三   匝   堂  ・  栄   螺   堂

三匝堂(栄螺堂)

参考・参照:
  当ページは、サイト:日本すきま漫遊記>「さざえ堂とは?」  から多くを得る。<深謝>

三匝堂・栄螺堂

建 立 時 期

状  況

武蔵本所羅漢寺
 東京都墨田区
安永9年(1780) 安政2年(1855)地震損壊、明治8年取壊
「江戸名所図会 巻7」より
 江戸名所図会・羅漢寺
 江戸名所図会羅漢寺三匝堂:左図拡大図

「羅漢寺三匝堂考」より
 本所羅漢寺三匝堂百観音之図(木版)
 羅漢寺三匝堂新築計画図

江戸名所四十八景五百羅漢(安藤広重画)
五百羅漢右繞三匝堂之図 (北尾重政図)
2008/01/08追加:
東都名所 五百羅漢さゞゐ堂(歌川広重)天保年中
名所江戸百景羅漢(安藤広重画)

下野能持院
 栃木県茂木町
天明5年(1785) 明治4年台風倒壊、あるいは大正年中老朽化・腐朽とも云う。(写真と概観図が残存とも云う。)
現存
武蔵成身院
 埼玉県児玉町
天明5年(1785)頃建立 明治21年(あるいは明治20年)焼失、明治44年再建

「O」氏1995/12/03撮影:2008/01/08追加
武蔵成身院百体観音堂1
  同           2
         (左図拡大図)
  同           3
  同           4
  同           5
  同          16
以下大型の鰐口:
 径1.8m・寛政11年
  同          17
  同          18

以下客体観音堂内部
武蔵成身院百体観音堂6
  同           7
  同           8
  同           9
  同          10
  同          11
  同          12
  同          13
  同          14
  同          15
 
内部は常時公開と思われる。
平等山と号す、足利持氏開基、禅密兼学元昭上人開山。
天明3年(1783)浅間山の大噴火で多くの犠牲者を出す。成身院元映上人は、この菩提のため百体観音堂を建立。
百体観音堂は高さ約20m。外観は二層堂、内部は三層の回廊造りで右回りに三匝する。一層は秩父34観音、二層は坂東33観音、三層は西国33観音を祀る。三層中央に本尊白衣観音を祀る。
2009/06/25撮影:
 成身院百体観音堂31       同        32       同        33
   同        34       同        35
 2009/06/25は管理人不在?で、内部拝観は叶わず。
なお境内北側すぐに移設された
東小平中山遺跡塔礎石(東小平中山廃寺塔礎石)がある。
武蔵浅草寺梅園院
 東京都台東区
寛政11年(1799) 完成直後に取壊
2008/01/08追加:
完成直後に取壊とは次のような経緯とされる。
「浅草寺子院梅園院地蔵堂(さざえ堂)の建設と破却」光井渉(学術講演梗概集、1989所収) より
梅園院地蔵堂の記録の初見は以下と云う。
・「御用記」寛政10年(1798)正月19日の条:
「有来り之堂四間四方ニ弐間之拝殿、弐間ニ六間之御供所都合六間ニ御座候処、此度六間四方之土蔵造り一宇ニ造替修復仕度奉存候、」
以上によれば、従来の三棟の建築(4面四方地蔵堂、4×2間拝殿、2×6間御供所)を6間四面の地蔵堂に造替する願書が提出され、その建築が計画されたと知れる。
その計画された新しい地蔵堂の概要は以下のようであった。
・「公私日並記」寛永10年7月24日の条:
「惣土蔵造ニ御座候故六間四方ニ準シ惣高地形石面より棟端迄三丈六尺ニ相成申候」
・「御用日記」寛政11年5月28日の条:
「此度再建奉願候地蔵堂一宇不残土蔵作りニ仕、二階ニ子育仁王尊安置仕、三階ニハ別堂に御座候聖観音安置仕候・・・拙地蔵堂之儀者四方不残厚壁ニ而明り窓付、筋金入候而有触候土蔵之作事ニ御座候」
・「公私日並記」寛政11年6月7日の条:
「寺社奉行所
  覚
一、梁 三間 一、桁行 弐間宛 但つぎつぎ
 右拙寺地蔵堂六間四方之所本建方は三間四方、四方ニ九尺ツ々しころ葺
一、百観音 弐尺壱寸より弐尺八寸迄但台座共
 右御尋ニ付奉申上候、以上」
以上によると地蔵堂は六間四方が「本建方」で本尊地蔵尊を安置、周囲には幅9尺の庇を廻らし、その部分は2階3階があり、各々仁王尊・聖観音が安置、その他百観音(西国・坂東・秩父の観音写し)も安置される構造であった。外観は土蔵造りで、「明り窓」のみがある・・・。
以上のような地蔵堂の全容が明らかになるにつれて、実際と願書との内容が相違するなどと、梅園院は役者から叱責されるなど問題が顕在化してくる。
しかし、工事は進行し、寛政11年4月27日には「5月15日には入仏供養」の段取りとなる。
 この頃には堂宇の造り即ち梅園院地蔵堂と本所羅漢寺三匝堂との相似が問題となり、寺社奉行の糾弾に種々弁明するも、遂に寺社奉行は5月15日の「入仏供養」を差し止め、地蔵堂門前は封鎖される処置を採るに至る。
 そもそも、寺社奉行は「元禄年中書付」により、浅草寺に対し、坊舎の作事については自主的な作事を保証していた。
しかるに、寺社奉行は「右之造り方元形ニ無之俗ニさゝゐ堂と唱ヘ候三階ニ而百観音等追々安置」の様子であり、「元禄年中書付」で認めた自坊・坊舎の作事でないと判断し、その結果、上記の処置に出る。
更に寺社奉行は寛文8年(1668)の寺社建築に関する規制(「梁行京間三間を限へし・・・・」)違反をも糾弾してくる態度に出る。
寛政11年6月24日寺社奉行のもとで図面の吟味が実施される。
同年11月21日寺社奉行松平周防守は、以下を裁定する。
「三階之堂者常之堂とハ違ひ候間、御奉行所江願出御差図を請可申処、無其儀目立候堂を建立候壇不行届儀ニ付、常体之堂ニ建直可旨被仰渡候・・・」
この裁定により、梅園院地蔵堂の取壊しが確定し、同年8月26日に地蔵堂は一度も公開されることなく破却される。
建築された地蔵堂は中央に吹き抜けを持つ三層堂であり、百体観音の安置をも考えると、その構造の実態は安永9年(1780)の羅漢寺三匝堂と瓜二つである。要するに、浅草寺は自寺に与えられた「作事」自由の自坊・坊舎とは似つかない「三匝堂」を「無届」で「作事」し、寺社奉行の「取締」(幕府の寺社取締)に抵触したということであろう。
 註:「公私日並記」:別当代記録(元文5年以降、別当は東叡山門跡兼帯・浅草寺には別当代が本坊伝法院に常駐)
 註:「御用記」:浅草寺役者の日記(役者は衆徒12院からニ名を互選・浅草寺の実権を握る)
 註:「元禄年中書付」:「自坊並境内坊舎作事之事、是又前々通不及届間可被申付候・・・」
現存
上野曹源寺
 群馬県太田市
寛政5年(1793)
「羅漢寺三匝堂考」より:  曹源寺三匝堂内部

「O」氏1995/11/19撮影:2008/01/08追加
上野曹源寺観音堂1:以下外観
  同        2
  同        3
  同        4:左図拡大図
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8;観音堂絵図、堂内展示と思われる。
  同        9:以下堂内
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13:堂外

内部は常時公開と思われる。
祥寿山と号す。曹洞宗。寺伝では文治3年(1187)新田義重の開基と伝える。祥寿院と号する。(養女祥寿姫の菩提のため)その後、横瀬氏によって再興、寺号を曹源寺と改号とされる。
寛政5年(1793)本堂観音堂を創建。一辺9間(約16.3m)、高さ55.5尺(約16.8m)で東面する。
屋根方形桟瓦葺。正面中央に高い向拝を付ける。外観は重層の二階建、内部は三層になっている。
 (現存三匝堂では最大の平面積を持つと云われる。)
堂内には秩父34観音、坂東34観音、西国33観音の百観音像を安置、右回りに堂内を一方通行で巡拝できる。

現存 (重文)
陸奥正宗寺
 福島県会津若松市
寛政8年(1796) 正宗寺は明治の神仏分離で廃寺。
「O」氏ご提供:2000/10/16撮影 :2008/01/08追加                                               
陸奥正宗寺三匝堂: 斜下図拡大図

陸奥正宗寺三匝堂1:以下外観
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8:以下内部
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
  同       14
  同       15
  同       16

高さ16.5m、六角三層堂、内部は二重螺旋構造の斜路が続き、右回りに上る斜路と左回りに下りる斜路が別々に存在する。

「O」氏ご提供:1664/11/21撮影:2008/01/08追加

陸奥正宗寺三匝堂21:左図拡大図、以下外観
  同        22
  同        23
  同        24
  同        25
  同        26
  同        27
  同        28
  同        29:以下内部
  同        30
  同        31
  同        32
  同        33
  同        34
  同        35
  同        36

内部は常時公開と思われる。

2014/04/20追加修正:
2014/04/09撮影:
 会津正宗寺三匝堂41    会津正宗寺三匝堂42    会津正宗寺三匝堂43    会津正宗寺三匝堂44
 会津正宗寺三匝堂45    会津正宗寺三匝堂46    会津正宗寺三匝堂47    会津正宗寺三匝堂48
 会津正宗寺三匝堂49    会津正宗寺三匝堂50    会津正宗寺三匝堂51
 会津正宗寺三匝堂52:入口中央の像が「郁堂禅師彫像」である。
 会津正宗寺三匝堂53    会津正宗寺三匝堂54    会津正宗寺三匝堂55    会津正宗寺三匝堂56
 会津正宗寺三匝堂57    会津正宗寺三匝堂58
「円通三匝堂(さざえ堂)実測図」日本大学理工学部建築史研究室、小林文次、1965年実測 より
 円通三匝堂実測図表紙
 円通三匝堂実測図正面図    円通三匝堂実測図平面図    円通三匝堂実測図断面図
  同    大屋根見上図

現三匝堂(さざえ堂)、弁財天、飯盛本家の付近一帯は正宗寺境内であった。

正宗寺辨財天の創建は永徳年中(1381-83)石塚、石部、堂家の3家が辨財天を勧請し社殿を建立したのが始まりと伝える。所在する飯盛山を辯天山と称するのはこの謂いである。
 ※現在では、明治の神仏分離の処置で、正宗寺は廃寺、正宗寺辨財天は厳島神社と改号され、
 別当が正宗寺であったという解釈が流布している。
 国家神道から見れば、正宗寺は辨財天社別当という見方をするのであろうが、
 実態は辨財天社を本堂・辨財天を本尊とする正宗寺と号する寺院があったということと思われる。
元禄13年(1700)会津藩三代藩主松平正容は寺領(辨天山周辺の580間)や仏像を寄進、社殿の造営・鳥居(現存)・仁王門・青銅製大仏・宇賀神堂などを建立する。
寛政8年(1793)郁堂禅師、三匝堂建立。本尊は阿弥陀如来であり、斜路には33観音像を安置するという。
 ※郁堂禅師は正宗寺の本寺であった馬場五之町実相寺の住職であった。禅師の生地や場所は記録を失い不明であるも、当時は正宗寺兼帯であったと伝える。
 郁堂禅師彫像:三匝堂入口正面に安置されるのが禅師の彫像との説明である。

明治初頭の神仏分離の処置で、当時の正宗寺住職宗潤が還俗、飯盛正隆と改名、正宗寺は廃寺、弁財天社は厳島神社として改竄され、宗潤養子正信が厳島神社神職となる。。
本尊阿弥陀仏、三匝堂三十三観音像は恐らく廃棄、庭前の唐金大仏(一丈六尺)は七日町阿弥陀寺に遷座する。
正宗寺境内地・堂宇は、幸いにも、飯盛家の努力により、飯盛山の土地は新政府から地券により購入、三匝堂、宇賀神堂は本宅の付属の建物として、境内は宅地として所有管理することとなる。但し、厳島神社は郷社となり、村役場の管理つまり国家神道の管理となる。
 ※飯盛家本宅は「旧飯盛山正宗寺そのものであり」というから現存する。また「さざえ堂より50年ほど古い」ともいう。
 ※唐金大仏は七日町阿弥陀寺に遷座したのは確実と思われる。それは写真が現存するからである。
 但し、大仏そのものは今次大戦の金属供出で供出され現存しない。
  七日町阿弥陀寺古写真1      七日町阿弥陀寺古写真2
   何れもページ「風の人:シンの独り言(大人の総合学習的な生活の試み)」より転載、
     s_minagaには写真の時期を特定する力量はないため、撮影時期は不詳。
 ※仁王門の消息は不明、恐らくは棄却されたものと思われる。
 その位置も不明であるが、現在の地形から飯盛家本宅の東にあったものと思われる。
 ※本尊阿弥陀仏、三匝堂三十三観音像の消息は不明である。
三匝堂の履歴は以下のとおり。
 明治23年、三匝堂大修理(会津有志による)、同時に白虎隊十九士像を祀る。
 明治37年、白虎隊十九士像を撤去、「皇朝二十四孝」絵額を掲げる。
  ※撤去十九士像は宇賀神堂(現存)に合祀。
 大正4年、屋根葺替、昭和七年、杮葺屋根の上に銅板を施工。
 昭和28年、傾斜の引起し工事施工。
 昭和50年、屋根大修理、平成6年擬宝殊落下事故・復旧。平成7年、重文指定。
三匝堂以外に以下の正宗寺遺構が残る。
 会津正宗寺弁財天:春日造、屋根銅板葺。
 会津正宗寺宇賀神堂:寛文年間(1661-)会津藩三代藩主松平正容が宇賀神を勧請し弁財天像を 祀る。
  桁行3間、梁間2間、入母屋、銅板葺。白虎隊十九士像を祀る。
 会津正宗寺地蔵堂:地蔵堂が正宗寺遺構はどうかは未確認、地蔵堂の向かって左奥に写るのが飯盛家本宅
  つまり、正宗寺坊舎であろう。
 会津正宗寺坊舎:上記写真から正宗寺坊舎を切り取りしたもの。

現存
常陸長禅寺
 茨城県取手市
享和元年(1801)
あるいは
宝暦13年(1763)
宝暦13年(1763)再建及び享和元年(1801)再営の2枚の棟札が残存、3階縁高欄の親柱擬宝珠に寛政12年(1800)の刻銘がある。
「O」氏1995/12/03撮影:2008/01/08追加
常陸長禅寺三世堂1;左図拡大図
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7

方5間の楼造、1重3階、宝形造、1間向拝付、屋根銅板葺。側回りを2層積み重ね(外観2層・平面規模は上下層とも同じ)、下層を1階と2階,上層を3階とし,栄螺堂の回廊を廻らす。下層柱間は5間四方,上層は3間四方とし、内部には上下層通しの四天柱を立てる。

内部は年1度 (4月18日)の公開と云う。しかし状況によっては、午後のある時間で公開打ち切りということも有り得ると云う。(公開時期などは念のため、自己確認が望ましい。)
長禅寺三世堂(観音堂)(三匝堂・さざえ堂、三世堂とは「過去現在未来の三千仏を安置」の義)
承平元年(931)平将門の創建と伝える。大鹿山と号す。臨済宗妙心寺派末。
三世堂、一層は本尊十一面観音像と坂東33所、二層は秩父34所、三層は西国33所観音を安置する。

上野妙音寺
 群馬県桐生市
江戸後期
安永7年(1778)
天保13年(1842)火災焼失
平等山と号す。本尊:不動明王。高野山真言宗。
開基などは不詳。
安永7年(1778)観音堂(百体観音堂・三匝堂)建立。
寛政年中(1789-1801)百体観音堂)、庫裡を焼失、百体観音堂はその後再建される。
天保13年(1842)再度再建百体観音堂から出火、百体観音堂・本堂・庫裏などを焼失、百体観音堂は再興されず、本堂は長い間仮本堂のままであった。
昭和3年本堂再建。
現存
陸奥長勝寺蘭庭院
 青森県弘前市
天保10年(1839) 通称六角堂(但し実際は八角堂と思われる)
「O」氏1999/08/19撮影:
蘭庭院栄螺堂1
蘭庭院栄螺堂2:左図拡大図
蘭庭院栄螺堂3
蘭庭院栄螺堂4

弘前の豪商中田嘉平衛が寄進、内部は右廻り回廊と直進階段で昇降する。内部は通常非公開 と思われる。

2008/04/02撮影:
蘭庭院栄螺堂11
  同     12
  同     13
  同     14
  同     15

現存
武蔵西新井大師
 (総持寺)
 東京都足立区
天保11年(1840) 明治17年再建
明治17年再建。三重塔と分類する向きもあるが、これは塔婆建築ではなく三匝堂である。
○「江戸東京の庶民信仰」長沢利明著 平成8年 三弥井書店刊 より抜粋。
これは「三匝堂」と呼ばれる仏堂形式の一つで、堂内部の三層の階段を栄螺に見立てたもの。別名栄螺(さざえ)堂と呼ばれる。堂内には札所の本尊像等がずらり並んで安置され、参拝者は階段の昇降で、拝することが出来る。
江戸本所の羅漢寺(黄檗宗)の栄螺堂が最初とされ、関東地方以北に広まった。
現存するものは少なく、都内では唯一のものとされる。
一層:88体の大師像と本尊、二層:13仏、三層:五智如来と二十五菩薩が安置。地下には四国88ヶ所の霊砂が収められている。天保年間に江戸・伊勢屋彦衛門が四国遍路を行い、霊場に砂を集め、88体の大師像を祀ったのが始まり といい、明治期に堂が荒廃、再建されたのが、現在の栄螺堂と云う。
「Y」氏ご提供画像
 武蔵西新井大師三重塔

○2008/01/17追加:
 
「O」氏ご提供画像:2005/04/24撮影:
武蔵西新井大師三匝堂1
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
  同           6
  同           7
  同           8:左図拡大図
  同           9
  同          10:屋根には鋒形を呈する擦を掲せる。
擦には5文字の梵字が記されるが、 梵字の素養がなく意味は理解できず。
  同          11:初層内部
初層は本尊阿弥陀如来(今は本堂に安置)と八十八躯の弘法大師像(3段に、
二層には十三仏、三層には五智如来と二十五菩薩を祀ると云う。
屋根;初層・二層は銅板葺、三層は桟瓦葺。

天保年中、伊勢屋彦兵衛が四国88所巡礼満願紀念に小堂を建立、
この堂が腐朽し、明治17年に今の形式で再建したと云う。

2011/11/06追加:2011/10/29撮影:
一辺は3.38mで高さは不詳。
屋根は軒程度のものと思われるも、詳細は不明。
初重・二重の軒は板軒で表面に薄板で菱格子を施す、三重の軒は二重平行垂木を用いる。
堂内部の構造ははっきりしないが、二重三重に上る階段は各重の裏面に木階を備えたもので、少なくとも初重内部には二重に登る階段はないと思われ、果たして本来の意味での三匝堂(栄螺堂)の機能(一度も同じ場所を通らずに、初重から三回転して仏像を礼拝できる)を持っているのかどうかは不明である。
 ※今般、堂裏面の木階の確認を怠ったことは遺憾である。
 西新井大師三匝堂11    西新井大師三匝堂12    西新井大師三匝堂13    西新井大師三匝堂14
 西新井大師三匝堂15    西新井大師三匝堂16    三匝堂初重内部1
 三匝堂初重内部2       三匝堂初重内部3      西新井大師三匝堂擦
総持寺は五智山と号する。真言宗豊山派。東国風新義真言宗の大寺の典型を示す。本堂(RC造)はその象徴である。
新旧と大小の入り混じった幾多の堂宇を有する。いかにも大東京の流行仏らしく大変な人出があるようである。
 西新井大師本堂     西新井大師山門:江戸後期建立
○江戸三大大師:当寺、
川崎大師 (平間寺)寺島大師(蓮華寺)
○「江戸名所圖會 巻之6」:五智山総持寺:・・・或人云ふ、当寺弘法大師の尊像は、その上総真間山弘法寺に安置ありしが、日蓮宗に転じたりし頃、此像をぼ当寺に遷すとなり。・・・

武蔵観音院
 埼玉県小鹿野町
江戸末期 明治26年焼失。
焼失前本堂(三匝堂)の図面が残存する。(本堂納経所?)
三間四方の三階建、高さ4丈6尺(13.9m)というようである。
鷲窟山観音院と号し、秩父三十一番札所。
「観音霊験記」(錦絵)歌川広重、江戸期末があり、本堂の絵が残る。
 観音霊験記・観音院
越後竜照寺
 新潟県新潟市
明治8年 焼失(時期不明)、本堂は三階建ての建物であったと伝える。
常陸大栄寺
 茨城県結城市
不詳 退転(理由・時期不詳)
理性院大師堂天如塔 明治42年(1909) 長崎県島原市:現存する。
高さ約11m。宝輪を含む総高は約15mほどという。
構造は二重螺旋階段をい有する栄螺堂である。明治42年竣工。
理性院大師堂は僧・広田言証が建立したものである。
広田師は嘉永5年(1852)岡山県に出生、40歳にして四国遍路の旅に出、僧侶となる。その後雲仙普賢岳で修行し、明治28年(1895)島原の地に理性院大師堂を建立する。
明治39年インドを目指し托鉢の旅に出立する。
途中、香港、ハノイ、サイゴン、バンコク、シンガポール、ビルマなどを巡るが、乞食に等しい坊主を支えたのは島原・天草出身の「からゆきさん」であったという。そして広田師の旅は、現地で亡くなった「からゆきさん」の施餓鬼供養を修しながらの旅でもあった。
明治42年インドから島原に帰朝した広田師は、ラングーンの僧侶から贈られた釈迦如来を安置するためと異国の地で果てた「からゆきさん」の菩提を弔うため、「天如塔」の建立を発願し、それを 実現する。これが現存する天如塔である。
なを、 天如塔の周りには286本の石製玉垣があるが、そこには海外からの多くの寄進者の氏名が刻まれるという。
(「島原のからゆきさん」倉橋正直、共栄書房)
近年、この「天如塔」は腐朽し崩壊の危機にあったが、2013年「修復委員会」が発足し、募金活動などがなされ、2014年修復される。
壁の外研は水色と白を基調に彩色され、軒下や向拝は白木のままの仕上げのようである。
○サイト;珍寺大道場>天如塔のページに修復前の天如塔の写真がある。(転載)
 修復前天如塔1     修復前天如塔2     修復前天如塔3
東京大正大学
  鴨台観音堂
平成25年 東京都豊島区
すがも鴨台観音堂(通称:鴨台さざえ堂)
平成25年竣工、佛教文化施設という。巣鴨大正大学内に建立。拝観は自由。
構造は八角三匝堂。おそらくは会津若松正宗寺三匝堂をモデルとするも、正宗寺三匝堂は平面六角であるが、こちらは平面八角である。
設計施工:株式会社大林組、安置聖観自在菩薩;松久宗琳佛所製作。
なお大正大学は天台宗大学、真言宗豊山大学、浄土宗(宗教大学)を起源とする。

2007/11/03作成:2014/04/20更新:ホームページ日本の塔婆