備  中  吉  備  津  宮  三  重  塔  跡

備中吉備津宮三重塔跡

備中吉備津宮三重塔の概要

古代から中世・近世まで、全国に展開された神仏の習合は吉備津宮でも早くから行われ、平安初期には神宮寺が成立していたとされる。
勿論、吉備津宮は平安期を通じて官社であり、神祇官領に属し、神官(社家)として賀陽氏や藤井氏が奉仕した。
しかし藤井氏の中では深く浄土教に帰依するものが輩出し、また鎌倉期の栄西は賀陽氏の出であるとされることに象徴されるように、古代から中世にかけては寺家(社僧・神宮寺)と社家(神官)との間には大きな軋轢はなかったとされる。
むしろ多くの社家と多くの社僧(別当・寺院)が共存していたようにも思われる。
近世初頭においても、多くの神宮寺(寺家)に加え、境内に三重塔・求聞持堂・鐘楼・一切経蔵などが並び、さらに社領内に普賢院など6坊があったとされる。
しかしながら、近世の初頭を過ぎた頃に至り、一つには社領の分配や小屋銀をめぐる寺家と社家との間の経済的利害の対立が顕現し、もう一つには岡山藩における寛文の廃仏の強行あるいは唯一神道(吉田神道)などの思想的跋扈もあり、社家と当時の神宮寺の代表である本願寺との間で衝突が発生する事態となる。
要するに寺家と社家の経済的・政治的な権力闘争が、例に漏れず発生し、明治初頭の神仏分離における寺家と社家の軋轢を先取りする形となったということであろう。

三重塔は文安4年(1447)・・典拠不明・・建立という。
享保17年(1732)社家たち(藤井家・堀家など)は、倉敷代官所の許可を得て、別当本願寺差配の三重塔を取り壊す動きに出る。
 ※表向きの理由は老朽化で倒壊の怖れがある云々といった類と云う。
しかし根源にあるのは、上記のように吉備津宮の支配を巡る経済的・政治的権力闘争であったと思われる。
いつの世も、組織は必ず腐敗し、堕落する、その組織が聖職者の集団と称する組織であっても例外ではない。
これに対し、寺家普賢院と付近の真言宗中之院、蔵鏡寺、国分寺は連署して、備中の寺院に社家の不条理を訴え、同時に社家配布神札の拒否の檄を飛ばす。
事件は幕府寺社奉行に提訴され、数年間の係争ののち、元文2年(1737)裁断が下り、寺家側の敗訴で終わる。
この後、社家と寺家の勢力は逆転し、三重塔に次いで、求聞持堂、鐘楼、経蔵、鰐口、香炉などが撤去されたという。
そのため仏教的な遺構はほぼ壊滅し、遺物も、現在では、僅かに菩薩面、一切経、梵鐘などを伝えるにすぎない。
ただし現在の本殿・拝殿・南北の随身門の建築様式は色濃く仏堂の匂いを残す。
○2014/04/26撮影:
梵鐘は現存する。
元文2年(1737)吉備津宮での社家の主導による神仏分離にて鐘楼は取り払われるも、梵鐘は現存する。
銘文には、社務代生石兵庫助藤原家秀らが永正17年(1519)国家安泰を祈願し吉備津宮に奉納する、とあるという。
 備中吉備津宮梵鐘1     備中吉備津宮梵鐘2

古絵図に見る吉備津宮三重塔

◆備中吉備津宮境内古図:備前金山寺蔵

2016/01/09追加:
○「岡山県立博物館平成19年度特別展 吉備津神社」2007 より
 備前金山寺蔵吉備津宮境内図: 左図拡大図:2016/01/09画像入替。
現在知られる最も古い絵図である。
本宮、本社(本殿)、門客神(南北随身門)、新宮などと如法塔、三重塔、経堂、本地求聞持堂(吉備津彦命の本地虚空蔵を祀る)、鐘楼、十王堂、新宮には本願寺などが混在する。
なお本地求聞持堂は慶長3年(1598)宇喜多秀家・真如院舜祐らによって再建される。
本社の南には御一童(一童社)、如法塔、神楽、備所が描かれる。そして如法塔は境内の中心部分に位置するが、この堂は書写した法華経を納める堂である。即ち備前吉備津宮は回国聖(六十六部・諸国六十六所に法華経を奉納して回る行者)にとって欠かせない参詣先であったはずである。それは法華経守護の三十番神の内西国では唯一備中吉備津大明神が列しているからである。
※最後の30日が吉備津大明神となる。

◆備中吉備津宮境内図

2016/01/09追加:
「岡山県立博物館平成19年度特別展 吉備津神社」2007 より
 吉備津宮境内絵図:左図拡大図 :2016/01/09画像入替。
備中吉備津宮蔵。
元禄3年(1690)吉備津宮周辺の村々起った境界争論の際に作成された絵図である。即ち幕府領と吉備津宮領との山林の境界争論があり、幕領西花尻村及び川入村と幕領宮内村及び吉備津宮領宮内村の間で境界線を図中に墨で引き、関係の4人の庄屋が署名押印して証拠書類とした絵図である。
この争論に関しては元禄3年の庄屋連署の請文が残っており、絵図の張り紙には元禄4年午九月と書かれているが、午の歳は元禄3年であり、請文と合わせて考えると、元禄3年を誤って4年と記載したものであろう。
 

江戸中期の境内図1
:下図拡大図
:上の吉備津宮境内図の部分図


江戸中期の境内図2:下図拡大図 :「岡山文庫52」より

2012/05/01追加:
「『吉備の中山』と古代吉備」薬師寺慎一、吉備人出版、2001 より
 吉備津宮境内絵図(略図):山陽カラーシリーズ「吉備津神社」山陽新聞社に掲載の境内絵図を薬師寺慎一が略図化したもの。
  内宮石:11個の礎石が環状に描かれる。江戸中期の絵図には社殿が描かれる。
  岩山大明神:地主神を祀る。     金毘羅:社殿は退転し今はなし。    御手洗河:池は現存、中島の弁才天は宇賀神となる。
  求聞庵:本地虚空蔵を拝んでいたと伝える。今堂は退転する。         御手洗:今はこの池はない。
  細谷川・備前備中境:備前備中境を流れるのが細谷川である。

備中吉備津宮三重塔跡

塔の建立された平坦地および塔心礎のみが残存する。
 (現地説明板では三重塔心礎とする。)
心礎の大きさ:露出部分の地表の面の径約54cm、上面の径約49cm。中央の出枘の径約9cm高さおよそ1cmを測る。
塔の規模を判断できる遺物は心礎のほかには地表には何も残存しない。
見た目はそんなに古いものとは思えない近年の加工のような表面をしている。
四辺を切石で囲み、四辺の囲み石と心礎の間はセメント(と思われる)で固められる。


備中吉備津宮塔心礎1:下図拡大図
:「X」氏提供画像

 

備中吉備津宮塔跡1:下図拡大図

備中吉備津宮塔跡2:下図拡大図

備中吉備津宮心礎2:下図拡大図

備中吉備津宮心礎3:下図拡大図

備中吉備津宮心礎4:下図拡大図

2007/12/27撮影:
 備中吉備津宮塔跡3     備中吉備津宮心礎4
2012/02/04撮影:
 備中吉備津宮塔跡4     備中吉備津宮心礎5     備中吉備津宮心礎6

吉備津宮現況

主神は吉備津彦命とする。正宮(本殿)・本宮社・新宮社(明治末に廃社)・内宮社(明治末に廃社)・岩山神社の五社からなり、吉備津五社明神と称した。

正 殿(本殿)
現存本殿は明徳2年(1392)足利義満の発願で、応永32年(1425)に完工し、拝殿とともに国宝指定。
平面積では日本一広いとされる。組物などはまさしく天竺様(大仏様)の様相が濃く、仏堂建築といっても良い。
2007/12/31追加:
「吉備津神社本殿に関する若干の考察」三浦正幸(「学術講演梗概集」1998 所収) より
千木・鰹木の補加:
享保7年(1722)の社家と普賢院との訴訟文書には「御社仏閣造故、千木鰹木も無御座候」とあり、応永創建から享保7年までは千木・鰹木は無かったものと思われる。しかしこの頃、社家が唯一神道による神仏分離を画策していて(享保14年には三重塔取壊)享保7年直後には千木・鰹木が補加されたものと思われる。
 備中吉備津宮本殿平面図

2003/12/28撮影:
 吉備津宮正殿: 左図拡大図
   同   本殿2(組物)

2012/02/04撮影:
 備中吉備津宮本殿3
 備中吉備津宮本殿4
 備中吉備津宮本殿5
 備中吉備津宮本殿6
 

2014/03/02追加:
「A」氏(岡山模型店DAN)2010/03/20撮影:
 備中吉備津宮本殿7

2014/04/26撮影:

備中吉備津宮本殿411:左図拡大図
備中吉備津宮本殿412
備中吉備津宮本殿413
備中吉備津宮本殿414
備中吉備津宮本殿415
備中吉備津宮本殿416
備中吉備津宮本殿417
備中吉備津宮本殿418
備中吉備津宮本殿419
備中吉備津宮本殿420
備中吉備津宮本殿421
備中吉備津宮本殿422
備中吉備津宮本殿423
備中吉備津宮本殿424
備中吉備津宮本殿425
備中吉備津宮本殿426

2014/11/23撮影:
備中吉備津宮本殿遠望:近世山陽道板宿宿北方山塊から撮影
 吉備津宮本殿遠望1     吉備津宮本殿遠望2

■その他の備中吉備津宮現況:
無印は2002/12/30撮影、○は2007/12/27撮影、◇は2012/02/04撮影、□は2014/04/26撮影

備中吉備津神社本殿模型:吉備津神社に展示するも詳細は不詳
 ○備中吉備津宮本殿模型1     ○備中吉備津宮本殿模型2     □備中吉備津宮本殿模型3
南随身門及び北随身門(八脚門・重文):本殿と同一年代の建立とされる、これらの門も仏堂建築の様相を呈する。
 備中吉備津宮北随身門     ○ 同   北随身門2        ○ 同   北随身門3       ○ 同   北随身門4
 □北随身門11     □北随身門12     □北随身門13     □北随身門14     □北随身門15

 備中吉備津宮南随身門1      備中吉備津宮南随身門2      備中吉備津宮南随身門3
 ◇吉備津宮南随身門4         ◇吉備津宮南随身門5         ◇吉備津宮南随身門6
 □南随身門11     □南随身門12     □南随身門13     □南随身門14     □南随身門15     □南随身門16
 2014/03/02追加「A」氏(岡山模型店DAN)2010/03/20撮影:南随身門・回廊
 
回 廊:主要社殿は数百米におよぶ回廊で結ばれる。
  同      回廊1      同      回廊2
 ○ 同     回廊3       ○ 同     回廊4
 ◇備中吉備津宮廻廊5       ◇備中吉備津宮廻廊6
2007/12/31追加:
「吉備津神社における回廊の造形分析:回廊の研究〈その 9)」大沢良介、峰岸隆、藤生慎一
「吉備津神社における回廊の機能的空間的意味:回廊の研究〈その 10〉」大沢良介、峰岸隆、藤生慎一 より
 (いずれも「日本建築学会近畿支部研究報告集. 計画系 42」2002 所収)
吉備津神社の回廊の特異性:門の左右に取り付いていない回廊、凡そ260mを測る。
御釜殿、本宮、御供殿に分岐するため総延長は380mと云う。
 最も長い時は本殿から南へ約800m新宮社まで続いていた。その礎石は近代まで残っていたと云う。
現回廊が天正期に再興されたときには、絵図などから現在の規模(本殿から本宮まで)となったとされる。
 備中吉備津宮神社回廊平面図:本殿から本宮までと、途中分岐し御釜殿まで回廊は現存する。
            本宮分岐から新宮(現在廃社、別当真如院が現存)まで回廊はあったと云う。
 備中吉備津宮回廊側面図
2016/01/09追加:
○「岡山県立博物館平成19年度特別展 吉備津神社」岡山県立博物館、2007 より
本図の解説は次の通り。
本図の由緒を慶応2年(1866)中田重直なる人物が巻頭・巻末に記す。即ち本図は中田家伝来のもので、幼少の頃祖父が物語をしてくれものであった。しかし本図を長期間しまい置き、久しぶりに出してみるとシミの住処となり、写した年号も失われたと。
幅56cm長さ237cmの巻物で、本宮大明神から新宮大明神までの回廊が描かれる。応永天正の頃の様子とあるが、佛教的な建物は一切描かれず、おそらく江戸後期に吉備津彦の活躍と吉備津宮の壮大さを物語りするために言い伝えを基に描かれた絵図と推測される。
 江戸後期境内古図:備前吉備津宮蔵
※しかし御瀧宮から新宮までの回廊は実在したのであろうか。未だその間に残ってしかるべきと思われる何がしの遺構などの話は一切聞こえないので、その真偽の判断は容易に下すことはできない。

御釜殿
 ◇備中吉備津宮御釜殿     □備中吉備津宮御釜殿2

吉備津宮の神宮寺(社僧)

神宮寺
「三代実録」の元慶元年(877)の条に見える「美濃・備中の神宮寺」と云う備中の神宮寺とは吉備津神社を指すもの考えられる。
であるとすれば、既に平安期初頭には神宮寺が成立していたことになる。
しかし、その後の神宮寺の動向は不明である。
享保年中(1716-)の資料によれば、神宮寺は摂社本宮社付近にあり、天正年間本宮社とともに炎上したと云う。
炎上後、神宮寺は廃絶したが、その跡地には毎年正月に仮堂が建てられ、会式が行われ牛王印の配布が行われたという。
また慶長2年および3年に宇喜田秀家が本宮社と本地堂を再建した棟札の写しが伝わるとも云う。
2015/09/07追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
吉備津別當坊神宮寺址
昇龍山神宮寺、吉備津宮別當
往古の事詳らかならず。本尊十一面観音古作、寺趾釜殿の前今芝原の地、芝居見世物等ある地也、本堂・庫裡・鐘楼・力士門・その他諸堂巍々たりしが寛文7年本堂焼失の時此寺も炎焼す、時は社人加陽兵部、同治部右衛門等是を幸いとして論訴に及ぎ終に再建を止められて廃寺と成る云々。
吉備津宮両部之古法并申伝記に曰、
一、神宮寺炎焼年月不詳
一、回廊の上に三重塔、高さ16間三間四方なるべし。
と見ゆるが、昭和9年庄村の人吉田謙三氏はこの三重塔址と思しき地点より三重円弧の唐草瓦を発見せり、これは確かに奈良町以前の形式に属するものなれば吉備津神宮寺の起源が遠く奈良朝に在るを知るに足るべし。

本願寺
中世から江戸前期までは吉備津神社別当(社僧)で最も勢力を持っていたといわれる。
山号は昇竜山。備前金山寺末寺。三重塔、求聞持堂、鐘楼、一切経堂などを差配する。
江戸初期から頻発した社家との争い(三重塔棄却もその一例)に敗れ、遂に寛文3年(1663)追院を命ぜられ、住僧は一部の什宝を持って本山の金山寺に退避する。本殿にあった仏像・仏具は社家が棄却したと云う。旧地は現在の旧社務所のある地と伝える。

八徳寺
吉備津神社の社僧と伝える。吉備中山の山頂にあった。本堂・庫裏・方丈などがあったと云う。
早くから衰微し、今は「八徳寺の観音さん」という小堂を残すのみと云う。なお境内地から布目瓦が出土とも云う。

2015/09/11追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
 ◇吉備津正宮内宮別當坊三ヶ寺
(1)廃寺 昇龍山神宮寺。吉備津宮別當。
・・・寺址釜殿の前、今芝原の地にて芝居見世物等ある地なり。本堂、庫裡、鐘楼、力士門、その他諸堂巍々たりしが寛文7年本堂焼失の時、悉く炎焼す。
時に社人賀陽兵部同治部右衛門等是を幸として論訴に及び終に再建をとどめられて廃寺となる。
(2)廃寺 昇龍山本願寺。今社人の役所とする所也。此裏に今も本願寺の墓の残れり。
是も吉備津宮別當の寺院にて天台宗神宮寺と同じく本堂庫裡鐘楼、聖武帝の御宇より相続して会式、小屋銀、御宮林、大祝詞、内陣諸務等を支配、
慶長16年より御朱印四拾石配当寺に列し、代々両部習合の法を以て社頭を預り知る。
爰に社頭加陽刑部等惟一吉田の法に准信し公儀へあしざまに云込んで、是を退けんことを計り、中にも(本願寺の山林伐採に不法があると)社家等云い募り、
寛文3年亥11月倉敷代官・・裁可にて寺方非分と成り終に追院と成る。社人等日頃の本懐を達し寺院を闕所にしければ、守僧は憤怒に耐へず吉備津宮の古器古書等を提て備前金山遍照院へ退きけり。
(3)廃寺 大谷山八徳寺
吉備津宮社僧の寺にて本堂、庫裡、方丈等、御陵の東の山上平地に在と云ふ。
(以下省略)
 ◇「吉備津宮両部之古法■申傳記」
以下は享保7年(1722)論書の文を抜き出し。
一、御正体本地は虚空蔵菩薩と為・・・・
一、・・・神前に御座候鰐口は近年取りおろし、求聞持堂にある虚空蔵菩薩種字、香炉の種字もすり落とし・・・
一、・・・本地求聞持堂の役は普賢院相務申候
一、鐘楼堂は神前の右手に御座候、是も七八年前に山の中に取り上げ・・・
一、一切経蔵は貞享年中(1684-)に社家頭共破却仕候・・・
一、経塚堂は社の上手に御座候・・・・
一、十王堂は本宮鳥居筋半町ほど過ぎて在り、近年外へ取除申候事。
一、長床、是も七八年前に打ち毀し今は無御座候事。
一、寶塔之事、高さ十六間餘御座候処、去子八月より取り掛かり打ち毀ち、心柱も三つ四つに切折有之候、仏像は焼捨候事。
一、・・・・・・・
(以下の事項は省略)
 ◇以下は編者?の云い。(抜粋)
一、神宮寺焚焼年月不詳
一、寛文3年十一月本願寺滅亡す、之によって内陣支配社務へ相渡る。
一、享保年中普賢院社人と争論して負ける・・・
一、内陣古来よりあり来る御本地佛の像数多この節より取り捨てると云ふ、或は云、裏の竹藪の中へ埋めしとぞ。・・・・
一、回廊の上に三重塔高さ16間三間四方なるべし。
 享保17年論書云、社家頭藤井左衛門、堀家伊織、葛井主税、・・・評定して此塔を毀さんことを謀れども私意にも成り難く、(倉敷代官を以って寺社奉行)に伺いしに、山内社家氏子故障無之は勝手次第との旨御奥書にて仰せ有ける故、此年8月下旬より毀ちかけ12月までには終わりけるとぞ、上分の木は小屋となして納め置き、松の丸太朽木等は薪となし・・・・・・・
一、吉備津社内 求聞持堂。享保18年論書云、本尊虚空蔵菩薩・・・社人等毀捨てぬ本尊は普賢院に引き取りと云う。
一、鐘楼堂。神前の右にあり。享保13年の頃破却して取毀ち、鐘・・・地中に埋む、・・・・
一、十王堂。本宮の隣に有之も、外へ退け今は片山口に遷す。
一、地蔵堂。本宮鳥居の筋半町許にありしを、十王堂と同じく片山口に遷し其跡は社人の家居となりぬ。
一、一切経蔵。貞享年中本願寺とともに毀ちたる・・・・・
一、長床。池埋る事。
一、・・・
一、大黒天、並夷の堂、今は御蔵箭社と名をかへられぬ。

普賢院
吉備津神社御手洗池畔に現存する。吉備津神社の社僧の一院で、青龍山と号し、古は真言宗金剛寺といい、寛永年中に南の方から、現在地に移転し、上庄村曼荼羅寺と合併し、一寺となすという。
江戸期には、 宮内に賀陽坊(栢之坊、榧之坊、寛瀧院)、東林院(北之坊)、十輪院(花光坊)、持泉寺(南之坊)、随眼寺、極楽寺、一宮寺、道勝寺の末寺を持つという。随眼寺、極楽寺、一宮寺は元禄以前に廃絶し、明治期に賀陽坊以下の5ヶ寺が普賢院に合併すると云う。
 青龍山普賢院1        同         2        同         3        同          4
2007/12/27撮影:
  同  普賢院5
2012/02/04:撮影:
 吉備津宮社僧普賢院6     吉備津宮社僧普賢院7     吉備津宮社僧普賢院8
2014/03/02追加「A」氏(岡山模型店DAN)2010/03/20撮影:
 吉備津宮普賢院9
2014/04/26追加;
 備中吉備津宮普賢院11     普賢院山門     普賢院本堂
 普賢院大聖歓喜天拝殿      大聖歓喜天拝殿/鐘楼     普賢院大聖歓喜天堂     普賢院辨天堂
2015/09/11追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
青龍山普賢院
大字宮内。往古は真言宗金剛寺と号し吉備津宮社僧たり。
・・・この寺元、南の方、畑中にあり。寛永年中、上庄村曼荼羅寺舜誉、住持の時、今の地に移し金剛寺と曼荼羅寺とを合併して一寺となす。・・・
本堂5間四方、庫裡3間に6間、仁王門2間に3間。・・・・昔は笠岡代官支配なりしが享保18年論訴に負けて社家支配となる。・・・
寺中5ヶ寺、末寺16院あり。求聞持堂は吉備津正宮の傍に有りしを享保中取毀しけるに依って普賢院に移す。
有木山青蓮寺の外に末寺6ヶ寺を挙ぐ。
東林院:吉備津社僧に属、開山報恩大師、境内25間に13間、住坊7間半に3間、・・・
十輪院:昔天台今真言宗、吉備津宮社僧たり、本堂3間四方、住坊8間に4間、・・・
持泉院:吉備津宮社僧、境内10間に17間、住坊5間に3間・・・
随限寺:天台宗、吉備津宮社僧、・・・
極楽寺:吉備津宮社僧たり、・・・
道勝寺:真言宗、普賢院寺中にて吉備津宮社僧たり、境内28間に12間、住坊9間に3間、・・・

青蓮寺
有木山と号する。行基開基といい、吉備津神社の社僧と云う。有木別所高麗寺の主たる一院であったと云う。
有木別所とは権大納言藤原成親が配流されたところで、藤原成親の墓が現存する。中世には多くの坊舎があったようであるが、次第に衰微し、ついには江戸期末には山麓の現在地に下山すると云う。
明治末に普賢院に合併、廃寺となり、現在はその跡地と「有木の観音堂」と云う小宇と鎌倉仏を残すのみとなる。
なお旧地には山門跡礎石が整然と残される。
 有木山青蓮寺跡
2015/09/11追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
 有木山青蓮寺址
大字宮内、有木別所にあり。・・・真言宗普賢院末。行基創建と云う。吉備津宮社僧たり。古へ向来寺 又云 高麗寺。今は笠石台石のみにて僅かに小堂一宇ありて有木の観音堂と呼ぶ。・・・
備中誌云う。延享中帳曰、本堂(2間半四方)瓦葺、桂坊(6間に3間)草葺、鎮守辨天、稲荷社(2尺四方)、檀家25軒。天保年中寺坊を山下に移す。・・・

真如院
妙仙童寺真如院(明仙童寺真如院)と号し、吉備津宮新宮の別当であったと伝える。
 ※新宮は明治43年破壊(廃社)され、本宮社に合祀される。
 ※江戸期、新宮のある川入村は吉備津宮神領ではなく、庭瀬藩領であった関係で、吉備津宮との関係が希薄になったとも云われる。
かっては妙仙童寺(明仙童寺)には多くの院坊があったと伝え、真如院のみが現存する。
 ※現在本堂と庫裏と鎌倉期の仏像を有する。
 ※室町期には金台院、財音院、真如院などの寺中があったと伝え、その外、新宮の社僧としては法応寺、月心坊などの名前が伝わる。
 ※新宮は吉備津五社明神の1社であり、正殿の南山裾を巡る約800m先に鎮座していた。
 現在、廻廊は正殿から本宮まで通じているが、以前には、本宮からさらに新宮まで通じていたという。
 その廻廊を描く古図もあり、近代まで礎石が残っていたといわれる。
2006/06/22追加:
 「吉備津宮正殿御遷宮次第事」応永32年(1425)
「一、広野神宮 導師 明仙童寺卿公権少都英源 後号真如院」
 「備中誌」
「妙仙童寺真如院 吉備津新宮の別当の寺也、聖武天皇御宇草創有しにや、伝記不詳、今寺坊共に一棟、瓦葺関貫門1間2間、
吉備津宮御朱印之内5石配分す、本尊薬師如来、本寺金山遍照院也、」
○岡山「A」氏(岡山模型店DAN)2010/09/21撮影・ご提供 :
 2014/02/23追加:吉備津真如院仁王門     2014/03/02追加:吉備津宮真如院本堂
2014/02/16撮影:
 吉備津宮新宮跡1     吉備津宮新宮跡2     吉備津宮新宮跡3
 妙仙童寺仁王門2     妙仙童寺本堂        妙仙童寺客殿       妙仙童寺山門
なお、仁王門・仁王像については以下のように記す。
慶長12年仁王門及び仁王像を松並木馬場(境内中間)に建立安置する。その後、明暦2年再興、天保14年再興される。(「仁王像銘」)
明治23年仁王門は腐朽し取り壊し、仁王像は本堂に遷座する。昭和40年現在地に仁王門再建、仁王像を奉安する。
2015/09/11追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
 ◇吉備津新宮別當寺
吉備津新宮別當寺三ヶ寺。社僧東山真如院妙仙童寺、同東山月心坊、別當東山法應寺。川入東山に在り今真如院のみ残りて二ヶ寺は廃寺となる。
廃寺月心坊、・・・滅却の年歴不詳其跡山野となる。
妙仙童寺真如寺・・・伝記不詳、今寺坊共に一院瓦葺■貫門(一間三間)吉備津宮御朱印之内五石配分す。本尊薬師如来。本寺金山遍照院也、(備中誌に拠る)
東林山真如院妙仙童寺・・・天台宗、本尊、寺伝云、伝教大師御作阿弥陀如来(木造立像高2尺、鎌倉時代)、開基和同中と称す。寺中二坊法應寺、月心坊、今詳らかならず。
松並木馬場、新宮及び真如院の間の西方石段下より一直線に西に斗出すること二町余。西端石鳥居あり側に高6尺6寸巾1尺の石標を達つ。題して「吉備津新宮社是ヨリ三町」と云ふ。今折れて2片となる。
馬場の中間に仁王門ありしが今廃して仁王は本堂に安置せらる。(以下仁王記事は省略)
 ◇「備中國吉備津宮並座主東林山明仙童寺真如院略由来書」
・吉備津大明神の社頭次第は以下の通りである。
正宮、岩山宮、本宮、内宮、新宮と本地、経蔵、三重塔、鐘楼、釜殿、御供所、南門、北門、回廊、長床、末社(多数)
・往時、明仙童寺は和同年中草創吉備津宮座主職にて御座候、其後天平勝宝年中報恩大師再興、当山并日指山都合七拾坊御座候由来傳候
平家逆乱其後数度之兵乱等に寺坊退転仕候・・・天正年中心覚真如院再興仕候、天和年中(1631-)之比社人共致破壊寺跡斗にて御座候
真如院并寺中法應寺月心坊も天和年中比悉焼失仕候、自其以来寺中法應寺月心坊 未得建仕候 ・・・・
四拾年以前三重塔・経蔵・鐘楼等社人共破壊仕候・・・・(以下省略)
・本地堂者焼け残り候へ共四方に樹木を植、見不申様に仕り本尊虚空蔵菩薩打砕申候
(以下省略)

2006/06/22追加:
●心覚坊舜祐尊賀
「吉備津神社」藤井駿、岡山文庫52、昭和48年 より
 近世初頭、明仙童寺真如院住持は心覚坊舜祐であった。
その心覚坊舜祐は、少なくとも、文禄5年から元和2年までの20数年間の活動が推測される住持であったが、その生国は、思いもかけない遠隔地の「信濃神光寺清浄院住侶」であったという。
心覚坊舜祐の生国は吉備津神社に残る「吉備津宮惣解文」に記録される。
 以上に関して、「吉備津神社」藤井駿、岡山文庫52 には全文の掲載と以下のような簡単な解説がある。
吉備津宮惣解文
 
・・・・・・ 吉備津宮惣解文・表紙:「吉備津神社」岡山文庫52  より転載

(表紙)吉備津宮惣解文 法印舜祐之 真如院 

 備中国11郡72郷 島2
   都宇郡 4郷
 河面郷 能米100石 賀陽友延  から始まり
   嶋 2
 柏島 海月海老濱松少々 ・・・・で本文は終る。
  惣解文集書
 右本者、応永元年申戌書物、見来余爛朽、字境然与依不見処、干時文禄五申秊、為後代之写置者也、穴賢々、

 宮座主、東山明仙童子寺真如院住持・生国信濃神光寺清浄院住侶心覚坊舜祐曇鏡依縁為琢禿毛染置而己、
 右此惣解文者、応永比当社之記録也、文禄5年舜祐所為写本、因及紙牒損破、今加修復矣、干時宝永7庚寅歳8月21日
    吉備津宮検校藤井斎宮亮藤原高吉

 ・・・以下略・・・・

 この旧記の評価は、多少その内容に疑問があり、直ちに応永年中のものという訳にはいかないが、いずれにしろ室町期の記録であるのは、確かとされる。
 備中一宮である吉備津宮には備中一円の諸郷から、大祭あるいは遷宮など事ある度に、御調(みつぎ)として、吉備津宮に奉納されたことは事実であろう。膨大な寄進の記録が今も神庫に保管されていることでも、それは裏付けられる。
 以上のように、
宮座主、東山明仙童子寺真如院住持・生国信濃神光寺清浄院住侶心覚坊舜祐
 
の記録が存在する。

参考:「法印舜祐」についての論考は、「小海町公民館報397〜411(平成16年4月〜平成18年9月)」の12回分がWeb上で入手可能である。(町文化財調査委員・井出正義氏論考)
  → 信濃神光寺/「法印舜祐」の項

2014/03/16追加:
○「備前一宮吉備津彦神社」吉備津彦神社、2002/11 より
「心覚坊舜祐尊賀の活躍」の項には以下のように述べる。
門神の頭部:吉備津彦神社に門神と推定される像の1対の頭部が残る。
そのうちの一つに尊賀の墨書銘が残る。
 (頭部前面と背面の墨書の写真が掲載されるも、写真の状態が悪く、写真では尊賀の墨書を確認することができない。)
尊賀の名前は仏像の新造・修理の際の胎内銘として登場する。
それは吉備津福田海勝鬘堂安置勝鬘夫人像、有木青蓮寺本尊宝冠の阿弥陀像、真如院の仁王などである。
 真如院仁王尊背銘は以下の通り・・・この銘は真如院の仁王門掲示説明中にあり。
  奉新造慶長12未年 現住 尊賀
  奉再興明暦2申年  現住 隆海
  奉再興天保14卯年九月吉
     佛師 岡山市(ママ)丸亀町 小野十郎右衛門貞武朝臣
         備中宮内片山     中山力蔵
   ※再興は仁王門とも考えられるが、仁王像が明暦と天保年中の再興されたのであろう。
   最後の佛師には岡山市・・とあるので、明治以降に修理がされたのであろう。
尊賀は吉備津宮別当真如院の座主を務める。また備前金山寺豪円と親交があり、宇喜多直家から金山寺などの復興資金を引き出すともいう。

○真如院本尊は阿弥陀如来立像(像高65cm、桧寄木造り、上品下生の来迎印を結ぶ)で、墨書銘を残す。
宝治2年(1248)に仏師広慶によって造立される。
本像は鎌倉中期の安阿弥像(快慶風)の堅実な作品であり、賀陽一族や、東大寺再建大勧進重源の影響と思われる阿弥陀仏号を名乗る人物が関与していたことが推測される。
 墨書銘:
「宝治2年戊申6月庚辰巳時開眼畢 願主僧明円 仏師広慶法印
 結縁衆 加陽高親 常阿弥陀佛 円阿弥陀佛 母阿弥陀佛 修阿弥陀佛 僧尊覚等」

社 家
中世から近世にかけて、賀陽氏(祭神吉備津彦命の子孫と云う)、藤井氏、堀家氏、河本氏ら社家として常に70−80軒神社に奉仕していたとされる。寺家と社家は並存するも、江戸初期には経済的利害(社領の配分など)の対立、および思想的背景から対立を深め、最終的に社家が寺家の排斥に成功する。思想的背景あるいは時代的背景として、隣藩岡山藩池田光政の寛文の廃仏毀釈(儒学の重用)があったようである。

参考文献:
「考えながら歩く吉備路」薬師寺慎一、吉備人出版、2008

備後吉備津神社

  備後吉備津宮 :備後一宮(備後吉備津神社)は備中一宮(吉備津神社)から分祀したとされる 。


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