長  遠  院  日  樹  上  人

日樹上人供養塔・日樹上人略伝・日樹上人伝・日樹上人墓碑・日樹上人開基寺院

日樹上人供養塔(備中屋守法福寺山内)

長遠院日樹上人は備中黒崎の産である。
下総飯高檀林、中村檀林の能化を経て、元和5年(1619)池上・比企ヶ谷両山15世(復暦)となる。
日奥上人の不受不施義を継承し、関東不受不施派の魁であった。
寛永7年(1630)身池対論にて、信濃伊奈に御預けとなる。
翌、寛永8年配所にて寂す。年58。

○「日樹聖人傳」花田一重編著、原田智詮校閲、日樹聖人遺徳顕彰会、昭和36年
○「絵で知る 日樹聖人伝記」花田一重、日樹聖人遺徳顕彰会、昭和38年 より:
日樹聖人供養塔は備中黒崎屋守法福寺境内にある。
(但し、上記の両著とも「供養塔」ではなく「日樹聖人墓」とする。)

2005/05/04撮影:
 日樹上人供養塔1
 日樹上人供養塔2:法福寺裏手に「日樹上人供養塔」「日仙上人墓」
  と「解読不能?な墓碑」とがある。
 日樹上人供養塔3:左図拡大図
 日樹上人供養塔4
  花崗岩製で総高6尺1寸(約1.85m)、形式は無縫塔。
   塔身5尺3寸、台石廻り4尺8寸高さ8寸。
  明暦2年(1656)、仏乗寺16世法成院日仙上人が、
  日樹上人第25回忌供養として建立という。
   ※裏銘:石塔造立之時節者明暦2年・・右本願仏乗寺日仙。・・・
  昭和37年殆ど忘れられていた「墓所」の整備が行われる。
  ※日仙上人は池上日樹上人の直弟子で法福寺を建立する。
 日仙上人墓碑1:日樹上人供養塔 右にある。
  「妙法 中興開山法成院日仙霊 寛文7年(1667)3月27日寂」
  ※日樹上人供養塔左の石碑はほとんど判読できず不明。

2014/11/23撮影:
 日樹上人供養塔5     日樹上人供養塔6     日樹上人供養塔7
 日仙上人墓碑2
 日樹上人供養塔左碑:上部2文字は妙法と解読している文書があるが、その下は 依然として判読不能。

各地の日樹上人供養塔

1)備中山田お塚(山田隠し墓)
不受不施派の拠点であった備中山田にはお塚と称する不受不施派先師の供養塔があり、ここに日樹上人の名が刻まれている。
 →備中山田お塚(山田隠し墓)

2)備前津島妙善寺
備前津島には不受不施派の拠点であった唯紫庵があり、津島に妙善寺は再興されるが、ここに日樹上人を含む不受不施派先師の名を刻む供養碑がある。
 →備中津島妙善寺

3)武蔵麻布若松寺
 →麻布若松寺<武蔵牛込市谷自證寺中>

4)江戸市野倉長勝寺:大田区中央6-6-5

日樹上人供養塔がある。<2023/05/25訪問するも、記事は後日に掲載予定>
○「新編武蔵風土記稿」には以下のように記すと云う。
「除地1段1畝12歩。八幡宮の並びにあり。法華宗、房州長狭郡小湊誕生寺末、覚應山と号す。開山陽善院日繕上人、開闢の年代を傳へず。二世日言寛文11年入寂すといへば、させる古寺にはあらず。本尊三宝客殿に安ず。」
あるいは、寺伝では正保3年(1646)新井宿村の郷士/田中長勝が檀越となり創建したと伝える。
池上本門寺末であったが寛文年中に小湊誕生寺末に転ずると云う。
 ※「新編武蔵風土記稿」に云う八幡宮とは現太田神社である。長勝寺が別當であったが、明治維新の神仏分離の処置で分離し太田神社と改号、八幡大菩薩像は長勝寺に遷すと云う。
木造八幡大菩薩像は那須与一守本尊といい、昭和20年八幡宮は戦災で焼失するも、長勝寺に遷座した大菩薩像は焼失を免れる。昭和28年拝殿が再建され、八幡大菩薩像は長勝寺より復座する。
○池上本門寺15世日樹上人供養塔
日樹三十三回忌に近在の信徒によって建立と銘文に記すと云う。
○日蓮聖人坐像
木造寄木造り、彩色、玉眼、像高36.7cm。
台座裏銘文では、寛文元年(1661)了性寺の祖師像として、杉本七良右衛門と奉加の人々により、野口彦右衛門が施主となり造像されると云う。
開眼は、大野法蓮寺(下総市川)十八世日完上人である。
 ※日完上人は寛文5年(1665)不受不施の儀により、伊予吉田に配流さる。 →谷中感應寺中に日完上人記事あり。
 ※本像は、了性寺祖師像として造立されるも、了性寺が不受不施として弾圧され、おそらくは同派縁故の長勝寺に遷されたものと推定される。
2022/08/10追加:
○日樹上人供養塔  現地説明板 より
笠塔婆型の供養塔
寛文3年(1663)日樹33回忌を期して近在の信徒集団によって建立される。
流罪の後も、池上周辺(特に市野倉)では不受不施信仰が根強く存在していたことを示す遺産である。
昭和6年の三百回忌に際し、池上本門寺16世に復暦する。
長勝寺Webサイトから:
 長勝寺日樹供養塔1     長勝寺日樹供養塔2
供養塔表面には次にように刻む。
       寛文三癸卯年
   奉唱満題目二千部成就處
   妙法蓮華経 両山第十五世日樹聖人
   第三十三箇廻忌之増進佛道祈者也
       五月十九日

※本碑には両山15世とある。今は復暦16世とするも、本来は両山15世と思われる。
現在、池上14世は自證院日詔、15世は中正院日友、復暦長遠院日樹、16世心性院日遠とする。
寛文3年当時日樹は15世との認識であり、なぜ復暦16世なのかはよく分からない。
※日友:元亀元年(1570)生まれ。日新について出家、下総飯高檀林に入檀。同檀林の化主をへて元和3年(1617)両山15世となる。
元和5年(1619)6月14日寂。50歳。著作に「法華玄義捃釈」など。

 →下総沢日講万部石塔中;日奧・日樹・日述石塔あり。
 →下総坂ガケラントウ墓地:日蓮・日奥・日樹・日述・日遣供養塔あり。


長遠院日樹上人略歴

天正2年(1574)、備中国浅口郡黒崎村に生まれる。
 俗名は作兵衛、吉田家の生まれで、吉田家は元近江の郷士で後この地に移住、以降代々庄屋の家柄であった。
天正19年、日樹18歳で、仏門に入る。師は仏乗寺15世日英上人。
 ※「天正10年第15代、妙智院日英上人、住す。池上本門寺日樹上人の師にあたる。慶長16年遷化」
    :黒崎村屋守仏乗寺「過去帳」
下総飯高檀林に学ぶ(当時の化主は蓮成院日尊上人・後に池上13世)。
文禄3年(1594)江戸土冨店長遠寺を創建する。(「土冨店長遠寺略縁起」)
 ※但し、この年紀は日樹が若干20才の時であり、実際の長遠寺創建の年代はもっと後年と思われる。
下総飯高檀林、中村檀林の能化となる。
元和5年(1619)池上本門寺・比企谷本門寺貫主となる。
  →池上本門寺
  →池上本門寺日樹上人五輪石塔・元和元年十一重層塔・寛永3年十一重層塔
2020/04/07追加:
 寛永3年(1626):年紀は推定:日樹が智妙院日圓に宛てた消息(最上稲荷妙教寺蔵)が残る。
  妙智院日圓宛池上16世日樹消息:妙教寺奥の院(一乗寺)住職ご提供画像の転載、
   日樹花押と妙智院の宛名が見える。日圓は日樹弟子という、日圓は妙教寺を中興する。
寛永7年(1630)身延池上対論(身池対論)。
同年、幕府は六僧に以下の申し渡しを行う。
 池上日樹信濃伊奈に御預け、徒党の出家衆は追放、日奥は対馬へ流罪・・・などが申し渡される。
  ※徒党の出家とは:中山日賢は遠州横須賀、平賀日弘は伊豆、小西日領は奥州相馬、
   碑文谷日進は信州上田、中村日充は奥州岩城に追放。
  ※日奥流罪は日奥は既に示寂している故に、死後流罪と云われる。
 「身池対論」についての概要は下記のサイトを参照。
  「不受不施派『身池対論』」:日蓮宗不受不施派代々の篤信者である「正之」氏作成ページ
寛永8年配所にて寂す。年58。
 信濃飯田の日樹上人墓所
  上記、「不受不施派『身池対論』」に日樹聖人の墓所(信濃飯田)の写真 の掲載がある
   ※信濃飯田羽場元山白山社権現堂境内にある。五輪石塔<寛永20年(1643)日樹上人>
     13回忌に行円院日利上人建立と云う。

    → 備前法華の系譜身池対論・寛永法難の項など参照。
    → 備前祖山妙覚寺22世
    → 直下に「日樹上人伝」を掲載
2023/10/24追加;
○「日樹聖人傳」原田智詮・花田一重、昭和36年(p.31) より
正覚寺(※下総島)信徒宇井農夫雄氏蔵、日樹上人遷化の記録には「五月十九日申刻」と記す。

2021/11/09追加:
○「霊寶殿 池上本門寺の御霊宝と文化遺産」池上本門寺、平成21年(2006) より
池上本門寺蔵日樹曼荼羅本尊:
 池上本門寺蔵日樹曼荼羅本尊
  年忌は寛永第八辛未暦ニ月六日:1630年、授与者は以下津屋金左衛門尉所○とある。
   ※授与者は判読できない部分もあるが「下津屋金左衛門尉○○」であろうが、不詳。
2019/09/16追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
日樹の著書は「身池対論記録」、「留意要」三巻(「観心」を論ずる)などがあるも、宗学上には特記すべきものを見ない。

2023/08/13追加
日樹聖人真筆十界勧請曼荼羅
○「日樹聖人傳」(花田一重編著、原田智詮校閲、昭和36年)>第7章 信州伊那へ流謫 より
 本章には85体の「日樹聖人真筆十界勧請曼荼羅」の一覧が掲載されている。p.69〜
その中から、寛永7年の「日樹伊那御預け」以降では次の10体の「曼陀羅本尊」が記されている。
 日樹の生涯の授与した曼陀羅本尊の数は夥しいものであろう。3名の方に調べて頂き、現在丁寧の保存されているものだけで85体に及ぶ。
信州謫居中のものはその由が記してある。
  3名の方:釋日學師侍史、小山可新師、千葉県多古町飯田勝治
また、博多妙典寺所有の本尊は日樹主筆で、日賢・日弘・日領・日充の名も記され、日進は欠くが、別に流罪の日延の連署がある。
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 ▶寛永7年5月6日 常信院妙友日通信女(町苅田近藤寛)
 ▶寛永7年5月16日 六同志連署曼荼羅 信州伊那郡飯田書之 板山八左衛門吉員・浄蓮院日衛 57歳日樹(博多妙典寺
  「日樹聖人の研究」所載
   ※下に掲載の長遠院日樹上人伝>(2)<日樹主筆>六師連署の曼荼羅 がこれに該当する。
    →日樹主筆曼荼羅本尊:寛永7年・・・・「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、昭和51年 <p.77> より
    →池上日樹本尊(日樹主筆曼荼羅本尊)の詳細については、備前法華の系譜身池対論の項中にあり。
 ▶寛永7年6月14日 信州伊那郡伊田書之 浄行院妙承日雄感得之(法泉寺)
 ▶寛永7年9月13日 於信州飯田郷 磯崎弥五兵エ浄養院宗祐(妙覚寺)
 ▶寛永7年9月13日 御乳人教明院妙琳信女(御津町中泉相沢孝太郎)
 ▶寛永7年10月13日 信州伊那謫居刻書之 大乗院日達(千葉県岩部 石橋武右衛門)「日樹聖人の研究」所載
   ※下に掲載の長遠院日樹上人伝>8)謫居の日樹に遺る消息(6)十界勧請曼荼羅 がこれに該当する。
 ▶寛永7年10月13日 信州伊伊那郡飯田安清(千葉県島 熊澤久吉)
 ▶寛永7年10月28日 信州伊那飯田郷謫居刻 室町山本惣左衛門尉(妙覚寺)
 ▶寛永8年2月19日 左遷之刻書之 花房志摩守殿氏女心徳院日鳳(横浜市 門内佐太郎)「日樹聖人の研究」所載
   ※下に掲載の長遠院日樹上人伝>(5)十界曼荼羅 がこれに該当する。
   ※花房志摩守職之については
    →備中和井元妙立寺、 →備中中島妙玄寺、 →備中高松最上稲荷妙教寺 等 に記載あり。   
 ▶寛永8年2月19日 信州伊那郡飯田郷□□寺書之(久米郡久米南町下弓削 沼本金吾)
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長遠院日樹上人伝

○「伊那郷土文化10 日樹上人の研究」山田居麓、山村書院版、昭和16年 より

     ※※ 日樹上人の事績については 備前法華の系譜身池対論・寛永法難 にも掲載あり。


 日蓮宗不受不施派管長 釋 日學
「著者・山田居麓は日樹流謫の地に誕れ、上人を追慕することまことに篤く、上人の事蹟を顕彰せしことを畢生の業となす。」


 山田居麓
「・・・今、(日蓮宗)建宗以来迫害の下に終始した法華宗もその後半を見ると、・・・全く佛教として痕跡を見ないに等しく・・・。
即ち室町末期から徳川期に於ける法華宗(日蓮宗)は・・・日蓮建宗の真髄(特異性)は失われ、信仰には絶対禁物の「打算」的となった現実性の濃化が見られるのである。・・・」

日樹上人畫像
 日樹上人畫像:日契筆:備前妙覚寺蔵;左図拡大図


 史蹟池上の墓

1)序 説

 寛永7年の「身池対論」は、明らかに徳川幕府の宗教政策に立脚した政治的裁断を以て、不受派を処断したのである。
否、その幕府の裁断の裏には正系(宗祖の法制)から逸脱し、世俗に汚濁した身延の画策があり、それが幕府の裁断となる。
そして不受不施派の頭目であった池上・比企谷両山貫主長遠院日樹は、伊那郡飯田郷の「池上」の地に謫せられ、・・僅か一年の後・・遷化され、荼毘して納骨されたのである。・・・
日樹は一歌を詠んでいる。
 「温知集」によれば、上人は信濃國に配流となり甲州通り御来駕、諏訪郡蔦木宿にて一歌を詠ず。
  名にしあふ蔦木の蘿(かずら)こころあらば しがらみとめよ流れゆく身を

 明治15年「羽場耕地協議留」によれば、
明治9年不受不施派再興、日樹墳墓改葬、備前國津高郡金川村龍華教院へ分骨 とある。
分骨を見聞せし翁の直話によれば、「分骨は古墳の北方の石垣中央部を崩して堀り入れ、中心地点にありし方2尺余の平盤石を起せば、下には石槨の造られ其の中に骨壺の安置され在るよる、凡そ半量を分かち新しき骨壺に納めて持ち行けり云々と。」
以降、岡山からの消息は耐え、明治36年の頃岡山の本山より金光日壽(後の管長)が来錫、木製燈籠を献ずる。

 法華宗(日蓮宗)衆徒は・・時の為政者から又宗の門流から迫害を受けたことは枚挙に遑ない。
特に徳川氏に至っては、・・・不受不施のごとき硬骨主義は、政策として禁圧し且その撲滅を期した為に、受不施派は却って之に便乗し、該派排撃に活躍し得る機運となり、・・甚だしい殉教者を出したのと該派に関する史料は殆ど地上から失われた憾みがある。

 明治8年不受不施派公許出願せしにあたって、当時日蓮宗一致派管長受不施身延山新居日薩は「不受不施ト申スハ・・・学者一種ノ異見ヲ相立テ・・・既ニ教義上ノ議論ニ非ズ交際上ノ議論」と三回に亘って公許反対の具申を行っている。

2)建宗の妙判は謗法不受施なり

 次に各種解説書に記載されている既知のことであるが、○分派譜、○法統略系を掲げる。

○分派譜
●法華宗    
  所依経典:法華経八巻(28品)
無量義經1巻(開教)
観普賢經1巻(結経) 他。
法華經28品の所説は権実本迹を出ず、権は謂く九界・三乗、実は謂く仏界・同乗、本とは久遠の成仏、迹とは果後の施化なり。
而して前14品は権を開して実を顕す是を迹門と云う、後14品は迹を払いて本を顕す是れを本門と云う。
    ◆一致派
      本門迹門双用の説を云う。
  ◇不受不施派
          古来の宗規と教範を守りて謗法者の施物を受けず、謗法者には施さざると爲すにあり。謗法とは法華経を信ぜらる者を謂う。
            ○不受不施派
              派祖は日奥、文禄4年大仏殿供養の時初めて謗法受施を生ず、日奥独り古儀を守って受けず遂に流罪に処せられる。
寛文5年徳川氏の為に禁止さる。日講と対立した日堯(日指派)の系統である。備前祖山妙覚寺
            ○不受不施講門派
派祖日講は日奥の法弟なり。寛永3年山城に生まれ、7歳の時日奥寂後の法弟として日習に師事する。
長じて野呂檀林能化及び妙興寺に薫す。寛文6年寺領と供養の混誤を論じて官の忌避に触れ日向土佐原に探され、元禄11年謫所に寂す。   →安国院日講
◇日蓮宗
甲斐身延山茂原藻原寺の初祖日向、現在は池上中山(中山門流)・四条妙顯寺六条本圀寺が大本山、その他39ヶ寺を本山という。
         
    ◆勝劣派
      本門勝り迹門劣るの説を採る。
        ◇興門派
          派祖は日興、富士大石寺(日目)による。重須本門寺西山本門寺京都要法寺(日尊)・保田妙本寺がその系統。
◇本成寺派
派祖は日印、越後本成寺(日陣)、京都本禅寺が本山である。
        ◇妙満寺派
          派祖は日什、日什は正和3年奥州瀧澤に生まれる。叡山慈遍僧正に学び玄妙と称し羽黒山在住の19歳の時、法華の正法に道入し名を日什と改め顕本法華の一派を創む。79歳寂、京都妙満寺が本山である。
        ◇八品派
派祖は日隆、京都本能寺尼崎本興寺両山が本山。
        ◇本隆寺派
          派祖は日眞、京都本隆寺を本山とす。

○法統略系
○日蓮 ┬日朗 ┬日像 ―妙實 ―朗源 ┬日霽 ┬日明 ┬日具
 (妙顯寺)
               
    |   |      |  └日隆
 (八品派)
└日眞
 (本隆寺)
               
  |   | └日實
 (妙覚寺)
―日厳
(備前法華)
  |  | └日成 ―日遵 ―日延 ―10代略 ―日典 日奥 ┬日堯
    |  |                   日講      
    | └日輪 ―日山 ―日叡 ―日行 ―4代略 ―日現 ―日惺 ―日尊 ―日詔 ―日友 日樹      
  ├日興
 (興門派)
                           
  └日向 ―日進 ―日善 ―14代略 日重 日乾 日遠 ―日祝 ―日要 ―日深 日暹        

「そもそも日蓮上人立宗の眼目は勿論法華経にあって、折伏逆化と不受謗施と国家諌暁との三大制規に依拠し、以って教義の広宣流布に終始したことは、現在の遺文465章を通じて随所に見得る事実である」
例えば、「聖愚問答集」、その覚悟は「開目抄」に見られる。
「強烈な意志と信念を以って、迫害に耐え諸難を忍受した不惜身命の生涯こそは、げに後代の門流にその軌範を垂示されたものと謂うべきである。」
「日蓮上人開宗当時は勿論であるが、以降連々と発出した迫害に於いても、立場が弱者であるが故に之を甘受したが、綿々たる信仰からの弾力は念々と強者を凌いで屈しなかった。その強烈さは基督・回教のそれにも劣らなかった。そこに聖にして尊いものをみられたのであるが、それが終には、少数な不受施の教徒にのみ沈潜的に底流した処の清い血潮であったのである。」
「それなに、(身延)の門流は・・・徳川氏の宗教政策に譲歩し苟安して、700年の後半を過ごした感がある。」
即ち、受施か不受施かはその物質概念的議論の前に、対衆が謗法か信法かの主観的乃至客観的の事象を根本とせねばならないことを知るのである。

3)謗法不受施の消長

 法孫日像は永仁3年(1295)から元享元年(1321)迄27年間京都伝道の大業をなす。
   日像上人略伝
その後、足利氏の時代となり、室町中期の頃は妙顯・妙覺をはじめとする21ヶ寺本山を中心として、洛の内外130餘ヶ寺の一大勢力を形成し、叡山や本願寺と対立し、屡々刀仗の中に、他宗排撃の祖旨紹復を実力に示して、優勢を占めていた。蓋し、この頃が京都における同宗の全盛期であった。
  京都21本山
室町期に於けるこの門流の殉教者は永享年中の於ける本法寺日親が挙げられる。
  久遠成院日親上人京都本法寺
本法寺日親は日蓮の立正安国論の倣い、立正治国論を以って将軍足利義教の秕政を諌暁して、前例のない焼鍋を冠するの酷責にも屈せず、禁獄5百有3日、水火湯鼎の拷問28種、その他を加えて20余度、極惨の刑、凄絶の難、この大迫害を忍受して倍々堅剛の道心を発揮したことは、如何にも強烈な殉教精神として後代の亀鑑であるが、義教が先考義満の為に修行した千僧供養には洛中の法華宗一同は宗義を堅持して参加を肯じなかった。
 一方関東に於いても伊豆三島本覚寺の日出が鎌倉に進出し、妙隆寺日妙とともに街頭に立って、宗義を粛清他宗折伏、管領持氏の下剋上を諷諫した為、永享8年(1436)「日蓮宗禁制、法華堂悉皆破却、違背の場合は所領没収、地下人は斬首、法師は遠島」の制札を立て、実行に移さんとするも、民心同様の危惧など察し、禁令は撤回される事態が発生する。
 何れも、凱歌は期せずして、法華宗側に上がるも、これは足利幕府権力の衰退を示すと同時に殉教の強い意志が貫徹したということでもあろう。
 宗祖の遺弟である日朗・日興・日向等はその遺訓である規範はともに遵奉した。
次いで日像・日什・日隆・身延11世日朝等のおいても不受謗施の宗制を堅持したことは言うもでもない。
降って寛正7年(1466)には、一致・勝劣両門流共同し、京都の16本山は「謗者の供養は受けざる事」との盟約を結ぶ。

天文法華の乱:天文5年(1537)
 遠因は都に於ける法華宗の隆盛と、それを笠に着て母体となった天台への攻撃が烈火し、天台との確執が昂じていたことであるが、直接の発端は、当時将軍不在の都は管領細川晴元の支配下にあったが、天文元年(1532)晴元と対立した本願寺(一向一揆)が入洛する構えを見せ、晴元は法華一揆と同盟してこれを防御し、翌年には山科本願寺を焼き討ちする。
これに対し、天文5年、敵対する山門はその僧兵を用い近江の佐々木氏・六角氏の援軍を得て武装した洛中の法華宗(法華一揆)寺院の攻撃を開始する。いよいよ両者は数日各処に展開し、双方多数の戦死者を出し、妙覚寺日兆・小倉中将公右・卜部兼永などは戦死、結果は悉く法華宗側の敗戦となり、21ヶ本山及び洛中の62ヶ寺全て烏有に帰し、貫主法類などは悉く堺に退避する。その劫火は漸く応仁の乱から復興した京の街区を再び焦土とする。法華宗は暫く堺に謹慎する。
 天文11年(1542)後奈良院より帰洛及び再興の勅許が下され、順次再興が為されるが、帰洛できた本山は15ヶ寺にとどまる結果となる。これ沈衰の兆しならむ。

安土宗論:天正7年(1579)
 武断政治家織田信長の佛教弾圧の権術に陥って、宗祖以来の気概や宗風は去勢されて強盛な宗風に終止符を打つ端緒になった慨がある。
宗論と称しても、実はこれは信長が法華宗門を圧殺すべき目的遂行の所謂調略であった。
信長の宗教政策には、新来の耶蘇教を保護しそれを以て天下を経綸する新しい力に利用しょうとする好奇的野心を蔵した一面には、軍政上の邪魔ものである古い佛教(浄土宗は別)を憎んだ結果、叡山は焼く、本願寺は討伐して制圧した。法華宗は宗論に事寄せ調略的罠にかけ致命的打撃を加えるものであった。
 事の発端は山城八幡本妙寺普傳院日門が安土へ進出、法華宗を布教、篤信の大脇伝内、建部紹智らが助力し、改宗帰依者が続出したため、浄土宗側が脅威を抱いた為、密かに信長の狙っていた機会へ符合したのである。
浄土宗の巨匠貞安は信長の謀旨を受け、・・突如頂妙寺日b、妙覚寺常光院の日諦、久遠院の日雄(後に日淵と改名)を出頭せしめ、安土浄厳院にて浄土対法華の御用宗論を厳命する。
  山城の日蓮宗諸寺>山城八幡本妙寺/普傳院日門
  京洛頂妙寺>安土宗論
に有るがごとく、法論は、論の優劣ではなく、当初の謀略のとおり、法華側の返答が一瞬遅くなった一事を以って、浄土側の勝と決す。
報告を受けた信長はただちに命令し、日b・日諦両師の衣を剥ぎ取り、両師の面前で日門・大脇を斬首(脱出した建部は後でとらえられ惨殺)し、敗北の負証文を買うように厳かに命ずる。
この要求は、安土に駆けつけるも既に拘束されている百余人の僧侶・信徒の命とのバーター及び拒否の場合の宗門破却の条件付きであり、三師は忍受する。
この時、三師は軟弱であったと批判を浴びる。
確かに、汲むべき事情があるも、これが宗内の主張を一変する導火となった遺憾はある。

4)文禄の受と不受の対立

 既に信長の強圧政策によって全く去勢されてしまっては、将軍義昭から与えれらた元亀3年(1572)の折紙(祖師以来の不受不施の堅制の認可)もまた信長からの天正5年(1577)の下知状(祖師以来の不受不施の制法認知)も、今は自ら反故として慴伏したのである。
 信長没後の天正17年(1589)秀吉(民部卿法印玄以)からも先規通りの下知状が下されるも、宗風が委縮している現状では、ほぼ意味をなさない紙切れと化していた。
秀吉が5ヶ年を要し竣工せしめ、寺領10000石を付した京都東山妙法院に於いて、廬舎那木佛(大仏殿)に対し、文禄4年9月より、毎月先祖菩提の為として千僧供養を行うこととなる。
  於大仏妙法院殿、毎月太閤様為御先祖御弔、一宗ヨリ百人宛、彼寺出仕候、勤メラル・・・・以下略
                                         民部卿法印玄以
    法華宗中
 この時の様子を記する典籍は7、8種類あるが、享保写本「梅花鶯囀記」から引用すると、
法華宗本寺は対応を協議する会合を度々開く・・・本満寺日重が老僧・重鎮であるからこの判断の分別を任せらることとする・・・例え太閤といえども謗法者の供養を受ければ祖師のご法度を敗ることとなる、もし辞退せしば公儀のおきて流罪か死罪となさるべし・・・受諾か拒否かは、両者とも至難のことなれど、分別するに、祖師の制戒を一度破り一度出仕を遂ぐべし、扨、次の出仕には出仕の放免を訴求するべし・・・終には、本国寺の会合で右のような談合相きわまる。
 この時日奥31歳、「合点参らず。・・千僧供においては、前の義教将軍の時、祖師の制戒にて国主の御供養といえども受け申し事成り難しと法華宗一同言上すれば、御聞き届なされ・・・尤もの事なりと御折紙下され御放免なされ候・・・・祖師の制戒を守り不惜身命の行を立つべし・・談合はこれあるべきと・・・然らばそれがしは出仕を致さず・・・と妙覚寺へ帰られたとある。
 太閤は法華の信者にあらず即ち謗法者なり、謗法者の執行する法会に莅みその供養を受けることは宗祖の教旨に違背することなり・・・
22日の六条本国寺の会合では、大仏殿出仕の儀は極めて不詳の事なりと雖も、太閤の厳命黙止難し。・・・一度は命に応じて出仕し、翌日より事情を訴え宗制を守るに如かず・・と決する。
日奥遅れて会議の席に至り、祖師の制戒を守るべしと滔々と議論しければ、これに賛同するものも有らざりしも、大多数はこれを退け、大仏殿出仕に決したり。
25日打連ねて出仕したりしが、翌日より之を拒み宗義を守るの説に実際には履行されず、供養は引き続き行われて慶長19年に至れり。
これにより、日奥の不受不施と受不施は大破裂を見るに至れり。
 日奥は一巻の諌状を太閤に提示し、宗内軟派の迫害を慮り、夜陰妙覚寺を出でて、栂尾、鶏冠井に潜居し、後も玄以法印の領地丹波小泉に隠棲してよりは、宗祖の霊蹟を訪拝し、更に軟派破析の舌下は少しも納めることはなかった。

 日奥は父を辻藤兵衛と称し、永禄8年京都に生まれ、10歳の時具足山妙覺寺の日典に侍して本化の妙法を稟け、18歳本門の大具足を授けられて安國院と号し、27歳の天正19年妙覺寺を相続する。
 太閤没後、慶長4年11月20日伏見城にあった家康は、軟派(頭目は本満寺日重、その法弟日乾・日遠)の嘆訴によって、日奥を伏見城に招致して、千僧供養に出仕せしめんとす。諸侯列座の前にて、賺し、難じ、脅せしも、意思を覆すすべもなく、遂に公意抗拒の名の下に決定せられるや、軟派は雀躍蝟集し、日奥の袈裟を剥奪したと伝えられ、翌慶長5年6月対馬へ流謫される、時に36歳。
 対馬では藩主宋氏が監する建前であったが、家老柳川豊前守などは好意を持って遇したという。されば島内宮谷の奥、瀧本に小庵を結び、これを本浄清心院と称し、随行の法弟鷲山院日箋が近習して、在島13年の長きに渡り、法友の慰問や信徒との文通もあり、また「断悪生善」「圓珠眞偽決」諌暁神明記」「研心鏡」「御雑記」などの著述をなす。
  佛性院日奥上人

 関ヶ原役後、世は家康の掌握するところとなり、豊臣氏によって続けられた千僧供會は、慶長7年の大仏殿焼失をもって終りを告げる。
家康も将軍職を秀忠に譲り、慶長17年6月日奥は赦免、妙覚寺の本坊に帰還するも、軟派との融和には至らず。
(内訌の当初は池上佛乗院日惺や瑞龍院が縷々手を尽くすも、不調に終わる。瑞龍院は九条兼孝の母堂というも良く分からない。)
しかし、博多勝立寺唯心院日忠の上洛斡旋によって、融和が成立する。
  博多勝立寺・日忠
この調停はスムーズに進み、同年6月21日四条妙顕寺日紹は諸寺総名代として妙覚寺に出向き改悔の法會を実施する。
同月27日諸寺の貫主が妙顕寺に会合、日奥も列席して、多年の紛擾を解く。
 元和9年将軍秀忠は先例を容れ、所司代板倉勝重をして、次の折紙を下す。
  法華宗中之事、祖師以来の制法によって、他宗の志を受施せず殊に諸勧進以下之を出さざる儀尤も其意を得候。
  向後京中へ勧進の儀申出の旨これありと雖も、当宗の儀は先規を例に任せ相除くべきの状如件。(原漢文)
   元和9年癸亥10月13日
                                        板倉伊賀守勝重(在判)
      法華宗眞俗中
以上の公認に基づき、京都法華宗一統は次の盟約を作成する。
 此度板倉伊賀守殿継目の折紙について衆會を遂げ重々談合仕り先規に任せ申請の上は諸寺一統たるべく候此の儀に於いては毛頭私の異議有間敷候共連署如斯候以上
  元和九年癸亥十月二十日
連署した寺院は
 妙覺寺(實成院、本立坊)  妙顯寺(法音院、増長坊)  寂光寺(信行坊)
 本法院(常光坊)   妙蓮寺(芳徳院)  本隆寺(安住院)  本国寺(龍華院、一乗坊)
 本能寺(吉祥、圓光坊)  妙満寺(成就院)  要法寺(信行院)  妙傳寺(最上院)
 頂妙寺(覺立坊)  本禪寺(本寂坊)  本立寺(東陽院、玉蔵坊)  本満寺(玉持坊)
の15本山、20院坊であった。

以上の紛訌とは関係ないが、家康は常楽院日経を弾圧する。
 慶長5年上総土気善照寺常楽院日経は千僧供養の醜態を慨して、関東10ヶ寺と謗法の濁りを濯がんことを誓い、上洛し妙満寺貫主となる。
日経は尾張美濃を巡錫、謗法折伏を行い、迫害を受けること5回、遂に慶長13年浄土宗より問答を挑まれ、江戸城に法弟5名と出府する。
この時の弾圧・圧殺は
  →常楽院日経 を参照
家康の暴力は、日経の敗北を宣告し、京都に移送六条河原にて日経は耳鼻削刑、法弟は鼻削の後追放される。
日経は丹波知見谷に入るも、追われ若狭越前を漂浪し加賀に入り、信者である加賀藩老臣三輪長好に敬待されるも、幕府のしる所となり、加賀も追われ、越中神通川付近で示寂する、61歳とも70歳とも言う。また回国中10ヶ寺を創建したともいう。

5)寛永の対立再燃過程

 元和9年不受派と受派の対立は、法施を受けた側の改悔を持って和解はしたが、祖法の遵守か一山の永続かと問われた時、為政者の機嫌を損じぬことが大切、即ち理念より現実を可とする方向転換が身延山に芽生える。従前京都で紛訌した問題が関東に移って再燃したのが身池対論である。
その時の身延山は大仏殿事件の張本人本満寺日重の法弟日乾・日遠が貫主として相次ぎ、現住は日暹であった。
 関東に於ける事の発端はお萬の方(落飾して養珠院)であった。
養珠院の弟に紀伊の家老三浦長門守為春がいて、為春は深く日奥に帰依していた。それ故日奥は為春に法華謗施禁断の条目などの書を与える。ところがこれが身延の日乾の眼に触れ、日乾は釈明の一書を作る。
またこれが日奥の眼に触れ、日奥は「禁断謗施論」を書き、その邪義を論破する。
たいして日乾は日遠と図り「破奧記」で応酬する。
そこで日奥は更に「宗義制法論」3巻と「門流清濁決疑集」を著わし、身延山不参詣などと説き、さらに養珠院に乾遠の邪義に加担しないように求める消息(寛永3年)を認める。
 しかし、養珠院は却って立腹し、日奥を憎み、反動として乾遠を益々保護するようになる。
 当時、池上の貫主は日樹であった。
先住は佛乗院日惺で不受論者であった。日樹はその統を継ぎ、日奥を敬信し、その法弟と交信する。
例えば、日奥の直弟子安国院(日習)、住善院(日定)宛の日樹の書簡(掲載は省略)が残る。

 この頃の身延山は規制が全く廃れていた。しかし、関東の諸山はなお謗施不受の制規は次の通り維持されていた。
1、慶長7年(1602)9月29日伝通院(家康生母)葬儀(小石川壽経寺)関東諸寺は諷経は勤行するも供施は受けず。
1、慶長12年3月5日松平忠吉(秀忠舎弟)葬儀(芝増上寺)池上日詔など諷経はせしも供施は受けず。
1、元和2年(1616)4月17日家康薨去(仙波北院)池上日詔、身延日遠など関東諸山諷経はせしも供施は受けず。
1、寛永3年(1626)9月15日崇高院殿(秀忠夫人浅井氏・家光生母)於芝増上寺、池上日樹・身延日深・関東諸山・京都諸山総代妙顕寺日饒など諷経は勤行するも供施は受けず。
1、寛永7年3月4日興安院殿(家光姉・京極若狭守室)於小石川伝通院、池上日樹・身延日暹関東諸寺諷経は勤行するも供施は受けず。然るに日乾・日遠は内謁に事寄せ政権に阿媚せんとする醜態往々ある故、日樹は苦言し反省を促すも、「破奧記」を持ち出し反駁してきたので、日樹は身延を無問山と罵り排撃する。このことにより江戸は勿論関東一円の法華僧俗は身延を離れ、参詣者が激減する。
 狼狽した身延は養珠院を頼り、酒井讃岐守などとともに、密かに不受派の弾圧の準備を始める。不受派僧侶の調査、寺社奉行による不受派の内偵などである。
以上が身池対論の発端である。
 日樹などの身延論破により、いよいよ身延は衰退の一途を辿り、その劣勢を挽回すべく遂に寛永6年江戸瑞輪寺に身延一派が会合し、談合する。
その結論は、身延日暹より寺社奉行へ不受派断罪の訴状を提出するというものであった。
まさに、宗論に俗世の政治権力の介入を促し許容する行為で、宗教の自殺行為というべきであろう。
 身延の訴状の骨子は次の通り(原漢文)
1、秀吉の妙法院門跡に於ける千僧供會の時、日奥はこの供養を受けるは謗法堕獄の罪業と主張するも、これは妄説である。この妄説は、大阪城内の対決で既に東照大権現神祇によって断罪済みである。しかるに池上日樹はかの邪義に組し、身延山に対して謗言加え、当山を滅却せんと欲す。
1、池上日樹、国主(将軍)の供養は是れ謗法の施なるが故に愛用すべからず云々の異計を立つ。
1、千僧供養より日樹独り異義を立て、身延は是れ謗者、池上は是れ信者と、攻撃を加う。
   寛永6年2月26日
                         久遠寺沙門日暹
 この提訴後、池上の外護者などが調停を試したこと、養珠院が池上大塔(大堂か)造営を妨害せんと暗躍したことなどがある。
 (これは岡山蓮昌寺からの見舞状に対する日樹の返翰に記されている。
 池上の外護者とは賀州御袋様<壽福院・前田利家室、三代前田利常の生母>、養珠院は紀州御袋また和歌山之袋魔・・・此度大堂造立之防障被致候・・・として表現される。)
      能登妙成寺壽福院日榮
      池上本門寺>壽福院逆修塔
 翌寛永7年身延よりの訴状に対する返答書の提出の督促が幕府よりある。
日樹は「返答池上本門寺住持日樹謹而言上」(漢文)を提出する。
 骨子は次のとおりである。
祖師日蓮は・・不受不施の法制を立ち、殆ど300余年となる。然るに身延先住日乾は誤って新義を立て、而も他宗の供養を受くることを許し、遂に宗旨の法理を破す。
1、秀吉妙法院門跡に於ける千僧供を修す。日奥堅く制法を守り貴命の応ぜず、遠島に謫せられしと雖も、故相國様(家康)・・・放免を蒙り旧寺に召喚され、すでに板倉伊賀守殿上意を得奉り、・・・不受不施の御折紙被成下畢んぬ。・・・・
1、身延住持の曰、国主賜ふ田園是れ供養の施。云々、世法と仏法と仁恩と供養と帰依と不帰依と混乱す甚だ以って誤り也。・・・・・
1、省略
 日樹の答駁書と身延の訴状とには甚だしい懸隔があり、茲に身延池上の対論の幕が開かれることとなる。

6)日樹の記録に見る身池対論

寛永7年2月21日江戸城中に召され、酒井雅樂頭役宅にて身池対論が行われる。
判者:
 天台・天海大僧正(南光坊)、禪家・崇傳長老(南禅寺)、他に天台4名
奉行:
 酒井雅樂頭忠世、土井大炊頭利勝、島田弾正忠利正(寺社奉行)、外多数列座、林大学頭道春法印、林家儒臣永喜法印
池上:
 武州池上日樹、中山隠居日賢、下総平賀日弘、小湊前住・小西能化日領、碑文谷日進、中村能化日充
身延:
 身延前住日乾、身延前住日遠、身延当住日暹、上総藻原日東、伊豆玉澤日遵、鶏冠井心了院
正午に問答が開始。
 (問答の要諦は省略・・・・・・)
  池上の問に対し、<身延閉口>の記述多数あり。
 最後の奉行衆の次の宣告がある。
「今日は理非決断の沙汰無之。重ねて御披露に及び御意を乞うべく・・・」云々で、猶、三問三答の記録の提示せらるべしとの御下知あり。
時に未の刻(午後2時)であった。
 以上を受け、身延日暹より第1回の難問書が池上へ送付される。
主要論点は折紙の有効性であった。
日樹はただちに答駁書を身延に返す。
 (詳細は省略)
これに対し1ヶ月にならんとするも、身延方からは何の返答も無かった。
思うに、身延方は文書の応酬よりも養珠院などを通じ、裏画策などを画策していたのではないだろか。
一説のこの対論は身延方の敗を認めて、乾・遠・暹の三師を遠島流罪との内議もあったが、養珠院の内抗を斟酌してこれは沙汰止となりしか。果たして真か偽か。
「お萬○○の毛江戸迄届く。江戸で三艘の船を繋ぐ」の俗謡がある。

三問三答の下知に関して、身延方より答駁がないので、日樹は次の訴状を出す。
(要旨)
1、身延方より祖師の立義相破られ、相論じ申事に候、双方の記録を御糾明を遂げられ下さるべく候。
1、権現様・御所様御下知を以って不受不施の義御折紙下し置かれ候上は、永代その上意を御披露に預るべく候。
   寛永7年3月21日
                                池上本門寺日樹
 その後、将軍家光は、天海・崇傳・道春・永喜・老中と謀議する。
結果、最早対論の勝負などに触れず、只家康の裁いた先例を以って之を律するに決する。
4月2日日樹等六僧を召喚して次の申し渡しをする。
     池上日樹違目之事
1、池上日樹今度申立候不受不施之儀は先年権現様邪義と聞召、日奥遠島に流罪仰付られ候然處に唯今其御捌き違背申、亦不受不施之儀申出候事不届に思召さるるに付きて、日樹は信濃國伊那え御預けなされ徒党の出家衆は追放の事。
1、板倉伊賀守折紙有之由、この折紙の文言の儀嘗て御覚え成されす候事。従(たと)ひ伊賀守一札有之共権現様御捌き成され候處を翻へし申立候儀曲事に被思召され候、其の上一札の年号月日相違の處不審に被思召候事。
  (一札の年号月日相違:一札は元和9年10月13日、添状と称せしは同年霜月21日なりし、その相違か。)
1、日奥儀は伊賀守御侘事申上候について御慈悲を以って御前に召出され候處に、今度張本人として権現様御捌きの旨違背致し。不受不施の義日樹に申立の為書物以下相渡し候、再犯の處別而曲に被思召候、日奥を最前の如く袈裟衣を剥ぎ取対馬え流罪に被告仰付候事。
    寛永7年卯月2日
此の判決を以って板倉伊賀守の折紙は預おくと没収され、4月5日何れも江戸より退去を命ぜられる。
日奥はこの年3月10日京都にて示寂する。
 以上の身池対論の顛末は主として万代亀鏡録日樹の手記によるが、この対論の記録の記録には幕府書役建部傳内の筆記というが東武実録に所蔵されている。
それには、日樹閉口云々の記述もあり、聊か池上方敗北を匂わせる。但し、この記録は幕府への忖度である可能性は高い。
 かくして、身延日暹は「・・・日樹及徒党を閉口せしめ、彼ら曲事たるべく仰せ付けられ、安心して弘通せよ」と門末一統へ通告する。その得意や思うべしである。
 →備前法華の系譜>身池対論・寛永法難

7)處分後の動静と日樹等の閲歴

 身池対論の処断後、幕命をもって池上は日遠を、京都妙覚寺は日乾を住持に補す。
4月22日日遠の晋山は武装を以って行われ、養珠院もこれに隋伴する。
悲憤の餘り、日樹法弟十如院日僧、仙國院日仙、華蔵院日由は自坊にて自害、他の数僧は裏門より何處ともなく退去したと伝える。
日遠は、その後、池上・比企谷の院坊同宿小僧、末寺、院坊の新発意(ほつい・発心)等に対して「日樹の法理は邪義である云々」の連判起請證を強要する。
これにより池上本門寺を思いのままに処理し、追っては日樹を歴代から除歴する。
 次に京都妙覚寺であるが、末寺岡山蓮昌寺から日奥の寂後を薫していた日船は日乾入山の報を聞くと、憤然一山の大衆30余名を率いて、紫竹浄徳寺へ退去する。
ここで、不受不施妙覚寺再興の誓約(寛永7年6月14日)を為し、離散し、自身は備前へと退去する。
この誓約は明治の時代に不受不施派本山妙覺寺が再興された因由である。
  本寿院日船上人略傳/妙覚寺再興の誓約
  M本寿院日船聖人の350遠忌に思う
○長遠院日樹
 信濃国伊那郡飯田脇坂安元預り。
○中山隠居日賢
 寂静院と号す、中山16世、曾ては中村能化。遠州横須賀井上河内守正利預り。
対論後、三河岡崎に追われ毛尻に蟄居せしも、井上河内守正利が智徳を慕い、幕府に請うて遠州横須賀に迎え、亡父正就の菩提のため一宇を建立し開基となし、寂静山本源寺と号し優遇する。在住15年の後、寛永21年8月24日62歳にち遷化する。
  遠江横須賀本源寺
○平賀日弘
 了心院と号し、平賀15世、追放に遭い、伊豆戸田港に閉居せるを、後に沼津公その学徳を惜しみて、ここに一寺を与え長谷寺と称し帰依浅からず。在住19年慶安元年8月7日69歳にて示寂する。
  伊豆戸田長谷寺
○小湊前住日領
 守玄院と号し小湊16世より、小西正法寺6世とない檀林能化となる。佐渡塚原に追放されしも、奥州相馬氏の家老池田次郎左衛門日領を深く信仰し、主君を通じて幕府に乞い、これを奥州中村に移して、日領を開基として法王山佛立寺を建立しこれに住せしめる。
(はじめ佐渡、のち奥州中村相馬藩池田次郎左右衛門尉直介(大膳亮義胤)預け。)
慶安元年12月23日在住19年にして77歳にて寂する。
  陸奥相馬中村仏立寺
○碑文谷日進
 備前の産、修禅院と号す、碑文谷法華寺11世、信州上田に追放(信州上田仙石越前守政俊預け)されしが、眞田公はその学徳を惜しみ、一寺を建立し、修禅山妙光寺と称し、日進を開基とし、日進はそこに住する。在住實に34年寛文3年4月22日遷化す。寛文6年不受不施禁制になり、受派に転づるも、日領の木像が今に伝えられる。
  信濃上田妙光寺
○中村能化日充
 天正3年下総中村に生まれ、幼年にて中村檀林に入檀、遠壽院と号す。正東山日本寺8世、能化となる。
追放(奥州岩代平内藤帯刀忠興預け)後は奥州岩城に閉居、在住21年、慶安3年5月19日76歳にて入寂したとのこと以外、今は何等伝える處がない。
  中村檀林岩城平窪田の寺地庵室(日充の庵)日充上人墓所

養珠院
紀州頼宣、水戸頼房の生母である。日遠を深く信愛する。舎弟は三浦為春で、紀州頼宣の付家老となり15000石を有す。
 ※為春が日奥の教化を受けたことは前述の通りである。
 元和9年(1623)亡父・正木頼忠の菩提を弔うために了法寺(紀伊国那賀郡上野山村)を建立、寛永4年(1627)には妙善寺(江戸麻布桜田町・現存)を建立。また、両寺の開山は小湊20世日為である。
 なお、了法寺は不受不施義であったが、寛文の惣滅/寛文6年(1666)に嫡男・為時が天台宗に改宗、紀伊東照宮別当天曜寺の末寺とされる。また、了法寺は慶安3年(1650)に紀伊国名草郡坂田村に移転。
 養珠院は17歳で大奥に入るというも確証はない。家康薨去の時は40歳、容姿端麗で資性聡敏で万時に細心であったという。承応2年(1653)77歳で歿す。
  養珠院
身延前住日乾
 寂照院と号し、永禄3年越前に生まれる。本満寺日重に学ぶ。鷹峯檀林(常照寺)を開基、元和6年養珠院の為に駿河蓮永寺を再興する。身延21世。妙覚寺入山後の寛永12年(1635)76歳で遷化。
身延前住日遠
 元亀3年京都に生まれる。本満寺日重に仕え、得度、心性院と号する。慶長9年(1609)身延に晋山、出でて大野本遠寺開基、再度身延に晋山22世とする。身池対論後池上を継ぐ。寛永19年(1642)71歳にて示寂。
身延当住日暹
 智見院と号す、天正14年生まれ、日遠に学び、鷹峯檀林化主となり本満寺に晋山(16世)、寛永5年(1628)身延26世となる。慶安元年(1648)53歳にて遷化。

池上日樹
 天正2年備中國浅口郡黒崎に生まれる。
生家は宇喜多秀家の老臣戸川土佐守の家臣の家と伝えられるも確証はない。
ただ、戸川土佐守正安の父・肥後守達安が池上寺中永寿院を開基・大檀越であったので、日樹は肥後守達安との関係が深かったと推測される。
   → 戸川氏については 備中庭瀬不変院>庭瀬藩 を参照
日樹は池上の學室に入り日尊(日詔ともいう)に就き得度する。
學なって中村檀林6世能化に挙がり、上総行川妙泉寺に瑞世し、池上14世中正院日友の滅後、元和5年池上・比企谷15世貫主となる。
 (16世というは初代に宗祖を充てていうなり)
日樹は日奥に対し、先輩としての交わりだけでなく、私淑し且つ景仰したいたことは例えば日樹の消息等で知れる。
 (消息は割愛)
なお、池上と備前、備前と不受不施との関係を見る為、池上の日樹の数代前を示す。
11世佛乗院日惺
 天文19年備前福岡に生まれ、天正9年池上貫主となる。慶長3年示寂。5ヶ寺を開基、始終不受不施を信条とし、嘗て京都内訌の時この調停を試みる。
12世蓮成院日尊
 永禄元年京都に生まれ、甫め本國寺日モノ仕え後日惺の付弟として修学する。下総飯高檀林初祖となり、さらに池上・比企谷に晋山・46歳にて遷化。日奥と志を同じくし、日樹の師である。
13世自證院日詔
 永禄12年備中山田に生まれる。學なり小西2世能化となる。池上に瑞世し五重塔を建立する。日奥対馬にあるのを書簡で慰める。元和3年49歳で示寂する。子の日大いに花が降り、備前では今も「花降り日詔」と敬傳するという。
   備中山田お塚(山田隠し墓):自證院日詔墓碑、自證院日詔略歴あり

8)謫居の日樹に遺る消息

 信濃飯田に謫居するも、すでに中風を病み、僅か1年で示寂し、この地には何の消息も留めなかった。
ただ、日樹墳墓地及び西隣(結庵跡と伝ふ)一帯を古来池上平と称するは、ここに結庵せし日樹はその地勢が武州池上に酷似せるを頗る愛好せしより生ぜし地名と伝承する。
さて、この地に僅か1年と雖も、今所々に所蔵される当地に於いて発せし書簡・揮毫・授与せし曼荼羅を示す。
  ※より詳細は「日樹聖人真筆十界勧請曼荼羅」を参照。

(1)住善院の慰問状に対する返翰
 (寛永7年5月15日)妙覚寺住善院宛て
   (省略)
但し、「尚々小湊日延師も対決問答の時不罷出、煩さきと申され候へば、其義ならば擯出に及ばざるの由被仰へ共、日延方より同罪に被仰付候へと所望にて、七人の内に成られ候と相見へ申し候、伊勢國一柳監物殿御知行之内へ行かれしと相聞へ申候、・・・」ある。
    小湊誕生寺>日延上人
 ※住善院:妙覚寺大檀越後藤元乗の子息にて、日定と称す。日奥の直弟子で、後堺経王寺8世に瑞世し、不受を堅持する。

(2)<日樹主筆>六師連署の曼荼羅・・・日樹真筆
  日樹主筆六師連署の曼荼羅・・・・・本図は○「伊那郷土文化10 日樹上人の研究」山田居麓 より転載。
 寛永7年5月16日信州伊那郡飯田書之 板山八左衛門吉員、浄蓮院日衛(2名であるか、同一人の俗名と法名であるのかは不明)
 現在の所有者は博多妙典寺・西村観誠。
    筑前博多香正寺
   ※本曼荼羅は上記の日樹聖人真筆十界勧請曼荼羅>▶寛永7年5月16日年紀の本尊に該当する。
 篤信の信者が各謫居地を慰問し連署を得たものと思われる。但し日進を欠き、その代りかどうか日延の連署になっている理由は不明。現所有者の西村師も明治の始め妙典寺の檀徒大塚平三(元豪商の網屋)の寄付ということ以外の伝はないという。
 日延は身池対論に於いては「煩わしい」という理由で参加を拒むも、対論の後では六師と同罪を望み、伊勢に自ら赴くという。
日延は朝鮮國人で、加藤清正に捕らわれて来朝する。時に彼は4歳、姉は7歳という。姉は後に戸川土佐守に嫁したという。(正室かどうかは不明)
日延は慶長9年以降、六条本國寺・下総日本寺に勤學し、寛永4年小湊18世を継ぐ。江戸白金覺林寺を開山し、後筑前に再渡し秋月本證寺2世に瑞世する。晩年は故国を偲んで玄界灘に面した海浜の地に妙安寺を建て、隠棲する。寛文5年(1665)77歳にて寂する。
なお、筑前に下りては受不施に転向したとの噂があり、小湊ではこれを除歴するという。
   小湊誕生寺>日延上人、武蔵白金覺林寺>日延上人
   --------------------
   ※この「日樹主筆六師連署の曼荼羅」とは別に「前六聖人連署の大曼荼羅」が知られる。
   この「前六聖人連署の大曼荼羅
     ・・・・本図は○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦 より転載
   については下総香取郡栗原町岩部の石橋家蔵であり、
   大乗院日達が前六聖人を巡歴して岩部の信徒に与えたものである。
      →詳細は備前法華の系譜中の身池対論・寛永法難の項中にあり。
   --------------------

(3)十界勧請の曼荼羅・・・日樹真筆
  寛永7年日樹「十界曼荼羅」
 寛永7年10月10日信州伊那郡飯田書之、授与者の名前なし、現所有者:岡山市・三木虎次

(4)小形之曼荼羅・・・日樹真筆
 寛永7年霜月23日 授与者:小島助右衛門宗助、現所有者:岡山市・平尾某

(5)十界曼荼羅・・・日樹真筆
 寛永8年2月19日前同上左遷之刻書之、授与者:花房志摩守殿子女・心徳院日鳳、現所収者:横浜市・門内佐太郎
 花房志摩守職之は助兵衛と称し、戸川達安と同じく宇喜多氏の老臣で、共に主家を出て徳川氏に属する。
   ※本曼荼羅は上記の日樹聖人真筆十界勧請曼荼羅>▶寛永8年2月19日年紀の本尊に該当する。
   ※花房志摩守職之については
    →備中和井元妙立寺、 →備中中島妙玄寺、 →備中高松最上稲荷妙教寺 等 に記載あり。

(6)十界勧請曼荼羅・・・日樹真筆
 寛永7年10月13日信州伊那郡謫居刻書之 授之:大乗院日達、現所有者:千葉県岩部・石橋武右衛門
 この曼陀羅には寛永10年の「据書」がある。
 これによれば、日達は備前から2回謫居を訪問し、2回目(寛永8年)の時は日樹は既に病臥し示寂したのを見送ったものと推定される。後年、日達は下総へ転じたと伝えられるから、この曼荼羅もかの地へ移ったのであろう。
 以上のほか、謫居中に授与せしむ曼荼羅の、備前妙善寺及び同地方にあるを伝聞するも、まだそれを明らかにすることを得ず。
  ※本曼荼羅は上記の日樹聖人真筆十界勧請曼荼羅>▶寛永7年10月13日年紀の本尊に該当する。

 日樹遷化後、その遺弟を激励し、消息を伝えるものに生前の盟友頂妙寺日遵の書簡がある。
 (その全文の掲載があるが、これは割愛する。)
ただ、この書簡は宛名の部分が失われていて、宛名が不明である。書簡中に「御両人様ともに」とあり、例えば、師の十三回忌建塔の行圓院日利及び日樹の画像を描きし日契などの日樹直弟子などに宛てたものであろうか。また書簡中の「一味院」とは日契の院号ではないだろうか。
 日樹逝去に伴い、謫所では密葬であったが、遺骨埋葬などの措置をして日利は謫所の庵に留まり、日契などは大乗院とともに善後策を講じるべく備前に同行し、後には日樹の遺志であった下総同信の結束を行う為、日達(大乗院)・日遵は下総方面に下向したものと推定する。
 次に、日尊は日樹の七七忌(四十九日)の法要を自ら勤行する。その日尊の安国院(日)宛の消息が残る。
  (消息は省略)
日尊は身池対論の論場には出なかったが、日樹示寂後は京都に於ける不受派の中心人物だったと思われる。
日尊は長遠院と号し、洛の頂妙寺、小湊誕生寺、江戸自證寺などに瑞世し、晩年下総玉作檀林を興し、承応3年(1654)11月11日示寂し「諌迷論」の遺著がある。
    →日遵については長遠院日遵上人を参照。

 不受不施なる宗制は法華宗の沿革より見て、毫に邪義異端ではなかった。されば、身池対論後も、幕府の干渉も無く禁じられたことも無かったのである。
 関東・京洛と云わず不受施を信奉する寺院は受不施より多く、池上や小湊や妙覚寺などは身延に対立した独立の本山であったのである。
就中、備前法華は法統を池上・妙覺寺と同じ日朗系で、日朗の法孫(日像の法弟)大覚大僧正妙實が西国に弘教したのに始まる。備前の領主松田・浦上・宇喜多等皆之を信奉し領民に強制もしたのである。
 しかしながら、江戸初頭備前を領した池田光政は儒教を重んじ、佛教を弾圧する。
寛文6年(1666)両備の池田氏領内の1044ヶ寺・僧侶1957名中の内、不受派313ヶ寺・僧侶585名、外に天台・真言250ヶ寺・僧侶262名を廃絶せしと伝える。
  →日蓮宗不受派に関する弾圧の全容は「寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」に集約される。

9)不受施派弾圧と地下の法燈

 身池対論の後の情勢に於いて、なお、不受施派は西では両備・美作、東では両総・安房に中心を有し、一般衆徒も不受を正統とし、頗る強勢であったが、身延は只衰運を引き留めたという不振であった。
それ故身延は又々官権に縋るべく、寛永8年から寛文2年迄の32年間に哀訴すること7回、このほかに谷中瑞輪寺をして毎月3度口上書を以って寺社奉行に訴求を行ったという。
 寛文元年、身延の哀訴により、池上・中山・茂原・玉澤・六条本國寺・妙覚寺の6寺は本寺・末寺とも身延の末寺たるべきこと、平賀・小湊・碑文谷は本寺末寺とも不受施の法理を守るべしとの公認を下し、身延の訴意の半ばを入れる。
しかし、身延は次に執拗にも、寺社奉行加賀爪甲斐守忠澄(これは忠澄の嫡男直澄の誤であろう)と気脈を通じ、「地子寺領は公儀より三寶崇敬の御供養として賜る」との令達を一般寺院に願いたいと訴求する。これは巧妙な罠であった。
果たして、寛文5年(1665)幕府から各宗に「是迄地子寺領は仁恩(国王の恩)として下されたが、今後は三寶の供養として下さる」、従って「地子其他飲水道路迄御供養と奉存候」との受書を提出すべしとの布達を出し、且不受施寺院から寺請状を出すを差し止める。
これは不受施寺院にとっては、受ければ宗制を汚濁し、受けねば公命違背を以って寺員破却の外はないので、不受施寺院の多くはついに受書を出し、屈服することとなる。
この中で、下総野呂妙興寺貫主・野呂檀林能化安国院日講は同志と共に之を拒否し、身延日奠を批判の「破奠記」を著わし、寛文6年佐土原へ配流され、他の同志も夫々流罪に処せられる。
    備前本覚寺>安国院日講
    備前法華の系譜>日講の記事多数あり(日講でページ内検索)
    備前法華の系譜>寛文法難
 身延はこれにより大体の目的は達するも、不受施派の中には領主からの寺領は「佛教三田(貧・孤に供す慈悲田、主・親に対する恩田、佛に対する敬田)」の内の悲田とする説を立て、宗制には差支えなしとの立場をとるものがあった。
それは天和・貞享の頃のことで、小湊日明、碑文谷日禪、谷中日純などである。
 身延はまたも訴状をもってそれの撲滅を図ったので、元禄4年幕府は「不受不施の儀は兼ねてより御禁制の候、然處小湊誕生寺・碑文谷法華寺・谷中感應寺等悲田宗と称し、不受不施の邪義を相立候に付き、今度悲田宗堅停止仰出らせ候」との再禁令を敷き、広く諸大名・旗本にも命じ領内の検察をも行わはしめる。

寛文6年以降、純正なる不受施派は禁制とされ、地下に潜行することを余儀なくされる。弾圧すればするほど潜行的に強熱の度を加え、脈々と宗祖以来の清規は持続され、徳川時代を経過する。この法燈の浄光は備前地方が最も強かったとかと思われる。
 ※蓋し、池田光政の弾圧が最も苛酷であったのがその一因かとも思われる。
 備前の地下伝道は江戸期の迫害に抗じた史実の連接であるから、これを知りおく必要がある。ここに早川玄洞氏の所述に依拠して以下に叙することとする。
 一般信徒は表向きは受不施を装い、内實は不受施の清僧に帰依して信仰を続けるものが多く、備前ではこれを所謂内信者と称した。
一方、幕府は寺院を使って宗門改め(戸籍の管理)を巌行したから、表面だけでも受不施や他宗を偽装することも嫌って、帳外者(無籍)が続出した。これを法立または清者という。この清僧を中心とした法立(清者)との一連を法中とも清派と称し、あくまで謗法の混濁を避けたのである。この場合、内信は濁派と呼ばれた。
 清僧は法立以外の供養は断じて受けない、例え内信であろうとも外濁であるから、供養は法立を通して行われた。
この手続は施主立と称され、きわめて厳格のため、後日講門派などが分立したのは、これが因を為したものである。
 公儀厳禁の下に潜行する宗派故、その組織の維持・継承は困難を極める。多くの逸話が伝えられるも、それは割愛する。
そして、如何に多くの殉教者を出したかは、今これを求める術はなく、而も江戸番町邊三千石の旗本進藤五郎右衛門の邸内にあって、40余年間不受施僧の潜在所であった自證庵には不受の廃寺自證寺に秘蔵されていた多くの記録が保存されていたというが、天保法難の時破滅とともに失われたという。
    江戸牛込自證寺

不受不施派との関係
 日蓮宗の中でも不受不施派と呼ばれる集団は、日蓮宗以外の者から布施供養は受けるべきではなく(不受)、信者ではない者に布施供養を施してはならない(不施)、という立場を取り、日蓮宗の信者ではない江戸幕府に従う事を拒否し、寛永7年(1630年)の身池対論(不施不受の影響下にあった池上本門寺とこれに批判的な久遠寺の代表が江戸城内で論争を行った事件)以降、同派はキリスト教と同様に禁止・弾圧政策が取られたが、その後もいくつかの寺院は不施不受を貫いた。
 ところが、寛文年中にあたって寺領の安堵を受ける事を巡って寺領の安堵を拒否する意見と寺領は慈悲であって布施ではないとする意見に分かれ、前者を取った寺院はこれを口実に弾圧の対象とされた。後者は悲田派と称されて存続が許されたが、結局元禄4年(1691年)に改めて不施不受が全面禁止となった際に改宗をさせられることになった。

 「殉教列名録」大正末年、岩藤春暁師編輯、諸所に遺存する過去帳の断片より編輯 では次のような殉教が挙げられる。
蓋し、信徒の殉教者に至っては数万人の多さに達するであろうという。
身池対論以降では
1、寛永12年上総野田(上総法華)本門山本覚寺不受施僧恕閑(蓮照院日浄)十文字原にて僧俗6名磔刑、寺は焼き払い。
    常楽院日経
1、承応元年平賀日述以下6僧、夫々流罪に処せられる。
1、萬治3年若松妙法寺日尚等正法を堅持、2僧は三宅・大島に遠島、8僧は諸家へお預け。
    ○「日什と弟子達−顕本法華殉教史」窪田哲城、山喜房佛書林、昭和53 があるが、未読。
1、寛文8年備前矢田部の殉教、僧俗6人死刑、その他の女・子供28人の親族は流罪。
1、元禄4年悲田派僧侶75人を伊豆諸島・肥前五島に流し、小湊・碑文谷・谷中の3本寺を天台宗の改宗する。※小湊は誤。
1、元文3年上総七里法華の地で、浪人行信不受施流布、信者831人を強制して改宗。
1、天保9年大阪高津の不受施庵室を焼き払い、庵主日宣以下を斬殺す、この時全国の不受僧は殆ど捕縛される。
以上の他、寛文6年から文久3年の間で知られている不受施僧侶の殉教者は以下という。
 死罪:5
 自害:12
 遠島:121
 断食憤死:16
 御預・追放:42
 毒殺:2
 入牢(牢死は別):31
 牢死:29

    備前法華の系譜>寛文・元禄以後の主たる法難

村々には次のような高札が掲げられる。
   定
 きりしたん并ニ不受不施宗門ハ累年御制禁たり、自然不審成りもの有之ハ申出へし御ほうひとして
  はてれんの訴人  銀五百枚
  いるまんの訴人  銀三百枚 ※宣教師
  立かへり者の訴人 同断   ※一度棄教したものが再び宗門に立ち返ったもの
  同宿并宗門の訴人 銀百枚  ※邪宗門の布教を補助するものと一般の信徒
 右之通可被下之たとひ同宿宗門之内たりといふとも訴人申出品によりあらハるるにおいてハ其所之名主并五人組一類ともに可被処厳科者也と仰出候右弥堅可相守者也

10)餘 録

 日樹池上本門寺在住中、日樹の銘誌銘文を刻して建立されてた石塔が5基尚境内(内1基は比企谷にあり)に現存する。
1、十一層塔
 元和8年建立、高1丈8尺ほどなりしならんも、関東大震災にて倒壊、今は下層六層をのみ存ス。
2、五輪塔
 寛永3年閏4月3日建立、総高94尺。
 (右)釋迦牟尼佛
  (正面)寛永第三年丙寅
      下総古河妙光寺
(正面)妙法蓮華経
  (正面)第十祖日宗
      閏卯月三日
 (左)多寶如来
 (裏面)日樹(花押)とある。
   台座側面に多数願人(両総)の法名を刻む。
3、十一層塔
 寛永3年7月5日建立。高1丈8尺ほどなりしならんも、関東大震災にて倒壊、今は上層ニ層を失ふ。
4、宝篋印塔
 寛永6年正月4日建立、是も震災によって蓋石の上部を失う。
  台座正面銘
残れる部分の総高は約7尺5寸。失われし部分には妙法と刻されしと見へ、のこれる部分に蓮華経の3文字を刻する。その判読し得る部分は
 夫妙法者是心也心如工畫師造種々五陰、三界唯一心外無到、法心能造地獄乃至造佛界、依法正報皆依心造矣、有二種曰理曰事矣、如佛再・・・・
この銘誌はなお裏面から右側へ接続しているが、風化し、僅かに次の9字を読み得るまでである。
 ・・・初後無別矣。日樹誌之。
     以上は「池上本門寺日樹上人五輪石塔・寿福院逆修十一重層塔・正応院逆修十一重層塔
5、五輪塔(在比企谷妙本寺)
 元和10年6月12日建立、総高12尺。
これは加賀太守母堂日榮夫人の逆修塔で、台座には200余の日樹銘誌が刻まれる。要点は日榮が両山の造営に尽された篤信を称賛する内容である。但し、現今では劣化であろうか、判読が難しい部分もあるようである。

○墳墓及び草庵跡のこと
 日樹墳墓五輪塔:境内とする地所は公簿では3畝35歩という。
  五輪塔台石の刻文
荼毘の地は、古来灰塚と称し、墓域より約1町東方の畑地にある。凡そ6歩の除け地であった。明治の末年頃は雑草に茂に任せる状態であった。
墓碑の西は草庵跡と伝えれるところで、幕末ころまでは羽場百姓の仲間株と称する林野であったが、その後個人有となり現在は桑畑である。
ここには、今は墓碑の前に移されたが、次の4基の無縫石があった。
1.中央に題目、信源院妙信日勤靈尼 と刻し、両脇には承応3年、甲牛9月5日 とある。但し、日勤尼とは不詳である。
2.中央に題目、右:行圓院日利、左:8月19日とある。年号はない。
3.他の2基は無銘である。内の1基は「爺の墓」と称し、江戸より日樹に隋伴して来た飯炊き男の墓なりとの口碑がある。
○経塚及び供養塔の事
墓碑の境内が竹林であった明治の中頃まで、墓から西へ約5間に一小丘があり、丘上に老大杉が建ち、これを経塚と称していた。
明治27年老大杉は伐採され、丘上には題目碑が建てられ、その傍らには日樹の遺詠「名にしあふ・・」の歌碑を建てる。大正4年のことである。
 また、墓域内に経王、妙典、妙経、結要各千部成就、眞浄院、妙法院その他の文字が刻まれた自然石の供養塔(高4尺5寸、幅3尺ほど)がある。石質悪く判読に苦しむが、僅かに寛文3年と思われる年号と、裏面に「施主吉田茂右衛門」「日勝(花押)」の文字を読みとることができ、これらを総合すると、寛文3年は日樹の33回忌の正当し、吉田茂右衛門とは領主脇坂安政の家臣で、80石を給された人物と思われ、この人の信施によって日勝が日樹の祥忌に対して修要された供養塔及び経塚ではあるまいか。
○日樹遺品説に関する事
 近年、日樹の遺品と称するものが3点現れる。
1.木彫僧形恵比寿、下伊那郡三穂村下瀬日蓮宗大泉寺蔵(現飯田市下瀬)。総高7寸7分、裏には日蓮と刻する。
2.甲子大黒、元は上飯田浄土宗阿弥陀寺蔵。像高6寸、裏に日蓮開眼と刻する。
3.小銅磬、上飯田浄土宗阿弥陀寺蔵。右肩に「為師匠慈善院日迎大徳菩提也」中部に「施主圓明院日暁」左肩に「池上宝蔵常住」とある。
 下瀬の旧家上松氏は日樹の帰依していたので、この3点の遺品が持仏庵に納められる。持仏庵は承応3年日証を開基として大泉寺と称し、当時は不受施派であり、後年受派に転ずるという。明治年中小泉寺は屡々無住の時があり、時折遍路の六部などが泊まったので、何時しか、2と3は持ち出され、転々として阿弥陀寺に納まったものだろうという。
 今、遺品と断定することはできないが、木像2躯は江戸初期のもので、日蓮の刻銘は怪しく、3の銅磬は室町初期のものと推定され、池上の常住とあり、日樹の携行せし遺品と見てもあながち、不当ではないだろう。
○備前の本山と保存会の事
 明治36年日壽が使僧として来村し、墓前に燈明して以来、昭和4年まで、本山より毎年若干の燈明料を供進され、当地の特志者は一日も欠かさず常夜燈を勤めた。
大正3年有志者24名によって石造螳螂を献じたのを機に、池上古跡保存会が結成され、今も隆盛である。
○史蹟指定の事
 大正12年日樹上人五輪塔は京大教授天沼俊一の實査の結果、日樹上人の事績は日本佛教史上特筆すべきものまた五輪塔は桃山期の標準の特徴を具える故、長野県史蹟に指定される。
○参百遠忌建碑と団参の事
 昭和2年本山管長日壽が日樹bの墓参をする。
昭和5年5月日樹300回忌には記念碑を備前より運輸し建碑し、岡山・東京・千葉より信徒およそ160名僧侶8名の団参が行われる。


           ----- 日樹上人伝 終り -----



日樹上人鉾持桟道題目石

 2022/04/20高遠遠照寺を訪問、その時、遠照寺住職から「高遠に日樹上人の題目石が遺存する」とのお話をお聞きする。
その時は由来とか詳細な場所についてお聞きすることはできず、またその後の調査でも、具体的な情報は得られず、うやむやなままであった。
 今般、下記に示す著書から、残餅桟道に題目石が遺存することが判明し、そして、この題目石が日樹由来の題目石であることも判明する。
遠照寺住職談の「高遠の日樹上人題目石」とは、この「日樹上人鉾持桟道題目石」を指していたことが判明する。
  ※※本題目石は現在未見である。

○「ふるさとの伝承 ふるさともとめて花いちもんめ―続続・山峡夢想」赤羽忠二、ほうずき書籍、2005 より
 ◇第14章 鉾持桟道のお題目碑
 高遠町の南端を流れる三峰川は守屋山・八伏山・高烏谷へと続く山脈を押し切って、深いV字谷を刻み、谷沿沿いに高遠諸町から伊那芦沢へ通ずる道を「鉾持桟道」と呼ぶ。現在は鉾持参道の大きな岩盤は掘削され、大型車が通行可能となったが、昔の道は今の道より少し上の段を通っていて、人馬の通れるだけの巾で、相当の難所であったという。
このことは軍事面で云えば、高遠城は攻略の難しい要衝であったことを意味する。このことは天正13年(1585)の高遠城攻防戦(保科正俊が守将で寄手が小笠原貞慶)で、数倍する兵力の寄手が大敗したことなどが如実のに示す。
 鉾道桟道は慶長初期に京極氏が開削したと云い、岩を穿ち道を造り、岩と岩との間に丸太を渡し僅かな道幅を確保したような道であった。通行は岩に縋りて、辛うじて人馬が通れる道であった。

 題目石は現代の鉾持桟道の高遠寄の地点に設置されている。
元来この石碑は鉾持桟道の高遠寄の山裾の大岩壁に彫ってあったもので、大正14年鉾持桟道の大改修工事によって、大岩壁からそっくり取り出され現在地へ移し建てられたものである。
 その事情は題目石碑の背面に彫られた碑文(漢文)に示されている。
 「鉾持桟道将接高遠街路処道北有巨巌屹立、南面深刻南無妙法蓮華経一千部、十字蓋桟道天険不譲于蜀道、相伝在昔高僧某勧修法華経典一千部収、以祷衆生交通安全也・・・以下略・・・」
 この鉾持桟道の改修工事には石工5名が係わったといい、現在(2005年)では山室の北原喜三氏一人が存命する。
その北原氏が板山の伊藤正雄氏に往時を回想して、手紙で次のように伝えたという。
 この改修工事の時、大岩盤に文字が彫られているのは誰も知らなかった。
大岩盤除去の準備で、岩盤前の雑草を取り除くと、文字が彫ってある。
その文字は「南無妙法蓮華経一千部」であると判明する。
勿論大岩盤は撤去するが、何とか御題目の文字は生かせるなら生かしたいという気持ちで関係者は一致する。
まず、蓮華寺住職に読経を依頼、題目の文字はそのまま残すべく、岩に穴を何本も深く穿孔し爆薬を充填して、発破する。
発破のあと、岩盤は道路にずり落ちるが、文字の無事を祈る気持ちで砕石を取り除くと、題目の文字は完全に残り、ずり落ちていた。
之を見た一同は誰とはなしに題目を唱和しだし、経の功徳をしみじみと感じたという。
 さて、この「題目石」をどうするかと石工の主任・北原喜一朗氏(北原喜三氏の実父)は菩提寺遠照寺の住職(松井錬静師)に相談し、結果は日蓮宗寺院が主体となり浄財を募り、石碑を建立し後世に伝えることとなる。これが現在の鉾持桟道の題目石である。
 鉾持桟道御題目碑
 鉾持桟道御題目碑2
   本写真は「ふるさとの伝承 ふるさともとめて花いちもんめ―第4巻・山峡夢想」赤羽忠二、ほうずき書籍、2009 より転載
題目石の裏面には
「相伝在昔高僧某勧修法華経典一千部収」あり、某高僧が法華経典一千部を勧修、収めたと伝えるとあり、高僧名は明かされていないが、この題目の筆者は日樹上人であろうと当時では日蓮宗寺院では語られていたという。
 鉾持桟道御題目碑裏文

江戸初期飯田藩主・高遠藩主の参勤交代は藤沢郷から金澤峠を順路とし、飯田藩主は鉾持桟道を無事通過すると、通過の飛脚を国元に走らせたと伝える。
寛永7年(1630)日樹上人は身池対論の結果、信濃飯田にお預けとなる。
 ※本著では日樹配流を寛政7年、示寂を寛政8年とするが、単に「寛永7年・8年」の取り違えであろう。
寛政7年(寛永7年/1630)江戸から金澤峠を越して高遠に入った日樹は、鉾持桟道の難所で通行人が難渋していることを耳にし、法華教一千部を修し、題目を巨石に書き、旅人の平安を祈ったのであろうと推測される。
 ※日樹上人の江戸から飯田への旅程は次のように推測される。
 1、江戸から飯田へは、甲州街道を往き、葛木宿(42次)・金澤宿(43次)から金澤峠を越え、高遠に入り、鉾持桟道を通過し、飯田に至ったものと推測される。
 2、飯田藩・高遠藩の参勤交代は高遠から金澤峠越で甲州に入ったといわれ、日樹も金澤峠越で甲州から高遠に入ったと思われるが、「伊那法華道」が当時すでに成立していたと思われ、葛木宿から伊那法華道(御所平峠越)で高遠に入ったことの十分に考えられる。
 3、葛木宿を通過したことは、蔦木宿での日樹の歌が残されているので明らかである。

御題目彫付の記録
 東高遠の清水家に村役人であった先祖が書き残した「御題目彫付」の覚書があるという。
この覚書によると、題目を鉾持除の岩に彫ったのは元禄6年(1704)という。
 除道立岩之上 当町之者題目を切付申度由 蓮華寺被申候
 主計殿(藩重役内藤主計) 相伺候處御城近所に候間 餘目立不申
 候様ニ爲切申由仰候ニ申渡候事、
   (北原通男調)
元禄6年は日樹揮毫のときから70数年後のことだが、日樹が罪人であったこと、不受施の儀が禁制であったことから、公儀を憚り、故意に時を過ごしたものと推測される。なお、題目碑に関する記録は清水家の記録以外には無い。
また、安政7年桟道の改修工事が行われたが、まだ何ヶ所かに岩間に木を渡して土で覆う桟道があったという。
さらに、板山正法寺住職は毎年この碑に経をあげ、回向しているという。

○以下はGoogleMap より転載:題目石は未見
 鉾持桟道御題目碑3-1     鉾持桟道御題目碑3-2     鉾持桟道御題目碑3-3     鉾持桟道御題目碑3-4
なお、現在の鉾持桟道の新道には高遠から東に向かって、鉾持桟道バス停隣の記念碑、鉾持桟道御題目碑、庚申石塔・文学碑が建つ。
 鉾持桟道バス停隣の記念碑:鉾持桟道バス停隣の石碑がある。内容は一切不明であるが、おそらく鉾持桟道の開削記念碑の類であろうと推測する。
 庚申石塔・文学碑:文学碑は仮称で、詩歌が刻まれていると推測するが、一切が不明。



信濃飯田日樹上人墓碑

2022/04/19撮影:
 墓域は高さ約7尺の石垣、方三間の中央に花崗岩製の五輪塔、総高6尺2寸、各輪の正面に妙法蓮華経の一文字を刻み、
地輪の正面には「法燈師/経/日樹上人」、右側面には「寛永二十年癸未五月十九日」、左側面には「行圓院日利建立」と刻む。
「石垣前の無縫塔4基は簡素、日利の墓は<題目、行円院日利、八月十九日>と刻み、その向かって右に日勤尼の墓<題目、信源院妙信日勤霊尼、承応三年甲午(1954)九月五日>と彫る。
日勤尼は日樹に仕えた尼のようである。
また、無名の墓の一基は江戸から随伴した飯炊き男のじいの墓と云われる。」(「日樹聖人傳」)

伊那飯田日樹霊跡1
伊那飯田日樹霊跡2
伊那飯田日樹霊跡3
伊那飯田日樹霊跡4
伊那飯田日樹霊跡5
伊那飯田日樹霊跡6
伊那飯田日樹霊跡7:左図拡大図
日樹上人五輪塔1
日樹上人五輪塔2
日樹上人五輪塔正面
日樹上人五輪塔左側面
日樹上人五輪塔右側面
日樹上人五輪塔3
日樹上人五輪塔4

 日勤尼・日利の墓:向かって右が日勤尼墓碑
 日樹霊跡日勤尼墓碑     日樹霊跡日利墓碑
 題目石・無名・じいの墓:向かって左から左記の並び
 日樹霊跡題目碑:南無妙法蓮華経とあるので、題目石と思われるが、他が判読出来ず、詳細は不明。
 日樹霊跡無名・じいの墓
日樹聖人碑:墓域向かって右に建つ。昭和5祖山妙覚寺37世日壽建立。
 日樹聖人碑    日樹聖人碑文
日樹聖人之碑:碑文
 聖人諱日樹号長遠院生於備中黒崎早脱塵界負笈遊関東師/
 事池上詔聖探求本化教義傍探台教學成陞能化創一字於浅/
 草長遠寺是也后稟池上友聖之譲補長興長榮両山第十六世/
 主位益集徒衆講究當台雨教学徒爭観具縁生聖人著留意要/
   <・・・・以下略・・・・>
書き下し文は次の通り。
聖人諱は日樹、長遠院と号す。備中黒崎に生まれ、早く塵界を脱し笈を負いて関左に遊び、池上詔聖に師事して深く本化の奥義を極め、傍ら台教の學成る。 ※関左:関東
能化に陞り一宇を創む浅草長遠寺是也。後池上友聖の讓りを稟け、長興長栄両山第16代の主位に補す。
衆徒を集めて台教の義を講究し、学徒爭うて霊縁の生ずるを観るに當り、聖人「留意要」等を著はして之を訂す。
文禄4年豊臣氏祖先追善の為、千僧供養を修め、本宗徒謗施を受くるを可なりとする者あり。独り中祖日奥大士流竄の厄を蒙るも屹然として不受不施の祖訓を厳守す。
聖人に亦中山賢師、平賀弘師、小西領師、碑文谷進師、中山充師等と其跡を紹継し、盛んに謗施を受用する輩を呵責す。
受徒之れを憂い、受不施の対決を幕府に訴う。
寛永7年2月21日江戸城において対決あり。
聖人等証を引き条を遂ひ、問答数次、彼等十二の詰難に答ふる能わず。遂に屈せり。
然れども養珠夫人左袒し。理非を顧みず。却て上意に背く者と称して六聖を曲処し、聖人を竄して伊那郷に謫す。
翌年58歳を以て配所に示滅す。実に寛永8年5月19日なり。茲れ歳300遠忌を迎え、聊か徳行を刻して報恩に供する者なり。
    昭和5年5月
                               祖山第37世日壽謹んで誌す

※碑石は高5尺7寸、巾2尺6寸の讃岐屋島産:「伊那郷土文化10 日樹上人の研究」山田居麓、山村書院版、昭和16年
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「明治36年備前妙善寺住職日寿は不受不施派祖山妙覚寺代理としてこの地に来り、これより27年間燈明料を供え、地元池上の特志者は毎日の奉燈を怠らなかった」(「日樹聖人傳」) ※日壽は大正12年祖山に晋山。
「池上古跡保存会は大正3年3月結成、会員は羽場字池上附近の人達で、現在41名。毎年5月19日は墓前祭を行う。」(「日樹聖人傳」)
「昭和30年池上本門寺貫首が法要を執行する。」(「日樹聖人傳」)

○昭和30年池上77世日教敬白文
池上本門寺復歴16世・日樹聖人への敬白文
2011-06-11 | 池上本門寺の歴史 より
昭和30年、池上本門寺第77世・石川日教上人とその一行が、本門寺貫主として正式にはじめて流地信州飯田の日樹上人の墓地を訪れた時のものである。
   敬 白 文
 慎しみ敬って南無平等大慧一乗妙法蓮華経、南無久遠実成本師釈迦牟尼仏、南無本化上行高祖日蓮大菩薩、宗門如法弘通勲功の先師、日朗菩薩、日輪上人等長栄山歴代先聖の来臨影嚮を仰ぎ、長遠院日樹上人の報土を厳浄し奉る。
 長遠院日樹上人は両山第十四世自証院無問日詔上人の資、元和五年(1619)第十五世中正院日友上人遷化の後を承けて両山の猊座に陞る。
 寛永三年(1626)九月徳川二代将軍秀忠の夫人死し、その菩提の為め諸宗の高僧をして芝増上寺に納経諷誦せしめ、将軍より回向に対し供養の事ありしも、日樹上人これを峻拒し、謗法供養不受の制法を守る。
 時に徳川幕府は開創以来日浅く切支丹宗門を禁止し踏絵の検断を行なふ等、信教を自家権勢薬籠中に収めんとの謀にあり。爰を以て、寛永七年(1630)二月廿一日官に抗する日樹上人等を江戸城内老中酒井雅樂頭の座席に於いて糾弾せしも、上人の所論堂々として悉く本経祖典に基づき、これを駁する者無く、奉行理非の決断をなす能はずして後日の文書応答に持越す。然るに上人論難書を提出するも遂に答書来らざるを以って、謗法供養不受はこれ公儀に対する違背に非ずの所断を訴えしも、四月二日幕府は理不尽にも上人を両山より除歴、流罪に処して信州に追ふ。
 嗚呼、上人は徳川幕府宗教政策の犠牲となって無実の罪を負ひ、翌寛永八年(1631)五月十九日配所信州飯田郷田中八郎右衛門尉の邸において病没す。寿五十八今を距る三百二十四年前なり。我が山先々代謙光院日慎上人この事を深く遺憾とし、先年門末一同に諮って上人を復歴す。
 老衲長栄山の法灯を継承してより戦災復興に寧日無きも、図らずも今般篤信者福田善三郎氏夫妻の招請により北信に掛錫し、本日車を駆って上人の墓前に拈香諷誦 、年来の所願を成ずることを得たり。南信伊那の峡満山紅葉今闌にして、一木一草旧に依り寂莫、上人謫居の秋を髣髴す。茲に恭しく長遠院日樹上人我不愛身命の慈恩に報酬し、その増円妙道位隣大覚を祈り奉る
 若親近法師速得菩薩道随順是師学得見恒沙仏在々諸仏土常与師倶生
  南無妙法蓮華経
   昭和三十年(1955)十一月七日
                  大本山池上本門寺 伝燈 七十七世 日教 和南


○信州に伝わるお題目の精神:池上本門寺サイト より
○長遠院日樹聖人墓所参拝
 (2019年の5月であろう)五月十五日(水)から十七日(金)にかけ、菅野日彰貫首が池上本門寺復歴第十六世長遠院日樹聖人の墓所と、墓所を守る長野県飯田市長源寺(早川英章住職)へ参拝する。
本年は天台宗へと改宗された長野県伊那郡の隣政寺に参拝し、日樹聖人が信州へ伝えられた法華経・お題目の足跡を辿る。
   ※隣政寺:飯田市箕瀬町1丁目2453
 長遠院日樹聖人は江戸幕府による不受不施弾圧によって本門寺第十六世を除歴のうえ信州伊那へ流罪となる。その後、昭和六年池上第七十四世酒井日慎貫首の代に復歴し、第七十七世石川日教貫首の代より毎年本門寺の貫首が墓参している。
 菅野貫首は長源寺にてご宝前にて法味言上の後、日樹聖人の為に卒塔婆を浄書、日樹聖人墓所にて墓守をする「池上古跡保存会」の会員と共に報恩法要を営んだ後、懇親会に参加し親睦を深めました。また、菅野貫首は四条金吾頼基公の供養墓に参拝し法味を捧げ、法華経・お題目の教えを守って下さった頼基公へ感謝の誠を捧げる。
 翌日は天台宗隣政寺へ参拝する。
隣政寺は鎌倉時代に日得上人によって開かれた日蓮宗寺院でしたが、日樹聖人没後天台宗へと改宗しました。その後、飯田仏教会保育園ホールにて菅野貫首ご親教を開催し、飯伊日蓮宗寺院法興会、連合護持会、協和護持会、檀信徒、総勢百五十名が参集する。
池上本門寺サイトより転載:
 日樹上人墓所前集合写真    日樹上人場所横集合写真

日樹聖人灵跡
  <灵(レイ)は霊(当用漢字)の略字、本字は靈>
○「日樹聖人傳」 より


霊跡付近は「池上」の地名が残る。
◇日樹上人聖灰塚
霊跡東は羽場権現(白山大権現、現・元山白山神社)であるが、その参道を南東に約100m下った所に日樹上人聖灰塚がある。
「聖灰塚は荼毘の跡で近くの畑から掘り出された室町期との鑑定の五輪塔が建つ。(五輪塔のことは村沢武夫氏親書)」(「日樹聖人傳」)
○以下は「GoogleMap」 より
 日樹上人靈跡空撮:上記の「日樹聖人灵跡」の空撮で、一部推定で文字入れ
 日樹上人聖灰塚1:石灯篭は白山大権現参道にあり、参道向うにもう1基あり、これは権現堂のものである。
 日樹上人聖灰塚2:長遠院日樹上人灰塚碑と五輪塔・石碑(内容不明)各1基がある。
 ※聖灰塚は、帰着してから知り、未見。
◇霊跡跡西側の七重石塔・子育鬼子母神・各種石碑
 日樹上人霊跡全容:日樹上人墓の西に、更に七重石塔、題目碑など数基があり、上記の「日樹聖人灵跡」にはない祠・鳥居がある。これらは現地で気つかず、帰着してから知り未見。鳥居と祠はどうせしょうもない国家神道の祠と決めつけたのが間違いであった。七重石塔はおそらく「日樹聖人傳」でいう寛文3年建立の供養塔であろうか。 
 「寛文3年(1663)33回忌に当たり、吉田茂右衛門(藩主脇坂安政の家臣)が墓脇に供養塔を建てる。摩滅して読み難いが【経王妙典妙経結要各千部成就真浄院妙法院。寛文三年施主吉田茂右衛門日勝・花押】等の文字が見える」(「日樹聖人傳」)
この供養塔は未見であるが、石造七重塔のことであろうか。
 日樹上人霊跡西側:中央の祠・鳥居は子育鬼子母神というが、詳細不明、周囲に七重石塔、3基の石碑がある。向かって右の黒い石碑は「御墓所修復記念」である。
○以下は2022/04/19撮影写真の一部を切り取りしたもの
 御墓所修復記念碑ほか:鬼子母神祠と題目石ではない石碑が写る。    墓所修復記念碑ほか2
 鬼子母神祠
 鬼子母神鳥居ほか:七重石塔基部、石碑3基が写る。    鬼子母神鳥居ほか2:七重石塔下部も写る。

2022/08/12追加:
○「絵で知る 日樹聖人伝記」花田一重、日樹聖人遺徳顕彰会、昭和38年 より
◇飯田市の日樹聖人の墓:18ページ
 飯田市の日樹聖人の墓:次のことが分かる。
寛永8年日樹上人、法弟日遵・じいやばあ(日勤尼か)の唱題の声の中で遷化した。
日樹上人墓は法弟日利がもとの草庵跡に建て、現在「地の池上保存会」が整美している。
右側の「日樹聖人之碑」は岡山から輸送建立される。
そして図には七重石塔(六重に見える)が描かれる。
◇飯田市の聖灰塚19ページ
 飯田市の聖灰塚:次のことが分かる。
聖灰塚の五輪塔の左側に建つのは多田三七の句碑(「片割れ月山波浮いて青葉風」)と知れる。なお背景の連峯は南アルプスであり、此処から望まれるという。
「名にしおふ」の歌碑は墓の左側にあるが、画面の都合でここに書き加えるということで、墓所の向かって左には「歌碑」があることも分かる。


飯田の墓所付近にある風景;
○元山白山神社(白山大権現・権現堂)
情報が殆どなく、由緒など皆目分からない。
祭神はイザナギ、菊理姫(白山比賣)、オオナムチ、相殿は倉稲魂(ウカノミタマ)、武甕槌(タケミカヅチ)である。
羽場権現と称する白山権現社であるから、菊理姫は分かるが、イザナミやオオナムチなどは気持ち悪い。ウカノミタマもタケミカヅチも臭すぎる。加えて、本殿は神明造で、伊勢の真似事なのであろうか、だとすれば、社殿までも「気持悪し」である。
日樹上人墓はこの権現堂の麓にある。
2022/04/19撮影:
 羽場権現権現堂1    羽場権現権現堂2    羽場権現権現堂3    羽場権現権現堂4    羽場権現権現堂5

飯田の墓所付近にある風景2:
○砂払富士講碑・名号碑
富士講碑:明治初年、砂払温泉西にあった浅間社が神仏分離で廃社となる。
その境内にあった三基の石碑は明治16年頃に移動する。
芭蕉の句碑は阿弥陀寺境内へ、富士塔及び名号碑は阿弥陀寺入口の原田家所有地に移されるも、この2基は平成16年の県道拡幅工事に併せて、現在地(砂払町1丁目)に再移動する。
なお、砂払温泉は石碑の対面にある。(ただし、現在の砂払温泉が昔のままの位置かどうかは不明)阿弥陀寺も北方向すぐにある。
「砂払」とは、木曽から大平峠を越えてきた旅人が、「砂」を「払って」飯田に入ったということに由来する。おそらく、江戸期にはあったものと思われる。温泉も明治期にはあったようである。
○GoogleMapより
 富士講碑・名号碑
2022/04/19撮影
 砂払富士講碑:左の石碑は判読できず、不明
 砂払享和元年名号碑     砂払名号碑説明板


日樹上人開基寺院

備中寺谷法福寺/屋守法福寺:京都四条妙顕寺

「大覚大僧正と三備開基寺院」より:
「元和年間、仏乗寺第16世日仙上人、法議に異論を強張して、自ら建立するものなり。其の際仏乗寺宝物、覚師御本尊を手にして此に転住して其の立義を主張す。寛文年間時の領主より法論の停止を命ぜらる。・・・・」「当山の歴代は殆ど仏乗寺歴代上人の兼務する所なり。」
開基:大覚大僧正
2世:光乗院日仙上人(仏乗寺16世)、日樹上人25回忌に当り、明暦2年供養塔を建立。
7世:日要上人、安永10年、日蓮上人500遠忌塔建立。
2005/05/04撮影:
 法福寺全景
但し、堂宇は一宇のみで、おそらく本堂と庫裏とを兼用したものと思われ、簡素な建物である。
仏乗寺に向かって右のやや上段に位置する。門や塀などは無く、恐らく仏乗寺境内を割譲して建立したとも思われる場所に位置する。
2014/11/24撮影:
 寺谷法福寺2     寺谷法福寺3:背後の藪中に日樹上人供養塔がある。
法福寺裏の竹薮の一画に日樹上人供養塔がある。
写真右の石塔が「日蓮上人500遠忌塔」である。(2005/05/04撮影)
 ○日蓮上人500遠忌塔1:「奉冩五百御遠忌砌 當山七世日要」
 ○日蓮上人500遠忌塔2:「安永10年(1781)正月13日」
   ※この石塔の向かって左の笠塔婆(明和4年<1767>年記)は信徒の墓と思われる。

備中寺谷仏乗寺/屋守仏乗寺:京都四条妙顕寺

2014/12/08記す:
 2010年前後であろうか、佛乗寺本堂・庫裏は取り壊され、現在は更地となる。歴代墓所は健在である。

「大覚大僧正と三備開基寺院」より:
文和元年(1352)大覚大僧正、真言宗の寺を改修し創建す。
天正年中の兵乱で、宝物等分散、大破せしを、元禄年中当山18世円行院日融上人により中興開基せるものなり。
開基:大覚大僧正
2世〜5世;備後粟根妙永寺より住職す。
15世;明智院日英上人、天正10年来住、池上本門寺日樹聖人の師、慶長16年化。
16世:光成院日仙上人、池上日樹直弟子、慶安の頃祖父氏に法義の異論を唱へて、時の領主水谷候之を停止す、師自を其の傍に一宇を建立し、当寺の什宝覚師御本尊を手もて移る、今の法福寺之なり。
19世:真善院日明上人、享保18年(1733)在住、寛保2年(1742)備中野山妙本寺26世となる。御流儀大導坊日唱上人の師。
20世:法顕院日唱上人、事績の記載なし。(大導坊日唱上人とも思われるが不明。)
38世本性院日善上人大正4年遷化の後は昭和15年原田智詮師在住まで、庭瀬中正院住職が法福寺とともに兼帯す。
2018/10/15追加:
○「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」:「濱野松壽寺」の項 より
松壽寺寺宝の大覺大僧上筆の十界本尊は文和2年4月2日付けのもので、今右下方の被授与者名を欠くが、文政6年の尼崎本興寺日英の極書(きめがき)によると「大覚大僧正文和2年4月2日、佛乗寺授与之御本尊、御真筆無疑者也」とみえ、備中黒崎佛乗寺の本尊と思われる。
 →濱野松壽寺
■2014/11/23撮影:
第39世原田智詮師が平成7年(1995)遷化、ご夫人は暫く在住という。
その後10数年に渡って本堂・;庫裡は存在していた。
しかし、何時しか2010年頃であろうか、本堂・庫裏は取り壊された。取り壊しの理由は分からない。
檀家はこの付近にはなくて、おそらく柏島の北端附近に檀家があるという。したがって詳しいことは分からない。
 (以上は付近の住民への聞取り)
  ◇印は2014/11/23撮影、○印は2005/05/04撮影
この地区の字は寺谷という。
また下に掲載のように2005年(住職遷化から10年後)には堂宇は健在であった。
当時は、数か年に渡り無住ではあったが、荒れ寺という印象ではなく、手入れのされている寺院の印象であった。
現在堂宇は取り壊されて数か年は経過するようであるが、跡地は放置し荒れるに任せるという状態ではない。
▼古の佛乗寺堂宇

 ○佛乗寺全景(高精細);左図拡大図
 ○佛乗寺本堂(高精細)

以下は2005年掲載;
 ○仏乗寺全景:本堂及び庫裏、右端に少し写る堂宇が法福寺。
  仏乗寺は数年前より無住の由であるが、
  現状はさほど荒廃しているようには見えない。
  地区民に管理している関係者を尋くも不明。
 ○仏乗寺本堂:山門・塀など は無く
  解放的な空間に本堂・庫裏・庭などのみがある。

 佛乗寺位置:地図から抹消さ れつつあるので、地図を掲載

 ○山奥題目石:黒崎から山奥・郷戸経由仏乗寺に至る路傍(字山奥)にある。
 ○仏乗寺題目石1-1(大覚大僧正):入口石段脇に建つ。     ◇佛乗寺題目石1-2:享保九甲辰年(1724)年紀
 ○仏乗寺題目石2-1:仏乗寺入口に至る道の正面の境内地に建つ。      ◇佛乗寺題目石2-2
▼仏乗寺堂宇跡
 ◇佛乗寺跡1:正面中央に本堂があった。     ◇佛乗寺跡2:本堂跡更地
 ◇佛乗寺跡3:上掲仏乗寺全景の写真と同一アングルで撮影     ◇佛乗寺跡4:園池跡
▼仏乗寺歴代墓碑
 ◇佛乗寺歴代墓碑
  向かって右端の新しい墓碑が原田智詮師墓碑である。
  後列に正面が写る墓碑が6基並ぶが、墓銘及び事績は向かって右から次の通りである。
   ・當寺中興圓立院日乗 第17世寛永18年(1641)在住、宝永4年(1707)化
   ・榮教院日證大徳 第26世、黒崎妙立寺日融の直弟子、黒忠(横谷か)妙泉寺六世、天明4年(1784)化
   ・圓行院日融聖人 第18世、黒崎妙立寺日性の師、圓立院の直弟子、享保15年(1730)化、68歳
     ※日融は下に述べる「柏島天満町法華題目碑」を発願した上人である。
   ・真善院日明聖人 第19世、享保15年(1730)来住、寛保2年(1742)野山妙本寺26世となる。
              延享4年(1747)化、47歳
   ・正順院日教聖人 第33世、文政6年(1823)来住、23ヶ年在住、明治4年化、67歳
   ・素淳院日修大位 第22世、宝暦9年(1759)来住、明和7年(1770)化、82歳
    ※その他の墓碑については後日を期す。
 ◇原田智詮師墓碑1     ◇原田智詮師墓碑2
  正面は智廣院日隆上人、側面は第39世原田智詮 昭和15年在住、平成7年(1995)7月9日遷化、88歳
  ※原田智詮師と小生(s_minaga)は昭和50年頃かその少し後に仏乗寺にて一度対面をする。
   この時原田師より次の3書の贈呈を受ける。
    「大覚大僧正と三備開基寺院」原田智詮(仏乗寺住職)著、非売品、昭和49年刊
    「日樹聖人傳」原田智詮校閲、花田一重編著、日樹聖人遺徳顕彰会、昭和36年
    「絵で知る 日樹聖人伝記」花田一重著、日樹聖人遺徳顕彰会、昭和38年

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江戸土冨店長遠寺

◎土冨店長遠寺諸資料
○「土冨店長遠寺略縁起」(土冨店長遠寺住職山本日偉著)では
「当山は・・・文禄3年/1594長遠院日樹上人の開創にかかり安立山長遠寺と号す。はじめ日樹上人が宗祖開眼開運の御尊像を奉じて江戸に下るや、徳川養珠夫人や狩野法眼宗信等が外護の力を致し、祖師堂既に成る。・・・」とあると云う。
「日樹上人傳」(原田智詮、花田一重)では、日樹上人は「まだ21歳ゆえ後年の創立と思われる。」と云う。
○「江戸名所圖會」(天保年中)
「日蓮大菩薩:安立山長遠寺に安置す。」南禅寺普門禅師、日輪の中に二菩薩の尊影を拝す。自らの筆で之を模し、霊告により、弘長元年関東に下り、日蓮上人に点眼を乞い求む。日蓮は開眼供養あって、その後大士自らの肖像を刻み、禅師に贈る。これが長遠寺の日蓮大士像である。
禅師帰寂の後、京師要法寺に遷し、また妙栄寺に安置せしが、故あって、文禄3年の頃、長遠寺に遷せり。 とある。
 ※故あってとは不明であるが、意味深長ではある。
○「御府内寺社備考」(文政年中以前)では「池上本門寺末 浅草新寺町 安立山長遠寺 境内拝領地1200坪。起立之儀は、文禄3年ニ御座候。元京都要法寺末ニ而妙栄寺と唱候処、元和7年6月11日千部供養之節、長遠寺と相改、池上本門寺末ニ相成申候。開山慈眼院日端、明暦3年7月9日卒。」とあると云う。
 ※この資料では、元は京都要法寺末妙栄寺であったが、元和7年長遠寺と改称し池上本門寺末となると云う。開山は慈眼院日端と云う。

以上のように土冨店長遠寺諸資料では日樹創建という以外に別本もあり、判然とはしない。
確かに、開創が文禄3年では日樹が21歳の時であり、少々無理とも思われる。また京都要法寺と日樹の接点が不明であり、日樹が当寺に祖師像を遷した経緯も不明である。
 不受不施は幕府の度重なる弾圧を受け、寛文年中以降は禁制となる。「故あって」不受派の寺院は弾圧の故、生き残りのためには、寺歴を公然とはできないあるいは寺歴を変更することを余儀なくされたことがあったと容易に推測することが可能である。
 長遠寺は池上日樹の時代に、おそらくは日樹との関係があったものと推察されるが、長遠寺に於いても不受であった時代の寺歴は消され、今となっては新資料の発見がない限り、これも不明とするほかは無いのであろう。
2013/06/09撮影:
 長遠寺山門:土冨店祖師堂として江戸十祖師の一つである。      長遠寺山門・本堂
 長遠寺題目碑1     長遠寺題目碑2     長遠寺境内・本堂
 長遠寺本堂1       長遠寺本堂2       長遠寺玄関客殿     長遠寺庫裏か


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