日樹上人供養塔・長遠院日樹上人略伝・日樹上人墓・日樹上人開基寺院
日樹上人開基寺院:備中黒崎法福寺・備中黒崎仏乗寺・江戸土冨店長遠寺
★日樹上人供養塔
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○「日樹聖人傳」花田一重編著、原田智詮校閲、日樹聖人遺徳顕彰会、昭和36年
○「絵で知る 日樹聖人伝記」花田一重、日樹聖人遺徳顕彰会、昭和38年 より:
日樹聖人供養塔は備中黒崎屋守法福寺境内にある。
(但し、上記の両著とも「供養塔」ではなく「日樹聖人墓」とする。)2005/05/04撮影:
日樹上人供養塔1
日樹上人供養塔2:法福寺裏手に「日樹上人供養塔」「日仙上人墓」
と「解読不能?な墓碑」とがある。
日樹上人供養塔3:左図拡大図
日樹上人供養塔4
花崗岩製で総高6尺1寸(約1.85m)、形式は無縫塔。
塔身5尺3寸、台石廻り4尺8寸高さ8寸。
明暦2年(1656)、仏乗寺16世法成院日仙上人が、
日樹上人第25回忌供養として建立という。
※裏銘:石塔造立之時節者明暦2年・・右本願仏乗寺日仙。・・・
昭和37年殆ど忘れられていた「墓所」の整備が行われる。
※日仙上人は池上日樹上人の直弟子で法福寺を建立する。
日仙上人墓碑1:日樹上人供養塔
右にある。
「妙法 中興開山法成院日仙霊 寛文7年(1667)3月27日寂」
※日樹上人供養塔左の石碑はほとんど判読できず不明。 |
2014/11/23撮影:
日樹上人供養塔5 日樹上人供養塔6 日樹上人供養塔7
日仙上人墓碑2
日樹上人供養塔左碑:上部2文字は妙法と解読している文書があるが、その下は
依然として判読不能。
★長遠院日樹上人略歴
天正2年(1574)、備中国浅口郡黒崎村に生まれる。
俗名は作兵衛、吉田家の生まれで、吉田家は元近江の郷士で後この地に移住、以降代々庄屋の家柄であった。
天正19年、日樹18歳で、仏門に入る。師は仏乗寺15世日英上人。
※「天正10年第15代、妙智院日英上人、住す。池上本門寺日樹上人の師にあたる。慶長16年遷化」
:黒崎村屋守仏乗寺「過去帳」
下総飯高檀林に学ぶ(当時の化主は蓮成院日尊上人・後に池上13世)。
文禄3年(1594)江戸土冨店長遠寺を創建する。(「土冨店長遠寺略縁起」)
※但し、この年紀は日樹が若干20才の時であり、実際の長遠寺創建の年代はもっと後年と思われる。
下総飯高檀林、中村檀林の能化となる。
元和5年(1619)池上本門寺・比企谷本門寺貫主となる。
→池上本門寺
→池上本門寺日樹上人五輪石塔・元和元年十一重層塔・寛永3年十一重層塔
2020/04/07追加: 寛永3年(1626):年紀は推定:日樹が智妙院日圓に宛てた消息(最上稲荷妙教寺蔵)が残る。 妙智院日圓宛池上16世日樹消息:妙教寺奥の院(一乗寺)住職ご提供画像の転載、
日樹花押と妙智院の宛名が見える。日圓は日樹弟子という、日圓は妙教寺を中興する。
寛永7年(1630)身延池上対論(身池対論)。
同年、幕府は六僧に以下の申し渡しを行う。
池上日樹信濃伊奈に御預け、徒党の出家衆は追放、日奥は対馬へ流罪・・・などが申し渡される。
※徒党の出家とは:中山日賢は遠州横須賀、平賀日弘は伊豆、小西日領は奥州相馬、
碑文谷日進は信州上田、中村日充は奥州岩城に追放。
※日奥流罪は死後流罪と云われる。
○「身池対論」についての概要は下記のサイトを参照。
「M不受不施派『身池対論』」:日蓮宗不受不施派信者である「正之」氏作成ページ
寛永8年配所にて寂す。年58。
○信濃飯田の日樹上人墓所
上記、「M不受不施派『身池対論』」に日樹聖人の墓所(信濃飯田)の写真
の掲載がある
※信濃飯田羽場元山白山社権現堂境内にある。五輪石塔<寛永20年(1643)日樹上人>
13回忌に行円院日利上人建立と云う。
→備前法華の系譜>身池対論・寛永法難の項など参照。
→ 備前祖山妙覚寺22世
2021/11/09追加:
○「霊寶殿 池上本門寺の御霊宝と文化遺産」池上本門寺、平成21年(2006) より 池上本門寺蔵日樹曼荼羅本尊: 池上本門寺蔵日樹曼荼羅本尊 2019/09/16追加: 信濃飯田の配流後の日樹主筆の曼荼羅は次の2幅が知れる。
日樹主筆曼荼羅本尊:寛永7年、博多妙典寺蔵
前六聖人連署の大曼荼羅:下総香取郡栗原町岩部の石橋家蔵、大乗院日達が前六聖人を巡歴して岩部の信徒に与えたものである。
→詳細は備前法華の系譜中の身池対論の項中にあり。
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
日樹の著書は「身池対論記録」、「留意要」三巻(「観心」を論ずる)などがあるも、宗学上には特記すべきものを見ない。
★信濃飯田日樹上人墓碑 2022/04/19撮影:
墓域は高さ約7尺の石垣、方三間の中央に花崗岩製の五輪塔、総高6尺2寸、各輪の正面に妙法蓮華経の一文字を刻み、
地輪の正面には「法燈師/経/日樹上人」、右側面には「寛永二十年癸未五月十九日」、左側面には「行圓院日利建立」と刻む。
「石垣前の無縫塔4基は簡素、日利の墓は<題目、行円院日利、八月十九日>と刻み、その向かって右に日勤尼の墓<題目、信源院妙信日勤霊尼、承応三年甲午(1954)九月五日>と彫る。
日勤尼は日樹に仕えた尼のようである。 また、無名の墓の一基は江戸から随伴した飯炊き男のじいの墓と云われる。」(「日樹聖人傳」)
日勤尼・日利の墓:向かって右が日勤尼墓碑
日樹霊跡日勤尼墓碑 日樹霊跡日利墓碑
題目石・無名・じいの墓:向かって左から左記の並び
日樹霊跡題目碑:南無妙法蓮華経とあるので、題目石と思われるが、他が判読出来ず、詳細は不明。
日樹霊跡無名・じいの墓
日樹聖人碑:墓域向かって右に建つ。昭和5祖山妙覚寺37世日壽建立。
日樹聖人碑 日樹聖人碑文
日樹聖人之碑:碑文 聖人諱日樹号長遠院生於備中黒崎早脱塵界負笈遊関東師/
事池上詔聖探求本化教義傍探台教學成陞能化創一字於浅/ 草長遠寺是也后稟池上友聖之譲補長興長榮両山第十六世/
主位益集徒衆講究當台雨教学徒爭観具縁生聖人著留意要/ <・・・・以下略・・・・> 書き下し文は次の通り。
聖人諱は日樹、長遠院と号す。備中黒崎に生まれ、早く塵界を脱し笈を負いて関左に遊び、池上詔聖に師事して深く本化の奥義を極め、傍ら台教の學成る。 ※関左:関東
能化に陞り一宇を創む浅草長遠寺是也。後池上友聖の讓りを稟け、長興長栄両山第16代の主位に補す。
衆徒を集めて台教の義を講究し、学徒爭うて霊縁の生ずるを観るに當り、聖人「留意要」等を著はして之を訂す。
文禄4年豊臣氏祖先追善の為、千僧供養を修め、本宗徒謗施を受くるを可なりとする者あり。独り中祖日奥大士流竄の厄を蒙るも屹然として不受不施の祖訓を厳守す。
聖人に亦中山賢師、平賀弘師、小西領師、碑文谷進師、中山充師等と其跡を紹継し、盛んに謗施を受用する輩を呵責す。
受徒之れを憂い、受不施の対決を幕府に訴う。 寛永7年2月21日江戸城において対決あり。
聖人等証を引き条を遂ひ、問答数次、彼等十二の詰難に答ふる能わず。遂に屈せり。
然れども養珠夫人左袒し。理非を顧みず。却て上意に背く者と称して六聖を曲処し、聖人を竄して伊那郷に謫す。
翌年58歳を以て配所に示滅す。実に寛永8年5月19日なり。茲れ歳300遠忌を迎え、聊か徳行を刻して報恩に供する者なり。 昭和5年5月
祖山第37世日壽謹んで誌す
------------------------------- 「明治36年備前妙善寺住職日寿は不受不施派祖山妙覚寺代理としてこの地に来り、これより27年間燈明料を供え、地元池上の特志者は毎日の奉燈を怠らなかった」(「日樹聖人傳」) ※日壽は大正12年祖山に晋山。
「池上古跡保存会は大正3年3月結成、会員は羽場字池上附近の人達で、現在41名。毎年5月19日は墓前祭を行う。」(「日樹聖人傳」)
「昭和30年池上本門寺貫首が法要を執行する。」(「日樹聖人傳」)
○昭和30年池上77世日教敬白文
池上本門寺復歴16世・日樹聖人への敬白文 2011-06-11 | 池上本門寺の歴史 より
昭和30年、池上本門寺第77世・石川日教上人とその一行が、本門寺貫主として正式にはじめて流地信州飯田の日樹上人の墓地を訪れた時のものである。
敬 白 文
慎しみ敬って南無平等大慧一乗妙法蓮華経、南無久遠実成本師釈迦牟尼仏、南無本化上行高祖日蓮大菩薩、宗門如法弘通勲功の先師、日朗菩薩、日輪上人等長栄山歴代先聖の来臨影嚮を仰ぎ、長遠院日樹上人の報土を厳浄し奉る。
長遠院日樹上人は両山第十四世自証院無問日詔上人の資、元和五年(1619)第十五世中正院日友上人遷化の後を承けて両山の猊座に陞る。
寛永三年(1626)九月徳川二代将軍秀忠の夫人死し、その菩提の為め諸宗の高僧をして芝増上寺に納経諷誦せしめ、将軍より回向に対し供養の事ありしも、日樹上人これを峻拒し、謗法供養不受の制法を守る。
時に徳川幕府は開創以来日浅く切支丹宗門を禁止し踏絵の検断を行なふ等、信教を自家権勢薬籠中に収めんとの謀にあり。爰を以て、寛永七年(1630)二月廿一日官に抗する日樹上人等を江戸城内老中酒井雅樂頭の座席に於いて糾弾せしも、上人の所論堂々として悉く本経祖典に基づき、これを駁する者無く、奉行理非の決断をなす能はずして後日の文書応答に持越す。然るに上人論難書を提出するも遂に答書来らざるを以って、謗法供養不受はこれ公儀に対する違背に非ずの所断を訴えしも、四月二日幕府は理不尽にも上人を両山より除歴、流罪に処して信州に追ふ。
嗚呼、上人は徳川幕府宗教政策の犠牲となって無実の罪を負ひ、翌寛永八年(1631)五月十九日配所信州飯田郷田中八郎右衛門尉の邸において病没す。寿五十八今を距る三百二十四年前なり。我が山先々代謙光院日慎上人この事を深く遺憾とし、先年門末一同に諮って上人を復歴す。
老衲長栄山の法灯を継承してより戦災復興に寧日無きも、図らずも今般篤信者福田善三郎氏夫妻の招請により北信に掛錫し、本日車を駆って上人の墓前に拈香諷誦
、年来の所願を成ずることを得たり。南信伊那の峡満山紅葉今闌にして、一木一草旧に依り寂莫、上人謫居の秋を髣髴す。茲に恭しく長遠院日樹上人我不愛身命の慈恩に報酬し、その増円妙道位隣大覚を祈り奉る
若親近法師速得菩薩道随順是師学得見恒沙仏在々諸仏土常与師倶生 南無妙法蓮華経 昭和三十年(1955)十一月七日
大本山池上本門寺 伝燈 七十七世 日教 和南
○信州に伝わるお題目の精神:池上本門寺サイト より ○長遠院日樹聖人墓所参拝
(2019年の5月であろう)五月十五日(水)から十七日(金)にかけ、菅野日彰貫首が池上本門寺復歴第十六世長遠院日樹聖人の墓所と、墓所を守る長野県飯田市長源寺(早川英章住職)へ参拝する。
本年は天台宗へと改宗された長野県伊那郡の隣政寺に参拝し、日樹聖人が信州へ伝えられた法華経・お題目の足跡を辿る。
※隣政寺:飯田市箕瀬町1丁目2453
長遠院日樹聖人は江戸幕府による不受不施弾圧によって本門寺第十六世を除歴のうえ信州伊那へ流罪となる。その後、昭和六年池上第七十四世酒井日慎貫首の代に復歴し、第七十七世石川日教貫首の代より毎年本門寺の貫首が墓参している。
菅野貫首は長源寺にてご宝前にて法味言上の後、日樹聖人の為に卒塔婆を浄書、日樹聖人墓所にて墓守をする「池上古跡保存会」の会員と共に報恩法要を営んだ後、懇親会に参加し親睦を深めました。また、菅野貫首は四条金吾頼基公の供養墓に参拝し法味を捧げ、法華経・お題目の教えを守って下さった頼基公へ感謝の誠を捧げる。
翌日は天台宗隣政寺へ参拝する。
隣政寺は鎌倉時代に日得上人によって開かれた日蓮宗寺院でしたが、日樹聖人没後天台宗へと改宗しました。その後、飯田仏教会保育園ホールにて菅野貫首ご親教を開催し、飯伊日蓮宗寺院法興会、連合護持会、協和護持会、檀信徒、総勢百五十名が参集する。
池上本門寺サイトより転載:
日樹上人墓所前集合写真 日樹上人場所横集合写真
★日樹聖人灵跡
<灵(レイ)は霊(当用漢字)の略字、本字は靈>
○「日樹聖人傳」 より
霊跡付近は「池上」の地名が残る。 ◇日樹上人聖灰塚
霊跡東は羽場権現(白山大権現、現・元山白山神社)であるが、その参道を南東に約100m下った所に日樹上人聖灰塚がある。
「聖灰塚は荼毘の跡で近くの畑から掘り出された室町期との鑑定の五輪塔が建つ。(五輪塔のことは村沢武夫氏親書)」(「日樹聖人傳」)
○以下は「GoogleMap」 より
日樹上人靈跡空撮:上記の「日樹聖人灵跡」の空撮で、一部推定で文字入れ
日樹上人聖灰塚1:石灯篭は白山大権現参道にあり、参道向うにもう1基あり、これは権現堂のものである。
日樹上人聖灰塚2:長遠院日樹上人灰塚碑と五輪塔・石碑(内容不明)各1基がある。 ※聖灰塚は、帰着してから知り、未見。
◇霊跡跡西側の七重石塔・子育鬼子母神・各種石碑
日樹上人霊跡全容:日樹上人墓の西に、更に七重石塔、題目碑など数基があり、上記の「日樹聖人灵跡」にはない祠・鳥居がある。これらは現地で気つかず、帰着してから知り未見。鳥居と祠はどうせしょうもない国家神道の祠と決めつけたのが間違いであった。七重石塔はおそらく「日樹聖人傳」でいう寛文3年建立の供養塔であろうか。
「寛文3年(1663)33回忌に当たり、吉田茂右衛門(藩主脇坂安政の家臣)が墓脇に供養塔を建てる。摩滅して読み難いが【経王妙典妙経結要各千部成就真浄院妙法院。寛文三年施主吉田茂右衛門日勝・花押】等の文字が見える」(「日樹聖人傳」)
この供養塔は未見であるが、石造七重塔のことであろうか。 日樹上人霊跡西側:中央の祠・鳥居は子育鬼子母神というが、詳細不明、周囲に七重石塔、3基の石碑がある。向かって右の黒い石碑は「御墓所修復記念」である。
○以下は2022/04/19撮影写真の一部を切り取りしたもの
御墓所修復記念碑ほか:鬼子母神祠と題目石ではない石碑が写る。 墓所修復記念碑ほか2
鬼子母神祠
鬼子母神鳥居ほか:七重石塔基部、石碑3基が写る。 鬼子母神鳥居ほか2:七重石塔下部も写る。
2022/08/12追加: ○「絵で知る 日樹聖人伝記」花田一重、日樹聖人遺徳顕彰会、昭和38年 より
◇飯田市の日樹聖人の墓:18ページ
飯田市の日樹聖人の墓:次のことが分かる。 寛永8年日樹上人、報弟日遵・じいやばあ(日勤尼か)の唱題の声の中で遷化した。
日樹上人墓は法弟日利がもとの草庵跡に建て、現在「地の池上保存会」が整美している。 右側の「日樹聖人之碑」は岡山から輸送建立される。
そして図には七重石塔(六重に見える)が描かれる。 ◇飯田市の聖灰塚19ページ
飯田市の聖灰塚:次のことが分かる。
聖灰塚の五輪塔の左側に建つのは多田三七の句碑(「片割れ月山波浮いて青葉風」)と知れる。なお背景の連峯は南アルプスであり、此処から望まれるという。
「名にしおふ」の歌碑は墓の左側にあるが、画面の都合でここに書き加えるということで、墓所の向かって左には「歌碑」があることも分かる。
★日樹上人その他の供養塔
1)備中山田お塚(山田隠し墓)
不受不施派の拠点であった備中山田にはお塚と称する不受不施派先師の供養塔があり、ここに日樹上人の名が刻まれている。 →備中山田お塚(山田隠し墓)
2)備前津島妙善寺 備前津島には不受不施派の拠点であった唯紫庵があり、津島に妙善寺は再興されるが、ここに日樹上人を含む不受不施派先師の名を刻む供養碑がある。 →備中津島妙善寺
3)武蔵麻布若松寺 →麻布若松寺<武蔵牛込市谷自證寺中>
付近にある風景; ○元山白山神社(白山大権現・権現堂) 情報が殆どなく、由緒など皆目分からない。
祭神はイザナギ、菊理姫(白山比賣)、オオナムチ、相殿は倉稲魂(ウカノミタマ)、武甕槌(タケミカヅチ)である。
白山大明神であるから、菊理姫は分かるが、イザナミやオオナムチなどは気持ち悪い。ウカノミタマもタケミカヅチも臭すぎる。
本殿は神明造で、伊勢の真似事なのであろうか、だとすれば、社殿までも、おまえまでも気持悪しである。 日樹上人墓はこの権現堂の麓にある。
2022/04/19撮影:
羽場権現権現堂1 羽場権現権現堂2 羽場権現権現堂3 羽場権現権現堂4 羽場権現権現堂5
付近にある風景2: ○砂払富士講碑・名号碑
富士講碑:明治初年、砂払温泉西にあった浅間社が神仏分離で廃社となる。 その境内にあった三基の石碑は明治16年頃に移動する。
芭蕉の句碑は阿弥陀寺境内へ、富士塔及び名号碑は阿弥陀寺入口の原田家所有地に移されるも、この2基は平成16年の県道拡幅工事に併せて、現在地(砂払町1丁目)に再移動する。
なお、砂払温泉は石碑の対面にある。(ただし、現在の砂払温泉が昔のままの位置かどうかは不明)阿弥陀寺も北方向すぐにある。
「砂払」とは、木曽から大平峠を越えてきた旅人が、「砂」を「払って」飯田に入ったということに由来する。おそらく、江戸期にはあったものと思われる。温泉も明治期にはあったようである。
○GoogleMapより
富士講碑・名号碑
2022/04/19撮影
砂払富士講碑:左の石碑は判読できず、不明
砂払享和元年名号碑 砂払名号碑説明板
★備中寺谷法福寺/屋守法福寺
:京都四条妙顕寺末
「大覚大僧正と三備開基寺院」より:
「元和年間、仏乗寺第16世日仙上人、法議に異論を強張して、自ら建立するものなり。其の際仏乗寺宝物、覚師御本尊を手にして此に転住して其の立義を主張す。寛文年間時の領主より法論の停止を命ぜらる。・・・・」「当山の歴代は殆ど仏乗寺歴代上人の兼務する所なり。」
開基:大覚大僧正
2世:光乗院日仙上人(仏乗寺16世)、日樹上人25回忌に当り、明暦2年供養塔を建立。
7世:日要上人、安永10年、日蓮上人500遠忌塔建立。
2005/05/04撮影:
法福寺全景:
但し、堂宇は一宇のみで、おそらく本堂と庫裏とを兼用したものと思われ、簡素な建物である。
仏乗寺に向かって右のやや上段に位置する。門や塀などは無く、恐らく仏乗寺境内を割譲して建立したとも思われる場所に位置する。
2014/11/24撮影:
寺谷法福寺2 寺谷法福寺3:背後の藪中に日樹上人供養塔がある。
法福寺裏の竹薮の一画に日樹上人供養塔がある。
写真右の石塔が「日蓮上人500遠忌塔」である。(2005/05/04撮影)
○日蓮上人500遠忌塔1:「奉冩五百御遠忌砌 當山七世日要」
○日蓮上人500遠忌塔2:「安永10年(1781)正月13日」
※この石塔の向かって左の笠塔婆(明和4年<1767>年記)は信徒の墓と思われる。
★備中寺谷仏乗寺/屋守仏乗寺:京都四条妙顕寺末
2014/12/08記す:
2010年前後であろうか、佛乗寺本堂・庫裏は取り壊され、現在は更地となる。歴代墓所は健在である。 「大覚大僧正と三備開基寺院」より:
文和元年(1352)大覚大僧正、真言宗の寺を改修し創建す。
天正年中の兵乱で、宝物等分散、大破せしを、元禄年中当山18世円行院日融上人により中興開基せるものなり。
開基:大覚大僧正
2世〜5世;備後粟根妙永寺より住職す。
15世;明智院日英上人、天正10年来住、池上本門寺日樹聖人の師、慶長16年化。
16世:光成院日仙上人、池上日樹直弟子、慶安の頃祖父氏に法義の異論を唱へて、時の領主水谷候之を停止す、師自を其の傍に一宇を建立し、当寺の什宝覚師御本尊を手もて移る、今の法福寺之なり。
19世:真善院日明上人、享保18年(1733)在住、寛保2年(1742)備中野山妙本寺26世となる。御流儀大導坊日唱上人の師。
20世:法顕院日唱上人、事績の記載なし。(大導坊日唱上人とも思われるが不明。)
38世本性院日善上人大正4年遷化の後は昭和15年原田智詮師在住まで、庭瀬中正院住職が法福寺とともに兼帯す。 2018/10/15追加:
○「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」:「濱野松壽寺」の項 より
松壽寺寺宝の大覺大僧上筆の十界本尊は文和2年4月2日付けのもので、今右下方の被授与者名を欠くが、文政6年の尼崎本興寺日英の極書(きめがき)によると「大覚大僧正文和2年4月2日、佛乗寺授与之御本尊、御真筆無疑者也」とみえ、備中黒崎佛乗寺の本尊と思われる。 →濱野松壽寺
■2014/11/23撮影:
第39世原田智詮師が平成7年(1995)遷化、ご夫人は暫く在住という。
その後10数年に渡って本堂・;庫裡は存在していた。
しかし、何時しか2010年頃であろうか、本堂・庫裏は取り壊された。取り壊しの理由は分からない。
檀家はこの付近にはなくて、おそらく柏島の北端附近に檀家があるという。したがって詳しいことは分からない。
(以上は付近の住民への聞取り)
◇印は2014/11/23撮影、○印は2005/05/04撮影
この地区の字は寺谷という。
また下に掲載のように2005年(住職遷化から10年後)には堂宇は健在であった。
当時は、数か年に渡り無住ではあったが、荒れ寺という印象ではなく、手入れのされている寺院の印象であった。
現在堂宇は取り壊されて数か年は経過するようであるが、跡地は放置し荒れるに任せるという状態ではない。
▼古の佛乗寺堂宇
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○佛乗寺全景(高精細);左図拡大図
○佛乗寺本堂(高精細)
以下は2005年掲載;
○仏乗寺全景:本堂及び庫裏、右端に少し写る堂宇が法福寺。
仏乗寺は数年前より無住の由であるが、
現状はさほど荒廃しているようには見えない。
地区民に管理している関係者を尋くも不明。
○仏乗寺本堂:山門・塀など
は無く
解放的な空間に本堂・庫裏・庭などのみがある。
佛乗寺位置:地図から抹消さ
れつつあるので、地図を掲載 |
○山奥題目石:黒崎から山奥・郷戸経由仏乗寺に至る路傍(字山奥)にある。
○仏乗寺題目石1-1(大覚大僧正):入口石段脇に建つ。 ◇佛乗寺題目石1-2:享保九甲辰年(1724)年紀
○仏乗寺題目石2-1:仏乗寺入口に至る道の正面の境内地に建つ。
◇佛乗寺題目石2-2
▼仏乗寺堂宇跡
◇佛乗寺跡1:正面中央に本堂があった。 ◇佛乗寺跡2:本堂跡更地
◇佛乗寺跡3:上掲仏乗寺全景の写真と同一アングルで撮影 ◇佛乗寺跡4:園池跡
▼仏乗寺歴代墓碑
◇佛乗寺歴代墓碑
向かって右端の新しい墓碑が原田智詮師墓碑である。
後列に正面が写る墓碑が6基並ぶが、墓銘及び事績は向かって右から次の通りである。
・當寺中興圓立院日乗 第17世寛永18年(1641)在住、宝永4年(1707)化
・榮教院日證大徳 第26世、黒崎妙立寺日融の直弟子、黒忠(横谷か)妙泉寺六世、天明4年(1784)化
・圓行院日融聖人 第18世、黒崎妙立寺日性の師、圓立院の直弟子、享保15年(1730)化、68歳
※日融は下に述べる「柏島天満町法華題目碑」を発願した上人である。
・真善院日明聖人 第19世、享保15年(1730)来住、寛保2年(1742)野山妙本寺26世となる。
延享4年(1747)化、47歳
・正順院日教聖人 第33世、文政6年(1823)来住、23ヶ年在住、明治4年化、67歳
・素淳院日修大位 第22世、宝暦9年(1759)来住、明和7年(1770)化、82歳
※その他の墓碑については後日を期す。
◇原田智詮師墓碑1 ◇原田智詮師墓碑2
正面は智廣院日隆上人、側面は第39世原田智詮 昭和15年在住、平成7年(1995)7月9日遷化、88歳
※原田智詮師と小生(s_minaga)は昭和50年頃かその少し後に仏乗寺にて一度対面をする。
この時原田師より次の3書の贈呈を受ける。
「大覚大僧正と三備開基寺院」原田智詮(仏乗寺住職)著、非売品、昭和49年刊
「日樹聖人傳」原田智詮校閲、花田一重編著、日樹聖人遺徳顕彰会、昭和36年
「絵で知る 日樹聖人伝記」花田一重著、日樹聖人遺徳顕彰会、昭和38年
◆柏島天満町法華題目碑:2012/11/20追加
碑文より、享保15年屋守仏乗寺18世日融上人の発願で建立されたものと推定される。 2017/10/08撮影:
天満町題目碑00 天満町題目碑01
2012/11/10撮影:
○天満町題目碑1:「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 四百五十年忌 御報恩」
※日蓮上人450年遠忌の報恩塔である。450年遠忌は享保16年(1731)と思われる。
○天満町題目碑2:
※民家と比較して分かるように相当な大型の題目碑である。
○天満町題目碑3:向かって右側面:「願主堺之住人■(頌)■(日?)■(受?)三千ヶ寺参詣成就」
※堺の住人何某が3000ヶ寺参詣成就とある。
○天満町題目碑4:裏面:「發願者佛乗寺■(十)八世■(日)■上人 ■(享)保十■(五)■■ 7月十三日」
※発願は仏乗寺18世(仏乗寺歴代譜によれば18世は日融上人、享保15年11月68歳にて遷化)であり、
年紀は享保15年とある。
○天満町題目碑5:向かって左側面:「■■(辰)之年中大坂失火焼死之霊魂諸国■之■(旲?)魂■(自)■■」
※他の年紀および「「■■(辰)之年中」から「大坂失火」とは享保9年(甲辰・1724)の「妙知焼け」と推定される。
「妙知焼け」とは享保9年3月21日午の刻(正午)、南堀江の金屋治兵衛の祖母妙知尼宅より出火、翌22日申の刻
(午後4時)まで燃え続ける。大坂三郷の2/3の408町が焼失する大火であった。
以上等を総合すれば、この大型の題目碑は、享保15年屋守仏乗寺18世日融が、日蓮上人450遠忌、堺住人何某の3000ヶ寺参詣記念、および享保9年の大坂大火の焼死者にたいする慰霊のため、この地に建立されたものと推定される。
この碑は旧道に面した丘側(西側)に建つ。今この碑の建つところの旧道東側(海側)は人家が建ち、さらにその東側も昭和40年代頃港が埋め立てられ新道が作られ、港を往来する船からは見えなくなっている。
しかし、建立当時は当然昭和戦後の新道はなく、さらには旧道東側はすぐ港(海)であり、玉島港に出入する船から良くみえたのではないだろか。さらにこの界隈一画は遊郭であったといい、かなりの賑わいがあり、碑の建立の好地であったように思われる。
2013/01/15追加:
「日樹上人傳」原田智詮、昭和36年 では以下のように述べる。
「享保15年7月13日発願者仏乗寺18世日融上人」願主の三千ヶ寺参詣成就を遂げた順海日受は日蓮大菩薩450年忌を兼ねて、享保9年3月大坂の大火に焼死の諸霊の為、玉島天満町に高さ11尺5寸(3.48m)の供養塔を建立。
※以上から、向かって右側面:「願主堺之住人■(頌)■(日?)■(受?)三千ヶ寺参詣成就」は「願主堺之住人順海日受三千ヶ寺参詣成就」と知れる。
裏面:「發願者佛乗寺■(十)八世■(日)■上人 ■(享)保十■(五)■■ 7月十三日」は「發願者佛乗寺十八世日融上人 享保十五年 7月十三日」と知れる。
◆柏島薬師堂(日樹上人・仏乗寺とは無関係)
2017/10/08撮影:
柏島天満町題目碑からおよそ5町北に柏島薬師堂がある。 ※本薬師堂は本ページとの脈絡は皆無であるが、題目碑附近の佛堂として取り上げる。
現柏島薬師堂:元は背後の石階を上った堂屋敷にあった。現薬師堂より一回り大きい堂宇であったが、何時しか腐朽し、取り壊され、石階下に小宇として再建され、堂内の仏像も遷座したものと推定される。
石階手前には宝暦14年(1764)の石造地蔵菩薩坐像の巨像と文政9年(1826)の大石燈籠とが現存する。
柏島薬師堂石階:この石階の上の壇が薬師堂境内であるが、ここに薬師堂があった、現在は更地となり、この地方に分布する札所と禅宗関係と思われる石塔(判読は困難)のみが残存する。
堂内には薬師三尊及び十二神将と近年の厨子(薬師如来坐像)が安置される。
諸仏はおそらく上述の石造地蔵菩薩坐像や石燈籠と同時代の江戸中期か末期の造立であり、決して優れたものではないが、この縁起も知られない薬師堂の諸佛として守られていることをここに記す。
柏島薬師堂薬師三尊十二神将 柏島薬師堂薬師三尊 柏島薬師堂十二神将1 柏島薬師堂十二神将2
柏島薬師堂厨子内薬師如来
◆江戸土冨店長遠寺
◎土冨店長遠寺諸資料
○「土冨店長遠寺略縁起」(土冨店長遠寺住職山本日偉著)では
「当山は・・・文禄3年/1594長遠院日樹上人の開創にかかり安立山長遠寺と号す。はじめ日樹上人が宗祖開眼開運の御尊像を奉じて江戸に下るや、徳川養珠夫人や狩野法眼宗信等が外護の力を致し、祖師堂既に成る。・・・」とあると云う。
「日樹上人傳」(原田智詮、花田一重)では、日樹上人は「まだ21歳ゆえ後年の創立と思われる。」と云う。
○「江戸名所圖會」(天保年中)
「日蓮大菩薩:安立山長遠寺に安置す。」南禅寺普門禅師、日輪の中に二菩薩の尊影を拝す。自らの筆で之を模し、霊告により、弘長元年関東に下り、日蓮上人に点眼を乞い求む。日蓮は開眼供養あって、その後大士自らの肖像を刻み、禅師に贈る。これが長遠寺の日蓮大士像である。
禅師帰寂の後、京師要法寺に遷し、また妙栄寺に安置せしが、故あって、文禄3年の頃、長遠寺に遷せり。 とある。
※故あってとは不明であるが、意味深長ではある。
○「御府内寺社備考」(文政年中以前)では「池上本門寺末 浅草新寺町 安立山長遠寺 境内拝領地1200坪。起立之儀は、文禄3年ニ御座候。元京都要法寺末ニ而妙栄寺と唱候処、元和7年6月11日千部供養之節、長遠寺と相改、池上本門寺末ニ相成申候。開山慈眼院日端、明暦3年7月9日卒。」とあると云う。
※この資料では、元は京都要法寺末妙栄寺であったが、元和7年長遠寺と改称し池上本門寺末となると云う。開山は慈眼院日端と云う。
以上のように土冨店長遠寺諸資料では日樹創建という以外に別本もあり、判然とはしない。
確かに、開創が文禄3年では日樹が21歳の時であり、少々無理とも思われる。また京都要法寺と日樹の接点が不明であり、日樹が当寺に祖師像を遷した経緯も不明である。
不受不施は幕府の度重なる弾圧を受け、寛文年中以降は禁制となる。「故あって」不受派の寺院は弾圧の故、生き残りのためには、寺歴を公然とはできないあるいは寺歴を変更することを余儀なくされたことがあったと容易に推測することが可能である。
長遠寺は池上日樹の時代に、おそらくは日樹との関係があったものと推察されるが、長遠寺に於いても不受であった時代の寺歴は消され、今となっては新資料の発見がない限り、これも不明とするほかは無いのであろう。
2013/06/09撮影:
長遠寺山門:土冨店祖師堂として江戸十祖師の一つである。
長遠寺山門・本堂
長遠寺題目碑1 長遠寺題目碑2 長遠寺境内・本堂
長遠寺本堂1 長遠寺本堂2 長遠寺玄関客殿 長遠寺庫裏か
◆江戸市野倉長勝寺:日樹上人供養塔:大田区中央6-6-5
日樹上人供養塔がある。<未見>
○「新編武蔵風土記稿」には以下のように記すと云う。
「除地1段1畝12歩。八幡宮の並びにあり。法華宗、房州長狭郡小湊誕生寺末、覚應山と号す。開山陽善院日繕上人、開闢の年代を傳へず。二世日言寛文11年入寂すといへば、させる古寺にはあらず。本尊三宝客殿に安ず。」
あるいは、寺伝では正保3年(1646)新井宿村の郷士/田中長勝が檀越となり創建したと伝える。
池上本門寺末であったが寛文年中に小湊誕生寺末に転ずると云う。
※「新編武蔵風土記稿」に云う八幡宮とは現太田神社である。長勝寺が別當であったが、明治維新の神仏分離の処置で分離し太田神社と改号、八幡大菩薩像は長勝寺に遷すと云う。
木造八幡大菩薩像は那須与一守本尊といい、昭和20年八幡宮は戦災で焼失するも、長勝寺に遷座した大菩薩像は焼失を免れる。昭和28年拝殿が再建され、八幡大菩薩像は長勝寺より復座する。
○池上本門寺15世日樹上人供養塔
日樹三十三回忌に近在の信徒によって建立と銘文に記すと云う。
○日蓮聖人坐像
木造寄木造り、彩色、玉眼、像高36.7cm。
台座裏銘文では、寛文元年(1661)了性寺の祖師像として、杉本七良右衛門と奉加の人々により、野口彦右衛門が施主となり造像されると云う。
開眼は、大野法蓮寺(下総市川)十八世日完上人である。
※日完上人は寛文5年(1665)不受不施の儀により、伊予吉田に配流さる。 →谷中感應寺中に日完上人記事あり。
※本像は、了性寺祖師像として造立されるも、了性寺が不受不施として弾圧され、おそらくは同派縁故の長勝寺に遷されたものと推定される。
2022/08/10追加: ○日樹上人供養塔 現地説明板 より 笠塔婆型の供養塔
寛文3年(1663)日樹33回忌を期して近在の信徒集団によって建立される。
流罪の後も、池上周辺(特に市野倉)では不受不施信仰が根強く存在していたことを示す遺産である。
昭和6年の三百回忌に際し、池上本門寺16世に復暦する。 長勝寺Webサイトから:
長勝寺日樹供養塔1 長勝寺日樹供養塔2
供養塔表面には次にように刻む。 寛文三癸卯年 奉唱満題目二千部成就處 妙法蓮華経 両山第十五世日樹聖人
第三十三箇廻忌之増進佛道祈者也 五月十九日
※本碑には両山15世とある。今は復暦16世とするも、本来は両山15世と思われる。 現在、池上14世は自證院日詔、15世は中正院日友、復暦長遠院日樹、16世心性院日遠とする。 寛文3年当時日樹は15世との認識であり、なぜ復暦16世なのかはよく分からない。
※日友:元亀元年(1570)生まれ。日新について出家、下総飯高檀林に入檀。同檀林の化主をへて元和3年(1617)両山15世となる。元和5年(1619)6月14日寂。50歳。著作に「法華玄義捃釈」など。
2006年以前作成:2023/04/20更新:ホームページ、日本の塔婆、日蓮上人の正系
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