山  城  の  塔  跡

山城の塔跡


 古代及び中世、京都市街地には、今の殆どその姿や痕跡を留めないが、多くの木造塔が建立されていた。
現在、知られるそれらの塔婆について、
著名な市街地の塔婆は「京都市街地の塔」に、 また、平安期を中心にした京都市街地の塔婆概要は「京洛平安期の塔婆」に掲載する。

2018/05/22追加:
○京都市考古資料館「平成30年度後期特別展示 京都の飛鳥・白鳳寺院-平安京遷都前の北山背-」
 期間:平成31年2月9日から6月23日 より
展示には「仏教の伝来と受容」「北山背の飛鳥・白鳳寺院」「瓦の生産と供給」などのパネルがあり、次にそれらの要約を示す。
 平安京遷都以前、現在の京都市街は山背国(平城京から見て平城山<ならやま>の背後にある国)の北半にあたり、ここには愛宕・葛野・乙訓・宇治の4郡が置かれていた。
 飛鳥期、「日本書紀」推古天皇11年(603)秦河勝が厩戸皇子から下賜された仏像を祀る蜂岡寺を建立という。
また推古天皇31年(623)には新羅の使者が来朝し献上した仏像が葛野秦寺に納められたという。
 その他、北山背には、飛鳥期に建立された寺院として北野廃寺と広隆寺旧境内が知られる。何れも秦氏の根拠地葛野にあり、北野廃寺は7世紀初頭、広隆寺はやや遅れて7世紀初期であることが発掘調査などで分かっている。
 乙巳の変(大化の改新のスタート、645)で蘇我氏が滅びる。大化の改新の詔に先んじて寺院造営奨励策などにより、全国に多くの寺院が建立される。
 北山背では愛宕郡に北白川廃寺・珍皇寺旧境内・法観寺旧境内、紀伊郡に板橋廃寺・御香宮廃寺、宇治郡に大宅廃寺・醍醐廃寺・法琳寺跡、乙訓郡に樫原廃寺など多くの寺院が建立される。このうち、北白川廃寺・大宅廃寺・樫原廃寺は比較的具体的様子が発掘調査などで分かっている。
≪推古天皇32年(624)には46ヶ寺であった寺院が、持統天皇6年(692)には545ヶ寺に増えたことが記録されている。≫
 しかし、平安京遷都の後は寺院併合令などが出され、氏寺は地域単位で整理統合され、律令制のもとで国家的な仏教製作に組み込まれていったといわれる。
 なお、乙訓郡南春日町廃寺は、長岡京遷都目前の頃建立され、寺院といっても塔が1基だけ建立されたようで、特異な地方豪族の建立と云える。
瓦の生産と供給
 北山背の瓦の生産は、最古の寺院・北野廃寺の造営によって始められる。
北野廃寺創建時に使用された軒丸瓦は、素弁十葉蓮華文・素弁八葉蓮華文で、素弁十葉蓮華文は飛鳥寺の創建時のものと同じ意匠で、素弁八葉蓮華文は大和豊浦寺の瓦を焼いた宇治隼上り窯の出土品の内の1点と同笵であることが分かっている。
 その他の同笵関係では、大宅廃寺の雷文縁複弁八葉蓮華文の瓦当范が北白川廃寺や醍醐廃寺・法琳寺へ移動していること、樫原廃寺と北白川廃寺の素文縁重弁八葉蓮華文軒丸瓦が同笵であること、北白川廃寺と法観寺・宝菩提院廃寺の重圏文縁単弁八葉蓮華文軒丸瓦が同笵であることなどが分かっている。さらに、大宅廃寺の藤原宮式といわれる変形忍冬唐草文軒平瓦は北白川廃寺へ移動するが、藤原京へも移動したことが分かっている。(故に藤原宮式という。)
 平安遷都以前の北山背寺院配置

山城鞍馬山多宝塔

 →山城鞍馬寺:近世には本堂横に多宝塔が存在し、 文化11年(1814)全山の火災で類焼したものと推定される。
          そして焼失後この塔は再興されずと推定される。なお多宝塔は昭和戦後に別の場所に再興される。

山城岩倉大雲寺

大雲寺絵図(下に掲載)には三重塔が描かれ、詳細は全く不明であるが、古には三重塔があったことを示唆する。
大雲寺は天禄2年(971)円融天皇の勅願により、日野中納言藤原文範が真覚(藤原敦忠息)を開山として創建したと伝える。
永観3年(985)昌子内親王(冷泉天皇中宮・朱雀天皇皇女)寺内に観音院を建立。(日本紀略)
天元4年(981)余慶僧正(智弁、園城寺長吏、法性寺座主)は山門・寺門の対立の激化により、寺門の僧数百人を連れ叡山を下り、大雲寺へ入寺する。この頃寺門の拠点として三塔(大雲寺・是王寺・福泉寺)の本寺として最盛期を迎えるも、その後も寺門・山門の抗争は止まず、大雲寺はたびたび山門により焼払われる。
その後、中世を通じ抗争や兵乱がやまず、次第に衰微する。
元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼討により大雲寺も炎上する。
寛永年中(1624-)実相院門跡義尊、本堂等再建。
 ※実相院門跡は応仁の乱後、大雲院山内成金剛院の地に洛中より移転し、岩倉実相院が成立。
昭和60年、寛永年中再建本堂を焼失(不審火?)。寺地を岩座神社東に移転、再興される。
旧寺地には閼伽井(智弁水)・不動の滝・実相院宮墓・昌子内親王高倉陵などが残る。
 大雲寺絵図:岩倉実相院門跡蔵、作成年不詳、(2009年「実相院の古文書」展より)
盛時の大雲寺を描くもので、北大門を東から入り直右手(北)に堂名不明の堂と三重塔が並んで建つ。本堂位置が寛永期再興の大雲寺があった場所と思われる。三重塔の履歴は全く不詳。
本寺である園城寺の盛観とは比較にならないが、その巍々たる様子は良く表されている。
 昭和初頭?大雲院:右に水盤、石垣、本堂が見える、左は城守保養所。写真は「岩倉の伝統と近代との相克:日本のゲール」Akira Hashimoto著(「精神保健福祉論2007、シリーズ:精神保健福祉の思想と歴史」所収)に掲載。
 新撰京都名所圖會・大雲寺:巻2、竹村俊則、昭和34年、上記写真とともに、今は無き近世大雲院の貴重な記録であろう。現大雲寺は当図の反対側・石座神社の東に再建される。

山城栂尾高山寺

 →栂尾高山寺平安期栂尾高山寺:古には三重塔及び十三重塔の存在が知られる。

山城高尾神護寺

 →高尾神護寺:古くは多宝塔があった。昭和8年に多宝塔が建立され、現存する。

山城賀茂別雷神社

 →京洛平安期の塔婆賀茂上社神宮寺・賀茂下社神宮寺;上社には神宮寺多宝塔/その他の多宝塔の存在が知られる。

山城賀茂御祖神社

 →京洛平安期の塔婆賀茂上社神宮寺・賀茂下社神宮寺:古には東西御塔などの存在が知られる。

山城北白川滅苦寺跡碑 →直下の山城北白川廃寺を参照

サイト:京 都 風 光>滅苦寺跡 には「滅苦寺跡」として、以下の解説(概要)がある。
 京都造形芸術大の北角(北白川通に面す・左京区一乗寺樋ノ口町)に「滅苦寺跡」の石標が立つ。
 北白川廃寺の跡は滅苦寺跡であると云う。また、粟田氏の氏寺粟田寺であったとも云う。
 あるいは、同区域に独立して存在した別の寺院であるとも云う。
 詳細は不明であるが、奈良前期もしくは白鳳期に創建され、鎌倉期まで存続したと云う。
 貞享3年(1686)「雍州府志」黒川道祐 では、寺は北白川将軍山の西麓にあったと云う。
 昭和9年(1934)周辺の発掘調査により、瓦、瓦積基壇が発見される。
 昭和49年(1974)昭和50年(1975)の発掘調査では、塔跡とみられる正方形の石積基壇が発見される。

以上の解説で「京都造形芸術大の北角に『滅苦寺跡』の石標が立つ。」と云うこと及び「雍州府志云々」という 解説は拙サイトにとっては新しい「知見」であった。しかし、それ以外の解説は近年に「北白川廃寺」と命名された遺跡の解説と思われる。
つまり、この碑は、地元で根強く残ると思われる「 この地に滅苦寺があった」と云う伝承を顕彰するものなのであろう。 そして言外に近年発見された北白川廃寺こそ「滅苦寺跡」に相応しいという思い入れを込めたものなのであろうと推測する。蓋し、現時点では、具体性を帯びた「滅苦寺跡」の遺構としては北白川廃寺以外には見当たらないのが実情であろうから。
 ここには礎石と思われる1個の石と数点の用途不明の石製品が置かれるが、これらが何であるかは不明である。
また、石碑には「滅苦寺跡」「田邊正直也」と刻まれるが、設置者と思われる田邊正直なる人物の情報は皆無で良く分からない。
2012/12/25撮影:
 山城北白川滅苦寺跡碑     滅苦寺跡推定礎石1     滅苦寺跡推定礎石2     滅苦寺跡推定遺物
2013/02/09追加:
「雍州府志 巻八 古跡門上」黒川道祐、貞享3年(1686)では以下のように云う。
 滅苦寺ノ跡 北白川将軍山ノ西北の麓ニ在リ。古へ斯ノ処ニ葬場ヲ置ク。寺有、滅苦寺ト号ス。今、寺ハ絶へ葬場ハ残レリ。
土人、誤リテ目决(メケツ)ト称ス。滅苦寺ト目决トハ、倭語相近キニ因リテ也。猶、苦集滅道ヲ誤テ、倶知奈波ノ図子と称スルノ類ナリ。
且、目决ノ之誤リニ因テ、遂ニ悪七兵衛景清、六波羅ノ為メ、両目ヲ决ラルト称ス。是レ誤伝ノ甚キ処ナリシ者ナリ。
 ※平景清は源氏に捉えられし後、源氏の隆盛を自分の眼で見ることに耐えられず、自らの眼を抉り(决り)、空に投げつけたと云う。
2013/03/11追加:
H_O氏より、「田邊正直」とは不明と云うことに関して、一乗寺村「鷲尾家雑掌宅跡」の京都市設置駒札情報提供を受ける。
 駒札情報とその他の情報を総合すると以下のように推察される。
《田辺家は元々豊臣秀吉に仕えていたと伝える。豊臣氏滅亡の後浪人となるも、元禄年中より「雑掌」として鷲尾家に仕える。「雑掌」とは公家に仕えて諸事・雑務を掌握・司る役割であろう。
近世、鷲尾家は一乗寺村に家領を有していたが、田辺家に一乗寺村の領地の管理を任せ、さらに納米の用務や、時には家臣として宮中出仕もさせていたという。また江戸期には、一乗寺村は諸寺の寺領や公家の家領であったばかりでなく、比叡山への道筋である雲母坂にあったところから、田辺家が番所を兼ねることもあったという。
なお、田辺家には、幕末の洛中の騒乱・戦火を避けて、鷲尾家に伝わる諸々の古文書等が保管され、今日に伝えられる。

さて、その田辺家であるが、今もその邸宅を一乗寺に残し、その一画で「雲母漬け」の販売を行っているという。
現在の当主の祖父が「田邊正直」氏であると云う。

 以上の経歴から、田辺家は一乗寺の代官あるいは庄屋(名主・肝煎)のような存在であり、おそらくは、その血筋である「田邊正直」氏はその由緒や一乗寺を愛する精神から、遺物を集めその保護を企図し、伝承される「滅苦寺跡」を後世に伝えるため、「石碑」を建立したものと推察する。
 なお、公家「鷲尾」家については「羽林家 (鷲尾)」に詳しい。

山城北白川廃寺

現在北白川廃寺跡は住宅の密集地となり、地上には何も見るべきものは無いが、以下の経過で、北白川廃寺の姿が明らかになりつつある。
○昭和9年(1634)の区画整理の時、東方基壇(金堂跡と推定)の瓦積基壇が発見され、大量の瓦が出土する。
 「北白川廃寺発掘調査現地説明会資料 2005/12/05」 より
  東方基壇発掘状況1:西北より撮影
  東方基壇発掘状況2:落下しているのは礎石であろう。
   原資料:「北白川廢寺阯」(「京都府史蹟名勝天然記念物調査報告 第19冊」京都府、昭和14年 所収)
  なおこの瓦積基壇の一部は京都大学総合博物館裏庭(館の東)に移転・復原展示される。
2013/06/17追加:
○「北白川廢寺阯」(「京都府史蹟名勝天然記念物調査報告 第19冊」昭和14年 所収) より
本廃寺は昭和9年秋、京都市の土地区画整理工事中、偶然に発見される。
しかし、区画整理事業は俄かに予定の変更をすることが能わず、遂に記録保存による外はなかったのは「不得止の次第」である。
当然、考古学の観点からは史蹟保存が望ましいが、開発圧力には抗し得ず、関係者との協議の結果、基壇の一部を京都帝国大学の構内に移し、遺跡そのものは記録保存に留めることに決する。かくして、遺跡は「人家の間の没し去」ることになる。
 さて、今般発見された遺構の内、最も重要なのが東方基壇である。
東方基壇は東西一辺119尺余(36m余)、南北75尺5寸(22.9m)の矩形であり、相当な規模の堂宇が建っていたものと推定される。
(愿位置を保つ礎石及び礎石据付痕は一切発見されず、堂宇の規模は不明である。)
基壇は下部に石築2段の基礎を置き、その上に平瓦を積んだものである。
高さは地形が東側がやや高い関係上、西側は5寸と4寸の2段石築基礎の上に3尺の瓦を積み、東は2尺以下の高さの瓦積である。積み方は崩壊を防止するため、上に至るほど内側に瓦を順次引き込んだものである。
なお、外観の単調を防ぐためであろうか、平瓦の積の所々に丸瓦を混ぜるものである。
さらに基壇の東西中央の南北2箇所に幅14尺内外(4.2m内外)の石積石階を付設する。
 東方基壇・西側     東方基壇・南側:右手に散布する石は石階のものか。
 東方基壇・断面図     西側基壇形状図(一部)     東方基壇復原図
 北白川廃寺付近地形図
上記の地形図で示される北白川廃寺西部区域においても以下が観察される
 即ち、西部区域には瓦の集積を見る。区画整理で白川通(12間)の西に南北の3間道路を新設したが、その両端は溝状に掘削される。その溝に挟まれた道路上から原位置を動く3個の大石が発見される。当初はこの大石を礎石と断定する加工は観察されなかったが、溝上にあった大石は後に衣川氏が買受 、庭石として邸内に据えたが、この時溝上のあった下面には円形造出のあることが判明する。
礎石は径2尺2寸高さが5分内外の造出を持つ。
 西部地区実測図     西部地区発見礎石実測図
 ※戦後、この西部地区は塔跡と確認されるが、しからば、この礎石は塔の礎石の蓋然性が極めて高いものと推定される。
○2012/12/25撮影:
 北白川廃寺東方基壇跡:北より撮影、南北道路左右の民家が東方基壇跡
 ▽京都大学総合博物館裏庭
  現在、移転復原された東方基壇西辺の一部は京大総合博物館裏庭に現存する。
  2段の地覆石の上に半裁した平瓦を積み重ねる形状である。
  28段が現存する。基壇上部は削平され、上端部の構造は不明とする。
  東方基壇移設瓦積基壇1     東方基壇移設瓦積基壇2     東方基壇移設瓦積基壇3     東方基壇移設瓦積基壇4
  東方基壇移設瓦積基壇5     東方基壇移設瓦積基壇6     東方基壇移設瓦積基壇7
  2014/10/12撮影;
   東方基壇移設瓦積基壇8
○昭和49年(1974)昭和50年(1975)東方基壇の西約80mの地点で、一辺13.6mの方形基壇が発見される。この遺構は心礎抜取穴を伴い、塔阯であることが確認される。 出土瓦などから、創建は白鳳期で、心礎は地上式と判断される。
発掘の結果、この塔の基壇化粧は乱石積基壇であるが、その内側は瓦積基壇であることが判明。つまり、塔基壇は一度改装され、平安前期で石積をし、南北階段を付加、一辺14mと基壇化粧が改装されたものと推定される。
 →平成7年(1995)の発掘でも同様のことが確認される。
 「平成7年度 京都市埋蔵文化財調査概要」京都市埋蔵文化財研究所、1997 より
  北白川廃寺塔跡全景
 出所失念:
  北白川廃寺塔跡全景2
 「北白川廃寺塔跡発掘調査現地説明会資料 1995/09/02」
  塔跡瓦積基壇南東部
  北白川廃寺塔跡発掘図
   原資料:「北白川廃寺塔跡第一次発掘調査概報」(「北白川廃寺塔跡発掘調査報告」北白川廃寺発掘調査団、1976 所収)
2013/06/17追加:
○「北白川廃寺緊急発掘調査概報」(「北白川廃寺塔跡発掘調査報告」北白川廃寺発掘調査団、1976 所収) より
昭和59年本土地を借地していた土建業者がゴミ投棄用の穴として重機にて5×10m×2.5mの穴を掘削するも、偶々オペレータが交通事故に遭い、穴はそのまま暫く放置される。これまた偶々京大関係者がこの穴を見て、古瓦の散乱するのを発見し、関係機関に連絡したのが発端であった。連絡を受けた関係機関は基壇らしきものと認め、地主と土建業者に調査の必要性を説き説得するも、いずれも「消極的態度」であり、緊急調査に留めざるを得ないこととなり、短期間の調査を実施する。
なお、この地は西側道路より約1m高い土地である。
 掘削穴の西壁と東壁南壁の調査が可能であり、整理した結果、西壁は基壇面の様相を呈していたが、発掘も出来ず、これ以上の調査は不可能であった。
 調査穴全景(北から)    調査穴西壁断面図:E〜Lが基壇断面と考えられる。
 ※なお、この穴で検出された基壇断面は、塔の南に位置し、塔とは別の規模や位置が不明の塔南方の堂宇の基壇である。
2013/06/17追加:
○「北白川廃寺塔跡第1次発掘調査概要」(「北白川廃寺塔跡発掘調査報告」北白川廃寺発掘調査団、1976 所収) より
昭和50年、上記緊急調査の行われた土地の東側の土地(この土地は白川通りに接する)の所有者が医院(浮村胃腸科医院)開業にあたり、発掘調査の届出を行う。関係者の協力(発掘調査費の浮村氏の負担など)を得て、 3月から5月まで発掘調査を実施する。
塔阯に該当する発掘可能な面積は狭小であったが以下の成果を得る。
発掘の結果、東南隅である建物基壇が発見される。
この基壇は版築で築かれ、基壇化粧は当初は瓦積であったが、後に石積で補強されたものであろうと推測される遺構が発掘される。
さらに、この発掘ではその途中で、西隣の土地所有者が無断で貸ガレージにするために、無断で造成工事を開始する事件が起る。無断工事を中断させ、緊急発掘の結果、ここでは基壇西南隅が発掘され、結果としては、南辺(東西辺)は13.6mと確定される。
 (次項の「第2次発掘調査概要」を参照)
基壇内においては、トレンチなどで礎石やその据付痕などの探索を行うも、何も発見できず。
出土瓦から本遺構は白鳳期から平安初期まで存続したと推定される。
 瓦積基壇実測図
 石積基壇/東南隅     石積基壇と瓦積基壇の並存     瓦積基壇・東南隅     瓦積基壇・東南隅俯瞰
 瓦積基壇・東南隅南側     瓦積基壇・東南隅東側
2013/06/17追加:
○「北白川廃寺塔跡第2次発掘調査概要」(「北白川廃寺塔跡発掘調査報告」北白川廃寺発掘調査団、1976 所収) より
昭和50年6月-7月の緊急発掘である。場所は昭和49年緊急発掘が行われた地点の東北側である。
今般も、49年とは別の土地を借用していた土建業者がガレージ造成のため、無届で西側の道路面に合わせて、台地を約1m重機で削平する。
偶々付近で上記の発掘調査中の関係者がこれに気づき、工事の中止を要請し、発掘調査に取り掛かる。
 まず、西南隅の瓦積基壇の地覆石が辛うじて残存し、西南隅のコーナーが検出される。結果南辺の長さは13.6mと確定する。
次いで、西北隅の検出を目指し、西北のコーナーを検出する。その結果、予想の通り、この基壇は正方形と判明し、塔阯と断定される。
 さらに、表面では四天柱礎・側柱礎の探索をするも、礎石や根石やその痕跡は発見できず。
しかし心礎部分は土色が変化し、その存在がはっきりする。
土色の違う部分は直径3mで円形をなす。表土した50cmの掘り下げでは心礎は出ず、さらに探索捧で1.5m-2m程度調査するも発見できず、心礎は更にその下にあるものと判断される。(当時は調査を途中で打ち切らざるを得なかったという。)
 ところがこの時点で、土建業者は発掘調査に対し妨害を加えるに至り、再々の話し合いがもたれるも折り合いが付かず、心礎の探索は断念し、発掘調査は修了する。
 塔跡発掘調査平面図
 塔基壇西北コーナー     西辺石積基壇その他     西辺石積基壇:瓦積基壇の前面を石積基壇が覆う。
 西辺石積基壇     基壇西北コーナー     基壇西北コーナー隅石
 基壇南辺石階
 心礎位置写真
 推定塔礎石:仁志出氏邸庭石(元衣川氏邸)
昭和9年の「北白川廢寺阯」に実測図があり、衣川氏邸に遷された礎石は今も元衣川氏邸(現仁志出氏邸)に現存する。
金堂礎石と思われるも、昭和49年に発見の基壇に建つ堂宇の礎石の可能性もあり断定は差し控える。

1995年の塔阯の再調査の現地説明会資料では
「基壇中央の窪みは心礎の据付穴と考えられるが、心礎は何時の時代かは不明ながら、抜き取られたものと思われる。
(最終段階では基壇を断ち割り、心礎の有無を確認したいとも記載する。)
基壇の北辺と南辺では石積の石階を付設し、出幅は約120cmを測る。」(要旨)
とある。
○昭和55年(1980)回廊とみられる柱列が発見される。
○平成17年(2004)回廊であることが確定される。
○「北白川廃寺塔跡発掘調査現地説明会資料 1995/09/02」
  北白川廃寺遺構配置図
 「北白川廃寺発掘調査現地説明会資料 2005/12/05」 より
  北白川廃寺推定伽藍図
この廃寺の性格は、この地が古には粟田郷に属すことから、粟田氏の氏寺(粟田寺)とも推測される。
さらに、この廃寺は、将軍山城(北白川城、瓜生山城、勝軍地蔵山城)の西に存在していたとされる「めっく寺」(「滅苦寺」)の跡であるという説が根強くあると云う。
  ※上項のように、現在当地北方に「滅苦寺跡」の石碑と若干の遺物と思われるものが保存されている。
  この地にあった廃寺を「滅苦寺跡」として顕彰する意図であろうと推測される。  →すぐ上の項「滅苦寺跡」を参照。
  ※「雍州府志」では、地元民(土人)は「目抉寺」と勘違いしているという話が挿まれる。(2013/02/09修正)
  ※典拠は不明であるが、「滅苦寺」は本来は「苦滅寺」であったとする資料もあると云う。
 再度概括すれば、出土瓦から、この廃寺は奈良前期から平安期(もしくは鎌倉期)まで存続していたと推定される。
東方基壇(金堂と推定される)は高さ1.2m、東西36.1m×南北22.8mを測り、地方寺院として破格の規模であると云う。
さらに西方約80mには方形の基壇と心礎抜取穴が発掘され、塔跡とほぼ断定される。
また東方基壇の西では廻廊跡が発掘され、この基壇は廻廊に囲まれると推定され、東に金堂院、西に塔と云う伽藍配置を採るものと推定される。これは東方基壇と塔の基壇の南縁がほぼ一直線上に並立してあり、同笵の軒丸瓦も発見されたことも、この伽藍配置の可能性を示唆するのであろう。
しかし、東西の基壇が離れすぎているので、これ等の基壇は並立する二つの寺院とする異説もある。
○2012/12/25撮影:
 山城北白川廃寺塔跡1:中央奥が塔跡、西北より撮影     山城北白川廃寺塔跡2:写真中央が塔基壇
 山城北白川廃寺塔跡3:駐輪場付近が心礎位置         山城北白川廃寺塔跡4
2013/10/26追加:
○「北白川廃寺塔跡」(「京都市内遺跡発掘調査概報平成7年度」京都市埋蔵文化財研究所、1996 所収)より
 北白川廃寺遺構配置図
 北白川廃寺塔跡発掘図     塔心礎据付平面/断面図     基壇北・西/平面/断面図     塔瓦積基壇実測図
塔一辺は6.6m、2.2mの等間である。
塔の創建時は一辺13.8mの瓦積基壇であるが平安前期に一辺14mの乱石積基壇に改築される。
石積基壇に取り付く南北階段は最初南側に幅2.8mの第一次階段が造られ、その後第二次階段として幅4.0mに拡幅し同時期に北側階段も造ったと考えられる。
心礎は発見できず。据付穴は東西約3.5m南北約3.2m深さ約0.5mの円形で版築土層は認められず径30〜60cmの根固め石を原位置に留める。
○2019/02/23撮影:
京都市考古資料館「平成30年度後期特別展示 京都の飛鳥・白鳳寺院-平安京遷都前の北山背-」の展示より:
北白川廃寺は在地豪族の粟田氏の氏寺とも云われる。
塔基壇は昭和49・50年、平成7年の調査によってほぼ全容が解明される。基壇一辺は13.8m、残存高0.8mあった。基壇外装は当初瓦積であったが平安前期に乱石積に改装される。北辺と南辺の中央には巾4mの石階が造り出されている。塔心礎は亡失、地下式であった。
 北白川廃寺調査・遺構図     北白川廃寺想像復元図     北白川廃寺塔基壇:平成17年調査、北西から
重圏文縁単弁八葉蓮華紋は山田寺式軒丸瓦、単弁八葉蓮華文軒丸瓦は山田寺亜式軒丸瓦
 (重圏文縁)単弁八葉蓮華文軒丸瓦      単弁八葉蓮華文軒丸瓦     (重圏文縁)単弁(六葉)八葉蓮華文軒丸瓦
 単弁六葉蓮華文軒丸瓦    
 雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦・二十一葉蓮華文軒丸瓦
 雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦     二十一葉蓮華文軒丸瓦
 六重弧文・四重弧文・素文軒平瓦     変形偏行忍冬唐草文軒平瓦     北白川廃寺平瓦     北白川廃寺平瓦
2022/06/23追加:
 →参考:大和紀寺(大和小山廃寺)中の「4.紀寺と大宅廃寺」に北白川廃寺の記述あり。
2020/02/24追加:
〇「飛鳥白鳳の甍〜京都市の古代寺院〜」京都市文化財ブックス第24集、平成22年(2010) より
北白川廃寺
廻廊に囲まれた巨大な金堂
出土する最も古い軒瓦は山田寺式文様である。この文様が現れるのは640年頃という。当寺もこの頃創建されたものと思われる。
本廃寺で瞠目すべきはその金堂基壇面積の規模である。東西36m、南北23mであるから、面積は828平方m(251坪)となり、これは7世紀段階では最大クラスであり、地方寺院としては殆ど破格の大きさである。
 昭和9年発見当時の金堂基壇
 飛鳥白鳳の主要寺院金堂の平面規模比較:吉備池廃寺の金堂基壇規模には及ばないが、後に建立される本薬師寺を上回る。
なお、背景(下の図)は北白川廃寺金堂平面図(1/200)

山城小倉町別当町遺跡:北白川廃寺の南に所在する。

平成6年(1994)に瓦塔片が発掘されたと思われる。
瓦塔のほかに、出土品には、土師器や須恵器の杯・蓋・高杯・甕といった食器類や調理道具と、無文銀銭や唐三彩などがあるという。
集落内からは、北側にある北白川廃寺で使われている軒丸瓦も出土していることから、寺院と集落の密接な関係がうかがわれるともいう。
なお、瓦塔片は残存片の角度からみて、珍しい六角形の塔の屋根部分である。やはり奈良期以降のものであろうとされる。
○2019/02/23撮影:
京都市考古資料館「平成30年度後期特別展示 京都の飛鳥・白鳳寺院-平安京遷都前の北山背-」の展示より:
 小倉町別当町遺跡瓦塔片

山城真如堂大塔屋敷

2013/02/09追加:「雍州府志 巻八 古跡門上」黒川道祐、貞享3年(1686)では以下のように記載する。
 吉田神楽岡の東麓と真如堂の之西南に在り。相伝ふ始め真如堂の中多宝塔の在し処なり、茲れ自り白川に出の経路大塔道と称す。
一説に古へ大塔宮尊雲法親王の別院此の処に在りと云ふ。是れ謬伝か。

山城上出雲寺(出雲寺):三重塔礎石

2020/02/24追加:
〇「飛鳥白鳳の甍〜京都市の古代寺院〜」京都市文化財ブックス第24集、平成22年(2010) より
出雲寺
 一説には、上御霊社は出雲寺(上出雲寺)の鎮守であったという。
上御霊社は早良親王はじめ8柱の御霊を祀る。
 ※8柱は、崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)、井上大皇后(光仁天皇の皇后)、他戸親王(光仁天皇の皇子)、藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)、橘逸勢、文室宮田麻呂、火雷神(以上六柱の荒魂)、吉備真備を祀る。
要するに、ドロドロの世界の敗者へ配慮を示すことで我身の保身を図るということであろう。
さらに上御霊社は、文正2年(1467)畠山政長と畠山義就との戦い(御霊合戦)が社地を舞台に行われた地であり、応仁の乱の勃発の地とも云われる。
 出雲寺は延喜式(10世紀)の七ヶ寺として、また15ヶ寺の一つとしてあげられ、隆盛であったようである。
「山城名勝志」正徳元年(1711)刊では、延長4年(920)の「出雲寺流記」を引用し、重層の金堂(7面四面)、講堂(5間四面)、食堂(5間四面)、三重塔2基、寳藏3棟、鐘楼、回廊、中門、南大門などを備え、丈六の釈迦如来像など多くの仏像を安ずる錚々たる伽藍であったという。
 この伽藍は一度も発掘調査はなされていないが、古瓦が採取されている。この古瓦は本薬師寺と同笵の瓦が含まれる。
つまり、出雲寺は記録に表れる10世紀のはるか以前の白鳳期に存在していたということを示す。
 さて、この出雲寺のあった附近は山背国愛宕郡出雲郷に含まれる。出雲郷には出雲にルーツを持つ出雲臣氏が多く居住したという。これは正倉院文書で証明されている。そして出雲臣氏は多くの官人を出している。
 そうした出雲郷にあった出雲寺はおそらくは出雲氏一族の氏寺であったと想定される。
出雲氏は決して超一流の氏族ではなかったが、天武・持統帝の時代は地方の中小の氏族も寺院建立に積極的になった時代であった。おそらくそういったような時流のなかで、出雲氏は氏寺出雲寺を建立したのではなかろうか。
さらに言えば、天武・持統両帝の肝いりであった本薬師寺の瓦が使用できたのは、決して高級官僚ではなかった出雲氏ではあるが、朝廷のなかで特別な力をもっていた氏族であったのかも知れない。
○2016/11/16追加:
次のようなブログの記事を発見したので、追加する。
ブログ「京都痕跡町歩き」>2015-10-14【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して8の「上出雲寺の大伽藍」には次のようにある。
「山城名勝志」によれば、上出雲寺には南大門と中門があり、中門を取り囲んで回廊がめぐらされ、2階建ての金堂には裳階がつき、講堂、食堂、鐘楼、経堂、三重塔が2基あったという。
さらに「出雲寺の遺品たち」の項には次のようにある。
◇上出雲寺・三重塔礎石
上御霊神社の近くに尾形光琳屋敷があった。光琳の屋敷は荒れ果てて藪が茂り、薮内と呼ばれていた。
その藪の中に大きな石が残されていたそうだ。ジモピー(※地元のピープルのことであろう)は、それを「夜泣き石」とよんでいた。
その後、烏丸通が薮内を通過するのにともない、その石は売り払われてしまう。
その後、上出雲寺の三重塔の礎石ではないかということになり、今は渉成園への建物(別館)の濡縁に利用されているという。
○さて渉成園(枳殻邸)である。
2016/11/05撮影:
渉成園は東本願寺の飛地(別邸)であり、広大な敷地と多くの建物を有する庭園である。
 ●参考資料:「名勝 渉成園(枳殻邸)」真宗大谷派宗務所、2011
ブログでいう「三重塔の礎石と云われる石は建物(別館)の濡縁に利用」とは、別館という意味の真意は分からないが、礎石であろう石は濡縁の束石か沓脱石として在ると解釈される。
濡縁に付属する大石としては閬風邸(ふうろうてい)の縁の2個所にあるのが眼に付く。(建物は数多あり精査した訳ではない。)
上記のブログ記事に従えば、これらの何れかが三重塔の礎石と云われていたものかも知れない。
しかし敷地は広大であり、この敷地には別の礎石の候補があるかも知れない。したがって、次の写真(閬風邸沓脱石)はたまたま眼についただけのものかも知れない。
 閬風邸沓脱石1     閬風邸沓脱石2
次は出雲寺三重塔礎石とは無関係の渉成園の点描である。
高石垣:西門を入ってすぐに、雑多の石を組んだ「高石垣」があるが、束石もしくは礎石と思われる2石が組み込まれる。
 渉成園高石垣     高石垣「束石」1     高石垣「束石」2
印月池:印月池背後の島や築山は最近の研究によって、御土居の残欠であるとする見方が定着したようである。
 渉成園印月池1     渉成園印月池2
九重石塔:源融供養塔と伝承し、鎌倉中期のものと推定される。渉成園は源融の六条河原院の旧跡と伝える。
 源融供養九重石塔1     源融供養九重石塔2     源融供養九重石塔3
石造宝塔塔身:塩釜の手水鉢という。石造宝塔の塔身を転用したもので、宝塔は鎌倉期のものであろう。
 石造宝塔塔身1     石造宝塔塔身2
2019/05/22追加:
 現在の上御霊社附近(上出雲郷)や相国寺一帯(下出雲郷)は出雲郷であり、山陰道から移動してきた出雲出身者たちが居住した所と云われ、後に上出雲郷と下出雲郷のふたつに分かれたと言われる。
出雲郷には出雲氏の氏寺である出雲寺が建てられ、後に上出雲寺・下出雲寺に分かれたともいう。
そして現存する上御霊社は上出雲寺の鎮守であったという。
昭和11年(1936)頃、現在の上御霊社境内から古瓦が発見される。この瓦は、昭和58年(1983)発掘された蟹ヶ坂瓦窯(北区西賀茂)で焼かれたものという。さらに、大和本薬師寺の同笵瓦もあるという。
 上出雲寺は明治維新前には上御霊社観音堂として命脈を保ってきたが、明治6年神仏分離の余波で、上出雲寺の遺仏である聖観音立像は附近の浄土宗知恩院末念仏寺に遷される。
なお、現在、念仏寺は光明山出雲寺と称し、現在の上御霊社の南東・寺町通の西側に存在し、上出雲寺旧仏を伝える。
○2019/02/23撮影:
京都市考古資料館「平成30年度後期特別展示 京都の飛鳥・白鳳寺院-平安京遷都前の北山背-」の展示より:
 鋸歯文縁単弁七葉蓮華文軒丸瓦・変形偏行忍冬唐草文軒平瓦・偏行唐草文軒平瓦:鋸歯文縁単弁七葉蓮華文軒丸瓦と変形偏行忍冬唐草文軒平瓦は本薬師寺式である。(「飛鳥白鳳の甍」)
 鋸歯文縁単弁七葉蓮華文軒丸瓦・偏行唐草文軒平瓦:丸瓦・平瓦とも本薬師寺氏であり、特に変形偏行忍冬唐草文軒平瓦は本薬師寺の出土瓦と同笵である。(「飛鳥白鳳の甍」)

山城鹿苑寺北山七重塔跡(北山大塔跡)

山城鹿苑寺(通称金閣寺)に北山七重塔跡(土壇)が残存する。
北山七重塔跡の位置は次の「調査区配置図」に示す通りである。
 鹿苑寺調査区配置図1:「西園寺四十五尺曝布瀧と北山七重大塔(上)−金閣寺境内における所在について−」東洋一(「研究紀要 第7号」京都市埋蔵文化財研究所、2000.3.31 所収) より転載。
図の右端中央に「▼北山七重塔推定地」と表記がある。
 鹿苑寺調査区配置図2:「鹿苑寺(金閣寺)庭園 防災防犯施設工事に伴う発掘調査報告書」鹿苑寺、1997 より転載。
基本的に調査区配置図1と同一のものである。但し「▼北山七重塔推定図」の記入は原図に本人(s_minaga)が行う。
鹿苑寺及び北山七重塔に関する概要は次の通りである。
○「鹿苑寺(金閣寺)庭園 防災防犯施設工事に伴う発掘調査報告書」鹿苑寺、1997 より
 鹿苑寺(金閣寺と俗称する)は北山と号する。また、鹿苑寺は臨済宗相国寺末である。
抑々、鹿苑寺は西園寺公経の草創にかかる北山第(氏寺西園寺)を源とする。
西園寺公経は鎌倉幕府と通じ、それを背景に強大な権力を手にした政治家であった。
北山第は、現在の鹿苑寺の地に広大な池を掘り、48尺の瀧、瀧の本に不動堂、さらに本堂、功徳蔵院、五大堂、成就心院、法水院、無量光院、妙音堂などの堂宇を具備した寺院であったという。
しかし、鎌倉幕府と通じていた公経の権勢は当然鎌倉幕府の没落と共に凋落し、北山第(氏寺西園寺)は荒廃するという。
応永2年(1395)3代将軍足利義満は突然出家し、将軍職を義持に譲る。
翌年応永4年、義満は北山第を入手し、巨額の資財を投じて、北山第を整備し、自身の別邸とする。特に舎利殿は全部に金箔が張られた建築であり、後世金閣と呼ばれる豪奢なものであった。
応永11年(1404)北山(現鹿苑寺)七重大塔の立柱式。(「教言卿記」<大日本史料七ノ九>)
 ※この造立は前年の応永10年に相国寺七重大塔が焼失し、その再興は北山にて企図されたからである。
応永15年義満逝去、この別邸は義満の死後、遺言によって寺院とされ、法号から鹿苑寺と号される。
応永23年 (1416)鹿苑寺七重大塔、雷により焼失。(「看聞日記」応永二十三年 正月九日条)
 ※この再興は再び相国寺にて企図・実施される。かくして北山鹿苑寺の七重塔が再び姿を現すことはなかったのである。
   相国寺七重塔
○2016/03/22「X」氏訪問情報:
 北山七重塔推定地は「高まり」となり、すぐに判別可能である。「高まり」横にはトイレが設置され、さらに「高まり」やその横にはベンチが置かれ、休憩場所として使用されている。
近年のフォリンカントリーからの来訪の爆発的増加の現象は当然この金閣寺にも及び、静かな見学は早朝が適切と判断される。
2016/05/26撮影:
 この場所がなぜ北山大塔址とされるのか、そのような伝承があるのか、関連する遺物などの取得があったのかなどについては不明であるが、大塔跡とされる場所には明らかな土壇が存在する。
土壇は相当程度崩れ、原形を留めないが、明らかに人工的な土盛の形跡を残す。
 北山大塔の基壇規模について触れられた資料は管見にして知らないが、相国寺七重塔の高さは後世の資料ながら360尺(109m)と伝えられることと、南都東大寺に現存する東西両塔の土壇を参考にすれば、凡その規模が推測可能であろう。
 東大寺の両塔の規模は次の通りである。
 東大寺東塔:最近の発掘調査によれば、鎌倉再興時基壇は方約27m、高さは1.7m以上という。奈良期創建の塔基壇の一辺は方約24mで高さは1.5mであることも判明する。
 東大寺西塔:以前の発掘調査で塔基壇の一辺は23.8mと判明しているという。
 とこれで、相国寺の塔婆は高さでは、東大寺・法勝寺塔婆を凌ぎ、おそらく史上最も高い塔婆であったと言われる。
一方、高さではやや低い東大寺七重塔については基壇規模は以上のように判明している。
即ち
以上の事から北山大塔の基壇規模を類推すれば、基壇一辺は30mに迫る規模、高さは2mに近いものであったであろうと思われる。
現地で土壇規模は測り難いが、形は乱れるも、巨大な土壇が厳然と存在する。
 北山大塔土壇11:西から      北山大塔土壇12:西から      北山大塔土壇13:西南から
 北山大塔土壇14:南から      北山大塔土壇15:南から      北山大塔土壇16:南から
 北山大塔土壇々上1      北山大塔土壇々上2      北山大塔土壇々上3      北山大塔土壇々上4
2016/07/11追加:
○北山大塔相輪の破片発掘との報道発表:
2016/07/08北山大塔相輪の破片が出土と報道発表がある。
 北山大塔土壇趾と推定される東側の売店などの建替えに伴う2015年5〜7月の発掘調査で、北山大塔の相輪(宝輪)と推定される破片が計3個出土する。出土場所は室町期と推定される溝という。
その破片は青銅製であり、その最大のものは横幅37.4cm、高さ24.6cm、厚さ約1.5cmを測る。破片は九輪(宝輪)の破片であり、一部に金メッキが施される。
そしてその破片を復元すれば径2.4mの九輪(宝輪)となり、現存する東寺五重塔の九輪の径が最大1.6mであることから、北山大塔に相応しい大きさの相輪と言ってよいであろうと判断される。
 出土北山大塔宝輪破片1     出土北山大塔宝輪破片2
 相国寺七重塔復元CG:復元考証・冨島義幸、CG作成・竹川浩平という。(但し、このCGは北山大塔ではなく相国寺七重塔の復元である。)
○京都市考古資料館展示北山大塔宝輪残欠
2016/07/14撮影:某氏ご提供画像
 出土北山大塔宝輪破片5     出土北山大塔宝輪破片6     出土北山大塔宝輪破片7     出土北山大塔宝輪破片8
2016/07/16撮影:
 出土北山大塔宝輪破片3     出土北山大塔宝輪破片4
2019/01/11撮影:京都創生館展示
 出土北山大塔宝輪破片9     出土北山大塔宝輪破片10
 九輪断片と推定復元:「京の塔をめぐる-塔のある風景を求めて-」冨島義幸 より
  ※「京の塔をめぐる」は2019//01/11の同名のアスニーセミナーのパンフレットである。
  ※本復元案は冨島氏によるものと思われる。そしておそらく「本邦初公開」とも云う。
  ※冨島義幸氏は京都大学大学院教授である。(前出)
2022/03/04追加:
○「京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告」2015-9 より
北山大塔宝輪実測図

2018/02/15追加:
○「北山七重大塔の所在地について(上)」東洋一 より
-----以下概要を紹介する。-----
 本稿の位置付けについては「西園寺四十五尺曝布瀧と北山七重大塔(上)−金閣寺境内における所在について−」(以下〔第1部〕とする)に続く〔第2部〕である。さらに、紙数の関係で、本稿は「上、下」に分割して発表するという。
 さらに、「北山七重大塔」について詳論する本論は、研究所の諸事情から一度は却下された論文である。常識からして塔跡基壇が巨大すぎたからである。
 ところが2016年に三枝暁子氏や早島大祐氏が〔第1部〕における筆者の見解を正当に紹介・評価をされた。
奇しくも筆者が担当した金閣寺駐車場調査(図1)で、筆者の推定した大塔所在地西約20m地点から、推定径2.3mもの巨大な青銅製九輪破片(8.2kg)等(図2)が出土したのである。この九輪出土によって筆者の15 年前の想定が決して荒唐無稽ではなかったことを理解していただけるであろうという。
 (図1金閣寺境内北東部調査区配置図     (図2大塔金銅製品
 (図1):この地図の駐車場南近辺を一見すると、駐車場南沿から売店間に、一辺約40m四方、高さ約2.5m、上面はほぼ平らであるが、中央部に幅約5m、深さ約1mの不定形な凹みのある正方形の高まりが、等高線から見事に浮かび上がってくる。

 さて本題であるが、まずは、文献に見られる北山大塔焼亡に関して符合する二つの記事から探っていきたい。
「九日。雨降。戌剋雷電暴風以外也。此時分赤気輝蒼天。若焼亡歟之由不審之處。北山大塔七重。為雷火炎上云々。雷三度落懸。僧俗番匠等捨身雖打消。遂以焼失。併天魔所為勿論也。去応永七年相國寺大塔七重。為雷火炎上。其後北山ニ被遷之。造営未終功之處又焼失。末代不相応歟。法滅之至可歎。軈又。相國寺ニ被遷可被建立之由則有其沙汰云々。」(『看聞日記』応永廿三年正月九日)
あるいは、
「九日、陰定遍滿、戊初刻雷電、驚聽、遂而北山大塔上雷落、懸火出來塔婆、片時其残焼失、塔本邊不斷言广愛染王堂焼失、本尊奉出也、塔本之木屋已下悉無残、但北山御所無爲、此大塔御建立已及十四カ年、去年大略九輪等上之、當年可周備之處、凡無念、無力事歟、」(『醍醐寺文書・二百一函』)
 この2つの記事で共通するのは、応永23年(1416)正月九日、北山大塔は落雷により大略九輪等上げて周備していたにもかかわらず片時其残焼失してしまうということである。また、「塔本邊不斷護摩愛染王堂焼失」とあるように、大塔に隣接して、ともに焼失した西園寺時代から存続していた「愛染王堂」の可能性が高い正方位の基壇を、大塔推定地の西側の調査で検出した。
 即ち、北山大塔は、日本国王足利義満をして「此大塔御建立已及十四カ年」も費やして「當年可周備之處」が、遂に完成できなかった『室町の王権』の院政的シンボルであり、未完のモニュメントだったのであるという。

 ところが不思議なことに相国寺七重大塔に比べて北山大塔に関する研究は今日まで未開拓な忘却の彼方に追いやられている幻の塔と化しているのである。この再建された北山大塔については、頼るべき研究が少なく、未だ専論はない。
 一方、
 相国寺七重大塔に関しては早くも明治時代中葉に東京帝国大学史料編纂室の田中義成氏が「茲に注意すべきは、相国寺の塔の第一基(層)には、金剛界の大日如来を安置し、第二層には胎蔵界の大日如来を安置せる事なり。これ不思議の事なり。何となれば、相国寺は禅宗なるに、其寺内に塔を立て、真言の仏像を安置するは異例なり。蓋し禅宗は武家の宗教にして、真言は帝室の仏教なり。故に義満は公家と武家との宗教を合同する意味に於いて此塔を造りしならん」と問題を提起されて以来、その塔の性格を巡って様々な議論が繰り返されてきた。
そして、奇しくも〔第1部〕と同年に建築史学の冨島義幸氏が発表された論考『相国寺七重塔』の中で「義満は相国寺七重塔供養において、南都北嶺の顕密権門諸寺の僧侶、関白以下の廷臣を参列させ、顕密仏教と公家からなる空間、すなわち天皇・院の存在しない『擬御願寺供養会』の空間をつくりだした。そして義満自らが證誠となることで、その頂点たる自らの地位を示した。この七重塔は、あくまでも顕密仏教の塔として建立・供養されたのである」と見事に総括されたのである。
 最後に、相国寺七重大塔と北山大塔の建立された意味について考察しよう。
 北山大塔の前身塔である相国寺七重大塔の結構については、幸いなことに落慶供養があった応永六年九月十五日の『供養相國寺塔願文并咒願文』によって大まかな概要を知ることが出来る。
「建立七重塔婆一基、奉造立安置金剛界大日如来、阿閦、宝相、弥陀、不空等五仏像、 并第二層胎蔵界大日如来像、奉綵画内陣四柱三十二尊、并扉面二十四天像」
 これは、とてつもない密教的「七重塔婆」である。
なぜなら、初層に「金剛界大日如来、阿閦、宝相、弥陀、不空等五仏像」を安置するだけでなく、二階にも「胎蔵界大日如来像」を安置し、しかも扉には通例十二天像(帝釈天・火天・閻魔天・羅刹天・水天・風天・毘沙門天・伊舎那天・梵天・地天・日天・月天)の倍の「扉面二十四天像」を描くから、二枚一組の扉が十二組で合計十二間分の扉を有し、通例の塔が三間四方・中央一間各二枚扉であるのに対し、今日残存する大塔形式の塔がそうであるように四面中央の各三間に合計二十四扉が四方に開いていたことが、この『願文』によって理解できるからである。いずれにせよ、四面とも扉だけで構成されていたことは到底考えられないので、初層は工法上からも各面両脇一間は窓ないし壁で、更に庇に裳層付の少なくとも方五間か七間の大塔であったことが理解できよう。
 この事は何れにせよ、相国寺大塔建立の陰には、足利義満の公武合一顕密禅融合の伏線が張られていたのである。
 では、北山大塔建立で足利義満は何を企図していたのか。
本稿は次のように述べる。
 紙数が尽きたので結論だけ述べる。北山大塔は義満の分身であり、彼の目的が何処にあったのかを端的に暗示している。「一天のあるし、萬民のヲや」である法皇義満と義父・猶子の成立を示す応永十五年(1408)三月八日から20日間にも及ぶ異例な朝覲行幸である北山行幸を果たし、既に義満の妻北山院日野康子を国母(准母)とし、幼少の時から義満に扶持されてきた後小松天皇である。この点に関して異論はなかろう。
もし仮に北山大塔供養が行われていれば、義満の最大の盛儀とされてはいるが、天皇の参加がなかった相国寺大塔供養会で空白の「裳層」の間に、それを上回る盛儀となるはずであった北山大塔供養会では、御願寺供養会の常として後小松天皇の御座(御所)が「裳層」に設けられたはずである。そしてまた義満の子で後小松天皇の北山行幸から義満が亡くなる直前までに急激且つ確実に階位が上がり、義満が亡くなるほぼ一週間前の応永十五年四月二十五日には内裏に参内して親王の元服の儀である白昼の儀までを行った親王待遇の義嗣が、後小松天皇の猶子として皇太子の座である「裳層」に並んで着座したはずである。恐らく京中と供養会の警備は将軍義持を筆頭とする武家が担い、北山殿内には千僧供養に出向いた顕密僧を中心とした僧侶で満ち溢れ、大塔の基壇上軒下(栄の間)には公卿全員が着座し、基壇下には上官・侍臣等百官が取り囲んで着座したはずである。筆者はこれを大塔中心内陣(廂)に一人義満が着座する院を頂点とする「寺社権門体制」の完成形とみる。所謂「皇位簒奪計画」なるものは、守護大名勢力に掘り崩されつつあった「寺社権門体制」を保守的に維持する必然的な形態だったのではないか。武家の禅宗寺院で行われた中途半端な相国寺大塔供養段階との時代差がある。云々。」

2022/03/04追加:
○「北山七重大塔の所在について(下)」東 洋一(「洛史:研究紀要 第12号」京都市埋蔵文化財研究所、2019 所収) より

  以下に概要を記す。
  詳細な論考については省略しているので、原著の参照を願う。

 金閣寺境内東北部に高さ約2m、一辺約40mを測る、巨大な平面正方形・正方位に収まる土壇が存在する。
この正方形の高まりを横断する仮設通路が開設されることとなり、2016年11月に発掘調査(金閣寺16次調査)が実施される。
この土壇については、同じく東洋一著の「西園寺四十五尺瀑布瀧と北山七重大塔・上)」にて、義満亡き後も細々と造営され、完成間近の応永23年(1416)正月9日に焼亡したと記録に残る北山大塔基壇跡に比定できることが考証されている。
 2016年の調査以前の2015年の金閣寺駐車場内で実施した14次調査において、この土壇北西の隣接地約20m地点で、室町期の溝から金銅製九輪残片8.2sと、2点の風鐸部分と考えられる銅片を検出する。この九輪の残片直径は現存塔高日本一である東寺九輪径が約1.5mであるのに対し、復元径2.4mを測ることから義満建立の巨大な北山大塔の九輪残片であることが確認された。
 ※14次調査は東洋一が調査を担当。「特別史跡・特別名勝鹿苑寺(金閣寺)庭園」(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告、2015-9 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所)2016年の第1章-2・第4章1〜3・5。 所収)を参照。
 ※「北山大塔」とは金閣寺史『鹿苑』に「応永10年(1403)6月3日に焼失した相国寺大塔を北山殿で再建しようとして、翌11年(1404)4月3日立柱の式を行った。翌12年(1405)6月6日には心柱を引くようになったが(『教言卿記』応永十二、六、六)、大工事の故か、はかばかしく進捗せず、立柱から四年後の応永15年(1408)年2月12日に、東寺へ塔に安置する本尊を調べに行くまでに漸く進捗した。
こうして出来上がった七重大塔も、応永23年(1416)正月9日に焼失した(『看聞日記』応永廿三、正、九。」という大塔のことである。
 ※北山大塔に関する醍醐寺文書では次のように云う。
「九日、陰定遍滿、戌初刻雷電、驚聽、遂而北山大塔上雷落、懸火出來塔婆、片時其残焼失、塔本邊不斷言广愛染王堂焼失、本尊奉出也、塔本之木屋已下悉無残、但北山御所無爲、此大塔御建立已及十四カ年、去年大略九輪等上之、當年可周備之處、凡無念、無力事歟、」(応永二十三年正月九日『醍醐寺文書・二百一函』)
 さて、この土壇に関して、結論だけ示せば、北山殿(後の金閣寺)の諸建築の内、消去法からこの巨大な基壇は『室町の王権』を天下に示す、高野山大塔や法勝寺九重大塔を凌ぐ日本一の基壇規模となる「北山大塔」基壇しか該当しないはずである(東洋一著の「上」参照)。
 一方、2016年発掘調査の報告書『報告2017』は方形土壇の「造成土」が「密な堆積ではなく、締まった土質でもないことから大重量を支える基壇とは考えにくい。基壇の上に立っていた建物が北山七重大塔であったかは今後の検証が必要である。」とする。
しかし、これは、日本建築の特質、つまり柱からなる木造軸組構造力学についての無理解からくる発想である。木造軸組構造の建物は、総重量が縦方向に掛かる軸部礎石下には壷地業等の造作が認められるのである。
 例えば、やや時代が降るが日本最大規模を誇る大型建物で、復元柱間約8m・基壇高さ約1.8mで、4〜6mの方形または円形の「壷地業」を確認した例として、方広寺大仏殿基壇の例がある。下に示す「壷地業」断面図から基壇造成土とそれを斜め縦方向に切る礎石抜き取り穴や、水平方向に積み重ねられた基壇造成土と地山を掘り抜いて礫と粘土で何重にも突き固める「壷地業」との関係がよくわかる。
 「壷地業」断面図
これと同じようにスケールは異なるにしても北山大塔基壇も「壷地業」等で軸部の受ける下方を形成していた可能性がある。
 『報告2017』では、方形土壇の「造成土」が基壇としては「軟弱」であり、それ故、この土壇に北山大塔が建っていたかどうかは「今後の検証」が必要という。
『報告2017』では強度基準を院政期に建立された法勝寺九重塔の強固な掘り込み地業を念頭に想定していた、と聞いている。
 しかし、地下に掘り込まれる地業と地上に築かれる基壇の混同は許されない。法勝寺の場合「法勝寺跡である現動物園の敷地は白川砂堆積地域に属しており、砂質地盤地帯である。八角九重塔を建設するに当たり、基礎地盤として巨礫を埋め込んだ粘土層を構築したのは、水を多く含んだ状態の砂では81mに及ぶ塔を支えることができないと判断したためであると考えられる)」のであって、強固な粘質土が基盤の不動山山麓に位置する北山大塔とは立地条件が異なるのである。
 次いで、山大塔の基壇の種類(亀腹)と屋根葺(柿葺)についての考察がある。
建築史学の冨島義幸は、北山で再建される前の相国寺七重塔を「裳階をふくめた全体は一辺七間以上と考えるべきである。」として、「一辺7間」に復元する。
但し、北山大塔焼亡後、相国寺に再々建された相国寺大塔については、一辺九間の可能性があることが判明する。
即ち、興福寺別当経覚が記録した『経覚私要鈔』文明二年十月五日条では「相國寺塔一昨日夜炎上云々、四々[至]九間、雷五重目落焼失云々、希代事也」とある。
また、冨島義幸は金銅製大塔九輪片出土を受けて『まぼろしの相国寺七重塔を復元する−金閣寺における九輪断片の発見によせて−)』でも、建築工学的な観点から100mを超えたとされる日本一の高さを誇る相国寺七重塔を復元され、『報告2017』では「大重量を支える基壇とは考えにくい」として問題とした屋根重量について「今回の復元では、瓦葺のような屋根を木で作った木瓦葺と考えた」という。そして、基壇一辺は36mほどであろうとする。
 一方、冨島説に対し、東洋一は後に述べるように北山大塔を柿葺で基壇を和様の亀腹状基壇に復元するが、基壇の崩れ等を勘案すれば、方形高まりの一辺約40m四方、高さ2m以上の値は、冨島氏の相国寺七重塔復元基壇「一辺36m」と近く、一辺が7間ではなく『経覚私要鈔』にある9間だとすれば、一辺40mはより現実的な値であると考える。
 因みに、この方形土壇上面には以前より既に礎石等は無く抜き取られているが、検出された基壇上に磚や化粧石等が敷かれた痕跡はなく、直接火に掛かった被熱層である。
このことから、東洋一は北山大塔基壇が根来寺大塔亀腹を更に巨大化した亀腹であったと推測する。
また、礎石がない点に関しては、後に述べる相国寺大塔再建に再利用された可能性を考えている。なぜなら、土壇上面は凸凹であり、礎石抜取りに伴うものだと考えられるからである。
 次いで、土壇北脇で大型軒平瓦が出土したが、その意味を考察する。
1990年度3次調査のW4区「池28」(土壇北側)に室町期の多量の大型瓦が出土する。筆者はこれらの瓦群を大型であることか
ら「周辺」の建物ではなく北山大塔そのものに葺かれていた大型瓦だと考える。
しかし、この中世の大型瓦が大塔のものとしても、大塔が本瓦葺であったとは、建築工学的観点から、それでは重すぎて無理だから、考えられない。
では、大塔の屋根はどのようなものであったのか。それは、屋根は柿葺であり、瓦は四隅を飾る降り棟の「甍棟瓦」(※屋根は柿葺であるが、甍<四隅を飾る降り棟>は瓦で造る)であったのであろうと考えられる。
勿論、甍棟塔の現存例は皆無であるが、古写真や絵図によって、甍棟塔の塔は存在した。
一つは明治の廃仏毀釈の際に破壊された元治元年(1864)撮影とされる方5間「相模鶴岡八幡宮大塔」の写真である。上下二層とも檜皮葺か柿葺で上層が四隅「甍棟瓦」であることが確認できる。
また、同じく方5間の廃仏毀釈で明治に破壊された山城石清水八幡宮宝塔や、中世に焼亡した「祇園社多宝大塔」も残存する資料から、上層・下層とも「甍棟瓦」であったことが確認できる。しかも、後に触れるように基壇が何れも和様の床板で亀腹基壇なのである。
  鶴岡八幡宮大塔
  石清水八幡宮宝塔屏風絵(石清水臨時祭・年中行事騎射図屏風:宝塔院部分)
  祇園社多宝塔(祇園社境内絵図3:大塔部分図)
 屋根ついては、以上のように考察するが、では、塔基壇は如何様なものであったのだろうか。
北山大塔はまさに「大塔」と呼ばれている。
まずは、平面方3間の多宝塔ではなく、方5間の二重塔である大塔を見てみよう。
 現存塔は真言系(東密)のものとして紀伊根来寺大塔があり、記録上では八坂感神院大塔相模鶴岡八幡宮大塔等などがある。
天台系(台密)のものとして攝津住吉神宮寺(現阿波切幡寺大塔)が現存する。
何れも心柱は初重梁から建ち、平明方3間の多宝塔と同様に、本尊を中央に安置する場所の確保と、法会を執り行う空間が必要であったからである。
さらに、注目すべきは、紀伊根来寺大塔・山城石清水八幡宮琴塔・鶴岡八幡宮大塔・祇園社大塔は何れも平面方5間で亀腹と欄楯が廻る木縁であることである。それらはいずれも心柱は下重梁上から建ち、一重裳階付で平面方5間であるか、その可能性が高いということである。
勿論、法勝寺八角九重塔・北山大塔・相国寺大塔は層塔であり、上記のようなニ重塔とは相違する。しかしながら、通常の平面方3間の三重塔や五重塔とは違い、これらの層塔は平面7間や5間であると考えられ、その床は木床であり、欄楯が廻る木縁が付設され、床下構造は、二重塔の大塔で見られるように、亀腹である可能性が高いと思われる。
 北山大塔の床下構造は亀腹であり、まさにそれ故に、亀腹上面は単に土を固めただけであるからこそ、2016年発掘調査の報告書『報告2017』いう「被熱層」しか検出できないのである。逆に、『報告2017』の報告が、北山大塔の床下構造は亀腹であったことを示唆するのではないか。

最後に、今後に残された問題は亀腹基壇の上部構造の解明ということであろう。
即ち北山大塔が七重であることを示唆する唯一の資料は次である。
「北山大塔」焼亡記録『看聞日記』に、「九日。雨降。戌剋雷電暴風以外也。此時分赤気輝蒼天。若焼亡歟之由不審之處。北山大塔七重。為雷火炎上云々。雷三度落懸。僧俗番匠等捨身雖打消。遂以焼失。併天魔所為勿論也。去応永七年相國寺大塔※七重。為雷火炎上。其後北山ニ被遷之。造営未終功之處又焼失。末代不相応歟。法滅之至可歎。軈又。相國寺ニ被遷可被建立之由則有其沙汰云々。」(『看聞日記』応永二十三年正月九日)。
 但し、「去応永七年相國寺大塔七重。」は割注で一段小さな文字で「七重」と書かれている。
『看聞日記』は伏見宮貞成親王の著作であるが、彼が当初から「七重」と書いていたのか、再建前の相国寺七重塔から類推した書き込みなのか、新たに割注として書き加えたものなのかは依然として謎に包まれているのである。
「七重」記載は後世の編纂史料(『翰林胡藘集』『東寺私用集』『續史愚抄』等)を除けばここだけであって、不思議なことに北山大塔造営過程の豊富な『東寺百合文書』等の第一次史料には一言も「七重」の言葉が出てこないのである。
とは言え、東洋一は焼亡した相国寺塔を北山で再建したのであるから相国寺塔と同じ七重であった可能性は依然と高いものと考えている。
 なお、『翰林胡藘集』の応永十一年四月条に「後於北山。建七層大塔。公謂近習臣曰。天益乎吾。以功徳善根也。大哉善根。至哉功徳。昔魏主之長安北臺起七級塔。而高三十丈者」とされ、約90mの中国の塔の高さと比較されている。
   <後略>

2021/05/01追加:
○朝日新聞デジタル 2021年4月26日 及び 朝日新聞朝刊 2021年4月26日 より
金閣寺の「幻の塔」の一部か 境内土壇から鎌倉期の木片
 2016年、京都市埋蔵文化財研究所の発掘調査で、境内東側の土壇(高さ約2m、約40m四方)の周辺から、金属片が出土する。
これは「相輪」の一部とみられ、大塔の一部の可能性が高いと判断され、大塔の存在が一躍注目を浴びるようになる。
 ただ、その所在地は分からないままで、土壇が大塔の土台だったと主張する人もいる。
しかし、同研究所は、土壇は巨大建造物を支えるほど頑丈な土質ではないとみて、大塔が上に建っていたかは「今後の検証が必要」としていた。
 そんな中、昨年の市文化財保護課の調査で、土壇の南西角から木片が発見される。室町時代に築かれたとみられる焼けた層の土を調べたところ、焼けて炭化した粉状の木片がわずかに混じっていたという。
 過去の調査では、室町時代の土師器(はじき)のかけらなどが出土していたが、建造物の一部とみられる木材を確認したのは初めてだという。
市は、出土品分析などを手掛ける「パレオ・ラボ」(埼玉県)に分析を依頼し、木片に含まれる炭素の量などから1225年〜74年の鎌倉期にものほぼ間違いないとの結果が出る。
北山大塔が建てられた室町期より古い年代の木材ということになるが、太い柱の表面ではなく内側の木片であった場合、木材として使われた時代よりも古いものとして判定される場合があるという。従って、断定はできないが、北山大塔の一部だった可能性もあるという。
 さらに、市は次の興味深い報告を纏めているという。土壇が柔らかく「大重量を支える基壇とは考えにくい」としていた同研究所の従来の考察を見直す形で、柔らかい土質は「構成の風化」だったとした。
 今後のさらなる調査が必要ということになる。
 ※土壇は北山大塔の基壇というのが自明のことと思っていたが、それに懐疑的な見解が存在する。
 ※土壇の土質の柔らかさは「後世の風化」ともいうが、ご都合主義とも思われる。数百年の単位でそんなことが有り得るのであろうか。
 出土木片の顕微鏡写真     大塔跡と推定される土壇1     大塔跡と推定される土壇2

山城北野廃寺

所在は北野白梅町附近である。付近は市街地であり、大規模な調査は難しく、寺院の全容ははっきり分かってはいない。
 廃寺の主な遺構としては、寺域と想定される範囲の中央付近に瓦積基壇の礎石建物1棟あり、東西に回廊が取付くと考えられている。
西南部では北野廃寺瓦窯が発見されていり。北部では東西溝が見つかり、寺域北限とみられる。
また、平安前期の「野寺」と書かれた墨書土器が多く発掘されている。野寺は正式には常住寺(「諸寺略記」)といい、平安遷都以降に別の寺院として整備されてと考えられている。
 なお、北野廃寺は山背で最古の寺院である秦河勝の創建である蜂岡寺(広隆寺)の故地であり、平安京遷都と同時期に現在の太秦に移転したのではないかという説が有力という。
2020/02/24追加:
〇「飛鳥白鳳の甍〜京都市の古代寺院〜」京都市文化財ブックス第24集、平成22年(2010) より
北野廃寺
京都市内最古の寺、全国的に見ても最古級の寺である。飛鳥寺類似の瓦が出土し、おそらくは飛鳥寺とのつながりを持ちつつ建立されたものと推定される。
さて本廃寺の正体であるが、広隆寺と常住寺(野寺)との関係をどう説明するかに尽きる。
 ・広隆寺は秦河勝が聖徳太子から仏像を譲りうけて創建すると伝える。
承和3年(836)成立の「廣隆寺縁起」によれば、広隆寺は初めは別の地にあり、現在地に移転してきたという。その故地とは「九条河原里」と「同条荒見社里」の14町という。これは今の平野社の附近に相当し、北野廃寺とは近い地である。
出土する土器の「鵤室(いかるがむろ)」や「秦立」の墨書は「斑鳩」(聖徳太子の宮の地)との関係を示唆する。
しかし、北野廃寺の所在は九条ではなく八条であること、北野廃寺と広隆寺の出土瓦に共通するものが少ないこと、北野廃寺は平安期まで存続した形跡もあり、以上の点で広隆寺との関係を問題視する説もある。
 ・常住寺(野寺)は「日本後記」の弘仁11年(820)閏1月丁卯条に見えるのが初出である。
9世紀後半には塔・金堂・講堂・鐘楼・経蔵・歩廊・中門などの外、西南別院を備える大伽藍であったという。
以降14世紀末頃まで資料に現れる。
弘安2年(1279)奥書の「諸寺略記」巻第769では通称は「野寺」と云ったという。
その野寺の名称は常住寺より早く「日本後記」の延暦15年(796)11月辛丑条に見える。
 この野寺の所在地は、いくつかの史料で北野白梅町附近と推定されてきた。
実際、後の発掘調査では「野寺」の墨書を持つ9世紀の土師器が多く出土し、平安期以降の北野廃寺が野寺(常住寺)であることはもはや間違いないであろうと思われる。
○2019/02/23撮影:
京都市考古資料館「平成30年度後期特別展示 京都の飛鳥・白鳳寺院-平安京遷都前の北山背-」の展示より:
 北野廃寺調査・遺構配置図
 北野廃寺推定講堂遺構:昭和52年調査の写真、唯一判明している建物遺構、昭和40年に南面する瓦積基壇を発掘、その後の数次の調査で身舎は梁間2間桁行5間で四面に庇が付く礎石建物と判明する。東西には回廊が取付く、基壇の高さはあまり高くなく、講堂と推定される。
 北野廃寺鬼板     素弁十葉蓮華文軒丸瓦     重圏文縁単弁八葉蓮華文軒丸瓦
 複弁八葉蓮華文軒丸瓦     線鋸歯文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦
 素弁十葉蓮華文軒丸瓦その2     素弁十葉蓮華文軒丸瓦その3     均整唐草文軒平瓦
 北野廃寺出土墨書土器:「鵤室」の墨書は灰釉陶器で、陶器自体は平安前期のもので、鵤=斑鳩寺=法隆寺を想起させる。
「泰立」の墨書も灰釉陶器でこれは10世紀の資料であるが、泰氏を想起させるかのようである。
「野寺」の墨書は昭和54年の推定寺域の北東隅で出土したもので、8点を数える。平安前期のもので、野寺(常住寺)の存在を裏付ける。

山城広隆寺及び心礎

楼門東南に「太秦広隆寺」の標石があり、この標石の台石に心礎が転用される。
この心礎は元講堂の西45mほどにあったとされる。
「日本の木造塔跡」:心礎は2.4m×2m×85cmで中央に径90cmの穴の跡がある。
(穴はコンクリートが詰められていて見ることは出来ない)。
おそらく延暦年間に(北野廃寺からと推定される)移転した当時の広隆寺五重塔心礎と考えられている。
 (塔頭十輪院三重塔との説もある。)
当寺は推古31年(623)聖徳太子の菩提のため秦河勝が建立したと伝える。
 →平安京の塔婆:山城広隆寺
2019/05/23追加:
 蜂岡山と号する。蜂岡寺、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などとも称される。
推古天皇11年(603)秦河勝、厩戸皇子より仏像を拝領し、蜂岡寺を建立という。(「日本書紀」)
あるいは、「広隆寺縁起」(承和5年/838)や「広隆寺資財交替実録帳」(寛平2年/890)の縁起では、広隆寺は推古天皇30年(622)逝去した厩戸皇子の供養のため建立されたと云う。この食い違いについて、蜂岡寺は推古天皇11年に創建され、同30年に完成したという解釈と推古天皇11年に建てられた蜂岡寺と同30年に建立された別の寺院が合併し現在の広隆寺があるという解釈があるという。
何れにしろ、現在の広隆寺の前身は蜂岡寺であるが、蜂岡寺の創建の場所については明確ではなく、北野白梅町の北野廃寺が創建時の蜂岡寺で、その後平安京遷都の頃現在地の太秦に移転したという説が有力という。
2020/02/24追加:
〇「飛鳥白鳳の甍〜京都市の古代寺院〜」京都市文化財ブックス第24集、平成22年(2010) より
広隆寺:
 「日本書紀」推古11年(603)聖徳太子、仏像を秦河勝に与え、河勝はこれによって蜂岡寺を建立する。
同書の推古31年(623)新羅の遣いが献上した仏像を葛野秦寺に据えたという。
 広隆寺は太秦蜂岡町に所在し、広隆寺は秦氏の建立と伝えるので、常識的に考えれば、蜂岡寺と葛野秦寺と広隆寺は同一の寺院であろう。
なお、後世には泰公寺、太秦公寺とも云われる。
広隆寺移転問題:
 ここで議論を呼ぶ問題がある。広隆寺は移転してきたという史料があることだ。
この問題はいくつもの文献史料・美術資料・考古資料をいかに整合して説明するかという問題で、議論は百出している。
それは、膨大な量ので、本書では林南壽の研究と総括を元にごく触りだけを述べることとするという。
 承和3年(836)成立の「廣隆寺縁起」によれば、広隆寺は初め「九条河原里」と「同条荒見社里」の14町にあったが、その地が狭隘であった
ため、五条荒蒔里の合計6町の敷地へ移転するという。
以上の移転理由は14町の敷地が狭隘であるので、6町の敷地に移ったというもので合理性を欠くが、これは平安遷都にともなって旧地が収容された結果、狭隘となり移転したのであろうという説が半ば定説となっている。
北野廃寺との関係:
 創建広隆寺を北野廃寺に充てる説があることは、北野廃寺の項で述べている通りである。
確かに北野廃寺からは広隆寺より古い瓦が出土する。しかし、平安遷都の時に移転したとするには、現広隆寺境内からも飛鳥期の瓦が出土する矛盾がある。移転に伴って瓦ごと建物を移築したということか有り得るが、それならば、北野廃寺と広隆寺の出土瓦は同一でなければならないが、現実には異なる飛鳥瓦が出土するのである。
つまり、考古学的には北野廃寺とは別に現広隆寺にも別の飛鳥伽藍があったとしか考えられないのである。
 そこで、近年は蜂岡寺と葛野秦寺は別の寺院であるとの見方が有力になりつつある。
林南壽説によれば、広隆寺の移転は単なる移転ではなく、蜂岡寺と葛野秦寺との合併だという。
北野廃寺つまり蜂岡寺が平安遷都の土地収用に遭ったため、寺籍と資材を広隆寺つまり葛野秦寺に移し合併したのだと。そして両寺の合併後、白梅町に残された建物を再整備して出発したのが野寺(常住寺)であるとする。
蜂岡という地名:
 では、蜂岡寺と葛野秦寺が別寺として、どちらが飛鳥期の広隆寺であろうか。
蜂岡寺とは明らかに地名号であるが、これを北野廃寺と見るには抵抗がある。現在の当地は北野であり、北は平野であり、西は小松原(松原村)であり、平坦地のイメージしかないからである。
 一方、現在の広隆寺附近にも岡はないが、附近には多くの古墳があり、またあったことが想定される。蜂岡とはそういった小墳丘が密集した広隆寺附近の地名を表現したものと解した方が「しっくりとくり」のではないかと思われる。やはり、広隆寺の今の地名が蜂岡である通り、広隆寺が蜂岡寺であったと考えたい。
広隆寺の発掘調査:
 想定寺域内で何度か発掘調査が行われたが、明確な飛鳥・白鳳期の伽藍遺構は発見されていない。
唯一、塔心礎が門前の寺号標柱の台石に使用され、古代寺院を偲ぶよすがとなっている。
心礎は大正年中に今の薬師堂の西附近で出土し、その付近が塔跡ではないかとも推定される。但し、心礎は天地が逆になって発掘されたので、動かされていて、この意味では塔跡もはっきりしない。
○2002/03/23撮影:
 山城広隆寺心礎1     山城広隆寺心礎2     山城広隆寺心礎3
○2019/02/23撮影:
京都市考古資料館「平成30年度後期特別展示 京都の飛鳥・白鳳寺院-平安京遷都前の北山背-」の展示より:
 広隆寺旧境内出土瓦その1:向かって左上の瓦は重圏文縁単弁八葉蓮華文軒丸瓦、下は有軸素弁八葉蓮華文軒丸瓦
 広隆寺旧境内出土瓦その2:向かって左端は重圏文縁単弁八葉蓮華文軒丸瓦
 素文縁単弁十二葉蓮華文軒丸瓦:左の写真の上と同一の瓦     広隆寺旧境内塑像佛片

山城法金剛院

 →「京洛平安期の塔婆」のページに掲載。 三重塔跡が発掘される。

山城二尊院雁塔(法然上人遺骸安置)

二尊院は承和年中(834–847)、嵯峨天皇の勅によって円仁(慈覚大師)に建立せしめた華台寺の跡とつたえ、長く荒廃していたが、鎌倉初期に法然の高弟である湛空らにより再興される。比叡山末。
2015/02/16追加:
嘉禄3年(1227)の嘉禄の法難に際して、法然上人の遺骸を比叡山の僧兵から守るために法然廟所から二尊院まで六波羅探題の武士団らに守られながら遺骸が移送されるという。
 法然上人絵伝:知恩院蔵/国宝、この絵図の二重塔(雁塔)に法然の遺骸は納められたのであろう。
この二重塔は上重平面円形の多宝塔ではなく、上重平面方形の二重塔の形式であり、天台系の多宝塔とでもいうべきものであろうか。
 参考 → 山城真宗院二重塔(但し実態は不明)

山城松尾社

松尾神社及近郷絵図(全図)、松尾神社及近郷絵図(部分図):
松尾社南方に宿院があり、その前方には三重塔が存在する。
 ※「松尾社一切経」については京都妙蓮寺の「松尾社一切経」の項参照
 →松尾社

山城樫原廃寺(史跡)

樫原(かたぎはら)廃寺は1967年(昭和42年)の発掘調査で、7世紀半ばに建立されたと推定される八角三重塔などの遺構(一辺6mの八角形の瓦積基壇と塔心礎)を検出。史跡指定され中門・塔・回廊跡とともに史跡公園として保存される。
 ※三重塔かどうかは別として、基壇が八角形であるので、平面としては非常に珍しい八角形の塔婆が建っていたのであろう。
○2001/02/10撮影:
 樫原廃寺復元基壇     樫原廃寺復元礎石     樫原廃寺想定復元図:現地案内板から転載。
○「京都の歴史1」:
塔基壇は一辺5.07m、対辺距離12.27m、柱間2.2mの瓦積み基壇(八角)と推定。
心礎は東西1.98m、厚さ1.05mの花崗岩に、 径85×9cmの円穴を彫る。
○「幻の塔を求めて西東」:
心礎は200×200cmで、径86×9cmの円穴を持つ。地下式200cm、白鳳初。
 山城樫原廃寺心礎(昭和42年)
2006/11/11追加:
○「樫原廃寺の再検討(上)」久世康博(京都市埋蔵文化財研究所「研究紀要 第9号」平成16年所収) より:
第1次調査(1967年)結果は以下のとおりであった。
塔跡はこの調査以前から高まりがあったと云う。発掘調査の結果、八角形の瓦積基壇(一辺5.07m、対辺の距離12.27m、現在の高さ1.17m)を検出し、更に心礎の出土を見て塔跡であることを確認した。
基壇化粧は、平瓦を縦に半裁したものを整地面に直接に平積にする。(延石などの使用は見られない。)
保存の最もよい箇所で11段(高さ60cm)ある。また部分的に丸瓦も用いて積み直した部分がみられる。(この補修はとくに南面で顕著)。
階段は、発掘調査範囲内では、南面にのみ確認でき、最下段一段が残る。
基壇上面は後世の削平で、礎石は遺存しない。礎石据付け位置痕跡から、塔規模は側通柱間約2.2m、四天柱間約2.2mと推定される。
現在の上面から下2.05mに花崗岩の心礎(東西径1.98m、厚さ1.05m)を検出する。心礎はほぼ方形をなし、各辺を粗く面取をする。中央には径84×9cmの円穴を彫る。
心礎上面には、心柱を建て、柱の根元の周囲に半焼けの瓦をくだいて多量にまぜた粘土(厚さ30cm、幅85cm)が巡る。この「根巻き」の粘土は、心礎の南側は後世の撹乱によって破壊されていたが、北半部ではよく残っていた。これの保存のため、この部分の心礎上面の調査は未実施 となる。なお、舎利孔は上面、南・東・西の側面には存在しないことを確認する。
さらに、第1次調査で、南側に基壇を持つ中門と、南面回廊及び東側・西側には築地が巡っていたことを確認する。伽藍配置は遺構の検出状況と現状の地形から、中門・塔・金堂・講堂などが一直線上に並ぶ四天王寺式であったと考えられる。
 その後、1997年(第3次調査)、続けて第4次が実施されるも、金堂跡や講堂跡と推定される明確な遺構は検出されず、四天王寺式伽藍配置かどうかは不明とするしかない のが現状であろう。(むしろ四天王寺式として完成した可能性は低いと思われる。)
 山城樫原廃寺調査区配置図     山城樫原廃寺塔発掘図     山城樫原廃寺塔基壇(南より)
 2011/07/19追加:「発掘調査報告書」より
  樫原廃寺遺跡全景:昭和42年
  樫原廃寺史跡公園整備:昭和46年      樫原廃寺史跡公園図
2007/02/17追加:
復原模型(1/30、昭和63年作成、京都文化博物館展示)が京都文化博物館にあり。・・・未見。
但し、Web上の小さい写真を見ると、樫原廃寺八角塔模型(塔の模型)であり、基壇や心礎の復原模型ではない。また塔の模型の精粗の程は良く分からない。
2018/07/03追加:
○「京都の社寺文化」(財)京都府文化財保護基金、昭和46年 より
 樫原廃寺塔基壇:八角基壇
2020/02/24追加:
〇「飛鳥白鳳の甍〜京都市の古代寺院〜」京都市文化財ブックス第24集、平成22年(2010) より
樫原廃寺
 この地樫原は東西に山陰街道、南北に物集女街道が走る交通の要衝であった。
そして、この中近世の両街道は古代の交通路を踏襲していると考えられ、ここは古代豪族が蟠踞するに相応しい土地であった。
 その、古代から要衝の地と考えられるここに古い寺院跡があることは戦前から一部の人には知られていたが、突如、昭和41年(1966)宅地開発のブルドーザが古代寺院の遺構を露出させる。
それを契機に昭和42年緊急の発掘調査が行われる。その結果、ブルドーザが露出させた遺構は東西20m南北11mの堂々たる中門であると判明し、その北側の土壇は予想外の八角塔跡と判明する。
八角形の建物は、飛鳥白鳳期の寺院建築では、今まで類例のないものであった。
 しかし、中門・八角塔以外の金堂・講堂などについては未確認のままであった。
平成9年(1997)遂に塔跡北側の高まりが発掘調査される。
しかし、その結果は以外なものであった。金堂跡と想定された高まりは南北長は想定できなかったが、東西長は14m強の基壇で、これでは3間程の建物しか想定できず、また瓦もごくわずかしか出土せず、金堂だとしても極めて小規模でしかも棟積以外は瓦葺き以外の建物ということが判明する。そして瓦は白鳳期のものが出土したため、この建物は創建時のものとも判明する。
そして回廊・築地は中門から出て、金堂には取付かず、さらに講堂跡も現在も不明で、築地は遥か北方で閉じていたとも思われる。
 以上のように、廃寺は特異な様相を見せ、そのような状況から、久世康博は樫原廃寺は当初の計画どうり伽藍の建設が進まなかったいわば未完の伽藍ではなかったかと見方を示す。
 昭和42年塔基壇発掘状況
 塔跡発掘状況平面図:スケール;1/200、基壇外装は半裁した瓦積基壇、一辺の長さは5.07m、残存する高さは1.17m。
心礎は地下式で、差し渡し径約2.0mで、検出時の基壇上面から2.05mの地下に据えられていた。
○2016/03/31撮影:
 樫原廃寺塔復元基壇1   樫原廃寺塔復元基壇2   樫原廃寺塔復元基壇3
 樫原廃寺塔復元基壇4   樫原廃寺塔復元基壇5
 塔復元瓦積基壇       樫原廃寺塔復元礎石1   樫原廃寺塔復元礎石2
 中門・回廊跡         樫原廃寺想定復元図2
○2019/02/23撮影:
京都市考古資料館「平成30年度後期特別展示 京都の飛鳥・白鳳寺院-平安京遷都前の北山背-」の展示より:
 山城樫原廃寺遺構図     山城樫原廃寺想像復元図
 蓮華文鬼板     素文縁重弁八葉蓮華文軒丸瓦     素文縁重弁十葉蓮華文軒丸瓦     素文軒平瓦

山城南春日町廃寺

昭和56年の発掘調査で塔基壇及び心礎が発掘されるも、その後埋め戻される。従って、心礎は学校グランド下に現存するも、見ることは不能。
 →山城南春日町廃寺

山城宝菩提院廃寺(願徳寺)

現在宝菩提院心礎は近くの岡崎氏邸の庭石に転用される。非公開である。
 ※心礎とは国民共有の文化財であり、であるならば、文化財として、現地に戻すなどの処置をして、公開が望まれる。
なお宝菩提院は木造菩薩半跏像(国宝・弘仁)を有する。
 塔   跡:心礎出土地はこの付近であろう。
 宝菩提院心礎出土位置:慶昌院北道路が出土地、 「塔 跡」写真の左石垣が慶昌院、道路が大原野道、道路右に横断歩道マーク◇が2個あるが、その間付近から心礎が出土という。
○「幻の塔を求めて西東」;一重円孔式:230×130×130cmの大きさで、59.5×20cmの円孔を彫る。白鳳。岡崎邸は旧寺域から東100mにある。
○「向日市史 上巻」昭和58年:明治時代に道路拡幅工事で本堂東南の釈迦堂前から塔心礎が出土する。
心礎は2.2×1.2×1.3mの大きさで、径55×30cmの円孔を彫る。また径85及び径65cmの円形柱座を持つ礎石各2個(計4個)が残るという。(いずれも岡崎氏邸)なお、釈迦堂前とは慶昌院前道路という。
 山城宝菩提院塔心礎
平成12年の登窯跡発掘調査等などから、願徳寺創建は飛鳥・白鳳期とされる。縁起では持統天皇の夢告によって創建されたと伝える。平安期には願徳寺と称する。鎌倉期 、東山三条の宝菩提院が、この地願徳寺へ移されたと伝える。
中世には天台寺院として隆盛であったが、応仁の乱で焼亡する。
江戸期には寺地4町寺領17石を有したが、細々と法灯を伝える状態であったと云う。
明治維新後、更に衰微し、遂に昭和39年本堂・鐘楼などが解体され創建の地を離れ、西山大原野に移転する。
○2007/12/14追加:「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 宝菩提院廃寺心礎
○「新撰京都名所圖會 巻5」昭和38年
天台宗延暦寺末、今は本堂兼用の庫裏と鐘楼があるのみ、菩薩半跏像ほか薬師如来立像(重文・藤原)も有する。
 山城宝菩提院:解体・移転直前の貴重な絵図となる。当時は「緩やかな傾斜地に立地し、竹林や松、椎、桜」で囲まれていた様が表わされる。現在は全くの住宅地と化し、当時を偲ぶ 遺構はほぼ無いが、辛うじて「清泉」(白鳳の泉と伝える。)の残骸が残る。
2013/10/26追加:
○「宝菩提院廃寺」高橋美久二(「向日市埋蔵文化財調査報告書 第20集 長岡京古瓦聚成」向日市教育委員会、1987 所収)より
 宝菩提院付近旧地形図     宝菩提院礎石実測図
心礎は新坂街道をつくる際、現慶昌院前より出土と伝わる。
2020/05/05追加:
岡崎邸については、次のような未確認情報がある。
まなり以前の情報と思われるが、「家主は遠方に居住し現住はしていない。心礎の見学希望を申し出に対して、管理人が対応するが、見学は謝絶される。なお、岡崎家先代は議員(向日町関係か?)であった。」

山城粟生光明寺

 →山城粟生光明寺 「粟生光明寺絵縁起」に三重塔が描かれる。

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六勝寺など洛中の主に平安期に存在した塔婆については、「京洛平安期の塔婆」 に記載。
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山城平野社/施無畏寺

平野神社社頭絵図(部分):現在の様子とは全く相違し、北側に一時神宮寺となった施無畏寺があり、三重塔が存在した。
 →平野社・施無畏寺(平安京の塔婆)

山城相国寺:相国寺塔頭鹿苑院三重塔(中世三重塔)/足利義満七重塔/後水尾天皇三重塔(近世三重塔)

相国寺には次の3基の塔婆の存在が知られる。
◇相国寺塔頭鹿苑院三重塔(中世三重塔)・・・・・康暦2年(1380)創建、文正元年(1466)焼亡。
◇足利義満七重塔・・・・・・・・・・・応永6年(1399)足利義満建立落慶、応永10年焼失、応永11年現在の鹿苑寺に七重塔の建立を開始、
応永23年鹿苑寺七重塔雷火で焼失、その後再興されるも、文明2年(1470)雷火で焼失、高さ360尺(109m)と伝える。
◇後水尾天皇三重塔(近世三重塔)・・・承応2年(1653)後水尾天皇建立(宝塔再興)、天明8年(1788)焼失。
 →山城相国寺

京都北村美術館四君子苑:上京区河原町今出川南一筋東入ル

四君子苑庭園には礎石として、飛鳥山田寺塔四天柱礎、大和中宮寺跡金堂礎石、大和大安寺礎石を所蔵と云う。
 ※山田寺礎石は回廊礎石という見解もある。
◆飛鳥山田寺礎石(塔四天柱礎もしくは廻廊礎石)
 現在は水鉢として転用される。大きさは不明であるが、自然石の表面に方形の柱座の台座を造り、その上に円形の柱座を造り出す。
そして、円形柱座の中央には円孔が穿たれる。さらに円形柱座の周囲には蓮華座のような彫刻が装飾として彫られる。
おそらく中央の円孔および装飾(蓮華座の彫刻)は後世それも水鉢転用時に、加工されたものと思われる。
 →飛鳥山田寺
飛鳥山田寺は明治初頭には礎石もかなり残存していたとの報告もある。但し塔跡に礎石が残存していたかどうかの確証はない。
現状地中に心礎と四天柱礎のある位置付近に礎石が残る。地中に残存のため、写真でしか見ることは出来ないが、心礎には余計な装飾はなく、また礎石もかなり原形を損なうと思われるも、過剰な2重の造出や装飾の彫出があったようには見えない。従って、本苑にある本礎石の現状の形状が本来の姿でないことは明きらかであろう。
 2022/06/23追加:
 山田寺の金堂礎石は「一辺1乳の方座の上に円柱座を造出し・・単弁十二弁の蓮弁をもつ礎石である」との調査報告もあり、
 そうであるならば、「本苑にある本礎石の現状の形状が本来の姿でない」という言は撤回し、
 本苑の礎石が山田寺礎石であることの信憑性が増したと訂正する。

・Webページには以下の写真を含む数点を見つけることができる。
 伝飛鳥山田寺塔四天柱礎1:本写真では「単弁十二弁の蓮弁をもつ礎石である」ことが分かる。
 伝飛鳥山田寺塔四天柱礎2
2022/12/06追加:
仮に次の記事・写真を置く。
○「奈良県の近代和風造園」(「奈文研紀要」2010 所収)
 図 10.2 北村美術館所蔵の山田寺回廊礎石の3D モデル
  山田寺回廊礎石3Dモデル:山田寺廻廊礎石とされるものである。
   参考文献:<「山田寺の発掘調査から」工藤圭章>
◆大和中宮寺跡金堂礎石
現在は庭石として転用される。
本礎石は、明治15年、大和中宮寺旧地(俗称「御旧殿」と呼ばれる)の金堂跡の地点から発掘された3箇の礎石の中の1つと伝承する。
柱座及び地覆座を造り出す礎石である。
 →大和中宮寺跡
現在大和中宮寺金堂跡基壇上に残る礎石は1個(東1列、北2列目)であるが、柱座のみを造り出す。そしてこの現地に残存する礎石が原位置であるならば、東側柱礎石 ということになるが、この現地残存礎石は柱座のみ彫り出し、地覆座の造り出しはない。
中宮寺金堂では地覆座を造り出す礎石(四君子苑)と柱座の造出のみの礎石(現地残存)とを混用したのであろうか。
・Webページには以下の写真を含む数点を見つけることができる。
 伝大和中宮寺金堂礎1      伝大和中宮寺金堂礎2
◆大和大安寺礎石
Webページに明瞭な写真や明確な解説が見当たらず、大安寺のどのような礎石なのかは不明。

2023/01/13追加:2022/10/19見学
○北村美術館・四君子苑
 四君子苑は北村謹次郎(昭和の数奇者と云われた)の旧宅で、しかも北村謹次郎の美意識の結晶ともいえる居宅である。大工は北村捨次郎で、戦時中の昭和15年から19年にかけて建築される。戦時中であればこそ、銘木が入手でき、仕事に飢えていた大工・左官・指物師を結集でき、為すことができたといえるのかも知れない。
四君子苑は戦後すぐ進駐軍によって接取・改造されたため、返還後の昭和38年現在の母屋が建替えられ、庭も庭師・佐野越守によって現在の姿となる。
庭には、44点の歴史的石造品など(重文2点を含む)が所せましと置かれる。
 庭園の石造品について、北村美術館の説明では、昭和38年母屋の建替えに併せ、四君子苑の庭が現在の形となる。
北村謹次郎は庭師・佐野越守と意気投合し、二人は共同し、今庭に配置されている多くの石造品などが蒐められ、庭が造られたという。
このことから、石造品の多くは戦前ではなく、戦後まもなく四君子苑の建替えに合わせて、蒐集されたものと思われる。
 石造品の中には、拙サイトに取り上げた寺院などからの伝来品も9点ほどあり、それを今回紹介する。
しかし、残念ながら、当苑では「写真撮影は出来ません」という方針が徹底され、また見学は屋内からのみに限られ接近できない場合が大半である。よって、遺憾ながら、拙サイトへの掲載は(パンフレット)「四君子苑の庭と石」北村美術館、年紀不詳 から転載する。

○「四君子苑の庭と石」村美術館 より
1.大和大安寺礎石
 解説文:大安寺は南都七大寺の一つで、熊凝寺が起源という。
  四君子苑・大和大安寺礎石
この石は単に大和大安寺の礎石と伝えるだけで、その他の具体的情報(入手の経緯など)は不明である。大和大安寺礎石であれば、どの堂塔のものなのであろうか、これも不明である。
東西塔跡には西塔心礎と東塔礎石の残欠が現地に残り、現在の大安寺境内にも幾つかの礎石が散在するが、多くの礎石は失われているものと推測される。それ故、本庭石が大安寺の礎石である可能性はあるとも思われる。
形状的には柱座を造り出し、その中央に枘孔を穿つ(後世の加工であることも考えられる)ものであろうが、現大安寺に見られる礎石も柱座を造り出すものも見られるので、形状的には違和感はない。
 参考:大安寺西塔心礎1大安寺礎石
しかしながら、そもそも、本庭石が礎石であるかどうかも不明である疑問は捨てきれない。

2.大和山田寺四天柱礎石
 解説文:山田寺から明治40年に発掘された礎石を手水鉢に見立てる。
  四君子苑・大和山田寺礎石
まず、入手の経緯などの情報は不明であるが、解説文のとおり、大和山田寺の礎石であることは間違いないと思われる。
 「奈良県桜井市 特別史跡 山田寺跡 保存活用計画書」では
 現在見ることができる山田寺の礎石としては、
 大阪市の藤田美術館の庭園に金堂の礎石が、京都市の北村美術館の庭園に回廊の礎石があります。
 とある。
 なお、北村美術館/四君子苑の礎石は 飛鳥山田寺塔四天柱礎とする説も存在する。
本礎石はまず方形の柱座を造り出し、さらに上に蓮弁のある柱座を造り出す形状であり、大阪藤田美術館に移された礎石と酷似する。
それ故、四君子苑礎石の法量は不明ではあるが、まず飛鳥山田寺の礎石であろう。
なお、柱座中央には孔が穿たれているが、これは庭石に転用された時に穿たれた後世のものであろう。

    →飛鳥山田寺のページ>残存する山田寺礎石を参照

3.美作久米佛教寺伝来六角形鍍金桔梗文釣燈籠
 解説文:久米郡醫王山佛教寺伝来、柱5本にそれぞれ「作州南条弓削庄」「醫王山佛教寺」「住持快傳求之」「干時正保第四年(1647)」「七月吉辰日」との銘文がある。
 四君子苑・美作久米佛教寺釣燈籠
この釣燈籠については、入手の経緯また佛教寺側の由来などの情報も不明であり、佛教寺伝来の真偽は判断不能である。
    →美作久米佛教寺

4.信濃別所常楽寺石造多宝塔
 解説文:別所常楽寺から出た多宝塔4基の内の一つ、塔身の屋根から円筒形の首部までが一石彫成で、露盤を造り出した屋根のみ別石である。鎌倉後期、安山岩製、相輪部は後補。
 四君子苑・信濃常楽寺石造多宝塔
本多宝塔の入手の経緯は不明であるが、常楽寺側には多宝塔の出土・散逸・近江からの1基が返還されたとの由来が伝わり、返還された多宝塔の形状や材質などが類似し、本多宝塔が信濃別所常楽寺出自多宝塔であることはほぼ間違いないと思わないと思われる。
    →信濃別所常楽寺

5.山城行願寺(革堂)阿弥陀三尊石仏
 解説文:行願寺伝来、室町初期、中央は阿弥陀、左右は観音・勢至菩薩を配する。
 四君子苑・山城行願寺阿弥陀三尊石仏
本石仏について、入手した経緯・出所側の出所経緯などが不明であり、真偽は判断できない。
    →山城行願寺(革堂)
なお、革堂伝来という石造大日如来像が京都国立博物館西庭園にある。

6.讃岐白峯山頓証寺石造宝塔
 解説文:崇徳天皇廟所・白峯山頓証寺にあったもの。平安末期の作、岩質は礫の多い軟質の豊島石。塔心軸部の四方に開かれた扉形の奥壁に舟形光背の佛の坐像が薄く刻まれる。
 四君子苑・讃岐白峯山頓証寺石造宝塔
本宝塔は白峯山頓証寺の崇徳廟所が出所とかなり具体的であり、この点では信用性があると思われる。
しかし、入手時期が戦後であるならばまだしも、かの国家神道が世を支配した暗黒の戦前であるとすれば、怖れ多くも崇徳天皇廟所の什宝が流出するなどとはおよそ考え難く、この点は気になる点である。
    →讃岐白峯寺

7.大和斑鳩中宮寺跡礎石
 解説文:斑鳩の元中宮寺の金堂跡から明治10年に発掘された3基の一つである。花崗岩製。柱座の径は3尺5寸(1m6cm)。
 四君子苑・大和斑鳩中宮寺後礎石
斑鳩中宮寺金堂跡から礎石は失われていて、中宮寺の礎石である可能性は高いと思われる。
但し、明治10年の3個の礎石発掘とはその事実が確認できないので、断定は困難である。
     →大和中宮寺跡

8.大和釜口長岳寺愛染堂礎石
 解説文:釜口大師と呼ばれ、焼失した愛染堂の礎石17個を野点用の台地に据え、廃寺跡の気分を出す。鎌倉中期。
  ※愛染堂礎石17個を配置とあるが、これは、以前野点用にしようしていた台地(高まり)に礎石を配置したものである。平面図では実際に17個の礎石があるのかどうかは不明。写真に写る柱座を持つ礎石が最大の礎石で、他に数点柱座を造り出す礎石があると思われる、残余は小さい礎石と思われれる。
 四君子苑・大和釜口長岳寺愛染堂礎石
愛染堂は江戸後期には存在し、今は退転しているので、愛染堂が出所の可能性は高いと思われる。
但し、入手経緯や流失経緯が不明の為、断定はできない。
     →笠塔婆(五智堂)は大和長岳寺笠塔婆(五智堂)を参照、大和名所圖繪・釜口長岳寺あり。

9.山城久我妙真寺伝来宝篋印塔
 解説文:重文、鎌倉中期の作。久我妙真寺に伝来。塔身の四隅の鳥の彫刻から地元では「鶴の塔」と呼ばれていた。但し彫刻は鳥ではなく、迦楼羅(かるら)である。他に例をみない宝篋印塔である。
 四君子苑・山城久我妙真寺宝篋印塔     四君子苑・山城久我妙真寺宝篋印塔2
久我妙真寺及び久我真福寺並びに下に掲載の「Wen上の記事」によって、「鶴の塔」は以下の様と思われる。
 →山城久我妙真寺
 →山城久我真福寺
久我妙真寺伝来宝篋印塔【鶴の塔】は元来、道元がその母・藤原伊子の供養の為、久我仏光寺に建立した宝篋印塔であった。
室町後期(戦国期)仏光寺は廃寺となり、仏光寺屋敷の西方にあった仏光山真福寺に遷される。(「老諺集」)
その後、明治41年、真福寺が妙法寺に合併され妙眞寺となり、そのため妙眞寺に遷されると伝える。
なお、【鶴の塔】は「山城名勝誌」に久我雅実の墓と伝えられ、また藤原則子(土御門通親の室で道元の母とされる)なる女の墓ともされている、という。(「乙訓郡誌」)

「鶴の塔」については、次のような「Web上の記事」がある。
a.誕生寺
 境内に、道元禅師産湯の井戸、道元禅師両親(源通親、藤原伊子)の平成9年(1997)に復元された宝篋印塔が立つ。
もとになった宝篋印塔(鶴の塔)は、鎌倉後期の建立。呉越国王銭弘淑が造った金塗塔形式といい、久我では古くより「鶴の塔」と呼んだ。
道元が母の菩提のために建立したという。塔身四隅に護法鳥の梟が彫られている。かつて、久我村の仏光寺にあったという。寺は戦国時代に廃寺になる。戦後までは、妙真寺(久我東町)にあった。
最古の石造宝篋印塔(重文)とされ、いまは北村美術館にある。
b.誕生寺(たんじょうじ)
 平成9年(1997)本堂の左側に道元禅師の両親の供養塔が建立される。
向かって右側の宝篋印塔は母・伊子のための供養塔で「鶴の塔」と呼ばれていた。
その「鶴の塔」を忠実に再現し、欠けた部分は補われて復元される。
久我の地にあった「鶴の塔」は、現在は北村家庭園で保存され、国の重要文化財である。
c.探訪 京都・洛南 久我・羽束師を歩く −2 誕生寺
 ここにあるのは模刻石塔であるが、元の宝篋印塔は、道元の母・藤原伊子の供養塔で、鎌倉後期の建立という。鶴の塔という通称があり、古式の宝篋印塔で、北村美術館が所蔵する。
2023/01/13追加:
◆久我誕生寺復元「鶴の塔」
平成9年誕生寺に復元された宝篋印塔【鶴の塔】
2017/04/29撮影::
句かって右が復元「鶴の塔」である。
 誕生寺復元鶴の塔1     誕生寺復元鶴の塔2
上記「c.探訪 京都・洛南 久我・羽束師を歩く −2 誕生寺」のページ より
 誕生寺復元鶴の塔3

祇園感神院(祇園社/祇園牛頭天王)

 →祇園感神院:中世には大塔、近世には多宝塔があった。近世多宝塔は寛政年中(1789-1800)の火災で 焼失す。

山城誓願寺

 →山城誓願寺:三重塔は天明8年(1788)焼失。

山城妙満寺宝塔

 →山城妙塔山妙満寺:昭和43年の移転まで、近代の宝塔があった。

山城妙顕寺五重塔

 →山城具足山妙顕寺:五重塔は天明8年(1788)焼失。

山城妙蓮寺三重塔

 →山城卯木山妙蓮寺:三重塔は天明8年(1788)焼失。

山城妙覚寺多宝塔

 →山城具足山妙覚寺:多宝塔は天明8年(1788)焼失。 ※華芳塔(宝塔)は現存する。

山城本圀寺五重塔

 →山城大光山本圀寺:五重塔は天明8年(1788)焼失。

山城本能寺三重塔

 →山城卯木山本能寺:三重塔は天明8年(1788)焼失。

山城神泉苑多宝塔

 →山城神泉苑多宝塔:多宝塔は天明8年(1788)焼失。

北野天満宮多宝塔

 →北野天神:多宝塔は明治の神仏分離の処置で破壊。

京都南禅寺碧雲荘

 →京都碧雲荘(庭園):河内家原寺心礎及び出所 が判然とはしない出枘式心礎がある。一般の見学不可。

京都南禅寺清流亭

 →京都清流亭(庭園):河内智識寺西塔心礎(ほぼ確実) がある。一般の見学不可。

京都南禅寺真々庵

 →京都真々庵(庭園):出所不明出枘式心礎(出雲国分寺?) があると云う。
  出雲国分寺の礎石としても、心礎の可能性は低いであろう。一般の見学不可。

京都玄琢土橋邸

 →「亡失心礎」の「播磨殿原廃寺」の項を参照。 庭に播磨殿原廃寺心礎がある。

京都中京善田邸

 →「移転心礎」の「備中赤茂廃寺」の項を参照。 庭に備中赤茂廃寺心礎を所蔵するも、見学は拒絶する。
  善田氏は玄琢土橋氏の分家と云う。土橋氏紹介ということでも、見学は頑に拒否する。数回申し出るもその都度拒否する。

推定東山廃東漸寺多宝塔

 →山城東漸寺多宝塔:推定の唯一の根拠は「東山名勝圖會」の絵図だけである。

山城豊国社多宝塔(豊国大明神)

○洛外洛中屏風図:
 洛外洛中屏風図(池田本)豊国社部分
 洛外洛中屏風図(池田本)豊国社多宝塔部分
○「久能山東照宮の創建」大河直躬(久能山叢書、巻4所収) より
豊国社では鐘楼・護摩堂は記録にあるが、本地堂は存在せず、その代わり瓦葺き・拝殿を備えた神宮寺が存在する。塔は本社には建立されず、本社廻廊外の日厳院(供僧)に多宝塔が 建立される。上記屏風絵中の多宝塔は豊国社供僧日厳院多宝塔と解される。
○2011/11/20追加:
 慶長3年(1598)豊臣秀吉薨去。
秀吉は吉田神道(唯一神道)の吉田兼見とその弟神龍院梵舜によって「正一位豊国大明神」として祭祀される。
慶長4年、廟墓の西麓に豊国社社殿竣工、正遷宮祭が執行される。(正遷宮祭は以降毎年執行される。)社領1万石、境内30万坪と云う。
 豊国社の構成は阿弥陀ヶ峰の廟堂(宝形造)・中門・回廊・本殿・舞殿・神宝殿・神供所・護摩堂・鐘櫓・鼓櫓などであった。豊国社参道には諸大名寄進の石灯籠が並び、祥雲寺(嫡男鶴松菩提寺)、「照高院御殿」(方広寺住職住坊)、文殊院(木食応其上人持ち)、黒田孝高、前田玄以、長束正家などの屋敷も立ち並ぶ盛観であった。
別当は吉田兼見と息子の兼治が、社僧は神龍院梵舜(兼見の弟)がその任にあたる。
慶長6年、徳川家康、関が原の敗者・長束正家の屋敷を智積院に寄進する。
慶長7年、秀吉7回忌の正遷宮祭が執行される。方広寺大仏殿が不審火で炎上する。
 豊臣家滅亡後、慶長20年(1615)幕府は神号「正一位豊国大明神」の廃祀及び豊国社の破却を命じ、仏式としての墓地としてのみの存続が許される。
驚いた北政所の懇願により、豊国社の破却は免れるも、社殿は「崩れ放題」との沙汰で、放置される。
その後、外苑は取壊し、廟は暴かれ阿弥陀ヶ峯に遷される。
さらに方広寺は妙法院門跡の管理に置かれ、祥雲寺は智積院に払下げられ、前田玄以の屋敷地は文殊院に下げ渡される。
元和元年(1615)豊国社の神廟破却。材木、梵鐘、灯籠、神具なども智積院・妙法院・吉田社に下げ渡される。終には、残りの土地も妙法院門跡に下げ渡される。
そして、参道であったところに今日吉神社が妙法院の手で建立され、阿弥陀ヶ峰の廟堂への道も閉ざされる。
元和5年(1619)梵舜、神宮寺を妙法院に引渡し、神龍院へ退院。梵舜は神龍院で密かに秀吉を鎮守大明神として祀り、豊国神社再興を祈願すると云う。
 かくして、豊国社参道は封鎖され、結果秀吉の墓は阿弥陀ヶ峰に封じられ、誰も知らない存在となり、明治維新を向えることとなる。
明治元年豊国社の復興が沙汰され、明治6年別格官弊社に列し、明治13年方広寺大仏殿跡地に社殿が造営される。
 続いて、廟墓の再興が図られる。
廟墓は大徳寺総見院にある信長の墓が雛形にされる。但し、これは仏式の五輪塔であり、異論があるも「豊公廟ハ古例ニ依リ五輪形ヲ存シ徳川式ニ則ラズ」として五輪塔の形式で造営される。
またこれまで廟墓に至る参道は、九十九折であったが、阿弥陀ヶ峰の麓から頂の墓前正面まで一直線に石段で結ぶという大工事がなされる。
明治30年豊国会による発掘と改葬が行われ、明治31年豊国廟が竣工する。今見る豊国廟である。
2023/05/08追加:
 関連項目:→清正公信仰
2018/07/04追加:
○「京都の社寺文化」(財)京都府文化財保護基金、昭和46年 より
豊国廟:明治元年朝廷から社殿再興が発令され、同13年に完成するに及んで、頂上の墓所も回復、特に同30年の豊公300年祭にあたっては、豊国会(黒田侯爵会長)の努力、各方面の助成によって、565段に及ぶ石段も含めて、約18萬圓の経費で現状の如く整備され、面目を一新する。高さ3丈1尺の巨大な五輪塔とそれを廻る玉垣も当時の造立である。
なお、太閤垣(だいら)の手水屋に慶長5年(1600)の水鉢が残り、往時の豊国廟の遺品として貴重である。
2011/11/17撮影:
 廟墓前石燈籠:明治31年の年紀、侯爵蜂須賀茂韶とある。
 豊国廟石階1:拝殿から唐門方向を見上げ      豊国廟石階3:唐門から拝殿方向を見下げ
 豊国廟唐門・石階1     豊国廟唐門・石階2     豊国廟石階3:唐門から廟墓方向を見上げ
 豊国廟墓
 豊国廟太閤坦1     豊国廟太閤坦2:この太閤平に古の豊国社社殿が立ち並んでいたと云 う。
なお石階は489段(563段とする記載も多くある)と云う。
 今日吉権現社:明治の豊国廟墓再興により、現在の地に遷る。近世には豊国廟参道を塞ぐ形で建立されると云う。

参考:方廣寺
2013/08/30追加:
天正14年(1586)豊臣秀吉、大仏殿と大仏の造営を開始する。
文禄4年(1595)大仏殿はほぼ竣工、木造金漆塗坐像(高さ約19m)が奉安される。
慶長元年(1596)慶長の大地震により、開眼前の大仏は倒壊する。秀吉は慶長3年逝去。
慶長7年(1602)遺志を継いだ秀頼による銅造大仏が造作途中で、鋳物師が溶銅の漏れを起こし、大仏が融解し、大仏殿が焼失する。
慶長15年(1610)銅造大仏と大仏殿の再興に着手、慶長17年竣工する。
慶長19年(1614)梵鐘が完成するも、「方広寺鐘銘事件」の端緒となる。
寛文2年(1662)地震で大仏は小破、木造で再造されることとなる。大仏の銅は寛永通宝の鋳造に用いられたと云う。
寛政10年(1798)大仏殿に落雷、大仏殿、木造大仏など主要伽藍は灰燼に帰す。
天保年中、尾張の有志が、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造大仏と仮殿を造り、寄進する。
昭和48年(1973年)半身の木造大仏と仮殿が深夜の出火で焼失する。
 絵葉書s_minaga蔵;昭和48年焼失大仏     昭和48年焼失大仏殿
2012/09/06撮影:何れも鐘楼(明治期の再建)内部に展示。
 方廣寺大仏殿風鐸か    方廣寺大仏殿銅製花立残欠    方廣寺大仏殿鉄輪    方廣寺大仏殿遺物:用途不明
2023/04/14撮影:
○於京都国立博物館西庭園
方広寺遺物:
 方広寺大仏殿敷石:桃山期
 博物館敷地西南隅出土礎石:京博敷地出土であるから方広寺礎石とも思われるが、別の古代寺院のものかも知れない。
 方広寺大仏殿所用鉄輪:江戸初期(17世紀)、本鉄輪は江戸期に再建された時の建築部材と思われる。巨大な建築物をささえる太い柱は、こうした鉄輪が固定していた。大和東大寺大仏殿にこうした鉄輪の使用が見られる。
大仏殿は次の経過を辿り、消滅する。
初代:文禄4年(1595)〜~慶長8年(1603)(約8年間):秀吉の創建、大仏鋳造工事中の事故で焼失。
2代目:慶長17年(1612)〜寛政10年(1798)(約186年間):落雷で焼失、当初規模の大仏殿は姿を消す。
3代目:天保14年(1843)-昭和48年(1973)(約130年間):3代目は規模を縮小して再建、昭和戦後まであるも失火で焼失。

参考:妙法院門跡
2020/10/31撮影:
 天台宗、南叡山と号する。元々は比叡山の院坊と伝える。
鎌倉初期から近世末まで、門跡と称する地位にあり、青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と称する。
近世初頭法住寺殿跡地である現在地に移転する。
 ※元和元年(1615)に移転とも云うが、それより以前に移転していたことは確実であろう。
 文禄4年(1595)豊臣秀吉の方広寺大仏殿が竣工、この年以降、秀吉は亡父母や先祖の菩提を弔うため、「千僧供養」を「大仏経堂」で行う。この「大仏経堂」は妙法院に所属し、千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、現存する妙法院庫裏という。
庫裏自体の正確な建立年代は不明であるが、秀吉の千僧供養に妙法院が関与していたことは当時の日記や文書から明らかであり、妙法院は遅くとも文禄4年(1595)には現在地へ移転していたのであろう。
  →文禄4年から始まる豊臣秀吉の千僧供養の意味については「備前法華の系譜」>【豊臣秀吉千僧供養】などを参照
 ちなみに、現在地にはもともと文禄4年(1595)豊臣秀吉の信任厚い天台僧道澄が開基した照高院があったという。
 近世の妙法院は、方広寺、蓮華王院(三十三間堂)、新日吉社を兼帯する大寺院であった。
妙法院門主が方広寺住職を兼務するようになったのは元和元年(1615年)からである。これは大坂の役で豊臣宗家が江戸幕府に滅ぼされたことを受けての沙汰である。戦後幕府によって進められた豊国神社破却の流れのなかで、当時の妙法院門主であった常胤は積極的に幕府に協力、豊国神社に保管された秀吉の遺品や神宮寺(豊国神社別当神龍院梵舜の役宅)を横領することに成功している。
 近世を通じ、妙法院門主は蓮華王院(三十三間堂)、新日吉権現社、方広寺を兼帯。
 元和元年(1615)妙法院門主が方広寺住職を兼帯するが、これは大坂の役で豊臣宗家が江戸幕府に滅ぼされたことを受けての沙汰である。
豊臣家滅亡の後、幕府は豊国大明神社を破却するが、妙法院門主常胤は幕府に取り入り、豊国社の秀吉の遺品や豊国社別当神龍院(梵舜)を横領することに成功する。
 妙法院伽藍は次のとおり。
西側東大路通りに面して唐門と通用門を構える。正面に玄関、向かって左に庫裏、右に宸殿が建ち、東側の境内奥には大書院、白書院、護摩堂、聖天堂などが渡り廊下で繋がれた堂宇が建つ。本堂(普賢堂)は境内東南隅に建つ。
・庫裏(国宝):桃山期の建築。この庫裏は「千僧供養」を行った際の台所として使用されたと伝える。入母屋造・本瓦葺き、11間12間、屋上に煙出を造る、入口には唐破風屋根を設置。
・大書院及び玄関(重文):元和5年(1619)中宮東福門院(徳川秀忠女)入内の際に建築された女御御所の建物を移築したものと伝える。
 妙法院庫裡1     妙法院庫裡2     妙法院庫裡3     妙法院庫裡4     妙法院庫裡5     妙法院庫裡6
 妙法院大玄関1    妙法院大玄関2    妙法院大玄関3    妙法院大玄関4
 妙法院本堂
 妙法院寝殿1      妙法院寝殿2      妙法院寝殿3      妙法院寝殿4      妙法院本坊

参考:五条大橋橋脚礎石:京都国立博物館蔵

2012/09/07追加:
本「礎石」については、出所及び由緒不明の「塔心礎」と紹介をしていた。
 (その記事は下に掲載)
しかし、小冊子「京都国立博物館 庭園散策ガイド」平成21年 では、本「礎石」は豊臣秀吉架橋の五条大橋橋脚礎石との解説がある。
 確かに、京都博物館西庭園には本「礎石」に並んで五条大橋の石製橋脚と石製橋桁の展示もあり、 その石製橋脚(円柱)の径と橋脚礎石の円孔の径はほぼ見合うものであろう。加えて、石製橋脚の先端の形状は出枘を繰り出すものであり、この橋脚先端は橋脚礎石の二段円孔の形状にほぼ合致する。因みに、展示の礎石の円穴の径は75cm、展示の橋脚の径はおよそ65〜70cmを測る。
確かに、鴨川と云ういわば中級の河川に、橋桁2間の石製橋脚を連続して建てる場合、掘立式橋脚と云う訳にもいかず、柱穴と枘孔を二段に穿った巨大な礎石を設置する必要があったと頷くことができる。そして、現在方広寺跡に累々と残る巨石を使った石塁を見れば、秀吉の権力は絶大なもので、五条大橋で使用する橋脚・橋桁・礎石などの石材を手当・加工するなど容易なことであったと推測できる。
 以上で、当初から「心礎」にしては少々表面が歪であると云う「心のひっかり」も氷解する。
さらには「幻の塔を求めて西東」に記載の「昭和7年賀茂川河畔から出土」との記事と符合する。
故に、本「礎石」は「塔心礎」ではなく、五条大橋橋脚礎石と訂正をする。
2012/09/06撮影;
 京博五条大橋礎石橋脚橋桁1     京博五条大橋礎石橋脚橋桁2
 京博五条大橋橋脚橋桁1        京博五条大橋橋脚橋桁2:橋桁の長さは約7.5mを測る。
 京博五条大橋橋脚刻文:津国御影天正十七年五月吉日と刻む。津国とは攝津国御影
 京博橋脚(石柱):後2本は五条大橋、前1本は三条大橋、三条大橋石柱には津国御影天正十七年三月吉日と刻む。
 京博五条大橋橋脚先端部:出枘を造り出す。
 京博五条大橋橋脚礎石1     京博五条大橋橋脚礎石2
 都名所圖會五条大橋:描かれる2間の橋脚は天正期の秀吉の造営になるものであろう。
 明治40年五條大橋:写る橋脚は基本的に天正期の秀吉の造営になるものであろう。
2023/04/14撮影:
○於京都国立博物館
 京博五条大橋橋脚礎石3
●五条大橋:
天正17年(1589)豊臣秀吉の命で、今の松原橋の位置にあった五条大橋を現在地に架け替えられる。これは方広寺大仏殿造営のための処置であった。
昭和10年の「年鴨川大洪水」にて、橋は流失すると云う。
この頃までは、江戸期に何度か再建を繰り返すも、天正期に造作された橋の橋脚が川中に残されていたものと思われる。
その後の治水対策で鴨川の川底が掘り下げられ、橋脚は撤去されるも京都国立国立博物館の庭などに運ばれ、多くが遺存する。
橋脚の礎石は現在のところ、当館に現存する以外の情報はない。
 ※サイト:「池泉用水」では橋脚遺物の所在状況が解説及び写真で詳しく紹介される。
上記サイトでは以下の場所で遺物が見られると云う。
1)京都府庁の旧本館庭園:3本、明治10年の五条大橋の改修で余った石柱を移すと云う。「天正拾七年五月吉日」と刻す。
2)蹴上の国際交流会館庭園:1本か
3)鴨東運河の夷川舟溜り前:2本
4)平安神宮神苑にある石柱群:小川治兵衛作庭、五条大橋(大部分)・三条大橋(一部分)の石柱を多く利用、推定30本位。
  2018/08/28撮影:
  「津國御影 天正17年5月6日」と刻する、摂津國御影産の石という意である。説明板には神苑内に50数個が存在という。
  写真は3個は豊公造営の五条大橋橋脚石柱である。
   平安神宮神苑石柱1     平安神宮神苑石柱2     平安神宮神苑石柱3
6)京都国立博物館:石脚組立品:上記の写真の通り。
7)三条大橋西詰:これは三条大橋のものであろう。
8)三条通川端下るの散歩道:石柱が放置される。
 2020/02/02撮影:三条川端下ル石柱1     三条川端下ル石柱2 
9)五条大橋西詰の児童公園:石柱、3本+2本、なお当公園には扇塚もある。
10)京都府立植物園:石柱など
11)泉屋博古館庭園:石柱
12)京都御苑・九条池の高倉橋:橋脚8組に、旧三条・五条大橋の石柱が利用されていると云う。
13)廣誠院庭園手水鉢:石柱を加工と云う。
14)迎賓館(京都御苑内):石柱、五条大橋の石柱1本。
その他、幡枝妙満寺境内にもある。寺町よりこれも移転させたものであろうか。

-----以下は塔心礎として認識していた以前の記事である。-----
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、313×225×69cm、径76×3/4cmの円孔、白鳳。出所不明、昭和7年賀茂川河畔から出土。
○2006/06/10追加:
京都国立博物館西の庭に「礎石」の展示がある。この展示の礎石が上記「幻の塔を求めて西東」に記載の心礎であるか否かは、以下の理由で、不明。
1)展示品の寸法が不明、2)写真で見る限り、ニ重円孔式に見える、3)写真で見る限り、石自体が心礎にしてはやや「いびつ」と思われる。
2003/10/05「X」氏撮影画像
 京都国立博物館推定心礎1     京都国立博物館推定心礎2     京都国立博物館推定心礎3
○2006/09/22追加:2006/09/17撮影:
屋外展示・西の庭に「礎石」として展示がある。但し「礎石」とのみ表示があるだけで、由来・伝来などは全く表示がない。
(他に心礎ではない礎石が2点展示されているが、各々「礎石:本館敷地西南隅出土、当館蔵 」、「礎石:奈良市佐紀町出土、奈良時代、当館蔵」と解説がある。)
大きさはほぼ、「幻の塔を求めて西東」の法量に合致する。但し、ニ重円孔式で、記事(一重円孔式)とは一致しない。
実見する限り、この礎石は形状から、心礎であることはほぼ間違いないと思われる。しかしながら、伝承など全く不明のため、京博展示心礎とするほかはない。
 京都博物館所蔵心礎1      京博心礎2      京博心礎3      京博心礎4      京博心礎5
写真5に写っているメジャーは長さ1m。

六道珍皇寺

2010/10/11追加:
○「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より
 六道珍皇寺参詣曼荼羅:.六道珍皇寺蔵 、紙本着色、207×176cm:(2010/10/11画像入替)
大門・本堂・閻魔堂・篁堂・大塔・竹林行者堂・六道迎鐘(鐘楼)などが描かれる。
何時の時代かは不明であるが、多宝塔があったものと思われる。
2020/02/24追加:
詳細(珍皇寺・寶皇寺・鳥戸寺・愛宕寺)については「飛鳥白鳳の甍〜京都市の古代寺院〜」京都市文化財ブックス第24集、平成22年(2010)に詳しい。

山城六条左女牛八幡

○中世には宝塔(三重塔)の存在が知られる。
(現在は若宮八幡宮と云う。)
 旧地(勧請の地)は左女牛西洞院(六条、現:本願寺地)であった。
それ故、六条八幡、左女牛八幡、六条左女牛八幡、六条左女牛若宮などと称される。
「二十二社註式」は天喜元年(1053)後冷泉天皇の勅願によって源頼義が勧請したとする。
社伝では源頼義が左女牛西洞院の邸内に若宮(新宮)を祀るという。
その後、鎌倉期には、源頼朝の寄進が相次ぎ(「吾妻鏡」による)、放生会が重要な行事となり、武士の篤い信仰を得る。
さらに、室町期には源氏の長者足利将軍家の帰依を受け、六条左女牛八幡は全盛期を迎える。
「足利義持参詣図絵巻」(若宮八幡蔵)は応永17年(1410)の社参を描いたものであるが、楼門・回廊・拝殿・神殿・東西経所・神宮寺・三重塔・鐘楼などが描かれ、六条八幡は石清水や鎌倉鶴岡八幡と同じく、堂々たる八幡宮寺であったことが知れる。
 ※「足利義持参詣図絵巻」の名称は本図が義持の参詣とは断定できないので、「足利将軍家参詣絵巻」とするのが妥当とする見解もある。
しかし応仁の乱で荒廃し、大内氏・足利将軍家から回復が図られるも、旧に復することはなかったという。
豊臣秀吉により、天正11年(1583)御旅所のあった東山に移され、旧地は本願寺の寺地となり、さらに
天正16年(1588)東山方広寺附近に遷される。
徳川家康により、慶長10年(1605)現在地(五条橋東)に遷され、零落する。
 ※なお、「足利義持参詣図絵巻」は絵図として刊行されているようであるが、しかしその画像を見る機会はない。そんな中で「若宮八幡宮蔵『足利将軍若宮八幡宮参詣絵巻』の図像と画面構成」下坂守 は、絵巻を活写したものと云える。
次のように云う。
○「中世、六条八幡においても、他の多くの神社と同じくその頂点にあって神社を統括していたのは別當と呼ばれる職であった。その職は足利尊氏が三宝院院主をこれに任じて以降、三宝院院主が相承するところとなる。」
「絵巻で文字注記された建物は次の通りである。
四足門、御供所、鐘楼、神護寺 (神宮寺)、経蔵、石清水社、公文所、宝塔、松童社、高良社、稲荷社、夷社、十禅師社、楼門」

山城清閑寺

 →山城清閑寺:古には宝塔があった。宝塔跡には石造三重塔があると云う。

山城三聖寺

◇「社寺境内図資料集成 2巻」より
 三聖寺伽藍図:南北朝期:東福寺蔵:中世には六角(と思われる)三重塔が存在した。
◇三聖寺愛染堂(重文)は東福寺境内に残り、堂内には本尊愛染明王を安置する小宝塔が安置される。
 →山城三聖寺・萬壽寺・東福寺

山城安祥寺多宝塔

 →山城安祥寺:多宝塔は明治39年火災焼失。塔基壇・礎石・石燈籠など、良くその遺構を残す。
 

山城城興寺

○「洛陽33観音巡礼」平成洛陽33観音霊場会、2005年 より
永久元年(1113)関白藤原忠実、藤原信長邸宅九条殿に鎮護国家の道場として寺院を建立する。
「城興寺古伽藍図」には南大門・放生池・仁王門・金堂・講堂を南北に並べ、東に多宝塔・鐘楼、西に御影堂、北に僧坊・坊舎を並べる伽藍であったという。
 ※現在は泉湧寺派の小寺と思われる。
○「京都ことこと観音めぐり」京都新聞出版センター、2006 より
城興寺はその後天台座主最雲法親王へ、さらにその弟子以仁王へと引き継がれる。以仁王は後白河天皇の第3皇子で、平家追討の令旨を発する。
2020/01/25撮影:
 山門前案内板には次のように記載する。(要旨)
瑞宝山と号する。真言宗泉涌寺派。この地は太政大臣藤原信長の邸宅であったが、永久元年(1113)関白藤原忠実が伝領して寺に改めるという。寺宝に有する境内伽藍図には現在の烏丸町全域を寺域としていた様が描かれる。
 ※上述のように多宝塔も存在していたのであろうと推測されるも、現在では衰微しその面影はない。
当初は四宗兼学であったが、後に天台宗となり、天台座主最雲親王の没後、その弟子以仁王が当寺を領する。
治承3年(1179)平氏によって寺領を奪われ、このことが平氏討伐の挙兵に一因になったと考えられている。
中世を通じ延暦寺の管理であったが、応仁の乱後、衰微で、現在は円仁作と伝える本尊千手観音を安置する本堂のみが残る。
また、
 薬院稲荷の前に「薬院社の由来」と題する案内板がある。(要旨は次のとうり)
平安の昔、当地の西北に施薬院が、北には施薬院御倉があった。
これらは平安初期左大臣藤原冬嗣が開設したもので、以来藤原氏によって維持運営されたという。
しかし鎌倉初期これらの施設は他所へ移転し、御倉跡の薬院の森には施薬院稲荷の祠のみが残り、村の鎮守として信仰されてきた。
明治維新になり神仏分離(廃仏毀釈)に続き、辻堂廃止令が出され、明治11年施薬院稲荷も廃祠の憂き目をみるところであったが、地元農民の熱意により城興寺の吒枳尼天堂に合祀されることとなる。
 吒枳尼天はヒンズー経の性愛の神であったが、仏教に取り入れられ、天部の一員とされ、女稲荷とあがめられる仏となる。
合祀以来、吒枳尼天と施薬院稲荷はニ体の稲荷として同居している。
 城興寺山門     城興寺本堂     城興寺本堂・庫裡     城興寺薬院稲荷

山城西寺跡

 → 山城西寺跡:近年塔跡が発見され、発掘調査される。

山城伏見稲荷社

応仁の乱で稲荷山の骨皮道賢を西軍が攻め、山上山下の堂舎(社殿、本地堂、大師堂、多宝塔、文殊堂、・・・)が悉く焼失したという。御本地像、御正体、文殊像、大師像などは取出し東寺に預けたという。
○「深草 稲荷」深草稲荷保勝会、平成10年
稲荷社:応仁の兵火からの再興には多くの勧進僧・勧進沙門が活躍した。彼等は本願といわれ、元禄頃には本願所として、愛染寺が確立する。(楼門内北側に位置する。)愛染寺は神主より経済的・政治的に上位にあったとされる。
なお、愛染寺は幕末徳川家茂、一橋慶喜の伏見街道往来時の休息所として10回使用されると云う。
 → 伏見稲荷大明神が地方に勧請された例として備前澤田山恩徳寺がある。
慶応4年4月神仏判然令発令、伏見稲荷にも明治政府による神仏分離の触書が到来する。伏見稲荷社中は愛染寺舜雄に社頭にある仏堂と愛染寺内の二堂を即時取払うように指示、3ヶ月後に取払い完了と云う。
愛染寺舜雄:安政6年(1859)愛染寺住持、慶応4年(1868)還俗、愛川民部と改名と云う。(「祠官補佐表・其四」)

山城栢杜三重塔跡(史跡)

 →山城栢杜三重塔跡

山城勧修寺

 →「京洛平安期の塔婆」の勧修寺を参照。 三重塔一基の存在が知られる。

山城小野曼荼羅寺

 →「京洛平安期の塔婆」の小野曼荼羅寺を参照。多宝塔の存在が知られる。

山城山階廃寺跡(推定)

山階寺の所在は山科大宅廃寺(下に記述)や中臣遺跡との説もあるが、現在有力な遺跡は見つかっていないが、山科駅西南、御陵大津畑町を中心にする地域にあったという説が有力であるという。
 →大和興福寺現存伽藍の興福寺前史の項に記述

山城大宅廃寺

昭和33年(1958)の発掘調査:
南門(痕跡)・中門(痕跡)・金堂・講堂と推定される南北に並ぶ四棟の寺院建物跡が発掘され、大宅廃寺と命名される。
創建は白鳳期で、平安期に全焼、のち小規模堂舎が再建されたとされる。
この廃寺は,大和興福寺の前身山階寺跡(中臣鎌足創建)、あるいはこの地の大宅氏の氏寺などに比定される。
平成16年(2004)の発掘調査:
南北約4mに渡り、瓦積基壇(高さ約30cm)が発見される。
基壇上には、3箇所の径約2m柱穴跡がある、塔「水煙」と推定される破片が附近から出土。
以上から、大宅廃寺は、北に講堂、西に金堂、東に塔が建つ法起寺もしくは観世音寺の伽藍配の可能性もあるとも云われる。
 山城大宅廃寺水煙1    同     基壇左図「X」氏ご提供
○2005/06/27ペアーレ京都展示を撮影
 (ペアーレ京都:上京区新町通今出川下る徳大寺殿町345)
 出土水煙断片1     出土水煙断片2     出土水煙断片3     水煙断片4/出土瓦     水煙断片5/出土瓦
○2019/02/23撮影:
京都市考古資料館「平成30年度後期特別展示 京都の飛鳥・白鳳寺院-平安京遷都前の北山背-」の展示 より
 大宅(おおやけ)廃寺は古くから瓦が採取され、寺院跡と知られていた。
昭和33年名神高速道建設に伴い発掘調査が行われ、その後昭和60年と平成16年にも発掘調査が行われる。
その結果、中軸を揃え南北に並ぶ礎石建物2棟(北方建物・中央建物)、その南に東西に並ぶ建物基壇2基(南東建物、南西建物)が検出され、四周を囲う築地と側溝があることも判明する。
南辺の東西溝は伽藍中軸部分で途切れることから、それぞれ中門・南門が想定される。
中央建物は乱石積基壇で梁間5間、桁行2間の身舎に四面廂を備える礎石建物、北方建物は梁間9間、桁行2間の身舎の南北に廂が付く礎石建物で中軸線を揃えて南北に並ぶ。
また、中央建物の南に東西に並ぶ建物のうち、南西建物は平成16年の発掘調査で瓦積基壇であることが判明。
北に僧坊があり、築地で四周を囲われた中の奥に亘央堂、その前面に塔と金堂が東西に並ぶ伽藍が想定される。
 大宅廃寺発掘・遺構図     大宅廃寺想像復元図
 南西建物瓦積基壇:平成16年調査
 南西建物瓦積基壇は上下2段となる。下段の基壇は高さ0.2mで、上壇より東へ約1m出る。前面には瓦3枚ほど積んで化粧をする。
上段の基壇の残存高は0.3mで、30〜40cmの石を半分程度下段の盛り土に埋め、地覆石とし、その上に平瓦を積む。
南北約4mを調査、基壇の上面は削平されているが、礎石の据付穴が検出される。据付穴の芯芯間は3.2mを測る。
この時の調査で、水煙や請花と思われる青銅製品が出土し、附近に塔があったことが分かる。
この東西建物はまだ南にのびる可能性があること、上下2段の瓦積基壇であること、一方東に並ぶ南東建物の南辺は昭和60年の調査で南東角が見つかっていて小規模であることから、南西建物が金堂、南東建物が塔と推定される。
 青銅製水煙片・請花片
2020/02/24追加:
〇「飛鳥白鳳の甍〜京都市の古代寺院〜」京都市文化財ブックス第24集、平成22年(2010) より
大宅廃寺
平成16年度の調査の結果、北方建物、中央建物、南東建物(塔と推定)、南西建物(金堂と推定)、四周に築地が廻ることが判明する。
 さて、避けて通れない問題として山階寺の問題がある。(→大和興福寺現存伽藍の興福寺前史の項)
山階寺とは中臣鎌足の夫人鏡王女が夫鎌足の病気平癒を願い、山科にあった鎌足の私邸を寺としたもので、これが藤原京遷都に伴い、飛鳥に移って厩坂寺と称し、さらに平城京に移って興福寺となったという。つまりは南都興福寺の源流ともいうべき藤原氏の私寺であった。
 この山階寺については山科北部、山科中部の中臣、大宅廃寺説があった。
古くから古瓦を出土し、最近まで「興福寺橋」なるものもあり、大宅廃寺が山階寺であることは間違いないといわれてきた。しかし昭和33年の発掘で出土瓦の多くが藤原宮の時代のものであることが判明し、いったんは大宅廃寺=山階寺説は否定される。
 これについては、近年古川真司は山科北部が山階寺の故地に相応しいとする論文を発表する。
山科北部説は古くから唱えられていた説で、鎌足の私邸が「陶原家」と呼ばれていたのに対し、現在の山科区御陵の附近が鎌倉期「陶田里」という名称であったこと、平安前期には山科北部に興福寺の領地があったことなどがその根拠であった。
 古川は古文書を丹念に検討し、その興福寺領が山科郷大槻里の北半、現在の山科区御陵中内町・大津畑町・天徳町附近にあったことを論証した。そしてその領地が遅くとも11世紀には、荒廃田でもないのに科物上納を求められない特別扱いを受けていることから、これこそ陶原家の故地、即ち山階寺の故地と推定した。
大槻里の西隣は陶田里なのである。
2022/06/23追加:
 →大和紀寺(小山廃寺)>「大和紀寺(小山廃寺)の性格と造営氏族」小笠原好彦>「4.紀寺と大宅廃寺」に
山城大宅廃寺に関する詳しい記述がある。
 ↓
次に再録する。
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 紀寺の性格と造営氏族をさぐるには、この寺院の創建軒瓦である雷文縁軒丸瓦が特に山背の氏寺に顕著に葺かれたことに注目する必要がある。
この軒丸瓦は、山背では大宅廃寺、醍醐廃寺、法琳寺、板橋廃寺、北白川廃寺法観寺廃寺など宇治郡、紀伊郡、愛宕郡の寺院に葺かれている。
  ※醍醐廃寺(伏見区醍醐西大路町・御霊ヶ下町)、板橋廃寺(伏見区指物町・下板橋町・御駕籠町)
これらの3郡の氏寺に雷文縁軒瓦が集中して葺かれたのは、森郁夫氏によって紀寺が官によって営まれ、しかも、この地域には近江や北陸への古道があったことを重視し、これらの氏寺の造営に官寺の紀寺が介入したことを想定する考えがだされている(森1986)。
しかし、紀寺を官寺とみなし、さらに高市大寺に想定する考えは前述したように、吉備池廃寺で検出された金堂、塔などによる伽藍が大規模で、舒明朝に造営された百済大寺の可能性がきわめて高くなったことからすると、それとは著しく小規模な紀寺を高市大寺とみなすことは難しい。
 だが、紀寺を官寺もしくはそれに相当するような性格をもって造営された寺院を想定することは、なお可能性をもつ考え方かと思われるので、文献史料に記されていない藤原京域に造営された官寺、あるいは相当する寺院を想定して検討することが必要であろう。
 さて、紀寺と同形式の雷文縁軒丸瓦が葺かれた氏寺では、山背に造営された氏寺のうち、特に大宅廃寺との関連が注目される。
この大宅廃寺は1958年(昭和33)に調査され、東西棟の中央基壇、その北で北方基壇、その南に2つの建物あったものと推定されている。
中央建物は乱石積基壇で桁行7間、梁行4間、北方建物は基壇外装は知りえないが、桁行9間、梁行4の建物とされている。この北側建物の南5mに、桁行方向が同一で梁行1間の細殿風の建物がある。
また、中央建物の南38m、54mの位置で、建物基壇の一部が検出され、南から南門、中門、金堂、講堂が一列に配されたものと推測された(坪井1958)(図4・5)。
  大宅廃寺の調査:図4・大宅廃寺の調査坪井1958から
  大宅廃寺の建物遺構:図5・大宅廃寺の建物遺構坪井1958から
そして、その後も補足調査が行われ、伽藍の検討が重ねられている。
また、最新調査の2004年7月の調査では、中央建物の南で、最下壇に地覆石を置き、その上に平瓦を積み、この瓦積基壇の外側にも幅1mの低い瓦積基壇が検出されている。
そして、この東8mでも以前に基壇建物が検出されていることから、西側の瓦積基壇を金堂、調査地の東端で塔の水煙の青銅製品が出土していることも考慮すると、東側の建物を塔跡に想定しうる可能性が高くなったという。
また、中央建物の講堂の南西に金堂、東南に塔を配した伽藍の可能性が高くなったとみなされている(註1)。
このように最新の調査からすると、大宅廃寺が講堂の南に金堂と塔を配した可能性が高くなり、紀寺の伽藍との類似性はなくなりそうである。
 <中略>
 この ように大宅廃寺で葺かれた偏行忍冬唐草文1類、2類の軒平瓦が藤原宮へ供給されたものと同笵で、しかも藤原宮の瓦窯でも同形式のものが生産されたことが明らかになったことは、大宅廃寺の性格および造営氏族を考えるうえできわめて重要な知見である。
これまで大宅廃寺の性格に関する見解には、大宅寺説と山階寺説とがある。
二つのうち、大宅寺説は『今昔物語集』巻22に、
 其ノ弥益ガ家ヲバ寺二成シテ、今ノ勧修寺此也。向ノ東ノ山辺ニ其ノ妻、堂ヲ起テタリ。其ノ名ヲバ大宅寺ト云フ。
 此ノ弥益ガ家ノ当ヲバ、哀レニ睦ジク思食ケルニヤ有ケム、醍醐ノ天皇ノ陵、其ノ家ノ当ニ近シ
と記す。
一方、山階寺説は梅原末治氏が1920年(大正9)に大宅廃寺から雷文縁複弁軒丸瓦、藤原宮式軒平瓦、二重弧文軒平瓦が出土した際に、この廃寺が山科の故地にあることから山階寺に想定した(梅原1920)。
この山階寺は、『扶桑略記』斉明天皇3年(656)条に、中臣鎌足が病に伏せたとき、維摩詰経を読経せしめたところ直ちに癒えたことを記し、
さらに3年(657)丁巳条に、
内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎。乃設齋會。是則維摩會始也。
とあり、山階陶家に精舎を建てることによって維摩会を行ったことを記している。
 さらに4年(658)条には、山科陶原家で元興寺の福亮法師を講匠として招いて維摩会を行い、その後、天下の高才、碩学が12年にわたって講じたとする。
1938年(昭和13)、田中重久氏は岩屋明神の南に土壇があり、法琳林寺、醍醐寺、法観寺、北白川廃寺、深草寺、紀寺などと同系譜の雷文縁複弁蓮華文軒丸瓦、上御霊廃寺、藤原宮、本薬師寺と同じ鋸歯文、珠文のある軒平瓦が出土し、鎌足の長子の定恵が創立した法琳寺と近接することから、大宅廃寺を藤原氏の山階寺の旧跡に想定した(田中1938)。
また、『諸寺縁起集』護国寺本には、宮都が大津宮に遷都したとき、鏡女王が伽藍を造営することを求めたので山階寺を作り、宮都が飛鳥に遷ったことから大和高市郡に移し、廐坂寺と呼ばれたと記す(藤田1972・薮中1997)。
大宅廃寺をどのように理解するかの課題は、1958年(昭和33)に実施された発掘調査報告では、大宅廃寺を山階寺とみなす説は、軒瓦の文様が藤原宮、本薬師寺式に類似することから造営時期が少し新しく、興福寺の軒瓦と形式的に関連をもたないことから、そのように理解するのは難しいとした。
また大宅廃寺は平安時代まで存続しており、山階寺が大宅寺となって存続したとするのも想定しにくいとした(坪井1958)。
 しかし、このような見解に対し、近年の山崎信二氏の研究では、大宅廃寺の軒平瓦1類、2類が藤原宮の造瓦と深い関連をもっており、梅原氏が「山階ノ故地」にあることから大宅廃寺を山階寺に想定したことを考慮し、山階にある藤原氏の氏寺として再考することが可能であるとした。
そして、
「藤原宮造営をやや遡る頃に造営されたこの大宅廃寺は、山階における藤原本家の氏寺であったが、藤原宮造営に伴って創建された高市郡厩坂の厩坂寺が、藤原宮の時代には藤原氏の最も主要な氏寺となった」、
ときわめて重要な理解に進展させている(山崎1995)。
 大宅廃寺で検出された伽藍の建物遺構を、ただちに山階寺とみなしうるかは大宅廃寺の創建年代、伽藍の建物配置などからみて、なお検討を要する点が少なくない。
しかも、大宅廃寺と紀寺に葺かれた軒瓦を重視すると、紀寺の方が大宅廃寺に先行して造営されており、大宅廃寺は後に紀寺と同一形式の雷文縁軒丸瓦の瓦当笵を新たに製作して葺いたことになる。
また、『諸寺縁縁起集』護国寺本に記すように、山階寺は宮都が大津にあったとき、鏡女王が伽藍を造営することを求めたことから造営されたとすると、大宅廃寺は紀寺の造営が藤原京条坊の施工開始年代を遡らないことからみて、天武5年(676)より古く遡りえないことになる。
したがって、大宅廃寺で見つかった寺院遺構は、『扶桑略記』に記す山階寺をそのままあてることはできないとになる。
しかし、それにもかかわらず山階寺の理解には検討すべき点が少なくないように思われる。
その一つは、『扶桑略記』には鎌子(鎌足)が山階陶原家に初めて「精舎」を建て、維摩会を行ったと記すことである。
また『家伝』にも鎌足が没した際に、「葬於山階精舎」と記す。
この精舎は、その記載からすると、厩戸皇子が熊凝精舎(熊凝道場)を建てたように、邸宅の一部を仏殿としたもの、あるいは草堂とも記すような本格的な瓦葺きした堂塔を配したものとは異なるものであった可能性が少なくない。
いま、このように創建期の山階寺の性格を理解すると、多量の屋瓦が出土した大宅廃寺で検出された伽藍の遺構を、そのまま山階寺の精舎に想定することは難しいことになり、山崎氏が述べるように藤原氏の氏寺とする想定を超えれないことになる。
しかし、山階寺が『扶桑略記』などに精舎と記すことからすると、先行する時期の遺構は見つかっていないが、後に山階寺を大規模に改修して瓦葺きに、もしくは再興したことを想定し、大宅廃寺で見つかった遺構を山階寺を引き継ぐものとみなすることは、なお可能性が残る想定ではないかと思われる。

山城法琳寺跡

北小栗栖の西方の山腹にあり。この一帯のみ住宅化から取り残されて田園風景を残す。
天智天皇の代、藤原鎌足の長子・定恵が建立したと伝える。
江戸期には若干の堂宇が在ったと伝えるも、早くから廃絶する。盛時には三重塔・弥勒堂・薬師堂等の伽藍があったと伝えられる。
現状、伽藍地と思われる平坦地は竹林(竹子畑)・雑木林となり往時を偲ぶものは何もない。僅かに近年建立の法琳寺跡の石柱のみがあり、それと知れるのみである。
2001/03/18撮影:
 山城法琳寺石碑     山城法琳寺跡想定地
○2001/9/13追加:「X氏」から2001/8/30日京都新聞の関連情報を入手。以下は同記事の要約。
「古代寺院・法琳寺の遺構とみられる礎石が、同寺遺構としては初めて、伏見区小栗栖の発掘調査で検出。」 
「丘陵の平坦部の試掘で、三個の礎石と、瓦などを発掘。礎石は大きさの不均一の自然石を利用し、最大で幅約1.2m。大きな二つは東西に約7m離れて並んでいた。また、瓦は、法隆寺で使用と同型の<複弁八葉蓮華紋>といわれる軒丸瓦などが出土した。」
「孝徳天皇の願いで657年に創建。最盛期には三重塔、弥勒堂、薬師堂、太元堂を配したという。平安後期、醍醐寺理性院の管理下に入り、江戸時代には廃寺になったとされる。」
2003/8/18追加:
○「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊 より
旧記云、孝徳天皇御願、昔時堂塔4宇有り、三重塔、弥勒堂、薬師堂、斉明天皇御願定恵和尚造立・太元堂・・・、
2007/12/14追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
附近の幡山竹次郎は礎石と思しき巨石1個を蔵する。
○2019/02/23撮影:
京都市考古資料館「平成30年度後期特別展示 京都の飛鳥・白鳳寺院-平安京遷都前の北山背-」 より
 鋸歯文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦:再建法隆寺式であり、山城では初出である。当廃寺以外では宇治岡本廃寺と醍醐廃寺で出土するが、前者は明らかに後出的であり、後者は法琳寺から供給された可能性が高い。(「飛鳥・白鳳の甍」)
 重圏文縁単弁十二葉蓮華文軒丸瓦     雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦      三重弧文軒平瓦
 結紐文垂木先瓦:流麗な組紐状の文様を立体的に表す。外縁には二重線からなる線鋸歯文を廻らせる。朱彩が残る個体もあり、垂木先にこれだけの荘厳を施した法琳寺の荘厳はいかばかりであったかと思われる。(「飛鳥・白鳳の甍」)
2020/02/24追加:
〇「飛鳥白鳳の甍〜京都市の古代寺院〜」京都市文化財ブックス第24集、平成22年(2010) より
法琳寺
「続日本後期」承和7年(840)6月3日条では、唐の留学から帰朝した僧常暁は山城宇治郡法琳寺に大元帥明王像を安置し、大元帥法を修めることを請い、認可される。
以降、法琳寺はこの法の道場として重視されるが、12世紀になって修法が醍醐寺理性院に引き継がれると、崇敬の基盤を失い衰微する。
 18世紀初めには衰微し、その様子は「山城名勝志」(1711刊)や「山州名跡志」(1711刊)に描かれる。すでに廃寺同様であったと思われる。
 ところで、上記「山城名勝志」では「法琳寺別当旧記」なる資料を引いて、法琳寺は孝徳天皇御願の寺で、斉明天皇の命で、中臣鎌足の長子定恵が太元堂を建立したという。定恵とは歴史上の超1級の人物であるが、さてこれは史実であろうか。
 鎌倉初期に成立したと思われる「覚禅抄」の「太元法上」には孝徳天皇御願説と斎明天皇三年再建説は記されるも、定恵云々については記載がない。
また、考古學的には孝徳・斎明朝に遡る遺物は出土しておらず、この期の創建とは考えにくい。最古の出土瓦は7世紀第4四半期というところであろう。
以上のように、定恵の関与について、これは江戸期になって現れることも考え合わせると、余り信頼できる話とは言い難い。山科は藤原氏との関係が深く、そのことによって、逆に定恵と付会された可能性も考えられるのではないかとも思われる。
 以上から、確実にいえるのは次のことだけである。
1)7世紀第4四半期に寺が建立される。
2)承和7年(840)に法琳寺という寺があり、常暁が大元帥法の道場とする。
3)18世紀初めには今の場所が法琳寺跡とされていた。
以上であるので、1)〜3)が全て法琳寺であったとは言い切れないということである。
 法琳寺跡の現状は、平成12年から京都橘大学によって調査が行われている。しかし、古代寺院の遺構は礎石建物1棟だけであり、その他の堂塔は発見されていないのが現状である。・・・上術の「2001/8/30日京都新聞」記事に符合する。

山城御香宮(御香宮廃寺/推定紀伊寺):塔心礎

以下「X」氏ご提供情報。(平成5,6年頃の京都新聞掲載記事)
御香宮南門を入ってすぐ左(西)に「伏見義民碑」がある。この碑の据付石が、塔心礎からの転用であろうと推定される。(古代学研究所<中京区>の江谷寛教授)
石の柱穴の大きさや周囲の出土遺物の年代などから、江谷教授は「紀伊寺の心礎」と推定する。
据付石は長径2mの自然石で、「中央に直径約80cmの柱穴があり、碑が下部を削った上ではめ込まれている」とのことであるが、現状は碑が嵌め込まれ 、さらにモルタルで固められ、「柱穴」を見ることは不能。しかし心柱の湿気を抜いたと見られる溝(一筋、幅3Cm、深さ1Cm)は明瞭に見てとれる。
紀伊寺に関しては「広隆寺来由記」などの古文書に、紀氏の氏寺とされる紀伊寺が、7世紀に建立されたとの記述があると云う。現状、紀伊寺の故地は特定 されていないが、これまでの調査で、碑の周囲をはじめ神社近辺から、飛鳥時代〜平安後期の軒丸瓦や遺構の一部などが出土していることから、この付近が あるいは紀伊寺に比定できるのかも知れない。
なお「伏見義民碑」が建立されたのは、明治19年と云う。
 山城紀伊寺心礎1     山城紀伊寺心礎2     山城紀伊寺心礎3     山城紀伊寺心礎4     山城紀伊寺心礎5
○2005/02/04:
天保義民碑のある裏側には「石塔残欠類」の写真のように、その由緒・謂れは不詳であるが、石塔類残欠が廃棄物同様に放置される。
心礎実測値:大きさは約190×180cm、円穴の径は約80cm。
 山城紀伊寺心礎11     山城紀伊寺心礎12     山城紀伊寺心礎13     山城紀伊寺心礎14
 山城紀伊寺心礎15     山城紀伊寺心礎16
 御香宮石塔残欠類
2010/11/06撮影:
 山城紀伊寺心礎21     山城紀伊寺心礎22
2014/04/16撮影:
 山城紀伊寺心礎23
2020/05/08撮影:
 この地・伏見は近世初頭、日本の政治の中心であった。(桃山時代)
即ち、豊臣秀吉、伏見指月の丘に新屋敷造営(指月城)。続けて伏見城を築城し、秀吉はここで政務を執る。
伏見城下には大名屋敷が建設され、町屋が整えられ、城下町をなす。諸大名の屋敷跡や町屋跡は今なを地名に残る。
しかし、わずか数年にて、秀吉は伏見にて逝去し、家康が伏見城に入り、天下に号令せんと欲す。
激動の時代であったのであり、御香宮附近では大規模な普請が続けられたのである。
そういった背景で石狩りも行われたと思われるも、御香宮廃寺心礎はよくその難を遁れ、現在にまで伝えられたのは奇跡的なことと思われる。
そうであるとすれば、明治19年に伏見義民碑の台石に転用されたのは、誠に残念な仕打ちであったと思われる。
 御香宮廃寺心礎31     御香宮廃寺心礎32     御香宮廃寺心礎33     御香宮廃寺心礎34
 御香宮廃寺心礎35
○「山城国紀伊寺」江谷寛より:
隆城寺:「又名を紀伊寺、孝徳天皇に奉、秦川勝の弟和賀が建立、丈六釈迦牟尼仏」とある。太秦広隆寺末寺の一つとされる。:「広隆寺来由記」(「山城州葛野郡楓野大堰郷広隆寺来由記」)
以上により紀伊寺(隆城寺)の存在が知られるが、その跡は不明であるが、その紀伊寺の跡としては、現在知られている深草の7ヶ所の古代寺院址の中で、この御香宮廃寺が有力であろう。
御香宮から奈良前期及び平安後期の瓦が出土、特に今義民碑の建っている場所から多く出土する。従って義民碑に転用された心礎はこの位置もしくは付近にあったものと考え ても不自然ではない。
 山城紀伊寺心礎実測図
○2005/07/11:御香宮の神仏分離:「伏見叢書」(昭和13年)
近世には御香宮供僧(三僧)として3院<金蔵院(10石)・大善院(7石)・正徳院(8石)>があった。
堂宇は本社・拝殿・湯殿・絵馬堂・御供所・東照宮・末社のほか薬師堂(2間×2間半)・護摩堂(6間×4間半)・鐘楼(1間2寸四方)などの仏堂があったと云う。
明治維新以降ノ御香宮:「御香宮ノ神宮寺タル大善院正隠(ママ)院金蔵院ハ解散ヲ命セラレ・・社僧は還俗ヲ命セラル。・・仏像は京橋大蓮寺・桃山善光寺等に送ラレ、敷地は京都府に没収、・・第7小学校ノ敷地トシテ・・・」
「都名所圖會」を観察すると、護摩堂の位置は不明であるが、拝殿手前向かって右に本地堂・鐘楼がり、薬師は拝殿向かって左にあった。
金蔵院・大善院・正徳院は表門を入って右の現在桃山天満宮のある付近にあったと思われる。
 →都名所繪圖:「御 香 宮
○2019/02/23撮影:
京都市考古資料館「平成30年度後期特別展示 京都の飛鳥・白鳳寺院-平安京遷都前の北山背-」 より
 重圏文縁単弁蓮華文軒丸瓦・重弧文軒平瓦:重圏文縁単弁蓮華文軒丸瓦は山田寺式瓦
 三重弧文軒平瓦「大天」     墨書土器「寺」など
2020/02/24追加:
〇「飛鳥白鳳の甍〜京都市の古代寺院〜」京都市文化財ブックス第24集、平成22年(2010) より
御香宮廃寺
 本廃寺について、寺号の確定は出来ない状況ではあるが、紀伊寺という説が出されている。
紀伊寺については「日本文徳天皇実録」に記されるのが最初であり、嘉祥3年(850)同年崩御した初七日に、遣使された「近陵七箇寺」の一つとしてその名が見える。
 明応8年(1499)編纂の「山城州葛野郡楓野大堰郷廣隆寺由来記」は「隆城寺、又は紀伊寺。奉為孝徳天皇而秦河勝弟和賀建焉」と記す。紀伊寺の法号は隆城寺といい、秦河勝の弟・和賀が創建した寺であり、室町期には広隆寺の末寺となっていたという。
隆城寺については「三代実録」貞観17年(875)僧道昌が隆城寺の別室で没したとの記事があり、道昌は広隆寺の別當で広隆寺復興に功績があったという。両寺の関係はこの当時まで遡ると推定される
 応永21年(1414)成立の「法輪寺縁起」にも道昌が嘉祥3年(850)以降、隆城寺の別當を兼ねていたことを記す。
 もし紀伊寺が紀伊郡に存在していたとすれば、そして紀伊郡は泰氏の勢力の強いところであったようで、御香宮廃寺が白鳳期の創建であることを鑑みれば、本廃寺は紀伊寺の有力候補であることは確かであろう。
 もう一つ、布施院説もある。
行基建立49院の中に、布施院ならびに尼院がある。「行基年譜」は所在を紀伊郡石井村と記すが、本廃寺があるのも紀伊郡石井郷である。
勿論、現在では白鳳期の瓦が知られる本廃寺が奈良期創建の布施院であることは有り得ないが、しかし49院は既存の寺院に付設する形も少なくなかったとされ、その意味では御香宮廃寺の寺域内もしくは近隣に布施院が付設されたことは十分に考えられる。
 →行基建立49院の40、41を参照
●御香宮現況:
2001/09/21撮影:
表 門:重文、伏見城大手門を移築したもので、元和8年(1622)徳川頼房の寄進によるものという。
 表門・蟇股
拝 殿:寛永2年(1625)徳川頼宣の寄進と伝える。
 拝殿正面唐破風下      拝殿正面通路左上      拝殿軒下蟇股1      同 左    2     同左    3
本 殿:重文、慶長10年(1605)徳川家康の再建という。
 本殿正面向拝   本殿西妻
2014/04/16撮影:
 御香宮表門2      御香宮表門3
 御香宮拝殿11     御香宮拝殿12     御香宮拝殿13     御香宮拝殿14     御香宮拝殿15     御香宮拝殿16
 御香宮拝殿17     御香宮拝殿18     御香宮拝殿19     御香宮拝殿20     御香宮拝殿21     御香宮拝殿22
 御香宮拝殿23     御香宮拝殿24
 御香宮本殿11     御香宮本殿12     御香宮本殿13     御香宮本殿14     御香宮本殿15     御香宮本殿16
 御香宮本殿17     御香宮本殿18     御香宮本殿19     御香宮本殿20     御香宮本殿21
 御香宮本殿22     御香宮本殿23
●近世の御香宮
○御香宮上地境内地復旧碑
 御香宮上地境内地復旧碑
この碑には次のように刻す。
 この神苑の地はもと當社の境内にして徳川氏の世を通じて神宮寺たる大善院正徳院金藏院
 の在りし迹なり明治維新の頃上地し後堀内黌の所在たりしが明治三十九年その跡を購ひ茲
 に當地を復た神苑擴張の端を開きたり蓋し関係諸氏の熱誠を和合組の功績とに因るものな
 り今や境域直に御陵道に接し公衆の便益少なからず寔に神徳を顯揚せるものと謂ふへし這搬
 有志相議りて舊地回復を記念せんとするに當り乃ちこれか沿革を略叙すと云爾
         大正十年十月   御香宮神社社司     三木善三誌
句読点をいれて再録すると次のようである。
 この神苑の地はもと當社の境内にして、徳川氏の世を通して神宮寺たる大善院・正徳院・金藏院の在りし迹なり。
 明治維新の頃、上地し後堀内黌の所在たりしが、明治三十九年その跡を購ひ、茲に舊地に復し神苑擴張の端を開きたり。
 盖し關係諸氏の熱誠と和合組の功績とに因るものなり。
 今や境域直に御陵道に接し、公衆の便益少からず。寔(まこと)に神徳を顯揚せるものと謂ふべし。
 這般(ここに)有志相議りて、舊地回復を記念せんとするに當り、乃ちこれが沿革を略叙すと云爾(のみ)。
         大正十年十月   御香宮神社社司     三木善三誌
ここで分かることは、御香宮にあった神宮寺は大善院・正徳院・金藏院と号したということである。
○「都名所圖繪」
 御 香 宮
表門を入り、右手すぐに屋敷が続くが、これが御香宮の社僧(大善院・正徳院・金藏院)であろう。
さらに、本社の段には本地堂があることが分かる。本地仏は阿弥陀三尊であったという。その行方は寡聞にして知らず。
○桃山天満宮
 桃山天満宮
本天神については、「桃山天満宮の奉納大工道具」に詳しい。
 本天神は以前伏見新七町(後に観音寺町に合併)にあり、現在の本殿は天保12年(1841)に建造されたものという。
昭和44年近鉄京都線桃山御陵前駅のバスロータリー建設などのために現在地(御香宮境内)に遷宮する。
 天保12年の本殿造営の大工は阪田岩治郎であるが、この時阪田岩治郎が使用した大工道具一式は、竣工記念として本天神に奉納され、その道具一式は今に伝えられるという。 (竹中大工道具館に寄託)
 なお、現在の桃山天満宮のある地は、かっての神宮寺である大善院・正徳院・金藏院のあった地の一部であると推定される。

●当境内に東照宮(→東照宮中の山城御香宮東照権現の項)がある。

山城おうせんどう廃寺(深草廃寺)

 →おうせんどう廃寺心礎   「亡失心礎」の「山城深草廃寺」の項を参照。

山城與杼姫社多宝塔

 →山城淀姫社:幕末頃まで、豊臣秀頼再建による多宝塔が存在していた が、淀姫社は鴨川河川敷となる。

石清水八幡宮多宝塔・大塔・小塔

 →石清水八幡宮 ※宝塔院多宝塔(琴塔)、西谷大塔、西谷小塔、駿河三昧塔(馬場末塔・多宝塔)

山城足立寺塔跡(山城西山廃寺)

西山廃寺とも云う。石清水八幡宮の西南の丘上にある。廃寺跡より約100〜200m西南は河内であり、山城の国堺に位置する。現在は住宅地の中の公園に移設され、史蹟公園として整備・保存される。 (移設・復原遺構である。)
 「山州名跡誌」等によれば、この地には、弥勒菩薩を本尊とする寺院と和気清麿を祭神とする神社があったと云う。
和気清麿は弓削道鏡の命で、八幡宇佐宮へ赴き、道鏡追放の神託を受け、それをそのまま復命したため、道鏡の怒りに触れ、両足切断・流刑を受けると云う。ところがその切断された両足は八幡神の加護で治癒し、その報恩のために足立寺を建立したと云う。
 塔基壇は一辺10mで、塔の一辺は約5.2mを測る。塔礎石はほぼ原形をとどめる。
塔心礎はほぼ三角形であり、その各辺は約2m・2m・1.6mの大きさである。中央に直径36cm深さ18cmの円穴があり、北側には円穴に隣接して舎利孔が穿られる。これは他に類例を見ない形式の心礎である。舎利孔の大きさは長径13cm、短径10cmで 、深さは円孔と同じく18cmを測る。
心礎以外に四天柱礎2個、側柱礎10個を残す。礎石は何れも自然石を用いる。
もともとは当廃寺は昭和41〜42年に、ここから西南 50mの斜面の造成地から出土したもので、東に塔・西に堂跡を配置したものであった。この堂塔跡は現在地にそのまま移設・保存される。
 なお出土品から見て、当廃寺は和気清麻呂の時代の前約100年頃に建立され、平安後期に土砂に埋もれ廃絶したものと推定されると云う。 国家神道・天皇教で賛美される清麻呂の話は別にして、現在の山城高尾神護寺の前身である清麻呂建立の神願寺は河内に建立されたとも伝え(諸説がある)、 この西山廃寺はこの清麻呂建立の神願寺の可能性が無きにしもあらずとも推測される。
 また塔跡東に並んで建立されていた堂跡も移設される。 (但し堂跡は中世のもので、地層一層目に奈良期の礎石・瓦があり、その上に室町前期に構造された堂跡と云われる。基壇は一辺10m、堂は一辺8.5mの3間×3間の建築である。)
2001/09/24撮影:
 山城足立寺心礎1     山城足立寺心礎2     山城足立寺心礎3
2005/01/29撮影:
 足立寺復元土壇11     足立寺復元土壇12
 山城足立寺心礎11     山城足立寺心礎12     山城足立寺心礎13     山城足立寺心礎14     山城足立寺心礎1 5     
 山城足立寺心礎16     山城足立寺心礎17     山城足立寺堂跡
2009/11/29撮影
 足立寺移設塔跡・堂跡(左が塔跡)     足立寺移設塔跡     足立寺心礎・四天柱礎
 足立寺心礎1     足立寺心礎2
 足立寺心礎3     足立寺心礎4     足立寺心礎5     足立寺心礎6

2013/02/23撮影:
 足立寺復原土壇31     足立寺復原土壇32     足立寺復原土壇33     山城足立寺心礎34     山城足立寺心礎35
2013/10/26追加:
○「西山廃寺(足立寺)の発掘調査」江谷寛 (「同志社大学歴史資料館調査研究報告 第9集 南山城の古代寺院」同志社大学歴史資料館、2010 所収)より
 西山廃寺旧地形図     西山廃寺開発前地形
 西山廃寺塔跡実測図:塔一辺は5.2m(中央間2.2m、両脇間1.5m)、基壇一辺は10m、基壇は平瓦を2〜3枚積み、人頭大の石を並べて交互に積む。これは伊丹廃寺と同様の形式である。
 西山廃寺塔跡遺構実測図;心礎実測図・塔跡東側瓦出土状況:出土した瓦の堆積状況より、塔は東南方向に倒れたとみられる。軒瓦は 河内枚方百済廃寺と同笵と云う。

山城離宮八幡宮多宝塔

 →大山崎(離宮八幡・寶積寺・相應寺・廃西観音寺)

山城相応寺塔心礎(離宮八幡宮内)

 →大山崎(離宮八幡・寶積寺・相應寺・廃西観音寺)

山城大鳳寺跡

宇治川右岸・宇治郡にある。
現地には大鳳寺という寺名が伝承される。数次の発掘調査により、白鳳期創建の金堂(瓦積基壇)跡を検出。法起寺式伽藍配置が想定されると云う。現状はこの一画だけが畑地として残り、金堂跡と思われる土壇を見ることができる。塔跡付近は地上には何も残らない。
2002/03/03撮影:
 山城大鳳寺跡

山城浄妙寺跡

宇治川右岸・宇治郡にある。
浄妙寺は、藤原道長の建立と云う(「御堂関白記」)。
この地(木幡)は歴代藤原氏の葬祭の地であり続けた。浄妙寺は道長の現世栄華と木幡に眠る一門の御霊の鎮魂と今後の一門の繁栄の祈念の象徴として建立された寺院であったと推定される。
2回の発掘調査により、三昧堂(一辺15.7m)とその東に同規模の建物跡(多宝塔・寛弘4年<1007>落慶・規模の大きさから大塔とされる)を検出。現状遺跡は小幡小学校校庭に埋め戻され、現地には案内柱のほか見るべきものは何もない。
 浄妙寺跡・木幡小学校校庭     現地浄妙寺跡碑
○2003/8/18追加:「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
 浄妙寺:土人云、木幡村東北山に大門跡塔壇等あり・・・・。
塔:百錬抄云、寛弘4年左大臣木幡の塔供養。本朝文スイ云、浄妙寺塔供養。日本略記新造多宝塔。
○2005/10/21追加:「木幡浄妙寺跡発掘調査報告」宇治市教育委員、1992
 昭和42年の発掘で、5間四方の堂跡を発掘し、これは三昧堂基壇と判断する。
今回の発掘では三昧堂基壇東に土壇検出する。しかし、検出は一部に留まりかつ大部分が攪乱を受け、現段階では性格を明らかにすることができないが、文献の検討から多宝塔跡の可能性が高いと判断する。但し、発掘規模が小規模なことに加えて、他の堂宇の状況も明らかでなく、多宝塔跡との断定は避けるという見解が示される。
三昧堂跡:基壇面では9ヶ所の礎石抜取穴(礎石は全て抜き取られていた)と束石(縁礎石)を8個と7ヶの抜取穴を検出。その結果などから一辺31尺の5間堂と復元される。
推定多宝塔跡土壇:三昧堂跡のすぐ東にあり、東西推定15.6mの基壇が推定される。それ以外の詳細は不明。
 全トレンチ実測図:向かって左が推定多宝塔跡である。
 多宝塔跡トレンチ実測図:発掘は建物などがあり小規模である。したがって、基壇規模や礎石配置は不明である。
 浄妙寺多宝塔はその規模の大きさから平面一辺5間の大塔形式と思われるも、その解明が俟たれるところである。  
○「平安時代仏教建築史の研究」:藤原道長創建。本尊:釈迦・多宝とする多宝塔の初例。
 以降天台系多宝塔本尊は釈迦・多宝の二尊となっていく。これは円仁・円珍によって密教化した天台が良源・恵心僧都源信により再び顕教化することに軌を同じくするものと考えられる。
○2013/02/21追加:「院家建築の研究」:
 寛弘元年(1004)藤原道長、浄妙寺三昧堂建立に着手。
寛弘4年塔の造営に着手、木幡塔供養。「権記」には「新結構多宝塔一基、其内安置釈迦多宝二如来、普賢文殊、観音勢至四菩薩像」とあり、塔は多宝塔であり、釈迦多宝二如来を安置したことが分かる。
○2016/03/28追加:
 山城浄妙寺想像図
2017/09/20追加:
○「浄妙寺跡発掘調査の概要 平成21〜22年発掘調査」宇治市歴史まちづくり推進課
○「浄妙寺跡発掘調査の概要 平成25年発掘調査」宇治市歴史まちづくり推進課
○「発掘宇治2013 平成25年度発掘調査文化財速報」宇治市歴史まちづくり推進課、平成26年 より
浄妙寺関係の記録・発掘調査
長保6年(1004)02.19:藤原道長、浄妙寺建立予定地を視察。
寛弘2年(1005)10.19:浄妙寺三昧堂落慶供養。
寛弘4年(1007)12.02:浄妙寺多宝塔落慶供養。
万寿4年(1027)12.04:藤原道長法成寺で逝去、遺骨は木幡に納められる。
康平5年(1062)08.29:藤原頼道、父道長の墓参、浄妙寺を訪れる。
寛正3年(1462)10.23:土一揆により、浄妙寺御堂、木幡執行坊が放火される。
 (以降、記録に表れず、廃絶したと思われる。)
 ※多宝塔は3度焼失し、ほぼ同じ位置に再建されたと推測される。
 創建時(寛弘4年)は檜皮葺と推定され、その後、焼失する。
 12世紀前半、河内系瓦葺により再建される。その後、再び焼失し、13世紀後半に中世瓦葺で再建される。
 これも、寛正3年(1462)の一揆により焼失し、その後、再建されることはなかった。
正徳元年(1711)の「山城名勝志」では:浄妙寺:土人云、木幡村東北山に大門跡塔壇等あり・・・・。とある。(上述)
現在の木幡小学校東の墓地は「ジョウメンジ墓」と通称される。
昭和42年(1967)浄妙寺跡発掘、5間四方(三間四面)の堂跡(一辺15.7m)が発掘され、法華三昧堂跡と推定される。
平成2年(1990)法華三昧堂再発掘、三昧堂基壇・礎石抜取穴・束石を発掘、東側に建物の痕跡があることが判明する。
三昧堂東側の遺構は多宝塔跡と推定される。
平成15・16年度発掘では、旧堂の川跡を発掘。(川の北側に寺地を定るとある。「御堂関白記」)
平成21・22年度発掘では、南の築地塀跡を発掘。
平成25年度(2013)発掘:西門跡と西築地塀跡とを発掘。
 山城浄妙寺遺構寺配置図:法華三昧堂跡の東土壇が多宝塔跡と推定される。
 山城浄妙寺遺構航空写真:下が北である。
2018/03/18撮影:2018/05/01追加
浄妙寺跡出土軒丸瓦、軒平瓦、青白磁、緑釉陶器、土師器は何れも平安期という。
 出土軒丸瓦1     出土軒丸瓦2     出土軒丸瓦3     出土軒丸瓦4     出土軒平瓦1     出土軒平瓦2
 出土青白磁      出土緑釉陶器     出土土師器
2024/02/28追加;
藤原道長と木幡浄妙寺と陰陽師
○宇治文庫7「発掘ものがたり 宇治」宇治市歴史資料館、平成8年 より
 宇治川右岸の宇治市木幡の地は、摂関家藤原氏の墓所であった。宇治川左岸の平等院の北方である。
藤原冬嗣も宇治に葬られてと記録(「延喜式」)され、藤原基経以来藤原氏一族の墳墓が累々と築かれる。
それら数十基は現在も宮内庁管理の「宇治陵」として残る。
なぜ宮内庁管理かと云えば、これらの墳墓に埋葬されたのは藤原氏長者だけではなく、藤原氏の婦女子は多く宮中に入り、天皇の室や側室となり、これらの中宮や女御も木幡に葬られたからなのであろう。
道長はここ藤原氏一族が眠る木幡の地に寺院を建立し、先祖の菩提を弔う決意をする。
それが、木幡の浄妙寺である。
 (道長の決意に至る逸話や道長の寺院建立に至る本心などは省略する。)
この浄妙寺建立の地決定のために、木幡の地に赴いたのは、安倍晴明・賀茂光栄という陰陽師であった・・・・
○宇治文庫2「平安時代の宇治」宇治市歴史資料館、平成2年 より
 寺地剪定は「卜占」で決められ、「卜占」は安倍晴明・賀茂光栄に命ぜられる。
当時、陰陽道は安倍家と賀茂家によって、司られていたのである。
○宇治文庫6「宇治をめぐる人びと」宇治市歴史資料館、平成7年
 道長「御堂関白記」の木幡三昧堂(浄妙寺)の落慶の条の写真掲載がある。
  道長「御堂関白記」
道長も万壽4年(1027)不帰となり、木幡に葬られる。
 但し、「宇治陵」の塚は累々と約320基ほどに及ぶと云われ、どの塚がだれの墓かは全く不明である。勿論、道長もどこかに眠るのであろうが、それがどこかわ分からない。
○「宇治の歴史と文化」宇治市教育委員会、昭和63年
 道長の死後、浄妙寺がどのように管理されたのかは定かでない。
康和5年(1099)藤原師通が使者を浄妙寺に派遣し、堂舎の損所を巡見させる。
建久3年(1192)寺の管掌は藤原氏の手を離れ、聖護院宮家の相承となり、更に室町期に辛うじて存続していた僧坊も、頻発する土一揆によってほとんどが焼亡し廃絶する。

山城岡本廃寺心礎

宇治川右岸・宇治郡にある。
まったく知られていなかった寺院であったが、宅地開発に基づく発掘調査(昭和60年)で、法隆寺式伽藍配置の金堂(瓦積基壇)・講堂(掘建柱)・推定塔跡・ニ重の塀跡等が確認され、出土品から白鳳期創建、奈良時代前半に改修された寺院と判明する。
推定塔跡から心礎と思われる巨石が出土する。
ただし、塔跡では明確な遺構が検出された訳ではなく、この意味で推定である。また心礎とされる石には加工痕がなく、自然石のよう にも見える。これは後世に割られたために、その痕跡が失われれたものなのかも知れない。
 岡本廃寺の現状は小公園(塔跡)の隅に心礎が説明板とともに保存されるのみで、金堂跡などは全く住宅地に変貌する。
心礎とされる石には楔跡が連続して残る。これは何時の時代のものなのか不明であるが、 おそらく耕作の邪魔になるので、後世に割ろうとした時のものと推定される。
 
岡本廃寺推定心礎1「X氏」ご提供画像
○2002/03/03撮影:
 岡本廃寺推定心礎2     岡本廃寺推定心礎3
2005/10/22追加:
○「宇治市埋蔵文化財発掘調査概報 第10集」宇治市教育委員会、1987より
従来、岡本瓦窯跡とされていた遺跡を発掘、金堂跡と思われる瓦積基壇を発掘し、「岡本廃寺」と命名される。
岡本廃寺トレンチ図:
 岡本廃寺トレンチ図:B2トレンチが金堂跡で南半分は全壊であるが、北半分より土壇及び東より瓦積基壇を発掘、上面は後世の耕作で削平され、礎石跡の検出はできないと云う結果となる。
なお、A2トレンチが推定塔跡である。
金堂跡基壇:
 金堂東部瓦積基壇1     金堂東部瓦積基壇2
B1トレンチ中央下から掘立柱建物跡を発掘。桁行6間、梁間3間(切妻屋根)南北に1間の庇を持つ。講堂跡と推定。
推定塔跡(A2トレンチ):
 A2トレンチから、巨石は発掘された。
 A2トレンチ図:直系約2mの円形土擴内に花崗岩が埋められていた。<SX200>
花崗岩の大きは1.9×1.1m程度で重量は約3.3トン。このトレンチ部分は約1mほど削平されている所で、耕作土除去の後、すぐに土擴と花崗岩を発見。石は小作土表面には露出していない。
石には鏨の跡が残り、割られた表面は余り風化が認められないため、石は現状より大きな部分が恐らく近世に割られ土擴の中に埋められたものと推定される。旧状を留める部分には明瞭な加工の痕跡は認められない。
 A2トレンチ1(発掘時)     A2トレンチ(石を反転させた状態)
以上の状態から、A2トレンチの遺構は近世のものであるのは明瞭であるが、
1.花崗岩はこの附近には産出しないため、人為的にここまで運搬されたと思われる。
2.金堂西・金堂からの距離などから、発見地点に塔を想定しても無理はない。
3.寺院跡が耕作地となった場合、礎石は割られ、孔に捨てられることはしばしばある。
4.発掘された石はその大きさから考えて、通常の礎石ではなく、心礎と考えるのが自然であろう。
以上のような類推から、この巨石は心礎と推定するのが妥当であろうと結論づけられる。
 ※出土した巨石は心礎の残欠である可能性が非常に高いと思われる。
しかし、後世の削平・開墾などで塔の存在を証明する遺構の発見が無く、また心礎と思われる加工痕跡も残存面にはなく、心礎と断定出来ないのは残念である。
○2005/10/20撮影
推定心礎残欠実測値:110×180cm高さ130cm
心礎であるならば、恐らく枘孔などがあったと思われるも、その上面が割られ、土擴に捨てられたものと推定される。
 山城岡本廃寺心礎残欠1     同         2       同         3       同          4
○2016/03/28追加:
 山城岡本廃寺想像図
○2016/12/05撮影:
心礎は日皆田児童公園の片隅に置かれる。
 岡本廃寺心礎残欠31    岡本廃寺心礎残欠32:写真に写る公園(広場)が塔跡という。
 岡本廃寺心礎残欠33    岡本廃寺心礎残欠34    岡本廃寺心礎残欠35   岡本廃寺心礎残欠36    岡本廃寺心礎残欠37

山城平等院多宝塔跡

宇治川左岸・久世郡にある。
1994年平等院鳳凰堂の南東約150mの地点で、4m×2 mの範囲の石の集積を検出し、多宝塔跡と推定される。現在は鳳凰堂基壇を参考に塔婆基壇が小公園中に復元展示される。 塔基壇は小規模であり、そのため多宝塔ではなくて宝塔であった可能性もあると云う。
 (現地説明板の復元図も宝塔として描く。)
文献では、康平4年(1061)多宝塔が藤原寛子によって建立。
2003/08/18追加:
○「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊 より
扶桑略記云、康平4年宇治平等院の塔供養、皇后宮職寛子多宝塔1基造立、・・・・・
2005/10/21:追加:
○「宇治市埋蔵文化財発掘調査概報 第26集 平等院旧境内多宝塔推定地発掘調査概報」 より:
礫の全部を検出、この礫は地業の最下層が辛うじて遺存したものと考えられる。この礫は後世の攪乱で一部破壊されているが、概ね5.5mの四方に収まる。
また東と南に張り出しが認められる。この張り出しは階段の地業の基礎と思われる。それ故に、この礫は東と南に階段を付設する建物基壇の地業の礫と考えられる。
またこの土層の出土遺物から、この層は平等院創建のものと判断される。
さらにこの位置は「平等院境内古図」の建物跡描写位置にほぼ一致し、このことも建物基壇の最下層の礫との判断を裏付けるものと思われる。
多少の攪乱は見られるものの、この礫の発掘状況からは、比較的小規模の正方形基壇が想定される。(平面は一辺5.5mの正方形で、階段を2方に設け、時期は11世紀中葉)
 調査地全景(推定多宝塔跡礫)
 推定多宝塔跡礫1:北西から  推定多宝塔跡礫2:北西から  推定多宝塔跡トレンチ図
この想定小規模正方形基壇の建物の推定:
平等院塔は藤原寛子(頼通娘・後冷泉皇后)建立(康平4年・1061)の多宝塔と藤原忠実(頼通曾孫)建立(長承2年・1133)の塔があるが、忠実建立塔は宇治橋南1町の本僧坊内に建立(境内最北の位置)され、また時期的にもこの遺跡の建物ではない。
創建から11世紀末頃までの存在した建築としては以下が確認できる。
本堂、阿弥陀堂、法華堂、多宝塔、五大堂、不動堂などと北・西大門、経蔵、鐘楼、小御所がある。以上のうち存在しているもの、遺構が確認されたもの、近世まで存在していたもの、記録でその位置が明らかであるものを除けば、法華堂か多宝塔かのどちらかと云う結論になる。(経蔵は鳳凰堂の南であるが、経蔵には廻廊が付設していたので除外。)
このうち、法華堂の規模は不明であるが、1間四面堂としても、今回発掘基壇は小規模であり該当しないと思われる。 「山槐記」の指図などの諸記録から、当時の伽藍は「平等院伽藍復元図」の様に復元できる。法華堂位置は該当せず、多宝塔が該当する。
近世の古絵図との照合:「平等院境内古図」乙図(最勝院蔵:江戸期)
この図の裏門通りに東西に多くの建物跡が描かれる。江戸期には多くの堂跡が残っていたと考えられ、それは浄土院所蔵の他の古図絵の照合からも確認できる。この図の「跡9」は今般の発掘調査地点にほぼ一致し、諸文献から復元できる「多宝塔」跡とほぼ照合できるものと思われる。
なおこの多宝塔はその推定基壇規模・形状及び文献考証から「多宝塔」ではなくて「宝塔」である可能性が高いと結論づけられる。
 ※参考:平等院鳳凰堂の彩色文様
2002/03/03撮影
 復原多宝塔基壇1     復原多宝塔基壇2     復原多宝塔(宝塔)図
2005/10/20撮影:
 多宝塔復元基壇1  多宝塔復元基壇2  多宝塔復元基壇3  多宝塔復元図
2023/04/13撮影:
 復元多宝塔基壇4     復元多宝塔基壇5
○宇治平等院古図
2006/12/10追加:「Y」ご提供
 
山城宇治平等院古図:最勝院蔵、絵葉書
平等院絵図は各種現存する。
「山槐記」治承3年(1179)3月3日条指図:塔・経蔵などの位置が明示されている。
平等院古図は最勝院と浄土院に各々各2幅(計4幅)残る。
最勝院乙図と呼ばれるものは上記のもので、甲図と呼ばれる絵図が今般のものであろう。
浄土院絵図は詳細不明。
なお本図の南方に五重塔が描画されているが、寡聞にしてその記録は不詳、また遺構が出土したということも耳にせず。
2023/08/19追加:
○「J-STAGE」>「平等院庭園古図甲図」 より
 平等院庭園古図甲図:上に示す「Y」氏ご提供、最勝院蔵、絵葉書と同一のものである。
杉本宏の解説によると以下のようでsる。
 平等院の境内古図は、浄土院と最勝院に各2幅が伝えられており、本図は最勝院蔵「平等院境内古図甲図」である。
(縦193.6cm、横185.0cm、紙数全18紙からなる紙本墨書図で、右を北として境内を想像復元的に描く。)
作成の紀年はないが、描画されている源頼政自刃伝承地「扇之芝」の資料初見が万治元年(1658)であるため、概ね江戸初期末葉頃の作成と考えられる。
さて、往時の伽藍は宇治川に突き出た釣殿をもつ本堂をはじめ、法華堂・五大堂・不動堂・愛染堂・多宝塔などの堂塔、北大門・西大門・経蔵・大湯屋・桟敷殿・僧坊・小御所などの堂舎があったことが文献上知られる。
本古図が作成された時に境内に存在していた建物は、鳳鳳堂(現存)・鐘楼(後世の移築あるいは再建)・観音堂・北大門(元禄11年/1698焼失)・
西大門であったと考えられ、これらは図の中で妥当な位置関係を示している。
他の建物については鳳鳳堂と池を挟んだ正面に描かれた小御所と思われる建物と鐘楼の南に描かれた経堂(経蔵)が、記録から推定できる場所に描かれる以外は、かなり自由に配置されている。ただ、この創造的な堂塔の配置状況の中で注意すべきは、これらの諸堂が鳳鳳堂の南方および西方に集中して描かれていることであり、この点は文献から推定できる伽藍配置と大枠で類似することである。

●鳳凰堂彩色文様
鳳凰堂の彩色文様が京都府立山城郷土資料館に復元展示されている。
 → 鳳凰堂彩色文様復元;山城郷土資料館蔵

2023/08/19追加:
○朝日新聞記事「西国33所の木札 なぜ平等院に・・・」 より
2023/08/18、標記の興味深い記事が掲載されたので、転載する。
 「西国33所の木札 なぜ平等院に・・・
西国33所札所は順打ちであれば、9番大和南円堂→10番山城三室戸寺→11番山城上醍醐准胝堂→12番近江岩間山へと巡るが、巡礼者は9番南都興福寺から奈良街道(大和街道)を経て、宇治に入り、番外ではあるが平等院に参拝し、宇治橋を渡り、10番三室戸に至ったのだろうと容易に推測される。
2023/09/03追加:
○朝日新聞記事「創建当時の鳳凰堂 ハイブリッド屋根? 瓦と板が「調和」」 より
2023/09/01、標記の記事が掲載されたので、転載する。
 「創建当時の鳳凰堂 ・・・ 瓦と板が「調和」
現在鳳凰堂屋根は総瓦葺きであるが、創建当初の屋根は不明である。
近年では創建当時は木瓦葺きで1101の大修理で総瓦葺きに変更されたという説が有力となっている。
しかし、平等院では改めて屋根の葺き方を検証、中堂の大屋根は当初から瓦葺きであったが、裳階は木瓦(板葺き?)であった可能性が高いと結論に至るという。

◇平等院現況:
2016/10/26撮影:
阿弥陀堂(鳳凰堂)は国宝、観音堂は重文(写真なし)
 平等院鳳凰堂11     平等院鳳凰堂12     平等院鳳凰堂13     平等院鳳凰堂14     平等院鳳凰堂15
 平等院鳳凰堂16     平等院鳳凰堂17     平等院鳳凰堂18     平等院鳳凰堂19     平等院鳳凰堂20
 平等院鳳凰堂21     平等院鳳凰堂22     平等院鳳凰堂23     平等院鳳凰堂24:鳳凰とカラス
明治維新までは天台宗最勝院、浄土宗浄土院のほか養林庵、知学庵、金樹院、東向庵、願海寺等の寺中があったが、養林庵を養林書院として残したほかは全て廃寺となる。(「新撰京都名所圖繪 巻6」より)養林書院は未見。
 寺中最勝院山門1     寺中最勝院山門2     寺中最勝院1     寺中最勝院2     寺中最勝院玄関1
 寺中最勝院玄関2     寺中最勝院不動堂     寺中最勝院境内:向かって右は不動堂、左の宝篋印塔は源頼政墓碑
 寺中浄土院1        寺中浄土院2
2023/04/13撮影:
 平等院鳳凰堂41     平等院鳳凰堂42     平等院鳳凰堂43     平等院鳳凰堂44
 平等院鳳凰堂45     平等院鳳凰堂46     平等院鳳凰堂47
 平等院観音堂1      平等院観音堂2      平等院梵鐘

○塔の島十三重石塔
 平等院東は宇治川であるが、塔の島があり、ここには鎌倉後期の造立で、近世以前の古塔では日本最大高の十三重石塔(重文)がある。
塔高約15.2mを測る。
 西大寺叡尊は、弘安7年(1284)宇治橋の大修造を手がける。宇治橋大改修に合わせ、宇治川の川中島として大橋の南方に舟を模した形の人工島を築き、放生会を修する祈祷道場とし、魚霊の供養と橋の安全の祈念を旨に、島の中央に大石塔婆を造立する。
これが、塔の島十三重石塔である。
大塔の建っていた島は、頻発する宇治川の氾濫にもよく耐え、激流に浚われることはなかったが、大塔のほうは、氾濫の被害をたびたび受け、倒伏と修復・再興を繰り返す。しかしそれも、宝暦6年(1756)の大氾濫で倒伏した後は、川底の泥砂に深く埋もれてしまい、再興されることはなかった。
明治38年復興が発願され、明治40年発掘が行われ、九重目の笠石と相輪以外が発見され、明治41年九重目の笠石と相輪は新たに制作して再建される。
なお、元々の九重目の笠石と相輪が発見されるも、それらは興聖寺の庭園に移設されるという。
2023/04/13撮影:
 塔の島十三重石塔1     塔の島十三重石塔2     塔の島十三重石塔3
 塔の島十三重石塔4     塔の島十三重石塔5     塔の島十三重石塔6     塔の島十三重石塔7

○宇治離宮明神
宇治川左岸には平等院、右岸には宇治離宮明神(上社・下社)がある。
宇治離宮明神は平等院が創建されてから、平等院鎮守であったという。
明治維新後、宇治離宮明神・宇治離宮八幡宮は、2ツに分離され、宇治上神社と宇治神社と改号する。
◇宇治離宮明神上社
 祭神は次の3柱という。
左殿:菟道稚郎子:
 応神天皇皇子。皇太子に立てられるも、異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺するという。(「日本書紀」)
中殿:応神天皇:
 第15代天皇。菟道稚郎子の父。
右殿:仁徳天皇:
 第16代天皇。菟道稚郎子命の異母兄。
 ※菟道稚郎子の話は美談仕立であるが、おそらく天王家の骨肉の争いを暗示するのかも知れない。
 仁徳と菟道稚郎子とが跡目を争い、仁徳は菟道稚郎子を殺害したということかもしれない。
 ※応神とか仁徳とか実在したとは思えず、美談に騙されてはいけない。
 ※菟道稚郎子の墓は宇治川右岸にあるが、氾濫原であり、墳墓の構築などありえない。
 しかし、明治22年宮内庁は、幕末まで「浮舟の杜」と呼ばれる円丘を前方後円墳状に「構築」し、菟道稚郎子の墓と治定する。
 陵墓治定の出鱈目の極みの一つでしかない。
由緒
創建や起源は明らかでない。
明治維新までは、「上社」・「本宮」と「下社」・「若宮」は2社一体であったといい、合わせて「宇治離宮明神」・「宇治離宮八幡宮」と呼ばれていた。
明治維新で、上社と下社は分離され、それそれ宇治上神社、宇治神社とされる。
左岸に平等院が創建され、「宇治離宮明神」はその鎮守とされるともいう。
「延喜式」では「宇治神社二座」とあり、それと関係する可能性はある。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳で「宇治神社二座」と見える2座のうち1座に比定される。この「二座」を祭神と見た場合、菟道稚郎子を1座とすることは動かないものの、もう1座については父の応神天皇・異母兄の仁徳天皇・母の矢河枝比売とする諸説がある[2]。
□本殿:国宝、平安後期の造営で、神社建築としては現存最古という。
流造、桁行5間、梁間3間、屋根檜皮葺が覆屋であり、その内部に、一間社流造の内殿3棟が左右に並ぶ。
内殿の左殿と右殿は組物が三斗で、組物間に蟇股を置く。細部の様式から左殿の方が年代が古いとされる。
中殿は左右殿より規模が小さく、組物を舟肘木とし、蟇股を用いないなど、形式にも違いがある。
覆屋と内殿とは構造的に一体化しており、左殿と右殿の側廻りや屋根部分は覆屋と共通である。
左殿と右殿の内陣扉内側には彩絵があり、建物とは別個に「絵画」として重文に指定される。左殿の扉絵は唐装の童子像2体、右殿の扉絵は束帯・持笏の随身像2体で、剥落が多いが、平安期にさかのぼる垂迹画の作例である。
 宇治離宮明神本殿扉絵・右殿随身像:Wikipedia より
□拝殿:国宝、鎌倉前期の造営で、寝殿造の遺構といわれる。
切妻造、屋根檜皮葺。桁行6間、梁間3間の母屋の左右に各1間の庇を付す。母屋の切妻屋根と庇屋根の接続部で軒先の線が折れ曲がっており、こうした形を縋破風(すがるはふ)と称する。周囲に榑縁(くれえん)をめぐらし、内部は板床と天井を張り、蔀戸を多用した住宅風の設えである。
□摂末社
春日社:重文、祭神:建甕槌命、天児屋根命。一間社流造で、屋根檜皮葺。鎌倉後期の造営という。
住吉社:祭神:住吉三神
香椎社:府文、祭神:神功皇后、武内宿禰神
武本稲荷社:府文、祭神:倉稲魂命
厳島社:府文、祭神:市杵島姫命
2023/04/13撮影:
 宇治離宮明神上社表門
 宇治離宮明神上社拝殿11     宇治離宮明神上社拝殿12     宇治離宮明神上社拝殿13
 宇治離宮明神上社拝殿14     宇治離宮明神上社拝殿15     宇治離宮明神上社拝殿16
 宇治離宮明神上社拝殿17     宇治離宮明神上社拝殿18     宇治離宮明神上社拝殿19
 宇治離宮明神上社拝殿20     宇治離宮明神上社拝殿21     宇治離宮明神上社拝殿22
 宇治離宮明神上社拝殿23     宇治離宮明神上社拝殿24     宇治離宮明神上社拝殿25
 宇治離宮明神上社本殿11     宇治離宮明神上社本殿12     宇治離宮明神上社本殿13
 宇治離宮明神上社本殿14     宇治離宮明神上社本殿15     宇治離宮明神上社本殿16
 宇治離宮明神上社本殿17     宇治離宮明神上社本殿18     宇治離宮明神上社本殿19
 宇治離宮明神上社中殿1      宇治離宮明神上社中殿2      宇治離宮明神上社中殿3
 宇治離宮明神上社左殿1      宇治離宮明神上社左殿2
 宇治離宮明神上社右殿1      宇治離宮明神上社右殿1
 宇治離宮明神春日社1     宇治離宮明神春日社2     宇治離宮明神春日社3     宇治離宮明神春日社4
 宇治離宮明神春日社5
 宇治離宮明神住吉社・香椎社     宇治離宮明神厳島社     宇治離宮明神稲荷社
◇宇治離宮明神下社
 祭神:菟道稚郎子
創建年代などの起源は明らかではないのは上社と同一、菟道稚郎子についても上社と同一。
本殿:重文、三間社流造、屋根檜皮葺。鎌倉後期の造営という。
その他、中門、拝殿、神楽殿、神輿蔵、7棟の末社、御旅所(飛地)などを有する。
2023/04/13撮影:
 宇治離宮明神下社鳥居
 宇治離宮明神下社本殿1     宇治離宮明神下社本殿2     宇治離宮明神下社本殿3
 宇治離宮明神下社本殿4     宇治離宮明神下社本殿5     宇治離宮明神下社本殿6
 宇治離宮明神下社本殿7     宇治離宮明神下社本殿8     宇治離宮明神下社本殿9

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参考資料:山城国久世郡南部の古墳期遺跡

久世郡南部遺跡概要(いわゆる久津川古墳群)
 久世郡南部遺跡1:城陽市「史跡芝ヶ原古墳」屋外展示
 久世郡南部遺跡2:城陽市歴史民俗資料館展示
次の図が全容を網羅し、分かり易いであろう。(2022/01/06追加)
 久津川古墳群中の西山古墳:下の◆西山古墳群に掲載(「西山1・2号墳出土遺物の再検討」 より)
一帯は木津川右岸で東は緩やかな丘陵地帯である。この一帯は古くから開けていたと思われ、平地・丘陵の区分なく多くの古墳が築かれ久津川古墳群と呼ばれる古墳の集積地でもある。平地部では後世の開墾などで、また丘陵部は戦後の宅地造成などで消滅した古墳も多いが、それでも大小30基を超える古墳が保存されている。
残存する代表的な古墳として次の3例(史跡・芝ヶ原古墳、上大谷8号墳、史跡・久津川車塚古墳)を掲げよう。
そして、今般(2020/04/16、および2022年の数回)付随する近隣の古墳を撮影したので、追加する。
2022/05/01追加:
◎いわゆる久津川古墳群について
大谷川流域の平地部、丘陵部には総計約150基ほどの古墳が知られる。
戦後の高度成長でこの一帯は宅地化され、失われた古墳も多いが、今尚、相当数の古墳が残存・保存されている。
このいわゆる久津川古墳群はさらに上大谷・下大谷・狭義の久津川・芝ヶ原・尼塚などの古墳群に区分けされる。
 なお、2016年旧来の史跡「久津川車塚・丸塚古墳」に芭蕉塚古墳と久世小学校古墳(本来は芝ヶ原古墳群に属する)が史跡として追加指定され、狭義の久津川古墳群と称されるようになる。更に芝ヶ原12号墳は「芝ヶ原古墳」として史跡指定され、少々混乱する。

◆下大谷古墳群
5世紀前半に築造された2基の方墳からなる。
1号墳は一辺18mで、埴輪棺から人骨が出土する。現在は1号墳が公園として保存される。
2022/03/08撮影:
昭和48年と昭和51年発掘調査が行われる。
1号墳は一辺約18m高さ約2.4m、墳丘の東西には周濠がある。粘土槨と埴輪円筒棺は発掘されるも、すでに盗掘されていた。棺内からは15歳前後の少年の人骨が見つかる。
2号墳は一号墳の東30mにあった。東西16.7m、南北15.5mの方墳であった。墳丘の東西北の3方のは周濠が廻る。2基の組合式木棺を直葬したものであった。
2号墳は既に破壊されなく、1号墳のみ公園として保存される。
 下大谷1号墳1     下大谷1号墳2     下大谷1号墳3     下大谷古墳平面図
 愛宕山遠望:1号墳墳丘から愛宕山を撮影

◆西山古墳群
4世紀後半に築造された前方後方墳1基、前方後円墳1基、方墳1基、円墳4基の7基からなる。
宅地開発で全て消滅する。
2022/03/01撮影:
 西山古墳群分布図
2022/07/06追加:
○「西山1・2号墳出土遺物の再検討」桐井理揮・北山大熙・菊池 望・繰納民之(「同志社大学歴史資料館館報第23号」2020 所収) より
 西山古墳群は京都府城陽市久世大谷に位置する、7基からなる古墳群である。
 西山古墳群位置図
西山古墳群は、北西へと延びる丘陵稜線に沿って並ぶ古墳群である。
北西から、1号墳(前方後円墳、82m)、2号墳(方墳、1辺25〜27m)、3号墳(円墳)、4号墳(円墳、25m)、5号墳(円墳、18m)、6号墳(円墳)、7号墳(前方後円墳、55m?)と名付
けられている。1961年に同志社大学考古学研究会による分布調査で前方後方墳1基(1号墳)と円墳9基が存在する古墳として報告される(同志社大学考古学研究会1962)。
 久津川古墳群中の西山古墳群
○「同志社大学所蔵城陽市西山2号墳出土資料調査報告」春日宇光(「同志社大学歴史資料館館報第16号」2012 所収) より
 西山古墳群は京都府城陽市久世下大谷に所在していた7基の古墳からなる古墳群で、久津川古墳群を構成する一群である。
久津川車塚古墳の北東側の台地上に位置し、北西から東にかけて順に1号〜7号墳の名称が与えられている。
1961年5月、同志社大学考古学研究会によって分布調査が行われ、1号墳の測量調査が実施された。
同年、古墳群を含む台地上で宅地造成が計画されていることが明らかとなり、うち1号墳、2号墳、4号墳、5号墳については、7月から9月まで発掘調査が実施された。3号墳と6号墳(ともに円墳)は調査が及ぶ前に破壊され、保存が決定していた7号墳(前方後円墳)も工事が実施されて未調査のまま消滅したため、詳細は不明である。
発掘調査が終了したのち、すべての古墳が破壊され、西山古墳群は完全に消滅した。かつて古墳群があった台地一帯は現在、住宅地となっており、破壊前の姿を窺い知ることはできない。
1号墳は全長約80mの前方後方墳で、古墳群中最も規模が大きい。後方部から異なる種類の粘土を交互に積み重ねた特殊な粘土槨が検出され、針状鉄器と布留式土器片などが出土した。
4号墳は直径25mの円墳で、2基の粘土槨を埋葬主体とする。東槨からは銅鏃、鉄剣、土師器壺が、西槨からは画文帯神獣鏡、内行花文鏡、勾玉、管玉、小玉、鉄ヤリ、鉇が出土した。
5号墳は直径18mの円墳だが、盗掘のため遺物は全く検出されなかった。
西山2号墳:西山1号墳と西山3号墳の間に位置していた、西山古墳群中唯一の方墳である。南北約27m、東西推定復元長約25m、西側からの高さ4.4mの、やや南北に長い墳丘を持つ。埴輪や葺石などの外部施
設は認められていない。墳頂部から4基の埋葬施設が検出された。そして多くの遺物が出土した。

◆上大谷古墳群
3世紀前期から7世紀前半に渡る20基(前方後方墳2、方墳8、円墳10)から成る。内11基が保存(移設された横穴式石室1基を含む)される。
2022/07/05追加:2022/03/01撮影
 上大谷古墳群分布図
2016/02/06撮影:
 上大谷8号墳1:写真は前方部側面      上大谷8号墳2:写真は後方部から前方部を望む
 上大谷8号墳3:写真は前方部東半部
上大谷8号墳は古墳前期に構築されたと推定される小型の前方後方墳で、全長は約33mを測る。古墳前期のこの一帯の支配者の墳墓であるかも知れない。
2020/04/16撮影:
 上大谷1号墳:前方後方墳であるという、
 墳丘はかなり削平を受け、原形をとどめない、全長33m、後方部一辺長22m・高さ2.2m、前方部先端幅19m・高さ1.5mという。
 上大谷2号墳1   上大谷2号墳2   上大谷2号墳3
 上大谷3号墳
 上大谷4号墳1   上大谷4号墳2
 上大谷5号墳
 上大谷8号墳1:向かって左が後方部     上大谷8号墳2     上大谷8号墳3:何れも、前方部より後方部を望む。
  上大谷8号墳4:後方部     上大谷8号墳5:前方部より後方部を撮影
上記の2016/02/06撮影写真と比較して頂ければ、ここ数年、おそらく地元自治会の有志が城陽市教委の承認のもとと思われるが、古墳墳丘の全面に花壇をつくり、そこに芝桜・つつじなどを植えている。私も花を咲かせるのは好きである。地元有志も悪意がある訳ではないのも分かっている。しかし、少々有形文化財に対して、行う行為ではないのではないかと思う。はっきりいえば、こういった破壊行為は止めて欲しいと思う。
 上大谷17号墳:これはやや南にあったが開発で消滅、横穴式石室を移設して保存したものである。
丸塚古墳:史蹟:帆立貝式の前方後円墳である。周濠が廻る。墳丘の長さは80m、周濠を含めた全長は104m、後円部の径は63m、高さ9.6m、前方部の長さは17m、幅は前端で32m、クビレ部で26.5m、高さは約2m。
 上大谷18号墳
 上大谷19号墳
 上大谷20号墳
2022/01/26撮影:
 上大谷1号墳2   上大谷1号墳3
 上大谷2号墳4   上大谷2号墳5   上大谷2号墳6
 上大谷3号墳2   上大谷3号墳3
 上大谷4号墳3   上大谷4号墳4
 上大谷5号墳2
 上大谷8号墳6:向かって左が後方部
 上大谷14号墳1   上大谷14号墳2
 上大谷17号墳2   上大谷17号墳3   上大谷17号墳4
 上大谷18号墳2
 上大谷19号墳2
 上大谷20号墳2   上大谷20号墳3
2022/01/27撮影:
 上大谷1号墳4   上大谷1号墳5   上大谷1号墳6
 上大谷2号墳7   上大谷2号墳8   上大谷2号墳9
 上大谷3号墳4   上大谷3号墳5   上大谷3号墳6
 上大谷4号墳5   上大谷4号墳6   上大谷4号墳7
 上大谷5号墳3   上大谷5号墳5
 上大谷17号墳5   上大谷17号墳6
 上大谷石室残石1:1号墳附近   上大谷石室残石2:2号墳附近   上大谷石室残石3:同左
 上大谷18号墳3
 上大谷19号墳3   上大谷19号墳4
 上大谷20号墳4
 上大谷8号墳7:前方後方墳。後方部が高く前方部が低い古墳期の古い様式を見せる。
全長は33m、後方部一辺12m・高さ2m、前方部巾は13m・高さ1mを測る。一段構築で斜面には葺石が敷かれる。
 上大谷14号墳3

◆久津川古墳群
◇青塚古墳
2022/03/01撮影:
5世紀中葉に築造され、一辺35m以上の方墳である。芭蕉塚のすぐ西に位置する。残念ながら、現在は墳丘のごく一部が残存するのみである。
前方後方墳と記載した資料もある?。
 青塚古墳測量図
2022/03/08撮影:
 青塚古墳1     青塚古墳2     青塚古墳3     青塚古墳4     青塚古墳5     青塚古墳6

◇芭蕉塚古墳:国史跡(2016年追加指定)
2022/03/08撮影:
二段構築の前方後円墳、墳丘の東西に造り出しを持つ。周囲には周濠を廻らす。
墳丘長は114m、周濠を含める全長は161m、後円部径は約63m、前方部の長さ51.5m、前方部端部の巾は61m、高さは約10mほどと推定される。出土埴輪から5世紀中葉の築造と推定される。
 芭蕉塚古墳11     芭蕉塚古墳12     芭蕉塚古墳13     芭蕉塚古墳14
 芭蕉塚古墳15:後円部     芭蕉塚古墳16:後円部
 芭蕉塚古墳17:後円部から前方部を撮影     芭蕉塚古墳18:前方部     芭蕉塚古墳平面図

◇久津川車塚古墳:国史跡
2016/02/06撮影:
 久津川車塚古墳:史跡:上大谷8号墳丘の上から撮影
5世紀前半に築造された山城国最大の墳丘長を持つ大型の前方後円墳である。
推定墳丘長は約180m(全長は272m)を測り、周囲は周濠があったとされる。その規模から南山城を支配した部族長の墳墓であろうか。
埋葬施設は長持形石棺で、明治27年奈良鉄道線(現JR奈良線)の敷設で後円部が破壊、未盗掘状態の石棺・副葬品が発見される。
出土鏡(泉屋博古館蔵)・出土石棺(京都大学総合博物館蔵)は後に国の重文に指定される。
 ※本古墳から出土した鏡7面(泉屋博古館保管)及び長持形石棺・附指定品(京大保管)は重文指定。
なお出土石棺のレプリカが城陽市歴史民俗資料館や京都府立山城郷土資料館に展示される。鏡・甲冑などが出土する。
2022/01/26撮影:
 久津川車塚古墳2:史跡:遠望、上大谷8号墳丘の上から撮影。
2022/03/08撮影:
 久津川車塚古墳11:全景、左が後円部     久津川車塚古墳12:後円部
 久津川車塚古墳13:中間部     久津川車塚古墳14;中間部・前方部
 久津川車塚古墳15:前方部     久津川車塚古墳16:後円部
 久津川車塚古墳17:後円部・左は土取り部か     久津川車塚古墳18:後円部
 久津川車塚古墳19:後円部・左は土取り部
 久津川車塚古墳20:前方部南西部     久津川車塚古墳21:前方部南西隅・JR奈良線線路
 車塚古墳平面図:「久津川車塚古墳2015年度発掘調査の概要」城陽市城育委員会 より

◇丸塚古墳:国史跡
2016/02/06撮影:
5世紀前半の築造で、帆立貝式の前方後円墳である。全長は104m。前方部から大型の家型埴輪が出土。
 丸塚古墳平面発掘図     丸塚古墳1:史蹟     丸塚古墳2     丸塚古墳3

◇梶塚古墳
方墳。久津川車塚古墳に接するあるいは敷地が一部重複する。
「新撰京都名所圖繪 巻6」昭和40年 では消滅とする。
5世紀前半に築造され、64×61mの大型の方墳である。車塚に接して築かれる。ただ宅地化が進行し、現在はぼぼ全壊と思われる。

◇山道古墳
2022/03/01撮影:
山道古墳は緯度経度:34.863917、135.7821675に所在した。5世紀前半の築造で、一辺35m以上の方墳である。全壊。
山道東古墳は5世紀中葉の築造された大型の円墳で、造り出しと二重の周濠を持ち、全長は57mある。削平により消滅。
 山道古墳展示模型     山道東古墳墳丘復元図

◇赤塚古墳
円墳。平川廃寺に接する。
消滅した欠山塚がこの付近にあり、赤塚とは欠山塚のことか?

◇指月塚古墳
円墳。城陽市立久津川小学校の敷地内に位置する場所にあるが、現在は建物(校舎?)が建てられ消滅する。
「新撰京都名所圖繪 巻6」昭和40年 では消滅とする。

◇箱塚古墳
前方後円墳。指月塚のやや南にある。
「新撰京都名所圖繪 巻6」昭和40年 では消滅とする。

◇恵美塚古墳
「新撰京都名所圖繪 巻6」昭和40年 では消滅とする。
旧国道24号線工事で消滅か?

◆尼塚古墳群
2022/01/26撮影:
 尼塚古墳6・7号墳:遠望、上大谷8号墳丘の上から撮影、向かって左が6号墳。
 尼塚古墳6号墳   尼塚古墳7号墳
2022/01/27撮影:
 尼塚古墳群:8基の古墳からなる。左図には主たる墳墓である尼塚古墳は描かれていない。
発掘調査によって、1〜4号墳は4世紀後半、5号墳が8世紀前半の構築とされる。
6号墳は径15m、高さは2.5mの円墳、7号墳は径15m、高さは約1.5mの円墳である。2基とも未発掘で詳細は不明であるが、立地・規模などから1〜4号墳と同じ4世紀後半に築造されたと思われる。6・7号墳の2基と少し南にある尼塚古墳(墳丘の1/3が残る)1基の計3基が保存されているのが現状である。
 尼塚6号墳2   尼塚6号墳3
 尼塚7号墳2   尼塚7号墳3
2022/03/05撮影:
尼塚古墳
天塚とも云う。方墳である。すぐ北にある6基の古墳と共に尼塚古墳郡を構成する。(5号墳は奈良期の墳墓)
古墳群は宅地造成で破壊、尼塚古墳(1/3弱)、6・7号墳のみ保存される。
尼塚古墳は昭和42、3年に発掘調査される。墳丘は東西40m、南北37m、高さ4.5mを測る。墳丘中心部には南北6.4m幅1.4mの粘土槨があり、粘土槨内に長さ5.6mの竹割棺があったが、既に破壊されていた。銅鏃・玉類・鉄製品とともに筒形銅器(槍の石突きか)が出土する。
なお、公園内に小詞が2基あるが、願掛け地蔵などである。
 尼塚古墳群位置図     尼塚古墳1     尼塚古墳2     尼塚古墳3     尼塚古墳4

◆芝ヶ原古墳群
5世紀初めから6世紀前半の12基から成る。久世神社や小学校内などに10基が保存される。
2022/07/05追加:2022/03/01撮影:
12基(「城陽市史迹巡りマップ」)あり、5世紀初めから6世紀前半にかけて築造される。
久世廃寺背後(北)の丘上に1〜7号墳(前方後円墳2、円墳5)が残存、9号墳は久世小学校構内に保存(2016年国史跡に追加指定)、12号墳は国史跡「芝ヶ原古墳」、13号墳は12号墳東方に残存する。8・10・11号墳は情報なしであるが何れも消滅か。
なお、芝ヶ原9号墳(久世小学校古墳)は5世紀中頃に構築された円墳で、径27.5mを測る。墳丘は2段に築かれ、葺石と埴輪が並ぶ。家・蓋・甲冑・靫の形をした埴輪や朝鮮半島でつくられた可能性のある把手付短頸壺が出土する。
 芝ヶ原古墳展示模型:8号墳は6号墳の東、10・11号墳は9号墳の北東にあり、特に10・11号墳の位置は完全に住宅化しており、消滅と思われる。
2016/02/06撮影:
 芝ヶ原古墳(12号墳):史跡:写真は復原された後方部である。
3世紀前半に構築されたと推定される大型の前方後方墳であるが、現在では後方部のみ復原・展示される。前方部は崩壊し、原形は不明である。出土した同釧などは一括して重文に指定されている。
2021/11/11撮影:
12号墳出土品、何れも重文である。
 芝ヶ原古墳出土四獣形鏡     芝ヶ原古墳出土銅釧1-1     芝ヶ原古墳出土銅釧2-1
 芝ヶ原古墳出土勾玉管玉小玉     芝ヶ原古墳出土勾玉     芝ヶ原古墳出土管玉     芝ヶ原古墳出土ガラス小玉
2022/03/01撮影:
 芝ヶ原古墳(12号墳)2     芝ヶ原古墳(12号墳)3
2016/02/06撮影:
 芝ヶ原13号墳:円墳という。長い間、閉鎖されているようで、通常立ち入りができない。上大谷8号墳丘の上から撮影。
2022/01/26撮影:
 芝ヶ原13号墳2:遠望、上大谷8号墳丘の上から撮影。
2022/03/01撮影:
 芝ヶ原古墳1〜8号-1:1号墳?     芝ヶ原古墳1〜8号-2:3号墳?
 芝ヶ原古墳1〜8号-3     芝ヶ原古墳1〜8号-4     芝ヶ原古墳1〜8号-5
 芝ヶ原古墳1〜8号-6:7号墳?     芝ヶ原古墳1〜8号-7:7号墳?     芝ヶ原古墳1〜8号-8:7号墳?

◆寺田石棺材(歯痛地蔵):芝ヶ原古墳公園内展示
2022/03/01撮影:
この棺材は古墳の家型石棺の底石であり、播磨加古川流域で産出する竜山石である。
どの古墳のものかは明らかでないが、古墳終末期のものと推定される。
後世に転用され、地蔵菩薩が浮彫にされ、歯痛地蔵あるいは石橋地蔵と呼ばれていた。
地蔵菩薩像が彫られたのは鎌倉期と推定される。
大正期は寺田西ノ口を流れる小川の石橋として使われていたが、大正末期に取り外され、数回の移転を経て寺田地区で祀られていた。
2021年度に芝ヶ原古墳公園に移される。
 寺田歯痛地蔵(石棺底)1     寺田歯痛地蔵(石棺底)2


 古墳の時代が終焉し、飛鳥、白鳳、奈良の時代が始まる。この時代には、古墳を築いた氏族のエネルギーは寺院建立に向かったのであろうか、この地にも寺院建立が相次ぐ。
白鳳期の創建という久世廃寺、奈良期の創建という平川廃寺、同じく奈良期の創建という正道廃寺、さらに北方にある広野廃寺である。
正道廃寺、平川廃寺、久世廃寺については下に述べる通りである。 広野廃寺は瓦が採取されただけで、一帯は古くからの集落で、実態は不明である。
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山城正道廃寺

 大量の古代瓦及び刹菅の先端部並びに相輪の水煙の火炎の部分と推定される青銅製品が出土するも、26次にも及ぶ調査にもかかわらず寺院遺構は全く検出されずに終わっている。 その結果、寺院遺構(堂塔)は現在正道官衙跡及び古代集落跡として史跡指定されている「正道官衙遺跡」の東側丘陵上に存在していたのであろうと推定されているのみである。 そして東側丘陵は完全に宅地造成され、今となっては遺構の出土を望むべきもないというのが現状である。
 立地模型図は上に掲載の久世郡南部遺跡1を参照、本図の正道官衙跡の東に「この付近正道廃寺跡か」と表示をするが、正道廃寺があったとすれば、まさにこの付近にあったものと思われる。附近一帯は高度成長期に大規模な宅地造成が行われ、遺構はおそらく破壊され尽くされたものと思われる。
 2018/04/26撮影:
  山城正道廃寺跡:「久世官衙遺跡跡」の東方やや北寄りに「正道廃寺」があったものと推定される。
 ここは高度成長期にブルドーザが入り造成され、見るべきものは何もない。すぐ北側に世を騒がせた「芝ヶ原12号墳」(史跡)があり、
 こちらはブルドーザが入りかけたが、宅地造成は阻止され、前方部だけの不完全な姿ではあるが、古墳が保存されたのと好対照をなす。
○「正道官衙遺跡(城陽市埋蔵文化財調査報告書 第24集)」城陽市教育委員会、1993 より
 本報告書は基礎調査である第1次調査から史跡整備に伴う第26次調査までを纏めたものである。
第1次から第4次までは寺院跡と考えられ「正道廃寺」として報告されるも、広大な面積を発掘した第5次以降は「正道遺跡」の名で報告される。それは第5次発掘で集落遺構や奈良期の掘立式建物遺構が出土し、大規模な複合遺跡と判明したからである。
 遺跡は標高40〜50mの台地上にある。昭和40年山田良三氏(城南高校教諭)が台地の西端で白鳳期の軒瓦を採取し、地名を採って「正道廃寺」と名付けられる。その後、1次(昭和41年)〜4次(昭和44年)までの発掘調査では小規模建物の出土を見るも、寺院跡と決定づける遺構は出土はせず。
 昭和48年、宅地造成に伴う事前調査(第5次)では、上述のように、大規模な複合遺跡と判明し、その後26次までの調査が行われ、最終的には平成3、4年度に史跡整備が行われ、現在見るような郡衙の中心建物や築地跡が復元されたビジュアルな遺跡となっている。
 正道廃寺:
第5次調査は台地の東区を広範囲に発掘するも、寺院に関する遺構は検出されずその位置は確認されていない。その後の台地西区の調査でも関連する遺構は検出されていない。また瓦類の分布は次第に少なくなることが判っている。第5次調査報告で触れられているが、東丘丘陵上に寺院が存在した可能性が一層高まっている。その場合、地形上から見て広い寺域の確保は困難であり、小規模な堂塔が営まれたものと思われる。出土した瓦類を始め寺院に関係する遺物は地形の高い東から低い西に流れ落ちたことは十分考えられることである。
 出土遺物:
瓦類;軒丸瓦は18種287点、平瓦は11種280点出土する。白鳳期以前のもの、白鳳期のもの、奈良期のものがある。
金属製品;青銅製品は3種出土。
1)は現存長46.6cmの先細の棒状物で相輪最上部の刹管の先端部であろう。表土層から竪穴住居の四周壁に突き刺さっていた。
2)は現存長12.5cm、厚さ7mmの側縁が曲線を描く板状のもので、片面を面取りし断面台形をなす。水煙の外周の火炎部分であろう。
もう一点の用途は分からない。
 刹菅出土状態
2016/02/06撮影:
 推定刹管先端部残欠:出土遺物      推定水煙の外周火炎部残欠:出土遺物
 正道廃寺出土瓦
※今般「正道廃寺」の軒瓦、青銅製の刹菅の一部、同じく水煙の破片を目の当たりにする。やはり、塔を伴った「正道廃寺」は存在したのであると確信する。
2018/04/26撮影:
 推定水煙外周火炎部残欠2     正道廃寺出土瓦2
 正道廃寺出土塼仏     正道廃寺復元塼仏:出土塼仏及び復元については良く分からない。
2021/11/11撮影:
 正道廃寺擦菅2     正道廃寺水煙3     正道廃寺出土瓦3
2022/03/10追加:
○「令和3年度秋季特別展 神のすがた・仏のかたち」城陽市歴史民俗資料館、2021 より
正道廃寺出土塼仏は方形三尊塼仏の一部で、三尊背後で飛翔する飛天の一部とみられる。文様の間には金箔の痕跡が残る。
7世紀後半頃の製作と推定され、荘厳用と思われる。総高6.0cm。
 正道廃寺出土塼仏

山城平川廃寺(史跡)

久津川古墳群のただ中にある。白鳳期に創建され、法隆寺式伽藍配置であり、一辺17.2mを測る巨大な塔が建立される。 塔基壇長さ17.2mは現在知られている奈良期の塔基壇規模では東大寺、相模国分寺に次ぐ規模とされる。七重塔なのであろうかとも推定される。
礎石はまったく遺存せず。基壇は瓦積基壇であった。
寺域は東西1町半、南北1町とされる。なお久世廃寺が南方約400mにある。
2022/03/10追加:
○2021/12/12朝日新聞記事:
本廃寺から塑像片が約150点出土している。
今般、帝塚山大学が塑像片を調査し、約3mの菩薩像であることが判明すると発表する。
1999/05/03撮影:
 山城平川廃寺跡
2003/05/07撮影:
 山城平川廃寺塔土壇:金堂跡(東)から撮影、  同    金堂土壇:塔跡(西)から撮影。        同    伽藍図:現地説明板から
2006/11/23撮影:
 平川廃寺塔土壇1:東側金堂跡から撮影       同        2:同左
2006/07/10追加
○「城陽の指定文化財」城陽市歴史民俗資料館、1995 より
 平川廃寺塔瓦積基壇:出土瓦積基壇
○「かく甦える城陽の文化財」遺跡と語る会編、城陽文化を語る会発行、1996 より
 平川廃寺塔跡基壇2:出土瓦積基壇
2013/10/26追加:
○「平川廃寺発掘調査概報」(「城陽市埋蔵文化財調査報告書 第1集」城陽市教育委員会、1973 所収)より
 平川廃寺塔跡発掘図:塔基壇は12.7m、塔一辺は10.5m、1間3.5mの等間。
なお、瓦積基壇の上部側面で木舞の痕跡を残す壁土が出土することから漆喰仕上げされていたと考えられる。
2013/11/17撮影:
 山城平川廃寺:石碑は金堂土壇に建つ、石碑背後が塔跡
 山城平川廃寺塔跡1    山城平川廃寺塔跡2    山城平川廃寺塔跡3    山城平川廃寺塔跡4    山城平川廃寺金堂跡
2016/02/06撮影:
 平川廃寺出土瓦1     平川廃寺出土瓦2     平川廃寺出土瓦3
立地模型図は上に掲載の久世郡南部遺跡1及び久世郡南部遺跡2を参照。
なお、寺域西側は5世紀後半の赤塚古墳(径22.5mの円墳)と競合するも、平川廃寺の西側築地は古墳を破壊することなく、迂回して造られ、およそ200年前後の後も、塚が墳墓であるというような認識を保持していたのであろうか。
上の模型図は築地は赤塚古墳を回避した様子が再現されている。
2018/04/26撮影:
 平川廃寺出土瓦4     平川廃寺塑像残欠1     平川廃寺塑像残欠2     平川廃寺塑像残欠3
2021/11/11撮影:
 平川廃寺出土瓦5     平川廃寺出土瓦6
2022/03/10追加:
○「令和3年度秋季特別展 神のすがた・仏のかたち」城陽市歴史民俗資料館、2021 より
平川廃寺は今までの発掘調査で、7世紀後半の創建で、8世紀に入り伽藍が整備されたとされる。
平川廃寺出土塑像は昭和48年の調査で塔跡附近から約120点の、平成19年の調査で金堂跡付近から約30点の塑像片が出土する。
螺髪等の如来と認め得る断片は発見されていない。令和3年断片から当初の大きさを推定すべく、薬師寺金堂月光菩薩像(像高3m)と照合すると両者はほぼ同じ大きさであることが判明する。これにより当廃寺では本座御として約3mの菩薩像が安置されていたものと推定される。
 平川廃寺出土塑像

山城久世廃寺:史跡

この一帯は久津川古墳群として知られ、附近には大小多くの古墳の存在が知られる。 →上に掲載の山城国久世郡南部の遺跡
また古代寺院が南北に3箇所(北から広野廃寺・平川廃寺・久世廃寺)並び、東に正道廃寺が並ぶ。
廃寺は現在の久世神社境内に塔・金堂の土壇を明瞭に残し、住宅地の中この一画だけは史跡として鬱蒼とした社叢を残す。
寺院は法起寺式伽藍配置をとり、白鳳期に創建されたとされるが、沿革等はまったく不明。
調査により、塔基壇は一辺13.4m。金堂基壇は26.7m×21,3m、講堂は23.5m×13m、寺域は115m×135mと確認される。
なお礎石はまったく遺存しない。
先年の台風で金堂跡の大木が数本根こそぎ倒壊し、大量の布目瓦が姿を現す。
 山城久世廃寺土壇
2003/05/07撮影:
 山城久世廃寺塔土壇1:北から撮影       同         2:東北東から撮影、右は金堂土壇。
   同   推定築地跡:築地跡と思われる。南門跡から法起式伽藍配置の金堂・塔の中間に向かって築地塀跡と思われる跡が約10m位認められる。古代寺院のものではなく、築地塀付近に散乱する瓦は近世のものと思われ、おそらく近世 の若王寺に関係するものと思われる。
 2003/11/15追加:上記の築地がある場所は久世神宮寺(若王寺)があった場所であり、築地は近世の若王寺のものであろう。
2006/11/23撮影:
 山城久世廃寺塔土壇1:北から撮影       同        2:南から撮影
2008/03/25撮影:
 久世廃寺塔・金堂土壇:北から撮影(向かって左は塔、右は金堂土壇)
 山城久世廃寺塔土壇1:北から撮影      山城久世廃寺塔土壇2:北から撮影
 山城久世神社拝殿:重文・社殿の色彩の退色が眼に付き、最近解体修理に取り かかる。
2008/05/14撮影:
 山城久世廃寺伽藍配置図:現地説明板
 山城久世神社透塀:かなり破損・退色する。
  ※久世神社本殿は重文・室町期の遺構。 → 山城若王社(久世神社)
2012/08/26撮影:
 山城久世廃寺塔土壇11     山城久世廃寺塔土壇12
 山城廃若王寺跡1         山城廃若王寺跡1:何れも後方の土壇は金堂土壇
 山城久世廃寺講堂跡
2013/10/26追加:
○「久世廃寺第3次発掘調査概報」(「城陽市埋蔵文化財調査報告書 第9集」城陽市教育委員会、1980 所収)より
心礎は心礎抜き取り跡から地下式と推定される。基壇一辺は13.4m、塔一辺は6.3m。
掘込地業の上縁に沿って、平瓦が立った状態で遺存する箇所がある。このことから、この基壇は瓦を立てて瓦積の地覆としたと推定される。
2016/02/06撮影:
立地模型図は上に掲載の久世郡南部遺跡1及び久世郡南部遺跡2を参照。 若王社は久世廃寺北東に位置し、その立地から久世廃寺の鎮守のような役割が想定される。なお近世の宮寺・若王寺は金堂基壇とその南に位置していた。
 久世廃寺塔・金堂土壇1     久世廃寺塔・金堂土壇2:いずれも北から撮影、向かって左が塔土壇
2018/04/26撮影:
 久世廃寺銅造誕生釈迦仏立像     久世廃寺銅像菩薩造断片
2020/04/08撮影:
 久世廃寺土壇1     久世廃寺土壇2:何れも中央が塔跡土壇、左端が金堂跡土壇
 久世廃寺塔跡土壇1     久世廃寺塔跡土壇2:何れも中央が塔跡土壇
2021/11/11撮影:
 久世廃寺出土瓦
2022/03/10追加:
○「令和3年度秋季特別展 神のすがた・仏のかたち」城陽市歴史民俗資料館、2021 より
久世廃寺は法起寺式伽藍配置をとり、7世紀後半に創建されるという。
久世廃寺釋迦誕生仏・仏像断片
 久世廃寺釋迦誕生仏:像高5.6cm、7世紀後半の製作と推定される。
 久世廃寺菩薩像断片:菩薩像断はそれぞれ腰部と台座の一部と推定される。当初は像高20cmほどの立像で7世紀後半の制作と推定される。
2022/03/01撮影:
 久世廃寺土壇1:南から撮影、向かって右が塔土壇、左が金堂土壇     久世廃寺土壇2:北から撮影、上図と逆
 久世廃寺土壇3:北東から撮影、手前土壇が塔土壇     久世廃寺土壇4:同左     久世廃寺土壇5:同左
 久世廃寺塔土壇1     久世廃寺塔土壇2     久世廃寺塔土壇3
 久世廃寺金堂土壇1     久世廃寺金堂土壇2
 散在する古瓦1:殆どは近世の廃若王寺のものであろう。
 散在する古瓦2:布目瓦も混じるが、これは久世廃寺の所用瓦であろう。かなり前の事であるが、台風で数本の大木が根こそぎ倒れた時、多くの布目瓦が姿を現したことがあった。土中には多くの布目瓦が残っていりのであろうと思われる。

山城山瀧寺心礎

 →山瀧寺および山瀧寺塔心礎

山城普賢寺心礎

 →山城普賢寺

山城井堤寺跡(井手寺跡)

2012/08/24追加:
○「井手寺址」梅原末治(「京都府史蹟勝地調査会報告 4」大正12年 所収)では以下のように述べる。(要約)
 遺跡は明治維新まで原野として遺存・原状の面影を伝えたる如きも、今より30餘年前開墾し、畑地となし、次いで水田に改変し、今や殆ど旧形を留めず、堂塔の配置など全く徴すべからざるに至れり。ただ開墾の際散在せる礎石の一部を集めて記念とせしものが遺存する。
 道の南辺に一辺4間内外の芝地があり、数多くの石材を置けるが、内に4個の円形造出ある礎石が混在す。中西泰一氏談によれば、この礎石は付近にありしものを集めたと云う。
さらに、この芝地の東南約1町半の玉川に沿う崖の近くに礎石の一群がある。ここはもと天神社のありしところに南接し、田圃の一隅に約2間の方形区画を設け、周囲を石積して、その四隅に各1個の礎石を据えるものである。宮本氏の談によれば、付近にありし礎石を集めて天神社の遺跡を記念する意を遇するものと云う。
そのほか、上記の礎石群から東北約1町の小径に大型礎石が半ば埋もれて遺存する。
 以上遺存する礎石は9個であるが、いずれも雲母花崗岩製である。そして形状は3種に区別される。
その一は、径2尺1寸内外の円形造出(高さは必ずしも一致せず)を設けたる単形のものである。天神社旧跡付近の4個、北方芝生上の3個がそれである。
そのニは、径2尺1寸の円径造出を設けるのは同じであるが、その上に径6寸の突起を設けるもので、北方芝生に1個遺存する。
その三は、小径に埋没するもので、これ完形を存せざるも、大形にて造出の径は3尺を越ゆべく、上辺に更に薄き造りを加えたる処、あるいは塔の中心礎石にはあらざりしかと思われる。
なお、これ等の礎石は皆火災に罹りし形跡あり。
  
井手寺跡礎石形状図
 ※礎石は9個遺存する。その所在の内訳は北方芝地(現在は井堤寺跡公園)に4個、南の天神社旧跡に4個、小径畔に1個所在する。またその種類は径2尺1寸ほどの円形造出を有するもの7個、ほぼ同じ形状・大きさで出枘の形跡があるもの1個、小径に埋没する径3尺超の造出を持つ大型礎石である。
2012/02/18撮影:
 礎石保存場所
旧北方芝地(現在は井堤寺跡公園)
 井堤寺跡旧北方芝地:現在は公園として整備される。
 旧北方芝地石碑表     旧北方芝地石碑裏:「三宅安兵衛遺志」石碑であろう。
 旧北方芝地礎石1:礎石は5個ある。さらに礎石と推定される石もあるが、礎石である確証はない。
 旧北方芝地礎石2:最上部に写るのが推定礎石(確証はない)。
 旧北方芝地中央礎石1     旧北方芝地中央礎石2:中央礎石は造出 があり、さらに磨耗した出枘を持つ。
 旧北方芝地北側礎石:北側礎石も造出 があり、さらに磨耗した出枘を持つ。
 旧北方芝地東側礎石:造出のみ を持つ。     旧北方芝地南側礎石:造出のみ を持つ。     旧北方芝地西側礎石:造出のみ を持つ。
 旧北方芝地推定礎石1     旧北方芝地推定礎石2     旧北方芝地推定礎石3     旧北方芝地推定礎石4
  ※この推定礎石は礎石と推定されるも確証はない。
  この推定礎石は径約100cmを測る。下に述べるように、「完形を存せざるも」「東北約1町の小径に」遺存する「大形」礎石は現在所在が
  確認できず、あるいはこの推定礎石がその「大形」礎石とも密かに推量するわけであるが、やはり無理な推量と思われる。
  その推量が成り立つには、この推定礎石は後に「東北約1町の小径」から、井堤寺跡公園に運ばれ、現在の位置に据えられたことが証明
  されなければならない。
  また形状が礎石の形状ではなく、まして造出があるとか薄き造りがあるようには見えないので、これを「大形」礎石とするには
  今在るのは2/5ほどの残欠であり、かつ表面も破壊され造出や造りが磨耗したとするしかなく、やはり無理な推量であろう。
天神社旧跡
 天神社旧跡1:西から撮影      天神社旧跡2:北やや西から撮影
 天神社旧跡石碑表     天神社旧跡石碑裏:昭和3年「三宅安兵衛遺志」建立とある。
 天神社旧跡北東礎石     天神社旧跡北西礎石     天神社旧跡南東礎石     天神社旧跡南西礎石:礎石は何れも造出のみ持つ。
  井堤寺石碑と礎石:天神社旧跡の旧写真: 2012/02/29追加、「井手町の古代・中世・近世」井手町史編集委員会、1982 より
※北方芝地には現在5個の礎石、天神社旧跡には旧来の通り4個の礎石がある。
北方芝地の礎石は全て径60cm内外の造出を持ち、内2個は出枘の痕跡を残す。従って大正12年の上記「井手寺址」の報告より、出枘を持つ礎石が1個増加している。どこからか搬入されたのであろうか。
 天神社旧跡は上記「井手寺址」の報告の通りの大きさ・形状の礎石が四隅に残る。
※大正12年の報告にある「塔の中心礎石にはあらざりしかと思われる」ところの「東北約1町の小径に・・・半ば埋もれて遺存する」「造出の径は3尺を越ゆべく」「大型礎石」は現在不明である。
2012/02/29追加:
○「新撰京都名所圖會」竹村俊則、昭和40年 より
 「この地(井手)は東の山中からながれ出る玉川(水無川)の・・谷口扇状地をなし、前方は木津川にのぞんで東高西低となっている。」
 「奈良時代には橘氏の所領地となり、左大臣橘諸兄は天平12年(740)この地に壮麗な別業をかまえ、・・・古図によれば往時の井手の山野一帯には橘氏一族の多くの邸館が建っていたさまが描かれている。もとより後世の想像によるものであろうが・・・」
 「井手寺は橘諸兄が建立した氏寺で正しくは円堤寺としるし、法号を光明寺と号した。」
○「井手町の自然と遺跡」井手町史編集委員会、1973 より
 井堤寺跡についての項では、上記「井手寺址」梅原末治からの説明を(踏襲すると断わった上で)そのまま踏襲する。
従って、心礎の可能性のある「東北約1町の小径」の大型礎石の現在の有無や、大正12年の報告では「一辺4間内外の芝地」には4個の径60cm内外の造出を持つ礎石があったが現在では同様の大きさの礎石が 1個増加し5個あることについては、全く言及がない。
 ※残念なことである。△
○「井手町の近代Tと文化財」井手町史編集委員会、1999 より
井堤寺(円堤寺)の繁栄ぶりは「山城国井堤郷旧地全図」によって偲ぶことができる。即ち井堤寺は東西南北とも160mの規模を誇り、三重塔や金堂を中心に七堂伽藍の整った大寺であったと云う。
 ※三重塔というのはどの史料に基ずくのかは不明であるが、「山城国井堤郷旧地全図」に基ずくものであれば、これは錯誤であろう。
少なくとも本書(井手町史シリーズ)で参照する「全図」では、三重塔ではなく二重塔(相輪は多宝塔形式)であるからである。△
平安前期には檀林皇后(橘奈良麻呂の孫の嘉智子、嵯峨天皇皇后、井手氏公の姉)と井手右大臣氏公は鎮守梅宮を京都梅津に移し、井堤寺を神護寺と位置づける。
また、土佐市正念寺には「井手寺」の銘を持つ平安前期の鐘が伝わる。井堤寺が廃寺となり流出したものであろう。
井手寺銘梵鐘は次のサイトに掲載がある。
 仁淀川財産目録書>土佐市の史跡     土佐市>土佐市の文化財
  ※上記ページより:井手寺銘梵鐘
○「書籍名不明図書」井手町立図書館蔵本 より(書籍名不明なのは書名を記録せず、後に検索するも書名判明せず)
 北側土壇写真:現在の状況に整備前の様子が分かる。土壇は一辺9m、高さ1m。     南側礎石写真:現状と大きな相違は認められない。
井堤寺礎石については梅原末治の報告そのままの解説がある。従って上述の「井手町の自然と遺跡」と全く同様に現状の疑問点の解消には至らない。
なお、天神社とは井堤内に橘諸兄が創建した椋本天神社のことと云う。
また、井堤寺梵鐘が土佐正念寺へ運ばれたとする説について、4つの論点から、確証がなく否定をする。
2012/02/29追加:
「山城國井堤郷旧地全圖」が流布する。これは「椿井文書」(江戸後期の知識人である椿井政隆の創作文書いわゆる偽文書)の一つである。
以下の3種の資料に絵図の掲載があるので、転載する。
 「井手町の古代・中世・近世」に掲載図(模写本その1)、
 「井手町の近代Tと文化財」に掲載図(明治期木下千代子模写本)、
 井手町井手寺跡公園現地説明板 (模写本その3) である。
何れも、井堤寺(八角多宝塔ありか)と大光明寺(五重大塔)伽藍が描かれる。
(模写本その1)

○「井手町の古代・中世・近世」井手町史編集委員会、1982 より
 山城国井堤郷旧地全図:部分1     山城国井堤郷旧地全図:全図1
(明治期木下千代子模写本)
○「井手町の近代Tと文化財」井手町史編集委員会、1999 より
 山城国井堤郷旧地全図:全図2:木下千代子模写本
(模写本その3)
○井手寺跡公園現地説明板
現地説明板に「山城國井堤郷舊地全圖」の掲載がある。
 山城國井堤郷舊地全圖:全図3:模写本その3     山城國井堤郷舊地全圖:部分2:井堤寺・大光明寺部分
 山城國井堤郷舊地全圖:部分3:井堤寺部分       山城國井堤郷舊地全圖:部分4:大光明寺部分
 山城國井堤郷舊地全圖:部分5:由来部分
  → 椿井文書「山城國井堤郷舊地全圖」の詳細・評価などは椿井文書・興福寺官務牒疏のページを参照。

2021/05/04追加:
○2021/04/14:【井手寺塔跡プレス発表】
 京都府埋蔵文化財調査研究センター二より「栢ノ木遺跡で井手寺に伴う塔跡が良好な状態で発見」とプレス発表がある。
発表概要は次の通り。
 発掘された基壇は約15m四方(東西15.3m、南北15.1m)のほぼ正方形で、残存高は70cm、北辺と西辺に石階が付設する。
基壇はその形状(51尺<15.3m>の正方形であること)と北・西に石階が付設することから、塔跡と判断される。
そして、その建物は、基壇規模から判断して、おそらく五重塔であろうと判断される。
 基壇は版築によって造成され、その外装は乱石積基壇であるが、礎石や礎石穴などは基壇上面が後世の耕作などで削平され、確認が出来なかったという。
ただ、基壇のほぼ中央で銭貨が17枚発見され、鎮壇具であろうと思われる。
 石階については、北辺石階は耳石と共に4段を検出し、幅は9尺(206m)残存高は0.5mを測る。西辺の石階は削平され、基底のみが残存する。
雨落ち溝が石組によって丁寧に作られ、幅は40cm〜45cmを測る。また、基壇の外周約1.5mに範囲には自然石や割石を用いた石敷も丁寧に作られていた。
 基壇跡周囲からは大量の瓦が出土する。その瓦から塔は奈良後期から平安初期に建立され、平安中期に修理が行われたものと思われる。そして、出土遺物には火災痕が全く見られず、出土土器から、おそらく鎌倉期に荒廃し、腐朽し倒壊したものと推定される。
 さらに出土遺物としては、鬼瓦・施釉垂木先瓦・土師器・須恵器・灰釉陶器・奈良三彩・鉄釘・金銅製風招など多彩なものが出土する。
2021/04/15「X」氏撮影画像
 井手寺塔跡15_11     井手寺塔跡15_12     井手寺塔跡15_13     井手寺塔跡15_14
 井手寺塔跡15_15     井手寺塔跡15_16     井手寺塔跡15_17     井手寺塔跡15_18
 井手寺塔跡15_19     井手寺塔跡15_20
2021/04/17「X」氏撮影画像
 井手寺塔跡17_11     井手寺塔跡17_12     井手寺塔跡17_13     井手寺塔跡17_14
 井手寺塔跡17_15     井手寺塔跡17_16     井手寺塔跡17_17     井手寺塔跡17_18
 井手寺塔跡17_19     井手寺塔跡17_20     井手寺塔跡17_21     井手寺塔跡17_22
 塔跡出土風招      塔跡出土施釉垂木先瓦:下に復元図あり     塔跡出土奈良三彩
 塔跡出土鬼瓦1     塔跡出土鬼瓦2
 出土瓦の解説は下にあり。
 塔跡出土軒丸瓦1     塔跡出土軒丸瓦2
 塔跡出土軒平瓦1     塔跡出土軒平瓦2     塔跡出土軒平瓦3     塔跡出土文字瓦
現地見学会資料より
 井手寺跡寺域復元図・今回調査区     調査区遺構配置図     施釉垂木先瓦復元図
 塔跡出土瓦:(1)創建時瓦/平城宮瓦と同一文様、(2)蓮華紋軒丸瓦/唐草文軒平瓦、(3)軒平瓦/高麗寺と同一文様、(4)軒平瓦/平城宮と同一文様/製作所を示す「栗」という文字が入る。
2021/04/19撮影:
 井手寺塔跡19_11     井手寺塔跡19_12     井手寺塔跡19_13     井手寺塔跡19_14
 井手寺塔跡19_15     井手寺塔跡19_16     井手寺塔跡19_17     井手寺塔跡19_18
 発掘現場に隣接する田畑の畔には塔基壇や石敷などに使われていたと思われる自然石や割石が畔の補強に転用されている。
 塔跡に隣接の畔1     塔跡に隣接の畔2
 現・井堤寺跡公園礎石1     現・井堤寺跡公園礎石2     現・井堤寺跡公園礎石3     現・井堤寺跡公園礎石4
 天神社旧跡11     天神社旧跡12     天神社旧跡13     天神社旧跡14
 天神社旧跡15     天神社旧跡16

山城泉橋寺心礎

 →山城泉橋寺 心礎は亡失。

山城高麗寺跡(史跡)

 →山城高麗寺跡

山城神雄寺跡

 →山城神雄寺跡

山城燈明寺跡

 →山城燈明寺 ※三重塔は三渓園に移建され現存する。

山城随願寺跡(山城東小田原廃寺、山城東小廃寺)

○「佛教考古学論攷」石田茂作 より
本著作に、山城東小廃寺心礎とする下記の写真の掲載がある。東小廃寺のものと推定される心礎の存在が知れる。

山城東小廃寺心礎:左図拡大図
2011/05/29追加:
石田茂作はこの心礎を三段式塔心礎に分類する。
つまり、孔は単に枘孔ではなく、蓋受孔を持つ舎利孔がある二段式の孔と見做していると云うことである。
山城随願寺(東小田原廃寺・東小廃寺)については以下の論考がある。
2013/11/08追加:
○「当尾と柳生の寺々:浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺 其他」黒田f義、関西急行鉄道、1943 より
 附 東小田原寺
浄瑠璃寺と岩船寺との間に「瑞垣に囲まれた丹塗檜皮葺の春日造の小祠が二宇しんかんとして並んでゐる。境内を注意してみると平安朝から鎌倉、室町にいたる古瓦片が散布しているのを見るであろう。・・・これは東小田原寺随願寺と呼ばれた寺の廃址であるからで、神社は即ちこの寺の鎮守であったものである。今神社の西に続く台地は柿畑になっているが、この辺は殊に古瓦の散布が多い。寺の主体がこの辺にあったからである。
東小田原寺の創立:
「東小田原ハ長和二年(三條院御宇)癸丑建立云々 本願頼善、然東西両山前後前後三十五年相違也」(「浄瑠璃寺流記」)とあり、浄瑠璃寺(西小田原)に先立つ35年前に前(長和2年)に建立されたとみえている。
その後の沿革は不明であるが、「大乗院寺社雑事記」文明元年7月9日条に興福寺六方末寺として菩提院方に
「・・・西小田原 東小田原(随願寺) 成身院(中川寺) 岩船寺 忍辱山・・・」とあり、鎌倉期には興福寺末となっていたらしい。
創建の寺觀は知られないが、同じ「雑事記」明応2年12月晦日条に
「・・・本堂大日 七間五間也檜皮葺 鎮守社白山 春日  三重塔ハ崩了。湯屋於于今者可贔例也  惣坊来迎院ノ一和尚ニテハ修理致其沙汰、今坊代ニハ、来迎院サエ破損了、中院故坊主定舜之代ヨリ學衆」とある。室町期には7間5間の本堂(大日)と鎮守の他、三重塔は崩壊し、倒壊を待つばかりの状態の湯屋と少なくとも2坊があったようである。しかし、三重塔はこの頃退転していたとは云え、7間5間の本堂と塔を備えていたとは、往古は相当な寺觀があったと推測される。
降って、江戸期の景観は「春日明神文書第ニ」にて次のように知ることができる。
「山城國相楽郡/東小田原寺 随願寺/興福寺末寺/知行ハ無御座候/寺数五間/本道鎮守/寛永9年4月25日
    興福寺 大川之坊 良(花押)」
つまり、江戸初期には東小田原寺は本堂と鎮守と坊舎5坊となる と。
江戸中期(享保21年)の「山城志」には記事が見えず、取上げるには値しない程、零落していたものと思われる。
土地の古老に聞けば、明治の初年までは荒れた建物が1,2宇残っていたが、やがて鎮守を残して地上から完全に姿を消す と云う。
2013/11/05加筆・修正:
○「新撰京都名所圖會 巻6」より:
 跡地は岩船寺と浄瑠璃寺の中間の東小(東小田原)の春日神社付近と伝える。寺は地名により東小田原寺とも東山とも号する。
随願寺は長和2年(1013)の開創と伝え、本堂(本尊大日如来)、三重塔、湯屋等があったとされる。
中世以降漸次衰微し、明治維新で全く廃絶する。
現在の春日神社は当寺の鎮守と云われ、付近から往時の遺瓦を出土する。
○「加茂町の史蹟と文化財」加茂町教育委員会、昭和49年 より:
東小のはずれの杉木立の中に春日、白山の両社がある。この付近からは藤原、鎌倉頃の古瓦が出土するとともに、礎石も残っており、ここが東小田原随願寺の跡で、社はその鎮守であった。
浄瑠璃寺流記によれば長和2年(1013)に建立され、本尊大日如来を中心に堂塔が立ち並ぶと云う。
明応2年(1493)の記録では、本堂、三重塔、湯屋、鎮守が存在しているが、明治初年には荒れた堂宇が2,3残るも、何時しか退転する。
○現地の様子
現地では廃寺跡・春日明神に至る石階がある。もう20年以上前のことであるが、その石階の前には柵があり、「立入禁止」となってい た。それ故廃寺跡は未見のままである。念のため、最新の石階前の写真も確認すると、石階前には鎖が渡され、「立入禁止」の札が架かる様子が写り、理由は不明ながら、今も立入不可のようである。
2013/11/05追加:2013/11/08修正:
○石田茂作氏の紹介する本心礎については、他の情報もなく、現在での存在の有無及びその所在場所は不明であった。
然るに、今般(2013/11/04)「伊勢原在住の高橋」氏のブログ「西方見聞録」>「当尾の石仏2」 中で、現地で「からすの壺」と称する石造品の写真を拝見する。そして、この石造品は石田氏の紹介する上記の「山城東小廃寺心礎」と酷似することを「発見」する。
つまり、「からすの壺」とは「山城東小田原寺心礎」ではないかと云うことであるが、その「からすの壺」とは次の写真である。
 ◎山城随願寺心礎:「伊勢原在住の高橋」氏のブログ「当尾の石仏2」より転載
   ・・・・・但し「高橋」氏のブログを含め、「からすの壺」を紹介している他のサイトでも「からすの壺」が心礎であるとの認識は全く無い。
なお、「からすの壺」とは「伊勢原在住の高橋」氏情報及び他のWebサイトの情報を総合すると以下のようである。
 本石造品(随願寺心礎)は「からすの壺」と通称され、それは岩船寺と浄瑠璃寺との中間付近にあたる四辻に所在する。そしてここには、南北朝期の阿弥陀・地蔵磨崖仏がある。因みに、「からすの壺」とは礎石が「唐臼」に似ているので、そう(からうす、からうすの壺)呼ぶようである・・と。
 ※「からすの壺」が心礎だとすれば、おそらく、この心礎は随願寺より、この四辻に移されたのであろうと推測される。心礎を「唐臼」と譬える例は美作久米廃寺や備中関戸廃寺にあり、共通性のある「昔人の認識」と思われる。
◆2013/12/12撮影:
山城随願寺(東小田原寺)心礎(推定)/からすの壷
 山城当尾東小に「からすの壷」と称する「石造物」がある。
一方石田茂作の「佛教考古学論攷」では、「山城東小廃寺心礎」とする写真の掲載がある。
即ち、戦前から、東小廃寺のものと推定される心礎の紹介が石田茂作によってなされているが、その後「この心礎」について、取り上げた資料がなく、容易にその所在を知ることができなかった。
しかし先般、Web上で、山城当尾の「からすの壷」と称する石造物の写真を拝見し、これが「山城東小廃寺心礎」であろうとほぼ確信するに至る。 心礎はほんの身近にあったのである。
そして今般「からすの壷」を実見し、塔心礎であることを確信する。
 随願寺心礎の大きさはおよそ135×105cm高さは60cm内外であり、表面は平に削平される。柱座の有無については、石の質なのであろうか、表面の一部が「一皮」剥け、 見方によっては柱座があるようにも見えるが、柱座の造出は認められない。さらにこの心礎の削平された表面の中央には蓋受硬孔と舎利孔が穿たれる。舎利孔は径14cm深さ15cmを測り、その一番上部に径16cm深さ1cmほどの蓋受孔を穿つ。石質ははっきり分からないが、固い部類に属する堆積岩の一種と思われる。
 なお石田茂作が本心礎を東小廃寺心礎とする根拠は不明であるが、東小廃寺には三重塔があったこと、東小廃寺の至近距離に存在することなどから、東小廃寺心礎とするのであろう。
ただし、心礎は蓋受孔のある舎利孔を有する古風な心礎であり、平安期の創建と伝える随願寺とは時代が合わず、別の古代寺院の心礎であるか、あるいは随願寺の前身は古代に遡る可能性もある。
 山城随願寺心礎11     山城随願寺心礎12     山城随願寺心礎13     山城随願寺心礎14     山城随願寺心礎15
 山城随願寺心礎16     山城随願寺心礎17     山城随願寺心礎18     山城随願寺心礎19
山城随願寺跡:現在は鎮守春日明神2棟と石階、随願寺塔のものと推定される心礎・推定礎石・推定伽藍跡平坦地を残すのみである。
下で示す写真の石階を上がれば、東に春日明神があり、西には伽藍跡と思われる平坦地がある。さらにその小高い丘の南側麓には数枚の田畑があり、おそらくは随願寺の伽藍もしくは坊舎の跡地と推定される。
 山城随願寺跡石階1     山城随願寺跡石階2     随願寺跡推定礎石1     随願寺跡推定礎石2     随願寺跡推定礎石3
 推定随願寺跡平坦地
随願寺鎮守春日明神:明治の復古神道によって、現在は春日神社と称するようであるが、本来は、随願寺鎮守であり、神殿が2棟あるので、付近の山城岩船寺、大和圓成寺と同様に、春日明神と白山権現社であろう。ただし、どちらが春日明神でどちらが白山権現であるのかは、資料がなく分からない。 また建築年代も資料がなく、分からないが、桃山〜江戸初期の建築と推定される。
 鎮守春日明神11     鎮守春日明神12     鎮守春日明神13     鎮守春日明神14     鎮守春日明神15
 鎮守春日明神16     鎮守春日明神17     鎮守春日明神18     鎮守春日明神19     鎮守春日明神20
参考:当尾の石仏など
 西小たかの坊地蔵:地蔵および多くの小石仏と宝篋印塔などがある。これらは南北朝期のものと云う。
  たかの坊地蔵1     たかの坊地蔵2
 西小長尾共同墓地五輪塔2基:典型的な鎌倉期の作風を示す。墓地には室町期の年紀を持つ古い墓石もあると云う。
  長尾共同墓地墓石群     長尾五輪塔(左)     長尾五輪塔(右)
 西小長尾阿弥陀磨崖仏:徳治2年(1373)僧行乗の造立。四注造の屋根を架する。
  長尾阿弥陀磨崖仏1     長尾阿弥陀磨崖仏2
 東小藪の中地蔵・観音磨崖仏:いずれも鎌倉期。地蔵像左に「東小田原西谷浄土院、弘長2年(1262)・・・」と刻む。当地方での最も古い年号であると云う。また東小田原寺西谷浄土院の存在が知られ、少なくとも鎌倉期には東小田原寺は一定の寺勢があったものと思われる。
  藪の中地蔵・観音像     藪の中観音像
 東小阿弥陀・地蔵磨崖仏:カラスの壷にある。両体とも康永2年(1343)の銘があると云う。阿弥陀仏の左には灯篭が線刻され、
 火袋には灯明を供えることが可能である。
  からすの壷阿弥陀像1     からすの壷阿弥陀像2      からすの壷地蔵尊
 岩船阿弥陀三尊磨崖仏:永仁7年(1299)末行の造立銘がある。岩船寺住僧が願主と刻むと云う。
  阿弥陀三尊像1     阿弥陀三尊像2
 岩船不動明王磨崖仏;弘安10年(1287)造立銘があると云う。
  岩船不動明王像1     岩船不動明王像2
 以上の他にも多数の磨崖仏などがあるが、今般は未訪問。

山城笠置寺

建久4年(1193)貞慶、興福寺から笠置山に隠棲、それ以降中世前期に笠置寺は大いに栄える。
 ※貞慶:久寿2年(1155)−建暦3年(1213)、解脱上人、笠置寺上人。藤原氏、法相宗の僧。
建久5年(1194)般若台(大般若経安置の六角堂)堂建立。
建久7年(1196)俊乗房重源、梵鐘(現存)や宋版大般若経を施入。
建久9年(1198)木造十三重塔建立、解脱上人発願、源頼朝建立と云われる。
元久元年(1204)源頼朝、弥勒磨崖仏礼堂再興費として砂金を寄進。
元弘元年(1331)後醍醐天皇、笠置山に篭城、笠置山落城の折、十三重塔を始め伽藍炎上。
鎌倉後期には、十三重塔跡地に石造十三重塔(重文)が建立される。
その他、次の什宝が残る。
笠置寺本尊弥勒磨崖仏:高さ15m、再三の戦火で線刻弥勒菩薩は消滅、後背のみ残存、奈良期。
虚空蔵磨崖仏:高さ10m、線刻、平安後期。
2006/11/10追加:
 開創絵巻物:笠置寺什宝、天平勝宝3年実忠和尚笠置山正月堂に観音ノ修法の図、絵葉書:「Y」氏ご提供:これは笠置寺絵縁起の場面で、当時は三重塔があったと思われる。
 笠置寺絵縁起1(上記と同一の絵図)      笠置寺絵縁起2:元弘の変の場面と推定。塔が描画される。
2007/09/02追加:
 「笠置曼荼羅図」(重文):大和文華館蔵
この曼荼羅図に十三重塔と弥勒磨崖仏とが描かれる。
2015/03/05追加:
○「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
 笠置曼荼羅図2:中央に磨崖仏・弥勒菩薩立像と十三重塔(石塔というも図で見る限り木造であろう)を配する。
2007/09/02追加:
「笠置山及附近写真帖」田中市之助編、東京:東陽堂、明42年 より
 笠置山弥勒石薬師石十三重塔
参考:
木造十三重塔が現存するのは多武峯妙薬寺の一基のみであるが、文献上 あるいは遺構の残る木造十三重塔は以下が知られる。
 山城笠置寺・南都興福寺四恩院鎌倉極楽寺山城高山寺山城光明峯寺大和長谷寺大和菩提山正暦寺備前八塔寺


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