石  造  塔  露  盤  一  覧  表

石造塔露盤一覧表・(付表:石製相輪出土寺院)

石造塔露盤の分類について
「古代の石造相輪についての一考察」原田憲二郎(「文化財学論集」1994 所収)では
石造露盤の断面の形状から、次の3種類に分類できるとする。
 A類:断面形長方形のもの
 B類:断面形台形のもの
 C類:断面形ほぼ長方形で、胴部がくびれるもの
以下にはその分類(A,B、C類)を記載する。

【01】上野勢多郡大胡町所在石製露盤<上野白草廃寺か>、石製露盤A類と推定される。:・・・亡失と思われる。(未見)

○「幻の塔を求めて西東」:
大胡町滝窪小柴木にある。大きさは97×97cm、厚さは中央にいくほど厚くなる。貫通孔径23cm。「群馬縣遺跡調査報告書」1963 による。
2011/08/26追加:
○「群馬縣の遺跡」群馬縣遺跡台帳作成委員会、昭和38年:「幻の塔を求めて西東」の記述の根拠である。
 以下の記載がある。(全文を記載する)
項番:445|歴史(寺院跡)|勢多郡大胡町滝窪 小柴木|宅地|台地|礎石風の大石があり、一辺97cmの正方形で厚さは中央にいくに従い厚くなる。中央に径23cmの孔がある。
 記述は以上であるが、大きや形状から石製露盤であることはほぼ間違いないものと思われる。
現存しているかどうか・現存ならばその所在場所などについて、地元の文化財担当部署に照会を行う。
その結果以下のような望外の情報を得る。
○旧大胡町の担当部署からの照会結果は以下の通り。
 旧大胡町滝窪には「小柴木」という地名はない。
地元の文化財等に詳しい方に確認したところ、”寺院跡としては大胡地区では「滝窪町白草」か「堀越町小此木」があるので、このどちらかのことではないか”ということであるが、”露盤”については聞いたことがない。
○前橋市の担当部署からの照会結果は以下の通り。
 大胡地区の文化財に詳しい人物へのヒアリング、資料調査、実地調査を行うも、「礎石風の大石」の存在、所在場所について、明らかにすることが出来なかったという結論である。
 調査の過程で判明したことは、「小柴木」の寺院跡とは「白草廃寺」(「大胡町誌」にも記載)ではないかということである。白草廃寺については、現地に出向き確認を試みるも、付近の住民も世代が代わったこともあり存在を知らず、記載されている場所近辺からも痕跡を見つけることは出来なかった。さらに「群馬県遺跡地図」を参照するも、記載は見当たらず。
○「大胡町史」大胡町史編纂委員会、昭和51年・・・・前橋市の担当部署からの提供資料
第5節仏教文化 1)白草廃寺
 赤城南面道路から金丸へ登る白草の十字路西に稚蚕飼育所がある。この飼育所建物の基礎工事中、大きな石がほぼ等間隔に並んで出てきたという。これはそこに立ち会った人の話で実見したわけではないが、地域の状況と考え合わせて寺院の柱の土台石と推定される。
またこの地域出土と伝えられる土台石と考えられる177cm×190cm厚さ70cmの石が滝窪字白草の集会所の庭においてある。瓦の散布は現在ほとんど見られないが、この付近には奈良-平安期と思われる土器の散布も見られ、ここには古代寺院の跡があるものと推定される。
○「群馬県遺跡地図」・・・・前橋市の担当部署からの提供資料
「勢多郡大胡町」での廃寺遺跡は以下の一例のみが記載されるのみである。
 項番:2221|平安|寺院跡|大胡町大字滝窪字白草1339-1
○2011/09/04追加:「古代の石造相輪についての一考察」:
「群馬縣の遺跡」に記載の礎石風の大石は孔の貫通が確認できず、露盤と断定することは保留する。
○以上から結論は以下の通り。
1)この大胡町所在石製露盤は亡失と思われる。
 ただし、孔の貫通の確認がとれないので、露盤と云う断定を保留する見解もある。
2)この近辺で知られる廃寺は白草廃寺がほぼ唯一のもので、この廃寺から、かって礎石らしきものの出土が伝えられ、石製露盤はこの白草廃寺に付随したものであった可能性が高いと思われる。

【02】常陸茨城廃寺(小目代廃寺)、石製露盤A類

2013/05/08撮影:
○万福寺西に石製露盤がある。(巾着石と呼ぶ。)茨城廃寺塔跡から移動する。

石製露盤の大きさは110×110cm、
厚さは土砂に埋没し不明、孔の径は46cm。
貫通しているかどうかは土砂に埋もれ、さらに孔に円形の石が嵌められ確認することができない。しかし諸資料では貫通すると云うので貫通しているのであろう。( 諸資料では厚さは35cmと云う。)

2013/05/08撮影:
 常陸茨城廃寺露盤1:左図拡大図
 常陸茨城廃寺露盤2
 常陸茨城廃寺露盤3
 常陸茨城廃寺露盤4
 常陸茨城廃寺露盤5

○石製露盤レプリカ:
レプリカ:大きさは110×110cm、厚さ35cm。径46cmの貫通孔を穿つ。断面は長方形に作成。
法量・形状とも正確に複製しているものと判断される。
なおレプリカは塔跡の北側118号道路を渡ったところに設置される。
 石製露盤レプリカ1     石製露盤レプリカ2
○茨城廃寺塔跡
 茨城廃寺塔跡1:廃寺跡を南から撮影、手前に2枚の畑があるが、塔跡はその北にある畑1枚である。塔跡の畑は左に写る民家の東側である。写るビニールハウスは塔跡南東隅である。奥に1軒の民家が写るが、その付近が講堂跡である。
 茨城廃寺塔跡2:写る畑1枚のほぼ全面が塔跡である。
茨城廃寺残存礎石
塔跡から南東方向に直線で150mの所に礎石が1個残存する。(解説板設置)
小目代公民館西すぐにある。公民館東に接して鹿島明神があり、北に接して鉄製と思われる露盤・青銅製と思われる宝珠をあげる宝形造の堂(何の堂かは不明)がある。上述の「同5号:貝地2丁目の平岡氏邸」礎石と思われる。
礎石の大きさは径およそ110cmの円形で、径65cm高さおよそ1cmの円形造出を造り出す。
 茨城廃寺5号礎石1     茨城廃寺5号礎石2
 参考:その他の写真
  ページ「茨城廃寺礎石6号」より転載、在石岡清凉寺:茨城廃寺6号礎石
  ページ「茨城廃寺礎石7号」より転載、在石岡清凉寺:茨城廃寺7号礎石
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○「幻の塔を求めて西東」:露盤は一辺110cmの正方形、厚さ35cm、貫通孔径45cm、花崗岩製、万福寺隣の農家の梨畑にある。
○「山尾権現山廃寺」1991:茨城廃寺石製露盤;長さ110、厚さ32、円孔径41cm
○当寺は7世紀終末もしくは8世紀初頭の創建とされる。
1979-81年の発掘調査で塔・金堂・講堂などの基壇が確認され、法隆寺式伽藍配置と云う。
塔跡は東西12m、南北11mで掘込地業と版築が見られる。「茨木寺」「茨寺」の墨書土器が出土と云う。(以前は地名から「小目代廃寺」と称される。)
常陸国分寺跡南方に位置する。「国分寺の研究 上下巻」では礎石1個の存在が紹介されていただけであったが、現在は柱座を持つ礎石7個(清凉寺・平福寺・貝地地区内)が確認されている 。
以下、柱座を造り出した礎石(7個を確認)が附近に伝わる。
・茨城廃寺礎石1号・2号・3号・4号:在国府5丁目の平福寺
・同5号:貝地2丁目の平岡氏邸:柱座造出礎石
・同6号・7号:国府6丁目の清涼寺;6号は自然石の上面削平
○2011/09/04追加:「古代の石造相輪についての一考察」:
発掘調査によって法隆寺式伽藍配置と確認、塔基壇の一辺は12m、出土瓦などから奈良前期の創建とされる。
石造露盤は萬福寺横の梨畑にあり、地元の人は「茨城童子の巾着石」と云う。
花崗岩製、平面正方形で一辺110cm、厚さ35cmで、中央に径45cmの円形貫通孔を有する。(「茨木廃寺跡T」石岡市教育委員会、1980)
 茨木廃寺石製露盤図:(「茨木廃寺跡T」)
○2011/09/04追加:サイト:「歴史の里石岡ロマン紀行」中の「万福寺」のページ より 転載
 茨城廃寺石製露盤:「萬福寺の左、脇道を約20m程入っていくと、畑の中に110cm角ほどの「きんちゃく石」の立て看板があ る。」、さらに、これとは別の場所に地元ロータリークラブが設置した模造露盤と説明板があるとも云う。
○2013/05/06追加:「茨城廃寺跡 ―第4次調査 現地説明会資料―」平成24年、石岡市教育委員会 より
 塔・講堂跡/昭和55年発掘調査     茨城廃寺発掘調査図

【03】常陸山尾権現山廃寺、石製露盤A類
   → 常陸権現山廃寺露盤 ・・・塔跡・心礎・石造露盤を遺すも、廃寺跡自体の位置が特定できず、未見。

「山尾権現山廃寺」(推定:「真壁町史料 考古資料編3」真壁町史編さん委員会編集、1991 所収) より

 ◆山尾権現山廃寺露盤

山尾権現山廃寺露盤:左図拡大図
権現山廃寺露盤実測図
権現山廃寺露盤1
権現山廃寺露盤2

石製露盤は塔跡南に基壇から約1mの地点に突き刺さるようにある。
一部にひびが入り、また一部が欠失し、以上の状況から塔崩落時に落下したままの状態であろう。
材質は花崗岩。貫通孔は径41,5cm、厚さは27〜28cm、円孔端から露盤端までは30〜31.5cmを測り、以上から一辺は102〜104cm位であろうと推定される

○2011/09/04追加:「古代の石造相輪についての一考察」:
石造露盤は花崗岩製、一辺100cm、厚さ27cm、径41,5cmの貫通孔を有する。(「真壁町史料 考古資料編3」に基ずく。)

【04】常陸中台廃寺(筑波廃寺 ・北条廃寺)、石製露盤B類

○2013/05/08撮影:
形状はかなり原形を損ねている部分があり、また稜線などはかなり磨耗し、かつ円孔の上に石造小祠が置かれ孔の状態が不明であり、一見して石製露盤と断定するには多少ではあるが躊躇する。しかしながら、
大きさは一辺、およそ90cmと92cmを測る。
次に厚さであるが、2辺については土中に埋もれず側面が見え、従って厚さの計測が可能である。残り2辺の側面は土中に埋まる。
見える2つの側面の内の1側面は長方形ではなく、短辺は左右で長さつまりは厚さが相違する。
  ・・・・・下に掲載の中台廃寺廃寺露盤8の 状況を参照・・・・・
この石が露盤であるとすれば、断面が長方形で無ければならず、つまり露盤である前提に立てば、元来は長方形であった石製露盤の下が割れて剥がれ落ち、現在のような側面断面が長方形でない形状になったものと解釈する外はない。
厚さについては、以上のような形状であり、かつ全ての稜線が磨耗しているので正確に測ることは困難であるが、現状では厚さは短辺はおよそ20cmと長辺は35cmを測る。
貫通孔については、孔に石製の小祠が置かれ、そのため孔が貫通していることは直接に見ることは出来ない。
小祠があるため、径は計測しづらいが、およそ32cm程度であると計測できる。

2013/05/08撮影:
 中台廃寺廃寺露盤0:左図拡大図
 中台廃寺廃寺露盤1
 中台廃寺廃寺露盤2
 中台廃寺廃寺露盤3
 中台廃寺廃寺露盤4
 中台廃寺廃寺露盤5
 中台廃寺廃寺露盤6
 中台廃寺廃寺露盤7
 中台廃寺廃寺露盤8
 中台廃寺廃寺露盤9

----------なお、諸資料では次のように記載する。----------
○「日本古代地方寺院の成立」;石製露盤が残る。
この寺院は、未発掘で不明な点が多いが、筑波郡衙跡と推定される平沢遺跡に付属する郡寺とも推定される。
○「幻の塔を求めて西東」:
石製露盤は一辺94cmの正方形、厚さ25/35cm、貫通孔径34.5/35.5cm、花崗岩製、中央上部から外に向けて傾斜する。奈良後期。
○「山尾権現山廃寺」:
中台廃寺石製露盤の法量は、長さ94、厚さ25〜35、円孔径32.6〜34.5cmである。
○2007/09/26撮影:
この廃寺については地元の人も殆ど関心がないと思われる。
平沢官衙遺跡の南西台地が中台廃寺跡であり、現状はほぼ畑である。
かっては基壇状の高まりや礎石が存在したというも、現在地表には何の痕跡もない。一帯には布目瓦が散乱するとも云う。
石製露盤は聞き取り及び廃寺跡附近を探索するも所在不明。(実見できず)
 常陸中台廃寺跡1       同       2
写真廃寺跡1、2の畑地附近が中台廃寺跡と推定される、発掘調査が行われたが、遺構などの出土は見なかったと云う(聞き取り)。
写真中央の二子峰が筑波山。この地は北に筑波山を負う高台で伽藍建立の好地である。
○2007/03/10「X」氏撮影画像:
多少の磨耗はあるが、屋根の四方棟は何とか判別できると思われる。
 常陸中台廃寺露盤1       同        2        同        3
2008/09/07追加:
○「茨城県史 原始古代編」1985
一帯は畑地で、そこには残礎が点々と認められる。以前には土壇(6,7m平方)があり、その東・北にも礎石があった。
 常陸中台廃寺露盤:小祠の置かれていない状態の写真であり、やはり孔は貫通孔であるのであろう。
○2011/09/04追加:「古代の石造相輪についての一考察」:
法量は「幻の塔と求めて西東」と同一の記載。
これは「茨城の古瓦について」高井悌三郎(「茨城県歴史館報5」1978 所収)に基ずくものと思われる。
○2011/09/04追加:「北条さんぽマップ」:サイト「つくば北條さんぽ」 より
 北条さんぽマップ:部分図、このマップの右端・丸10の位置に石製露盤がある。
○2011/11/26追加:「茨城の古瓦について」高井悌三郎(「茨城県歴史館報5」1978 所収) より
塔露盤が残る。それは四角な花崗岩の石材で一辺90cm角、高さ30cmほどの石の中央に径30cm余のまるい刳りぬきの孔がある。

【05】常陸下君山廃寺、石製露盤B類: → 常陸下君山廃寺:心礎及び石造露盤を遺す。

下君山廃寺石製露盤

一辺は約95cmであり、もう一辺は土砂に埋もれ、計測は不能。
外辺部の厚さは45cmほどを測る。
 ※周囲には竹の根が密集し、素手では掘り出しが不能。
中央に径35cm高さ55cmほどの貫通孔がある。
 ※外辺部の厚さは45cmほどを測り、貫通孔部の厚さは55cmほどを測るので、断面は台形<石製露盤B類>であることは実見の印象と合致する。
2013/05/08撮影:
 下君山廃寺路盤61
 下君山廃寺路盤62:左図拡大図
 下君山廃寺路盤63
 下君山廃寺路盤64
 下君山廃寺路盤65
 下君山廃寺路盤66
 下君山廃寺路盤67
 下君山廃寺路盤68
 下君山廃寺路盤69

○2005/03/13撮影:「X」氏ご提供:露盤:   同      露盤11

なお、この石造露盤について、諸資料では次のように記載する。
○「茨城県史 原始古代編」1985
フルテンと称する藪地が土壇状に小高くなり、ここに心礎・露盤がある。
 下君山廃寺心礎13     下君山廃寺露盤12

○「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、145cm×138cm×24/27cm、径25.5×15cmの円孔がある。雲母片岩、奈良後期。
露盤は一辺100cmの正方形、厚さ45cm、貫通孔径36cm、花崗岩製、中台廃寺と形は全く同じ。

○「日本古代地方寺院の成立」;石造露盤が現存、出土瓦は白鳳期か?、周囲から8世紀の金銅仏が出土。

○「山尾権現山廃寺」:下君山廃寺露盤は長さ100cm、厚さ46cm、円孔径36cm。

○2011/09/04追加:「古代の石造相輪についての一考察」:
石製露盤の法量は「幻の塔と求めて西東」と同一の記載。
これは「茨城の古瓦について」高井悌三郎(「茨城県歴史館報5」1978 所収)に基ずくものと思われる。

○2011/11/26追加:「茨城の古瓦について」高井悌三郎(「茨城県歴史館報5」1978 所収) より
藪の中に四角の大きい花崗岩製の石材がある。方1m、厚さ40〜50cm、中央に径36cmの貫通円孔を有する。これは石造露盤であろう。

【06】上総大寺廃寺、石製露盤B類

○「日本古代地方寺院の成立」;
「上総国望陀郡大寺村沿革」には「大古、99の大堂ありしが、天正17年・・・該寺院に放火し悉く灰燼に帰す・・・」とあり、その後再興され「善徳寺」と称したが、明治維新の神仏分離で廃寺となる。現在は熊野権現が寺跡に現存する。
○石製露盤や礎石が存在し、塔の存在が推測される。
現在寺跡には阿弥陀堂(小宇)が再興(写真)されている。
 上総大寺廃寺阿弥陀堂
石造露盤は、その阿弥陀堂の裏に置かれる。さらにその後に熊野権現(村の鎮守程度のもので、神仏分離の対象となるような代物には見えないが、明治の神仏分離の狂気は寺院を破壊したのであろう。)がある。

石製露盤はおよそ125×125cmで、径約40cmの心柱孔を穿つ。
孔の周囲は5cm内外の幅で高さも同程度の縁を造り出す。(実測値)
露盤周辺の厚さは見える範囲で約20cmを測る。(おそらく20数cmと思われる。)
2006/09/01撮影:
 上総大寺廃寺石造露盤1
 上総大寺廃寺石造露盤2
 上総大寺廃寺石造露盤3:左図拡大図
 上総大寺廃寺石造露盤4

なお石製露盤の傍らに同一石質と思われる礎石と推定される石が1個残存する。
 ※露盤1写真左にあるのが礎石と思われるも不確実。

○2011/09/04追加:「古代の石造相輪についての一考察」:
白鳳期創建と考えられている。以下図も含め「木更津市菅生第2遺跡-大寺浄水場建設に伴う埋蔵文化財試掘調査報告-」1978 による。
石造露盤は平面正方形で一辺約130cm、中央付近の厚さ約35cm、縁辺部の厚さ約30cmで、中心に約45cmの円形貫通孔を有する。
上面円形貫通孔縁に沿って巾約10cm高さ5cmの突帯を廻らす。
 上総大寺廃寺石製露盤図

 → やや大型で破片しか残存しないが、円孔の周囲に縁を造り出す形式の石製露盤に「和泉海会寺石製露盤」がある。

【07】甲斐国分寺、石製露盤A類: → 甲斐国分寺・・・心礎は実見するも、露盤は失念し未見。 塔跡・心礎を遺す。

2010/06/13追加:
○「日本の木造塔跡」(上掲載)では塔跡に残る心礎のほかに「もう一つの心礎」があるとする。
即ち、
大きさは1.55×1.50m×1.48m×1.30mで、厚さ45cm、中央の孔は40-50cmで貫通する。現在六片に割れている。
この心礎は備後本郷平廃寺と伊予長隆寺(来住廃寺)と誠に良く似ていて他に例のない独特なものである。
この心礎は六片に割れているが、十字形の割れ目は意図的に四片に割ったものらしく、そのため更に割れて六片になったものであろう。
即ち厚みが余りないため、心柱を安定させるための孔を貫通させることになり、それには石を割る方が容易であるとして割ろうとしたか割ったかしたものであろう。しかしこの心礎は六片に割れたままで・・・このままでは心柱を立てるのに不安があり、おそらく放棄されたものではなかろうか。
と云う。
しかし、これは石製露盤の誤認であろう。大きさ、形状(※)、貫通孔などほぼ間違いなく石製露盤であることを示している。
 (※)形状が微妙に正方形でないのは、割れたり端が欠けたりしているためであろう。
甲斐国分寺には大型でしかも柱座や枘孔を加工した心礎が残存している。
そもそも、心柱を貫通させるような構造の心礎を製作するであろうか。さらに、穴を貫通させた心礎を、わざわざ4分割するなど 、心柱の安定を損なうようなことをするであろうか。常識的には考えられないであろう。
 この「遺物」が割れているのは、この「遺物」が露盤であり、塔の何等かの退転の時、塔の最上階から落下した衝撃で割れたか、落下後に割られたかのどちらかであろう。
○「幻の塔を求めて西東」:大きさは約150×150cm、厚さ45cm、径40/50cmの貫通孔、六片に割れる。心礎とする説もある。
○「甲斐国分寺跡・甲斐国分尼寺跡」リーフレット、笛吹市教委 より

甲斐国分寺石製露盤: 左図拡大図
  ※石製露盤の実見を失念し、自前の写真なし。

2016/06/06追加:
「国分寺の研究(上)」角田文衛、考古学研究会、昭和13年(1938) より
甲斐国分寺都塔心礎:石造露盤である。

○2011/09/04追加:「古代の石造相輪についての一考察」:
石造露盤は現本堂の南にある。復元すると一辺約150cmの方形で、厚さは約45cm、径約40cmの円形貫通孔を有する。
 甲斐国分寺石造露盤図

【08】駿河尾羽廃寺、石製露盤B類:静岡市清水区尾羽寺前

駿河尾羽廃寺石造路盤

昭和25年の調査で三間四方の建物が発掘されたと云うので、これが塔跡であろう。心礎は不明(不詳)であるが、石製露盤が残存する。
 (石製露盤は静岡市埋蔵文化財センターに展示)
 ※昭和25年に発見された三間四方の建物とは、昭和25年の調査地点が良く分からず、さらに、文献は未見であるので、その性格は分からない。従って、上述では「塔跡であろう」と述べたが、それは良く分からないので撤回する。(2020/01/29)
 その後、平成10年金堂基壇の一部と思われる遺構が発見され、さらに平成13年金堂基壇北東側の角が確認される。
(現地の現状は住宅地であり、発掘は困難を伴うものと推測される。)
○「平成19年度シンポジウム 天武持統朝の寺院経営・東日本」 より
 駿河尾羽廃寺伽藍配図     尾羽廃寺石製露盤実測図

○転載サイト忘失
 尾羽廃寺石製露盤
 駿河尾羽廃寺金堂基壇
2011/09/04追加:静岡市埋蔵文化財センター展示
 尾羽廃寺石製露盤2:左図拡大図

2020/01/29追加:
下に掲載の「尾羽廃寺跡発掘調査現地説明会資料」2020/01 によれば、石造露盤は現在塔跡と推定されている地点で出土という。
しかし、この推定塔跡で塔跡の遺構が発見されている訳ではないともいう。
 尾羽廃寺石造露盤2     尾羽廃寺石造露盤3
以上は、いずれも静岡市埋蔵文化財センターに展示されているものを撮影したものを他のWebサイトから転載
2020/03/06撮影:
 本露盤は砂岩製のようで、かなり脆い石質と思われる。おそらく落下による衝撃からか、破断する。
また角や縁部もかなり欠けや損傷が目立ち、現在は見た目の整美さを欠く。
 尾羽廃寺石造露盤11     尾羽廃寺石造露盤12     尾羽廃寺石造露盤13     尾羽廃寺石造露盤14
 尾羽廃寺石造露盤15     尾羽廃寺石造露盤16     尾羽廃寺石造露盤17     尾羽廃寺石造露盤18
 尾羽廃寺石造露盤19     尾羽廃寺石造露盤20     尾羽廃寺石造露盤21

【09】近江満願寺廃寺、石製露盤A類

○概要
 
弓削町案内略図
  
弓削観音堂(聖観音)の東に露盤は置かれる。
  観音堂西は弓削神社( 明治維新までは牛頭天王社)、南は牛頭天王が配置される。さらに東に春日明神がある。
  観音堂本尊木造聖観音立像は平安期の作で重文指定と云う。
○滋賀県文化財学習シート(サイト:滋賀県埋蔵文化財センター) より
弓削の観音堂境内に石製露盤及び礎石類を残す。石製露盤の存在から塔の建立が想定されるも、詳細は不詳。出土瓦は白鳳期〜平安期のものとされる。
満願寺とは、集落の南西はずれの小字「万願寺」に因むと云う。「東浅井郡誌」:「大御堂観音ノ古址」:「大御堂観音ノ古址ハ大字弓削ニアリ・・・皇子(聖徳太子)大連(物部守屋)ノ居址ニ據リ伽藍ヲ建立シ自ラ仏像ヲ彫刻シ以テ崇祀シ満願寺ト号ス」とある。
なお近世満願寺跡が観音堂西にある。→弓削町案内略図の下右寄に表示 (弓削農村公園)される。

露盤の大きさは110×112×38cm、貫通円穴の径は凡そ50cm内外と思われる。(実測値)
 (貫通円穴と思われる上に礎石と思われる石が乗り、円穴が貫通はどうかは不明であり、加えてその径の実測も不能)
2008/09/24撮影:
 満願寺廃寺石製露盤1
 満願寺廃寺石製露盤2:左図拡大図
 満願寺廃寺石製露盤3:写真中央に辛うじて「円穴」の縁が見える。
 満願寺廃寺石製露盤4

○「幻の塔を求めて西東」:露盤の大きさは105×105×30cm、径60cm、奈良後期、花崗岩。 
○2011/09/04追加:「古代の石造相輪についての一考察」:
石造露盤は平面正方形で一辺110cm、厚さ30cm、径58cmの円形貫通孔を有する。
 満願寺廃寺石造露盤図

【10】近江花摘寺廃寺、石製露盤B類: → 近江花摘寺廃寺:推定心礎・石造露盤を遺す。

○石造露盤:一辺174cm、縁の厚さ23cm、中央の心柱貫通穴は径66で厚さ41cm。
花崗岩製。
 花摘寺廃寺露盤概要図: おおよその概要を描画。
但し上辺の枡形の採寸を忘れたので、円穴は上辺が小さくなっている可能性がある。また枡形の半分は欠損しているようにも思われるが、これもはっきりとは確認せず。

2004/07/01撮影:
 花摘廃寺石製露盤1
 花摘廃寺石製露盤2:左図拡大図
 花摘廃寺石製露盤3
 花摘廃寺石製露盤4



2015/07/19撮影;
 花摘寺石製露盤11
 花摘寺石製露盤12
 花摘寺石製露盤13:左図拡大図
 花摘寺石製露盤14
 花摘寺石製露盤15
 花摘寺石製露盤16
 花摘寺石製露盤17
 花摘寺石製露盤18
 花摘寺石製露盤19
 花摘寺石製露盤20
 花摘寺石製露盤21
 花摘寺石製露盤22

2007/08/15追加:
「近江の古代寺院」小笠原 好彦/〔ほか〕、近江の古代寺院刊行会、1989<図版篇を含む>より
『栗太志』では「天神祠 祠1宇 境内至テ広シ コノ境内元伽藍ノ跡ナルベシ 其故ハ経塔ノ蓋ノ如キ物アリ、大サ方6尺(1.8m)。又柱石ノ如キモノアリ、長6尺広4尺余(1.8×1,2mほど)、石面穴アリ径リ3尺5寸(1m)、深5寸(15cm)許、其他4尺、或ハ方5尺許ノ石数十境内に落々タリ、又其近辺古瓦多シ・・・」とある。おそらく経塔の蓋の如きものとは石製露盤で、心礎は手水鉢に加工前で、その概要は一重円穴式で、大きさは長6尺広4尺余(1.8×1,2mほど)で、径3尺5寸(1m)、深5寸(15cm)許の円穴を持っていた心礎と思われる。伽藍配置などは主要部が未発掘のため不明、出土瓦は白鳳期・奈良期・平安期のものが出土と云う。
○2011/09/04追加:「古代の石造相輪についての一考察」:
石造露盤は戴頭四角錐体形で花崗岩製である。一辺175cm、縁の厚さ24cm、上部中央に一辺67cmの方形造り出しがあり、この四隅から降り棟が造り出される。中央部の厚さは42cm、上面の傾斜面はやや内反する。中心に上径48cm下径67cmの円形貫通孔を有する。
上部の四辺隅から下辺隅に向かって細く一段高い稜線が走っている。表面は丁寧な仕上げがなされるも、下面は仕上げを欠き粗いままである。
 花摘寺廃寺石造露盤図:「花摘寺跡調査報告」西田弘ほか、1970
2013810/26追加:
○「草津市下物 花摘寺遺跡」辻広志・丸山竜平(「昭和53年度滋賀県文化財調査年報」滋賀県教育委員会、1980 所収)より
 花摘廃寺石造品略測図:推定心礎、石製露盤、礎石5点の略測図がある。
2015/07/29追加:
○「近江栗太郡志 巻5」滋賀県近江栗太郡編、昭和元年(1926) より
第11章 常盤村>花摘寺趾 では以下のように述べる。
 花摘寺趾は常盤村大字下物(おろしも)に在り、・・村の東南隅小字君か門(一者寺前)に氏神天満宮あり、古は天神と称す、其境内に接続して古寺趾あり、今樹竹の叢林となる、
其地に礎石古の儘に点在し、又方六尺の大石中央に径一尺余の穴を穿ちしものあり之塔の心柱なり、
各所に布目瓦散乱し丸瓦の瓦当には十六分弁の蓮華紋を表し、外郭に斜格文帯を周らす天平時代に近きものなり、
又土中より青色赤色白色の絵具様のもの出づ
奈良朝の盛時に建立せし古刹なるべし、然れども寺名詳らかならず里人は花摘寺の名を伝す、
栗太志の編者田中貞昭が文化中実見の状を志中に記す、左の如し
 下物村 川越侯封内 村嵩761石7斗零九合
 天神祠 祠一宇   境内至テ広シ
 此神何ノ神ヲ斎祀リタルヤ知ル人ナシ、コノ境内元伽藍ノ趾ナルベシ、
 其故ハ経塔ノ蓋ノ如キ物アリ、大サ方六尺、又柱石ノ如キモノアリ、長六尺廣四尺餘、石面穴アリ径リ三尺五寸、深サ五寸許、
 其他方四尺、或ハ方五尺許の石数十境内ニ落々タリ、・・・・
※要するに、上に掲載の「近江の古代寺院」にいう「栗太志」とは、「近江栗太郡志 巻5」に引用されるそれをいわば種本にしたものと推定される。既に江戸後期の文化年中に、「経塔の蓋の如きもの」という描写で、石製露盤の存在が確認できる。

【11】近江狛坂寺跡(史蹟)、石製露盤A類: → 近江狛坂寺跡:金勝山山中に伽藍跡及び石造露盤を遺す。

2009/10/16追加:
石製露盤があり、何らかの塔婆があったと思われるも不詳。(寡聞にして狛坂寺塔婆の絵図・記録類は全く耳にせず。)
 ※金勝寺四至絵図には金勝寺に三重塔が描かれるも、この金勝寺三重塔の露盤が運ばれた可能性は殆ど無いと思われる。
なぜならば、金勝寺から狛坂寺への道はかなり長距離であり、加えて山路は嶮しく、物理的に困難を極めるであろうと思われるからである。

○「幻の塔を求めて西東」:
石製露盤の大きさは76×76×厚さ33cm、径36cmの貫通孔がある、奈良後期。磨崖仏(三尊仏)の前にある。
 (実測値は78×78cm、貫通孔径はおよそ34cm)
大きさについては現在知られる石製露盤中、最も小さい一辺であろう。石製露盤の一辺は現存するもので見れば、1m前後〜1m50cm超の範囲が標準であろう。
・狛坂寺跡露盤写真
  ◎狛坂寺跡露盤:左記の露盤写真の掲載がある。写真は高井悌三郎氏提供と云う。
    写真は小さく不鮮明ながら、これによると、露盤はほぼ完形(原型)を保つ。(現状露盤は2分割の状態である。・・・下記の写真)
○2009/10/10撮影:

狛坂寺跡石製露盤



狛坂寺跡石製露盤1
  同        2
  同        3:左図拡大図
  同        4
  同        5
  同        6
上記のように、平成元年刊行「幻の塔を求めて西東」には完形の露盤写真(高井悌三郎氏提供)の掲載がある。何時2分割されたかは不明であるが、そんなに昔のことではないであろう。
2分割されたのは人為なのか自然力なのかも不明。狛坂寺東方は急峻な崖であり、ここを通る参道は降雨時には水路と化す地形である。
参道(現山道)は下掲「狛坂寺境内概要図2」の点線で 示されるが、降雨時にはかなりの水が山道を流れるものと推定され、石製露盤はこの水流で落下し割れた可能性はあるとも思われる。(石製露盤は磨崖仏下にある)

○2011/09/04追加:「古代の石造相輪についての一考察」:
 狛坂寺跡石造露盤図

【12】近江西方寺所在推定露盤、石製露盤A類と推定される: → 第3次近江国分寺(国昌寺廃寺)

第3次近江国分寺(国昌寺廃寺)推定石造露盤

一辺は92cmと推定・厚さ12cm。現状は半裁され、92×49cmの大きさの部分が残る。貫通孔は径38cmを測る。
 ※現状推定露盤は半裁された一片のみの残存であり、かつ土中に埋まり、かなり磨耗している。そのため露盤であるとの確証は得られない。
この石は靴脱石として利用されていたと云い、そのため磨耗したとも考えられる。
さらに火災の為か、かなり損傷も見られる。
2005/03/13撮影:
 石製露盤1       石製露盤2
 ※第一印象は露盤である、また、大きさやその形状から石製露盤であることはほぼ間違いないであろうと思われる。
 



2015/05/09撮影:
大きさは長辺92cm/短辺48cm/厚さ約18cm、貫通孔の径は39cm
 ※今般、前回の厚さの測寸12cmは不確実であるので、厚さを実測する。
 その方法は長辺の外側に接してシャベルで小孔を掘り、
 土を取り除き厚さを測寸する。(およそ18cmの厚さを測る。)
 ※露盤については小型の部類であろう。特に厚さ18cmについては、いくらかの摩耗があるとしても、薄い部類である。
 さて、この露盤についての伝承は一切ないが、常識的には礎石のいくらかが国昌寺跡から運ばれたと同じように、国昌寺から運ばれたと推測するのが、最も 自然であろう。
 石製露盤11
 石製露盤12:左図拡大図
 石製露盤13
 石製露盤14
 石製露盤15
 石製露盤16
 石製露盤17
 石製露盤18
 石製露盤19
円孔の縁は、殆ど摩耗しているが、幅2cm高さ1cm程度突き出ていたものと推定される。おそらく雨水の始末のための「返し」であろう。

【13】大和山村廃寺(ドドコロ廃寺)、石製露盤推定C類: → 大和山村廃寺・・・未見

◆石製露盤:大和法隆寺本坊庭園に手水鉢に転用されてある。(岸熊吉氏の探求による)
2007/01/14追加:
○「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年より:
円照寺東3丁余にドドコロ池があり、その池の西岸に遺跡を存する。遺跡は塔・金堂・円堂址の土壇を松林中に存し、礎石は金堂址に2個がありそれ以外は、抜取穴を存するばかりである。
大正15年奈良の骨董商から鑑定を求められた石製製品を岸熊吉は石製九輪ではないかと直感し、その出土地を求め、この寺跡を発見する。
この遺跡の発掘により、多くの遺物を発掘し、その中から8個分の九輪を明らかにした。そして金銅渡金の宝鐸2個・舌1個を発見する。
更に岸熊吉は法隆寺寺務所手水鉢がこの塔の露盤であることも突きとめる。
露盤は凝灰岩製で一辺3尺1寸(94cm)高さ1尺7寸(51.5cm)を測る。
その後も氏の努力は続き、心礎の転出先を極め、心礎は径2尺3寸8分(72cm)×6分(2cm)の柱座と径1尺4寸2分(43cm)×6寸5分(20cm)の円孔があることも発表し、発掘によって塔基壇は瓦積み基壇であることを明らかにした。
出土品は円照寺に一括して保管する。(大和国帯解山村廃寺出土品−重文、奈良国立博物館寄託)
  山村廃寺露盤(法隆寺)
  ※法隆寺寺務所手水鉢の出所については大和法輪寺説もあると云う。
2011/09/04追加:
○「古代の石造相輪についての一考察」:
塔基壇の一辺は約8.5m、基壇化粧は塼に近い形状の瓦積である。この塔阯の北辺から石造相輪(凝灰岩製、平頭、擦管、宝論など)が出土する。
 石造露盤:大和法隆寺本坊庭園に、天地逆に据えられ、貫通円孔に漆喰の底を入れた手水鉢があり、これが石造露盤である。
この石造露盤は明治20年頃法隆寺が買い入れたものと云う。(岸熊吉の聞き取り)
岸熊吉は山村廃寺出土の石造相輪との岩質や大きさの比較で、この露盤は山村廃寺から搬出されたと考えるのが妥当とする。
露盤は平面正方形で一辺93cm、厚さ52cm、胴部がくびれ、上部は上開きの2段造とし、中心に上径43cm下径50cmの円形貫通孔を持つ。
 山村廃寺石造露盤図
2011/10/09追加:
○「ドドコロ廃寺石造相輪等調査」岸熊吉(「奈良県史蹟名勝天然記念物調査会報告書  VOL: 10」昭和3年 所収) より
 石造露盤は現に法隆寺寺務所の庭園手水鉢となっている遺物に間違いはないであろう。
その来歴は法隆寺寺中/善住院現住佐伯寛應氏(745歳)の談によれば、元善住院にあったが、三代住職還俗の折、東院伽藍前大黒屋が買いうけ、更に明治20年頃法隆寺に転売されたもので、善住院に来る前の来歴は全く不明と云う。
以上であるが、その材質が山村廃寺出土の石造遺物と同一でありまた大きさも山村廃寺出土遺物と釣り合うから、山村廃寺塔相輪の一部を構成したいたものと判断しても宜しかろうと思われる。

手水鉢代用石造露盤:法隆寺本坊庭園;左図拡大図
石造露盤実測図

 ※善住院は東大門を東に進むと東院伽藍に至るが、その伽藍の四脚門の手前の南側にある。善住院の北側は福生院である。
また善住院の西隣は寺中跡であるが、この寺中跡に大和富貴寺塔初重が移建されている。

2013/04/19追加:
○「いかるがの里」岩波写真文庫17、昭和25年 より
 推定塔露盤転用手水鉢
塔頭西園院(本坊・寺務所)客殿の庭先には、「塔の露盤に使ったと見える石で手水鉢が作られている。」とある。
この時点(昭和25年)には石製露盤の転用との認識はあるが、どの寺院の塔の露盤であるかの言及はない。
2016/08/31追加:
○「法隆寺の至宝2 東院伽藍・子院・石像品 第2巻 東院伽藍・子院・石造品」法隆寺昭和資財帳編集委員会、1996 より
 西院客殿東手水鉢
「52cm(厚さであろう)、伝ドドコロ廃寺出土石造露盤」とある。
52cmとは厚さであろう。石造露盤の天地を逆にして置かれる。しかし、手水鉢に転用卯とは奇妙な話であり、路盤であれば中央の穴は貫通している訳であり、もし本当に手水鉢として使用したのであれば、底からの水漏れはどのようにして防止したのであろうか。
なお、断面形としては、現在知られている石造露盤の内、唯一の「C類」に分類される露盤である。

【14】大和定林寺(立部寺)、石製露盤A類: → 大和定林寺・・・ 露盤は未見( なお心礎は地下にあり見ることができない。)

○「飛鳥時代寺院址の研究」石田茂作:
石製露盤の残片と思われる礎石が高市村脇本英雄氏の庭にある。
円形刳り込みの一部と見られるが、復元すると、一辺4尺5寸(136cm)の方形切石で、四周に巾2寸(6cm)高さ3分(約1cm)の縁を持ち、中央に径2尺8寸 (84cm)高さ3分の円形穴を持つものと推定される。
 推定立部寺心礎残欠実測図: 露盤であるが、昭和28年に地下式心礎が発掘されるまで、心礎と誤認される。
○「奈良県史蹟勝地調査会報告書 第3回」奈良県史蹟勝地調査会
 定林寺塔心柱礎の一部: 大きさなど少し違うが、上記のものと同一のものであろう。心礎と誤認されていたが、露盤である。
2013/10/26追加:2013/11/23修正:
○「定林寺石造露盤の調査」大脇潔(「奈良国立文化財研究所年報 1984」奈良国立文化財研究所、1984 所収) より
 石造露盤実測図
昭和59年庫裏改築に伴う発掘調査を実施。この時庫裏の沓脱石として使用されている石と脇本政之氏宅所在の石造露盤断片をあわせて調査する。その結果、両者が接合し、露盤の約1/2を留めていることが判明する。
 沓脱石はこれまで塔上成基壇の一部とされてきたが、埋没部に円孔の一部を残し、露盤であると判明する。また脇本氏宅の断片とも接合し、旧形をほぼ復元することが可能である。
露盤は一辺126cm、中央部の最大厚38.4cmを測り、流紋岩質熔結凝灰岩(竜山石)である。中央に貫通孔があり、円孔の上面径42.6cm、下面径46.4cmで、上面・下面とも円孔の周囲に巾約16cm高さ0.7cmの低い突帯をめぐらせ、下面四周に巾約7cm高さ約1cmの突帯を廻らす。上面はほぼ平坦であるが僅かに水垂勾配があり、下面四周の突帯は露盤受上に固定する装置と考えられる。
なを、上面の円孔周囲の突帯は、その外径からみて伏鉢の下端を固定するのに相応しいが、下面に同様の突帯を設ける理由は不明である。
その他参考項目:
1)「最近、法輪寺三重塔所用であったことを示す史料が発見された法隆寺西園院所在の例・・・」、「石造露盤は法輪寺例のように上部に框を設ける形式」との文言があるが、法隆寺西園院所在の框を設ける石造露盤は山村廃寺の露盤とされるものであろう。
「法輪寺三重塔所用であったことを示す史料」とは具体的にどの史料なのかは不明。
2)石造露盤の分類:以下の3つに分類できる。
即ち、上部に框を設ける形式、円孔の周囲に突帯を廻らす形式、円孔のみを有する形式である。
3)「この石造露盤は、欠失部を竜山石に似た長石(おさいし/加古川産出)で補い、旧状に復原して飛鳥資料館に展示する予定である。」
これに関しては、復原・展示の確認が取れていない状態であるので、復原されたかどうかは分からない。
復原及び展示に関して、飛鳥資料館に問い合わせるも「現在展示はしていない。」との回答であるので、おそらく復原はされなかった可能性が高いものと思われる。
○2017/03/09現地再訪
定林寺は留守のようで、従って庫裡の沓脱石の所在などは確認できず、未見、また脇本氏邸なども確認できず、未見のまま。

【15】大和香塔寺露盤(推定尼寺廃寺露盤)、石製露盤A類と推定される; → 大和尼寺廃寺 ・・・香塔寺の境内は立入ができず、未見。

香塔寺は尼寺北廃寺(北遺跡)の西にある。
尼寺廃寺のものと思われる露盤及び礎石が境内墓地で石碑に転用されていると云う。
「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑が礎石の転用で露盤はその台石になっている。
露盤(花崗岩製)は一辺約1,2m・厚さ約30cmで、中央には径約60cmの穴が貫通していると思われるも、台石のため確認不可と云う。
推定礎石は1.5×1.2×0.5mで径90cmの円形柱座がある。
これに関連して、尼寺(北廃寺)塔跡では4個の礎石が亡失しているが、この礎石の材質は尼寺塔跡礎石と同一という。
なお香塔寺は天保11年(1840)に再興されたといわれ、この頃、北廃寺塔礎石が持ち込まれたと推定される。

現状、香塔寺に案内を請うも「当寺は見学を受け付けてはいない」との返答で、門前払いを喰らう。
周囲の様子を窺うも、門以外から境内地に入ることは困難と思われる。
以上のような事情で、露盤及び礎石は実見不可。

【16】和泉海会寺跡、石製露盤A類と推定される; → 和泉海会寺跡/石製露盤に銅製露盤を組み合わせた事例である。

2011/08/31追加:
海会寺出土相輪:銅製と石製を組み合わせた露盤(破片)が出土と云う。
 銅製露盤(破片)は復元一辺1.5m、厚さ2cm。
 石製露盤(破片)は復元一辺は同じく1.5m、厚さ40cm、二上山産凝灰岩製。
 石製露盤の上に銅製露盤を載せた組み合わせ露盤で、現在のところ類例がない。
以上のほか、相輪風鐸・水煙・九輪など(銅製品)の破片も出土、その他の出土した出土瓦/塼類、塼仏残欠、仏像残欠、土器残欠などを合わせた302点は重文に指定され、隣接する古代史博物館に収蔵・展示される。
2015/03/17撮影:
○石製露盤及び組合せ銅板
 崩落した塔の瓦の下から、粉々の破片になった青銅の板と石材が発見される。
石材からは一辺1.5m、厚さ40cmで中心に円孔の開いた部材が復元される。(残念ながら、円孔の径の情報はなく、不明)
一方銅板からもほぼ同じ大きさの板が復元される。
石材の穴は周囲が巾7cmほど突き出し、これが青銅の板にすっぽりと嵌るものであった。
つまり石材と青銅の板は組み合うもので、その大きさ及び形は塔の露盤しかない。
しかも銅板と石造露盤を組み合わせたもので、これは日本で唯一のものである。
なお石材は二上山どんづる峯で産出されたものである。

 露盤の構造:古代史博物館展示
 石製露盤覆銅板1:左図拡大図
 石製露盤覆銅板3
 石製露盤石材破片1
 石製露盤石材破片2
 石製露盤石材破片3
 石製露盤石材破片4

パンフレット「海会寺出土品」泉南市教育委員会 より
 凝灰岩製露盤

残念ながら、古代史博物館に展示される石造露盤の破片は僅か3個のみであり、従ってそのイメージをはっきりと描くことはできない。
しかしながら、よく似た石製露盤が存在する。それは上に掲載の「【06】上総大寺廃寺」石造露盤である。
大きさは、海会寺の塔が平均的な古代寺院の塔よりかなり大きいので、上総大寺廃寺石製露盤より一回(平面・厚さともに)大きいが、形状は似ていると思われる。
特に心柱を貫通させる円孔の周囲に「5cm内外の幅で高さも同程度の縁を造り出す」形状は、現在知られている石製露盤では、海会寺と大寺廃寺のみであろう。(海会寺の円孔周囲の縁は幅7cmという。)

【17】丹波伝知足寺石製露盤(在丹波大賣神社石製露盤)、石製露盤A類

大賣神社境内に石製露盤が残る。
大きさは110×110cmの方形で、厚さは40〜41cm、中央に上部の径36〜37cmの貫通円穴を穿つ。
笹山市教委では鳥居袴石もしくは心礎との見解を採るが、正方形の形状であること、中央に貫通円穴を穿つこと、やや磨耗してはいるが上面の四辺の角を丸め露盤らしき形状に整形した形跡が見られること、真偽は不明ながら寺院のものであると伝える (下掲)ことなどから見て、鳥居の台石や心礎ではなく、石製露盤であろう。
法量についても他の現存する石製露盤の法量の分布に問題なく当てはまる法量であり、この点からも石製露盤とすることに矛盾はない。
なお、篠山教委は「丹波志」を根拠に知足寺のものとの伝承があるとする(下掲)ので、名称は「伝知足寺石製露盤」とするのが適切であろう。
○笹山市教委のサイト>篠山市の文化財>市指定文化財>大売神社礎石には写真と以下の解説がある。
「『丹波志』(江戸期の篠山藩領地誌)によれば、往古知足谷から三岳へ登る中腹に、知足寺という寺院があり、そこにあった鳥居の袴石または宝塔の真柱の礎石を当地へ移したものと云う。
縦115cm、横110cm、高さ40cm、中央に直径35cmの穴が底まで貫通して穿ってある。
大賣(おおうるめ)神社所在。」
※袴石とは台石・亀腹・根巻のことであろう。
○大賣神社(近世の社名称の情報なし)は延喜式内社というも確証があるわけではないであろう。中世八上城主波多野秀治は大般若経350巻を書写、奉納と云う。明治維新後は国家神道のお決まりのコースを歩む。
なお室町期のものと推定される石造狛犬が残る。
また元の拝殿が小社として残るが、これは多紀三嶽(御嶽)に在った修験道場「鳥の堂」遺構という。
○2010/11/07撮影:

 丹波伝知足寺石製露盤1
 丹波伝知足寺石製露盤2:左図拡大図
 丹波伝知足寺石製露盤3
 丹波伝知足寺石製露盤4
 丹波伝知足寺石製露盤5
 丹波伝知足寺石製露盤6
 丹波伝知足寺石製露盤7

【不明】播磨吸谷廃寺推定石製露盤、露盤であればA類か: → 播磨吹谷廃寺:心礎及び石造露盤と推定される台石を遺す。

2011/09/04追加:
○「古代の石造相輪についての一考察」より:
「兵庫県加西市慈眼寺の石塔の台座に使われている石造品も露盤の可能性が指摘(注)されているが、中央貫通孔が現状では確認できないため、保留する。」
 (注)「吸谷廃寺」(「東播磨古代瓦聚成」井内古文化研究室、1990 所収)
2011/09/04追加:
慈眼寺石塔とは吸谷廃寺弘安6年銘五重石塔と推測される。
以上の推測が正しいものとして、五重石塔(高さ168cm)は相輪は欠くが、広い「台石」の上に、弘安6年銘のある台座(54×高さ33cm)を置き、その上に五重石塔を建てる構造である。
そして、上記の露盤の可能性の高い石造品とは、一番下の「台石」のことと推測される。この「台石」は現在一隅を含んで1/4が割れているが、元々は一枚の台石であったと思われる。その証拠にその割れ目はきちっと符合する。
さらに「台石」の大きさを写真で判断すれば、凡そ次のように判断される。大きさは一辺約120cm(注1)、厚さは約24cm(注2)であろうと。
 (注1)五重石塔台座の一辺は54cm高さ33cmで、台石は台座の凡そ2.2倍の一辺と思われる。従って台石の一辺は凡そ120cmとなる。
 (注2)台石の厚さは一辺の約1/5と思われ、従って台石の厚さは凡そ24cmほどと推測できる。
勿論、貫通孔の有無が確認できないのが致命的であるが、平面正方形と思われる一枚石であり、その一辺は推定120cm(厚さは若干薄いきらいはある)であること、その断面は長方形であることから、石製露盤である可能性は高いであろうと思われる。
○2011/05/19撮影:

但し、次の写真は石造露盤と意識して撮影した写真ではない。
他の被写体の撮影画像に偶々写っていたものである。
 吸谷廃寺推定石造露盤1
 吸谷廃寺推定石造露盤2
 吸谷廃寺推定石造露盤3
 吸谷廃寺推定石造露盤4:左図拡大図
 参考:弘安6年銘石製五重塔

○2011/10/09追加:
「吸谷廃寺」(「東播磨古代瓦聚成」井内古文化研究室、1990 所収)
弘安6年在銘の石造五重塔は一辺が約120cmの正方形を呈し、周辺部の厚みが約20cmを測る。材質も凝灰岩製の石塔とは異なり、礎石と同じ石英粗面岩質であるので、元来は石塔とは関係ないものだったのであろう。あるいは塔の石造露盤を転用しているのかも知れない。
 吸谷廃寺推定石造露盤0:2012/02/10追加

【18】播磨中西廃寺、石製露盤A類:→播磨中西廃寺:心礎・石造露盤等を遺す。

播磨中西廃寺石造路盤
○「古代寺院よりみた播磨」より転載:中西廃寺心礎露盤刹
○石造露盤と刹は「石井(いわい)の清水」(弘法大師伝説を持つ)の井戸枠に転用される。

○「印南郡史」:
露盤は「三方三尺許りの石に直径一尺三寸の穴を穿ちて、井の上に置けり。云々
2004/09/18撮影:
露盤は一辺97cm、内径上部45cm、下部49cm、高さ65cm。
刹管は外径46cm、内径30cm、高さ65cmで井の中にある。
凝灰岩(竜山石)製。
 播磨中西廃寺露盤・刹管1
 播磨中西廃寺露盤・刹管2:左図拡大図
 播磨中西廃寺露盤・刹管3
 播磨中西廃寺露盤・刹管4

2010/08/12追加:
○「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
石製露盤、石製刹管が残る。
  播磨中西廃寺露盤・刹管     露盤・刹・請花実測図
2011/09/04追加:
○「古代の石造相輪についての一考察」:
石造請花については、塔の請花(鎌谷木三次)ではなく、八角円堂屋根の宝蓋とする説(藤沢一夫)がある。
 中西廃寺石造露盤図     中西廃寺石造擦管図     中西廃寺石造請花図
2016/06/02撮影:
湧き水は石井の清水以外にもかっては存在し、地元民は利用していたという。何時しか生活環境の変化で使われなくなったという。それと1995年の阪神淡路大震災で湧出量は減少したのではないかとも思われるとのことである。
 石井の清水
 中西廃寺露盤11     中西廃寺露盤12     中西廃寺露盤13     中西廃寺露盤14
 中西廃寺露盤15     中西廃寺露盤16
 中西廃寺刹菅11     中西廃寺刹菅12     中西廃寺刹菅13     中西廃寺刹菅14
 中西廃寺刹菅15     中西廃寺刹菅16     中西廃寺刹菅17

播磨中西廃寺心礎
▲「古代寺院からみた播磨」:薬師堂境内に心礎および複数の礎石を残す。出土瓦から創建は7世紀末で、平安期まで存続したとされる。
心礎は(「日本の木造塔跡」) 2.2m×1.85mの丸い石に、径76cm・深さ26cmの孔を持つ。さらに孔周囲に径88cmの環状排水溝を廻らせ、孔から環状孔に6本の連絡溝と外への1本の排水溝を持つ。
 中西廃寺心礎図(「古代寺院からみた播磨」から加工)▲
△「古代洲聚落の形成と発展過程」;心礎1、円形造出側柱礎5を残存、伝慶明寺跡△
○環状排水溝は巾4〜5cm深さ1,5cm。
薬師堂の境内には数個の礎石が残存する。寺跡は南に降るなだらかな丘上にある。
2004/09/18撮影:
 播磨中西廃寺薬師堂
 中西廃寺心礎1     中西廃寺心礎2     中西廃寺心礎3     中西廃寺心礎4     中西廃寺礎石
2010/08/12追加:
○「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
心礎以外の礎石7個を残す。この礎石は径54〜58cm高さ約3cmの円形造り出しを持つ。
なお石製請花(残欠)が出土し、石製路盤、石製刹管が残る。
石製請花残欠は八葉の花弁形に作られた請花の残欠であろう。復元すると高さは約30cm、底面には径約40cmの円形造出があり、その中央には径約29cmの円孔孔(刹孔)が開き、口縁部は内径約122cmの八角形になっていると推定される。
出土瓦から平安期まで存続したと推測されるが、その後の興替に関しては知る由もないが、「播磨鑑」の印南郡法性山常楽寺の条に
「兼帯地 神吉庄中西村高野山慶妙寺 境内除地 往古巨刹・・・今者唯其礎石移屯於一所、又纔構薬師堂一宇以示其跡爾・・・」とあり常楽寺兼帯として慶妙寺(開山上人が同一)があり、今は纔かに薬師堂一宇となる様が記述される。
 播磨中西廃寺薬師堂遠謀     中西廃寺心礎     中西廃寺心礎実測図
 中西廃寺請花残欠         露盤・刹・請花実測図
2016/06/02撮影:
 中西廃寺心礎41     中西廃寺心礎42     中西廃寺心礎43     中西廃寺心礎44     中西廃寺心礎45
 中西廃寺心礎46     中西廃寺心礎47     中西廃寺心礎48     中西廃寺心礎49
薬師堂は近隣住民が輪番で清掃・供花・読経を行い、祭祀を欠かさない。
 中西廃寺薬師堂2     薬師堂内部     薬師堂薬師如来坐像
 中西廃寺礎石11     中西廃寺礎石12     中西廃寺礎石13     中西廃寺礎石14     中西廃寺礎石15
○2011/09/04追加:「古代の石造相輪についての一考察」:
石造請花については、塔の請花(鎌谷木三次)ではなく、八角円堂屋根の宝蓋とする説(藤沢一夫)がある。
 中西廃寺石造請花図

【19】播磨中井廃寺、石製露盤B類: 心礎も現存する。

心礎及び石製露盤を遺す。心礎及び石製露盤は中井廃寺跡土壇に建つ観音堂西隣の山村氏邸にある。
○2006/04/29撮影:
 中井廃寺心礎/露盤1     中井廃寺心礎/露盤2     中井廃寺心礎/露盤3     中井廃寺心礎/露盤4
○「古代寺院よりみた播磨」より転載:
 中井廃寺礎石・心礎・露盤
2010/09/06追加:
○「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
 中井の観音堂付近は俗に本流山本覚寺の跡と伝える。付近は殆ど宅地となるも、観音堂付近は堂宇跡の佇まいを残す。
塔心礎は観音堂西隣の山村千代治氏邸にあるも、元は同氏邸の門先にあったと云う。この付近では古瓦破片の埋没を見、さらに石製露盤の出土も伝えられる。
塔心礎の大きさは185×130×100cm、円柱孔は30×21cm。(この法量は「幻の塔を求めて西東」に転載されると思われる。)
塔露盤は一辺約148cm、周縁部の厚さ約約24cmで上面に擬せられる面は隆起し、中央に径37cm深さ30.5cmの円形孔が貫通する。
孔縁には幅6cm高さ1.5cmの突起帯が廻る。
 中井廃寺心礎実測図     中井廃寺塔露盤実測図     中井観音堂現況
○2013/12/22撮影:
 現在山村氏邸は母屋新築工事の取っ掛かりであり、今は母屋の基礎の杭打ちに取り掛かる状態である。そのため母屋・門・築地塀が取り壊され、邸内の石造露盤や心礎のある庭と東側にある別棟だけが残る状態である。
 このことは、露盤・礎石の見学にとっては幸運であり、特に築地塀・門が取り払われているため、路盤の全体を見学することが可能である。
 なを、心礎や他の庭石は旧状のまま残されていると思われるが、露盤はおそらく築地塀の撤去にあたり、位置が変更されていると思われる。
即ち築地塀撤去前は心礎の南側に上面を北向きにして、立てて置かれていたが、今は心礎の東側に上面を東向きにして立てて置かれている状態である。つまり露盤は旧前の位置からおよそ90度時計回りに回転させたような状態となっている。
母屋は新築 されるということであるが、築地塀については復原されるのかなんらかの塀が造作されるのかは不明である。ともかく塀が再建されたときに、路盤は今の位置のままなのか、それとも旧の位置に復するのか、それともまた別の位置に移動するのかは不明である。
まさか邸内から消えるということは無いと思われるが、決してそのようなことのないように願うばかりである。
 中井廃寺心礎/露盤11     中井廃寺心礎/露盤12     中井廃寺心礎/露盤13     中井廃寺心礎/露盤14

播磨中井廃寺石造路盤

露盤は上面を北向きにして、立てて置かれる。
露盤実測値:
一辺145cm、周辺の厚さ25cm、中心の孔は径37cm、厚さ32cm、
中心孔の周囲には幅約6cm高さ1cm弱の「出」を造る。

2006/04/29撮影:
 中井廃寺露盤1:左図拡大図
 中井廃寺露盤2
 中井廃寺露盤3
 中井廃寺露盤4
 中井廃寺露盤5

 

2010/09/06追加:
○「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
塔露盤は一辺約148cm、周縁部の厚さ約約24cmで上面に擬せられる面は隆起し、中央に径37cm深さ30.5cmの円形孔が貫通する。
孔縁には幅6cm高さ1.5cmの突起帯が廻る。
 中井廃寺塔露盤実測図
2011/09/04追加:
○「古代の石造相輪についての一考察」:
石造露盤は戴頭四角錐台形を呈する。
○2013/12/22撮影:

大きさは150×150cm、縁部の厚さ24cm、貫通孔の径38cm厚さ32cmを測る。(実測値)
 中井廃寺露盤11:左図拡大図、この面が上部である。
 中井廃寺露盤12
 中井廃寺露盤13
 中井廃寺露盤14:上記写真(13)を90度左回転させ水平にしたもの
 中井廃寺露盤15
 中井廃寺露盤16
 中井廃寺露盤17
 中井廃寺露盤18
 中井廃寺露盤19
 中井廃寺露盤20
 中井廃寺露盤21

播磨中井廃寺心礎
▲村落内民家の庭に心礎が残る。観音堂にも円柱座を持つ礎石1個が遺存する。出土瓦から7世紀末〜9世紀に存在した寺院と推測。▲
心礎は以前は観音堂前にあったという。山村氏の談では今の位置のやや東(山村邸の門の西)にあったという。
○「日本の木造塔跡」:山村氏邸に心礎はある。1.5×1.24×1mで径32×20cmの孔を穿つ。
○「幻の塔を求めて西東」:
心礎の大きさは185×130×100cm、円柱孔は30×21cm。(この法量は「播磨上代寺院阯の研究」から転載であろう)
○2006/04/29撮影:
 中井廃寺心礎1     中井廃寺心礎2    中井廃寺心礎3     中井廃寺心礎4     中井廃寺心礎5    中井廃寺心礎6
 中井廃寺礎石:在中井観音堂
○2013/12/22撮影:
心礎の大きさは150×130cm高さ95cm、径30cm深さ21cmの円孔を有する。
 中井廃寺心礎11     中井廃寺心礎12     中井廃寺心礎13     中井廃寺心礎14     中井廃寺心礎15
 中井廃寺心礎16     中井廃寺心礎17
 中井廃寺観音堂      中井廃寺礎石:在観音堂土壇上

【20】備後本郷平廃寺、石製露盤A類: → 備後本郷平廃寺:心礎(埋め戻され実見できない)が遺る。

○2011/09/04追加:「古代の石造相輪についての一考察」平成6年(1994):
石造露盤は塔阯の上にある観音堂々内に荒神石の台石として転用される。
石造露盤は花崗岩製、平面正方形で、一辺約140cm、厚さ約45cmである。中心に径40cmの円形貫通孔を有する。孔の縁は緩やかな曲線を持つように加工され、外側に一重のアサイ線状の窪みがめぐるように見える。
 本郷平廃寺石造露盤図
○2011/08/02追加:2011/10/09修正:
「本郷平廃寺」、潮見浩、御調郡御調町教育委員会、平成元年(1989) より
遊離した礎石群:
石製露盤:荒神の台石に転用、花崗岩製、大きさは一辺約1,4m厚さ約35cmで中央に径約40cmの貫通孔がある。孔の縁は緩やかな曲面をもつように加工される。また外側には一重の浅い線状の窪みがめぐっているように見える。(実測図の3)
 本郷平廃寺石製露盤     本郷平廃寺礎石実測図
○2011/12/10撮影:
石製露盤は石碑の台石であり、現状ではその孔の貫通を視認することはできない。
 本郷平廃寺跡小宇
 本郷平廃寺荒神社石碑
 本郷平廃寺石製露盤1
 本郷平廃寺石製露盤2
 本郷平廃寺石製露盤3
 本郷平廃寺石製露盤4
 本郷平廃寺石製露盤5:左図拡大図
 本郷平廃寺石製露盤6
 本郷平廃寺石製露盤7
 本郷平廃寺石製露盤8
 本郷平廃寺石製露盤9

【21】伊予来住廃寺、石製露盤A類

2011/07/24追加・修正:
○昭和52年および53年の発掘調査で、講堂<基壇:東西28.8m×南北18m>、塔、僧房、廻廊跡などを検出し、来住廃寺は7世紀中葉以降に創建された法隆寺式伽藍と判明する。
塔跡が現存し、塔土壇の大きさは一辺9.75m・高さ1.5mといい、塔の一辺は5.82mと云う。
塔跡には石製露盤と四天柱礎2・側柱礎4の礎石が残存する。
露盤は一辺約1.6mの方形で、円形の貫通孔を持つが、現在は2つに割れている。貫通孔径は42-44cm、高さは53-54cm。
さらに孔の周辺に径79cmの「伏鉢座」を造り出す。
なお割れ目に直角に2本の溝を穿つが、それが当初のものであるとしても後世のものとしても、この用途は不明である。
2002/12/28撮影:

 伊予来住廃寺露盤1
 伊予来住廃寺露盤2
 伊予来住廃寺露盤3
 伊予来住廃寺露盤4:左図拡大図
 伊予来住廃寺露盤5
 伊予来住廃寺露盤6
 伊予来住廃寺露盤7

○新たに昭和62年から行われている史跡周辺地域での発掘調査で一町四方規模の回廊状遺構で区画された建築群の存在が発見され、来住廃寺の創建に先行する大規模な遺構群が存在していたことが明らかとなってきていると云う。
○講堂跡に建っていた長隆寺は現地の南方に移転し、塔跡周辺はほぼ更地となり、発掘調査が継続されていると思われる。
興福山長隆寺:行基の開基と云い、天和3年(1683)、中国の僧獨湛(黄檗宗万福寺第四世)が伊予へ来たとき長隆寺を黄檗宗の寺として中興したものとされる。

※本石造露盤を塔心礎とする見解について
 本石造露盤について、「日本の木造塔跡」「幻の塔を求めて西東」とも塔心礎とする。(文化庁などでは露盤とする。)
しかしながら、その形状、大きさ(露盤であれば大型の露盤と云える)、貫通孔などから露盤とするのが妥当であろう。
 来住廃寺心礎実測図:「日本の木造塔跡」より
因みに「日本の木造塔跡」ではこの塔露盤を心礎とする立場から、以下のように説明する。
 「心礎は楔で2つに割り、それぞれの側面に半円筒の孔を彫り、それを再度会わせた形式を採る。なお割れ目に直角に2本の溝を穿つ。これはおそらく何かで縛るなどして当面2片を結合するためのものと推測される。」
しかしながら、以上の見解は無理な見解であろう。
まず、心礎の形式で心柱の枘孔を貫通させた例は見ない。(本石造路盤が心柱であるならば、心柱は径79cmの柱座で受け、貫通孔は枘孔であろう。)
そして、心礎であるとして、せっかく完成させた心礎をわざわざ2つに割って、それを再度縛って結合するような 造作つまり「心礎」が脆弱になるようなしかも面倒な造作を施すであろうか。 否であろう。
第一、古代に縛って結合できるしかもある程度の期間はその強度が保たれるような結束材が存在したのであろうか。
 要するに、本遺物を心礎とするには無理なのである。これはもともと石製露盤なのである。
2分割されているのは、落下のときに割れたか、楔痕があるならば、後世に割ったものであろう。第一「割れ目」自体が当初から「張り合わせ」「結合」を意図したような「整然」としたものではなく、明らかに割れたもの のように見える。
 ただし、前述のとおり、割れ目に直交する2本の溝の用途はこの遺物を結束するものであろうが、結束する理由は分からない。
2014/11/03追加:
○「愛媛県史 原始・古代 1」愛媛県、1982 より
本廃寺は昭和42年及び昭和52、53年に発掘調査される。現在寺跡には黄檗宗長隆寺がある。
塔跡:
 塔基壇は9.75m(32.7尺)四方、高さ約1mである。基壇は黄色粘土と灰層を交互に積み重ねる版築技法によって築成される。
基壇上には心礎石、四天柱の礎石2個、側柱の礎石6個の計8個が検出されている。
このうち、心礎石を除く礎石は原位置にあり、これから推定して初層は三間四方、一辺総長は5.82m(19.5尺)、その柱間は1.84m(6.5尺)等間とみられる。
 心礎石は東西1.62m、南北1.55m、高さ60cmの和泉砂岩の切石で、二個を寄せ合わせたものである。両方の石をしばるために切石の南北両端に溝が彫られている。心礎柱座の直径は 80cm、心柱をうける枘穴(柱穴)は直径42cmで、枘穴内部には何の造り出しもない枘穴円座式礎石である。心礎石の旧位置については四天柱礎石との関係や基壇の土層の状況から推測して地中にあった地下式心礎石であったと推定される。他の礎石は長軸 1.03m、短軸0.78m大の和泉砂岩製の自然石であるが、一個の枘穴式を除き他の礎石は枘穴はなく表面を平らにして研磨しているだけである。礎石の中には火災により剥離しているものもある。
なお、講堂跡は、現在の長隆寺本堂、山門、観音堂周辺にあたり、当時の礎石三個と雨落溝が検出される。また金堂跡は未検出である。
 來住廃寺塔跡講堂跡     來住廃寺塔跡実測図
 ※心礎(石造露盤)は原位置にはなく、塔跡の心礎位置の状況は資料を見る限りでは明確ではなく、つまり心礎抜取穴の有無、有とすればその状況が明確でなく、また「心礎石の旧位置については四天柱礎石との関係や基壇の土層の状況から推測して地中にあった地下式心礎石であったと推定」されるとのことであるが、これもあくまで推定であり、よく分からない。要するに、この遺物が心礎であることを積極的に示すものは無いということなのであろう。
○平成17年/来住廃寺32次調査:
以上、平成17年以前の資料を整理するため、改めてWeb情報を参照すれば、次の新事実が判明する。
即ち、今までほぼ疑いがなく「塔跡」とされてきた土壇は塔跡ではなく、金堂跡と判明するとの新事実が判明する。
 平成17年(来住廃寺32次調査)、昭和52、53年の調査以来約40年振りに「塔跡」とされてきた基壇部分の全面発掘調査が実施される。
この結果、これまで塔跡と考えられていた基壇は礎石の並び方から庇付きの金堂跡と判断される事態となる。
基壇の大きさは南北11m、東西13mで、金堂規模は南北8.9m、東西10.8mと判定される。また基壇化粧と思われる瓦積も一部残存することが確認される。
 来住廃寺金堂発掘: 従来は塔跡とされて来た土壇である。上が北であるが、東(向かって右端に写る一条の痕は近世長隆寺の土塀であろう。
 来住廃寺金堂発掘2:発掘調査の結果、三間四面堂(白線で平面を表現)と判定される。
 ※礎石の遺存状態から三間四面堂(桁行5間梁間4間)と判断したと思われるが、五間四面堂の可能性は無いのであろうか。
 しかし、これは礎石痕跡の状態が良く分からないので、なんとも言えない。
 心礎想定位置の発掘:写真中央が心礎の想定位置である。
 しかし、心礎抜取穴や根石などは全くなく、この事実で本土壇が塔跡であることは否定されたようである。
 来住廃寺金堂土壇版築     来住廃寺瓦積基壇化粧痕跡
 来住廃寺石造露盤8       来住廃寺石造露盤9       来住廃寺石造露盤10
なお、基壇の東面からは江戸期に造られたと考えられる長隆寺の土塀がそのままの状態で埋まっていることも判明する。
 長隆寺土塀1     長隆寺土塀2     長隆寺土塀3
平成20年(来住廃寺35次調査)には奈良時代のものと見られる陶製の「瓦塔」の一部が発見されるという。(詳細は不明)
金堂基壇北側の瓦廃棄土坑から瓦塔(瓦堂)の基礎部分と入口の一部と考えられる破片が出土する。
続いて平成21年(来住廃寺36次調査/金堂基壇北側の調査区)で瓦塔(瓦堂)の屋根と壁の接合部分の破片が出土する。
○2014/11/16撮影:
伊予來住廃寺石造露盤
一辺約160cm、高さ約53-54cmを測るので、現在知られている最大の石製露盤である。
ところが、現状は2つに割れ、砂岩製の故でもあろうかあるいは人為的な破壊などもあるのであろうか表面や側面四周は少々荒れ、また伏鉢座と推定される造出はほぼ剥落しその痕跡のみを残す状態で、決して整美な露盤ではない。
しかし、本来であれば、【22】豊前木山廃寺の石造露盤に似た露盤であったと推定される。
 ※豊前木山廃寺の石造露盤は直方体の中央に貫通孔を穿ち貫通孔周囲に円形造出(伏鉢座)を彫り出した形式である。
 上面には【10】近江花摘寺廃寺の露盤で見られるような屋根の傾斜を殆ど設けず、路盤を直方体に造る形式である。

來住廃寺石造露盤11
來住廃寺石造露盤12
來住廃寺石造露盤13
來住廃寺石造露盤14
來住廃寺石造露盤15
來住廃寺石造露盤16
來住廃寺石造露盤17
來住廃寺石造露盤18
來住廃寺石造露盤19
來住廃寺石造露盤20
來住廃寺石造露盤21
來住廃寺石造露盤22
來住廃寺石造露盤23:左図拡大図
上面には殆ど剥落しているが、
径79cmの伏鉢座の痕跡を残す。
 來住廃寺石造露盤24
 來住廃寺石造露盤25
 來住廃寺石造露盤26
 來住廃寺石造露盤27
 來住廃寺石造露盤28
 來住廃寺石造露盤29
 來住廃寺石造露盤30
 來住廃寺石造露盤31
 來住廃寺石造露盤32
 來住廃寺石造露盤33
 來住廃寺石造露盤34
 來住廃寺石造露盤35
 來住廃寺石造露盤36

 來住廃寺金堂土壇1     來住廃寺金堂土壇2     來住廃寺金堂礎石
興福山寺長隆寺は來住廃寺の地を離れ、廃寺跡南方およそ600mの所に移転する、
 興福山長隆寺山門     興福山長隆寺本堂     興福山長隆寺成就之門:門前石碑に「臨済正宗 四十五世・・・」、「禅寺/黄檗宗/曹洞宗/長隆寺」とあるので基本的には黄檗宗であろうが、黄檗宗に並び曹洞宗が併記されているのは良く分からない。

【22】豊前木山廃寺、石製露盤A類: → 豊前木山廃寺:半裁された心礎が石碑として残る。

2011/02/07追加:
○「木山廃寺跡」犀川町教委、昭和50年 より
昭和49-50年の発掘調査報告である。
廃寺の東端に近い位置(Aトレンチの近く)で「輪蔵付経蔵心礎」が発見される。
報告書では詳しい言及がなく、今般の発掘で発見されたのか以前に出土していたのかは不明であるが、文面からは以前に出土していたものと思われる。
「輪蔵付経蔵心礎」は花崗岩製で、一辺125cmの正方形をなす。厚さは中央で40cm、径35cm(上部の造出部分で40cm)の貫通孔がある。造出の径は79cm、高さは約2cmほどである。
この報告書では、「輪蔵の中心軸を受ける礎石であり、宇佐弥勒寺跡に鎌倉期のものが現存する。」「木山廃寺は鎌倉期には廃絶したことを伝え、密教との関係を考えれば、平安期に属すると考えられる。」とするが、 未見ながら、形状や大きさから判断すれば、「経蔵の輪蔵心礎」ではなく、「石製の塔露盤」とほぼ断定して良いであろう。
 なお、宇佐弥勒寺に現存すると云う「輪蔵付経蔵心礎」とは、宇佐弥勒寺東塔跡に塔が退転したのちに経蔵が建立されたと云い、その中世の経蔵の輪蔵心礎であろう。これは、 東塔跡の土壇上に現存するが、形状から明らかに塔露盤ではない。
 木山廃寺石製露盤実測図
2011/02/07追加:
○サイト:みやこ町デジタルミュージアム より 転載
 豊前木山廃寺石製露盤
2011/09/04追加:
 豊前木山廃寺石製露盤2:サイト「京筑まるごとナビ」(http://keichiku.info/kd/detail.php?id=1910)より転載
2013/03/18追加:
宇佐神宮寺跡「輪蔵付経蔵礎石」:宇佐神宮寺とは宇佐弥勒寺のことであり、経蔵とは弥勒寺東三重塔跡に元徳元年(1329)頃建立されたものである。そして三重塔遺構と鎌倉建立経蔵遺構は重複するが、現在東塔土壇上には「輪蔵付経蔵礎石」1個が残る。
 →八幡宇佐宮・宇佐神宮寺(宇佐弥勒寺)参照
    宇佐神宮寺東塔跡実測図     東塔跡経蔵礎石1     東塔跡経蔵礎石2
○木山廃寺現況:2013/10/27撮影:
石製露盤:形状は、ごく僅かながら、多少歪であるが、大きさはおよそ120×120cm高さは35cmを測る。
中央には径35cmの貫通孔を穿つ。貫通孔の周囲には高さおよそ1cm径66cmの円形造り出しを設ける。これは「伏鉢座」であろう。

 木山廃寺石製露盤11
 木山廃寺石製露盤12
 木山廃寺石製露盤13:左図拡大図
 木山廃寺石製露盤14
 木山廃寺石製露盤15
 木山廃寺石製露盤16
 木山廃寺石製露盤17
 木山廃寺石製露盤18
 木山廃寺石製露盤19
 木山廃寺石製露盤20
 木山廃寺石製露盤21
 木山廃寺石製露盤22
 木山廃寺石製露盤23

【23】肥後浄水寺、石製露盤B類: → 肥後浄水寺跡:塔土壇および塔礎石を遺す。

2013/03/09撮影:

延暦20年(801)有銘の燈籠竿石の台石は石製露盤と云う。
肥後地方の特性であろうか甚だしい盃状穴が穿たれる。
露盤の実測値:一辺110cm高さ23cm(見える高さであるが、ほぼこの厚さであろう)。中央の穴は貫通しているかどうかは竿が差し込まれているため、確認することはできない。
 浄水寺塔露盤1
 浄水寺塔露盤2
 浄水寺塔露盤3:左図拡大図
 浄水寺塔露盤4
 浄水寺塔露盤5
※大きさ、形状からは石製露盤と判断できる。
但し、台石に転用され、保護屋内にあるため、中央の穴が貫通孔であるかどうかの確認がとれない。


【参考】豊前菩提廃寺:→豊前菩提廃寺・・・・石製露盤との見解もあるが、露盤ではない。

2011/02/07追加:2011/10/09修正:
○「勝山町文化財調査報告書 第2集 菩提廃寺」勝山町教育委員会、昭和62年 より
 「(塔基壇)外側石列の階段部側石に再利用されたもので、中央部で半割しているが接合する。大きさは1.2×1,1m厚さ30cmで、中央部に径35cm深さ10cmの円孔を穿ち、さらにその中央に径10cmの貫通孔を穿つ。・・・・・貫通する孔の存在から通常の建物建物礎石ではなく、あえて類例を求むれば、法隆寺や兵庫県中井廃寺等に見られる・・・凝灰岩製一石造の露盤があげられる。」
礎石等実測図:bPと2である、菩提廃寺bQの石のように、貫通孔がストレートではなく、この形状では塔の露盤では有り得ない 。
従って、この石造物を以前には露盤としたが撤回する。
2013/11/04修正:2013/10/27撮影:
貫通孔付方形加工石:方形に加工した石の中央に、上下から円孔を穿孔し、さらにその中央部を小孔で貫通させた形状である。
なお、現在この石は半裁された半分しか見ることはできない。
「勝山町文化財調査報告書 第2集 菩提廃寺」に掲載される『菩提廃寺塔礎石基壇』(北から撮影、上方左にbQの石、その右にbPの石が写る)の写真中のbPは基壇改造後の原位置を保ち、かつ邸宅の通路位置であるので、そのまま埋め戻され、現在はセメントで固められた通路の下に存在するのであろう。
一方bQの石は「浮いている石」であるので、この石は発掘調査後、通路脇の南側に運ばれ、眼にすることができる石なのであろう。(以下の写真はbQのものである。)
 貫通孔付方形加工石1   貫通孔付方形加工石2   貫通孔付方形加工石3   貫通孔付方形加工石4
 貫通孔付方形加工石5   貫通孔付方形加工石6

詳細は→豊前菩提廃寺を参照。


付表:石製相輪(九輪・擦管・天蓋など)出土寺院

大和山村廃寺:凝灰岩製平頭・擦管・宝輪など:→大和山村廃寺

心礎のほか、石製露盤、平頭・擦管・宝輪などを出土する。

紀伊三栖廃寺:疑灰岩製天蓋・砂岩製宝輪:→紀伊三栖廃寺

心礎のほか、石製九輪の一部、青銅製風招、石製天蓋の一部などの遺物が出土と云う。
出土遺物は「田辺市立歴史民俗資料館」に展示と思われる。

播磨河合廃寺:石製平頭:→播磨河合廃寺

心礎のほか、石製平頭が出土(原田健次郎「古代の石造相輪についての一考察」)と云う。

播磨多田廃寺:凝灰岩性九輪・宝輪を出土:→播磨多田廃寺

心礎2個を残す他に、石造宝輪を残す。

出雲来美廃寺:石製伏鉢・擦管・九輪・天蓋、銅製風鐸・請花などが出土:→出雲来美廃寺

東西両塔を備える寺院である。石製伏鉢・擦管・九輪・天蓋、銅製風鐸・請花などが出土する。

備前賞田廃寺:凝灰岩製擦管:→備前賞田廃寺

東西両塔跡が出土し、西塔付近から凝灰岩製擦管が出土する。

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参考:瓦製相輪

山城神雄寺跡:瓦製九輪:→山城神雄寺跡

塔跡と推定される遺構の発掘があり、瓦製九輪破片の出土を見る。
瓦製の相輪とは初見であるが、石製の相輪も多く発見され、瓦製の相輪の存在も奇異なことではないであろう。
(今まで、見過ごされていた可能性が大きいとも思われる。)


2010/06/13作成:2016/08/31更新:ホームページ日本の塔婆