大 和 西 大 寺 塔 跡

大和西大寺塔跡

大和西大寺略歴

平城京の右京に、東大寺(平城京外)を除けば他の諸大寺を凌ぐ規模で創建された官寺であったが、平安遷都以降しだいに衰微する。
 2024/07/11追加:
 ”西大寺の造営が始まったのは天平神護元年(765)年という。
発願は称徳天皇(孝謙天皇の重祚)であり、道鏡が権勢を得ていく中で起きた藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱(764年)の平定を祈願し、鎮護国家の守護神とされる四天王像を造立することなどを誓願する。称徳はそれに勝利し西大寺の造営がはじまったという。
 称徳天皇の父は聖武天皇であり、父が平城京の東郊に創建した「東大寺」に対し、娘が造営した「西の大寺」は、外国からの知識や技術を取り入れ、それまでにない伽藍が展開されていたことなど、創建時の姿が発掘調査や文献資料によって明らかにされつつある。
なお、西大寺の隣に造営された尼寺「西隆寺」も称徳天皇の建立である。
おそらく、両寺とも僧道鏡との共同作業であったのであろう。そして、父聖武と同様にあるいは父に対抗して、鎮護国家の念が込められているのであろう。”
貞観2年(860)大火で主要堂塔を失う。
延長5,6年(927,928)には東西両塔を焼失。
鎌倉中期に叡尊入寺、真言律の道場として規模を縮小して伽藍を復興。
文亀2年(1502)兵火で鎌倉期復興伽藍をことごとく焼失。
宝暦2年(1752)今日見られる伽藍を復興。
創建時の遺構として、唯一東塔跡に巨大な基壇と礎石を残す。
東塔は当初、八角七重塔として計画されたが、途中四角五重塔に変更されたとされる。

2024/07/24追加;
 西大寺の創建:
天平寶字8年(764)孝謙上皇、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱平定を祈願、7尺の金銅四天王像の造立を発願する。[「西大寺資財流記帳」宝亀11年(780年)]
 ※四天王立像及び邪鬼:4躯・重文、創建当時唯一残存する造像、再三の被災で邪鬼のみが当初のもの、多聞天(木造)を除く三体の天部は後世の再鋳。(西大寺発行・ルーフレット)
 ※四天王立像及び邪鬼については、「奈良六大寺大観 第十四巻 西大寺 全」岩波書店、1973 に詳細な解説がある。後世の再鋳ということに関しても単純なものではないので参照を乞う。
 ※現在の四天王堂は正徳元年(1711)再建の粗末な堂である。
同年、孝謙上皇、重祚して称徳天皇となる。
 ※孝謙は聖武の娘であり、おそらく父の東大寺と法華滅罪寺などの偉業に憧憬あるいは偉業の継承を考えていたのかも知れない。
 ※孝謙上皇(重祚して称徳天皇)については
  【聖武の理想と暗闘/聖武の娘・孝謙天皇(称徳天皇)と僧道鏡/国家神としての八幡大菩薩】を参照。
翌天平神護元年(765)発願した四天王像が造立、西大寺が創建される。
造営は宝亀末年(780)頃まで続けられる。寺域は東西11町、南北7町、面積31町(48Ha)で、薬師金堂・弥勒金堂・東塔・西塔・四王堂院・十一面堂院など百十数宇の堂舎が建立される。
南都七大寺の一角を占める。平安期には再三の災害で衰微。
鎌倉中期、叡尊(興正菩薩)によって、律宗の寺院として再興される。
○「奈良六大寺大観 第十四巻 西大寺 全」岩波書店、1973 より
 西大寺創建のきっかけとなった孝謙上皇発願の四天王像、上の解説の通り、邪鬼のみが創建時のままと云う。
 四天堂増長天像邪鬼1     四天堂増長天像邪鬼2     四天堂増長天立像
 四天堂持国天像邪鬼1     四天堂持国天像邪鬼2     四天堂持国天立像
 四天堂多聞天像邪鬼1     四天堂多聞天像邪鬼2     四天堂多聞天立像
 四天堂広目天像邪鬼1     四天堂広目天像邪鬼2     四天堂広目天立像

2022/05/20撮影:
○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
 →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。

 右京西大寺復元図

2007/02/17追加:「西大寺の文化」西大寺、昭和38年 より
 西大寺伽藍絵図
元禄11年(1698)の作になる絵図であるが、宝亀11年(780)の「私財流記帳」に記載された記事を基に描いたものと推定される。
近世の絵図ではあるが、創建時の伽藍を窺うことができる。
2010/12/29追加:
 西大寺伽藍會圖:「西隆寺発掘調査報告書」奈良国立文化財研究所、1993 より、右中央は西隆寺伽藍
2013/09/23追加:「古寺をゆく 西大寺・秋篠寺」小学館、2001 より
 西大寺伽藍會圖3:部分図、カラー写真、縦109.45cm横135.0cm

2002/9/25追加:2002年秋発行奈良国立博物館のパンフレット より
 西大寺与秋篠寺堺相輪図(鎌倉・部分図)
 西大寺寺中曼荼羅図(鎌倉・部分図)
いずれも叡尊が元伽藍のほんの一郭である塔と四王堂あたりに再興した後の西大寺の姿を覗うことができる。
東塔のみ再興された様子も覗える。
2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」 より
 西大寺寺中曼荼羅図2:上掲 の「西大寺寺中曼荼羅図」と同一(カラー・高精細):西大寺蔵
  描写の情景は弥勒堂焼失(徳治2年1307)から五重塔以下大半が焼失した文亀2年(1502)との間と思われる。

2007/02/17追加:「西大寺の文化」 より
 南都西大寺中古伽藍図:推定江戸中期、鎌倉再興期の伽藍を想像して描いたものと推定される。

 西大寺現在堂舎坊院図:「西大寺の文化」
江戸末期の西大寺伽藍坊舎の現状をありのまま描いたものとされる。
五重宝塔跡には「塔堂」が描かれ、龍池院には「西塔跡」と思われる跡が描かれる。

大和西大寺東塔跡

2007/01/31追加:「大和の古塔」
「日本霊異記」では藤原永手の霊が子の家依に語る「我令仆法花寺鐘、後西大寺八角塔、成四角、七重、減五層也」
 ※東塔は当初、八角七重塔として計画されたが、途中四角五重塔に変更されたとされ、発掘調査によりその状況が確認される。

2007/02/17追加:「西大寺」長谷川誠、中央公論美術出版、昭和40年 より
 西大寺東西両塔配置図
    
「日本紀略」延長5年いずれかの塔に火災がある。
「扶養略記」延長6年雷火によって塔1基を焼失。
「法隆寺別当次第」「七大寺巡礼記」建保6年(1218)東塔再建のことあり、「園太暦」貞和3年(1347)東塔修理の供養
文亀2年、一山回録、塔も焼失、その後塔の再興は実現せず。

なお、江戸期には東塔跡に四間四面の堂が建立される。
これは鎌倉期叡尊以降、東塔を塔戒壇として受戒を行っていたので、受戒のため漸く一宇の堂を建立したものであろう。
 ※「塔堂」の様子は
  上掲:西大寺現在堂舎坊院図:「西大寺の文化」
  大和名所圖會 寛政3年(1791)刊より:西  大 寺 塔 跡(部分図)を参照。 →大和名所圖會・西大寺・・・全図

東塔石檀は方55尺前後、高さ6尺3寸内外であるが、明らかに後世のものである。
 (西南面は昭和9年の台風で崩れ、その後修築)
但し檀上の17個の礎石(北辺の東第2基礎石を除く)は東塔建立当初の礎石と推定される。
塔の規模は天平尺で、中央間は10尺、両脇間は9尺、計28尺を測る。心礎は八角の造出を持つ。
 西大寺東塔跡実測図
心礎は出枘式であり、大きさは1.8×1.6m、径39cmの出枘を持つ。

2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」 より

西大寺寺中曼荼羅図2: 左図全体図
 :上掲:西大寺蔵

描写の情景は弥勒堂焼失(徳治2年1307)から五重塔以下大半が焼失した文亀2年(1502)との間と思われる。

作図手法からは室町末期の作と推定される。

◆大和西大寺東塔跡

2008/12/31追加:「旅の家つと37号」明治34年 より
 大和西大寺東塔跡1:全図     大和西大寺東塔跡2:部分図
2011/05/29追加:「佛教考古學論攷」 より
 大和西大寺東塔心礎31     大和西大寺東塔心礎実測図

2000/12/03撮影:西大寺東塔跡1   西大寺東塔跡2
2002/03/28撮影:西大寺東塔跡3

2013/09/05撮影:
 大和西大寺東塔跡11
 大和西大寺東塔跡12
 大和西大寺東塔跡13:左図拡大図
 大和西大寺東塔跡14
 大和西大寺東塔跡15
 大和西大寺東塔跡16
 大和西大寺東塔跡17
 大和西大寺東塔心礎1
 大和西大寺東塔心礎2
 大和西大寺東塔心礎3
 大和西大寺東塔心礎4


 大和西大寺東塔跡18
 大和西大寺東塔跡19
 大和西大寺東塔跡20
 大和西大寺東塔跡21
 大和西大寺東塔跡22
 大和西大寺東塔跡23
 大和西大寺東塔跡24

2014/06/19撮影:
塔跡の四角の基壇は創建当時の基壇である。その周囲の八角形の敷石は構想段階の八角形基壇跡を示すものである。
 大和西大寺東塔跡31     大和西大寺東塔跡32     大和西大寺東塔跡33     大和西大寺東塔跡34
 大和西大寺東塔跡35     大和西大寺東塔跡37     大和西大寺東塔跡38
 大和西大寺東塔心礎5:中央に写るほぼ出枘が摩耗した礎石が心礎である。
 大和西大寺東塔心礎6     大和西大寺東塔心礎7
2015/01/15撮影:

大和西大寺東塔基壇41
大和西大寺東塔基壇42
大和西大寺東塔基壇43
大和西大寺東塔基壇44
大和西大寺東塔心礎:左図拡大図、中央に写るのが心礎である。
大和西大寺東塔基壇礎石
大和西大寺東塔礎石
大和西大寺東塔基壇45
大和西大寺東塔基壇46
大和西大寺東塔基壇47
大和西大寺東塔基壇48

大和西大寺西塔跡

2007/01/31追加:「大和の古塔」
西塔は延長年中に焼失、その後は再興されることなく、廃絶したものと思われる。
塔跡は江戸期まで残存していたが、寛永4年西塔跡に龍池院が営まれ、ほぼ消滅する。
 「西大寺の日記」:
寛政6年の条:「龍池院裏西方、往古塔跡掘候へば、金銭1文、・・・土中より堀出候」とあり、塔跡7尺余から銅銭万年通宝・神功開宝とともに金銭開基勝宝1枚を発見すると云う。
(開基勝宝は今皇室御物、龍池院も今廃絶)

 ※現在西塔跡を訪ねても、地上には何の痕跡も残らない。
   ・・・・・・・・西大寺西塔跡方面を臨む
         2023/10/02追加:観音像の向かって右に西塔跡石碑が設置される。
 ※上掲西大寺現在堂舎坊院図には江戸初頭の様子が描かれる。
  向かって左端中央付近に龍池院があり、西塔跡と思われる遺構が描かれる。

2023/10/01追加:
osiro tennyukaku氏から西塔跡に石碑が設置されていることの情報提供あり。
osiro tennyukaku氏ご提供画像
 大和西大寺西搭跡石碑1
GoogleMApより転載
 大和西大寺西搭跡石碑2     大和西大寺西搭跡石碑3

西大寺五重塔復興

2007/02/17追加:「史迹と美術」第610号:より
昭和61年西大寺長老が中国陜西省を表敬訪問、五重塔再興の意思があることを表明、日中親善の為、陜西省が協力を約束。
平成元年陜西省(設計を担当)から、復原五重塔模型が届けられる。(聚宝館に展示)
但し、薬師寺西塔のように十分な資料があっての再興ではなく、東塔跡に忠実な復原塔を復興するのは難しいと云われる。
「史迹と美術」第618号:
中国産出材を用い、平成4年春着工、同6年に完工予定で準備に入る。
  西大寺復元五重塔模型:聚宝殿に常設展示 :聚宝館にて2015/01/15実見(撮影禁止)、木製のかなり精巧な造作である。
2015/01/30追加:
※聚宝館の係員の説明:建築許可が下りず、計画は頓挫と聞いている。
※「史迹と美術」6/(8)より:高さは45mの木造塔で、平成4年着工、同6年竣工の予定。

西大寺五重小塔

2012/07/07追加;
この五重小塔については、次の書籍で初めてその存在を知る。
「南都十大寺大鏡. 第24輯」東京美術学校、大塚巧芸社、昭和8-9年 より
以下の解説(概要)がある。
 塔高11尺3寸、九輪長7尺1寸、3尺8寸5分
海龍王寺のものと構造様式略同じく奈良朝初の作(薬師寺東塔と同じ頃の様式を持つ)、元興寺試塔と寺では伝えるも、舎利塔であった可能性が高い。 九輪は後補、心柱に天和3年(1683)の修理銘がある。
 西大寺五重小塔:本小塔については西大寺関係者(複数)が知らないと云う。

 ※この小塔について、上記以外の情報がなく、現存しているのかどうかも不明、写真では博物館内の展示のように見える、背後の左の仏像は法隆寺百済観音立像か。

西大寺宝塔

2011/09/16追加:「西大寺」長谷川誠 などより
文暦2年(1235)叡尊大和西大寺に住持する。
叡尊は西大寺復興に尽力するが、それは奈良期の西大寺の旧観に復するのではなくて、戒律復興の中心道場として復興することであった。
堕落した仏教の反省に立ち、戒律中心の釈尊の教えに忠実な仏教の再興を目指すもので、古代末期の中川寺實範、笠置寺貞慶、高山寺明恵などの後継でもあった。叡尊はまた全国を行脚し、鎌倉極楽寺・金沢称名寺なども復興する。
叡損の「釈尊にかえれ」と云う教えは、大和西大寺に多くの舎利宝塔を今に残すこととなる。
 ※大和西大寺には中世の国宝・重文の多くの優れた舎利塔(舎利容器)を残す。

西大寺金銅宝塔(檀塔):国宝:全高3尺。:「西大寺の文化」より
国宝、底の銘文から、文永7年(1270)叡尊の発願によって作成、前年に感得した唐招提寺の舎利安置のため作成という。

西大寺鉄宝塔:国宝:全高5尺8寸。:「西大寺の文化」より
国宝、檫銘や学正記などにより、弘安7年(1284)叡尊が法華寺の舎利千粒を納めるため造る。仏舎利を納めた五瓶仏舎利塔を安置する。

2011/09/16追加;「西大寺の文化」より
 西大寺金銅透彫舎利塔(伝叡尊感得):国宝、高さ1尺2寸1分、鎌倉中期
 西大寺金銅五瓶舎利塔:国宝、文永2年(1270)以降
 西大寺金銅舎利塔(伝亀山天皇勅封舎利):重文、高さ1尺8寸5分、建武2年(1335)
 西大寺金銅舎利塔(伝叡尊於伊勢感得):重文、高さ1尺4寸9分、応永21年(1414)銘
 厨子入五輪舎利塔:厨子高8寸8分、室町期

大和西大寺現況

現在は東塔跡と本堂、愛染堂、四王堂、護摩堂、鐘楼、大師堂、南門、東門などの建物、本坊・寺務所、護国院、増長院、華蔵院、清浄院、法寿院、一之室院の坊舎、体性院(奥の院)と幾つかの坊舎跡を残すのみである。
また境内西には官寺である大和東大寺、大安寺、薬師寺などと同様に鎮守八幡が現存する。

無印は2013/09/05撮影:○印は2014/06/19撮影:◇印は2015/01/15撮影
 大和西大寺南門1     大和西大寺南門2     大和西大寺南門3     ○大和西大寺南門11     ◇大和西大寺南門21
 大和西大寺東門
 ・本堂:重文、宝暦2年(1752)建立、桁行14間梁間10間の大建築である。
 大和西大寺本堂1     大和西大寺本堂2     大和西大寺本堂3     大和西大寺本堂4
 大和西大寺本堂5     大和西大寺本堂6     大和西大寺本堂7     大和西大寺本堂8
 ○大和西大寺本堂11     ○大和西大寺本堂12     ○大和西大寺本堂13     ○大和西大寺本堂14
 ○大和西大寺本堂15     ○大和西大寺本堂16
 ◇大和西大寺本堂21     ◇大和西大寺本堂22     ◇大和西大寺本堂23     ◇大和西大寺本堂24
 ◇大和西大寺本堂25     ◇大和西大寺本堂26     ◇大和西大寺本堂27     ◇大和西大寺本堂28
  大和西大寺本堂宮殿
  ・本堂本尊:木造釈迦如来立像(重文、慶長元年/1249清涼寺像を模刻)、そのほか木造文殊菩薩五尊像(重文、正安4年/1302製作)、
   木造丈六弥勒菩薩坐像(重文、元亨2年/1322再興像)、木造叡尊坐像(模刻か)弘法大師像を安置する。
 ・愛染堂:京都近衛政所御殿を宝暦12年(1762)に移建、桁行11間梁間8間の建築。
 大和西大寺愛染堂1     大和西大寺愛染堂2     大和西大寺愛染堂3     ○大和西大寺愛染堂11
 ◇大和西大寺愛染堂21   ◇大和西大寺愛染堂22   ◇大和西大寺愛染堂23   ◇大和西大寺愛染堂24
  本尊秘仏愛染明王坐像(重文鎌倉期)、厨子前には本尊愛染明王模刻像を安置、興正菩薩叡尊坐像(重文、弘安3年/1280)を安置。
 ・四王堂:創建時の由緒を継承する唯一の堂である。延宝2年(1674)の再建、桁行9間梁間7間。
 大和西大寺四王堂門     ◇大和西大寺四王堂門21
 大和西大寺四王堂1     大和西大寺四王堂2       ○大和西大寺四王堂11     ○大和西大寺四王堂12
 ◇大和西大寺四王堂21   ◇大和西大寺四王堂22    ◇大和西大寺四王堂23    ◇大和西大寺四王堂24
  四天王像(重文、文亀2年/1502焼失後の再興、十一面観音立像(巨像である、山城法勝寺十一面堂本尊を移安と云う。
 ◇大和西大寺大黒堂
 大和西大寺護摩堂     ○大和西大寺護摩堂11     ◇大和西大寺護摩堂21     ◇大和西大寺護摩堂22
 大和西大寺鐘楼1       大和西大寺鐘楼2     ◇大和西大寺鐘楼21

 ・奥の院:叡尊上人の墓所であり、五輪塔は廟である。五輪塔は鎌倉期。
 奥の院体性院1     奥の院体性院2
 奥の院石造五輪塔1    奥の院石造五輪塔2    奥の院石造五輪塔3    奥の院石造五輪塔4    奥の院石造五輪塔5

 寺中本坊1       寺中本坊2
 寺中護国院1     寺中護国院2     寺中護国院3     ◇寺中護国院21
 寺中増長院1     寺中増長院2     ○寺中増長院11     ○寺中増長院12     ◇寺中増長院21
 寺中華蔵院      ○寺中華蔵院11     ○寺中華蔵院12     ◇寺中華蔵院21
 西大寺聚宝館:昭和36年竣工
 寺中法壽院1     寺中法壽院2     ○寺中法壽院11     ○寺中法壽院12     ◇寺中法寿院21
 寺中清浄院1     寺中清浄院2     ○寺中清涼院11     ◇寺中清浄院21
 諸坊跡(駐車場)
 ○寺中一之室院

 西大寺石落社:仁治3年(1242)叡尊の創建。本祠は推定室町中期の建築、見世棚造(正面は階段を設けず一面に床を張る)の古例。
 ○西大寺石落社11
 ・西大寺鎮守八幡:本殿は重文、三間社流造、永禄9年(1566)墨書銘がある。明治の神仏分離の処置で分離される。
 鎮守八幡社1     鎮守八幡社2     鎮守八幡社3     鎮守八幡社4     鎮守八幡社5
 鎮守八幡社6     鎮守八幡社7     鎮守八幡社8     鎮守八幡社9


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