現存する三重塔:(室町〜桃山期) |
現存三重塔:室町〜桃山期
名称・場所 | 国指定 | 画像 | 備 考 | |||||||
314 | 備中宝福寺【重文】 昭和44年解体修理竣工、この時、永和2年(1376)の墨書が発見され、南北朝期の建築と確認される。 一辺3.5m、高さ18.5m。 初重には須彌壇を設け、大日如来及び四天王像を安置する。 臨済宗東福寺派に属する。かっては一山50余の塔頭を有したと伝える。 天正3年(1575)の戦火で塔婆を除き焼失し、他の伽藍はその後(江戸期)の再建になる。 三重塔を除き、現伽藍は江戸期の再建であるが、禅宗様の伽藍を完備する。なお雪舟が修行した寺としても知られる。 2015/09/25追加: 「吉備郡史 巻上」では備中新山廃寺塔坂の三重塔は井山宝福寺へ移建という「備中誌」などの説を紹介する。 但し、上記以外に資料がないので、その妥当性は分からない。 2000/12/27撮影: 宝福寺三重塔1 宝福寺三重塔2 2002/12/29撮影: 宝福寺三重塔11 宝福寺三重塔12 宝福寺三重塔13 宝福寺三重塔14 宝福寺三重塔15 宝福寺三重塔16 宝福寺三重塔17 宝福寺三重塔18 2010/09/12撮影: 宝福寺三重塔21 宝福寺三重塔22 宝福寺三重塔23 宝福寺三重塔24 宝福寺三重塔25 宝福寺三重塔26 宝福寺三重塔27 宝福寺三重塔28 宝福寺三重塔29 宝福寺三重塔30 宝福寺三重塔31 宝福寺三重塔32 宝福寺三重塔33 備中宝福寺山門 備中宝福寺仏殿 備中宝福寺庫裏 備中宝福寺方丈 備中宝福寺般若院 2022/05/05撮影: 備中宝福寺三重塔 備中宝福寺三重塔41:上図拡大図 備中宝福寺三重塔42 備中宝福寺三重塔43 備中宝福寺三重塔44 備中宝福寺三重塔45 備中宝福寺三重塔46 備中宝福寺三重塔47 備中宝福寺三重塔48 備中宝福寺三重塔49 備中宝福寺三重塔50 備中宝福寺三重塔51 備中宝福寺三重塔52 備中宝福寺三重塔53 備中宝福寺三重塔54 備中宝福寺三重塔55 備中宝福寺三重塔56 備中宝福寺三重塔57 備中宝福寺三重塔58 備中宝福寺三重塔59 備中宝福寺三重塔60 備中宝福寺三重塔61:上図拡大図 備中宝福寺三重塔62 備中宝福寺三重塔63 備中宝福寺三重塔64 備中宝福寺三重塔65 備中宝福寺三重塔相輪 仏殿(法堂):本尊虚空蔵菩薩を祀る。 方丈:東西25m、南北16mの建築規模。 備中宝福寺山門2 備中宝福寺仏殿2 備中宝福寺仏殿3 備中宝福寺仏殿4 備中宝福寺仏殿本尊 備中宝福寺方丈2 備中宝福寺方丈3 備中宝福寺玄関 備中宝福寺庫裏2 備中宝福寺庫裏3 備中宝福寺鐘楼;鐘楼に懸る梵鐘は「奉鐘鋳 備州熊山霊仙寺 大工左衛門尉 応仁貮天戌子十一月十五日 新田庄内 寺見村 大檀那 祐長」の陰刻がある。 應仁2年(1468)熊山霊仙寺に寄進された梵鐘で、今はなき熊山霊仙寺を偲ぶ梵鐘である。 ただ、宝福寺に伝わったいきさつは不明であるという。 →この項は「備前熊山石積仏塔(熊山戒壇)」>○会報「熊山の石ふみ」21号 平成28年7月1日号 の項にあり。 備中宝福寺経蔵 塔頭般若院2 塔頭般若院3 塔頭般若院4 塔頭般若院5 参考:備中総社宮 井山宝福寺の南方・総社市街地に備中総社宮がある。 「出雲と大和 −古代国家の原像を訪ねて」村井康彦、岩波新書1405、2013 より 岡山県総社市総社宮 祭神:大名持(大己貴、大物主、大国主) 須世理姫(大名持の妻) 相殿:備中国内304社8柱大神 とある。 備中の総社であるのに、なぜ「備中国内304社8柱大神」は相殿に押しやられ、主祭神は出雲の神が祀られているのか。 この「衝撃」から村井の大名持(大己貴、大物主、大国主)の追跡が始まった。 考えて見れば、大和の三輪山の神も出雲の大物主である。なぜ大和に出雲の神なのか。 結論だけ言えば、邪馬台国は出雲精力の打ち立てたクニであった。つまりは卑弥呼も邪馬台国も大和朝廷とは無縁の存在であったという結論に至るのである。 大国主は国造りの祭神であった、それ故、ここ備中総社でも、「備中国内304社8柱大神」と大國主との主・従の祭神の逆転は起きたのではないか ・・・ということで、その備中総社の現在を概観する。 主祭神や相殿は上記の通りであるが、雑多なポプラ―な神々が祀られ面白い。 ・神宮寺として入母屋造(3×3間)の瓦葺きの堂がある。情報がないので、この神宮寺の性格は不明である。しかし推測するに何らかの本地仏を祀る堂か護摩堂の類であったのかも知れない。 尤も、現在の堂が古いものとも思われず、もしそうであれば、江戸以前の仏堂が残っているということではないあろうが。 ・牛頭天王が祀られ、「慶長19年(1614)堀与太衛門元吉が京都の八坂神社より勧請した。弘化3年(1846)に再建。古くは疫神社、疫清神社、沼名前神社などと呼ばれる。」という。祇園神社。 ・弁財天:弁財天を祀る。厳島神社。 ・三輪明神:大神神社、(大和)大神神社より古くより勧請されて祀られているという。 主祭神が三輪明神の神であるのに、別に末社として大名持(大己貴、大物主、大国主)を祀るとはどういう意味だろうか。 写真はないが、上記も含め、実に雑多な神仏が祀られる。 ・稲荷明神:京都伏見稲荷から勧請という。 ・木野山神社:高梁市木野山神社より勧請されたという。 →木野山神社は吉備には一定数存在する。「伊予三島大明神」中(参考):◆備中木野山神社を参照。 ・清正公:「創建年月日不詳。御神像は天保6年(1835年)に大阪の三谷延清が作成。」という。 清正公とは日蓮宗系であり奇なものを祀る。信ずるものやご利益のあるものは何でもありということであろうか。 ・和霊社:「創建年月日不詳。愛媛県宇和島の和霊神社より勧請。清平衛公は伊達秀宗公の忠臣であったが暗殺され、その後で神霊が顕れて奇跡が起こったことによる。」という。 →和霊社も瀬戸内沿岸に一定数存在する。 例えば、備後佐木島には磨崖和霊石地蔵がある。(→明治以降の三重塔中496にあり) ・琴平宮:金比羅大権現、「創建年月日不詳。讃岐金比羅大権現社より勧請された。御神像は江戸中期のもの。」という。 ○サイト「備中国総社宮」 より転載 備中総社宮境内図 2022/05/05撮影: 備中総社宮参道 廻廊入口・随身門 備中総社宮随身門 備中総社宮廻廊1 備中総社宮廻廊2 備中総社宮廻廊3 拝殿入口回廊 備中総社宮拝殿・本殿 備中総社宮本殿 備中総社宮神宮寺 備中総社宮牛頭天王:向かって右が牛頭天王、前には拝所の建物がある。 備中総社宮弁財天 弁財天・牛頭天王:中央付近の鳥居が弁財天、向かって左端の一間社流造の社が牛頭天王 備中総社宮神輿庫 備中総社宮三輪明神 備中総社宮社務所 備中総社社三島式庭園1 備中総社社三島式庭園2 |
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315 | 播磨如意寺 | 重文 | 図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 図8 図9 図10 |
三重塔は南北朝期至徳2年(1385)建立。一辺3.8m、高さ21.3m。本瓦葺き。和様を用いる。 如意寺は大化元年(645)法道上人が当山に地蔵菩薩と毘沙門天祀るという。 大化5年(649)孝徳天皇の勅願寺となり「三級塔一宇鐘楼堂二階楼門二箇鎮守其外僧院廿四坊」が建立され、さらに仁寿元年(851)円仁が文殊堂を建立する。後、荒廃するも、正暦年間(990-995)願西尼(安養尼)により中興されるという。 (「如意寺旧記」) しかし、以上は伝説の域を出ないもので、確たる古文書や発掘調査の成果から、創建は12世紀中葉を遡るものではないというのが定説である。 鎌倉初期に阿弥陀堂(常行堂)、至徳2年(1385)に三重塔、室町後期には文殊堂の建立がなる。 天文8年(1539)本堂・鐘楼など焼失。本堂は「播磨名所巡覧図会」に見られるように幕末に再興されるも、戦後まもなく老朽化の為、取り払われ、今は土壇と礎石のみを残す。 (本尊地蔵菩薩は、現在、文殊堂に安置という。)7間×7間の大堂であった。 寛文7年(1667)東叡山寛永寺末となる。江戸期には12坊を有し、朱印地43石余、年貢地80石余を得る。比金山と号する。 (江戸期には壽量院・浄泉院・壽間院・妙光院・翫玉院<現本坊>・福聚律院<現存>があったと云う。) 2001/04/29撮影: 図1〜図6は三重塔、図8は阿弥陀堂(常行堂)、図9は文殊堂である。図10は伽藍平面図(略図)。 三重塔・常行堂・文殊堂は戦後に重文に指定される。 如意寺は谷合いの樹林の中に厳然と存在する。近年の西神ニュータウンの開発が寺の三方で行われてはいるが、現時点ではこの一画は保護地域となり自然のまま残る。(そのように願う。) ○播磨名所巡覧圖會:巻之2より 記事:「天台宗。開基法道仙人。本尊地蔵尊。山門・鐘楼・三重塔、坊舎24所、・・常行堂・三昧堂・護摩堂・観音堂・大伽藍。・・」 如 意 寺(部分図) 2003/11/4撮影: 如意寺三重塔1 如意寺三重塔2 如意寺三重塔3 如意寺三重塔4 如意寺三重塔5 如意寺三重塔6 如意寺三重塔7 如意寺三重塔8 如意寺三重塔9 如意寺三重塔10 如意寺三重塔11 如意寺三重塔12 如意寺三重塔13 如意寺三重塔14 如意寺三重塔15 如意寺三重塔16 如意寺三重塔17 如意寺文殊堂 如意寺常行堂 如意寺仁王門 2006/04/07追加:「社寺境内図資料集成」 より 如意寺古図:弘化2年(1845) 写、元禄5年(1692)本堂再建時の古図の写し:如意寺蔵 掲載図は不鮮明であるが、今はなき本堂ほか主要伽藍及び、仁王門門前から、主要伽藍を経てその奥まで、谷筋北側に多くの坊舎が存在した典型的な一山多院制の大寺院であった様子が描かれる。 ○2014/02/13追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2010/05/26撮影・ご提供: 播磨如意寺三重塔21:1.29MB 播磨如意寺三重塔22:1.26MB 播磨如意寺三重塔23 播磨如意寺三重塔24 播磨如意寺仁王門21 播磨如意寺文殊堂21 播磨如意寺文殊堂22 播磨如意寺文殊堂23 播磨如意寺常行堂21 2016/04/09撮影: 三重塔(重文) 如意寺三重塔31 如意寺三重塔32 如意寺三重塔33 如意寺三重塔34 如意寺三重塔35 如意寺三重塔36 如意寺三重塔37 如意寺三重塔38 如意寺三重塔39 如意寺三重塔40 如意寺三重塔41 如意寺三重塔42 如意寺三重塔43 如意寺三重塔44 如意寺三重塔45 如意寺三重塔46 如意寺三重塔47 如意寺三重塔48 如意寺三重塔49 如意寺三重塔50 如意寺三重塔51 如意寺三重塔52 如意寺三重塔53 如意寺三重塔54 如意寺三重塔55 如意寺三重塔56 如意寺三重塔57 如意寺三重塔58 如意寺三重塔59 如意寺三重塔60 如意寺三重塔61 如意寺三重塔62 如意寺三重塔相輪1 如意寺三重塔相輪2 如意寺三重塔相輪3 如意寺三重塔相輪4 常行堂(阿弥陀堂)(重文) 如意寺常行堂31 如意寺常行堂32 如意寺常行堂33 如意寺常行堂34 如意寺常行堂35 如意寺常行堂36 如意寺常行堂37 如意寺常行堂38 如意寺常行堂39 如意寺常行堂40 如意寺常行堂41 如意寺常行堂42 文殊堂(重文) 如意寺文殊堂31 如意寺文殊堂32 如意寺文殊堂33 如意寺文殊堂34 如意寺文殊堂35 如意寺文殊堂36 如意寺文殊堂37 如意寺文殊堂38 本堂跡 如意寺本堂跡1 如意寺本堂跡2 如意寺本堂跡3 仁王門:室町期の再興と云われる。門には鎌倉期の作とされる塑像の仁王像2躯を安置する。 如意寺仁王門31 如意寺仁王門32 如意寺仁王門33 如意寺仁王門34 如意寺仁王門35 如意寺仁王門36 如意寺仁王像31 如意寺仁王像32 如意寺仁王像33 如意寺仁王像34 寺中翫玉院(本坊) 寺中翫玉院山門 寺中翫玉院堂宇 寺中翫玉院裏玄関・庫裡 寺中翫玉院書院 寺中翫玉院庭園 寺中跡 寺中坊舎跡1:左遠方に写るのは仁王門。 仁王門は以前文殊堂附近に移設の話があったようであるが、仁王像の保存の問題で立ち消えとなるという。蓋し、仁王門は古の寺地の目印であり、仁王門が元の位置に残ることにより如意寺の歴史が残こされたのは大慶であろう。 寺中坊舎跡2:遠方に三重塔屋根・相輪が写る。 寺中坊舎跡3 寺中坊舎跡4 寺中坊舎跡5:向かって左の坂道を登れば福聚律院に至る。 寺中坊舎跡6:福聚律院に至る道から南方を撮影。 寺中福聚律院(元如意寺塔頭、宮本武蔵の作と伝える庭園が残る。) PDF文書「谷口里づくり計画」 より 天台宗福聚院:福聚院の初見は慶長7年(1602)「如意寺検地帳」で「福壽院」の名が見え、慶長13年「如意寺坊屋敷畠方検地帳」に「福聚院」の名がある。元禄5年(1592)「如意寺古図」(弘化2年(1845)写)に12の院坊の名があり、院名があり、福聚院の名が確認できる。 元禄11年(1698)比叡山安楽律院「立制」を受け、本山より直接「輪番」を仰ぐこととなる。 明治維新後、明石諸山の律院は廃寺を余儀なくされるも、当院は現在も厳しい「律」の戒律を守るという。 本尊は阿弥陀如来。本堂は江戸初期の建立。文殊堂は明和6年(1769)の建立、庫裡もこの頃比叡山坂本から移築されたと言われる。 阿弥陀堂の裏庭は宮本武蔵の作庭と傳える。もし事実ならば、それは明石藩主小笠原忠政時代であろう。なぜなら、忠政は如意寺三重塔改修に際し九輪に鋳造銘を残しており、また忠政の諡号は「福聚寺殿」ということがある。 寺中福聚律院全容:左から文殊堂(推定)、阿弥陀堂(推定/本堂?)、書院、庫裡、庫裡門) 福聚律院山門 福聚律院書院 福聚律院推定文殊堂 福聚律院推定阿弥陀堂 |
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316 | 備後天寧寺【重文】 南北朝期・嘉慶2年(1388)地元の道慶の発願にて五重塔として建立。 元禄5年(1692)老朽化により五重塔を三重塔に改築。 ほぼ純粋な唐様の代表作として知られる。 伽藍背後の山腹の急斜面に塔が屹立する。一辺5.33m、総高約25m。基壇上に建つ。 当寺は貞治6年(1367)足利義詮によって天竜寺普明国師を招じて建立される。当初は臨済宗であった。 元和年中の雷火にて焼失し、荒廃する。その後備後三原宗光寺一雲椿道禅師が曹洞宗として再興。 2000/12/26撮影: 天寧寺三重塔1 天寧寺三重塔2 天寧寺三重塔3 2001/12/28撮影: 天寧寺三重塔10 天寧寺三重塔11 天寧寺三重塔12 天寧寺三重塔13 天寧寺三重塔14 天寧寺三重塔15 天寧寺三重塔16 天寧寺三重塔17 天寧寺三重塔18 2007/01/19撮影: 天寧寺三重塔01 天寧寺三重塔02 天寧寺三重塔03 天寧寺三重塔04 天寧寺三重塔05 天寧寺三重塔06 天寧寺三重塔07 天寧寺三重塔08 天寧寺三重塔09 天寧寺三重塔10 2010/07/17撮影: 天寧寺三重塔21 天寧寺三重塔22 天寧寺三重塔23 天寧寺三重塔24 天寧寺三重塔25 天寧寺三重塔26 天寧寺三重塔27 天寧寺境内俯瞰 天寧寺三重塔俯瞰 天寧寺三重塔初重 天寧寺三重塔二重 天寧寺三重塔三重 天寧寺三重塔基壇 三重塔初重組物1 三重塔初重組物2 三重塔初重組物3 三重塔初重内部1 三重塔初重内部2 三重塔初重内部3 天寧寺三重塔相輪 2022/07/31撮影: 天寧寺三重塔31:上図拡大図 天寧寺三重塔32 天寧寺三重塔33 天寧寺三重塔34 天寧寺三重塔35 天寧寺三重塔36 天寧寺三重塔37 天寧寺三重塔38 天寧寺三重塔39 天寧寺三重塔40 天寧寺三重塔41 天寧寺三重塔42 天寧寺三重塔43 天寧寺三重塔44 天寧寺三重塔45 天寧寺三重塔46 天寧寺三重塔47 天寧寺三重塔48 天寧寺三重塔49 天寧寺三重塔50 天寧寺三重塔51 天寧寺三重塔52 天寧寺三重塔53 天寧寺三重塔54 天寧寺三重塔55 天寧寺三重塔56 天寧寺三重塔57 天寧寺三重塔58 天寧寺三重塔99 天寧寺三重塔60 天寧寺三重塔61 天寧寺三重塔基壇2 天寧寺三重塔相輪2 天寧寺伽藍俯瞰2 天寧寺門前 天寧寺本堂 天寧寺庫裏 羅漢堂五百羅漢1 羅漢堂五百羅漢2 羅漢堂五百羅漢3:像は江戸中期から明治にかけて檀信徒から寄進される。 ◇参考:備後三原宗光寺 この寺の一雲椿道禅師が天寧寺を中興する。 泰雲山と号する。天正5年(1577)小早川隆景が両親である毛利元就夫婦を弔うため本郷高山城内に建立する。当時の寺号は臨済宗雲門山匡真寺と号する。 隆景、三原城築城の際、城下の西側を守る砦も兼ね、この地に移す。 慶長5年(1600)福島氏が芸備へ入部し、養山方育が住持の時、曹洞宗に改宗、宗光寺と改号という。 近世には、末寺37ヵ寺、配下8ヵ寺を擁する。享保10年(1725)山門を除き、全山焼失する。 山門:重文、全国的にみても最大級の大規模四脚門という。小早川隆景の築城した新高山城から移築と伝えるも、規模・細部意匠などから福島氏が現在地に新築した可能性が高いとも云う。 2015/03/21撮影: 宗光寺山門1 宗光寺山門2 宗光寺山門3 宗光寺山門4 宗光寺山門5 宗光寺山門6 宗光寺山門7 宗光寺山門8 宗光寺山門9 宗光寺本堂・庫裡 宗光寺本堂 宗光寺僧堂? 宗光寺庫裡 宗光寺宝蔵? 宗光寺鐘楼 |
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317 | 近江園城寺 (三井寺) |
重文 | 大和比曽寺・近江園城寺三重塔 | |||||||
318 | 近江常楽寺 | 国宝 |
図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 図8 図9 図10 図11 図12 図13 |
応永5年(1398)再建塔。
一辺5m、高さ22.8m。屋根本瓦葺。本尊釈迦如来坐像を安置。来迎壁に釈迦説法図を描く。塔は延文5年(1360)に焼失と思われ、応永4年(1397)から再興に着手し、その後再興されたものと思われる。(応永7年銘の瓦が存在する。) 阿星山5千坊(但し考古学的知見によれば5000坊の実態は無かったと思われる)の一つとして創建され、以降近江天台の巨刹として繁栄する。延文5年(1360)雷火により伽藍焼失。 本堂(南北朝)も国宝。現在の本堂は様式上、焼失後まもなく再興されたものとされる。 本 堂 1 本 堂 2 本 堂 3 現在では、湖東3山(百済寺・西明寺・金剛輪寺)・石馬寺・桑実寺・東光寺・大覚寺・敏満寺・己高山等のように壮大な伽藍跡は残さず東の長寿寺(東寺)とともに阿星山の山麓にひっそりと塔婆・金堂を残すのみ。 (左記以外には若干の堂宇と粗末な仁王門と仁王門脇に本坊を残す。) 現在、境内地を(おそらく行政が)整備中と思われる。しかしブルドーザーを入れるような整備は、景観を壊すことであろう。資金を投入するのであれば、自然の景観を破壊する方向ではなくて、例えば仁王門を修理するとかに使う方が後世の為と思われる。 ■2007/03/03:「日本建築史基礎資料集成・塔婆U」: 初重一辺15尺4分、総高75尺3寸3分、相輪長23尺1寸4分 明治34年解体修理、昭和15年・同47年、屋根葺き替え。 常楽寺三重塔立面図 なお、近江園城寺仁王門は宝徳4年(1452)に常楽寺仁王門として建立されたもので、その後秀吉により伏見城に移され、さらに慶長6年家康によって園城寺に再度移建されたと伝える。 ■2009/11/18追加:(2009/11/08撮影) 本堂内陣には本尊木造千手観音坐像(重文)、風神・雷神・木造二十八部衆(28躯・重文・鎌倉期)を安置す。 本堂裏の外陣に釈迦如来坐像(重文・木造・平安期)を安置する。 (昭和56年風神・阿修羅王・摩喉羅迦王が盗難に遭う。昭和60年阿修羅王のみ発見・返納される。2躯は未発見。) 近江常楽寺三重塔21 同 22 同 23 同 24 同 25 同 26 同 27 同 28 同 29 同 30 同 31 同 32 同 33 同 34 同 35 同 36 同 37 近江常楽寺本堂21 同 本堂22 同 本堂23 同 本堂24 同 本堂25 近江常楽寺仁王門 |
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318 -1 |
近江金剛輪寺 | 重文 | 松尾寺。
(松尾寺というこの寺名が秦氏との関係があったと云う創建時の寺名と云われる。) 近江金剛輪寺 |
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319 | 備中遍照院 | 重文 |
応永23年(1416)再興(墨書による)。一辺4m強、高さ約21m。(22.25m) 塔は遍照院の土塀の外、十二所権現(明治2年熊野神社と改号)参道の傍らに建つ。 三重塔は、寺伝では、知海僧正が永享年中(1429年〜1441)に建立と伝える。 あるいは地元では、永禄年間(1558-1570)笹沖の足高山から現在地に移ると伝承すると云う。 しかし、昭和41〜42年の解体修理で「応永二十三(1416)年丙申五月十三日大願主敬白知海 次郎兵衛」の墨書が発見され、永享年中の建立と云う寺伝及び天正年中の足高山からの移建と云う伝承は否定される。 遍照院は寛和年間(985-987)花山天皇勅願、智空上人の開山と伝える。 明治維新までは十二所権現の神宮寺であり寺号を神遊山神宮寺と称する。遍照院は神宮寺の一院の名称であろう。 度重なる火災に遭い、古建築としては、塔のみが伝わる。 2015/08/09追加: 十二所権現について、「長床縁由興廃伝」>第八寺院興廃伝 では次のように云う・ 「・・覚王院円海細川勝元の所縁により其権威を借り・・・時に応永元年・・・細川勝元輿山名宗全於京都合戦。此乱に乗じて大衆、覚王院を亡んと謀る。之依りて備中国西阿知地に退き、彼地に権現を勧請す。返って本山を亡さんと謀り、細川の遠兵をかり、当山に乱入、社中三十有餘の伽藍僧舎寺院一宇も残さず一時に灰燼と成るかな。・・・」 → 備前新熊野十二所権現 なお、明治2年熊野神社と改号、国家神道の序列に入る。昭和35年本殿炎上、昭和37年RC造にて再建。 ○「中国名所圖會」巻之2より:神遊山神宮寺遍照院・・・挿絵はなし。 記事:「人皇65代寛和元年乙酉、備中国浅口郡神宮寺に三重の塔を建つ。また曰く、一乗院永延元年丁亥、多田満仲公、十二所権現御再建云々。 三重塔婆(十二所権現の北の方にあり。方3間、高さ17間5尺云々。)今の塔は応永年中の造営、本尊金剛界大日如来、作不詳と云々。瓦は古瓦残りし有りしと見えて、三重の屋根に百枚余古瓦有り。古瓦に古歌を鐫す。九輪に経文を鋳附て有れど、文字定かならず。 十二所大権現:明王院と号す。」 2018/10/24追加: 「備中誌 窪屋郡巻之六」 より 足高宮 笹沖村 (前略) 神遊山古記に云う、聖武天皇の御宇始めて別當の寺院を居られ山上に数箇寺在りしと云。・・・・・ 其寺院には神遊山神宮寺、井上寺、明王院、安楽坊(今の青蓮院也)各智空上人の流れを汲む・・・・・ 花山帝寛和元年(985)葦高社并別當神宮寺三重塔再建有、後二条天皇勅筆の額を賜りしに 葦高八幡大菩薩と云・・・・・ 神宮寺は天正年中寺を山より移し、今西阿知遍照院也、寛文7年迄芦高宮の別當也しか、 備前領分佛寺破却の時取離され・・・ (中略) 廃寺 神遊山神宮寺寺谷に有しか、今西阿知に移りて遍照院是也、芦高社別當の社僧成し (中略) 寺谷 笹沖山の南迫抱を寺谷と云 昔蓮臺寺 神宮寺 井上寺などの舊跡也 2000/12/25撮影::図1−図2 2002/08/17撮影:01-09 2008/01/31撮影: 遍照院三重塔1 遍照院三重塔2 遍照院三重塔3 遍照院三重塔4 遍照院三重塔5 遍照院三重塔6 遍照院三重塔7 遍照院三重塔8 遍照院三重塔9 遍照院三重塔10 遍照院三重塔11 遍照院三重塔12 遍照院三重塔13 遍照院三重塔14 遍照院三重塔相輪 備中遍照院本堂 三重塔周囲の工事用塀は塔修理用ではなく、本堂新築工事中の塔防御用と思われる。(本堂新築工事はほぼ完工) 2013/03/17撮影: 遍照院三重塔61 遍照院三重塔62 遍照院三重塔63 遍照院三重塔64 遍照院三重塔65 遍照院三重塔66 遍照院三重塔67 遍照院三重塔68 遍照院三重塔69 遍照院三重塔70 遍照院三重塔71 遍照院三重塔72 遍照院三重塔73 遍照院三重塔74 遍照院三重塔75 遍照院三重塔76 遍照院三重塔77 遍照院三重塔78 遍照院三重塔79 遍照院三重塔80 遍照院三重塔81 遍照院三重塔82 遍照院三重塔83 遍照院三重塔84 遍照院三重塔85 備中遍照院伽藍1 備中遍照院伽藍2 備中遍照院伽藍3 備中遍照院伽藍4 備中遍照院山門 備中遍照院玄関客殿 備中遍照院本堂2 備中遍照院御影堂 遍照院吹放鐘楼 遍照院袴腰鐘楼 2015/08/15撮影: 遍照院三重塔111 遍照院三重塔112 遍照院三重塔113 遍照院三重塔114 遍照院三重塔115 遍照院三重塔116 遍照院三重塔117 遍照院三重塔118 遍照院三重塔119 遍照院三重塔120 遍照院三重塔121 遍照院三重塔122 遍照院三重塔123 遍照院三重塔124 遍照院伽藍5 遍照院伽藍6 遍照院山門2 遍照院本堂3 遍照院玄関 遍照院客殿 遍照院庫裡 遍照院御影堂2 遍照院吹放鐘楼2 遍照院袴腰鐘楼2 西阿知十二所権現社頭:長い参道が直線で続く。 西阿知十二所権現参道:参道は凡そ1町半である。向かって右に塔相輪が写る。 西阿知十二所権現参道途中:神宮寺三重塔が姿を見せる。 西阿知十二所権現拝殿:神遊山神宮寺遍照院とは、おそらく明治維新の神仏分離の処置であろうか、塀などで裁然と区分される。 2008/03/09追加:「日本の塔」より 備中遍照院三重塔立断面図 2009/06/06追加:「五重塔はなぜ倒れないか」上田篤、新潮選書、1996 より 備中遍照院三重塔断面図:心柱は初重梁上から立つ。 ○神遊山寺中: 往時、寺坊(※金剛院・普門院・善照院・医王院・禅園院)が存在したと云う。 ※金剛院:神遊山神宮寺金剛院と号す。神遊山神宮寺の寺中であったが、寛文年中(1661-)から玉島冨田の干拓が進み神宮寺檀家が多く入植、 天保13年に当地に休息所を置き、明治11年に金剛院は西阿知から富田に移転、現存する。本尊愛染明王。 2008/06/30撮影: 神遊山金剛院1・・・近年本堂(RC造)が完成、山号は当然ながら神遊山と号する。 神遊山金剛院2:旧本堂と思われる。高野山真言宗。 2015/09/17追加: 「倉敷美観地区(岡山文庫273)」吉原睦、日本文教出版、2011 より 倉敷阿知町高野山真言宗地蔵院はかっては笹沖足高山にあり、神遊山神宮寺の寺中であったという。 天正13年(1585)勢海が現日吉町の新開地へ移し地蔵院を開山し、貞享年中(1684-)倉敷の現在地へ移転し中興したと伝える。明治初頭に焼失、荒廃し、倉敷小学校用地となる。明治45年本堂再建、寺院機能が回復する。 ◆(附)西阿知医王寺多宝小塔(屋内):近年のものと思われる。 <遍照院とは直接の関係はないと思われる。) 御室仁和寺直末。本尊薬師如来。創建年代や縁起は詳らかにせず。以前は明治10年建立と云う草葺(?)の本堂があったが、現在の建物は新しく、近年に造替されたものと思われる。 医王寺多宝小塔1 医王寺多宝小塔2 医王寺多宝小塔3 |
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320 | 備後西国寺 | 重文 | 10 11 12 13 14 15 本堂1 同2 同3 |
永亨元年(1429)足利義教の建立。和様を用いる。一辺4.56m、
総高22.29m。この時代の塔では珍しく基壇上に建つ。塔は金堂の後方の山腹に立ち、遠くからも望見ができる。 |
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321 | 備後向上寺 | 国宝 | 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 |
2007/03/03「日本建築史基礎資料集成・塔婆U」: 永享4年(1432)建立塔。仏通寺禅慶の発願で、井口守平、檀越信元、信昌を大檀越として建立される。総高19.52m。和様を基軸に長押を用いず、木鼻・初層扇垂木、花頭窓、組物などかなり唐様を取り入れた折中様とも云うべき塔婆である。 室町期の禅宗寺院三重塔の遺構をよく伝えるとの評価で、昭和33年国宝に指定される。 昭和38年解体修理、その時建立当初の用材が使われていることが確認される。 塔は島與の独立丘の頂上近くにあり、数百年間に渡り雨風を凌ぎ、今日まで伝えられる。 初重総間12尺、中央間4尺5寸、両脇間3尺7寸5分 二重総間9尺7寸5分、中央間3尺7寸5分、両脇間3尺 三重総間7尺8寸7分8厘、中央間3尺1寸5分、両脇間2尺3寸6分4厘、 総高64尺4寸2分、相輪長21尺6寸3分。 向上寺三重塔立面図 2009/08/08撮影: 備後向上寺三重塔11 同 12 同 13 同 14 同 15 同 16 同 17 同 18 同 19 向上寺は応永10年(1403)大本山仏通寺開山仏徳大通禅師の開基という。塔下の伽藍地に本堂・庫裏・観音堂があったが、明治6年に焼失する。本堂は三原付近の古寺院の廃材で再興 するも、この本堂も老朽化のため取壊すと云う。本堂以下は未だ再興に至らず。 2009/08/08撮影: 備後向上寺本堂:現在本堂は再建の運びとなり、建築中である。 |
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322 | 備前福生寺 | 重文 | 嘉吉元年(1441)足利義教の再興。初重一辺
3.77m、総高19.72m。 → 備前福生寺 →備前48寺 |
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323 | 山城岩船寺 | 重文 | 図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 図8 図9 10 11 12 13 |
現存塔は南北朝期弘和2年(1382)建立。塔創建は、承和年中(834-47)、仁明天皇が智泉大徳(天長2年<825>没、灌頂堂・報恩院を建立、弘法大師の姉の子)の遺徳を偲んで建立したと伝える。 なお、近年では現存塔に嘉吉2年(1442)の刻銘があることから、この時の建立と云う。 2001年塔修理完工、この時再建当時の内部文様・色彩・壁画が明らかとなり、復原される。 塔創建当時は塔門扉・板張りの壁等に水天・羅刹天・16羅漢像等が極彩色で描かれていたようで、復元図が山城郷土資料館で公開される。 岩船寺は、寺伝では天平元年(729)聖武天皇の勅願で、行基によって創建されたとする。最盛期には16町四域の境内地に39坊があったという。承久の乱によって大半が焼失。 中世近世は南都興福寺一乗院末であったが、明治14年に真言律宗西大寺末となる。 塔以外に白山神社本殿(重文、室町)、十三重石塔(重文、南北朝期)、不動石龕(重文、鎌倉)、地蔵石仏(鎌倉)、五輪石塔(重文、鎌倉)などを残す。本堂は老朽化のため、昭和63年に再建。 2010/02/21追加: 昭和16年岩船寺三重塔:「荒れ果てた国宝」のタイトル で掲載される。毎日新聞写真 ○2011/03/31追加 「四百年前社寺建物取調書」明治15年社寺調査 より 岩船寺見取図 岩船寺三重塔絵図 ◆2013/12/12/撮影: 岩船寺三重塔21 岩船寺三重塔22 岩船寺三重塔23 岩船寺三重塔24 岩船寺三重塔25 岩船寺三重塔26 岩船寺三重塔27 岩船寺三重塔28 岩船寺三重塔29 岩船寺三重塔30 岩船寺三重塔31 岩船寺三重塔32 岩船寺三重塔33 岩船寺三重塔34 岩船寺三重塔35 岩船寺三重塔36 岩船寺三重塔37 岩船寺三重塔38 岩船寺三重塔39 岩船寺三重塔40 岩船寺三重塔41 岩船寺三重塔42 岩船寺三重塔43 岩船寺三重塔44 岩船寺三重塔45 岩船寺三重塔相輪 岩船寺岩風呂:鎌倉期 岩船寺本堂1 岩船寺本堂2 岩船寺鐘楼1 岩船寺鐘楼2 鎮守白山権現・春日明神 鎮守白山権現1 鎮守白山権現2 鎮守白山権現3 鎮守春日明神1 鎮守春日明神2 岩船寺石造十三重塔 岩船寺石造五輪塔 岩船寺貝吹岩 貝吹岩からの南山城眺望 本堂には阿弥陀如来坐像(像高約3m、重文、天慶9年/9469、四天王立像(鎌倉期)、普賢菩薩騎象像(重文、平安期、元は三重塔像であったと云う)などを安置する。 |
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324 | 近江總見寺 | 重文 | 近江長寿寺・近江総見寺三重塔 | |||||||
325 | 旧山城燈明寺 (三渓園) |
重文 | 山城燈明寺 | |||||||
326 | 信濃国分寺 【重文】 様式上室町中期のころの再建と推定される。一辺3.88m、高さ20.1m。 外観はほぼ和様で統一される。内部は四天柱の台輪、内外陣の詰組など唐様を用いると云う。中備には束のない間斗束を使用する。銅板葺。塔は善光寺張りの壮大な本堂(万延元年竣工)の東南にあり、旧伽藍と同一の配置を採る。 天平創建の国分寺は天慶元年(938)平将門の乱で焼失し、再建は、旧地の河岸段丘を捨て、旧地の北方、もう一段上の現河岸段丘上に、源頼朝によってなされた云う。その後中世もこの地の豪族の庇護を受け、また薬師信仰によってかなりの寺勢を 保持する。 ★木曾名所圖會:巻之5:◆浄瑠璃山国分寺::記事 聖武帝勅願。「・・右大将頼朝卿・・再建・・その後慶長年間、上田乱に伽藍また灰燼となり、ただ薬師の像と三重の塔のみ残りて荒敗の地となりしなり。」 信濃国分寺塔の図 以下は塔婆部分の説明記事:「九輪以下かな物みな銕、屋根三層ともこけら葺き、角がな物朽どれて所々残れり この所、火矢を射かけし跡焦げて身ゆる。(三層部)昔らんかんありし所。(二層部) 縁板まばらなり。(一層部)」 2002/09/05撮影: 信濃国分寺三重塔1 信濃国分寺三重塔2 信濃国分寺三重塔3 信濃国分寺三重塔4 信濃国分寺三重塔5 信濃国分寺三重塔6 信濃国分寺三重塔7 信濃国分寺三重塔8 信濃国分寺三重塔9 信濃国分寺三重塔10 信濃国分寺三重塔11 信濃国分寺金堂 2022/04/21撮影: 信濃国分寺三重塔11:下図拡大図 信濃国分寺三重塔12 信濃国分寺三重塔13 信濃国分寺三重塔14 信濃国分寺三重塔15 信濃国分寺三重塔16 信濃国分寺三重塔17 信濃国分寺三重塔18 信濃国分寺三重塔19 信濃国分寺三重塔20 信濃国分寺三重塔21 信濃国分寺三重塔22 信濃国分寺三重塔23 信濃国分寺三重塔24 信濃国分寺三重塔25 信濃国分寺三重塔26 信濃国分寺三重塔27 信濃国分寺三重塔28 信濃国分寺三重塔29 信濃国分寺三重塔30 信濃国分寺三重塔31 信濃国分寺三重塔32 信濃国分寺三重塔33 信濃国分寺三重塔34 信濃国分寺三重塔35 信濃国分寺三重塔36 信濃国分寺三重塔37 信濃国分寺三重塔38 信濃国分寺三重塔39 信濃国分寺三重塔40 信濃国分寺三重塔相輪 信濃国分寺石造多宝塔 高さ152cm、積み石段の上に乗る。相輪は欠。 由来や口伝は皆無で、建立年代は不明、様式・手法から鎌倉期のものと推定される。 別所常楽寺( →別所安楽寺中にあり。)の石造多宝塔に次ぐ年代のものと思われる。 塔身には両開きの扉が線彫され、初重屋根は亀腹を造り出し、その上には勾欄が付設する。 (降り棟や軒の反りは僅かで、この形式は古いという。軒先の切り口は垂直にし、軒裏には一重垂木を掘り出す。 なを、屋根などの窪みは盃状穴であろう。 信濃国分寺石造多宝塔1 信濃国分寺石造多宝塔2 信濃国分寺仁王門1:昭和53年建立、仁王尊は江戸期のものという。 信濃国分寺仁王門2 信濃国分寺本堂 薬師堂、文政12年(1829)に発願、天保11年(1840)に起工、万延元年(1860)に竣工。発願以来三十余年の歳月を費やす、11冊におよぶ「信濃国分寺勧進帳」が残る。 身舎は5間×6間の入母屋造、妻入りで、四周に1間の庇を廻らす。 本堂は、身舎の規模は間口9.7m、奥行14.6m、この周囲に幅2.4mの庇を廻らし、全体では間口14.5m、奥行19.4mの建物になる。長野善光寺本堂と同じ構造の堂である。 信濃国分寺本堂1 信濃国分寺本堂2 信濃国分寺本堂3 信濃国分寺本堂4 信濃国分寺本堂5 信濃国分寺本堂6 信濃国分寺鐘楼:享和元年(1801)上棟 信濃国分寺観音堂:江戸初期の百体観音像を安置、昭和60年再建 観音堂内部 信濃国分寺地蔵堂;地蔵尊と閻魔十王を安置、昭和57年再建 地蔵堂内部 信濃国分寺弁財天 信濃国分寺甲子大黒天:大正13年再建 信濃国分寺宝蔵:明治30年建立 信濃国分寺本坊 信濃国分寺本坊客殿:明治初年建立 信濃国分寺本坊庫裡 ◆信濃国分寺・八日堂蘇民将来符 信濃国分寺招堤堂:参拝者休息処、この堂宇に多くの「素問将来符」が置かれる。下記はその一例である。 招堤堂蘇民将来符1 招堤堂蘇民将来符2 招堤堂蘇民将来符3 招堤堂蘇民将来符4 ※信濃国分寺は天平13年国分寺建立の詔勅により、毎年8日に鎮護国家の金光明最勝王経の転読が行われることから八日堂と呼ばれるようになる。歳の初めの1月8日の縁日は多くの参拝者が訪れ、参拝者には「蘇民将来符」が配布される。求められた「蘇民将来符」は除災招福を願って各家庭に飾られる。 信濃国分寺には文明12年(1480)書写の「牛頭天王之祭文」が残り、遅くとも室町期には「蘇民将来符」が作成配布されたと推定される。 また、江戸中期の「八日堂縁日図」も寺蔵され、その盛んな様子が偲ばれる。 ※「備後風土記」の牛頭天王・蘇民将来説話は→「備後風土記」逸文 ※「八日堂縁日図」は江戸中期頃、信濃国分寺蔵 ※全国の蘇民将来符については→全国の蘇民将来符一覧を参照 2022/08/28追加: ○「刹の柱 信濃の仏塔探訪」長谷川周、信濃毎日新聞、2011 より 信濃国分寺立断面図 外観は和様であるが、内部は禅宗様の手法が多く用いられる。 内部には四天柱が建てられ、柱の間全体を須弥壇とし、背後は来迎壁を設け、金剛界大日如来像を安置する。 内陣の天井は二手先の詰組によって、一段高くした鏡天井を張る。 外陣の二手先の詰組、内法長押などに彩色文様跡が残るが、剥落が激しい。 三重塔初重内部1 三重塔初重内部2 三重塔初重内部3 2022/08/31追加: ○藤代清治作「流響」 しなの鉄道上田駅待合室に「流響」と題する絵(影絵作家「藤代清治」氏作)が掲げられる。 信濃国分寺、前山寺、安楽寺、大法寺の各三重塔、花、木、真田幸村、六文銭、上田城跡などが題材として取り上げられる。 信濃国分寺三重塔 前山寺三重塔 安楽寺・大法寺三重塔 大法寺三重塔 安楽寺三重塔 |
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327 | 播磨石峯寺 | 重文 |
図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 図8 |
現塔婆は室町期の文安〜応仁(1444〜68)頃の再建とされる。外形は基本的に純粋な和様と思われる。塔は本堂右手の丘上に立つ。内部は朱塗りの四天柱と来迎壁があり、大日如来を安置する
と云う。 一辺5.1m、方さ24.4m。 法道上人の開基。太山寺と同様、限りなく摂津の国境に近い播磨(東端)の田舎に位置する。訪問時は開山1350周年記念で塔が開扉されていた。仁王門から本堂までの地形は明らかに多数の院坊がかって存在したことを思わせるが、現在は十輪院・竹林寺・極楽寺の3坊で維持され る。(江戸期には不動坊・池ノ坊・宝池坊・金蔵坊・東光坊・常楽坊・教学坊・常光坊・梅中坊・大泉坊・極楽坊・中ノ坊・松本坊・梅本坊・安楽坊・北ノ坊・西光坊が あった。) 薬師堂:室町期、正面5間の堂で、重文。 2001/05/04撮影: 播磨石峯寺三重塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 薬師堂 |
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328 | 美濃新長谷寺 | 重文 | 図1 図2 図3 図4 図5 本堂 |
室町期寛正4年(1463)再建塔。 初代塔婆は二階堂行藤の娘の建立(徳治2年<1307>)とされる。また室町期の本堂・鎮守堂・薬師堂・大師堂・阿弥陀堂・釈迦堂(すべて重文指定)等が同じ桧皮葺きで立ち並ぶ様は地方寺院としては類のない景観であろう。 他に本坊中の客殿も重文指定。 真言宗智山派。寺院は関市の街中にあり、南面する。大門は参道のはるか南方に立つ。関は当寺の門前町として発達したと伝える。開山は護忍上人(弘法大師四代法孫)。正安2年(1300)兵火で全山焦土と化す。七世隆覚上人(二階堂行藤の実弟)が再興。長禄元年(1457)伽藍の一部を焼失。村山頼秀・山内利道らが本堂を再建(長禄元年) する。近世には僅か4坊 となり、明治維新で金剛院(本坊中の客殿)のみを残す。 2010/07/05追加 昭和9年吉田観音三重塔:毎日新聞報道写真 |
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329 | 常陸小山寺 | 重文 |
図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 図8 図9 10 本堂 |
寛正6年(1465)建立。東国での最古の塔建築とされる。相輪宝珠に「中郡庄小山寺山長福寺大旦那多賀谷前下総守朝経・・・・」の刻銘(棟梁は宗阿弥家吉)があると云う。 一辺4.16m、高さ19.7m (あるいは総高21.5mとも云う)。屋根杮葺。 若干唐様を交えるが、端正な和様のこの時代の雰囲気を見事に表す建築と評価される。 冨谷観音と通称する。天平7年(735)行基の創建と伝え、その後慈覚大師が伽藍を建立したとされる、鎌倉期初頭に小山寺と号する。南北朝期には結城、多賀谷、大野の諸氏に支えられたと伝える。 2010/04/25追加: ○「建物修理アーカイブ」 より 修理履歴:万治3〜4年(1660〜61)半解体修理、享保9年(1724)以上大修理、 延享4年(1747)、元治元年(1864)、明治24年(1891)以上屋根葺替、 元禄11年(1698)、昭和元年(1926)、昭和26年(1948) 以上部分修理 昭和63年〜平成2年解体修理: 解体調査の結果、屋根は享保期の杮葺に、他は当初の形状に復旧する。 小山寺竣工断面図 小山寺竣工初重平面図 小山寺竣工初重内部 小山寺解体内部 2013/12/23追加: ○「O」氏撮影画像(平成初期から平成10年代の間に撮影と推測) 常陸小山寺三重塔11 常陸小山寺三重塔12 常陸小山寺三重塔13 |
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330 | 摂津六条八幡宮 | 重文 | 図1 図2 図3 図4 図5 |
文正元年(1466)建立(棟札)。本殿向かって右に南面して3面を木立に囲まれて立つ。総高13.2m。当八幡宮は六甲山裏西北の谷合いに位置する。 長徳元年(995)基灯法師が円融寺を創建し、保安4年(1123)源為義が当地の領主となり、京六条の若宮八幡を勧進したと伝える。ひっそりとした山里でかつ地元の崇敬が厚かったためか、明治の廃仏毀釈の難を逃れて神社に現存する。最近神戸の開発 が2km手前まで迫っているが、いつまでも存続して欲しい環境と塔婆である。本殿向かって左に薬師堂<図5>と思われる堂(現在は物置と思われる)も残る。 2003/11/4撮影: 六条八幡宮三重塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 10 同 11 同 12 同 13 同 14 同 本地堂?1 同 2 2007/02/04追加:「古社寺の研究」より 中世、この地山田荘は京都六条八幡宮の社領であり、その関係で足利幕府及び醍醐三宝院(京都六条八幡宮別当は三宝院)の庇護を受け隆盛に向かったと思われる。 三重塔は総高17.42mで和様3手先の組物を用い、塔内の残存棟札には「奉上棟塔一基 文正元年(1466)丙戌3月29日」がある。 なお所蔵の塔柱銅板名には「羽生山山田神社・・・」とあり、少なくも近世は羽生山山田神社の呼称であったとも思われる。また羽生山明要寺は同じ山田荘にある。 |
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331 | 大和百済寺:三重塔は重文 室町期文明12年(1480)建立とされる。現在は三重塔のみを伝える。 慶長頃は東之坊、中之坊、観惣坊、禅覚坊、行瞬坊、賢良坊があり、天保頃は2坊となり (天保12年・多武峯執事華上院宣賀の百済寺縁起による)、 明治維新後は三重塔1基を残し、廃寺となる。現在は中之坊(今は春日若宮社神職)が管理をする。 2000/08/18撮影: 大和百濟寺三重塔01 大和百濟寺三重塔02 2002/07/14撮影: 大和百済寺三重塔1 大和百済寺三重塔2 大和百済寺三重塔3 大和百済寺三重塔4 大和百済寺三重塔5 大和百済寺三重塔6 大和百済寺三重塔7 大和百済寺三重塔8 大和百済寺三重塔9 大和百済寺三重塔10 2006/04/15追加: 「日本建築史図録・室町」より:
大和百済寺修理前三重塔:3重目の屋根も半ば崩れ落ち 、真にすさまじいものであったと云う。 現存する塔の建立年代は不明、様式的には鎌倉中期に造立されたと考えられる。その後の沿革は不詳。寛正4年に屋根瓦造替(上述)、元和5年(1619)屋根葺き替え、延宝3年(1675)修理。 天保12年の「百済寺縁起」:「延宝3年寺塔破壊・・・・妙覚院盛与堂塔修理、同年6月落成三級宝塔之露盤・・・」、初重墨書:「・・・延宝3年修理・・・奉行安養院法印覚梁本願当寺中之坊宥遍阿闍梨・・・」 大正の修理で延宝修理の本願中之坊宥遍の墨書を三重目の屋根瓦下から発見:「奉納百済寺塔九輪宝珠 舎利13粒・・・・」 初重全3間14尺5寸、中央間5尺5寸、両脇間4尺5寸 二重全3間12尺5寸、中央間4尺5寸5分、両脇間3尺9寸7分5厘 三重全3間10尺5寸、中央間3尺8寸、両脇間3尺3寸5分 相輪長27尺7寸、全高76尺8寸 なお、近年まで、当寺は舒明天皇の時代に草創され九重塔が建立されたと伝えられる百済大寺であり、その後、この寺は大官大寺→大安寺として移転を繰り返し繁栄を極めるが、元の地にも細々と存続したとされることが多かったが、現在では百済大寺とする「裏づけ」は殆ど無いという説が主流となる。 ※吉備池廃寺の発見により、吉備池廃寺を百濟大寺とする説が有力となる。 →吉備池廃寺 2013/07/13追加: 大和國百濟寺國寳三重塔:絵葉書、戦前のものであろう。昭和5年解体修理というから、その直後の発行であるかも知れない。 百濟寺は現在無住で、當麻寺西南院兼帯と云う。春日若宮社(実態が良く分からない)が本堂等の鍵を管理している模様である。 本堂は「大織冠」と呼ばれるが、多武峰妙楽寺の社殿を移建したものと云う。本堂は三間四方で入母屋造瓦葺、須彌壇上には毘沙門天像、馬頭観音像、菩薩立像を祀ると云う。 ※多武峰妙楽寺本殿は近世50年程で造替され、享保の造替で、旧本殿が百濟寺に移建される。 なお春日若宮社社務所は中ノ坊坊舎であったと云う。 2020/07/28撮影: ○パンフレット「百済寺三重塔」広陵町教育委員会、年紀不明 及び ○ルーフレット「百済寺」広陵町教育委員会、年紀不明 より ・百済寺縁起:百済大寺を起源とする縁起が記されるが、現在その説はほぼ否定されている。 寺は兵乱により荒廃し、特に室町期には松永久秀の兵乱で衰微する。その後、当地百済は多武峰妙楽寺の寺領となり、百済寺は多武峰末寺となる。(「大和志料」) 天保12年・多武峯執事華上院宣賀の「百済寺縁起」(上述)の内容記載(上述)がある。 明治維新頃廃寺、明治37年高野山真言宗として再興される。現在は三重塔、本堂(大職冠)、中之坊(春日若宮社社務所)が残る。 ・三重塔:鎌倉中期、重文、相輪高8.39m、総高23.27m。(一辺は5.72m/3間14尺5寸) 初重には廻縁を張る。2、3重は勾欄を付ける。屋根本瓦葺。 各重中央間には板扉を嵌め、初重両脇間は蓮子窓、2、3重両脇間は壁、軒は二重重垂木、組物は純和様の三手先。 中備は各重とも中央間だけに間斗束を用いる。 初重内部は四天柱内に須弥壇を置き、本尊金剛界大日如来坐像を安置する。胎内墨書には延宝3年(1675)銘がある。 現存の塔の建立年代は不明であるが、様式的に鎌倉中期のものと判断される。 昭和6年の修理時に発見された瓦刻銘で、寛正4年(1463)に屋根は木瓦葺から瓦葺に変更されたことが分かる。 塔伏鉢には延宝3年(1675)に相輪が造替されたことが記される。また天明7年(1787)には心柱添え木銘から修理が行われたことが分かる。 昭和6年の解体修理以前は三重の屋根は半ば落ち、各重の四隅には軒支柱が建てられていた。なお、2、3重の勾欄は修理の際に追加される。 三重塔正面立面図修理前 三重塔正面立面図竣成図 三重塔平瓦のヘラ書:「木瓦ニテソロ之ヲ土瓦ナスコト/寛正二二年癸未二月十二日吉日ナルヨツテ/是初同五月中ウチ納百済寺之時之/一和将東坊之金剛仏子定弘法師三十七歳」 三重塔伏鉢の銘文:「延宝三乙卯年卯月二日/和州百濟寺九輪、鋳師洛陽三条釜之座近藤丹波掾作」 心柱添木の墨書:「淵口村大工久兵衛源兵衛・・・吉五郎森村・・・/天明七丁未六月十一日」 ・百済寺本堂(多武峰妙楽寺享保造替時本殿:寛政造替時に百済寺へ移建) 方3間で現状は入母屋造・妻入。彩色。三方に勾欄付きの縁を廻らす。 元々は三間社春日造の社殿が入母屋造に改変され、平面規模は多武峰本殿と一致することから、妙楽寺本殿を百濟寺に移転したものと思われる。それ故、本堂は「大織冠」と呼ばれる。 江戸期の妙楽寺本殿は元和・寛文・享保・寛政・嘉永の5回造替されるが、本堂の細部の様式からこの堂宇は享保期のもので、寛政の造替の時、移築されたものと思われる。 なお、本堂登り勾欄の擬宝珠に「百濟寺毘沙門堂嘉永6年癸丑七月再興」とあることから、造替後転用されてから百濟寺へ移建されて可能性がある。 ※この堂は寛政の造替時、多武峰で転用され、嘉永6年に百濟寺毘沙門堂として移建・再興されたということであろう。現に本堂の本尊は毘沙門天であり、毘沙門堂として移建されたのであろう。それが何時しか百濟寺の衰退の中で、本堂も失われ、毘沙門堂が本堂と呼ばれるようになったのであろうか。 百濟寺本堂平面図 馬頭観音立像:本像の容貌は戦国期南都一円で活躍した宿院仏師の作風に似る。なお本像は本堂安置であったが、平成11年の本堂修理工事中に盗難に遭うという。よって画像を掲載する。 三重塔は純和様を用いる。 なお、三重塔及び本堂は北葛城郡広陵町教育委員会に見学(開扉)の申請をし、許可を得れば、内部の見学が可能である。 鍵の本地区の区長が預っているようで、広陵町の指示による区長の開錠によって見学が可能である。
本堂は三間社春日造の屋根を仏堂用に入母屋造に改造しているので、一見異様であるが、仔細に見れば、多武峰妙楽寺本殿の風格を随所に備えている堂宇である。改造なく多武峰に残っているとすれば、重文に指定されてしかるべき建物であろう。 百済寺本堂11 百済寺本堂12 百済寺本堂13 百済寺本堂14 百済寺本堂15 百済寺本堂16 百済寺本堂17 百済寺本堂18 百済寺本堂19 百済寺本堂20 百済寺本堂21 百済寺本堂22 百済寺本堂23 百済寺本堂24 百済寺本堂25 百済寺本堂26 百済寺本堂27 本尊兜跋毘沙門天立像1 本尊兜跋毘沙門天立像2:宝永5年(1708)造仏(台座した墨書) 本堂菩薩立像:室町期の造仏と推定される。 本堂十一面観音立像:本像も室町期の造仏と推定される。 寺中中之坊跡1 寺中中之坊跡2 寺中中之坊跡3:現在は神職が居住するようで、社務所となる。 百濟寺春日若宮社1 百濟寺春日若宮社2 百濟寺春日若宮社3 春日若宮神社はほぼ情報が皆無であるが、祭神は天押雲根命という。 拝殿向かって左手前にはずらりと境内社が並ぶ。拝殿から順に厳島、迎田社、三日月社、日吉社、八坂社、春日社、天満神社、稲荷社であるが詳細は情報皆無せ不明。 さて、天押雲根命といえば、天児屋根命と天美津玉照比売命の間の子という。河内枚岡(平岡)社(元春日)には第一殿に天児屋根命が、第二殿に比売御神として天美津玉照比売命が祀られる。興福寺鎮守春日社では、第三殿に天児屋根命が、第四殿に天美津玉照比売命が祀られる。興福寺鎮守春日社別殿として、若宮社に天押雲根命が祀られる。ここの祭礼「若宮おん祭」は奈良市最大の祭と云われる。 以上から推測すれば、何時の頃かは不明であるが、春日社から春日若宮が勧請され、明治維新の神仏分離の頃、百済寺は廃寺、春日若宮が分離され、社僧中之坊が復飾還俗し、春日若宮社神官となったのではないだろうか。(推測) 2020/10/31追加: ○天明3年「本末并分限御改書」(多武峰妙楽寺の書上」)<「明治維新神仏分離史料巻下」所収> より 多武峰末寺和州広瀬郡百濟村 天台宗百濟寺 本堂本尊毘沙門天 三重塔本尊大日尊 大織冠社并拝殿 小社 二ヶ所 境内 東西49間 南北64間 右御除地外に山林等無御座候 |
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332 | 大和南法華寺 | 重文 |
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大和南法華寺 | ||||||
333 | 美濃神戸山王社 | 重文 | 図1 図2 図3 図4 図5 |
塔は永正(1504-20)年中に建立。屋根檜皮葺き、総高24.7m(露盤まで17.76m)。
一辺3.95m。初重屋根方10、5m・二重方10,2、三重9.02m。相輪は鉄製。唐様の木鼻を用いる。 斎藤利綱が永正年間再建し、天正13年(1585)稲葉一徹が修造したという。 (棟札は天台宗神護寺善学院に残存するという。) 当社の創設については諸説あるが、いずれにしろ最澄・円仁が関わっているとされる。 中世、延暦寺領(平野庄)経営の一環として、延暦寺により山王権現が造営されたようである。 近世は徳川家・尾張家の崇拝が篤く、代々修理が重ねられる。 本殿は、寛永7年(1630)尾張家の寄進による。 未調査であるが、明治の神仏分離で、多くの仏教系の建築・什宝などが廃棄させられたと推測されるが、それでもなお三重塔および多くの仏像等が残存する。 本殿に至る参道の両脇に社僧8坊があった。現在、8坊は全て廃絶するが、その跡は町によって石碑が建てられ、その跡を偲ぶことができる。 →神戸 山王ノ社坊舎配置 美濃日吉神社社務所:中之坊跡 美濃神戸山王社蓮華院跡碑:8坊跡全てに、同形の石碑が建てられている。 ・以下の仏像等が残存すると云う。 十一面観音菩薩坐像(重文、木造、藤原)、十一面観音菩薩坐像(重文、木造、藤原)、地蔵菩薩坐像(重文、木造、藤原)、狛犬(重文、 石造 天正五年(1577) )など多数の仏像などを残す。(但し重文指定の仏像を含め、仏像は甚だしく破損していると云う。) なお、詳細は不詳ですが、神戸に現存する以下の天台寺院が日吉神社に関わると思われる。 密厳寺勧学院・神護寺善学院:いずれも最澄の創建と伝える。 美濃神戸山王社社殿:図5も社殿です。 2008/03/12追加:「美濃明細記」伊東實臣著・宮勝光保[写] 、天明6年(1786) 美濃明細記: 下ノ宮邑勧学院は弘仁8年伝教大師開基、朱印52石余の内善学院に7石、神戸社僧大坊に13石6斗配分、上ノ宮神戸村善学院は勧学院末寺、神戸山王ノ社僧。 |
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334 | 信濃前山寺 【重文】 永正11年(1514)の再建とされる。塔は建久年中に源頼朝によって創建されたと伝える。 一辺3,2m、高さ19.5m。 いわゆる折衷様の塔婆で、木鼻拳鼻を用い、中備は束のない間斗束を三間とも使用する。 新海神社塔婆と同一時期とされ、良く似た雰囲気の塔婆である。ニ〜三重には縁・高欄も窓・扉もなく、胴貫が剥き出しになっている。このため未完とされ、「未完の塔」と呼ばれる。初重の内部は心柱・四天柱はないとされる。 寺は独鈷山(1266m)の山麓に位置し、寺伝では弘法大師の創建と伝え、元弘年中(1331-3)讃岐善通寺長秀上人が来錫し規模を拡大して開山したと言う。中世には塩田氏、武田氏の庇護を受ける。江戸期に智積院末となる。 山号は獨股山又は独鈷山。本尊は大日如来。 2002/09/05撮影: 独 鈷 山 信濃前山寺三重塔1 信濃前山寺三重塔2 信濃前山寺三重塔3 信濃前山寺三重塔4 信濃前山寺三重塔5 信濃前山寺三重塔6 信濃前山寺三重塔7 信濃前山寺三重塔8 信濃前山寺三重塔9 信濃前山寺三重塔相輪 2015/02/24追加: ○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より 初重には心柱も四天柱も無い。 また二重以上にも四天柱は設けられない。これは山城浄瑠璃寺三重塔や信濃新海大明神三重塔と同一の構造である。 三重塔初重内部1:中央に禅宗様の須弥壇を置く。 2022/04/21撮影: 本堂:江戸初頭の建立か、寄棟造、桁行10間、梁間8間、屋根茅葺。 奥の院:未見、岩屋堂と呼ばれ、昔、護摩修行の霊場であったという。現在は岩屋の中に弘法大師が安置される。 信濃前山寺三重塔11:下図拡大図 信濃前山寺三重塔12 信濃前山寺三重塔13 信濃前山寺三重塔14 信濃前山寺三重塔15 信濃前山寺三重塔16 信濃前山寺三重塔17 信濃前山寺三重塔18 信濃前山寺三重塔19:休憩所に掲示写真を撮影 信濃前山寺三重塔20 信濃前山寺三重塔21 信濃前山寺三重塔22 信濃前山寺三重塔23 信濃前山寺三重塔24 信濃前山寺三重塔25 信濃前山寺三重塔26 信濃前山寺三重塔27 信濃前山寺三重塔28 信濃前山寺三重塔29 信濃前山寺三重塔30 信濃前山寺三重塔31 信濃前山寺三重塔32 信濃前山寺三重塔33 信濃前山寺三重塔34 信濃前山寺三重塔35 信濃前山寺三重塔36 信濃前山寺三重塔37 信濃前山寺三重塔38 信濃前山寺三重塔39 信濃前山寺三重塔40 信濃前山寺三重塔41 信濃前山寺三重塔42 信濃前山寺三重塔43 信濃前山寺三重塔44 信濃前山寺三重塔45 信濃前山寺三重塔46 信濃前山寺三重塔47 信濃前山寺三重塔相輪 信濃前山寺山門1 信濃前山寺山門2 信濃前山寺参道 信濃前山寺本堂1 信濃前山寺本堂2 信濃前山寺本堂3 信濃前山寺本堂4 信濃前山寺玄関1 信濃前山寺玄関2 信濃前山寺庫裏 信濃前山寺鐘楼1 信濃前山寺鐘楼2 信濃前山寺明王堂1 信濃前山寺明王堂2 2022/08/28追加: ○「刹の柱 信濃の仏塔探訪」長谷川周、信濃毎日新聞、2011 より 前山寺三重塔立断面図 前山寺三重塔初重内部2:初重内部には心柱・四天柱は無く、中央に禅宗様来迎壁付の須弥壇を置く。 安置される五輪塔は大日如来を表すという。 |
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335 | 信濃新海三社神社 | 重文 | ★永正12年(1515)造営とされる。 信濃新海大明神 | |||||||
336 | 備前真光寺 | 重文 |
室町中期あるいは初期の建立とされ、慶長15年(1610)牛窓蓮華頂寺(廃寺)の塔を移築と伝える。 |
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337 | 但馬妙見三重塔 | 重文 | 妙見三重塔(帝釈寺日光院)・出雲大社三重塔 | |||||||
338 | 三河三明寺 | 重文 | 図1 図2 図3 図4 図5 |
室町期亨禄4年(1531)建立(墨書による)。初・二重は和様、三重が唐様を用いる。全てに彩色を用いない。 一辺2.7m、高さ14.5mの小型塔。3重の屋根のきつい反りは唐様の特徴のようです。 大宝年間(701〜704)文武天皇が三河星野宮に行幸、弁財天を感得し、命により大和橘寺覚淵が創建したと伝える。(寺伝)或は、本尊の弁財天は平安期三河国司大江定基が 愛妃の死を悼み、彫刻したとも伝える。 鎌倉初期、戦火にあって焼失、室町期無文禅師により再興したと伝える。当初は真言宗で、後に現在の曹洞宗に改宗。竜雲山と号す。本殿内の弁財天宮殿は天文23年(1554)の造立で、重文指定。 寺院はほぼ南(南東)面し、本殿に至る参道途中に弁財天宮の鳥居がある。 近江竹生島弁財天(宝厳寺)、江ノ島弁財天に見られるように、おそらくは明治維新には神仏分離の影響があったとは思われるが、詳しい情報は未掌握である。 ------2003/4/10撮影-------- 三河三明寺三重塔 1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 ------2005/01/20追加:穂国在住「S」氏ご提供画像追加:「S」氏は「穂国幻史考」の管理人様 三河三明寺三重塔1:2004/05/16撮影: 鳥居(おそらく弁財天社の)を入り、すぐ三重塔があり、石製太鼓橋を渡り本殿 に至る配置を採る。 同 2:2004/05/16撮影 同 参道石橋:2004/05/16撮影 2006/08/30追加:柴田常恵写真資料:大正末期から昭和初期の撮影 三河三明寺三重塔 |
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339 | 丹後金剛院 | 重文 | 丹後金剛院三重塔 | |||||||
340 | 下野西明寺 | 重文 |
図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 図8 図9 10 11 12 |
天文5年(1537)高館城主益子家宗の建立とされる。一辺3.14m、総高17.6m。 基本的には和様を基調とするが、次のように部分的に唐様を用いる。 初重・二重は和様尾垂木、三層は唐様垂木、軒廻りは初重繁垂木、二・三層扇垂木、隅木は初重のみ和様、他は唐様。初重中央間には蟇股を置く。軒の出は深い。屋根は銅板シコロ葺き。相輪の材質は青銅で九輪の水煙が雲形の連続文様で、伏鉢に「天文七歳二月吉日」の銘がある。 楼門(重文・明応元年(1492)建立・基本的に唐様の建築を思われる。)背面蟇股は大変珍しい形とされる。 西明寺楼門1 西明寺楼門2 西明寺楼門3 本堂は元禄15年(1702)の再興であるが、本堂内厨子(重文・応永元年(1294)建立)は室町期の建築様式を伝えるとされる。 天平9年(737)行基の創建と伝え、延暦年中空海が再興(独鈷山と号す)、鎌倉期最明寺入道(北条時頼)が再び再興(西明寺と号す)したと云う。 2013/01/02追加:「O」氏ご提供:2012/11/20撮影と推定 西明寺三重塔・楼門:2011/03/11の東日本大震災での影響はない模様である。 また楼門の屋根葺替はまだのようである。 2013/03/21「O」氏撮影画像; 西明寺三重塔21 西明寺三重塔22 西明寺三重塔23 西明寺三重塔24 西明寺三重塔25 西明寺三重塔26 西明寺三重塔27 西明寺三重塔28 西明寺三重塔29 西明寺三重塔30 西明寺三重塔31 西明寺三重塔32 西明寺三重塔33 西明寺三重塔34 西明寺三重塔35 西明寺三重塔36 西明寺三重塔37 西明寺三重塔38 西明寺三重塔39 西明寺三重塔40 西明寺三重塔41 西明寺三重塔42 西明寺三重塔43 西明寺三重塔44 西明寺三重塔45 西明寺三重塔46 西明寺三重塔47 2013/12/23追加: ○「O」氏撮影画像(平成初期から平成10年代の間に撮影と推測) 下野西明寺三重塔51 下野西明寺三重塔52 下野西明寺三重塔53 下野西明寺三重塔54 |
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341 | 播磨斑鳩寺 | 重文 |
画1画2 画3 |
室町永緑8年(1565)建立。 基本的に和様で構成され、中世の典型的な和様塔婆と思われる。 一辺4.64m、高さ24.85m。 法隆寺の別院とされる。天文10年(1545)の兵火により焼失、その後赤松氏により再建。 この再興伽藍中、三重塔のみが現在に伝わる。 その他伽藍は近世の再建になる。 播磨名所巡覧圖會:巻之2より:記事:「三層塔(釈迦仏舎利、輪柱に納む)」 斑鳩寺全図(部分図)・・・現存塔婆 (2010/11/05画像入替) 塔頭8坊有(仏飼院、法性院、円光院、双樹院、理教院、常智院、松龍院、円受院) ※現在は宝勝院、仏飼院、双樹院の3院のみ残存。 同 江戸初期境内図:但し現地の案内板の図 江戸初期境内図では坊舎として、 実相院、仏飼院、円光院、双樹院、宝勝院、等覚坊、理教坊、松之坊、東円坊、青林坊、円寿坊、不動院、普門院、西之坊の存在が知られる。 2010/11/05追加: 鵤斑鳩寺:「日本真景・播磨・垂水名所図帖」大正〜昭和初期 |
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342 | 播磨鶴林寺 | . | 室町時代再建塔とされる。文政10年(1827)大改修が行われ、初重はほとんど新材で補強
される。 播磨鶴林寺 |
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343 | 近江長命寺 | 重文 |
画1 画2 画3 画4 画5 画6 |
三重塔は慶長2年(1597)建立。一辺4.85m、高さ24,35m。
屋根杮葺。 初重四天柱内に須彌壇を設置、本尊大日如来坐像及び四天王立像を安置。 塔創建は元応2年(1320)佐々木定綱によると伝える、永正13年(1516)焼失。 寺伝では、武内宿彌当山に登り「寿命長遠諸願成就」の文字を柳の巨木に記し、長寿を祈願したと云い、また聖徳太子が十一面聖観音像を刻み、伽藍を建立すると云う。 承和3年(836)比叡山西塔の別院となる。 永正13年(1516)伊庭氏の兵火により、堂塔を全焼。 大永2年(1522)寺僧の勧進で本堂等伽藍再興、永禄・元亀・天正の兵乱での喪失は幸いにも免れる。 ※但し、元亀4年(1573)信長の兵火により炎上、三重塔などはその後の再興とする記述もある。 元禄5年(1692)の書上げでは、 岩本坊、円明院、妙覚院、修練坊、寳持院、實乗院、眞静院、慈禅坊、教智坊、禅林坊、金乗坊、眞教坊、蓮蔵坊、本行坊、円行坊、善蔵坊、延壽坊、眞蔵坊、宝樹坊の名がある。西国33所31番札所。 長命寺参詣曼荼羅2(長命寺蔵 ・長命寺本:推定室町期) 2010/02/11追加: 長命寺参詣曼荼羅2-1:紙本著色、桃山期、148×165.5cm、MIHO MUSEUM蔵(長命寺本) 長命寺参詣曼荼羅1-1:トレース図、 フグラー氏本のトレース図である。 「忘れられた霊場をさぐる[3]」栗東市文化体育振興事業団、平成20年(2008) より 2010/10/06追加: ◇「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より 長命寺参詣曼荼羅1:紙本着色、ニ曲一雙、161×149cm、P.V.フグラー蔵(フグラー氏本) 長命寺本と同時代かやや時代が早いと推測される。トレース図は上掲。 (長命寺参詣曼荼羅図は2本残る。) ○「忘れられた霊場をさぐる[2]」栗東市文化体育振興事業団、平成19年 より 近江長命寺境内図:参道左右に多くの坊舎跡と明王堂・實光院・禅林院(何れも無住)・眞静院・妙覚院などの坊舎を残す。 ○「敏満寺は中世都市か」多賀町教育委員会、サンライズ出版、2006 より 近江長命寺境内図2:上記と同一図 ○2011/08/02追加:「長命寺古文書等調査報告書」滋賀県教育委員会、2003 より 長命寺参詣曼荼羅2-2:長命寺蔵か、上掲長命寺参詣曼荼羅2と同一のものか。 長命寺境内古図:年代不明 ○現在以下の重文建築を有する。 (2008/10/04撮影): 近江長命寺伽藍1 同 伽藍2 同 伽藍3 同 伽藍4 同 伽藍5 同 三重塔01 同 三重塔02 同 三重塔03 同 三重塔04 同 三重塔05 同 三重塔06 同 三重塔07 同 三重塔08 同 三重塔09 同 三重塔10 同 三重塔11 同 三重塔12 2000/03/14撮影:画1 画2 画3 画4 画5 画6 本堂:大永4年(1524)再建、重文、7間×6間、入母屋造、檜皮葺。 ※画1〜6は左の画像と同一のもの。 2008/10/04撮影: 同 本堂1 同 本堂2 同 本堂3 護摩堂:慶長11年(1606)再建<露盤銘>、重文、方3間、檜皮葺。 2008/10/04撮影: 同 護摩堂1 同 護摩堂2 鐘楼:慶長13年(1608)再建、重文、入母屋造、檜皮葺。 2008/10/04撮影: 同 鐘楼1 同 鐘楼2 2008/10/04撮影: 近江長命寺穀屋寺:山下にある、寺院の経済を担当したと云われる。 同 妙覚院:宿坊 同 眞静院石垣 同 眞静院:有住と思われる。 同 眞静院附近:この附近の石階はまだしっかりするも、中腹はかなり荒れつつある。 同 廃坊石垣1 同 廃坊石垣2:石階は808段と云う。 同 禅林院:既に坊舎は廃墟もしくは倒壊と思われる、竹垣で閉じられる。 同 禅林院窟:禅林院入口横に石窟が残る。 同 實光院:既に廃墟と思われる。竹垣で閉じられる。 同 明王堂:既に廃墟と思われる。立ち入りは可能。 同 明王堂石垣 同 本坊 同 廃坊石橋:實光院の入口を撮影と記憶するも、定かではない。 ○2010/01/10追加: ・西国霊場第三十一番近江国長命寺[絵葉書]、時期不詳(戦前) 長命寺三重塔81 ・近江国長命寺絵葉書:この絵葉書シリーズには、昭和2年に完成し、昭和37年まで就航した「白鳥丸」が写る。 長命寺全景82 長命寺三重塔83 ・「びわ湖の印象/長命寺」写真帳か?、時期不詳(戦前) 長命寺全景84 |
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344 | 山城宝積寺 | 重文 | 大山崎(離宮八幡・寶積寺・相應寺・廃西観音寺) | |||||||
345 | 遠江油山寺 | 重文 | 図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 図8 図9 10 11 |
天正2年(1574)着工。慶長16年(1611)再興塔。嘉永6年(1853)丹塗りに変更。大正9年(1920)杮葺きを銅板葺きに変更。創建は建久元年(1190)源頼朝が眼病全快のお礼に建立したと伝える。本尊:大日如来。一辺
3.6m、高さ23m。三層は唐様と天竺様を用い、一ニ層は和様を用いる。桃山の三名塔の一つと評価される。昭和42〜44年、全解体修理。塔婆は本堂としての薬師堂に上がる階段下に立つ。 医王山薬王院油山寺(真言宗)と号する。大宝元年、行基の開山と伝える。孝謙天皇は、本尊薬師如来に眼病平癒の祈願をされ、全快をもって、当山を勅願寺に定め、爾来、歴代天皇、諸大名の帰依は厚く、源頼朝、今川義元が堂塔を建立したとされる。 ○遠江古迹図会:四:油山の塔:記事 「・・境内に三重の塔あり。俗説に云ひ伝ふ、工藤左衛門祐常(経)の建立と云ふ。上古は工藤建立かはしらねども、中興再建と見えて、三層目升形に書付あり。大旦那久野三郎左衛門尉宗成とありて、その下に京愛宕郡三条座大工鋳物師藤原光政と書す。慶長十六辛亥年とあり。・・・」 油山寺部分図 |
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現存三重塔:室町〜桃山期 2006年以前作成:2022/12/15更新:ホームページ、日本の塔婆
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