現存する三重塔:(飛鳥〜鎌倉期)

現存三重塔(飛鳥〜鎌倉期) 

名称・場所 国指定 画像 備  考
301 大和法起寺
国宝 (池尻寺、岡本寺) 大和法起寺三重塔・法起寺心礎  
302 大和薬師寺東塔 国宝 大和薬師寺
303 大和当麻寺東塔 [国宝]    → 大和當麻寺
304 大和当麻寺西塔 [国宝]    → 大和當麻寺
305 山城浄瑠璃寺 国宝 塔1
塔2
塔3
塔4
塔5
塔6
塔7
塔8
本堂
平安中期建立。播磨一乗寺塔とともに、現存する2基の平安期三重塔のうちの1基である。
治承2年(1178)京都一条大宮から移建と伝える。元の寺名は明らかでないが世尊寺ともいわれる。
 →世尊寺:京洛平安期の塔婆>一条大宮の塔の項を参照
構造上の特徴として、初層には四天柱がない。また心柱が初層の天井から立ちあがる構造であり、播磨一条寺塔婆と並ぶ最初の例とされる。
○「浄瑠璃寺流記事」:治承2年9月20日京都一条大宮某所にあった三重塔を移建、譲渡されて40日目の11月1日に心柱を建てる。この塔の建てられた場所は元蓮台院の跡地であったため、後に塔には蓮台院の呼称が与えられた。現在塔の南に8個の礎石が残るも、これが蓮台院礎石かどうかは不明とされる。
正応5年(1292)露盤鋳造、元禄10年(1697)、宝永8年(1711)、安永8年(1779)、天保10年(1839)屋根葺き替え。明治33年解体修理。昭和12年、昭和42年屋根葺き替え。
初重総間3.05m、総高16.3m。
(※これは越中那谷寺三重塔、三河三明寺三重塔に次ぐ小規模塔である。)
初重10尺24支で中央間10支、両脇間7支、二重22支中央間8支両脇間7支、三重20支を21支に割戻し3間等間とする。
相輪は水煙が青銅製(江戸期の補加)、他は鉄製で、露盤銘は「西小田原 正応5年閏6月11日鋳立」云々と云う。
塔本尊は薬師如来坐像(重文、藤原)で、塔内中央の厨子に安置する。本像は創建当初の旧本尊と云う。
当寺(西小田原寺とも称する)の創建については、諸説があるが、「興福寺官務牒疏」では天平11年行基の開基と云う。いずれにせよ阿弥陀信仰の高揚によって隆盛に向かい、嘉承2年(1107)に阿弥陀堂が建立され、久安6年(1150)には苑池が穿たれ、その後も十万堂(真言院)、楼門、経蔵、南大門、護摩堂など多くの堂宇が建立される。康永2年(1343)失火により 本堂・三重塔を残し全山焼失。
本堂(国宝)は藤原期の現存する唯一の九体阿弥陀堂の遺構とされる。本堂には九体阿弥陀座像(国宝、藤原)、吉祥天立像(重文、鎌倉)、地蔵菩薩立像(重文、藤原)、四天王立像(国宝、藤原)、不動及二童子立像(重文、鎌倉)、地蔵菩薩立像(重文、鎌倉)、馬頭観音立像(重文、鎌倉)などの仏像を安置する。
中世は興福寺一乗院末、現在は大和西大寺に属する。
2015/02/24追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
総高約16m、一辺約3m。
三重塔の内でも高さは低く、平面規模も小さく、最も小さい部類の塔である。
 「浄瑠璃寺流記事」は重文、これによれば、治承2年(1178)京都一条大宮から移建という。したがって、創建は治承2年(1178)以前であるが、建築技法からみて、治承2年を大きくは遡らないだろう。
 三重塔初重内部1     三重塔初重内部2
初重内部には心柱はなく、四天柱もない、つまり初重内部には一本の柱も建たない。但し、四天柱は一条大宮から移建の時撤去された可能性もあるが、これは良く分からない。
壁画については平安後期〜鎌倉期以降までの各時代のものがある。
 三重塔二重内部1:初重垂木上に土台を組み土居を渡し、その上に心柱を建てる。
 三重塔二重内部2:各重の繋肘木は三段組みで、東西のものと南北のものが直行するが、交点で四天柱が受ける構造ではない。
2007/03/03追加:「日本建築史基礎資料集成・塔婆U」 より
 浄瑠璃寺三重塔立面図
2007/09/10追加:「笠置山及附近写真帖」田中市之助編、東京:東陽堂、明42年 より
 浄瑠璃寺三重塔
2013/06/24追加:
寛永9年(1632)「山城国浄瑠璃寺書上写」:「春日大社文書 巻5 1072」所収
「西小田原山 興福寺之末寺一乗院持 寺数16軒許 本堂、真言堂、塔、護摩堂、鎮守(両社 清瀧吟現・弁才天河 八社)、撞蔵、念仏堂、柎門 其他下末寺 東明寺(付本堂 塔 鎮守)、西明寺(付本堂 鎮守)」薬師院及び金剛院の在判
◆2013/12/12撮影:
 浄瑠璃寺三重塔11   浄瑠璃寺三重塔12   浄瑠璃寺三重塔13   浄瑠璃寺三重塔14
 浄瑠璃寺三重塔15   浄瑠璃寺三重塔16   浄瑠璃寺三重塔17   浄瑠璃寺三重塔18
 浄瑠璃寺三重塔19   浄瑠璃寺三重塔20   浄瑠璃寺三重塔21   浄瑠璃寺三重塔22
 浄瑠璃寺三重塔23   浄瑠璃寺三重塔24   浄瑠璃寺三重塔25   浄瑠璃寺三重塔26
 浄瑠璃寺三重塔27   浄瑠璃寺三重塔28   浄瑠璃寺三重塔相輪
 三重塔横堂跡礎石
 浄瑠璃寺園池
 浄瑠璃寺阿弥陀堂1   浄瑠璃寺阿弥陀堂2   浄瑠璃寺阿弥陀堂3   浄瑠璃寺阿弥陀堂4
 浄瑠璃寺阿弥陀堂5   浄瑠璃寺阿弥陀堂6   浄瑠璃寺阿弥陀堂7
 浄瑠璃寺鐘楼       浄瑠璃寺石手水鉢:西小田原 永仁2年(1296)の有銘。
2014/07/25追加:
「笠置山及附近写真帖」田中市之助編、東陽堂、明治42年
 明治42年頃浄瑠璃寺三重塔
306 播磨一乗寺 国宝 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
10
承安元年(1171)長吏法印隆西・一和尚仁西の勧進で造立、承安4年(1174)仁増の勧進により完成。(相輪伏鉢銘)
一辺4.9m、高さ21.8m。
現存する三重塔では6番目の古塔 。浄瑠璃寺塔婆と共に平安期の2塔の一つで、建築史上貴重な遺構である。また心柱が初層の天井から立ちあがる構造であり、山城浄瑠璃寺塔婆と並んで、その最初の例とされる。
初重総間16尺7分、中央間6尺3分、両脇間5尺2分、二重総間12尺4寸6分5厘、三重総間9尺2寸4分でどちらも3間の当間に割り付ける。総高70尺7寸4分、相輪長23尺。
文明14年(1482)、永正10年(1513)、天文15年(1546)、慶長15年(1610)、寛文7年(1667)、正徳5年(1715)、安永6年(1777)、文政2年(1819)などに修理、正徳と安永の修理は大規模とされる。
昭和16〜18年解体修理。
塔は古式を伝え、逓減率も高く、堂々とした姿である。なお狭い場所(急な石段途中造成地)に立っているため、全景の撮影はやや困難。
法華山一乗寺は西国26番札所。当山は法道上人の開基と伝え、かつ当山が上人の活動の本拠地とされる。同上人の加持により孝徳天皇の病平癒があり、勅により白雉元年(650)本堂が落慶したと伝える。
文献上では、応保元年(1161)「覚忠33所巡礼記」に「14番印南郡法華寺」が初見、長寛2年(1164)「峰相記」では「酒見社で播磨6箇寺(円教寺、八葉寺、隋願寺、神積寺、一乗寺、普光寺)が大般若経転読などを修した」とある。鎌倉期には西大寺叡尊と南北朝期には文観上人(後醍醐天皇護持僧)との関係が深かったとされる。 天台宗。
現伽藍として金堂(寛永5年<1628>再建・桁行9間梁間8間・重文)、護法(鎌倉後期・重文)、妙見(室町後期・重文)、弁天(室町中期・重文)の鎮守3堂、常行堂・開山堂等がある。門前の左右には院坊跡と思われる石組みが見られるが、現在は本坊地蔵院・隣聖院の2坊のみが残ると思われる。
図8:開山堂<開山堂には法道上人を祀る>
○播磨名所巡覧圖會:巻之2 より:
 法華山全図  ・・ ・・・・現存塔婆(2010/11/05画像入替)
○2001/9/1撮影:
 播磨一乗寺三重塔1    同         2    同         3    同         4
    同      5      同       6      同      7       同   開山堂
「法華山諸堂記」:金堂9間8間、三重塔仙人建・孝徳天皇御願、鐘楼、経蔵、5間四面薬師堂、文殊堂、太子堂、勧請神7社并拝殿、舞台、三口惣門、大日堂并休堂、常行堂5間4間、講堂9間2階、皇神牛頭天王祠并拝殿、護法毘沙門并拝殿、妙見三社、弁財天并拝殿、役業者堂、仁王堂、妙行院(如法教堂)・・・ の伽藍があったと伝える。
○2007/03/03:「日本建築史基礎資料集成・塔婆U」 より
 一乗寺三重塔立面図
○2009/09/29撮影
 播磨一乗寺三重塔31      同        32      同        33
   同        34      同        35      同        36
   同        37      同        38      同        39
   同        40      同        41      同        42
   同        43      同        44      同        45
   同        46      同        47      同        48
   同        49      同        50      同        51
護法堂 :重文、鎌倉もしくは室町前期の建築と推定。毘沙門天を祀る。一間社春日造、身舎側面一間。組物は出組、軒支輪付。
 播磨一乗寺護法堂1     同        2     同        3     同        4
 一乗寺妙見堂・弁天堂:三間社が妙見堂
妙見堂:重文、室町期もしくは桃山期の建立と推定。三間社流造浜床付。
蟇股と扉構は室町期か、木鼻・組物・妻飾など大部分は後補。
 播磨一乗寺妙見堂1     同        2     同        3
弁天堂:重文、室町前期の建立と推定。一間社隅木入春日造。昭和18年解体修理で本瓦葺を現在の檜皮葺に変更。
 播磨一乗寺弁天堂1     同        2     同        3
金堂;重文、寛永5年(1628)再建・桁行9間梁間8間。
 播磨一乗寺金堂1       同       2       同       3
 法華山本坊地蔵院    法華山隣聖院    法華山隣聖院隣地:隣聖院の隣にある廃坊跡か?
 法華山坊舎新築;坊舎名未確認、近年までここは石垣のみ残る廃坊跡であった。
2009/10/05追加:
○「日本真景・播磨・垂水名所図帖」大正〜昭和初期 より
 法華山三重塔図
○2010/11/01追加
 昭和2年法華山三重塔:新聞写真
307 大和興福寺 国宝 「大和興福寺」
308 若狭明通寺 国宝 01
02
03
04
05
06
07
08
09
10
11
12
13
14
本堂1
同2
同3
同4
同5
同6
同7
同8
2007/03/03「日本建築史基礎資料集成・塔婆U」:
三重塔は文永7年(1270)再興棟上。一辺4.18m、高さ約22m、桧皮葺。昭和32年解体修理。
その後の沿革は元応2年(1320)上葺勧進、天文8年(1539)修理、正保2年(1645)屋根葺き替え、元禄14年(1701)大修理、天保14年(1843)屋根葺き替え、明治8年露盤修理、明治27年屋根を杮葺から瓦葺に変更。昭和30〜32年解体修理、屋根は当初の檜皮葺に変更。
鎌倉期のほぼ純和様建築(初重に大仏様拳鼻を用いる)。初重中央間を10支、脇間を8支とし、一つ上の上層へは各々中央間を2支、脇間を1支ずつ減ずる構造となる。
初重には正面釈迦三尊・背面弥陀の三尊六躰を安置する。
  明通寺三重塔立面図
 棡山と号する。真言宗御室派。創建は桓武天皇の時代・大同元年(806)、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐に際して創建したという。
伽藍は金堂(5間6間)、三重四角の塔(本尊釈迦・文殊・普賢)、二階仁王門、鎮守堂、拝殿、書堂、灌頂堂、法花堂、食堂、羅漢堂、鐘楼、三尺権現堂があったという。
(応安7年1374模写「明通寺縁起」など)
その後、天慶6年?、建久年中(1160-99)に伽藍焼失。鎌倉期に伽藍が復興される。
本堂:国宝。正嘉2年(1258)再建。梁間5間、桁行6間、入母屋造桧皮葺。大正2年解体修理。鎌倉期の純和様の仏堂であるが、頭貫鼻の繰形に大仏様を取り入れた細部様式の初例とされる。
なお本尊木造薬師如来坐像(重文)、木造降三世明王立像(重文)、木造深沙大将立像(重文)、木造不動明王立像(重文)のいずれも平安後期の優れた仏像を残す。
近世(延宝6年1678)では、本堂・塔・鎮守と本坊(元倉本坊)のみが残り、羅漢堂・法花堂・食堂・灌頂堂・阿弥陀堂などは退転、畠地となる。往時の24坊 (大坊、中坊、桜本坊、倉本坊、松本坊、仁王坊、円蔵坊、岩本坊、日輪坊、行法坊、藤本坊、善住坊、極楽坊、大光坊、橋本坊、浄織坊、浄光坊、日光坊、塔本坊、山本坊、牛玉坊、金蔵坊、安楽坊、梅本坊)も本坊以外は退転する。
2007/12/26追加:
「若狭の社寺建造物群と文化的景観」小浜市、2006 より
若狭明通寺伽藍図
北側谷筋に東から善住坊、安楽坊、金蔵坊、山本坊、大光坊、極楽坊が並び、本堂のある尾根筋に三重塔、本堂、灌頂堂、法華堂、客殿、仁王門などと東から行法坊、円蔵坊、岩本坊、日輪坊、仁王坊、櫻本坊、堂本坊が並ぶ。南側谷筋には羅漢堂、食堂などと東から牛玉坊、松本坊、橋本坊、日光坊、了善坊、藤本坊、浄織坊、浄光坊、倉本坊、中坊が並ぶ。
 冬の若狭は雪の深い地です。この湿気の多い地で当寺や神宮寺、羽賀寺の木造建築(伽藍)が数百年間伝えられてきた。
明通寺三重塔模型(木製、スケールは10分の1と推定):若狭歴史民俗資料館に常設展示。
 若狭明通寺塔模型1  若狭明通寺塔模型2  若狭明通寺塔模型3
公式どうり写真撮影は不可、画像使用については、著作権者である本模型の製作会社の許諾及び所有者である当館の許諾を得ることが条件と云う。(但し意味不明)
309 大和靈山寺 重文 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
図10
鎌倉中期の建立と推定される。三重塔では10指に入る古塔である。
一辺3.44m、総高17m強の小型塔。屋根檜皮葺。
なお初層内部全面に巨勢金岡筆とされる極彩色の壁画があることで著名。
2007/02/12:「大和の古塔」より
初重全3間11尺3寸6分、中央間4尺8寸8分、両脇間3尺2寸5分
二重全3間9尺7寸、中央間4尺6寸、両脇間2尺8寸2分
三重全3間9尺、中央間3尺2寸4分、両脇間2尺3寸8分、相輪長18尺3寸、全高56尺2寸9分
「大和名所圖會」寛政3年(1791)刊より:霊仙寺三重塔(部分図)
図1〜6:三重塔
2007/10/13撮影:
 大和霊山寺三重塔1    同        2    同        3    同        4
   同        5    同        6    同        7    同        8
   同        9    同       10    同       11    同       12
   同       13
靈山寺は天平8年(736)聖武天皇の勅命により、行基が伽藍を建立。印度婆羅門僧菩提僊那は地相が印度霊鷲山に似ているとして霊山寺と名づけたと伝える。
 ※行基開基49院の3.隆福院の後身が霊山寺であるとの推定が有力な説としてある。
鎌倉時代に復興し、そのときの本堂が現存する。
近世には21ヶ坊を数え、明治維新まで興福寺末であったが、廃仏毀釈で伽藍規模を半減する。
近年黄金堂・白金堂あるいはバラ園、果てはゴルフ練習場まで ができたようである。寺門の世俗的隆盛を願うのは古代中世近世近代の一貫した佛教寺院の姿ということなのであろうか。
図7〜10は本堂(国宝):本堂は弘安6年(1383)改築、桁行5間梁間6間・入母屋造本瓦葺
2007/10/13撮影:
 大和霊山寺本堂1    同       2    同       3    同       4
  同        5    同       6    同       7    同       8
  同        9    同      10    同      11    同      12
  同        13
鐘楼(重文):室町期:2007/10/13撮影:
 大和霊山寺鐘楼1    同       2    同       3
鎮守(重文):中央社殿は室町期、他の2殿は江戸期と思われる。(要確認)
また三社は十六所権現?、住吉明神、竜王社と思われるも不確実。(要確認)
次のように確認:2020/05/05
霊山寺鎮守:社殿が5棟並ぶ。
明治の神仏分離の処置で霊山寺鎮守社は分離され、十六所神社として分離されたという。
神仏分離の処置はどれもこれも理屈の立たないものであるから、元に復し、霊山寺の鎮守に戻れば良いのではないかと思われる。
社殿5棟は向かって左から、春日社(武甕槌・一間社流造)、住吉社(重文・住吉三神・一間社春日造)、本社(重文・十六所神・一間社春日造)、龍王社(重文・豊玉姫・一間社春日造)、神明社(アマテラス・一間社春日造)と並ぶ。中央三社は至徳元年(1384)建立という。
2001/03/24撮影:
 霊山寺三社    霊山寺三社中央社殿1      霊山寺三社中央社殿2
2010/05/23追加:朝日新聞遷都1300年特集写真
 大和霊山寺三重塔     大和霊山寺三重塔内陣
310 美作長福寺 重文 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
図10
鎌倉期弘安8年(1285)建立、大施主は領主江見左馬頭、大工棟梁は備前邑久郡国右衛門(棟札)。
一辺4.25m・14尺2分、高さ22.07m・72尺8寸4分(内鉄製相輪長7.0m)。
天平宝宇年間に鑑真開基、弘安年間に天台僧円源上人が中興。
明徳年中(1390-93)65坊を数える。
慶長年中(1596-1615)には40余坊という。
宝永7年(1710)の書上では93石余、坊舎は22坊がある。
堂舎は本堂、山王7社、同拝殿、三重塔、阿弥陀堂、大師堂、多聞天堂、鐘楼堂、弁財天社、虚空蔵堂、仁王門、閼伽井、十王堂、浴室(以上全て杮葺)があった。
坊舎は般若院(10石余、無住兼帯明王院)、西方院(6石余)、明王院(8石余)、平等院(4石余、無住兼帯上山村明徳寺)、北ノ坊(4石余、無住)、岡ノ坊(1石余、無住)、中蔵坊(9斗余、無住)、奥ノ坊(7斗余)、中尾坊(1石余)、尾崎坊(4石余)、大門坊(1石余)、谷ノ坊(9斗余)、新坊(2石余)、田淵坊(7斗余)、南ノ坊(7斗余)、中ノ坊(4石余)、壇ノ坊(3石余)、竹中坊(3石余)、久保ノ坊(9斗余)、蔦ノ坊(1石余)、西ノ坊(4斗)、東ノ坊(7斗)で、僧侶29人、下男38人。
享保15年(1730)寺領30石に減ぜられ、享和3年(1803)本堂焼失。
明治元年4院、明治9年般若院1坊に減ずる。大正14年般若院焼失。
2014/11/03追加:ページ「真木山」 より
 明治5年の絵図(未見)には以下の14坊の記載があるという。
  南之坊、尾崎坊(青山)、蔦之坊、中蔵坊、西之坊、竹中坊(青山)、久保之坊(青山)、
  北之坊(戸田)、岡之坊、谷之坊、旦之坊(戸田)、中之坊(藤本)、大門坊、奥之坊
   ※()内は居住者を示す、
    これによれば、坊舎の実態があったのは居住者の記載のある6坊程度と推定される。
昭和3年真木山頂(海抜約400m)から現在地に移転。(山門・太子堂・弁財天社は移建と云う)
昭和24年最後に残った塔も解体、昭和26年現在地へ移転。
本堂、山王権現社殿などは放置され、朽ちるに任せる。歴代墓所・鑑真墓と云う石積も放置。
昭和57年当時では、山頂の寺院跡は竹木が茂り、石垣や礎石を残す、特に三重塔の礎石は良く旧状を留めている、荒廃した山王権現社殿、山道途中には崩壊寸前の不動堂がある・・と云う。
2008/06/21追加:
「重要文化財長福寺三重塔修理工事報告書」岡山県教育委員会、1982.3 より転載
修理前三重塔・正面     同     ・背面     同     ・南面
真木山頂三重塔跡1     同        2   
竣工後三重塔・北面     同     ・南面     同    ・南面2     同   南面細部
  同   初重西隅
○2014/02/08追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2009/02/11撮影・ご提供
 美作長福寺三重塔0;2014/03/02画僧入替
 2014/03/02追加:
 美作長福寺三重塔2
311 近江西明寺 【国宝】

池寺。 (開山三修上人の感得により池の中より薬師如来が湧出したと云う開山譚による。)
○三重塔は(建立年代を示すものは何も無いが)鎌倉中期あるいは後期の典型的な純和様建造とされる。
 初重一辺13尺8寸6分2厘(4.2m)、中央間5尺2寸5分8厘、両脇間4尺3寸2厘
 二重一辺11尺8寸5分、中央間4尺2寸6分6厘、両脇間3尺7寸9分2厘
 三重一辺10尺1分、中央間3尺6寸4分、両脇間3尺1寸8分5厘
 高さ66尺3寸(20m強)。桧皮葺き。
本尊は金剛界大日如来、四天柱が立ち、内部には極彩色の仏画・壁画が描かれている。
2015/03/05追加:
○「西明寺・金剛輪寺」井上隆雄撮影、浜島正士解説、新潮社, 1992. より
三重塔彩色紋様の図及び解説あり。
明治41〜43年解体修理、昭和13年、昭和48年、屋根葺替修理。
 三重塔初重内部3    三重塔初重天井・四天柱     三重塔初重天井
2007/03/03「日本建築史基礎資料集成・塔婆U」:
 西明寺三重塔立面図
2007/08/12追加:「滋賀県写真帖」、滋賀県、明43年 より
 近江西明寺三重塔   近江西明寺三重塔内部
2010/01/10追加:
○「滋賀県市町村沿革史編纂委員会/撮影」
 昭和30年西明寺三重塔     昭和30年西明寺本堂
西明寺発行ルーフレット(1990年年頃か)
 近江西明寺三重塔

2001/10/077撮影:
 近江西明寺三重塔1     近江西明寺三重塔2     近江西明寺三重塔3     近江西明寺三重塔4
 近江西明寺三重塔5
 近江西明寺本堂1     近江西明寺本堂2     近江西明寺本堂3     近江西明寺本堂4
 近江西明寺二天門
2007/11/18撮影:
 西明時三重塔11     西明時三重塔12     西明時三重塔13     西明時三重塔14
 西明時三重塔15     西明時三重塔16     西明時三重塔17     西明時三重塔18
 西明時三重塔19     西明時三重塔20     西明時三重塔21     西明時三重塔22
 西明時三重塔23     西明時三重塔24     西明時三重塔25     西明時三重塔26
2015/02/24追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
初重に心柱は通らず、須弥壇の中央に金剛界大日如来を安置し、四天柱に金剛界32尊(四仏を除く)を描き、金剛界曼荼羅空間を作りだす。
 三重塔初重内部
 ※現在は須弥壇上には大日如来1体であるが、かっては4仏が祀られていたのかも知れない。そうすれば金剛界37尊全てが揃うことになる。
2015/02/27追加:
○「日本の美術77 塔」石田茂作編、至文堂、昭和47年 より
 三重塔初重内部2:扉には八天を描く。
 三重塔初重内部壁画:部分図でこれは見宝塔品の説相であろう。
  このように周壁には法華28品の説相図を描く。
2015/03/05追加:
○「日本の美術143 密教建築」伊藤延男編、至文堂、昭和53年 より
 西明寺三重塔      三重塔初重内部4
 本堂(国宝):7間×7間の大堂で、鎌倉期の純和様の典型建築といわれる。
当初は5×5間堂であったが、南北朝期に周囲1間通りが拡張され、7間堂となる。
2007/11/18撮影:
 近江西明寺本堂11    近江西明寺本堂12    近江西明寺本堂13    近江西明寺本堂14
 近江西明寺本堂15    近江西明寺本堂16    近江西明寺本堂17    近江西明寺本堂18
 近江西明寺本堂19    近江西明寺本堂20    近江西明寺本堂21
ニ天門(重文):応永14年(1407)の再興。桁行3間梁間2間の八脚門。入母屋造、屋根杮葺。
 近江西明寺ニ天門11    近江西明寺ニ天門12    近江西明寺ニ天門13
寺伝では仁明天皇の勅願によって承和元年(834)三修上人(伊吹山開山上人)が開創したと伝える。
龍應山と号す。中世には寺領2000石、17堂宇・12社・300坊があったと伝える。
元亀2年(1571)織田信長と六角佐々木氏との兵乱で、百濟寺方に加担したかどで、信長の命により火を掛けられ、本堂・塔婆・ニ天門を残し悉く焼亡する。
近世には細々と復興するも、明治維新でほぼ壊滅し、長い参道脇に坊跡を連綿と残す。
 近江西明寺参道坊跡1     近江西明寺参道坊跡2     近江西明寺参道坊跡3
現在は本坊のほか円教坊・観正坊のみを残す。
2020/06/26追加:
2020年次のような報道発表がなされる。
 本堂内陣の柱(本尊薬師如来像前にある西柱と南柱)に菩薩立像が描かれていることが判明する。柱は黒く煤け、これまで何が描かれているのか分からなかったが、周囲の仏像を移動させ、高さ3〜4mに描かれた絵を赤外線で撮影したという。柱絵は損傷や後世の描き直しがされた部分もあったが、一部に制作当初とみられる表現が残り、分析(広島大学安嶋紀昭教授/美術学史)によれば、菩薩の鼻の線はほぼ垂直に引かれ、耳は肩に触れそうなほど長く描かれ、像は長身で細面で線が太いく、耳の中や手のひらの描き方は単調で、隋代(581-618)の描法の特徴を表わすという。飛鳥期の法隆寺玉虫厨子の扉の菩薩像に酷似しているといい、「絵画としては日本最古級」と分析した。
 本堂は建築様式などから鎌倉初期の創建とされるが、柱絵は飛鳥時代に描かれた可能性がある故に、「柱を含む仏堂が当時建てられ、鎌倉時代に改築された」可能性を指摘する。
また、西明寺の云う承和元年(834)の創建はさらに遡る可能性があるともした。
各種報道発表 より
 近江西明寺本堂柱1     近江西明寺本堂柱1     柱絵菩薩立像     西柱菩薩立像
以上の本堂柱絵の発見を受け、「oshiro tennsyukaku」氏は次のように云う。(メール受信)
「この柱の伐採年と伐採地が判明できれば、古代寺院の建築の歴史を塗り替えるものになるでしょう。近江西明寺の建立の歴史は確実に変わります。例えば、滋賀県草津市にある蜂屋遺跡から移築された可能性があるのではないでしょうか。」と。
 西明寺と蜂屋遺跡とは湖東であり、やや距離は離れているが、そういう可能性が皆無という訳ではないと思う。
ところで、蜂屋遺跡とは次のようである。
 蜂屋遺跡(栗東市・ 平成30年度に調査)から多くの瓦が出土し、その大半が飛鳥後半(白鳳期/7世紀後半頃)のものであったが、その内の2点は法隆寺若草伽藍の瓦と同笵であることが判明する。
 創建法隆寺(若草伽藍。天智9年〔670〕焼失)と同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」2点(7世紀後半)が確認される。
 現・法隆寺(西院伽藍。和銅年間に移築)式軒瓦が60点+38点以上確認される。
 但し、創建法隆寺(若草伽藍)の創建時(六世紀末〜七世紀初頭)の創建瓦(素弁瓦)は出土していない。
 出土法隆寺式軒瓦1     出土法隆寺式軒瓦2     蜂屋遺跡瓦出土状況     蜂屋遺跡出土瓦
創建法隆寺(若草伽藍)・中宮寺跡出土との同笵瓦は「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」といわれる文様で2点出土する。
なお、同様の文様の瓦は安芸横見廃寺跡(広島県三原市)などでも見つかっている。
この蜂屋の地域などは古代、栗太郡物部郷と呼ばれ、物部氏の支配地であったが、丁未の変(587年)で物部守屋が蘇我馬子に敗れ、厩戸皇子(聖徳太子)の所領になったと推測される。 「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」(747年)には、法隆寺の所領と記され、聖徳太子が建立した法隆寺に物部郷を寄進し、法隆寺の荘園や倉庫が設けられたとみられる。
 忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦1     忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦2
法隆寺から伝来した近江の瓦:このPDFに詳しく出土瓦の解説がある。
なお、忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦の法隆寺と蜂屋遺跡などとの前後関係についての厳密な検証は次でなされている。
調査員のオススメの逸品 第248回 栗東市蜂屋遺跡から出土した忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦
さらに、一部の報道では「金勝寺二十五別院の1つとされる蜂屋寺があったとも伝えられています。」とある。
これの出典は不明であるが、これは「興福寺官務牒疏」を典拠としているのであろう。「興福寺官務牒疏」は椿井政隆による偽書で、その詳細は創作である。
「興福寺官務牒疏」では「蜂里寺(蜂屋寺でなく蜂里寺とえる)」:在栗太郡物部郷、號物部山/僧坊 二十宇。
天平四壬申年勅願隆尊僧正開基、本尊九品阿弥陀仏、建久三年再建、金勝寺龍蔵院尊空僧都也、鎮守勝部物部神、宇賀魂神とある。
 今般の発掘場所は、寺域の西辺を区画する築地塀に伴う溝などと考えられ、その東側に寺域が展開していたと考えられる。ということで現段階では堂塔の明確な遺構は発見されていないが、今後の調査で堂塔などが発掘されればと期待する。
2020/10/10追加:
○2020/10/08「朝日新聞」夕刊記事:「新発見の仏画 飛鳥の作か否か」に次のような趣旨の記事が掲載される。
甲良西明寺 柱の8体めぐり論争:
 今般、広島大・大阪教育大の合同調査チームが本堂内陣の柱を赤外線撮影する。その分析の結果、本尊薬師如来像前の西柱と南柱(両柱とも径約45cm)に菩薩立像4体が描かれていることが判明する。
広島大大学院安嶋紀昭教授(美術史学)によれば、
「柱絵は損傷や後世の描き直しがされた部分もあったが、一部に制作当初とみられる表現が残っていた。菩薩の鼻の線はほぼ垂直に引かれ、耳は肩に触れそうなほど長く描かれていた。」
「小顔で高身長な体形は大和法隆寺の百済観音像に、耳の形状は同じく法隆寺の玉虫厨子に描かれた菩薩像に似ている」という。
 さらに、現在の西明寺本堂は桁行7間、梁間7間の七間堂であるが、本来は鎌倉前期に五間堂として建てられ、室町期に拡張されるという。その手法は、五間堂の外側に新たな柱を追加すると、屋根に傾斜があるため、軒が低くなりすぎる。外柱を1間外にずらし、元の位置に高い柱を追加して建物を広げ、軒の高さを保つ工法で拡張したという。つまり現存本堂は鎌倉初期建立の5間堂であったが、南北朝期に七間堂に拡張されたというのが定説であるが、これを証する明確な文献資料はないという。むしろ、工具による加工痕や梁などの構造から「母体となった建物が鎌倉期以前にあったのではないか」と安嶋教授はいう。
 この付近(犬上郡)は東大寺建立に関わる絵師集団は輩出した地であるので、渡来系絵師がいてもおかしくはない。本堂は飛鳥期に創建された犬上氏の氏寺ではなかったかと調査チームは推察する。
 白鳳期の白眉とされる大和法隆寺金堂壁画に年代的に西明寺の柱絵が並ぶとすれば、これは美術史上の大発見となる。従ってというべきか、当然というべきか、慎重論は少なくない。
 描線や容貌の表現からみても、飛鳥期まで遡るのは無理で中世以降に下るとか、古い様式を意識して描いたのではなどの見解もある。また通説より古い創建を建築史的に証明できるのかという問いかけもある。
 柱絵が飛鳥期に属するのかどうかを見極めるためには本堂の年輪年代などの科学的な分析も期待されるが、本堂は国宝建造物であり、容易には科学的な分析ができないということもあり、議論の決着を見るには時間がかかりそうだといえる。
312 伊予石手寺 重文 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
10
11
鎌倉後期文保年間(1317-8)の再建。一辺4.9m、高さ約24m。数少ない鎌倉期の貴重な遺構である。当然ながら和様を用いる。
初重内部の四天柱の奥側柱間には来迎壁を設け、来迎壁の前に須弥壇を置き、釈迦三尊像を祀る。外壁内側には真言宗八祖を描き、来迎壁には曼荼羅を描く。四天柱・格天井には彩色を施す。
 石手寺:寺伝では神亀5年(728)聖武天皇の勅願により、伊予大守・越智玉純が鎮護国家の道場として伽藍を建立し安養寺と号したという。
弘仁4年( 813)弘法大師が真言宗に改めると伝える。天長8年焼山寺山中で亡くなった衛門三郎の縁起によって石手寺と改めるという。
平安−室町期には66坊を有するも、永録9年(1566)長宗我部氏の兵火のために12間四面重層の金堂を初め堂宇の大半を焼失したとされる。しかしながら今なお多くの古建築を有する。
当山は四国51番札所。
○2002/12/28撮影:図1〜11
○四国徧礼霊場記(時期不詳・巻6)
 四国徧礼霊場記・石手寺
2010/02/11追加
 昭和13年石手寺三重塔:毎日新聞写真
2014/11/16撮影:
 伊予石手寺三重塔11     伊予石手寺三重塔12     伊予石手寺三重塔13
 伊予石手寺三重塔14     伊予石手寺三重塔15     伊予石手寺三重塔16
 伊予石手寺三重塔17     伊予石手寺三重塔18     伊予石手寺三重塔19
 伊予石手寺三重塔20     伊予石手寺三重塔21     伊予石手寺三重塔22
 伊予石手寺三重塔23     伊予石手寺三重塔24     伊予石手寺三重塔25
 伊予石手寺三重塔26     伊予石手寺三重塔27     伊予石手寺三重塔28
 伊予石手寺三重塔29     伊予石手寺三重塔30     伊予石手寺三重塔31
 伊予石手寺三重塔32     伊予石手寺三重塔33     伊予石手寺三重塔34
 伊予石手寺三重塔35     伊予石手寺三重塔36     伊予石手寺三重塔相輪
伽藍は南面し、回廊を進むと、正面に楼門(二王門、国宝、鎌倉期文保2年<1318>、正面3間・重層入母屋造り本瓦葺き)がある。
楼門の正面に本堂(鎌倉・重文)、左に三重塔・鐘楼(南北朝・重文)・護摩堂(南北朝・重文)を配する。また境内東側奥には訶梨帝母天堂(鎌倉・重文)もある。
石造品には五輪塔(鎌倉後期、重文)<未見>もある。
以上の国宝重文の他、大師堂、茶堂大師、鐘楼、阿弥陀堂、観音堂、十二社権現、絵馬堂、経蔵、弥勒堂、弁財天などと近年の建立と思われる宝物館、安養閣、太講堂などがある。
 石手寺参道回廊
仁王門<楼門>(国宝)
  2002/12/28撮影:
  石手寺楼門1  石手寺楼門2  石手寺楼門3  石手寺楼門4  石手寺楼門5
 石手寺仁王門11     石手寺仁王門12     石手寺仁王門13     石手寺仁王門14
 石手寺仁王門15     石手寺仁王門16     石手寺仁王門17     石手寺仁王門18
 石手寺仁王門19     石手寺仁王門20
本堂(重文)
  2002/12/28撮影:
  石手寺本堂1  石手寺本堂2  石手寺本堂3
 石手寺本堂1     石手寺本堂2     石手寺本堂3
 石手寺お茶所
鐘楼(重文): 石手寺鐘楼1     石手寺鐘楼2     石手寺鐘楼3     石手寺鐘楼4
 石手寺弥勒堂
護摩堂(重文); 石手寺護摩堂
 石手寺一切経蔵     石手寺大師堂     大師堂内部
訶梨帝母天堂(重文); 訶梨帝母天堂1     訶梨帝母天堂2     訶梨帝母天堂3
 訶梨帝母天堂4     訶梨帝母天堂5     訶梨帝母天堂6     訶梨帝母天堂7
 石手寺十二社権現:伊予太守越智玉純は十二所権現などの諸仏の来迎を霊感し本寺を建立という。
  本寺の山号は熊野山と称するがこの寺伝によるものなのであろうか。
 石手寺鐘撞堂     石手寺阿弥陀堂     石手寺本坊内門     石手寺本坊
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石手寺地蔵院六角二層堂石手寺地蔵院
楼門前横の塔頭と思われる院坊(地蔵院・唯一残った寺中という)に六角子安地蔵堂がある。
簡略な建築であるが、長尺な堂宇(初層)に六角形の上層を載せ、相輪を上げた二層堂である。
 2002/12/28撮影:子安地蔵堂
2014/11/16撮影;
 地蔵院子安地蔵堂1   地蔵院子安地蔵堂2   地蔵院子安地蔵堂3   地蔵院子安地蔵堂4
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石手寺平和記念塔(パゴダ、 愛媛パゴダ)
主として、ビルマ戦(インパール作成)の追悼の意がある平和記念塔と思われる。内部は見学していないが、誰が何のために建立したのか良く理解できない。
昭和54年頃建立されたものと思われる。
2014/11/16撮影:
 石手寺平和記念塔1   石手寺平和記念塔2   石手寺平和記念塔3   石手寺平和記念塔4
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石手寺三重小塔?
上に掲載の2014/11/16撮影:伊予石手寺三重塔36の右端中央付近に三重小塔(あるいは五重小塔)とも思われる塔婆が写る。現地では全く気が付かず、後日の写真の整理中に気が付く。
Webで検索するも情報なし。写る姿も小さく判然とはせず、はたして三重(五重)小塔なのかどうかもよく分からない。<現地未見>
石手寺裏山はミニ四国88所霊場があり、門前の案内板(下に掲載・部分)には三重塔(五重塔)の小塔のようなものが描かれる。写真の背景は石手寺裏山に該当し、あるいはここに小塔があるのかも知れないが、まったく不明である。
 石手寺三重小塔     門前の案内板
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付録;伊予宝厳寺:石手寺近く道後に時宗本山宝厳寺がある。
寺伝では天智天皇4年(665)越智守興の創建という。当初は法相宗であったが、平安中期、天台宗となる。
正応5年(1292)一遍上人の弟にあたる仙阿によって再興され、時宗となり、時宗奥谷派本山となる。
延応元年(1239)一遍上人はこの地で生まれるという。
2013年8月10日本堂と庫裏及び木造一遍上人立像(重文)が全焼する。
2014年11月再建工事(総事業費1億5千万円)に着工する。
○ページ:一遍上人誕生の寺「宝厳寺消失・全焼」 より転載
 焼失する宝厳寺    宝厳寺本堂1     宝厳寺本堂2
2014/11/16撮影:
 宝厳寺山門      宝厳寺本堂跡      宝厳寺庫裡跡
313 信濃大法寺 国宝 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
10
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13
2007/03/03「日本建築史基礎資料集成・塔婆U」:
北朝の正慶2年(1333)、天王寺の四良(郎)□らが建立(墨書銘)。中央の工匠の建立になるとされる。
総高61尺2寸7分、相輪長18尺3分
初重総間12尺1寸、中央間5尺、両脇間3尺5寸5分(4.06坪)
二重総間9尺2寸、中央間3尺5寸3分、両脇間2尺8寸3分5厘(2.35坪)
初重総間7尺8寸2分、中央間3尺7分、両脇間2尺3寸7分5厘(1.7坪)
初重は2手先、ニ重三重は通常の3手先を用いる。これは大和興福寺三重塔と同一の手法で、そのため1層の平面が大きく安定を持つ容姿になる。
純和様を用いる。一辺3.65m、高さ18.36m。「見返りの塔」と呼ばれる。
中備は中央間蟇股、両脇間は間斗束で、蟇股には彫刻を用いない。
正徳2年(1712)、寛政6年(1794)修理、大正9年解体修理、昭和31年・59年屋根葺替。
 大法寺三重塔立面図
詳しい寺暦は分からないというも、創建は大宝元年(701)定慧によるとされ、大同元年(806)坂上田村麻呂によって中興されたと云う。天台宗。
2015/02/24追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
四天柱の2本を省略して来迎柱2本だけが建つ。心柱は初重梁から建つ。
そして初重組物は二手先にし、初重空間の確保に努める意匠である。
 三重塔初重内部
現存三重塔:飛鳥〜鎌倉期
2006年以前作成:2020/09/27更新:ホームページ日本の塔婆