日樹上人供養塔・長遠院日樹上人略伝・日樹上人開基寺院

日樹上人開基寺院:備中黒崎法福寺・備中黒崎仏乗寺・江戸土冨店長遠寺・市野倉長勝寺

日樹上人供養塔

「日樹聖人傳」
「絵で知る 日樹聖人伝記」より:
日樹聖人供養塔は備中黒崎屋守法福寺境内にある。
(但し、上記の両著とも「供養塔」ではなく「日樹聖人墓」とする。)

2005/05/04撮影:
 日樹上人供養塔1
 日樹上人供養塔2:法福寺裏手に「日樹上人供養塔」「日仙上人墓」
  と「解読不能?な墓碑」とがある。
 日樹上人供養塔3:左図拡大図
 日樹上人供養塔4
  花崗岩製で総高6尺1寸(約1.85m)、形式は無縫塔。
   塔身5尺3寸、台石廻り4尺8寸高さ8寸。
  明暦2年(1656)、仏乗寺16世法成院日仙上人が、
  日樹上人第25回忌供養として建立という。
   ※裏銘:石塔造立之時節者明暦2年・・右本願仏乗寺日仙。・・・
  昭和37年殆ど忘れられていた「墓所」の整備が行われる。
  ※日仙上人は池上日樹上人の直弟子で法福寺を建立する。
 日仙上人墓碑1:日樹上人供養塔 右にある。
  「妙法 中興開山法成院日仙霊 寛文7年(1667)3月27日寂」
  ※日樹上人供養塔左の石碑はほとんど判読できず不明。

2014/11/23撮影:
 日樹上人供養塔5     日樹上人供養塔6     日樹上人供養塔7
 日仙上人墓碑2
 日樹上人供養塔左碑:上部2文字は妙法と解読している文書があるが、その下は 依然として判読不能。

長遠院日樹上人略歴

天正2年(1574)、備中国浅口郡黒崎村に生まれる。
 俗名は作兵衛、吉田家の生まれで、吉田家は元近江の郷士で後この地に移住、以降代々庄屋の家柄であった。
天正19年、日樹18歳で、仏門に入る。師は仏乗寺15世日英上人。
 ※「天正10年第15代、妙智院日英上人、住す。池上本門寺日樹上人の師にあたる。慶長16年遷化」
    :黒崎村屋守仏乗寺「過去帳」
下総飯高檀林に学ぶ(当時の化主は蓮成院日尊上人・後に池上13世)。
文禄3年(1594)江戸土冨店長遠寺を創建する。(「土冨店長遠寺略縁起」)
 ※但し、この年紀は日樹が若干20才の時であり、実際の長遠寺創建の年代はもっと後年と思われる。
下総飯高檀林、中村檀林の能化となる。
元和5年(1619)池上本門寺・比企谷本門寺貫主となる。
  →池上本門寺
  →池上本門寺日樹上人五輪石塔・元和元年十一重層塔・寛永3年十一重層塔
2020/04/07追加:
 寛永3年(1626):年紀は推定:日樹が智妙院日圓に宛てた消息(最上稲荷妙教寺蔵)が残る。
  妙智院日圓宛池上16世日樹消息:妙教寺奥の院(一乗寺)住職ご提供画像の転載、
   日樹花押と妙智院の宛名が見える。日圓は日樹弟子という、日圓は妙教寺を中興する。
寛永7年(1630)身延池上対論(身池対論)。
同年、幕府は六僧に以下の申し渡しを行う。
 池上日樹信濃伊奈に御預け、徒党の出家衆は追放、日奥は対馬へ流罪・・・などが申し渡される。
  ※徒党の出家とは:中山日賢は遠州横須賀、平賀日弘は伊豆、小西日領は奥州相馬、
   碑文谷日進は信州上田、中村日充は奥州岩城に追放。
  ※日奥流罪は死後流罪と云われる。
 「身池対論」についての概要は下記のサイトを参照。
  「不受不施派『身池対論』」:日蓮宗不受不施派信者である「正之」氏作成ページ
寛永8年配所にて寂す。年58。
 信濃飯田の日樹上人墓所
  上記、「不受不施派『身池対論』」に日樹聖人の墓所(信濃飯田)の写真 の掲載がある
   ※信濃飯田羽場元山白山社権現堂境内にある。五輪石塔<寛永20年(1643)日樹上人>
     13回忌に仰円院日利上人建立と云う。
2019/09/16追加:
信濃飯田の配流後の日樹主筆の曼荼羅は次の2幅が知れる。
 日樹主筆曼荼羅本尊:寛永7年、博多妙典寺
 前六聖人連署の大曼荼羅:下総香取郡栗原町岩部の石橋家蔵、大乗院日達が前六聖人を巡歴して岩部の信徒に与えたものである。
  →詳細は備前法華の系譜中の身池対論の項中にあり。
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
日樹の著書は「身池対論記録」、「留意要」三巻(「観心」を論ずる)などがあるも、宗学上には特記すべきものを見ない。


備中寺谷法福寺/屋守法福寺 :京都四条妙顕寺

「大覚大僧正と三備開基寺院」より:
「元和年間、仏乗寺第16世日仙上人、法議に異論を強張して、自ら建立するものなり。其の際仏乗寺宝物、覚師御本尊を手にして此に転住して其の立義を主張す。寛文年間時の領主より法論の停止を命ぜらる。・・・・」「当山の歴代は殆ど仏乗寺歴代上人の兼務する所なり。」
開基:大覚大僧正
2世:光乗院日仙上人(仏乗寺16世)、日樹上人25回忌に当り、明暦2年供養塔を建立。
7世:日要上人、安永10年、日蓮上人500遠忌塔建立。
2005/05/04撮影:
 法福寺全景
但し、堂宇は一宇のみで、おそらく本堂と庫裏とを兼用したものと思われ、簡素な建物である。
仏乗寺に向かって右のやや上段に位置する。門や塀などは無く、恐らく仏乗寺境内を割譲して建立したとも思われる場所に位置する。
2014/11/24撮影:
 寺谷法福寺2     寺谷法福寺3:背後の藪中に日樹上人供養塔がある。
法福寺裏の竹薮の一画に日樹上人供養塔がある。
写真右の石塔が「日蓮上人500遠忌塔」である。(2005/05/04撮影)
 ○日蓮上人500遠忌塔1:「奉冩五百御遠忌砌 當山七世日要」
 ○日蓮上人500遠忌塔2:「安永10年(1781)正月13日」
   ※この石塔の向かって左の笠塔婆(明和4年<1767>年記)は信徒の墓と思われる。

備中寺谷仏乗寺/屋守仏乗寺:京都四条妙顕寺

2014/12/08記す:
 2010年前後であろうか、佛乗寺本堂・庫裏は取り壊され、現在は更地となる。歴代墓所は健在である。

「大覚大僧正と三備開基寺院」より:
文和元年(1352)大覚大僧正、真言宗の寺を改修し創建す。
天正年中の兵乱で、宝物等分散、大破せしを、元禄年中当山18世円行院日融上人により中興開基せるものなり。
開基:大覚大僧正
2世〜5世;備後粟根妙永寺より住職す。
15世;明智院日英上人、天正10年来住、池上本門寺日樹聖人の師、慶長16年化。
16世:光成院日仙上人、池上日樹直弟子、慶安の頃祖父氏に法義の異論を唱へて、時の領主水谷候之を停止す、師自を其の傍に一宇を建立し、当寺の什宝覚師御本尊を手もて移る、今の法福寺之なり。
19世:真善院日明上人、享保18年(1733)在住、寛保2年(1742)備中野山妙本寺26世となる。御流儀大導坊日唱上人の師。
20世:法顕院日唱上人、事績の記載なし。(大導坊日唱上人とも思われるが不明。)
38世本性院日善上人大正4年遷化の後は昭和15年原田智詮師在住まで、庭瀬中正院住職が法福寺とともに兼帯す。
2018/10/15追加:
○「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」:「濱野松壽寺」の項 より
松壽寺寺宝の大覺大僧上筆の十界本尊は文和2年4月2日付けのもので、今右下方の被授与者名を欠くが、文政6年の本興寺日英の極書のよると「大覚大僧正文和2年4月2日、佛乗寺授与之御本尊、御真筆無疑者也」とみえ、備中黒崎佛乗寺の本尊と思われる。 →濱野松壽寺
■2014/11/23撮影:
第39世原田智詮師が平成7年(1995)遷化、ご夫人は暫く在住という。
その後10数年に渡って本堂・;庫裡は存在していた。
しかし、何時しか2010年頃であろうか、本堂・庫裏は取り壊された。取り壊しの理由は分からない。
檀家はこの付近にはなくて、おそらく柏島の北端附近に檀家があるという。したがって詳しいことは分からない。
 (以上は付近の住民への聞取り)
  ◇印は2014/11/23撮影、○印は2005/05/04撮影
この地区の字は寺谷という。
また下に掲載のように2005年(住職遷化から10年後)には堂宇は健在であった。
当時は、数か年に渡り無住ではあったが、荒れ寺という印象ではなく、手入れのされている寺院の印象であった。
現在堂宇は取り壊されて数か年は経過するようであるが、跡地は放置し荒れるに任せるという状態ではない。
▼古の佛乗寺堂宇

 ○佛乗寺全景(高精細);左図拡大図
 ○佛乗寺本堂(高精細)

以下は2005年掲載;
 ○仏乗寺全景:本堂及び庫裏、右端に少し写る堂宇が法福寺。
  仏乗寺は数年前より無住の由であるが、
  現状はさほど荒廃しているようには見えない。
  地区民に管理している関係者を尋くも不明。
 ○仏乗寺本堂:山門・塀など は無く
  解放的な空間に本堂・庫裏・庭などのみがある。

 佛乗寺位置:地図から抹消さ れつつあるので、地図を掲載

 ○山奥題目石:黒崎から山奥・郷戸経由仏乗寺に至る路傍(字山奥)にある。
 ○仏乗寺題目石1-1(大覚大僧正):入口石段脇に建つ。     ◇佛乗寺題目石1-2:享保九甲辰年(1724)年紀
 ○仏乗寺題目石2-1:仏乗寺入口に至る道の正面の境内地に建つ。      ◇佛乗寺題目石2-2
▼仏乗寺堂宇跡
 ◇佛乗寺跡1:正面中央に本堂があった。     ◇佛乗寺跡2:本堂跡更地
 ◇佛乗寺跡3:上掲仏乗寺全景の写真と同一アングルで撮影     ◇佛乗寺跡4:園池跡
▼仏乗寺歴代墓碑
 ◇佛乗寺歴代墓碑
  向かって右端の新しい墓碑が原田智詮師墓碑である。
  後列に正面が写る墓碑が6基並ぶが、墓銘及び事績は向かって右から次の通りである。
   ・當寺中興圓立院日乗 第17世寛永18年(1641)在住、宝永4年(1707)化
   ・榮教院日證大徳 第26世、黒崎妙立寺日融の直弟子、黒忠(横谷か)妙泉寺六世、天明4年(1784)化
   ・圓行院日融聖人 第18世、黒崎妙立寺日性の師、圓立院の直弟子、享保15年(1730)化、68歳
     ※日融は下に述べる「柏島天満町法華題目碑」を発願した上人である。
   ・真善院日明聖人 第19世、享保15年(1730)来住、寛保2年(1742)野山妙本寺26世となる。
              延享4年(1747)化、47歳
   ・正順院日教聖人 第33世、文政6年(1823)来住、23ヶ年在住、明治4年化、67歳
   ・素淳院日修大位 第22世、宝暦9年(1759)来住、明和7年(1770)化、82歳
    ※その他の墓碑については後日を期す。
 ◇原田智詮師墓碑1     ◇原田智詮師墓碑2
  正面は智廣院日隆上人、側面は第39世原田智詮 昭和15年在住、平成7年(1995)7月9日遷化、88歳
  ※原田智詮師と小生(s_minaga)は昭和50年頃かその少し後に仏乗寺にて一度対面をする。
   この時原田師より次の3書の贈呈を受ける。
    「大覚大僧正と三備開基寺院」原田智詮(仏乗寺住職)著、非売品、昭和49年刊
    「日樹聖人傳」原田智詮校閲、花田一重編著、日樹聖人遺徳顕彰会、昭和36年
    「絵で知る 日樹聖人伝記」花田一重著、日樹聖人遺徳顕彰会、昭和38年

柏島天満町法華題目碑:2012/11/20追加

碑文より、享保15年屋守仏乗寺18世日融上人の発願で建立されたものと推定される。
2017/10/08撮影:
 天満町題目碑00     天満町題目碑01
2012/11/10撮影:
天満町題目碑1:「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 四百五十年忌 御報恩」
 ※日蓮上人450年遠忌の報恩塔である。450年遠忌は享保16年(1731)と思われる。
天満町題目碑2
 ※民家と比較して分かるように相当な大型の題目碑である。
天満町題目碑3:向かって右側面:「願主堺之住人■(頌)■(日?)■(受?)三千ヶ寺参詣成就」
 ※堺の住人何某が3000ヶ寺参詣成就とある。
天満町題目碑4:裏面:「發願者佛乗寺■(十)八世■(日)■上人 ■(享)保十■(五)■■ 7月十三日」
 ※発願は仏乗寺18世(仏乗寺歴代譜によれば18世は日融上人、享保15年11月68歳にて遷化)であり、
  年紀は享保15年とある。
天満町題目碑5:向かって左側面:「■■(辰)之年中大坂失火焼死之霊魂諸国■之■(旲?)魂■(自)■■」
 ※他の年紀および「「■■(辰)之年中」から「大坂失火」とは享保9年(甲辰・1724)の「妙知焼け」と推定される。
  「妙知焼け」とは享保9年3月21日午の刻(正午)、南堀江の金屋治兵衛の祖母妙知尼宅より出火、翌22日申の刻
  (午後4時)まで燃え続ける。大坂三郷の2/3の408町が焼失する大火であった。
以上等を総合すれば、この大型の題目碑は、享保15年屋守仏乗寺18世日融が、日蓮上人450遠忌、堺住人何某の3000ヶ寺参詣記念、および享保9年の大坂大火の焼死者にたいする慰霊のため、この地に建立されたものと推定される。
この碑は旧道に面した丘側(西側)に建つ。今この碑の建つところの旧道東側(海側)は人家が建ち、さらにその東側も昭和40年代頃港が埋め立てられ新道が作られ、港を往来する船からは見えなくなっている。
しかし、建立当時は当然昭和戦後の新道はなく、さらには旧道東側はすぐ港(海)であり、玉島港に出入する船から良くみえたのではないだろか。さらにこの界隈一画は遊郭であったといい、かなりの賑わいがあり、碑の建立の好地であったように思われる。
2013/01/15追加:
「日樹上人傳」原田智詮、昭和36年 では以下のように述べる。
「享保15年7月13日発願者仏乗寺18世日融上人」願主の三千ヶ寺参詣成就を遂げた順海日受は日蓮大菩薩450年忌を兼ねて、享保9年3月大坂の大火に焼死の諸霊の為、玉島天満町に高さ11尺5寸(3.48m)の供養塔を建立。
 ※以上から、向かって右側面:「願主堺之住人■(頌)■(日?)■(受?)三千ヶ寺参詣成就」は「願主堺之住人順海日受三千ヶ寺参詣成就」と知れる。
 裏面:「發願者佛乗寺■(十)八世■(日)■上人 ■(享)保十■(五)■■ 7月十三日」は「發願者佛乗寺八世日上人 保十年 7月十三日」と知れる。

柏島薬師堂

2017/10/08撮影:
柏島天満町題目碑からおよそ5町北に柏島薬師堂がある。
 ※本薬師堂は本ページとの脈絡は皆無であるが、題目碑附近の佛堂として取り上げる。
 現柏島薬師堂:元は背後の石階を上った堂屋敷にあった。現薬師堂より一回り大きい堂宇であったが、何時しか腐朽し、取り壊され、石階下に小宇として再建され、堂内の仏像も遷座したものと推定される。
石階手前には宝暦14年(1764)の石造地蔵菩薩坐像の巨像と文政9年(1826)の大石燈籠とが現存する。
 柏島薬師堂石階:この石階の上の壇が薬師堂境内であるが、ここに薬師堂があった、現在は更地となり、この地方に分布する札所と禅宗関係と思われる石塔(判読は困難)のみが残存する。
 堂内には薬師三尊及び十二神将と近年の厨子(薬師如来坐像)が安置される。
諸仏はおそらく上述の石造地蔵菩薩坐像や石燈籠と同時代の江戸中期か末期の造立であり、決して優れたものではないが、この縁起も知られない薬師堂の諸佛として守られていることをここに記す。
 柏島薬師堂薬師三尊十二神将    柏島薬師堂薬師三尊    柏島薬師堂十二神将1    柏島薬師堂十二神将2
 柏島薬師堂厨子内薬師如来


江戸土冨店長遠寺

◎土冨店長遠寺諸資料
○「土冨店長遠寺略縁起」(土冨店長遠寺住職山本日偉著)では
「当山は・・・文禄3年/1594長遠院日樹上人の開創にかかり安立山長遠寺と号す。はじめ日樹上人が宗祖開眼開運の御尊像を奉じて江戸に下るや、徳川養珠夫人や狩野法眼宗信等が外護の力を致し、祖師堂既に成る。・・・」とあると云う。
「日樹上人傳」(原田智詮、花田一重)では、日樹上人は「まだ21歳ゆえ後年の創立と思われる。」と云う。
○「江戸名所圖會」(天保年中)
「日蓮大菩薩:安立山長遠寺に安置す。」南禅寺普門禅師、日輪の中に二菩薩の尊影を拝す。自らの筆で之を模し、霊告により、弘長元年関東に下り、日蓮上人に点眼を乞い求む。日蓮は開眼供養あって、その後大士自らの肖像を刻み、禅師に贈る。これが長遠寺の日蓮大士像である。
禅師帰寂の後、京師要法寺に遷し、また妙栄寺に安置せしが、故あって、文禄3年の頃、長遠寺に遷せり。 とある。
 ※故あってとは不明であるが、意味深長ではある。
○「御府内寺社備考」(文政年中以前)では「池上本門寺末 浅草新寺町 安立山長遠寺 境内拝領地1200坪。起立之儀は、文禄3年ニ御座候。元京都要法寺末ニ而妙栄寺と唱候処、元和7年6月11日千部供養之節、長遠寺と相改、池上本門寺末ニ相成申候。開山慈眼院日端、明暦3年7月9日卒。」とあると云う。
 ※この資料では、元は京都要法寺末妙栄寺であったが、元和7年長遠寺と改称し池上本門寺末となると云う。開山は慈眼院日端と云う。

以上のように土冨店長遠寺諸資料では日樹創建という以外に別本もあり、判然とはしない。
確かに、開創が文禄3年では日樹が21歳の時であり、少々無理とも思われる。また京都要法寺と日樹の接点が不明であり、日樹が当寺に祖師像を遷した経緯も不明である。
 不受不施は幕府の度重なる弾圧を受け、寛文年中以降は禁制となる。「故あって」不受派の寺院は弾圧の故、生き残りのためには、寺歴を公然とはできないあるいは寺歴を変更することを余儀なくされたことがあったと容易に推測することが可能である。
 長遠寺は池上日樹の時代に、おそらくは日樹との関係があったものと推察されるが、長遠寺に於いても不受であった時代の寺歴は消され、今となっては新資料の発見がない限り、これも不明とするほかは無いのであろう。
2013/06/09撮影:
 長遠寺山門:土冨店祖師堂として江戸十祖師の一つである。      長遠寺山門・本堂
 長遠寺題目碑1     長遠寺題目碑2     長遠寺境内・本堂
 長遠寺本堂1       長遠寺本堂2       長遠寺玄関客殿     長遠寺庫裏か

江戸市野倉長勝寺:大田区中央6-6-5

日樹上人供養塔がある。<未見>
○「新編武蔵風土記稿」には以下のように記すと云う。
「除地1段1畝12歩。八幡宮の並びにあり。法華宗、房州長狭郡小湊誕生寺末、覚應山と号す。開山陽善院日繕上人、開闢の年代を傳へず。二世日言寛文11年入寂すといへば、させる古寺にはあらず。本尊三宝客殿に安ず。」
あるいは、寺伝では正保3年(1646)新井宿村の郷士/田中長勝が檀越となり創建したと伝える。
池上本門寺末であったが寛文年中に小湊誕生寺末に転ずると云う。
 ※「新編武蔵風土記稿」に云う八幡宮とは現太田神社である。長勝寺が別當であったが、明治維新の神仏分離の処置で分離し太田神社と改号、八幡大菩薩像は長勝寺に遷すと云う。
木造八幡大菩薩像は那須与一守本尊といい、昭和20年八幡宮は戦災で焼失するも、長勝寺に遷座した大菩薩像は焼失を免れる。昭和28年拝殿が再建され、八幡大菩薩像は長勝寺より復座する。
○池上本門寺15世日樹上人供養塔
日樹三十三回忌に近在の信徒によって建立と銘文に記すと云う。
○日蓮聖人坐像
木造寄木造り、彩色、玉眼、像高36.7cm。
台座裏銘文では、寛文元年(1661)了性寺の祖師像として、杉本七良右衛門と奉加の人々により、野口彦右衛門が施主となり造像されると云う。
開眼は、大野法蓮寺(下総市川)十八世日完上人である。
 ※日完上人は寛文5年(1665)不受不施の儀により、伊予吉田に配流さる。 →谷中感應寺中に日完上人記事あり。
 ※本像は、了性寺祖師像として造立されるも、了性寺が不受不施として弾圧され、おそらくは同派縁故の長勝寺に遷されたものと推定される。


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