西 国 諸 国 の 日 蓮 宗 寺 院

西国諸国の日蓮宗寺院

★丹後の諸寺

 →丹後の日蓮宗諸寺中→7.長久山妙法寺  へ移行


播磨の諸寺

明石本松寺
慶長元年(1596)豊臣秀吉家臣藤井新右衛門(与次兵衛)勝介を檀越とし、明石川河口の西南にある船上(ふなげ)城下に創立される。開山は審理院日甫上人。
当初は「本正寺」と号する。慶安4年(1651)の松平忠国(明石藩主)の黒印状には「本正寺」とあるといい、貞享3年(1686)の松平直明の寄進状には「本松寺」とあるというので、この頃寺名が変わったようである。
元和3年(1617)小笠原忠真は明石に封じられ、明石川河口の東に明石城を築城、船上城を廃し城下町を建設する。
元禄4年(1691)明石城下の興隆を見て、檀越斎藤甚左衛門利政(島左近の末裔、宝永6年逝去)、美濃部九郎三郎等の盡力により、旧東長寺跡である現在の地に移転する。
鎮守として妙見大菩薩を祀る。この妙見大菩薩は島左近の崇拝した尊像であるといい、後年、明石藩に仕え本松寺檀徒となった島家の末裔により奉納されたという。
また、宮本武蔵が作庭したと云われる枯山水の庭を有する。
 ※明石善楽寺円珠院(→播磨善楽寺)及び如意寺寺中福聚律院 (→播磨如意寺中)にも武蔵作庭と云われる庭が残る。
平成七年の阪神淡路大震災により、大被害を受け、本堂庫裏ほぼ全壊するも、近年漸く復興もなり、寺観も整ったようである。
2016/04/26K.G氏情報:法栄山と号する。六条本圀寺末、法縁:奠統会(奠師法縁)
2016/04/09撮影:
 山門前題目碑   明石本松寺   明石本松寺山門1   明石本松寺山門2
 明石本松寺本堂1   明石本松寺本堂2   明石本松寺庫裡
 歴代石造宝塔:平成19年旧墓碑を統合して宝塔を建立する。    歴代旧墓碑1
 歴代旧墓碑2:開山審理院日甫上人、第七世中興浩岸院日芳上人等の墓碑が写る。
  日芳上人代に船上村から明石の現地に遷る。
本松寺妙見は谷の妙見と云われるようである。(本立寺妙見は浜の妙見と云われる。)
 本松寺妙見大菩薩1   本松寺妙見大菩薩2   妙見大菩薩庭園1   妙見大菩薩庭園2
  妙見大菩薩拝殿     妙見大菩薩開運殿1   妙見大菩薩開運殿2   妙見大菩薩本殿

明石大聖寺
以下はサイト「明石 大聖寺聖徒団」のページを要約。
文安3年(1446)10月揖保郡室津にて創建される。開基は大覚妙実上人(大覚大僧正)、開山は大要院日恵上人。
文安3年室津に寄港した大覚大僧正は海難被害者の慰霊と祈願のために「法華堂」を建立し、それが基盤となり備中大覚寺より来山した日恵上人が寺院として創立する。
寺号の由来は、開山の師範である京都妙覚寺九世大聖院日延上人の院号にちなみ「大聖寺」と称する。
 ※大覚大僧正開基という。しかし、下に掲載している室津大聖寺の諸記録には大覚大僧正開基の寺歴はなく、
 どのような記録によって大覚大僧正開基とするのかは不明である。
明治維新後、室津の港は衰頽し、それに伴って大聖寺も衰退を始める。
明治40年明石在住の資産家三國茂三郎(大聖寺檀家)の発願により、兵庫県に室津大聖寺「移轉寺御願」が提出される。
 移轉寺御願
      京都市上京區本山妙覺寺末
      兵庫縣揖保郡室津村
            日蓮宗 大聖寺
 右大聖寺ハ少檀無財産ニシテ漸ク維持シ来候然ルニ近来時勢ノ變遷ニ伴ヒ檀信徒ノ多クハ明神地方ニ移住シ目下當地在住ノ檀徒ハ僅ニ五戸ニシテ愈ク維持困難ヲ極メ且ツ永年無住職ニ付同縣下飾磨郡御着村法華寺大澤日妙ニ於テ百般寺務取扱来候得共到底永續ノ見込難相立苦慮罷在候■(ママ)幸ニ乙地信徒中三國茂三郎ハ前代ヨリ篤信者ニシテ今回自分所有ノ地所竝ニ建物等別紙寄付契約公正證書ノ通リ同縣同國明石郡明石町ノ内大明石村字上ノ丸三百八拾三番地ノ三宅地弐百弐拾四坪ヲ境内敷地トシ現在建家五拾八坪六合五夕ヲ一時假本堂兼庫裡ニ充當シ別紙弐号書ノ如ク
             ・・・以下省略・・・
    明治四拾年十月二十日
         右寺無住ニ付寺務扱人
    兵庫縣飾磨郡御着村法華寺住職
          僧都 大澤 日妙 印
         右寺甲地檀家総代
    同縣揖保郡室津村・・・番地
             吉村 叶次 印
              :
同時に、同じ末寺である岡山県久米南条郡原田東村(現久米郡美咲町原田)の學永寺(覺永寺)と合併させ、日宣上人を二十世住職に迎え、明石への移転が実現する。
新寺には三國茂三郎から多額の寄付があり、「三國山大聖寺」と改号し、明石で再出発する。
しかし、太平洋戦争の敗戦で三國氏は没落し、大聖寺も衰退する。
昭和31年21世日成上人代日蓮宗から離脱、「三国寺」と改号する。日成上人寂後、無住となる。
昭和47年身延山勤務・甲斐源立寺住職日康上人が、二十二世となり晋山、日蓮宗に復し、再び「三國山大聖寺」と改号する。
昭和49年十一面観音像を安置した慰霊塔を建立。
平成7年阪神淡路大震災で半壊となるも、翌年驚異的な速さで復興する。
三國山と号する、京都妙覚寺末、法縁:奠統会(奠師法縁)
2016/04/09撮影:
 明石大聖寺山門   山門前石碑:台石には三國寺と刻み、「三國寺」と改号していた時のものであろう。
 山内題目碑     明石大聖寺本堂     大聖寺本堂・慰霊塔     本堂上日蓮上人像     明石大聖寺慰霊塔
○旧本堂と庫裡の写真が大聖寺のFacebookに掲載があるので転載する。
2014年に現本堂竣工、旧本堂・庫裡は2013年に取り壊し。
 2013/04大聖寺旧本堂1:本堂前の題目碑などは既に撤去されている。     2013/07大聖寺旧本堂2:解体工事2日目
 2013/07大聖寺旧本堂・庫裡    2013/07大聖寺旧庫裡:右端に山門・慰霊塔が写るが、この2宇は現存する。

明石本立寺
○本立寺は小笠原氏の移封及び移転の都度、小笠原氏と行動を共にする。
信濃松本に創建されるが、小笠原氏の明石転封で明石に移転、さらに豊前小倉に移封され、小倉に移転、最後は幕末の第ニ次長州征討で小笠原氏は小倉を失地、藩庁を豊前豊津に移転、それに伴い本立寺も豊津に移転し現在は豊津に現存する。
○信濃松本本立寺
究意院日ワ辮l(六条本圀寺16世、嵯峨常寂光寺開山)信濃松本に本源寺を開山。
開基は延寿院(小笠原秀政の生母、小笠原忠真の祖母)と伝える。
以上が本立寺の前身である。
 ※松本時代の本立寺には複雑な履歴がある様子であるが、煩雑なので割愛する。
 詳細は「城下町探訪44 2010/2/4 本立寺跡と伊織霊水」(PDF文書)を参照。
○播磨明石本立寺
元和3年(1617)小笠原忠真信濃松本より播磨明石に転封、本源寺も共に移転し、本立寺と称する。
寛永9年(1632)小笠原忠真明石より豊前小倉に転封、本立寺も小倉に移転する。
 ※以上で明石本立寺は一度消滅する。
寛永10年松平康直信濃松本より明石に入部、翌11年淡路刈屋浦の本妙院日種上人旧本立寺の跡地を拝領し妙圓院を建立。
後、妙圓院は本立寺と改号する。
 ※寛永11年の圓妙院建立が現明石本立寺の直接の基ということになる。
昭和20年戦災にて焼失し、平成15年漸く戦災復興の浄願を成す。
2016/04/26K.G氏情報:成道山と号する。六条本圀寺末、法縁:奠統会(奠師法縁)
2016/04/09撮影:
 明石本立寺山門   山門前題目碑   山門内日蓮碑   明石本立寺本堂   明石本立寺庫裡
 明石本立寺妙見堂:浜の妙見さんと呼ばれる。
○京洛本蔵寺(一道院)の合流
昭和20年山城本蔵寺(勅願所一道院)戦時の強制疎開の措置で全建物破毀されるも、再興の目途が立たず、本立寺に本蔵寺本尊及び什宝を遷す。
ここに寺屋敷の再興を断念した京都本蔵寺は実質廃寺といって良く、本尊及び什宝は明石本立寺が引き継ぎ、本蔵寺は本立寺へ合併すると云って良いだろう。
「拾遺都名所圖繪」では
一道院 〔堀川通五条坊門にあり、法華宗本圀寺に属す。開基は吉祥院日喜上人、中興は一道院日法上人、本蔵寺と号す〕
日蓮上人像 〔和泉阿闍梨日法上人の開眼なり。霊元法皇の勅願所として、経王祈祷所の額を賜ふ〕
とある。
○山城堀川本蔵寺
東堀川佛光寺、六条本圀寺末、開山吉祥院日喜上人。
本蔵寺6世一道院日法上人<万治2年(1659)-享保4年(1719)/享保5年(1720)>は「大験者」として名高く、霊元法皇の病気快癒を祈祷、霊験が現れ、上人は「一道院日法上人」の称号を賜る。
昭和20年戦時の強制疎開で、寺敷は強制買い上げ、堂宇は破却、檀家もなく、再興の方途がたたず、再興は断念し、明石本立寺に本尊・什宝を格護することになる。
ところで、山城嵯峨常寂光寺は究意院日ワ辮lの開基であり、つまり、松本本立寺開基上人が同一であり、加えて一道院日法上人は常寂光寺に遷化(迁化)の記録がある。つまり上人は常寂光寺歴世たることを知る。しかしながら、常寂光寺への転住の経緯詳らかならず、加えてその墓所の何処たるを知らずという。
常寂光寺年表では、正徳5年(1715)一道院日法が入山、当山で遷化という。
要するに、嵯峨常寂光寺、堀川本蔵寺、松本及び明石本立寺は縁で結ばれている関係である。
以上の縁であろう、平成16年(2004)明石本立寺野口僧正と夫人により常寂光寺に開山堂が建立され、新たに発見された日ワ辮l坐像が安置される。同年、日法上人墓も開山堂傍らに建立される。
 → 山城嵯峨常寂光寺
○豊前小倉本立寺
寛永9年小笠原忠真明石より豊前小倉に転封、それに伴い本立寺も小倉に移転する。
 ※小倉本立寺に関する情報はWeb上皆無である。
慶応元年(1865)第二次長州征討において、小倉藩は幕府軍の先鋒として長州軍と戦うも、結果として敗北、小倉城も自ら焼き、小倉を失地する。
慶応3年藩庁を香春に移転し(香春藩)、さらに明治2年京都郡豊津に藩庁を移し、豊津藩となる。これに従い、小倉本立寺も豊津に遷り、現存する。 (京都郡みやこ町豊津722)

播磨東条久遠成寺
2017/02/18追加:
真如山と号する。京都小川本法寺末。
「加東郡誌」加東郡教育会、大正12年(1923) より
加東郡上東条村椅鹿谷。大正9年創立、開基久保寛厚、建造物:日親堂。
「日親と日蓮信仰」(週間朝日百科 仏教を歩く bQ4」2004)
<東条法難の地>とだけある。

播磨御着法華寺
大乗山と号する。京都六条本圀寺末。
「播磨御着」御着史跡保存会 ルーフレット より
永享年中(1426-40)当地に法華堂一宇が建立され京都本圀寺に属した。
文明9年(1477)日登上人代、山号寺号を公許される。日登上人は本圀寺15世中道院日栖上人弟子で、諸国を弘教、当地にて法華寺を開山する。文明16年(1484)法華寺を弟子日真上人に譲り、山陰を巡化、石見の浜田にて遷化という。
なお、姫路法華寺<下に掲載>は山号を大乗山といい、「もと三木郡にありしも天正年中高照院日登が御着村に移す。さらに慶長年中真如院日如が現地に移す。」という。これによれば、御着法華寺は もと三木郡にあり、それを天正年中日登上人が御着に移し、さらに慶長年中御着から姫路に移され姫路法華寺となるという。このことについては、上記ルーフレットは一切言及がない。
2016/06/02撮影:
 御着法華寺門前題目碑:宝永7年(1710)年紀    御着法華寺山門
 御着法華寺山内題目碑1:大正4年年紀        御着法華寺山内題目碑2:安永10年(1781)年紀
 御着法華寺本堂     御着法華寺玄関     御着法華寺庫裡     御着法華寺鐘楼
 御着法華寺三十番神堂     三十番神堂内部
●参考:御着には御着城跡、大歳社、小寺大明神、黒田家廟所、天台宗延命寺など多くの旧跡がある。
◇黒田家廟所:黒田孝高(如水)の祖父重高と母(明石氏)の廟所である。黒田氏は御着城主小寺家の家老で姫路城に住した。
現在の廟所は亨和2年(1802)筑前黒田藩によって資財を筑前から運び造営される。
 御着黒田家廟所1     御着黒田家廟所2     御着黒田家廟所3
◇御着庚申堂:村の辻堂の様相を呈する庚申堂が残る。現在祭神は自然石に猿田彦と刻んだものが置かれているが、本来は青面金剛あるいは帝釈天を祀ったものであったと思われる。おそらく明治の神仏分離の処置で本尊の青面金剛が廃され、猿田彦などというものが祀られたのであろうと推測する。
 御着庚申堂     御着庚申堂猿田彦

播磨林田宝塔寺:詳細は不詳、以下が辛うじて分かる。
おそらく四条妙顕寺末であろうと推測する。その根拠は以下の通り。
 龍野真浄山常照寺の由緒は以下のように云う。
 7世慈雲院日瑞上人の代、宝永4年(1707)に藩主脇坂安照の側室円光院の帰依をうける。(塔頭一山浄心院の建立)
 宝永6年(1709)大本山妙顕寺25世日啓上人より、曼荼羅本尊を日瑞上人に授与。
 正徳元年(1711)祖師日蓮聖人像が開眼、同4年祖師堂建立。翌5年庫裡建立。
 元文3年(1738)林田に林田庵(のち宝塔寺)が建立、日瑞上人の隠居所となす。
宝塔寺は高照山と号す。歴山譜では開山は慈雲院日瑞上人(常照寺7世、寛保3年/1743遷化)とする。
2013/12/22撮影:
 林田宝塔寺山門     林田宝塔寺題目碑     林田宝塔寺本堂庫裏?
 林田宝塔寺三十番神堂1     林田宝塔寺三十番神堂2     林田宝塔寺鐘楼

姫路日蓮宗諸寺(五軒邸上寺町及び坂田町下寺町);2014/01/09撮影:

姫路五軒邸<ごけんやしき>左側(上寺町)に8ケ寺が南北に現存するが、天台宗正明寺を除きすべて日蓮宗・法華宗の寺院である。しかし、なぜ、日蓮系統の寺院が集中するのかは不明である。なお、五軒邸は基本的に多くの侍屋敷があった町であったと云う。
さらに五軒邸南の坂田町の東(下寺町)側にも寺院が並び、6ケ寺の内2ケ寺が法華宗である。
なお、坂田町とは左に寺院が並ぶ左片町の転化と云う。
現状は以上であるが、
現在の上寺町・下寺町は、慶長の池田輝政の築城による町割で五軒邸西側、坂田町東側に寺院が集められ、成立と云う。(「日本歴史地名大系 巻次29−2 兵庫県U」)

姫路五軒邸上寺町
妙立寺:顕本法華宗:慶運山と号する。
慶長9年日圓(遠江吉美郷より招聘する)の開基。昭和20年の空襲で山門以外の堂宇を焼失する。
2014/01/09撮影:
 五軒邸妙立寺山門     五軒邸妙立寺山門・宝蔵?     五軒邸妙立寺題目碑     五軒邸妙立寺本堂
 五軒邸妙立寺宝蔵?

妙善寺:顕本法華宗:勢立山と号する。
慶長年中日善の開基。
2014/01/09撮影:
 五軒邸妙善寺山門     五軒邸妙善寺本堂・庫裏

圓光寺:日蓮宗;長明山と号する。
飾西郡坪田村にあり、慶長年中現地に移る。圓観院日善の開山。
2014/01/09撮影:
 五軒邸円光寺山門     五軒邸円光寺本堂・鐘楼
2016/04/26K.G氏情報:長明山と号する。六条本圀寺末、法縁:親師法縁、中本寺
 中本寺に付き、次の末寺を有する。
 妙法山園林寺 兵庫県篠山市追入149-1
 一妙山圓融寺 兵庫県加西市北条町338
 一乗山圓林寺 兵庫県加西市和泉町815
 帰命山日啓寺 兵庫県神崎郡神河町上岩195

本領寺:日蓮宗:光栄山と号する。
元和9年(1623)坂田町に創建され、本領院日賢(下総中山法華経寺の寺僧か)の開基。寛永16年(1639)法華口に移り、万治3年(1660)現地に移る。
2016/04/26K.G氏情報:光栄山と号する。六条本圀寺末、法縁:繁珠会(達師法縁)
2014/01/09撮影:
 五軒邸本領寺本堂

法華寺:日蓮宗;大乗山と号する。
もと三木郡にありしも天正年中高照院日登が御着村に移す。さらに慶長年中真如院日如が現地に移す。 (慶長5年池田輝政の築城、町割で現在地に移転。)法華宗播磨国触頭の地位であった。京都六条本圀寺末。
 ※御着(御着村)には上述のように大乗山法華寺が現存する。御着法華寺は日登上人代山号寺号の公称を許されるという。
享保年中に堂宇を再建、この堂宇は明治初期の失火で焼失。城内千姫堂を移して本堂する。これも昭和20年空襲で焼失、後に千姫堂は復元される。
2016/04/26K.G氏情報:大乗山と号する。六条本圀寺末、法縁:親師法縁
2014/01/09撮影:
 五軒邸法華寺山門     五軒邸法華寺全容     五軒邸法華寺本堂     五軒邸法華寺玄関庫裏

妙國寺:日蓮宗:罹る×妙光山と号する。→妙光山は誤、常在山と号する。
天文20年(1551)置塩城下に本講院日受が開山、開基は置塩城主赤松則房。のち河間町に移転、慶長年中に現地へ移る。
なお、置塩古城下には永禄年中等の碑銘が残り、今も妙國寺屋敷と呼ばれるという。
2016/04/26K.G氏情報:常在山と号する。四条妙顕寺末、法縁:繁珠会(達師法縁)
2014/01/09撮影:
 五軒邸妙国寺山門     五軒邸妙国寺本堂

永寿寺跡
※松平大和守家の転封とともに移転を8回程度繰り返した日蓮宗永寿寺は姫路時代五軒邸妙国寺付近にあったという。
 →永寿寺は上野前橋永寿寺<関東の諸寺中>を参照。

大法寺:日蓮宗
永禄年中(1558-)一心院日就の開基。慶長6年池田輝政の命で現地に移る。
昭和20年の空襲で灰燼に帰す。平成元年本堂・庫裡・客殿が再建される。
2016/04/26K.G氏情報:妙光山と号する。四条妙顕寺末。
2014/01/09撮影:
 五軒邸大法寺山門     五軒邸大法寺本堂     五軒邸大法寺境内

姫路坂田町下寺町
妙行寺:法華宗真門流:圓修山と号する。
慶長6年(1601)池田輝政夫妻の発願で建立される。本覚院日正上人の開山。
山門は享保7年/1722建立、昭和20年7月の姫路空襲で山門以外を焼失、現在は山門の他、本堂・庫裡・檀信徒会館・書院を有する。戦災復興で北側土地約300坪を道路に供用する。現在境内は約1000坪。
なお、日露戦争時、ロシア兵捕虜収容所であったと云う。
2014/01/09撮影:
 坂田町妙行寺山門     坂田町妙行寺本堂1     坂田町妙行寺本堂2     坂田町妙行寺庫裏
 坂田町妙行寺北門・本堂・庫裏

妙圓寺:法華宗陣門流、相模小田原喜見坊の開山で、池田輝政の城下町地割の時招聘され、慶長18年建立される。
開山は日能。
 未見。

姫路白国
蓮長寺:日蓮宗:顕正山と号する。
白国にある。情報皆無で詳細不詳。
2014/01/09撮影:
 白国蓮長寺:向かって右が本堂、中央右に日蓮上人像、左は庫裏などであろうか。
2014/05/06追加:K.G氏情報:
白国蓮長寺は昭和35年創建の新寺である。

2013/12/22撮影:
播磨龍野本行寺:法華宗真門流本隆寺末寺
遠壽山と号する。開創は:正平7年(1352)と云い、:大永8年(1528)改宗、開山は要法院日順上人(元亀元年(1570)寂)
なお、讃岐丸亀本行寺は万治元年(1658)竜野より移されると云う。これは同年竜野城主京極高和が竜野6万石から丸亀6万石余に移封されたことによるものである。
現在山門、本堂、鐘楼、庫裡を有する。
 竜野本行寺山門     竜野本行寺本堂     竜野本行寺鐘楼     本行寺歴代墓所

室津大聖寺・・・未見
○「日本歴史地名大系 兵庫県の地名U」1999 では
室津:・・・寺院は・・・日蓮宗大聖寺がある。
とあり、室津には大聖寺は現存する。
 ※室津大聖寺は明治末期、明石に移転するも、その後も屋敷・堂舎はそのまま現地に残り、現在も健在であると思われる。
○「播州室津追考記」寂静寺蔵、文化十年(癸酉)(1813) では
第十 恵光山大聖寺:・・昔は・・・繁栄なりしかいつとなく大破に及びて檀家なとも纔に残りし処に自正院日巡明暦年中(1655-)に再興せられし也。その時本寺なくてハとて則洛陽本圀寺の末寺となる。その後寛文のはじめ・・・京都妙覚寺の日充聖人末寺改めに西国に下向あり、その折からこの大聖寺も古より末寺なるよし古帳を持ち来たりて僉議遂げられ・・・・妙覚寺の末寺と成し也・・・・・
○「室津明細手控帳」明和7年(1770)見習・安永6年(1777)本役(「御津町史W」所収) では
一、恵光山大聖寺 北向 東西4間半南北9間 法華宗京具足山妙覚寺末
本尊 ・・・ 庫裡 3間ニ4間 地蔵堂 1間2尺ニ1間
境内 東西13間南北9間半 什物畠三十四枚・・・
慶長年中大穹院日恵中興 明暦年中自正院日巡本圀寺の末と成る 寛文年中公儀より御吟味にて妙覚寺日弁上人自往古末寺帳に有之由申立又妙覚寺末となる。
 ※以上の諸記録には大聖寺が大覚大僧正の開基であることは触れられていないが、以下の様に明石大聖寺の寺伝では大覚大僧正開基という。
○サイト「明石 大聖寺聖徒団」では以下の様に云う。(要旨)
文安3年(1446)10月揖保郡室津にて創建される。開基は大覚妙実上人(大覚大僧正)、開山は大要院日恵上人。
明治維新後、室津大聖寺は衰微し、
明治40年明石在住の資産家三國茂三郎の発願により、室津大聖寺「移轉寺御願」が出され、明石に移転する。
 ※上述のように明石に移転するも、室津の屋敷・堂宇はそのまま残されたものと思われる。
 また、明石大聖寺の寺伝では大覚大僧正開基というも、近世の記録には記されず、不確実であろう。


淡路の諸寺

淡路大聖山妙京寺

淡路三立山妙勝寺


伯耆の諸寺

米子:2012/12/21追加・2012/12/02撮影:
 (但し、本項は米子寺町の紹介を兼ねるため、日蓮宗4ケ寺以外の諸宗の寺院も掲載する。)
伯耆米子寺町の成立
慶長5年(1600)関ヶ原の後、幼少の中村一忠が18万石で米子入部。
そのとき幕府より横田内膳村栓が一忠の後見役に任命される。内膳は米子の町割りを行い、各地より寺院を移転させ、寺町が成立する。
寺町の総間数は230間半(約415m)、西から1.真宗大谷派専念山万福寺、2.浄土宗見龍山常照院心光寺、3.曹洞宗寛龍山法蔵寺、4.日蓮宗久遠山実成寺、5.日蓮宗普平山妙興寺、6.日蓮宗本栄山妙善寺、7.曹洞宗万福山安国寺、8.曹洞宗久坂山瑞仙寺、9.曹洞宗正覚山福厳院の九ヶ寺が直線に並ぶ。
さらに寺町西の灘町には10.真言宗吉祥院、寺町南の岩倉町には11.日連宗本教寺、12.浄土宗珠慶山凉善寺がある。
 米子寺町航空写真

米子寺町日蓮宗寺院
4.日蓮宗久遠山実成寺(実城寺):四条妙顕寺末。
久米郡倉吉・田中にあった實成寺が、町ぐるみで米子に移住させられ、寺院は現在地に移される。
倉吉城下からの移住民の菩提寺であったと推定される。
2012/12/02撮影:
 米子實成寺山門     米子實成寺題目碑     米子實成寺本堂

5.日蓮宗普平山妙興寺:堺妙国寺末。
永禄7年(1564)瑞應院日逞上人(阿波国三好氏出身・堺妙國寺日b上人の叔父)が今の場所に草庵を結んだことが草創と云う。
本寺は内膳の菩提寺であり、内膳の墓がある。内膳は三好氏家臣であり、その当時に堺妙国寺日b上人に帰依したといわれる。
2012/12/02撮影:
 米子妙興寺山門     米子妙興寺本堂

6.日蓮宗本栄山妙善寺:四条妙顕寺末。
元和2年(1619)あるいは慶長元年(1596)日受上人の開山と云う。
本堂前に、道笑町の免地屋が天保二年(1831)に建立した一字一石法華供養塔がある。
妙見堂があり、妙見大菩薩を祀る。
明治6年知新小学校(女子)が妙善寺に設置される。
2012/12/02撮影:
 米子妙善寺山門     米子妙善寺本堂     米子妙善寺妙見     米子妙善寺法華供養塔

11.日連宗本教寺:岩倉町に所在
もと浄昌寺と称し天正年中(1573-92)の末、古引(古曳)吉種が、母の追善供養のために城内に建立すると云う。古引(古曳)吉種は吉川広家の命で米子城の築城奉行を勤めた人物である。しかし吉種は朝鮮出兵中朝鮮で戦死する。
そののち吉川広家により、灘町北東の高砂山に移建され、その頃に本教寺と称すると云う。さらに中村氏による城下整備により現在地の岩倉町に移ると云う。
2012/12/02撮影:
 米子本教寺山門     米子本教寺題目碑     米子本教寺本堂

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参考;米子寺町その他諸宗の寺院
伯耆安国寺
7.曹洞宗万福山安国寺
暦応年間(1338-42)足利尊氏が臨済宗安国寺として大寺(現在岸本町)に建立すると伝える。
本堂は12間四方で数十の塔頭をもつ大伽藍であり、寺領は3000石という。
   ※大寺には、白鳳期、大寺廃寺が創建される。
  東向きの法起寺式伽藍配置を取り、金堂の瓦積基壇と三段舎利孔を持つ塔心礎が残存する。
  またこの付近の長者原台地上には坂中廃寺があり、塔心礎が残る。
  奈良末から平安初期の瓦が散布、伽藍配置等不明。
   また、大寺には、南北朝期に安国寺が置かれると云う。
   (この安国寺は古代大寺廃寺の転用なのかあるいは新に建立されたのかははっきりしない。)
  いずれにせよ、ここは要衝の地であり名和氏などの南朝勢力を抑える目的があったと云う。
  往時は42坊を数えるも、永禄8年(1565)杉原盛重に焼き討ちされる。なお坂中の普門寺は、安国寺奥の院と伝える。
応仁2年(1468)、火災をまぬがれた本尊を、博労町南の田中で発見した久米郡和田村定光寺(現倉吉市)瑞翁玄鋭によって一宇が建立され、曹洞宗寺院として再興される。
永禄年間(1558-70)には尾高城主杉原盛重の軍に焼かれたと伝える。
慶長年中に寺町に移されると云う。
現在薬師堂に安置する薬師如来像が大寺にあった時代の本尊であると伝える。
明治6年義方小学校(男子)が瑞仙寺と安国寺に設置される。
 伯耆安国寺山門     伯耆安国寺本堂     伯耆安国寺薬師堂
◆その他寺院
1.土真宗大谷派専念山万福寺
石見邇摩郡(石見銀山)勝応寺浄誓上人が、文禄3年(1595)門徒とともに米子城下五十人町に移り、中村氏入部後寺号を万福寺に改め(第二世西賢代)現在地に移転を命じられたという。
 米子萬福寺山門
2.浄土宗見龍山心光寺
天正年間(1573-91)会見郡尾高村尾高城下にあった京都知恩院末源光寺が、慶長7年(1602)に現在地に移る。
 米子心光寺山門     米子心光寺本堂:RC造本堂には相輪を置く。
3.曹洞宗寛龍山法蔵寺
開基は中村伯耆守一忠、米子瑞仙寺八世陽山祖全の開山、町割りに際して建立される。
 米子法蔵寺山門
8.曹洞宗久坂山瑞仙寺
応永2年(1395)山名氏により米子・日下で開創され、慶長年間(1600頃)米子城主加藤貞泰の帰依により、現在地に一寺を建立し、これが米子瑞仙寺となる。
しかし日下にも瑞仙寺は残り、本末関係や寺領の争いを繰り返すと云う。
境内の金比羅大権現は、伯耆守護山名氏の陣中守護本尊が寄進されたものと伝える。
明治6年義方小学校(男子)が瑞仙寺と安国寺に設置される。
 米子瑞仙寺山門
9.曹洞宗正覚山福厳院
延宝2年(1674)日野町裏より現在地に移転と云う。
 米子福厳寺山門
10.真言宗吉祥院:灘町に所在
真言宗御室派。鳥取藩米子荒尾氏の祈願所。勝田(かんだ)神社別当であった。寛延2年(1749)火災焼失。
 米子吉祥院山門
12.浄土宗珠慶山凉善寺:岩倉町に所在
凉善寺はもと久米郡岩倉にあり法界山大蓮寺と号するも、米子城主鳥取藩家老横田内膳村詮により岩倉城下の住民とともに米子に移されたという。その後山号と寺号を改めると云う。
 <写真なし>
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米子常住山感應寺
常住山と号する。身延山末。
2017/07/
 関ヶ原の戦後、中村一忠が伯耆国へ入部し、慶長5年(1600)伯耆国米子城を完成させた頃、執政家老の横田村詮により中村家(米子城主)の菩提寺として建立されたと伝わ る。寺領は300石。
横田村詮は中村家が駿河国府中(駿府)を治めていた頃より静岡感應寺十一世日長上人と昵懇であったといい、感應寺を建立するにあたっては城主の菩提寺とすることで寺格を高めた上、日長上人を懇請招聘する。
横田村詮の招聘を受けた日長上人は開祖に六長老の一人である佐渡阿闍梨日向上人を、二祖に静岡感應寺再興の師である日朝上人を、自らを三世とし、感應寺の寺格を さらに高め、寺観を整えると云う。
 ※日長は駿河感応寺11世、圓覺院と号する。
 慶長14年(1609)米子城主の中村一忠が二十歳で急逝すると垂井勘解由延正、服部若狭邦友の小姓二名も殉死し、共に当寺埋葬される。
中村一忠の墓碑が建立されている場所にはかつて御影堂が建ち、三名の木像が祀られていたとされるが、御影堂は朽ち、中村一忠の350回忌に合わせて五輪塔が建てられ 、木像は本堂に遷座するという。
常住山感應寺は米子の他に静岡、和歌山にもあり、三寺は日本法華三感應寺と呼ばれる。
 →紀伊和歌山感應寺
末寺:
  米子感應寺末:日浄山吉祥寺(鳥取市細見)
  米子感應寺末:龍感山浄蓮寺(米子市大崎)
  米子感應寺末:妙覚山法輪寺(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)
  米子感應寺末:長隆山正法寺(鳥取県日野郡日野町黒坂)
2017/07/25追加:
○「妙本寺誌」宮原日鷲、河岡妙本寺、平成10年 より
◆慶長期の特異な内規
 「(伯耆妙本寺)14代圓妙坊日運ノ同座、圓覺坊日長ハ甲州巨摩小室産、慈雲日新門弟、京洛法華寺住、甲州小室徳栄山(小室妙法寺)17代、駿州感應寺11代、伯耆米子感應寺開檀、雲州啓雲山開山。(※雲州啓雲山は不詳)
中村式部大輔嫡子一忠公、伯耆太守封サレ尾高ニ入ル老臣横田内膳、米子府縄張ニ兵法才智ノ上人併道、当山住ス内膳慶長8年誅殺入封3年、裏砦台ニ葬ス日長九年出雲ニ出国ス同12年当山ニ養老、同16年示寂、寿90余。徳栄山に葬ス。
感應寺伝とはいささかに相異する。龍巌院日長上人と感應寺は誌す。感應寺日長は伯耆に入国して、当山に滞在1年、米子に2年、内膳亡き後に出雲に出国、伯耆に再入国は4年後で、老病体で来訪、5年後に当山で示寂。とある。

河岡具足山妙本寺
創建時は具足山妙本寺と号する。しかし、近世に不受不施及び不受悲田が禁制となる過程で、対抗処置として川上山妙春寺と改号する。
近年、創建時の具足山妙本寺に復号する。また、昭和30年代に日蓮宗を離脱、2016年日蓮宗に復帰という。
 → 伯耆河岡妙本寺


出雲の諸寺

出雲平田

2012/10/19追加:2012/09/29撮影
出雲平田本妙寺:京都要法寺
出雲四個大坊の一つ平田大坊と云う。常住山と号する。創建は延慶2年(1309)日尊上人を開基とする。
出雲平田開所である小村・杉原一族の発願と云う。
※小村氏は、正和年中(1312-1316)、近江国から平田に移住し、杉原氏は、やや遅れて、文宝年間(1320-)にいずれからか移住し、未開の沼地であったこの地を開拓、平田の基礎を築くと伝える。
そのときから小村氏と杉原氏は協力関係にあり、本妙寺も2氏が共同して建立すると伝える。また、当地にある熊野権現(明治5年宇美神社と改号、神宮寺と分離)も 応永元年(1394)、2氏が紀伊熊野権現を勧請すると伝える。
 出雲平田本妙寺山門     出雲平田本妙寺本堂     出雲平田本妙寺鬼子母神     出雲平田本妙寺鐘楼

平田法恩寺:2012/12/21追加:2012/12/01撮影
妙光山と号す。身延山末寺。永禄元年(1558)本迹院日祇の草創なりと云う。京洛妙覚寺末。
日祇上人は、京都本山妙覚寺の弟子であったが、天文法難で堺に移り、その後地方の広宣布教の旅に出たと推測されている。出雲では、今市連紹寺、大森妙正寺を草創し、妙正寺で遷化と伝える。
創建については、異説もあり、開基小村家の文書には永禄10年(1657)と記録される。
開基檀越小村家は、正和年中(1312-16)に近江からこの地に移住し、未開の地を開拓し、平田の基礎を築く。
小村家の先祖は、法華宗本妙寺を建立し、小村家14代市良衛門は、本迹院日祇上人に深く帰依し、境内外三反歩を寄進し、法恩寺を建立し、菩提寺とすると云う。なお享保と平成の2度全焼する。
 平田法恩寺本堂     平田法恩寺堂宇:名称不明
 なお、東面して山門があるが写真はなし。

平田古平田寺:2012/12/21追加:2012/12/01撮影
宗信山と号す。京都要法寺の旧末寺であり、現在は日蓮宗興統法縁会に属する。
寛文4年(1671)<寛文11年とも云う>本妙寺15世詮量阿日増上人を開基とし久円禅定を開山とす。
当時「古平田薬師堂」と称するも、3世宗信坊日求上人代、本山要法寺より末寺帳に登載され「古平田山薬師寺」と公称する。
昭和56年山号を「宗信山古平田寺」と改称する。
なお、寺院紹介では
出雲風土記に「新造院」と記され同註に「平田村薬師堂也」と記されており、千三百年の明確なる史実は伴わないが、
ここに、「古平田」の起源が存する。(中略)
当地最古の新造院の仏像が当山の薬師如来であることは肯定せざるを得ない。古平田薬師の仏像は仏の面形横二寸五分、無手無足、縦三寸五分、長さ二尺と記されて仏体の破損は甚だしく耳のみが明らかであり、他は全く仏像の姿ではなく、古色蒼然たるものである。開扉は一月八日、七月七日を恒例とし、この仏像にまつわる仏説、逸話は数多く存する。

とある。
以上によれば、新造院のものと称する甚だしく破損した古仏薬師如来が古平田寺に伝わるようであり、また古平田寺はその新造院を継承する寺院と称するように解釈される。
 (※しかし、その真偽のほどを判断する材料は持ち合わせていないので、上記の真偽の判断は保留する。)
 古平田寺前景     古平田寺本堂     古平田寺背景:本堂斜め裏の堂宇跡(名称は不明)から撮影
○なお、当寺の南隣に天台宗王山瑞雲寺と号する「平田薬師」が存在する。
瑞雲寺縁起によると本尊薬師如来像は行基菩薩の作と伝える。
当初は泉光院と号し一時修験でもあったが、戦国期に荒廃する。享保17年平田村神宮寺の寂湛が中興し、薬王山瑞雲寺と改号すると云う。
とうことから見て、現在の平田薬師は出雲風土記の云う「新造院」や「平田村薬師堂」とはほぼ関係がないと云えるであろう。
参考:平田薬師参道仁王門     平田薬師仁王門     平田薬師旧鐘楼か     平田薬師本堂庫裏
    平田薬師鐘楼         平田薬師本堂
参考:
平田の付近は楯縫郡に属する。その楯縫郡は4つの郷からなる。
佐香郷:現在の出雲市小境町、鹿園寺町、園町、坂浦町、美野町付近。
楯縫郷:現在の出雲市多久町、多久谷町、小伊津町、三津町、上岡田町、岡田町付近。
玖潭郷:忽美郷から神亀3年(726)に改名。現在の出雲市久多見町、東福町、東郷町付近。
沼田郷:努多郷から神亀3年(726)に改名。現在の出雲市本庄町、万田町、西郷町、西平田町の一部、平田町の一部、口宇賀町の一部付近。



大覚大僧正開基寺院

 大覚大僧正開基寺院<三備(備前・備中・備後)、三備以外>、備前曹源寺寺中大光院、備中西辛川大覚堂、
 備中軽部大覚寺
  → 大覚大僧正開基寺院

日樹上人関連寺院

 備中屋守法福寺、備中屋守仏乗寺、江戸土冨店長遠寺、江戸市野倉長勝寺 など
  → 日樹上人供養塔


美作の諸寺

鯰随縁寺:美作市鯰
不変山と号する。京都妙覚寺末。近年に本堂・山門などの堂宇が造替されたようである。
以上の他に情報は皆無である。
2015/09/15追加:「備北・美作地域の寺」川端定三郎、2002 より
寛永18年(1642)江見休夢居士の建立なり、それより以前江見氏鳥越城在城の折、持仏堂法泉坊堂宇を現地に移し、寺号に改め檀越となる。江戸末期日正が在寺という。
2015/04/18撮影;
 随縁寺全容     随縁寺山門     随縁寺本堂1     随縁寺本堂2     随縁寺本堂3
 随縁寺鐘楼     随縁寺庫裡     随縁寺庫裡2     随縁寺堂宇:堂宇の名称の確認をせず、堂宇名不明。

津山林田は森氏が津山城築城の時、城東に設けた寺町で往時は10ヶ寺あり、現在では6ヶ寺残る。その参道が寺下通りで、通称「東寺町」といわれる。※戦前に妙津寺の前身が成立し、これを加えれば7ヶ寺となる。
津山林田妙津寺:本門佛立宗:大阪清風寺末、大坂清風寺が京都宥清寺末とすれば、宥清寺孫末ということになる。
現住の祖母が大阪で出家し、岡山へ来住、信者が現在地の土地を寄進し、岡山より当地へ移る。
昭和9年7月仮親会場設立、昭和26年現本堂建立というも良く分からない。 要するに、昭和初期の成立であり、江戸期から寺下通りに寺地を構えた寺院ではないことは確かであろう。
内陣には日蓮、日隆、日扇各上人を祀る。
2015/04/18撮影;
 妙津寺本堂     妙津寺庫裡     妙津寺納骨堂上題目碑

津山林田蓮光寺:京都妙覚寺
中世には林田郷と呼ばれ、津山日蓮宗の発祥の地である。
慶長8年、森忠政津山入部、慶長15年(1610)本光院日秀、この地に明星山蓮光寺を開山する。開基檀越は金谷佐大夫夫妻と伝える。
寛文年中、徳川幕府の不受不施への禁圧、所謂寛文の法難により、衰微する。
延宝年中、第5世是音院日厳の入寺により再興される。
天保末年、本堂を焼失、嘉永元年(1848)第25世浄真院日誠により本堂再建。
昭和62年新本堂落慶。
2015/04/18撮影;
 蓮光寺全景1     蓮光寺全景2     蓮光寺題目碑     蓮光寺山門1     蓮光寺山門2
 蓮光寺本堂1     蓮光寺本堂2     蓮光寺鐘楼?     蓮光寺庫裡

津山林田本蓮寺:京都妙満寺
開創は慶長19年(1614)本光院日證によると伝える。
明治9年児玉日容上人本蓮寺に赴任、明治19年この地に津山顕本講(津山弘通所)を開設する。
日容上人は明治23年遷化。
明治31年日蓮宗妙満寺派が独立、日容上人の指定により顕本講の名を採って顕本法華宗と宗名公称する。
日容上人の墓所は当地にある。
2015/04/18撮影;
 本蓮寺山門     本蓮寺本堂1     本蓮寺本堂2     本蓮寺庫裡・客殿
 日容上人墓碑

津山西寺町妙法寺
長昌山と号する。京都妙覚寺末。
永享12年(1440)頃、山名忠政が鶴山柳の段に福聚山妙王院を創建することに始まるという。
元亀元年(1570)頃、法恩院日充上人中興し、妙法寺と改称する。
慶長8年(1603)森忠政が美作入部、築城地を鶴山に決定する。
これに伴い妙法寺を南新座へ移す。その後、南新座は武家地となり、元和3年(1617)西寺町の現在地に移る。
安永年中(1772〜81)、山号を長昌山と改号する。
また境内は広大な規模を誇る。
 本堂は桁行5間、梁間6間、向拝1間付きで、入母屋造本瓦葺。
建築年代は板御本尊墨書および鬼瓦銘により、承応2年(1653)と推定される。
正面奥行2間を三方吹放しの札堂、その奥を内陣とし、境には高敷居を入れる。内陣後方に四天柱を立て、唐様須弥壇を置く。
多くの建築彫刻(実見せず)を施し、江戸前期大型日蓮宗本堂建築である。
2015/04/19撮影;
 妙法寺山門1    妙法寺山門2    妙法寺山門3    山門前題目碑    妙法寺裏門1    妙法寺裏門2
 妙法寺本堂1    妙法寺本堂2    妙法寺本堂3    妙法寺本堂4    妙法寺本堂5    本堂前題目碑
 妙法寺客殿庫裡    妙法寺客殿    妙法寺庫裡
 妙法寺鐘楼     妙法寺三十番神    妙法寺祠(堂名不明)

津山西寺町本行寺
延寿山と号する。美作地方における日蓮宗興隆の一拠点であった。京都妙覚寺末。
文明年中(1469〜87)、関東から守兵部保重、堅田浄作入道頼国、その子新左エ門為頼等の武人が美作に来たりて、林田郷に牢居する。<※意味が不明であるが、3人は何かの罪を犯し、美作で「牢居」の罰を受けたという意味であろうか。>
3人はいずれも法華宗の信者であり、当時美作には法華宗寺院が無く、京都妙覚寺第12世日寮上人に請いて一寺を建てんことを計るという。
日寮上人は、照知院日立上人を下らしめ、弘教にあたらせ、多くの信者を得て、遂に堂宇を林田丹後山の麓に創建し、延寿山本行寺と称することとなる。
以来、宗風作州のうちに普及するに至る。しかし第5世日誉上人、永禄4年(1561)寂して法嗣なく、消滅の危機に瀕する。
この時苫西郡入村久塚山無量寺(現鏡野町入・西寺町妙法寺末)の法音院日繕上人、本行寺の廃滅せんことを憂慮し、備前金川妙国寺日繕上人を招請して本行寺の中興となす。上人には帰依するものが多く、美作地方における法華宗の総導師となる。
 慶長9年(1604)南新座に移り、元和2年(1616)現在の西寺町に移る。
第8世日栄上人の時に至って、寛文の大法難に際会し、日栄上人は宗義を持して出寺し、堂宇もまた法難の犠牲になって破滅するに至る。
およそ200年後の文政5年(1822)第19世日運上人の時に現在の本堂・庫裡を再建する。
また第23世日浄上人の時には表門を再建し、右わきの「一字一石」の宝塔を造立する。
昭和60年、本堂・庫裡・鐘堂・外塀等の大修理が竣工。
2015/04/19撮影;
 本行寺山門     本行寺伽藍      本行寺本堂     本行寺鐘楼     本行寺庫裡

津山西寺町妙勝寺
法光山と号する。京都妙覚寺末。
元は院庄(神戸村)にあり金剛寺と称する真言宗寺院であったというも、日勝により改宗する。
津山藩主森氏の意向により、三世日厳の時南新座に移り日蓮宗妙勝寺と称する。
慶長9年(1604)あるいは元和3年(1617)現在地の西寺町に移転する。
2015/04/19撮影;
 妙勝寺鐘楼門1    妙勝寺鐘楼門2    妙勝寺題目碑    妙勝寺本堂    妙勝寺庫裡    妙勝寺稲荷
 妙勝寺鐘楼門・本堂

参考: 日蓮宗ではないが、西寺町に本源寺がある。5棟の重文建築を備えるので、それを取り上げよう。
津山寺町本源寺:臨済宗妙心寺派である。東海山と号する。
慶長8年(1603)森忠政、美作一国186,500石を拝領、美作(院庄)に入部する。
慶長9年に院庄を出て鶴山に築城を開始する。
同年、西々条郡神戸村(現津山市神戸)にあった安国寺を菩提所と為し、寺を小田中村に移し、海晏禅師を迎えて安国寺中興の祖とす。開基は森忠政である。
慶長12年安国寺を西今町の北(現在地)に移し「萬松山龍雲寺」と改号する。
天和3年(1683)忠政の50遠年忌に当たり戒名「本源院殿前作州太守先翁宗進大居士」から、寺名を「龍雲寺」から「本源寺」に改める。
元禄10年(1697)4代長成が死去し、末期養子として2代長継の第24子で家臣となっていた関衆利が末期養子と認められるも、発狂し、跡目相続不能となり、津山藩森家は改易となる。
改易後、森家は長継が備中西江原藩(2万石)、長俊が播磨三日月藩(1万5000石)、関長治が備中新見藩(1万8000石)として立藩する。
以後は本源寺は森家・津山藩松平家両家の庇護を受ける。
平成25年本堂、庫裡、霊屋、霊屋表門、中門の5棟が重文指定を受ける。本堂は慶長12年上棟。
森家御霊屋(方四間):寛永16年(1639)二代長継の建立。
忠政、二代長継、三代長武、四代長成、父可成、兄長可、乱丸、坊丸、力丸、忠政内室、子息、息女など、森家と関家と松平家、全29の霊碑を安置するという。
2015/04/19撮影;
 本源寺惣門    本源寺中門:総門から中門までの参道両側は蓮池や松林のある庭であったと云う。
 本源寺本堂1    本源寺本堂2    本源寺庫裡
 本源寺霊屋表門1    本源寺霊屋表門2    本源寺霊屋表門3    本源寺霊屋表門4    本源寺霊屋表門5
 本源寺霊屋表門6    本源寺霊屋表門7    本源寺霊屋表門8     本源寺霊屋    本源寺鐘楼

美作落合垂水本覚寺:真庭市落合垂水
随縁山と号する。京都妙覚寺末。
「大覚大僧正と三備開基寺院」原田智詮(仏乗寺住職)著、昭和49年 本覚寺縁起の項 より
延文5年(1360)大覚大僧正来錫の砌、当郷下市瀬に法華堂という草庵あり。その草庵にて大覚大僧正逗留説法17日余演説をなし随縁山本覚寺と号す。その後中絶に及び200余年を過ぎ、今はその處、法華家舗という田地の字呼伝えたり。
その後天正2年(1574)心性院日悟上人当地引地中興相成る。
開基大覚大僧正、二祖心性院日悟上人、中興祖、万治2年(1659)化
2015/04/19撮影;
 本覚寺下題目碑:側面に日蓮上人五百年遠忌と刻む、五百遠忌正当は天明元年(1781)であるからその頃の建立であろう。
 本覚寺参道    本覚寺遠望:本覚寺は崖状の山腹にある。
 本覚寺本堂1    本覚寺本堂2    本覚寺本堂3    本覚寺本堂4    本堂前題目碑1    本堂前題目碑2
 本覚寺庫裡    本覚寺鐘楼    本覚寺梵鐘
 拝殿・本殿の堂名は不明、おそらくは三十番神堂であろう。
 拝殿・本殿・宝庫    本覚寺拝殿
 本覚寺本殿1    本覚寺本殿2    本覚寺本殿3    本覚寺本殿4    本覚寺本殿5
 本覚寺本殿6    本覚寺本殿7
 本覚寺放置梵鐘:本殿前に梵鐘が放置されるも、その理由は分からない。
 本覚寺歴代墓碑:本堂裏をさらに登と歴代墓所が整備されている。中央に日蓮・大覚大僧正・日悟上人の墓碑が並ぶ。
 日蓮・大覚・日悟墓碑:大覚大僧正墓碑は新しいもので、急造したものである。

美作久世興善寺:真庭市久世
正法山と号する。京都妙覚寺末。
由緒、開基、年紀など全く情報がないため、一切が不明。
北方の山中数Km入ったところに奥之院(お滝さま)があり、ここには拝所?があるという。(未見)
2015/09/15追加:「備北・美作地域の寺」川端定三郎、2002 より
慶長8年(1603)の建立。文化12年(1815)当地代官重田又兵衛本堂再建、大正12年本堂山門間に鉄道が敷設される。
2015/04/19撮影;
 興善寺仁王門1    興善寺仁王門2    興善寺仁王門3    興善寺中門と姫新線
 興善寺題目碑1    興善寺題目碑2    興善寺本堂1    興善寺本堂2    興善寺庫裡
 興善寺妙見大菩薩1    興善寺妙見大菩薩2    興善寺妙見大菩薩3    興善寺妙見大菩薩4


備前の諸寺

和気妙應寺:和気郡和気町田原上1265
寺伝では、慶長8年(1603)田原上村西山城主宇喜多秀正の創立で、その子息秀景身延日乾上人に帰依し日秀と号す。よって秀正西山城の麓に本寺を建立。身延末。時正山と号す。
 →下に掲載の「津倉稲荷」を参照。

備前牛窓本蓮寺; →備前牛窓本蓮寺

備前福岡妙興寺
教意山と号する。本寺については不明。
   →2017/01/29追加:「KG氏」ご提供情報:本寺は小湊誕生寺である。
○「岡山の古寺巡礼」昭和59年 より;
応永10年(1403)播磨守護赤松氏の出である権大僧都日伝上人が父赤松右京大夫則興の菩提のため、建立と伝える。
 ※山号寺号は法号教意宗興に因む。(「岡山備前地域の寺」)
盛時には十数坊(10坊と1院という)があったという。寛文年中、池田光政の廃仏により、真浄坊、本住坊の2坊となり、この2坊も今は廃寺となる。(但し建物は現存する。)
享保元年(1716)堂宇を火災焼失、現在の本堂・客殿・庫裏は安永3年(1774)の再建と云う。その他西門および仁王門がある。
なお、黒田孝高(官兵衛/如水)の曽祖父・祖父の墓碑が残る。
また筑前博多の城下・福岡の名称は黒田長政(孝高の長子)が入府後に、この地福岡を偲んで命名と云う。
○2014/02/13追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2010/09/07撮影・ご提供:
 備前福岡妙興寺本堂     妙興寺庫裡客殿本堂
 福岡妙興寺仁王門庫裏:なお西門と仁王門の距離は極端に短いと云う。
○2017/01/01撮影:
往時からみて、衰微したのであろうが、それでも往時の風格を残す印象である。
 備前福岡妙興寺山門     妙興寺門前題目碑     妙興寺山門仁王門
 備前福岡妙興寺仁王門1:寛保元年(1741)建立。      備前福岡妙興寺仁王門2     備前福岡妙興寺仁王門3
 備前福岡妙興寺鐘楼
 備前福岡妙興寺本堂1     備前福岡妙興寺本堂2     備前福岡妙興寺本堂3
 備前福岡妙興寺本堂4     備前福岡妙興寺本堂5
 妙興寺客殿庫裏     備前福岡妙興寺客殿     備前福岡妙興寺庫裡1     備前福岡妙興寺庫裡2
 備前福岡妙興寺拝殿     妙興寺拝殿本殿:残念ながらこの拝殿・本殿の名称は判明せず。
 妙興寺上人堂?:堂内には袈裟姿の僧侶石像を祀る。 例えば日伝上人なのであろうか。堂の名称は判明せず。
 妙興寺日蓮大菩薩碑1     妙興寺日蓮大菩薩碑2     妙興寺大覚大僧正碑
 妙興寺日蓮上人遠忌碑:550年、600年、650年、700年遠忌など
かっての坊舎本住院は健在であるが、眞浄院堂舎は退転、寺門・庭などが残る。
 寺中本住院
 寺中眞浄院寺門:坊舎は退転するも、寺門のみ残る。      寺中眞浄院跡:坊舎は退転し、児童遊園となる。
 寺中眞浄院庭園跡:遊園の中に辛うじて庭園の痕跡が残る。
戦国期の墓碑:
 黒田高政墓碑:高政は永正8 年(1511)この地福岡に移住、大永3年(1522)この地に没す。その子重隆は大永5年播州に移住、重隆の子職隆は姫路城主となる。職隆の子が官兵衛孝高であり、さらに孝高の子が長政(筑前52万石福岡城主)である。
 黒田家墓地か
 宇喜多興家墓碑:興家は宇喜多直家の父

備前成就寺:備前成就寺

備前中田龍渕寺:建部町、白玉山と号す。
「岡山・備前地域の寺」 より;
永正2年(1505)松田氏の開基で、大乗院日香上人を開基とする。当初は市場(中田の北方)に建立される。
慶長2年(1597)火災焼失、慶安2年(1649)化城院日城上人が再建、現在地に移す。
○2014/02/08追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2010/04/06撮影/ご提供:
 備前中田龍渕寺
○2014/03/02追加:「第7回ふるさと探訪(文化財編)資料」 より:
永正2年(1505)金川城主松田元成の開基で、その弟である大聖院日香上人開山という。
市場の深い淵を臨む所に立地し、故に龍渕寺と称す。
第4世移住後無住となり、元亀3年(1572)松田氏滅亡、慶長3年(1598)火災で類焼す。
この時、宇垣郷佐波村妙国寺8世化城院日城上人が入山(第5世)し、本坊、庫裡、塔中1坊を再建する。
慶安2年(1649)水害を避けて、高台の現在地に移転。
寛文6年(1666)11世日賢上人の時、池田光政の寺院淘汰により、不受不施の当山及び末寺浄源寺など3寺を破却する。
その後、廃寺となることを避ける為、受派に転じた京都妙覚寺末として再建する。
現本堂は昭和12年の再建、他に鐘楼、三十番神などがある。

備前御津中牧十谷題目碑
この題目碑には題目と大覚大僧正と刻み、左には「弘化二乙巳年」の年紀がある。(弘化2年は1845年。)
右には「家内安全五穀成就」と刻む。
備前のこの地は備前法華の中心の一つであり、十谷の集落あるいは十谷を中心とした集落の日蓮宗宗徒が世の中が騒がしくなった幕末の弘化2年、家内安全と五穀成就を願って建立したものであろうと推測される。
2016/04/12「A」氏(岡山模型店DAN)2010/09/07撮影・ご提供:
 備前御津中牧十谷題目碑:背後の中央を左右に貫くのは築堤であるが、それはJR津山線の築堤である。
撮影場所・撮影された題目碑を機会があれば訪れたいが、その場所を奇しくも写した写真を掲載したページがあるので、その写真を転載する。題目碑のある場所は十谷の火の見櫓の傍らである。
 十谷火の見櫓・題目碑:ページ「津山線 野々口−牧山」中より転載。

備前日應寺
「岡山・備前地域の寺」、「岡山の神社仏閣」 「岡山の門」 より
養老2年(718)報恩大師の建立と伝え、応永山法華経寺と号し、三論宗であったと伝える。
また備前津高郡波河村(芳賀顕本寺)に生まれたとされる報恩が入寺したと伝える。 後に報恩が備前48ヶ寺を建立した時、その根本道場となし、勅命山日應寺と改号するという。
なお、山号の「勅命山」を含め、寺内と付近には、「勅使堂」、「勅使道」、「王御膳所」の旧跡などを残す。これは報恩大師が桓武天皇の病気平癒を祈祷し、平癒の霊験が見え、勅使が来たりてこれを謝したという言い伝えによるものである。
要するに中世以前に創建された寺院であることを示すのであろう。
永禄2年(1559)金川城主松田将監元賢によって天台宗から日蓮宗に強制改宗させられ、備前法華の一翼となる。
この時、吉祥山と山号を改号する。
明治31年勅命山と復号する。
◎日應寺現況
現在は、仁王門・鐘楼門・本堂・番神堂・客殿・太鼓堂・庫裡・位牌堂・堂名不詳の新築堂・収蔵庫などがある。
◇印は2014/03/02追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2008/02/12撮影・ご提供画像、無印は2015/08/23撮影
 ◇備前日應寺遠望
○仁王門:三間一戸の八脚門、正面7.1m、側面4.1m、本堂よりやや早い18世紀末頃の建立であろう。(「岡山の門」)
平成9年解体修理という。
 ◇備前日應寺仁王門
 日應寺仁王門11     日應寺仁王門12     日應寺仁王門13     日應寺仁王門14
 日應寺仁王門15     日應寺仁王門16     日應寺仁王門17     日應寺仁王門18
 日應寺仁王門19     日應寺仁王門20
○鐘楼門:建築年代を含め詳細不明
 ◇日應寺鐘楼門前
 日應寺鐘楼門2     日應寺鐘楼門3
○本堂:5間×4間、入母屋造・屋根茅葺(現在は銅板葺)。はっきりした建築年代は不明(江戸後期の建築)。
 ◇備前日應寺本堂
 日應寺本堂11     日應寺本堂12     日應寺本堂13     日應寺本堂14     日應寺本堂15
 日應寺本堂16     日應寺本堂17     日應寺本堂18     日應寺本堂19     日應寺本堂20
 日應寺本堂21     日應寺本堂22     日應寺本堂23
 本堂は天保年中の建立ともいい、天井絵は屋内外に約400枚があるという。

日應寺本堂天井絵

本堂天井画11
本堂天井画12
本堂天井画13:左図拡大図
本堂天井画14
本堂天井画15
本堂天井画16
本堂天井画17
本堂天井画18
本堂天井画19
本堂天井画20
本堂天井画21
本堂天井画22
本堂天井画23
本堂天井画24
本堂天井画25
本堂天井画26
本堂天井画27
本堂天井画28
本堂天井画29
本堂天井画30
本堂天井画31
本堂天井画32
本堂天井画33
本堂天井画34
本堂天井画35

 日應寺手水舎
○収蔵庫:以前は番神堂に安置していた毘沙門天立像、不動明王立像(鎌倉期、重文)を蔵す。
 日應寺収蔵庫
○客殿・庫裡
 日應寺客殿/庫裡1     日應寺客殿/庫裡2
 日應寺客殿(推定)      日應寺庫裡(推定)1     日應寺庫裡(推定)2     日應寺太鼓堂
○番神堂 :桃山期もしくは江戸初期の建立か、3間×3間、入母屋造、向拝を付設し前1間は吹き放し、但し当初から番神堂であったかどうかは不明という。昭和57年解体修理する。

備前日應寺番神堂

日應寺番神堂11
日應寺番神堂12
日應寺番神堂13
日應寺番神堂14:左図拡大図
日應寺番神堂15
日應寺番神堂16
日應寺番神堂17
日應寺番神堂18
日應寺番神堂19
日應寺番神堂20
日應寺番神堂21
日應寺番神堂22
日應寺番神堂23
日應寺番神堂24
日應寺番神堂25
日應寺番神堂26
日應寺番神堂27
日應寺番神堂28
日應寺番神堂29

 日應寺位牌堂:推定
 日應寺新築堂宇:本堂横手の堂宇は新築であり、堂宇名は不明、本堂背後は推定位牌堂
 日應寺稲荷明神
 日應寺勅使堂:勅使が滞在したという旧跡といい、今堂を建て勅使明王として祭祀する。
 日應寺歴代墓碑
なお、永和3年(1377)年紀の梵鐘を有するという。(未見)この梵鐘は児島湾から引き揚げられ、妹尾盛隆寺にあり、日応寺に移したものという。

祖山妙覚寺祖山妙覚寺

備前妙善寺備前妙善寺

津倉稲荷:日蓮宗妙応寺津倉稲荷別院
殆ど情報がないが、ページ「津倉稲荷堂の由来」では以下のように述べる。
 縁起類が伝わらず由緒は不詳。口伝では池田光政が因幡鳥取から備前岡山に国替になったとき、岡山城の真西に当たる当地(津倉)に最上位経王大菩薩を祀ったことに始まるという。
 現在の正式名称は、「宗教法人 日蓮宗妙応寺(通称:妙応寺津倉稲荷別院・津倉稲荷堂)」と云う。
また、平成元年に和気妙応寺第38世太田智光上人および深い信仰者の方々の協力の下で本院が新築されたことで妙応寺の飛地境内となり現在に至る。  → 和気妙應寺は上に掲載
 ※和気妙応寺の別院(飛び地)であるということであるが、詳細は不詳。
2014/11/22撮影:
 津倉稲荷鳥居    津倉稲荷入口    津倉稲荷石階    津倉稲荷境内    津倉稲荷稲荷堂    津倉稲荷本堂?

津倉妙林寺
 本寺は池田光政の岡山移封に従った慈雲院日意上人が城下山崎町に創建するという。
寛文5年不受不施禁制により、悲田派に転宗、悲田派小湊誕生寺末となる。
大乗山と号する。奠師法縁。
貞享3年(1686)元地の数倍の3700坪の寺地を得て現在地に移転、同時に光政の寛文の廃仏・不受不施弾圧で廃寺となった日蓮宗寺院の檀家の多くが本寺の檀家に組み入れられる。 事実付近の村郷で圧倒的な数の檀家を有するようで」ある。
 ※この貞享3年の事績については、後述の「貞享3年妙林寺関連文書」を参照。
元禄6年(1963)悲田派禁制により受不施派に轉宗する。
元文・延享年中(1736-1741)10世日慈代に本堂、仁王門、庫裏等を整備する。
現在は本堂、祖師堂、番神堂、庫裏、客殿、鐘楼、仁王門、総門、新客殿等を有する。
昭和半ばまでは、東参道北に2院(授法院と観明院)、南に2院(延寿院と清凉院)の寺中があったという。
現在は北側授法院と観明院の2院があり、南側2院は駐車場などとなり、寺地・建物は存在しない。
 ※平成20年(2008)10/13に掲載された「今週の「つぐらの顔」妙林寺」のページでは
 「東からの参道北に残る唯一の寺」授法院という紹介文とともに、現在とは違う授法院の写真の掲載がある。
  これは、造替前の授法院の写真であろう。現在の写真は下に掲載する。
    造替前授法院1:2008年以前の姿であろう。ページ 「今週の「つぐらの顔」妙林寺」より転載。
    造替前授法院2:ページ 「大乗山 妙林寺」より転載。
 この記事から類推するに、近年(2008〜2014年の間)、授法院は造替され、観明院は再建されたものと思われる。
○なお、備前48寺の一つである上地山満楽寺(報恩大師開基備前48寺の45)が文化12年 (1815)に西塔及び東塔の塔株を御野郡津倉妙林寺に譲った文書(「御内意窺」)が残るが、この妙林寺とは本寺を云う。しかしこの件については現在のところ「御内意窺」の記載内容以上の情報がなく、譲られた「塔株」がどのように「生かされた」のかは不明である。
 ※寺歴や池田光政の不受不施弾圧の経緯からみて、妙林寺は藩の庇護を受け、寺の財政は潤沢なものがあり、塔婆の建立を企図していたのかも知れない。
2014/11/04追加:
○貞享3年妙林寺関連文書
ページ:「岡山県地域別寺院一覧」>「大乗山 妙林寺」に以下の掲載がある。(転載)
(妙林寺は、貞享三年二月現在の地に移るが)、
「移転の事情は同寺宛のつぎの文書により知ることができる。」
 備前岡山山崎町日蓮宗証文之不受不施大乗山妙林寺境内狭小面檀越之用事難調に付寺地之義数年被願候依之町中之寺と申其上溝筋為通路今般被召上替地於御野郡伊福村寺屋敷三増倍七百八十三坪拝領被付者也且又檀方数多有之寺内墓所就為不足面所望被申故所之庄屋百姓え相対年貢地買添被造立梵字宇也拠旧今准御城下之寺院為後証如件
  貞享三年寅霜月十三日   能勢勝右衛門(書判)
     大乗院妙林寺

 「右文書の能勢勝右衛門は寺社奉行、また文中に「日蓮宗証文之不受不施」とあるのは、寛文六年の不受不施派禁制に際し、受不施に転ずる旨の証文を公儀に差出した寺の意に解せられる。」
 ※伊福村寺屋敷とは吉乗山石井寺(報恩大師開基備前48ヶ寺 中の bR吉乗山石井寺【廃寺、現妙林寺】 を参照)が現在の妙林寺の地にあったとも云われる。寛文6年に石井寺が廃寺となり、妙林寺の移転に際しては石井寺跡を寺地として拝領したということであれば、伊福村寺屋敷とはまさしく石井寺跡をいうのであろう。
2014/11/22撮影:
妙林寺現況:
 南参道入口題目碑    山門々前題目碑
山門及び仁王門
 津倉妙林寺山門1     津倉妙林寺山門2
 津倉妙林寺仁王門1    津倉妙林寺仁王門2    津倉妙林寺仁王門3:平成26年11月仁王門・仁王像を修復。
 仁王門内題目碑1      仁王門内題目碑2      仁王門内題目碑3      仁王門内題目碑4
 津倉妙林寺番神堂1     津倉妙林寺番神堂2     津倉妙林寺鐘楼1      津倉妙林寺鐘楼2
伽藍俯瞰
 津倉妙林寺伽藍1     津倉妙林寺伽藍2
祖師堂
 津倉妙林寺祖師堂1     津倉妙林寺祖師堂2     津倉妙林寺祖師堂3     津倉妙林寺祖師堂4
本堂:元文元年(1736)建立
 津倉妙林寺本堂1     津倉妙林寺本堂2     津倉妙林寺本堂3     津倉妙林寺本堂4     津倉妙林寺本堂5
 津倉妙林寺客殿:平成8年竣工
 津倉妙林寺土蔵       東参道題目碑       東参道大覚大僧正碑    開基日意上人墓碑
寺中
 授法院(左)・観明院      寺中授法院      寺中観明院      延寿院・清凉院跡
2014/11/04追加:
補足:妙林寺(など)に関する平易な解説があるので、補足する。
 ※当然ながら、これは歴史の解説であって、現在の解説ではない。
◆ブログ「岩清水日記」>「妙林寺と妙善寺  岡山の風景で知っておかなくてはならないこと。」 より引用
 (江戸時代にキリスト教の他に)「禁制になった宗教は他にもありました。日蓮宗の不受不施派です。
禁制というのは、時の権力者が、神や仏を自らより上位に置く宗教を禁ずることともいえます。反権力ということになります。
実は、岡山の妙善寺は、不受不施派です。
 (妙善寺のHPから引用すると)「妙善寺も備前法華の拠点として備前藩主池田家の厳しい迫害と弾圧を受けた。やがて、寺は無住となり、宝永5(1708)年には一切の堂宇を廃棄する有様であった。
一方
 「弾圧した備前藩主池田家は、鳥取から岡山に国替で移住してきたのですが、一緒に移住してきた中に、日蓮宗の僧侶がいました。その僧侶が建てた寺が・・・(津倉)妙林寺です。
 (妙林寺のHPから引用すると)「妙林寺は・・・池田光政公・のお国替えの時に、慈雲院日意上人が光政公に従い・・・寛永9年(1633)旧山先町に寺院を創立したのがその起こりである。
その後、・・・貞享3年(1686)2月第6世一往院日周上人の代に現在の地に移転し、・・・・元文元年(1786)に現在の本堂・祖師堂・番神堂・鐘楼堂・仁王堂・山門・庫裡などを建立して現在に至っている。・・・
多くの堂屋が立ち並び、多大なる檀信徒に支えられている中四国屈指の大寺院である。

 
ということで、こちらは藩主の庇護を受けた日蓮宗寺院だということです。
2016/07/05追加:
大乗山妙林寺末寺:
大乗山玉翁寺(倉敷市生坂)
○有縁山妙傳寺(倉敷市真備町箭田) →備中箭田妙傳寺

備前蓮昌寺備前蓮昌寺

松田将監元喬(蓮昌院)
歴応2年(1339)大覚大僧正が津島で説法、怒った津島村真言宗福輪寺(後の妙善寺)座主良遊は法論を挑むも論破され、改宗する。これを知った富山城主松田将監元喬 もまた城中に大覚を召し真言僧侶との法論を命じたが、元喬も大覚に感化され、改宗するという。
戦国末期西備前を支配した松田将監元喬は金川に入り、岡山蓮昌寺、金川道林寺、金川妙國寺、辛川妙源寺を建立するなどの他、法華宗徒を率い、武力でもって、領内の寺院に法華宗への改宗を迫った。
拒否した金山寺、吉備津宮、美作誕生寺、39.大松山妙光寺などは焼き討ちに遭う。
いわゆる「報恩大師開基備前48ヶ寺」の内、 3.吉乗山石井寺【廃寺、現妙林寺】、34.市倉山宝城寺【廃寺】、47.菅野山(大光山妙福寺)(正保山幸福寺)【廃寺、現幸福寺】、48.藤田山成就寺 は日蓮宗に改宗すると伝える。

浜野松寿寺:浜野松寿寺

備前藤田広昌寺:備中妹尾の南方、そんなに遠くない距離に位置するも、備前と思われる。
寺歴など全く不明。
この付近の干拓は明治維新後の明治・大正期のことであり、それから判断してそんなに古い寺院ではないであろう。


備中の諸寺

 ※備前の金川城主松田将監元喬、備中高松領主花房氏、備中庭瀬藩主戸川氏、備中妹尾領主戸川氏は世俗の権力を使用して、領内の寺院・民衆に対して法華宗改宗を迫る。
これは世俗(政治)権力が個人の内面を蹂躙するという意味で、近くは明治維新国家やその後継である天皇制国家による復古神道/天皇教の強制、古くは儒学を重用した備前藩池田光政による寛文年中の廃仏、江戸幕府による切支丹や不受不施派の禁教などと同列の行為である。
 では現代では、政治権力によって、時の政治権力にとっての都合のよい価値観(宗教)を押し付けられるような怖れはないのであろうか。確かに、備前の松田氏、池田氏、江戸幕府の宗教政策、備中の諸氏の振る舞いはほぼ古のことといってよい。
しかし、国家神道つまり天皇教は戦後70年を経過した現在でも跋扈し、戦前の天皇教による国家の復古を夢見る懲りない政治勢力の面々が蠕動し その勢いを増していることは憂慮すべきことであろう。

備中野山妙本寺:野山法華

 → 備中野山妙本寺

備中高梁巨福寺
素南山と号する。身延山久遠寺末。
山門は明治8年、備中松山藩板倉家家老宅の門を移築した。本堂は元和年中(1617頃)池田備中守長幸により再建されるも、延享5年(1748)焼失し、現在の本堂は安永 7年1778)に再々建されたものと云う。
○「大覚大僧正と三備開基寺寺院」 より
文和4年(1355)大覚大僧正、中国下向、野山妙本寺に巡錫ありし時、当初松山米山難波4代目新左エ門夫妻、法門を聴聞し、・・・、妙法に帰依し、大僧正を自宅に招す。夫婦は妙蓮清意、妙浄信尼の法号を賜う。
後、大僧正を開基と仰ぎ、草庵を設け、・・・、菩提寺となす。
中興写経院日源上人は北房中津井妙源寺を開創す。承國院殿池田備中守は当山を再建す。
○2016/03/22「A」氏撮影画像:
備中高梁寺町の諸寺は城郭のような構を見せる。巨福寺もその例外ではなく、その堅固な石垣などを見ることができる。
 備中高橋巨福寺構1     備中高橋巨福寺構2     備中高橋巨福寺構3

備中高松近辺諸寺:基本的には備中高松花房氏の弘教(末進法華)により成立。
  ※参考文献:「岡山・備前地域の寺」(岡山文庫195)川端定佐三郎、日本文教出版、平成10年 ほか

2014/11/12追加:
備中名越真城寺;岡山市北区吉備津425−2:JR吉備津駅西北の山上:板倉宿北側山中
山陽道板倉宿北側山塊(名越山の枝峯)の山上付近にある。
板倉妙見と称する。能勢型妙見像という。「備中誌」には野山妙本寺末とある。
2014/11/23撮影:
現在は数年前に堂宇がすべて倒壊し、廃寺同様である。参道石階はまだ歩行可能、鳥居は半壊、廃墟の状況から、石鳥居、石灯篭、拝殿、妙見本殿、本殿石造玉垣、庫裡などがあったと思われるも、拝殿・本殿は倒壊した残滓が残る。庫裏と想定されるところにはそれらしい形跡が残るのみである。
「備中誌」(江戸後期)に記載されるので、明治維新後の新興寺院ではなく、江戸期には成立していたのは確かであろう。
現在は信仰は全く失われたものと思われ、訪れるものは誰もいず、おろらく現状のままでは数年の内に原野に帰り、藪の中に遺構を留めるだけの姿となろう。
 板倉真城寺参道山下     板倉真城寺山下寺標:「北辰妙見大菩薩安置、名越妙見山真城寺」と刻む
 真城寺参道題目碑:左の石碑は七面大天女子と刻む。
 板倉真城寺石鳥居1     板倉真城寺石鳥居2     板倉真城寺石鳥居3
 板倉真城寺石灯篭1     板倉真城寺石灯篭2
 真城寺倒壊拝殿1     真城寺倒壊拝殿2     真城寺倒壊拝殿3
 真城寺倒壊本殿1     真城寺倒壊本殿2:本殿建築はおそらく1間社流造であったと思われる。
 真城寺倒壊本殿3     真城寺倒壊本殿4     真城寺倒壊本殿5     真城寺倒壊本殿6
 真城寺倒壊本殿7     真城寺倒壊本殿8     真城寺倒壊本殿9     真城寺倒壊庫裡跡?
 真城寺放置小祠1     真城寺放置小祠1
 慈雲院日竜墓碑:境内にある唯一の墓碑である。 「昭和19年5月24日/立正大学卒 名和雲諦/行年27才」と刻む。
2015/10/05追加:「日蓮宗寺院大鑑」 より
慶長8年(1602)創立。開山蓮乗院日行。庭瀬藩初代戸川逵安が日光山に妙見堂を建立。 (※日光山とは不明)
明治初年妙見像を残して焼失。
明治28年3月名越山に移転再興。(昭和17年現在地へ移転とあるので、名越山山頂附近にあったのであろうか。)
昭和17年3月野山妙本寺末寺真城寺の寺号を名乗り、現在地へ移転、寺号を公称する。
歴代:開山は蓮乗院日行、22世は進妙院(日号の記載なし)・慶応4年7月-(進妙院のとき焼失と思われる。)
23世恵厚院日正・昭和17年4月退院(現在地へ移転直後に退山と思われる。進妙院から住職は暫く不在と推測できる。)
24世慈雲院日竜・昭和19年5月24日・37才、若くして遷化、この後歴代は途絶する。
なお、隠居・留守居の5代目として恵遊院日秀が居る。明治28年遷化あるいは退院であるので名越山へ移転再興時の留守居であろう。

備中高松妙教寺
  →備中高松妙教寺(最上稲荷)

備中高松星友寺
2014/02/16撮影;
 恵雲山と号す。京都石塔寺末。
寛永年中(1624-44)都蔵院日運上人開基、寺名は宇喜多直家の法名(恵雲院天徳星友居士)による。
 もとは平山村(高松の東)にあったが、寛永年中に領主花房氏(旗本寄合)が日蓮宗に改宗し、旧主君宇喜多直家の供養のため現在地に遷すという。故に山号・寺号ともに直家の法号に因む。そして、花房職之(職秀・助兵衛)夫婦の妙玄寺と妙立寺を星友寺の両脇に建立する。
 備中高松星友寺山門     備中高松星友寺本堂1     備中高松星友寺本堂2
  2014/04/26撮影:備中高松星友寺
西隣には星友寺妙見宮(星友寺に属するかどうかは未確認)がある。
妙見は明治の始めに勧請し、妙見宮は明治12年建立と云う。本尊の妙見は所謂能勢型の坐像と云う。
 星友寺妙見題目碑     星友寺妙見拝殿     星友寺妙見拝殿本殿     星友寺妙見本殿

備中高松妙玄寺
 ※妙玄寺は星友寺東にある(あった)。・・・2014/02/16不覚にも実見せず。
旗本(備中高松を知行)花房氏の菩提寺で、境内には開祖花房職之ほかの墓がある。
京都妙顕寺末。花房職秀(職之・助兵衛)により改宗。
現在この地には堂宇はなく、「清水宗治自刃の地」の供養塔のみ建つようである。
堂宇の取り壊された妙玄寺は岡山市北区高松稲荷798?に堂宇を移すかあるいはいわば寓居していると思われる。
(現在、妙玄寺の堂宇はなく、住職は備中妙経寺・高松稲荷に住居すると云う。)
 備中高松妙玄寺:「岡山・備前地域の寺院」岡山文庫195、平成10年 より転載:星友寺東隣に堂宇のあったころの写真と推定される。荒廃が進んでいるように見える。
2014/03/02追加:「A」氏(岡山模型店DAN)情報:
 妙玄寺の堂宇は、2009年9月頃までは存在していた。その頃に竜田川の築堤上の道路から視認する。
「岡山・備前地域の寺院」からの転載写真のお堂に間違いない。シートで屋根が覆われていた様子である。
その半年後くらいに再訪したときには、建物は跡形もなくなっていた。腐朽して危険なので壊すと云う。

2014/05/03追加:
「備中高松城水攻めの史跡を歩く」 より転載(部分図・一部改変)
 高松城址
下方に三ノ丸があるが、ここに東から妙玄寺、星友寺、妙見大菩薩、清涼閣が並ぶ。
本図によれば妙玄寺には4宇ある。これは上掲の写真「備中高松妙玄寺」と対応する。
但し、図中の西南の一宇は写っていないようである。
 (参考)花房職秀(職之・助兵衛):
宇喜多直家家臣、その後主君宇喜多秀家と対立する。関ヶ原では家康に与し、旗本(寄合)として備中高松に8220石の知行を得る。高松花房家は高松原古才に陣屋(知行所)を置く。
高松妙玄寺が墓所。
2代目職則は弟・榊原職直(もとなお)に1000石を分与し、以後、高松花房家は7220石となる。
 花房職秀(職之・助兵衛):「岡山の宗教」岡山文庫51、長光徳和、昭和48年 より転載
  :写真に写る「元和三年二月十一日」は職之の命日である。
2014/04/26撮影;
妙玄寺の堂宇は取り払われ、堂宇の礎石、墓石、バラックの庫裡?、石柱などが辛うじて残る。
 妙玄寺石柱:花房家菩提所/清水宗治自刃の地 とある。
 妙玄寺跡地:かなり広い空地となる。左のバラックは上掲 図の「高松城址」中で西南にある一宇であろうか。
 妙玄寺推定本堂跡1     妙玄寺推定本堂跡2:礎石及び椽縁石、RC製階段が遺存する。
 妙玄寺古墓石:推定本堂跡の東及び東南にはいくつかの古墓石が残る。花房家の墓所というので、墓石があるはずであるが、墓石の銘が浅く判読できず、これらの墓石が誰のものかは分からない。写真はこれらの古墓石の一部である。
 妙玄寺石塔:推定本堂跡の西北に上掲の備中高松妙玄寺の中で小覆屋が写るが、この石塔の覆屋であったと推定される。石塔及び石造基壇が残る。基壇の上には地覆材(木材)も残るがこれはどうしたことであろうか。
石塔屋根の架す六角(八角ではないと思われる)柱正面には「我見燈明佛本光瑞如此」と刻むが、
これは「妙法蓮華経 序品第一」の一節である。
 ※読み下しは「われ燈明仏を見たてまつりしに 本の光瑞はかくの如し」
他の面にも文字が刻まれていると思われるも確認を怠り、これも不明であり、本石塔が何であるかは分からない。
2014/05/25追加:
○「岡山の地名」平凡社 より
慶長5年花房氏の開基、花房氏の菩提寺、初代職之ほかの墓がある。清水宗治自刃の碑は100年後の法要の時花房氏が建立する。また同氏が建立した東照権現堂があったが現在はない。

備中高松清涼閣(妙立寺?)
2014/02/16撮影;
 ※妙立寺は、妙玄寺が星友寺の東に接してあるので、西に接してあると思われるも、不明。
現在、星友寺の西の脇には妙見大菩薩があり、さらにその西に日蓮宗(題目碑があるので日蓮宗であろう)と思われる「清涼閣」と揮毫する扁額を掲げる堂宇がある 。これが妙立寺なのであろうか。
しかし、ここから北西にある和井元に同名の妙立寺があり、「清涼閣」は和井元の妙立寺と関係があるのかなどは不明。
但し、和井元の妙立寺の山号が清涼山であり、ここにある堂宇が清涼閣であることから、清涼閣が妙立寺の旧地で、いつしか妙立寺は和井元に移転したとも思われるが確証はない。
 備中高松清涼閣題目碑     備中高松清涼閣
○「岡山の石仏」岡山文庫、巌津政右衛門、昭和58年 より
妙立寺の題目塔
題目の下に蓮華座に坐す日蓮の像を線刻する。永禄4年(1561)辛酉・・」「為三念逆修」と刻む。
高松城三の丸跡の妙立寺にある小型の塔であると云うから、星友寺の西にある妙立寺にあるのであろう。
永禄4年といえば、妙立寺の改宗以前の年号であり、この地には大覚大僧正などの教化が既に及んでいたのであろうか。
 備中妙立寺題目塔
2014/04/26撮影;
 備中妙立寺題目碑2:清涼閣の入口付近に多くの墓碑とともにある。
題目碑としては珍しく日蓮像を線刻するが、この線刻は文英石仏に酷似する。しかし題目を刻み、真言や浄土系と思われる文英の石仏とは異にするものと思われるが、この題目碑の石工は文英及び文英の同調者の流れを汲むものかも知れない。まさにその銘の永禄4年は文英石仏の流行した後期にあたるのである。
 →備中大崎廃寺中に文英石仏の掲載あり。

備中和井元妙立寺
2014/02/16撮影;
 清涼山と号する。京都石塔寺末。
往古は天台宗でありしも、高松城主花房職秀(職之・助兵衛)により寛永年中日蓮宗に改宗。寺号は花房氏内室の法名に因る。 なお宇佐八幡より勧請した八幡神も祭祀する。
 妙立寺歴代譜によれば、開山は理性院日詮上人とある。
 備中和井元妙立寺山門     和井元妙立寺題目碑     和井元妙立寺本堂・庫裏
2014/05/06追加:K.G氏情報:
妙立寺は備中高松にありしが、大正3年に大渓山龍泉寺と合併し、昭和30年に高松から和井元に移転する。
合併した龍泉寺の寺号は、現在日蓮宗最上教総本山の龍泉寺が使用している。
 ※備中龍泉寺は報恩大師開基(「報恩大師開基備前48寺」中の後段を参照)という。その後、時代は降り、江戸初頭に備中高松城主花房氏により天台宗から日蓮宗に改宗という。さらに、江戸末期に日護上人により再興され、現在の山容に至るようである。昭和26年に日蓮宗最上教派の本山を称する。本尊は最上位経王大菩薩、八代龍王、鬼子母神という。(「吉備の国寺社巡り」)
 ※妙立寺が現地・和井元に移転したのは昭和30年という。しかし、龍泉寺との合併や移転の経緯および元地(清涼閣)との関係などは依然として不明である。
2014/05/25追加:
○「岡山の地名」平凡社 より
寺山の上にある妙立寺はもと天台宗で、寛永年中花房氏により改宗させられる。寺名は花房職之の内室の法名に因む。
龍泉寺は臨済宗であったが、寛永年中日蓮宗への改宗を迫れるも、従わず足守藩領の大崎村に移り遍照寺を開く。
跡地に残った弟子が日蓮宗に改宗するという。大正3年妙立寺に合併する。
 ※遍照禅寺は妙立寺の西南直線で1町ほどのところに現存する。両寺の中間は尾根であり、その尾根は和井元村(花房領)と大崎村(足守藩領)とを分ける境界である。
 ※関係する情報を総合すれば、以下のように推測される。
寛永年中妙立寺は花房氏により天台宗より日蓮宗に改宗、内室の菩提寺とする。この時の寺地は高松の現在清涼閣のあるところであるが、もともとこの地にあったのか何処からか移転してきたのかは不明。
大正3年高松妙立寺は和井元日蓮宗龍泉寺と合併(合併の理由、合併の形式などは不明)、昭和30年高松妙立寺は和井元龍泉寺の寺地に移転、もとの高松妙立寺を清涼閣とする。
なお、現在の日蓮宗最上教派本山龍泉寺と和井元龍泉寺との因果はよく分からない。
2015/10/05追加:「日蓮宗寺院大鑑」 より
妙立寺:寛永年中の創立、開山本理院日性、開基妙福院日含、開基檀越花房職之の内室(法名妙立)、花房氏により天台宗を改宗。
竜泉寺:大渓山と号し禅宗であったが、寛永年中に日蓮宗に転宗。)
大正3年妙立寺、和井元竜泉寺を合併。
昭和30年妙立寺高松から和井元に移転。竜泉寺の寺号のみ下足守に移す。(これが現在の最上教本山竜泉寺である。)

2014/11/12追加:
備中加茂蓮休寺:(岡山市北区加茂)
法意山と号する。京都石塔寺末。
往古は天台宗という。
慶長年中、花房助兵衛職之により改宗、寶明院日然上人の開基と伝える。
加茂村加茂明神の社僧でもあった。
 加茂:慶長5年(1600)の関ヶ原戦後、旗本備中高松花房領となり、元和3年(1617)花房(榊原)職直が父より1000石を分知される。その結果、加茂村は分割統治され、加茂村2300余石のうち、時代により多少増減はあるが、高松花房領は1500石余、榊原領は800石余の見当であった。
2014/11/23撮影:
 加茂蓮休寺門前     加茂蓮休寺山門;右の題目碑の年紀は明和元年(1764)
 加茂蓮休寺本堂     蓮休寺本堂内部     加茂蓮休寺庫裡     加茂蓮休寺番神堂
 加茂題目碑1;蓮休寺の北西2町ほどの辻にある。文化12年(1815)年紀。
 加茂題目碑2: 文政七年(1824)日蓮上人五百五十遠忌。山陽道に面して建つ。蓮休寺の東南、板倉宿の西にある。
なお、加茂に正八幡宮があり妙見菩薩を祀るという。
備中惣爪正八幡宮:東惣爪
江戸期の加茂村には該当すると思われる正八幡宮の存在が確認できない。近代の加茂村の範囲では、惣爪(東惣爪・惣爪は近代では加茂村)に正八幡がある。
しかし、境内にはいくつかの小祠があるが妙見堂はない。本殿に合祀されているのであろうか。
八幡宮東には信教庵(小宇)があり、堂内には妙見菩薩と推定される仏像が安置される。この妙見菩薩を云うのであろうか。
 (正八幡妙見は能勢型木像との情報があり、この妙見菩薩は能勢型ではない。)
なお、この八幡宮には八幡大菩薩に相応しく鐘楼・梵鐘を残す。門前もしくは本殿・東門の東付近に別當があった可能性は高いと思われるも、未調査。
2014/11/23撮影:
 惣爪正八幡宮正門:棟門      惣爪正八幡宮鐘楼・拝殿
 惣爪正八幡宮鐘楼:梵鐘の銘は「延喜○年の鐘であったが、大東亜戦争で供出、昭和26年再鋳」云々の旨を記す。
 惣爪正八幡宮拝殿     惣爪正八幡宮本殿     惣爪正八幡宮東門:この東門を出たところに信教庵がある。
備中惣爪信教庵:正八幡宮東に隣接する。
ここに八幡宮別當(宮寺)があったのかも知れない。それはここに、やや狭いが屋敷跡とも思われる更地があるからである。その更地の一画に信教庵 (一宇の小堂である)がある。
信教庵とは全く不詳であるが、宮寺が取り壊され、その遺物を納めるため、建てられた庵であるのかもしれない。
信教庵(小宇の小堂)には一塔二尊像、日蓮上人像、尊名が良く分からないが妙見菩薩(あるいは帝釈天など?)、仁王像、尊名不明の数体の仏像、位牌3対(尼僧か)などが祀られる。
これから判断するに明らかに日蓮宗本堂に安置される本尊で信教庵は日蓮宗寺院の後裔である可能性が高い。
であるならば、信教庵は正八幡宮の別當というより、付近で廃寺となった日蓮宗寺院の後裔であるのかも知れない。
2014/11/23撮影:
 惣爪信教庵     惣爪信教庵諸仏1     惣爪信教庵諸仏2
 惣爪信教庵一塔二尊     信教庵日蓮上人坐像1     信教庵日蓮上人坐像2
 信教庵妙見大菩薩:尊名に確信はないが、妙見大菩薩像と思われる。

2014/11/12追加:
備中津寺宗蓮寺:(岡山市北区津寺)
都宇山と号する。京都石塔寺末。
創建年代不詳、往古は天台宗という。
慶長5年(1600)花房助兵衛職之により改宗、圓立院日伊上人により開山。花房氏の庇護を受ける。
なお、寺蔵の毘沙門天立像は鎌倉末期から室町初期の造立と指定されるが、胎内の天文2年(1533)の修理銘によれば、もとは石井山吉祥寺の安置仏であったという。
  →石井山吉祥寺は報恩大師開基・備前四十八ヵ寺のbR吉乗山石井寺を参照
 津寺;津寺とは口伝によれば、古代都宇郡の郡寺がこの地にあったので津寺というという。
津寺村は近世初頭には花房氏(職秀)領、その後花房氏2代目職則は弟・榊原職直(もとなお)に1000石を分与、職直は先給分を合わせ1800石(後には2500石)を領する。陣屋は津寺三本木に構え、以降幕末まで津寺は榊原氏(花房氏)領であった。
2014/11/23撮影:
 津寺宗蓮寺山門;ごく近年に造替されたようである。      山門前題目碑
 津寺宗蓮寺本堂1    津寺宗蓮寺本堂2    宗蓮寺本堂内部    津寺宗蓮寺庫裡     津寺宗蓮寺番神堂

備中津寺黒住日蓮堂
黒住集落東入口の辻に日蓮堂と扁額を掲げる小宇がある。詳細は不詳。
2014/11/23撮影:
 津寺黒住日蓮堂
 黒住日蓮堂内部:日蓮上人500年遠忌(天明2年1782年頃)題目碑、日朗・日像・大覚碑、大覚大僧正碑が祀られる。

備中津寺黒住妙見宮
黒住日蓮堂のすぐ北側・黒住集落の奥まった微高地に小宇が建つ。詳細は不詳。
2014/11/23撮影:
 津寺黒住妙見堂     黒住妙見堂内部:能勢型木像を安置という。

津寺及び日差(日指) ・・・ 不受不施派の分裂
天和2年(1682)備前岡山の法立が濁法の看経に導師を務めていたことが発覚・問題となる。
つまりは、「法中(不受不施僧)」に代って「法立(不受不施信者)」が「内信者」のために看経の導師を勤めてよいかという問題である。
この問題に対し、備中津寺庵の覺照院日隆と日向佐土原に配流中の日講は導師を務めてはいけないと主張(「不導師派」「津寺派」)し、
一方
讃岐に配流中の日堯・日了と備中日指庵の覺隆院日通は日講批判も含めて、導師を務めても良いとした。
勿論この論争は看経の導師の資格の問題だけではなく、複雑な主導権や感情までもが入り乱れ、備前・備中だけではなく、全国に波及し 、抜き差しならぬ対立を生む。
この対立は明治維新後も尾を引き、津寺派(講門派)は不受布施講門派となり、日指派(堯門派)は不受不施派となる。
 (「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、「岡山県緊急古文書調査報告書・不受不施派資料目録(2)」解説)
※津寺庵及び日指庵の位置は明解にし難いが、津寺庵は備中都宇郡津寺村、日指庵は備中日差山付近に存在したものと推定される。

備中山地受法寺:倉敷市山地
妙信山と号する。庭瀬不変院末。
「備中誌」では妹尾盛隆寺末、もと日差山衆徒の寺坊(下の補足参照)なりしが、領主戸川氏が改宗せしめ、寛永2年(1625)慈眼坊日定が中興なり、或は真珠院日領の中興とも、尼僧妙信の中興ともいう。
また、近世には北方1町にある若宮社(八幡大菩薩)別當であった。 →下の補足:日差山日差寺を参照
 (以上「観光案内 倉敷(総集編・後編)」昭和54年 より)
この地(都宇郡山地村)は、慶長年中には庭瀬戸川氏領であり、山地村みな法華宗に改宗せしむという。幕末は天領で倉敷代官所支配であったという。
2014/11/23撮影:
 山地村東端題目碑:受法寺東参詣道と箕島-高松往来(岡山県道73号)との交点にある。年紀不詳。
 受法寺東参詣道題目碑:受法寺東参詣道の途中にある。年紀不詳。
 受法寺門前・南題目碑:受法寺山門南直前にある。あるいは古はここから受法寺境内であったのか。年紀不詳。
 受法寺山門・門前     門前題目碑1:年紀不詳      門前題目碑2:高祖600年遠忌
 受法寺本堂・庫裏
 境内題目碑・歴代;向かって左端は「南無日朝大聖人」碑      受法寺境内題目碑     受法寺歴代墓碑
なお、五本松峠西方に山地妙見宮があり「受法寺の境外仏堂か?」という情報がある。<未見>但し明治年中の勧請という。

補足日差山日差寺
天平勝宝年中報恩大師がこの地に創建する。本堂(正観音)薬師堂愛染堂など十数坊を構えるという。
「吉備国誌」では天平勝宝6年(753)報恩大師が伽藍を造営、本尊は正観音。弟子津坂駅人智久諸国より高僧を集め、満願坊などを造営す。
天正10年(1582)高松城の攻防で毛利・小早川の陣所となり荒廃す。その後残余の寺坊(受法寺など)は戸川氏の日蓮宗帰依により改宗せしむ。
現在、毘沙門堂は戦後焼失するが、日差山上の花崗岩大露頭には半肉彫の毘沙門天立像が残る。但し報恩大師杖描と伝えるも近世の作という。
2015/09/25追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
日差山日差寺
庄村矢部にあり。開山報恩大師。今、本堂山(本堂)、薬師堂、愛染畑(愛染堂)、仁王畑(仁王門)などの趾を残す。
また興聖坊、多門坊、玉蔵坊、浄土坊、曼荼羅坊、満願坊、井上坊、養福坊、見松坊、成福坊、持寶坊、吉祥坊、寶厳坊、寳藏坊、石橋坊、大蔵坊、實相坊などの坊舎があった。さらに山下には神皇坊、圓光坊、百々坊、槙山坊、受法坊などあったというも全容は不明。
天正10年(1582)小早川隆景の陣所となり、堂舎は甚だしく破壊され、慶長5年(1600)の関ヶ原役の後宇喜多氏滅び、この地は庭瀬城主戸川逵安の領地となる。
2代目戸川正安の時領分の寺院悉く日蓮宗に改宗せしめ、命に従わざりしものは土地を引き上げしめたり。
寛永13年(1636)日指山も改宗せざれば寺領を没収・破滅せんとの旨を達しければ、山僧怒りて山上の土地を棄て各地に移転す。それは下記の如し。
 満願坊:矢部村楯築山の側に移りて、日指山宝泉寺と号す。→下の補足:寶泉寺を参照
 興正坊:上庄に移りて弘福山西方院と号す。<倉敷市上東628に真言宗西方院が現存するがこれであろう。>
 曼荼羅坊:下庄に移る。
 浄土坊:下庄に移り、両部山無量院と改称す。→下の補足:宝福寺を参照、両部山雲福寺であろう。
 見松坊:下庄に移り、法輪山蓮光院と号す。 →下の補足:宝福寺を参照、法輪山宝性寺(宝隆寺)
 大蔵坊;大内田に移る。
 石橋坊、吉祥坊、寶厳坊、寳藏坊、持寶坊五坊は三手村(生石村)に移る。
 (但し、此の5坊の移転は大永年中/1521〜とも伝えられる。備中誌清明山鏡善寺<現存・真言宗>の条にこの地昔五坊あり、持寶坊、吉祥坊、寶厳坊、寳藏坊、石橋坊と云々。享保記には往古は天台宗、大永7年/1527の張札には4坊の名称あり。)
 西南坊、受法坊は改宗して山地村に移転す。 →上述の備中山地受法寺を参照
補足日差山宝泉寺
「備中誌」では日差山満願坊、宮内普賢院末(真言宗御室派)という。慶長年中日差山を下りて楯築山に遷し、寛永13年(1636)矢部(現在地)に再度移るという。
2014/11/23撮影:山門には日差山満願坊の名を掲げる。
 日差山寶泉寺山門     日差山寶泉寺本堂1     日差山寶泉寺本堂2     日差山寶泉寺庫裡
補足法輪山宝福寺
日差山衆徒の一つ貝松坊は寛永13年(1636)領主戸川氏の日蓮宗改宗の時、命に従わず下庄に移る。法輪山宝性寺(宝隆寺)<真言宗御室派宮内普賢院末>と称したと思われる。
現在は明治23年上東の両部山雲福寺と合併し、法輪山宝福寺と称する。
 (この補足は「観光案内 倉敷(総集編・後編)」昭和54年 より)

備中日畑浄安寺:倉敷市日畑
鷲林山と号する。庭瀬不変院末寺
元は天台宗であったが、慶長年中領主戸川氏により法華宗に改宗、今日に至る。
平成14年本堂老朽化のため造替す。
なお、何れも至近距離に次の遺跡がある。即ち、北方に足守川を渡れば惣爪塔心礎、南西には楯築遺跡、南方には王墓山古墳・尼寺廃寺跡、南東には日幡城跡がある。
2014/11/23撮影:
 浄安寺正面     浄安寺全景     正面題目碑     浄安寺本堂     浄安寺本堂内部
 浄安寺鐘楼     浄安寺番神堂     浄安寺大覚大僧正碑     浄安寺からの眺望:洗心

備中庭瀬近辺諸寺:基本的には備中庭瀬藩戸川氏の弘教(末進法華)により成立する。
  ※参考文献:「岡山・備前地域の寺」(岡山文庫195)川端定佐三郎、日本文教出版、平成10年 ほか

備中東花尻妙傳寺:吉備中山の南の矢藤治山々麓にある。
題號山と號す。庭瀬不変院末。
天文元年(1532)教社坊日有の開基と伝える。(「岡山備前地域の寺」、但し「備中誌」からの転載とする。)
永禄年間(1558年頃)玄成院日戒上人が備前津高郡尾上村に建立するも、備前藩池田光政の寛文の法難(不受不施派弾圧)を逃れ、当地に退避すると云う。
花尻村は備中国でありすぐ東の境目川の東は備前国である。江戸初頭は庭瀬藩戸川氏領であり、元禄期に幕領、庭瀬藩板倉氏領となる。いずれにせよ、川一つ隔てて、当地は備前藩池田氏領ではない。
2014/03/02追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2010/09/21撮影・ご提供:
 備中妙伝寺門前
2014/06/29撮影:
 妙傳寺/立成寺     妙傳寺全貌
 妙傳寺山門     妙傳寺題目碑     妙傳寺本堂1     妙傳寺本堂2     妙傳寺歴代墓碑

備中東花尻立成寺:吉備中山の南の矢藤治山々麓にある。
福寿山と号す。庭瀬不変院末。
開山本立坊日香、天文元年(1532)開基す。(「岡山備前地域の寺」、但し「備中誌」からの転載とする。)
慶長年中(1596年頃)恵性院日通上人により、備前津高郡辛川村に開創されるも、備前藩池田光政の寛文の法難(不受不施派弾圧)を逃れ、当地に退避すると云う。
なお山門(四脚門)は廃藩置県の際に、庭瀬城の表門を移築したものと云う。
2015/10/05追加:岡山文庫281「吉備の中山を歩く」熊代哲士、熊代建治、2013 より
慶長年中恵性院日通上人辛川村に建立、寛文6年池田光政の不受不施派寺院淘汰によって取り潰され、第7世成就院日香によって現在地に移転再興されると伝える。
2014/03/02追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2010/09/21撮影・ご提供:
 備中立成寺山門
2014/06/29撮影:
 妙傳寺/立成寺
 立成寺山門1     立成寺山門2     立成寺山門3     立成寺本堂1     立成寺本堂2     立成寺本堂3
 立成寺題目碑     立成寺歴代墓碑

備中東花尻村題目碑東群:妙傳寺/立成寺東側の辻にある。
東花尻村東端に石塔婆群がある。囲柵の中に数基の題目碑と大覚大僧正碑がある。正面の最大の題目碑は145(高)×140(最大幅)×20-25(厚)cmを測り、天正19庚卯年(1591)の年紀などを刻む。
石碑は4基あり、内1基は大覚大僧正碑で、3基は題目碑である。
2014/06/29撮影:
 東花尻村題目碑東群1:駒札の文字は消えかかり殆ど判読できない。
 東花尻村題目碑東群2
  2015/10/05追加:岡山文庫281「吉備の中山を歩く」熊代哲士、熊代建治、2013 より
  正面の碑は高145cm巾140cm厚20-25cm、中央は「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」、その右は
  「天正第十九辛卯年奉唱首題一千部成就砌」左は「花尻村東西真俗一結社大願主 二月十三日 日戒敬白」とある。
  日戒とは現東花尻妙傳寺開山玄成院日戒上人のことであろう。
 題目碑東群大覚大僧正碑
 題目碑東群題目碑:向かって左端は天明6年(1786)、右端は享保?年(1716〜)の年紀がある。

備中東花尻村題目碑西群:妙傳寺/立成寺西側の辻にある。
辻の北側に7基の石碑があり、左右の2基の性格は不明であるので除外するとして、5基の題目碑/大覚大僧正碑が並ぶ。
さらに辻の南に1基あり、合計6基の題目碑が立つ。何れの石碑も年紀は不明である。
2014/06/29撮影:
 東花尻村題目碑西群     題目碑西群大覚大僧正碑     題目碑西群題目碑:明治36年銘
 題目碑西群辻南題目碑:昭和5年銘

備中西花尻正法寺:吉備中山の南の矢藤治山々麓にある。
浄泉山と号する。庭瀬不変院末。
元和元年(1616)、鹿ヶ谷事件で流罪となった大納言藤原成親の菩提を弔うため、智円院日泉上人が、古くから成親に関係のあった三つの坊(正林坊・法住坊・月心坊)を集め、寺として開基す。
もとは外宗であったが、戸川氏によって日蓮宗に改宗したものと思われる。
 なお、北方の庚申山に帝釈天を祀るが、これは宝暦年中(1751-64)、正法寺第8世観達院日道上人が堂(庚申堂)を建立し、大納言藤原成親が信仰していた帝釈庚申天を祀ったものである。さらに安永2年(1773)第11世成就院日鎮上人が二天門を建立、210段の石段を築くと伝える。
石段上には宝暦13年(1763)銘大覚大僧正塔などがある。
2015/10/05追加:
岡山文庫281「吉備の中山を歩く」熊代哲士、熊代建治、2013 より
元和元年(1616)智圓坊日泉上人が開基し、庭瀬不変院末寺とすると伝える。
寛永15年(1638)岡山蓮昌寺住職正蔵院日定上人が入山し、正法寺と改め、大納言藤原成親を弔うことから、日定上人を開山とする。備前に流された藤原成親は児島から船で正法寺附近に着き、ここから有木の別所に移されたといわれ、このことが成親供養の動機となったと推測できる。
2014/06/29撮影:
西花尻村は江戸初頭には庭瀬藩戸川氏領、元禄年中には幕領、さらに元禄年中には庭瀬藩板倉氏領となる。
大納言藤原成親は一門の20数名で流され、庚申山の麓の3坊に置かれ監視される。成親の信仰する帝釈天庚申は3坊で信仰され、その信仰はやがて里人の受け入れるところとなり、代々伝えられる。元和元年あるいは2年、3坊の内正林坊・法住坊の頭を採り正法寺として3坊は現在地に合体建立される。
江戸中期には正法寺には成親の菩提を弔い、庚申山には帝釈庚申天を祀る形態となる。但し現在は無住であり、地区民の輪番で清掃・護持されているようである。
 正法寺山門1     正法寺山門2     正法寺山門3
 正法寺題目碑1     正法寺題目碑2     正法寺題目碑3
 正法寺本堂1     正法寺本堂2     正法寺庫裡1     正法寺庫裡2
 帝釈天石階1:二天門見上げ      帝釈天石階2:二天門から見上げ
 帝釈天二天門1     帝釈天二天門2     帝釈天二天門3     二天門持国天立像     二天門毘沙門天立像
 2015/10/05追加:この二天門には双龍が架けられる。昭和30年供出された梵鐘が新調された時の更新大祭に合わせて
 奉納される。藁と棕櫚で西花尻の人々が60日かけて製作したもので、以降何度も補修を重ねるという。
 帝釈天拝殿1     帝釈天拝殿2
 帝釈天本殿1     帝釈天本殿2     帝釈天本殿3     帝釈天本殿4
 帝釈天鐘楼      帝釈天祠:名称不明      帝釈天立像:昭和30年建立
※正法寺帝釈天は山中にあり長い石階と二天門、拝殿(脇に庫裡付設)、本殿、鐘楼、2ヶの小祠、大覚大僧正石造三重塔を具備する。本殿は現状(恐らくは明治以降の造立と思われる)一間社流造の建築である。勿論山麓には管理する正法寺がある。
要するに、形態は全国津々浦々にある八幡菩薩、天神、妙見菩薩、弁財天などと同じなのである。明治の神仏分離の処置でこれらは殆ど神社に改竄される。しかし当地の帝釈天は神社に改竄されることは免れたようで、寺院のままなのである。
◇大覚大僧正三重石塔
帝釈天堂脇の石階をさらに上ると土塀に囲まれた区画があり、ここに大覚大僧正三重石塔がある。
初重には大覚大僧正と刻み、二重には日蓮大菩薩を中央にして左に日朗菩薩、右に日像菩薩と刻む。日像門流の典型を示す。
三重の塔身は刳りぬかれ、恐らく木枠が嵌められ、扉もしくは格子が取り付けられ、何らかの什宝が収納されていたものと推測される。
 正法寺大覚大僧正三重石塔1     正法寺大覚大僧正三重石塔2     正法寺大覚大僧正三重石塔3
 正法寺大覚大僧正三重石塔4
 正法寺大覚大僧正三重石塔5:日蓮大菩薩/日朗菩薩/日像菩薩と刻む。
 正法寺大覚大僧正三重石塔6:正面は大覚大僧正、右面は當山開基/観達院日道、左面は宝暦13年(1763)の年紀を刻む。

備中西花尻題目碑群
2014/06/29撮影:
左の地神は除き、左から大覚大僧正、題目碑、日蓮大菩薩題目碑の3基が並ぶ。
大覚大僧正碑の年紀は不明確であるが大正10年とも判読できる(であるならば新しいものである)。中央題目碑の年紀は宝暦13年(1763)と刻む。
 備中西花尻題目碑群     備中西花尻大覚大僧正碑

備中庭瀬(川入)八幡宮・・・不変院・大乗院の故地である。
サイト:岡山県神社庁では川入八幡宮について以下のように述べる。(大意)
「貞観2年(860)宇佐八幡宮から勧請し、その後備中守藤原宗弘、藤原良之に命じて祖神天児屋根命を合祀し、同年良之を神主に任ずる。
天慶5年(942)伊勢大神を合祀する。
延長2年(924)申上棟。永延2年(988)戌子上棟。寛徳2年(1045)乙酉上棟。長治2年(1105)乙酉上棟。承安4年(1174)午上棟。文永2(1265)乙丑上棟。応永11(1404)年甲申上棟。文明6年(1474)甲午上棟。天文23年(1554)甲寅上棟。寛永11年(1634)甲戌上棟。宝暦11年(1761)辛巳上棟と云う。
貞観2年藤原良之が奉職以来累代に世襲する。承応年中(1652-)良之21代の孫良三が病死、庭瀬藩主戸川氏が庭瀬村日蓮宗大坊不変院を別当とし、良三の三男平太を宮守とする。」
 現在、本殿・前殿・釣殿・鐘楼・鳥居・石灯篭(板倉勝興寄進)・三十番神堂・土塀(江戸期)などがある。
境内西側(千手堂西側)に不変院・大乗院があったが、天正14年(1586)以降、それらは庭瀬に移転する。
2014/06/29撮影:
 三十番神堂とは不明(未見)、本殿西側に土塀があり、土塀の西側はかなりの平坦地があり、おそらくはここに不変院/大乗院があったものと思われる。 しかし、現状地上には不変院などを偲ぶものは何もない。また上の項でいう千手堂も不詳。
 現在川入八幡宮は鐘楼・梵鐘が残存し、また奇妙な土塀が西側を画する以外、明治の国家神道によって画一的な神社の姿に変貌したようで何の面白味もない。期待外れで残念なことである。
 備中川入八幡宮遠望     備中川入八幡宮随身門     備中川入八幡宮中門
 備中川入八幡宮拝殿     備中川入八幡宮鐘楼
 備中川入八幡宮西土塀1      備中川入八幡宮西土塀2
 推定不変院/大乗院跡地1     推定不変院/大乗院跡地2

備中川入三十番神堂・・・不変院塔頭中正院の故地という。
現在鳥居、拝殿、本殿、鐘楼を残す。小社にしてはかなり広い境内を有し、これは中正院の故地であるからであろうか。
三十番神堂は悪しき国家神道の標準的な姿に造替されたのであろうが川入八幡宮と同じく醜悪であるが、鐘楼 や梵鐘(再鋳)を残すのには何かの強い意志を感ずる。
2014/09/29撮影:
 川入三十番神堂境内     川入三十番神堂社殿     川入三十番神堂本殿
 川入三十番神堂鐘楼:梵鐘は昭和43年再鋳(戦時供出)

備中川入題目碑群
川入公民館付近にある。
題目碑2基と日親上人碑1基の計3基がある。
ここに日親上人碑がある所以は不明であるが、上人は西国九州を何度か巡錫したと伝えるので、この地にも来錫したのであろうか。現に山陽筋である備中井原妙典寺、備後神辺妙立寺、備後三原壽徳寺は日親上人巡錫の地と伝える。
2014/06/29撮影:
 備中川入題目碑群:中央題目碑は享保12年(12年は推定、1727年)、向かって右は文化10年(1813)の年紀
 備中川入日親上人碑:年紀は不明

備中中田題目碑群
2014/06/29撮影:
庭瀬中田公民館裏に法華宝塔、題目碑、大覚大僧正碑の3基及び小祠がある。ここは公民館と民家に挟まれた狭隘な地であり、正面から全容を写真に撮ることは不可能である。
 備中中田題目碑群:向かって左から、法華宝塔(一天四海皆帰妙法 末法萬年廣宣流布、元治元年/1864年紀)、石灯篭、小祠(祭神不明)、題目碑(文化8年/1811年紀)、大覚大僧正碑(年紀不明)が並ぶ。
 備中中田大覚大僧正碑     備中庭瀬中田題目碑

備中庭瀬大坊不変院
廣榮山長國寺と号し、古は八幡宮別当であった、
もとは天台宗で開基は不詳、八幡山にありしが、秀吉の臣岡豊前今の地に移す。(「備中誌」)
 ※備中川入八幡宮西側に不変院・大乗院が天台宗としてあったが、天正14年(1586)不変院が庭瀬に移転、その後大乗院も庭瀬に移転と云う。
庭瀬に入府した戸川逵安により、日蓮宗に改宗。日蓮宗開基は城国院日鳳上人。不変院は逵安の法名である。
墓所には戸川家累代の墓がある。(「戸川家系図」)
 ※但し、逵安の墓碑は池上本門寺永寿院と備中妹尾盛隆寺 (下に掲載)にあり、3代藩主戸川安宣は盛隆寺、4代藩主戸川安風は武蔵中目黒永隆寺にあると云う)
開山日鳳上人は洛中妙覚寺日典上人高弟で妹尾盛隆寺の住職でもあった。それ故日鳳は両山兼帯となり、これは明治維新まで存続と云う。
 ※寛文5年(1666)不受不施が禁宗となり、洛中妙覚寺に身延日乾が入山すると、妹尾盛隆寺は妙覚寺から離脱し、無本寺となる。天和2年(1682)小湊誕生寺末となる。
不変院は大坊と通称される。塔頭には本了院、中正院、正善院、大乗院があり、7末寺を有する。
 なお、境内南に八幡大菩薩を祀る鎮守殿がある。八幡大菩薩は不変院の鎮守であり、不変院が八幡山にあった証であろう。
鎮守殿は本殿、幣殿、拝殿、鳥居、唐獅子、手水鉢、灯籠などを備え、神体は木造座像であり正面の厨子に納められ、別に上段に三體揃った同寸法の木像座像を安置すると云う。
2015/06/23追加:
○「備中領主戸川の時代」戸川時代研究会、2002年 より
延元年中(1336-39)播磨の赤松円心、川入八幡山の麓に天台宗広栄山長国寺を建立。
その後、保護者を失い、長国寺は衰微する。
高松城水攻めの後、宇喜多家重臣岡利勝が庭瀬城に入る。岡利勝は熱心な日蓮宗信者であったので、長国寺をこの地に遷し、日蓮宗に改宗する。
関ヶ原の戦いの後、戸川逵安が初代庭瀬藩主として入部、逵安も熱心な日蓮宗信者であったので、長国寺を整備、京洛妙覚寺日興上人高弟日鳳上人を招じ開基とし、戸川家の菩提寺となす。
2代戸川正安の時、逵安の法名「不変院殿覺如日真大居士」に因み、不変院と改号す。
逵安は境内に4塔頭を整備する。そのうち本了院は隠居寺とし、正善院・中正院・大乗院はそれぞれ延友・川入(川入三十番神堂の地が故地と云う)・八幡山から移す。
また戸川氏統治の間に、不変院を首座(大坊)とし、寺中4院、末寺7ヶ寺(庭瀬信城寺、東花尻妙伝寺、東花尻立成寺、西花尻正法寺、平野了性寺、日畑浄安寺、山地受法寺)が整い、幕末まで続く。
不変院の建物:山門は北にあり、山門をくぐると左手に庫裡、その東奥に客殿がある。その南に本堂があり、さらに南には八幡大菩薩の鳥居・拝殿・本殿がある。この八幡大菩薩は初め三十番神社として建てられたが、不変院上人が代々八幡山大菩薩の別當を兼ねていたこともあり、八幡大菩薩が勧請されたという。三十番神も八幡大菩薩も不変院と地域住民を守護する役割であった。
 北から見た不変院屋敷の図:中正院は正善院と大乗院との間にあったことが判明する。
 不変院屋敷見取図:本了院は現在の本了院墓地の地にあったことが確定する。寺中は東から、本了院、正善院、中正院、大乗院が接して建っていたことが判明する。
2015/09/11追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
廣榮山長國寺
庭瀬川入に在り。八幡宮別當にして八幡宮千佛堂の側に在り。往古天台宗にして八幡山千佛堂の舊址たり。
天正14年宇喜多秀家の臣岡豊前守之を新開地庭瀬に移し慶長中庭瀬藩主戸川土佐守正安日蓮宗の帰依に依りて改宗せしめ、
父肥後守逵安の法名を取りて廣榮山不変院と称す。
寺中の一に大乗院あり、舊名を長國山松山寺と云ひ長國寺と相並んで八幡宮社僧たり。松山寺址に日親上人様とて一基の豊島石製の石塔など建つ。
石柱長3尺1寸、幅9寸、厚6寸5分、別に笠石を置く、石柱刻文に「妙法華 一萬部御供養」と刻む。
2013/12/31撮影:
 不変院題目碑     不変院山門・石橋1     不変院山門・石橋2     不変院山門
 不変院本堂1      不変院本堂2      不変院日蓮上人碑
 不変院八幡大菩薩鳥居:八幡大菩薩の扁額
 不変院八幡大菩薩拝殿     不変院八幡大菩薩本殿1     不変院八幡大菩薩本殿2
2014/06/29撮影:
 不変院山門石橋3     不変院山門石橋4     不変院本堂3     不変院本堂4

備中庭瀬不変院塔頭本了院
       → 備中庭瀬妙法華寺
本了院開基は、不変院と同じく城国院日鳳上人。
昭和60年大坊不変院の地を離れ、西花尻の地に移転、妙法華寺として寺観を一新する。
現在、不変院西、正善院東に一空区画があり、その区画は新しいと思われる墓地となる。この墓地は「本了院霊園」とあり、以上から判断して、この位置に本了院はあったものと推定される。
2013/12/31撮影:
 本了院霊園銘
 塔頭本了院推定跡地:墓石が並ぶ所が本了院霊園と思われ、ここが塔頭本了院の旧地であろう。背後の堂宇は不変院
2014/06/29撮影:
 本了院推定跡地2     本了院推定跡地3:向かって左は塔頭正善院、右の大屋根は不変院
2015/06/23追加:
不変院の寺中であった時代の本了院位置は推定の通り、上掲載の北から見た不変院屋敷の図及び不変院屋敷見取図にて、正善東であったことが確定する。
備中庭瀬妙法華寺:旧不変院塔頭本了院
覚如山本了院妙法華寺の「中興開山之記」 がWebサイトにあり、以下のように記す。
  2014/06/29撮影:中興開山之記
 「当山は寛永六年(1629)不変院の別院として建立された。開基は城国院日鳳聖人。往昔は覚如山本了院妙法華寺と称した。
大檀越庭瀬藩主戸川氏撫川移封に伴い、板倉藩国家老光岡氏が当山の大檀越となり基礎が確立された。
当山に歓請し奉る大摩利支天王は、天保五年(1834)森岡喜多右衛門武従公の帰依を得て日照聖人が宮殿を建立祭祀された戸川氏懐中木尊との伝があり、尊容比類を見ない神像である。
昭和六十年日蓮大聖人七百遠忌を記念して、西花尻の新浄地に十間四面(雨垂落)創建当時の室町期寺院建築様式に習い、大本堂を建立岡山市庭瀬旧跡より御木尊一塔両尊四士・祖師像・大摩利支天王の尊像を遷座移転した。
平成七年大摩利支天王祭祀以来亥年を算当三十一回この嘉辰を継紹して尊天の宮殿拝殿等を建立往昔の神殿様式を整え記念大開帳を奉行せり。
更に平成十四年日蓮大聖人開宗七百五十年を迎え、その記念事業として鐘楼・銅像建立を発願、余当山中興の祖に任じ信縁大衆の結集を計り聖業を推進するものなり。      平成八年十月堂宇落慶の日当山二十八世妙法華院日鑑」
2014/06/29撮影:
 妙法華寺山門     妙法華寺本堂     妙法華寺本堂内部     妙法華寺鐘楼
 摩利支天王拝殿     摩利支天王本殿     妙法華寺庫裡

備中不変院塔頭正善院
不変院西に位置する。開基は泉蔵院日榮上人、もとは天台宗で延友(備前・備中の境目川の辺、庭瀬の東南方向)にありと云う。天正14年(1586)庭瀬藩の寺町整備で現在地に移転され、日蓮宗に改宗する。寛文年間、中興泉蔵院日英上人を開基として以来、照山正善院と称す。
日朝上人子守鬼子母神および日朝上人像(眼目守護)を祀る。
2013/12/31撮影:
 塔頭正善院1     塔頭正善院2     塔頭正善院3
2014/06/29撮影:
 塔頭正善院/大乗院:向かって左が大乗院、右は正善院       塔頭正善院4     塔頭正善院5

備中不変院塔頭中正院
了性山と号する。
寛永19年(1642)5月、僧侶中正院日学上人により創立される。最初、庭瀬町川入(西花尻の西付近・現在三十番神堂がある場所が中正院のあった場所と伝える)にありしが、戸川 逵安により不変院塔頭として移転される。
明治維新前には被災し、一切を焼失と云う。
明治39年、現在地(栄町、不変院北方100m付近)へ新築移転される。
 ※明治39年移転前は当然不変院の周囲にあったものと思われるも、位置は未確認。
 ※川入三十番神堂は現在も地域の守護神として健在である。・・・上述の「備中川入三十番神堂」を参照
2015/06/23追加:
不変院の寺中であった時代の中正院位置は不明であったが、上掲載の北から見た不変院屋敷の図及び不変院屋敷見取図にて、判明する。
 塔頭中正院跡:2014/06/29撮影:正善院(右手建物)と大乗院(左手建物)との間の、現在は墓地となっている区画が中正院跡である。
備中庭瀬中性院:旧不変院塔頭
2014/06/29撮影:
 塔頭中正院山門     塔頭中正院題目碑     塔頭中正院本堂
2014/11/23撮影:
 中正院本堂内部

備中不変院塔頭大乗院
正善院西に位置する。「岡山・備前地域の寺」では長國山と号するとする。(長國とは不変院の寺号である。)
しかし本堂扁額には「八幡山」と掲げる。
なお、久遠成院日親上人像を守護神とする。
不変院住職談:現在は無住、正善院住職兼帯と云う。不変院より遅れ、八幡宮から当地に移転する。山号「八幡山」は庭瀬八幡宮から移転に因むものである。
「岡山・備前地域の寺」:八幡山千手堂の側にあり長國山松山寺と号す。不変院庭瀬に移り、天正14年(1586)不変院の側に移し寺中となる。戸川氏により改宗、大乗院と号す。
2013/12/31撮影:
 塔頭大乗院1
 塔頭大乗院2:2015/06/23追加:上掲載の不変院屋敷見取図からこの堂宇は日親堂と知れる。
久遠成院日親(鍋かぶり日親)を守護神とするというので、日親堂に上人像を安置するのであろう。上に掲載のように、備中川入題目碑群に備中川入日親上人碑(年紀は不明 )があり、日親上人はこの地にも来錫したのであろうか。
2014/06/29撮影:
 塔頭正善院/大乗院:向かって左が大乗院、右は正善院      塔頭大乗院3:手前の小宇が日親堂である。

備中庭瀬信城寺
法正山と号す。不変院末寺。
天正13年(1544)戸川氏によって改宗。寛永元年(1624)城国院日鳳上人によって創立。
三十番神叢祠本社があり、また戸川家信城院殿(戸川正安)の位牌を祀る。
2015/10/05追加:「日蓮宗寺院大鑑」 より
開基檀越戸川正安。久遠成院日親の持仏鬼子母神像を戸川家が伝え、真城院が鬼子母神堂を建立したのが始まり。
2013/12/31撮影:
 庭瀬信城寺山門     庭瀬信城寺本堂     庭瀬信城寺鎮守殿
2014/11/23撮影:
 信城寺山門2     信城寺本堂2     信城寺本堂内部     信城寺鎮守殿:手前の祠は三十番神堂か

備中平野了性寺
不変院末寺7ヶ寺の一つ(「備中誌」)と云う。山号、その他の詳細は不明。
2015/10/05追加:「日蓮宗寺院大鑑」 より
「大観」には寛永17年(1640)の創立、開山日学とある。
2014/06/29撮影:
了性寺妙見堂は北面する。鳥居妙見堂(拝殿に本殿が奥に張り出す堂の構造か)・鳥居・庫裡・三十番神堂?などを具備する。
 備中了性寺妙見堂1:妙見堂は昭和59年改修される。
 備中了性寺妙見堂1:右端には南に接する本堂あるいは客殿とも思われる屋根と「水子・・」の紅い幡が写る。
 備中了性寺妙見堂内部     了性寺三十番神堂?:推定
妙見堂南に接しておそらくは了性寺の本堂もしくは客殿とも思われる堂がある。入口は南面する(恐らくこの入口は明治維新後に整備されたものであろう)。入口を入り左手に これまた推測であるが戦後に祀られたと思われる露座の水子観音を祀る。一見了性寺とは別のようであるが、次の写真のような題目碑・日蓮碑があるので、ここも了性寺であることは間違いない と思われる。
 備中了性寺本堂・客殿     備中了性寺題目碑     備中了性寺日蓮碑

備中平野題目碑群
2014/06/29撮影:
左から題目碑(側面は大覚大僧正碑、文政6年/1823年紀)、大覚大僧正碑(弘化2年/1845年紀)、日蓮大菩薩碑、題目碑(文化7年/1810年紀)、題目碑、日親上人/日朝上人碑の6基が並ぶ。
 備中平野題目碑群     大覚大僧正碑     右端題目碑側面:大覚大僧正と刻む。

参考:
庭瀬藩:慶長7年(1602)関ヶ原の合戦で東軍に組した戸川逵安が庭瀬に29200石で入府し、庭瀬城に陣屋を構える。
これによって庭瀬藩が成立する。
 逵安は備宇喜多直家の時代数々の戦功をあげ、備前宇喜多家の家老(25600石)に登り、直家没後秀家の後見を勤めるも、次第に主君宇喜多秀家と対立する こととなる。 対立の背景には主君秀家派の重臣との間の権力闘争があり、さらに秀家とその妻豪姫とが切支丹に肩入れし、大部が日蓮宗の宇喜多家中に分裂が生じたことといわれる。
 慶長5年宇喜多家中でお家騒動が発生(いわゆる宇喜多騒動)し、家康の調停もあり、達安は宇喜多家中を去り、家康の家来となる。その後は冒頭で述べたように、庭瀬藩の藩祖となる。
寛永4年(1625)戸川正安が襲封、襲封にあたり、三弟安尤(やすもと)に3400石を分知(早島戸川氏)、四弟安利に3300石を分知(帯江戸川氏)する。
寛文9年(1669)3代安宣が継ぐ。襲封にあたり、弟安成に1500石を分知(妹尾戸川氏)する。
延宝2年(1674)4代安風が襲封、弟の達富に1000石を分与、20000石を襲封。
延宝7年(1679)安風夭折し、無嗣断絶となる。しかし名跡は達富が継ぎ、新しく4000石を与えられ、撫川に陣屋を構える(撫川戸川氏)。
元禄15年(1702)早島戸川家2代安明は、六男安通に中庄中島400石を与え分家させる。(中島戸川氏)
 →上掲の備中庭瀬大坊不変院、下掲の備中妹尾盛隆寺、備中早島妙法寺、備中羽島妙忍寺(帯江)を参照。
2017/04/17追加:
 戸川家系図
2013/12/31撮影:
 備中撫川城跡1     備中撫川城跡2     備中撫川城跡3     備中撫川城跡4     備中撫川城跡5
その後、宗家撫川、早島、帯江、妹尾の4家とも明治維新まで存続する。
庭瀬藩は戸川氏廃絶の後、久世氏、松平氏と交替し、元禄12年(1699)板倉氏が20000石で入府、明治維新まで知行する。
 備中庭瀬城跡1     備中庭瀬城跡2     備中庭瀬城跡3     備中庭瀬城跡4     備中庭瀬城跡5

備中古新田妙泉寺
本覚山と号する。
寛永9年(1632)新田として干拓された新開地に古新田村及び大福村ができるが、戸川正安(2代庭瀬藩主)は寺院建立の必要性を認め、寺院建立を命ずる。
当然、戸川家の信奉する日蓮宗寺院であった。
開基檀越は新田干拓に功があった初代庄屋吉田四郎右衛門、開山は本覚院日感上人で吉田四郎右衛門の二男という。
(吉田四郎右衛門の法号は妙泉院善勝)
寛文10年(1670)2世蓮勝院日賢章上人三十番神堂を建立。
文政10年(1827)6世境性院日観上人本堂・玄関を再建。
明治35年山門再建。
昭和46年客殿再建。
昭和57年本堂新築・自雲堂再建・山門修復。

備中山田浄泉寺
◇山田浄泉寺
 山田(村)は庭瀬の南方、妹尾(村)北西にあり。
領主は複雑に変わるが、江戸期には不受不施の拠点の一つであった。
 ※寛永年中は庭瀬戸川氏領、その後幕府領、庭瀬藩領と変遷、文政6年(1823)より幕末まで幕府領。
天保元年(1830)不受不施信仰が発覚し、庄屋など3人が捕縛され、江戸送りとなる。
浄泉寺では不受不施を黙認し、発覚後も村民から帰依証文を取らなかったため30日の逼塞を申し渡される。
浄泉寺は元真言宗であったが、天和3年(1683)日受によって日蓮宗に改宗すると推定される。
◇山田伍社明神
 浄泉寺北の丘上には伍社明神があり、ここには同じ祭神を祀る二つの社殿が建ち、一つは山田村日蓮宗浄泉寺が社僧で、もう一つは妹尾崎村真言宗千手寺が社僧であったという。妹尾崎村は妹尾戸川氏の日蓮宗改宗を拒んだ領民を妹尾村から妹尾崎村に追い出したといい、村民は数軒を除き真言宗という。それ故、伍社明神も日蓮系社殿と真言系社殿の分かれたのだという。
◇高尾厳島明神
 妹尾村北・山田村東に高尾村があり、この付近は妹尾兼康の屋敷跡と伝承し、南高尾の丘上に兼康の勧請と伝える厳島明神がある。ここにも同じ祭神を祀る に二つの社殿があり、一つは当村の日蓮宗信者、もう一つは真言宗信者の氏神として別々に祭祀される。
2014/07/06追加:
参考文献:
  「わたくしたちの福田」岡山市福田地区地域活性化事業実行委員会/編集、1995/03
  「わたくしたちの福田村」笠石隆秀、1983/01 より
1)浄泉寺
 開山年代は不詳。開祖は大教院日受上人で浄泉ともいう。浄泉は享保2年(1717)寂。天和3年(1683)の建立とされ、開祖の諱をとって浄泉坊と号するも、もとは真言宗という。戸川氏の圧力で法華宗に改宗と考えられる。妙法山と号する。庭瀬不変院末。
『備中誌』では、「開山不詳、寛永三年中興して造立の住坊門」とある。
現在の本堂及び薬医門は安政6年(1859)の改築による(第十五世日海上人代)。
2014/06/29撮影:
 備中山田浄泉寺山門     山田浄泉寺題目碑
 山田浄泉寺本堂        山田浄泉寺本堂庫裡      山田浄泉寺歴代墓碑
石塔群4基がある。向かって左から
大覚大僧正題目碑:
 (正面)南無妙法蓮華経、(南面)天下泰平五穀盛就、(北面)大覚大僧正、(裏面)文政五壬天四月三日立(1822)
日蓮碑:
 元祖日蓮大菩薩、 安永十辛丑歳十月十三日(1780)
題目碑:
 是人於仏道 奉勧法千派真俗一千人/南無妙法蓮華経法界萬霊/決定有無疑 貞亨第二乙丑暦仲夏中旬三日(1685)
石塔;
 奉納妙法蓮華経法師功徳品第十九(法華経第19品・法師功徳品の写経を埋めたものなのであろうか)
2014/06/29撮影:
 山田浄泉寺石塔群     山田浄泉寺大覚大僧正碑
2)山田村天保2年(1831)の法難
 天保元年多数の内信者が捕縛され倉敷代官所に連行される。不受不施信仰を断つことを誓約したものは叱責の上、放免される。しかし庄屋岡治五郎・組頭岡良助・笠石岩吉・岡幸十郎・岡次郎八の5名は棄教せず江戸送りとなる。
当時、山田村では不受不施派信仰の活動が噂されるも、当時の山田村は天領であったので、公然と備前・備中の藩役人が信者の偵察捜索することは困難であった。倉敷代官所では虚無僧姿などに変装して不受不施派を3年にわたり内偵し検挙に至るという。
組頭岡良助は江戸護送途中の天保二年七月二十八日逝去、庄屋治五郎は天保二年八月八日江戸の牢中で逝去、岩吉ほか3人は棄教を誓約し赦免されて山田村への帰国を許されるという。しかしこの棄教は表面だけであったという。
3)不受不施派霊場・・・未見
 山田(小字金場、2080-1番地)には、日詔上人の石碑(笠塔婆)と天保法難者の墓(笠塔婆)がある。道を接して南は妹尾である。この石碑と墓を信者たちは「山田のお塚(山田のかくし墓)」として尊敬し、不受不施派の霊場として、信仰のよりどころにしているという。
 他に山田村には、不受不施派法中一同で建立している石碑が二か所にある。一つは、お塚の北、谷合いを100mくらい登った山道のすぐそばにあり、別の一つは高尾山の切り通しを西に出たところの道の北側にある。
 ※自證院日詔上人<永禄12年(1569)〜元和3年(1617)>
 備中山田村に生まれ、飯高檀林に学び、蓮成院日尊(本門寺十三世)に師事する。
 三十五歳の時、池上本門寺十四世の法燈を継ぐ。
 慶長11年(1606)日詔上人代、加藤清正祖師堂を寄進する。慶長13年同じく、岡部局五重塔を寄進する。
4)山田伍社明神
 向って左が法華宗社殿、右が真言宗社殿である。
2014/06/29撮影:
 備中山田伍社明神神門:参道・鳥居は共通であるが神門から2系統となる。
 山田伍社明神拝殿1      山田伍社明神拝殿2
 山田伍社明神法華宗神門     山田伍社明神法華宗神門2     山田伍社明神法華宗本殿
 山田伍社明神真言宗神門     山田伍社明神真言宗本殿
5)高尾厳島明神(市杵島明神)
 向かって右が法華宗社殿、左が真言宗社殿である。高尾にも、山田・妹尾崎と同様に真言宗徒と日蓮宗徒とがいて、伍社明神と同じように、同じ境内に別々に社殿を建てて祭祀する。社僧は法華宗が古新田妙泉寺、真言は千手寺である。
2014/06/29撮影:
 備中高尾厳島明神参道:鳥居・参道は共通である。      高尾厳島明神神門:神門も共通である。
 高尾厳島明神法華宗拝殿     高尾厳島明神法華宗社殿     高尾厳島明神法華宗本殿
 高尾厳島明神真言宗拝殿     高尾厳島明神真言宗本殿

備中妹尾近辺諸寺:基本的には備中妹尾戸川氏の弘教(末進法華)により成立し、妹尾千軒皆法華の世界となる。
  ※参考文献:「岡山・備前地域の寺」(岡山文庫195)川端定佐三郎、日本文教出版、平成10年 ほか

備中妹尾盛隆寺
「妹尾千軒皆法華」と称される妹尾の中心寺院である。大寺と通称される。
啓運山と号する。戸川逵安母堂妙承尼は達保の妹・真了院殿妙園(宇喜多忠家室)の菩提を弔うために創建する。庭瀬不変院城國院日鳳上人を招じて開基する。以降幕末まで、不変院と兼帯であった。
(元は真言宗であったが妹尾戸川氏により改宗されるという。)(「戸川家系図」)
 ※日鳳上人は京都妙覚寺日典上人弟子、日奥上人の兄弟子という。
寛文年中まで京都妙覚寺末、 日奧上人が寛文の法難(不受不施禁制)で対馬に流罪、妙覚寺が身延に接収され身延支配となったため、妙覚寺を離れるも、本末改めのため、止むなく小湊誕生寺末となる。
境内は3000余坪。仁王門・本堂・鐘楼・三十番神堂・観音堂・七面堂・稲荷堂・客殿・庫裏などを具備する。
智応院・浄園院・善立院・安祥院・観行院(俗に西之寺という、境内外の西にある)の5寺中がある。
境内の妹尾戸川家墓所には佐渡流罪となった日庭上人の供養塔がある。
 → 日庭上人<備前妙善寺中にあり>:青山自證寺(長遠院)日庭、不受不施派後六聖人
○2014/03/10追加:

「A」氏(岡山模型店DAN)2008/10/22撮影/ご提供:
 妹尾盛隆寺参道
 妹尾盛隆寺本堂1
 妹尾盛隆寺本堂2:左図拡大図
2014/06/29撮影:
仁王門:宝暦12年(1762)
 盛隆寺仁王門1     盛隆寺仁王門2     盛隆寺仁王門3
 盛隆寺参道2       盛隆寺題目碑1     盛隆寺題目碑2
本堂:天明2年(1782)、八間四面
 盛隆寺本堂11      盛隆寺本堂12     盛隆寺本堂13     盛隆寺本堂14     盛隆寺本堂15
 盛隆寺本堂扁額     盛隆寺本堂向拝     盛隆寺本堂組物1     盛隆寺本堂組物2
 盛隆寺本堂内部1    盛隆寺本堂内部2    盛隆寺本堂右脇檀
 盛隆寺本堂宮殿組物1     盛隆寺本堂宮殿組物2     盛隆寺本堂宮殿組物3
 盛隆寺本堂天井絵1     盛隆寺本堂天井絵2     盛隆寺本堂天井絵3     盛隆寺本堂天井絵4
 盛隆寺本堂天井絵5
 盛隆寺鐘楼:嘉永7年(1854)移築
客殿:宝永7年(1710)以前、観音堂:天保5年(1834)、
 盛隆寺玄関     盛隆寺客殿1     盛隆寺客殿2
 盛隆寺番神堂・観音堂     盛隆寺番神堂     盛隆寺観音堂1     盛隆寺観音堂2
 盛隆寺勝尾稲荷     盛隆寺七面社
 ※位牌堂(安政6年1859)が存在するようであるが不明。
 盛隆寺戸川氏墓所:日庭上人の供養塔については不詳・実見できず
 盛隆寺戸川氏墓碑1     盛隆寺戸川氏墓碑2     盛隆寺戸川氏墓碑3     盛隆寺戸川氏墓碑4
寺中
 寺中浄園院1     寺中浄園院2     寺中浄園院3     寺中浄園院4     寺中浄園院5
 寺中智應院1     寺中智應院2     寺中智應院3:大屋根は浄園院
 寺中安詳院1     寺中安詳院2     寺中安詳院3:手前入母屋造唐破風の堂は善立院
 寺中善立院1     寺中善立院2     寺中善立院3     寺中善立院4
 寺中観行院1     寺中観行院2     寺中観行院3:鬼子母神堂
 ※観行院:寛永8年(1631)日照上人の開山、もと山田村にあったという。鬼子母神堂は明和2年(1765)建立。
2015/10/05追加:「日蓮宗寺院大鑑」 より
 智應院:寛永年中、善明院日忍の開山。
 善立院:元和3年(1617)、正行院日性の開基、檀越戸川逵安、真言宗善正寺を改宗、寛文年中春辺山より移転。
 浄園院;元岡山大供にあり浄林坊と称する不受不施派寺院であった。寛文5年浄林坊は寛文の法難で棄却、妹尾村上寺に浄林院日能が上院と称する寺院を建立、後に戸川氏の帰依により現在地に移転、明和年中に寺号を改号する。
 安詳院:寛永年中の創建、開山は安詳院日継、檀越帯江加須山尾崎伝右衛門重宗の室妙善。
  ※尾崎伝右衛門重宗は尾崎庄左衛門盛則の兄であり、その姉が忍(妙忍)である。

備中箕島村は備中高松花房氏領(備中高松妙玄寺)という。 (「戸川家系図」)
初代花房助兵衛(職秀/職之)は領内悉く日蓮宗に改宗する。
 当地には正福寺・正住寺・呑海寺の3ヶ寺が知られる。
備中箕島正福寺
元は真言宗であったが、高松花房氏により改宗する。
海母山と号す。京都石塔寺末。貞享4年(1686)海母院日玄の創建という。
2017/03/05撮影:
 正福寺山容1     正福寺山容2
 門前題目碑     正福寺山門     正福寺本堂     正福寺鐘楼     正福寺庫裡など
 正福寺番神堂?      正福寺小祠:堂名不詳
 境内日蓮600年報恩塔:600年遠忌報恩、明治11年年紀。      境内日蓮大菩薩碑
 境内日蓮550年報恩塔:550年遠忌報恩      正福寺墓地入口題目碑

備中簑島正住寺
赤松山と号する。箕島正福寺末(正福寺は上に掲載)。
正徳3年(1713)日圓の創立という。昭和になって正住坊を改称する。
境内には昭和晩期の比較的新しい墓碑が建ち、その頃までは僧侶が住まいしていたと思われる。ここ30年来は住職は常駐せず、通常は無人と思われる。
2017/03/05撮影:
 正住寺入口     正住寺山内     正住寺本堂兼庫裡     正住寺小祠:堂名不詳
 境内日蓮大菩薩碑     境内題目碑:宝暦10庚辰(1760)年年紀。
 境内題目記念碑:内容不詳      正住寺歴代墓碑

備中箕島の題目碑
2017/03/05撮影:
正福寺・呑海寺・正住寺の3方面への分岐と思われる地点にある題目碑
 推定三寺分岐地点題目碑1     推定三寺分岐地点題目碑2:天保3壬辰(1832)年年紀。
正福寺・正住寺往来にある題目碑
 ・正福寺入口付近の題目碑
 正福寺入口題目碑
 ・正福寺・正住寺往来の中間付近(樋之口)にある題目碑
 樋之口題目碑1     樋之口題目碑2
 樋之口題目碑3:日蓮大菩薩と刻む、文化元甲子(1804)年年紀、海母山十三祖/本堂再建立主/本慈院日朗 と刻す。
 樋之口題目碑4:大覚大僧正と刻む、天保3壬辰(1832)年紀。
 樋之口題常夜燈1:御報恩と刻む、文化3丙寅(1806)年年紀、本慈院日朗と刻す。
 樋之口題常夜燈2:文化5戊辰(1808)年年紀。
 ・正住寺入口付近の題目碑
 正住寺入口題目碑:日蓮上人550年遠忌、天保2辛卯(1831)年紀。
なお、備中箕島には、下に掲載のように、呑海寺集落の東西の入口と思われる地点にも題目碑がある。
 偶々、今回箕島の寺院を廻ったが、ごく一部の往来を通っただけで、全ての往来を通ったわけではない。それでも、呑海寺のものも含め、ここに掲載したように多くの題目碑に邂逅した訳である。したがって、今回通らなかった往来にも題目碑が建っている可能性は十分あると思われ、もしそうであるならば、さらに多くの題目碑があるのかも知れないと感ずる次第である。

備中箕島呑海寺
開山は貞治3年(1364)京都建仁寺派の霊岳禅師による。禅宗であり、蓑島山と号したという。
慶長13年(1608)高松領主花房助兵衛(職秀/職之)によって日蓮宗に改宗される。
山号は如意山と改号する。京都石塔寺末。中興開山は日仁上人。
2017/03/05撮影:
◇呑海寺集落東入口題目碑
呑海寺集落の東側に題目碑が祀られる。
 呑海寺東入口題目碑1
 呑海寺東入口題目碑2:題目碑2基がある、右の小題目碑の年紀は明治28年(28の刻と思われるも不確実)の年紀。
 呑海寺東入口題目碑3:大きな題目碑は大覚大僧正と刻む。文化11甲戌(1814)年年紀。
 薬王菩薩碑: ここでいう薬王菩薩とは日蓮大菩薩と同義であるのであろう。
◇「嘉永洪水絵図」早島町教育委員会蔵(「早島町戸川家記念館」に当絵図の展示がある。)
 嘉永洪水絵図・呑海寺部分図:中央に呑海寺が描かれる。高い石垣の上に建ち、集落を見下ろす位置にある。
◇呑海寺
 呑海寺遠望
 呑海寺下常夜燈:文化9壬申(1812)年の年紀を刻む。
 呑海寺下題目碑1     呑海寺下題目碑2:大覚大僧正と刻む。      呑海寺下題目碑3:文政7甲申(1824)と刻む。
 参道登口題目碑
 呑海寺山門     呑海寺本堂1     呑海寺本堂2:19世紀初期の建築、番神堂と同時期の建築であろう。
 呑海寺玄関客殿     呑海寺庫裡等     呑海寺鐘楼
 呑海寺番神堂1:番神堂は享和3年(1803)の建築。      呑海寺番神堂2     呑海寺番神堂扁額
 呑海寺七面堂     呑海寺開山堂:開山霊岳禅師を祀る。
 境内日蓮大菩薩碑:天保15甲辰(1844)年年紀。      境内妙経奉納碑:「奉納妙経薬王菩薩本事品」と刻む。
 境内題目碑     歴代の墓碑
◇呑海寺集落西入口題目碑
呑海寺集落の西入口附近に題目碑・常夜燈・おそらく農業神などの祠・その他が集められる。
 呑海寺集落西入口題目碑1     呑海寺集落西入口題目碑2
 呑海寺集落西入口題目碑3:日蓮西菩薩550年遠忌、文政13庚寅(1830)年と刻む。
 呑海寺集落西入口題目碑4

2014/11/12追加:
備中早島村早島戸川氏領という。この地には妙法寺がある。 (「戸川家系図」)
備中早島妙法寺:備中早島(岡山県都窪郡早島町早島)
寿永山と号する。京都石塔寺末。 開山は哲道院日唱(羽島妙忍寺開山)。
2017/03/05撮影:
 早島妙法寺山門     門前左題目碑     門前右題目碑
 早島妙法寺本堂・玄関1     早島妙法寺本堂・玄関2     玄関・客殿・庫裡:推定
 早島妙法寺日蓮上人像     早島妙法寺釈迦如来坐像     三菩薩石碑:日蓮大菩薩・日朗菩薩・日像菩薩
 早島妙法寺稲荷堂     堂名不詳拝殿     堂名不詳本殿:三十番神堂であろうか。
◎「嘉永洪水絵図」早島町教育委員会蔵(「早島町戸川家記念館」に当絵図の展示がある。複製かどうかは未確認。)
 嘉永洪水絵図・早島部分図:この部分図の中央やや右に早川戸川家陣屋が描かれ、そのやや西に妙法寺が描かれる。
水色の部分が浸水を表すのであろうが、陣屋や妙法寺の門前まで浸水し、また図の中央やや下を走る宇喜多堤上の街並みも浸水したものと思われる。
 嘉永洪水絵図・陣屋/妙法寺部分図:早島戸川家陣屋と妙法寺が描かれる。陣屋の北に達安明神が祀られ、門前に石橋(現存)や堀(西部が現存)も描かれる。
◎参考:早島戸川家陣屋跡
 参考文献
  パンフレット:「戸川家」早島戸川家記念館
  ルーフレット:「早島町戸川家記念館」
妙法寺から東に少し離れて、早島戸川家陣屋があった。今は石橋と堀の一部が現存するだけである。そして跡地の一部に「早川町戸川家記念館」が建てられ、早川戸川家ゆかりの品々が展示される。
 早島戸川家陣屋絵図:江戸末期のものと推定。
 石橋と堀の遺構1     石橋と堀の遺構2     石橋と堀の遺構3
 早島戸川家家老邸1     早島戸川家家老邸2:「早島町戸川家記念館」は本屋敷を家老宅といい、江戸期の建物が残るという。上掲の「早島戸川家陣屋絵図」では「納所伊佐美屋敷」とある。

2014/11/12追加:
※羽島村は帯江戸川氏領という。この地には妙忍寺がある。(「戸川家系図」)
備中羽島妙忍寺:倉敷市羽島85
窪屋郡二日市村平松(平木)家六郎右衛門盛正(寛永7年没)の室は帯江加須山の尾崎氏という。俗名は忍、加須山尾崎盛則の姉という。元和8年に没、法名は慶玉院妙忍禅定尼という。盛正の子である盛継(盛次)が妙忍寺を建立という。
また、尾崎伝右衛門重宗は盛則の弟である。
2015/09/30追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」大本山池上本門寺、1981
寛永8年(1631)頃創立。開山哲道院日唱(早島妙法寺開山)、開基檀越平松九郎右衛門盛次。開基檀越の両親の法号(至翁院休岸、慶玉院妙忍)に因み休岸山妙忍寺と号する。身延山末。
正保年中(1644-)帯江戸川家の菩提寺となる。
宝永4年(1707)帯江戸川家二代安廣、寺領を寄進する。
昭和9年山門、昭和13年妙見堂、昭和39年庫裡、平成6年現本堂新築(本堂はRC造)。
なお茶屋町に真如庵があり、ここに戸川安廣の廟所がある、昭和10年浄性庵から真如庵へ改号する。
戸川安廣は、帯江新田開墾の祖という。
正徳4年(1714)領民の願い出により、江戸玄照寺(現在は東京都世田谷区)より分骨し廟所を設立す。庵は家臣角田才兵衛の住居であったといい、角田才兵衛は分骨とともに当地に移住し生涯墓守を続けたという。
2015/09/14撮影:
 羽島妙忍寺下     羽島妙忍寺題目碑     羽島妙忍寺山門1     羽島妙忍寺山門2
 羽島妙忍寺本堂1     羽島妙忍寺本堂2     羽島妙忍寺庫裡
 羽島妙忍寺妙見堂1     羽島妙忍寺妙見堂2     羽島妙忍寺妙見堂3     羽島妙忍寺鐘楼
 羽島妙忍寺題目碑2     羽島妙忍寺題目碑3     羽島妙忍寺宝塔
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備中倉敷本榮寺
2015/09/17追加:
長興山と号する。
「倉敷美観地区(岡山文庫273)」吉原睦、日本文教出版、2011 より
小湊誕生寺末、元弘年中(1331-)大覚大僧正巡錫の時法華宗弘教のため笹沖足高山南麓の設けた道場「妙法山蓮華寺」が当初の姿であるという。
寛永2年(1625)倉敷村に移転し「長興山本榮寺」と改称し開山という。
元禄5年(1692)庫裡客殿改築、鐘楼新築を持って中興とする。
2015/09/30追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」大本山池上本門寺、1981 より
寛永年中に大高(笹沖)から移転、万治年中(1658-)池田光政の時、廃仏論により妙法山蓮華寺を改称。(※少々意味不明)
2008年追加:
元禄12年(1699)信濃上諏訪高國寺4世日逞上人は備中倉敷本栄寺より入山、高國寺は不受不施義を捨て、身延山直末となり、転宗するという。
 ※高國寺は明治の神仏分離の時、諏訪上社神宮寺より上り仁王門が移建され、現存する。
2008/01/31撮影:
 本栄寺庫裡/鐘楼/清正公堂     備中倉敷本栄寺堂宇
2015/09/03撮影:
 倉敷本栄寺山門1:仁王門か      倉敷本栄寺山門2     倉敷本栄寺山号碑     本栄寺題目碑
 倉敷本栄寺本堂     倉敷本栄寺庫裡     倉敷本栄寺妙見堂
 倉敷本栄寺鐘楼     倉敷本栄寺清正公堂

備中片島妙任寺
片島は、古代は海中の小島、中世は潟湖の小島であり、その後、室町期には備中鴨山城を根拠とした細川氏一族が築城した城跡という。元亀2年(1571)尼子勝久ら当城を攻略す。そして時は流れ、現在は想像もできない内陸の小丘である。
その片島は現在日蓮宗妙任寺が片島の頂上を含む2/3を、法厳寺の易産生荒大明神がその残りを、占地する。
 妙任寺は本政山と号し、寛永3年(1626)に開創され、開山は常照院日教という。大阪妙福寺末。
明治元年日道の代本堂焼失、昭和6年16世日運の代本堂再興。頂上には三十番神・妙見堂がある。
2015/09/15撮影:
 山下題目碑     山腹題目碑
 妙任寺山門     妙任寺本堂・庫裡     妙任寺本堂1     妙任寺本堂2     妙任寺鐘楼
 妙任寺番神宮・妙見宮1    妙任寺番神宮・妙見宮2    妙任寺番神宮・妙見宮3:三十番神・妙見大菩薩を祀る。
 妙任寺客殿:昭和58年建立     境内題目碑1    境内題目碑2:左記以外に境内には多くの題目碑がある。
 また墓地附近には歴代に無い上人の墓碑が多くあるが、これは何を意味するかは不明である。

参考:堅島山法厳寺及び易産生荒大明神
「片島」の東側1/3は片島神社が占地し、その東南麓に法厳寺がある。この社と寺院は、現在に明治維新前の神と仏の共存の姿を色濃く残すと思われるので(参考)として紹介する。
・易産生荒大明神の由緒を岡山神社庁のサイトでは以下のように云う。
 当社の創建年代は不詳、寛永6年以前に奉祀した神社である。古来は易産生荒神社と称し、安産の神として信仰する。
 神仏混淆時代のなごりにより、神社の管理は法厳寺に委託していた。

 明治11年存置願提出の期を逸し、そのまま脱漏神社として奉祀してきたが、昭和17年片島神社と改称の上、
 明細帳脱漏神社編入願を提出し昭和18年神社明細帳に編入されて現在に至っている。
  ※易産生荒大明神の易産とは子易の意であろうが、生荒とは意が不明。明治維新前は勿論あるいは昭和の戦時中まで、法厳寺が実質別當 のままであり、社自体は付属の社もしくは祠程度のものであったと思われる。
  ※明治政府の、皇室及び皇祖神を中心とした神社の体系を作り、以って臣民を統治するという国家神道の形成目的で、すべての「神社」は「社寺取扱規則(明治11年内務省乙第57号)」に基づき各府県では届出あるいは職権で 「神社明細帳」に記載した訳であるが、易産生荒大明神は、その理由は明らかではないが、神社明細帳への記載から脱漏したという。
そして、何を思ったのはこれまた明らかではないが、昭和17年片山神社と改号、同18年「神社明細帳」に記載を果たすという。いつの時代にも国家に阿る族は居るということであろうか。
・堅島山法厳寺(真言宗御室派)は宇多法皇の開山と云う。宇多天皇在位は仁和8(887) - 寛平9年(897)、 承平元年(931)崩御。宇多法皇は御室仁和寺を創建する。
現在の伽藍は昭和55年本堂修理並びに大師堂建立というから、古いものではないと思われる。
なお「鳳凰の松」(黒松)が市の天然記念物に指定されている。宝永3年(1706)再建の時に植えられた松と伝えられる。
 法厳寺山門    法厳寺堂宇1:向かって右から本堂、光明殿、大師堂     法厳寺堂宇2:同じく左端は鐘楼
 法厳寺堂宇3:同じく右端は鐘楼、手前は「鳳凰の松」     法厳寺俯瞰:手前から愛染堂、大師堂、鐘楼、その右は山門
 法厳寺愛染堂:法厳寺と社のの間の中腹にある。 この堂の性格は分からない。
 易産生荒大明神:右端は愛染堂
 鳳凰の松1    鳳凰の松2:いずれも背景は庫裡と思われる。     鳳凰の松3:山上は愛染堂と社殿

次の三因法華寺(下に掲載)と三因妙蓮寺(下に掲載)については調査途中である。
1)三因法華寺は地図上に「法華寺」との表示があるだけで、Web上の情報は皆無である。さらに現地を訪れても、境内に有力な手掛かりはなく、その由緒などは全く不明である。
2)三因妙蓮寺については、所在である「総社市清音三因1139」が特定できない。したがって、「大覚大僧正と三備開基寺院」に掲載された「清音妙蓮寺」の堂宇に辿り着くことが能わず、三因妙蓮寺を発見できない。
3)以上の両寺については、密かに次の疑念が湧く。
実は三因法華寺と三因妙蓮寺は同一の寺院ではないだろうかと。
三因法華寺の地番は調査しても判明せず、一方では、三因妙蓮寺の地番は1139であるが地番1139が特定できない 。しかし、三因法華寺の近辺の地番から、法華寺のある位置の地番は1139である可能性は有り得ないことではないと判断できる。
さらに、法華寺の所在は幸山城址の真西の山麓にあり、三因妙蓮寺の位置 が福山(備中福山城跡の北方に幸山城跡がある)の山麓という位置であるので、両寺の位置は大まかに符合する。
しかし、上に掲載の「清音妙蓮寺」の堂宇は 現在の三因法華寺には存在せず、この点では同一の寺院ではない。しかし、法華寺の堂宇の状況から判断して、既にこの堂宇は退転もしくは造替された 可能性も大きいであろうと思われる。

備中三因法華寺・・・・・上項参照
草創などの由緒、山号、本寺など詳細は全く不明。
法華寺という寺号、境内にある石碑から、辛うじて日蓮宗系の寺院であろうと推測できるだけである。
2016/06/26撮影:
 三因法華寺境内:向かって左は堂舎、中央には一段高い石階付きの平坦地がある。本堂があったのかあるいは本堂建立予定地なのであろうか。その右には写真には写らないが鐘楼がある。パイプで(新しいと思われる)足場が組まれているが、この意図は不明、本堂が建立されるその準備なのであろうか。
 三因法華寺堂舎1     三因法華寺堂舎2:切妻造の堂舎であるが、屋根瓦は近年葺き替えが行われてのであろうか。生活実態がある雰囲気であり、本堂と庫裡を兼ねた堂舎なのであろうか。
 三因本堂跡/予定地?
 三因法華寺鐘楼1     三因法華寺鐘楼2
 三因法華寺石碑1     三因法華寺石碑2     三因法華寺石碑3:これらの石碑には題目や一天四海などの文言があり、法華宗関係であることが仄聞される。
なお、堂舎のある平坦地の一段下に別の平坦地があり、そこには大石塔があると思われるも、そこは多くの動物がいる気配があり、立ち入りが憚れるような雰囲気であり、その檀には立ち入りをせず。

備中三因妙蓮寺:総社市清音三因1139・・・・・上項参照
大覚山と号する、京都妙覚寺末。
○「大覚大僧正と三備開基寺院」 より
往時は法華寺と称し、大覚大僧正の開基という。
備中石ケ鼻の城主石川左衛門佐和義、その子治部大輔宣義の菩提寺なり。
寛文年中、岡山城主池田光政の為に破却を受け法灯絶えたり。
元禄年中信ずるものあり、小堂を建立して、大覚大僧正の遺品を集め、密かにそれを祭祀し、位牌堂といふ。
昭和30年頃妙蓮寺と改む。歴代は不明なり。
 清音妙蓮寺
○「第650遠忌記念 大覚大僧正」 より
もと法華寺といい軽部村の小屋谷(福山の山麓)に所在。
暦応5年(1342)5月大覚大僧正の巡化により一村が真言より改宗して建立されたという。
元亀年中、高山城(幸山城)主の石川左衛門尉の菩提寺となる。
寛文年中池田光政の廃仏により破却されたが、その後密かに小堂を建て、元法華寺位牌堂と称して檜扇・数珠・大黒天像など大覚大僧正の遺品を祀っていた。
昭和17年真庭郡川東村有経山妙蓮寺(京都妙覚寺末)を寺号移転し、現在地に再建される。
 ☆下村「大覚大僧正」p492、「児島高徳皇子論」p216、「日蓮宗寺院大鑑」p877
※幸山城(高山城):延慶年中(1308〜1311)前後に庄資房によって築城されるといわれる。庄氏は資政の時、猿掛城を築き猿掛城に移り、幸山城は備中守護細川氏の被官でありまた備中吉備津宮社務代でもある石川氏が城主となる。 永禄10年(1567)明禅寺合戦においては備前宇喜多氏が勝利し、備中三村の加勢した庄元祐は討死、石川久智も戦傷が元で他界する。

備中軽部大覚寺
  →軽部大覚寺

備中箭田法華寺
建武2年(1335)大覚大僧正により建立と伝える。
大覚山と号する。京都四条妙顕寺末。
○「大覚大僧正と三備開基寺院」 より
延元元年(1336)大覚大僧正によって創立さる。以降数次の水害に遭遇し、記録・什宝を悉く流失という。
明治20年39世日圓上人代、矢田村別府の地より現在の地に移転改築、中興開山となす。
 ※矢田村別府とは不詳。抑々元和元年(1615)伊東長実が当地に封じられた時八田村は八田村と矢田村とに分村し、八田村は伊東氏、矢田村は岡山池田氏の領地となり、明治維新を迎える。明治9年矢田村と八田村と合併して箭田村となる。従って、矢田村別府とは箭田村の小字と思われるも不明。
2016/06/26撮影:
 箭田法華寺入口     入口題目碑
 山内日朗日像大覚大僧正碑    山内日朗菩薩碑    山内日像菩薩碑    開山大覚大僧正碑:貞治3年(1364)寂滅
 日蓮大菩薩650年遠忌       本堂前題目碑:当山開基大覚大僧正
 箭田法華寺本堂     箭田法華寺鐘楼     箭田法華寺庫裡1     箭田法華寺庫裡2
 箭田法華寺本堂扁額:日紹の花押があるが、京都妙顕寺13世龍華院日紹上人かどうかは分からない。

備中箭田妙傳寺
有縁山と号する。備前津倉妙林寺末。
創立は天正年中(1570頃)という。
その他の事蹟は情報が無く、不明。
2016/06/26撮影:
 山下新造山号寺号碑     山内題目碑     山内日蓮上人碑
 箭田妙傳寺本堂1     箭田妙傳寺本堂2     箭田妙傳寺小宇:堂の名称不明
 箭田妙傳寺庫裡:造替中か     妙傳寺歴代墓碑1     妙傳寺歴代墓碑2

備中箭田慈源寺
大覚山と号する。京都四条妙顕寺末。
○「大覚大僧正と三備開基寺院」 より
建武2年(1335)大覚大僧正開基大檀那桜井善吾信孝によって創立せられしという。
第47世日豊上人昭和35年遷化、以下無住となる。
2016/06/26撮影:
 山下題目碑/大覚大僧正:小高い丘の中腹に位置するが、その山下の参道脇にひっそりと佇む。
 境内日蓮上人650年遠忌
 箭田慈源寺本堂1     箭田慈源寺本堂2     箭田慈源寺鐘楼
 慈源寺堂跡:本堂横に堂跡があるが、堂の名称は不明、堂の退転の後、コンクリート製の小祠が建立されたと思われる。
 慈源寺墓碑:墓地入口付近に数基の墓碑が並び、一番左は日蓮上人、その横は大覚大僧正、さらにその横 にも石碑があるが、その銘文は不明(判読不可)である。また大覚大僧正碑の横の小祠は転倒したままである。
 日蓮大菩薩墓碑     大覚大僧正墓碑
 慶安2年手水鉢:慶安二年己丑(1649)と刻む。      慈源寺歴代墓碑
なお、「この寺に多くの墓石があり、いつ頃誰を葬った墓石か不明であるが、南北朝の頃の清音村の福山の合戦の時の戦死者かという。」との情報があるが、その他の墓石については未見。

備中服部本住寺
妙見山と号する。京都四条妙顕寺末。小高い丘上に立地する。
○「大覚大僧正と三備開基寺院」 及び 本住寺HP より
建武2年(1335)創立または延文3年(1358)創立と伝え、開基大覚大僧正妙実上人とあるのみで、その他の事蹟は不明である。
 旧本住寺堂舎:平成21に落慶する前の本住寺堂舎、取り壊され今はない。
○本住寺HP より
本堂・庫裡は平成21年に造替・落慶、祖師像は天保2年(1831)造立か。
妙見堂は明和6年(1769)再建、明治6年板札あり、その後崖崩れにより倒壊、平成3年再建。
鐘楼は大正12年上棟、梵鐘は今次大戦で供出、平成26年再鋳。
なお、現住の実父が箭田法華寺住職である。
206/06/26撮影:
 新造本住寺山号寺号碑     本住寺山内題目碑:彫が浅く文字が判読不能。
 本住寺本堂1     本住寺本堂2     本住寺本堂内部    本住寺客殿
 本住寺妙見堂:妙見は能勢型妙見という。      本住寺鐘楼
 本住寺歴代墓碑     本住寺墓地題目碑     本住寺歴代墓碑2:古いものと思われるも、判読できない。

備中玉島玉谷宣妙院
妙見大菩薩を祀る。現在は無住、相当荒廃し、祭祀を行っている形跡はなし。
黒崎妙立寺末、享保年間の設立という。(以上が唯一の情報である。)
 → 備中玉島玉谷宣妙院

備中黒崎妙立寺
  →黒崎妙立寺

備中屋守法福寺/屋守佛乗寺
  →備中法福寺、備中仏乗寺


備後の諸寺

備後新市本住寺:法華宗本門流
新市法華宗本住寺についてはほとんど情報がない。法華宗であり日隆門流であることは確かと思われるも、本能寺・本興寺に連なる寺院かどうかは不明である。
不明ではあるが、確率としては、八品派であることが最も高いと思われる。
2016/11/02:本能寺末寺である。
2014/01/01撮影:
 新市本住寺門前     新市本住寺全容     新市本住寺山門1     新市本住寺山門2
 新市本住寺本堂1     新市本住寺本堂2
 新市本住寺堂宇:堂宇名不明、祖師堂か      新市本住寺堂宇内部
 新市本住寺日蓮・日隆碑     路傍の題目碑:本住寺北方路傍にある。日蓮大菩薩・日隆大聖人とある。年紀は不明。
2016/01/01追加:
備後には本門法華宗に属する以下の寺院がある。
 本行寺(福山市城見町2−2−14・・下に掲載)、大法寺(福山市本郷町761)、妙皇寺(福山市本郷町513)、
 妙得寺(尾道市原田町梶山田4291)、本成寺(三原市西町333)
さらに備後には法華宗(本門流)に属する以下の寺院がある。
 本安寺(福山市芦田町下有地1897)、本住寺(福山市新市町大字新市1126)、正瑞寺(福山市沼隈町能登原927)、
 立正寺(尾道市向東町彦の上911)、本覚寺(府中市中須町1407−1)、
 安芸立正寺(竹原市竹原町3157−1)、安芸立正教会(竹原市竹原町3692)※竹原は安芸であるが備後に接する。
以上のように、日隆門流に属する寺院がかなりの密度で分布する。
永享12年(1440)頃から、日隆上人は京畿、四国、中国各地を巡教・多くを感化したというので、おそらく備後の瀬戸内筋に日隆上人が巡教し、これらの感化の結果であろうと推測される。

備後府中晃永寺
大乗山と号す。本堂はRC造。巨大な自然石に刻む題目碑がある。
2011/12/10撮影
 備後府中晃永寺本堂     備後府中晃永寺題目碑

備後福山実相寺
本堂は福山藩主水野家下屋敷を改築したもので、旧妙政寺本堂を移築という。また山門は神辺城城門を移築したものであり、境内西面には福山城東外堀石垣が移建されている。
法鏡山実相寺のサイトでは以下のように云う。(大意)
開山妙了院日達禅尼が「大黒尊天」を本尊とする庵をむすび、堂宇建立の誓願を立て諸国を勧進行脚する。途中、身延で無住の見照山實相寺を発見する。身延山参拝の折、第25世妙寂院日深上人に拝領を懇願し、許諾を得、備後吉津郷に寺号を持ち帰り、寛永10年(1633)堂宇を建立する。
その後、身延山より学禅院日逢上人を二世に迎える。
 現在の本堂は水野家下屋敷を改築したもので、妙政寺の旧本堂で、慶安5年(1652)の創建である。(棟札)
本堂は上田勘解由直定が實相寺を菩提寺とするにあたり、寛文6年(1666)今の地に移建する。なお、上田勘解由直定は開基檀越であるという。
○「備後叢書. 第3巻」得能正通 編、備後郷土史会、昭和3年
実相寺:見照山(元文の頃法鏡山と改む) 開山妙了院日達上人 身延山久遠寺
本堂 鐘楼 鐘銘 夫、備後國、深津郡、見照山、實相寺者、洛陽法鏡山妙傳寺末流也、・・・
三十番神  七面 題目堂
2016/01/01撮影:
 門前題目碑及び福山城東外堀石垣    参道題目碑1     参道題目碑2
 実相寺山門1     実相寺山門2     境内題目碑     墓地題目碑     実相寺鐘楼門
 実相寺本堂1     実相寺本堂2     実相寺本堂3     実相寺本堂4
 実相寺庫裡客殿     実相寺庫裡     実相寺保育所入口
 実相寺七面堂1     実相寺七面堂2     実相寺手水舎     実相寺井戸舎

備後福山妙政寺
  及び末寺恵了坊・守妙院
○妙政寺のサイト「備後妙政寺の縁起」では以下のように云う。
備後福山藩二代藩主水野美作守勝俊公の菩提寺である。長久山と号する。
二代目藩主水野勝俊は大檀那となり、絶大なる外護をする。そのため備後三山(水呑妙顕寺、熊野常国寺)の一画を占め、隆盛する。
○PDF文書「長久山妙政寺史」では以下のようにいう。
福山城北の地吉津町にある。京都妙傳寺末である。
妙政寺は天正年中(1573-)三河刈屋にて、水野藩筆頭家老上田玄蕃の祖父 「上田無甚斉正勢大居士」(大乗院殿功徳無甚斉正勢道源日輪大居士)により創建される。
寛永5年(1628)恕正院日宥上人(開基、第一世、中興)代、三河より福山寺町の地に移転。
寛文6年(1666)水野家家老上田玄蕃が北吉津町(現在地)に寺地を拡張して移転。この時本堂は実相寺に移建される。
二代藩主水野勝俊は大檀越であり、おおいなる外護を加える。
江戸期は62石15人扶持を受ける。
末寺は2ヶ寺あり。
 ●恵了坊:境内東側角地(現在は森田氏宅地)。上田玄蕃開基、恵明院日行上人開山。現在は妙政寺と合併するも、寺号は呉市法華寺として現存する。
 ●守妙院:かって福山市川口町1835にあり、現在は産業道路となり石碑がある。昭和46年妙政寺に合併、現在妙政寺内に守妙院の小宇が建てられている。
○「備後叢書. 第3巻」得能正通 編、備後郷土史会、昭和3年
妙政寺:京都妙傳寺末
本堂 勝俊公御霊屋(勝俊公位牌並殉死7人の位牌、釈迦の千体仏を安す。) 鎮守 三十番神
2016/01/01撮影:
 仁王門前題目碑     妙政寺仁王門     妙政寺仁王像1     妙政寺仁王像2     妙政寺山門を望む
 妙政寺山門1     妙政寺山門2      妙政寺本堂1     妙政寺本堂2     妙政寺本堂3
 水野位牌堂1     水野位牌堂2: 水野勝俊御霊屋、背後に写る大屋根が位牌堂(釈迦堂)である。
 妙政寺鐘楼       妙政寺守妙院:観音堂と称する。      妙政寺庫裡書院

備後福山長正寺
高光山長正寺のサイトでは以下のように云う。(大意)
高光山と号す。六条本圀寺末。
慶長5年(1600)頃、播磨尼崎にて正行院日具上人により開山される。
承応元年(1652)妙了院日達比丘尼を再建の願主とし、福山藩水野家筆頭家老上田玄蕃直重の三男、当山開基檀越上田陣之丞(俊光院殿道智日照居士)により尼崎より現在地へ移転。
なお、昭和20年8月8日の福山大空襲の災禍を免れる。従って山門・妙見堂は江戸初期のものであるが、本堂は昭和54年造替する。
○「備後叢書. 第3巻」得能正通 編、備後郷土史会、昭和3年
長正寺:高光山 開山(記入欠く) 京都本圀寺末。
鐘 享保9年・・・
2016/01/01撮影:
 長正寺山門・題目碑     長正寺境内     長正寺本堂     長正寺妙見堂
 長正寺庫裡     長正寺五輪塔     長正寺三重石塔

備後福山本行寺:本門法華宗
本門法華宗というから、京都妙蓮寺に属すると思われる。(推測)
情報は全くなし。
2016/01/01撮影:
 本行寺全容:山門・本堂・庫裡が写る。      本行寺本堂

備後福山光政寺
樹榮山と号する。
開山は智善院日凰上人。上人は水野勝成に従い、三河刈谷一乗寺から備後に入り、元和6年(1620)当寺を開く。
昭和20年8月8日、先の世界大戦による米軍大空襲で本堂庫裡など諸堂宇灰燼に帰す。
○「備後叢書. 第3巻」得能正通 編、備後郷土史会、昭和3年
樹榮山 開山 智善院日鳳上人 京都妙覚寺
日鳳は大念寺の大誉と碁の友にて・・大念寺の門内を借りて寺を建てしむ。故に寺内甚だ狭し。水野家臣上田玄蕃家来木村八太夫光政という者、大檀那となりて建立しける故、光政寺と号す。
本堂 祖師堂 鐘
2016/01/01撮影:
 門前題目碑     境内題目碑     光政寺本堂1     光政寺本堂2     光政寺庫裡

備後福山妙法寺
福山城築城以前は野上(福山市)にありしが、元和6年(1620)城下南側(神島町)に移されたという。神島町では安楽寺が対面にあったという。承応年中(1652-55)に城下南東に移されたという。
 ※水呑妙顕寺の末寺と確認できないので、おそらく京都四条妙顕寺末であろうか。
○「備後叢書. 第3巻」得能正通 編、備後郷土史会、昭和3年
 妙法寺:本性山、開山;本性日乗法師
往古、水呑村法華一乗兄弟のもの、日像師の教誨によりて、兄一乗、水呑村に一宇を造立して妙顕寺と号し、弟日乗野上村に一宇を建立して妙法寺と号す。当時三迫氏の屋敷より石橋迄の間、昔の寺跡なり。当城成就の後本迹院日意、此所に移す。本性より日意までの間は道心者など住して定まりたる住僧なかりしと。今の寺地の邊は民家も無く渺々たる平田なり。宗休公眺望し給ひて・・・(中略)・・・市中の寺とハなり侍り。
鐘楼 鐘 銘なし。奉寄進 備後國福山 意雲山妙法寺云々 とあり、この時まで意雲山といひけるか。・・(本性が開基であることを證とするため)本性山と改め、柳津妙蔵寺に山号を譲りて、意雲山妙蔵寺と号す。
本堂 三十番神 七面・鬼子母神・大黒
○藤川武子氏回想(続福山空襲の記録に収録)では次のようにいう。
 母は「妙法寺が燃えた時は、ものすごくきれいな火で燃えた。あんなのは今まで見た事もなかった。」と話したこともありました。妙法寺さんも、お寺の門だけは焼け残った様でした。
2016/01/01撮影:
 妙法寺全容     妙法寺山門:被災を免れた山門と思われる。
 妙法寺本堂1     妙法寺本堂2     妙法寺本堂3     妙法寺本堂4     妙法寺本堂5     妙法寺本堂6
 本堂前三尊像     妙法寺庫裡

備後最上稲荷山福山支院(最上講社 福山明照庵)
福山支院縁起では次のように云う。
備後福山藩阿部氏家臣に最上位経王菩薩を信仰する一団があり、最上武士団と称せられたという。
その最上位経王菩薩を祀る社殿は藩士佐野氏の屋敷内にあったが、幕末の頃佐野氏当主が逝去した折、その嗣子は幼少であった爲、武士団は協議の上、社殿を佐野氏邸から佐藤嘉衛門の屋敷内に移すことを決する。これが現在の福山支院のある地である。
明治維新後は武士団(士族)だけでなく、一般市民の信者も得て、田畑なども寄進され、隆盛となる。
昭和20年戦災で社殿は焼失、農地解放や戦災都市計画で境内は縮小され、小詞が石の上にあるだけの廃墟となる。
昭和38年復興の機運が高まり、社殿の再興と最上稲荷教総本山妙教寺の傘下に入る事を議し、昭和41年社殿を再興し、最上稲荷教総本山妙教寺福山支院となる。
妙教寺では「最上講社福山明照庵」と登録がある。
 ※最上稲荷教は平成21年身延山に復帰する。現在は最上稲荷宣師会に衣替えをし、組織化されているようであるので、現在では最上稲荷宣師会の講社ということであろうか。
 ※なお、備後福山藩の藩主は以下のよう変遷する。
元和5年(1619)福島正則改易、水野勝成が10万石で備後福山に入封される。
元禄11年(1698)水野家無嗣断絶、一時天領となる。
元禄13年(1700)松平忠雅が10万石で福山に入封。
宝永7年(1710)松平忠雅は転封、阿部正邦が10万石で入封。廃藩置県まで阿部氏が統治する。
2016/01/01撮影:
 最上稲荷福山支院全容     最上稲荷福山支院境内     最上稲荷福山支院本殿

備後福山最上教会
全く情報なし。
現在では身延山に属すると思われる。おそらく最上稲荷教に属する寺院であったが、平成21年最上稲荷教が身延山に復帰するに伴い、身延山に属するようになったのであろうと推測される。
2016/01/01撮影:
現在は本堂(本殿/経王殿か)と経王殿の扁額を掲げる鳥居と庫裡、その他の小詞・数基の題目碑が市街地の中に異質な空間を作って存在する。
 最上教会全容     最上教会鳥居・本堂・庫裡     最上教会本堂
 最上教会題目碑1     最上教会題目碑2     最上教会題目碑3     最上教会小詞

備後福山通安寺
桃林山と号する。備後熊野常国寺末。
○「備後叢書. 第3巻」得能正通 編、備後郷土史会、昭和3年
 通安寺:開山(記入欠く) 山田常國寺末
本堂 祖師堂 三十番神 七面 鐘楼門(毘沙門、廣目天を左右に安置す)
(以下大意)渡邊四郎左衛門景といへる人、毛利の幕下にて当國山田の城主なり。毛利輝元、石田三成の一味なりける故、・・・漂泊の身となりて濃州へ退去す。男子5人あり、・・三男日保上人・・。(四郎左衛門は隠居し)月毎に京都本法寺に詣で、日通上人の御教誨を聴聞・・する。
(慶長8年、日通上人は四郎左衛門の月毎の上洛を気遣い、美濃で本法寺の参篭と同一の効能を発揮するように、桃林山通安寺という寺号山号並びに曼荼羅などを授ける。)
元和5年水野勝成、備後に入府、四郎左衛門の男子をいずれも召し抱えられ、日保は水野家臣上田玄蕃の崇敬にて常國寺に院住す。四郎左衛門については、美濃に留まるとの意向を説得し、寺号山号があるならば、所望の地を与える由、寺を開くべしと仰せられる。四郎左衛門大いに喜びて、即ち今の地を申し受け、当寺を建立し暫く住居しけるが、後には日香を住せしむ。
開山上人については、俗人を開山とは致しがたく、鼻祖日通上人、二祖日香大徳と称するなり。また日保が常國寺にある故、おのずから常國寺の末となりたる。・・・
2016/01/01撮影:
 通安寺山門     通安寺山門・庫裡     通安寺本堂1     通安寺本堂2
 通安寺本堂内部     通安寺本堂七面天女像     通安寺鐘楼

備後草戸中ノ丁四ツ堂(地蔵堂)
現地説明板などを要約すれば、以下のようである。
四ツ堂とは辻堂であり、ここ中ノ丁の四ツ堂は三叉路に建つ。この三叉路は鞆、瀬戸、府中に通ずる交差である。
この四ツ堂は地蔵菩薩を祀る。また四ツ堂に接して北側には観音堂があり、十一面観音菩薩を祀る。明治33年の修理棟札に文政12年(1829)の記録があるが、この堂の設立時期は不明である。
なを備後には今なお多くの辻堂(四ツ堂)が残るようである。備後の辻堂は初代福山藩主水野勝成が整備したという。
2016/01/01撮影:
ここから瀬戸に通ずる半坂に寄り道をして、鞆道を鞆方面に向かい、水呑の南端まで散策する。
 中ノ丁四ツ堂     中ノ丁観音堂

備後草戸半坂三十番神ノ社
半坂鳥越の北側の山麓にあり。
現地説明板によれば、もとは草戸内洲に祀ってあったが、寛文13年(1673)に現在地に再建という。常夜燈の年紀は文政2年(1819)とある。また番神の社の下側には日蓮宗信者の墓所であ って、多くの墓碑が建つ。
2016/01/01撮影:
拝殿内部には三十番神札、法華経曼荼羅、「妙宗三十番神 略縁起」額及び多くの絵馬が掲げられる。
法華経曼荼羅や日蓮宗信徒の多くの墓が取り囲むなどの状況から、本三十番神は法華経守護の三十番神であり、日蓮宗に属する番神堂と判断される。、
 半坂三十番神堂参道石階   半坂三十番神堂拝殿   半坂三十番神堂拝殿内部1   半坂三十番神堂拝殿内部2
なお、南側の丘の山頂に半坂妙見社がある。

備後草戸半坂妙見社
 →備後の妙見社の項

備後草戸下ノ丁題目碑
ここには下ノ丁地区の6点の石造物が集められている。
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 下ノ丁題目碑:享保4年(1719)年紀でかなり大型である。      地神1・金毘羅山常夜燈・題目碑:左端が題目碑
 下ノ丁道しるべ:「左みのみ ともつみち(左 水呑 鞆津道)」とある。
その他に、地神2、井戸傍の石碑が集められている。

備後水呑洗谷宝山妙見山(金鶏山妙見教会)
 →備後の妙見社の項

備後水呑洗谷法界題目碑
洗谷松尾大明神に至る手前に題目碑と六字名号碑(南無阿弥陀仏)が並んである。
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 法界題目碑:天保7年(1836)年紀
なお、洗谷が芦田川に排水する附近にもう一基の題目碑<未見・文化9年/1812>がある。

備後水呑洗谷松尾大明神(前夜祭)
心ならずもかあるいは自ら進んでかは微妙な問題なのであろうが、社頭鳥居の背後に今次大戦の修了まで猛威を振るい、そして戦後70年経過してもいまだに清算できない国家神道のスローガンが睥睨する、どの地の神社でもよく見られる光景がある。
それはさておき、この社の案内石板に「宝暦6年(1756)創建、前夜祭には信者相集い御題目を唱え、・・・」とある。
おそらく水呑に鎮座するこの松尾明神の信者は大部が法華宗信者でもあるという複合的な構造であるということを示すのであろう。
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 松尾社社頭     松尾社国家神道スローガン

備後小水呑荒神社境内題目碑
題目碑が一基ある。詳細は不明。
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 小水呑荒神社境内題目碑
この題目碑から街道を南東に2町程進めば、清水池に至り、その傍らに一基の題目碑<未見・延宝2年/1674年紀>がある。
なお、この荒神社に水呑薬師が合祀されている。但し、由来は不明。
現地説明板によれば、荒神ノ社に合祀する。背面には水呑妙顕寺23世日純上人<享保9年/1724寂>の銘がある。
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 小水呑荒神社:手前から題目碑、地神、荒神社拝殿、本殿
 小水呑荒神社拝殿内部     小水呑荒神社本殿内部:向かって左が水呑薬師如来像

備後水呑小水呑妙見
 →備後の妙見社の項

片山最上稲荷<未見>
小水呑妙見と水呑妙見の中間付近の山麓にある。
ページ「水呑町ー山之神」では
万延元年(1860)備中高松最上位経王菩薩を勧請、妙観大菩薩及び清正公を合わせ祀る。開眼は水呑妙顕寺36世日修上人。
明治の神仏分離の処置で神社に改竄される。
※掲載写真で見ると、五重小塔(相輪は見えない)ような構造物が見えるが、実際はどのような構造物であろうか。

備後水呑妙見大菩薩
 →備後の妙見社の項

備後水呑妙顕寺
妙顕寺沿革:
  ※水呑妙顕寺以下水呑六ケ寺の寺歴はページ「水呑町の六ヶ寺」による。
 水呑妙顕寺は、延文元年(1356) 日像上人を開山、一乗妙性上人(刀匠・三原一乗)を開基として創建される。
そもそも、大覚大僧正は中国筋を弘教、鞆の津に「法華堂」(現在の法宣寺)を建立する。
当時、鍛冶・三原家の「妙性」「本性」の兄弟は水呑に住していたが、法華堂にて大覚大僧正に教化される。
大覚大僧正は他の地の弘教に旅立つが、妙性、本性兄弟はさらに教えを求め、妙顕寺日像上人に師事し、度々水呑から上洛する。そして、ついに一寺建立を誓願し、自からの持山に寺院を建立する。この寺院が水呑妙顕寺の基である。
 以上の経緯より、水呑妙顕寺は開山を日像上人・二祖を大覚大僧正・三祖を一乗妙性上人として開創される。さらに寺号も京都妙顕寺と同名の「妙顕寺」とすること及び「西龍華」の称号をも許可される。また山号は開基妙正を冠する「妙性山」とする。
なお弟の本性上人は「本性山妙法寺」を創建する。
爾来、本寺は西国筋の教化の中心となり、水呑では「水呑千軒皆法華」の中心寺院となる。
末寺は16ケ寺を有する。(水呑玉泉寺、水呑寿泉寺、水呑玄祥寺、水呑善住寺など、その他の名称は把握していない。)
歴代の内、18世本迹院日意上人は(水呑玉泉寺、水呑寿泉寺、水呑玄祥寺など新寺十ケ寺建立、 29世龍雄院日叡上人は新寺五ケ寺建立と伝える。
○「広島県沼隈郡誌」広島県沼隈郡編、先憂会、大正12年 より。
末寺八個を有する。水呑玉泉寺、水呑寿泉寺、水呑玄祥寺、水呑善住寺、山南本光寺、柳津妙蔵寺、郷分北辰庵、水呑金鶴山(金鶏山の誤であろう)之なり。
○備後水呑妙顕寺境内図
 備後水呑妙顕寺境内図:ページ「水呑町の六ヶ寺」から転載
2016/01/01撮影:
 妙顕寺門前題目碑:寛政10年(1798)年紀
 仁王門:延宝4年(1676)再建、明治12年本堂前より現在の地に移建。
 妙顕寺仁王門1     妙顕寺仁王門2     妙顕寺仁王門3     妙顕寺仁王門4
 妙顕寺黒門1:向かって右は玉泉寺、左は 寿泉寺     妙顕寺黒門2     妙顕寺黒門3
  参道題目碑:元禄9年(1696)年紀     参道五輪塔
 本堂:享保9年(1724)再建
 妙顕寺本堂1    妙顕寺本堂2    妙顕寺本堂扁額    本堂前三尊像:妙顕寺開創 650年記念、平成18年建立。
 本堂前堂宇:堂宇名不詳      妙顕寺位牌堂1     妙顕寺位牌堂2     妙顕寺客殿     妙顕寺庫裡
 妙顕寺鐘楼:寛永12年(1635)再建、昭和23年現在地に移建。
 妙顕寺鬼子母神堂1     妙顕寺鬼子母神堂2:中央鬼子母神、左本堂、右鐘楼
 妙顕寺七面堂:<未見>、写真中央左が七面堂

 ○玉泉寺・寿泉寺・玄祥寺俯瞰:大屋根が4ツ続くが、左から玉泉寺本堂・寿泉寺本堂・同庫裡・玄祥寺本堂である。

備後水呑玉泉寺
妙性山と号す。寛永2年(1625)水呑妙顕寺18世日意上人により創建される。水呑妙顕寺↑末あるいは妙顕寺寺中。
中古は観行院、観正簿王、卓肇坊等の名に変わるという。
2016/01/01撮影:
 玉泉寺山門     玉泉寺本堂1     玉泉寺本堂庫裡     玉泉寺本堂2     玉泉寺俯瞰

備後水呑寿泉寺
法雲山と号す。正保4年(1647)妙顕寺18世日意上人によって創建される。水呑妙顕寺↑末。
興善院、寿仙坊から現在の名称に至る。
2016/01/01撮影:
 寿泉寺見上げ     寿泉寺山門1     寿泉寺本堂1     寿泉寺本堂2     寿泉寺山門2
 寿泉寺俯瞰1       寿泉寺俯瞰2

備後水呑玄祥寺(玄祥坊)
妙性山と号す。元和7年(1621)妙顕寺18世日意上人によって創建される。水呑妙顕寺↑末あるいは妙顕寺寺中。
智閑坊、玄祥坊から現在の名称に至る。
2016/01/01撮影:
 玄祥寺寺門     玄祥寺本堂     玄祥寺本堂・庫裡     玄祥寺俯瞰

備後水呑善住寺
安立山と号する。永正9年(1512)水呑妙顕寺住職重兼律師によって創建される。水呑妙顕寺↑末。
本堂は慶応3年(1867)再建。
2016/01/01撮影:
 善住寺全容     善住寺題目碑     善住寺参道石階     善住寺山門1     善住寺山門2
 善住寺本堂:本堂は近年に造替か。      善住寺本堂・庫裡
 善住寺三十番神堂     善住寺三十番神像     三十番神堂脇題目碑

備後水呑重顕寺
清光山と号す。大本山四条妙顕寺末。
重顕寺はもともと真言宗であり、戒善院日行上人によって応長元年(1311)に創建されたという。
ところで、日行上人の師兄は実賢であり、この実賢は山城乙訓郡鶏冠井の真言宗真言寺の住持であった。徳治2年(1307)土佐幡多に流される日像上人は途中鶏冠井の真言宗真言寺に於いて実賢と法論に及び、実賢を論破、実賢は日蓮宗に改宗し、真言寺を真経寺と改号する。
おそらく、師兄の実賢の改宗に倣ったのであろうか、元徳2年(1330)重顕寺も日蓮宗に改宗する。
この故に重顕寺は備後に於ける最初の日蓮宗寺院となるという。
○「広島県沼隈郡誌」広島県沼隈郡編、先憂会、大正12年 では
応長元年(1311)日行の開基にして当時は真言宗なりしを、徳治元年(1606)日行京都に遊び、偶々日像菩薩と法論の結果法理心府に徹し遂に帰服す。
帰国の後、・・・徳治3年年旧宗を改め法華宗となる。応長元年(1311)現今の地に一宇を創立し重顯寺と称す。
2016/01/01撮影:
 重顕寺門前題目碑     重顕寺山門1     重顕寺山門2     重顕寺参道石階1     重顕寺参道石階2
 重顕寺本堂1     重顕寺本堂2
 重顕寺祖師堂?・庫裡     重顕寺祖師堂?:祖師堂かどうかは不明、客殿かも知れない。
 重顕寺鬼子母神     重顕寺宝蔵     重顕寺鐘楼     開基日行上人墓碑

備後水呑中村題目碑
安政3年(1856)年紀の題目碑が一基ある。
この題目碑に並んで、近年(平成20年か)まで大型の題目碑があったようで、「法界石塔跡」石碑が残る。この題目碑はこの地から西方100mほど離れた水呑西の井上記念館入口付近に移設と思われる。
2016/01/01撮影:
 水呑中村題目碑

水呑浜題目碑
大法界と通称する大型題目碑が一基ある。天保4年(1833)年紀

水呑西題目碑
水呑中村に大型の題目碑があり(写真が残る)一基あり、近年(平成20年か)移転されたようである。法界石塔跡の石碑が設置されている。移転先は旧地(水呑中村)から西方100mほどの井上記念館入口付近であろうか。この題目碑の年紀は安政3年(1856)である。
水呑西水呑八幡宮
明治の神仏分離以前は水呑妙顕寺が別當であった。この時の神体は妙顕寺に勧請された三十番神の木像中の八幡大菩薩を祀ったものであったという。

水呑鍛冶屋題目碑
題目碑(三分坂附近か?)が一基ある。慶応4年/1868年紀、日朝上人
水呑鍛冶屋松尾神社
(位置不明)葛城駅東方にあった妙見大菩薩を合祀
水呑鍛冶屋大覚堂
旧鞆鉄葛城駅東にあり。元の鍛冶屋妙見大菩薩の跡で、この地に備中軽部大覚堂(→軽部大覚寺)」の信者が多く、明治16年に法塔を建て、大正10年新堂を建立する。境内に常夜燈(左右に日蓮大菩薩、妙見大菩薩と刻む)がある。また大覚大僧正碑(法塔のことか?)もある模様である。

水呑竹ヶ鼻最上稲荷社
(位置不明)
水呑竹ヶ鼻日蓮大菩薩碑
(上記の最上稲荷社の入り口にあり)
水呑竹ヶ鼻題目碑・日朝上人碑・常夜燈
(位置不明)
 題目碑:延享2年/1745、竹ヶ鼻題目講、日朝上人碑:宇多家に祀られていたが、現地に移設、常夜燈:左右に日蓮大菩薩、妙見大菩薩と刻む。

備後田尻顯應寺
「広島県沼隈郡誌」広島県沼隈郡編、先憂会、大正12年 より
四条妙顕寺末。元応2年(1320)日像の開山、日像上人備後弘通最初の寺なり。文安2年(1445)四条妙顕寺の弟子成道院源来、この地に来たりて再興す。
水呑重顯寺と同時代の建立にて誠に両寺一寺なりけるが、いずれかの住僧の時像師の曼荼羅を重顯寺に貸置けるが、時代移りて重顯寺の什宝となれり。云々。
 田尻村顯應寺
2016/01/01撮影:小松山と号する。
 鞆街道沿題目碑     山門下題目碑     山門下石階     顯應寺山門
 顯應寺本堂・庫裡     顯應寺本堂     顯應寺庫裡
 顯應寺成徳殿:写真向かって石階の左が歴代墓所であり、歴代墓碑があるが、写真撮影をせず。
 顯應寺虚空蔵     三上人供養塔:向かって左から日像菩薩、日蓮大菩薩、本理院日照(不詳)

備後山田九曜堂:備後中山田村九曜ヶ端
2016/05/11追加:
○「福山市熊野町史」熊野文化保存会編、昭和59年 より
「社寺明細帳」沼隈郡熊野村 では
本尊日蓮大菩薩、堂は3間半×4間、民有地475坪。
現在は、堂は3間半×4間、内陣の左右と後は庫裡となり、居住が可能である。堂の横には水場もあり風呂もある。以前は堂守の僧が居た。堂は昭和3年全焼し、同年に再建される。堂の前に1間半角の鐘楼がある。明治13年鋳造の梵鐘は昭和17年供出され、現在の鐘は昭和25年鋳造されたものである。石階は安政3年築造、嘉永3年銘の常夜燈や同年の手洗鉢がある。
土地の人はこの堂を清正公と呼ぶ。文化年中原之曽根の住人が肥後熊本本妙寺へ参詣し、清正公の分霊をここに勧請したことによるという。

備後山田時見堂:備後下山田村田鴨田之尻
大正の初め頃まで日中山時見堂として2間×1間半の堂があったが、今堂はない。下組郷公民館内に仏壇を設けて時見堂を記念してある。仏壇内厨子の坐像は常国寺から受けた日親上人像という。仏壇の上には「成親閣 時見堂什」と書いた大額を掲げる。
時見堂の由来は、日親上人当地巡錫の折、辻堂で説法をし、時の過ぎるのを忘れ、今何時かと村民に尋ねたという。それ以来辻堂を時見堂と称するという。なお「日親上人辻説法霊跡」の石碑と2基の題目碑が建つ。

備後山田常国寺:備後上山田村(現熊野町)
 →備後山田常国寺

備後山田法縁寺:備後中山田村(現熊野町)
四大山と号する。山田常国寺末。
○ページ「福山市熊野町の昔風景」 より転載
 山田法縁寺:大正12年の写真と解説にある。
天文年中(1532〜1555)渡辺信濃守常菩提所として創立される。
由来については2説ある。
一つは背後の宇根山上に真言宗大富山山中寺(あるいは山中山大富寺)があり、渡邊越中守兼が常国寺をを創建したとき、この寺も改宗して、日蓮宗となり常国寺の末寺となる。天文年中渡邊常が山上から今の地に伽藍を下し、日祇上人を開基として常の菩提寺とする。その後寛文年中(1661-73)に常国寺八栖日感上人が四大山法縁寺と改号する。
別の一説は次のとおり。
大富に2寺あり、その内大富寺は改宗を拒んだので、兼によって村外に追放される。もう一つの南之坊は改宗して法縁寺となり、現在地に移るという。
本堂:明治31年焼失、明治32年再建されたもの。
鐘楼:明治21年建立。しかし昭和55年大風にて倒壊し再建に至らず。
2016/05/11追加:
○「福山市熊野町史」熊野文化保存会編、昭和59年 より
「社寺明細帳」(明治12年)では
常国寺末寺、本尊は釈迦如来、天文年中渡邊信濃守常菩提所に創立す。
本堂は3間×3間半、庫裡2間半×6間、玄関1間×2間、鐘楼1間半角(明治21年築)、表門4尺×1間、裏門3尺×1間、境内官有地126坪・民有地231坪。
現在、本堂は3間×3間半本瓦葺き、庫裡は2間半×6間で「明細帳」と同規模であるが、明治31年全焼、明治32年再建。梵鐘は戦時供出でなく、鐘楼も昭和55年大風で倒壊し今はない。なお境内の大忠魂碑は戦後熊野小学校から移されたものという。

備後山田寿量寺:(現熊野町)
薬王山と号する。山田常国寺末。
上山田常国寺から南東の山中に入り、一里ほど進めば寺迫峠の頂上に至るが、そこに壽量寺はある。上山田村が鞆の原村と境を接する所にある。
壽量寺は俗に峯の薬師ともいう。本尊は釈迦牟尼仏であるが、安置する石像薬師如来は鞆の海中より出現と云う。
当寺の始まりは常国寺7世日保上人(渡邊四郎左衛門景の三男である)藩主水野勝俊より領地を賜い隠居所として一宇を建立、壽量庵と号したことによる。(日保上人、薬師堂を壽量庵と改称して庵を結び隠居所とするとも云う。)
本山常国寺8世日感上人隠居に付、寛文10年(1670)壽量寺と改号し、日感上人を開山とす。
文政12年(1829)本堂再建、庫裡は大正6年焼失し、大正8年再建、後改築される。
本堂東に鐘楼跡があり、題目碑が移設されている。梵鐘は昭和17年戦争資材として供出される。
昭和50年頃無住となり、常国寺兼帯となる。
2016/05/11追加:
○「福山市熊野町史」熊野文化保存会編、昭和59年 より
「社寺明細帳」沼隈郡熊野村 では
常国寺末、本尊釈迦如来、本堂3間角、庫裡3間×4間半・大正6年焼失・大正8年再建、鐘楼は1間半角、薬師堂(本尊薬師如来)1間角、官有地325坪、鞆顕政寺兼帯。  とある。
現在、本堂は3間×3間半3尺の廻椽付、向拝には石階がある。本堂は文政12年(1829)の再建。庫裡は大正8年再建後、3間半×5間に改築、本堂東に石囲いの鐘楼跡あり、薬師堂は退転し今はない。

妙得寺(尾道市原田町梶山田4291):本門法華宗、京都妙蓮寺末

備後三原妙正寺
無量山と号する。京都妙顕寺末。
延宝2年(1674)三原城主三代浅野忠真の創建になる。開山は日忠上人。三原浅野家の菩提寺である。
初め東町米田山の麓に創建されたが、4代忠義によって現在地に移転される。
享保9年(1724)本堂と鎮守が移転し、次いで庫裡、書院、鐘楼、山門が建立される。
2015/03/21撮影:
 妙正寺遠望:山門・本堂・庫裡・鐘楼などが写る。
 妙正寺山門     妙正寺題目碑
 妙正寺本堂1     妙正寺本堂2:左端の赤い堂は最上稲荷本殿
 妙正寺本堂3     妙正寺本堂4     妙正寺本堂5     妙正寺本堂扁額
 妙正寺本堂内陣     妙正寺本堂本尊
 妙正寺玄関・庫裡     妙正寺庫裡     妙正寺鐘楼1     妙正寺鐘楼2
 妙正寺梵鐘:天正4年(1576)<天正8年?>鋳造銘がある。
 妙正寺鎮守最上稲荷(番神社)
参考:
 三原城天守台遺構1     三原城天守台遺構2     三原城天守台遺構3     三原城天守台遺構4
 三原城船入櫓遺構1     三原城船入櫓遺構2     三原城船入櫓遺構3

本成寺(三原市西町333):本門法華宗、京都妙蓮寺

大法寺(福山市本郷町761):本門法華宗、京都妙蓮寺末 →大覚大僧正開基寺院

妙皇寺(福山市本郷町513):本門法華宗、京都妙蓮寺末 →大覚大僧正開基寺院
 

 

安芸の諸寺

安芸圀前寺 → 安芸国前寺


讃岐の諸寺

平木妙徳寺

貞治<北朝>6年(1367)建立と云う。開基など未調査。妙雲山と号し、京洛妙覚寺末。
平木は当寺の門前町として発達したところと云う。
2009/12/26撮影:
 平木妙徳寺南方題目碑:妙徳寺表門の南方・長尾街道と交わるところに題目碑がある。
 ここが妙徳寺への参道の始まりであろう。背後は観音堂。
 平木妙徳寺参道:長尾街道・題目碑から参道・妙徳寺を見る。
 平木妙徳寺門前題目碑     平木妙徳寺表門:左から妙見堂・鬼子母神堂・本堂・鐘楼
 平木妙徳寺本堂
 平木妙徳寺妙見堂:右は鬼子母神堂、妙見菩薩の由来は未調査。

宇多津法華宗(本門流)本妙寺

鳳凰山と号する。京都本能寺末。
嘉吉2年(1442)日隆上人開山。日隆上人は西国弘教の一環として宇多津を訪れ、病気平癒の祈願あるいは清浄な水の乏しい宇多津の住民の為、祈祷をなし杖を以って井戸を掘り、清澄なる水を湧出させる奇瑞をなすという。 (鳳凰霊水)
本堂:宝暦7年(1757)再建、客殿:正徳2年(1702)再建。
番神堂:讃岐六番神の一つというも、そもそも讃岐六番神自体が不詳。
信行院:現存する唯一の寺中。RC造で造替されたようである。
鐘楼堂:安政6年(1859)再建。
2017/08/16追加:
○「讃岐国名勝図会」巻之10、江戸後期、松岡信正画(「日本名所風俗図会 14」角川書店、1979-1988 所収) より
本妙寺
 (鵜足津村にあり。・・・京都本能寺・尼崎本興寺、両末寺)
鎮守社
 (三光天子、秋山土佐守泰忠勧請する所なり。国中六カ所の一)
鳳凰水
 (并に境内にあり。名水なり。旱魃の年たりといへども、水かれず)
当寺は宝徳2年2月、本化正統本門八品門流再興、唱導師日隆大上人御建立なり。
 ※以下日隆上人の事績の記述があるが、省略する。 →日隆上人略伝に概要を記載。
絵図:
 宇足津全圖(宇多津全圖):其2の上方中ほどに本妙寺・信行院が描かれる。
 本妙寺・信行庵:ほぼ今と変わらない寺観が描かれる。
2017/08/16追加:
○「日本歴史地名大系 香川県の地名」平凡社、出版年1979〜2003 より
宝徳4年(1452)京都本能寺日隆が弘経院と称していた法華堂に寺号を付与して開山。
讃岐においては、高瀬本門寺に続く日蓮宗寺院である。
江戸末期高松藩松平頼該は度々本寺を訪れるという。
鎮守三十番神は本門寺開基檀越秋山泰忠の勧請という。
2017/08/16追加:
○「うたづ・新宇多津町誌」宇多津町、1982 より
本妙寺:境内建物:
 本堂(53坪)、庫裡(121.55坪)、番師堂(番神堂、12坪)、塔中信行院(木造本堂、14坪)、宝蔵(六角)、
 鐘楼、太鼓楼(木造二階)、経蔵(土蔵造)、土蔵(土蔵造)、納屋、渡廊、表門
 飛地境外仏堂として次が記載される。
  三光院(木造平屋建瓦葺・20坪)、庫裡(157坪):坂出市田尾
     →坂出市八幡町4丁目8、法華宗本妙寺塔頭田尾三光堂として存在する。
  三光堂(木造平屋建瓦葺・9坪)、庫裡(28坪):坂出市福江町
     →坂出市福江町3−189、法華宗本門流三光院として存在する。三光堂・庫裡はRC造で造替されたようである。
  三光堂(木造平屋建瓦葺・5.75坪)、庫裡(7坪):坂出市林田町
     →存在を確認できず。
  三光堂(木造平屋建瓦葺・1075坪):坂出市府中町
     →存在を確認できず。
2016/10/08撮影:
 山下題目碑     山下日蓮上人銅像     山下日隆上人銅像
 本妙寺山門     本妙寺本堂     本妙寺宝蔵:左は土蔵、右奥は信行院
 本妙寺経蔵     本妙寺鐘楼     本妙寺玄関・客殿か     本妙寺庫裡か
 本妙寺番神堂:本尊曼荼羅並三光天子     本妙寺寺中信行院     境内題目碑     日隆上人霊跡
 本妙寺景観1     本妙寺景観2

宇多津安養寺跡題目碑

本妙寺の西方に一基の題目碑(題目塔・法界碑)が建つ。(安養寺跡と判明したので、安養寺跡題目碑と名称を改める。)
  題目碑位置図: 図の中央にその位置を示す。
銘文に判読できない部分があり、由緒などが判明せず。
2016/10/08撮影:
 宇多津題目碑
 宇多津題目碑銘文:本■寺■■/安■寺舊跡とある。
 おそらく安■寺と号する寺院がここにあり、その旧跡を顕彰するものであろうか。
2017/08/10追加:
●宇多津教育委員会様のお骨折りで題目碑銘文が判明する。

○宇多津町教育委員会様に、この題目碑(題目塔・法界碑)について由緒などを問い合わせ、
次の通りの回答を得る。

◆石碑内容
 正面: 南無妙法蓮華経 法界萬霊 本妙寺末寺/安養寺舊跡
  ※他の三面には文字があるのかないのかさえ不明である。
  ※解読は「宇多津町文化財保護協会」様のお手を煩わしたものと思われる。

◆「讃岐国名勝図会」江戸後期 の記載
 同所南にあり
 東川津安養寺旧跡
 今、井戸存せり
 名水なり
  ※本文内「同所」とは、この前に神石神社にかかる記載があるため、神石神社をいう。
  ※神石神社は宇夫階神社の北300mほどの所にある。
  ※「讃岐国名勝図会」は前編、後編、続編の3部作で、前編の刊行本はあるが、
  後編、続編は原稿のままであるという。おそらく、上記の記載は後編もしくは続編に記載
  されているものと思われるも、後編・続編の所蔵が不明であり、直接確認ができない。

◆夘辰町教育委員会の解説
 かつて宇多津の町は海の中に出来た町であり、昭和30年前後では塩の生産量が日本一であると称された、製塩業の町であった。
 そのため、飲料水は塩気が強く、町に水道施設が整備されるまでは、町の「水売りさん」はその井戸の水を売り歩いていた。
 なお、「宇多津町文化財保護協会」様からは本題目碑の前の道は四国88ヶ所巡礼道<郷照寺-道隆寺間>であり、お遍路さんに水の接待が行われたのではないかとの解説を頂く。

○本題目碑の性格(管理人s_minagaの見解)

本題目碑は法界萬霊に見られるように、供養碑である。
そして、同時に「安養寺舊跡」とあるように、安養寺の顕彰碑でもあろう。
わざわざ、本妙寺末寺とあることから推測すれば、宇多津本妙寺が建立した可能性が高いと思われる。
年紀については、刻銘がなく、原状では推定するしかないが、材料が不足し、良く分からない。
本妙寺末寺安養寺とは全く不詳であり、当面この点の解明を要するであろう。

上記の「解説」では宇多津特有の水事情から「井戸」の持つ意味が語られ、
また、宇多津本妙寺の日隆上人手掘りという「鳳凰霊水」<宇多津本妙寺参照>も同じ文脈であり、本題目碑は脇にある「井戸」と関係するのかも知れない。
 ※写真撮影時、井戸には注意が行かず、井戸を撮影した写真はない。
そのため、GoogleStreetViewから写真を転用する。
 題目碑と井戸1     題目碑と井戸2
いずれも左手が題目碑と第1井戸、右手に第2井戸が写る。(写真で見ると井戸は2基あると思われるが、2基あるというのは錯誤かも知れない。)

2017/08/16追加:
○「讃岐国名勝図会」巻之10、江戸後期、松岡信正画(「日本名所風俗図会 14」角川書店、1979-1988 所収) より
 ※上で、後編・続編の所蔵が不詳で、直接確認が不可と記述するも、
 実際は「日本名所風俗図会 14」で刊行されていたので、本書を参照する。
絵図:
 宇足津全圖(宇多津全圖)
 圖の右上に宇夫階社とその丘があり、その左手に秋葉社がある。宇夫階社と秋葉社との間は小さな谷筋で、そこには丸亀街道の旧道が通る。その旧道沿いに安養寺跡と刻む題目碑がある。
記事:
 安養寺(川津村にあり。)
  ・・・・・・中略・・・・・・
 若宮(同所裏町にあり、社人宮本氏。云々)
 御霊魂八幡宮(同所本町にあり。社僧同上。云々)
 八大荒神(同所、蔵前裏にあり。社人同上。云々)
 蛭子社(同所浜町にあり。云々)
 塩竈社(同所塩浜にあり。云々)
 蛭子社(同所にあり。云々)
 神石大明神(同所海辺にあり。云々)
 安養寺跡(同所南にあり、東川津安養寺旧跡。今、井戸存せり。名水なり。)
  ※安養寺は川津(現坂出市)に現存する。近世中葉から明治初頭まで、東川津村は存在し、現在は川津となる。
 十王堂(同所にあり、浄土宗那珂郡真福寺末)
 如来荒神(同所にあり、云々)
 釈迦堂(同所、道の傍らにあり。)
 秋葉社(同所にあり、社人宮本氏、云々)
 宇夫階大明神(同所にあり、社人宮本氏・高国氏・多田氏、云々
  本地堂 末社(荒神、申御前、金毘羅、寅御前)
   ・・・由緒など省略・・・
  神宮寺(同所にあり、東瑞山蓮華院、真言宗、聖通寺末)
   本尊十一面観音、大師堂、当寺は文和年中沙門宥賢創建なり。
   明治二年御一新となりて、神仏混淆御乱れ正し、唯一となりて帰俗なし、宮本司馬と改称なして廃寺とはなりぬ。
 ※ここで云う「同所」とは基本的に「鵜足津村」(うたづ村)を指すものと思われる。
 安養寺跡題目碑位置図2:Mapionより転載
北側より、蛭子神社(塩浜)、神石大明神、塩竈神社(塩浜にあり、昭和9年宇夫階社に合祀・移転)、宇夫階大明神、氏子会館附近が神宮寺、秋葉神社、安養寺跡などを示す。
 宇夫階社・神宮寺・秋庭社・神石社
中央が宇夫階社、西に秋葉社がある。神宮寺背後に谷筋があり、この道筋また秋葉社の背後に安養寺跡題目碑がある。安養寺跡背後(南側)は青の山であり、安養寺跡に名水という井戸がある立地を見て取ることができる。宇夫階社の東北方面神石社の附近に十王堂・釈迦堂が描かれるが今は退転したのであろうか、その位置は不明である。
2017/08/16追加:
○「うたづ・新宇多津町誌」宇多津町、1982 より
◇移転した寺院
安養寺:中世の頃、本妙寺の末寺として宇夫階神社東南に建立され、後に坂出市川津に遷される。今神社東南に「本妙寺末寺安養寺舊跡」と記された石碑が立っている。
2017/08/16追加:
○「日本歴史地名大系 香川県の地名」平凡社、出版年1979〜2003 より
◇宇多津村:
東は聖通寺の参道下から、西は宇夫階社の脇を通り、海岸線を丸亀に抜ける丸亀街道が通る。この道は古くは本妙寺の横を丘越えして抜けていたという。
 ※この旧道が古くは丸亀道(巡礼道)であり、安養寺跡題目碑と名水の井戸の側を通る道を指すのであろう。
◇川津村:
鵜足(うた)郡に属する。東川津村と西川津村からなる。
近世には真言宗ほうしょう院があった。現在は高野山真言宗安養寺ほか真宗寺院3ヶ寺がある。
2017/08/16追加:
○「角川日本地名大辞典 香川県」角川書店、出版年1978〜1990 より
◇東川津村(近世)
東川津・西川津の両村民を氏子(檀家であろう)とする寺院は白暦山竜音寺宝珠院・津摩山安養寺浄通院があり、ともに真言宗である。宝珠院は明治4年廃寺となる。

以上、安養寺跡題目碑銘文、「讃岐国名勝図会」記事、「うたづ・新宇多津町誌」記事、地名辞典(2種類)の記事
を総合すると次のように粗い概要が知れる。
題目碑は安養寺旧跡に建立される。そこには名水の井戸が残る。
安養寺の創建は中世で、本妙寺末として建立される。(具体的な年紀、開基などは不明)
安養寺は近世の前期あるいは中期には東川津村移転され、高野山真言宗として現存する。(移転の事情、年紀、転宗の事情などは不明)
題目碑の建立年代、本願などは不明、唯一「うたづ・新宇多津町誌」に石碑の存在に触れるだけである。しかし、石碑には題目を刻み、安養寺をわざわざ本妙寺末寺と明示することから、おそらくは本妙寺もしくは本妙寺信徒の手によって建立されたことは間違いないであろう。
 ※安養寺及び石碑に関する更なる情報収集を要する。

丸亀宗泉寺

圓亀山と号する。推測するに四条妙顕寺末であろう。
 ----「四国日蓮宗のお寺」では以下のように云う。
万治元年(1660)詮量院日雄上人が開基する。圓亀山詮量院と号する。
延宝4年(1676)京極丸亀藩初代京極高和生母が逝去、その遺命により、この地に埋葬し、稔持仏を納め、宗泉寺と号する。
宗泉寺の寺号はもともと京極家領国松江にあったが、国替に伴い、播州龍野へ、更に丸亀へと移る。
 ----以上「四国日蓮宗のお寺」より
 ※京極氏:
寛永11年(1634)京極忠高が若狭小浜より出雲松江に入封、寛永14年忠高が、跡継がないまま病没して除封され、一門の高和が播州龍野(6万石)で家名を継ぐ。
万治元年(1658)高和は丸亀に転封、西讃に5万石余、播磨揖保郡に30ヶ村1万石、計6万石余を領する。
次の高豊は近江蒲生郡に2ヶ村1400石を加増され、しかも幕命で播磨所領の内の2ヶ村を近江坂田郡の2ヶ村と交換し、京極氏代々の墓所の地を領することとなる。
3代高或(たかもち)は3歳で襲封するが、高豊の遺命により、元禄7年(1694)庶長子高通に1万石を割き、多度津藩が成立する。
京極氏歴代墓所は近江坂田郡(現米原市)清瀧徳源院(清瀧寺)に現存する。高和・高豊・高或墓碑も清瀧徳源院(清瀧寺)に現存する。
 ※Web情報では
多度津藩京極家初代藩主高通生母芳泉院(塩津嘉知女)の墓があるという。
2016/10/08撮影:
 門前題目碑     宗泉寺参道     宗泉寺山門     山内題目碑
 宗泉寺本堂     宗泉寺本化上行菩薩     宗泉寺清正公堂     宗泉寺鐘楼     宗泉寺庫裡

丸亀法華宗(本門流)本照寺

陽面山と号する。京都本能寺末。
2016/10/08撮影:
 本照寺山門・題目碑     本照寺本堂     本照寺石造多宝塔など     本照寺庫裡


伊予の諸寺

松前妙寛寺

 → 伊予松前妙寛寺(「伊予松前城発掘塔礎石」中にあり)


阿波の諸寺

阿波徳島寺町
徳島眉山山中・山麓には多くの各宗寺院が密集し、寺町を形成する。
山中・山麓には持明院、瑞巌寺、観音寺、竹林院、春日寺(春日神社)、八坂神社、天神社、諏訪神社などがあり、また山下には遷国寺、浄智寺、東宗院、法華宗(敬台寺、本行寺、妙永寺、善学寺、妙典寺、本覚寺、寿量寺、妙長寺)、来福寺、源久寺、安住寺、善福寺、願成寺、般若院、・・・などがある。
これは蜂須賀家政の阿波入国に伴い、勝瑞や旧領地から多くの寺院が移転されたことによる。
昭和20年の空襲で、殆ど全部焼失したものと推定されるが、多くは再興されているとも思われる。

 徳島市西新町航空写真の日蓮宗寺院部分図:下図拡大図:徳島県立文書館:「幻の城下町徳島」 より転載
    ・・・・撮影年代は不明、昭和20年空襲前写真:焼失前の各寺院の堂宇の様子を概ね窺うことができる。


 なお、敬台寺はこの写真のかなり右手の寺町最北端にあり、写真には写らない。
 また大滝山持明院は本行寺の右手上方に位置し、これも写真には写らない。

 2010/11/01追加:昭和11年徳島市街全圖:眉山山麓には寺町が形成されている様が窺える。

徳島寺町敬台寺:寺町北にある。

心蓮山知玄院と号す。
正保2年(1645)、徳島藩初代蜂須賀至鎮正室敬台院(徳川家康養女、織田信長・徳川家康の直系の曾孫である)は、信仰していた江戸敬台山法詔寺と相模鎌倉廃鏡台寺とを合わせ、徳島城下に移転 、建立する。
開山は日重。 開基は富士大石寺第17世日精。現在は日蓮正宗。
 (なお富士大石寺御影堂は敬台院の寄進により建立され、現存する。)
創建時は大滝山持明院寺地の一部を召し上げ、方1町の寺地があり、本堂・書院・方丈・台所・大玄関・小玄関・御魂屋・表門・垂迹堂・鐘楼などの伽藍があったと云う。寛文6年(1666)敬台院は没し、墓所となる。
慶安元年(1648)寺領200石を寄進され、幕末まで維持される。
昭和20年の空襲で焼失し、現在は規模を縮小する。
 2010/01/19撮影:阿波敬台寺
2012/07/10追加:
敬台院の詳細については → 冨士門流三鳥派(三超派)・細草檀林 を参照

徳島寺町本行寺:寺町西の北側にある。

高雲山法住院と号す。板野郡勝瑞に建立され、開山は日永、日永は三好氏一族と云う。
天正3年(1575)三好長治の菩提所となる。三好氏は阿波一国を日蓮宗に強制改宗させる政策を進める。
之に関して真言宗持明院との宗論・訴訟となる。宗論は堺妙国寺・経王寺などが下向し行われる。京洛妙覚寺末。
天正13年(1585)蜂須賀氏入国後間もなく、勝瑞から寺町に移される。
寛政6年1794)本堂焼失、昭和20年の空襲によって本堂、山門、和霊堂、清正堂、稲荷堂などを焼失。
 ※山門は延享元年(1752)起工の大建築であった。寛政6年焼失本堂はその後藩主の寄進で再興され、その本堂も焼失。
現在は仮堂(ではなく近年造替の堂宇)と思われる堂宇がある。
門前に金竜水が残る。
 2010/01/19撮影:阿波本行寺1     阿波本行寺2

徳島寺町妙永寺:寺町西の本行寺南側にある。

古くは勝瑞にあったが、文禄年中(1592-)八万村法華谷に移った後、寺町に移ると云う。
昭和20年の空襲で焼失、堂宇は近年の再興と思われる。身延山久遠寺末と思われる。
 2010/01/19撮影:阿波妙永寺

徳島寺町善学寺:寺町西の妙永寺南側にある。京洛立本寺末。

長久山と号す。勝瑞から文禄年中に寺町に移転と云う。
昭和20年の空襲で焼失、堂宇は近年の再興と思われる。
本堂はRC造、ニ層堂形式を採り、ニ層屋根上に方形の小宇を載せ、さらにその屋根上に相輪を載せる。
 2003/07/24撮影:阿波善学寺ニ層堂1
 2010/01/19撮影:阿波善学寺     阿波善学寺ニ層堂2     阿波善学寺ニ層堂3

徳島寺町妙典寺:寺町西の善学寺南側にある。

高井山龍光院と号す。法華宗本門流。
明応6年(1497)の創建で、開山は日相と伝える。創建の地は勝瑞で、その後高崎村に移り、寛永年中(1624-)脇町本覚寺日正によって寺町に移る。
庚申堂には勝どき橋にあった青木庵帝釈天を祀る。昭和32年に移安されると云う。
昭和20年の空襲で焼失、堂宇は近年の再興と思われる。
 2010/01/19撮影:阿波妙典寺1     阿波妙典寺2:帝釈天堂
2012/07/15追加:
戦後の仮本堂を造替。総円柱、軒支輪付出組、本繁垂木割二軒仕上、本瓦葺、向拝入母屋造、中世の和様を基調とした完全な木造伝統工法による堂を計画。平成22年12月着工、平成25年11月完工予定。

徳島寺町本覚寺:寺町西の妙典寺南側にある。

光輝山と号す。身延久遠寺末。(京洛妙覚寺末)現在は寺町妙長寺兼帯。
かっては勝瑞にあったが、承応年中(1652-)寺町に移ると云う。
阿波千家(千利休長子道安の家系)一族及び高良斎(シーボルト高弟・眼科医)の墓所がある。
昭和20年の空襲で焼失と思われるも、未だ堂宇の再興はならず、バラック様の堂宇があるのみである。
 2010/01/19撮影:阿波本覚寺1:中央二階建てバラックが仮本堂     阿波本覚寺2:高良斎墓所

徳島寺町寿量寺:寺町のほぼ中央にある。妙長寺の西。

伊勢桑名寿量寺僧によって開かれたと伝える。
(未訪問)

徳島寺町妙長寺;寺町東のほぼ中央にある。

真光山と号す。正保年中(1644-)の建立と伝える。
昭和20年の空襲で焼失と推定され、寺域は縮小され、現在は民家風の堂宇1棟と堂宇名不詳の小宇のみを構える。
 2010/01/19撮影:阿波妙長寺


土佐の諸寺

田村細勝寺

 文亀元年(1501)細川勝益、京都頂妙寺を開山した妙國院日祝上人を請じ、土佐国田村桂昌寺を創建する。これが高知妙國寺の草創である。
  ※田村桂昌寺は細川勝益が父頼益(法号桂昌院常陸居士)菩提のため居城・田村城の南西の一隅に建立する。
  開山は妙國院日祝上人。
 文亀2年(1502)細川勝益逝去。
 天正19年(1591)長曽我部元親、浦戸に居城を作り、鬼門鎮静の為に田村桂昌寺5世即妙院日順上人を請じて、浦戸の対岸である種崎に一宇を建立する。そのため、桂昌寺は一山に二宇となり別当が置かれる。
 慶長6年(1601)山内一豊、掛川より土佐に移封となり、浦戸に入城する。 同時に高知城及び城下の建設にも着手する。その一環として、種崎桂昌寺も高知城下の國澤城跡(現はりまや橋交差点の西南付近)に移るという。
 寛永19年(1642)桂昌寺別当宝珠院日秀上人の寂後、円立院日学上人は田村桂昌寺10世となり田村桂昌寺専任の住持となる。つまり、この時をもって、高知城下桂昌寺と田村桂昌寺は分立することとなる。
 平成14年田村細勝寺、高知空港建設のため、現住所(南国市田村乙1223-1)に移転し、本堂などが新築されるという。

後免藤榮寺

高知要法寺末(2016/03/06、K.G氏ご提供情報)
○「四国日蓮宗のお寺」日蓮宗教化センター四国、平成22年 より
吉祥山と号する。嘉永5年(1852)創立、開山休運院日輝上人。
 ※無住と推測される、田村細勝寺管理。

五台山法華経塔:柏島法蓮寺日教願作法華経塔

○「法華経塔三基」横川末吉(「高知県文化財調査報告書(第24集)」高知県教育委員会、昭和55年 所収)
同形同寸の法華経塔が3基存在する。
一基は宿毛市市山の一里塚に所在し、昭和50年県に文化財申請がなされる。
もう一基は昭和52年にそれと認識され、それは東洋町甲浦の萬福寺参道入口(銘文には甲浦船越設置とあるが後世に萬福寺に遷されたものと推定される)にあることが判明する。
残る五台山の法華経塔も吸江寺側参道の六合目付近から発見される。発見時は塔の頂上部は落下していたが、市山や萬福寺のものと寸分違わないものという。
 法華経塔は砂岩製で、高さ299cm、基壇の最下の正方形は一辺95cmを測る。
塔身は正長方形であり、写真のように、各面の中央部分は大きく彫り窪められその底は平滑に削平される。
銘文は中央部分の凹面と周辺の縁面に刻まれ、銘文は正面から左に順次その全側面に刻まれ、総字数は約400、すべて漢文である。
五台山の銘文の概要は次の通りである。
 正面中央:太きく「南無妙法蓮華経」
 正面左右の縁:畑郡柏島廣布山法蓮寺本法院日教願作/旹(時)貞享元甲子十月十三日
          ※畑郡は幡多郡、旹(時)は「これとき」、貞享元年は1684年
 第二面左右の縁:外一基有于安喜郡内甲浦船越/亦一基在于幡多郡内宿毛市山
 正面(第1面)から第3面の凹面には経塔建立の由来を記す。
  難解な漢文であるが、大意は次のようである。
  日教は法華経三部を書写し、経塔建立の浄財を集め、法華経と寄進者の名簿を各1部づつ埋め、その上に経塔を建てる。
 第4面の縁:「石匠乾茂助運斤之」(石匠乾茂助、斤を之に運す)
 第4面の凹面は法華経の功徳を記す。
  法蓮寺は「南路志」柏村島の項で
   廣布山円明院法蓮寺 法華宗京都妙顕寺末
    本尊三寶、開基元和己未年(元和5年/1619)不二院日奉聖人、願主祖父江志摩 とあるという。
 しかし「大内町史」によれば、開基は天文年中(1540頃)柏原丹助行成であり、元和5年には祖父江志摩がこれを整備拡張したと云う。法華経塔を建立した本法院日教は法蓮寺第5世という。
 ※柏原丹助行成は柏原丹後という情報もあり、不明。柏原丹後は京都から来島するという。
 宿毛法華経塔1     宿毛法華経塔2
 甲浦法華経塔1     甲浦法華経塔2
2016/02/18撮影:
 五台山法華経塔1     五台山法華経塔2     五台山法華経塔3     五台山法華経塔4
 法華経塔正面1       法華経塔正面2       法華経塔第2面      法華経塔第4面
五台山の現地説明板では日蓮上人400遠忌を意識して建立したものであろうとの解説がある。

高知要法寺

神力山と号する。
身延山久遠寺末、潮師法縁(2016/03/06、K.G氏ご提供情報)
長禄2年(1458)神通院日仁上人を開山として尾張國苅安賀(下掲参考)に要法寺が開山される。
天正13年(1585)山内一豊近江長浜城主となり、要法寺第4世常宣院日遠上人の代、要法寺を苅安賀村から長浜城下に移転させ、菩提寺となす。
天正18年(1590)山内一豊遠江掛川に転封、掛川城下に要法寺を遷す。
慶長6年(1601)山内一豊土佐に入封、要法寺を土佐浦戸城下に遷し、さらに同8年高知城下要法寺町に移転する。
貞享4年(1687)要法寺焼亡、その翌年の元禄元年(1688)現在地の筆山北麓に再興される。
山内一豊の弟・康豊等の墓所である。
(参考)
 ※苅安賀の概要は次のようである。
○「愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第93集 苅安賀遺跡」2001 では苅安賀について、次のような論考がある。
古代から中世にかけては自然堤防上に集落が発達し、苅安賀はその中心であった。
室町期から戦国期には日蓮宗要法寺(現高知市)、浄土真宗聖徳寺(現名古屋市)などの寺院が建立され、寺内町的な性格をもち、町が大きく発展する。
永禄元年(1558)岩倉城が織田信長によって落城、岩倉城下の寺院が次第に苅安賀に移される。
天正12年(1584)岩倉城下にあった蓮照寺・国照寺・妙栄寺(いずれも天台宗賢林寺末)は苅安賀城主より東端の地を与えられ、日蓮宗の苅安賀蓮照寺・国照寺・妙栄寺として開山される。天台宗から日蓮宗への改宗は苅安賀村に要法寺があったからであろうと推測される。(この項は「日蓮宗蓮照寺」のサイトによる。)
戦国期から織豊期にかけては苅安賀城が作られ、城下町となり最も発展した時期であった。苅安賀城は小牧長久手の戦で徳川家康方に攻められ落城する。
 その後、江戸期には苅安賀城も廃城となるも、市場町として生き延びる。
『寛文村々覚書』(1666)によれば苅安賀に13ヶ寺が確認できる。
また「尾張名所図絵」(天保年間)「苅安賀村絵図」(弘化年間)からは以下のことがわかる。
「巡見街道」が村の中央を東西に通り、街道沿いに民家が並び、東から観音寺・鎮西寺・誓願寺・専養寺・(日)妙栄寺・(日)蓮照寺・(日)国照寺・(日)心証寺・常清寺・正福寺・専徳寺と西に広がっている。
 ※日蓮宗心証寺は寛文元年(1661)の創建。
  以上が苅安賀の概要である。
2016/02/18撮影:
山門:承応元年(1652)に修復造営、貞享4年(1687)の焼失を免れ、現在地に移建される。
 門前題目碑     要法寺山門1     要法寺山門2     要法寺山門3
 要法寺本堂1     要法寺本堂2     要法寺本尊1     要法寺本尊2
 要法寺鬼子母神堂1     要法寺鬼子母神堂2
 要法寺玄関客殿1     要法寺玄関客殿2     要法寺会館     要法寺お籠り堂
要法寺宝物:日蓮聖人曼荼羅本尊を有する。弘安4年(1281)年紀。
 日蓮聖人曼荼羅本尊:ルーフレット「日蓮宗要法寺」より転載
2016/03/06追加:K.G氏ご提供:
◆要法寺末寺
 大正山養運寺 広島県呉市西中央5-8-33 元要法寺塔頭養運坊
 △吉祥山藤榮寺 高知県南国市後免町2-8-4  → 上に掲載
 圓徳山淨眼寺 高知県安芸市西浜2254
 △一乗山妙修寺 高知県高知市筆山町9    → 下に掲載
 ○泰照山寶蔵寺 高知県高知市北高見町231 → 下に掲載
 △鷲頭山壽仙院 高知県高知市種崎中区610 → 下に掲載
 華園山善法寺 高知県吾川郡仁淀川町土居甲1023 2016/03/06:高知妙國寺副住職が善法寺住職を兼務する。

高知妙修寺:一要山と号する。

高知要法寺末(2016/03/06、K.G氏ご提供情報)
○「四国日蓮宗のお寺」日蓮宗教化センター四国、平成22年 より
宝永2年(1705)創立。開山皆常院日惣上人。開基檀越一要院妙修日行尼。
戦火により焼失し、高知要法寺お籠り堂に仮住居。
○高知要法寺様談:
要法寺に隣接(要法寺西)してあった。要法寺の塔頭のような存在であったのかも知れない。
宗教法人格は残るも、現在建物(堂宇)はない。本尊は要法寺お籠り堂に安置している。

高知妙國寺

山号は天高山。旧本山は京都頂妙寺
文亀元年(1501)細川勝益、京洛頂妙寺を開山した妙國院日祝上人を請じ、土佐国田村桂昌寺を創建する。これが高知妙國寺の草創である。
  ※田村桂昌寺(現細勝寺)は細川勝益が父頼益(法号桂昌院常陸居士)菩提のため居城・田村城の南西の一隅に建立。
  開山は妙國院日祝上人。
文亀2年(1502)細川勝益逝去。
天正19年(1591)長曽我部元親、浦戸に居城を作り、鬼門鎮静の為に田村桂昌寺5世即妙院日順上人を請じて、浦戸の対岸である種崎に一宇を建立する。そのため、桂昌寺は一山に二宇となり別当が置かれる。
慶長6年(1601)山内一豊、掛川より土佐に移封となり、浦戸に入城する。 同時に高知城及び城下の建設にも着手する。その一環として、種崎桂昌寺も高知城下の國澤城跡(現はりまや橋交差点の西南付近)に移るという。
寛永19年(1642)桂昌寺別当宝珠院日秀上人の寂後、円立院日学上人は田村桂昌寺10世となり田村桂昌寺専任の住持となる。つまり、この時をもって、高知城下桂昌寺と田村桂昌寺は分立することとなる。
慶安3年(1650)高知城下桂昌寺、朝倉町に移る。(「四国日蓮宗のお寺」)
貞享2年(1685)将軍綱吉の生母桂昌院の名に触れるので、高知城下桂昌寺は妙国山大乗院と改号し、田村桂昌寺は細勝寺と改号する。
  ※田村桂昌寺が細勝寺と改号した理由は綱吉生母桂昌院の名と被り故障があるとのことであるが、
  高知城下桂昌寺の改号理由についても同様の理由と推測される。
貞享4年(1687)妙国山大乗院火災延焼、翌年現在地に再建される。
享保11年(1726)妙国山大乗院焼失、同年再建し、現在の寺号の天高山妙国寺と改号する。
昭和初期に本堂・書院・庫裡を改修、昭和20年の空襲で焼失、昭和41年再建する。
◆妙國寺現況
2016/02/18撮影:
 妙國寺門前題目碑     妙國寺山門1     妙國寺山門2     妙國寺山内題目碑
 妙國寺本堂     妙國寺庫裡等     妙國寺鐘楼
◆妙國寺梵鐘:鎌倉期の古鐘を有する。
○ページ「文化財情報 有形文化財 工芸品 梵鐘 - 高知市公式ホームページ」では 次のように云う。
妙國寺梵鐘:総高1m、身の高さ77.5cm、口径は57.4cm。
各区に銘文がある。ただし各区の銘文は、それぞれ刻した年代を異にしている。つまり各々の時代に追刻されたものである。
その内容は以下のようである。
正安元年(1299)但馬国東楽寺の梵鐘として鋳造され、鍛治大工は河内の大春日重守である。
延徳2年(1490)丹後三重の長壽寺に移る。
室町末期以後(推定)京都の頂妙寺へ移る。
延宝6年(1678)日純上人、頂妙寺からもらい受けて高知妙国寺(妙國山大乗院)へ移る。
慶応4年(1868)閏4月の太政官達によって取除かれようとした本梵鐘は、妙国寺住職日住上人の努力で難を逃れる。
○「大日本金石史 第2巻」木崎愛吉編、好尚会出版部、大正10年(1921) より
土佐郡潮江村妙国寺梵鐘は最初正安元年(1299)の鋳造に係り、但馬国気多郡(今城崎郡)東楽寺の物であったが、190年を経て、延徳2年(1490)に至り、丹後三重(今中郡三重村)長壽寺に移り、それからまた京都二条河原町頂妙寺に移る。
刻文及び追刻文は次のとおりである。
 妙國寺梵鐘刻文1     妙國寺梵鐘刻文2: この追刻文の2行目の「・・・日純代」と3行目「梵鐘・・・」は別の刻文である。
即ち、前2行は「延宝6年・・高知妙國山桂昌寺常住・・日純・・」とあるとおり、延宝9年の追刻であり、3行目以降は「梵鐘仰留記」(「仰留」は「抑留」の誤刻)として明治元年日住の追刻であろう。しかし 本人(s_minaga)に漢文の素養がなく、文意不明の個所が多し。
2016/02/18撮影:
 妙國寺梵鐘1:正安元年の年紀が刻される。     妙國寺梵鐘2:延徳2年年紀が刻される。
 妙國寺梵鐘3: 「延宝6年・・妙國山桂昌寺・・日純」の刻銘がある。
(補足)
 ※但馬東楽寺:兵庫県豊岡市清冷寺1665に現存する。高野山真言宗。
 ※丹後長壽寺:既に廃寺。京丹後市大宮町森本の森本北端に長上寺跡と称する所がある。この地には真言宗長上寺と称する寺院があったが、文禄2年(1593)細川忠興の「 丹後の真言倒し」の災難に逢って廃滅し、今は長上寺という字名のみが残る。
「大宮町誌」曰く、「三重郷土志」は「大日本金石史」を引用し三重の里に長寿寺のあったことを述べ、長上寺はあるいは長寿寺ではないかという。
「土佐国潮江妙国寺の鐘は正安元年鋳造のものであるが」、「三重の里の榎並梅公の妻が亡父追善のため但馬国気多郡東楽寺からこの鏡を買い求め、延徳二年(1490)その菩提寺長寿寺に寄進した」と鐘の刻銘にある。
「榎並は『丹後田数帳』にも見え、『丹後御檀家帳』にも『榎並殿大ない城主也』とある三重谷の城主であった。したがってその菩提寺として長寿寺のあったことは確かであろう。」
◆妙国寺末寺:
 宮地山中道寺(室戸市浮津)
 天高山細勝寺(南国市田村乙)
 若一山本正寺(南国市田村甲)
 天王山蔵福寺(南国市田村乙)

潮江寶蔵寺

高知要法寺末(2016/03/06、K.G氏ご提供情報)
○「四国日蓮宗のお寺」日蓮宗教化センター四国、平成22年 より
泰照山と号する。文化13年(1816)創立、開山中道院日稱上人、開基檀越川崎源右衛門。
元高知要法寺19世日善上人が潮江山に小庵を結び常住庵と号する。のち文久元年(1861)高岡郡久礼にあった禪宗寶蔵寺を一樹院日治上人が改宗移転した。
 ※潮江山:現在では筆山という、山内一豊の入部によって潮江山北麓に山内家菩提寺である真如寺が開かれ真如寺山とも呼ばれる。
 ※上記の「由来」では3系統の由来が語られる。一つは文化年中の創建で、開基檀越川崎源右衛門であること、もう一つは要法寺日善上人が潮江山に常住庵を結ぶということ、最後は江戸末期に禪宗寶蔵寺を改宗移転するということ。
これらの事績は脈略を欠き、その因果が良く分からない。あるいは単に時系列的に発生した事象を羅列しただけのことなのか。
 ※妙國寺様の談によれば、寳藏寺は「カワサキ寺」と通称されていた、それは高知の川崎財閥の寺であるという意味である。
 ※数十年前までは堂守(女人?)が管理をしていたが、亡くなった後は、次第に荒廃した。
2016/02/18撮影:
現在、宝蔵寺は無住、入口には題目碑が一基残り、秋山自雲の祠は修造されるものの、唯一残る堂宇は破れ崩壊寸前の状態である。また、近年まで堂宇があった雰囲気を残す石階を持つ基壇があるが、すでに堂宇は退転し、その堂宇の名称すら分からない状態である。東側は高い石垣を築く墓地であるが、これは宝蔵寺の墓地なのかどうかは不明。
現在は要法寺が管理と思われる。
 土佐寶蔵寺入口:向かって左が寶蔵寺で右は墓地である。
 寶蔵寺入口題目碑:大正12年関東大地震横死者供養塔であるので、近代のものである。
宝形造廃堂:堂の名称は不明、但し宝形造であっても、正面は3間側面は2間の変形である。1間の向拝を付設。
 宝形造廃堂1     宝形造廃堂2     宝形造廃堂3     宝形造廃堂4
寶蔵寺堂跡:堂の名称は不明、基壇を設け7段の石階がある。 規模は大きくはないが、しっかりとした構えなので、それなりの堂宇があったものと推定される。近世・近代の瓦が散布するので瓦葺き建物であったのであろう。
 寶蔵寺堂跡1     寶蔵寺堂跡2     寶蔵寺堂跡3     寶蔵寺堂跡4
 寶蔵寺堂跡前石灯篭:寛文10年庚戌(1670)の年紀が刻まれる。それ以外の文字は判読できない。
  寛文10年とは江戸前期であり、文化13年創建という由来とは相当な齟齬があるが、その齟齬は何を意味するのであろうか。
 秋山自雲祠:ごく最近に造替されたものと思われる。向かって左に写る廃材が旧祠のものと思われる。
 秋山自雲霊神:左右には延享元年(1774)甲子/九月二十一日と自雲の命日を刻む。
 整理された題目碑など
 寶蔵寺東側石垣:石垣の造成地は墓地である。石垣が一部崩落し復旧工事中である。

種崎壽仙院

高知要法寺末(2016/03/06、K.G氏ご提供情報)
○「四国日蓮宗のお寺」日蓮宗教化センター四国、平成22年 より
慶長6〜15年(1601-10)の創建、開山は壽仙院日等上人、日等上人は高知要法寺4世日遠上人の縁故者と伝える。
明治28年寺宝や建造物が他に渡るという不祥事があり、有名無実化するが、31世元良院日珠上人が再興。
昭和21年南海大地震で本堂・庫裡が崩壊、昭和22年再興、昭和40年白蟻大被害で再々建する。
 ※現在、堂宇の存在が確認できず、実態が不明。



肥前の日蓮宗諸寺

肥前小城光勝寺・肥前日蓮宗諸寺

肥前功徳山妙善寺

肥前杵島郡江北町八丁3113
明治20年教会所創立、開山は智琢院日輝上人で、開基は壇越淵上市次郎。
明治26年大和奈良林小路町妙善寺<奈良の日蓮宗諸寺中>の寺号を移し、功徳山明善寺を改号すると同時に四条妙顕寺末となる。
明治33年本堂建立。
平成14年(2002)本堂・庫裡を新築(立教開宗750年記念事業)。


肥後の日蓮宗諸寺

肥後熊本本妙寺/肥後日蓮宗諸寺


豊前本立寺:京都郡みやこ町豊津722
○本立寺は小笠原氏の移封及び移転の都度、小笠原氏と行動を共にする。
信濃松本に創建されるが、小笠原氏の明石転封で明石に移転、さらに豊前小倉に移封され、小倉に移転、最後は幕末の第ニ次長州征討で小笠原氏は小倉を失地、藩庁を豊前豊津に移転、それに伴い本立寺も豊津に移転し現在は豊津に現存する。
 →播磨明石本立寺(播磨の日蓮宗諸寺中)


豊後臼杵法音寺
臼杵藩3代稲葉一通は細川忠興(三斎)の三女「たら」を正室とす。
慶長7年(1602)
稲葉一通はその細川忠興息女のため、法音寺を建立し、忠興息女の菩提寺とする。
臼杵城の鬼門にあたるため、山門には
持国天、毘沙門天を安置する。
本寺の建立にあたり、竹林を切り開いたので、山号は竹林山と号すると云う。
なお、明治36年後に日本山妙法寺を開く藤井日達は本寺で出家すると云う。
2013/10/28撮影:
 臼杵法音寺石階    臼杵法音寺題目碑    臼杵法音寺二天門
 臼杵法音寺本堂    臼杵法音寺三光堂    法音寺鐘楼庫裏玄関
2014/05/10追加:京都中山門流頂妙寺末 である。


2010/01/03作成:2017/09/07更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系