
    →天保2年備中山田村法難
天保元年(1830)不受不施信仰が発覚し、庄屋など3人が捕縛され、江戸送りとなる。
浄泉寺では不受不施を黙認し、発覚後も村民から帰依証文を取らなかったため30日の逼塞を申し渡される。
浄泉寺は元真言宗であったが、天和3年(1683)日受によって日蓮宗に改宗すると推定される。
参考文献:
○「わたくしたちの福田」岡山市福田地区地域活性化事業実行委員会/編集、1995/03
○「わたくしたちの福田村」笠石隆秀、1983/01 より
浄泉寺
 妙法山と号する。庭瀬不変院末。
 開山年代は不詳。開祖は大教院日受上人で浄泉ともいう。浄泉は享保2年(1717)寂。天和3年(1683)の建立とされ、開祖の諱をとって浄泉坊と号するも、もとは真言宗という。戸川氏の圧力で法華宗に改宗と考えられる。
『備中誌』では、「開山不詳、寛永三年中興して造立の住坊門」とある。
現在の本堂及び薬医門は安政6年(1859)の改築による(第十五世日海上人代)。
2014/06/29撮影:
 備中山田浄泉寺山門     山田浄泉寺山門下題目碑
 山田浄泉寺本堂        山田浄泉寺本堂庫裡      山田浄泉寺歴代墓碑
石塔群4基がある。向かって左から
大覚大僧正題目碑:
 (正面)南無妙法蓮華経、(南面)天下泰平五穀盛就、(北面)大覚大僧正、(裏面)文政五壬天四月三日立(1822)
日蓮大菩薩碑:
 (正面)元祖日蓮大菩薩、 安永十辛丑歳十月十三日(1780)
題目碑(法界碑):
 是人於仏道 奉勧法千派真俗一千人/南無妙法蓮華経法界萬霊/決定有無疑 貞亨第二乙丑暦仲夏中旬三日(1685)
法華経石塔;
 奉納妙法蓮華経法師功徳品第十九(法華経第19品・法師功徳品の写経を埋めたものなのであろうか)
  の4基である。
 山田浄泉寺石塔群     山田浄泉寺大覚大僧正碑
2018/12/27撮影:
 浄泉寺山門下題目碑2     浄泉寺山門石階     山田浄泉寺本堂
 浄泉寺石塔群2      浄泉寺題目碑・大覺碑     浄泉寺日蓮碑2     浄泉寺題目碑2     浄泉寺法華経碑

備中山田のお塚:山田の隠し墓:山田(小字金場、2080-1番地)に所在

参考文献:
○「わたくしたちの福田村」笠石隆秀、1983/01 > 
  2.むかし村で起きた出来事 > 不受不施信者弾圧される(山田五人集事件) より
○現地説明板
 「お塚」には日詔上人の石碑(笠塔婆)と天保法難者の墓(笠塔婆)がある。
この石碑と墓を信者たちは「山田のお塚(山田のかくし墓)」あるいは「内信墓」として尊敬し、不受不施派の霊場として、信仰のよりどころにしているという。
 この地は道を接して南は妹尾である。捕吏がきた場合、すぐ妹尾領へ逃げ込み、逃亡に便利な地である。それ故、ここを集会の場所に選んでいたという。
 ※天保法難の墓(笠塔婆)があるというも、どれを指すのかは良く分からない。
2018/12/27撮影:
 山田のお塚・配置:Googleより:宝塔6基と新保より移転建立した五輪塔(残欠)1基がある。
 山田のお塚1:中央の大きな宝塔に日詔の花押がある。
 自證院日詔上人墓所:日詔については下に掲載。
 山田のお塚2:向かって左より宝塔6、宝塔2、宝塔4、宝塔1、宝塔2が写り、宝塔5は宝塔2の陰にあり写らない。
 宝塔1・題目碑:正面、次のように刻む。
                    南無日朗日像菩薩
  如日月光明能除諸幽冥    鬼子母神
  南無妙法蓮華経        南無日蓮大菩薩 日詔 花押
  斯人行世間能滅衆生闇    十羅刹女
                    南無大覚聖人
   題目及び日蓮大菩薩、日詔花押、日朗日像菩薩、大覚聖人 と刻む。年紀は不明。
 宝塔2・題目碑:正面、次のように刻む。年紀は不詳。
  大持国天王           大広目天王
  南無妙法蓮華経       南無日蓮大菩薩 日迅 花押      ※日迅とは不詳
  大毘沙門天王         大増長天王
 宝塔3・題目碑:正面、次のように刻む。年紀は不詳。
  一天四海皆帰妙法       一宗如法
  南無妙法蓮華経        南無日蓮大士
  如従飢國来勿遇大王膳    御先聖等
 宝塔4・題目碑・正面: 題目、日蓮大菩薩、日朗日像菩薩、大覚僧正 と刻む。
 宝塔4・題目碑・南側面:題目、日樹聖人、日述聖人、日通聖人 と刻む。
 宝塔4・題目碑・北側面:題目、日典聖人、日奥聖人、日船聖人 と刻む。
 宝塔4・題目碑・裏面: 
  高祖大聖第六百御遠忌為報恩謝/奉納妙経全部 徳建立之/明治十四年辛巳十月十三日 願主 宗氏 と刻む。
   日蓮600遠忌(明治14年)に法華経全部を奉納した宝塔を建立する。
   高祖日蓮、先師日朗・日像・大覺、日典・日奥・日船・日樹・日述・日通の各聖人の名を刻む。
 宝塔6・題目碑
  南無妙法蓮華経 と刻み 下段には次のように刻む。
    先祖代々六親眷属
    文政十三庚寅八月八日
    日蓮大士 最上院報恩信士
    随力院立信信士
    文政十三庚寅七月廿八日
    有縁無縁七世父母
 宝塔5・題目碑:正面、南無妙法蓮華経 日蓮大士 花押 とあるが、花押の主は不明、年紀も不詳
  側面には戒名があるので、信徒の墓碑とも思われる。
 五輪塔残欠:新保地区の区画整理によって、平成15年移転建立される、宣妙寺新保講社 と碑にある。
  宣妙寺は新保地区の北に位置する西古松にあり、不受不施派に属する。
 新保地区とは元備前御野郡新保村で備前藩領であった。新保村では、寛文6年金川妙國寺末本立寺及び圓住院が
 池田光政の不受不施壊滅の方策によって廃寺となる。
 おそらくは不受不施に関係する何らかの遺物であり、移建されたものであろう。
   →岡山宣妙寺<備前大供村・内田村・岡村・東古松村・西古松村中>
2019/05/11追加:
上に掲載の「宝塔4・題目碑」は備前新保に建立されるも、平成15年(2003)に、この「お塚」に移設されたことが判明する。
経緯は次の通りである。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」に次の記事と写真の掲載がある。
 『916O 日蓮の塔 岡山市新保
日蓮宗の、、、、塔なのでしょうかね?。正(面)「南無妙法蓮華経 日朗日象* 日蓮大* 大覚大僧正」、
右(「面)「南無〜経 日奥聖人 日曲聖人 日船聖人」、左(面)「南無〜経 日述聖人* 日樹聖人* 日通聖人*」、
後(面)「吾祖大聖第六百御遠忌為報恩* 奉納妙経全?部 徳建立之 明治十四年辛巳十月十三日(1881) 願主宗氏」』
 ※これは、現在山田のお塚にある「宝塔4・題目碑」の銘と全く同一内容である。
 ※日曲上人は日典上人の誤読であろう。
さらに、この「916O 日蓮の塔」のJPSデータは「34.633139 , 133.913383」であるが、少し誤差があることが判明しているので、そこからGoogleMap用に北緯・東経補正した結果「34.636299,133.910820」が得られる。
しかし、その付近をGoogleMap で探索するも、あるであろう「宝塔」が全く確認できない状態である。
これは、「916O 日蓮の塔 岡山市新保」の石塔は現地には、既に存在しないということであろう。
加えて、本サイトの掲載写真(「新保の日蓮の塔」)では、特に笠の部分の特長が「宝塔4・題目碑」に一致する。
以上から、本サイトに掲載された「916O 日蓮の塔 岡山市新保」の宝塔はここ山田のお塚の「宝塔4・題目碑」と同じものと判断できる。
それと、掲載写真(「新保の日蓮の塔」)では電柱の陰に五輪塔残欠が写る。これも、山田のお塚の五輪塔残欠と同じもののように見える。
つまりは、五輪塔残欠と「916O 日蓮の塔 岡山市新保」の宝塔はセットで山田に移建されたのであると結論づけられる。
○当初、この場所に、新保地区の区画整理によって平成15年移転建立されたのは、上記のように「五輪塔残欠」だけと思い込んでいた。しかし、改めて、2018/12/27撮影の写真を検討すると、「平成15年(2003)移転建立」されたのは「五輪塔残欠」だけではなく、「宝塔4・題目碑」も移転された宝塔であると認識を新たにするに至る。
つまり、五輪塔残欠などと宝塔4・題目碑はセットで移転されたということである。
2018/12/27撮影:
 新保よりの移転記念碑     五輪塔残欠などと移転記念碑と宝塔4     五輪塔残欠と移転記念碑と宝塔4

なお、他に山田村には、不受不施派法中一同で建立している石碑が二か所にあるという。
 一つは、お塚の北、谷合いを100mくらい登った山道のすぐそば(A)にあり、別の一つは高尾山の切り通しを西に出たところの道の北側(B)にあるという。
 ※(A)については、2018/12/27探索するも発見できず、未見。
  (B)は高尾切通西題目碑(上述)である。

自證院日詔上人<永禄12年(1569)〜元和3年(1617)>
 永禄12年(1569)備中山田1209番地、太田家に生まれる。永禄12年は信長が初めて上洛した年の翌年である。
 飯高檀林に学び、蓮成(乗)院日尊(池上13世)に師事する。字は無問、自證院と号する。学風は不受不施を継承する。
 慶長7年(1602)小西檀林第2代化主となる。
 慶長8年日尊遷化、僅か35歳で池上本門寺14世の法灯を継ぐ。
 慶長11年(1606)日詔上人代、加藤清正祖師堂を寄進する。
 なお、増上寺で諸宗の僧を集めて逝去した家康四男忠告の法要が営まれたが、日詔は出席するもただ一人布施を拒否する。
 慶長13年同じく、岡部局五重塔を寄進する。
 元和3年(1617)日詔上人遷化、池上在山15年、齢49。
 著書多く、中でも、顕性録要文、四経義要文は著名であると云われる。
  ※鎌倉比企谷常栄寺は寛文2年(1672)創建であるが、自證院日詔を開山と仰ぐ。
  また、常栄寺に設けられた法篋堂檀林(池上南谷檀林が後身)の初代林長でもある。


備中妹尾近辺諸寺:基本的には備中妹尾戸川氏の弘教(というより権力による改宗の強制)により成立し、妹尾千軒皆法華の世界となる。改宗すれば、未進の年貢を免除ということも行われたという。
  ※参考文献:「岡山・備前地域の寺」(岡山文庫195)川端定佐三郎、日本文教出版、平成10年 ほか

備中妹尾盛隆寺東題目碑群
 盛隆寺仁王門の東約300m程の街中にある。この付近は、今は住宅地になっているが、付近の水路の廻り具合をみると、かっては干拓地であり、農地であった地域と推定される。入植した法華宗徒である農民たちが、これらの題目碑を新しい干拓地に建てられたものの一つであるのだろうと思われる。
石塔群は向かって左から石灯篭、題目碑、日蓮大菩薩碑、五角石塔で構成される。
この構えから、古は祖師堂があったものと推測される。
2018/12/27撮影:
 妹尾盛隆寺東題目碑群     盛隆寺東題目碑群石灯篭:文化3丙寅(1806)年の年紀
 盛隆寺東題目碑群題目碑     盛隆寺東題目碑群日蓮大菩薩碑
 盛隆寺東題目碑群五角石塔:一面には三十番神と刻む、他の面は未確認、よってその性格は不明。
五角石塔は「社日塔」の類であろう。
村井康彦「出雲と大和」岩波新書p.244 では次のように云う。
 社日とは、社=地神をまつる春分・秋分に近い戊の日をいい、この日、五穀豊穣を祈り、収穫に感謝した。
 五つの面には基本的には天照大神/少彦名命/大己貴命/埴安媛命/倉稲魂命(蒼稲魂命、稲倉魂命)を記す。
 もし、このような社日石塔が神社境内にあれば、この社は出雲系である指標の一つとなろう。
この、盛隆寺東題目碑群中の五角石塔は以上のような社日塔の変形であろう。ここは日蓮宗の影響の強い土地柄であるので、社日塔に三十番神(他の面の神名は未確認)などの特性が見られるのであろうか。

備中妹尾盛隆寺

 → 備中妹尾盛隆寺

備中箕島村は備中高松花房氏領(備中高松妙玄寺)という。 (「戸川家系図」)
初代花房助兵衛(職秀/職之)は領内悉く日蓮宗に改宗する。
 当地には正福寺・正住寺・呑海寺の3ヶ寺が知られる。

備中箕島正福寺
元は真言宗であったが、高松花房氏により改宗する。
海母山と号す。京都石塔寺末。貞享4年(1686)海母院日玄の創建という。
2017/03/05撮影:
 正福寺山容1     正福寺山容2
 門前題目碑     正福寺山門     正福寺本堂     正福寺鐘楼     正福寺庫裡など
 正福寺番神堂?      正福寺小祠:堂名不詳
 境内日蓮600年報恩塔:600年遠忌報恩、明治11年年紀。      境内日蓮大菩薩碑
 境内日蓮550年報恩塔:550年遠忌報恩      正福寺墓地入口題目碑

備中簑島正住寺
赤松山と号する。岡山城下正福寺末(正福寺は現在上伊福にあり)。
正徳3年(1713)日圓の創立という。昭和になって正住坊を改称する。
境内には昭和晩期の比較的新しい墓碑が建ち、その頃までは僧侶が住まいしていたと思われる。ここ30年来は住職は常駐せず、通常は無人と思われる。
2017/03/05撮影:
 正住寺入口     正住寺山内     正住寺本堂兼庫裡     正住寺小祠:堂名不詳
 境内日蓮大菩薩碑     境内題目碑:宝暦10庚辰(1760)年年紀。
 境内題目記念碑:内容不詳      正住寺歴代墓碑

備中箕島の題目碑
2017/03/05撮影:
○箕島題目碑その1:正福寺・呑海寺・正住寺の3方面への分岐と思われる地点にある題目碑
 推定三寺分岐地点題目碑1     推定三寺分岐地点題目碑2:天保3壬辰(1832)年年紀。
○箕島題目碑その2:正福寺・正住寺往来にある題目碑
 ○正福寺入口付近の題目碑
 正福寺入口題目碑
 ○正福寺・正住寺往来の中間付近(樋之口)にある題目碑
 この構えから、古は祖師堂があったものと推測される。
 樋之口題目碑1     樋之口題目碑2
 樋之口題目碑3:日蓮大菩薩と刻む、文化元甲子(1804)年年紀、海母山十三祖/本堂再建立主/本慈院日朗 と刻す。
 樋之口題目碑4:大覚大僧正と刻む、天保3壬辰(1832)年紀。
 樋之口題常夜燈1:御報恩と刻む、文化3丙寅(1806)年年紀、本慈院日朗と刻す。
 樋之口題常夜燈2:文化5戊辰(1808)年年紀。
 ○正住寺入口付近の題目碑
 正住寺入口題目碑:日蓮上人550年遠忌、天保2辛卯(1831)年紀。
なお、備中箕島には、下に掲載のように、呑海寺集落の東西の入口と思われる地点にも題目碑がある。
 偶々、今回箕島の寺院を廻ったが、ごく一部の往来を通っただけで、全ての往来を通ったわけではない。それでも、呑海寺のものも含め、ここに掲載したように多くの題目碑に邂逅した訳である。したがって、今回通らなかった往来にも題目碑が建っている可能性は十分あると思われ、もしそうであるならば、さらに多くの題目碑があるのかも知れない。

備中箕島妙見堂:未見
2019/05/01追加:
〇ページ「箕島の妙見様について」に次の記事があるので、追加する。
 妹尾・箕島のむかしをたづねて(第1集)p65-66に次のような記述がある。
弘化年中(1844-48)大干ばつのため、妹尾においても大飢饉が三年間も続く。そこで、箕島の庄屋高橋太カ左衛門が能勢妙見から分体を勧請し、箕島を眼下に見下す暮石山(妙見山)に安置するという。
 戦後、堂守りとして入った十河住職が浄財を募り、お堂の補修を行い、昭和28年落慶法要を執行する。その後、この妙見堂と東隣の毘沙門堂とは箕島の名称の地として有名となり、春はツツジと共に数多くの八重桜が咲き、近郊からの参詣者も多く、縁日には大変ににぎわったという。
 昭和40年頃住職が遷化、無住となり、堂は荒廃する。昭和48年国道二号線の開通後は暮石山頂付近も荒れ果て、妙見堂・毘沙門堂は共に退転する。今は国道二号線の上に架けてある横断橋だけが無用の長物として残る。
 妙見山荒廃に伴い、妙見山にあった犬養木堂の筆跡を刻んだ「神如在(神、在スガ如シ)」の石碑とともに、水利の恩人、大橋(ママ)太カ左衛門の記念碑をも呑海寺・乗越の境の大覚大僧正宝塔の北隣のあたりの空き地に移転する。
 ※暮石山(妙見山)の位置は机上では明確にできないが、呑海寺の北東2号線を越えた附近と思われるが、どうであろうか。
 ※呑海寺・乗越の境の大覚大僧正宝塔とは下の「◇呑海寺集落東入口題目碑」のことである。

備中箕島呑海寺
開山は貞治3年(1364)京都建仁寺派の霊岳禅師による。禅宗であり、蓑島山と号したという。
慶長13年(1608)高松領主花房助兵衛(職秀/職之)によって日蓮宗に改宗される。
山号は如意山と改号する。京都石塔寺末。中興開山は日仁上人。
2017/03/05撮影:
◇呑海寺集落東入口題目碑
呑海寺集落の東側に題目碑が祀られる。
この題目碑の構えから、古は祖師堂があったものと推測される。
 呑海寺東入口題目碑1
 呑海寺東入口題目碑2:題目碑2基がある、右の小題目碑の年紀は明治28年(28の刻と思われるも不確実)の年紀。
 呑海寺東入口題目碑3:大きな題目碑は大覚大僧正と刻む。文化11甲戌(1814)年年紀。
 薬王菩薩碑: ここでいう薬王菩薩とは日蓮大菩薩と同義であるのであろう。
◇「嘉永洪水絵図」早島町教育委員会蔵(「早島町戸川家記念館」に当絵図の展示がある。)
 嘉永洪水絵図・呑海寺部分図:中央に呑海寺が描かれる。高い石垣の上に建ち、集落を見下ろす位置にある。
◇呑海寺
 呑海寺遠望
 呑海寺下常夜燈:文化9壬申(1812)年の年紀を刻む。
 呑海寺下題目碑1     呑海寺下題目碑2:大覚大僧正と刻む。      呑海寺下題目碑3:文政7甲申(1824)と刻む。
 参道登口題目碑
 呑海寺山門     呑海寺本堂1     呑海寺本堂2:19世紀初期の建築、番神堂と同時期の建築であろう。
 呑海寺玄関客殿     呑海寺庫裡等     呑海寺鐘楼
 呑海寺番神堂1:番神堂は享和3年(1803)の建築。      呑海寺番神堂2     呑海寺番神堂扁額
 呑海寺七面堂     呑海寺開山堂:開山霊岳禅師を祀る。
 境内日蓮大菩薩碑:天保15甲辰(1844)年年紀。      境内妙経奉納碑:「奉納妙経薬王菩薩本事品」と刻む。
 境内題目碑     歴代の墓碑
◇呑海寺集落西入口題目碑
呑海寺集落の西入口附近に題目碑・常夜燈・おそらく農業神などの祠・その他が集められる。
 呑海寺集落西入口題目碑1     呑海寺集落西入口題目碑2
 呑海寺集落西入口題目碑3:日蓮西菩薩550年遠忌、文政13庚寅(1830)年と刻む。
 呑海寺集落西入口題目碑4

2014/11/12追加:
備中早島村早島戸川氏領という。この地には妙法寺がある。 (「戸川家系図」)
戸川安尤は、将軍家が浄土宗であったから、浄土宗に改宗し、芝増上寺々中最上寺を菩提寺とするが、早島妙法寺も祈願所として外護する。(「備中領主戸川の時代 庭瀬・撫川・早島・帯江・妹尾の歴史」)
備中早島妙法寺:備中早島(岡山県都窪郡早島町早島)
寿永山と号する。京都石塔寺末。 開山は哲道院日唱(羽島妙忍寺開山)。
2017/03/05撮影:
 早島妙法寺山門     門前左題目碑     門前右題目碑
 早島妙法寺本堂・玄関1     早島妙法寺本堂・玄関2     玄関・客殿・庫裡:推定
 早島妙法寺日蓮上人像     早島妙法寺釈迦如来坐像     三菩薩石碑:日蓮大菩薩・日朗菩薩・日像菩薩
 早島妙法寺稲荷堂     堂名不詳拝殿     堂名不詳本殿:三十番神堂であろうか。
◎「嘉永洪水絵図」早島町教育委員会蔵(「早島町戸川家記念館」に当絵図の展示がある。複製かどうかは未確認。)
 嘉永洪水絵図・早島部分図:この部分図の中央やや右に早川戸川家陣屋が描かれ、そのやや西に妙法寺が描かれる。
水色の部分が浸水を表すのであろうが、陣屋や妙法寺の門前まで浸水し、また図の中央やや下を走る宇喜多堤上の街並みも浸水したものと思われる。
 嘉永洪水絵図・陣屋/妙法寺部分図:早島戸川家陣屋と妙法寺が描かれる。陣屋の北に達安明神が祀られ、門前に石橋(現存)や堀(西部が現存)も描かれる。
◎参考:早島戸川家陣屋跡
 参考文献
  パンフレット:「戸川家」早島戸川家記念館
  リーフレット:「早島町戸川家記念館」
妙法寺から東に少し離れて、早島戸川家陣屋があった。今は石橋と堀の一部が現存するだけである。そして跡地の一部に「早川町戸川家記念館」が建てられ、早川戸川家ゆかりの品々が展示される。
 早島戸川家陣屋絵図:江戸末期のものと推定。
 石橋と堀の遺構1     石橋と堀の遺構2     石橋と堀の遺構3
 早島戸川家家老邸1     早島戸川家家老邸2:「早島町戸川家記念館」は本屋敷を家老宅といい、江戸期の建物が残るという。上掲の「早島戸川家陣屋絵図」では「納所伊佐美屋敷」とある。

2014/11/12追加:
羽島村帯江戸川氏領という。この地には妙忍寺がある。(「戸川家系図」)
 (明治22年、江戸期からの羽島村、二日市村、加須山村、亀山村、帯高村、有城村が合併し、帯江村が発足する。)

備中羽島妙忍寺:倉敷市羽島85
窪屋郡二日市村平松(平木)家六郎右衛門盛正(寛永7年没)の室は帯江加須山の尾崎氏という。俗名は忍、加須山尾崎盛則の姉という。元和8年に没、法名は慶玉院妙忍禅定尼という。盛正の子である盛継(盛次)が妙忍寺を建立という。
また、尾崎伝右衛門重宗は盛則の弟である。
2015/09/30追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」大本山池上本門寺、1981
寛永8年(1631)頃創立。開山哲道院日唱(早島妙法寺開山)、開基檀越平松九郎右衛門盛次。開基檀越の両親の法号(至翁院休岸、慶玉院妙忍)に因み休岸山妙忍寺と号する。身延山末。
正保年中(1644-)帯江戸川家の菩提寺となる。
宝永4年(1707)帯江戸川家二代安廣、寺領を寄進する。
昭和9年山門、昭和13年妙見堂、昭和39年庫裡、平成6年現本堂新築(本堂はRC造)。
なお茶屋町に真如庵があり、ここに戸川安廣の廟所がある、昭和10年浄性庵から真如庵へ改号する。
戸川安廣は、帯江新田開墾の祖という。
正徳4年(1714)領民の願い出により、江戸玄照寺(現在は東京都世田谷区)より分骨し廟所を設立す。庵は家臣角田才兵衛の住居であったといい、角田才兵衛は分骨とともに当地に移住し生涯墓守を続けたという。
2015/09/14撮影:
 羽島妙忍寺下     羽島妙忍寺題目碑     羽島妙忍寺山門1     羽島妙忍寺山門2
 羽島妙忍寺本堂1     羽島妙忍寺本堂2     羽島妙忍寺庫裡
 羽島妙忍寺妙見堂1     羽島妙忍寺妙見堂2     羽島妙忍寺妙見堂3     羽島妙忍寺鐘楼
 羽島妙忍寺題目碑2     羽島妙忍寺題目碑3     羽島妙忍寺宝塔


備中高松近辺諸寺

備中高松近隣とは、概ね、賀陽郡大崎村・平山村・和井元村・中島村・原古才村・稲荷村・立田村・宮内村・板倉村を示す。
 大崎村・平山村:基本的には足守藩領
 和井元村・中島村・原古才村・稲荷村:旗本高松花房氏領
 立田村:元禄12年より庭瀬藩板倉氏領
 宮内村・板倉村:基本的に庭瀬藩板倉氏領、一部は吉備津神社領
本圏の日蓮宗は基本的には備中高松花房氏の弘教(末進法華)により成立したと考えられる。
  ※参考文献:「岡山・備前地域の寺」(岡山文庫195)川端定佐三郎、日本文教出版、平成10年 他

2014/11/12追加:
備中名越真城寺;岡山市北区吉備津425−2:JR吉備津駅西北の山上:板倉宿北側山中
山陽道板倉宿北側山塊(名越山の枝峯)の山上付近にある。
板倉妙見と称する。能勢型妙見像という。「備中誌」には野山妙本寺末とある。
2017/11/06追加:
〇「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
慶長8年(1603)創立。開山蓮乗院日行。奠師法縁、住職は潮師法縁。
庭瀬藩初代戸川逵安が備前備中の国境日光山に妙見堂を建立。
明治10年頃妙見尊を残して焼失。明治27年名越山中腹の5世紀頃の中級重要古墳を毀して移転再建し、妙見堂と称する。
昭和17年野山妙本寺末であった真成寺の寺号移転を図り、真成寺と寺号を公称する。
昭和35年より岡山県仏教会、日朝協会県連、在日朝鮮総連県本部らの依頼で「岡山県朝鮮人殉教者七八体慰霊供養」を始めて25年に及ぶが、現在遺骨は朝鮮仏教徒連盟大阪本山護国寺に安置されている。
 備中名越真成寺:堂宇名は不明であるが、おそらく妙見堂拝殿と思われる。
2014/11/23撮影:
現在は数年前に堂宇がすべて倒壊し、廃寺同様である。参道石階はまだ歩行可能、鳥居は半壊、廃墟の状況から、石鳥居、石灯篭、拝殿、妙見本殿、本殿石造玉垣、庫裡などがあったと思われるも、拝殿・本殿は倒壊した残滓が残る。庫裏と想定されるところにはそれらしい形跡が残るのみである。
「備中誌」(江戸後期)に記載されるので、明治維新後の新興寺院ではなく、江戸期には成立していたのは確かであろう。
現在は信仰は全く失われたものと思われ、訪れるものは誰もいず、おろらく現状のままでは数年の内に原野に帰り、藪の中に遺構を留めるだけの姿となろう。
 板倉真城寺参道山下     板倉真城寺山下寺標:「北辰妙見大菩薩安置、名越妙見山真城寺」と刻む
 真城寺参道題目碑:左の石碑は七面大天女子と刻む。
 板倉真城寺石鳥居1     板倉真城寺石鳥居2     板倉真城寺石鳥居3
 板倉真城寺石灯篭1     板倉真城寺石灯篭2
 真城寺倒壊拝殿1     真城寺倒壊拝殿2     真城寺倒壊拝殿3
 真城寺倒壊本殿1     真城寺倒壊本殿2:本殿建築はおそらく1間社流造であったと思われる。
 真城寺倒壊本殿3     真城寺倒壊本殿4     真城寺倒壊本殿5     真城寺倒壊本殿6
 真城寺倒壊本殿7     真城寺倒壊本殿8     真城寺倒壊本殿9     真城寺倒壊庫裡跡?
 真城寺放置小祠1     真城寺放置小祠1
 慈雲院日竜墓碑:境内にある唯一の墓碑である。 「昭和19年5月24日/立正大学卒 名和雲諦/行年27才」と刻む。
2015/10/05追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」 より
慶長8年(1602)創立。開山蓮乗院日行。庭瀬藩初代戸川逵安が日光山に妙見堂を建立。(※日光山とは不明)
明治初年妙見像を残して焼失。
明治28年3月名越山に移転再興。(昭和17年現在地へ移転とあるので、名越山山頂附近にあったのであろうか。)
昭和17年3月野山妙本寺末寺真城寺の寺号を名乗り、現在地へ移転、寺号を公称する。
 ※昭和17年日光山妙見堂より真成寺へ改称、現在地に移転 とも云う。
歴代:開山は蓮乗院日行、22世は進妙院(日号の記載なし)・慶応4年7月-(進妙院のとき焼失と思われる。)
23世恵厚院日正・昭和17年4月退院(現在地へ移転直後に退山と思われる。進妙院から住職は暫く不在と推測できる。)
24世慈雲院日竜・昭和19年5月24日・37才、若くして遷化、この後歴代は途絶する。
なお、隠居・留守居の5代目として恵遊院日秀が居る。明治28年遷化あるいは退院であるので名越山へ移転再興時の留守居であろう。

備中宮内題目石
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
◇246EO 地神 岡山市吉備津 題目石が見えるだけ。気配を察知して覗かないと会えない。
緯度・経度: 34.67256,133.845267 に所在
2020/04/03撮影:
ここに日蓮堂があったのかどうかは判断できない。区画を区切るので堂があったとも思われるが、区画がやや狭小である。しかしこれも、堂を撤去あるいは堂が退転した時に狭められたことも考えられる。
水路に石板を渡し、その先に題目石(日蓮大菩薩)と地神を祀る。
 宮内題目石1     宮内題目石2     宮内題目石(日蓮大菩薩)     宮内地神石
なお
直ぐ東に宮内神変堂がある。神変堂という名称からそして堂前の常夜燈には「大吉野」と刻むことから、役行者(神変大菩薩・役小角)を祀る堂であろうと思われる。近世にはこの付近の修験者がいたのかも知れない。
 備中宮内神変堂     神変堂常夜燈

備中立田常昌院
2020/02/28撮影:
○サイト:岡山県下十勝十五景二十秀>【4】 高松常昌院瀧 より
 安政2年(1855)備中庭瀬の藩(?)野崎庄兵衛なる人、妙見大師を篤く信仰し、北辰妙見大菩薩の尊號を岩上に刻し、同氏と共に日夜開運勝利を祈ること久しく、偶々明治三年五月丹波の聖人足立月祥が靈地たるを知って、領民に荒地を開拓せしめ一草庵を建立したのが草創である。
それ以後は近傍からの參拜者が多く訪れ、當時人々は妙見瀧と呼んでゐたが、越えて明治二十六年三月、月祥の遺弟、門奈日惠が甲州身延山の末寺として妙教山常昌院の寺號を請稱したという。(大意)
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
妙教山と号す、身延山末、奠師法縁。
安政4年(1857)創立、開山圓明院日禅。(大観には明治26年信濃上伊那郡長藤村より移転とある。)
2世は圓治院日恵(明治39年寂)
2020/02/28撮影画像:
大平山西の山腹に位置する。
山麓には羽柴筑前守による備中高松城水攻築堤跡があり、ごく一部の築堤が残存する。
参道の途中に細長い1基の題目石がある。年紀などは不明、刻銘は判読出来ず。
また、現在は墓地となるが、戦前には常昌院プールがあり、その雰囲気を残す。
 参考:備中高松城水攻築堤跡1     備中高松城水攻築堤跡2
 参考:備中立田地神:巨石の前に建つ。
 常昌院参道題目碑1     常昌院参道題目碑2     常昌院参道題目碑3
 常昌院本堂     常昌院本堂扁額     常昌院本堂内部     本堂前題目石:萬霊供養塔
 常昌院お瀧     お瀧題目碑など     お瀧題目碑:妙見大菩薩、安政2年年紀
 お瀧北辰妙見大菩薩碑     お瀧法華経石塔     お瀧お籠堂か
 常昌院妙見堂1     常昌院妙見堂2     常昌院妙見堂3     常昌院妙見堂4
 妙見堂建立碑:妙見堂正面木階下に建つ、安政2年建立とあるので、この妙見堂が草創の時建立された堂宇であろう。
 常昌院手水舎・鐘楼     常昌院鐘楼     常昌院歴代墓碑     開山圓明院日禅墓碑
 常昌院玄関客殿       常昌院庫裡
 常昌院プール跡:現在は墓地となる、戦前には古橋廣之進などが練習に来たという。
因みに現JR吉備線の歴史を紐解くと
昭和12年7月10日:吉備津駅 - 備中高松駅間に常昌院プール前仮停留場が開業。
同年9月1日:常昌院プール前仮停留場が廃止、という記録がある。
別のサイトではこのプールは50mプールで、日本人女性初の金メダリスト前畑秀子が泳ぎにきたという。
さらに、上掲の○サイト:岡山県下十勝十五景二十秀> には 次の山陽新報の新聞記事の掲載がある。
◇山陽新報 昭和十年十二月二十三日(月曜日)
 常昌院大プール/急設方を協議/位置徑費決定
本社選奬縣下十勝第四位の高松常昌院瀧では各種施設改善中本月八日第一回發展座談會の決議に基き天然瀧水を利用してプール急設に決定し同施設委員は町長の指名で決定し植田庄内校長の手で設計中の同豫算も決定したので十九日常昌院に大森町長以下委員有力者會合先づ位置を決定し同時にこれが總工費五千餘円の調達方法を決して施設を急ぐことゝなつた、同設計は五十米、幅員十八米と決定、全國に誇る理想的大プールを新設するに確定、引續き新設促進に努めてゐる。
◇山陽新報 昭和十一年二月八日(土曜日)
 “常昌院瀧”に/大プール愈開設/三月末竣工、水泳大會企畫
本社主催縣下景勝地投票で十勝第四位を贏ち得た高松常昌院瀧ではこれが入賞を機として名實共に縣下の絶景地として誇るべき諸施設につき擧町一致努力をなしてその第一歩として縣下に誇る大プール新設を決定したが、その財源並に諸準備中の所全く終了したので、六日午後一時庄内小學校に委員會を開き同工事を擧げて同町土木受負業青山■夫氏に受負契約を締結した、因つて直に着工來る三月末日竣工の筈で本夏はプール開きを記念するため本社の主催又は後援を得て全國水泳大會開催の計畫を進めることゝなつた。
◇山陽新報 昭和十一年五月十四日(木曜日)
 常昌院プール/竣工ちかし
本社選奬縣下十勝第二位に當選した高松常昌院瀧の記念プール新設工事は同町土木受負業青山組が受負ひ工事を急いでゐるが昨今竣工に向つたので本月末には完成すべく來月初旬竣工式を擧行すると。

備中立田御崎明神
祭神は吉備武彦という。吉備武彦は記紀に出現するといい、相変わらず記紀神話の押し付け感があるが、吉備武彦は吉備の諸豪族の祖神とも云われ、ローカル色があり、それだけが救いであろうか。
現地説明板では、創建は弘治年中(1555-58)、立田村は江戸期は庭瀬藩領であった。天正10年(1582)高松の役の時、神社は秀吉配下の堀尾
茂助の陣となり、梵鐘は陣鐘となり連打の末に壊されたという。
2020/04/03撮影:
庭瀬藩領にある社には、よほど小規模な神社を除き、鐘楼があるのが通例であり、それ故、本ページに掲載する。
 御崎明神境内図     御崎明神地神     御崎明神鐘楼     御崎明神神門

備中立田天地神尊
2020/04/03撮影:
立田御崎明神からやや離れて、緯度・経度:34.679680,133.833101 には「立田天地神尊塚」と刻む角柱と「吉備津大明神」と刻む常夜燈がある。
立田天地神尊とは地神の一種であろうか、また吉備津大明神とはこれもローカル色があり、本ページに掲載する。
 立田天地神尊

備中高松村稲荷大覚山一乗寺跡
 →備前・備中・備後大覚山一乗寺

備中稲荷大谷日蓮堂
2020/04/03撮影:
稲荷には宮谷(最上稲荷門前町)、中谷、大谷の3谷があり(大谷講中の談)、ここは大谷という。中谷・大谷は農村である。
 ※中谷・大谷については、、「備前・備中大窪越え」に掲載の大正元年地図の向かって左上にマップされている。
この日蓮堂の所在は把握しては無かったが、中谷日蓮堂から大窪越え・稲荷大覚山一乗寺跡を目指す途中で偶々発見した堂であった。
4月3日は大覚大僧正の祭日であり、講中が集まり、大覚大僧正の遺徳を偲び、看経及び茶話会を行っていた。
岡山市北区高松稲荷163、緯度・零度:34.703736, 133.839542 に所在。
 稲荷大谷日蓮堂1     稲荷大谷日蓮堂2     稲荷大谷日蓮堂3     大谷日蓮堂常夜燈
 堂内石塔類:向かって左から、題目石(地神)、題目石(日蓮大菩薩)、題目石(大覚大僧正)を祀る。
 題目石(地神)     題目石(日蓮大菩薩)     題目石(大覚大僧正)
 日蓮聖人650遠忌板塔婆:昭和6年の板塔婆である。     大谷講中幔幕

備中稲荷中谷日蓮堂
緯度・経度:34.705950, 133.835976 に所在、稲荷山妙教寺に上がる東口付近にある。
2020/04/03撮影:
稲荷には宮谷(最上稲荷門前町)、中谷、大谷の3谷があり(大谷講中の談)、ここは中谷という。中谷・大谷は農村である。
※中谷・大谷については、、「備前・備中大窪越え」に掲載の大正元年地図の向かって左上にマップされている。
 稲荷中谷日蓮堂1     稲荷中谷日蓮堂2     稲荷中谷日蓮堂3
 堂前題目石(牛頭天王)     堂前常夜燈     堂前手水石
 堂内石塔類:向かって左から、大覚大僧正、題目石、地神を祀る。
 大覚大僧正     大谷日蓮堂題目石     大谷日蓮堂地神

備中高松妙教寺(最上稲荷)
  →備中高松妙教寺(最上稲荷)

備中高松稲荷奥之院:龍王山一乗寺
 →備前・備中・備後大覚山一乗寺

備中平山新田題目石(中鉄稲荷山線事故犠牲者慰霊塔)
2020/02/28撮影:
この題目石・供養塔について、近在の人に尋ねれば、次のように云う。
ここには稲荷山線(中国鉄道)が走っていた。
この地点で人身事故(詳細は情報がなく不明)が発生した。
その犠牲者の供養のため、精霊供養塔が建てられたと聞いている。
供養塔の他に題目碑が建てられているのは、供養塔建立に際し、おそらく妙教寺(最上稲荷)が関与していたからではないかと推測される。(この推測は聞取りした人の推測という。)
岡山市北区高松稲荷477、緯度経度:34.702837, 133.833814に所在。多分小字新田に所在と思われる。
 備中平山題目石1:題目石(日蓮大菩薩)、供養塔、墓石が並ぶ。背後の道路が稲荷山線跡。
 備中平山題目石2:向かって右の道路が稲荷山線跡。
 題目石(日蓮大菩薩):年紀不明     精霊供養碑:年紀不明     澤田彦次郎墓:澤田氏が犠牲者と考えられる。
 澤田彦次郎墓年紀:年紀の部分は次の画像である程度判然とする。
 澤田彦次郎墓年紀2:明治丗六卯■閏五月十四日■(明治36年/1903、干支:癸卯)とある。
明治36年が命日とすれば、下に示すように、稲荷山線の開業は明治44年であるので、上記で」いう人身事故とは鉄道事故ではなく、建設工事中の事故であったのであろうか。だとしても、この墓碑の銘が明治36年であり開業8年前というのも工事期間が長すぎる気もするが、どうであろうか。
 参考:中國鉄道稲荷山線
明治44年(1911)に開業、昭和19年(194)1月国策により休止、同年6月中国鉄道が国有化され、同時に稲荷山線は廃止される。
稲荷(現備中高松)−稲荷山間2.4kmで営業、当初は762mm軌間であったが、のちに吉備線と直通できるよう1067mmに改軌される。
終点稲荷山駅から徒歩で中国稲荷山鋼索鉄道に連絡していた。

備中慕田日蓮堂
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
282EO 地神 岡山市平山
慕田の緑のお堂。センターに巨大な題目石。この日は祭りだったよう。近所には大日如来。
2020/02/28撮影:
緯度・経度:34.70484,133.828767 に所在。小字慕田(ぼでん?)に所在する。
丘陵地にあり、付近には人影もなく、やや離れたところに人家が疎らにある。堂は閉まっていて、正面はガラス戸であるが、カーテンが閉められ中の様子を窺うことはできない。鍵の管理者も分からず、巨大な題目石があるともいうも、今回は題目石の拝見は断念。堂の北側に大日如来石像がある。
 平山慕田日蓮堂1     平山慕田日蓮堂2     平山慕田日蓮堂3     日蓮堂北大日如来坐像
2020/04/03撮影:
講中の家を聞き出すことができ、鍵を保管している家を訪ね、参拝を依頼する。
ここ10年近く、「お祭り」は実行していないとのことであった。
 慕田日蓮堂:写真では見難いが、現在のバラック建築の堂の前方に礎石に用いたと思われる石列がある。この石列が礎石であるとすれば、かっての堂は今より一回り大きかったことをしめす。
 慕田日蓮堂内部1
 慕田日蓮堂内部2:なるほど巨大な題目石を安置、向かって左から、大覚大僧正、題目石(日蓮大士)、地神を祀る。
 大覚大僧正     題目石(日蓮大士)     慕田日蓮堂地神
 慕田日蓮堂北大日如来石造

備中和井元妙立寺・和井元龍泉寺
2014/02/16撮影;
 清涼山と号する。京都石塔寺末。
往古は天台宗でありしも、高松城主花房職秀(職之・助兵衛)により寛永年中日蓮宗に改宗。寺号は花房氏内室の法名に因る。 なお宇佐八幡より勧請した八幡神も祭祀する。
 妙立寺歴代譜によれば、開山は理性院日詮上人とある。
 備中和井元妙立寺山門     和井元妙立寺題目碑     和井元妙立寺本堂・庫裏
2014/05/06追加:K.G氏情報:
妙立寺は備中高松(※備中中島)にありしが、大正3年に大渓山龍泉寺と合併し、昭和30年に高松から和井元に移転する。
合併した龍泉寺の寺号は、現在日蓮宗最上教総本山の龍泉寺が使用している。
 ※備中龍泉寺は報恩大師開基(「報恩大師開基備前48寺」中の後段を参照)という。その後、時代は降り、江戸初頭に備中高松城主花房氏により天台宗から日蓮宗に改宗という。さらに、江戸末期に日護上人により再興され、現在の山容に至るようである。昭和26年に日蓮宗最上教派の本山を称する。本尊は最上位経王大菩薩、八代龍王、鬼子母神という。(「吉備の国寺社巡り」)
 ※妙立寺が現地・和井元に移転したのは昭和30年という。しかし、龍泉寺との合併や移転の経緯および元地(清涼閣)との関係などは依然として不明である。
2014/05/25追加:
○「岡山の地名」平凡社 より
寺山の上にある和井元妙立寺はもと天台宗で、寛永年中花房氏により改宗させられる。寺名は花房職之の内室の法名に因む。
龍泉寺は臨済宗であったが、寛永年中日蓮宗への改宗を迫れるも、従わず足守藩領の大崎村に移り遍照寺を開く。
跡地に残った弟子が日蓮宗に改宗するという。大正3年妙立寺に合併する。
 ※遍照禅寺は妙立寺の西南直線で1町ほどのところに現存する。両寺の中間は尾根であり、その尾根は和井元村(花房領)と大崎村(足守藩領)とを分ける境界である。
 ※関係する情報を総合すれば、以下のように推測される。
寛永年中妙立寺は花房氏により天台宗より日蓮宗に改宗、内室の菩提寺とする。この時の寺地は中島の現在清涼閣のあるところであるが、もともとこの地にあったのか何処からか移転してきたのかは不明。
大正3年中島妙立寺は和井元日蓮宗龍泉寺と合併(合併の理由、合併の形式などは不明)、昭和30年中島妙立寺は和井元龍泉寺の寺地に移転、もとの中島妙立寺を清涼閣とする。
なお、現在の日蓮宗最上教派本山龍泉寺と和井元龍泉寺との因果はよく分からない。
2015/10/05追加:「日蓮宗寺院大鑑」 より
妙立寺:寛永年中の創立、開山本理院日性、開基妙福院日含、開基檀越花房職之の内室(法名妙立)、花房氏により天台宗を改宗。
竜泉寺:大渓山と号し禅宗であったが、寛永年中に日蓮宗に転宗。
大正3年中島妙立寺、和井元竜泉寺を合併。
昭和30年妙立寺は中島から和井元に移転。竜泉寺の寺号のみ下足守に移す。(これが現在の最上教本山竜泉寺である。)
なお、寛文6年備前長野長宝寺が廃寺となりし時、長宝寺の「釈迦高祖十羅刹女、賀夜郡和井元村龍泉寺預」という。
 →長野長宝寺は備前津高郡横尾村・長野村
2020/02/28情報:
 「妙立寺」について、妙教寺奥之院(一乗寺)住職に教えを乞う。住職の談は次の通り。
高松は元は中島といった。その中島に今ある清涼閣が元の中島妙立寺である。
大正3年中島妙立寺は和井元龍泉寺と合併する。
昭和30年中島妙立寺は中島から和井元に移転する。中島に残った堂宇を清涼閣とする。龍泉寺の寺号は下足守に移し、それが現在の最上稲荷教本山龍泉寺(下足守)である。
 ※明治20頃の「日蓮宗寺院取調帳」京都妙覚寺蔵という資料を住職から頂く。
その資料によれば、その当時の檀家数が分かり、備中高松村中島妙立寺の檀家数は僅か12、同じく高松村竜泉寺のそれは83である。竜泉寺は何とか維持できる数であるが、中島妙立寺は非常に維持が難しい数字である。
ここからはs_minagaの推測であるが、住職の援用する論理から推し量るに、中島妙立寺は経済的に困窮し、それ故和井元竜泉寺と合併したものと推測される。この推論が正しいとすれば、中島妙立寺は和井元竜泉寺に吸収合併されたというのが実態であろう。

備中和井元日蓮堂
2020/02/28撮影:
岡山市北区和井元244、緯度経度:34.700339, 133.824791 に所在
向かって左から題目石(大覺大僧正)、題目石(日蓮大菩薩)、題目石(奉首題千部成就)の3基が安置される。
かつては、日蓮堂があったのであろうが、今は吹き放ちの覆屋(但し屋根瓦葺き)となったのであろうか。
 和井元日蓮堂1     和井元日蓮堂2     和井元日蓮堂3
 和井元日蓮堂4:背後の丘陵は龍王山で南麓に最上稲荷、山頂に奥之院(一乗寺)、西麓に龍泉寺がある。
 題目石(大覺大僧正)1     題目石(大覺大僧正)2
 題目石(大覺大僧正)3:文政六癸未星霜月三日(1823)と刻む。
 題目石(日蓮大菩薩)1     題目石(日蓮大菩薩)2
 題目石(日蓮大菩薩)3:文政六癸未年三月十五日(1823)と刻む。
 題目石(奉首題千部成就)1     題目石(奉首題千部成就)2
 刻銘がまず判読できないので、画像をかなり修正したものが次である。
 題目石(奉首題千部成就)3:一部判読できないが、次のように判断できる。
        ■■三■亥歳
   南無妙法蓮華経 奉首題千部成就 講中
        ■月■■■
※「■■三■亥歳」については「■暦三■亥歳」あるいは「■暦五■亥歳」とも判読できる。
もし、「■暦五■亥歳」であれば、それは「宝暦五乙亥歳」(1755)ということになるが、どうであろうか。

備中和井元池神塔・不明塔
緯度・経度:34.697661, 133.823561 に所在する。
2020/04/03撮影:
池神塔1基と判読できない宝塔1基がある。
 和井元池神塔・不明塔1     和井元池神塔・不明塔2
なお、同じ敷地内でやや離れて北端に亡霊のような「陸軍特別大演習記念碑」が建っている。

備中平山平山神社
地図上では平山神社とあるので、現今は平山神社というのであろう。
緯度・経度:34.697937, 133.829060 に所在。
Web・現地・岡山県神社庁に全く情報がなく、由緒など全く分からない。
この近辺(庭瀬藩領とその周囲か)の神社は鐘楼を具備し、この社も鐘楼があるので掲載する。
 平山神社常夜燈:寛政8年(1796)の年紀がある。     平山神社社殿
 平山神社鐘楼1     平山神社鐘楼2
 平山神社梵鐘:銘の一部に「昭和29年15号台風にて潰えたり、昭和38年梵鐘を鋳造し、楼を再興す。」とあり、未確認であるが、今次の侵略戦争によって鐘は供出されてものと思われる、そしてその再鋳は昭和38年に果たされたものと思われる。

備中中島妙玄寺
2020/02/28現地を再訪、堂宇が平成30年再興されたことを知る。
再興堂宇については、下に掲載の2020/02/28撮影の項を参照。
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 ※妙玄寺は星友寺東にある(あった)。・・・2014/02/16不覚にも実見せず。
旗本(備中高松を知行)花房氏の菩提寺で、境内には開祖花房職之ほかの墓がある。
四条妙顕寺末。花房職秀(職之・助兵衛)により改宗。
現在この地には堂宇はなく、「清水宗治自刃の地」の供養塔のみ建つようである。
堂宇の取り壊された妙玄寺は岡山市北区高松稲荷798?に堂宇を移すかあるいはいわば寓居していると思われる。
(現在、妙玄寺の堂宇はなく、住職は備中妙経寺・高松稲荷に住居すると云う。)
 〇「岡山・備前地域の寺院」岡山文庫195、平成10年 より転載:
  備中中島妙玄寺:星友寺東隣に堂宇のあったころの写真と推定される。荒廃が進んでいるように見える。
2014/03/02追加:「A」氏(岡山模型店DAN)情報:
 妙玄寺の堂宇は、2009年9月頃までは存在していた。その頃に竜田川の築堤上の道路から視認する。
「岡山・備前地域の寺院」からの転載写真のお堂に間違いない。シートで屋根が覆われていた様子である。
その半年後くらいに再訪したときには、建物は跡形もなくなっていた。腐朽して危険なので壊すと云う。

2017/11/06追加:
〇「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
開山は唯心院日忠、開基檀越花房助兵衛。天正10年天台宗より改宗。
 備中中島妙玄寺2
 備中中島妙玄寺3:妙玄寺境内・堂宇:上図の左辺部を切り取ったもの。
2014/05/03追加:
「備中高松城水攻めの史跡を歩く」 より転載(部分図・一部改変)
 高松城址
下方に三ノ丸があるが、ここに東から妙玄寺、星友寺、妙見大菩薩、清涼閣が並ぶ。
本図によれば妙玄寺には4宇ある。これは上掲の写真「備中中島妙玄寺」と対応する。
但し、図中の西南の一宇は写っていないようである。
 (参考)花房職秀(職之・助兵衛):
宇喜多直家家臣、その後主君宇喜多秀家と対立する。関ヶ原では家康に与し、旗本(寄合)として備中高松に8220石の知行を得る。高松花房家は高松原古才に陣屋(知行所)を置く。
高松妙玄寺が墓所。
2代目職則は弟・榊原職直(もとなお)に1000石を分与し、以後、高松花房家は7220石となる。
 花房職秀(職之・助兵衛):「岡山の宗教」岡山文庫51、長光徳和、昭和48年 より転載
  :写真に写る「元和三年二月十一日」は職之の命日である。
2014/04/26撮影;
妙玄寺の堂宇は取り払われ、堂宇の礎石、墓石、バラックの庫裡?、石柱などが辛うじて残る。
 妙玄寺石柱:花房家菩提所/清水宗治自刃の地 とある。
 妙玄寺跡地:かなり広い空地となる。左のバラックは上掲 図の「高松城址」中で西南にある一宇であろうか。
 妙玄寺推定本堂跡1     妙玄寺推定本堂跡2:礎石及び椽縁石、RC製階段が遺存する。
 妙玄寺古墓石:推定本堂跡の東及び東南にはいくつかの古墓石が残る。花房家の墓所というので、墓石があるはずであるが、墓石の銘が浅く判読できず、これらの墓石が誰のものかは分からない。写真はこれらの古墓石の一部である。
 妙玄寺石塔:推定本堂跡の西北に上掲の備中高松妙玄寺の中で小覆屋が写るが、この石塔の覆屋であったと推定される。石塔及び石造基壇が残る。基壇の上には地覆材(木材)も残るがこれはどうしたことであろうか。
石塔屋根の架す六角(八角ではないと思われる)柱正面には「我見燈明佛本光瑞如此」と刻むが、
これは「妙法蓮華経 序品第一」の一節である。
 ※読み下しは「われ燈明仏を見たてまつりしに 本の光瑞はかくの如し」
他の面にも文字が刻まれていると思われるも確認を怠り、これも不明であり、本石塔が何であるかは分からない。
2014/05/25追加:
○「岡山の地名」平凡社 より
慶長5年花房氏の開基、花房氏の菩提寺、初代職之ほかの墓がある。清水宗治自刃の碑は100年後の法要の時花房氏が建立する。また同氏が建立した東照権現堂があったが現在はない。
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2020/02/28撮影:
一時伽藍は全て退転し更地となるも、平成30年再建がなり、本堂・客殿・庫裡が落慶(境内の石碑)、境内が整備される。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
高松山と号する。四条妙顕寺末。
開山唯心院日忠、開基檀越花房助兵衛、天正10年天台宗から改宗。
○境内案内板 より
境内には次の趣旨の新しい案内板が建つ。
 高松山妙玄寺
慶長5年(1600)高松知行所領主花房職之(もとゆき)により花房家菩提寺として建立される。
そしてこの場所は備中高松城々主清水宗治の自刃の地という。菩提寺建立にあたり、職之は清水宗治供養のため、「高松院殿清鏡宗心大居士」の位牌を祀るといい、歴代住職によって供養される。昭和38年には供養塔が建立される。
また、職之は法華宗徒であり、強権を以って領内の寺院を法華宗に改宗するとともに、戰で荒廃した稲荷山妙教寺の再興に尽力する。そのような由縁から、現在妙玄寺は最上稲荷高松城支院」と称する。
なお、かっては備中高松城の守護神として祀られた妙見大菩薩は、職之によって妙玄寺に遷され、現在は妙教寺妙見堂に祀られる。
2020/02/28撮影画像:
 再建妙玄寺伽藍     妙玄寺本堂1     妙玄寺本堂2     妙玄寺玄関客殿庫裏
 本堂前再建記念碑:新しい石碑である。大意は次のように云う。当寺は花房家菩提寺であるも、廟所及び堂宇の護持管理は妙教寺住職に託す。妙教寺住職は当寺の瓦解を憂いて庫裡を建立、堂宇の補修修繕を重ね維持を図るも、経年により堂宇は劣化毀損す。この度各方面の支援により再建が成就し、兵栖30年本堂・客殿・庫裡を落慶す。
 妙玄寺手水石     花房家歴代・住職墓碑1     花房家歴代・住職墓碑2
 清水宗治自刃の地     清水宗治供養塔
2024/10/04追加:
 備前金川祖山妙覺寺梵鐘は次のように変遷する。
京都法勝寺末寺備前金剛寺梵鐘(建長4年鋳造)→応永34年(1427)備前肩背郷徳王寺に移る→天正10年豊臣秀吉高松城水攻めに使用→高松城跡の田から耕作中に発見される→備中高松妙玄寺に納められる→領主花房氏が保有→明治38年備前金川祖山妙覺寺の所有となる。
 

備中中島星友寺
2014/02/16撮影:
 恵雲山と号す。京都石塔寺末。
寛永年中(1624-44)都蔵院日運上人開基、寺名は宇喜多直家の法名(恵雲院天徳星友居士)による。
 もとは平山村(高松の東)にあったが、寛永年中に領主花房氏(旗本寄合)が日蓮宗に改宗し、旧主君宇喜多直家の供養のため現在地に遷すという。故に山号・寺号ともに直家の法号に因む。そして、花房職之(職秀・助兵衛)夫婦の妙玄寺と妙立寺を星友寺の両脇に建立する。
 備中中島星友寺山門     備中中島星友寺本堂1     備中中島星友寺本堂2
  2014/04/26撮影:備中高松星友寺
西隣には星友寺妙見宮がある。
妙見は明治の始めに勧請し、妙見宮は明治12年建立と云う。本尊の妙見は所謂能勢型の坐像と云う。
 星友寺妙見題目碑     星友寺妙見拝殿     星友寺妙見拝殿本殿     星友寺妙見本殿
2020/02/28撮影:
 星友寺入口題目石(日蓮大士):清涼閣角にある。550御遠忌(天保2年<1831>)/當山22世唯我院日要代 と刻む。日要は星友寺14世で天保10年寂。
 星友寺門前石碑:奉納(?)妙法蓮華経信解品第四と刻む。
 星友寺山門     星友寺本堂     星友寺本堂2:妙玄寺境内から撮影
 星友寺妙見大菩薩
 妙見大菩薩前題目石:大正7年年紀     妙見大菩薩拝殿     妙見大菩薩扁額     妙見大菩薩本殿

備中中島清涼閣(備中中島妙立寺)
2020/02/28再訪:
清涼閣は中島妙立寺の故地である。
大正3年中島妙立寺は和井元龍泉寺と合併する。
昭和30年中島妙立寺は中島から和井元に移転する。中島に残った堂宇を清涼閣とする。龍泉寺の寺号は下足守に移し、それが現在の最上稲荷教本山龍泉寺(下足守)である。
2014/02/16撮影:
 備中高松清涼閣題目碑     備中高松清涼閣
○「岡山の石仏」岡山文庫、巌津政右衛門、昭和58年 より
 妙立寺の題目塔
題目の下に蓮華座に坐す日蓮の像を線刻する。永禄4年(1561)辛酉・・」「為三念逆修」と刻む。
高松城三の丸跡の妙立寺にある小型の塔であると云うから、星友寺の西にある妙立寺にあるのであろう。
永禄4年といえば、妙立寺の改宗以前の年号であり、この地には大覚大僧正などの教化が既に及んでいたのであろうか。
 備中妙立寺題目塔
2014/04/26撮影:
 備中妙立寺題目碑2:清涼閣の入口付近に多くの墓碑とともにある。<上記の題目塔と同一のものである。>
題目碑としては珍しく日蓮像を線刻するが、この線刻は文英石仏に酷似する。しかし題目を刻み、真言や浄土系と思われる文英の石仏とは異にするものと思われるが、この題目碑の石工は文英及び文英の同調者の流れを汲むものかも知れない。まさにその銘の永禄4年は文英石仏の流行した後期にあたるのである。
 →備中大崎廃寺中に文英石仏の掲載あり。
2020/02/28撮影:
 清涼閣(中島妙立寺)題目石:日蓮大士と妙法蓮華経譬諭品第三
 清涼閣(中島妙立寺)題目石:日蓮大士、明治元年の年紀・清涼山14世代と刻む。清涼山は中島妙立寺の山号で14世は靈應院日猛である。
 清涼閣(中島妙立寺)題目石:奉納妙法蓮華経譬諭品第三と刻む。
 清涼閣(中島妙立寺)     清涼閣扁額

備中中島日蓮堂(備中高松日蓮堂)
備中の高松は以前は中島と称する。明治3年中島村は高松村と改称する。
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
279EO 地神祭 岡山市高松 高松の古い辻。立派な注連縄なんでフレームから外してます。石が写らないんで。
2020/02/28撮影:
地神(地神祭)と題目石2基(日蓮大菩薩と大覚大僧正)がある。そして、日蓮堂の扁額を掲げる吹き放ちの簡単な覆屋がある。この覆屋は日蓮堂が退転し、再建された時簡略化されたものであろう。
岡山市北区高松169(緯度経度:34.688112, 133.821474)に所在。
 中島日蓮堂1     中島日蓮堂2     中島日蓮堂扁額     中島日蓮堂石塔類
 題目石(日蓮大菩薩):側面に、安永七戌天(1778・戊戌)十月十三日 の年紀を彫る。
さらに、別側面に、當山十三世遠壽院日通代建之 と彫る。
 ※遠壽院日通は星友寺13世である。寂年は不明であるが、12世日運は明和8年(1771)寂、14世日要は天保10年(1839)寂であり、時代的に矛盾はない。
 題目石(大覚大僧正):両側面に「天下泰平五穀豊穣」、「後五百歳・・・」と彫る。
背面に年紀があるがはっきりとは読み取れない。が、おそらく「文政7年」(1824)のように読み取れる。
 地神(地神祭):地神であるが、地神祭と刻するのは珍しい。

備中中島稼屋題目石・・・・・稼屋は「こなしや」と読む。
備中中島村稼屋、緯度経度:34.6894,133.818137 に所在する。
サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」には、地神 とのみあり、地神の写真の掲載のみがある。
2020/02/28撮影:
現地には題目石(日蓮大菩薩)と地神の2基が露座で立つ。
小さい空地に立つので、おそらくは堂があったものと推定されるが、確認した訳ではない。
 稼屋題目石・地神:GoogleMapより
 稼屋題目石・地神
 稼屋題目石(高祖)1     稼屋題目石(高祖)2:享保16辛亥(1731)載・・・載は年の意
 稼屋題目石(高祖)3:昭和3年再興とある。     稼屋地神

備中原古才日蓮堂
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
・284BEO 牛頭天王 岡山市高松 原古才
高松原古才町。「牛頭天、王」天の字に点。社日は、牛頭天王3月3日と9月3日。題目石、石燈など沢山。堅牢地神と書いた地神塔がある。
緯度・経度:34.68306,133.823797 に所在。
2020/04/03撮影:
 おそらく祖師堂があったのであろうが、現在はスレート屋根・トタン囲いの堂があり、向かって左から牛頭天王、堅牢地神塔、題目石(日蓮大士)、大覚大僧正、総堂御崎殿、常夜燈が安置される。
堂は、原古才の陣屋(現在では必ずしもその範囲は素人には明確ではないが)のすぐ東にあったものと推測される。
 原古才日蓮堂     原古才日蓮堂石塔類     掲示板(祭神・祭日)     原古才日蓮堂石塔類2
 日蓮堂牛頭天王     日蓮堂堅牢地神塔:奉勧請堅牢地神鎮座と刻する。天保2年(1831)年紀。
 題目石(日蓮大士)1
 題目石(日蓮大士)2:文政4年(1821)年紀、佛住山は岡山蓮昌寺、41世亮心院日照(文政12年寂)。
 大覚大僧正1     大覚大僧正2:天保二年(辛卯)年紀。
 総堂御崎殿:上記の「掲示板(祭神・祭日)」に従えば、総堂御崎殿なる祠である。
 常夜燈(稲荷大明神)     常夜燈(稲荷大明神)2:文化14年(1817)年紀、側面には梵天帝釈天と刻む。
 日蓮堂の西の辻には道標がある。
 原古才道標:(北)いなり/足守/惣社道、(東)吉備津宮/にわせ/松の山道 とある。(但し松の山は誤読の可能性あり。)、年紀は文久2年(1862)。

備中原古才蓮福寺
蓮福寺は八幡山地蔵院と号し、本尊は剣地蔵権現という。原古才に所在。
元は和井元八幡山にありしが、領主花房氏が江戸中期に陣屋のある原古才に移す。
花房氏により日蓮宗に改宗されたともいうが、現在は真言宗御室派であり、このあたりの事情は不明。
門内に文英石仏(石碑1体、石仏1体)があるという。
2020/02/28撮影:
備中和井元村蓮福寺の縁起によれば、本尊地蔵菩薩は元長野長宝寺の尊像で、伯耆大山権現と同木同作の地蔵菩薩で根来覚鑁の作という。初め備前竜ノ口の北にある高山の山腹に飛来、次いで長野に移るという。その後この地蔵は蓮福寺の本尊として祀られるという。 →長野長宝寺は備前津高郡横尾村・長野村
 地蔵院本堂
2020/04/03撮影:
 地蔵院全容     地蔵院山門標     地蔵院本堂
 厳島弁財天石碑:中央に「厳島弁財天」、左下に「本願文英書」、右下に「天文十六年丁未三月日」と僧文英の名と年紀を刻む。文永の名と年紀を刻む稀有の例であろうか。
  2020/06/12追加:
  ○岡山文庫「岡山の石仏」巌津政右衛門、日本文教出版、昭和58年 より
   銘は次の通り。
        本願文英書
      厳島弁財天
        天文十六年丁未三月 日
 春光延命地蔵:春光延命地蔵と云うらしいが、その由来は分からない、惜しむらくは顎から上が欠損している。


備中賀陽郡大井村、日近村、上足守村、下足守村など
上記の足守近隣の村々は、基本的に足守藩領であった。

備中最上教本山龍泉寺:下足守
○「日蓮宗大観」西村慈b 編、大正7年 より
龍泉寺 足守町下足守
岡山(ママ・京か)石塔寺末、平
大渓山と号す。開山日言上人、創立元和7辛酉年2月。明治5年日護上人教田を開き、同22年4月成る。境内に霞渓瀑布あり。
 ※天台宗あるいは禅宗(転宗して禅宗になった可能性もある)から日蓮宗に改宗したのが元和7年(1621)で、その時の住持が日言であったということであろう。
○「足守の歴史」池田克己、足守歴史同好会、平成7年 より
最上教本山龍泉寺
昭和26年日蓮宗最上教派の本山となり、山号を大最上山と号す。
 ※報恩大師の創建、山岳信仰、龍王の雨乞い信仰、農耕神としての稲荷信仰・・・・云々の記述があるが、それはそのまま、龍泉寺のHPに引き移されている。
 現在の龍泉寺を再興大成したのは中興開山と云われる日護(明治35年、88歳で寂)で、本土王裏に大きな御廟がある。今なお、日蓮宗と稲荷信仰が一体となった神仏混在の佛が主体となった祈祷の寺として、県下のみならず全国各地に熱心な信者が多数いる。
○「岡山県の地名 日本歴史地名大系34」平凡社、1988 より
龍王山西中腹の龍泉寺は大正3年和井元龍泉寺が中島妙立寺に合併するのに伴い、当地に寺基を移したもの。
○2020/02/28撮影:
天平勝宝年中(749-757)報恩大師が創建すると伝える。
龍王山の西麓にあり、おそらくは、古くは磐座信仰の山として信仰され、また報恩大師創建の修験の道場として栄え、さらに雨乞いの龍神として、また稲荷大明神を農耕神として祀る民間信仰の山であったものと思われる。
現在の龍泉寺の基は明治初期に承進院日護が築き、現在の山容は日護が信徒とともに作ったものという。
明治22年大渓山龍泉寺を継承する。(龍泉寺のHP)
 ※和井元妙立寺の項にでは、次のように述べる。
 現在の和井元妙立寺の寺地は臨済宗大渓山龍泉寺があったが、寛永年中花房氏により改宗させられる。
 この時、従わなかった僧・信徒は足守藩領大崎に遁れ、遍照寺を開く。
 大正3年中島妙立寺は和井元龍泉寺と合併する。(龍泉寺HPでは明治22年和井元龍泉寺を継承という。)
 昭和30年中島妙立寺、中島から和井元に移転し、現在の和井元妙立寺となる。
昭和26年日蓮宗最上教の本山となる。
最上位経王大菩薩、八大龍王、鬼子母神・三面大黒天を祀る。
 備中龍泉寺境内      備中龍泉寺本殿前     龍泉寺本殿前ご宝塔
 備中龍泉寺拝殿1     備中龍泉寺拝殿2     備中龍泉寺拝殿3
 備中龍泉寺拝殿4     備中龍泉寺拝殿5
 備中龍泉寺本殿1     備中龍泉寺本殿2
 備中龍泉寺開山堂     備中龍泉寺廟所1     備中龍泉寺廟所2     備中龍泉寺廟所3
 備中龍泉寺祖師堂     備中龍泉寺鐘楼      備中龍泉寺鬼子母神
 龍泉寺龍王池・八大龍王     龍泉寺八大龍王1     龍泉寺八大龍王2
 龍泉寺身代り地蔵1     龍泉寺身代り地蔵2
 龍泉寺御瀧1     龍泉寺御瀧2     龍泉寺御瀧3     龍泉寺御瀧4     龍泉寺御瀧5
 龍泉寺御瀧本殿1     龍泉寺御瀧本殿2
御瀧のお宝塔
 龍泉寺お宝塔11    龍泉寺お宝塔12    龍泉寺お宝塔13    龍泉寺お宝塔14    龍泉寺お宝塔15
 龍泉寺お宝塔16    龍泉寺お宝塔17    龍泉寺お宝塔18    龍泉寺お宝塔19
龍泉寺本殿周囲のお宝塔
 龍泉寺お宝塔20    龍泉寺お宝塔21    龍泉寺お宝塔22    龍泉寺お宝塔23    龍泉寺お宝塔24
 龍泉寺お宝塔25    龍泉寺お宝塔26    龍泉寺お宝塔27    龍泉寺お宝塔28
龍泉寺八大竜王のお宝塔
 龍泉寺お宝塔29    龍泉寺お宝塔30    龍泉寺お宝塔31
龍泉寺身代り地蔵のお宝塔
 龍泉寺お宝塔32    龍泉寺お宝塔33    龍泉寺お宝塔34    龍泉寺お宝塔35


都宇郡津寺村・加茂村・惣爪村・新庄上村・新庄下村
 新庄村:現在の新庄上である。旗本花房領、貞享4年(1687)旗本花房職重の次男職豊が1000石を分知され、新庄村は分村され、新庄下村は花房職豊領となり、中村(後に新庄上村)は花房本領となる。
 新庄下村:上記の通り、新庄村から分村され、1000石で貞享4年分知された花房職豊領領となる。その後さらに花房氏の分知があるが、これらは割愛する。
 津寺村:口碑では古代都宇郡の寺があった故に津寺村という。高松花房領であったが、元和2年(1617)花房職之の遺領の内、次男職直に分知され、花房職直(後に榊原氏と称す)領となる。不受不施派の拠点津寺庵があったと思われるが、その消息は全く知れず。
 加茂村:高松花房領であったが、元和2年花房(榊原)職直に遺領が分知され、高松花房領と榊原領とに分割統治される。
 惣爪村:当初は庭瀬戸川氏領、次いで庭瀬板倉領、元禄以降は幕府領と変遷する。

備中東加茂題目石
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
243EBO 堅牢地神尊 岡山市加茂 東加茂 東加茂公会堂の隣の積み上げた石の上。牛神も。
2020/04/03撮影:
緯度・経度:34.67373,133.833857 に所在。
東加茂公会堂に接してある。真偽は未確認であるが、おそらくはこの公会堂は東加茂日蓮堂の後身であると思われる。
だとすれば、ここに日蓮堂があったのであろう。但し、日蓮・大覚・地神と揃うが常夜燈を欠くのはやや気がかりではあるが、常夜燈は失われたのかもしれない。
 東加茂推定日蓮堂跡1     東加茂推定日蓮堂跡2     東加茂推定日蓮堂跡3
向かって左から、堅牢地神・題目石(日蓮大菩薩)・題目石(大覚大僧正)・牛神を祀る。
 東加茂堅牢寺神     題目石(日蓮大菩薩):600年遠忌報恩であるので、明治14年建立か。
 題目石(大覚大僧正)     東加茂牛神

2014/11/12追加:2019/07/03追加修正:
備中加茂高畠題目石
緯度・経度:34.672017, 133.834636 に所在する。(加茂小字高畠あるいは高畑に所在)
大小2基の題目碑が山陽道に面して建つ。大は角柱で、小は駒形である。
2014/11/23撮影:
板倉宿を西に抜けてすぐにある。道路(山陽道)北にあるので加茂高畠にあるのであろう、南は惣爪である。
角柱題目石は日蓮上人五百五十遠忌<天保2年(1831)>と刻む。板碑題目石は彫が浅く、詳細は判読できない。
 加茂高畠角柱題目石:背後が駒形題目碑である。     加茂高畠駒形題目石
2020/04/03撮影:
 加茂高畠題目石2基

備中加茂政所不受不施白川門流日題派供養塔
 (岡山市北区加茂政所)
  → 不受不施白川門流日題派

備中加茂政所題目石
上記の「備中加茂政所不受不施白川門流日題派供養塔」が建つ墓地は近年まで「葬式施設」があったようである。
その葬式施設は日題派供養塔の建つ南側にあり、その様子は2015年2月のGoogleMap(StreetVier)で見ることができる。
 備中加茂政所墓地葬式施設:GoogleMap:向かって右側に題目石・石蓮台・石経机(石御供机)などが写り、明らかに葬式施設と思われる。左側にも何かの施設が写るが、おそらくこれも葬式施設の一環と思われるも、不明である。
なお、現在この施設は撤去され、日題派供養塔の南にあった題目石は北側に移設されている。
 備中加茂政所題目石:題目以外にも文字が刻されるも、判読はできない。

備中加茂加茂大明神
○「岡山県神社庁」には次のように云う。
 由緒 本神社の創建年月日、勧請年暦は不詳であるが、京都加茂神社を勧請したと、古老の口碑に伝えている。
備中誌所載の神社で、日蓮宗蓮休寺が攝していた。
明治初年神主の攝に入った時から、宮守として寮住尼をおき所?等に当らせて今日に至った。
梵鐘に「鐘銘加茂明神弘化四年別当寺、日蓮宗法意山蓮休寺ニアリ」と明記している。
攝社に天満神社、幸利神社があり加茂三社宮と称した。
 ※別當連休寺は下に掲載
2020/04/03撮影:
 加茂大明神全景     加茂大明神扁額     加茂大明神鐘楼
 加茂大明神梵鐘:おそらく今次侵略戦争で供出されたのであろう、昭和56年の再鋳であろうか、上記の梵鐘の銘の刻は無いと思われる。

備中加茂政所薬師堂題目石
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
◇232EBD 地神 岡山市加茂 近代的な御堂。烏帽子をのっけた地神である。
2020/04/03撮影:
緯度・経度:34.67934,133.825857 に所在。
付近で畑作業の年配の人に聞けば、次のように云う。
 子供の頃は薬師寺とかお薬師さんといっていた。お堂があり遊んでいた。何を祀っていたのかは知らない。由緒も知らない。山陽自動車道の建設の時、お薬師さんの敷地は道路用地となり、山陽自動車道南側に新築された。
それ故、RC造の堂が建立されたのであろう。
政所薬師堂境内に常夜燈、題目石(日蓮大菩薩)、地神、牛神が置かれる。
なお、この地政所は不受不施白川門流日題派の拠点の一つであった。
 加茂政所薬師堂全景     加茂政所薬師堂1     加茂政所薬師堂2
 政所薬師堂石塔類     常夜燈・題目石:常夜燈の年紀は弘化3年(1846)と思われる。
 題目石(日蓮大菩薩):文化10年(1813)年紀     地神・牛神

備中加茂西加茂題目石
加茂蓮休寺の北西2町ほどの辻にある。文化12年(1815)年紀。女講中と刻む。常夜燈1基がある。
 西加茂題目石
なお、この碑の傍らに小さい記念碑があり、そこには、平成5年にこの題目石が移転された云々のことが記されている様子もある。何れにしろ未確認なので、詳細は分からない。
2020/04/03撮影:
 西加茂題目石2     題目石移建記念碑

2014/11/12追加:
備中加茂蓮休寺:(岡山市北区加茂)
法意山と号する。京都石塔寺末。
往古は天台宗という。
慶長年中、花房助兵衛職之により改宗、寶明院日然の開基と伝える。
加茂村加茂明神の社僧でもあった。
 加茂:慶長5年(1600)の関ヶ原戦後、旗本備中高松花房領となり、元和3年(1617)花房(榊原)職直が父より1000石を分知される。その結果、加茂村は分割統治され、加茂村2300余石のうち、時代により多少増減はあるが、高松花房領は1500石余、榊原領は800石余の見当であった。
2014/11/23撮影:
 加茂蓮休寺門前     加茂蓮休寺山門;右の題目碑の年紀は明和元年(1764)
 加茂蓮休寺本堂     蓮休寺本堂内部     加茂蓮休寺庫裡     加茂蓮休寺番神堂
2020/04/03撮影:
 加茂蓮林寺山門     門前題目石(法界):明和元年(1764)年紀
 門前題目石(法華経):化城喩品第七と刻む。     加茂蓮林寺本堂     加茂蓮林寺本堂扁額

なお、加茂に正八幡宮があり妙見菩薩を祀るという。
備中惣爪正八幡宮:東惣爪
江戸期の加茂村には該当すると思われる正八幡宮の存在が確認できない。近代の加茂村の範囲では、惣爪(東惣爪・惣爪は近代では加茂村)に正八幡がある。
しかし、境内にはいくつかの小祠があるが妙見堂はない。本殿に合祀されているのであろうか。
八幡宮東には信教庵(小宇)があり、堂内には妙見菩薩と推定される仏像が安置される。この妙見菩薩を云うのであろうか。
 (正八幡妙見は能勢型木像との情報があり、この妙見菩薩は能勢型ではない。)
なお、この八幡宮には八幡大菩薩に相応しく鐘楼・梵鐘を残す。門前もしくは本殿・東門の東付近に別當があった可能性は高いと思われるも、未調査。
2020/02/26追加:
惣爪八幡宮について「岡山神社庁」のページでは次のように記す。
 由緒
本神社は正八幡宮と尊称し産土神である。慶長十年八月脇本甚太夫正久は石清水八幡宮を勧請したという。その後村内の日蓮宗信城寺の僧が祭祀を行ったが、明治五年六月より神主を補し、神事を行った。爾来産土神として崇敬が篤い。
 ※近世は日蓮宗庭瀬信城寺の僧が祭祀するという。それは明治維新の神仏分離の処置で廃されたという。
社僧がいたというより、庭瀬信城寺が別當であったというべきであろうか。
2014/11/23撮影:
 惣爪正八幡宮正門:棟門      惣爪正八幡宮鐘楼・拝殿
 惣爪正八幡宮鐘楼:梵鐘の銘は「延喜○年の鐘であったが、大東亜戦争で供出、昭和26年再鋳」云々の旨を記す。
 惣爪正八幡宮拝殿     惣爪正八幡宮本殿     惣爪正八幡宮東門:この東門を出たところに信教庵がある。
2020/04/03撮影:
境内に地神・牛神が祀られる。この地域の例に漏れず鐘楼があり梵鐘を具備する。
 惣爪正八幡宮牛神:背後に写る堂は信教庵である。     惣爪正八幡宮神門
 惣爪正八幡宮地神:天保9年(1838)の年紀     惣爪正八幡宮鐘楼     惣爪正八幡宮東門

備中惣爪信教庵:正八幡宮東に隣接する。
ここに八幡宮別當(宮寺)があったのかも知れない。それはここに、やや狭いが屋敷跡とも思われる更地があるからである。その更地の一画に信教庵 (一宇の小堂である)がある。
信教庵とは全く不詳であるが、宮寺が取り壊され、その遺物を納めるため、建てられた庵であるのかもしれない。
信教庵(小宇の小堂)には一塔二尊像、日蓮上人像、尊名が良く分からないが妙見菩薩(あるいは帝釈天など?)、仁王像、尊名不明の数体の仏像、位牌3対(尼僧か)などが祀られる。
これから判断するに明らかに日蓮宗本堂に安置される本尊で信教庵は日蓮宗寺院の後裔である可能性が高い。
であるならば、信教庵は正八幡宮の別當というより、付近で廃寺となった日蓮宗寺院の後裔であるのかも知れない。
2014/11/23撮影:
 惣爪信教庵     惣爪信教庵諸仏1     惣爪信教庵諸仏2
 惣爪信教庵一塔二尊     信教庵日蓮上人坐像1     信教庵日蓮上人坐像2
 信教庵妙見大菩薩:尊名に確信はないが、妙見大菩薩像と思われる。
2020/04/03撮影:
ここは屋敷跡とも思われる小公園があり、その一画・八幡宮東門を出たところに信教庵(小宇)がある。
付近に人はいなく、唯一聞取りを試した人に尋ねるも「信教庵については全く知らない」とのことであり、已然として由緒は不明である。
前回は宮寺があったかも知れないという推測を述べたが、宮寺と云うより日蓮宗の小庵があったものと推測される。
小庵はいつしか無住となり、庵は老朽化し、おそらく戦後に、現在の信教庵の堂が建てられ、本尊などが祀られたのではないだろうか。
 信教庵堂宇     信教庵安置仏1     信教庵安置仏2     信教庵安置仏3
向かって左から、法尼坐像・日蓮上人坐像・一塔二尊・鬼子母神立像・尊名不明坐像が祀られる。
 信教庵法尼坐像:信教庵開基法尼であろう、本像の前に本照院妙善日心法尼・松月院妙眞法尼・龍玄院妙榮法尼の3つの法尼の位牌が並ぶ、いずれが開基した法尼であるかは分からない。
 信教庵日蓮上人坐像     信教庵一塔二尊
 信教庵鬼子母神立像:妙見大菩薩ではなく、鬼子母神であろう。     信教庵尊名不明坐像

2014/11/12追加:
備中津寺宗蓮寺:(岡山市北区津寺)
都宇山と号する。京都石塔寺末。寺は奠師法縁、住職は潮師法縁。
創建年代不詳、往古は天台宗という。
慶長5年(1600)花房助兵衛職之により改宗、圓立院日伊により開山。花房氏の庇護を受ける。
なお、寺蔵の毘沙門天立像は鎌倉末期から室町初期の造立と指定されるが、胎内の天文2年(1533)の修理銘によれば、もとは石井山吉祥寺の安置仏であったという。
  →石井山吉祥寺は報恩大師開基・備前四十八ヵ寺のbR吉乗山石井寺を参照
 津寺;津寺とは口伝によれば、古代都宇郡の郡寺がこの地にあったので津寺というという。
津寺村は近世初頭には花房氏(職秀)領、その後花房氏2代目職則は弟・榊原職直(もとなお)に1000石を分与、職直は先給分を合わせ1800石(後には2500石)を領する。陣屋は津寺三本木に構え、以降幕末まで津寺は榊原氏(花房氏)領であった。
2014/11/23撮影:
 津寺宗蓮寺山門;ごく近年に造替されたようである。      山門前題目碑
 津寺宗蓮寺本堂1    津寺宗蓮寺本堂2    宗蓮寺本堂内部    津寺宗蓮寺庫裡     津寺宗蓮寺番神堂
2018/09/15追加:
報恩大師開基備前48ヶ寺>3.吉乗山石井寺 を参照
 毘沙門天立像「天文2年(1533)修理胎内銘札
 旧石井寺毘沙門天立像1     旧石井寺毘沙門天立像2:毎年2月第2日曜に開帳するという。
2023/09/15追加:
 ○「岡山の日蓮法華」 より
  旧石井寺毘沙門天立像3
2019/07/17追加:
〇「京山物語」郷土史「京山物語」編集委員 高原忠敏、平成15年(2003) より
寛永11年法曼荼羅:備中津寺宗蓮寺蔵
 宗蓮寺には寛永11年(1634)備前國石井寺大行院日酒が佐渡国法華棟梁参拝時に授与された、六行に簡略化された法曼荼羅が所持されている。上記毘沙門天立像とともに、石井寺の廃寺の前後に宗蓮寺に移されたものと思われる。
(「仏像法存修理報告書」岡山市史迹調査団、昭和53年」)
 ※「六行に簡略化された法曼荼羅」とは資料が皆無で不明。
 ※「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 にも記載はなし。
2020/04/03撮影:
 津寺宗蓮寺山門     津寺宗蓮寺本堂     津寺宗蓮寺玄関・庫裡     津寺宗蓮寺番神堂

備中津寺黒住日蓮堂
黒住集落東入口の辻に日蓮堂と扁額を掲げる小宇がある。詳細は不詳。
堂宇の内部に題目碑を安置する形式の祖師堂である。
2014/11/23撮影:
 津寺黒住日蓮堂
 黒住日蓮堂内部:日蓮上人500年遠忌(天明2年1782年頃)題目碑、日朗・日像・大覚碑、大覚大僧正碑、地神が祀られる。

備中津寺黒住妙見宮
黒住日蓮堂のすぐ北側・黒住集落の奥まった微高地に小宇が建つ。詳細は不詳。
2014/11/23撮影:
 津寺黒住妙見堂     黒住妙見堂内部:能勢型木像を安置という。

津寺及び日差(日指)
不受不施派の津寺庵は津寺村に、同じく日指庵は日指山に庵室を構えていたものと推定される。
 参照:不受不施派の分裂と動向
 ※不受不施派の津寺庵及び日指庵の位置は明解にし難いが、津寺庵は備中都宇郡津寺村、日指庵は備中日差山付近に存在したものと推定される。


備中新庄ほか庚申山
この山は古代磐座であったと推定される。
そして、ここには何時しか、積善寺が建立され、栄えていたという。
しかし、天正10年(1582)備中高松城水攻めの時、毛利方吉川元春が本陣を構え、羽柴勢との戦闘があり、積善寺は焼失。退転する。
江戸期に入り、次項の「山根本隆寺」で記述するように、
「元禄4年(1691)頃から本隆寺7世圓林坊日正は寺北方の三尾山山頂の岩崎を買い取り、ここにあった積善寺跡に鎮守として梵天・帝釈・鬼子母神堂を建立、特にこの鎮守の庚申際は18世紀以降この地域の信仰を集め、現在に至る。」
という。
なお、ここにも毘沙門天摩崖仏がある。
日差山の毘沙門天立像と同じ様式の像で大きさも近似するが、こちらの方が時代を少し下るという。
本毘沙門天像を造立する(彫る)時、新庄村と赤濱村が境界争いを起したと思われ、結局は花房家・木下家が仲介に入り、巖(岩)を共有にしたものと思われる。
銘: 別當 一乗山本隆寺 長良山妙徳寺 とある。
2020/04/03撮影:
 新庄庚申山遠望:向かって左から、降臨岩上の宝塔(石塔)、大梵天本殿・幣殿・拝殿、その下は大帝釈天王本殿・拝殿・絵馬堂であり、右端は鬼子母神拝殿・本殿である。
 庚申山南登山口     南登山口題目石:延享4丁卯年(1747)の年紀、明治7年再興。
 南登山口大鳥居:扁額は大梵天帝釈とある。寛延2己巳年(1749)の年紀。
 庚申山南参道     南参道常夜燈:多くの同型と思われる常夜燈がある、部品を欠くものも多い。
 庚申山通夜堂跡1     庚申山通夜堂跡2
 帝釈天絵馬堂1     帝釈天絵馬堂2:割拝殿の形式の絵馬堂である。     帝釈天絵馬堂3
 帝釈天拝殿・幣殿・本殿     帝釈天社殿見下ろし
 帝釈天拝殿     帝釈天幣殿1     帝釈天幣殿2
 帝釈天本殿・梵天・鐘楼:向かって左帝釈天本殿・中央上梵天・右端鐘楼
 帝釈天本殿
 庚申山本光院1     庚申山本光院2
 ※本光院:「北長瀬物語」所収資料:六祖日寿、元亀元年(1570)津寺西加茂に末寺本光院設立・開山。
 16世日領代、宝暦11年(1761)本光院焼失、明和元年(1764)おそらく庚申山に本光院再建、寺号を現在も庚申山に残す。
 帝釈天からの遠望
 庚申山鐘楼1     庚申山鐘楼2     庚申山梵鐘1
 庚申山梵鐘2:梵鐘は元禄年中領主花房氏の寄進、大日本帝国の今次侵略戦争で供出、昭和23年再鋳、別當は本隆寺。
 庚申山茶堂
 鬼子母神への石階     鬼子母神拝殿     鬼子母神本殿1     鬼子母神本殿2
 大梵天石階常夜燈:多くの常夜燈が寄進されている。     大梵天への石階
 大梵天岩上宝塔・本殿・幣殿・拝殿:向かって左から左記のように並ぶ、岩上宝塔は樹木に隠れている。
 大梵天拝殿前柱石・常夜燈:方柱石は題目と大梵帝釈天御威光増益と刻す、弘化3年(1846)年紀、
  常夜燈は安永8年(1779)年紀。
 大梵天拝殿
 大梵天拝殿天井1     大梵天拝殿天井2     大梵天拝殿天井3     大梵天拝殿天井4
 大梵天幣殿1     大梵天幣殿2
 大梵天本殿
 大梵天からの眺望
 題目岩(大梵天背後)1     題目岩(大梵天背後)2:上に写るのが降臨岩上の宝塔である。
 題目石(大梵天背後)銘:延宝9年(1681)年紀:次のように刻む。(「北長瀬物語」所収資料 より)
   南無大梵天王  延寶九葵丑十二月廿日
  南無妙法蓮華経
   南無帝釈天王  施主 富村住 西田氏
なを、この巖(岩)は花房領(新庄村)・木下領(高塚村)・蒔田領(赤濱村)の境界である。巖の東南が新庄村、北東が高塚村、西が赤濱村である。
 降臨岩上の宝塔1     降臨岩上の宝塔2
適当な手持ち写真がないので、次の3点は他のサイトから転載する。
 降臨岩上の宝塔3     降臨岩上の宝塔4     降臨岩上の宝塔5
  宝塔の銘は次のように刻む。(「北長瀬物語」所収資料 より)
   正面(南)       背面(北)
    多寶如来        寛政九年丁己/八月吉 建(寛政9年は1797)
    妙法蓮華経       石工 
    釈迦如来        泉州貝掛住/里山源兵衛橘範安(里山厳兵橘範安)
 毘沙門天立像拝殿
 毘沙門天立像1     毘沙門天立像2
 毘沙門天立像銘:御身體 別當 一乗山本隆寺/法敬山妙徳寺 などとある。なお、境界の刻字があるというが未確認。
 境界の刻字は「縦線があり、その右に赤濱村、左に新庄村」と刻するという。
 庚申山山頂高燈籠:奉燈 新庄下千足 明治27年4月・・と刻むと思われる。頂部の宝珠は角柱の題目石が置かれる。
 山頂高燈籠頂部1     山頂高燈籠頂部2:はっきりしないが、角柱が置かれ題目を刻むと思われる。
 庚申山妙見大菩薩1     庚申山妙見大菩薩2
 庚申山明星天子

備中新庄上山根本隆寺
一乗山と号す。
○「日本歴史地名大系 34 岡山県の地名」平凡社、1988 より
江戸期の縁起や由来書では、嘉吉2年1442)京都本能寺日隆が当地に留錫し、新庄村長老川上道蓮・江本蓮光を始め全村民を改宗・受法させ、その外護で草堂を仮営したのが草創という。
一方、天保10年(1839)14世日紹・総代らの連署した本隆寺由来書(本能寺文書)では享徳元年(1452)の草創という。本隆寺は室町後期以降、讃岐宇多津本妙寺と両山一寺の制を採り、本妙寺も日隆により嘉吉2年に開創され・享徳元年には本妙寺の寺号を日隆から授与されている。
つまり、本隆寺における近世文書の嘉吉・享徳の二つの開創説は、宇多津本妙寺の寺伝と対比する時、嘉吉は開庵の時、享徳は本隆寺という寺号を授与され、寺院として寺観を整えたときと推測されるのである。
日隆没後の経営は日隆弟子日學(本隆寺2祖)が京から下り、寺院の経営に当たるという。
 ※「北長瀬物語」所収資料:二祖日學、末寺岩崎山法泉寺、赤濱法敬山妙徳寺を開基。
 応仁元年(1467)「備州本隆寺・讃州本妙寺」宛ての「法度13条」(本能寺文書・本妙寺文書)が京都本能寺貫首日明・尼崎本興寺貫首日輿によって定められる。この時点で、両山一寺の制を採っていた京都本能寺尼崎本興寺を本山とし、それをまねて本隆寺・本妙寺も両山一寺の制を敷くものとなる。両寺とも寺基が安定したことが推測される。
 ※讃岐宇多津本妙寺は讃岐の諸寺中にある。
それ以降、本隆寺の動向ははっきりしないが、寛永10年(1633)本能寺が幕府の提出した末寺帳には備中唯一の直末として挙げられている。
 ※「北長瀬物語」所収資料:六祖日寿、元亀元年(1570)津寺西加茂に末寺本光院設立・開山。
  十六世日領代、宝暦11年(1761)本光院焼失、明和元年(1764)おそらく庚申山に本光院再建、寺号は現在も庚申山に残す。
 なお、「吉備国史」などの近世の地誌は「往古積善寺の跡へ寛永年中建立、・・・寺僧偽りて日隆を開山とす」とあるが、これは当時の領主花房氏が日蓮宗を領内寺院に強制した寛永17年以降説をとるものであるが、これは当たらない。
ただ、元禄4年(1691)頃から本隆寺7世日正は寺北方の三尾山山頂の岩崎を買い取り、ここにあった積善寺跡に鎮守として梵天・帝釈・鬼子母神堂を建立、特にこの鎮守の庚申際は18世紀以降この地域の信仰を集め、現在に至る。
 近世の寺領は10石、寺格は中本山、塔頭は法泉寺・本妙寺・了運院・本光坊があったが、昭和27年本隆寺に合併する。
  ※法泉寺:本隆寺山門の説明板に「当山末寺である法泉寺の鎌倉日秀が(原古才花房陣屋の西門)を譲り受け、
   移転した。」「日秀はその功によって本隆寺29世に挙げられる。」とある。
  ※法泉寺:「北長瀬物語」所収資料:
   庚申山毘沙門天像を造立する(彫る)時、新庄村と赤濱村が境界争いを起したと思われ、
   結局は領主である花房家・木下家が仲介に入り、巖(岩)を共有にしたものと思われる。
   毘沙門天像の銘: 別當 一乗山本隆寺 長良山妙徳寺 とある。(上の庚申山に掲載)
  ※本光坊:情報は皆無であるが、庚申山帝釈天の西に本光院なる建物が残り、これが該当するのかも知れない。
  ※本光院:「北長瀬物語」所収資料:六祖日寿、元亀元年(1570)津寺西加茂に末寺本光院設立・開山。
  十六世日領代、宝暦11年(1761)本光院焼失、明和元年(1764)おそらく庚申山に本光院再建、寺号を庚申山に残す。
2020/04/03撮影:
山門:もとは原古才にあったもので、花房高松知行所の西門であった。明治9年ころ、移建される。
慶長年中以降花房陣屋(6200石余)の西門であった。鬼瓦には花房家三っ雁金の紋が彫られているという。
 山根本隆寺山門     本隆寺門前題目石     山根本隆寺築地
 山根本隆寺本堂1     山根本隆寺本堂2     本隆寺玄関・庫裡1     本隆寺玄関・庫裡2
 本隆寺聖隆殿
 本隆寺三十番神堂     三十番神・拝殿     三十番神・本殿     三十番神横題目石2基
 本隆寺歴代墓碑     宝塔(宗祖日蓮大士)(開基日隆大聖人)     第二祖常住院日學聖人墓碑
 本山日憲・日演墓碑:日憲は両本山48世忍定院日憲、日演は両本山60世慈運院日演と思われるも不詳、また本隆寺との関係も不詳
 題目石(■■講中):詳細は不明
なお、
北に位置する賀陽郡・窪屋郡に法華宗(本門流・日隆門流)の寺院が多く存在する。
現在確認できる寺院は次の通りである。
備中賀陽郡・窪屋郡法華本門流寺院
一致派の寺院は皆無で全て本門流(本能寺・本興寺末)の寺院である。
妙徳寺(法敬山) 備中窪屋郡赤浜村(岡山県総社市赤浜984)
 二祖日學開基、庚申山上の毘沙門天立像の別當である。但し、新庄の本隆寺も別當であるので、両寺が並立する。
 なお、庚申山上の毘沙門天立像の別當刻銘では山号を「長良山」とする。
新福寺 備中賀陽郡田中村(岡山市北区高松田中317)
 元は禅宗井山宝福寺末で、雪舟山と号し雪舟の庵室の跡という、永禄6年(1563)日蓮宗に改宗という。
三仙寺(三井山) 備中賀陽郡下足守村(岡山市北区下足守2026)
 三泉寺ともつくる。永禄4年(1561)禅宗より日蓮宗へ改宗。
乗典寺(瑞喜山) 備中賀陽郡上足守村(岡山市北区足守932)
東光寺(妙喜山) 備中賀陽郡上足守村(岡山市北区足守918)
 弘治3年(1557)建立、寛永15年移転。元禅宗井山宝福寺末、信原土佐守喜元帰依し再建。
善修寺(佛性山) 備中賀陽郡日近村(岡山市北区日近791)
 日近修理進の城内にあった文殊坊なる山伏が前身といい、福武家が大檀越。
覚乗寺 備中賀陽郡日近村(岡山市北区日近1220)
法昌寺(如意山) 備中賀陽郡粟井村(岡山市北区粟井1495−1)
 康正年中(1455-57)道奥道仁の開基といい、天正年中長門氏の日蓮宗帰依とともに日蓮宗となる。
本乗寺(道本山) 備中賀陽郡山内村(岡山市北区東山内1243)
 永禄元年(1558)日養が開山、のち慶長年中粟井村亀石城主土師刑部少輔が開基する。
妙円寺(浄泉山) 備中賀陽郡山内村(岡山市北区東山内1555、緯度・経度:34.783720, 133.788380)
 慶長の頃日乗の開山という。
妙本寺(浄慶山) 備中賀陽郡河原村(岡山市北区河原1355)
 河原王子権現の社僧である。
正福寺(正満山) 備中賀陽郡山の上村(岡山市北区山上3010)
 十二本木山上の権現社は大山智明権現を勧請したといい、正福寺は正覚寺(天台)とともに社僧を勤める。

備中新庄上山根日蓮堂
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
◇635ed 地神 岡山市新庄上
山根 脇道を覗くと立派なお堂。その前庭に背の高い題目石と並んで立っている。
2020/04/03撮影:
緯度・経度: 34.67943,133.804137 に所在。
 山根日蓮堂1     山根日蓮堂2     山根日蓮堂内部1     山根日蓮堂内部2
 題目石(法界)     山根日蓮堂地神
 山根日蓮堂行燈:日隆大聖人と書す、山根は日隆門流(本門流・八品派)本隆寺の膝元である。
山根日蓮堂の角は変形三叉路であり、1基の道標が建つ。
 山根三叉路道標1:右板くら宿     山根三叉路道標2:左かう志ん■■道

備中新庄上新池題目石
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
◇631eo 地神 岡山市新庄上
新池 新池公会堂の前庭に、題目、大覚、地神。題目の横には「文政八(1825)年?」。
2020/04/03撮影:
緯度・経度:34.67251,133.796887 に所在。
新池公会堂の前横に宝塔は置かれる。背後に置かれているのであれば、新池公会堂が日蓮堂であった可能性は非常に高いが、前横なので、日蓮堂であったかどうかは不明である。
 新池公会堂1     新池公会堂2     公会堂と宝塔     新池公会堂宝塔1     新池公会堂宝塔2
 題目石(日蓮大菩薩):文政八乙酉年の年紀がある。     大覚大僧正:明治21年の年紀
 新池公会堂地神

備中新庄下向場日蓮堂
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
・632eo 地神 岡山市新庄下 向場
蒼い公民館に石灯籠が立派で目に付くが、地神は表からは見えない。向場。
2020/04/03撮影:
岡山市北区新庄下2227、緯度・経度:34.672361, 133.807489 に所在。
向場公民館:現在は蒼からベージュに塗り替えられている。元は日蓮堂であったものと思われる。
堂背後に題目石(日蓮/日隆)、地神が祀られる。新庄下は本門流本隆寺の影響下にあるのであろう、題目石には日蓮と並ばて日隆(大上人)の名を刻す。
堂は施錠され入れない。
 向場公民館(日蓮堂)     向場公民棺常夜燈1     向場公民館常夜燈2:安政二歳乙卯の年紀/1855
 向場日蓮堂背面1     向場日蓮堂背面2     背面題目石・地神1     背面題目石・地神2
 題目石(日蓮・日隆)1     題目石(日蓮・日隆)2     向場日蓮堂地神

備中新庄下千足日蓮堂
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
◇636eoq 地神 岡山市新庄下 新庄下。一見古い公民館。建物を回り込むと、左から、地神、題目、疫神がならんでいる。
2020/04/03撮影:
緯度・経度:34.66931,133.802937 に所在。
堂背後に地神・題目石(法界)・疫神が安置される。堂は施錠され入れない。
 千足日蓮堂1     千足日蓮堂2     千足日蓮堂背面1     千足日蓮堂背面2
 題目石(法界)1     題目石(法界)2
 千足日蓮堂地神1     千足日蓮堂地神2     千足日蓮堂疫神1     千足日蓮堂疫神2

備中造山古墳
 備中造山古墳1     備中造山古墳2     備中造山古墳3     備中造山古墳4

備中新庄下造山南題目石(仮称)
題目石(法界):寛政10戌午大歳10月建 講中、と 南無脚気地蔵尊(小祠)が建つ。(「歴史の道調査報告書 山陽道」)
山陽道を東に約200mいけば、「新庄下旧山陽道道標」がある。緯度・経度:34.669941, 133.804842 に所在。
 造山南題目石:山陽道に面して、題目石と小祠が建つ、背後は造山古墳
 造山南題目石2     造山南題目石3:寛政10戌午の年紀

備中新庄下旧山陽道道標
江田にあると思われる(不確実)。山陽道が東西に通じ、北方の帝釈天(庚申山)<上に掲載>から南方の毘沙門天(日差山)<下に掲載>へ至る南北道が交差する地点に、この道標がある。緯度・経度:34.669365, 133.806363。
高さは1.4mほど、嘉永三庚戌三月建 とあり 従是毘沙門天13丁 従是北帝釈天15丁 とある。(「歴史の道調査報告書 山陽道」)嘉永3年は1850年。
 従是北帝釈天15丁     従是毘沙門天13丁     嘉永三庚戌三月建

都宇郡東庄村、上庄村、山地村、矢部村、日畑村西組・東組
 下庄村:東庄村に南にある。近世の支配関係は複雑であった。一時的には庭瀬藩領・旗本撫川戸川氏領であったともいう。

高野山真言宗宝福寺は元宝性寺であったが、明治22年上東の靈福寺を合わせ改称する。宝性寺は日指山宗徒の坊中で見松坊といいしが、寛永13年戸川氏内心帰依にて領分の寺々を日蓮宗に改められし時、其の命の応ぜず日差山を去りてここに移るという。
 東庄村:北は上庄、南は下庄村である。近世の支配関係は複雑であるが、慶長5年以降庭瀬藩戸川達安領となり、その後戸川氏は分知を繰り返し、それに従い各戸川家に分割される。戸川氏改易の後は、庭瀬久世氏領、旗本早川戸川氏、帯江早川氏領となる。
 上庄村:東庄村の北にある。慶長年中庭瀬藩主戸川氏が村民を日蓮宗に改宗、正徳年中には幕府領で以降幕末に至る。
 山地村:日差山の南麓にある。慶長5年庭瀬戸川氏領となる。その後は幕府領・遠江浜松藩領などとなる。
 矢部村:日差山の北東に位置する。慶長5年庭瀬戸川氏領となる。その後幕府領・庭瀬板倉氏領を経て幕末に至る。
 日畑村:矢部村・西尾村の東にある。慶長5年庭瀬戸川氏領となる。その後、板倉氏領及び旗本戸川氏領に分有され、以降種々の変遷を経て幕末に至る。

備中日畑浄安寺:倉敷市日畑
鷲林山と号する。庭瀬不変院末寺、奠師法縁。
元は天台宗であったが、慶長年中領主戸川氏により法華宗に改宗、今日に至る。開山は城用院日相。
平成14年本堂老朽化のため造替す。
なお、何れも至近距離に次の遺跡がある。即ち、北方に足守川を渡れば惣爪塔心礎、南西には楯築遺跡、南方には王墓山古墳・尼寺廃寺跡(日畑廃寺)、南東には日幡城跡がある。
2014/11/23撮影:
 浄安寺正面     浄安寺全景     正面題目碑     浄安寺本堂     浄安寺本堂内部
 浄安寺鐘楼     浄安寺番神堂     浄安寺大覚大僧正碑     浄安寺からの眺望:洗心門よりの眺望
20202/04/03撮影:
 浄安寺山門跡     山門跡題目石(日蓮大菩薩)
 大覚大僧正:文化15年(1818)銘     題目石((法華経):勧持品第十三
 浄安寺番神堂     浄安寺本堂     浄安寺鐘楼
参考:
 楯築遺跡     法伝山古墳

備中日畑地神
浄安寺から楯築遺跡に至る途中にある。緯度・経度:34.662639, 133.827397 に所在。
 日畑地神1     日畑地神2:地神・水神が並んで建つ。

備中山地妙見宮
五本松峠西方に山地妙見宮があり「受法寺の境外仏堂か?」という情報がある。<未見>但し明治年中の勧請という。
○2020/06/04電話での聞取り
 電話にて、山地受法寺住職に聞取り。次のようにご教示頂く。
妙見宮については近隣で数人に聞取りをするも、だれも知らず、従って、既に退転かと思っていた。
しかし、妙見宮は現存する。
妙法寺と号していた。大正年中の創建。尼僧が住持していた。
今から40数年前、現地が向陽団地として宅地開発される。開発業者はお寺の跡ということで、妙見宮は団地の中に残すこととなる。受法寺が別當であった。
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○2020/04/03未訪問のため、GoogleMapsの写真を転載する。
 山地妙見宮現況:東の建物は地区の集会所であろうか。石垣を組み鳥居・本殿がある。
 山寺妙見宮境内:鳥居・本殿・常夜燈・題目石(刻銘は不鮮明であるが、字体から題目を刻んでいるものと思われる。
○今昔マップ より
 明治28年地図:山地妙見宮附近には何の建物も表示されていない。
 大正14年地図:一本松・二本松の地名があり、新道が開通し、新道峠の西のピークに鳥居マークと建物が表示される。大正14年には妙見宮(妙法寺)が創建されていた。
 昭和42年地図:既に、峠の西のピークの鳥居マークと建物の表示は消えている。

備中山地若宮神社
2020/04/03撮影:
「岡山県神社庁」のページでは、「由緒  当社の創建年月は不詳である。この地は古くから日蓮宗の寺院が多い。 」とのみある。
祭神は大雀命(仁徳)とあるが、国家神道の改竄であろう。
受法寺の北にある。石階下、鳥居の横に、題目石・地神・牛神が並ぶ。
題目石は辛うじて題目だけが判別できるが、その他の銘は判読できず、したがってこの題目石の性格は不明。
○現地説明板には次のようにある。
慶長年中戸川肥後守領の時、山地村を日蓮宗に改宗したが、この時上東に八幡社を分祀したという。
別當は山地受法寺である。鐘銘に「店名6年別當妙信山受法寺日明、取立内田定六」とある。(昭和19年今次大戦で供出)
随身門、鐘楼、拝殿、釣殿、本殿がある。
 なお、鐘楼は未見、また受法寺ご住職は梵鐘が供出されたことは否定される。
 山地若宮社鳥居・随身門     山地若宮社題目石・地神・牛神     山地若宮社題目石

備中山地受法寺:倉敷市山地
妙信山と号する。庭瀬不変院末。
「備中誌」では妹尾盛隆寺末、もと日差山衆徒の寺坊(下の補足参照)なりしが、領主戸川氏が改宗せしめ、寛永2年(1625)慈眼坊日定が中興なり、或は真珠院日領の中興とも、尼僧妙信の中興ともいう。
また、近世には北方1町にある若宮社(八幡大菩薩)別當であった。 →下の補足:日差山日差寺を参照
 (以上「観光案内 倉敷(総集編・後編)」昭和54年 より)
この地(都宇郡山地村)は、慶長年中には庭瀬戸川氏領であり、山地村みな法華宗に改宗せしむという。幕末は天領で倉敷代官所支配であったという。
2014/11/23撮影:
 山地村東端題目碑:受法寺東参詣道と箕島-高松往来(岡山県道73号)との交点にある。年紀不詳。
 受法寺東参詣道題目碑:受法寺東参詣道の途中にある。年紀不詳。
 受法寺門前・南題目碑:受法寺山門南直前にある。あるいは古はここから受法寺境内であったのか。年紀不詳。
 受法寺山門・門前     門前題目碑1:年紀不詳      門前題目碑2:高祖600年遠忌
 受法寺本堂・庫裏
 境内題目碑・歴代;向かって左端は「南無日朝大聖人」碑      受法寺境内題目碑     受法寺歴代墓碑
2020/04/03撮影:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
大観には延宝7年(1679)の創立、開山日領」とある。1世は真珠院日領、延宝7年寂。
○2020/06/04電話での聞取り
 電話にて、山地受法寺住職に聞取り。次のようにご教示頂く。
受法寺は慶長年中戸川肥後守の改宗の後、山地村の数ヶ寺と合併させられる。その理由は年貢が払えなかったからである。
下に掲載の「割岩の宝塔様」の北側2町程のところに数ヶ寺あったが合併という。
 ※推測するに、日差山の坊舎の内、西安坊(西南坊)、受法坊は改宗して山地村に移転すと云うから、少なくとも西安坊が山地村にあったものと思われる。西安坊が合併した寺の1寺であったかもしれない。
近年、歴代の墓碑は整備した。(これが境内東にある歴代墓碑であろう。)
西側にある題目石の當山第四世妙賢院日承は歴代ではなく、これは良く分からない、墓碑にある戒名は歴代ではないが、当山の住僧であった可能性もあるが、これも良く分からない。(推測するに合併した寺院から移設されてものかも知れないが、ご住職は肯定はされない。)
2020/04/03撮影:
受法寺は日差山の宗徒であったが戸川氏により改宗させられる。
なお近世、北にある若宮社の別當であった。また五本峠妙見宮別當でもあった。
参詣途中にある、2014年撮影の山地村東端題目石、東参道題目石は健在であった。
 受法寺門前南題目石2:この石も健在であった。
 受法寺全景:2014年には写る門前題目石1及題目石2は撤去され、この写真には写らないが、向かって左に移設される。
 受法寺山門     旧門前題目石     旧門前題目石1     旧門前題目石2
 境内西題目石等1
 境内西題目石等2:向かって右より題目石(日朝)・(法華経)・(日蓮大菩薩)・(妙實・大覺大僧正)が並ぶ。
 境内西題目石(日朝大聖人)     境内西題目石(法華経):側面に奉唱題目五十部と刻する。
 境内西題目石(日蓮大菩薩):側面に450遠忌と刻する。とすれば貞享2年(1685)のものでかなり古いものである。
 境内西題目石(妙實):年紀は不明、大覺大僧正ではなく妙實と刻む珍しいものである。
 境内西墓碑など:向かって左から無縫塔2基・墓碑2基・題目石1基(下に写真を掲載)が並ぶ。
無縫塔の自明院、墓碑にある大慈院日室、遠失院日榮は「日蓮宗寺院大鑑」の歴代になし。また上記の題目石(日蓮大菩薩)側面には當山第四世妙賢院日承と刻むが妙賢院も歴代になし。
 境内西題目石(提婆達多品第十二)
 境内東歴代墓碑1:向かって左から、智丈院日満(11世)、通妙院日逞(9世)(無縫塔)、義天院日明(7世)、開山真珠院日領など、通善院日立(6世)である。
 境内東歴代墓碑2:左から、開山真珠院日領など、通善院日立(6世)、浄心院日敬(8世)、榮丈院日久(10世)である。
 境内東歴代墓碑3:左から、龍玄院日亮(14世)、本専院日登(13世)、智丈院日満(11世)である。
 境内東歴代墓碑4:左から、15世慈譲院日教、16世證妙院日勇、17世延妙院日啓である。
なお、開山真珠院日領などの六角柱の墓碑は、正面に真珠院日領、その左側面には2世陽雲院日定及び3世元瑞院日長と刻することは確認済であるが、残余のその他の側面には4世日理・5世日住・12世日専の各上人名を刻するものと推定する。
 受法寺本堂     受法寺玄関・庫裡

備中山地題目石
2020/04/03撮影:
緯度・経度:34.652028, 133.820011 に所在する。年紀などは不明である。
 山地題目石(日蓮大士)1     山地題目石(日蓮大士)2

備中山地割岩の宝塔/山地人柱供養題目石/山地人柱供養石塔
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
 067EBO 地神 倉敷市山地 サンパレスが見える常夜灯の王国。地神、牛神、他
○2020/06/04電話での聞取り
 電話にて、山地受法寺住職に聞取り。次のようにご教示頂く。
 石塔類が立ち並ぶ一画はさいお(際尾?)という地名で、石塔類は「割岩(わりいわ)の宝塔様」という。ここに日蓮堂(祖師堂)があった訳ではない。ここには常夜燈があるが、それは水運の道標としての「燈台」の役割を果たしていたものである。
 山地附近は古代・中世は海であり、水難が多かった。そのため、2柱の人柱が建てられたという。
「割岩の宝塔様」の隣に栴檀の樹があり、その所に供養塔(題目石)があるが、それはその人柱の供養塔である。
なを、栴檀の樹は落雷があり、切ってしまい、威容を減じている。
また北側すぐに2基の供養石塔があるが、それが、人柱となった2名の供養塔である。
 ※山地附近の平野部は古代あるいは中世は海であったが、近世初頭までには干拓され、陸地化したものと思われる。しかし、近世に入っても水との戦いは続いたものと思われ、下記で述べるように「享保」という年紀の読み取りが正しいとすれば、江戸中期にも水防工事が行われていたものと思われる。
2020/04/03撮影:
「割岩の宝塔」は、緯度・経度:34.65034,133.817997 に所在する。
ここには3群の題目石が見られる。
 第1群は「山地割岩の宝塔」で、大型の石塔類が並ぶ。高い石垣の上に題目石、大覺大僧正、地神、牛神、常夜燈がある。そして、その参道は、まさに、「割れた巨岩」の割れ目を通るものである。
 第2群は「人柱供養題目石」で「割岩の宝塔」横の老木(栴檀)の下に置かれている題目石1基と摩耗した石仏がそれである。刻銘は残念ながら判読できず、年紀などは分からない。
 第3群は「人柱供養石塔」で「割岩の宝塔」から少し離れた背後に立つ同型の題目石2基である。これも刻銘が判読できず正確なことは不明であるが、題目を刻んだ墓碑の形式と思われる。
○第1群:「山地割岩の宝塔」
向かって左から、牛神・大覺大僧正・題目石・地神・常夜燈がある。
大覺大僧正の右側面は判読できず、左側面には嘉永二己酉年(1849)の年紀を刻む、
題目石は日蓮大菩薩の報恩謝徳碑である(背面には「高祖大菩薩五百五十遠諱為報恩謝徳造立之」「文政11年(1828)」と思われる年紀を刻む)、
常夜燈は天保十一庚子年(1840)の年紀を刻む。
 ※なお、日蓮550遠忌は天保2年(1831)であるが、その前の文政11年に建立されたのであろう。
 山地割岩の宝塔/山地人柱供養題目石/山地人柱供養石塔:背後にある2基の石塔が第3群の石塔で、向かって右の老木下にあるのが第2群である。
 山地割岩の宝塔     山地割岩の宝塔2     山地割岩の宝塔3    
 割岩の宝塔参道     割岩の宝塔石塔
 割岩の宝塔・牛神     割岩の宝塔・大覚大僧正     割岩の宝塔・題目石
 割岩の宝塔・地神     割岩の宝塔・常夜燈
○第2群:山地人柱供養題目石
 山地人柱供養題目石1     山地人柱供養題目石2     山地人柱供養題目石3
 山地人柱供養題目石4     山地人柱供養題目石5     山地人柱供養題目石6
○第3群:山地人柱供養石塔
題目を刻むが、その下の銘は殆ど読めず、辛うじて左側の享保の年紀(2基とも)だけ判読できる。また右側には月日も刻み、中央は不明であるが、おそらく戒名が刻まれているのであろう。
 山地人柱供養石塔1     山地人柱供養石塔2     山地人柱供養石塔3

補足備中日差山日差寺
 天平勝宝年中報恩大師がこの地に創建する。本堂(正観音)薬師堂愛染堂など十数坊を構えるという。
「吉備国誌」では天平勝宝6年(753)報恩大師が伽藍を造営、本尊は正観音。弟子津坂駅人智久諸国より高僧を集め、満願坊などを造営す。
天正10年(1582)高松城の攻防で毛利方小早川氏の陣所となり荒廃す。その後残余の寺坊(受法寺など)は戸川氏の日蓮宗帰依により改宗せしむ。
現在、毘沙門堂は戦後焼失するが、日差山上の花崗岩大露頭には半肉彫の毘沙門天立像が残る。但し報恩大師杖描と伝えるも近世の作という。
2015/09/25追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
 日差山日差寺
庄村矢部にあり。開山報恩大師。今、本堂山(本堂)、薬師堂、愛染畑(愛染堂)、仁王畑(仁王門)などの趾を残す。
また興聖坊、多門坊、玉蔵坊、浄土坊、曼荼羅坊、満願坊、井上坊、養福坊、見松坊、成福坊、持寶坊、吉祥坊、寶厳坊、寳藏坊、石橋坊、大蔵坊、實相坊などの坊舎があった。さらに山下には神皇坊、圓光坊、百々坊、槙山坊、受法坊などあったというも全容は不明。
天正10年(1582)小早川隆景の陣所となり、堂舎は甚だしく破壊され、慶長5年(1600)の関ヶ原役の後宇喜多氏滅び、この地は庭瀬城主戸川逵安の領地となる。
2代目戸川正安の時領分の寺院悉く日蓮宗に改宗せしめ、命に従わざりしものは土地を引き上げしめたり。
寛永13年(1636)日指山も改宗せざれば寺領を没収・破滅せんとの旨を達しければ、山僧怒りて山上の土地を棄て各地に移転す。それは下記の如し。
 満願坊:矢部村楯築山の側に移りて、日指山宝泉寺と号す。→下の補足:寶泉寺を参照
 興正坊:上庄に移りて弘福山西方院と号す。<倉敷市上東628に真言宗西方院が現存する。> →上庄西方院を参照
 曼荼羅坊:下庄に移る。
 浄土坊:下庄に移り、両部山無量院と改称す。→下の補足:宝福寺を参照、両部山雲福寺であろう。
 見松坊:下庄に移り、法輪山蓮光院と号す。 →下の補足:宝福寺を参照、法輪山宝性寺(宝隆寺)
 大蔵坊:大内田に移る。2019/01/31追加:「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」)では
  千手寺付近に跡地が残るというも、跡地は発見できず、未見。→補足備中千手寺
  2019/01/31追加:
   ※千蔵坊:大内田に移る。大内田荒神社がその址という。(「吉備・綾南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財」)
     →補足備中千手寺
 石橋坊、吉祥坊、寶厳坊、寳藏坊、持寶坊五坊は三手村(生石村)に移る。
 (但し、此の5坊の移転は大永年中/1521〜とも伝えられる。備中誌清明山鏡善寺<現存・真言宗>の条にこの地昔五坊あり、持寶坊、吉祥坊、寶厳坊、寳藏坊、石橋坊と云々。享保記には往古は天台宗、大永7年/1527の張札には4坊の名称あり。)
 西南坊、受法坊は改宗して山地村に移転す。 →上述の備中山地受法寺を参照
2020/06/01追加:
○「岡山の地名」平凡社 より
日差寺
日差山々上にある。日差山と号する。現在は日蓮宗系単立。治承4年(1180)の金山寺観音寺縁起(金山寺文書)では天平勝寶元年(749)に金山寺を創建した報恩大師が、その後日差山に登り一寺を建立し、弟子の智久に譲ったという。
応永33年(1426)の吉備津宮文書では日差寺が確認できる。
天正10年(1582)羽柴秀吉の高松城包囲の際には小早川隆景の陣所となり伽藍・坊舎が破壊される。
関ヶ原の後入封した戸川氏は領内寺院の日蓮宗改宗を強制、改宗を拒否した当山は寛永13年(1636)山上の寺々を所々に遷す。
例えば、満願坊は矢部に移り(日差山宝泉寺)、興正(聖)坊は上庄に移り(弘福山西方院)、曼荼羅坊は下庄に、浄土坊は両部山無量院、見松坊は法輪山蓮光院と号し同村へ、大蔵坊は大内田へ、石橋坊は三手村に移る。また日蓮宗に改宗した西安坊・受法坊も山地の里方へ移る。(「備中誌」)
2020/04/03撮影:
 日差山毘沙門天前鳥居     日差山庫裡(推定)     毘沙門天常夜燈
 毘沙門天王堂     毘沙門天王堂2:本堂もしくは拝殿
 毘沙門天立像     毘沙門天立像2:像高は168cm、戦後に本堂が焼け焼損する。庚申山毘沙門天像に先行するという。
 日差山客殿(推定)     日差山鐘楼
 日差山題目石1     日差山題目石2     開山報恩大師摩訶聖人     無縁法界供養塔と墓碑
 開山千二百年余記念塔     日差山不明石塔
 日差山眺望:眼下は山地・上東方面
 智信院明光日倭法尼:平成元年寂、法尼は日蓮宗系として再興した日差寺の開山であろう。
 五輪塔(歴代墓碑):歴代各靈菩提と刻む。
----------------------------------
補足
日差山宝泉寺
「備中誌」では日差山満願坊、宮内普賢院末(真言宗御室派)という。慶長年中日差山を下りて楯築山に遷し、寛永13年(1636)矢部(現在地)に再度移るという。
2014/11/23撮影:山門には日差山満願坊の名を掲げる。
 日差山寶泉寺山門     日差山寶泉寺本堂1     日差山寶泉寺本堂2     日差山寶泉寺庫裡
補足
法輪山宝福寺
日差山衆徒の一つ貝松坊は寛永13年(1636)領主戸川氏の日蓮宗改宗の時、命に従わず下庄に移る。法輪山宝性寺(宝隆寺)<真言宗御室派宮内普賢院末>と称したと思われる。
現在は明治23年上東の両部山雲福寺と合併し、法輪山宝福寺と称する。
 (この補足は「観光案内 倉敷(総集編・後編)」昭和54年 より)

備中上庄日蓮堂(推定)
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
066EYO 地神 倉敷市上東
おもて公民館、うらには祠。たしかこの北にポンヌフが。題目、大覚、地神は文字が彫ってあるが、牛と財はなし。2002.10.12の幟。「若宮八幡両神社」「大財神社 昭和貳拾五年寅之年拾月吉日」「牛神社 昭和貳拾五年寅之年拾月吉日 氏子中」「奉献 地神社 昭和貳拾五年寅之年拾月吉日 当村氏子中」
2020/04/03撮影:
日蓮堂かどうかは不明、題目石などはあるが、堂背後の中心は明らかに一間社流造の小社であり、題目石などは脇にあり、この事から判断すると日蓮堂ではないと思われる。
上記のポンヌフとは仏語で新しい橋の意あるいはセーヌ川に架かる橋のことか。北側に新幹線が走るが、その北にレストラン・ボンヌフがある。緯度経度:34.6492,133.826267 に所在する。
 上庄日蓮堂(推定)     上庄日蓮堂(推定)背後     上庄日蓮堂(推定)社殿
 日蓮堂(推定)題目石1     日蓮堂(推定)題目石2     日蓮堂(推定)題目石3
 日蓮堂(推定)地神・常夜燈     日蓮堂(推定)地神     日蓮堂(推定)常夜燈

備中上庄西方院
日指山の末坊、現在は真言宗系単立。
上庄村、真言系単立、寛永13年(1636)庭瀬藩主戸川氏によって領内が日蓮宗に改宗させられた時、日差山より下山すると伝える。(上述の「日差山日差寺」を参照)
2020/04/03撮影:
 上庄西方院山門     門前石塔類     上庄西方院本堂     上庄西方院玄関     上庄西方院鎮守か

備中上東東村題目石
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
070EO 地神 倉敷市上東
黒板地神。ダンプが突っ込んできても大丈夫なシェルター仕立ての祠と題目石。
2020/04/03撮影:
緯度・経度:34.64748,133.830797 に所在。小字東村と思われるので、上東東村題目石と仮称する。
かっては日蓮堂があったが退転し、今は路傍に安置されるようになったとも思われるが、未確認である。
石塔類は大覚大僧正・題目石・地神・石祠があり、正面にコンクリート製の花立・蝋燭立・線香立収納ボックスがある。
 上東東村題目石     上東東村題目石2     上東東村題目石3     東村題目石収納ボックス
 大覚大僧正     東村題目石     地神・石祠

備中上東紺屋不明堂宇・石祠・地神
○サイト:「8000000(岡山南部の地神・水神など集成)」 より
・071EYO 地神 倉敷市上東 水色の壁+鳥居が目印のコミニテーハウスの裏。
2020/04/03撮影:
緯度・経度:34.64548,133.831137 に所在する。
 この堂宇については、聞取りもせず、外形だけでは判断が難しく、その性格は不明である。
堂宇の見た目は日蓮堂を思わせるが、堂正面すぐに石鳥居を構える。堂前には手水石が置かれ、現状では常夜燈はない。
堂には「紺屋コミュニティハウス」の扁額を掲げる故に地域の集会場と思われるが、施錠されていて、内部は不明である。
背後には切妻の覆いが付設され、その覆い下には石造の祠が安置される。その石造祠には本尊あるいは神体と思われるものは安置されず、一枚の仏像の写真が貼られている。その写真の尊名ははっきりしないが、三面八臂の像容であり、持ち物の特長から「降三世明王」とも推定される。(仏像の知識がなく、撮影した写真が不鮮明であるため、誤認であるかもしれない。)おそらく、この写真はこの石造祠の本尊と思われるが、実物は堂内に安置されるのかあるいは世話役宅にあるのかあるいは紛失したのかは分からない。
また背面はブロックが塀をなし、囲われるが、その中に上記の石造祠の後横に、石祠(不明)、地神、不明の石碑が置かれる。
 ともあれ、鳥居・日蓮堂あるいは祖師堂の後裔のような堂・本尊とも推定される降三世明王・地神などの組み合わせで、備前南部・備中東南部地区では類例がなく、この堂の性格は不明である。
 紺屋不明堂宇正面     紺屋不明堂宇斜正面     不明堂宇背後・覆・石祠
 紺屋不明堂宇石祠内部     不明堂宇祠・地神等     不明堂宇地神


備中倉敷附近の諸寺

備中生坂玉翁寺
明和年中(1764‐72)上伊福妙林寺の布教信行道場として玉翁院日豊が玉翁院を創建、昭和24年寺号公称。

備中西坂:西坂は生坂村の枝村
2018/10/24追加:
○「備中誌 窪屋郡巻之五」江戸末期頃の編纂(推定) より
備中西坂妙乗寺【廃寺】:寛文6年廃寺
 廃寺 本覺山妙乗寺 日蓮宗西坂に有
  備前領佛寺破却の時還俗し称賢正 寛文6年9月19日今北山に堂の前と云畑有 側に番神堂残れり
  賢正の孫天保の頃藤太と云
   ※末寺:
    西坂大乗寺、西坂東漸寺、倉敷笹沖の3ヶ寺が知られる。
   ※「撮要録二十九」には山号は「大覺山」とあるように思われる(原本は未見)が、下に掲載の「原津題目石」からも
   「本覺山」と思われる。
 三十番神叢祠
  小社南側の村中に有此地日蓮宗妙乗寺有しか寛文6年9月備前領佛寺廢せられて還俗し其寺退轉しける 寺院の條に出す

備中西坂大乗寺【廃寺】:寛文6年廃寺
○「備中誌 窪屋郡巻之五」江戸末期頃の編纂(推定) より
 廃寺 聖立山大乗寺 西坂村 妙乗寺末 日蓮宗
  當村八幡宮并大川明神の社僧也しか寛文6年備前領佛寺破却の時還俗して神人と成 俗称受庵と云 小郷大貮か祖也
 八幡大菩薩廟
  本社 前殿 拝殿 御膳所 御酒倉 寶庫 石鳥居・・・此の地大川明神社有・・・
  往古は別當寺有て擬之則大乗寺社僧成へし 寛文6年備前領佛寺を廃せられし時還俗して小合氏と称し神人となる
 大川明神社 片山の西の尾に在
  昔は大乗寺社僧なりしか寛文7年より神人と成て小合誌とす

備中西坂東漸寺【廃寺】:寛文6年廃寺
○「備中誌 窪屋郡巻之五」江戸末期頃の編纂(推定) より
 廃寺 平松山東漸寺 日蓮宗妙乗寺末也
  備前領佛寺破却の時還俗して俗称玄浦
   ※「撮要録二十九」には「平松山東軒寺」とあると思われる(原本は未見)。

備中西坂原津題目碑
2018/10/24追加:
○「観光案内 倉敷<総集編・前編>」昭和52年 より
西坂を北に、七ツ池峠への登り口の手前、左側の山へ入ると、原津題目石がある。
総高2m、表は「題目」、右は「慶安2年(1649)本覚山□□寺/平松□東□□」、左は「施主者経講四十三人逆修」、裏は「備中窪屋郡東阿知村」と刻む。この題目石は当時、東阿知村に日蓮宗のお寺があって、講中の人々が題目石を建立したものと思われる。
 ※寛文6年(1666)に先立つ慶安2年の年紀も考慮すれば、「本覚山□□寺」とは「本覺山妙乗寺」で間違いないと思われる。
 備中西坂原津の題目石

備中倉敷本榮寺
2015/09/17追加:
長興山と号する。
「倉敷美観地区(岡山文庫273)」吉原睦、日本文教出版、2011 より
小湊誕生寺末、元弘年中(1331-)大覚大僧正巡錫の時法華宗弘教のため笹沖足高山南麓に設けた道場「妙法山蓮華寺」が当初の姿であるという。
寛永2年(1625)倉敷村に移転し「長興山本榮寺」と改称し開山という。
元禄5年(1692)庫裡客殿改築、鐘楼新築を以って中興とする。
2015/09/30追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」大本山池上本門寺、1981 より
寛永2年(1625)の創立、開山心性院日悟、開基常照院日教。
寛永年中に大高(笹沖)から移転、万治年中(1658-61)池田光政の時、廃仏論により妙法山蓮華寺を改称。(※少々意味不明)
 →次項「備中笹沖蓮臺寺【廃寺】」を参照。
2008年追加:
元禄12年(1699)信濃上諏訪高國寺4世日逞上人は備中倉敷本栄寺より入山、高國寺は不受不施義を捨て、身延山直末となり、転宗するという。
 ※高國寺は明治の神仏分離の時、諏訪上社神宮寺から「上り仁王門」が移建され、現存する。
 ※日逞上人は「日蓮宗寺院大鑑」では本榮寺歴代にその名を確認できない。
2018/10/30追加:
○「観光案内 倉敷」総集編・前編、倉敷市観光協会、昭和52年 より
 本尊は首題宝塔の他、日蓮大菩薩、日朗菩薩、日像菩薩。
寛永2年比企ヶ谷の僧残有日悟が開基、本堂・客殿庫裏・鐘楼・二天門・隠居家などがある。また寺内には文政13年(1830)創立・安政4年(1857)再建の妙見堂、北辰妙見を祀る鎮守堂がある。
 寺伝では、元弘の頃(1332)大覚大僧正中国巡遊の砌、宗門弘通のため、足高山南麓の寺谷に一宇を建立し妙法山蓮華寺と称する。今に寺屋敷があり、大覺大僧正真筆と云われる宝塔がある。
 ※寺屋敷とは大覚堂の残る一画か、宝塔とは墓とか石塔と云われるものと同じであろう。
寛永2年大教院日受故あって現在地に移転し、長興山本榮寺と改称し法兄心性院日悟をを以って開山とする。
 ※笹沖は寛文12年までは岡山藩領、同年以降は鴨方藩領という。
 間違いなく、寛文6年の不受不施派弾圧の手はこの村にも及び、蓮華寺は廃寺を迫られたものと思われる。
 一方、現在地である倉敷村は少なくとも岡山藩(鴨方藩)領ではなく、おそらくは岡山藩からの圧迫から遁れるため
 移転したのではないかと思われる。
その後、大坂天満の妙福寺末となり、さらに小湊誕生寺直末に進む。
2008/01/31撮影:
 本栄寺庫裡/鐘楼/清正公堂     備中倉敷本栄寺堂宇
2015/09/03撮影:
 倉敷本栄寺山門1:仁王門か      倉敷本栄寺山門2     倉敷本栄寺山号碑     本栄寺門前題目碑
 倉敷本栄寺本堂     倉敷本栄寺庫裡     倉敷本栄寺妙見堂
 倉敷本栄寺鐘楼     倉敷本栄寺清正公堂
2019/03/07撮影:
 門前題目碑2     本栄寺山門3     本栄寺本堂2     本栄寺庫裡2
 本堂前題目碑3基:向かって左から題目碑(年紀不詳)、題目碑(年紀明治2○年)、妙法蓮華経妙荘厳王本事品第二十七碑
 鐘楼下題目碑その1:側面に寛文と読める年紀(年次は判読不能)を刻する。寛文年中とすれば、かなり古い題目碑に属する。
 鐘楼下題目碑その2:礫岩<豊島石(角礫擬灰石)>製であろう。周縁に文字が刻まれると思われるも判読できない。
 清正公堂横題目碑:日蓮大菩薩碑、年紀不詳。
 本栄寺清正公堂     清正公堂位牌:加藤清正法号・浄池院殿永運日乗大居士の位牌を安置。
 本栄寺鐘楼2       本栄寺鐘楼3:石垣下には題目碑2基(上述)がある。     本栄寺妙見堂

備中笹沖蓮臺寺【廃寺】:寛文6年廃寺
2018/10/24追加:
「備中誌 窪屋郡巻之六」 より
 足高宮 笹沖村
  (前略)
 南谷に法花寺と云う日蓮宗の寺に蔵せる十界勧請曼荼羅・・・・・・
  (中略)
 神遊山古記に云う、聖武天皇の御宇始めて別當の寺院を居られ山上に数箇寺在りしと云。・・・・・
 其寺院には神遊山神宮寺、井上寺、明王院、安楽坊(今の青蓮院也)各智空上人の流れを汲む・・・・・
 花山帝寛和元年(985)葦高社并別當神宮寺三重塔再建有、後二条天皇勅筆の額を賜りしに葦高八幡大菩薩と云・・・・・
 神宮寺は天正年中寺を山より移し、今西阿知遍照院也、寛文7年迄芦高宮の別當也しか、備前領分佛寺破却の時取離され・・・
  (中略)
 廃寺 蓮臺寺 日蓮宗 原津妙乗寺末
  開山不詳 備前佛法破却の時廢せらる 寛文6年還俗帳云此の年8月23日不勝手打續き立ち退く
  今笹沖寺谷と云所に有たり 其地に大覺僧正の墓残れり
 廃寺 神遊山神宮寺寺谷に有しか、今西阿知に移りて遍照院是也、芦高社別當の社僧成し
  (中略)
 寺谷 笹沖山の南迫抱を寺谷と云 昔蓮臺寺 神宮寺 井上寺などの舊跡也
以上から、笹沖の足高(葦高・芦高)八幡宮の寺谷(南谷)に日蓮宗蓮臺寺、神遊山神宮寺(今の西阿知遍照院)などがあったと知れる。
蓮臺寺は原津妙乗寺末、寛文6年池田光政の寺院淘汰で廃寺となり、寺院は打ち毀し、立退となる。
なお、大覺僧正の墓が残れりという。(開山は不詳なれど、大覺大僧正の関与が示唆される。)
また、南谷には「法花寺」という寺号の寺院があったことも記されるが、詳細は不明。あるいは蓮臺寺もしくは本榮寺の前身という「妙法山蓮華寺」と同じ寺院であるのかも知れない。
 一方、上記の倉敷本榮寺の寺伝では、本榮寺の前身は笹沖足高山南麓「妙法山蓮華寺」といい、それは「備中誌」でいう蓮臺寺とは寺号が違うようである。寺院のあった場所また状況から「妙法山蓮華寺」は「蓮臺寺」と同じ寺院と思われるが、なぜ寺号が違うのかは不明である。
 →前項 「備中倉敷本榮寺」を参照。

笹沖大覚堂
笹沖の足高神社南に大覺堂がある。足高山南麓は現在墓地であり、その入口付近に大覺堂がある。そして、地形から、
この墓地の一帯に蓮臺寺、神宮寺、井上寺、明王院、安養坊などが立地していたのであろうと推測される。
 この大覚堂に関して、倉敷本榮寺のブログ2013年04月03日「大覚大僧正祭」)で重要な情報が述べられる。
それは次のような内容である。(大意)

 大覚大僧正祭
 毎年4月3日に笹沖の小さなお堂で大覚大僧正祭を執行する。
 本栄寺は、現在は倉敷美観地区にありるが、もともとはこのお堂のある笹沖の地にあった。
 その後、岡山池田藩の廃仏棄釈の難を逃れ、天領倉敷に移転して現在に至る。
 大覚大僧正といえば、「祈雨修法」が著名であるが、備中布教の際も、ここ笹沖の地で旱魃により困窮する村民のために
 祈雨修法を行い村民を助けたと伝える。
 その際に建てられたと言われる石塔が現存し、本栄寺の檀家と、笹沖の住民とが一緒にお経とお題目を唱え、
 大僧正の遺徳を偲ぶのが恒例となっている。
  笹沖大覚堂/大覚大僧正祭:石塔正面の銘が判読できないが、正面に写るのが大覺大僧正ゆかりの石塔と思われる。
ここ笹沖には大覚大僧正が弘教に訪れたとの伝承があり、その記念の石塔が残るという。
「備中誌」でいう「大覺僧正の墓残れり」とはこの石塔を指しているのかも知れない。→大覚大僧正
2019/03/07撮影:
○倉敷本榮寺住職談:
 大覚堂は本榮寺が管理しているのではなく、地区の講中が管理している。
 摩耗して読めないが、中央の石塔が大覚大僧正の石塔と云われている。
  ※「大覺大僧正石塔」は礫岩<豊島石(角礫擬灰石)>と思われ、それ故脆く風化が進んだものと思われる。
 本榮寺の前身である蓮華寺は大覚堂のある場所ではなく、その付近にあったといわれている。
堂宇の背後屋外に題目碑を安置する形式の祖師堂(大覚堂)である。
備中笹沖大覚堂:大覚堂寄進者は新川町(現在は阿知2丁目)高橋又兵衛で、昭和32年に寄進と堂前の石碑に記す。
 備中笹沖大覚堂1     備中笹沖大覚堂2     備中笹沖大覚堂3     備中笹沖大覚堂4
伝大覚大僧正碑の年紀は不明、日蓮大菩薩碑の功徳主は高橋吉右衛門の寄進で、安永7年(1778)の年紀がある。
石灯篭は中台・棹と笠・宝珠・火袋とが分離している。但し、これらの部材は元来別々の石灯篭であったと思われる。
 笹沖大覚堂題目碑:向かって右から、日蓮大菩薩碑、伝大覚大僧正碑、石灯篭
 伝大覚大僧正碑1     伝大覚大僧正碑2      日蓮大菩薩碑       大覚堂石灯篭

備中片島妙任寺
片島は、古代は海中の小島、中世は潟湖の小島であり、その後、室町期には備中鴨山城を根拠とした細川氏一族が築城した城跡という。元亀2年(1571)尼子勝久ら当城を攻略す。そして時は流れ、現在は想像もできない内陸の小丘である。
その片島は現在日蓮宗妙任寺が片島の頂上を含む2/3を、法厳寺の易産生荒大明神がその残りを、占地する。
 妙任寺は本政山と号し、寛永3年(1626)に開創され、開山は常照院日教という。大阪妙福寺末。
明治元年日道の代本堂焼失、昭和6年16世日運の代本堂再興。頂上には三十番神・妙見堂がある。
 なお、9世観要院日達(文化7年寂)を施主として、妹尾盛隆寺本堂前に法華経塔がある。
  盛隆寺本堂前法華経塔:妙法蓮華経如来寿量品第十六塔、施主片山妙任寺観要院日達、文化7年(1810)年紀、
  但し享和3年(1803)の年紀もあるが文意が不明。
 山下題目碑     山腹題目碑
 妙任寺山門     妙任寺本堂・庫裡     妙任寺本堂1     妙任寺本堂2     妙任寺鐘楼
 妙任寺番神宮・妙見宮1    妙任寺番神宮・妙見宮2    妙任寺番神宮・妙見宮3:三十番神・妙見大菩薩を祀る。
 妙任寺客殿:昭和58年建立     境内題目碑1    境内題目碑2:左記以外に境内には多くの題目碑がある。
 また墓地附近には歴代に無い上人の墓碑が多くあるが、これは何を意味するかは不明である。

参考:堅島山法厳寺及び易産生荒大明神
「片島」の東側1/3は片島神社が占地し、その東南麓に法厳寺がある。この社と寺院は、現在に明治維新前の神と仏の共存の姿を色濃く残すと思われるので(参考)として紹介する。
・易産生荒大明神の由緒を岡山神社庁のサイトでは以下のように云う。
 当社の創建年代は不詳、寛永6年以前に奉祀した神社である。古来は易産生荒神社と称し、安産の神として信仰する。
 神仏混淆時代のなごりにより、神社の管理は法厳寺に委託していた。

 明治11年存置願提出の期を逸し、そのまま脱漏神社として奉祀してきたが、昭和17年片島神社と改称の上、
 明細帳脱漏神社編入願を提出し昭和18年神社明細帳に編入されて現在に至っている。
  ※易産生荒大明神の易産とは子易の意であろうが、生荒とは意が不明。明治維新前は勿論あるいは昭和の戦時中まで、法厳寺が実質別當 のままであり、社自体は付属の社もしくは祠程度のものであったと思われる。
  ※明治政府の、皇室及び皇祖神を中心とした神社の体系を作り、以って臣民を統治するという国家神道の形成目的で、すべての「神社」は「社寺取扱規則(明治11年内務省乙第57号)」に基づき各府県では届出あるいは職権で 「神社明細帳」に記載した訳であるが、易産生荒大明神は、その理由は明らかではないが、神社明細帳への記載から脱漏したという。
そして、何を思ったのはこれまた明らかではないが、昭和17年片山神社と改号、同18年「神社明細帳」に記載を果たすという。いつの時代にも国家に阿る族は居るということであろうか。
・堅島山法厳寺(真言宗御室派)は宇多法皇の開山と云う。宇多天皇在位は仁和8(887) - 寛平9年(897)、 承平元年(931)崩御。宇多法皇は御室仁和寺を創建する。
現在の伽藍は昭和55年本堂修理並びに大師堂建立というから、古いものではないと思われる。
なお「鳳凰の松」(黒松)が市の天然記念物に指定されている。宝永3年(1706)再建の時に植えられた松と伝えられる。
 法厳寺山門    法厳寺堂宇1:向かって右から本堂、光明殿、大師堂     法厳寺堂宇2:同じく左端は鐘楼
 法厳寺堂宇3:同じく右端は鐘楼、手前は「鳳凰の松」     法厳寺俯瞰:手前から愛染堂、大師堂、鐘楼、その右は山門
 法厳寺愛染堂:法厳寺と社のの間の中腹にある。 この堂の性格は分からない。
 易産生荒大明神:右端は愛染堂
 鳳凰の松1    鳳凰の松2:いずれも背景は庫裡と思われる。     鳳凰の松3:山上は愛染堂と社殿

倉敷壽遠寺:倉敷市福田町浦田2471-3
旧道喜教会
延文8年(1363)銘の日蓮上人坐像を有する。 


備中上房郡吉川村

 備前金川・建部及び美作福渡と備中松山(高梁)との中間付近の山地にある。

現在は加賀郡吉備中央町
 ※ただし、加賀郡とは、平成16年(2004)備中上房郡賀陽町と備前御津郡加茂川町が合併して吉備中央町が発足した折、2ツの郡の合併であったため、同町の区域で新設された郡である。

○「岡山県の地名 日本歴史地名体系34」平凡社 では
 古代・中世は吉川保・吉川庄といわれ、保元元年(1158)の石清水文書によれば、山城石清水八幡宮領であった。
天安元年(857)黒山に松原八幡宮が創建され、永長元年(1095)現在地に山城石清水八幡宮を分祀し、これに松原八幡宮を合祀し、吉川八幡宮が創建される。現在の本殿は室町後期の造替で重文、随身門も室町後期の建築か。
かつての神宮寺は千本の天台宗金福寺で、福仙坊・井上坊・千蔵坊などがあったが室町中期に退転、文政年中には完全に焼失し、姿を消す。
もう一つの神宮寺は吉川八幡宮創建とともに創建された天台宗神護寺で、明治の神仏分離では八幡宮本地堂・鐘楼・梵鐘が遷され現存する。
近世、庄屋は沼本氏が世襲し、天保9年(1838)藤田の不受不施派法難の時は、被疑者の引き渡しを拒む。しかし、元治元年(1864)子なく、直系は絶える。
 ※吉川は近世初頭8ヶ村に分かれていたが、天和年中(1681-84)に、千木村、正行村、河内田村、藤田村を合わせて東吉川村とし、宮尾村、西庄田村、小茂田村、布郡村を合わせて西吉川村とする。
藤田(村)は野原妙本寺の東、吉川八幡宮の南西に位置する。
○ページ「吉川(よしかわ)の歴史」(※吉備ケーブルテレビのページと思われる) より
 平安時代の中頃より、律令制の崩壊とともに土地の私有化が始まり、各地に荘園が形成されるようになる。
この地一帯も、時の豪族により早くから荘園化が進む。
 吉川里は、平安時代、京都の石清水八幡宮の荘園となる。これは吉川の豪族が権力を得るために石清水八幡宮に私有の土地を寄進したためである。多気郷の地にも、吉川里の他に、田次里、物部里などがあったが、いずれも荘園化され、これが一本となって多気荘と呼ばれるようになる。
 (中略)
当時、吉川は「吉川保」と呼ばれていたが、この頃、吉川八幡宮が、備中唯一の石清水八幡宮の別宮となる。
石清水八幡宮は、全国に40余りの別宮と300余りの宮寺を持ち、その数においては、はるかに全国の諸大社を圧倒していた。

■■吉川村特に吉川(藤田)の天保法難や不受不施派関係情報については、ブログ「難波一族」に詳しいので、次に転載する。

○ブログ「難波一族」>2014年 09月 15日 日蓮宗不受不施派 〜吉川村伝播〜 より
 吉川村の不受不施派の歴史は1600年頃まで遡る。
即ち、金川妙国寺・第八世化主である日城上人がこの地を訪れた事に始まる。
日城上人は、吉川村の隣村の大和村にある西国布教の拠点となっていた妙本寺へしばしば通っていたという。
 妙国寺から妙本寺の道中にある吉川村は休憩するのに絶好の場だったようで、よく日城上人はこの地で休憩を取り、この休憩の際に日城上人は住民へ辻説教を行ったようである。
定期的に行われるこの辻説教に住民は耳を傾け、日城上人が辻説教を行う度に集まる住民が増えていったという。
そして、その教えに感銘を受けた住民は次第に信者となり、遂には私の地元地区の全戸が不受不施派を信仰することとなる。
この日城上人の説教場は今なお私の地元地区に現存しており、日城上人の石碑も同地区に建立され現存する。
<<参考>>書名:吉川誌 出版:田中一雄、書名:生きている日蓮宗不受不施派 出版:安原良克

○ブログ「難波一族」>2014年 11月 20日 日城聖人 より
 天文12年(1546)に御津郡宇甘西町宮脇の二宮家にて誕生。
幼い頃から金川妙国寺で修行を行い「化城院」と号する。
吉備郡大和村にある西身延妙本寺へは修行の為に訪れていたが、その道中にあった吉川村では布教活動を行う。
吉川村に二間四方の石垣が残るが、この高台にて熱心に説教を行っていたという。
後に金川妙国寺の第八世の化主となり、鳥取県の大山にある大山寺に行き、大仙一帯の山荒れを封じたとも言われている。
しかし、妙本寺や大山寺に日城聖人の文献や口碑も伝わっておらず、吉川村のみ説教場が残っており、口碑が伝わっているのは実に貴重な事である。
これは如何に日城聖人が吉川村に影響を与えたかを物語っているのであろう。
 日城聖人の逸話として残るのは、耳鼻を病む者は聖人にお願いする事によってご利益を得た人が多く、全快者は挙って穴の開いた石をお供えしたと伝わる。
日城聖人:元和4年(1614)5月25日示寂。享年76歳也。
  →日城聖人については、備前金川妙國寺>金川妙國寺略歴>8世日城、
                 備前福渡化城院・日城聖人(日城聖人供養塔) を参照。
記録にはないが、日城聖人が吉川村に布教に訪れた時代は難波家の世代としては初代・徳左衛門の頃と思われる。
 日城聖人供養塔
吉川村には明治17年に建立された日城聖人の慰霊碑が残る。
この時代は我が家では三代目徳左衛門(徳太郎)の時代となる。

○ブログ「難波一族」>2015年 05月 15日 一橋家支配 より
 吉川村は文政10年(1827年)〜明治2年(1872)までの45年間、一橋家の所領であった。
この一橋家の所領のタイミングで我が家の重大事件である天保の法難が起こる。
(後略)

○ブログ「難波一族」>2014年 09月 20日 天保の法難
 日蓮宗不受不施派が禁制となってからは各地において法難が相次ぐ。
中でも天保9年(1838)に起こった『天保の法難』は大法難で不受不施派の庵は完全に滅亡し、僧は一人残らず居なくなったと言われるほど大掛かりで徹底したものであった。
 この法難は天保8年(1837)に大阪で起こった大規模な一揆がそもそもの起因となる。
この大一揆が、不受不施派一派の扇動によるものであるとして、危機感を抱いた幕府は徹底的に不受不施派を一掃しようと動く。
またこの法難が全国に及んだ端緒となったのは、大阪衆妙庵より剃髪して不受不施派再興の為に動いた『今道心』という信者が奉行所に再興を嘆願した事に因る。
  ※「今道心」とは不詳、「今道心」とは仏門の入ったばかりの人物の意であるが、蓮華院日継を指すのであろうか。
 幕府は丁度その頃、いかにして不受不施派の庵を見つけて僧を摘発し、改宗させようか躍起になっていた頃で、この今道心の嘆願は願ってもないチャンスだと考え、これを利用するように企図する。
奉行所は表面上は快くこの嘆願書を取り上げて「再興の為に、信者数を知りたいので、信者数が明記された帳簿を提出せよ」と促す。
ここで素直に奉行所が再興に尽力してくれると信じ切った今道心は、易々と信徒連名簿を提出する結果となる。
これにより、不受不施派内部が筒抜けとなり、幕府は厳重に秘密裏に捜査を重ねて一網打尽に不受不施派を根絶する大計画を練りあげる。
役人の聞込みや態度が厳しくなった事で各地の信者は敏感に内部事情が漏れたと感じ取り、信者は固く口を閉ざし、言動を慎むようになったとの事であった。
 しかし、時すでに遅しで、名簿が幕府の手に渡っている以上、摘発が相次ぎ、各地に法難がもたらされる。
再興の為に尽力した、今道心は何も知らない内に完全に幕府の手中に落ちた結果となってしまったのであった。
<<参考>>
書名:生きている日蓮宗不受不施派 出版:安原良克

○ブログ「難波一族」>2014年 09月 25日 天保の法難 〜吉川村へ〜
 備中地域は元々不受不施派が盛んな地域で禁制となってからも多くの隠れ信者が潜伏していた。
天保の法難は吉川村にまで及ぶ。
当時の吉川村は一橋家の所領で治外法権な土地柄であった為、よく僧が身を潜めに訪れた地という。
 この吉川村へ及んだ法難の顛末は当時の吉川村庄屋の沼本廣右衛門が残した『大阪与力同心衆十月二十三日入込召捕之始末覚』という書物に書き記されている。
 吉川村では、僧を匿ったり世話をしたという事で繁八、政兵衛、彌平、鍋之丞、萬五郎が身柄を拘束される事となる。
この繁八という人物が我が家のご先祖様である『難波繁八』である。
 この法難について大正10年に書かれた「日蓮主義法難集」という書物によると「今日猶、天保9年の法難と言うと古老達は三伏戦慄を感ずる」と言われた程、当時は恐ろしいものであったという。
吉川村では開村以来の大混乱に陥りこととなる。
<<参考>>
書名:岡山県史 第八巻 近世V 出版:岡山県

○ブログ「難波一族」>2014年 10月 05日 吉川法難
 天保の法難と呼ばれた幕府による不受不施派の摘発は天保9年7月には関東一帯、8月からは近畿一帯に手が及ぶ。
大阪でこの法難に遭った僧の中に若干16歳の雛僧である「日要」という僧がいました。
日要は他の僧から後事を託されてこの法難を逃れて備前に潜伏していた。
この情報を得た大阪奉行所の役人・林善次郎と部下11名はこの日要を捕縛のために備前へと出張する。
同時に日要と共に日諫という重要人物の僧も一緒に潜伏しているという情報も得ていたという。
 捜査の結果、日諫、日要の両僧は更に西の備中吉川村に潜伏しているという情報を得、役人達は山陽道の宿場町であった真金板倉宿に本陣を置き、満を持して吉川村へと摘発にやって来る。
 一方、吉川村では天保6年頃から備前国津高郡金川出身の常兵衛が不受不施派の僧と一緒に吉川村を度々訪れる様になっていたという。
天保9年3月下旬に常兵衛が喜太郎という若者を連れて来て、吉川村へ3日程宿泊する。
この喜太郎という若者こそ偽名を使っていた日要であった。
また6月下旬にも常兵衛と喜太郎が吉川村へ2日間、7月下旬にも2人で5日間程宿泊したと伝える。
この時には繁八宅や政兵衛宅に宿泊したと考えられる。
また、この7月下旬に来た際に常兵衛は喜太郎を吉川村で暫く世話をして欲しいと鍋之丞に依頼する。
しかし、この依頼を断ると暫く吉川村に来る事はなかったようである。
この後に大阪にて法難に遭ったと思われる。
 それから暫く後の10月19日の夕方に再び常兵衛が僧2人と共にやって来る。
この僧2人は喜太郎(日要)と『本行』という20歳程の僧でした。この本行と言うのは重要人物であった日諫であった。
3人は政兵衛宅に一泊し、10月20日朝に萬五郎が人足となって作州・奥津まで道案内をして送り出す。
 これらの事が役人の耳に入り、捜査の手が吉川村へと及んだと考えられる。
以上が吉川法難に至る経緯となります。
<<参考>>
書名:岡山県史 第八巻 近世V 出版:岡山県  書名:吉川誌 出版:田中一雄
書名:不受不施派農民の抵抗 出版:安藤精一  書名:生きている日蓮宗不受不施派 出版:安原良克

○ブログ「難波一族」>2014年 10月 10日 吉川法難 〜繁八板倉へ〜
 時は天保9年10月23日。
午前10時頃に繁八、政兵衛、彌平宅に大阪奉行所の役人・林善次郎が部下11名を引き連れて庄屋・年寄の案内で押し寄せてくる。
言い分としては不受不施派の僧・日諫、日要を引き渡せとの事であった。
日諫、日要は既に美作に逃れていた為、家には不在であった。
しかし、大阪奉行所の役人は不受不施派の僧を家に泊めたり、援助をしたという事で今度はそれぞれの家の家長である繁八、政兵衛、彌平を連行しようとする。
 当時の吉川村は一橋家の所領であった為、庄屋の沼本廣右衛門は領主にお伺いをたててからでないと勝手な事は出来ないと拒否する。
この時に廣右衛門はもし容疑の3人が逃げ出すなど何かがあれば自分が責任を取る旨の書状を渡し、その日は何とか引き払ってもらう。
 事情も分からず村民をいきなり役人に引き渡す様な事はせず、自分を犠牲にしてまで一旦引き取って貰うという大変男気のある行動であった。
なお、その日は当事者の3人は共に外出しており、家には不在だったという。
(祖母から伝え聞いた話ですが、吉川村へ捜査の手が及んでいると分かった廣右衛門は捜査が入る前に繁八らに連絡して近々捜査が入るので不在にしておく様に手配していたとの事です。村民の為に尽力した名主・廣右衛門らしいエピソードのだと思う。)
 それから出頭要請があり、廣右衛門と繁八等3人は翌日の10月24日に支配地である江原へ出発し、10月25日に江原役所に出頭する。
ここで事情聴取があり、そのまま繁八、政兵衛、彌平は仮牢へ入牢となる。
またこの10月25日に大阪奉行所の手先より繁八等3人の呼び出しの差紙が来、今度は真金板倉へ連行される。
 廣右衛門は3人と共に10月26日に江原を出発し、その日の内に板倉に到着するも、夜になった為、一夜明けた10月27日早朝に真金板倉宿に滞在中の役人へ3人の身柄を預ける。
ここで繁八等は大阪奉行所の役人から直接取り調べを受ける事となる。
繁八等3人はその夕方に真金宮内に入牢、繁八、政兵衛は執拗な聴取に、日諫、日要の足跡を自白する。拷問等もあったかもしれない。
 10月28日に別途、聴取を受けていた鍋之丞も繁八、政兵衛と同様の自白をしたという事で役人達は美作方面に向う。また、同じく讃岐でも取り立てがあるという事で数人は讃岐方面へ向かい、役人達は出払ってしまう。
ここで繁八等は事情が判明するまでは板倉駅に引き留めとなり、宮内に住む同心の石井八十八宅へと預けられた模様である。

○ブログ「難波一族」>2014年 10月 15日 吉川法難 〜繁八帰村〜
 美作方面に向かった役人達は暫くして繁八等の自白通り、逃れていた日諫、日要を発見し、日諫、常兵衛、萬五郎の3人は伯耆三朝にて、日要は津山にてそれぞれ捕らえられる。
 捕らえられた4人は11月10日に板倉まで連行され、ここで萬五郎は11月11日に『構いなし』とされ吉川村へ帰村する。
日諫、日要、常兵衛の3人は11月25日に大阪へと連行され、繁八等も同様に大阪まで連行される予定でしたが、庄屋・廣右衛門や村人の嘆願により、何とか村預かりという事で11月25日に一同揃って吉川村へ帰村する運びとなる。
繁八、政兵衛、善之丞は『村預り』、彌平は『関係なしで放免』の裁定であった。
しかし、捕らえられた日諫、日要は大阪へ連行された後に江戸へと連行され、江戸の獄中で死去したと伝わる。
ただ常兵衛の顛末は記録がない為、大阪へ連行された後は不明とである。
 吉川村は当時一橋家の所領であった為、治外法権で許されたということかも分からないが、何よりも庄屋や村民の嘆願のおかげで許された事は間違いない。

 さて。大阪から役人が12人程押し寄せ、板倉に約1ヵ月間滞在したが、その費用は全て吉川村にて負担する事となり、多額の費用が吉川村へ伸し掛かかることとなる。
また村民は捜査に怯え、情報が錯綜して大混乱になったと伝わる。

○ブログ「難波一族」>2014年 10月 20日 吉川法難 〜その後〜
 1838年(天保9年)の吉川法難の際に繁八は42歳の働き盛りであった。
家には父・石左衛門、母、妻、子・徳左衛門、弟・杢八が居た。
この時、徳左衛門は10歳と幼く、突然の事でさぞや動揺した事でしょう。
 文政8年(1825年)に現在の屋敷は改築されているが、難波家へは昔から日蓮宗の僧が宿泊していた様である。
屋敷は平屋建であるが、中二階に隠し部屋があり、ここに旅の僧がしばしば宿泊していたと伝わる。
吉川法難の際も日要上人等を中二階に宿泊させていたのだと思われる。
 繁八が連行され、取り調べを受けている1ヵ月間の家族の不安は想像を絶する。
家族はこの間に役人へ幾度も嘆願した事でしょう。
また、庄屋や村民へ必死で協力を訴えたのではないでしょうか。
 その甲斐もあってか、村預かりという形ではありましたが、帰村する事が出来き、家族は再会を果たす事が出来ました。
村預かりの身で、尚且つ役人の経費を吉川村に肩代わりして貰ったという事で、暫くは肩身の狭い思いをしたのではないかと思います。
 繁八は酒豪だった様で、酒を何よりの楽しみにしていた様です。
しかし、帰村した後は世間体もあり、また自分を戒める意味でも、禁酒生活を送ったそうです。
繁八の墓石には徳利と盃が刻まれている(後出)が、これは息子である徳太郎(徳左衛門)が禁酒生活を送った父へあの世では大好きな酒を思う存分飲んで欲しいと刻ませたと伝わる。
繁八は62歳で亡くなっていますが、庄屋や村民のお陰で天寿を全うする事が出来ました。
 その後、この法難は繁八の子・徳太郎によって家族に語り継がれる。
そして繁八の孫・伊三郎、曾孫・徳市らはこの時に吉川村に多大な迷惑を掛けたという思いもあって郡会議員や村会議員として吉川村の為に尽力したと伝わる。
私もこの話を祖母から伝え聞きましたが、その時はまだ幼かったので作り話だと思い、気にも留めていませんでした。
しかし、後々に文献を確認していく過程で記憶が蘇り、あの時の祖母の話は作り話ではなかったんだと再認識する事が出来ました。
教訓めいた事があるかは分かりませんが、私の子供達にも何か感じるものがあればと今後は私が語り継いでいこうと思っています。
祖母が残している言葉に「支え合う心を源泉とした家族愛」という言葉が残っていますが、これに尽きるのではないでしょうか。

○ブログ「難波一族」>2014年 11月 15日 日諫聖人 日要聖人 より日諫聖人
 日諫聖人:幼名・周平。本行院日諫。20歳。(18歳とも)
八丈島出身。大阪日念の弟子。
日要と共に大阪、備前、備中と渡り歩き、備前金川を拠点とする。
その後、吉川村を訪れては居住する様になる。
天保9年の吉川法難の難を逃れる為、伯耆三朝に潜伏中に大阪奉行所役人により捕縛される。
大阪、江戸へと護送されて天保9年(1838)12月7日に江戸獄中にて死去。

 日要聖人:幼名・喜太郎:立円院日要大徳。17歳。(19歳とも)
八丈島樫立村字向里の佐藤彦之助の四男。
12歳の時に八丈島に流罪になった日遍の弟子となり、日要と称する。
15歳の時に父・彦之助に伴われ、本行日諫と共に備中へ。吉川村に居住したと伝わる。
天保9年に作州津山藩家老・佐久間長門の家来である岡崎裕四郎宅にて大阪奉行所役人・平山源三郎等によって捕らわれ、岡山⇒大阪⇒江戸へ護送されて天保9年江戸獄中にて死去。または天保11年8月29とも。
 吉川村にはこの2人の冥福を祈り慰霊碑が建つ。
記録はないが、吉川村に帰村した繁八(難波繁八↓下に掲載)等が建立したのではないかと推測される。
  日諫・日要聖人供養塔1
  日諫・日要聖人供養塔2:表面
<<参考>>書名:八丈島流僧 日巡聖人御消息追録 出版:延原四郎

○ブログ「難波一族」>2013年 09月 06日 難波繁八 より
 難波繁八:寛政9年(1797)〜安政4年(1857)
難波石左衛門の嫡男。安政4年10月11日死去。一如 本光院浄観信士。
 天保9年10月に吉川村を訪れた僧・本行(日諫)、喜太郎(日要)、常兵衛らを匿ったとして大阪奉行所より調査が入り、江原役所から真金板倉まで連行され取調べを受けて1ヵ月の間、投獄される。
さらに大阪へ連行されそうになるが、吉川村庄屋の沼本廣右衛門や村人の嘆願により村預かりという事で身柄を解放されて帰村する。
当時の吉川村は一橋家の所領で治外法権的な地域であった事も許された大きな要因となる。
吉川村における天保の法難とされる吉川法難の被害者。繁八、時に42歳の事であった。
 信仰心が深く、困っている僧を放っておけない、心優しい人物であったと伝わる。
繁八は酒豪で酒を大変愛していたが、帰村後は吉川村に大変な迷惑をかけたという事で戒めのため禁酒生活を送る。
そんな生活を送った繁八を息子の徳左衛門は不憫に想い、繁八の死後、繁八の墓石にあの世では大好きだった酒を思う存分飲んで欲しいと『徳利』と『盃』を刻ませたと伝わる。
 難波繁八墓塔
※向かって左が『盃』、右が『徳利』

  →天保法難の概要は「備前法華の系譜」.>天保法難 を参照。
    日要・日諫聖人についても、同上 にあり。

○ブログ「難波一族」>2015年 02月 28日 吉川村宗教分布 より
 元和4年(1618)の日城聖人の布教から吉川村の不受不施の教えは広まったと伝わるが、元々備前や備中は法華経が盛んな地であった。
備前国の最西の雄・松田家は金川を支配していた実力者でしたが、熱狂的な日蓮宗信徒でもあった。
 我が家は嘗てこの松田家とも関わりがあった様であるので、吉川村への日蓮宗、不受不施布教も決して偶然ではない様にも思える。
当時の吉川村は基本的には天台宗信徒が殆どだった様であるが、私達の地域のみが不受不施を信仰したのも何か意味がありそうである。
大正13年発行の「吉川村誌」によると当時の宗教割合は以下の通りである。
 名称       戸
 神道        18
 天台宗      173
 日蓮宗       57
 日蓮宗不受不施派  35
 真言宗       30
 その他        4

○ブログ「難波一族」>2020年 10月 15日 日蓮宗不受不施派 〜藤田教会所〜
 日城上人が藤田村に日蓮宗不受不施派の布教を始めたのは慶長後期頃と考えられるが、それからというもの村民全戸が熱烈な信者となる。
藤田地区には経林山の麓にかつて寺がありましたが、この跡地に教会所を建設して、信仰を続けてきた。
 村民は日蓮宗不受不施派が禁教となってから、禁教解除までの約二〇〇年の間もこの地や各々の家で表向きは他教に改宗した事にして、秘密裏に信仰を続けてきた。この地は藤田地区の住民にとって大変大事な場所として現在も大切にされ存続している。
 教会の裏には化城院日城の石碑と天保の法難で処刑されてしまった本行院日諫、立円院日要大徳の石碑も建立されている。
教会は改築を繰り返しながら、地域住民により大切に整備されて現在に至る。
   吉川村藤田教会
 ※吉川は近世初頭8ヶ村に分かれていたが、天和年中(1681-84)に、千木村、正行村、河内田村、藤田村を合わせて東吉川村とし、宮尾村、西庄田村、小茂田村、布郡村を合わせて西吉川村とする。
藤田は旧藤田村であろう、野山妙本寺の東、吉川八幡宮の南西に位置する。
 

備中野山妙本寺:野山法華

 → 備中野山妙本寺

備中高梁巨福寺

素南山と号する。身延山久遠寺末。
山門は明治8年、備中松山藩板倉家家老宅の門を移築した。本堂は元和年中(1617頃)池田備中守長幸により再建されるも、延享5年(1748)焼失し、現在の本堂は安永 7年1778)に再々建されたものと云う。
○「大覚大僧正と三備開基寺寺院」 より
文和4年(1355)大覚大僧正、中国下向、野山妙本寺に巡錫ありし時、当初松山米山難波4代目新左エ門夫妻、法門を聴聞し、・・・、妙法に帰依し、大僧正を自宅に招す。夫婦は妙蓮清意、妙浄信尼の法号を賜う。
後、大僧正を開基と仰ぎ、草庵を設け、・・・、菩提寺となす。
中興写経院日源上人は北房中津井妙源寺を開創す。承國院殿池田備中守は当山を再建す。
○2016/03/22「A」氏撮影画像:
備中高梁寺町の諸寺は城郭のような構を見せる。巨福寺もその例外ではなく、その堅固な石垣などを見ることができる。
 備中高橋巨福寺構1     備中高橋巨福寺構2     備中高橋巨福寺構3

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備中西郡村

○「岡山県の地名」平凡社 より
西は小屋村、南は浅原村、山陽道が東西に通る。元和元年から幕末まで岡山藩領。
○「西郡の歴史とくらし」「西郡の歴史とくらし」刊行委員会、平成27年 より
西郡には弥生遺跡、古墳、古代寺院跡、中世の城郭跡など多くの遺蹟を残す。そして近世の村落における様々な信仰形態を未だに残す。
小生の関心範囲では、牛神様、地神様、金毘羅様、祇園様(明治の神仏分離以前は、未検証ながら、牛頭天王に間違いないだろう)、妙見様題目石などなどが残されている。
今の高齢者が達者な間は良いが、何れ世代が進み、これらの祭・祭祀・由緒・由来などが忘れられていくのは必然なような気がする。
今般「西郡の歴史とくらし」というパンフレットが纏められ資料化し、さらにWebに掲載されたことは、非常に「有難き事」と感謝する。
妙見谷題目石については「妙見谷の題目石は「南無妙法蓮華経」を刻んだ石塔です、日蓮宗の盛んな備前に多くみられ、村の辻々た寺内などに建てられ、備中東南部にも多くみられます。」とある。
 西郡の史跡等位置図
 ※本位置図の中央付近に辛山城跡があり、その西に法華寺の表示がある。
 この「法華寺」が下に掲載の小屋妙蓮寺(法華寺・現金剛寶座寺)である。小屋村は後に三因村を構成する。
 妙見谷題目石
 ※妙見谷というから、妙見を祀るか、かって祀っていたのであろうか。この地の妙見信仰遺跡などの情報がないので定かではない。GoogleMapの画像を見ると、附近には横穴式石室が開口し、あるいは妙見が祀られていたのかもしれない。

備中西郡妙見谷題目石<未見>
○GoogleMap より
 西郡妙見谷題目石2     西郡妙見谷題目石3
 位置は不明であるが、附近に一基の墓碑があると思われる。情報がないので定かではない。
表面には「南無妙法蓮華経 圓道霊」と刻むので、日蓮宗教徒の墓碑であろう。宝永七庚寅年(1710)の年紀があり、結構古いものである。
 西郡妙見谷墓碑1     西郡妙見谷墓碑2     西郡妙見谷墓碑3
 

備中廃三因妙蓮寺/廃三因法華寺:(現・真言宗金剛寶座寺):総社市清音三因1139:
             位置は上掲載の「西郡の史跡等位置図」で「法華寺」と示される所である。

  →備中廃三因妙蓮寺/廃三因法華寺:(現・真言宗金剛寶座寺)
 

備中三因蓮華院日題200遠忌報恩供養塔

 → 白川門流日題派中にあり

備中三因観音庵

2022/09/29追加:
 直ぐ下に掲載の「備中三因法華経石塔・いぼ地蔵の項で
「法華石經塔は新谷喜三太の建立で、妙教の一石一字經塔である。
なお、小屋観音庵に文政7年(1824)新谷喜三太母奉納の鏡一面が現存す。」とあるが、その観音庵である。
 観音庵は真言宗、本尊観世音菩薩、本堂1間半×1間半、厨あり。
明治初頭の「寺院明細帳」類が2種残るが、総合すると以下のようである。
本寺は窪屋郡常盤村般若、創立は慶長17年、棟札写しでは寛政9年本堂再建、境内には次の石塔類がある。
宝永3年南無阿弥陀仏石碑、元禄9年五輪石寺蔵、延享2年宝篋印塔、寛政10年弘法大師石像、天保3年慈氏菩薩石像
2016/06/26撮影:
久しく無住のようで、荒廃している。
 三因観音庵石造物1    三因観音庵石造物2    三因観音庵石造物3
 三因観音庵本堂1      三因観音庵本堂2

備中三因法華経石塔・いぼ地蔵

2018/11/07追加:
○「清音村誌」昭和54年 より
 ・法華経石塔:
大明神池北の路傍、いぼ地蔵と並んである。自然石に刻む。
(表)法華石經塔 (裏)寛政12年天次庚申3月日立/満願衆中ク寅白
新谷喜三太の建立。法華石經塔とは妙教の一石一字經塔である。
なお、小屋観音庵に文政7年(1824)新谷喜三太母奉納の鏡一面が現存す。
 →直ぐ上に観音庵の項があり
 ・いぼ地蔵:
方形大理石に半彫された地蔵尊坐像であり、20cm及び16cm角の2体ある。年代は不明。
「いぼ取り」を願かけし、大明神池に地蔵尊を投げ込む信仰がある。毎年用水不用期に池水を抜き、地蔵は回収し、元の戻すという。祀られたのは明治時代という。
 ※当初地蔵尊ははっきり分かる石像と思い込んでいたため、まさか、半彫した足下の方形石とは思わず、発見できないと諦めていたのが実情であった。
2022/05/05撮影:
 法華経石塔・いぼ地蔵1    法華経石塔・いぼ地蔵2    法華経石塔・いぼ地蔵3:いぼ地蔵標柱の足下に「いぼ地蔵」
 法華経石塔1     法華経石塔2
 いぼ地蔵1:法華経石塔足下に「いぼ地蔵」     いぼ地蔵2
 

備中軽部大覚寺

  →軽部大覚寺


備中高梁川より西の諸寺

備中平川長遠寺:
川上郡備中町平川(現高梁市)
2019/02/27追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
長命山と号する、京都四条妙顕寺末。親師法縁。
文亀元年(1501)創立、開基大覚大僧正、開山大法院日従。

備中箭田法華寺
建武2年(1335)大覚大僧正により建立と伝える。
大覚山と号する。京都四条妙顕寺末。
○「大覚大僧正と三備開基寺院」 より
延元元年(1336)大覚大僧正によって創立さる。以降数次の水害に遭遇し、記録・什宝を悉く流失という。
僅かに、大覚大僧正真筆の一返主題の題目の版木のみ(伝わる)。
明治20年39世日圓上人代、矢田村別府の地より現在の地に移転改築、中興開山となす。
開基:大覚大僧正妙實、二世:覚樹院日善・・・
 ※矢田村別府とは不詳。抑々元和元年(1615)伊東長実が当地に封じられた時八田村は八田村と矢田村とに分村し、八田村は伊東氏、矢田村は岡山池田氏の領地となり、明治維新を迎える。明治9年矢田村と八田村と合併して箭田村となる。従って、矢田村別府とは箭田村の小字と思われるも不明。
2017/10/27追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
[寺宝]大覚本尊
開基には2説あり、一説は延元元年大覚の開基とするものと、延文4年(1359)2世日善が四条妙顕寺において大覚妙實より寺号を授与されたともされるがさだかではない。
2016/06/26撮影:
 箭田法華寺入口     入口題目碑
 山内日朗日像大覚大僧正碑    山内日朗菩薩碑    山内日像菩薩碑    開山大覚大僧正碑:貞治3年(1364)寂滅
 日蓮大菩薩650年遠忌       本堂前題目碑:当山開基大覚大僧正
 箭田法華寺本堂     箭田法華寺鐘楼     箭田法華寺庫裡1     箭田法華寺庫裡2
 箭田法華寺本堂扁額:日紹の花押があるが、京都妙顕寺13世龍華院日紹上人かどうかは分からない。
2018/08/22追加:
○「真備町(倉敷市)歩けば」岡山文庫301、小野克正・加藤満宏・中山薫、日本文教出版、平成28年(2016) より
 (2018年7月小田川が氾濫、特定地点だけの安否を気にするのは不謹慎の誹りを免れないが、法華寺は無事だったであろうか。下で述べるように、既に明治27年の小田川洪水で水没し、其の後は高台に移転している。故に今般の水害とは無縁であったと思われる。)
 法華寺は現真備中学(現地より3町程南)の近くにあり、広い敷地に七堂伽藍を配し、多くの末寺を抱えた大寺であったと伝える。
明治27年の小田川洪水で大破し、現在地の高台に遷る。本堂は真備町市場正蓮寺の本堂を譲り受けて移築したという。水害で多くの記録や資料が失われたが、大覚大僧正真筆の題目の版木は残るという。

備中箭田妙傳寺
有縁山と号する。備前津倉妙林寺末。
創立は天正年中(1570頃)という。
その他の事蹟は情報が無く、不明。
2017/10/27追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
天文5年(1536)の創立、開山開基常照院日教。開基檀越岡三郎兵衛の妻妙傳。
2016/06/26撮影:
 山下新造山号寺号碑     山内題目碑     山内日蓮上人碑
 箭田妙傳寺本堂1     箭田妙傳寺本堂2     箭田妙傳寺小宇:堂の名称不明
 箭田妙傳寺庫裡:造替中か     妙傳寺歴代墓碑1     妙傳寺歴代墓碑2
2018/08/22追加:
○「真備町(倉敷市)歩けば」岡山文庫301、小野克正・加藤満宏・中山薫、日本文教出版、平成28年(2016) より
 (2018年7月小田川が氾濫、特定地点だけの安否を気にするのは不謹慎の誹りを免れないが、妙傳寺は無事だったであろうか。基本的に小田川右岸に位置し、今般の水害とは逆の位置にあり、加えて高台にあり、今般の水害とは無縁であったと思われる。)
 現在の本堂は昭和41年に改築したもので、洋風デザインを採用、モルタル造である。

備中箭田慈源寺
大覚山と号する。京都四条妙顕寺末。
○「大覚大僧正と三備開基寺院」 より
建武2年(1335)大覚大僧正開基大檀那桜井善吾信孝によって創立せられしという。
第47世日豊上人昭和35年遷化、以下無住となる。
2016/06/26撮影:
 山下題目碑/大覚大僧正:小高い丘の中腹に位置するが、その山下の参道脇にひっそりと佇む。
 境内日蓮上人650年遠忌
 箭田慈源寺本堂1     箭田慈源寺本堂2     箭田慈源寺鐘楼
 慈源寺堂跡:本堂横に堂跡があるが、堂の名称は不明、堂の退転の後、コンクリート製の小祠が建立されたと思われる。
 慈源寺墓碑:墓地入口付近に数基の墓碑が並び、一番左は日蓮上人、その横は大覚大僧正、さらにその横 にも石碑があるが、その銘文は不明(判読不可)である。また大覚大僧正碑の横の小祠は転倒したままである。
 日蓮大菩薩墓碑     大覚大僧正墓碑
 慶安2年手水鉢:慶安二年己丑(1649)と刻む。      慈源寺歴代墓碑
なお、「この寺に多くの墓石があり、いつ頃誰を葬った墓石か不明であるが、南北朝の頃の清音村の福山の合戦の時の戦死者かという。」との情報があるが、その他の墓石については未見。
2018/08/22追加:
○「真備町(倉敷市)歩けば」岡山文庫301、小野克正・加藤満宏・中山薫、日本文教出版、平成28年(2016) より
 (2018年7月小田川が氾濫、特定地点だけの安否を気にするのは不謹慎の誹りを免れないが、慈源寺は無事だったであろうか。基本的に小田川右岸に位置し、今般の水害とは尺の位置にあり、加えて高台にあり、今般の水害とは無縁であったと思われる。)
この地域には大覚大僧正の大きな法力が残り、熱心な法華宗の信徒がいたものと思われる。

備中服部本住寺
妙見山と号する。京都四条妙顕寺末。小高い丘上に立地する。
○「大覚大僧正と三備開基寺院」 及び 本住寺HP より
建武2年(1335)創立または延文3年(1358)創立と伝え、開基大覚大僧正妙実上人とあるのみで、その他の事蹟は不明である。
 旧本住寺堂舎:平成21に落慶する前の本住寺堂舎、取り壊され今はない。
○本住寺HP より
本堂・庫裡は平成21年に造替・落慶、祖師像は天保2年(1831)造立か。
妙見堂は明和6年(1769)再建、明治6年板札あり、その後崖崩れにより倒壊、平成3年再建。
鐘楼は大正12年上棟、梵鐘は今次大戦で供出、平成26年再鋳。
なお、現住の実父が箭田法華寺住職である。
2016/06/26撮影:
 新造本住寺山号寺号碑     本住寺山内題目碑:彫が浅く文字が判読不能。
 本住寺本堂1     本住寺本堂2     本住寺本堂内部    本住寺客殿
 本住寺妙見堂:妙見は能勢型妙見という。      本住寺鐘楼
 本住寺歴代墓碑     本住寺墓地題目碑     本住寺歴代墓碑2:古いものと思われるも、判読できない。
2018/08/22追加:
○「真備町(倉敷市)歩けば」岡山文庫301、小野克正・加藤満宏・中山薫、日本文教出版、平成28年(2016) より
 (2018年7月小田川が氾濫、特定地点だけの安否を気にするのは不謹慎の誹りを免れないが、本住寺は無事だったであろうか。基本的に小田川右岸に位置し、加えて高台にあり、今般の水害とは無縁であったと思われる。)
 近年本堂等を改築、駐車場も拡張整備する。

備中小田郡三谷村横谷妙泉寺・・・・・未見
法悟山と号す、四条妙顕寺末、寺は潮師法縁、住職は奠師法縁。
慶長10年(1605)創立、開山開基上行院日題、開基檀越花房志摩守正成。
当初12石8斗の寺領を得る。
昭和23年25世日醇の代に葛城大尊天を祀り再興。
昭和45年花房家13代正幸は池上本門寺より正成の本墓を遷墓する。
○「小田郡誌 下」岡山県小田郡教育会、昭和16年 より
現在、境内に次の石塔がある。
上行院日題石塔:
豊島石製、位牌型石塔、竿石の全高3尺六寸、幅1尺2寸、厚9寸5分、内法高3尺巾8寸5分
銘云
      元和四天丁未
 妙法蓮華経 當寺開山上行院日題■■■(上人靈か)
      六月十一日
花房志摩守正成墓:
豊島石製、笠付二重臺位牌型石塔、笠の破風に定紋三つ千鳥あり、全高5尺7寸、幅1尺2寸、厚9寸。
正面:法悟院殿祝山宗悦大居士、左側面:花房志摩守正成墓、右側面;元和九癸亥之年二月八日
 →花房志摩守正成については【花房志摩守正成の家譜について】 を参照

備中玉島玉谷宣妙院
妙見大菩薩を祀る。現在は無住、相当荒廃し、祭祀を行っている形跡はなし。
黒崎妙立寺末、享保年間の設立という。(以上が唯一の情報である。)
 → 備中玉島玉谷宣妙院

備中黒崎妙立寺
  →黒崎妙立寺

備中屋守法福寺/屋守佛乗寺
  →備中法福寺、備中仏乗寺
 備中柏島天満町法華題目碑、備中山奥題目碑、屋守法福寺:日樹上人供養塔、
 江戸土冨店長遠寺、江戸市野倉長勝寺 などあり。

備中鴨方土橋ノ本大覚大僧正碑
2018/11/07追加:
○「鴨方町誌」昭和30年 より
鴨川橋畔に「大覚大僧正」と刻まれた碑石がある。おそらく鴨方地方巡錫の記念碑であろう。
 ※鴨川橋畔とあるも、位置特定できず。
2019/03/17撮影:
鴨川橋畔とは、土橋(どばし)の傍ら(鴨川右岸)にある。(この土橋が鴨川橋ともいうようである。)
 土橋ノ本大覚大僧正碑位置図:浅口市教育委員会ご提供、浅口市鴨方町鴨方184番地
土橋は「鴨方往来」に架かる橋である。鴨方往来は岡山城下から西進し、岡山新田藩(鴨方)を経由し福山城下に至る往来である。岡山新田藩は備前岡山藩の支藩で、25000石、藩主は岡山城下に在住、陣屋は鴨方に構える。
 この付近は真言宗、天台宗などの勢力圏で、日蓮宗はほとんど知られず、ここに大覚大僧正が教化に訪れたという伝承もないようである。
因みに土橋から北東500mほどの所に松井谷という集落があるが、ここは山伏集落であったという。(「岡山県の歴史散歩」山川出版、昭和51年)明治頃までは教法院、大乗院、円明院、養清院、常楽院、常智院、地宝院、不動院の8院(いずれも天台系聖護院末)が残るが、昭和51年では教法院・常楽院・不動院の3院のみとなり、昭和51年当時、何れも山伏活動は停止という。そして、現在では、常楽院の堂宇一宇が残るのみという。
 では、なぜ大覚大僧正碑があるのかは不明であるが、ここは岡山藩の支藩であり、鴨方(陣屋)と岡山城下は鴨方往来で人や物資の往来があり、備前藩の日蓮衆徒が鴨方に来訪し、大覚大僧正碑を建立したようなことがあったのかも知れないが、まったくの推測である。
 碑は「大覚大僧正」以外の文字が正面に彫られているようにも見えるが、しかしまったく判別できない。あるいは全く彫られていないのかも知れないような状態である。従って、建立の時代も由来も全く分からない。
なお、碑は「養阿四國 三十番 土州 一ノ宮」あるいは「養阿四国30番善楽寺 (阿弥陀/大師)」の札所の小祠とともにある。
※養阿とは良く分からないが、鴨方のことをいうようで、養阿四国とは鴨方四国88霊場の意味であるようである。
※養阿とは養子山の養と阿部山の阿をあてて、札所の存在する一帯をさしたのではなかろうか。(「備中の霊場めぐり」)
※四国30番札所(土佐一宮<別當善楽寺>)の変遷は土佐安楽寺の項を参照。
 土橋ノ本大覚大僧正碑1     土橋ノ本大覚大僧正碑2     土橋ノ本大覚大僧正碑3
 土橋ノ本大覚大僧正碑4     土橋ノ本大覚大僧正碑5:石仏は善楽寺本尊阿弥陀如来と弘法大師像

備中笠岡妙乗寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
大覚山と号する。京都四条妙顕寺末。
暦応4年(1341)の創立。開山大覚大僧正、1世は源詮院日乗、開基慈明院日清(延宝2年/1674寂)、親師法縁。
 ※他のWeb情報では開基:源詮院日乗とする。
宝暦12年本堂建立、文化7年妙見堂建立、昭和23年焼失、翌年再建。
2018/04/08撮影:
 妙乗寺門前題目碑     妙乗寺山門
 妙乗寺本堂1     妙乗寺本堂2     妙乗寺本堂3     妙乗寺庫裡    妙乗寺離れ
 境内石碑類:向かって右から日蓮550遠忌、三菩薩、題目碑、大覚大僧正の各宝塔である。
 日蓮上人550遠忌題目碑:文政12年(1829)年紀
 三菩薩碑1:日蓮・日朗菩薩     三菩薩碑2:日蓮・日像菩薩     境内題目碑
 大覚大僧正碑正面:黨山開祖大覚大僧正と刻する。左右にも刻銘があるも、判読できず。
 大覚大僧正碑裏面・上     大覚大僧正碑裏面・下:裏面には、上下合わせると、黨山中興開基源詮院日乗聖人と刻する。


備後の諸寺

 → 備後の諸寺

    ◇備後福山光政寺
     →備後福山光政寺

  ◆備後水呑・草戸・田尻など
 
   → 備後水呑・草戸・田尻など

    ◇備後水呑重顕寺
      →備後水呑重顕寺

  ◆備後鞆の浦

    → 備後鞆の浦


  
備後山田(熊野)の諸寺/題目碑

    → 備後山田(熊野)の諸寺/題目碑
 

  ◆備後西部の諸寺

    → 備後西部の諸寺

 

安芸の諸寺

 ◇安芸竹原立正寺:法華宗本門流
  →現存三重塔(明治以降)452

 ◇安芸安浦宣修寺:法華宗本門流
  →現存多宝塔(明治以降)789

 ◇
安芸圀前寺
  → 安芸国前寺


讃岐の諸寺

 →讃岐の諸寺

 ◇
宇多津安養寺跡題目碑  →宇多津安養寺跡題目碑

伊予の諸寺

 →伊予の諸寺

阿波の諸寺

 
阿波徳島寺町  →阿波徳島寺町

土佐の諸寺

 →土佐の諸寺

 ◇
高知要法寺  →土佐高知要法寺

肥前の日蓮宗諸寺

 →肥前の日蓮宗諸寺

肥後の日蓮宗諸寺

 →肥後の日蓮宗諸寺


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