東  照  権  現  ・  東  照  宮

当サイトにある東照権現・東照宮

以下は当サイトに取上げた東照権現・東照宮である。(東照権現の全貌ではない。)

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陸奥弘前東照権現  →弘前大円寺(最勝院)のページ中、附:若干の弘前の寺社→弘前東照権現の項を参照。
陸奥仙台東照権現  →陸奥大崎八幡別当龍宝寺のページ中「仙台東照宮康国寺仙岳院」を参照。
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上野世良田東照権現 長楽寺は徳川氏の開創、家康は天海に命じ寺を復興させる。寛永17年(1640)天海、家光に請い、元和造営の旧奥社拝殿・唐門・木造多宝塔を移建する。つまり長楽寺に東照権現を勧請して成立する。
 →上野世良田東照権現
下野日光山東照権現 元和3年(1617):家康の遺骸が久能山より、霊地日光山に遷る。徳川秀忠が東照大権現を創建する。
 →日光山東照権現
常陸常磐山東照権現 元和7年(1621)頼房が、霊松山(元禄年中光圀により常磐山と改称する)に創建する。
中央に東照大権現、左に山王権現、右に麻多羅神(日吉大神と同神と云う)を祀り、「三所権現」と称する。
元和10年台徳院霊屋を建立、その後、歴代将軍の霊が相殿として祀られる。
別当は大照寺であったが、天保14年(1844)斉昭によって寺僧は罷免され、祭祀は神式に改められ、左右の配神二座が除去される。
明治8年県社、社殿は創建時のものが残り国宝であったが、昭和20年戦災により焼失する。
常磐山東照宮・水戸東照宮
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武蔵川越仙波東照権現 元和3年(1617)家康(遺骸)の久能山から日光山への遷座の途中、川越喜多院に4日間逗留して供養。
寛永10年(1633)天海が喜多院の一画に東照宮を創建。これが仙波東照権現である。
 →武蔵仙波東照権現
武蔵浅草東照権現 元和4年(1618)日光造営を受けて、当時幕府の増上寺と並ぶ重要寺院であった浅草寺においても東照宮の建立が開始される。
寛永8年浅草寺炎上。すぐさま寛永の造営が行われ、東照宮などが再営される。
一方幕府による寛永寺の造営が開始され、寛永13年江戸城内紅葉山山王之社が寛永寺観理院に移転、その後紅葉山には東照宮が創建され、浅草寺東照宮神体が江戸城内紅葉山東照宮に遷座する。
寛永19年浅草寺は再び全焼。その後の慶安度造営では東照宮社殿は造営されず 、廃堂となる。
 →武蔵浅草東照権現
武蔵上野寛永寺東照権現 寛永4年(1627)藤堂高虎が上野の高虎家敷に創建する。これは元和2年(1616)家康遺命と云う。
慶安4年(1651)家光が社殿を改築、この社殿が現存する。
 →武蔵上野寛永寺東照権現
武蔵芝増上寺安国殿 元和2年(1616)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言し、翌年社殿が増上寺境内に完成する。この社殿は家康の法名から安国殿と称された。神像は駿府城にて祭祀していた家康「寿像」を安置する。
寛永10年(1633)家光が新社殿を造営、旧社殿は開山堂となる。
寛永18年(1641)移転改築がなされ、駿府城惣門、福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居、拝殿、唐門、透塀が造営される。
明治の神仏分離の処置により、増上寺の抵抗を排除し、芝東照宮が捏造される。
昭和20年戦災によって灰燼に帰す。(「寿像」は残る)昭和44年現社殿再建。
 →武蔵芝増上寺安国殿
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駿河久能山東照権現  →駿河久能山東照権現
駿府圓山東照権現 家康死後(元和2年没)、駿府城内に家康が祀られる。
元和8年(1622)駿府城内の「東照宮」は府中浅間社別當惣持院境内に遷される、これが圓山東照権現の始りという。(「駿国雑誌」「安東村」)
惣持院は天海が宿所とするという。
明治元年神仏分離の処置で惣持院は廃寺、東照宮のみ残る。
明治8年東照宮は村社となる。
明治33年一社一村の令により、隣村の八雲社を合祀し、東雲社と改称する。(東雲は「しののめ」ではなく「とううん」と発する。)
平成17年(2005)放火により東雲社(圓山東照宮)は全焼する。
平成20年東雲社は小祠ながら、再建される。
なお、 東照大権現坐像が現存する。
社殿は平成17年焼失するも、どういう事情かは不明であるが、本像は現存する。
静岡市有形文化財に指定される。
東照大権現坐像の像高:37.5cm、檜による寄木造、圓山東照宮に伝来、寛永20年は家康生誕100年であり、それを記念して造立か。

東照大権現坐像
 東照大権現坐像:左記拡大図
 造底の墨書銘:次のとおり
  天下安全萬民安楽
  於駿州久能山開眼■■尊陽
  奉刻彫(?)東照宮■
 種字(バイ)(薬師如来)
  寛永20癸未暦(1643)
  願主 駿府宮中玄陽院法印鎮宥 敬白
  将軍家光公 武運長久子孫繁昌

※玄陽院は浅間社(新宮)別當
三河鳳来寺東照権現  →三河鳳来寺東照権現
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比叡山東照権現  →比叡山及び比叡山山王権現のページを参照。
山城御香宮東照権現 山城御香宮に非常に小規模な東照宮がある。社殿の彩色が鮮やかなので近年(2001年以前)に修復されたものと思われる。沿革などは情報がなく不明。
 東照宮鳥居の年紀は安政5年(1858)、東照宮御宝前石燈籠2基のうちの1基の年紀は嘉永辛亥年(4年1851)が刻まれ、以上によれば幕命が危うくなった幕末頃急遽造営されたものなのか。(伏見奉行所は当宮の南にある)
あるいは、御香宮は家康との関係が深く、また頼宣、頼房は伏見で生誕したといわれ、御香宮は紀州・水戸の寄進もあったようであり、その関係から東照権現を祀っているのであろうか。
 →山城御香宮
2001/12/16撮影:
 東照宮本殿向拝(非常に小規模であるが、近年修理・復元されたと思われる。 )
2005/02/04撮影:
 御香宮内東照宮1     御香宮内東照宮2     御香宮内東照宮3     御香宮内東照宮4
2010/11/06撮影:
 御香宮内東照宮5     御香宮内東照宮6
2014/04/13撮影:
 御香宮内東照宮11     御香宮内東照宮12     御香宮内東照宮13     御香宮内東照宮14
 御香宮内東照宮15     御香宮内東照宮16     御香宮内東照宮17
2020/07/18追加
 安永9年(1780)の「都名所圖繪・御香宮」では、東照宮は本殿の向かって右後(北東)に描かれている。
現在この地には東照大権現ならね豊国大明神が皮肉のように祀られている。
しかし、なぜ、こうなったのかは分からない、また何時ころ現在地の遷宮したのかも分からない。
少なくとも、江戸中期には東照宮は存在し、また本殿の向かって右後(北東)にあったことは確かであろう。
山城東本願寺東照権現 2010/11/01追加:2009年03月報道発表 より
文久2年(1862)「東照宮御霊殿」落慶、徳川家茂の入洛に合わせて建立される。
幕末においても幕府と東本願寺は昵懇であったというべきかあるいは幕府政治の行き詰まりで藁をも掴む窮余の策であったというべきなのか。
2年後の元治元年(1684)蛤御門の変で焼失し現存せず。
建立場所は阿弥陀堂西南の東西60m南北30mほどの敷地(現在の同朋会館の場所であろう)で、本殿・拝殿・廻廊・唐門・築地塀からなる。
 東本願寺東照権現1     東本願寺東照権現2:東本願寺蔵、東照宮御霊殿鳥瞰図
2016/10/26撮影
 東本願寺遠望:京都タワー展望台より
 御影堂門     阿弥陀堂門     東本願寺御影堂1     東本願寺御影堂2
大和東大寺東照宮 東大寺鎮守八幡宮神楽所の一郭に東照宮社殿が現存する。
明治の神仏分離の処置で東大寺東照宮(現天皇殿)から放擲され、鎮守八幡宮に移動するという。
 →東大寺東照宮
攝津川崎東照宮 明治維新の神仏判然の処置で、廃社となり廃絶する。
攝津四天王寺東照宮 用明宮が江戸期には東照宮となり、明治維新後は用明殿として祭神(用明天王ほか六躯)が復活する。
明治の神仏判然令などにより、東照宮は廃される。
 →摂津四天王寺>用明殿の項を参照
紀伊東照権現  →紀伊東照権現
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備前東照権現 正保2年(1645)岡山藩主池田光政、東山玉井宮の地に東照宮を勧進する。
 玉井宮はもともと児島郡小串村光明崎(今は米崎)に鎮座するも、応徳2年(1085)上道郡門田の山中(東山)に移転遷座する。
東照宮勧進に伴い、山頂の玉井宮は南側の一段下に移築され、その跡地に東照宮が建立され、その東照宮本殿は現存する。
明治14年東照宮と玉井宮は合祀され、玉井宮東照宮と号する。
明治33年旧玉井宮の建物は移築され、拝殿が建立される。
昭和22年操山山頂の三勲神社を合祀する。
 ※三勲神社とは三勲の名の示す通り、明治8年に国家神道の教義により岡山の国家主義者たちによって創建された和気清麻呂、楠木正行、児島高徳を祭神とする神社である。
平成元年幣拝殿・神饌所・社務所・参集所などが焼失する。
本殿は正保元年(1644)竣工、東照宮本殿である。桁行三間、梁間二間、入母屋造、屋根銅板葺。
2014/02/15撮影:
 備前東照権現本殿11   備前東照権現本殿12   備前東照権現本殿13   備前東照権現本殿14
 備前東照権現本殿15   備前東照権現本殿16   備前東照権現本殿17   備前東照権現本殿18
 備前東照権現本殿19   備前東照権現本殿20
 備前東照権現本殿平面図   備前東照権現随身門
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筑前荒戸山東照宮  →明治以降の五重塔の福岡大圓寺の項(564)を参照、明治維新後東照宮は廃社、別当なども全て廃寺。
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2010/11/01作成:2020/07/18更新:ホームページ日本の塔婆